| 万能鑑定士Qの事件簿 全12巻 | |
| 松岡圭祐 | |
万能鑑定士Qの事件簿 全12巻
松岡圭祐

万能鑑定Qの事件簿登場人物
葉山翔太(はやま・しょうた)
37歳。鎌倉の大船署から都内の牛込警察署に異動。知能犯捜査係に就任。階級は警部補。
凛田莉子とは力士シール事件が起きる前からの知り合い。何度も莉子の手を借りておきながら、邪険な態度をとるのが常だった。しかし「ノストラダムスの大予言」事件あたりで態度を軟化させ、しだいに莉子およびその友人の小笠原に協力的な態度を見せ始めている。雲津という部下がいるが、あまり信頼されているようすはない。以前に鎌倉に住んでいたことから、鳩サブレーが好物。警視庁のキャリアには頭が上がらないが、他の所轄の人間とは張りあおうとする悪い癖がある。
凜田莉子(りんだ・りこ)
23歳。沖縄出身。波照間小中学校から石垣島の八重山高等学校に進学、12年間の学業を通じ万年学年最下位の記録を持つ。
感受性が過剰なほど豊かで、何にでも感動するため勉学が手につかない少女時代を送る。ある機会に、その情動の激しさを記憶力に転化する方法を学んだとたん、たちまち「生けるグーグルボット」となりあらゆる知識を吸収、博覧強記な人物に変貌。記憶したデータと観察対象を比較することで、驚異的な鑑定眼を持つに至る。飯田橋に「万能鑑定Q」なる店をオープンし、ひとりで切り盛りしている。十代のころの愛読書は「ハリー・ポッター」と漫画「NANA」。
小笠原悠斗(おがさわら・ゆうと)
26歳。角川書店入社4年目で『週刊角川』記者。
仕事には熱心なものの、ドジが災いして出世できず。いつも編集部の留守番がてら、取材の必要のない記事の原稿を書かされている。
西池袋三丁目、家賃83000円のワンルームマンションにひとり暮らし。彼女いない歴6年。立教大卒。趣味はサッカー観戦。角川書店のフットサル大会ではエース級の活躍。凛田莉子に想いを寄せていて、いつも飯田橋の「万能鑑定Q」の店を訪ねるが、事件に関する雑用に走りまわった挙句、終盤は完全にほうっておかれることが多い。友人は同僚の宮牧拓海。
万能鑑定士Qの事件簿 Ⅰ
ガードレール
世の中には剥がしてはいけないシールがある。
たとえば、百円ライターについている小さなシール。つい親指の爪先でひっかいて剥がしてしまいたくなるが、好ましいことではない。万が一、ライターが破裂し怪我した場合、シールがなければ補償が受けられない。あれは対人賠償責任保険の証明書だからだ。
一方で世間には、どうあっても剥がすべきシールというのもある。不法に貼られたシールやステッカー、チラシの類い。放置はできない。ゆえに行政には、それを剥がしてまわる仕事が存在する。
妻子持ちの四十歳、抗田栄一郎も、そのひとりだった。
正式な肩書は、新宿区役所の資源清掃対策室、新宿清掃事務所剥離作業係。仲間うちでは剥がし屋と呼ばれている。午前九時、東京メトロ飯田橋駅の出口前。抗田は軽バンを歩道に寄せて停めた。路上は渋滞気味、歩道は通勤を急ぐサラリーマンやOLで溢れている。
抗田はドアを開けて車外にでた。やわらかい春の陽射しが降り注いでいた。
花粉症には厄介な季節だが、どうせマスクは欠かせない作業だ。都心の濁った朝の空気を、フィルターもなしに腹いっぱい吸いこもうなどと思ってはいない。
車体側面のドアをスライドさせて、ベンジンの入った缶と工具箱、タオルを取りだし、折りたたみ式の脚立を脇に抱える。歩道から路地に入った。
不況のせいか閉じたシャッターの目立つ商店街だった。
錆びつき薄汚れた店先の鎧戸に、名刺よりひとまわり大きなサイズのシールが貼られている。一枚や二枚ではない。何百、いや何千枚あるだろう。隙間なくびっしりと貼られた同一のシールによって、シャッターが埋め尽くされている。
「やれやれ」抗田は作業帽の鍔をずらして軒先を見あげ、思わずため息まじりにつぶやいた。「また貼りまくったもんだな。新記録か」
すべてのシール一枚につきひとつずつ、相撲の力士のような顔が描かれている。
図柄は浮世絵のような純和風に見え、白いシールに墨一色で描かれていた。髪はべた塗りで七三に分けられている。顔は無表情。目は開いておらず眉の下に横線が引かれているだけだ。口は固く結ばれている。ひげを生やしているものもあれば、そうでないものもある。共通しているのはたっぷりと脂肪をたくわえたようすの二重あご。これもシールによって描き方に違いがある。
愛嬌があるともいえず、どこか薄気味悪くて、印象だけは絶大。通称、力士シール。
力士というのは、マスコミによる便宜上のネーミングにすぎない。実際のところ、相撲取りを描いたものかどうかさえ、さだかではない。客観的にみれば、たんなる肥満体の中年男の顔だ。
文字はいっさい入っていないが、比較的健康そうに見える顔から明らかに老けて見える顔、力士というよりは怪しい宗教の教祖とでも呼ぶべき顔など、さまざまなバージョンが存在する。この商店街のシールもやはり、多様なパターンが混在していた。
何年か前に銀座で確認されたのが始まりだったといわれる。中央区から台東区、江東区に広がり、そこから墨田区、文京区、千代田区、港区ときて、ここ一年は渋谷区と新宿区で増殖。大通りから一本入った脇道でよく発見される。貼られる場所はガードレールや電柱、公衆電話など公共物。それらが埋まると、このように商店のシャッターや外壁を侵食しはじめる。
抗田は視線を落とした。狭い路地、二トン車の乗りいれが許されない一方通行。歩行者の往来できる空間を確保するため、片側だけガードレールが設けてある。そのガードレールも、力士シールで覆い尽くされていた。
なるべく交換は避けろと上からはいわれているが、やむをえないだろう。脚立と缶を下ろし、工具箱を開けて六角レンチを取りだす。袖付波板は取り外して回収、支柱のみシール剥がし。なんとか一日で終えられる作業量だ。
外した波板は路面に寝かせていき、区役所に携帯電話で新しい波板を発注する。
午後には届くといっていた。それまでに支柱をきれいにせねばならない。
支柱にベンジンをたっぷりとかける。どんな糊を使っているか知らないが、力士シールは剥がしにくい。悪質不動産屋のチラシより、ずっと頑固にこびりつく。
それにしても、いったい誰が何の目的で貼っているのだろうか。
シールが貼られる時間帯はたぶん深夜から早朝にかけてだろうが、銀座や渋谷の防犯カメラに犯人が映っていたという話は聞かない。マスコミの飛ばすガセを真に受けるつもりはないが、カルト教団や犯罪者集団の暗号ということはないだろうか。
そういう連中にとって力士シールを貼りだすことが必要不可欠ならば、シールを剥がしてまわる俺は忌々しい存在となる。この路地の人通りも途絶えがちだ。人目につかない一瞬を狙って背後から襲ってくる、まさかそんな馬鹿なことが......。
ふと不安に駆られて、ちらと後ろを振り返った。
その瞬間、抗田は心臓をひとつかみされたかのような驚きを感じてのけぞった。真後ろに人が立っていたからだった。
スーツ姿、痩せた長身の若者だった。
髪は今風に長くしていて、わずかに褐色に染まっている。細面で鼻が高く、下あごは女のように小さいが、れっきとした男だった。涼しい目がぼんやりとこちらを見下ろしている。パンクファッションに着替えれば、ロックバンドのボーカルが務まりそうなルックスだった。
だが、二十代半ばぐらいのその男は、いまひとつ似合わないそのスーツ姿と同様、どこかしまりのない声の響きでいった。「あのう。区役所のかたですか」
「あ......ああ」抗田は、びくついた自分を取りつくろいながらうなずいてみせた。「なにか?」
「いえ」男は微笑を浮かべた。「力士シールについてお話をうかがえれば、と思いまして」
「話? あんた誰?」
「申し遅れました」男は名刺を取りだした。「週刊角川、小笠原と申します」
抗田は面食らいながら名刺を受け取った。千代田区富士見2-13-3、角川書店。『週刊角川』編集部、小笠原悠斗とある。
雑誌記者か。驚かせやがって。抗田は苦い顔を浮かべてみせた。「なんの用だい」
「拝見しましたところ、力士シールを剥がしておられるようですが」
「ああ。仕事だからな」
「いったい何でしょうね、このシール。貼った人物に心当たりは?」
「あるかよ、そんなもの」時間の無駄だ。抗田はタオルを手に支柱に向き直った。「力士シールに限らず、違法に貼られたものは片っぱしから剥がす。それだけなんだよ、俺の仕事はな」
ふうん。小笠原という名の若手雑誌記者は、とぼけた表情でシャッターを眺めた。「こちらのお店のシールは? 剥がさないんですか」
「個人商店の軒先は区役所の管轄じゃねえんだ」じれったくなって抗田は立ちあがった。
「なあ。俺は新宿区長の命令で働いてる。あんたらマスコミがこのおかしなシールをネタにしてることは知ってるが、見てのとおり俺はヘラを片手に汗だくになってる。お好み焼屋じゃねえのは見てわかるな? シールを剥がすのが俺の仕事。広報じゃねえんだし、記者さんへの質疑応答は仰せつかっていねえ。以上だ。じゃ、作業に戻らせてもらう」
しゃがみこんで支柱にヘラをあてがう。ベンジンの染みこんだシールは、こすっただけで剥がれるものではない。ヘラの先で数ミリずつ削り取っていく。一片たりとも残してはならない。彫刻の平彫りに似ていた。
小笠原は立ち去らず、困惑したようすでたたずんでいた。
見た目はハンサムで利口そうにみえても、小笠原は空気を読むのが苦手らしかった。なおもおずおずとした物言いで告げてくる。「剥がしたシールを一枚だけでもいただくわけにはまいりませんか? 取材の一環でして」
「見てわからねえかよ? 裏にべっとりと糊をつけたシールってのは、三日貼りっぱなしの背中のサロンパスみたいには簡単に剥がれねえんだ。ぼろぼろになっちまって原形は留めねえ」
「そういわれましても......。持ち帰って鑑定すれば記事に膨らみを与えられるんですよ。どんな絵描きが揃いたとか、紙はどこの物だとか......。なんとかなりませんか」
「ならねえ。そんなのはあんたの事情だろうが。鑑定したいんなら、どこでも街角に貼ってあるのを好きなだけ眺めりゃいいだろ」
「そうしたいのは山々ですけど、鑑定士はみんなサンプルを持ってきてくれの一点張りで」
こうと決めたら引きさがらない性格のようだ。いや、たんに引き際を心得ていないだけか。
いつまでも遊んでいるわけにはいかない。抗田は投げやりにいった。「それ持ってけよ。外したガードレールの波板。数十枚のシールがいっぺんに手に入るだろ」
「え?」小笠原は目を丸くした。「いいんですか? でも区の所有物じゃ......」
「もちろんそうだ。だがな、こいつは平成に入って法改正される前の規格で作られてる。回収してもリサイクルされずに処分される運命だ。ちょっとのあいだ、一枚ぐらい拝借してもバチは当たらん」
「けど......それって窃盗に当たると思うんですけど」
「誰がくれてやるって言ったよ。きょうは金曜だし、これらの波板が廃品業者に回収されるのは月曜だ。それまで貸してやるってことだ」
「失礼ですけどそれは、あなたの一存で決められることでは......」
「ああもう。じれってえな。そんなに俺を悪者にしたいか。自分から誘ったくせによ。この意味わかるか?」
「わからないでもないですが......。いえ、単にご迷惑をかけるのではないかと......」
「心配すんな。波板のひとつやふたつ、ちょっと貸したぐらいで問題になったりはしねえって。それともなにか、いらねえのか」
「いえ。そういうわけでは」小笠原はまだ迷っているようすだったが、やがて意を決したように、地面に横たわった波板に手を伸ばした。「拝借します」
「おう。鑑定とやらが済んだら、区役所の資源清掃対策室の窓口で抗田を呼びだしてくれや」
「わかりました。どうもありがとうございます」
小笠原は波板を持ちあげようとしたが、長さ二メートル強、かなりの重さを誇る鉄板はひと筋縄ではいかないらしい。歯を食いしばってようやく片側の端を浮かせると、そのままもう一方の端をアスファルトの上にひきずりながら歩きだした。
けたたましい音を響かせながら、小笠原は波板とともに遠ざかっていく。失礼しました。もういちど頭をさげて、小笠原は表通りに姿を消していった。
抗田は帽子をとって髪を撫でつけながら、深くため息をついた。あの馬鹿、千代田区富士見までガードレールの板をひきずっていくつもりか。
ゲリラ・アート
角川書店本社は飯田橋駅から徒歩五分、日本歯科大の手前の住宅街にある。
大通りに面してはいない。マンションの谷間を縫うように走る細い路地、急な坂道を上った左が本社ビル、右が第二本社ビルだ。ベージュいろのタイルに包まれた瀟洒なつくりの社屋は、一階の外壁がグレーの大理石で飾られている。本社ビルのエントランスは車寄せのスロープを昇った先、ガラス張りのロビーのなかにあった。
まだ冬の冷たさを残す四月の風も、小笠原悠斗の汗を乾かすには至らなかった。
徒歩五分の道を十五分かけて、心臓破りともいえる坂を上りきり、やっとのことでロビーに足を踏みいれたとたん、警備員が飛んできて注意した。ひきずらないでください。床に傷がつきます。
台車を借りて、ガードレールの波板を載せ、エレベーターに乗りこむ。同乗の社員に迷惑がられながら七階へ。ようやく『週刊角川』編集部の扉をくぐった。
社内でも一、二を争う広さを誇るフロアは、いつものように締め切り前の喧騒に包まれていた。デスクに堆く積みあがった資料の山は、いずれも崩れ落ちないのが不思議なぐらい絶妙なバランスを保ち存続している。そんなデスクが十卓でひとつの島を形成、二十の島でひとつのフロアとなりえている。
編集者は島のあいだを忙しく行き来するか、受話器片手に声を張りあげているか、突っ伏して居眠りにふけるかのいずれかだった。規則ではデスクで休息をとることは禁じられているが、週刊誌の編集部ではそんな約束事は反古となるのが常だった。ハードな職場には、それ相応の新たな慣習が生まれる。
ただし、そうした慣習は、大勢の人間がルールを曲げることによっていつしか現場に馴染みだすものだ。突拍子もない行為が常に受けいれられるわけではない。
小笠原は二メートルもある波板を縦にして抱えながら、編集部の人ごみをかき分けて自分のデスクに急いだ。冷やかな周囲の視線。自分が問題児扱いされていることを痛感する。
ぶらさがった照明を避けようとして、小笠原は波板を横に寝かせようとした。とたんに、周囲のデスクに積みあがった資料の山をなぎ倒してしまった。驚嘆の声と怒号、そして罵声の渦が広がっていく。
「すみません」小笠原は困り果てて、頭をさげまくった。「どうもすみません、あのう、あとで片づけを手伝いますんで......」
おじぎをしたと同時に、抱えた波板も斜めになる。がつんと手ごたえを感じ、しまったと思ったときはもう遅かった。かろうじて被害をまぬがれていた隣りの島のデスクまでも、資料の山が崩壊の憂き目にあっていた。
「ああ」小笠原はおろおろといった。「申し訳ありません......」
跳ね起きるように立ちあがった先輩記者が大声で怒鳴った。「いいから、頭なんかさげるな。早く持っていけ。遠ざかれ、地平線の彼方まで」
「はあ......そうします」
まだざわめく人垣のなかを、うなだれながら社会部の島へと辿り着く。自分のデスクの背後にあるロッカーに、波板を立てかけた。隣りのデスクについていた同期の宮牧拓海が、ぎょろりと黒目を剥いていった。「おい。なんだよこれ。こんなところに置くな」
だが、疲れきっていた小笠原は、同僚の苦言に耳を貸す気にはなれなかった。椅子に腰かけて、天井を仰ぐ。「しばらくの辛抱だよ。ここしか置き場所がないんだ」
宮牧は、整った顔だちに唯一不釣り合いなぎょろ目で、小笠原と波板をかわるがわる見た。「これガードレールじゃねえのか?」
「そうみたいだな」
「んなもの編集部に持ちこむなよ。下の駐車場にでも置けよ」
「持っていったんだけどさ、警備員のおじさんに断られた。倒れて会長のキャデラックを直撃したらどうするって」
「よくここまで持ってこれたな。靖国神社がすぐそこにあるせいで、警官だらけだろ」
「四回職質を受けたよ。でも逆に力士シールについて質問攻めにしたら、うんざり顔で解放してくれた」
「おめえ、頼りないようで度胸がすわってるな」
そのとき、喧騒を破って野太い声が耳に飛びこんできた。「小笠原!」
やや喉にからんだ声。編集長だと瞬時に気づいた。
小笠原はあわてて立ちあがり、また倒れかけた波板を間一髪押さえこんで、ふたつ向こうの島に向けて駆けだした。
熱帯魚の水槽の前、次長クラスがデスクをつきあわせるその島の奥に、ひとつだけ木目張りのエグゼクティヴ仕様のデスクがある。
黒革張りの肘掛椅子に身をうずめた、細身ながら目つきのすわった白髪頭の男。それが編集長の荻野甲陽だった。
駆け寄ってみると、荻野はこちらに後頭部を向けて怒鳴った。「おい! もうちょっと遠慮しろ。間仕切りはもっと後退させろ」きょうの編集部の混沌とした空気は、業務の忙しさのせいばかりではないようだ。窓ぎわの島がひとつ消え失せている。空いたスペースは、パーティションによって区切られようとしていた。
パーティションの向こうから顔をだしたのは若い社員だった。アニメキャラ、涼宮ハルヒの等身大パネルを脇に抱えている。「窓から七メートルまではうちの編集基地局です。エヴァンゲリオンの銅像もここに置かせてもらいますよ」
「やめろ」荻野は吐き捨てた。「子供の遊び場じゃないんだぞ」
「異議がありましたら社長に......」
「もういい、わかった。パーティションのこっちの面にはポスターとが貼るなよ」
苦い顔をして振りかえった荻野に、小笠原はきいた。「どうしたんですか?」
荻野は忌々しげにつぶやいた。「売り上げ部数減少に伴い経費削減、十人がほかの編集部に鞍替えになった。フロアも『少年エース』に奪取されつつある」
「社を支える看板雑誌ですから、仕方がないですね」
「馬鹿をいえ。『週刊角川』には思想がある。報道の使命もだ。ジャーナリズムこそがこの会社の真の礎になっている。不況のせいで経営陣の目も曇りがちになっている昨今、うちこそがその目を覚まさせてやらねばならん」
「......そうですね。そうに違いありません」
「小笠原」荻野はボールペンの先を小笠原の胸に突きつけてきた。「力士シールの取材は? 進んでいるんだろうな?」
「ええ、あのう、サンプルは入手しました」
「なら早く専門の鑑定家の意見を聞け。いっとくが、これまで力士シールの特集を組んだテレビ番組の後追い記事なんかでっちあげたら許さんからな。『フライデー』にも後れをとるな」
「フライデー?」
「力士シールについての特集を組んでいるみたいだ。きょう発売のはずだが、まだ書店に並んでいない。ぎりぎり間にあうかどうかのニュースを入稿しようとして、印刷を遅らせることは稀にあるからな。昼までには配本されるだろう。たぶんたいした情報は載っていないだろうから、おまえは驚愕の事実をすっぱ抜け」
「驚愕の事実? 何ですか?」
「それを探りだすのがおまえの仕事だろうか。行け。なんでもいいから部数につながる新事実をつかんでこい。記事に穴をあけるようなことがあったら『月刊俳句』か『毎日が発見』に飛ばすからな」
「......『毎日が発見』にしてください」
荻野はいっそう渋い顔になった。「『月刊短歌』も空きがあるってきいたな」
「鑑定家への取材にでます。ただちに」
小笠原は荻野に一礼し、自分のデスクへと駆け戻っていった。
報道の使命、ジャーナリズムといっておきながら、結局は部数か。
やむをえないことではある。雑誌が廃刊になったら、どんな部署に配置換えされてしまうかわかったものではない。悪くすれば雑誌づくりに関われない可能性もある。
デスクにおさまろうとしたとき、同僚の宮牧が椅子を回して、背後にあるガードレールの波板をしげしげと眺めた。「力士シールか。ただの悪戯じゃねえのか」
「かもな」小笠原は椅子に腰かけ、パソコンを起動させた。「ニューヨークなんかでよく見られる、グラフィティの一種って説もある」
「グラフィティ?」
「落書きのことだよ。昔のソーホー地区とか有名だったろ? 描き手は現代アートだって主張してるけど、市としちゃ犯罪に変わりないって見解だ」
「あれが? シャッターとかレンガ壁にスプレーで描くやつ......」
「そうとも限らないんだ。ドイツでは何年か前から、ステッカーを使ったゲリラ・アートが流行ってる。力士シールもその流れを汲んでるのかもな」
「結論がそんなところに落ち着いたら、たいして面白い記事にはならねえな」
たしかにそうだ。けれども、事実がそうであれば仕方がない。編集長がどういおうと、真実を捻じ曲げてまでケレンに満ちた記事を書こうとは思わない。なんにせよ、いまは謎に満ちたこの力士シールについて、より詳しい情報を得ることが先決だ。
事前に集めておいた鑑定士一覧のファイルを開く。
とそのとき、宮牧がいった。「ああ、そうそう。お前えがあてにしてた絵画の鑑定士、なんていったっけ。永井さんだっけ? 忙しいからって断りの電話が入ったぞ」
小笠原は面食らった。「そんな。サンプルさえ持ちこめば鑑定するって約束だったのに」
「それとな、安河内って人に中島って人、阿藤って鑑定士さんも辞退するって連絡してきた」
......なんてことだ。小笠原はパソコンのモニターに映った名簿を見つめて絶句した。頼りになりそうな鑑定士は全員、拒絶の意思をあらわにしている。
ニュース性のある事象の鑑定は、名のある鑑定家に断られることが多い。万が一間違った判断を下して、それが記事になってしまった場合、世間の非難の矢面に立つ可能性があるからだ。
弱った。小笠原はブラウザを立ちあげて、検索窓に打ちこんだ。鑑定士。それも、記事の締め切りはきょうだ。予約なしでもすぐに応じてくれる人でなければ。遠方に出張している暇もない。この近辺に住んでいる鑑定士なら、なおのことありがたい。
無理を承知で、検索ワードを追加する。即日鑑定、飯田橋近辺。
検索結果が表示された。ほとんどの項目は、検索ワードを含んでおきながら意味をなさないものばかりだ。マンション投資に不動産鑑定士を派遣します、飯田橋近辺出張可能......。
ところがそんななかに、ふと気をひく表示があった。
小笠原はその項目を読みあげた。「万能鑑定士Q......?」
キャンバス
午前十時をまわった。神楽坂下の駅の出口から、ぞろぞろと吐きだされてくる人波がある。千鳥ヶ淵の桜目当てにやってきた見物客の群れだった。
美しいものをまのあたりにできるという期待感に顔を輝かせた老若男女の流れにさからって、小笠原悠斗は会社の総務部に借りたリヤカーを引いていた。
ガードレールの波板もリヤカーに載せていれば不自然ではないのか、職質の声はかからない。だが、それも時間の問題と思われた。もう三度も同じ道を通っている。公共物を運びながらうろつく不審者とでも通報されたら、即座にパトカーが飛んでくるだろう。
穏やかな春の日だというのに汗がにじむ。小笠原は立ちどまってメモ用紙を眺めた。
新宿区神楽坂西4-3-12。近くの電柱の表示は2-6だった。こちらではないとすると、九段方面か。
牛込橋の飯田橋駅改札前で引き返す。じろじろと見つめてくる人々の視線を感じながら、運河のようなお濠に沿って歩いた。桜並木から舞い落ちる花びらのなか、リヤカーを引きつづける。
何をやっているのだろうか、俺は。これではまるで大正時代の人力車の車夫だ。
やがて、お濠沿いの電柱の住所表示が西4となった。商店街、雑居ビル一階のテナントに、目標の看板がでていた。
万能鑑定士Q。アクリルにステンレス板を嵌めこんだ、しゃれた字体の看板だった。
いかにも職人かたぎの事務所らしい木製の引き戸を想像していた小笠原にとっては、意外に思えるエントランスの風景だった。正面はガラス張り、入り口は自動ドアで、規模は小さくともカフェか美容室のようだ。
ただし店先には、その店構えとは対照的に、武骨ともいえる黒塗りのセダンが横付けされていた。エンジンは停まっていて、車内にも人はいない。もし店のオーナーのクルマだったら、そのアンバランスなセンスを疑うところだ。
クルマの後ろに、リヤカーをぴたりとつけた。縦列駐車だ、咎められることはないだろ
荷台の波板を持ちあげて抱えながら、自動ドアに近づく。ドアは音もなく開いた。戸口の上端に波板をぶつけないよう、傾けながら慎重にくぐっていく。
狭いがシンプルモダンでまとめられた、スタイリッシュな内装だった。艶消しのアルミとガラスを使った、無機質でシャープな印象の家具で統一してある。わずかに青みがかった透明なデスクに黒革張りの椅子、客用のソファが数脚。趣味のいい小物を飾ったキャビネット。店内を構成するものはそれだけだった。
ソファにはひとりの男が腰かけていた。眼鏡をかけ、髪を七三にわけたスーツ姿の男。年齢は四十すぎ、大手町あたりを闊歩していそうな典型的ビジネスマンのスタイルだった。
男は顔をあげて小笠原をちらと見やると、それからガードレールの波板を眺めた。眉間に皺を寄せたが、すぐに手もとの雑誌に目を戻した。
彼の脇には、ビロード生地と紐で梱包された板状のものがあった。大きさは駅で見かける広告ポスターのサイズだ。おそらく絵画のキャンバスだろうと小笠原は思った。
してみると、この男も鑑定依頼の品を持ちこんでいるのだろう。外に停まっているセダンは、彼が運転してきたに違いない。
さて。この室内のインテリアに不釣り合いな、薄汚いガードレールの波板をどこに立てかけようか。
迷っていると、どこからか物音がした。
奥の扉が開いて、人影がでてきた。先客の男が、さっと立ちあがる。
小笠原もそれにならい、かしこまって振り返った。
女の低い声がぼそぼそと告げた。お待たせしました。
その響きは、決して自信なさげなか細い声というわけではなかった。ベテランの鑑定士が静寂のなかで交わす挨拶というのは、むしろこんなそっけなさを伴うものに違いない。小笠原が驚いたのは、声を発した人物の外見とのギャップだった。年齢はおそらく小笠原よりも下。二十三か四ぐらいだろう。ほっそりと痩せた身体、腕も脚も長く、頭部は小さくてモデルのようなプロポーションの持ち主だった。パープルのドルマンニットにティアードスカート、ブーツといういでたちは、ビジネスシーンには派手すぎるように感じられるが、彼女の場合はふしぎと自然な装いに見え、紫系の服がぴったりのコーディネートだと思わせる。
ゆるいウェーブのロングヘアに縁取られた小顔には、猫のように大きくつぶらな瞳と高い鼻、薄い唇がそつなくおさまっていた。つい先日まで女子大生だった、という年齢相応の若さや瑞々しさは備えていても、可愛いというより綺麗という形容が当てはまる美人顔で、総じてクールで個性的だった。とにかく眼力の強烈な女性に思えた。猫そのものと向き合っているようだ。
しかし、一瞬だけ放たれた圧倒的な存在感は、すぐに冷静で客観的な観察にとってかわっていった。先客の男の落ち着きぐあいが影響したのかもしれない。よくよく見てみれば、若い女性店員、もしくは秘書が応対にでてきたにすぎなかった。
女はその冷めた空気を察したかのように、みずからも皮肉っぽい微笑を浮かべた。ややひきつったようなぎこちない笑み。少女のようなあからさまな破顔ではない、大人びた表情だった。
男の客が咳ばらいした。「さきほど電話を差しあげた芦山です。絵画、それも洋画専門の鑑定士の先生をお願いしたい」
しばし沈黙があった。女は、黒目がちな瞳でじっと客を見返したまま、ひとことだけ応じた。「はい」
室内はしんと静まりかえった。女は立ちつくしたままだった。扉の奥にひっこんだり、事務手続きを始めたりする素振りも見せない。
芦山と名乗った男は、じれったそうな声をあげた。「鑑定士の先生は? 万能鑑定士と看板を掲げているからには、多種多様な専門の鑑定士が在籍しているんだろ?」
小笠原もそう思っていた。万能鑑定士Qという謎めいた商号、きっと複数の鑑定士の寄り合い所帯に違いない。ここならあらゆる鑑定が一度に済ませられるかもしれない、そんな期待もあった。
ところが女は、どこか自嘲気味に思えるひきつった笑みとともにつぶやいた。「いえ。ここはわたしひとりですけど」
また静寂があった。時間がとまったかのように、三人は身じろぎひとつしなかった。
やがて芦山は、大きな板状の荷物をすばやく抱え、踵をかえした。「失礼した」
「ああ」女はデスクから駆けだしてきた。「待って。ちょっと待って」
いままでのクールなたたずまいとは違い、その年齢にふさわしい反応で駆けだしてきた女が、入り口の自動ドアの前に立ちふさがった。
それでもあわてたようすもなく、かといって傷ついたわけでもなさそうな、平然とした面持ちで女はいった。「わたしが見ますから」
芦山は面食らったようすで押し黙った。
小笠原も同様の気分だった。妙な展開になってきた。
さっきよりは友好的に思える笑顔で、女は名刺を二枚取りだした。まず芦山に、次いで小笠原に差しだしてくる。「はじめまして。凜田といいます」
名刺には、万能鑑定士Q、凜田莉子と印刷してあった。この事務所の住所と電話番号は記載されているが、それ以外には何の肩書も説明もない。
思わず小笠原は、芦山を見やった。芦山も小笠原を無言で見かえしてきた。
士というのは本来、有資格者を表す。万能鑑定士というのは店の屋号にすぎないと思っていた。しかしここにいるのは、彼女ひとりだという。
小笠原は、凜田莉子なる女に目を向けた。莉子はまたひきつった笑みを浮かべた。
吸いこまれそうになるほど大きく清らかな瞳は魅力的に違いないが、いまは美人と談笑することが目的ではない。というより、若くて綺麗な女が接客するという状況そのものが胡散臭く、危険なことに感じられてきた。まさか二束三文の絵画や骨とう品を高値で売りつけてきたり、法外な報酬を要求したりするキャッチセールスの類いではないのか。
いてもたってもいられず、小笠原は自動ドアに避難しようとした。
芦山も同じ気分に至ったらしく、莉子のわきをすり抜けようとした。
莉子は両手を広げてそれを阻んだ。気の強そうな見た目のわりには、やわらかい物腰で告げてきた。「せっかく品物をお持ちになったんですから、ぜひ拝見させてください。お時間はとらせません」
芦山は当惑顔でたたずんだ。
やがて深くため息をつくと、荷物を椅子に立てかけた。芦山は紐をほどきながら、物憂げにつぶやいた。「大急ぎで鑑定する必要に迫られたんで、ここに来たんだ。即日鑑定、万能という言葉をうのみにしたほうが馬鹿だった」
布が取り払われ、キャンバスが姿を現した。油絵だった。
十九世紀ぐらいのヨーロッパの絵画らしい。リビングの室内を描いたもので、来客の婦人と、それを迎える家族が写実的に描写されている。タッチはルノアールに近いようだ。それなりに美しい絵だということは理解できるが、専門知識のない小笠原には、細かいことはわからなかった。
莉子は身をかがめて絵をじっと見つめた。虹彩のいろがかすかに変わったように思える。いっそう大きく見開かれた目は、またも猫の様相を呈していた。
芦山は、莉子を困惑させたがっていたに違いない。きみには無理だろ、捨て台詞とともに立ち去ろうと心にきめていたのだろう。けれども、莉子が熱心に絵を眺めだしたせいで、あてが外れたらしい。
布を広げ、芦山はキャンバスを仕舞いこもうとした。「スペクトル・フォト・メタでも微妙とでた。といってもきみにはわからんだろうが」
ふうん、と莉子は身体を起こした。「採取した有機物質にレーザー光線をあてて反応をみたわけですか。画材もキャンバスも十九世紀当時のものと判定されたけれども、まだ疑問の余地が残っていたから鑑定家を探している。そういうことですね」
芦山は絶句した。驚きのいろが顔にひろがった。
莉子はもう絵を見てはいなかった。ぶらりとキャンバスの前を離れながらいった。「芦山さん。画商にお勤めなんでしょう? これ、近代ヨーロッパの絵画としてほかの複数の絵画と一緒に売りこまれたけど、一方で、じつは日本人画家が最近描いたものかもしれないと疑ってるんですね。当時の画材を用いて描くことによって、スペクトル・フォト・メタの分析をパスする偽装を施したんじゃないかって」
「ど」芦山は衝撃を受けたようすだった。「どうしてそれを? だいいち、複数の持ちこみがあったとなぜ知ってる?」
「こんな名もない画家の絵じゃ、いくら古くたってたいして値もつかないでしょう。これ一枚の鑑定結果を知るために、わざわざお金をかけてスペクトル・フォト・メタで分析しないはず。つまり、持ちこんだ業者の素性があやしく思えるので、この一枚をきっかけに尻尾をつかみたいってところでしょう」
「まさしくそうだが......日本人画家の疑いがあるというのは? どうしてわかった?」
「疑惑の通りだからです。それ、日本人が描いたものです。つい最近にね」
「なんだって!?」芦山は布を取り払い、キャンバスをにらみつけた。「根拠は?」
「ヴィクトリア朝の英国人家族が、遠路はるばるフランスからやってきた婦人を迎えている絵です。国籍の違いは身なりでわかります。ご主人が角砂糖の数を聞いていて、婦人は四つと指で答えている。でも、フランス人は四をしめすときには小指を曲げるんです。この絵は親指を曲げてます」
「たしかに......。でもそれだけかね? 四について親指を曲げるのは日本人だけじゃないはずだよ。イギリス人の画家がフランスの風習に馴染んでいなかっただけかも」
「リビングの壁ぎわ、棚の鏡の位置が変です。その鏡は、ランプの明かりを最大限に照明に利用するための反射鏡です。でも描き手は身だしなみ用の鏡と勘違いし、低いところに描いてる。当時の資料の写真を誤って解釈したんでしょう。画家はイギリス人ではありません」
「ああ......。そうだ。そこは間違いない。けれども、だからといって日本人両家と断じるわけには......」
「テーブルの上のソーセージを見てください。斜めに切り込みが何本も入っています」
小笠原は絵を見たが、すぐにはソーセージを判別できなかった。卓上にはあらゆる食物が描きこまれている。やっとのことで、七面鳥の隣りの皿に何本かソーセージが横たわっているのを見つけたが、それらはごく小さなものだった。斜めの切り込みは確認できない。
芦山はルーペを取りだし、顔をキャンバスにくっつけんばかりにして眺めた。「たしかに......。ある! 切り込みらしき線が描かれている。こんなものまで見逃さないとは。ほら、見てください」
よほど興奮しているのか、芦山は小笠原にルーペを押しつけてきた。小笠原はルーペを目にあて、絵を観察した。
ソーセージには、うっすらと斜めの切り込みが四本ほど入っている。細部まででいねいに描写されている絵だった。肉眼で鑑賞したときには気づかないようなところまで、手を抜かずに描いてある。
「でも」小笠原は顔をあげて芦山を見た。「これがなにか?」
芦山はすぐに莉子にたずねる目を向けた。
ふっと莉子は苦笑に似た笑いを浮かべた。「フランクフルトに火が通りやすいように、斜めの切り込みをいれる習わしは当時のイギリスにもありましたけど、向きが逆です。左上から右下に包丁をいれるのは、日本人のお弁当の工夫なんです。箸でつまみやすくするためのね。それもごく最近の」
芦山は目を瞠った。「じゃあこれは......」
「新古典主義からロマン主義への移行期の画風を模倣したうえで、イギリスの古典宮廷絵画の味付けを施した、日本人の手による絵ってことです。キャンバスのほうもスペクトル・スコープによる時代分析に備えて、海水に浸し、腐食させて古く見せかけてある。ウッド蛍光管での紫外線、赤外線分析でもシロとでるでしょう。要するに、悪質な偽装ってことです」
「偽装......」
しばらくのあいだ、芦山は茫然とたたずんでいたが、その目がふいに光った。さっきまで大事に携えていたキャンバスを無造作につかみあげ、乱雑に布でくるむと、莉子に頭をさげた。「じつに参考になりました。うちの会社は、この業者から持ちこまれた絵画十点に総額数百万円を払おうとしていたところですから......。いや、ほんとに、あのう、失礼をお許しください。凜田先生。ええと、支払いは......」
「お望みなら鑑定書をお書きしますから、そのときでかまいません」
「ありがとうございます。じゃ、取り急ぎ売買契約を破棄せねばなりませんので、これで」
芦山はよほど感銘を受けたのか、莉子に何度も会釈したうえに、小笠原のほうにも頭を垂れて、駆け足で自動ドアをでていった。
エンジン音が響き、クルマが走り去っていく。ガラスごしに見える路地に、リヤカー一台だけが残された。
室内はまた静かになった。
小笠原は莉子を見た。莉子は小笠原を見返し、こわばったような笑みを浮かべた。
ぎこちない愛想笑いが彼女の特徴だと小笠原は気づいた。あまりに瞳が大きいために目を細めるには至らない、そんなふうにも思える。
「はじめまして、小笠原といいます。あのう」当惑を覚えながら小笠原はきいた。「万能鑑定士って......正規の資格じゃないよね。きみひとりで、いろんな物を鑑定するってこと? 絵だけじゃなくて?」
なれなれしい口の利き方だったろうか。距離を縮めようとしてフレンドリーな言葉づかいを心がけたが、うまくいかない。軽蔑されるかもしれない。
しかし、莉子は気にかけたようすもなく告げてきた。「まあ、そう。なんでも鑑定家ってこと」
タメ口をかえしてきた。見た目の印象ほど冷やかな性格というわけでもないらしい。それにしても、万物の鑑定依頼に応えるなんて、そんなことが可能だろうか。いかに知識が広くても、苦手分野というのは必ずあるものだろう。
ふと思いついて、小笠原は自分の腕時計を外した。オメガのダイバーズウォッチ。指先でぶらさげながら、莉子にたずねた。「これ見て、どんなことがわかる?」
すると、猫目の美人顔がかすかに歪んで、怪訝そうな表情になった。「そんなことより取材を急がないといけないんじゃないの? 週刊誌って締め切りがあると思うけど。角川書店みたいな大手でも、入社して四年じゃまだ頑張らなきゃいけないんじゃない? って、余計だったかな......ごめんなさい」
今度は、小笠原が絶句する番だった。さっき芦山が受けた衝撃がどれだけ大きなものだったか、小笠原は身をもって思い知った。
こちらからは、まだ名刺を見せてもいない。社名も目的も伝えていないし、事前に問い合わせの電話すらしていない。
「な、なぜ」小笠原は震える声を絞りだした。「なぜわかるんだ、そんなこと」
「理由を説明するのはちょっと......。あなたを傷つけたくないから」
「教えてよ。そんなこといわれたら、よけいに気になるよ」
「怒らない?」
「もちろん」
「オメガのシーマスター、オーシャンクロノグラフ・テクノスター、六百メートル防水。四年前にでた、シリアルナンバーとネーム入りの受注生産、限定品。Yuto Ogasawara ってローマ字の刻印が入ってるから、中古品じゃなくて当時、定価四十万円で買ったものでしょう。でも身につけているスーツはアオキのバーゲン三点セット、靴は浅草安売り王で買える中国製。ってことは、腕時計は親からの就職祝いのプレゼントよね」
複雑な気分だ。小笠原はぶつぶつといった。「それで入社後四年って判断したわけか。だけど、社名や職種まで......」
「うちを訪ねるサラリーマンは画商や骨とう商がほとんどだけど、彼らはガードレールの波板なんか持ちこまない。公務員の場合は事前に電話連絡があるから、残る可能性は取材目的だけ。テレビカメラがないから印刷物。あらゆる層に向けて記事を書く新聞記者は、鑑定家よりもまず大学教授とか権威的な研究者にコンタクトをとるはずだし、コアな鑑定を知りたがるのは雑誌記者。飛びこみ取材ってことは締め切りが厳しい週刊誌。リヤカーを引いてきているってことは、電車には乗っていないんだから、徒歩で来れる出版社。つまり秋田書店、潮出版社、角川グループ。そのなかで事件性のありそうな鑑定依頼をしてくる編集部といえば『週刊角川』ぐらい。合ってる?」
「......はい」
「なんならその腕時計の価格、詳しくだしてみましょうか」
「いや、いいんだよ。これはもう」小笠原はそそくさと腕時計を左の手首に戻した。
莉子は上目づかいにきいてきた。「怒った?」
「怒らないよ。約束だからね」
実際、憤りなど感じなかった。
特異なのはその外見だけではなさそうだった。眼に力があると感じたのも、ルックスだけに起因した印象ではない。彼女はこの若さにして、驚くべき観察眼と連想力、知識を備えている。万能鑑定を名乗るだけのことはある。
そういえば、雑居ビル内のテナントとはいえ、ここは都心の一等地だ。月々の支払いも相当なものになる。道楽で店を構えていられるような場所ではない。彼女の鑑定業は、それなりの売上げを誇っているのだろう。
莉子はぶらりと小笠原の前を離れ、ガードレールの波板に近づいた。「あー、これね。テレビのニュースでも何度か見かけた......」
「そう。力士シールだよ」小笠原はうなずいてみせた。「誰が何の目的で貼ってるのか、突きとめたくてね。絵柄から描き手を推測できないかなと思って」
「急ぐの?」
「まあ、できれば今日じゅうに記事を仕上げたいね」
すると莉子は波板から視線を外し、店の奥へとひっこんでいった。すぐにハンドバッグを片手に足ばやに戻ってくると、ガラス張りの自動ドアの内側に、一枚の札をかけた。外出中です。そう書いてある。
小笠原はきいた。「どこに行くんだい?」
「力士シールって都内じゅうに貼ってあるんでしょ。現場を見ないと全体像を掴めないし」
「まさかぜんぶ見るの?」
「ぜんぶってわけじゃないけど、観察の対象は多ければ多いほど真実が絞れてくるじゃない」
「僕が持ってきた波板は......」
「あとでじっくり見せてもらうけど、まずは外。ほら、さっさとでて。ドアをロックするから」
背中を押され、小笠原は店の外に押しだされた。莉子は、閉じた自動ドアの下部にキーを突っこんでひねると、路地を歩きだした。
小笠原は莉子を追いかけながらいった。「あの波板だけど、東京メトロ飯田橋駅の......」
「B4a出口にほど近い、一方通行の商店街のガードレールでしょ。新宿区神楽坂一丁目付近。強度種別でC種に属するうえに、昔の規格のガードレールってことは、古くからある細い路地に設置されてた。区画整理された道路はもっと幅が広くなってるはず。飯田橋駅周辺で戦時中に焼けなかったのはあの辺りだけだしね。だから昔の道幅がそのまま残ってる」
小笠原は呆気にとられて歩を緩めた。遠ざかっていく莉子の背を、ただじっと見送る。
こんな女性が実在したなんて。にわかには信じがたい現実だ。それもあの若さで......。
いったいどんな人生を送ってきたのだろう。きっと幼少のころから聡明で、両親や学校の教師からも一目置かれていたに違いない。
莉子は立ちどまり、こちらを振り返った。「小笠原さん。早く」
「あ......ああ」小笠原は我にかえり、駆けだした。
万能鑑定士。その肩書は伊達ではない。世の中は広いと小笠原は思った。彼女ならば、奇っ怪にして謎だらけの力士シールから、意外な事実を見つけだすかもしれない。
しかしそれよりも、いまは彼女自身のことに興味がわく。
どんな子供だったのだろう。どこの出身なのだろう。どれほどの学歴の持ち主なのだろう......。
五年前
凜田莉子。ここまでひどい成績の持ち主は沖縄広しといえども、彼女ひとりぐらいのものだ。
石垣島の八重山高等学校、イシガキヒグラシの甲高い鳴き声が、秋のそよ風とともに運ばれてくる職員室。教員は部活指導のため出払っていて、残っているのは俺ひとりだけだ。
この女生徒の進路指導に手間取らなければ、俺もとっくに陸上部の練習につきあっているところなんだが。
三年C組の担任、喜屋武友禅は一枚の通知表を眺めてため息をついていた。
五段階評価の裁定で、見事なまでにオール1。正確には、体育と音楽は3、美術は2だ。こと美術に関していえば、絵を描くのはそれなりの才能を発揮することもあるが、なにしろ知識を問われるテストは赤点ばかりだと担当の教師にきいている。
その凜田莉子の美術の答案はここにある。ほとんどが空欄。唯一それなりに頑張ったと思えるのは一問だけ。『最後の審判』や『ダビデ像』で知られるルネッサンス時代の芸術家の名をあげよ、という問題に、キリマンジャロと書いている。おそらくミケランジェロと書きたかったのだろうが、近いところを掠めているのはこの解答だけだった。
喜屋武は頭をかきむしった。高校の入学試験は決して難しくはないが、莉子はぎりぎりの成績でなんとか合格を決めていた。その後、成績は悲惨のひとことだった。遅刻ゼロ、欠席ゼロの皆勤賞でなければ留年も充分ありえただろう。
順当に三年に進級しただけでも奇跡といえるが、卒業後の進路を取り沙汰される時期に、彼女の担任になる者が地獄をみるだろうことは三年前からあきらかだった。職員のあいだでは幾度となくそのことが話題にのぼった。
それが俺だったなんて。よりによって、あの凜田莉子の担任になっちまうとは。
莉子の声は、さっきからイシガキヒグラシの鳴き声を圧倒する勢いで響いてくる。校庭から彼女の声がする。頑張ってー。打ってー! やったー! まるで公式試合を応援しているかのような、張りのある叫びだった。
だが野球部は、いつもどおりの練習をしているにすぎない。野球部のマネージャーとして、過剰なほどの声援を送る莉子の存在も、もはや放課後の名物となりつつある。
喜屋武は立ちあがり、窓ぎわに歩み寄った。そよ風に泳ぐカーテンの向こう、八重山の秋の空が広がっていた。
ずいぶん涼しくなったと感じるが、本土の人からすれば、これでも真夏の暑さなのだろう。
彼らはまた、石垣島を何もない離島と信じているらしい。本土から出向してきた職員は一様に驚いた顔をする。こんなに発達しているなんて知りませんでした。二十四時間営業のマックスバリュにマクドナルドのドライブスルー、都会と変わりませんね、誰もが口を揃えてそういう。
彼らの想像するような、素朴な田舎の風景は八重山諸島の島々のほぼ全域に広がっている。しかし石垣島だけは別格だ。ここは八重山の中心地、ただひとつの都会だった。
とはいえ、電車もモノレールもなく、セブン-イレブンの出店が一軒もない市街地は、あくまで八重山の住人にとって賑わいのある地域というだけでしかない。ここでしかやれないことがある、買えないものがある。だから、離島に住む人々がフェリーで集まってくる。それだけのことだった。
凜田莉子もそのひとりだった。彼女の住む波照間島には高校がない。高速フェリーで片道一時間かかる波照間島。最終便は夕方五時だ。彼女はいつもぎりぎりまで野球部の練習につきあっているため、ひやひやさせられることも少なくない。
野球部はいくつかのグループに分かれて練習をおこなっていた。ノックと守備、ピッチングのほかは、ウェイトトレーニングやベースランニングが中心だった。
薄汚れたユニフォームの部員たちの合間を縫って、制服姿の女生徒が駆けずりまわっている。タオルを運んだり、ランニングのタイムを計測したりしながら、部員への声援を欠かさない。
スマートな体型で腕と脚が長く、顔は小さくて、わが校でも屈指の美人であることは疑いの余地はない。天は二物を与えず。願わくは、あそこまでのルックスを誇らなくてもいいから、少しでも勉学の才能が備わってくれるとありがたいのだが。
喜屋武は校庭に怒鳴った。「凜田! ちょっと来い!」
莉子はこちらを振りかえった。満面の笑みで手を振る。「喜屋武先生。すぐ行きます!」
おおらかで、猜疑心のかけらもしめさず、なにごとにも前向きで、全力を尽くす。莉子にはそれだけの良い面がある。にもかかわらず、頭は決定的に悪い。どうしたものだろうか。卒業まであと半年、タイムリミットは刻一刻と迫っているというのに。
駆けだした莉子が校舎の入り口に向かってくる。部員たちは動きをとめて、その背を見送っている。一様に、がっかりした表情を浮かべた。直後、野球部全体の動きが緩慢になった。ノックは空振り、スタートダッシュは腰砕け。あきらかにやる気を失っている。
現金なものだ。莉子が部員たちに絶大な人気を誇っていることは知っているが、彼女が姿を消すと、こうまで露骨に手を抜きはじめるとは。校庭にはまだふたりの女子マネージャーがいるが、いずれも不満げな面持ちだった。
高校生の分際で、美人に鼻の下を伸ばすことを覚えるとは。嘆かわしい限りだ。俺が顧問だったら、その根性をイチから叩きなおしてやるところだが。
扉をノックする音がした。開放された戸口から、莉子が入室してきた。「失礼します」
「凜田。座れ」喜屋武は隣りのデスクの椅子を引きだした。
「はい」莉子はすなおに腰かけると、大きな目を見開いてこちらをじっと凝視した。
喜屋武は進路希望のプリントを取りだした。「凜田。これはなんの冗談だ?」
「......冗談って?」莉子の顔にはまだ笑みがとどまっていた。「なんのことですか」
「本気で書いたってのか」
「もちろん、本気で書きました」
「俺を困らすな」喜屋武はプリントを机の上に投げだした。「なんだ、とりあえず東京にでて、就職先はそれから探しますってのは。馬鹿にしとるんか」
「馬鹿になんて......してませんけど。波照間島じゃあんまり働くところもないし、石垣にでるのもフェリー代かかるし、ならいっそのこと東京にでればいいさぁ、って」
「なんでいきなり東京なんだ。親戚でも住んでるのか?」
「いえ。知り合いはいませんけど、でも、東京って仕事いっぱいありそうだし、お給料も高いってテレビでいってたし......」
喜屋武は通知表を開いて見せた。「この成績でか?」
莉子はさすがにばつの悪そうな顔になった。「東京行ってから努力すればいいさーってお父さんもお母さんもいってるんですけど......。就職に必要なところだけ勉強すれば、効率もいいだろうって」
「そんなに甘いもんじゃないぞ。就職活動もしていないのに、いきなり飛びこみで試験を受けるつもりか。っていうか、まさかおまえ、水商売に手を染めるつもりじゃないだろうな」
「水商売?」
「おミズのことだよ」
「ミネラルウォーターとか? お水を売る商売ですか?」
「......だとしたら、どうなんだ」
「就職したいです。水商売」
「馬鹿をいえ」喜屋武は吐き捨てた。
どうやら莉子は本当に無知のようだった。波照間島にその手の店があるわけもない。知らずに育つこともありうるのだろう。詳しく説明するのは教員としてふさわしい行為ではない。
しかし、このまま行く宛もなく上京させたのでは、悪い虫がつく可能性も充分にある。莉子は美人で、世間知らずだ。群がってくる輩の甘い誘いに乗ってしまうかもしれない。
喜屋武はきいた。「向こうで勉強するって、つまりこっちではなんの準備もしていかないつもりか?」
「いいえ」莉子は笑顔で、胸ポケットから折りたたまれた紙を取りだした。「自分なりに、いい勉強法を見つけたんです。ほら、これです」
差しだされた紙片を開く。雑誌の一ページを切り取ったものだった。
自宅でめきめき身につく勉強法。たった二か月で東大入学レベルの学力に! 見出しにはそうあった。
呆れて声もでない。いまどき見かけないほど陳腐な詐欺広告だった。応募要項によれば、入会手続きをとれば半年間、通信教育用のテキストが送られてくるという。すごい、画期的、爆発的という、何を意味するのかわからない形容詞で埋め尽くされた説明書きには、ほとんど中身といえるものが存在しなかった。
「おい」喜屋武は莉子を見た。「これ、申しこんだのか」
「はい。電話できいたら、高三の人は学生専用コースってのに申しこんでくれっていわれて。先々週ぐらいに、お父さんも印鑑押してくれました」
「金も振りこんだのか」
「いえ。後払いって話なので......。テキストも送られてきたんですけど、なんだか問題集と変わらない内容で、難しくって、まだやってないんですけど......」
「そりゃそうだろう。どこかの問題集をまる写しにしただけの内容にきまってる」喜屋武はデスクの上の受話器をとり、広告に記された電話番号をプッシュした。
莉子が目を丸くした。「どうしたんですか?」
「すぐに解約しろ」喜屋武は莉子に受話器を差しだした。「通信教育を退会するっていうんだ。それ以外には、何も話さなくていい」
戸惑いがちに受話器を受け取った莉子は、それを耳にあてた。「......あ、もしもし。ええと、凜田といいます。凜田莉子です。あのう、通信教育を......やめたいっていうか、退会したいんですけど......。はい? クーリングオフ期間が過ぎてるって......。どういう意味でしょうか?」
おいでなすった。喜屋武は受話器を莉子の手からひったくり、電話にでた。「もしもし。電話かわりました」
相手は、どすのきいた声の中年男のようだった。「あんた誰だ? 保護者か?」
「そんなようなものかな」
「法律で決まってるんだけどねえ、クーリングオフ期間ってのは八日間なんだよ。それを過ぎたら返品とか解約は不可能。早いとこ代金を振り込みなよ」
「ふうん。法律が絶対ってわけか」
「当然だろ」
「なら、この申し込み要項も間違いないのか。学生専用コース。学生さんのみ対象となります、って書いてあるな」
「それがどうした」
「法律を順守すれば、この契約はなかったことになるな」
「な......何だと?」
「学校教育法の定める〝学生〟の定義はな、大学生、大学院生、短大生、専門学校生。それだけさ。高校生は生徒っていうんだ。学生には含まれない。法廷に持ちこんだって勝てやしないからそのつもりでな」
喜屋武は受話器を乱暴に戻した。
しんと静まりかえった職員室で、莉子はぽかんとしていたが、やがて笑顔になり、手を叩いた。「先生、すごい。名探偵みたい。かっこいい!」
「いや、それほどでも」照れくささを覚えて頭をかきながら、喜屋武はふと我にかえり、真顔をつとめた。「凜田。こんなものはな、詐欺同然の手口なんだ。通信教育で短期間に東大レベルの学力なんて、PL法で許されてる謳い文句の限度を超えてる。ひっかかってどうする」
「詐欺......だったんですか」莉子は当惑ぎみにいった。「全然気づきませんでした。お父さんも、これはよさそうだってすぐ賛成してくれたし」
「契約書に印鑑を押したときのお父さんは、シラフだったのか?」
「いえ。泡波を六杯ぐらい飲んでました」
「そのときお母さんはどうしてた?」
「三線を弾いてました。通信教育を申しこむことに決まったから、宴会やろうっておばあが言いだしたんで」
喜屋武は思わず唸った。これは家に問題があるとしか言いようがない。両親は莉子の上京に同意しているようだが、このままいけば保護者としての監督責任能力を欠いていると判断されても仕方がないだろう。
立ちあがり、上着を手にとって羽織った。喜屋武は莉子にいった。「凜田。帰りのフェリーは?」
「ええと......あと三十分ぐらいです」
「俺も一緒に乗っていく」
「え!? でも、きょうはもう石垣に戻るフェリーはないですよ」
「民宿に泊まるとか、なんとでもなるだろ。それより、きみの両親と話をしたい」
莉子はさも嬉しそうに、椅子から跳ねあがった。「先生、ごろ寝だったらうちに泊まってもいいですよ。泡波、たくさんありますから」
「こら。遊びに行くんじゃないんだぞ」
悪気がないのはわかるが、天真爛漫にもほどがある。喜屋武は上着の襟を正しながら思った。危険な状況にある生徒をこのまま放っておくわけにはいかない。道を踏み外す前に、まずは保護者から認識を改めてもらう必要がある。
波照間島
波が高くなくてよかった、と喜屋武は思った。波照間島への航路は、八重山諸島のなかでも長いために、海が荒れていれば即、欠航となる。ただでさえ、一日にたった三便しかでない高速フェリーが失われたら、人の動きに支障がでる。けれども、島民は苦情を口にしない。それがこの島の生活のあるべき姿さぁ、そんなのんびりとした気分が船内を支配している。
がらがらのキャビンのいちばん後ろの席に、喜屋武は凜田莉子と並んで座っていた。船尾にいくほど揺れは小さくなるが、それでもフェリーは波にぶつかるたびに大きく上下運動を繰り返していた。
莉子はけろりとした顔で、漫画本を読みふけっている。
喜屋武は莉子にいった。「よく読めるな。酔ったりしないのか」
「全然」莉子はだしぬけに瞳を潤ませながら喜屋武を見つめてきた。「この漫画、すごくいい話なんですよ。上京した女の子が、かっこいいバンドの子と知りあいになって......」
しめされた表紙を喜屋武は一瞥した。『NANA』というタイトルだった。「流行ってんのか、それ」
「うん。今年いちばんの流行りかも。先生は漫画読まないんですか」
「戦後六十年だぞ。記念行事もいろいろあるし文献も発行されてる。もうすぐ小泉総理も沖縄を訪れるそうだし、新聞にじっくり目を通すだけでも勉強になる」
「へえ。先生はまじめですね。わたし、愛媛でやってる地球博だっけ、あれなら行きたいですけど」
「愛媛? 愛・地球博のことなら、愛知だろ」
「あー、愛知ですか。みかんとタオルで有名な」
「だから、それは愛媛だよ。愛媛は四国、愛知は中部地方」
「中部......山口とか......」
「中国地方だろ山口は。東京がどのあたりにあるのか、ちゃんとわかってるのか?」
第三者がきけば、ふざけているだけに思えるだろう。莉子は一見、勉強ができそうなクールな見た目をしているから、よりそう感じられるに違いない。最初は俺もそうだった。やがて誰もが事実を知り、愕然とすることになる。
小学生で習うはずの都道府県および県庁所在地を、莉子はほとんど知らない。白地図を埋めるテストで正解できたのは、北海道と沖縄のほか、わずか数か所にすぎない。
成績でいえば極端な落ちこぼれの部類だというのに、莉子はそのことを気にかけるようすもなく、いつも底抜けに明るい。すなわち、それが人生にとってどれだけ忌々しい問題かを認識していない。やはりこのまま独り立ちさせるわけにはいかない。
フェリーの揺れがおさまってきた。夕方とはいえ。陽はまだずいぶん高いところにある。人の営みがある日本最南端の島。波照間。ちっぽけな島の素朴な港が見えてきた。
桟橋に船が接岸すると、乗客が降りていく。喜屋武も莉子につづいて下船していった。
人口は六百人に満たない。静寂に包まれた港にはほとんどひとけもなく、トラックに積まれた石垣牛の唸りが聞こえるのみだった。駐在がパトカーを停めている。フェリーの到着時刻にはそうすることが決まりのようだった。警官のいる島であることを、外部からの来訪者にアピールする狙いがあるのだろう。もっとも、その中年の警官はパトカーを離れて、待合小屋の軒先に座りこみ、漁師と談笑するばかりだが。
港町はない。埠頭には小屋がひとつあるだけで、あとは低い山を緩やかに上る道が伸びるのみだ。あの道の先にある集落もごく小さなものでしかない。軽自動車で走れば二十分ほどで一周できてしまう。診療所はあるが病院はない。この島内での出産はできず、妊婦は石垣島の八重山病院に入院せねばならない。
莉子は、サトウキビを載せたリヤカーを引く主婦とあいさつをかわし、そのまま立ち話に入った。どうやら彼女はこの島でも人気者とみえて、大人たちが続々とその周りに集まってくる。
醇朴、質朴のきわみというべきその風景を見ながら、喜屋武は確信を強めた。
莉子を上京させてはならない。彼女の両親を説得することは、俺に課せられた使命だ。
宴
島の中心部の集落、貝やサンゴで築いた垣根に囲まれた、赤瓦屋根の平屋。どの家も同じ外観をしているが、凜田莉子の実家を見分けるのはたやすい。玄関先のシーサーが、ひときわ愛嬌のある顔づくりになっているからだった。
喜屋武が以前に家庭訪問に来たときにも、この家の宴会のペースに呑まれてしまった。きょうこそは毅然たる態度を貫き、両親と差し向かいでとことん話し合わねばならない。
日没後、街路灯もほとんどない集落は真っ暗になる。波照間にはハブはいないが、出歩く人はいない。住民はみな家に引きこもる。
その時刻に至って、喜屋武はうんざりしながら項垂れる自分を意識した。
周りでは、莉子の家族がどんちゃん騒ぎをしている。ちゃぶ台には八重山そばに黒糖のきいたヤシガニ料理、そしてこの島でつくられる泡盛の銘柄、泡波の瓶が並ぶ。
莉子の両親は、さすがにあれだけ綺麗な子を産むだけあってふたりとも容姿端麗だが、どうしようもなく田舎くさかった。赤ら顔の父、凜田盛昌は、妻の凜田優那の三線の伴奏に合わせて踊りつづけていた。
近所に住む親せきの世帯主は、この島の盆祭りの仮装行列で主役ともいえるミルク神を務めていたという。時季はずれだというのに、衣装を持ちこんできて身につけ、凜田盛昌とともに軽快なステップを踏んでいる。
白い布袋の顔の仮面に黄色い和服という、インパクトのある外見のミルク神は、この鳥の住民にとって捨て置けない存在であるらしい。窓のなかにその姿を発見した近所の人々が続々押しかけてくる。もはや凜田家の宴会は、床が抜け落ちそうなほど大勢の参加者でごったがえしていた。
床の間に近い座布団に腰をおろしていた喜屋武は、ただ呆気にとられてその光景を眺めていた。
この宴会の真の主役はミルク神ではない。住民たちはかわるがわる莉子を祝福し、織物やら鍋に入った煮物やらを贈呈していた。涙ぐんでいる老人もいる、まるで島の出世頭の新たな門出を祝っているかのようだ。莉子はといえば、戸惑ったようすもなく笑顔で応え持ちきれないほどの贈り物を抱えながら宴の席をまわっている。
島民のバイタリティにひたすら圧倒されるしかない喜屋武だったが、どこかの中年夫婦が莉子に盃をすすめるのを見て、さすがに黙っていられなくなり、立ちあがって駆け寄った。
「よしてください」喜屋武は三線の音にかき消されまいと大声で怒鳴った。「莉子は未成年ですよ」
中年夫婦はきょとんとした顔でこちらを見たが、すぐに満面に笑いを浮かべて、盃を喜屋武に押しつけてきた。「なら先生、あんたが飲むさぁ。ほら飲むさぁ」
「いや、私は......」
「いいからほら!」
周囲の視線がいっせいにこちらに向けられたのを感じる。期待感に目を輝かせる人々。喜屋武は困惑を覚えたが、彼らの喜びに水を差すのはよくない。莉子の立場を悪くするだけだ。
仕方なく、喜屋武は盃をあおった。泡盛のなかでも特に強烈な泡波の、喉を焼きつくすような熱さが腹におさまっていく。
「おお!」中年男は声を張りあげた。「ええ呑みっぷり! 男前だし、ええ先生ねぇ。莉子ちゃんも結婚したらどうかねぇ」
周囲はいきなり盛りあがった。それはええ。先生は宮古の出身だというし、一緒にハーリー祭に参加してもらえばええねぇ。どうなの莉子ちゃんは、先生みたいな男の人は。
「えー」莉子は照れたようすで苦笑いを浮かべていた。「キャンキャンと付き合ったりしたら、友達がみんなひやかすし......」
キャンキャン。俺は生徒にそう呼ばれているのか。
莉子は酒を飲んではいないはずだが、この場の雰囲気にすっかり呑まれてしまったらしい。平気で俺の仇名を口にしている。誰も理性的ではいられない、それが凜田家の宴会のようだった。
喜屋武は咳ばらいした。「みなさん。莉子さんが東京にでることを祝うのは悪くありませんが......」
すると参加者はいっせいに沸き立った。ひとりの男が声高にいう。「東京に娘を送りだすなんて、凜田さんの家はやっぱり立派さぁ」
「おう」ほかの参加者が怒鳴った。「莉子ちゃん、国会に行って小泉さんにあいさつするさぁ!」
その発言が皮切りになったかのように、住民たちは莉子に熱心にリクエストし始めた。友達できたら、みんなに波照間はええところじゃって宣伝するさー。夏川りみに負けないぐらい有名になって石垣を見返してやらにゃねぇ。レッサーパンダの風太が立ったっていうけれども、あんなものうちのヤギやリスザルに比べたら......。
どれもこれもテレビを通して知り得た東京の印象でしかない。しかも正確ではない。風太がいるのは千葉県だ。
ここの島民たちは、六百人しかいない波照間と同じスケール感で東京をとらえている。一千万人がひしめく大都会というものは、彼らの想像の及ぶ範囲ではないらしい。
喜屋武はいった。「みなさん。東京の独り暮らしってのは、そんなに甘いものではないと思いますよ。莉子さんを送りだすことばかりが正しい道ではないと、いまいちど考えてみるべきです」
宴会はふいに、水をうったように静まりかえった。
三線の音が途絶え、ミルク神が踊るのをやめた。莉子の顔から、笑みが消えた。
沈黙のなか、莉子の父方の祖母らしき女性が口をきいた。「知っとるさ、そんなもん」
誰もが真顔になって、おばあを注視する。彼女の存在が住民たちにとって大きなものであることは、状況をみればわかる。
「先生」と莉子の祖母は、しわがれた声でいった。「わたしは石垣で、八重山運送って会社の相談役をやってるんだけどねぇ。若いころは経営に参加しておったもんだから、いまでもみんなわたしを頼ってくるんで、この歳になってもそういう役職に留まっておるんだけれども」
八軍山運送は、石垣島でも大手の運輸会社だ。この辺りの島々から内地に引っ越す際には、誰もが八重山運送に手配を依頼する。実業家としても有力者だったのだろう。
莉子の父、盛昌がにやつきながら頭をかいた。「おかげでおばあん家って、電話代が無料なんだよなぁ」
その妻の優那が首をかしげる。「無料なの? どうして?」
「戦後に会社がGHQ傘下になったんで、米軍が使う短波帯多重無線の電話回線を家にもつないでもらってて、だから電電公社には加入してなかったさ」
祖母は笑った。「いまでもそうさぁ。おかげで長いこと、NTTってのがどういう意味がわからなくてねぇ。おじいが新しい予防接種だというんで、ずっと信じてたさー」
室内がどっと沸いた。ミルク神は手にした小太鼓を打ち鳴らしている。
ふいに真顔になった祖母が、喜屋武をじっと見つめてきた。「八重山運送に就職する気があるなら、いつでも入れてあげるって莉子にもいってたんだけどねぇ。本人がどうしても上京したいっていうから」
「......でも」喜屋武はいった。「勤め先もきめずに上京するってのは......」
「先生」祖母は穏やかに告げてきた。「先生は宮古に実家があって、石垣で働いているもんだから、あまり雨のことでも悩まんでしょう? 波照間はいつも水不足で、飲み水がなくて悩んでばかりでねぇ。誰でもいいから若い人が都会にでていって、なんとかしてくれんかなあって、島の者はみなそんなことばかり考えてるさ」
静寂の居間に漂いだした重い空気。喜屋武は宴の参加者の真意に気づきだした。
きょう、職員室で莉子と交わした会話を思いだす。〝水商売〟という言葉に、莉子が連想したのは飲料水の販売だった。しかもその職に就きたいという意志をしめした。
そうだった。波照間の住民にとって、飲み水は深刻きわまりない問題だ。
島では年じゅう渇水が続いている。飲料水をまかなうための淡水化施設の用水は、常に枯れている。夕方、節水を呼び掛ける島内放送を耳にした。土取り場のわき水を淡水化施設に運んで、なんとか凌いでいるともきく。
石垣に近い島々のように、海底送水が簡単に実現する距離ではない。日本最南端の離れ小島。同じ南の島であっても、宮古や石垣からは想像もつかない苦難がここにはある。
どうすれば解決できるか、誰も具体案は思いつかない。それでも、藁にもすがる思いで若者を送りだしたい。ゆえに、上京したいという島民が現れたら、全力で支持するのだろう。
いま彼らにできることは、それしかないのだから。
祖母は微笑した。「まあ、莉子に無理はさせたくないさぁ。戻る気があるなら、いつでも戻ってくればいいからねぇ。おばあが元気なうちは、八重山運送に入れるよう、準備しておくからさぁ」
莉子は複雑な表情を浮かべたが、すぐににっこりと笑ってうなずいた。
「さあー」凜田盛昌が甲高い声でいった。「ぱぁっとやろう。優那、景気のいいのを一曲頼む。ほら、泡波をあと三本追加するさぁ」
住民たちは待ってましたとばかりに沸き立ち、たちまち宴会の賑やかさを取り戻した。三線が鳴り響き、ミルク神が舞い踊り、あちこちで笑い声があがった。酒を盃に注いでまわる莉子の横顔。その笑みのなかに翳がさしているのを、喜屋武は見逃さなかった。
そういうことだったのか、と喜屋武は思った。
このどんちゃん騒ぎは、莉子とその両親、そして島民の寂しさをまぎらわすためのものだ。
惜別の宴。それが凜田家の今夜の催しだった。
りんごとオレンジ
宴会は深夜までつづいた。さすがに三線の音は途絶え、誰もが踊り疲れ、歌い疲れて、琉球畳の上にごろ寝をはじめた。凜田盛昌も高いびきをかいている。彼の母は、凜田優那とともに台所に立っていた。まだ食べ物をだす気らしい。
喜屋武は、莉子が姿を消していることに気づいた。ゆっくりと立ちあがり、縁側に向かおうとする。酒がまわっている。足もともおぼつかない。それでも、秋の波照間の冷たい夜気は、ぼうっとしていた頭を覚醒させてくれる。
莉子はひとり庭先にでて、夜空を見あげていた。
縁側に並べてあったサンダルを履いて、喜屋武は庭に歩を踏みだした。ゆっくりと莉子に近づく。
空に目を向ける。満天の星空。莉子が見つめる先には、この島でしか見られない煌めきがあった。
「南十字星か」喜屋武はつぶやいた。「波照間ならではの宝物だな」
莉子はうなずいた。「東京に行ったら、見れなくなるってきいたから。よく見ておこうと思って」
「......凜田。上京を思い立ったのは、自分がなんとかしなきゃと思ったからか?」
「え?」莉子は喜屋武の顔を見つめてきた。
「若い人が内地に......できれば東京にでていって、どんなことでもいいから島の環境改善のために尽力してほしい。おばあに限らず、みんながそういってるのを聞いてるうちに、自分が行こうと思ったんじゃないのか」
静寂が辺りを包む。莉子は無言で見返すばかりだった。
だがその沈黙に、すべての答えがあった。図星に違いないと喜屋武は思った。決して嘘をつけない彼女の大きな瞳が、かすかに潤んでいる。
「でもな」喜屋武はため息をついてみせた。「あの人たちがいってるみたいに、総理大臣や有名人に出会える場所ってわけじゃないぞ。文字通り、生き馬の目を抜く大都会だ」
「ええっ!?」莉子は驚愕の表情を浮かべた。「馬の目を抜くんですか。都会の人は」
「野蛮人かよ、東京の人は。この島みたいに馬やヤギを放牧してるわけじゃないさ」
「ですよね。ビルとかいっぱいあるところだし」
「テレビで観ただけだろ? 向こうに行って、この島の渇水対策につながる仕事に就くとして、それはどんな職種だ? 凜田が入れるような会社か? 都会の人に追いつくにはどれだけ勉強しなきゃならないか、ちゃんとわかってるか?」
言葉が過ぎただろうか。
正直、八重山高校の教師としての俺は、生徒にあまり勉学を奨励してはこなかった。莉子は極端に成績が悪い部類の生徒だが、実際のところ読み書きと計算力についてそこそこ身についていれば、地元の就職に支障はない、それぐらいに考えていた。いまになって勉強の必要性を説くのは気がひける。
けれども、いわねばならない。彼女は上京を志しているのだから。
莉子は一瞬、表情をこわばらせた。状況の難しさは理解できているようだった。
やがて莉子は、自信のなさそうな微笑みを浮かべた。わかりません、と莉子はいった。
「先生も知ってるように、わたし、勉強ぜんぜんできないから。この島の小学校、中学校に通ってたときも、いつも成績はびりで......。勉強する気はあるんだけど、頭が悪くて。何も覚えられないんです」
「学習意欲があることは知ってるよ。なにごとにも熱心だ。音楽の先生にもきいた。交響曲を鑑賞したときに涙を流すほど感動して、感想文を書くに書けないありさまだったそうだな。美術でも似たようなことがあっただろ。教科書に載ってた絵にひきこまれて、夢中で眺めていたせいで、先生の言葉がまるで耳に入ってなかった」
「なんか、よくわからないけどすごい絵なんですよ。いくつものリンゴが布の上にあるだけなんですけど、すごく本物っぽいっていうか。スザンヌの絵」
「セザンヌだろ」喜屋武は頭をかきむしった。「数学も英語もまるで駄目、漢字もぜんぜん知らないし、地理も歴史も成績は劣悪きわまりない。それでもやっていけるのか? 少しずつでも勉強していけるか?」
「はい」莉子は笑顔で即答した。「やるだけやってみるだけです」
......このプラス思考はどこからくるのだろう。いや、さっきの宴会で、莉子はまぎれもなく寂しそうな横顔をのぞかせていた。彼女は、この島のために役立とうと必死なのだろう。
上京したらきっと、彼女は深く傷つくことだろう。馬鹿にされ、疎外され、孤立してしまうかもしれない。
だがそのときは、家族のもとに帰ればいい。やれるだけやった、莉子がそんな思いを抱くに至れば、たとえ島に出戻りになっても、決して無気力に陥ったりはしないだろう。
内地をめざし、そしてまた島に戻ってくる若者は多い。彼女もたぶん、そのひとりになる。
それでいいのではないか。島を救いたいという莉子の思いは、どうしようもなく正しいのだから。
莉子のような教え子を持てたことを、俺はむしろ誇りに思うべきだ。
「なあ、凜田」喜屋武はいった。「ひとつだけ約束してくれ」
「なんですか」
「絶対に、いいか、絶対にだぞ。水商売にだけは手を染めるな」
「ミネラルウォーターを売るなってことですね」
「コンビニのバイトもできねえだろ、それじゃ。違うんだよ、水商売ってのは......」
「水道の会社に就職するってことですか。そのほうが波照間のためになるかも」
「東京からこの島まで水道管を引くつもりか? 水道局にも管轄があるんだよ。そう性急に考えるな。とにかく、おミズの仕事は駄目だ。これ以上、教師の俺に説明させるな。上京すればどうせ、いやでもわかってくる。水商売は厳禁。犯罪になることも、もちろんやってはいけない。それさえ守ってくれたら、先生は凜田の上京を認める」
「ほんとに!?」莉子は飛びあがった。「やったぁ。先生、ありがとう」
「約束できるのか、凜田?」
「はい。約束します。絶対に守ります。あの南十字星に誓います!」
莉子はそういって、天の川にまたたく四つの星を見つめた。その輝きが莉子の虹彩に宿っている。
喜屋武はひそかにため息をつきながら、心の奥底で思った。美を見つめる莉子の目。そのまなざしだけは本物のように思える。
セザンヌの『りんごとオレンジ』は、実際にはありえない不自然な構図ながら、配色および配置に幾何学的なバランスが存在する、高度な絵画だときいたことがある。
そこに理屈抜きに美をみいだしたのなら、莉子は素朴ながら純粋たる芸術眼を有している......そういえるのかもしれない。
思いがそこに及んで、喜屋武はふと我にかえり苦笑した。
うがちすぎか。俺も島民と同じ過度な期待を抱きつつあるのかもしれない。ミルク神の力によるものか、それとも泡波のせいか。
いまはただ、純真な教え子とともに、夜空にひろがる幻想的な光景を眺めるだけだ。
南十字星。凜田莉子が旅立ちの日を迎えてから、何年後に彼女はふたたびこの煌めきを口にするのだろう。できるだけ先のことだと思いたい。そのときまでにこの島が変わっていると、本気で信じたい。
夢のまた夢
卒業式の一週間後、十八歳の莉子は初めて飛行機に乗った。石垣島から羽田までの直行便。こんな巨大な機体が大空に舞いあがるなんて、とても信じられない。全身、鳥肌が立つほどの恐怖に包まれたが、上京を知った野球部員たちの寄せ書きを胸に抱えて心の支えとし、なんとか乗りきった。
部員たちはみな温かかった。旅立ちの日までは宴会に次ぐ宴会、同学年のほとんどの生徒が波照間島にやってきて凜田家に泊まった。旅費はカンパでまかなわれた。上京後しばらくの生活費は、両親が工面してくれることになった。
わたしは大勢の人たちに支えられている、そう実感した。頑張って困難を乗り切って、島民を幸せに導かねば。どうすれば実現できるのかはさっぱりわからないが、おばあもいっていた。誰もが初めは初心者さぁ、と。
莉子は旅客機の座席に身をあずけた。なんとかなるさぁ。
羽田に到着してからは、目もくらむような狂乱の光景のなかに身を投じていることを、莉子は実感した。
八重山のハーリー祭をはるかにうわまわる人の群れが、ロビーを埋め尽くしている。夏の石垣島まつりに匹敵する長い行列が、空港に隣接されたモノレール駅につづいていく。やっとのことで乗った車両はすし詰めだった。正月の八重山闘牛場の闘牛大会をうわまわる混雑。早くも身も心も押しつぶされそうだった。
モノレールは沖縄本島にもあるときいていたが、おばあの話では、いつも空いていて座席は座り放題という話だった。次から次へと、ひっきりなしに車両が到着するから、混むことはありえないという。この羽田のモノレールも数分おきに発着するようだが、どうしてこんなに混んでいるのだろう。東京のどこかで祭りが催されているのだろうか。
大きく重たい旅行用トランクをひきずりながら、JR浜松町駅に着いた。ここでも莉子は衝撃とともに立ちすくまざるをえなかった。
駅の改札のなかに商店街が広がっている。本屋さんもあればハンバーガー屋さんもある。行けども行けども構内はきらびやかな店舗が連なるばかりだ。人通りも多い。本当にここは駅なのか。不安をかすめたとき、やっとのことでホームへの下り階段を見つけた。
そのホームがまたショッキングだった。
でかい。あまりに広大で、海原に浮かんでいれば充分に人が住める島となりそうだ。そして、そこに滑りこんでくる列車は、果てしなく長い。あまりに長くて、永遠に通過しないのではと錯覚するほどだ。
列車が停まり扉が開くと、ホームにひしめきあう群衆がいっせいになだれこむ。山手線なる路線の緑いろの電車は、出発したと思ったらすぐに次の車両が入ってきて、息をつく暇もない。しかも停車するたび、大量の乗客が吐きだされてくる。なんという人の数だろう。八重山諸島の集落ではバスが壊れたら乗客みんなで押すことになっているが、さすがは東京。これだけの人がいれば電車が停まっても、充分な人力となりうることだろう。
驚いてばかりもいられない。おばあが八重山運送の知り合いを通じて手配してくれたアパートがある、中野という地域に移動せねばならない。
初めて乗る電車の窓の外に広がる、驚異の大都会を、莉子は固唾を呑んで見守った。しだいに莉子は、予想とは食い違ういくつかの事柄に気づきだした。
テレビで観た東京は、天を突くような超高層ビルが乱立しているという印象だったが、実際にはそういう光景はところどころにあるにすぎない。ほとんどは古風な民家が軒を連ねる住宅街ばかりだった。また、新宿や渋谷という街に、よほど面白いことが待っているに違いないと信じていたが、実態はごくありきたりな店舗が並んでいるばかりで、駅前を外れればすぐに辺鄙な住宅地にでてしまう。どうやら東京は、催事や祭りがなくても人の流れが途絶えないところであるらしい。みんな、どこに何の目的があって移動しているのだろう。動きまわることが趣味なのだろうか。
陽が傾きかけたころ、莉子は中野駅に着いた。駅前は栄えていたが、どことなく薄汚れていた。おばあにもらった地図と方位磁石を頼りに歩くにつれて、莉子はさらに妙な気分になった。
中野五丁目の路地は細く入り組んでいて、連なる家屋も古びている。木造家屋はそうとう年季が入っているようで、竹富島の集落といい勝負だった。豆腐屋や八百屋、電器店も、田舎よりずっと田舎くさい風情に満ちている。本当にここは東京なのかと勘繰りたくなる。
莉子が住むことになっているアパートも同様だった。都会の独り暮らしはどんなにお洒落なものになるだろうと思いをめぐらせた日々は、幻想に終わった。築三十年の木造ぼろアパートの二階、三畳一間の和室。それが莉子の生活空間だった。
ごく狭い部屋なので、フトンを敷いたら床にはもう空きがない。十六インチの薄型液晶テレビはぎりぎり壁ぎわに設置できた。旅行用トランクは靴脱ぎ場に置くしかない。フトンの向きを変えることもできないが、方位磁石で測ってみると、なんと北まくらになっていた。莉子は仕方なく、靴脱ぎ場のほうに頭を向けて寝ることにした。
それでも莉子は気落ちすることはなかった。コンビニエンスストアで入手したフリーペーパーの就職情報誌を開いて、さっそく職探しを始めた。
翌朝から、一張羅のスーツに身を包んで莉子の就職活動は始まった。電話で申しこみをすると、面接の日時はすんなり決まる。OLになれる日も近い、浮かれながら街に繰りだす。見るもの聞くものすべてが目新しい。ここは新天地。いままでにない人生が待っている。行く手は希望に満ち溢れている......。
だが、心躍るときはそれまでだった。さすがの莉子も、現実の厳しさを知らざるをえなかった。
面接でどう受け答えをすべきかわからない。最初の会社は食器の製造販売業ということだった。初老の面接官はきいてきた。入社後、どんなことをしていきたいと思っている? 将来の夢は?
莉子はすなおに答えた。「夢ですか......。ええと、家賃が払えるようになることでしょうか」
さらに、ブラインドタッチはできますかときかれ、窓のブラインドに触ってしまうありさまだった。
別の企業の面接では、尊敬する人は誰ですかときかれ、あれこれと考えあぐねているうちに、莉子は感極まって泣きだしてしまった。
幼いころに児童書で読んだエジソンや野口英世の生涯を思いだし、感動がこみあげたせいだった。むろん面接官にそんな思いがつたわるわけもなく、情緒不安定と判断されたらしい。採用は見送られた。
面接以上に困難が伴ったのは筆記試験だった。
浅草の呉服卸問屋業の会社は、取り扱う商品の性質から、就職試験に歴史問題がだされることが多いときいていた。莉子は準備のために歴史書を買って読んでみたが、なにも頭に入らない。当然、試験においても学習の効果はまるで発揮されなかった。
空欄を埋めよ。徳川吉宗は、家重に将軍の座を譲った後も大御所として権力を維持し、財政に直結する米相場を中心に改革を続けたことから( )将軍と呼ばれた。
正解は米将軍。莉子が自信満々に書いたのは、暴れん坊将軍だった。
吉宗だけに間違ってはいませんけどね、と面接官はしらけた顔でつぶやいた。むろん、採用の通知はもらえなかった。
持ち前の明るさは何ものにも替えがたいが、学力に難がある。率直なところ、まるで中学生のようである。よって今回、採用は見送らせていただく。そんな回答を受け取るのが常だった。
月末が近づき、莉子は最初の家賃を払うのも難しいという状況に立たされた。両親に相談しようにも、沖縄までの電話料金は高くつく。メールのパケット代すら馬鹿にはならない。どうにか自力で現状を打破せねばならない。でも、どうやって。
そんなある日の夕方、早めに帰宅した莉子がテレビを観ていると、ニュース番組の特集コーナーがふと目にとまった。
女性リポーターが告げている。「就職活動中のみなさんに、耳よりな情報ですよー」
画面に映しだされているのは、六階か七階建ての雑居ビルだった。外壁は吹き付けで、モスグリーンに塗られている。エントランスには雑多な商品が山積みになっていて、チープグッズ本店という看板が掲げられていた。
チープグッズ。テレビのCMを何度か観たことがある。大手リサイクルショップとして、都内数か所にチェーン展開している店舗だった。
東京には、莉子の知らなかった有名チェーンが数限りなく存在する。ファッションセンターしまむらは、石垣島にもあったから馴染み深かったが、チープグッズは上京後はじめてその名を知った店のうちのひとつだった。
その看板の下に立つ女性リポーターがつづける。「こちらチープグッズ本店では、新入社員応援フェアと題しまして、特別な買い取りキャンペーンを実施しているとのことですが、具体的にはどんな内容なんでしょう。チープグッズ社長の娘さんで、従業員としても働いておられる瀬戸内楓さんにうかがってみましょう」
画面の外から、もうひとりの女がフレームインした。チープグッズのロゴが入ったエプロンを身につけている。それが従業員のユニフォームらしい。
字幕は、瀬戸内楓さん(21)となっている。莉子よりも三つ年上のその女は、金髪のワンレンボブに大きな星型のイヤリングをした、一見派手なアイドル顔だった。化粧は薄く、目鼻立ちも整っていて、隣りの女性リポーターよりもずっとタレントっぽく見える。
しかし、瀬戸内楓はその外見とは対照的に、落ち着いた控えめな語り口でインタビューに応じた。「当店に買い取り希望の品物を持ちこんでいただいたお客様のなかで、この春に就職される方に限り、社長みずから面接をおこないます。将来の夢や希望、就職への熱意を語っていただくことにより、品物を特別に高値で買い取らせていただきます」
女性リポーターが笑顔でたずねる。「チープグッズさんに就職するための面接、というわけではないんですね? あくまで、どこかの会社に就職がきまっている方が対象であると」
「そうです。熱意ある若い方々をサポートするというキャンペーンです。明日が最終日ですので、まだの方はぜひお越しください」
「社長さん......というか、楓さんのお父様は、ボランティア精神旺盛な方として有名ですしね。以前にも定年退職された方々を対象に、面接を開いて第二の人生への抱負を語っていただき、今回と同じく品物の高価買い取りを実施したことがありましたね」
「ええ」楓はうなずきながら、やや当惑したような笑みを浮かべた。「父の趣味みたいで......。ぜんぜん儲けがでないので、はっきりいってやめてほしいんですけど」
まあそんなことおっしゃらないで。女性リポーターが笑って受け流す。テレビの画面のなかは、終始なごやかな雰囲気に包まれていた。
莉子の心境は違っていた。全身に緊張が走る。闘志がたぎりだした。
画面の隅、チープグッズのエントランスの端に、旅行用トランクがいくつも積んであるのが見える。中古品のトランクを買い取り、販売しているらしい。
思わず靴脱ぎ場のトランクに目が向く。引っ越しには必要不可欠だったが、もはや生活に不自由さをもたらす邪魔なしろものでしかない。
このトランクのほか、いくつかの不用品を買い取ってもらえば、生活費の足しになる。まだ就職は決まっていないが、情熱だけは誰にも負けない自信がある。それを社長に伝えられたら、高値での買い取りも期待できるかもしれない。
こうしてはいられない。莉子はトランクをフトンの上に横たえて開き、古着の選別に入った。いる服といらない服を、直感を頼りにすばやく分けていく。
東京での生活、それはサバイバルにほかならない。降って湧いたチャンスを逃がしてはならない。当面の生活費、絶対にこの手につかんでみせる。もしここで挫折するようなら、島の人たちを幸せにするなんて夢のまた夢だ。
チープグッズ
翌日の昼さがり、莉子は不用な古着や雑貨を詰めこんだ旅行用トランクをひきずって、井の頭公園にほど近い都道七号沿いに歩きつづけた。
吉祥寺駅をでてからもう一時間近く経つ。駅から徒歩十五分という案内は間違いではなかろうか。いや、この道はさっきも通った気がする。まっすぐに目的地に向かっているかどうかと問われれば、自信はない。
さんざん迷ったあげく、ようやく道沿いにモスグリーンの雑居ビルを見つけた。テレビで観たのと同じだ。両隣りに民家がほぼ隙間なく迫っているせいで、やや小ぶりに思える。チープグッズ本店の看板、エントランスを埋め尽くす商品の山も、ニュースで映しだされていたとおりだった。
近づくと、貼り紙が目に入った。高価買取面接に来られた方は、裏におまわりください。そう書いてある。
わき道を入って裏路地に入る。そのとたん、莉子は衝撃とともに立ちどまった。
ビルの裏手は大混雑だった。莉子と同じか、いくつか年上の男女が群れをなしている。みな真新しいスーツを身につけていた。すでに社会人になっているという余裕からか、連れと談笑していたり、缶コーヒーを傾けたりする姿が目につく。
莉子は思わず胸もとに手をやった。コートの下に、就職活動用のスーツは着ている。ヘアスタイルもメイクもそれなりに気をつかってきたつもりだ。それなのに、ここに集っているほかの人々とわたしとのあいだには、かなりの隔たりがあるように思える。誰もが一様に大人に見えた。わたしはといえば、まだ高校生気分の抜けない無職女にすぎない。
恐れていてもはじまらない。莉子は旅行用トランクの埃をはらってから、群衆のなかに突き進んだ。
混雑の中心にいたのは、エプロン姿の男性従業員だった。若くして額の禿げあがったその従業員は、差し伸べられる無数の手に対し整理券を配る作業に忙しかった。
莉子は人垣に身体をねじこんで、整理券をもらおうとする人々の輪に加わった。従業員は怒鳴っていた。「券を受け取ったら倉庫のなかで待っていてください。番号が呼ばれたら、すみやかに事務室に入ってください」
やっとのことで整理券をつかみとるや、後ろから続々と争奪戦に加わってきた人々によって、莉子は反対方向へと押しだされた。混雑から抜けだした。そこでようやく、チープグッズ本店ビルの裏手を、はっきりと目にすることができた。
一階部分がくり貫かれ、ガレージ兼倉庫となっている。シャッターはあがっていて、壁ぎわにダンボールが積みあげられている。商品のバックストックらしい。
ガレージには一台の冷凍トラックが停まっていた。窓のない荷台の後部ドアが開いて、さっきとは別の男性従業員が姿を現した。フォトスタジオで用いるような傘つきの照明スタンドを、荷台から運びだしている。傘には霜が付着して真っ白になっていた。
従業員は、ビルの半開きの扉のなかに怒鳴った。「おい誰だよ。こんなの冷凍車に載せたのは!」
どうやらちょっとした混乱状態のようだった。ふだんの業務に加えて、大勢の客を面接に迎えているのだから、従業員は目のまわる忙しさだろう。
トラックのわきにはパイプ椅子が並べてあって、面接希望者らしき若い男女が座っていた。ほとんどが携帯電話を手に暇つぶしをしている。メールかワンセグか、どちらにしても料金の支払いが気になる莉子に真似できることではなかった。
いちばん端の席に腰を下ろす。隣りに座っていた女は、大きな紙袋を足もとに置いていた。なかには携帯ゲーム機とソフトがのぞいている。それが彼女の売りたい品なのだろう。ちらと背後を振りかえると、若い男が膝の上でスーツケースを開けている。中身はノートパソコンと貴金属類だった。
ふたたび自信が失われていくのを感じる。沖縄の伝統工芸の紅型や、BEGINのTシャツを含むわたしの荷物に値などつくのだろうか。缶入りのドラゴンフルーツと箱詰めのサーターアンダギーは、食べずにとっておけばよかった。
そわそわした気分で辺りを見まわす。すぐ近くに据えてあるカラーボックスに気づいた。なかには古本がぎっしり詰めこまれている。ご自由にお読みください、の貼り紙もある。
売るに売れない薄汚れた本をひとまとめにして、面接を待つ人のために提供してあるらしい。莉子はそのなかから一冊を選び引き抜いた。『ハリー・ポッターと賢者の石』だった。
流行っているのは知っているが、活字の本には興味がなくて読んだことはなかった。開いてみると、文字も大きくて読みやすい。いい機会だから目を通しておこう。これで今後は、就職の面接で好きな本を問われたときに、困らなくて済むかもしれない。
ホグワーツ魔法学校での冒険の日々にどっぷりと浸かっている莉子の耳に、女の声が飛びこんできた。「すみません。ちょっと」
わたしを呼ぶのは誰。そんな素朴な疑問が頭をかすめる。戻りたくない、現実の世界に、このままずっと魔法世界に浸っていたい......。
「ねえ」女の声は苛立たしげな響きを帯びていた。「お客さん! 面接に来たんでしょ?」
はっと我にかえった。そうだ、わたしは面接に来ているはず。ここはたしか......。
顔をあげると、倉庫のなかだった。チープグッズ本店、ガレージ兼倉庫。けれども、さっきまでとはなにかが違う。
周りのざわめきは、いつしか消え失せていた。倉庫にも、それに面した裏路地にも、もはやひとけはない。陽はずいぶん傾いていて、茜いろに染まった空が見えている。カラスの鳴き声。どこか遠方の学校から聞こえてくる、下校時間を告げる『夕焼け小焼け』のメロディ。
停まっていたはずの冷凍トラックも姿を消している。がらんとした倉庫に、そよ風が吹き抜ける。無人のパイプ椅子が連なるガレージ兼倉庫。いまだ腰かけているのは莉子ひとりだけだった。
すぐ近くに立って、こちらを見おろしている女の顔を、ぼんやりと眺める。従業員用のエプロンを着たその女には見覚えがあった。きのうのニュースで観た。社長の娘とか。たしか楓......。そうだ、瀬戸内楓という人だ。
でも、なぜだろう。楓の顔はなぜか判然とせず、しきりに揺らいでいる。視力は悪くないはずなのに。
楓は妙な顔をしてつぶやいた。「なんで泣いてるの?」
泣いている......わたしが?
莉子はようやく、自分が涙ぐんでいるのに気づいた。視界がぼやけているのはそのせいだ。
あわてて指先で目もとをぬぐいながら、莉子はいった。「ごめんなさい......。なんだか泣けてきちゃって。ハリー君のご両親が......」
「ハリー君?」楓は眉間に皺を寄せ、莉子の膝もとの本を眺めた。「まさか、本に夢中になってたとか?」
「そうかも......。最初、ハリー君が可哀相すぎて読むのをやめようかと思ったんですけど、あのホグワーツに向かう列車に乗ってから、人生が三百六十度変わって......」
「一回転して元どおりじゃん。百八十度でしょ」
「ああ......そう。そうですね。とにかくすごくのめりこんじゃって......」
「お客さん」楓は呆れ顔だった。「いまさら古本読んで感動するためにここに来たんですか?」
「あ、いえ。面接受けようと思ってたんですけど。このトランクと、中身を買い取ってもらいたくて」
「整理券は?」
莉子は戸惑いがちに、手にしていた番号入りの紙片を差しだした。
楓はそれを受け取り、ため息をついた。「この番号かぁ......。ずっと前に呼んだのに返事がなかったから、すっ飛ばした番号じゃん。ねえ、お客さん。周りを見てよ。もう面接、終わったんだけど」
「え......。あ、あのう。すみません。ごめんなさい。......もう、いまからじゃ無理ですか?」
「そういわれてもね......。買い取り用のレジも締めちゃったし」
するとそのとき、落ち着いた男の声がした。「どうかしたのか」
ガレージの奥からでてきたのは、作業服姿の中年、いや初老に近い男性だった。体型はスマートで長身、白いものがまじった頭髪はウェーブがかかっていて、きちんと七三に分けてある。見た目から推察できる歳のわりに、背筋はまっすぐに伸びて、足どりも力強い。作業服の下に着たワイシャツの襟もとには皺ひとつなく、ネクタイにも歪みはない。身だしなみに気をつかう性格であることが、ひと目でわかる。
男は近くまで来て、こちらを見おろしてきた。渋い顔つきに穏やかで涼しい目、端整な顔だちだった。まっすぐに横一文字に伸びた口もとに、誠実さがにじみでている。
ネームプレートには、瀬戸内陸と書かれている。するとこの人が......。
「お父さん」と楓が男にいった。「この人、本に夢中になって、呼ばれてるのに気づかなかったんだって」
「こら」男は微笑を浮かべた。「店ではお父さんじゃなく社長だろ」
「あ、はい。社長。......面接は五時までって決まってたし、もう受け付けは終了したって説明してたんですけど......」
チープグッズ社長、瀬戸内陸の目が莉子に向けられた。「きみ、名前は?」
莉子はあわてながら立ちあがった。「凜田莉子といいます。波照間島から上京してきました」
「ほう、波照間ね......。ずいぶん遠くからきたんだね。それで、いまはどこに勤めてる?」
「ええと......それが、そのう......。まだ決まってなくて」
「はぁ?」楓が情けない顔になった。「それって、無職ってこと? きょうのキャンペーンの趣旨、ちゃんと理解してる?」
「まあ待て」瀬戸内陸が娘を制して、莉子にきいてきた。「で、買い取ってほしい物は?」
「ここにあります。このトランクと、中身の服とか生活用品とか......」
ふむ、と瀬戸内社長は顎をなでた。「いいだろう。なかに入りなさい」
楓は咎めるようにいった。「お父さ......いえ、社長」
「いいじゃないか。読書に夢中になるのも悪いことじゃないんだし。困ってるときはお互いさまってのが、このキャンペーンの合言葉だ。何度も説明したろ?」
「同情しすぎて、この人を雇うなんていいださないでよ。人件費も節約しなきゃいけないんだし」
「話し方がお母さんに似てきたな」瀬戸内は肩をすくめ、歩きだした。「さあ、凜田さん。こっちだよ」社長が奥の戸口に向かっていく。仕方がない、と諦めの表情を浮かべた楓は、ふっきれたような微笑とともに莉子の旅行用トランクをつかんだ。
「運びます」と楓はいった。「面接がんばってください。わざわざ手間をかけさせたんだから、いい結果だしてよ」
「ありがとうございます」莉子は微笑みかえした。
とりあえず、いい人たちにめぐりあえてよかった。
でも問題はこれからだ。面接。うまくいったことは一度もない。たとえ就職がかかっていなくても、本気で臨まないかぎり求めているものは得られない。全力を尽くすしかない。何をどう頑張ったらいいか、皆目見当もつかないが。
買い取り面接
牧師になる。それが瀬戸内陸の、幼少のころからの夢だった。
日曜学校での、牧師の演説に感銘を受けた。その感動が忘れられず、牧師になる道を歩もうと決心した。教会に勤めたら、善護施設を併設して、恵まれない子供たちを一手に引き受ける。それが瀬戸内の若き日に描いていた構想だった。
いくつかの教会に相談にいったが、どこも財政状態が逼迫していて、新規事業には手をだせそうにないという話だった。ならば、まずは資金を稼ぐのか先と考えて、リサイクルショップの経営を始めた。大学卒業直後のこと、いまから三十年近く前の話だ。
がむしやらに勉強して、少しずつ店を成長させ、ようやくこの歳にして直営店とフランチャイズを含め、いくつかのチェーン店を展開する企業のオーナーとなった、けれども、いまだ当初の目標は実現せずにいる。毎日の資金繰りに忙しく、儲けもほとんどでない現状においては、夢はなお夢のままだ。
原因の一端は、娘の楓が指摘するとおり、私の経営そっちのけの人助けにあるのかもしれない。そう瀬戸内は思った。
買い取り希望の品を持ちこんでくる人々は、みな一様に暗く、明日の糧を得るにも困っているようすだった。ならば思いきってサービスしてあげようと、儲けを考えずに高価買い取りを始めたのがこのキャンペーンのきっかけだった。窮状を訴えてくれれば相談に乗る。決して損得勘定ばかりに左右されたりはしない。それが、かつて牧師を志した経営者にできる唯一の善行だと瀬戸内は考えていた。
私は経営者失格かもしれない。しかし、後悔はしていない。現状でも店のほうはなんとか切り盛りできている。将来のことも考えている。会社もチェーン店も負債のもとにはならない。楓に金銭面での苦労を引き継がせることなど、あってはならない。
できる範囲で人助けをする。かつて私に道を開いてくれた牧師がそうしたように、可能な限り努力をする。それが私の信条だ。
いまも瀬戸内は、四方を書棚に囲まれた狭い事務室で、凜田莉子という買い取り希望客の話に熱心に聞きいっていた。
莉子の話しぶりはうまくはないが、彼女の外見同様、妙に人の気を惹きつけるところがある。八重山方言のイントネーションの残る莉子の言葉は、現地の風習や少女時代の思い出を情感たっぷりに表現していた。上京に至るまでの彼女の思い、そして両親や担任教師らの温かい心情に触れたこと、東京にでてからは面接や試験で苦戦していることなど、情景が目に浮かんでくるようだった。
彼女の心が澄んでいて、透明だからだろう。そう瀬戸内は思った。何事にもすなおな彼女は、皮肉やてらいを身にまとうことを知らない。ゆえにすべてが赤裸々に伝わってくる。彼女自身が意識していない、独り暮らしにともなう孤独や寂しささえも。
莉子は今回の面接のテーマである、将来の展望について熱く語っていたが、そのうち瞳が潤みだし、大粒の涙が頬をつたった。
「......で、ですからわたしは」莉子は指先で頬の涙をぬぐいながら、声を震わせていった。「どんなことでもいいから、離島の環境っていうか、そういうものを改善できる立場になりたいと思っています。どういう職業がふさわしいかは、そのうち勉強するとして、まずは社会勉強と、そのう、稼ぎのためにも、なんでもいいから仕事に就かなきゃいけないと思ってて......」
瀬戸内は片手をあげて、莉子を制した。ハンカチを取りだし、それを莉子に差しだす。
莉子は戸惑いがちにハンカチを受け取り、そっと目頭を押さえた。「すみません......」
「昂ぶる感情を抑えられないみたいだな」瀬戸内はつとめて穏やかにいった。「赤毛のアンは花を摘むのに夢中になって日曜学校に出席するのを忘れたが、きみも同じ性格のようだ」
「ああ......。それならアニメで観ました。そうかもしれません」
「就職活動中なんだろう? 面接だけじゃなく試験もあると思うが、勉強のほうははかどっているかね?」
「それが」莉子は視線を落とした。「頭が悪いし......。難しいことは覚えられないし。参考書を広げると、すぐに眠くなるし」
「すなおに自分の欠点を認められるのは偉い。でも、頭が悪いってことはないだろう。きみはどうも、勉強のやり方を間違っているみたいだ。というより、やり方を知らないといったほうが早いかな」
「やり方......?」
「覚えるのが苦手といっていたけれど、覚えられないんじゃなくて、覚え方を身につけていないんだと思う」
「鳴くよウグイス平安京とか?」
「それはごろ合わせだろ? もっと基本的なことだよ。教科書に書いてあることを、どう頭にしまいこんでいいのかわからない」
「そうかも......。いろんなことに気が散っちゃって」
「まさにそこなんだけどね。きみはひと一倍、感受性が高いようだ。どんなことにでも感動する人といっていいと思う。たしかにこの世のあらゆるものは、見方によってはすべて素晴らしく驚異的であることは否定できない。きみはその本質に絶えず驚きをもって接し、存在を確認するたびに心をこめずにはいられない」
「はあ......。そうなんでしょうか」
「私が思うに、高い感受性を持つきみのような人は、暗記が大の得意になるはずなんだ」
「え......?」莉子は目を瞠った。「わたしがですか?」
「そうとも。私も三流大学出なので偉そうなことはいえないが、いまになって思えば、受験勉強は思春期の終わりの多感なときにあって正解だと思う。感受性の高さが記憶力の高さにつながるからだ。感動を伴う記憶は強い印象を残すんだよ。もっとも、私がそれを学習に応用できるようになったのは、社会人になって以降のことだけれどね」
「おっしゃることがよくわからないんですけど......」
「きみは、学習しようと机に向かうときには、努めて冷静でいようとしているんじゃないかね? いろんなことに感動する本来の自分を抑えて、クールで理知的な人間でいようとしているんだと思う。けれども、それは間違っている。教科書を読むときには、いつものきみでいることだ。つまり、書かれている内容に感動すべきなんだ。この公式はよくできているなぁとか、なるほどとか、考えた人はすごいとか、どんなことでもいい。自分のすなおな感情に身をまかせることだ。さっき本を読んでいたときのようにね」
「教科書読みながら感動......ですか?」
「ああ。難しく考える必要はない。きみの溢れんばかりの情動に従えばいい。感動といっても泣くことばかりじゃないよ。喜怒哀楽、なんでもいいから強い感情を得ることだ」
「でも、教科書も読んで楽しいところばかりじゃないし......。覚えようとしなきゃ覚えられないと思いますけど」
「まさしくそうだ。それでも、記憶に感動を伴わせるのを忘れないように。そして、四割ほど忘れたころに、もういちど同じところを学習すること」
「四割?」
「エビングハウスの忘却曲線とか、記憶に関する本を読みかじったうえで実践してみて、私の納得のいったやり方だ。このさい理屈は省こう。五個覚えたうち、ふたつほど忘れてるなぁと思ったら、復習する。いいね? 五のうち二忘れたら、だ」
「うーん」莉子は唸った。「このあいだ、就職試験に備えて歴史の本を買ったんですけど、五のうち二どころか、最初からさっぱり覚えられなくて」
「においを思い描くことだ」莉子は妙な顔をした。「においって?」
「歴史本に書かれたいろんな情景を想像しながら、そこに漂うにおいを嗅いだ気になるんだよ。すると感動しやすくなる。これも新聞記事の受け売りの知識だが、においと感情は身体上の機能だとか構造の面で密接な関わりがある。脳のなかで、嗅覚をつかさどる嗅脳という部位は、感情をつかさどる情動脳と重なっているそうだ。嗅脳は情動脳の発達に貢献をしてきたと考えられている。においを想像すれば、感情が刺激され、そこに付随するあらゆる事柄が記憶に残りやすくなる。鼻はきくほうかい?」
「ええ、ふつうには......。犬ほどじゃないと思いますけど」
「一般的に女性は、男性と比較して嗅覚が均質的で、そのぶん感情のシグナルに敏感だといわれている。きみには向いているはずだよ。想像できるにおいが心地よくても不快であっても、とにかく嗅いだ気になることだ」
これらは、ただの屁理屈ではない。瀬戸内の経営者としての人生において、知識と実践が重なりあって醸成された理論だった。
瀬戸内は思った。私はいまでも日曜学校の牧師の話を忘れていない。その語り口から、周りの大人たちの反応、教会にただよう香のかおりさえも、しっかりと頭に刻みこまれている。
三十代のころ、師走にその一年を振り返って決算書を作成するとき、強い情動を感じた出来事と、その前後に見聞きした事柄についてのみ、克明に想起できることに気づいた。そして、それらには必ず、においの記憶が伴っていた。においがきっかけになって情景を蘇らせることも多かった。
事業が急拡大していくなか、膨大な商品の仕入れリストを頭にいれることになんら苦を感じない。すべては、感情と記憶の結びつきを知ったがゆえのことだ。体感し、実践してきたからだ。
凜田莉子にも同じ素質がある。いや、彼女の場合はもっと途方もない才能を発揮する可能性がある。彼女の感受性は、私などよりはるかに高いのだから。
莉子の目が輝きだした。「わかりました、やってみます。......でも、教科書って覚えることがたくさんありますよね? 人や物の名前だけでも無数にあるし」
「三つずつ分岐するように覚えることだ。前頭葉が扱いうる物事の区分から考えると、三分割が最も適している。どんなことでもまず、三つのグループに分ける。次に、それぞれの先に三つの分岐をつくり、さらにその先も......という具合だな。歴史だとか地理だとか、どこで三分割するかは自分で決めればいい。なんにせよ、三つに分岐するパラグラフを構成していけば、記憶も想起もしやすくなるものだ」
しばらくのあいだ、莉子は難解な説明を理解しようと神妙な顔で黙りこくっていたが、すぐにあっけらかんとした表情に戻ると、笑顔でうなずいた。「ありがとうございます。やれる気になりました」
......だいじょうぶだろうか。ふと不安になる。いや、この切り替えの速さは、彼女のポジティブな性格の一端だろう。本質的に、彼女は頭のいい女性のはずだ。きっと結果をだせるに違いない。
莉子は腰を浮かせた。「じゃあ、帰ってさっそく実践してみようかな」
「......買い取りは?」
「あ、そうだった......。忘れてました」
ばつの悪そうな顔をした莉子を見て、瀬戸内は思わず笑った。ひとつのことに集中するとほかが目に入らなくなる。もう目的を忘れてしまっているとは。
「ええと」莉子は旅行用トランクを開けようとした。「中身は半分ぐらいが古着で......。洗濯してアイロンはかけてあるんですけど......」
「いいんだよ。開けなくとも。ちょっと待ってなさい」
瀬戸内は立ちあがった。書棚のひとつに向かうと、一番端のファイルを引き抜いた。長年、へそくりを隠すのはここと決めてある。
封筒に入った五万円。瀬戸内はそれを、莉子に差しだした。
「奨学金だよ」瀬戸内はいった。「持っていくといい」
「え!? でも、買い取りの品を見ていただいてからのほうが......」
「商品の鑑定はまだこれからだよ。いちおう担保として預かっておくけどね。そうだ、一緒にこれらも持っていってほしい」
部屋の隅で埃をかぶっていた古本のなかから、高校生向けの参考書や問題集を手当たりしだい引き抜く。日本史、世界史、地理、生物、化学、古典、現代国語。教科にやや偏りがあるが、いまはこれぐらいでいいだろう。
瀬戸内は莉子に告げた。「きょうから、テレビのニュースは欠かさず観るようにね。社会勉強になる。それと暇を見つけて、これらの参考書で学習するといい。就職試験にも役に立つし、面接のときに話す言葉にも違いがでてくるだろう。あるていど勉強が進んだら、どこかに就職できようができまいが、ここに来るといい。学力が一定水準以上になっていたら、きみの持ち物をより高く買ってあげよう」
莉子は驚きのいろを浮かべていたが、しだいにその大きな瞳に喜びがあふれていった。
「本当にありがとうございます、瀬戸内さん......」
「さあ、急いで帰りなさい。きみがさっき話してた大家さんへの支払いの件、一刻も早く済ませたほうがいいだろ」
「......そうでした。瀬戸内さん、このご恩は一生忘れません。かならず、近いうちにここに戻ってきます」
じゃ、気をつけて。瀬戸内はドアを開けて、莉子を送りだした。
ドアの向こうは商品棚が並ぶ店内だった。莉子は何度も振りかえり、しきりに礼を口にしながら、エントランスのほうに消えていった。
入れ替わるように、楓が歩いてきた。楓はため息をついていった。「儲けにならないことはやらないって約束だったのに」
「買い取りはまた今度だよ。レジも開けてない」
「へそくってあった五万円のことなら、とっくに気づいてたんだけど」
「ばれたか」瀬戸内は苦笑いを浮かべてみせた「どうしても応援してあげたくなってね」
「そればっかり。きょう一日だけで、何十人のお客さんにサービスしたと思ってんの? 出費ばかりで大赤字。買い取った物はどれも、たいして売れそうにないガラクタばかりだし」
「いいんだよ。またほかで頑張って稼ぐさ。それでだめなら、私の給料を削る。ああ、もちろん楓のぶんは減らしたりしないよ。従業員の給料は減らさない。バーゲンセールを駆使して、今月中に損失は取り戻すさ」
「無理しちゃって」楓は悪戯っぽく笑った。「いまの凜田莉子って子に大盤振る舞いしたのは、美人だったから? 再婚相手には若すぎると思うけどねー」
「馬鹿をいうなよ」瀬戸内は頭をかきむしった。「故郷の島のために、右も左もわからず上京してきた子だよ。少しぐらい道をしめしてやる大人がいてもいいだろ?」
きょう伝えたことが、凜田莉子にとってどれくらい役立つかはわからない。彼女の能力は未知数だ。それでも、彼女が道を踏み外さず、希望に満ちた将来を歩んでいけるのなら、五万円は高くはない。
牧師にはなれなかったが、人として正しくありつづけたい。若者の明日を信じ、必要とあれば手を差し伸べていこう。それが、しがないリサイクルショップ経営者にできる最良のことだ。
未来
春の日の午後のわりには強烈な陽差しが降り注ぐ。まるで真夏のようだ。
小笠原悠斗はネクタイを緩め、重い足をひきずって歩いた。喉はからからに渇き、身体もひどく重い。めまいがする。砂漠にひとり取り残されたかのようだ。
足がふらつき、倒れこみそうになる。思わず手を伸ばした電柱に、小さな相撲取りの顔が並んでいた。
......力士シールか。ひさしぶりだな。
懐かしさすらこみあげてくる。万能鑑定士Qという店の鑑定家、凜田莉子と出会うきっかけになった力士シール。あれから何日経っただろう。よく考えてみれば、わずか一週間か。ずいぶん昔のことに思える。遠い過去の記憶のようだ。
世のなかがそれだけ激変したからだろう。そう、いうなればあれはひとつ前の時代の出来事だった。歴史の節目は、ふいにやってきた。いまの日本は、数日前までのわが国ではない。経済大国の神話は崩れた。長きにわたる平和は打ち砕かれた。
力士シールの謎。そんなものは、もうどうでもよくなっている。こんなささいな事象を追いかけていたころが懐かしい。世はそれだけ安泰だったという名残にほかならない。
いまは違う。かつての秩序は存在しない。新しい社会の風潮をなんと呼べばいいのだろう。ニヒリズムか、それともアナーキズムか。なんでもいい。マスコミも力を失っている。批評を言葉に変えるメディアは、いまや意味をなさない。
『週刊角川』も休刊した。事実上の廃刊だろう。もうあの社屋に足を踏みいれることはないかもしれない。制度のうえでは社員であっても、出社の義務はなきに等しい。給料を受け取ろうとも、秩序の崩壊した世では、なんの意味もなさないからだ。
資本主義社会のすべてを支えてきたシステムが消失した。いまの日本はまさに無法地帯だ。
けたたましい音が鳴り響く。警報だった。小笠原が歩いていた国道沿いの歩道に、中年男の叫び声がこだまする。泥棒だ。つかまえてくれ。
ガラスの割れる音がして、コンビニの店頭に無数の透明な破片が飛散した。目だし帽をかぶった男が駆けだしてくる。手にしたバッ卜を振りかざしていた。通行人たちが悲鳴とともに左右に避ける。店主の呼びかけにもかかわらず、泥棒の行く手を遮ろうとする者はいなかった。
小笠原も傍観者のひとりだった。泥棒の気持ちは痛いほどわかる。走り去る彼が小脇に抱えていたのは弁当とカップラーメン、缶コーヒーだ。遅い昼にありつこうというのだろう。許されることではないが、同情はする。事実、腹がへってきた。めまいは暑さのせいばかりではないらしい。
店主は泥棒を追いかけて歩道にでてきたが、別の客による略奪を恐れたからだろう、そそくさと店内にひっこんでいった。
パトカーのサイレンの音はひっきりなしに聞こえているが、距離はずいぶんありそうだった。いまの泥棒がつかまる可能性も低いだろう。警察への出動要請は絶え間なくあるらしいが、一一〇番はひどくつながりにくくなっているときく。所轄警察の通信指令室は停電しがちだと報じられていたし、そもそも警官の出勤率が著しく低下しているからだった。
駅前の商店に群がる人々は、泥棒のことなど眼中にない。高齢者の客を中心に、店の従業員と押し問答に忙しい。
そこかしこで怒号が飛び交っている。激昂し、つかみかかる者もいる。大地震に被災した後でもレジ前に整然と並ぶことで知られた日本人が、ついに怒りを爆発させていた。
無理もないと小笠原は思った。ファストフード店の貼り紙が、状況を物語っている。
チーズバーガーセット、おひとりさま三万二千円。てりやきバーガーセット、五万五千円。お金をお持ちでない方は入店せずお引き取りください。そう大書してある。
車道を行き交うクルマの数は極端に少ない。ほとんどが緊急車両だ。セダンの高級車もときおり見かけるが、よほどの大金持ちなのだろう。それに、いい度胸をしている。いつ暴徒に襲われるか、わかったものではないというのに。
駅前のロータリーでは、空腹のせいか座りこむ人々の姿がある。ホームレスではない。きわめて身綺麗な、つい数日前までなんの問題もなく過ごしてきただろう社会人たちが、途方に暮れて項垂れている。
タクシーは放置車両も同然だった。三角窓に記された初乗り料金の上にガムテープが貼られ、新たな料金に訂正してある。初乗り、四万五千円。むろん利用客などいない。運転手は強盗を恐れてか、クルマに施錠をして姿を消している。何台かのフロントガラスは割られていた。被害届すらだしていないのか、その状態のままロータリーに駐車してある。
なりふりかまっていられなくなったのか、一部の人々はゴミ箱をあさりだしていた。その隣りでは、拾い集めたとおぼしき雑誌類を路上に並べて売っている人がいる。『週刊少年ジャンプ』の今週号はぼろぼろになっていたが、六万円の値がついていた。ここでも商品を持ち去ろうとする客と、店主のいざこざが起きている。あこぎだ、と怒鳴る声が小笠原の耳にも届いた。
小笠原は周りの人々と同様、黙って通り過ぎた。もう俺は雑誌記者ではない。どこの誰が雑誌を商品として扱っていようと、関心を持つには至らない。
駅舎に入り改札前に近づくと、そこにはさらに腐敗した光景が広がっていた。
いまだ料金を値上げしないJRの駅には、異常ともいえる数の乗客が押し寄せごったがえしていた。清掃する者のいない床はごみがあふれ、まるでインドのようだ。
ATMにも長い列ができていた。先頭の男が怒鳴り声をあげている。「なんでいまだに限度額が二十万円なんだ。これじゃ弁当三個しか買えやしねえ!」
駅舎の反対側の出口前には、迷彩服の自衛隊員の姿があった。大きなタンクを備えたトラックが停まっている。飲料水の配給用車両だろう。自衛隊員は声を張りあげていた。きょうの配給は終了しました。次の配給は明日の午後一時からです。
からのバケツを持った主婦らしき女が自衛官に食ってかかる。朝から並んだのに、そう怒鳴っている。主婦に加勢する一般人の群れがたちまち膨れあがる。自衛官らも続々と集まってきて、騒動の鎮静化をはかろうとしている。
どこに目を向けても争いばかりだ、まともといえる人の営みはどこにもない。
いや、現実には、こういう光景は地球上のいたるところにあった。ただ、この国には無縁と思われていた。それだけの話だ。よく考えてみれば、それら貧しい国と地続きの世界に生きている以上、こうなる可能性は常にあった。日本人が豊かな暮らしをつづけられる保証など、最初からありはしなかった。金持ちが一夜にして財産を失うことがあるように、金満国の没落もありうる。
日本はそうなった。治安も秩序も失われ、アジアの極貧国と化した。足もとをハンカチが舞っていた。色鮮やかな刺繍入りのシルク。小笠原はその場に膝をつき、ハンカチをつかんだ。
有名な輸入物のハンカチだった。柄は記憶しているが、どこのブランドかは判然としない。エルメスだったが、それともヴィヴィアン、ラルフローレンか......。
凜田莉子なら、すぐに答えをだすだろう。いまの彼女なら、このハンカチにどれくらいの値をつけるだろうか。
尋ねてみようにも、それはかなわなかった。万能鑑定士Qの店舗は、シャッターに閉ざされている。彼女の故郷、波照間島に帰ったのだろう。つぶらな瞳が魅力的だった莉子。いま、彼女はなにを見つめているのだろう。どんな思いがよぎっているのだろうか。
ひとつだけはっきりしていることがある。すべては過去だ。遠き前時代の思い出。二度と戻らない日の出来事......。
ひときわ強く吹きつけた風が、小笠原の手からハンカチを奪いとった。ハンカチは無数の紙くずとともに駅舎のなかを舞い、雑踏のなかに消えていった。
北まくら
この春まで沖縄の高校生だった、十八歳の凜田莉子は、学校ではほとんど勉強をしてこなかったらしい。しかし、その学業の遅れも今年じゅうには取り戻すだろう。
チープグッズ社長の瀬戸内陸は、本店の事務室で莉子の二度目の面接をおこないながら、その確信を深めていた。
白のワンピースにベージュのカーディガンを羽織って現れた莉子は、以前よりも都会的であかぬけたように見えた。知性は外見に影響を及ぼす。前とは違い、新たに獲得した知識を披露する彼女は堂々としていて、まさに異彩を放っていた。
莉子は、瀬戸内が質問した歴史の問題に答えていた。壁ぎわに立ち、マリー・アントワネットの生涯について雄弁に語った。「......ので、彼女はルイ十六世の即位を受けてフランス王妃となりました。一七七四年のことです。その後の彼女はベルサイユの伝統的な儀式や、堅苦しい習慣を簡素化していきます。それまで誰も王妃に物を直接手渡しできなかったのが、ルイ十六世の即位後は可能になったんです。ほかにも朝の接見にまつわる複雑な儀礼が、きわめてシンプルな段取りになりました。かつての王妃は......」
その語り口は、前回の面接で彼女の上京に至るまでの過程や近況を話してくれたときと同じく、情緒豊かなものだった。一言一句に心がこもっていて、すべての知識になんらかの感情が伴っているのがわかる。王妃の結婚生活を語るときには顔がほころび、パリ市民の中傷がひどかった旨を口にするときには神妙な表情になった。莉子は、参考書を楽しんで読んだに違いなかった。彼女は学習という重圧から解放され、自由な情動とともに情報を吸収するすべを身につけた。
たいしたものだと瀬戸内は内心、舌を巻いた。前回の面接からわずかひと月。感情を伴う記憶というヒントたったひとつで、彼女は大きく変わった。まるであらゆる知識を吸い取るスポンジのような頭脳だ。
莉子はマリー・アントワネットの演説をしめくくろうとしていた。「亡くなった彼女の遺体は、夫ルイ十六世と一緒に、共同墓地となっていたマドレーヌ寺院に葬られました。けれどもその後、彼女の名誉は時とともに回復し、二十二年の時を経て、サン=ドニ大聖堂へと改葬されました。ナポレオン一世の命令によるものと記録されています」
しばしの沈黙のあと、莉子はわずかにこわばった微笑を浮かべて、小声でつぶやいた。
「終わりです」
瀬戸内は拍手をした。
「素晴らしいよ」と瀬戸内は心からいった。「あの小難しい歴史の専門書も、きみにかかると楽しい読み物になりうるんだな。たいしたもんだ」
「......どうも」莉子は恐縮したように、小さく頭をさげた。「瀬戸内さんが指導してくださったおかげです」
知性が備わるとともに、性格も控え目になってきたらしい。以前よりはずっと大人っぽくなったように思える。
けれども、彼女の学習法にはまだ多くの課題がある。瀬戸内は告げた。「ひとつ別の質問をしてみたい。ずっと簡単なことだけどね。首都圏、一都六県をすべて挙げてくれないか」
とたんに、莉子はあわてたようすで口ごもった。「ええっと......あのう......。東京都、ですね。それから横浜県......」
「神奈川だろ」瀬戸内はため息をついてみせた。「地理の参考書も渡したはずだろう?」
「すみません......。最後まで読んだんですけど、頭に入らなくて」
「テレビのニュースは観ているかい?」
「はい。いちおう」
「最近はどんなことがあった?」
「フロリダにハリケーン〝カトリーナ〟が上陸しました。ローマ法王ヨハネ・パウロ二世が亡くなり、新ローマ法王ベネディクト十六世が即位しました。マイケル・ジャクソンは裁判で無罪判決を......」
「ストップ。そこまででいい。じゃあ生物の参考書に載っていた問題だけど、リンネが考案した階層を五つ挙げてくれないか」
莉子は困り果てた顔で、大きな瞳をしきりに左右に移動させて考えあぐねていたが、やがてささやくようにいった。「ごめんなさい......」
「謝ることはない。当然のことなんだ。私はきみに、喜怒哀楽を感じながら覚えろといった。歴史やニュースのように、物語性に溢れた事象が暗記事項になっていれば、これはたやすい。問題は、ただむやみに名称や記号を頭に叩きこまねばならん場合だ。いいかな。そういうときには、どこか身体の場所に当てはめて覚えるといい。五つなら、五本の指がある。さっきの問題の答えだけど、界、綱、目、属、種だ。親指を界、人差し指を綱......というように、それぞれ対応させればいいんだよ。そうすれば、指を見るだけで思いだせるようになる」
莉子は深刻な顔になった。「そうでしょうか......。ごろ合わせにもなっていないのに、当てはめる意味があるんでしょうか?」
「それが、あるんだよ。脳の海馬には〝場所ニューロン〟ってものがあるそうだ。この場所ニューロンはその名のとおり、場所の記憶を司る。場所の記憶は動物にとって重要だ。だから、長期記憶に保存されやすい性質を持っている。ごろ合わせでなくても、場所に当てはめて記憶することで、忘れにくくなるんだ」
「はあ、そうなんでしょうか......」
「私は陳列棚の商品を場所とともに記憶してる。日々実感することだよ。きみは地理も苦手のようだけど、脳に場所ニューロンの働きがある以上、地図は絶対に覚えられる。そこに住む人の感情も想像しながら覚えるといい。そして、場所に関係しない暗記事項は、なんでもいいから場所に当てはめることだ」
しばし莉子は目を閉じ、指導内容を頭に刻もうとしているようだった。やがて目を開けると、にっこりと微笑んでうなずいた。「やってみます」
「その意気だ。ところで、就職はまだ決まっていないのかな?」
「はい......。だんだん求人も減ってきてて」
「あわてずにこつこつやることだ。夜はよく眠れているかね? 勉強のしすぎもよくないよ」
「眠りは浅いかもしれません。アパートの部屋が狭くて、靴脱ぎ場のほうに頭を向けてるから......。廊下の足音で目が覚めたりもします」
「なら逆向きに寝ればいいだろう」
「そうすると北まくらになっちゃうんです」
瀬戸内は膝を叩いた。「なおさら、そのように寝るべきだ」
「え? 北に頭を向けて寝るんですか?」
「ああ。頭が北に向いていれば、地球の磁気を脳に取りこみやすくなる。頭がよくなるともいわれているし、安眠にもつながる」
「それって本当でしょうか?」
「さあね。昔、予備校の先生にきいた話だ。受験勉強に必死だったころには、なんでもやってみようって気になったもんだ。......ところで、きみの持ちこんだ品物だけどね」
莉子はふいに緊張した面持ちになった。「どう......でしたか? 値段のほうは......」
「旅行用トランクが一万、古着が二万、雑貨が三万。しめて六万で買い取らせてもらうよ」
「ほんとに?」莉子は喜びをあらわにした。「やったぁ! ......でも、だいじょうぶなんですか。そんなに高く......」
「心配はいらないよ。バラでは価値が低くても、テーマ別にまとめれば魅力的な商品になる。旅行用トランクは、在庫の旅グッズと一緒にしてセット販売する。沖縄がらみのTシャツや小物は沖縄コーナーに陳列する。収支トントンにはなるよ」
「だけど、儲けがでないことには困るでしょう?」
「高価買い取りキャンペーンの一環だよ。私が好きでやっていることだから、きみは不安にならなくてもいいんだよ。もっとも、高く買い取った物はそれなりに高い値をつけて商品化するから、なかなか売れなかったりもするけどね」
「瀬戸内さん......。申しわけありません。わたしのために......」
「面接で高価買い取りをしたお客さん全員に対してやってることだ。とにかく、一日も早くいい職場に就職できるように、勉強頑張ってくれ。応援してるよ」
「はい。本当にありがとうございます、瀬戸内さん」
「前に五万円渡しているから、ええと」瀬戸内は、レジを開けて一万円札を一枚引き抜き、莉子に渡した。
莉子はそれを受け取り、深々と頭をさげた。嬉しさのあまり、涙がにじんだらしい。目もとを指先でぬぐって、さらに何度も礼を口にしながら、事務室を後にしていった。
その姿を見送りながら、瀬戸内は思わず顔がほころぶのを感じた。
若者の成長を見届けるのは、気分がいい。なにより彼女は、私の助言を実践し、学習に生かしてくれている。きっと近いうちに、素晴らしい就職先を見つけることだろう。
また買い取り額を高くしすぎてしまった。それでも後悔はない。彼女の人生はまだ始まったばかりだ。あの醇朴さはそのままに、幅広い知識を身につけてほしい。どんな分野に就職するかはわからないが、きっと第一線の人材になりうる。
その夜、莉子は枕の位置を変えた。靴脱ぎ場のほうではなく、反対側に置く。
北まくらかぁ。寝そべりながら莉子は思った。おばあは縁起でもないとしかめっ面になるかもしれない。けれども、あの社長の話が本当なら、これで少しは頭がよくなる可能性がある。そこまでいかなくても、よく眠れるだけでも儲けものだ。
仰向けに寝ながら、莉子は右手を顔の前にかざし、五本の指を眺めた。
リンネが考案した五つの階層。親指から順に、界。綱。目。属。種......。
へえ。莉子は思わず感心した。覚えているものだ。
場所に絡めて名称を覚える......か。できるような気がしてきた。明日以降、白地図にもトライしてみよう。都道府県ぐらいは頭に入るかもしれない。
右手を掛けブトンの上に投げだした。
明日は渋谷区の携帯電話販売会社の面接だ。朝七時には起きよう。
電話......。ずっと実家とは連絡をとっていない。お母さんやお父さん、おばあは元気にしているかなぁ......。
目を閉じると、疲れのせいかもう半分夢を見ているように感じられた。波照間島、ニシ浜の透き通った青い海が浮かんでくる。頬を撫でていく潮風、遠くに聞こえるフェリーの汽笛......。
北まくら、どうやら安眠効果は抜群らしい。莉子はそう実感し、すぐに眠りにおちた。明日はきっといいことがある。その素朴な願いを胸に抱きながら。
手描き
小笠原悠斗は上機嫌だった。
万能鑑定士Qなる店舗を経営する、凜田莉子という女性と知り合ってから、わずか一時間しか経っていない。
にもかかわらず、このような美人と一緒に、春の陽気な午後に都内を散策できるのは、喜ばしいことに違いない。あのガードレールの波板を彼女のもとに持ちこまなければ、いまの俺はこんな境遇になかった。
力士シールの貼られた現場を実際に見たいという彼女の希望に従って、外にでた。そこかしこにある力士シールを見つけては静止して、しばし観察にふける。
いまも飯田橋駅東口のガード下で足をとめた莉子は、鉄柱を見あげていた。
「ここにもある」と莉子はいった。「縦に五枚、横に六枚の三十枚かぁ......。どれも表情が違ってる。顔が左右対称になってるものと、そうでないものとがある」
小笠原はぼんやりと莉子の横顔を眺めていた。
芸術に関する知識が豊富なのは当然として、美意識も充分に備わっているらしい。しかもセンスがある。店でも思ったが、パープルでまとめたファッションは彼女のクールかつ個性的な顔と、長身のプロポーションにぴたりと合う。いまも街角にたたずむモデルを描いた絵画を鑑賞しているかのようだ。どのような風景にも溶けこみ、絵になる。おそらくこの女性が同席しているだけで、室内にいるほかの全員が彼女を無視できない心境になるだろう。それぐらい強烈な存在感を放っている。
莉子がちらとこちらを見た。「小笠原さん」
「あ、はい」小笠原はそそくさと駆け寄った。
「またメモをお願いできますか」莉子はハンドバッグから取りだした定規を、鉄柱の力士シールにあてがった。「縦七・五センチ、横十・五センチ。サイズはほかの場所に貼られていた力士シールとまったく同じ。位置から察するに、身長百五十センチ以上、百七十センチ以下の人物が貼ってる。なるべく雨風がシールに当たらないよう、軒があったり、凹面の壁を貼る場所に選んでいるみたい。ほら、ここでもH形の鉄柱の内側だけに貼られていて、向こうの円柱型の街路灯には貼ってない」
「ってことは」小笠原は手帳にペンを走らせた。「それなりに長持ちするように貼ってるってことだな」
「ただの悪戯よりは、長期にわたって人目に触れさせようって意図が感じられるわね」莉子は人差し指の爪の先でシールの縁をこすった。「両面テープじゃなくて糊ね。剥がれにくい接着剤を使ってる。違法チラシと同じく、ブラシで広範囲に接着剤を塗って、その上にシールを貼りつけてるみたい。つまり正確にはシールではなくて紙にすぎないわけね」
「けさ会った区役所の人も苦労してたよ。剥がそうとしてもぼろぼろになっちまうって。あれかな、電気料金の請求のハガキとか、一度剥がしたら戻せない糊が使ってあるだろ。同じ成分だったりして」
「全然違うわよ。あの種のハガキには、接着剤も糊も使われてないし」
「え? そうなの?」
「ハガキの表面に乾燥剤の細かい粒子を塗って、凹凸状にしてあるの。それを七十五トンの力でプレスすると、凹凸が噛み合って、ぴたっと接着するのよ。だから一度剥がしたら、ふたたび七十五トンの力で圧着しないかぎり、元に戻らない」
「へえ......。きみはやっぱり物知りだね。どこの大学出身なの?」
莉子の笑みはかすかにこわばった。「出身は......沖縄県」
ふたりのあいだに沈黙がおりてきた。通過する電車の音がガード下にこだまする。もの音はそれだけだった。
失礼に思われただろうか。いきなりプライバシーに立ちいるような質問はまずかったかもしれない。
だが莉子は、気にしたようすもなくルーペを取りだすと。力士シールを凝視した。「耐水性の紙じゃないみたいだけど、なんらかのコーティングが施してあるのかしら。インクのにじみぐあいでプリンターの種類は判別できることがあるけど......」
小笠原は頭をかきむしった。彼女の気を惹こうとすること自体が間違いだ。俺は何をやっているのだろう。凜田莉子は依頼された仕事に集中しているのに、俺ときたら職務に不誠実な態度ばかりだ。
しばらくルーペを覗きこんでいた莉子が、視線をこちらに向けてきた。「これ、手描きね」
「手描き?」小笠原は驚きを覚えた。「印刷じゃないのか?」
「ペン先にインクをつけて、引っ掻くように描いてある。スミは墨汁のべた塗りね。下書きの鉛筆の跡と、消しゴムをかけた形跡もある。こっちの絵にはホワイトの修正も......。漫画家さんがイラストレイターさんかな」
「何千枚もひとりで描いたってのかい? そりゃ、たしかに力士シールは何年もかけて貼られる範囲が広がっていったし、一日に十枚ぐらい描けば五年ぐらいでこの量にはなるとは思うけど......。そんな奇特な奴がいるかい? 売れてない漫画家が売名行為とか?」
「そこなんだけどね」莉子は力士シールに向き直った。「絵のセンスは悪くないしデッサンも正確。描きなれている人だとは思うけど......」
「待ってくれ。センスが悪くない? これが? 無表情の肥満体の顔に、どんな美的センスか?」
「不気味さや異様さは意図的なものよ。つまり計算されたインパクトだってこと。描き手はかなり巧くてペンも速くて、プロかもしれない。けどね、どうも妙なんだよねぇ......」
「なにが?」
「ほら、このシールの絵は、頬の下に横線を描きこむことで、膨れ丸顔を表現してる。目尻にも独特のしわがある。けれども、こっちを見て。このシールの顔は目尻のしわがなくて、代わりに吊りあがった長い眉を描くことで、似た印象の表情になりえてる。頬の下に横線はなくて、輪郭を膨らませている」
「顔はシールごとに違っているよ。手描きならなおさらだ」
「そうだけど、いま挙げたのは表現方法の違いなの。力士シールはここに貼られている物も、ほかの場所の物も、大きくわけて二種の描き方に分かれている。道具も違っているの。こっちはGペン、そしてこっちはカブラペンを使ってる」
「どういうことだ?」
「あくまで印象にすぎないけど、ふたりの描き手がいるみたい」
「ふたり......」小笠原は息を呑んだ。「力士シールは共作ってわけか?」
「ちょっと違うなぁ。力士シールが百枚あれば、だいたい五十枚ずつ、ふたりの描き手によって作られてるってこと。共通する表現方法もあるけど、あきらかに異なるテクニックが用いられてる。どちらかいっぽうが先に描いて。もういっぽうが真似をして描いたんじゃないかしら。あくまで推測だけど......」
「ああ。模倣犯説なら、たしかにこれまでにも取り沙汰されてるよ。なにしろ爆発的な枚数の増加だからね。最初に力士シールを貼っていた人はとっくに足を洗っていて、その後は別の人間が引き継いだんじゃないかともいわれてる。でも、オリジナルと模倣犯のふたりだけかい?」
「絵柄から察するに、それは間違いないと思うの。問題はどっちがどっちを真似たかよね」
「たしかに。それがわかれば、オリジナルの力士シールの製作者が何者なのか、解明に一歩近づくな。どちらが模倣か鑑定できるかい?」
「うーん」莉子は唸った。「どっちも完成された技法だからね......。あ、そうだ」
莉子はハンドバッグから携帯電話を取りだした。
小笠原はきいた。「誰に連絡するの?」
「氷室さんって人。科学鑑定はうちの店じゃ無理だから」莉子はそういいながら、メールを打ちはじめた。
妙に気になって、小笠原はたずねた。「氷室さん......どんな人?」
「氷室拓真さん。早稲田大学の理工学部、物理学科の准教授」
「......男の人かい?」
「拓真さんって名前の女の人はいないでしょ」
「まあ、そうだね」と小笠原は笑ってみせたが、莉子は目もくれず、メールを打つのに忙しかった。
メールアドレスを交換している男がいるのか。いや、あくまで仕事上の関係かもしれない。俺のほうも、取材のことで今後連絡を取り合いたいといえば、同じことが可能だろう。
申しいれるのなら、早いほうがいい。彼女が携帯を手にしている、いまこの瞬間こそ狙い目だ。
小笠原はポケットから携帯電話を取りだし、莉子がメールを打ち終わるのを待って切りだした。「メアドを......」
だがその言葉より一瞬早く、莉子がこちらを見ていった。「これでよし、と。氷室さん、早稲田にいるならすぐ飛んできてくれるだろうし。じゃあお店に戻りましょう」
「そうだね......。早稲田近いしね......」
おずおずと携帯電話をしまいこみ、小笠原は莉子につづいて歩きだした。自分の勇気のなさが嫌になる。と同時に、すでに知り合いになっている氷室なる男が羨ましくて仕方なかった。
俺も十代のころから彼女と知り合っていれば......。いや、駄目だ。十八歳の凜田莉子はすでに輝ける才女であったはずだ。一流大学への進学をきめて順風満帆な時期に違いない。俺など洟にもひっかけてくれなかっただろう。
莉子が振り返り、小笠原にきいてきた。「どうかした?」
「いや、べつに......」
冷や汗をかきながら、莉子に歩調を合わせる。仕事に集中しようとしても、どうしても彼女のことが気になる。想像に頭を働かせてしまう。
十八歳の凜田莉子。どこで、どのように暮らしていたのだろうか。
正社員
十八歳の暑い夏の日、凜田莉子は渋谷区道玄坂のファーイースト・ツーリスト社の研修センターにいた。
いまだ春物のスーツを着ているのは莉子だけだった。まわりの女たちは、全員が季節にふさわしいビジネスウェアに身を包んでいる。さいわいなのは、誰も莉子の服装に注意を向けないことだった。他人を気にする余裕など、この場にはない。
旅行業界は深刻な人手不足に陥っているらしく、ファーイースト社も臨時のツアーコンダクター候補を募集していた。スポーツ観戦ツアーに強いこの会社は、来年ドイツで開催されるFIFAワールドカップ向けの添乗員を、多く育てる必要に迫られているという。
雇用の理由や目的がなんであるにせよ、これは春の就職を逃がしたわたしのような人間にとって、降って湧いたチャンスに違いない。
そう信じて履歴書を提出し、研修と面接を兼ねた就職試験に乗りこんだものの、状況は甘くはなかった。五人の女性添乗員の募集に対し、この室内には百人以上がひしめきあっている。ほとんどが莉子よりも年上のようだった。大卒の参加者も多いのだろう。
ずらりと並んだパイプ椅子に姿勢正しくおさまるライバルたちを眺めるうちに、これが入社式だったらなぁ、と思わずため息をつきたくなった。
それでも、これまでの三か月間、仕出し弁当のアルバイトでなんとか食いつないできた甲斐はあった。莉子は闘志に燃えていた。自信もある。以前なら、就職試験の会場で教官が喋る言葉はちんぷんかんぷんだったが、このところの勉強のおかげで、きょうの女性指導員の説明は手にとるように理解できている。
旅客機のフライトアテンダントのように、すらりと伸びた長身の女性指導員が、ホワイトボードの前でテキストを読みあげていた。「そのお客様は、グリーンランドでの三週間の滞在を希望しておられました。氷床を観察したいとのことです。滞在中は、亜鉛や鉄、金、銅、石炭、氷晶石、ウラン、プラチナ、モリブデンといった現地の資源採掘現場を見学したいともお考えで、それらの設備に近いディスコ島にある宿泊施設にチェックインしたいとのことです。窓の外からは海が一望できます。お客様は青空のもと、アザラシやクジラの写真撮影ができそうだと楽しみにしておられます」
周りの女たちは真剣にその声に聞きいっていた。メモを取っている人も少なくない。
莉子は胸にひっかかるものを感じていた。女性指導員の説明には二か所ほど、腑に落ちないところがある。
すると女性指導員はテキストを閉じていった。「弊社はこの宿泊施設へのチェックイン手続きもおこなうことができ、お客様が希望しておられる見学先にもツアーを派遣できます。もちろんグリーンランドへの渡航も、日本への帰路も問題ありません。にもかかわらず、弊社担当者はお客様のご希望をうかがった直後、それは無理であると判断しました。どこか問題だったが、みなさんにおわかりですか?」
室内はしんと静まりかえった。女性指導員が眺め渡すと、目を伏せる人もいる。
女性指導員は微笑とともにため息をついた。「わが社のツアーコンダクターになるためには、これぐらいのことが即答できる知識が必要です。肝に銘じておいてくださいね。いいですか。いまのお客様のご希望の問題点は......」
莉子はとっさに手をあげた。「はい!」
室内にいる全貝がこちらを見た。前方の席の人々は身体ごと振り返っていた。誰もが異様な顔をしている。
それらの視線にさらされ、莉子はさすがに萎縮した。
まずかったのだろうか。八重山高等学校では、質問の答えがわかったときには元気よく手をあげる、そう教わっていたのだが。
沈黙のなかで、女性指導員がこちらをじっと見つめてきた。「あなた、お名前は?」
「り」緊張のせいか声が震える。莉子は笑顔をつとめた。「凜田莉子です」
「そう。凜田さん。問題点がわかったの?」
「はい。......ディスコ島は北緯七十度よりも北にある北極圏です。夏は白夜、冬も夜ばかり。ですから、青空のもとアザラシやクジラを撮影したいというご希望は、残念ながら果たせません」
女性指導員の顔つきが変わった。
室内にざわめきが広がっていく。誰もが目を丸くしてこちらを見ていた。
やがて女性指導員は、神妙な面持ちでたずねてきた。「問題はそこだけ?」
「いえ」莉子は答えた。「グリーンランドの最北部は空気が乾燥していて雪が降らず、大地も氷に覆われることはありません。氷床の観察には不向きです」
「......おもしろい」と女性指導員は真顔でつぶやいた。「あなたが弊社の窓口業務だった場合、お客様にどう説明しますか」
「ええと......。北極よりも南極をおすすめします。オーストラリア大陸の南端に滞在すれば、南極大陸の氷床を船で見学できます」
女性指導員は踵をかえし、ホワイトボードのわきにある世界地図に歩み寄った。
メルカトル図法の世界地図を指さして、女性指導員は莉子にきいた。「なら、凜田さん。あなたはお客様にこの地図をお見せして、オーストラリアはいかがですかとおすすめした。でもお客様は難色をしめされました。グリーンランドの広大な景色が見たい、オーストラリアは狭すぎる。お客様はそうおっしゃいました。あなたは何と答えますか?」
「その地図で見るかぎりグリーンランドのほうが広いように思えますが、実際にはグリーンランドは、オーストラリア大陸の三割ていどの広さしかありません。メルカトル図法の地図は極地に近いほど実際の面積比率よりも拡大して掲載します。お客様はそれを見て、グリーンランドが非常に広いと錯覚されている可能性があります。なので、面積がありのまま対比できる世界地図をお見せして、ご説明差しあげたいと思います」
「素晴らしい!」女性指導損が甲高い声を発すると、周りがいっせいにどよめいた。
莉子は思わず顔をほころばせた。
やっぱりそうだった。わたしが感じた疑問は正解だった。
ざわめきのなかで、女性指導員はきいてきた。「あなた、ずいぶん若いみたいだけど、じつは見た目に反してベテランとか? 中途採用希望?」
「いいえ......。旅本で予習してきただけです」
「ほんとに?」
「はい。募集要項に、なるべく旅行関係の本を読んでくるようにと書いてあったので」
「ふうん」女性指導員は目を輝かせた。「じゃあ、凜田さん。これはどうかしら。ヨーロッパでツアー中に、複数のお客様が食事について不満を訴えてきた。日本食専門のレストランに行ったのに、ひどくまずいとおっしゃる。そのお店の板前さんは日本人で、かつて日本国内では優秀な料理人として名を馳せていた。お客様の不満の原因はどこにありますか?」
「水です」莉子は即答した。「ヨーロッパの水はカルシウムやマグネシウムが多く含まれた硬水です。イギリスの水は比較的硬度は低いけどミネラル分が多い。ですからヨーロッパの料理は、野菜からでる水分を利用したり、ワインや牛乳を加える場合が多いんです。スープストックも牛や鶏、豚に含まれるコラーゲンでミネラルを除去するのが目的です。その板前さんは日本にいたときと同じ感覚で、水をそのまま使ったため、味が変わってしまったんです」
「ご名答!」女性指導員はもはや興奮状態のようだった。「知識だけじゃなく応用力もあるみたいね。暗記力はどうかしら。......ええと、そうね。タイの首都。一般的にはバンコクと呼ぶけど、正式名称は?」
莉子は息を吸いこんで肺に空気をためてから、一気に告げた。「クルンテープ・マハーナコーン・アモーン・ラタナコーシン・マヒンタラーユタヤー・マハーディロックポップ・ノッパラッタナ・ラーチャターニー・ブリーロム・ウドム・ラーチャニウェート・マハーサターン・アモーンビーマン・アワターンサティト・サッカタットティヤ・ウィサヌカム・プラシット」
今度のどよめきは、ビルを揺るがすほどのものだった。室内の全員が拍手した。女性指導員も信じられないというように、首を横に振りながら手を叩いた。
こんな状況になるなんて。莉子は高揚する気分を抑えられなかった。アルバイトの時間以外、暇を持て余していたうえに、節約する必要があった。だから図書館に閉じこもって本ばかり読んでいた。チープグッズの瀬戸内社長に教わった学習のこつによって、覚えるのが早くなっていることは気づいていた。けれども、ここまで大勢の人々を驚かせるなんて。
もしかして、今度こそ決まるかもしれない。憧れの就職。正社員......。
女性指導員は弾む声でいった。「あとはもう、現地でのスケジュール管理の能力ぐらいね。聞くだけ野暮だけど、凜田さん。エジプトのナイル川を複数の渡し船が行き来してるとします。すべての船が行きも帰りも同じ速さで進むとして、十分おきにすれちがうのなら、一時間ごとに何隻が向こう岸に到着しますか?」
ふいに莉子は、時間がとまったように感じた。
頭が真っ白になるとは、まさにこのことだった。言葉がでてこない。声にならない。
いや、実際には、現地のようすだけは想像できる。砂漠のなかに伸びる雄大な川、そこを無数の船が横断している。川岸に待機しているラクダや、船を埋め尽くす観光客の姿も思い浮かぶ。
けれども、数字にはまるで思いが及ばない。彼女は何といっただろう。十分......いや、一時間だっけ。一時間に何隻到着するか。わかるのだろうか、そんなことが。
戸惑いはしどろもどろな態度となって外面に表れていたのだろう、女性指導員は落胆の表情を浮かべた。「ほかに誰か、わかる人いますか」
すると、ほとんどの女たちが声を揃えてつぶやいた。三隻。
「そう、三隻です」女性指導員はうなずいた。
どうやって答えを導きだしたのだろう、莉子は衝撃を受けた。やはり周りは大卒だらけのようだった。莉子にとっての難題をあっさりと解き明かしている。
こんな簡単な問題、とでもいいたげな表情で女性指導員はいった。「いうまでもなく、スケジュール管理はツアーコンダクターにとって重要な課題です。時間の経過を正確に把握するためにも、数学の応用力は有していなければなりません。ええと、凜田さん」
「あ......はい」
「残念ね。でも、あなたの知識は本当に素晴らしかったわ」
莉子は、胸に風穴をあけられた気分だった。
女性指導員の言葉は、事実上の不採用通知だった。面接が始まる前に落とされてしまった。
琥珀
蝉のすだく声がこだまする夏の日の午後。瀬戸内陸はアンティーク風のサイドテーブルをエタノールで磨いていた。
チープグッズ本店ビルの裏手、三階。張りだしたバルコニー。ここならにおいも充満しないし、直射日光のおかげで塗ったエタノールもすぐ乾く。
社長とはいえ安楽椅子に腰かけられる立場ではない。従業員は売り場にまわし、在庫の手入れは自分でする。チープグッズはリサイクルショップとしては大手かもしれないが、法人としては中小企業にほかならない。省ける人件費は省く。お客のためを思えば、これぐらいの仕事、しんどいとは思わない。開店当初はすべてひとりでこなしてきたのだから。
単調な作業ではあるが、ちょっとした楽しみもある。裏路地で遊ぶ子供たちの声だった。いまも小学校低学年ぐらいの男の子と女の子が、しりとりをして遊んでいるのが聞こえる。女の子がいった。丸太。男の子がかえす。タヌキ。
瀬戸内はちらと路地を見下ろした。下校途中のふたりの児童は、ビルの裏手で立ちどまってランドセルを地面に置き、しりとりにふけっている。前にも見かけた光景だった。負けたほうが勝ったほうのランドセルを運ぶ取り決めらしい。
のどかな光景だった。少子化著しい都会の一角、子供の声は瀬戸内にとってなによりの清涼剤に思えた。
さて、きょうはどちらが勝つかな。瀬戸内は作業をつづけながら耳を傾けた。
女の子が告げた。きゅうり。男の子がかえす。リボン。
「ん、っていった」女の子の歓声が響く。「ユウくんの負けね」
きょうは男の子の負けか。
そう思ったとき、路地から聞き覚えのある若い女の声がした。「まだ負けじゃないわ。ンザンビ」
妙に思って、瀬戸内は路地に目を向けた。
いつの間にか凜田莉子が来ていた。まだ春物のスーツを着ている。ということは、きょうも就職活動だったか。
莉子は子供たちに笑顔で告げていた。「ンザンビ。アフリカ南部、アンゴラのバコンゴ民族。全知全能の神。ゾンビの語源」
瀬戸内は唖然とした。ソンビの語源って......。
子供たちもすっかりひいてしまったらしく、ふたりとも笑みを凍りつかせながら後ずさりした。
ところが莉子は空気が読めていないらしく、なおも男の子にいった。「ほら、いったほうがいいわよ。ンザンビ」
男の子は仕方なく、ンザンビとつぶやいたようすだったが、女の子のほうは薄気味悪く感じたらしい。脱兎のごとく逃げだした。男の子もそれを追って、あわてたように走り去っていく。
莉子は驚いたようすで声をあげている。「ああ......ちょっと」
瀬戸内は思わず苦笑し、路地に声を張りあげた。「凜田さん!」
こちらを見あげた莉子は、当惑顔から一転して笑顔になった。「瀬戸内さん。おひさしぶりです」
「ああ。三か月ぶりぐらいか。勉強して物知りになるのは結構だけど、いきなり子供相手にンザンビはないよ。なんていうか、不気味だよ」
「えー。そうかなぁ」莉子はあっけらかんといったが、すぐにその顔に憂いのいろが浮かんだ。「でも、そうかも......。いろいろ覚えただけじゃ、社会人にはなれっこない」
「どうした? めずらしく落ちこんでるのか? まあ、上がってきなさい。事務室の裏の階段を使うといい」
莉子はうなずいて、店のなかに入っていった。
サイドテーブルをひっくりかえし、裏面を磨きはじめる。手は休ませないが、思考は凜田莉子のことに費やしていた。そうか。また就職試験は駄目だったのか。そろそろ心配になってきた。
彼女の頭のよさは天性のものだろうが、才能の役立て方がわからず持て余しているようだ。勉強を始めたのはごく最近だから、仕方がないのかもしれない。知識が広範囲におよぶのはいいことなのだが。
サッシの戸口から、莉子がバルコニーにでてきた。「こんにちは......」
「きょうはどうしたんだね。何を持ってきたの?」
「いえ。もう売るものはなくて......」
「そうか。就職のほうも、苦戦してるみたいだね」
莉子の笑顔に翳がさした。「ツアコンの会社にいってきたんですけど、駄目でした」
「おかしいな。あれからもずっと読書はつづけたんだろ? きみの頭ならいろんなことを覚えられたはずだ」
「それ以前の問題で......。計算が苦手なんです。数学がまるで駄目で」
......なるほど。数学力は読書では補えないか。
瀬戸内はきいた。「28かける35は?」
「ええと」莉子は困惑しながらたずねかえした。「書く物もらっていいですか」
「駄目だよ。頭のなかで計算するんだ」
「でも、そろばんとか習ってないし」
「掛け算の場合、そろばんの能力はあまり関係ないよ。凜田さん、筆算で計算しようとしちゃいけない。こつを学ぶんだよ。いまの答えは980だ」
「こつって?」
「商売人をやっていると、実践的な計算の秘訣が身についてくるものさ。28かける35。偶数と5の倍数をかけるときには、偶数の2だけ先にかけるんだよ。28は、14の二倍だ。だから35を二倍して70。それに14をかけるのは頭のなかでもできるだろ。それで980ってことだ」
しばし莉子は熟考しているようすだったが、やがて神妙にうなずいた。「ああ、なるほど......」
「じゃ問題だ。25かける32は?」
「ええと......。16かける50になるから、800」
「ほらできた。すごいじゃないか。二桁どうしの掛け算は、いままでならもっと時間がかかっていたはずだよ」
莉子の顔に笑みが戻った。「たしかに。そうですね」
「862かける5は?」
「......ごに十、一繰りあがって、ろくご......」
「じゃなくて。いいかい、五は十の半分だ。10割る2は5。だから、かける5ってのは、2で割って0をひとつ増やせばいいだけのことだ」
「......4310!」
「ほら、すらすら解けるだろ。こつを覚えてしまうんだよ。暗記力はもう身についているから、それでいくつかの法則を頭にいれてしまえばいい」
「できるかなぁ、わたしに。っていうか、その法則っていうのはどこで学べばいいんですか?」
「教えるよ。よく数字に強くなるっていうけど、それは実践的な数学力が身につくって意味だ。長年、会社を経営してるからね。自然にいろんな秘訣を会得してる」
足音がした。社長の娘、瀬戸内楓がサッシから顔をのぞかせた。「お父さん。いえ、社長。......あ、凜田さんも来てたの。こんにちは」
「こんにちは」莉子は楓の手もとに目を向けた。「わあ。すごく綺麗......」
瀬戸内陸は楓の持っている物を見た。ペンダントのようだった。十字架をかたどった七宝に琥珀らしきものが嵌めこまれている。
楓がそれを差しだしてきた。「これ。お客さんが買い取り希望で持ちこんだ品なんだけど、バルト海沿岸の高級品だって」
「鑑定書は?」
「いちおうあるけど、この品物に付いていたものかどうか、確証はないし」
「うーん」瀬戸内はペンダントを眺めた。「いい物には見えるけどな......。もし琥珀が偽物だったら値はつかない。どうすべきかな」
「琥珀ってさ」と楓はいった。「ハンカチでこすって静電気を帯びれば本物でしょ。いつもはそうしてるんだけど、これ七宝の装飾が琥珀を覆ってるから、こすれないんだよね」
「ああ、そうだな。......たしか、塩水に浮いたら本物って話も聞いたことがある」
「無理でしょ。装飾から外せないし」
「だな......」
どう判別すればいいだろう。あるいは答えがだせないことを理由に、買い取りを断るか。しかし、せっかく客が持ちこんでくれた品だ。できれば客には喜んで帰ってほしい。
考えあぐねていたそのとき、莉子がふいにエタノールの瓶を手にとった。
「貸してください」と莉子は瀬戸内にいった。瓶の口にガーゼをあてがい、エタノールをふくませる。
「どうするんだね」瀬戸内はペンダントを渡した。
莉子は、琥珀の上でガーゼを絞り、数滴の水分を垂らした。それから琥珀の表面に指先で触れると、顔をあげてきっぱりと告げてきた。「本物です」
「何? どうしてわかるんだね」
「本物の琥珀はエタノールに反応し粘り気がでるからです。触ってみてください。ほら、粘着性を帯びているでしょう?」
瀬戸内はいわれたとおりにした。たしかに指先がくっつく。「ああ......」
莉子はいった。「琥珀の九割はロシア連邦のカリーニングラード州が産地になってます。ロシア連邦の西の端に位置している飛び地で、バルト海の沿岸にある。この十字架はロシア正教のものだし、そもそもロシアの七宝焼きは世界的にも評判になってる。だから鑑定書の内容は信頼が置けます。ただし、琥珀はダイヤモンドやルビーみたいに公式のグレードが存在するわけではないので、値をつけるなら見た目で判断しないと......」
「ちょ」楓はあわてたようすだった。「ちょっと待ってよ。どうしてそんなこと知ってるの?」
瀬戸内も同感だった。「いつから鑑定の勉強なんか始めた?」
莉子は戸惑ったようにいった。ツアコンの会社の就職試験を受けにいく前に、旅本で勉強したので......。ロシアの観光本に載ってました。土産物のページに」
なるほど。瀬戸内は感心した。
膨大な知識量を記憶できれば、それを引き合いにして現実の問題を評価することや、分析することも可能だ。すべては莉子の感受性の高さが、暗記力に転化されることから始まった。しかし過程はどうであれ、彼女はその技能を自分のものにしつつある。
「で」瀬戸内は莉子にきいた。「見た目で判断するとして、その琥珀ペンダントはいくらぐらいだと思う?」
「さあ......。お値段のことはよくわかりません。でも、すごく綺麗です。フォーマルなドレスにも、カジュアルにも合いそうだし」
違いないと瀬戸内は思った。もともと感受性豊かな莉子だけに、印象の是非の客観的判断には信用が置ける。ヘアスタイルやスーツの着こなしを見れば、センスの面でも趣味がいいとわかる。
「凜田さん。ちょっと来てくれないか。楓も」
瀬戸内はそういって、バルコニーから店内に入ると、階段を下りていった。
一階に着くと、事務室の扉の前で三十代の従業員が歩み寄ってきた。秋田という名のベテラン店員だった。
秋田がきいてきた。「社長。さっきから日の出製網繊維の元社員って人から、何度も電話が入ってます。在庫を引き受けてほしいという話ですが」背後から楓の嘆く声がした。「また日の出製網繊維? 半年前に潰れた会社じゃん。債務整理中だからって、リサイクルショップに在庫の品を買い取らせて現金化しようったって甘いわよ」
「そう愚痴るな」瀬戸内は楓に苦笑してみせてから、秋田にいった。「在庫の品はすべて買わせていただくと伝えてくれ」
「はあ?」楓は顔をしかめた。「たいして売れそうにない在庫ばっかり引き受けてどうすんの」
「気持ちはわかるが、日の出製網繊維さんも景気がいいときには、うちから事務用品を大量に買ってくれてたもんだよ。世の中、助け合いさ」
「また始まった......。こつもの台所事情も考えてよ。みんな安月給で働いてるのにさ。秋田さんも不満でしょ?」
秋田は戸惑いがちに笑った。「じゃあ、先方に電話しておきます」
「頼んだよ」と瀬戸内はいった。
ある意味では楓が正しい。売れない商品の在庫を抱えることほど、経営者にとって危険なことはない。
それでも、世は持ちつ持たれつだ。困窮し苦しんでいる人々を捨て置くことはできない。商品の売り方は、また後で考えればいい。
事務室に入ると、瀬戸内は木棚に向かった。リサイクルショップにおいては、買い取り額の勉強は必須課目だ。棚の一角は、そのための書物で埋め尽くされている。
瀬戸内は莉子に告げた。「見てごらん。うちの店で参考資料に使っているものだ。宝石鑑定用のカタログに、服飾鑑定本。家電製品のリスト、輸入家具のリスト。掛け軸や絵画、ブリキ玩具の名品リストってのもある。ぜんぶで百冊ぐらいか」
「へえ」莉子は目を瞠っていた。「いろんな商品を扱ってるんですね」
「これらに目を通すとして、どれくらいの期間が必要かな?」
「ええと......。一日で二冊消化するとして三十日で九十冊だから、ひと月と三日ですね」
「一日で三冊!?」瀬戸内は驚きを覚えた。家具の本を引き抜き、莉子に渡す。「本当にできるのか? こんなに細かくびっしりと掲載されてるんだぞ」
莉子は本を開いてざっと眺めたが、その表情は変わらなかった。「ええ。問題ないと思います」
「......よし。無理はしなくていいから、それらを勉強しつつ、うちで働いてくれないか」
「え!」莉子は衝撃を受けたようすだった。「わたしを......雇ってくださるんですか」
「ああ」と瀬戸内はうなずいてみせた。
楓が不満げな顔で口をはさんでくる。「お父さん......」
瀬戸内は手をあげて娘の小言を制すると、莉子に告げた。「買い取りはスピードが命だ、すぐに商品の価値をみいだし値をつけなきゃならん。これらの本に載っている膨大な商品知識のうち、何割かでも記憶できれば、きみの鑑定眼は非常に信頼できるものになるだろう。そうすれば、きみはうちの店にとって得難い人材となりうる」
本当は、従業員をひとり増やすだけでも苦しい。人件費は頭打ちどころか、月々の赤字のもとになっている。頭の痛い問題だった。
けれども、これでいい。瀬戸内はそう思った。凜田莉子はいまや、見過ごすことのできない頭角を現してきている。いずれどこかに転職するにしても、うちの店で一人前に育てあげるのは悪いことではない。彼女は有望な人生を歩むために生まれてきた。その後押しができることを、むしろ喜ばしく思うべきだ。
莉子は信じられないというように目を丸くしていたが、やがてその大きな瞳に涙が溜まりだした。表面張力の限界を超え、しずくが頬をつたいだす。
「ありがとうございます」莉子は声を震わせて泣きだした。「わたし、働けるんですね」
弱った。女性の涙は苦手だ。もっと祝福の言葉をかけてやりたいが、莉子が号泣すると困る。
瀬戸内は笑顔をつとめながらいった。「給料は安いけど、アルバイトよりはましだろう。もっといい就職先が見つかったら、いつでも辞めていい。それまでは、きみはわが社の一員だ。な、楓」
楓は伏し目がちにため息をついた。
だが、父親である瀬戸内にはわかっていた。娘は、莉子を歓迎している。楓は年下の後輩ができることをいつも願っていた。それに、楓も理解できているはずだ。凜田莉子が唯一無二の存在であることを。その希少価値がどれくらいの値をつけるか、まだわかったものではないが。
楓はハンカチを取りだし、莉子に差しだした。「ほら、涙を拭いて。よろしくね、凜田さん。わからないことがあったら、何でもきいて」
莉子はなおも泣きじゃくりながらうなずいた。「楓さん......。本当にありがとう。嬉しい」
よかった。瀬戸内の胸のなかにあるのは、そのひとことだった。
秋田が戻ってきて、瀬戸内に告げてきた。「銀行のかたがおいでになりました」
喜びもつかの聞か。返済の催促だろう。こちらからは、さらなる融資をなんとしてもお願いせねばならない。そういう辛い駆け引きが待っている。
それでも、瀬戸内の心は躍っていた。いまこそ経営者としての腕のみせどころだ。意地でも会社を潰してはならない。彼女のような若者たちの未来を閉ざしてはならない。
莉子はまだ泣いていた。身を寄せ合うふたりを後に残し、瀬戸内は歩きだした。
生きているからには、人は常に誰かに助けられている。誰もひとりでは生きていけない。だから私は手を差し伸べる。かつてほかの誰かがそうしてくれたように。
リッキオ
午後一時をまわった。力士シール散策もひととおり終えて、帰路につく。
小笠原悠斗は凜田莉子とともに、桜が舞い散る並木道に歩を進めた。このまま神田川方面に抜ければ、万能鑑定士Qの店はすぐそこだ。
道沿いに軒を連ねる商店はそれなりに活気にあふれ、不況の影響を感じさせない。八百屋の店頭に貼ってあったポスターがふと目にとまる。2090年、北極消滅。ホッキョクグマを救いましょう。温暖化防止の政府広報ポスターだった。
なぜ八百屋が貼りだしているのか気になる。温暖化にともなう水害や干ばつで、農業が深刻な影響を受けるとか、そういうことだろうか。
莉子も、店がまえにややミスマッチなポスターが目についたらしく、それを眺めていった。「二〇九〇年かぁ。そのころには、みんなどうしてるんだろ。あなたもわたしも、まだ現役かな」
「きみはフリーランスだからそうかもしれないけど、僕はとっくに定年だよ。生きていればの話だけどね」
「定年後に第二の職業に就いてるかも」
「いや。二〇九〇年のきょうは、どこかの公園でひなたぼっこしながら、通勤客を眺めてるだろうさ」
「それはないわよ」莉子は笑った。「二〇九〇年のきょうは、通勤客はいない。誰も働いてないから」
「どうして? まさか人類絶滅とかそっちの話? MMRとか好きだったりするの?」
「なにMMRって? 日曜だから、みんな休みってだけ」
「へえ......。二〇九〇年のきょうが日曜? そんなの、すぐにわかるの。すげえ計算力......」
「じゃなくて、平年は正月と大晦日の曜日は同じなの。閏年は四年に一度だから、つまり四年ごとに曜日が二日ずつずれていく。二十八年で曜日は一周するから、八十四年後はきょうと同じ金曜。その四年前は日曜」
小笠原はすなおに感心した。「数字にも強いなんて」
「そうでもないけど。ただ計算ってものにはいろいろコツがあって、それを知ってるだけ」
世間では、それを数字に強いというのだが......。
凜田莉子はふしぎな女だった。存在感はあるのに性格は質素で控えめ、そのせいかとてつもない知識を内包していても、まるで嫌味を感じさせない。猫目とひきつりがちな笑みは、一歩間違えば皮肉っぽい表情に受けとられかねないだろうに、なぜかそういうマイナスの印象にはつながらない。
一緒にいて心地よさを感じられる人だと小笠原は思った。俺が友達ぶるにはまだ早すぎるが......。
万能鑑定士Qの看板が見えてきた。小笠原はきいた。「Qってどういう意味?」
照れ笑いらしき笑みを浮かべ、莉子は言葉を濁した。「さあ、ね。自分で考えたわけじゃないし」
では誰が考えたのだろう。彼女の個人経営の店だというのに。
疑問に思っていると、莉子が店の前に立った。自動ドアが音もなく開いた。
莉子が妙な顔でこちらを見た。小笠原も莉子を見かえした。
でかけるときには鍵をかけていったはずだ。どうして開いているのだろう。
だが、莉子が疑念を感じたのは一瞬だけらしい。警戒するようすもなく店内に歩を踏みいれていく。
すぐに莉子は待合のソファを見ていった。「こんにちは、氷室さん。早かったですね」
小笠原も店内に入った。ソファに座っていたのは、三十代半ばぐらいの痩せた男だった。着崩したスーツはブランドものらしい風格が感じられる。磨きあげられた靴も高級品のようだった。
目つきは鋭く、整った顔だちは女にもてそうだが、くつろいだ態度のせいか愛嬌ものぞかせている。ゆっくりと立ちあがる物腰はしなやかで、歌舞伎の女形のようだった。
男はいった。「ちょうど講義もなくて暇だったんでね。そこに立てかけてあるガードレールは何だい?」
「あなたに科学鑑定を依頼したい物」莉子は小笠原を指し示しながら男に告げた。「こちらは小笠原さん。『週刊角川』の雑誌記者で、今回のクライアントです」
「ああ」男は快活に声をあげて、会釈をした。「雑誌記者さんか。このおかしな相撲取りのシールについて調べてるとか?」
「当たりです」と小笠原は答えた。「取材ってのは変わったものとか、奇異なものを取りあげる傾向がありまして」
「そうでしょうね。おもしろい目のつけどころだと思います。あ、僕は氷室といいます。大学のほうでちょっとした研究というか、そういうことをやってまして」
謙遜に違いなかった。氷室拓真。早稲田大学の理工学部、物理学科の准教授と莉子はいっていた。小難しい実験を数多くこなしているのだろう。
彼は店の合鍵を持っているらしい。メアドばかりか合鍵も。ふたりはどんな仲なのだろう。
しかし氷室は、莉子に色目を使うような素振りも見せず、ガードレールの波板に歩み寄ってしげしげと眺めた。「公共物なのに、預かってもいいのかい?」
小笠原は氷室にいった。「月曜まで借りられることになってるんです」
「そうですか」氷室はうなずいた。「うちの研究室は土日も使えるから問題ない。で、凜田さん。何を調べる?」
莉子も波板に近づいた。「それぞれのシールのインクの古さを調べてくれませんか。具体的には、このカブラペンのシールと、Gペンのシールの時間差です」
「ふたつは絵のタッチが違ってるみたいだな」
「ええ。どちらかがオリジナルで、もう一方は模倣でしょう。先に描かれたほうを知りたいんです」
「なるほど、それならいろいろ調べようもある」氷室は小笠原を見た。「このシール、一部を削ってもいいんですか?」
「はい。もう廃品になる物なので......」
「助かります。極力、非破壊検査に努めますけど、サンプルが採れればより精度が高まるので。じゃ、借りていきますよ。ええと、あの外のリヤカーは?」
「あれも僕の会社のものです」
「拝借できます?」
「ええ。いいですけど」
「よかった。じゃあ凜田さん。月曜に結果を連絡します」氷室はそういって波板を持ちあげた。自動ドアに向かい、そろそろと戸口をくぐらすと、外にでた。
結果は週明けか。記事を今日じゅうに仕上げるのは無理そうだ。なんとか編集長の了承を得て、締め切りを延期してもらわねば。
小笠原は外に目を向けた。氷室はリヤカーの荷台に波板を載せると、ためらう素振りもなく、鼻歌まじりにリヤカーを引いて歩き去っていった。
閉じた自動ドアのガラスに、ぽかんとした小笠原の顔が映りこんでいた。
小笠原は莉子を振りかえっていった。「堂々とリヤカーを引いていったよ」
莉子は平然とした面持ちだった。「氷室さんってああいう人なの。研究材料があれば嬉々として持ち帰りたがるし」
「なんだか申しわけないな。リヤカーの側面に『月刊ガンダムエース』って書いてあるし」
「だいじょうぶでしょう。男の人って全般的に、ガンダムとか好きだから」
そういう問題ではないような気もするが......。
莉子はデスクの向こう側にまわると、革張りの椅子に腰を下ろした。「さて。氷室さんの鑑定結果も月曜になっちゃうし、いまできることは、ほかになさそうなんだけど」
「だね。ちょっと会社に電話してみるよ」小笠原は携帯電話を取りだした。
電話帳データから編集部を探しだし、通話ボタンを押す。呼び出し音に耳を傾けながら、莉子を見やる。莉子は引き出しから文庫本を取りだし、読みだした。
聞き覚えのある野太い声が応じた。「はい。『週刊角川』編集部です」
編集長の荻野甲陽の声だ。小笠原は告げた。「小笠原です。いま鑑定家さんのところに取材に来てるんですが......」
荻野は小笠原が喋り終わるのを待たず、ぼそりといった。「なら取材をつづけろ」
「......いえ、それが、きょうのうちには鑑定結果がでない運びになりまして。月曜まで締め切りを延ばしていただけるとありがたいんですが」
「わかった。延期する」
小笠原は呆気にとられた。あの鬼の荻野が、こんなに簡単に入稿の先延ばしを了承するなんて。
「あのう」小笠原はいった。「やることもないので、会社に戻ろうと思いますか」
「いかん!」
いきなりの一喝に、小笠原の全身は凍りついた。
電話の向こうでは、思わず声を荒らげてしまったことに対する後悔のような沈黙があった。やがて荻野の声が告げてきた。「小笠原。カバンは持ってでてるか?」
「いえ。会社に置きっぱなしで」
ちっと舌打ちするのがきこえる。荻野の声がきいた。「財布とか、貴重品は持ってるんだろ?」
「ええ。それはもちろん」
「なら、戻らなくてもだいじょうぶだな? きょうは金曜だし、次の出社日は月曜だ。つまり月曜の朝までは出社しなくていい」
「......わかりました、直帰します」同僚にも声をかけておくか。小笠原は荻野にきいた。
「宮牧に替わっていただけますか」
「宮牧はもう帰った。いまは各班の班長と次長しか残ってない」
どういうことだろう。小笠原はいった。「なにかお役に立てることがあれば......」
「だから取材をつづけろといってる。退社時間まではちゃんと働け。なんでもいいから取材対象から聞きだせ」
「まだ鑑定結果はでないとわかっていても、ですか?」
「取材対象の人となりだとか、記事を埋めるのに必要な情報はいくらでもでてくるだろう。いままで何を勉強してきた」
「......了解しました。取材を続行します」
返事はなかった。電話は一方的に切られた。
腑に落ちない気分ではあったが、いわれたとおりにするしかない。もともと、角川書店は組織や部署の再編が多い。ひと月ぶりに会った同期の社員が、仕事内容はそのままに、まるで別の肩書になっていることもしばしばある、編集部が『少年エース』に侵食されつつある昨今だ、上層部のみの会議が開かれてもふしぎではない。
こちらとしては、ただ盤上の駒のひとつとして動くのみだ。小笠原はソファに腰を下ろした。
莉子を眺める。依然として文庫本を読みふけっていた。
小笠原はたずねた。「趣味は読書?」
「......さあ。そうかも」
「ほかに興味があることは? 外にでて友達と会ったり、旅行にでかけたりしないの?」
「あまりしないかな。本を読んでれば、それなりに充実できるし」
「ふうん......」
莉子は上目づかいに小笠原を見た。「まだなにか用?」
「いやそれが、五時までは取材しなきゃならなくて。力士シールの鑑定は進まなくても、あなたについていろいろ教えていただきたくて」
「わたし......?」
「いや、プライバシーに踏みこむつもりはないんだけど......。店を開くまでのいきさつとか、Qの由来とか」
「由来っていわれても......。あ、そうだ、小笠原さん。元マラソン選手の高橋尚子さんって、なんでQちゃんなんですか」
「え? ああ、そういえばなんでだろ......」
「でしょ。その由来が知りたくて」
「尚子の尚の字が、オバケのQ太郎に似てるからかな。毛が三本、大きな口ってことで」
「へえー。おもしろい」莉子はそういって、また文庫本に目を戻した。
ふたりに沈黙がおりてきた。
......はぐらかされたのだろうか。
たしかに彼女が答えたがらないのもわかる。彼女はあくまで仕事として接客に応じている。鑑定家として、顧客の要望を受けつけるのが彼女の仕事だ。身の上話をきかせてくれというリクエストは、疎ましいものに違いない。
ほかにどんなことを尋ねればいいだろう。そうだ、学歴について尋ねたが、まだ答えをもらっていない。
「凜田さん。あのう、出身大学は......」
莉子は微笑とともにかえしてきた。「小笠原さんはどちらの大学に行ってたの?」
「僕は......立教大学だけど」
「学部は?」
「社会学部。メディア社会学科」
「へえ。六大学野球の立教って、ユニフォームの表記がRIKKIOになってるのはなんで?」
「さあ......ねぇ。ピントゥリッキオに関係あったりして」
「ピントゥリッキオ!」ふいに莉子は目を輝かせた。「ルネサンス期のイタリアの画家よね。ペルージャ派の作品は似通ってるってよくいわれるけど、ピントゥリッキオはペルジーノやラファエロ、ロースバーニャとは違うと思わない? バチカンの絵画ギャラリーにある、聖母戴冠のパネル絵って見事よね。表情が優雅なの。いつか本物を見てみたい」
「そうだね」小笠原は必死で会話についていこうとした。ピントゥリッキオの絵については見たこともないが、その名前を知るきっかけになった唯一のエピソードを披露する。
「アレッサンドロ・デル・ピエロってサッカー選手がさ、サッカー界のピントゥリッキオって呼ばれているんだよ。プレーが芸術的だから」
「......ごめんなさい。サッカーあまりよく知らない」
「ああ......そう」
またしても店内は静寂に包まれた。莉子は文庫本を読みだした。
大学時代の合コン並みに会話が噛みあわない。すなわち俺は、学生のころから成長なしか。情けない。
頭をかきむしっていると、自動ドアが開いた。
スーツ姿、丸顔の中年男が満面に笑いをたたえて入ってきた。男は息を弾ませながらいった。「凜田さん。よかった。さっきも訪ねたんですが留守だったみたいで」
「あ、不動産屋さん」莉子が応じた。「こんにちは。どうしたんですか、そんなに急いで」
「見つかったんですよ。超優良な物件が。格安で、しかも広いんです」
「ほんとに!?」莉子は弾けるように立ちあがった。「場所はどこですか」
「神楽坂駅前です。東西線で飯田橋からひと駅。ただし、もう入居者の抽選が始まっちゃうんです。現地で、午後三時に」
「ずいぶん急ですね」
「なにしろ、あまりにもいい物件なんで。すでに応募者が殺到してるんですよ。抽選に参加するなら、いますぐ行かないと」
莉子はすっかり乗り気になったらしい。服の襟もとを整え、ハンドバッグを手にした。
小笠原は莉子にきいた。「外出するの?」
「そう。ここの事務所、手狭だから。移りたかったんだけど、都内はどこも家賃が高くて。いいところが見つかったら連絡してもらうことになってたの。ね、不動産屋さん?」
「ええ」不動産屋は大きくうなずいた。「条件面でもぴったりです。相場からして、ちょっと考えられないくらいすごい物件なんです。さ、どうかお急ぎを」
「待ってよ」小笠原はいった。「取材のほうは......」
莉子はあっさりと告げてきた。「一緒に来れば? わたしのお店の移転先候補なんて、記事にはならないと思うけど......」
「いや、そうするよ。お供させてもらいます」小笠原はそういって立ちあがった。
五時までは取材。そういう義務があるのはたしかだ。でもそれよりも、小笠原は凜田莉子と一緒にいたかった。一瞬たりとも目を離せなくなるふしぎな魅力が彼女にはある。入社以来、これほどときめくことはなかった。学生に戻ったかのようだ。
抽選会
小笠原は、神楽坂駅周辺の不動産物件を検索したことなどなかった。駅前には閑静な住宅街がひろがっているが、いまの給料では賃貸ですら住むのが難しい。飯田橋方面につながる神楽坂には、テレビや雑誌で紹介される洒落た店が軒を連ねている。
不動産屋が案内したのは、そんな神楽坂に面したマンションだった。カフェとフレンチレストランに挟まれた、大理石調の壁面を持つ新築の高級マンション。その一階部分のテナントが丸ごとあいていた。
ブティックかコンビニエンスストアが優に入れるほどの床面積。ガラス張りの正面にはなんの装飾もなく、店内もむき出しの白いベニヤ壁に囲まれている。内装はいっさい施されていない。
そんな真新しい物件のなかに、大勢の人々がうごめいているのが見える。まるでパーティー会場のようだ。
莉子は物件の前に立ちどまってつぶやいた。「うわ、すごい人。それに、すごい場所」
「でしょう?」と不動産屋がにこやかにいった。「人気スポットの神楽坂に面していて、しかもこの広さですよ。駅徒歩一分。これ以上ないというぐらいの優良物件です」
それはそうだろうと小笠原は思った。しかし、庶民に手がでる物件だろうか。見たところ、店内にひしめきあっているのも業者関係らしい。実際、有名店ばかりが連なる神楽坂に、これほどの面積を専有する個人経営の店、しかも鑑定家の看板など、まず考えられない。
「うーん」莉子も同じ思いらしく、複雑な表情をのぞかせていた。「ここの相場からすれば安い物件かもしれないけど......。とてもわたしが払えるような額じゃないと思いますけど」
不動産屋は間髪をいれずに告げた。「ところがですね、信じられない賃料なんです。なんと月十万ですよ!」
「え!?」小笠原は思わず声をあげた。
莉子も目を丸くしていた。「十万って......? まさか。ほかに管理費を何百万もとられるとか......」
いえ、と不動産屋は首を横に振った。「保証金は六か月、償却二十一パーセント、礼金一か月、そしてうちの仲介手数料一か月。それだけです。ごく常識的な線です」
ありえない。小笠原は唖然とせざるをえなかった。田舎の商店街ならいざ知らず、神楽坂に月十万で店が開けるなんて。茫然と立ちすくむ莉子が、ささやくようにいった。「信じられない......。どうしてそんなに安いの?」
小笠原は莉子にきいた。「万能鑑定士なのに、不動産鑑定は専門外か?」
「ええ......。不動産鑑定士以外はやっちゃいけない規則だからね。刑事罰の対象になるし」そういいながらも、莉子はうわのそらのようだった。「だけどいったい、どうして......」
しきりに揉み手する不動産屋が告げた。「ビルのオーナーが奇特な方で、二階以上の住居物件で充分な収入が得られるから、一階店舗は安くていいと思ったらしいです。儲かりすぎるのも税金対策の面で困りものという、なんとも羨ましい話のようで。にわかに信じがたいと思われるかもしれませんが、こういう物件は数年に一回はでるんですよ。今回はその超レアなケースのひとつだということです」
莉子の顔に笑みがひろがった。「すごーい。『NANA』みたい。小笠原さん、敷金礼金ゼロでお洒落な内装、多摩川が見おろせる2DKで家賃七万。生活備品完備、シェアOKってありうると思う?」
「ないな。風呂なし、台所共用、築五十年の三畳一間。扉は引き戸、鍵もドラクエの鍵みたいなやつってところだ」
「まさしくそう。わたし、そういうところ住んでたし。でもこの物件って......NANA以上かも」
店舗のなかから、スーツ姿の若い女が顔をのぞかせた。「賃貸契約希望のお客様ですか? じきに抽選が始まります。なかにお入りください」
莉子は小笠原の後ろにまわった。「小笠原さん、先に入って」
「どうして? きみが借りる物件だよ」
「なんか、安さにつられてまんまとやって来た女って感じで、見透かされそうだし。こっちの立場を軽く見られると、物件の説明とか手を抜かれそうだし」
「僕が先に入っても同じことだよ」
「そうでもないって。小笠原さんなら、若手の実業家かもって思われるよ」
「僕が? アオキのバーゲン三点セットだよ」
「いいの。顔つきが仕事できそうな感じだし」
同伴の不動産屋も莉子に調子をあわせてきた。「そうですな。運営側の業者さんにも女の人がいるし、ここはイケメン男子に露払いになっていただくのかよいかと」
「いや、僕はあくまでも記者として......」
小笠原の反論はそこまでだった。莉子と不動産屋が背中を押し、たちまち店内に足を踏みいれてしまった。
「ようこそ」別の女性がチラシを差しだしてくる。「物件の詳細です。お持ちください」
「ああ、どうも......」小笠原は恐縮しながらそれを受け取った。
店内は、外から眺めた印象以上にごったがえしていて、まさに立食パーティーの会場さながらだった。運営側はどこに陣取っているのだろう。もう少し奥にいかないと、説明をきくにも難儀になる。
そう思って歩を進めようとしたとき、別の参加者と身体がぶつかった。
相手は初老の痩せた男だった。よれよれのスーツを着たその男は、よろめきながらもなんとか踏みとどまったようすだった。
「すみません」小笠原はいった。「だいじょうぶですか」
「ええ、平気です。ご心配なく」男は皺だらけの浅黒い顔に笑いを浮かべた。「都会の人ごみは慣れていないもので」
莉子が近づいてきて、男にきいた。「地方からおいでになったんですか?」
「そうです」男は愛想よくうなずいた。「楢崎敦司といいます。茨城で農業をしてまして。家内のすすめで、都内に直売の店を持ったらといわれたんで......。どこも場所代が高いなあと思ってたんですが、こんな優良物件見つけたんで。なんとしても借りたいなと思っております。あ、もちろん、みなさんもご同様でしょうが......」
「直売店ですか」莉子がいった。「すると、ご実家のほうでおつくりになったお野菜を、こちらに運んで販売するわけですね」
「はい」と楢崎は笑った。「手間のかかる有機野菜をこしらえても、地元じゃあまり価値がでませんので......。家内の話では、都会の人ほど農薬抜きの野菜に興味を持ってるとか。実際、ここの並びのレストランの人に聞いたら、有機野菜を売る店ができるなら絶対買わせていただくと、力強い返事をもらったんで」
「なるほど。たしかに、こんな都心に有機野菜専門店があれば、需要がありそうですね」
「そうでしょう? これまでも都内でお店を開けそうな物件を探したんですが、家賃払えそうなのは不便な場所ばかりでして。東京じゃお客さんはクルマでは買いに来ないだろうし、どうしてもここに店を持ちたいんですよ」
「奥さまも当然、賛成なさってるでしょうね」すると、楢崎の笑顔に翳がさした。「家内は先月、亡くなりました。無理がたたって、持病をこじらせてね」
莉子は戸惑いのいろを浮かべた。「あ......。申しわけありません......」
「いや、いいんですよ。ただ、家内も都内に店ができるのを心待ちにしてました。ふたりで朝早く軽トラに野菜を積んで、常磐道をのぼって店に行き、夕方までにぜんぶ売ろうとか、スケジュールも話しあったりしてました」
「すると、お店のほうもご夫婦で切り盛りされる予定だったんですか?」
「もちろんそうですよ。従業員を雇う余裕なんてありません。家内に先立たれて、いまは私ひとりです。でも、やるだけやってみますよ。いまから抽選だそうですが、私に決まったら、家内に対するなによりの供養になると思います」
そのとき、雑踏の向こうから呼ぶ声がした。楢崎さん。楢崎敦司さん。
「はい」楢崎は返事をしてから、こちらに向き直り、礼儀正しく頭をさげた。「じゃ、失礼します」
小笠原は当惑しながらおじぎをかえした。莉子も同様だった。
楢崎が立ち去った後、莉子は顔をあげた。小笠原が驚いたことに、莉子は涙ぐんでいた。
「ちょっと」小笠原は莉子にきいた。「どうしたんだい? まさか、いまの人に同情したとか?」
「だって」莉子はしきりに指先で目もとを拭った。「かわいそう。お店をだす前に奥さんを亡くしたなんて」
「たしかに気の毒だけど......。僕らにはどうすることもできないよ」
「いえ。もしわたしが当選したら、あの楢崎さんに権利を譲るわ」
「なんだって? 馬鹿いうなよ。なんのためにここに来たんだ?」
「楢崎さんを不幸にしてまで、お店をここに移転したいとは思わない」
「そりゃ、きみがそういうなら、それでいいけどさ......。だけど、こういう場所では同情は禁物だよ。楢崎さんも、ライバルを減らそうとしてあんな話をしたのかもしれないし」
ふいに莉子は憤りのいろを浮かべた。「楢崎さんはそんな人じゃないわ」
「初対面だろ? 農業うんぬんも本当の話だって確証はないよ」
「いいえ。この季節にして日焼けしてるってことは、冬場も土づくりに励んでいたからよ。有機農法に徹するのなら種を撒く前から土の品質にこだわる必要がある。それに、ごっこつとした手の親指と小指の付け根に筋状の傷跡が無数にあった。除草剤を使わずに手で草を抜いているから」
「......謝るよ。少なくとも、きみの鑑定眼を疑ったのは悪かった」
一瞬、莉子が涙を浮かべたのは情緒不安定のなせるわざかと思ったが、それは違うようだ。理路整然とした思考は、依然として働きつづけている。凜田莉子は、極めて感受性の豊かな女性に違いない。喉からてがでるほど欲していたはずの物でも、知り合ったばかりの人に譲ることを厭わない。いや、むしろ積極的にそうしようとしている。
やはり外見ばかりの美人ではない。小笠原は莉子についてそう感じた。彼女の内面は驚くほど清らかだ。都会で個人経営の店を持ちながら、心がすれてはいない。どれだけまっすぐな生き方を貫いてきたのだろう。ある意味で、この物件などより彼女の存在こそが、よほど稀有で貴重といえる。
離れていた不動産屋が、一枚の紙片を手に舞い戻ってきた。「抽選にエントリーしてきましたよ。おや、凜田さん。どうしたんですか。目が赤くなってるようですが」
莉子はそっけなくいった。「物件に感激しちゃって」
「そうでしょう!」不動産屋は胸を張った。「さ、この紙をお持ちください。あなたの抽選番号とのことです」
差しだされた紙片を小笠原は見た。十六番と書いてある。
そのとき、マイクに息を吹きかける音が響き、次いでハウリングぎみの男の声がスピーカーから聞こえてきた。「みなさん。ようこそお集まりいただきました。今回の抽選会を主催させていただきます、ニコト不動産の中道省二と申します。急な募集にもかかわらず、二十二組もの方々にお集まりいただき、ご応募をいただきました。深く御礼申しあげます」
二十二組......。これは難しそうだと小笠原は思った。あちこちの不動産業者から情報をききつけた人々がいっせいに集まったのだろう。エントリーに間に合っただけでも幸運かもしれない。
中道という男の声がつづけた。「公正を期すため、タグ・スローイングで抽選をおこないたいと思います」
小笠原はつぶやいた。「タグースローイング?」
莉子が小声でいった。「アメリカで土地や住居の抽選によく使われるやり方。南部で始まったことらしいけど、参加者の人数ぶんの番号札をテーブルに投げて、表になった札だけ残し、裏返った札は取り除かれる。それを繰り返して、最後まで残った番号札の人が勝ち」
「あー、何かの映画で観たな。でも、手作りの札を投げるやり方はフェアじゃないって話だったと思うけど。裏と表で重量のバランスが違っている可能性があるから、確率も五分五分ではないかもって」
「そう。だから、タグ・スローイングには札じゃなくて、その国の硬貨が使われたりするの。硬貨ならバランスに問題はないし、裏表の確率は五分と五分でしょ」
同じ説明を中道もおこなっていた。「......ですから、表と裏がでる確率が半々になるように、公的に製造された通貨を用います。十円玉を二十二枚、平成元年から二十二年まで一枚ずつ用意いたしました。こちらのテーブルの周りにお集まりください」
奥のほうに人が流れていく。大きな会議用の円卓があった。その向こうに立っているのが、運営側の業者らしい。マイクを握った四十代ぐらいの男が中道だろう。
中道はいった。「人数が多いので、代表のかた、一名か二名ずつおいでください」
小笠原は莉子とともに、人垣のなかに身をねじこむようにして、なんとか最前列に到達した。
テーブルには二十二枚の十円硬貨がずらりと並んでいる。いずれも裏、すなわち製造年が記された面を上にしていた。小笠原の目からも、それぞれの表記はしっかり確認できた。
「さて」中道は、マイクを握っていないほうの手で硬貨を一枚ずつ積みあげていった。
「硬貨を振って、年号のない面が上になった硬貨は取り除きます。残念ながら失格です。ご了承ください。では、一回めのスローイングに入ります」
チップのように積みあげた硬貨をつかみとる。手つきはカジノのディラーのようだった。それらが広いテーブルの上に放りだされる。
けたたましい音をたてて二十二枚の硬貨はテーブル上に散らばった。誰もが身を乗りだして自分の番号と同じ製造年を確認しようとしている。
運営側はゆっくりと、平等院鳳凰堂が刻まれた表面のでた硬貨を、一枚ずつ取り除いていった。残った硬貨を一列に並べながら、中道がいう。「一回めのスローイングで残られましたのは、三番、五番、八番、十一番、十二番、十五番、十六番......」
悲喜こもごものため息が沸きおこる。莉子は十六番だ、勝ち残っている。
人々がぞろぞろとテーブルの周りを離れていく、公正さに重きをおいた抽選らしく、たしかに半分ほどの組が脱落していた。
残留している人の輪のなかに楢崎がいた。楢崎はこちらを見て、軽く頭をさげて微笑した。
中道が硬貨を積みあげる。「残りは十三枚です。二回めのスローイングに入ります」
ふと不安になって、小笠原は莉子に耳うちした。「偽物の十円が混じっているってことはないのかな。裏表の重さが違っているとか」
莉子がこちらを見てささやきかえした。「ないと思う。作りものなら音が違うはずだし」
鑑定家の彼女がそういうのなら心配ないだろう。憂うべきは運のみということか。
ふたたび硬貨は投げられた。十三枚の硬貨がテーブルに撒かれる。一見して、また半分ほどが表を上にしたのがわかる。
それらが一枚ずつ取りのぞかれる。中道が告げた。「残られましたのは、八番、十二番、十六番、十八番、二十番、二十二番」
歓声と失意の声が同時に響く。今度も半分ほどの組がテーブルを離れていった。残った硬貨の枚数は、わずかに六枚。莉子はそのなかのひとりだった。
楢崎もその場を動かなかった。ほっとした表情でため息をついている。莉子は自分の番号の書かれた用紙を、楢崎にしめした。楢崎もにっこりと笑って、彼の番号をこちらに見せた。八番。
小笠原は莉子にささやいた。「末広がりのいい数字だ」
莉子は妙な顔を向けてきた。「おじさんくさくない? 末広がりだなんて」
「誰がおじさんだよ」小笠原はむっとしてみせた。
「冗談」莉子は笑った。「楢崎さんには縁起いいかもね」
中道が六枚の硬貨を取りあげた。「三度めのスローイングに入ります」
硬貨は振られた。今度は四枚が裏、二枚が表だった。脱落したのは十一番、そして十六番。
小笠原は、莉子とともにため息をついた。顔を見合わせると、莉子は落胆のいろを浮かべていた。
「仕方ない」と小笠原はいった。「楢崎さんの健闘を祈るしかないね」
そうね、と莉子もうなずいた。
四度めのスローイング。四枚の硬貨が投げられた。表になった二枚が取り除かれる。残ったのは、八番、および二十番。
楢崎が緊張の面持ちでたたずんでいる。ここまで来たからには、是が非でも勝ち取ってほしい。小笠原は心からそう思った。
テーブルの反対側には、くつろいだようすのスーツ姿の群れがあった。二十番は彼らだろう。三十代からせいぜい四十歳ぐらいの痩せた男たちは、抽選の結果に一喜一憂することなく、ただじっとテーブルに目を落としている。
肝がすわっている、と小笠原は感じた。この手の抽選に慣れている業者だろうか。
「残り二枚」中道は、もったいをつけた動作で二枚の硬貨を拾った。「これで決まるでしょうか。五度めのスローイングです」
硬貨がテーブルに投げだされる。今度は、二枚とも裏だった。また硬貨が取りあげられ、六度めのスローイングになる。結果は同じだった。両者ともに裏。製造年の面が上になった。
小笠原は莉子にいった。「はらはらするね」
ところが、莉子は無言だった。
妙な気配を感じ、小笠原は莉子を見た。莉子の目は、楢崎のライバルの男たちに向けられている。
「どうかした?」と小笠原はきいた。
「......いえ」莉子はすました顔でつぶやいた。「べつに」
中道が二枚の硬貨をてのひらに載せた。「さあ、七度めのスローイングです」
硬貨は振られた。いずれも回転しながらテーブルを舞った。その回転が落ち着きだしたとき、一枚が表、もう一枚が裏であることが、はっきりと見てとれた。
やがて硬貨は静止した。裏になっているほうの製造年は、平成二十年。楢崎の平成八年の硬貨は、表にかえっていた。
楢崎ががっくりと肩を落とした。そのいっぽうで、ライバルの男たちは淡々とした顔でハイタッチしあい、勝利を受けいれている。
中道が告げた。「ご覧いただきましたように、抽選結果は二十番。ええと、こちらの方々、株式会社イオナ・フーズのみなさまです」
まばらに拍手が起きるなか、楢崎がうなだれたまま、ぶらりとテーブルを離れていく。
そのとき、ふいに莉子が小笠原にいった。「あの硬貨を押さえてきて」
「え?」と小笠原はたずねかえした。
だが、もう遅かった。莉子は楢崎を追って、小走りに駆けだしていた。
その後ろ姿を見送りながら、小笠原は呆然とたたずんだ。
押さえるって、どういうことだろう。小笠原は首をかしげながら、テーブルに近づいていった。
中道はほかの業者とともに、硬貨を革製の袋にしまいこむ作業に入っていた。
小笠原は中道に声をかけた。「あのう」
「はい?」と中道は顔をあげた。
抽選会にまったく疑問を感じていなかった小笠原は、人差し指を伸ばしていった。「その硬貨、ちょっと指で押さえてみてもいいですか?」
「......ええ。どうぞ」と中道は、怪訝な顔で応じた。
テーブル上の硬貨の一枚に、小笠原は人差し指の先を押しつけた。わずかに浮かすと、十円玉は手の脂でくっついて一センチほど持ちあがり、それからテーブルに落ちた。
普通の十円硬貨にすぎない。これがいったいどうしたというのだろう。
中道はたずねてきた。「もうよろしいですか?」
「はい。......結構です」小笠原は頭をかきながら、テーブルをあとにした。
すでに店内は閑散としつつある。莉子は、その出口付近で楢崎に追いつこうとしていた。
小笠原は走りだし、ふたりに近づいていった。
莉子が楢崎を呼びとめる。「楢崎さん」
楢崎は立ちどまり、振りかえった。あきらかな失望のいろを漂わせている。
しかし、すぐに楢崎はあきらめに似た笑いを浮かべた。「お互い、駄目でしたね」
莉子は複雑な表情とともにいった。「楢崎さん......。ぜひここにお店を開いていただきたかったです」
「そうおっしゃってくださるだけでも......。夢を見れただけでも幸運でしたよ」
「そんな。ほかにきっと、いい物件が見つかりますよ」
「いえ、もういいんです。ここまでの物件はまずないでしょう。私の稼ぎじゃ、都内に店を持つなんて、初めから無理だったんです。明日からまた、地元の直売所に通います」
「......けど、それじゃ奥さまのお気持ちが......」
「家内も納得してくれますよ」楢崎は笑った。「やっぱり地元のほうが落ち着くねって、家内もいうと思います。いろいろありがとうございます、心配までしていただいて。じゃ、ご機嫌よう」
楢崎は背を向けて、外にでていった。力のない足どり。やはり落胆のいろは隠せない。いまにも倒れこんでしまいそうだった。
ガラスごしに見える都会の雑踏に、楢崎の姿が消えていく。
莉子はそれを見送った後、こちらを見た。真摯なまなざしに沈痛ないろが浮かんでいる。
「小笠原さん」莉子はささやいた。「硬貨は?」
「ああ。押さえてきたよ」
すると、莉子は黙って手を差し述べてきた。
「何?」と小笠原はきいた。
「......何って」莉子は真顔になった。「十円硬貨を見せて」
「見せろって? 僕の財布に入ってる十円玉でいい?」
「違うわよ。押さえてきた硬貨」
やっと言葉の意味が理解できつつあった。小笠原はあわてた。「押さえろって、指で押さえるんじゃなくて?」
莉子の大きな瞳が見開かれた。呆れた表情がひろがる。「そんなことして何になるの」
「僕もそう思ったよ。けど、きみにいわれたとおりしたくて」
そのとき、運営側の業者のひとりが歩み寄ってきた。「お客様。抽選会はもう終了しましたので......」
小笠原は業者にいった。「すみません。さっきの十円玉を拝見できないかと......」
すると、莉子が小笠原の腕をつかみ、業者に頭をさげた。「なんでもありません。帰ります。どうも」
莉子が腕をひっぱる。眉間に皺を寄せた業者を後に残し、小笠原は莉子によって外に連れだされた。
神楽坂の賑わいのなかにたたずみ、小笠原はたずねた。「硬貨、見せてもらうんだろ?」
めずらしく莉子は苛立ちを漂わせていた。「いまごろ借りようとしたって意味がないわよ。普通の十円玉を見せるに決まってる。だからテーブル上にある硬貨を押さえなきゃいけなかったのよ」
「だ、だけど、硬貨は作り物じゃないんだろ?」
「ああ、もう」莉子はハンドバッグから携帯電話を取りだした。ボタンを操作してから、それを耳に当てる。「......あ、江来さん。凜田です。どうもおひさしぶりです。お尋ねしたいんですけど、最近売れたエラーコインの出物ってありましたか? 十円硬貨限定で」
しばしの沈黙の後、莉子はうなずいた。「はい。......ああ、十円硬貨のDF。製造年は......平成二十年ね。よくわかりました。ありがとうございます。それじゃまた」
電話を切った莉子に、小笠原はきいた。「どこに電話したの?」
「知り合いの古銭商。鑑定の業界にも横のつながりがあるの。収集家に高く売れるエラーコインは、市場にでてくると古銭商のあいだでその話題がもちきりになるから。きっと知ってると思ったら、そのとおりだった」
「エラーコインって......製造に失敗した硬貨のことだっけ」
「そう。普通なら一般に出まわることなく破棄されるけど、稀に市場にでてくるの。エラーコインにはいろんな種類があって、多いのはプレスの位置がずれている硬貨だけど、レア物にDFってのもある。ダブルフェイス、つまり両面ともに裏あるいは表ってやつ。古銭商の人の話では、ひと月ほど前に三十万円で、平成二十年の両面裏のDFが売れたって」
小笠原は驚きを覚えた。「だとすると、それがさっきの......」
莉子は唇を噛んでいた。「うかつだったわ。音で本物の硬貨と信じたのが間違いだった。エラーコインを使ってたなんて......。とにかく、この抽選会は出来レースよ。最初からタグ・スローイングの結果はきまってた。あの株式会社イオナ・フーズってところが契約できるように仕組まれてたのよ。業者もグルだわ」
「だけど、いったい何の目的で? 業者とつるんでいるのなら、抽選会なんか開く必要はなかったろうに」
「理由はわからない」莉子は、ガラスごしに店内をじっと見つめた。「けど、この茶番に楢崎さんは踊らされて、その結果深く傷ついた。亡くなった奥さんとお店を開く夢を追い求めていた楢崎さんを......。絶対に許されることじゃないわ」
イオナ・フーズなる会社の男たちは、店内でなにやら打ち合わせを始めている。ひとりがこちらを一瞥した。不敵に口もとを歪めてから、また仲間たちに向き直った。
いんちき業者め。小笠原は腹を立てたが、次の瞬間、莉子に注意を惹かれた。
莉子の目はいまや猫ではなく、豹そのものになっていた。闘志を燃やして獲物を見つめる豹のまなざし。怒りの炎が全身から燃えあがっているようだ。
クイーン
二十歳になったばかりの凜田莉子は、チープグッズ本店の一階カウンターに詰めていた。
当初は慣れなかった従業員用エプロンも、いまでは身につけていることを忘れてそのまま帰宅してしまうほどだった。仕事は在庫の整理から商品の陳列、掃除、接客、それにレジと帳簿の管理と多岐にわたる。のんびりとした波照間島の感覚からすれば、ひと月ぶんの労働が一日に押し寄せてくる感じだ。しかし、忙しくはあっても苦痛に感じることはいちどもなかった。働けば働くほど知識が得られる、刺激的な毎日だった。
いまも莉子は七十代とおぼしき婦人の買い取り客を相手に、持ちこまれた品物の吟味に入っていた。
この店は普通のリサイクルショップと違い、じつに多様な品々を受けつける。評判をきいた客が、さらに特異な品を持ってやってくる。日を追うごとに珍品を目にする機会が増えているような気さえする。
今回は山で採ってきたというキノコだった。籠いっぱいに詰めこまれたキノコを一本ずつ取りだして、じっくりと眺める。
なるべくいい値段をつけてあげたい。しかし、そうはいかないときもある。
「んー」莉子は唸った。「残念ですけど、今回なんとか値をつけられそうなのは、こちらの二本だけですね。あとはぜんぶ毒キノコです」
「まあ」老婦は目を瞠った。「まさか、嘘でしょう? 柄の部分を裂いてみて。ここが縦に裂けるキノコは食べられるってきいたけど」
「いえ......。それは俗説ですね。毒があるかないかに拘わらず、キノコのほとんどの柄は縦に裂けます。ハツタケみたいに、食べられるキノコでも縦に裂けないものもありますし」
「......これ毒キノコなの? 縦に裂けるのに」
「ええ。ドクツルタケといいます」
「じゃあ、これはどう? 虫が食べた痕があるでしょ。毒がないって証拠よ」
「違います。猛毒のキノコであってもナメクジや虫は食べます」
「少しかじってみたけど、おかしな味はしなかったわ」
「毒の成分がイボテン酸という旨味成分なので、少量ならおいしく感じるんです。これはテングタケ。ハラタケ目テングタケ科テングタケ属のキノコです。灰褐色の傘に、つぼが潰れてできた白いイボがあり、柄も白くて節のようなつばができているのが特徴です。有毒で、嘔吐や幻覚などの症状を引き起こし、最悪の場合は意識不明に陥ります」
老婦は衝撃を受けたようすだった。「まあ怖い......。だけど、塩漬けにして茄子と一緒に煮ればだいじょうぶでしょ?」
「いいえ。お湯の熱では毒は分解しませんし、茄子に毒を消す成分もありません。塩漬けにしたあとも残る毒もあります。ですから、安全なのはこちらの二本だけなんですよ」
「信じられない......。それ、あまりにも鮮やかな赤いろをしてるから、かえって危ないかもと思っていたキノコよ」
「これはタマゴタケです。おっしゃるように真っ赤でちょっとグロテスクな見た目ですが、食用なんです」
老婦は、毒キノコの山に目をやった。「こっちにも同じキノコが二本ほどあるけど」
「ちょっと違います。これは環状ペプチドを含有したタマゴタケモドキ、そしてこれはベニテングタケです。いずれも食べると危険です」
「へえ」老婦は心底感心したようすだった。「いつものことだけど、凜田さんは本当に物知りよね。キノコにまで詳しいなんて。いったいどこで勉強したの?」
莉子は苦笑してみせた。「本で読んだていどです。で、こちらのタマゴタケですけど、フレンチではオロンジュ、イタリアンではオーボリと呼ばれる高級食材です。それなりに希少価値がありますので、一本百円なら買い取らせていただきますけど、いかがですか」
「それでいいわ。ほんと、勉強になったし。こっちがお金を払わなきゃいけないぐらい」
「とんでもない。毒キノコのほうは、こちらで処分しましょうか?」
「いえ、それは悪いわよ」老婦は笑った。「持ち帰って、燃えるゴミにだすわ」
買い取り手続きを済ませ、老婦が引き揚げていくと、莉子は帳簿に記録した。ついでに、きょう一日の買い取り額の合計をだす。
電卓を使う必要はない。商売人に必須の計算のこつは身についている。八や九などの端数には、それぞれ二と一を足してキリのいい数字にし、計算してからそのぶんを引く。あるいは、数字をいくつかの塊に分解してそれぞれを計算し、最後に合計する。このほうが、電卓に指を走らせるよりずっと速い。
これできょう一日の帳簿はまとまった。間もなく閉店時間だ、社長に提出しよう。
莉子は帳簿を小脇に抱えてカウンターをでると、先輩の男性店員である和久井に声をかけた。「事務室にいってきます。レジよろしくお願いします」
寝具のコーナーでうずくまって整頓に追われていた和久井が、むっくりと起きあがる。「わかった。この値札をつけ終わったら、すぐ行くよ」
「またフトンが増えたんですね。枕のコーナーも拡大してる」
「そうなんだよ。社長が寝具にはやたら力をいれるもんでね。売れないうちから在庫増やすのは考えものだよな」
「なんで寝具にこだわるんでしょう?」
「社長は貧しい家に育って、夜は物置でせんべい布団に包まって寝てたんだとさ。そのコンプレックスっていうかトラウマっていうか、幼少期の反動でフトン買いまくってるんじゃないのかなあ」
客に寝具を安く提供したいという、瀬戸内の思いのあらわれかもしれない。実際、在庫が多すぎてフトンは値崩れを起こしている。たぶん、都内でいちばん安く寝具が手にはいる店だろう。
もっとも、不況のせいか買い取り希望の客に対し、購入を求めてやってくる客の数はさほどでもない。両者のアンバランスさが、店の経営状態を深刻にしつつあるように感じられる。
買い取りカウンターをまかされているだけの莉子には、経営の全貌は把握できない。社長はいつも心配するなと声をかけてきた。それでも気になる。給料の支払いはいちどたりとも滞ったことはないが、店頭における売り上げが微妙なのはあきらかだ。
商品棚の谷間を抜けて事務室に近づく。すると、閉じた扉の向こうから、瀬戸内の怒鳴り声がきこえた。
憤りにまかせて声を荒らげる社長の声を、莉子は初めて耳にした。瀬戸内は告げていた。「だめだ、そんなことは。店を閉めるなんて論外だ」
冷ややかな男の声がいう。「そうはいいましてもね、瀬戸内社長。赤字がかさむいっぽうでしょう。いまのうちに手を打っておかないと、後悔することになりますよ」
「だからといって閉店するわけにはいかない。これは私のライフワークみたいなもんだ」
大仰なだめ息がきこえる。「じゃあ、こうしましょう。買い取りをやめて、在庫の販売に徹するんです。ただでさえ御社は、商品をたくさん抱えすぎていて、しかも毎日のように仕入れや買い取りに励んでる。物ばかり増えて現金は逃げていく、完全にマイナス効果です。いま持っておられる在庫の山を解消するまで、仕入れはしない方針にしてください」
「それでは意味がないんだ」瀬戸内は譲らなかった。「貧しい人たちにわずかでも生活費を提供できるのがリサイクルショップの存在意義なんだ。買い取りをやめたらただの小売業じゃないか」
「社長。いずれにしてもこれ以上、私どもからの融資は無理です。あなたには返済に力を注いでいただかねばならない。いいですか。なんの改革もせずに現状のままでいくなら、御社はすぐにでも倒産します。貧困にあえぐのはあなたですよ!」
莉子は愕然として立ちすくんだ。
倒産......。やはりそこまで追いこまれていたのか。
ふいに、ぽんと背を叩かれた。驚いて振りかえると、社長の娘、瀬戸内楓が立っていた。
「気にしないで」と楓は小声でいった。「いつものことなの。もう何年も、ああやって銀行の人と押し問答してる」
「楓さん......。もし倒産したら、楓さんも苦しい立場に......」
「もう覚悟はできてるけどね」楓はさばさばした表情で、金髪をかきあげた。「わたしも会社の帳簿ぜんぶを見てるわけじゃないけど、負債はかなり膨れあがってる。あちこちから借金してて、多重債務で首がまわらない状態になっているのもたしかだし。お母さんも、ずっと前にお父さんに愛想を尽かして、でていっちゃった」
莉子は何といっていいかわからず、言葉に詰まった。「......そうですか」
「お母さんは再婚して、遠くで新しい人生を歩んでる。どっちにつくか聞かれたんだけどねえ、お父さんを選んじゃった。でも後悔はしてない。お父さんの考えてることは立派だし」
「もっとうまく経営をまわすことができれば、立て直しも夢じゃないと思いますけど」
楓は苦笑に似た笑いを浮かべた。「そんなに深刻に考えないで。ずっとこうだったんだし、これからもなんとかぎりぎりの線でしのいでいけるって」
「買い取りは、やっぱり減らすべきなんでしょうか」
「そんな指示は受けてないでしょ? お客さんへの同情心は、お父さんの経営理念みたいなもんだし。一般のお客さんからの買い取りは微々たるものよ。問題はね、傾いた工場とか潰れた商社から、在庫を大量買いしちゃうことなんだよね。日の出製網繊維からも、ろくでもない品物をいっぱい仕入れちゃってさ。あれは結構なお金を吐きだしてるよ」
「そうでしょうね......」
社長の心意気は立派だ。けれども、溺れている人に投げてやる浮き輪が底を突きつつある。どうすべきだろう。一従業員としてできることはわずかでしかない。
銀行員が扉の向こうで吠えていた。「とにかく、それすらもできないのなら、ただちに人件費を二割カットしてください。でなければ来週には店が開けられなくなりますよ。いいですね、すぐに手を打ってください」
いきなり扉が開いた。興奮したようすのスーツ姿のふたり組が、顔面を紅潮させながら通路にでてきた。莉子と楓には目もくれず、険しい顔のまま脇を抜けて店の出口へと消えていった。
事務室にひとり残っていた瀬戸内陸が、ゆっくりと立ちあがり、戸口からでてきた。
「やあ」瀬戸内は微笑した。「来ていたのか。楓。凜田さん。かっこ悪いところを見せてしまったね」
さすがに瀬戸内は応えているらしく、その笑顔はいつもに比べて弱々しかった。白髪頭も乱れがちだ。よほどかきむしったのだろう。
莉子は当惑しながらいった。「瀬戸内さん......。申しわけありません」
「どうして謝るんだい?」
「だって......。経営が思わしくないのに、瀬戸内さんはわたしを雇ってくださいました。銀行の人も、人件費をカットしろっていってる。わたしは瀬戸内さんのご厚意に甘えていました。深く反省してます」
瀬戸内は笑った。「よしてくれ。きみは給料の何倍ぶんも働いているよ。経営がうまくいっていないのは、私のせいさ。私はやりたいことを好き放題にやってきた。たぶんその方針は今後も変わらない。やめるんじゃなくて、なんとかやりくりする方法を見つけるだけさ」
「お父さん」楓はつぶやくように告げた。「そうはいっても、銀行の人の意見は絶対でしょ。お金が借りられないうえに、ほかに経費を捻出できる見込みがないのなら、人件費を削らなきゃ。わたし、当分はお給料なくていいから」
はっとして莉子は同意をしめした。「わたしも......」
「待て」瀬戸内は手をあげて制した。「ふたりとも、気持ちは嬉しいけど、そんなに急がなくていい。楓はずっと昇給なしで頑張ってもらってるし、私は零細企業の経営者の常で、ずっと自分の給料なしだ。それに身内は切りつめてもいいが、凜田さんに苦労を背負わすわけにはいかない」
莉子は胸が苦しくなった。「わたしがお給料をもらっている場合ではないと思います」
しばし沈黙があった。視線が交錯しあった。
やがて、瀬戸内は静かにいった。「やむをえないか。ここまでの状況になったのは私の責任だ。凜田さん......。本当にすまないと思っている。でも、あなたを雇いつづけるわけにはいかなくなった」
「......はい」
「そんなに悲観的な顔をしないでくれ。きみには独立のときがきたんだよ」
「え?」莉子は驚いた。「独立、ですか?」
「もう成人して、立派な大人だ。数字にも強くなったし、ひとりで経営もやっていけるだろう。いまや知識もとんでもなく豊かだし、持ちこまれる品物の鑑定についても素晴らしい目利きだ。正直、ここまでなるなんて思ってもみなかった。けれども、半年ぐらい前から強く可能性を感じるようになった。きみはこれから、鑑定家としてやっていくべきだ」
「か、鑑定家ですか? だけどわたし、なんの資格もとってないし」
「ああ。資格をめざして勉強したわけじゃなくて、ひたすら実践だったからな。博識ではあっても、その知識には偏りがある。だから資格試験じゃ不利だろう。きみはフリーランスの鑑定家として即戦力になりうる。公的なお墨付なんか得ようとせずに、ただちにプロとして看板を掲げてデビューしてしまえばいい。そのほうが時間もお金も節約できるよ」
楓が微笑とともにうなずいた。「いけるかも。凜田さん、ここにある鑑定本や商品カタログのほとんどを暗記しちゃってるみたいだし。お客さんも感心しきりだしね。いいじゃん。なんでも鑑定家として独立しちゃえば? きっと需要あるよ」
莉子は戸惑いを深めた。「なんでも鑑定家って......」
「いや」瀬戸内は背を向けて事務室に入った。「私も楓とほとんど同じことを考えてた。ふたりとも、こっちに来てくれ」
瀬戸内は奥に置かれたダンボールのなかをまさぐっていた。莉子は楓とともに、事務室に入った。
「あった」瀬戸内は一枚の板状のものを手に立ちあがった。「何年も先のことだと思ってたけど、早い船出にもそれなりにメリットはある。ほら、凜田さん。これがきみの店だ」
それはアルミ製の看板だった。業者に発注して作らせたものらしい。艶消しの銀に黒文字が刻まれている。万能鑑定士Q。看板にはそうあった。
莉子は呆然としながらそれを眺めた。「万能鑑定士......?」
瀬戸内はうなずいた。「商売ってのはインパクトがなきゃ。世のあらゆる鑑定業者をぎょっとさせる勢いで、この看板を掲げるんだよ」
「けどわたし、鑑定できる品物なんてごくわずかですし......」
「謙遜するな。家電から宝石類、ブランドバッグまでなんでもござれじゃないか。美術品についてはまだまだこれからだろうが、きみの財産である感受性が役に立って、あらゆるデータを吸収していくだろう。どれだけのレベルの客層を相手にできるかは、きみの頑張りにかかってる。そこが個人事業主の大変なところでもあり、またいちばんの楽しみでもあるんだ」
楓がきいた。「お父さん。このQって何?」
「あん? ああ、これは屋号みたいなもんだな。本当は士のつく職業は資格を持っているという意味になるから、師匠の師を使ったほうがいいんだが、字面が悪くてね。これが正式な資格所有者の肩書ではなく、店の屋号であることを表すために、Qとつけた。いちおうクイーンって意味なんだけどな。凜田さんの個人事業なわけだから、女店主だし。万能鑑定士クイーンだ。いいだろ?」
思わず莉子は楓を見た。楓も莉子を見かえした。眉をひそめている。
クイーン......。社長は尊敬すべき人物だが、そのネーミングセンスだけはどうかと......。
少なくとも、Qってどんな意味ですかと尋ねられたとき、自分の口からクイーンですと答える気にはなれない。恥ずかしくてとてもいえたものではない。
「あのさ」楓が表情を凍りつかせた。「万能鑑定士って言葉を使うために、クイーンって付け加えてダサくなるぐらいなら、いっそのこともっと抽象的な名称にしたら? どんな物でも真贋や真価を見抜く、人呼んで千里眼とか」
「やっぱり親子だな。お父さんもそれは思いついた。だが千里眼は商標登録されててね」
「そのQっての、ほかの言葉じゃ駄目なの?」
「見てのとおり、もう看板を作っちゃったしな」
「じゃあ、せめて読み方のクイーンってのをやめない? キューでいいと思うけど。意味は説明しなくてもいいんじゃない? 万能鑑定士キュー。語呂がいいし」
瀬戸内は看板に目を落とした。「そうかな? まあ、読み方は本人に決めてもらえばいい。凜田さん、この看板を進呈するよ。それと、ささやかながら独立資金は提供させてくれ。都内の店舗物件を借りて創業できるよう、手伝わせてもらうから」
莉子は胸が高鳴るのを覚えた。「だ、だけど、瀬戸内さんもお金が必要なときなのに......」
「きみの独立によって今後、人件費は浮くわけだから、ご祝儀ぐらい弾ませてもらうさ」
「瀬戸内さん......。感謝してもしきれないぐらいです......」
「うちのほうに持ちこまれた買い取り希望の品も、ときどき、きみのところに持っていって鑑定してもらうかもしれない。そのうち評判を呼んで、お店は繁盛するだろう。私はきみの才能を信頼してるからね」
楓は笑って莉子にいった。「チープグッズが駄目になったら、わたしを雇ってね」
「こら、楓」瀬戸内は、いつものように自信に満ちた微笑で、莉子をまっすぐに見つめてきた。「これは強制ではないよ。道を選ぶ権利はきみにある。きみの自由だ。だから、あらためて尋ねる。今後どうする?」
莉子はいまにも泣きだしそうだった。わたしのために、ここまでしてくれるなんて。こんなわたしのために。
「ありがとうございます」莉子は震える声でいった。「本当に......。心から感謝します」
プロの鑑定家。波照間島をでたときには思ってもみなかった職業だった。あの島に渇水対策を実現できる職業ではない。それでもいずれ力を持って、なんらかのかたちで役立てるようになりたい。
わたしも貧しい人々のために力になろう。最低限必要な稼ぎ以外、儲けに走らず、ただ顧客の満足のために全力を尽くそう。苦しんでいる人を見かけたら、誰であろうと手を差し伸べよう。それがわたしの学んだすべてだから。わたしの成しうるすべてのことだから。
バナナ
小笠原悠斗にとって、凜田莉子と初めて知り合った日の翌日と翌々日は、ひどくじれったいものだった。
土曜、日曜と彼女に会えない日がつづく。ただの取材対象、それも力士シールの件についての参考意見をもらうだけの相手だというのに、存在が気がかりで仕方がない。いまごろどうしているだろうか、小笠原は二日のあいだに幾度となくその思いをめぐらせた。
それでも土日はただ寝て過ごしていたわけではない。彼女にとって有益と思える情報をインターネットから引きだしていた。ほんのささいなことにすぎないが、それでも彼女への土産とするには充分だろう。
ようやく月曜を迎えた。晴れ渡る空の下、小笠原は真っ先に万能鑑定士Qの店を訪ねたかったが、辛くも自制した。俺は会社員だ。午前九時には勤務先に顔をださねばならない。
ところが、角川書店本社ビルに赴いてみると、いつもとはようすが違っていた。
ロビーには、見慣れた面々が途方にくれたようすでたたずんでいた。『週刊角川』の編集員、記者ばかりだった。
荻野編集長の姿はなく、副編や各班長、次長もいない。同僚の宮牧拓海の話では、トップは社長をまじえて重要な会議をしているらしく、ゆえに編集部は閉鎖状態だという。記者たちは編集部に立ち寄らず、直接取材先に出向くよう指示がでているらしい。編集部員も、ライターと外で打ち合わせするよう伝えられているようだ。
宮牧はいった。会議なら、会議室を借りてやりゃいいのにな。俺らが閉めだされたってことは、いよいよ編集部そのものの存続が危ういってことじゃねえのか。明日にでも『少年エース』第二編集部の表札がかかっていることだろうよ。
小笠原は戸惑いを深めたが、心の片隅ではこの状況を歓迎していた。
『週刊角川』が廃刊になったりしたらおおごとだが、おそらくそこまでの事態には陥らないだろう。規模を縮小したり、編集部が移転することはあるかもしれないが、ひとまず現状においては、願ってもないことだと思った。いますぐ凜田莉子のもとに行ける。
決して美人にうつつを抜かしているわけではない。これは仕事だ。会社に与えられた職務だ。
馬鹿に元気だな、先輩の記者に声をかけられた。いえ、べつに。小笠原は言葉を濁し、職場のビルを後にした。
足取りも軽く飯田橋駅方面、神楽坂西へと歩を進める。神田川沿いには爽やかな風が吹き、桜の花びらを舞い散らせていた。
しかし、喜びに満ちた気分とは裏腹に、どこか不穏な空気を感じる。
ひっきりなしに緊急車両のサイレンの音がきこえる。上空をヘリが飛びまわっている。報道関係もあれば、自衛隊の機体も見える。交差点では、大久保通りを駆け抜けていくテレビ中継車を目にした。NHK、それからフジテレビの報道局の専属車両が、いずれも官庁街方面に向けてレースのように走っていく。TBSの中継車は、逆方向を日指していた。
なにか事件でもあったのだろうか。いや、それなら『週刊角川』の記者たちにいっせいに連絡が入るはずだ。けさは同僚も上司ものんびりとしたものだった。報道管制が敷かれているようすもない。
要人の来日か、もしくはどこかに脅迫電話でもかかってきたのだろう。都内においては、取り立てて珍しい光景ではないと小笠原は思った。
万能鑑定士Qの看板に近づいた。店の前にはリヤカーが停まっている。月刊ガンダムエースの表記。准教授の氷室が引いていったものだった。
自動ドアを入ると、なかにいたふたりは話しこんでいた。デスクについていた莉子、そしてソファにおさまった氷室が、いずれも言葉を切ってこちらに目を向けてきた。
莉子は、あの特徴的なややぎこちなくみえる笑みを浮かべた。「あ、小笠原さん。おはようございます」
きょうの莉子は白のロングニットで清楚な印象だった。派手なパープルも似合うが、おとなしいファッションも無難に着こなしている。首丈の長いタートルネックによって彼女の小顔は強調され、同時に瞳もより大きく見えている。
氷室のほうも革シャンにデニム、スニーカーというカジュアルないでたちだった。精悍な顔つきは大型バイクでも乗りまわしそうに思えるが、この洒落た服装でリヤカーを引いてきたのだろうか。ウェーブのかかった髪は整髪料できれいにセットしてあるのに、大学の准教授の考えることはわからない。
その氷案は愛想よく声をかけてきた。「おはよう、雑誌記者さん。借りた物をお返しするよ」
彼が指さした先に、ガードレールの波板が立てかけてあった。数十枚の力士シールもそのままだった。どこも変わったところはないようだ。
小笠原はきいた。「それで、科学鑑定の結果は?」
ふいに氷室は浮かない顔になった。「いまも凜田さんに説明してたところなんだけどね。結論からいえば、さっぱりわからないんだ」
「わからない?」
「凜田さんの指摘どおり、描き手がふたりいることはたしかだ。ESDAという静電検出装置を使って筆圧痕を解析したら、あきらかに異なる二種の特徴が浮き彫りになった」
莉子は唸った。「問題は、そのふたりのうち、どちらが先に描いたかなんだけど......」
「さっきもいっただろ」氷室は身を乗りだした。「高速液体クロマトグラフを使えばインクの化学分析が可能だし、どちらが古いかすぐにはっきりする。今回もそのはずだった。けれども、うまくいかないんだ。なぜか。二種類の力士シールはいずれも同じ数値をしめしている」
小笠原は驚きを覚えた。「同じ数値ですって?」
「そうだよ。インクの成分も、経年劣化もまるで同じ。こんなことはありえないんだ。分析では、描かれた時期について数時間の差であっても検出できるからね。もっと驚異的なのは、一枚のシールのなかですら、線がどの順番で描かれたかわからないことだ。輪郭が先なのか、目、鼻、口のどれを最初に揃いたのか、それすらも不明だ。顕微鏡解析による斜光線照明検査やUV照明検査で、ミクロン単位の筆圧や筆跡の違いを割りだせるというのに、力士シールのインクときたら全部が同一。これをうのみにするなら、すべてのシールのすべての線が一秒の違いもなく同時に描かれたってことになる」
「まさか、ありえないでしょう。そんなことは」
「そのとおり、不可能だよ。ただし、機械の数値は同一になってる。原因を突きとめるためには、機械以外の方法を使わなきゃだめだ。残念ながらうちの研究室には、実行できる設備も技術もない。やるとしても長期にわたるだろう。半年、あるいは一年......」
「あのう」小笠原は恐縮しながらいった。「本当に、その調査結果に間違いはないんでしょうか。数値がぜんぶ同じだなんて......。機械が故障していたかも」
氷室はむっとした。「僕の科学鑑定に疑いを持つのかい? まあ雑誌記者さんは疑いを持つのが仕事かもしれないけど、それならライバル誌の記事はどう評価してる?」
「......ライバル誌?」
「おや?」氷室はふしぎそうな顔になった。「まさか、まだ見てないの?」
「見るって、何を?」
そのとき、莉子が一冊の雑誌を差しだしてきた。写真週刊誌。『フライデー』だった。
莉子はいった。「先週の金曜にでた雑誌。あなたもわたしも忙しく歩きまわってたもんだから、気づかなかったけどね」
「え!?」小笠原はあわてて雑誌を手にとった。表紙の見出しのなかに小さく、力士シール驚愕の真実。そうあった。
雑誌を開いて記事をさがす。さほど重視されていないニュースなのか、記事はずいぶん後ろのほうにあった。それも見開きではなく、たくさんの話題を詰めこんだトピックスのページのなかだった。
力士シールの写真が掲載されている。小笠原は記事を読みあげた。「警視庁の科学捜査研究所が、都内に増殖中のいわゆる〝力士シール〟の科学鑑定をおこなっていたことがわかった。結果、これらのシールはすべて手描きであり、ふたりの描き手がいることは証明されたが、シールが描かれた順番は判別できず、どちらのタッチの描き手が先に描いたのかもわからなかった。科捜研では、科学鑑定を経てもこれらがあきらかにならないのは異常なことであり、さらに詳しく検査を進めるとしている」
思わずため息が漏れた。なんてことだ。まるっきり先を越されている。それも、こちらの記事は科捜研のお墨付きだ。
氷室は肩をすくめた。「よかったじゃないか、小笠原さん。この記事がでても世間じゃたいして話題にならなかった。あなたが『週刊角川』に書いていても同じ結果になっただろうし、部数が伸びずにがっかりという事態に陥らずに済んだ」
「まあそうですけど」小笠原は複雑な気分だった。「科捜研すら描かれた順番を分析できなかったなんて。ふしぎですね」
「彼らも僕らと同じく、クロマトグラフィで分析したにすぎないだろうけどね。気になるのなら、科捜研に取材してみるといいだろう」
「科捜研かぁ......。先輩記者の力を借りないと、取材を申しこめそうにないな」
「なら、この場の結論で充分じゃないか。『万能鑑定士Q』の鑑定能力は科捜研に匹敵するよ。そう記事に書いたら? Qってどんな意味ですかって投書がくるかもしれないが。凜田さん。実際、どんな意味なんだい?」
莉子にとって、なぜかそれは答えたくない質問のようだった。小笠原のときと同じ反応を莉子はしめした。「氷室さん。そういえば、マラソンの高橋尚子さんってなぜQちゃんなんですか?」
すると氷室はあっさりと答えた。「陸上部の歓迎会でオバQの歌を歌ったからじゃないの?」
小笠原は面食らった。「そうなの?」
莉子も目を丸くした。「そうなんですか?」
「さあ」と氷室はいった。「僕も見たわけじゃないけど、噂じゃそうきいたよ。じゃ、昼から講義があるし、そろそろ行くよ。小笠原さん、頑張って。凜田さん、また何かあったら声をかけてくれ」
立ちあがった氷室に、凜田は微笑みかけた。「いつもありがとうございます、氷室さん」
どうも、と小笠原は氷室に頭をさげた。氷室も会釈をして、自動ドアの向こうに消えていった。
ガラスごしに外を眺める。リヤカーが放置されていた。俺はまたあれを引いて帰るのか。
「小笠原さん」莉子が申しわけなさそうな顔をした。「残念だけど、取材はこれまでね」
「......あ、ええ。そうだね。でも」小笠原はうわずった自分の声をきいた。「新たに別のことを取材しようと思って」
「別のこと?」
「そう。先週の金曜、神楽坂駅の超優良物件を見に行ったろ? 運営側はタグ・スローイングでインチキをしていた可能性が高いし、誰が契約するかも、最初から決まってたらしい。公取法に照らしあわせるまでもなく、許されることではない」
莉子の目が大きく見開かれた。「あの一件を取材するの?」
「そのつもりだけど......。よければ凜田さんにも協力してほしいと思ってる」
「もちろん!」莉子の顔は輝きだした。「楢崎さんや、ほかの参加者の人たちを落胆させた茶番劇だもん、真実を暴かなきゃ。でも、取材することは正式に決まってるの?」
「ああ、決まってるよ。そのう、編集長の荻野もおおいに乗り気でね。ああいう奴らには鉄槌を下すべきですと進言したら、そのとおりだ、おまえにまかせるといってくれてね」
「すごーい。上の人たちからも信頼されてるのね、小笠原さんは」
「それほどでもないけどね、はは」小笠原は自分の乾いた笑い声を耳にした。
思わず冷や汗がにじみでてくる。本当は上司の了承など取りつけていない。すべては俺の独断だ。
けれども、世の不正を暴くのは雑誌記者に課せられた使命だ。莉子も喜んでくれている。行動を起こすべきだ。会社の方針を無視しているわけではない。そもそも、編集長たちは秘密の会議ばかりで、いっこうにつかまらないではないか。
決意を胸に抱きながら、小笠原は懐から紙片を取りだした。「これ見て。インターネットのサイトをプリントアウトしたものだけど」
四つ折りの紙を開いて莉子に差しだす。莉子はそれを受け取った。「株式会社イオナ・フーズ......?」
「あの抽選会を勝ち抜いて、物件の契約を手中におさめた会社だよ。その公式ホームページ」
「へえ......。ずいぶんとシンプルなサイトね」
実際、それはホームページ作成ソフトで一時間もあれば作成できると思えるほど、簡素かつ安易なデザインだった。社名もロゴではなく、ただテキスト文字を拡大しただけ。数枚の写真のほか、会社概要と今月の活動内容がある。サイトの掲載内容はそれだけだった。
莉子は会社概要を読みあげた。「社名、株式会社イオナ・フーズ。本社、渋谷区道玄坂一丁目十二番一号、渋谷マークシティ内。事業内容、当社輸入の自然食品による料理教室の運営、開催......」
「料理教室についてはいちばん下に書いてあるよ。きょうの午前十一時から、神田の空き店舗を会場にして開催するらしい。そのあと午後二時に上野駅前会場、そして夜七時には、神楽坂駅前会場にて開催とある。間違いなく、先週契約したばかりのあのテナントだよ」
「ずいぶん急ね。内装も施さずに、料理教室だけ開くつもりかしら。それも一日かぎりで、その後の予定は未定......」
「おかしな会社だけど、いちおう法人登記はされてるみたいだよ。フィリピンとインドネシアからバナナを輸入してるらしい。そこの写真にも載ってるだろ?」
サイトに掲載された写真のひとつは、港の税関検査を受けるようすを写したものだった。倉庫のような場所の片隅で、まだ緑いろのバナナのふさがダンボール箱から取りだされている。箱の側面には(株)イオナ・フーズと印刷してあった。青い制服姿の税関職員らがバナナを手にしてチェックしている。
莉子は紙に印刷されたその写真をちらと見たが、すぐに立ちあがり、ハンガーラックからピーコートを手にとった。
小笠原はきいた。「どうかしたの?」
ピーコートを着こみながら莉子はいった。「その写真、どこか変だと思わない?」
「え?」小笠原は写真を眺めた。
きのうパソコンの画面でもしきりに観察した写真だった。税関職員の服装も本物の画像と照らし合わせた。偽物とは思えない。社名も間違いなくダンボールに印字してある。
だが莉子は真顔で告げた。「その写真は税関のものじゃないわ。でっちあげよ。イオナ・フーズなる会社はバナナの輸入なんかしていない」
「なんだって? どうしてわかる?」
「写真の左端、奥のほうに事務用デスクがあるでしょ。その上にペン立てがあって、緑いろのマーカーペンがおさまってる。見える?」
「ああ......。これが? ぼやけてるけど、なんとかわかるよ」
「それはコクヨの蛍光マーカーペン、ラインボルト。二〇〇七年のグッドデザイン賞も受賞してるぐらい、変わった形状が特徴なの。赤、青、黄の三種類しか発売されてない。暗い場所でも色の種類が判別できるように、キャップのかたちが違っていて、赤はまっすぐ、青は歪曲してて、黄は尖ってる。そのペンは黄よね」
「だけど......緑いろになってるよ」
「画像編集ソフトで特定の色を別の色に変えたのよ。具体的にはフォトショップで『色合・彩度』ダイアログから『編集』で色を指定。写真のなかの黄いろを緑いろに変えたの」
「どうしてそんなことを?」
「バナナの色を変えるためよ。植物検疫法により、黄いろに熟したバナナを輸入する事は禁じられてる。もし害虫が寄生していたら、日本の農作物に被害を及ぼすからよ。だから、船便で届く輸入バナナはかならず緑いろなの。けれども日本の小売店では、室と呼ばれる熟成室で追熟させて、黄いろくなったものしか販売されない」
「こいつらは税関を装った写真を撮ろうとして、緑のバナナが手に入らなかったわけか。それで写真をいじって違和感をなくそうとしたんだ」
「社名をネットで検索された場合に備えてそのサイトを作っておき、信用を得ようとしたんでしょうね。輸入業者は税関検査の写真を載せるところが多いし、その一枚があればこまごました説明をせずに済むと思ったんでしょう」
小笠原は衝撃を受けずにはいられなかった。偽造写真に対してではない。莉子の恐るべき鑑定眼。まさに身震いを覚えるほどだった。
あの一瞬の観察で、莉子はなにもかも見抜いてしまった。写真にごく小さく映っているペン立てを、小笠原は凝視した。形状はルーペなしにはわからないほどだ。しかし莉子は、裸眼ながら即座に判別するに至った。
まったく恐るべし、万能鑑定士......。Qがどんな意味なのかは、いまもって不明であるが。
ハンドバッグを手にした莉子が、自動ドアに向かう。「夜七時まで待ってられない。午前十一時からの神田の料理教室、ぜひ拝見しなきゃね」
「もちろん」小笠原も後につづいた。「ここまでして、いったい何を目的にしてるのか、ぜひとも知りたいよ」
「あ、小笠原さん」
「何?」
「充分に気をつけてね」莉子は神妙につぶやいた。「さっきの写真、税関職員の制服は本物だった。やってることは雑だけど、それは時間的に追いこまれたからと思うべきね。ただの詐欺グループでないことはたしかだわ」
莉子が外にでていく。その後ろ姿を、小笠原は呆然と眺めた。
危険のなかに飛びこむ。思わず寒気が襲った。相手の目的も正体もまるでわからない。それでも、相手側のテリトリーに踏みこまねばならない。光ひとつない闇のなか、何に襲撃されたかすら判然としないまま、食い殺されてしまうことさえ充分にありうる。
料理教室
サイトに地図は掲載されておらず、住所しかなかったが、定刻の寸前になんとか到着することができた。国道十七号、中央通り沿いに建つ平屋建て。どうやら潰れたコンビニエンスストアの跡らしい。看板も内装も取り払われてテナント物件になっていたところを、イオナ・フーズが押さえたようだ。
小笠原は莉子とともにその会場の前に立った。
イオナ・フーズ料理教室、入場無料と記された手書きの紙が窓ガラスに貼りつけてある。装飾はそれだけだった。
入り口の前では、三十代ぐらいのスーツ姿の男がふたり、歩道を行き交う人々に呼びかけている。自然食品輸入販売のイオナ・フーズです。新鮮なバナナの調理法をご覧ください。できあがりましたら、みなさまにご賞味いただきます。
駅に近いだけあってそれなりに人の往来もある。足をとめ、なかに誘われていくのは高齢者ばかりだったが、ガラス越しに見える場内のパイプ椅子は八割がた埋まっている。五十人ほどで定員だろう。
莉子はつぶやいた。「なんだか胡散くさそうな催しね。健康食品とか売りつけられそう」
「雰囲気はそんな感じだな」小笠原も同感だった。「怪しげなセミナーのにおいがぷんぷんする」
「しかもバナナの調理法って......。ミキサーでジュースにするぐらいしか思いつかないけど。スイーツの盛りつけ方でも教えてるのかしら?」
「チョコバナナとかじゃないかな」
「そんなのチョコを塗って冷凍するだけでしょ。わざわざ教える必要がある?」
「多少はあるんじゃないのかな。バナナが曲がりすぎていると串に刺さりにくいから、なるべくまっすぐなやつを選びなさい、とか」
「それ料理教室っていうかなぁ」
業者が声を張りあげた。「間もなく締め切りです。ご入場されるかたはお急ぎください」
莉子が歩を踏みだした。「行きましょ」
小笠原も並んで進んだ。業者がこちらを見る。いらっしゃいませ、とにこやかな顔で頭をさげてきた。
神楽坂での抽選会に来ていた連中のひとりだ、と小笠原は気づいた。一瞬ひやりとしたが、男がこちらを注視するようすはなかった。記憶に残っていないのかもしれない。
ベニヤの壁が剥きだしの場内は、しんと静まりかえっていた。パイプ椅子を埋め尽くす高齢者たちは互いに知り合いではないらしく、ただじっと黙って座っているだけだ。彼らが見つめる方向には、壁を背にしてキッチンのセットが組まれている。流しと収納棚、大きな業務用冷蔵庫、それに調理器具がずらりと並んだテーブルもあった。ワゴンには、食材が山のように積みあげられている。
予想よりも本格的だと小笠原は思った。キッチンは持ちこまれたものらしく、設置位置は、おそらくコンビニ経営時にレジ裏だった場所だ。テナント物件ならまず水まわりは完備されているし、移動料理教室にはうってつけなのだろう。案外、理にかなった営業方針なのかもしれない。
最後列にふたつ空席があった。小笠原は莉子と目で合図し、無言のうちに揃ってそれらの席におさまった。
腕時計をちらと見る。間もなく十一時だ。小笠原はデジタルカメラをポケットから取りだした。電源をいれ、フラッシュはオフにする。充分な明るさだ、照明がなくても撮影できる。
ところが、業者のひとりが歩み寄ってきて、小笠原に声をかけた。「すみません。撮影禁止ですので」
小笠原は意外に思ってきいた。「カメラ、駄目なんですか。調理法を記録したかったのに」
「恐縮ですが、メモをおとりください」
そのとき、後方に立ってハイビジョンカメラをまわしているスーツ姿の男を、小笠原は視界の端にとらえた。「あの人は?」
「彼は私どもの社員です。一般参加のかたは撮影できませんので、どうかご了承ください」業者はそういって、さがっていった。
莉子が眉をひそめてささやいた。「へんね。よほどの有名人でも講師に呼んでるのかしら」
しかし、莉子が口にした憶測が当たっていなかったことは、次の瞬間にあきらかになった。
さきほど入り口で呼びこみをしていた業者のひとり、三十代の痩せた男がエプロンをまとって、キッチンのセットのなかに立った。
男はにこやかにいった。「みなさま、こんにちは。イオナ・フーズの立浪瑞樹と申します。本日は、地中海風のバナナ天麩羅の作り方をお教えいたします。ご家庭でぜひお試しくださいませ」
莉子は呆れた顔で小笠原を見つめてきた。小笠原も当惑とともに見かえした。
社員による料理教室、それもバナナを油で揚げるのを撮影禁止にするとは。よほどの秘密主義なのだろうか。
なんにせよ、こちらは秘密裏に取材にきている身だ。手ぶらでは帰れない。雑誌記者が持ち歩く記録媒体はデジカメのほかに、もうひとつある。
小笠原は胸ポケットにおさまったメモリーレコーダーの録音ボタンを指で探りあて、こっそりと押した。
立浪は笑顔で告げていた。「ご参加のみなさま全員に試食していただくため、こちらの大きなフライパンを三つ、同時に使います。この料理は、トルコの一般家庭に半世紀前から広く普及していたものです。バナナのほかに食材は、トルコ料理の常といたしましてトマト。それからさつまいも。卵。そして、ここが面白いところですが、コンソメキューブをご用意ください。お好みによって、薄味がよいと思われるかたはブイヨンをご選択ください。あとは薄力粉と油です」
料理教室が始まった。立浪のほか、ふたりの社員がキッチンに立った、三人が各々ひとつずつフライパンを受け持つようだ。コンロに火をいれ、フライパンに油をいれて蓋をする。
さつまいもを取りだし、包丁で千切りにする。へたではないが、慣れていない手つきだった。なにしろ五十人前を用意するのだから、三人がかりでも相当な分量だ。
千切りにしたさつまいもを水にさらしてから、大きな缶で大量の薄力粉と卵、水を混ぜる。ホウキのように巨大な泡立て器には、参加者からどよめきがあがった。そこにさつまいもをたっぷりと流しこむ。
料理教室というよりは、学校の給食室もしくは被災地の炊き出しの様相を呈してきた。三人は休む間もなく忙しく立ち働きつづけている。
ひとりが冷蔵庫に向かう。バナナが取りだされた。皮はすでに剥いてあった。丸裸のバナナが数十本、ワゴンに堆く積まれていく。まるで動物園の猿山の餌だ。
「さて」立浪はすでに汗だくだった。「ここでコンソメキューブを細かく砕きます。ご家庭では一個で結構ですが、いまは五十人ぶん必要ですので......」
コンソメキューブが十数個ずつ、三人に分配される。立浪たちはミートハンマーで、固いコンソメキューブをがんがん叩き、粉々に砕いていった。
力ずくの数分間の作業は終了し、フライパンの蓋が取られた。バケツのような容器に、これも十数本ずつに分けられたバナナが、それぞれのフライパンにいれられる。
一瞬、中華鍋のように炎が立ち昇り、油で揚げるにぎやかな音が場内にこだました。
立浪は長い菜箸でフライパンのなかのバナナを転がしながら、大声でいった。「ここではきわめて強い火力で揚げていますが、みなさんのご家庭でおつくりになる場合、百八十度ぐらいで材料をいれてください。さて、揚げながらトマトの準備です」
またしてもトマトの山が運びだされてきた。三人はフライパンを火にかけたまま、その近くにまな板を置いて、トマトを細かく刻んでいった。一個ぶんを切り終わると、それらをフライパンのなかにまんべんなく振りかける。激しく油が沸き立つ。そして、すぐに次のトマトを刻みにかかる。
イオナ・フーズの三人は、ところどころに危なっかしい手つきが見られるものの、総じてひたむきで実直、まじめに調理に取り組んでいた。小笠原は、当初の怪しげなセミナーという印象を薄らがせつつあった。こんなに大勢のぶんの料理をいちどにつくるとは意外だったが、彼らは真剣にこの仕事に臨んでいる。途中、退席する参加者も何人かいたが、それらを引きとめようとする素振りも見せない。なにかを売りつけようとする気配もない。ひたすら、調理と格闘しつづけるだけだ。
やがて三人がコンロの火を消した。立浪はにっこりと笑って告げた。「お待たせしました。地中海風バナナ天麩羅の完成です。それではみなさまに召し上がっていただきます」
試食はセルフサービスだった。キッチンの端に使い捨ての紙皿と割り箸が用意され、それを手に並び、ひとり一本ずつバナナ天麩羅を受け取っていくしくみだ。
小笠原も莉子とともに列に並んだ。料理が一品だけということもあり、列の消化も早い。すぐに小笠原たちの番がきた。
立浪は一本のバナナ天麩羅を菜箸でつまみとり、小笠原の皿の上に載せながら、愛想良くいった。「イオナ・フーズのバナナを今後ともよろしくお願いします」
あいさつはそれだけだった。商品のごり押しもなければ、契約の強制もない。参加した高齢者たちは、それぞれパイプ椅子に戻って試食を始めている。早くも食べ終わった人は外にでていくが、社員が呼びとめるようすもない。
莉子はふしぎそうな顔をして、手にした皿の上のバナナを眺めていた。
小笠原はいった。「食べてみようか」
「そうね」と莉子はうなずき、バナナ天麩羅を口に運んだ。
どれどれ。小笠原もひとくち食べてみた。
揚げたてだけに、衣の食感はよかった。ぱりっとしていて歯ごたえも悪くない。
しかし、そのあとにくる味は、なんともいえないものだった。
バナナの甘さは天麩羅とそれなりにマッチしている。しかしそのほかの食材は、あまり舌に影響を与えていないように思えた。トマトは驚くほど薄味で、いれた意味はわからない。コンソメキューブも同様だった。
とはいえ、食通でない俺にわかろうはずがない。あれらの食材は、香りに貢献しているのかもしれないし、天麩羅の衣の食感に役立っているのかもしれない。
だが、莉子も浮かない顔をしていた。眉間に皺を寄せながら、ただ黙々と食べつづけている。
ふたりとも完食した。会場の扉のわきに、紙皿と割り箸を捨てるためのダンボール箱があった。そこにゴミを投げいれて、外にでる。
しばらく会場から遠ざかり、歩道で小笠原は足をとめた。
「どうだった?」と小笠原は莉子にきいた。
「......美味しくも不味くもなかったわ」
「やっぱり? 僕もそうだよ。料理のことはよく知らないから、わからないだけかと思った」
「いえ。地中海料理のレシピとして考えた場合、食材の選択はそれほどおかしくもないんだけどね。日本では農水省がバナナを果物に分類してるけど、本来、バナナの木ってのは樹木じゃなくて巨大な草なの。だから諸外国では野菜として扱われてるし、トマトやさつまいもと揚げるのも奇異なことじゃないわ。だけどね......」
「なにが気になる?」
「どうしてバナナを揚げはじめてから、トマトを切ったんだろ。先に切っておけばよかったのに」
「新鮮味にかかわるから、じゃないの?」
「変わらないわよ。トマトはベースの味を調えて、コンソメキューブの肉のくさみも消してくれる。三人揃ってあの手順を踏んでいたから、忘れていただけとも思えないし......。そうだ、新鮮味といえば、そもそもなぜ天麩羅なの? 輸入したバナナが新鮮だと主張したいのなら、油で揚げちゃ意味がないのに」
「彼らは本物の輸入業者じゃなくて、そう装っているだけなんだよ。あれも店で買ってきたバナナにすぎない。新鮮さがないのをごまかそうとしているんだ」
「そうね......。でも、それを大勢の人に無料で食べさせて何になるんだろ。バナナの売りこみもなかったし、わたしたちの連絡先も聞かれなかった。嘘はついていても、詐欺は働いていない。いったい何の目的で......」
莉子はふいに口をつぐんだ。
小笠原はきいた。「どうかしたのか?」
「あの立浪って人が最初にいった言葉、覚えてる?」
「ええと、なんだっけ。ああ、そうだ」小笠原は胸ポケットから、メモリーレコーダーを取りだした。
「何それ?」と莉子がたずねてきた。
「ずっと録音してたんだよ」小笠原は停止ボタンを押した。「いまの料理教室で立浪が喋ったすべてが収録されてる」
莉子はいろめきたった。「聴ける?」
「もちろん」小笠原はメモリーレコーダーの再生ボタンを押してから、莉子に手渡した。
音声は明瞭にきこえてきた。立浪の声が告げる。「この料理は、トルコの一般家庭に半世紀前から広く普及していたものです。バナナのほかに食材は、トルコ料理の常といたしましてトマト。それからさつまいも......」
「そうよ。変だわ」莉子の目が輝きだした。「トマトは、いまではたしかにトルコ料理の代表的食材だけど、トルコ国内で本格的に栽培されるようになってから、まだ四十年ぐらいしか経ってない。あんなレシピが半世紀前に一般家庭に普及していたなんて......」
「あいつら、また嘘ついてるってことか?」
「ええ。詳しく調べる時間がなかったんだわ」
「時間って?」
莉子はなおもしばらくのあいだ、メモリーレコーダーの録音内容に耳を傾けていたが、やがて鋭くいった。「とめて」
小笠原は停止ボタンを押した。「なにかわかった?」
「......すぐに行かなきゃ」莉子は真顔でそういうと、足ばやに歩きだした。
「待ってよ。行くって、どこに?」
「警察署よ」
「なんだって、警察?」小笠原は莉子に追いつき、歩調をあわせた。「怪しいってだけじゃ警察は捜査してくれないよ? 事件性がないと」
「わかってる」莉子はまっすぐに前を見つめ、歩きつづけた。「重犯罪よ。きっと警察も動いてくれる」
警察署
小笠原は、凜田莉子について歩いていくしかなかった。莉子は神田駅の改札口に向かい、パスモで構内に入った。小笠原もそれにならった。
中央線の下りに乗って、しばらく揺られる。御茶ノ水駅で下車したが、莉子は出口への階段をのぼらず、なぜか各駅停車の乗り場に立ち止まった。
ホームを眺めながら小笠原はきいた。「外に出なくていいの? 神田警察署はここから明大通りを下ると近いよ」
莉子はたずねかえしてきた。「どうして神田警察署?」
「さっきの会場は神田駅の......。あ、そうか。イオナ・フーズの本社は渋谷だったね。渋谷警察署に行くわけか」
「行かないって。渋谷じゃ知り合いもいないし」
どういうことだろう。警察関係の知人でもいるのだろうか。
滑り込んできた総武線に乗り込む。今度の車内は空いていた。窓の外に神田川が流れる。水も澄んでいてきれいだった。水道橋付近にはいくつものボートが浮かんでいた。並木の桜は散りだしていて、枝に青いものが混じってきている。
莉子が見つめてきた。「小笠原さんはどうして雑誌記者になったの?」
「え? どうしてって、まあマスコミはいつも人気の職業だし、片っぱしから一次試験を受けていって......。さいわい角川では二次の面接に進めて、で採用になった。それだけのことだよ」
「角川も倍率高かったでしょう?」
「僕のときで四百倍だったかな。ラッキーだよ。いまはもうちょっと倍率があがったみたいだ。ほかの大手出版社が大赤字をだしてるし、この三月期の決算でも角川だけ黒字だったし」
「『週刊角川』に入るのは、自分で希望をだしたの?」
「そう。他社の同じような雑誌と違って、ゴシップを扱わないからね。上品に思えた。でも売り上げは伸び悩んでる。うまくいかないもんだね」
「それっていいことよね。人を傷つけないし。つまり......」
「つまり?」
莉子は微笑した。「小笠原さんは立派な人ってこと」
「あ......それは、どうも」
ふいに誉められると、どのように応じていいかわからなくなる。美人で博識の莉子が相手では、なおさらだった。
電車がゆっくりと速度を落とし、ホームに入っていった。飯田橋駅。
すると莉子が動きだした。ここで下車するらしい。
停車し、扉が開くと、莉子はホームにでていった。小笠原は莉子を追いかけながらきいた。「店に戻るの?」
「いいえ」と莉子はつぶやき、階段を下りだした。それっきり口をつぐみ、無言のまま歩を進めていく。
秘密主義というわけではなさそうだが、すべてを明瞭に説明してくれないことがある。あるいは彼女の頭がよすぎて、こちらも同様に理解できていると思っているのかもしれない。莉子の思考と判断の速さに、こちらとしてはついていくのが精いっぱいだった。
改札をでるとすぐに、莉子は大江戸線の改札に下りていった。小笠原もつづいた。建築家の渡辺誠がデザインした近未来的な駅構内に入り、ホームに至る。ちょうど都庁前駅方面の電車が滑りこんできた。
その電車に乗り、無言のまま揺られてひと駅。牛込神楽坂駅に到着すると、莉子はホームに降りていった。
上りエスカレーターのわきに出口の案内表示がある。管轄の警察署の表示に小笠原は気づいた。
「牛込警察署?」と小笠原は莉子にたずねた。
「そうよ。うちの店の管轄だから馴染み深いし」
改札を抜け、地上にでて、大久保通りに沿って歩く。ほどなくグレーのビルが見えてきた。高さは十階ほどある。重厚な印象だが、まだ建物としては新しかった。前面はほとんどガラス張りで、桜の代紋がなければ商社のビルに思えるほどだ。
莉子とともに、小笠原は署内に入った。ロビーは二階までの吹き抜けだった。来署した区民たちが待合の長椅子で手持ち無沙汰げにしている。莉子はそこに加わらず、案内のカウンターにも立ち寄らなかった。エレベーターのわきの階段をあがっていく。
三階に着くと、廊下の突き当たりの開放された扉のなかに、莉子は踏みいっていった。
小笠原は気後れしながら彼女の背を追った。そこはいわゆる刑事部屋で、フロアにずらりと並んだ事務デスクに、大勢の私服警官がおさまっていた。書類仕事に追われている者もいれば、電話をかけている者もいる。総じて厳めしい顔つきの男が多かった。
警察署に来たのは初めてだ。武骨で物々しい雰囲気に圧倒されそうになる。同じデスクワークでも、互いがどことなく友達感覚の雑誌編集部とはずいぶん違う。
近くのデスクの男が顔をあげた。「なにか?」
莉子がいった。「葉山さんに用がありまして」
男は部屋を振りかえって、声を張りあげた。「知能犯捜査係。葉山翔太警部補」
はい、と返事が響き、ひとりの男が立ちあがった。
やりとりは体育会系だ。しかしながら、葉山という男はほかの刑事たちとは異なる印象だった。身体つきは痩せていて、七三に分けた髪も長めにしている。年齢はまだ三十代だろう。やや面長の馬面だが、この刑事部屋ではハンサムの部類に入るかもしれない。とはいえ、目に覇気がなく、無精ひげが生えていて、ネクタイも歪んでいた。
葉山は近くまでくると、莉子に目をとめ、いっそうくつろいだ姿勢をしめした。どことなく瓢々とした雰囲気をまといながら、葉山はいった。「あなたですか、凜田さん。なんでも鑑定士さんが、また何の用でしょうか」
莉子は葉山の態度に腹を立てたようすもなく、笑みを絶やさず告げた。「怪しい業者がいるんです」
はあ、と葉山は気のない返事をした。「あなたが被害に遭われたんじゃないんでしょう? このあいだの一件と同じで」
「......あれは葉山さんのお手柄になったはずですけど」
同僚にきかれたくないと思ったのか、葉山は顔をしかめて周りを一瞥した。莉子に向き直り、声をひそめていった。「いろいろご協力いただいたことは感謝してますよ。でもね、過去は過去だ。正直あのときも、万能鑑定士というものだから、大勢の専門家が在籍してる店と思って出向いただけでね。若い女性がひとりいるだけだと知っていたら、最初からうちの鑑識を使いましたよ」
「鑑識さんにはだせない答えだったと思いますけど」
「まあ......それはそうかもしれませんけどね、凜田さん。いまはちょっと忙しいんです。相談は下の受付でお願いします。ここにあがってこられても応じられません」
「急を要することなんですよ」
葉山はじれったそうに頭を掻いた。「どんなことです? 被害者は?」
「まだでてません。でもこれから、確実に被害に遭われるんです。今晩七時に」
「今晩七時。まるで番組の宣伝ですな。何も起きていなければ警察は動けません。民事不介入の原則があります」
「あきらかな刑事事件です。それもおそらくは凶悪犯です」
「凜田さん、立件できて、はじめて刑事事件ですよ」
「防犯も警察の務めでしょう?」
「ですから、受付で相談なさってください。巡査をパトロールに行かせるぐらいはできるでしょう。じゃ、手が離せないので、これで」
葉山はぶらりとその場を離れる素振りをみせた。
どうやら莉子は葉山という警部補に対して、非公式ながら貸しがあるらしい。だが葉山は、そのときの恩義をさほど感じていないようだ。邪険な態度は、周囲の目を気にしてのことのように小笠原には思えた。民間の若い女の力を借りているとなれば捜査員としての沽券にかかわる、葉山はそんなふうに思いこんでいるのかもしれない。
周りの刑事たちも、会話を聞かなかったふりをしながら仕事に勤しんでいる。ここには積極的に莉子の申し立てに耳を傾けようとする者は皆無らしい。
無駄足だったが、小笠原がそう思ったとき、ひとりの若い刑事が葉山に近づいてきた。
若い刑事はひそひそといった。「葉山さん。道警から連絡がありました」
葉山も小声できいた。「どこの湖にあった?」
「いえ......。それが、まだ見つからないらしくて」
「なんだと?」葉山は依然として声をひそめていたが、興奮しているせいだろう、言葉が聞き取れるていどに響いてしまっている。「北海道の湖の水は澄んでる。浅いところに十トントラックが沈んでれば、すぐに気づくだろうが」
「被疑者の供述が正しければ、そのとおりです。道警は六百人近い捜査員を動員してるんですが、どの湖畔にもそれらしき形跡はないとのことで」
「馬鹿をいえ。いいか、雲津。あの被疑者は北海道のどこかの湖に沈めたといってるんだ。見つからないわけがない」
雲津という若い刑事は困惑のいろを深めた。「道警は湖じゃなく川ではないかといってます。被疑者の供述に誤りがあるのではと......」
「いいや。あいつは図面まで描いて供述したんだぞ。間違いなくどこかの湖だ。それも、でっかい湖......」
奥のほうのデスクにいた、上役らしき初老の男が低く声をかけてきた。「葉山」
「は......はい。係長」
「どうした。すぐ発見に至る見込みじゃなかったのか」
「そのう」葉山は恐縮したようすでいった。「なにぶん道警と連絡を取り合ってのことですので......。見落としがないよう、こっちで国交省と農水省から北海道の湖の一覧を取り寄せまして、そのなかから供述内容に合致する湖をリストアップし、道管に虱潰しにあたってもらっております」
「きょう、すべての湖を調査し終えるという話じゃなかったか」
「そうなんです......。でも、ないはずはないんです。ですが、あのう」
係長は咎めるように告げた。「被疑者の勾留期限は明日までだぞ。本庁にどう説明する」
「わかってます。もういちど有力な場所を調べてもらうよう、道警に要請を......」
するとそのとき、莉子がいった。「摩周湖」
刑事部屋はふいに静まりかえった。視線が交錯し、やがて誰もが莉子に注視する。
葉山が振りかえった。「何?」
「摩周湖です」莉子はすました顔で繰りかえした。「調べてないでしょう?」
沈黙のなかで、葉山は大仰にため息をついた。「聞き耳立ててたんですか、凜田さん。そんな有名な湖、警察が見落とすとでも? あなたみたいに綺麗な人と話ができるのは嬉しいですが、そのユーモアのセンスはいま求められてないんです」
臆するようすもみせずに莉子はきいた。「そう?」
葉山は一瞬、たじろいだような反応をしめした。
そのとき、雲津が声をあげた。「あっ」
雲津は驚きのいろを浮かべていた。手にした書類を葉山にしめしながら、叫びに似た響きで告げた。「葉山さん。リストに摩周湖がありません!」
「なんだと!?」葉山は衝撃を受けたらしく、目を剥いて雲津からリストをひったくった。「ふざけるな。供述内容にぴったりの広大なカルデラ湖じゃないか」
しばらくのあいだ、葉山は紙を穴があくほど見つめていた。やがて、茫然自失の面持ちで葉山はつぶやいた。「ない......。でもどうして......」
莉子は穏やかにいった。「摩周湖は水源とする河川がないため、国土交通省では湖としての登記がされていません。いっぽうの農水省でも、樹木がないという理由で登記されていないため、法律上、巨大な水たまりとしての扱いになっています。十トントラックを捜しておられるそうですけど、リストアップした湖になければ摩周湖しか考えられません」
雲津があわてたようすで葉山にいった。「ただちに道警に連絡をとりましょう。人海戦術で摩周湖の全域を調べて......」
その言葉を制するように莉子が告げた。「阿寒国立公園の特別保護地区に指定されているから、湖畔に乗りいれられる一般道はありません。唯一の道は裏摩周展望台の西側にある業者用の道路で、十トントラックが入れるのはそこだけです。水辺のぎりぎりまで運転してからドライバーが飛び降り、トラックを水没させたとするなら、エンジンの吸気系に水が入るので車両は水深五メートル以内のところで停まります。摩周湖の透明度は群を抜いていて、二十メートル前後です。ですから業者用道路から見ればすぐわかるでしょう」
刑事部屋は静寂に包まれていた。男たちの目は莉子から葉山に移った。
同僚たちの厳しい視線にさらされ、どうにもならなくなったようすの葉山は、リストを雲津に押しつけた。「道警に連絡しろ。摩周湖の業者用道路だ」
はい。雲津が踵をかえして走り去る。刑事部屋にまたざわめきが戻ってきた。
葉山は苦い顔でたたずんでいたが、やがてゆっくりと莉子の前に歩み寄った。
莉子を無碍に追い返すことは、この場の空気からしてもはや不可能だと考えたのだろう。葉山は頬筋をひきつらせながら、莉子にたずねた。「それで、きょうはどんな相談で?」
「ご説明します」莉子は笑顔でそういってから、小笠原に手を差しだしてきた。「メモリーレコーダーを貸して」
イオナ・フーズの立浪という男のセリフが録音されたメモリーレコーダー。小笠原は莉子に手渡した。
葉山は壁ぎわの扉を指さした。「向こうの会議室でうかがいましょう」
莉子が歩きだす。葉山がそれにつづき、小笠原も歩調を合わせようとした。
ところが葉山は立ちどまり、小笠原を振りかえった。「あなたは誰です? 凜田さんの仕事仲間?」
「いえ......。僕は小笠原といいまして......」
「申しわけないが、部外者は立ち入り禁止でして」
莉子が葉山にいった。「こちらは雑誌記者さんです。『週刊角川』の」
「記者?」葉山は眉をひそめた。「それなら、なおのこと遠慮してください。取材は許可を得ていただかないと。さあ、凜田さん。そちらへどうぞ」
葉山にうながされ、莉子はやや戸惑ったようすだったが、ほかにどうすることもできないらしく会議室の扉に向かった。
ふたりが入っていった会議室の扉は固く閉ざされた。刑事部屋に居残った一般市民は、小笠原ただひとりだった。
記者という素性をきいたからか、刑事たちの態度はいっそう冷淡なものになった。誰も目をあわせようとしないし、椅子ひとつすすめてこない。
まあ、所詮は警察だ。茶をだしてくれるはずもない。小笠原はその場にたたずんで、ぼんやりと時が経つのを待った。
やがて会議室の扉が開いた。
先にでてきたのは葉山だった。さっきよりも神妙な顔になっている。眉間に深い縦皺が刻まれていた。
「雲津」葉山が呼びかけた。「一課と三課で手があいている捜査員を何人か連れて、ロビーに降りてろ。俺は係長と話す」
「え」雲津は面食らったようすだった。「でもいまは道警からの返事待ちで......」
「捜査本部には代わりの誰かを就かせろ。被疑者を所轄内で確保しただけの事件と、これから近場で起きる事件とでは重要度が違う。詳しいことは後だ」
「......わかりました」雲津は素早く背を向け、足ばやに遠ざかっていった。
葉山は、小笠原と莉子をかわるがわる見て、硬い顔でいった。「おふたりにも来てもらいましょう。細部については現場で助言をいただかないと」
莉子はうなずいた。「だいじょうぶです。ね、小笠原さん」
「え......? ああ、そうだね」
葉山は無言のまま小笠原を見つめてから、さっさと立ち去っていった。
思わずため息が漏れる。小笠原は莉子にきいた。「いったい何がどうなってる? どんな事件なんだ?」
「小笠原さんが想像してるとおりよ。現場が楽しみ」莉子はそういって、葉山につづいて歩きだした。
その後ろ姿を見送りながら、小笠原は首をかしげた。やっぱり彼女は、俺の思考を買いかぶりすぎている。莉子と同じものを見聞きしていながら、俺にはなんの想像も憶測も浮かんでいない。謎は謎のままだ。
神楽坂
夜七時前の神楽坂は、会社帰りのサラリーマンやOLらでにぎわっていた。ほとんどは洒落たレストランのエントランスに吸いこまれていくが、なかにはまだ待ち合わせの時間まで間があるのか、イオナ・フーズ料理教室の手書きの札の前に足をとめる人も少なくない。
春といっても日没後はまだ肌寒い。外に棒立ちになっているよりは、風をしのげる場所に入りたい、そういう思いも手伝っているのだろう。
小笠原は、マンション一階にある例の超優良物件に会場を構えた料理教室を、道を挟んだ反対側の歩道から眺めていた。
昼間とは一部違うメンバーのようだが、外にでて呼びこみをおこなっているのはやはり立浪という男だった。立浪はにこやかに声を張りあげていた。「新鮮なバナナ素材を用いた地中海風天麩羅料理の作り方をご披露します。無料で試食していただけます。どうぞお立ち寄りください」
神田の会場よりも人だかりがある。入り口のわきにハイビジョンテレビが設置してあって、昼間の料理教室のもようを流しているからだ。
あのとき俺はデジカメでの撮影を断られたが、社員はハイビジョンカメラをまわしていた。いま再生中の映像は、まさにそのときのもののようだった。音声は消されているが、三つのフライパンから立ちのぼる火柱、そこに放りこまれるバナナの山など、記憶に残っているとおりの調理手順だった。
大人数ぶんの料理をいちどに手がけたのは、この映像のインパクトを高めるためか。たしかに、大量の食材と巨大な調理器具を使った三人がかりのパフォーマンスは、画面を通して観てもそれなりに迫力がある。物珍しさもあって集客力につながるのだろう。すでに会場内のパイプ椅子は八割がた埋まりつつある。
夜間のせいで、場内は蛍光灯によりあかるく照らしだされている。おかげで、なかのようすはよく見える。奥にセッティングされているキッチンや業務用冷蔵庫の位置も、神田の会場と寸分たがわなかった。
小笠原は並んで立つ莉子にいった。「寒いね。あのバナナ天麩羅の味が恋しくなってきたよ」
チェックのマフラーを首に巻いた莉子は、こちらを見て眉をひそめた。「本気?」
「いや、温かいものならなんでもいいんだけどね。ラーメンが食いたいなぁ」
そのとき、警部補の葉山が硬い顔で歩み寄ってきた。
葉山はコートのポケットに両手を突っこみ、辺りに視線を配りながら告げてきた。「おふたりとも、ここから動かないでください。すべてはわれわれ捜査員にまかせて、けっして独断で行動に走らぬように」
若手の刑事、雲津が息を弾ませながら駆けてきた。「葉山さん。......捜査員は配置につきました。ただ、裏手と左隣りには入りこめるんですが、右隣りは料理教室に物を運びこむ動線として使われてて、立ち入り禁止になってます」
葉山が振りかえった先を、小笠原も眺めた。
会場のあるマンションと右隣りのレストランの入ったビルのあいだには、人ひとりぶんが通れるほどの隙間がある。その隙間は、歩道に乗りあげた白いバンが横付けされることによってふさがれていた。
ふん、と葉山は鼻を鳴らした。「あっちは仕方ないだろう。おまえは会場のすぐ近くに立て。それとなくだぞ。俺は裏にまわる」
はい。雲津が応じて、ぶらりと車道を渡り会場前の歩道に向かう。
「いいですか」葉山は念を押してきた。「くれぐれもここから動かぬように。被疑者確保はわれわれの仕事ですから」
何が起きるのかさっぱり予測がつかないが、警察が莉子の説得を聞きいれたのは間違いないようだ。
小笠原は葉山にきいた。「凜田さんの申し立ては、よほど重大な事件につながることだったんですね」
葉山は表情をこわばらせた。「まだ確証はありませんよ。私としても半信半疑だが、凜田さんのおっしゃることですから。実際、さきほど道警から連絡もありましてね。摩周湖の業者用道路付近で、水没トラックが発見されたと」
「それはよかった」小笠原はうなずいてみせた。「で、どんな事件だったんです。そのトラックの一件は?」
「雑誌記者さんには話せませんよ」葉山は口もとを歪めた。「本庁の公式発表をお待ちください。じゃあ、私は行きます。片がつくまで、動かないでくださいよ」
本庁と道警に板挟みになっていたようすの事件が落着したせいか、車道を横断する葉山の足取りは軽かった。本日二件めの手柄にありつけそうな現状においては、気分も高揚しているのだろう。
会場内では、すでに料理教室が始まっている。立浪の声はよく通り、開放された扉から車道を挟んで、小笠原の耳までかすかに届くほどだった。「ご参加のみなさま全員に試食していただくため、こちらの大きなフライパンを三つ、同時に使います。この料理は、トルコの一般家庭に半世紀前から広く普及していたもので......」
小笠原は莉子にささやいた。「前口上の間違い、いまだに直ってないな」
莉子は笑った。「そうね」
「なあ......凜田さん」
「何?」
「凜田さんを見てると、積極的にもめごとに首を突っこんでるみたいだ。いや、悪い意味じゃないんだよ。でも仕事そっちのけで、この業者にここまで食いさがった理由は? 楢崎さんへの同情だけがその理由かい?」
「当然でしょう?」莉子はふしぎそうな顔をした。「それ以外に何があるの?」
「いや。......だとしたら、変わってるよね」
「どうして?」
「きみ自身の得になりもしないことなのに、頭をフル回転させて、犯罪を予期し、警察まで動員させてる」
ああ、と莉子は穏やかな表情になった。「かもね。わたし、先走りすぎかもしれない。けど、実家も裕福じゃなかったし、上京してからも貧乏暮らしで......。支えてくれた人たちに恩を感じてるの。みんな大好きなの。問題が起きそうなら、それを解決しなきゃ。誰も積極的にいがみあおうなんて思っていないはずよ。軋轢をなくす方法に気づいたら、実践のために動かないと。わたし、それぐらいのことしか考えられないんだよね。本当はちっとも頭よくないから......」
「そんなわけないよ」小笠原は笑ってみせた。「きみには才能があるんだよ。物の価値だけじゃなく、人の心の善し悪しまでも直感的に鑑定できるんだ。だから楢崎さんを助けたいと思ったし、ああいう悪徳業者の嘘は許せないと思った。きみは正しいよ。純粋で、飾りつけがなくて」
「それ、小笠原さんのわたしに対する鑑定?」莉子は微笑した。「ありがとう」
「......どういたしまして」小笠原は恐縮しながらつぶやいた。
こちらの心も見透かされてしまうのではと思うと、妙にどぎまぎする。莉子に対する好意は伝わってほしいが、彼女はあまりにも才覚にあふれていて、唐突に何をいいだすかわからない。
実際、いまも状況が把握できない。事件というか、いったい何が起きつつあるのか。会場では立浪がコンロに火をいれたところだった。フライパンに油をひいて蓋をする。
「凜田さん」小笠原は戸惑いながらいった。「じつは何も思い浮かばない。あの立浪って男は、どんなことをしでかそうと意図してるんだ?」
莉子がじっと見かえしてきた。しかし、その大きな瞳は澄んでいて、呆れたようないろもなければ、蔑むようなまなざしもなかった。むしろ、彼女がいつも見せる他人に対する思いやりを内包した視線。それがいま自分に向けられている、小笠原はそう感じた。
冷静な声で莉子が告げてきた。「小笠原さん。超高層ビルの高速エレベーターで、イージーリスニング調のBGMがよく流れてるでしょう。あの理由を知ってる?」
「......さあ。乗ってるあいだは退屈だから、暇つぶしのためじゃないの?」
「それもあるだろうけど、あれはエレベーターの音を消すためなのよ。高速エレベーターの作動音って人を不安にさせるから、聞かせないようにしてるの」
「そう? あの手の音楽ってそんなに音量も大きくないし、かすかに聞こえるていどだよ」
「でもエレベーターのモーター音は聞こえない。そうじゃない?」
「ああ。そうだね。音のしないエレベーターかと思ってた」
「あれは聴覚のマスキング効果を利用してるの。ふつう人の聴覚っていうのは、複合音を耳にしたとき、その成分となる音を別々に聞きわける能力を持ってるの。この現象は音響のオームの法則と呼ばれてる。でも低い周波数の音に対し高い周波数を重ねると、耳のなかの非線形性のために聴覚内に高調波が生じて、低い周波数は認知されなくなる」
「掻き消すほどの大きな音じゃなくても、周波数の高さでもうひとつの音を消せるってのか?」
「ええ、そうよ。けど聴覚のマスキングが発生するには、両者の音の周波数が一定の音圧レベルになっている必要がある。これはマスキングしきい値という数値で表されるの。厳密に計算しようとすればきりがないけど、音高一キロヘルツに対し、〇・三キロヘルツで二十デシベルを最低値に......」
「待ってくれ。まさかそれが、この料理教室の意図するところか?」
「だと思う」莉子はうなずいた。
立浪たち三人の料理人は、ホウキのような泡立て器で、大きな缶を混ぜる。半鐘のような音が鳴り響く。
莉子はいった。「マスキングしきい値を考慮すれば、この音によって消えるのは小型のモーター音。電動ドリルだとノイズが数値を下まわるから消えない。電動スクリュー式ドライバーの音なら消せる」
やがて立浪たちは、ミートハンマーを手にした。コンソメキューブを盛大な騒音とともに叩き粉々にしていく。
「この音はね」莉子はつづけた。「アセチレン切断用バーナーを鋼材にあてたときのノイズが、消せる音としてちょうど当てはまる。八十五デシベルには達するだろうから、打ち消すための音もそれなりに大きくしているのね」
ひとつのフライパンにつき十数本ずつのバナナが投入される。炎が立ちのぼり、油で揚げるにぎやかな音が響く。
「これは、電動カッターで鋼材を切断する音に対しマスキング効果がある。九十デシベルの音に対し七十デシベルていどでも、マスキングしきい値のなかで適正な音圧をとれば消せるのよ。ガラスを割る音もここで消せる」
三人はフライパンを火にかけたまま、そのわきにまな板を置いた。トマトを細かく刻みはじめる。
「どうしてこの段取りでトマトを刻んだか。消さなきゃならない音があったからよ。この音に対しては、サッシを開ける音、およびフローリング上での靴音がマスキング対象になる」
小笠原は衝撃を受けた。「それってつまり......」
「そう」莉子はいった。「オートロック式マンションの二階の侵入盗の手口。最も多いのは、路地が裏手に面した鉄格子つきの小窓を壊し侵入する方法。そこには防犯用の警報装置がついていないことが多いからよ。ドライバーでネジを外し、バーナーと電動カッターで鉄格子を切断、ガラスを破る。泥棒の常套手段でしょう」
そのとき、どすのきいた声が神楽坂に響きわたった。動くな。警察だ。
料理教室の会場では、立浪がびくついたようすで手をとめた。ほかのふたりも動きをとめている。
しかし騒動の現場は会場ではなかった。白いバンと建物のわずかな隙間に、続々と私服警官らが身体を滑りこませていく。
騒音がきこえてきた。会場の上、二階からのようだ。窓はカーテンがかかっているが、照明が灯いたり消えたりしている。
怒号が響いてくる。でてこい。動くな。うるせえ、離せ。なんだてめえらは。
私服警官らは料理教室にも踏みこんでいった。立浪たちは調理器具を放りだし、逃げる素振りを見せたが、すぐに制服警官らも応援にかけつけた。二人は観念し、呆然としたようすで立ちつくした。
小笠原は莉子を見た。莉子も小笠原を見返した。
葉山はふたりにここで待機するよう指示したが、ことが終わるまでという約束だった。捕り物はどうやら一瞬にして片がついたようだ。もう遠方から傍観する必要もない。
「いってみよう」と小笠原は歩を踏みだした。
「そうね」と莉子も歩きだす。
道路を横断し、マンションに近づいた。料理教室の参加者たちはパイプ椅子で固まったまま、呆気にとられた表情を浮かべている。私服警官が説明に入っていた。みなさん、私たちは警察です。いま階上の侵入盗の現行犯逮捕に伴い、参考人の身柄を確保しております。混乱を避けるため、そのままお座りになっていてください......。
白いバンの陰から、葉山が姿を現した。それから、雲津ともうひとりの刑事に引きたてられ、手錠をかけられた男が姿を見せた。
見かけた顔だ。たしか神田の料理教室にいた。立浪と同じく年齢は二十代、痩せていて、静かにしていれば生真面目そうにみられる男だった。
いま、その男は身をよじらせて、連行に対し抵抗の意志をしめした。
「放せ!」男は怒鳴り散らした。「放せってんだよ。こんなことをして、おまえら後悔するぞ」
「うるさい」雲津が一喝した。「さっさと歩け」
「何もしてない! 罪になることなんてしてないんだ」
「馬鹿をいえ。あれはおまえの部屋か? 赤の他人の住んでいる部類だろうか」
「それはそうだけどさ......。話をきいてくれよ。俺は......」
「いいぶんは署できく。さあ、クルマに乗れ」
マンションの前に停まったセダンの屋根から、赤色灯が顔をだした。男はなおも叫んで暴れたが、結局は後部座席に押しこまれた。
早くも野次馬が集まりだしている。制服警官らが人垣を押しとどめようとしていた。さがってください。車道に立ちどまらないで。通行を妨げないでください。
葉山は険しい顔で容疑者を見つめていたが、覆面パトカーが走りだすと、その目をこちらに向けてきた。
「良心的な雑誌記者さんですな」葉山は淡々といった。「事件現場に居合わせても写真を撮ろうとしないとは」
しまった、小笠原はあわててポケットをまさぐった。デジカメを取りだし、電源をいれる。こんなときに限って画像データ閲覧モードになっていた。伊豆の社員旅行の写真が映っている。あわててモードを切り替えてカメラを被写体に向けた。
だが、遅かった。覆面パトカーはすでに遠くに走り去っていた。
情けない。一日じゅう凜田莉子に張りついていたのに、ここぞというときにスクープを逃してしまうなんて。
失望を感じているのは小笠原ひとりのようだった。葉山は笑いを浮かべていた。「凜田さん。おっしゃるとおりでした。あいつはこの白いバンの陰から、ビルの側面をよじ登って、小窓を破って侵入を試みてました」
莉子が葉山にきいた。「住民のかたに怪我は......?」
「いや、それが、まだお帰りになっていないようです。事前に調べましたところ、二階の部屋には公務員のかたが独り暮らししておられたようで。雲津たちがここに残って現場の被害を調べますから、いずれご帰宅されれば事情説明を受けるでしょう」
「そうですか」莉子は心底安堵したようすだった。「よかった」
葉山は会場の入り口にあるハイビジョンテレビを見やった。「これが昼間の教室のもようですかね」
「ええ」莉子がうなずいた。「ここで奇妙な調理法をいきなり披露したのでは怪しまれるかもしれない。彼らはそう心配して、事前に同じ手順を映像で紹介したんです」
「ほかの会場でも客前で演じたのは、練習というかリハーサルを兼ねてのことですかね」
「それもあるでしょうし、移動料理教室という実績をつくっておきたかったんでしょう。このテナントのオーナーに不審がられて、実施を断られたら元も子もないですから」
「するとオーナーはグルではないんですか」
「もちろん。ただし、仲介業者はその限りではないですけど。なにしろ、彼らと結託して偽の抽選会を催してたんですから」
「その抽選会も、あえて大勢の人を集めておいて、イオナ・フーズは偶然に契約できたにすぎないと印象づけたわけですね」
「そうです。事前に疑惑を持たれないための工作です」
「なるほどねえ。あなたの頭の回転の速さには、ほんと敬服しますよ。うちの部下にもあなたみたいな人間がほしい。じゃ、私は署に向かいます。のちほどお会いしましょう」
葉山は頭をさげると、現場に続々と集結しているパトカーのうち、一台の助手席に乗りこんだ。そのとき、別の警官たちによって立浪が連行されてきた。
立浪は苦い顔でこちらを一瞥した。神田で、あるいはここでの抽選会で会った男女だと気づいただろうか。表情からは見てとれなかった。立浪はパトカーの後部座席に押しこめられた。
辺りに黄色いテープを張りめぐらす作業が始まった。制服警官が怒鳴っている。歩道のこちら側は閉鎖します。離れてください。反対側の歩道を通行してください。
取材の腕章をつけていない小笠原も、閉めだされる対象にちがいなかった。小笠原は莉子とともに歩きだした。
小笠原は感服しながらいった。「いやあ、たいしたもんだ。凜田さん、音まで鑑定できるんだね」
莉子は照れているように下を向いた。「専門ってわけじゃないけど、知識としては得ていたから......」
とそのとき、小笠原は歩道に立ちどまった人にぶつかりそうになった。
「あ、すみません」小笠原はあわてて回避した。
すると、その人物はただ呆然とこちらを見かえした。
年齢は四十代ぐらい、痩せた背の低い男だった。皺ひとつないスーツに清潔そうなワイシャツ、地味ないろのネクタイ。生真面目を絵に描いたような外見だ。額はわずかに禿げあがっているが、髪はきちんと七三に分けられている。会社帰りなのか、事務カバンを携えていた。
男は莉子を見てから、ふたたび小笠原に目を戻した。ぼそぼそという声できいてくる。
「何かあったんですか?」
「ええ。二階に忍びこもうとした人が逮捕されたんです」
「忍びこむ......。二階って、そのマンションの?」
「そうです。公務員の人が住んでる部屋らしいんですが、留守中で難を逃れたみたいで」
すると、男は口を閉ざし、無言のままマンションを見つめた。この寒さのなかで、額にじんわりと汗がにじみでている。
小笠原はきいた。「どうかしましたか?」
「いや。べつに。なんでもありません」男はびくついたようすでそう告げると、背を向けて小走りに去っていった。
小さくなっていくその後ろ姿を見送りながら、小笠原は莉子につぶやいた。「なんだろ。おかしな人だね」
莉子も首を傾げていた。「あの人の部屋......ってことはないよね。泥棒に入られたんなら、気になってすぐに帰りたくなるはずだし」
「知り合いか何かかな」小笠原は莉子に向き直った。「それにしても、きょうは刺激的な経験をさせてもらったよ」
「取材はし損ねたみたいだけど......だいじょうぶ?」
「いいんだよ。それより価値ある人と出会えたからね。これから署に行くんだろ?」
「ええ。葉山さんも報告書づくりに協力してほしいって。それに、あんなに周到にカモフラージュしてたってことは、ただの侵入盗とは思えないでしょう。どんな裏があるのか知りたいし」
「だな。一緒にいこう」小笠原はそういって歩きだした。
莉子も歩調をあわせてくる。小笠原は、その莉子の横顔をちらと見た。
自信に満ちたまなざし、控え目な性格ながら、いざというときにははっきりとものをいう。そして、ぎこちないながらも魅力的に見える、独特の笑顔。
凜山莉子は本当に変わった女性だった。こんな出会いは二度とあるまい。
だからこそ、この瞬間を貴重なものとしたい。偶然から始まる出会いに感謝したい。彼女はすでに俺の人生を変えた。自分以上に大事なものがあるような気がしてきた。こんな思いはひさしぶりだった。
自然に歩が軽くなる。心が高揚する。ふしぎな気分だった。いまを生きていながら、十代のころの思い出に浸っているかのようだ。
このとき、小笠原はまだ気づいていなかった。マンションの侵入盗の逮捕が、あまりに深刻かつ重大な問題につながることに。
莉子もむろん、同様だったろう。いまにして思えば、あれが無難な日常を過ごせた最後のときだった。いつまでもつづくと信じた平穏な日々の、棹尾のときだった。
希望と絶望
これが経済の破綻した国の末路......。
快晴の空とは対照的に、世は陰鬱な空気に包まれている。
凜田莉子はぞっとする思いとともに、渋谷駅バスターミナル口に近い歩道橋の上からその惨状を眺めた。
都会の一角はまるで廃墟だった。清掃をおこなう人がいない街は、これほどまでに汚くなるものか。散乱したゴミが風に舞い、さらに腐敗臭漂う範囲を広げていく。そのなかにたたずむ人々の生きざまは、まさしく無法地帯そのものだった。
ひったくりや喧嘩はそこかしこで頻繁に起きている。バスは駐車しっぱなしで一台たりとも動かず、少年の群れがガラスを割って車内に侵入していた。すぐ近くにパトカーが停まっているが、警官たちは逃亡する中年男を追うのに忙しく、すぐ傍らで起きている犯罪にさえかまっていられないようだった。
警官が出動しているだけでも、ここの治安は守られているほうだ。全国的に警官の出勤率が低下し、組織としての体をなしていないとニュースが報じていた。
そう、テレビも特別報道番組ばかりだ。それも夜九時にはどの局も放送を終了し、あとは明朝までテロップが流されるだけだった。政府の指導により、夜間の外出は極力お控えください。緊急のニュースが入りしだいお伝えします。
ハチ公前交差点方面を眺める。ビルの壁面のジャンボビジョンやオーロラビジョンは消えている。看板にもビルにも明かりが灯っていない。往来するクルマはごくわずか、ほとんどが緊急車両だった。またガラスが割れる音がきこえる。悲鳴、そして笑い声。諦めの境地のようなその嘆声。
ふと不安になり、ハンドバッグから携帯電話を取りだした。波照間島の実家の番号を表示する。
いまの世のなかで、遠距離電話をかけることなど無謀に等しい。数十万、いや数百万の請求があってもおかしくない。
それでも、電話をかけなければいけない。家に帰る前に両親と連絡をとらねば。
通話ボタンを押したが、話し中を告げるツー、ツーという虚しい反応があるだけだった。再度ためしてみたが、結果は同じだった。
電話会社も機能を失いつつあるのか。メニュー画面に記載されるニュースの項目も、二日前から更新が途絶えたままだ。
そのとき、男の声がした。「お嬢さん」
莉子は顔をあげた。歩道橋の上を、巡査の制服がひとり近づいてくる。
「は、はい」莉子は応じた。「なんでしょう?」
「おひとりですか? 危ないですよ。いまは出歩かないほうがいいでしょう」
「そうですね......。でも仕方ないんです」
巡査は莉子の足もとの大きなスポーツバッグを見やった。
「遠出されるんですか」と巡査はきいた。
「そのつもりです。羽田まで行こうとしてるんですけど、電車のダイヤがめちゃくちゃで......。山手線が外回りだけ運行しているときいて、渋谷まで来てみたんです」
「ええ。たしかに電車は動いてますね。けど、さすがにJRも運賃据え置きじゃなくなったみたいです。自動切符売り場は閉鎖されてて、臨時の窓口ができてますが、ひと区間三千二百円ですよ」
「三千二百円......」莉子は愕然とした。「そんなに......」
「それでも私鉄からすれば半額以下なので、窓口も三時間待ちの長蛇の列です。ほら、あそこに人の群れが見えるでしょう? 東口からずっとつづいているんです。電車の運行本数も少なく、到着も不定期です」
「だけどわたし、どうしても里帰りしないと」
「どちらに帰られるんです?」
「波照間島......」
巡査は目を丸くした。「波照間って、沖縄ですか? 無茶ですよ。羽田まで行っても飛行機が飛んでいるかどうか」
「けさのニュースでは、全日空の便だけ石垣島行きが一日一回、なんとか運航しているらしいんです。料金がいくらになるのかは、現地に行ってみないとわからないって話でした」
「ということは、多額の現金を持っていらっしゃるので?」
「はい......。上京する前に親に持たされた引き換え券があったんですけど、使えないらしいので」
「無理ですね。金券ショップが荒らされる事態が相次いだせいで、外で買った航空券は使用できなくなっています。運賃も高騰してますしね。空港で買うしかありませんが、沖縄までとはいえ、いくらかかるかは......」
「ええ、覚悟してます。貯金は全額下ろしてきました。なんとか片道ぶんだけでも払えることを祈ってます」
そのとき、巡査の胸もとで無線の呼び出し音が響いた。ノイズにまみれた音声が告げる。渋谷本部より渋谷一二。
巡査はマイクに手をやり、莉子にいった。「じゃあ、充分にお気をつけください。ハンドバッグは、そのスポーツバッグにいれてしまったほうがいいですよ。お金は何か所かに分けてしまっておいてください」
「わかりました。どうもありがとうございます」
莉子が頭をさげると、巡査は小走りぎみに去っていった。
ため息をついて、また眼下の景色を見やる。
群衆が数を増しつつある。徒党を組んで駅前のビルヘの侵入をはかろうとしているらしい。迎え撃つ警官隊も増員が図られている。さっきの巡査もそのなかに加わったのだろう。
新聞紙が集められ、火がつけられた。街の数か所で、のろしのような煙があがっている。バットや鉄パイプを持った男たちがバイクで乗りつけ、傍若無人な振る舞いをみせる。鳴り響く警笛、パトカーのサイレン。それを圧倒するようなバイクのエンジン音......。
なにもかも、日本とは思えない光景ばかりだった。かつてのニュース映像で目にしたソマリアやコンゴ、スーダン、パレスチナ、リベリアといった国の無政府状態を彷彿とさせる。それらの国に比べれば、暴力の行使はまだ控えめかもしれない。しかし状況は、いつまでつづくかわからない。
莉子は恐怖に足がすくむのを感じた。
けれども、永遠にここに留まっているわけにはいかない。
行動しなければならない。わたしのこの旅が、世に平穏を取り戻すことに微力ながら貢献するかもしれない。その可能性がある限り、躊躇してはいられない。
重いスポーツバッグを持ちあげ、莉子は歩きだした。
一歩ずつ歩道橋の階段を下っていく。叫び声や怒鳴り声が間近に聞こえるようになってきた。黒煙が風に吹かれ、辺りを霧のように覆っている。
炎が視界を蜃気楼のように揺るがす。枯れ葉のように無数のゴミが舞う荒れ果てた街角に、莉子は歩を進めた。
もはや意味をなさなくなったバスの発車時刻表。その支柱に、無数の肥満体の顔が連なっている。
力士シール......。
ほんの数日前までの、平和な日常に思いを馳せた。雑誌記者の小笠原悠斗との出会い。彼は親切で温厚な人だった。一緒に力士シールの謎を探索したのも、すでに遠い過去のことのように思える。
彼とふたりで、イオナ・フーズによる侵入盗の逮捕に協力した。悪事や不正を暴くことで救われる人々がいる、だから労を惜しまず全力を尽くすべきだ、そう信じた。
しかしその先に待っていた真相は、まるで予想できないことだった。平和は一夜にして崩壊し、日本は経済大国の地位も面目も失った。
この国の経済危機は、すぐに世界の金融市場を揺さぶることだろう。サブプライムローン問題やドバイショックとは比較にならないほどの株価の暴落。ひいては全世界の治安悪化につながるに違いない。
個人事業の鑑定家でしかないわたしに、できることはごくわずかしかない。
それでも前進をつづけるべきだ。わたしはいままで多くの人に支えられてきた。多くのことを学んだ。貧困にあえぐ人々は、救われねばならない。たとえ世が泥沼と化していても、一本の細い枝を握ってでも底に下り、相手が誰であろうと手を差し伸べよう。かつて大人たちが、わたしにそうしてくれたように。
ひときわ強い風が吹きつける。乱れた髪を指で掻きあげて、莉子は歩きつづけた。視界を舞う火の粉も漂う煙も、いつかは消える。暗雲が払われ陽射し降り注ぐ日々はきっとくる。わたしはそう信じる。
「万能鑑定士Qの事作簿Ⅱ」につづく。次刊このエピソード完結
解 説
三浦天紗子(ライター・ブックカウンセラー)
博覧強記の人物が探偵役を務めるのは、シャーロックーホームズの登場以来、ある種、ミステリーのお約束だ。
アイザック・アシモフ「黒後家蜘蛛の会シリーズ」で活躍するのは老給仕、ヘンリー・ジャクスン。レックス・スタウト「ネロ・ウルフシリーズ」では、蘭愛好家の美食家探偵ネロ・ウルフが、ジョン・ダニング『死の蔵書』ほかクリフォード・ジェーンウェイが活躍するシリーズでは、好きが高じて刑事から古書店主にまでなる古書コレクターが、ドナルド・ソボル「少年たんていブラウンシリーズ」では〝百科事典〟の異名を取るロイ・ブラウン少年が、事件を鮮やかに解決する。
日本では、京極夏彦「京極堂シリーズ」の古書店主・中禅寺秋彦や、篠田真由美「建築探偵桜井京介の事件簿シリーズ」で建築物の鑑定を謳う桜井京介、東野圭吾「探偵ガリレオシリーズ」の物理学者・湯川学、津原泰水『ルピナス探偵団の当惑』に登場する、頭脳明晰な高校生・祀島龍彦、等々。
変わり種では、ダンテの『神曲』が愛読書という黒のラブラドールが探偵役を果たすJ・F・イングラート「黒ラブ探偵名犬ランドルフシリーズ」、アンティーク椅子そのものが推理に当たる松尾由美「安楽椅子探偵アーチーシリーズ」なんていうのまで。
しかし、ざっと並べてみても、天才的な観察眼と類まれな洞察力を駆使して、難事件に挑む頭脳派系の女性がいない。ミス・マープル? かの人好きのする老嬢は推理力こそ見事だが、いわゆる高い学識を頼みにしているわけではない。
ところが、ついに松岡圭祐が、該博な知識を武器に重大事件に挑むスーパー・ヒロインを登場させた。沖縄・波照間島出身の凜田莉子、二十三歳。ゆるいウェーブのロングヘア、猫のように大きくつぶらな瞳。小顔と抜群のプロポーションが印象的な、「万能鑑定士Q」の看板を掲げるモデル級の美女がそれである。
〈Qシリーズ〉と銘打たれた新シリーズが、本書から幕を開ける。
物語のキックオフは、都内各所で目撃された「力士シール」をめぐる謎だ。
力士シールとは、白地に墨で描かれた和風の顔絵のシールのこと。べた塗りの七三分けの髪に眉の下には横線のような目、たっぷりと脂肪がついた二重あごが特徴の中年男が、無表情にこちらを向いているという図柄になっている。何年か前に銀座で確認されたのを皮切りに、少しずつ範囲が広がり、至るところで見かけるほどに増殖。シールが大抵、大通りから一本入った路地のガードレール、電柱、公衆電話、あるいは商店のシャッターや外壁などに貼られている。
力士シールのインパクトは絶大かつ無気味だが、誰が作り、何のために貼ったのか、一切がミステリー。そのシール騒ぎの背景を探るべく、調査に駆け回っているのが、雑誌記者の小笠原悠斗である。角川書店発行の週刊誌『週刊角川』に所属、利口そうなハンサムだが、ちょっとKYで頼りない社会人四年生の青年だ。
松岡圭祐はもともと、取材に裏打ちされたリアルさを土台に、エンタテイメントに徹したフィクションをスタイルとする作家だ。だがこの〈Qシリーズ〉にはかつてないほど卑近なネタが織り込まれていて、読者の好奇心や空想心を体験的に満足させてくれるものではないかと思う。
たとえば、力士シール事件は、実際に東京のいくつかのエリアで目撃され、二〇〇八年初頭ごろからインターネットで話題になったこともあるものだ。真相は現実世界でも突き止められていないが、ドイツで流行ったゲリラ・アートの流れではないかという説に落ち着いているようす。しかし、著者が本書に記したこの顛末のほうが明らかに興奮させられるし、よくぞこんなフィクションに落とし込んだと感心してしまう。
また、小笠原が勤める角川書店は、多少の脚色はあるものの、社屋近辺や社内の描写はかなりリアル。関係者は苦笑するしかないかもしれない。
さて、「部数につながる新事実をつかんでこい」と編集長にハッパをかけられ、力士シールの貼られたガードレールの波板までサンプルとして入手した小笠原だが、名のあるプロには軒並み鑑定を断られ、スクープを狙う計画は早々に暗礁に乗り上げる。引き受けてくれそうな鑑定家を探すため、必死にインターネット検索していた矢先、ヒットしたのが、会社のほど近くにある凜田莉子の店だった。
小笠原が一縷の望みをかけて訪ねたものの、店の鑑定家はうら若き女性ひとりだという。すでに店内にいた先客も、それを聞いてとまどう。先客が持ち込んだのは一枚の西洋画。「即日鑑定、万能という言葉をうのみにしたほうが馬鹿だった」と毒づきながら、しぶしぶ女性に見せた絵画は、すでに採取した有機物質に特殊なレーザー光線を当てて材料を突き止め、制作年代などを調べる「スペクトル・フォト・メタ」という鑑定技法をパスしたものだった。しかしすぐさま莉子は別のアプローチからその真贋を見分けてしまうのだ。
莉子の美術への造詣に圧倒された小笠原だが、そこは週刊誌記者。いじわるな考えも浮かぶ。いかに知識が広くても、万物の鑑定依頼にひとりで応えるなんて本当に可能だろうか、と。
そこで腕にしていたオメガのダイバーズウォッチを見せ、型番や機能、製造年代などを鑑定させようとするのだが、莉子は見事に品定めした時計や、彼が持ち込んだ波板をヒントに、彼の職業や入社歴、勤務先まで言い当ててしまう。彼女は審美眼や人間観察眼のみならず、行動力だって並ではない。絶句する小笠原を急き立てて、シールの貼られている現場を見に行こうと誘う積極性がその証し。本書で狂言回しを務める小笠原とともに、莉子の鮮やかな活躍が始まる。
著者が書くそうしたスーパー・ヒロインには、すでに〈千里眼シリーズ〉のクール・ビューティー、岬美由紀という颯爽としたカリスマがいる。元自衛隊員で、武術にも長け、戦闘機や戦車まで操縦できる屈指のサバイバル能力の持ち主。その一方で、語学堪能、歴としたトレーニングを積んだ有能な臨床心理士でもある。文武両道を地でいくキャラでありながら、心優しく、年ごろの女性らしい脆さもある愛すべき二十八歳。
その岬美由紀と肩を並べるくらいのスーパー・ヒロインというのは、指名されてもなかなか荷が重いのではないかと莉子の身を案じながら読み姶めたのだが、それはまったく要らぬお節介というものだった。むしろ、凡庸な男など出る幕のない岬美由紀より、博学ではあるけれど少し純粋すぎて、つまずいては立ち上がる莉子のほうが等身大の魅力を湛えていて、親近感を持つ読者もいるかもしれない。
なにせ彼女には、上京する前の高校時代、担任教師が将来を心配するほどの劣等生だった過去がある。勉強ができないというだけでなく、会話の文脈を読み取れない天然系で、明るく屈託がないだけにはらはら。就職のアテもなく東京に出るなんて水商売でもするつもりかと気を揉む担任に、「水を売る商売なら、就職したい」と真顔で返す。そのうぶさ加減はトゥーマッチな気もするが、それくらいの天真爛漫さが確かに彼女の魅力でもある。
そんな莉子が、底知れない情報量をいかにしてものにし、誰もが舌を巻くような論理展開ができるようになったのか。知性派への変貌ぶりは、『万能鑑定士Qの事件簿Ⅰ』では小出しにしかされていないが、マルチな鑑識眼を有する才能の源になっているのは、IQでもなく高等教育でもなく、比類ないほどの感受性の高さだという点が心憎い。情動、つまり感情の強さ深さが記憶のメカニズムとも関係があることは脳科学の分野でも証明されているが、莉子は人一倍、そのネットワークが強いのだ。
いち早く莉子の美点に気づき、導いてくれるのが、大手リサイクルショップ、チープグッズの社長を務める瀬戸内陸。牧師になって人助けをするのが夢だった瀬戸内は、島のため、人のために尽くしたいと考える莉子の理想に、人間らしい真善美を見出し、自分の思いを重ねる。瀬戸内は娘の楓を可愛がるように、莉子にも親身になって手を差し伸べる。
松岡圭祐は好んで、自らの手で運命を拓くバイタリティーや、誰もが「こうありたい」と考えるようなまっすぐで力強いヒューマニズムの持ち主を描く。その最たる存在が本シリーズでは莉子であり、またシリーズⅠ巻では、瀬戸内も気宇壮大なそのロマンの体現者なのだが......。ふたりの運命的な出会いは、Ⅱ巻で予想外の形で幕が下りる。そう、『万能鑑定士Qの事件簿Ⅰ』は、続くⅡ巻も合わせて一つの大きなエピソードとなっていて、Ⅰ巻では掬いきれない謎がたくさん散りばめられているのだ。
物語の舞台は、東京の飯田橋界隈、羽田、沖縄の石垠島や波照間島、『週刊角川』編集部、リサイクルショップ、不審な料理教室、牛込警察署の会議室等々。この事件は、科学分析を施したことでいっそう不可解になる。そんな矢先、莉子のもとに不動産の出物があるというニュースがもたらされるのだが、その顛末は数珠つなぎに、日本社会を悪夢的混乱へ近づけていくことに。十数ページずつのチャプターごとに、時系列が細かく前後する箇所もあるし、めまぐるしく場面展開する箇所もある。だがシーンががらりと変わっても、ビジュアライズに長けた文章はすぐさま読者をすんなり物語へ連れ戻す。
何と言っても、Ⅰ巻ラストのチャプターで、ハイパーインフレが起きている近未来らしき日本の姿が活写されるのだ。その前には、一件落着かに見えたとある事件現場から、静かに立ち去った男の存在がなにやら思わせぶりに描かれ......。先が気にならないわけはないじゃないか! 稀代のストーリーテラーの人心掌握力は、いっそう磨きがかかっている。


万能鑑定士Qの事件簿 Ⅱ
『万能鑑定士Qの事件簿Ⅰ』より続く
精巧なる贋作
角川書店に入社四年目、『週刊角川』の雑誌記者を務める小笠原悠斗にとって、凜田莉子という三つ年下、二十三歳の女性は実に気になる存在だった。
すらりと伸びた長い腕と脚、モデルのような抜群のプロポーションを誇る美人だからというだけではない。実際、その猫のように大きな瞳やぎこちなくみえる笑顔も魅力的ではあるが、なにより圧倒されるのは、彼女の鑑定眼だ。
莉子は万能鑑定士Qなる店舗を経営している。飯田橋の神田川沿い、雑居ビルの一階の洒落た店だった。従業員はおらず彼女ひとりで働いている。看板は鑑定士となっているが、それはあくまで屋号にすぎなくて、彼女は特別な資格を持っているわけではない。末尾のQの意味もわからない。
にもかかわらず、凜田莉子の持つ豊富かつ多岐にわたる知識と、鋭い観察力に裏打ちされた鑑定能力は、あらゆる物の成り立ちを瞬時に見抜き、真贋から価値まですべてをあきらかにする。まったく驚くべき女性だと小笠原は思った。沖縄出身だというが、どんな経歴の持ち主なのだろう。偶然の出会いから数日、莉子が過去をあまり話さないせいで、小笠原はいまも彼女のバックボーンをつかみ損ねていた。
それでもかまわないと小笠原は感じていた。雑誌記者としては失格かもしれないが、ひとりの男として、彼女の素性をしつこく聞きだそうとするのは好ましくはない。親しくなれば、彼女のほうから打ち明けてくれるだろう。そう、もっとふたりの距離が縮めば。
夜八時半すぎ。ファーつきのツイードジャケットを優雅に着こなした莉子とともに、小笠原は大久保通りの歩道を牛込警察署に向かって急いでいた。
小笠原のほうは、けさ会社に出勤したときのスーツ姿のままだった。警察署に行くことになるとは夢にも思っていなかったが、無難な服装だ。問題視されることはないだろう。
少なくとも、警察側が小笠原の来署に嫌悪感をしめしていないだけでも、充分にありがたいことだった。雑誌記者はふつう、どの公的機関に行っても門前払いを食わされるばかりだ。
それもこれも、抜きんでた存在感を放つこの連れのせいでもある。凜田莉子はつい一時間ほど前に、イオナ・フーズなる怪しげな業者による侵入盗のからくりを見抜き、犯行を阻止したばかりだ。犯人グループは逮捕され、いま牛込警察署で取り調べを受けている。
「凜田さん」小笠原は歩きながらいった。「あいつらいったい、何なのかな。あそこまで手間をかけて、マンションの二階に盗みに入ろうとするなんて」
「まだわからない」と莉子はつぶやいた。「でもたぶん、犯行の目的はお金じゃないわ」
「金じゃないって? どうして?」
「ざっと計算してみたんだけどね。都内三か所の料理教室のテナント契約料だけでも、二百万円以上ものお金を彼らは支払ってる。店舗物件は契約時に半年ぶんの保証金が要求されるからよ。それにエラーコイン購入に三十万円、食材を揃えるのに三十万円、調理器具とキッチン、業務用冷蔵庫を中古で揃えたとしても五十万円。設置と撤去は自分たちでやったとして、あとは車のガソリン代と各会場の光熱費。四百万円はかかっているのよ」
「マンションの二階に住んでた公務員さんとやらが、よほどの金持ちだったんじゃないか。それで窃盗のターゲットに選ばれたとか」
「それはないわよ」
「なぜいいきれる?」
「窓にさがっていた花柄模様のカーテンって、ニトリで売ってる千六百円の商品よ。暗くてよく見えなかったけどエアコンの室外機が錆びついてた。あの真新しいマンションには不釣り合いだし。どこかから引っ越してきたとき、エアコンも持ってきたんでしょう。お金持ちなら買い換えるはず。暮らしぶりは質素と考えるべきよ」
「でも神楽坂の一等地だよ?」
「警察が踏みこんだとき、窓に明かりの灯いた範囲から察するに、1Kかせいぜい1DKでしょう。通勤に便利な場所に部屋を借りて、独り暮らし。都内に勤める公務員さんの生活としては、不自然じゃないわ」
「なるほど......。それでも公務員が狙われたのはなぜかな? 目的が物盗りじゃないとして、あ、そうだ。まさか住人に危害を加える気だったとか......」
莉子は首を横に振った。「なら凶器を持ちこんでいるはずよ。そうであったなら警察の対応がもっと緊迫したものになってただろうし、凶器も押収されたでしょう」
「そうか。そうだよな」小笠原は頭を掻いた。「なあ。警部補の葉山さんとはいつ知り合ったんだい?」
「そんなに昔のことじゃないけど」莉子は歩きながらこちらを見た。「どうしてきくの?」
「いや。以前にも葉山さんの事件の解決に貢献したみたいだし......」
莉子は微笑した。「たいしたことじゃないわ。いくつか品物を持ちこんできたから、鑑定しただけ」
「警察って、謝礼をちゃんと払ってくれるものなの?」
「もらわなかったけど......。別にいらなかったし」
「ただで働いたのか?」
「頭使うのが好きだし。それで人助けになるなら、なによりの報酬でしょ?」
「見あげた人格者だねえ。僕が二十三のときには社会人としてはまるで使い物にならなかったよ。馬鹿やってばかりでね」
「わたしだってそう。高校のころ野球部のマネージャーしてたけど、怒られてばっかり」
めずらしく莉子が思い出を語りだした。小笠原は興味を持ってきいた。「へえ? どんな失敗があったの?」
「テレビのプロ野球で外人選手が目の下に墨を塗ってるでしょ。それを一緒に観てたお父さんが、あれはエラーした罰ゲームで黒く塗られるんだっていうから、わたし真に受けちゃって。次の日、書道で使う墨を部活に持っていって、ミスした部員の顔に墨をいれたのよね。それもにっこり微笑みながら」
莉子が笑ったので、小笠原もつられて笑った。だが、内心は目を丸くしたい気分だった。
野球部員の顔に墨だなんて......。天然としかいいようがない行為だ。いや、まさか、冗談に違いない。聡明な彼女が高校生のころにそこまで抜けていたとは、絶対に思えない。
「でね」莉子はいった。「あとで顧問の先生にめちゃくちゃ怒られたの。『はねつきじゃねえぞ!』って。わたし、合宿の夕食のことだと思って『エビですか』っていっちゃった。はねつきっていえば餃子しか頭に浮かばなくて」
「ハハ......。愉快だね」
間違いない、ジョークだ。凜田莉子がそんな鈍い思考の持ち主だったなんて信じられない。まるで別人じゃないか......。
牛込警察署の十階建てのビルに着いた。ロビーには照明が灯っている。さっき一度訪ねただけだというのに、二度めともなるとすでに慣れていた。エントランスのわきの制服警官に会釈して、ふたりはロビーに入った。
窓口はもう無人になっていた。階段を三階にあがり、刑事部に向かう。
昼間には大勢の私服警官が詰めていた刑事部屋も、いまは閑散としていた。居残っている女性警察官がこちらを見ていった。葉山さんなら七階の会議室ですよ。
女性警察官はそう告げただけで、特にどうしろとはいわなかった。どうやら、勝手に署内を動きまわってもいいらしい。
ずいぶん信頼されたものだと小笠原は思った。莉子の利発さがよほど高く評価されたのだろう。会議室ならこの階にもあるが、わざわざ七階にあがっているからには、署の上層部の人間も加わっているのかもしれない。この自由さは、ぜひ莉子にも会議に顔をだしてほしいという意思の表れだろう。
小笠原は莉子とともに廊下にでて、エレベーターに乗った。
エレベーターのなかで、小笠原はいった。「金一封ぐらいでるかもね」
「まさか」莉子は苦笑に似た笑いを浮かべた。「不況なのに、たったあれぐらいのことで」
「事件を未然に防いだんだよ? 感謝しないほうがおかしい」
やがてエレベーターの扉が開いた。ふたりは廊下に降り立った。
会社でいえば重役専用のフロアのようだった。照明や壁紙、床までがそれなりに高級にみえる仕様で統一されている。雑然と積まれたダンボール箱の類いはない。人の往来もなく、辺りは水をうったように静まりかえっていた。
どうするべきか戸惑いながらたたずんでいると、扉が開く音がした。
廊下に面した木目調の扉のひとつが開いて、馴染みのある痩せた男がせかせかした足どりででてきた。葉山翔太警部補だった。
伏し目がちにしているせいか、こちらに気づいていないようすだ。目の前を通り過ぎようとしている葉山に、小笠原は声をかけた。「あのう。さきほどはどうも。お手柄でしたね」
葉山は足をとめ、小笠原を見た。
だがその顔に笑いはなかった。刑事部屋で初めて会ったときと同じような覇気のない目で、葉山はつぶやいた。「ああ。あなたたちですか」
少しばかり困惑を覚えながら、小笠原はきいた。「あの後、どうなりましたか。逮捕した容疑者の取り調べは進んでますか」
葉山は無言のまま視線を逸らした。しばらく何か考えているようすだったが、やがて目を合わせずに告げた。「きてください。こっちへ」
踵をかえし、さっきでてきた扉に向かっていく。葉山は扉をノックした。失礼します、といって扉を開けると、こちらを見た。小笠原たちが入室するまで、扉を支えるつもりらしい。
動作だけみれば歓迎していることになる。しかし葉山の表情と態度から察するに、とてもそうは思えなかった。
莉子が当惑顔で小笠原を見た。小笠原は莉子に肩をすくめてみせた。
何が待っているのか知らないが、ここに立ちつくしているわけにはいかない。行こう。小笠原は目でうながした。
すぐに莉子はうなずいて、先に立って歩きだした。小笠原も後につづいた。
ふたりが部屋に入ると、葉山も入室して、後ろ手に扉を閉めた。
そこは赤い絨毯か敷かれ、本物の織物壁紙に囲まれた広い部屋だった。殺風景に見えるのは、巨大な円卓にたったふたりの男しか座っていないからだろう。
ふたりともスーツ姿、それも葉山が着ているものとはひと目で違いがわかるほど、高級感のある仕立てのよさだった。ひとりは太っていて、眼鏡をかけている。もうひとりは痩せていて、口ひげをたくわえていた。ふたりに共通しているのは、椅子にのけぞるように腰かけたまま身を起こそうとしない愛想のなさだった。
口ひげがきいた。「この男女は?」
葉山は恐縮したように身をちぢこまらせながら紹介した。「彼女が凜田莉子さんです。万能鑑定士Qという店舗の店主で......」
「ああ」太った眼鏡の男はぞんざいにいった。「所轄をそそのかして、私たちの行動を妨害させた張本人か」
莉子は面食らったようすで目を瞠った。「え......?」
口ひげはなおも椅子の背に身をあずけていた。「藤堂はどこにいった」
「藤堂さん......って? 誰ですか」
「とぼけるな。藤堂俊一。きみらが逃がした男だ」
葉山があわてたように口ひげにいった。「お待ちください。彼女が藤堂の逃亡に手を貸したとは、私には思えません。彼女の意図しないことです」
太った男は苛立たしげに唸った。「結果としてそうなっとる」
口ひげも同調した。「知っていることはぜんぶ話せ。それまでは家に帰すな」
小笠原は反感を覚えた。「ちょっと待ってください。ふたりとも。何を聞こうとしているんです。凜田さんは犯罪を未然に防ぐことに尽力したんですよ」
ふんと口ひげは鼻を鳴らした。「未然に防ぐどころか、火に油を注いだだけだ」
太った男は眼鏡をはずし、ハンカチで拭きながらいった。「きみのいう犯罪というのが、マンションの二階に侵入しようとした男の件であるなら、それは論点がずれとる」
まるで受けいれられない指摘だった。小笠原はいいかえした。「周到なカモフラージュを施して、二階にこっそり押し入ろうとした行為が、犯罪じゃないっていうんですか」
じれったそうに口ひげがきいてきた。「誰なんだね、きみは」
「......『週刊角川』記者の小笠原悠斗といいます」
職業をきかれると弱い。おそらくまた相手は嫌悪をあらわにし、部屋から叩きだそうとするに違いない。
ところが、室内の空気は一変した。小笠原の予測しない雰囲気が漂いだした。
太った男が眼鏡をかけなおす。戸惑いがちに口ひげの男を見やる。口ひげの男も苦い表情を浮かべていた。
「記者さんだったか」口ひげの男がおずおずといった。「おっしゃることに間違いはない。あれが不法侵入だった事実に変わりはない。そこについてはわれわれも理解している。そうだな、緋崎?」
緋崎と呼ばれた太った男は、渋々といったようすでうなずいた。「そのう、不法侵入か否かといわれれば、合法ではない。前言を撤回させていただく」
驚いた。小笠原はひそかに舌を巻いた。記者の肩書は疎ましがられるだけだと思っていたが、案外、官僚クラスとおぼしき人物たちには有効らしい。葉山をはじめとする所轄の警官たちの反応とは雲泥の差だ。
内心ほっとしていたが、それを顔にださないようにつとめた。小笠原はいった。「凜田さんは、イオナ・フーズの違法行為を見過ごせずに葉山さんに相談し、それが逮捕につながりました。状況を察知したなら全国どこの署の警官であっても行動を起こしたでしょう。感謝されこそすれ、責められることではありません」
マスコミを恐れる官僚体質は尋常でないものらしかった。ふたりの顔から血の気がひきつつある。口ひげがようやく身を乗りだした。「非礼と感じられたなら、そこはすなおにお詫び申しあげる。だが、ひとつわかっていただきたいのは、今夜の神楽坂での不法侵入は、刑事事件として扱われてはいない。被疑者は勾留されていないし、送検もされない。だから厳密には事件ではない」
「え?」莉子が驚きの声をあげた。
小笠原も同じ気分だった。唖然としながら葉山にきいた。「どういうことです? 現行犯逮捕だったのに」
葉山は視線を逸らしたまま、ささやくようにいった。「事情があったんですよ。いろいろ複雑な事情が......」
「まあ待て」口ひげが手をあげて葉山を制した。「凜田さんに尋ねたいことははっきりしている。この人物の行方を知っているかどうか。われわれがききたいのはそれだけだ」
口ひげは手もとのファイルを開けて、一枚の写真を取りだした。円卓の上を滑らせて、小笠原に押しやってきた。
小笠原はその写真を拾いあげた。そこに写っている中年男の顔は、あきらかに見覚えがあった。
莉子が衝撃を受けたようすでつぶやいた。「この人......」
その反応に、ふたりの男はいろめきたった。緋崎は莉子をにらみつけた。「やはり知っているのか」
「ええ」莉子は当惑ぎみに応じた。「たしかに知ってます。でも、ついさっき道端で会っただけです」
「本当か」
小笠原は莉子に代わって応えた。「間違いありません。二階への侵入者が逮捕された直後に、神楽坂の歩道をこちらに向かって歩いてきました」
年齢は四十代ぐらい、小柄で痩せていた。額はわずかに禿げあがっている。口ひげの男が着ている物ほどではないが、上質そうなスーツをまとい、地味ないろのネクタイを締めていた。生真面目そうな顔つきの男だった。
「で」緋崎が真顔できいてきた。「彼となにか話したか?」
「はい。何かあったんですかときいてきたので、マンションの二階に物盗りが押し入った旨を説明しました」
「......それで?」
「この人は背を向けて、足ばやに遠ざかっていきました。凜田さんと僕が知っているのはそれだけです」
ふたりの男は顔を見合わせ、ふうっとため息をつくと、また椅子の背に身をうずめた。
緋崎は舌うちをした。「なんてことだ。帰宅時に騒ぎを見られ、逃げられた」
口ひげは頭を掻きむしっていた。「葉山君。どうして周囲に私服警官を待機させておかなかった。彼がマンション二階の住人であることぐらい、調べはついていただろうが」
葉山は神妙にいった。「藤堂俊一という公務員であることは判明していたのですが......。顔までは認識していませんでした」
「侵入盗を未然に防ぐつもりでいながら、その被害者と目されていた人物を把握していなかったのか。これは通常の捜査であっても大きな落ち度だぞ」
緋崎が莉子を指さした。「彼女にききたい。そもそもなぜ所轄に相談した。自分がなんらかの被害を受けたわけでもないのに、どうしてそこまでしようと思い立った」
莉子は当惑を深めたようすだった。「わたしは......」
小笠原は遮って緋崎にいった。「質問があるのなら趣旨を明確にされたらどうですか。凜田さんはごくふつうの国民、一般市民ですよ。何も知らされないまま事情聴取を強制されるのはおかしい。人権を無視してます」
ふたりが押し黙った。小笠原は背に冷や汗が流れるのを感じた。
いつの間にか、この場で最も強く発言できるのは俺になっているようだ。ペンは剣より強しとうぬぼれている場合ではない。相手には相当のストレスが溜まっているとみるべきだろう。言葉に気をつけないと、あげ足をとられて猛反撃を受ける可能性がある。
しばしの沈黙の後、口ひげの顔つきが変わった。
いままでとは一変して落ち着き払った態度で、よかろう、と口ひげはいった。「写真の男、藤堂俊一は国家公務員でね。国立印刷局の工芸官という職に就いていた」
「工芸官?」と小笠原はつぶやいた。
莉子が告げてきた。「お札の絵を描いている人よ。筆と絵で原図を描いてから、原版を彫刻するの」
また緋崎の顔が険しくなった。「どうしてそんなことを知ってる?」
小笠原はうんざりしながら緋崎にいった。「彼女は広範囲の知識を持つ鑑定家です」
葉山も控えめに弁護してきた。「たしかです。彼女はフリーランスですが、古銭商とつながりがあったりするので、紙幣製造のあらましぐらいは知っていてふしぎではありません。もちろん、世に公表されている範囲で」
緋崎は浮かない顔で円卓に視線を落とした。
口ひげが咳ばらいをした。「私は絹笠遼。財務省大臣官房秘書課、財務官室に勤めている。こちらは緋崎敦司。警視庁公安部から来てもらっている。警察庁警備局の指示に基づいてのことだ」
公安......。事情はかなり複雑らしい。小笠原はそう思った。
思想犯罪や組織犯罪のように非常に特殊かつ凶悪、大規模な犯行を取り締まるのが公安部だった。捜査はもとより、普段の職務自体の秘匿性が高く、マスコミも容易に近づけない......。そんなふうに先輩記者からきいたことがある。
緋崎は眼鏡の眉間を指で押した。「私たちのやり方は、一般に広く知られる警察の捜査方法とは異なっている。可能である限り合法であろうとする姿勢は同じだが、国家の非常事態につながるような緊急の事態に際しては、一部合法とはいえない手段をもって道を開くこともある」
小笠原は緋崎にきいた。「それが今夜の不法侵入だったわけですか......?」
「裁判所が逮捕状をだしてくれる状況なら一番早い。だが証拠がなかった。それでも藤堂の身柄は確保せねばならんし、偽札製造の物証は押さえねばならん」
莉子は衝撃を受けたようすだった。「偽札ですって?」
「そうだ」絹笠は口ひげを指先で撫でながらうなずいた。「本物と見分けがつかないどころか、機械のあらゆるチェックすら難なく通過する、完璧な仕上がりの偽一万円札が出まわっている」
緋崎が後をひきとった。「製造工程から見て本物と同じ描き手、つまり工芸官の藤堂が一枚噛んでいることは明白だった。しかし警視庁の通常の立件手段に頼るわけにはいかない。藤堂を押さえても背後にいる偽札製造グループの全容をつかまねば意味がないからだ。任意出頭などと悠長なことをいっていれば、仲間は逃亡、物証は処分されてしまう。それで、やむなく必要最低限の非合法手段をとることになった。一般社会への影響を極力抑える方法で、藤堂の住む部屋の家宅捜索および、可能ならば本人の身柄の確保を試みたんだ。カモフラージュのために、音の専門家の知識を借りたりもした」
小笠原は寒気を覚えつつあった。「でも......。それならマンションのオーナーに鍵を借りれば......」
「藤堂は部屋の鍵を交換し、ピッキング不可能なものに付け替えていた。加えて、扉や窓に警報装置を付け、唯一侵入可能な小窓も鉄格子に覆われていた。令状がない以上、オーナーが断ったらそれまでだし、なによりオーナーにさえこちらの動きを勘づかれたくなかった。われわれとしては秘蜜裏に行動することが大前提だった。完全なる偽札の存在はいまだ極秘事項であるし、不要なパニックを起こしたくなかったからだ。とりわけ、きみのような職業の人間に嗅ぎつけられることを恐れた。マスコミ関係にね」
あれだけの手間を惜しまなかったのは、完全犯罪を画策したからだろう。彼らは身内であるはずの警察をも欺き、公安による不正行為の記録が残るのを回避しようとした。呆れるほどの居直りだ。少なくとも数百万円もの血税を注ぎこみ、犯罪の隠蔽工作に利用するとは。
小笠原は緋崎にきいた。「イオナ・フーズの立浪という男や、不法侵入で捕まった男は、あなたの部下ですか」
緋崎は首を横に振った。「所轄に目をつけられるようなへまはしないつもりだった。株式会社という表記を掲げるためには、正式に法人を作らせた。活動実態はないが登記はしてある。取締役を立たせ、社員も雇用させた。多くは警視庁とつながりのある警備会社の人間が、書類上転職したことになっているが、彼らはもともと公務員ではない。それでも彼らのしたことには。われわれに全責任がある。葉山君にも事情を話し、理解してもらった。よって関係者は全員、釈放された」
葉山は硬い顔をしていた。公安の秘密主義に踊らされたとあっては、上機嫌でいられるはずもない。
小笠原は緋崎を見つめた。「違法行為に手を染めねばならないほど、切迫した状況だったんですか?」
「むろんだ」緋崎は真顔で見つめかえしてきた。「戦後最大の非常事態といって差し支えないはずだ」
絹笠も同意をしめしてきた。「真贋の区別のつかない紙幣が多くでまわったら、極度のインフレが起きる。ただでさえ脆弱な昨今の経済状態だ、崩壊の危機につながりかねない」
緋崎は円卓を叩いた。「藤堂は姿を消し、行方不明だ。各道府県警察公安部門にも協力を呼びかけているが......。家族に連絡もなく、携帯電話もつながらなくなった。これまでマークしていた藤堂の立ち寄り先にも音信不通だ。今晩の神楽坂の騒ぎ以降、あきらかな逃亡の意思を持って行方をくらましている」
莉子は暗い顔でうつむいた。自分のやったことに責任を感じているのだろう。
小笠原は笑いかけた。「心配しないで。凜田さんのせいじゃないよ」
複雑な表情を浮かべながら、莉子は顔をあげた。大きく見開いた瞳がわずかに潤んでいる。
緋崎は吐き捨てるようにいった。「少なくとも所轄の邪魔が入らなければ、いまごろ国家の危機的状況は回避できていたかもしれないのに」
むっとして小笠原はきいた。「部屋から物証はでたんですか? それだけ熱心に調べたがっていたからには、もう捜査員を送りこんだんでしょう?」
「もちろんだとも」緋崎は平然と告げてきた。「だが部屋はもぬけの殻も同然だった。生活必需品や服、買いこんだ食料がさももっともらしく並べてあるだけだ。藤堂は部屋に証拠を残さなかった。ふだん持って出歩いていたのかもしれない」
小笠原の脳裏に、藤堂なる男と出会った瞬間の光景が浮かんだ。
彼は事務カバンを携えていた。マンションの部屋に捜査の手が伸びたと知るや、彼はそのカバンを持ったまま去っていった。
物証はあのなかか。だとすると、たしかに騒ぎが起きるのがあと数分遅れていれば、彼の身柄ごとカバンも押さえることができたかもしれない。
そのとき莉子がいった。「あのう......」
円卓のふたりが顔をあげる。葉山も莉子に目を向けた。
莉子はきいた。「その偽札なんですけど......。機械も判別できないとおっしゃいましたけど、本当なんでしょうか? そこまで精巧な偽札となると作るのに莫大な経費がかかって、まったく元をとれないはずでしょう?」
絹笠が口を開きかけた。とほぼ同時に、扉をノックする音がした。どうぞ、と葉山が応じると、開いた扉から雲津が顔をのぞかせた。
雲津は深刻そうに告げた。「失礼します。マスコミの発表が始まりました。報道特番が編成されてます」
「何?」と緋崎がうわずった声をあげた。
絹笠が唸った。「報道協定などあって無きがごとしだな。ニュースキャスターの口に戸は立てられん。観にいこう」
ふたりが苦々しげな表情で立ちあがる。雲津が案内する。どうぞ、テレビはこの階にあります。みなさまにもお集まりいただいております。
官僚たちが部屋をでると、葉山が後につづく。小笠原は莉子をうながし、廊下にでた。
ぞろぞろと歩く男たちの背を追いながら、小笠原は莉子にささやいた。「二階に住んでたのがお札の絵を描く人だったなんて......。葉山さんたちは把握できなかったのかな」
莉子も小声でかえしてきた。「工芸官って、氏名も明かされていなければ住所も伏せられているの。周囲には公務員としか説明していないはずよ。なんといっても、その手でお札が描ける人なんだから」
「そうだよな。拉致されたりしたらとんでもないことに......。あ、そういう可能性もあるのか」
「ええ、藤堂さんは何者かに脅迫を受けて、偽札づくりを強要されたのかもしれない。その場合はまだ救いがある」
「というと?」
「本物を作った人だから、偽物にはそれとなく本物との違いを混ぜておくことができる。主犯グループに気づかれないていどに、ごく小さなポイントを変更しておくの。そうすれば、のちに本人がそのポイントを公表することで、真贋を区別できる」
「なるほど......。逆に藤堂って人が強制されたわけじゃなく、積極的に偽札づくりに関わっていたとしたら......」
「本物との違いを極力なくす努力をするだろうから、判別は困難になる。同じ作者の作品だからね」
作品か......。
たしかに紙幣も、人の手により作られたものに違いない。それも、突きつめて考えれば紙に印刷されたデザイン画だ。手がけた人間がこの世にいる以上、その人物をもってすれば複製は不可能ではないのかもしれない。
廊下の突きあたりにある観音開きの扉に、男たちは入っていった。莉子、そして小笠原も後につづいた。
室内はさっきよりひとまわり小さな会議室だったが、円卓ではなく長テーブルが何列にも連なっていて、スーツ姿の男たちが椅子におさまっていた。この所轄の私服警官よりも身なりがよく見える彼らは、絹笠と緋崎が入室するや、いっせいに立ちあがった。どうぞら、ふたりの部下らしい。財務省および警視庁公安部の面々だろう。
ハイビジョンテレビにはニュース番組が映しだされていた。落ち着いたトーンの男性キャスターの声が響いている。その喋り方から、どの局かはすぐに察しがついた。
緋崎も気づいたらしく、苛立たしげにつぶやいた。「なんてことだ。NHKが口火を切ったのか」
「いえ」雲津がいった。「民放が第一報を報じました。ほかの各局が次々に追随し、NHKも報道に踏みきったところです」
両面のなかの男性キャスターが告げた。「お伝えしておりますように、数日前、NHK放送センターの受付に、二枚の一万円札および一枚の便せんが入った封筒が置かれました。郵送されたものではなく、職員や警備員の気づかないうちに意図的に放置されたものと思われます」
映像が切り替わり、二枚の紙幣が並んだ画像が映しだされた。
男性キャスターの声がつづける。「これら二枚の一万円札は、番号がいずれもNB175820Jで、本来ならばありえない同一番号の紙幣でした。番号に書き加えたり、書きなおした痕跡はありません。このためNHKでは独自に専門家に鑑定を依頼し......」緋崎が舌打ちした。「法に従えば、鑑定よりまず拾得物として警察に届けるべきだろう」
「いや」絹笠は眉間に皺を寄せた。「報道の自由と義務は尊重される。数時間の鑑定を経て、その後警察に届ければ問題にはならん」
テレビは二枚の札の番号をクロースアップしていた。男性キャスターの説明はつづいている。「鑑定家によれば、紙質やインクの質はもとより、透かし、マイクロ文字、特殊形状スクリーンといった再現不可能とされた技術が両方の紙幣に用いられていることから、二枚のいずれもが本物であり、印刷ミスで番号が同じになったいわゆる〝エラー紙幣〟が流出したもの、とのことでした。NHKでは鑑定後すみやかに拾得物としてこれらを警察に提出しましたが、その後の警視庁科学捜査研究所の鑑定でも、同一の見解がしめされました」
ふんと緋崎が鼻を鳴らした。「法には従ってますとちゃっかりアピールしたわけか」
画面が切り替わる。今度は一枚の便せんだった。ワープロ文字で漢字が連なっている。中国語のようだった。
「しかしながら」とキャスターの声はいった。「添えられていた便せんに印刷された中国語のメッセージには、以下のような内容が含まれていました。われわれは日本国の最高額紙幣を、本物とうりふたつに複製することに成功した。すでにわれわれの手による複製紙幣は、本物の貨幣価値を駆逐するほどの数量が日本国内にでまわっており、今後もさらに数を増やしていく。これは日本の資本主義、貨幣経済の時代の終焉である。......署名はなく、科捜研の鑑定でもNHK職員以外の指紋は検出されなかったとのことです」
映像は四分割され、日本テレビ、TBS、フジテレビ、テレビ朝日の各社屋がテロップつきで紹介された。キャスターの声がかぶる。「同時期に民放テレビ各局にも、同じ内容の手紙と、同一番号の一万円札二枚が届けられていることがあきらかになりました。さらに朝日新聞、読売新聞、毎日新聞、産経新聞、東京新聞、日本経済新聞の各本社にも同様の封書が届けられたとのことです。出版社では、報道メディアに属する週刊誌を中心に、『週刊文春』『週刊新潮』『週刊現代』『週刊角川』......」
小笠原は思わずむせそうになった。こんなところで職場の名をきくことになるとは。
ふと、小笠原のなかに妙な感触が走った。
ひょっとして、編集長たちが緊急会議を招集したのは、これが理由か。いや、そうに違いない。ヒラの記者や編集員を閉めだして、報道するべきか否かを話し合っていたのだろう。
緋崎がいった。「リモコンを貸せ」
雲津がそそくさとリモコンを差しだすと、緋崎はそれを受け取り、チャンネルを次々に変えた。
どの局も報道特番だった。それぞれの局の顔ともいえるメインキャスターが登壇している。
ある局の女性キャスターは告げていた。届けられました一万円札は二枚ともRK036471Sで、二枚とも本物と鑑定されました。
チャンネルが変わり、別の局の男性キャスターは紙幣の写真をフリップにしてしめしながら説明した。二枚とも本物に間違いないとの鑑定結果がでました。いずれも番号はMR021285Tです。このようなことは紙幣製造工程上、絶対にありえないわけで......。
緋崎はリモコンをテーブルの上に放りだした。
「くそ」緋崎は悪態をついた。「ここまで大々的に報じるとはな。国民にパニックが起きるぞ。誰もが財布のなかに入ってる金を、本物かどうか疑いだす」
絹笠は部下になにか指示を与えていたが、それが終わると緋崎に向き直った。「私は霞が関に戻る。大臣が総理とお話しになるだろうから、サポートせねば」
「私も」と緋崎はハンカチで額の汗を拭いた。「警察庁の警備局から説明を求められるだろうし、捜査の方針を抜本的に見直さないと」
いくぞ、と緋崎が告げると、室内にいたスーツ姿の男たちが立ちあがった。誰もが険しい顔つきだった。恐れていた事態が現実になった、そんな重苦しい空気が彼らに漂っている。
莉子が緋崎を追った。「すみません......。緋崎さん。あの......」
緋崎が足をとめて振りかえった。「なんだね」
「各社に届いた偽札なんですけど......。いまはすべて警察のもとにあるんでしょうか」
「およそ半分だ。会社によっては、ニュースの素材になると踏んで手もとに置いておきたがるところもある。おもに週刊誌関係だろう」
じろりと緋崎がこちらを見やる。小笠原は思わず視線を逸らした。
莉子は絹笠にも話しかけた。「絹笠さん。テレビの画面では二枚とも本物の一万円札に見えましたけど......実際に目で見ても違いはわからないんですか?」
退室しかけていた絹笠は立ちどまり、ため息をついた。「いまテレビが報じていたとおりだ。見た目も肌触りも、重ささえもすべて一致。色彩や表面の微妙な凹凸すらも寸分たがわない。実際、二枚送られてきたうちのどちらが本物でどちらが偽物か、はっきりしないんだ。なにもかも分子レベルで一致している。現時点では二枚の本物が存在すると認識するしかない」
「でも......。二枚とも本物と鑑定されるなら、どちらも国立印刷局の工程で製造されたとしか考えられないでしょう。同じ機械で製版と印刷をおこなったとしか......」
「ありえないよ。銀行券印刷機は厳重な監視下に置かれている。紙幣印刷用の紙も数量が常に厳重にチェックされている。町工場の印刷所のように、人目を盗んでサッと作れるしろものじゃないんだ。それにホログラムの貼りつけもある。ホログラムは別の工程で製造されているから、一か所ですべてまかないきれるものではない」
「なら、国立印刷局と同じ製造工程がどこかに設けられたってことですか? 工芸官の藤堂さんが手を貸していたのだとしても、すべての工程をコピーすることなんて......」
「凜田さんといったな。いろんな物を鑑定するお仕事だそうだが、われわれは職業柄、紙幣については知り尽くしている。日本の札は和紙が使われているが、この原料や製造過程もあきらかにはされていない。インクも一万円札の場合、十五色以上が用いられているが、このなかで成分が公表されているのはスミ、つまり黒だけだ。だが黒は全体の〇・二パーセントに用いられているにすぎない。あとはすべて色の複雑な調合と重なりによって描かれている。壱万円という文字も、日本銀行券という文字すらも単色の黒ではない。ようするにきみの指摘を受けるまでもなく、本物と同じ工程を立ちあげるなんて絶対に不可能だ。それがわれわれの認識だった。しかし現に偽札は存在している」
緋崎が同調するように莉子にいった。「たとえ難しくても、成分をすべてつぶさに科学的に分析すればいずれ原料はあきらかにできるし、途方もない労力と経費を使えば紙幣と同じ紙、インク、印刷技術を揃えられるだろう。けれども、それを実現するには、作れる偽札の合計額の数十倍、数百倍の金がかかる。材料が揃ったとしても、作業工程の確立には国立印刷局の設営費と同じかそれ以上の経費を必要とする。偽札が刷られるまでに要する金が多すぎて、誰も実現できるはずがない。いうなればコストが抑止力になっていたわけだ。これまではな」
莉子はつぶやいた。「莫大なお金をかけて、誰かがそれを実現したわけですか」
「そうとも。主犯グループの目的は金じゃないんだろう。この国に戦争を仕掛けようとすれば、兵器を揃えるのに天文学的な金額が必要になる。それを思えば、偽札づくりに好きなだけ金を注ぎこむほうが、国家を破滅させるには現実的だろう。脅迫状にあったとおり、資本主義国家を破滅させるにはな」
「......工芸官の藤堂さんも、そのグループに加わっていると?」
「原料と工程が揃っても、原版を作れるのはあの男しかいない。藤堂は現一万円札の原図を描いているし、百分の一ミリの正確さで銅板を彫る。こればかりはほかにどんな職人を雇おうと真似できん」
絹笠が咳ばらいをした。「よろしいかな、凜田さん。それから雑誌記者の小笠原さん。民間人であるあなたがたを巻きこんでしまった以上、われわれには説明責任を果たす必要があるというご指摘はまったくもって正しい。われわれはそれに応えた。あとはテレビの報道を観ればわかることだろう。今後、きみたちに関わることはない。取材があるとしても、しかるべき手続きを踏んでしかるべき部署に通知していただきたい。では、これにて失礼する」
有無をいわせぬ口上を終えるや、絹笠は背を向けて戸口をでていった。緋崎も黙ったまま退室していく。
ついさきほどまで、彼らがマスコミへの情報漏れを恐れていたがゆえ、雑誌記者である小笠原の立場は強かった。いまはその限りではない。万人が知る情報となってしまった以上、もはや小笠原に官僚を呼びとめる力はなさそうだった。
葉山がこちらを見て真顔でいった。「おふたりとも、もうお引き取りください。事情や経緯がどうであれ、犯罪抑止に力を貸していただいたことは感謝してます。じゃ、緋崎さんたちをお送りするので」
返事を待つようすもなく、葉山も廊下にでていった。
室内には小笠原と、莉子のふたりだけが残された。
莉子は沈痛な面持ちで黙りこんでいた。あまりに事態が大きすぎて、どう考えればいいのかわからないのだろう。小笠原も同じ気持ちだった。街角のちょっとした悪事を暴くつもりが、途方もない状況に手も足もだせなくなった。
呆然とたたずむしかなかったそのとき、着メロが鳴った。
小笠原は携帯電話を取りだし通話ボタンを押した。「はい」
ききなれた同僚の声が告げてくる。「おう、俺だ。宮牧だ」
「ああ。どうしたんだ、こんな時間に。まだ帰らないのか?」
「会社だよ」と宮牧の声が告げてきた。「おまえも呼びだされてるぞ。けさ編集部を閉めだされた全員に招集がかかってる」
「いまごろ? どうして?」
「テレビのニュース観てないのかよ」
「ああ......。偽札の件か」
「うちの編集部にも封筒がきたんだってよ。番号の同じ二枚の一万円札に、中国語の手紙」
「知ってるよ。テレビでいってた」
「編集長によると、先週の金曜に届いてたんだけど、どうすればいいかわからず上層部だけで悩んでたみたいでさ。もう隠す必要がないってことで、うちとしてもどう記事を組むか会議に入ろうってことになったわけだ。次号が特集号になる可能性もあるってよ。いまカメラマンがきて、表紙かグラビアページ用に紙幣の撮影をしてる」
「待て。紙幣はまだ編集部にあるのか?」
「もちろんだよ。二枚ともな」
やれやれ。緋崎の指摘したとおりか。「わかったよ。すぐ戻る」
小笠原は電話を切った。思わず溜め息が漏れる。
莉子がきいてきた。「いま、紙幣が編集部にあるって......?」
「ああ。週刊誌の締め切りはテレビや新聞に比べれば遅いからね。何を決定するにも数日かかるのが当たり前なんだよ」
「わたし、一緒に行っていい?」
「凜田さんが?」
「そう。その精巧な偽札を見てみたいの、本当に判別できないかどうか......」
莉子の真剣なまなざしを、小笠原はじっと見かえした。
鑑定業を営む彼女としては、ぜひとも目にしておきたい物に違いない。そしてなにより、自分のせいで藤堂を逃がしてしまった、その失点を取り戻したいと感じているのだろう。
思いは同じだと小笠原は思った。莉子は、貧しい人のためによかれと思って行動した。にもかかわらず。そこにはさらに上位の問題が待ち受けていた。初心を貫徹するならば、その新たな問題にさえも立ち向かわねばならない。
「よし、いこう」小笠原はいった。
莉子は微笑し、戸口に向かって歩きだした。
小笠原も歩調をあわせながら、冷静に思った。博識な凜田莉子といえど、財務省を惑わすほどの精巧な偽札の鑑定は無理だろう。それでも俺は彼女を支えたい。あくまで正しい道をいこうとする彼女に、可能な限り力を貸していきたい。
編集部
夜十時をまわった。凜田莉子は小笠原悠斗の案内で、飯田橋駅から早稲田通りを渡り、複雑に入り組んだ住宅街の路地を歩いていった。
この辺りまでくると、駅周辺の飲食店の賑わいからも遠ざかり、ひっそりとした静けさが漂うのみだった。その坂道を上った先に、株式会社角川書店の本社ビルがあった。
道を挟んでふたつのビルが向かいあっている。莉子は角川書店の所在地は知っていたが、なかに入ったことはなかった。編集部がどこかもわからない。小笠原は左手のビルに導いていった。莉子はそれに従った。
スロープの先にある駐車場入り口は鉄格子のシャッターが下りていて、ロビーの明かりも消えていた。それでも階上には照明の灯ったフロアがあるのが見てとれる。数えてみると七階だった。あれが『週刊角川』の編集部なのだろう。
ロビーの正面エントランスは閉ざされているらしい。小笠原はわきの通用口にIDカードをかざし、ロックを解除して、重そうな鉄の扉を開けた。
莉子が戸口をくぐると、小笠原がいった。「編集部はこのビルの......」
「七階でしょう?」と莉子は告げた。
小笠原は目を丸くした。「前にきたことがあるの?」
「いえ、初めてよ」莉子は暗闇のロビーを眺めわたした。ほどなく目が慣れて、うっすらと内装が浮かびあがる。「へえ。いい内装。シンプルモダンとアールデコの中間って感じ」
「ケロロ小隊のキャラ看板のおかげで、ずいぶんくだけだイメージだけどね」
「タママとギロロは位置を逆にしたほうが、色彩的にインテリアにマッチすると思うけど」
「総務部に伝えておくよ」小笠原は受付カウンターの隣りにあるエレベーターホールに向かった。「さ。こっちへどうぞ」
莉子は誘導に従った。エレベーターの扉が開く。なかに乗りこむと、小笠原がボタンを押した。七階。
上昇するエレベーターの内部は、新刊案内のチラシが壁面にびっしりと貼りめぐらされていた。目立つのはアニメ絵のキャラクターだ。八割がたがその手のイラストに埋め尽くされている。秋葉原の電器店のビルでエレベーターに乗っているような錯覚に陥る。
莉子はきいた。「『週刊角川』は? 貼ってないの?」
小笠原は足もとのいちばん低い位置にある、片隅のチラシを指さした。原色系のイラストのなかに埋没するように、ひどく目立たない地味な二色刷りのチラシがある。誌名のロゴは隣りのチラシの下に半分隠れていたが、なんとか読みとれる。週刊角川。
思わず同情したくなる。莉子はつぶやいた。「ひどい扱い」
苦笑ぎみに小笠原がいった。「仕方がないんだよ。売れ線が優遇されるのはどの会社でも同じことだし」
エレベーターの扉が開いた。グレーのカーペッ卜の廊下をしばらく歩いて、ガラスの扉を押し開ける。その向こうは、想像どおりの空間がひろがっていた。
雑然とした編集部。連なるデスクにおさまった編集員や記者たちは、パソコンのキーボードに指を走らせるのに忙しかった。フロア自体は広大だが、デスクはいくつかの部署に分けられているようだった。それぞれの部署間での人の往来も激しい。コピー機やファクシミリはひっきりなしに作動し、電話の呼び出し音はそこかしこで鳴り響いている。
フロアの一角はなぜかパーティションが張りだしていて、その隙間からやはりアニメ絵の立て看板やポスターが溢れだしている。綾波レイの等身大の看板は床に転がっていた。
小笠原はそちらを眺めて頭を掻いた。「まいったな。たった数日で使徒の侵略がエスカレートして、向こうの領土が拡大してる」
「侵略って?」
「社内の状況も、エレベーターのなかと同じになりつつあるってことさ」小笠原は壁ぎわに連なるロッカー沿いに歩いていった。「僕のデスクはこっち側だから、まだ立ち退きを迫られることはないと思うけど」
ロッカーの前に位置するデスクのひとつで、小笠原は立ちどまった。隣りのデスクには、頬杖をついてパソコンの画面を眺めている男がいた。小笠原と同様に痩せていて、頬もこけて鼻すじも通っているが、ぎょろりと剥いた目は異様に大きく見える。
その男に小笠原が声をかけた。「宮牧」
宮牧という男は顔をあげた。「おう、小笠原。遅かったな」
「電車のダイヤが乱れがちでね。東西線でひと駅なのに三十分かかった」
「そういや、昼間電話があったぞ。新宿区役所の、ええと、なんだったかな。資源清掃対策室だっけ? 抗田って人から」
「抗田? ああ」小笠原は、しまったという顔を莉子に向けてきた。「ガードレール、きょう返す予定だった」
宮牧は小笠原の視線を追うようにして、はじめて莉子の存在に気づいたようだった。ふいに、大きなぎょろ目をさらに剥いていった。「この人は誰?」
小笠原が紹介した。「鑑定家の凜田莉子さん。万能鑑定士Qっていう店舗の店主」
「へえ」宮牧は立ちあがった。「モデルさんかと思った。宮牧拓海といいます。よろしく」
笑っているからには友好的な姿勢をしめしているのだろうが、食いいるように見つめてくる目に戸惑いを覚える。莉子は恐縮しながら頭をさげた。「どうも......」
宮牧はきいてきた。「わざわざ編集部まで足を運んでくださって、なんの用?」
「おい」小笠原が宮牧に耳打ちするのが、莉子にも聞こえた。「もう少し離れろ」
「どうしてだよ」
「おまえの目は怖すぎるんだよ。普通の人より距離を置くぐらいでちょうどいい」
「いいじゃねえか。彼女の目もでかいぜ? リカちゃん人形みたいに」
「凜田さんとおまえとじゃ意味が違うよ。ボーイフレンドのレン君にでもなったつもりか」
「おお! レン君、いいねえ。知ってるか、二〇〇一年に衝撃的なリカちゃん人形が発売されたのを。その名もマタニティリカといってな、腹がこんなにでっかく膨れてて......」
「宮牧。いま現在の編集長の機嫌はどうだ? 知り合いの鑑定家を連れてきたから偽札を見せてくださいといって、応じてくれそうかな」
「荻野さんの腹の虫か? よし、聞いてきてやる」宮牧はそういって、もういちど莉子に笑顔を向けてから、フロアの奥へと歩き去っていった。
小笠原はいった。「変な奴だろ? でも根は悪くないんだよ。ああみえて慶応出身だし」
「へえ......」
莉子は宮牧の動きを目で追った。熱帯魚の水槽の前、エグゼクティブ風のデスクのまわりに、年配の男たちが寄り集まって、しきりに話しこんでいる。
宮牧はそのなかのひとり、白髪頭で厳格そうな顔の痩せた男に声をかけた。彼が編集長の荻野だろう。宮牧がこちらを指さして、なにか喋っている。荻野の視線がこちらに向けられた。莉子は緊張を覚えながら会釈をした。
荻野はすました顔のままうなずいた。宮牧がこちらに向かって手招きする。
小笠原が先に歩きだした。「いこう」
莉子は小笠原につづいた。OLが書類の山を抱えて、狭い通路を歩いてくる。莉子は慎重に避けた。足もとにはOA機器の電気コードやLANケーブルが無数に這っている。注意深く一歩ずつ進んだ。
やっとのことで荻野のもとに近づくと、すでに到着していた小笠原を含め、全員が莉子を見つめていた。
莉子は頭をさげるしかなかった。普通の会社とは勝手が異なる。この場でどんなあいさつがふさわしいのか、よくわからない。
荻野は宮牧にきいた。「彼女が鑑定家? ずいぶん若いな」
宮牧が口を開くより早く、小笠原がいった。「凜田莉子さんです」
「では」と荻野がいった。「さっそくご覧になりますか、凜田さん?」
「あ......はい」
荻野を囲む年配の男のひとりが、デスクの上でジュラルミンケースを開けた。
専用のケースではない。したがって二枚の札は固定されておらず、ケースのなかで重なっていた。
莉子はきいた。「触ってもいいですか?」
「ええ」荻野は首を縦に振った。「私どもも紙幣専門の鑑定家に見てもらった後です。彼の話でも、どっちが本物か判りかねるということでしたが」
二枚をそっと取りあげて、表を上にして並べてみる。
圧倒される出来栄えだ。莉子は固唾を呑んだ。
知識に勝る鑑定の初歩として、鑑賞による第一印象は最も大きな手がかりになる。本物には本物の風格が漂っている。それを見極めれば、あとは細部に目を転じて疑問点をひとつずつ検証していけばいい。
しかし、この二枚の一万円札には、そうした違いは感じられない。色彩にも、肌触りにも差異はない。どちらも本物そのものだった。
左右の手で一枚ずつを取りあげ、照明にかざす。透かしの福沢諭吉は二枚とも、くっきりと浮かびあがった。
透かしは一か所だけではない。福沢諭吉の左肩に三本の縦棒がすき入れしてある。これも両方の札にある。
番号はいずれもDC517429U。NHKの報道のとおり、書き直した痕跡などない。まぎれもなく同じ通し番号の紙幣がふたつある。
荻野が腕組みをした。「あなたの前にこれを見た鑑定家がいってました。角度を変えれば浮かびあがる文字は、コピーでは再現不可能なはずだと」
「そうですね。左下のホログラムは角度を変えていくと、10000という数字、日本銀行の日の字のデザイン化したロゴ、桜のロゴと三種の図柄が現れます。両方のお札にそれがありますね。ホログラムの右下には潜像模様があって、これも縦方向に傾けると表は10000、裏はNIPPONという字が現れるんですが......」
どちらの札にも同じように、文字は出現した。
今度は横方向に傾けてみる。札の左右両端にピンクいろの模様が浮かびあがる。二枚とも存在が確認された。
デスクの上にあった拡大鏡を取りあげて、さらにつぶさに観察する。
下部の模様に組みこまれた極小の文字。これもコピーしたら消えるはずだ。だが、NIPPONGINKOというマイクロ文字は、二枚いずれにも存在している。
すると、やはり製版から再現したのだろうか。莉子は紙幣の右下を指先でこすった。ざらざらした触感がある。目の不自由な人が紙幣を判別できるようにするため、深凹版印刷で識別マークが入っているが、やはり両方の紙幣にある。
壱万円の文字もインクが盛りあがっていて、指で触れるとわかるが、二枚の触感はいずれも同じだった。
ほかに確かめられる方法といえば......。
莉子は熱帯魚の水槽を見た。ブラックライトの蛍光管が嵌めてある。
二枚の札をジュラルミンケースに戻し、蓋を閉めて水槽の前に運んだ。暗闇のなかでブラックライトの光のみが紙幣に当たるように、ほんの少し蓋を浮かせた。
なかを覗きこむ。紫外線を受けた札は二枚とも、日本銀行総裁の印章と地紋の一部が発光していた。
思わずため息をつきながら、莉子はつぶやいた。「特殊発光インキさえも再現しているなんて......」
ここまでくれば、下せる結論はひとつだけだった。二枚とも本物。すなわち、番号が同じエラー紙幣という解釈こそが適切に思える。
けれども、それはありえなかった。エラー紙幣はそんなに多く出回るものではないし、番号が重なったエラーの例も過去にないときく。報道各社に送られた枚数を考えると、そんな偶然の産物を用いた悪戯とは考えにくい。
財務省や警視庁の公安部が、工芸官に疑惑を持ったのもわかる。すべての製造工程を再現できたとしたら、現一万円札を描き原版を彫った藤堂はやはり、必要不可欠な存在だろう。
本物にうりふたつの偽札をつくる、その鍵を握る人物。わたしは顔を合わせておきながら、呼びとめることさえできなかった。事実を知らなかったとはいえ、あのとき足どめできていれば......。
荻野がきいてきた。「凜田さん。どう思いますか?」
「......本物です。二枚とも。残念ながら、どちらが本物でどちらが偽か、わかりませんでした。すみません」
一同に重苦しい空気が漂った。誰もが無言のまま険しい表情を浮かべている。
年配の男のひとりがいった。「犯人グループはよほどたくさんの札を刷ったんでしょうな、そうでなきゃコストは回収できんし利益もあがらん。つまり大量の偽札がすでに出回っている可能性が高いわけだ」
宮牧が不安げな顔でポケットから財布を取りだし、一万円札を引き抜いた。それをジュラルミンケースのなかの二枚の札に近づけ、目を剥いていった。「どう違うのかさっぱりわからない。俺の持ってるこの札が、本物でないこともありうるわけですよね?」
懐の財布をたしかめるように胸もとをまさぐる者が何人がいた。貯蓄、財産が心配にならない人間はいない。沈黙がそれを物語っている。
「待て」と荻野がいった。「金儲けのために偽札を作ったのだとしたら、わざわざマスコミにサンプルを送りつける理由がわからん。脅迫状のとおり、日本の経済を壊滅に追いやろうとするテロ行為と解釈するほうが自然だろう」
脅迫状。そうだ、物証はこれらの札だけではない。
莉子は荻野にきいた。「その脅迫状は見せていただけますか?」
「いいですよ」荻野はデスクの引き出しを開けて、一枚の紙片を取りだした。「これです。さっきテレビで報じられていたものとまったく同じです」
白紙にワープロ文字で漢字がプリントされているものだった。簡体字ではなく繁体字が用いられている。表のみの印字で、裏は真っ白だった。
荻野がいった。「中国文学の翻訳家を呼んで、訳してもらいました。内容もテレビのニュースの通りだが、安易に中国人の犯行と決めつけるのも問題があるようで」
莉子はきいた。「というと?」
「その文章は中国語ネイティブからすると不自然で、まるでパソコンの翻訳ソフトを使って訳したかのようだというんです。中国人以外の民族のしわざかもしれない。もちろん、日本人も含めてね」
隣りにいた男が唸った。「逆かもしれません。中国人の犯人グループが、そのように思わせるために、わざわざ翻訳ソフト風の不自然な文章を作りあげたのかも。あるいは、方言などから出身地域を推測されないために、あえて機械的で無個性な脅迫文にしたのかもしれません」
すなわち犯人グループは中国人かもしれないし、そうでないかもしれない。絞りこめる手がかりは何もない。現段階でいえるのはそれだけだった。
鑑定家の莉子は、文面よりも脅迫状そのものに興味を持っていた。どんなワープロソフトを使ったか、どのようなプリンターで印字したか。ひと目でわかることではないが、時間をかければ解析できる。科捜研はとっくに取りかかっているだろう。
そして、この紙。なんとなく指触りが、ほかの紙と違うような気がする。むしろ、懐かしく感じられるような触感......。
莉子の目はペン立てに移った。鉛筆を一本引き抜き、荻野にたずねる。「少しだけ落書きしてもいいですか?」
「......ええ、どうぞ。必要ならね」
紙を裏返し、鉛筆の先を斜めにあてて、さらさらとこする。
つづいて、ペン立てから別の鉛筆を選び、また同じようにこすって斜線を描く。
思わずまたため息が漏れる。莉子は身体を起こした。
小笠原がきいてきた。「どうかした?」
「いえ」莉子はつぶやく自分の声をきいた。「手がかりがあるとすればひとつだけね。ごく小さな、きわめて頼りない憶測にすぎないけど」
非公開
夜十一時の神楽坂は、四年前とはずいぶん違う。小笠原はそう感じていた。新入社員の歓迎会があったころは、終電の時刻まで飲食店がにぎわっていた。いまは中華料理店のテイクアウトと、コーヒーショップに人だかりが移っている。
イオナ・フーズの料理教室が開かれたマンションの並びにあるレストランも、ラストオーダーの時間はとっくに過ぎて閉店の準備に入っている。この一角は閑散として、都内というより地方都市の夜のようだった。
それでも、くだんのマンションはまだ人の出入りがある。もっともここの住民を除けば、一階のテナントと二階の藤堂の部屋を行き来するのは捜査員ばかりでしかない。黄色いテープはあいかわらず張りめぐらされたままだった。鑑識の制服がテナントのなかと、二階のバルコニーをうろついているのが見える。写真を撮り、指紋の採取をおこなっているようだ。共犯者の痕跡がないか徹底的に調べあげるつもりだろう。いまとなっては、警察にできることはそれぐらいしかない。
物々しい雰囲気に、行き交う人々の足もとまりかけるが、たいていは終電を気にしてか、さっさと通り過ぎる。都心では犯罪に対する関心が薄い。よほどの動きでもない限り、人々は自分以外のことに興味を向けない。
むろんこの事件は、都民ばかりかすべての国民にとって大問題となる事象につながる。けれどもいまは、そのことを知る者は少ない。報道関係者も辺りにはいないようだ。いま大騒ぎになっている偽札事件と、神楽坂のマンションの捜索を結びつける目は皆無に等しい。
黄色いテープはテナント前の街路灯と電柱に張られていて、歩道も通行不可能になっている。
反対側の歩道にたたずんだ莉子が、小笠原を振りかえった。「やっぱり暗くてよく見えない。デジカメある?」
「ああ。これでいい?」小笠原はポケットから、愛用のデジカメを取りだした。
ありがとう。とつぶやいて莉子はそれを受け取った。「闇での撮影は......。ああ、これが赤外線モードね。フラッシュはオフにして、と」
莉子はマンションの二階、藤堂が住んでいた部屋のバルコニーに向かってシャッターを切った。
デジカメのスイッチを切り替えて、一インチの液晶画面に撮影した画像を表示させる。肉眼では、街路灯の明るさに隠れて黒く潰れてしまっているバルコニーのようすが、くっきりと浮かびあがっていた。
「ああ」莉子は声をあげた。「やっぱりね......」
「なんだ、やっぱりってのは?」
「さっき編集部で見せてもらった脅迫状だけど、HBの鉛筆の線がすいぶん薄いの。2Bが、ふつうの紙のHBと同じぐらいの濃さだったりする」
「どういう意味だ?」
「沖縄の紙ってことよ。生まれ育ったところだからよく知ってるの。地元ではBか2Bを使うのが普通だった。HBだと書きにくくて、無理に力をこめると紙が破れちゃうのよ。上京して、2Bの鉛筆でノートにメモしてみたら、線が濃すぎてびっくりしたぐらい。紙が湿気を吸って柔らかくなっているから、その違いがでるの」
「......バルコニーとなんの関係がある?」
「この画像を見て。エアコンの室外機、ちょっと違うと思わない?」
小笠原はデジカメを受け取り、ズームボタンを押して画像を拡大した。
「たしかに違うな」小笠原は感じたままを口にした。「ファンの前に網目状のものが張ってあるみたいだ。それに形も異なってる。ふつうの室外機より、少し縦に長いな」
「そう。ダイキン製の耐塩害仕様室外機ってやつ。潮風で錆びない仕組みになってるの。細かい網目のほうは〝ヤモリガード〟の一種で、ヤモリの侵入を防ぐ効果がある。プリント基板にヤモリが触れるとエアコンが壊れるから。どちらも地元では当たり前の仕様だったわ」
思わず、はっと息を呑んだ。小笠原は莉子を見つめた。「じゃあ、藤堂は沖縄にいたってことか? 引っ越しの際に、家で使っていたエアコンを持ってきて設置したから、室外機も地元仕様になってるわけだ」
莉子は真顔でうなずいた。「まだわからないけど、可能性は充分にあるわね」
偽札が山ほど作れるグループの一員としては、妙につましい生活かもしれない。けれども、人目を避けるために節約に重きをおく暮らしを送っていると考えるのなら、さほど不思議ではない。
脅迫状が作成されたのが沖縄。藤堂のここ以前の住まいも沖縄。ふたつの点が結びついて線になった。
興奮を覚えながら小笠原はいった。「すごいじゃないか。大発見だ」
「お巡りさんに知らせたほうが......」
「そうだな」小笠原は、黄色いテープの向こうにいる男たちに声をかけた。「すいません、ちょっと」
テナント前にうずくまっていた制服の鑑識が顔をあげて振りかえる。それから私服警官の何人かがこちらを見た。そのなかのひとり、痩せた男がつかつかとこちらに来る。
街路灯の明かりに照らしだされたのは、馴染みのある顔だった。牛込警察署の葉山が、冷めきった口ぶりで告げてきた。「やれやれ。あなたたちですか」
小笠原はいった。「気づいたことがありまして、どうしても知らせておきたいと思ったので......」
葉山の表情は硬かった。「捜査は私たちにまかせておいてください」
「でも、あなたがたにとって有益な情報かもしれませんよ。つかぬことをお伺いしますが、工芸官の藤堂さんってどこの出身でしたか?」
「国立印刷局工芸官のプライバシーはいっさい口外できません」
「つれない人だな。私がいいたいのではですね......」
むっとしたようすの葉山が言葉を遮ってきた。「つれなくて結構。だいたい、なぜまたここに来たんです。今夜の出来事を取材するのはご法度ですよ」
「ご法度って? 公安部の緋崎さんがすべてを明かしてくれたのに」
葉山はあきれたようにいった。「わかってないですね、小笠原さん。もう少し経験が深い記者なら空気を読むところですよ。あれはね、記者に対し事実をきちんと明かすことによって理解を求める、すなわち『書くな』といってるんです」
「......そうなんですか?」
「あなたがしつこく違法行為だ不法侵入だと追及する構えをみせたもんだから、こういう事情があった、国家の一大事であるがゆえに法を曲げざるを得なかったと、釈明したわけじゃないですか。けれどもあれが記事になったりしたら公安部も財務省も大目玉だ。そんなことは火をみるよりあきらかでしょう。よって、事情を汲み取ってくれという暗黙の指示だったわけです」
理解しがたい話だ。記者の質問に明朗に答えた姿勢が、記事にするなというゼスチャーだったなんて。
葉山は頭をかきむしった。「とにかく、世のなかは早くも大混乱です。所轄という所轄に電話がかかってきて、自分の金が偽札かどうかわからないとか、もし偽札だったらどこで交換すればいいのかだとか、相談が殺到してるんです。銀行に問い合わせてくださいといっても、明朝まで待てるかと怒鳴りかえされる始末でね。夜間金庫を開いている銀行では、待機している職員や警備員にまで詰め寄る人がいるらしいです」
「わかりますよ......。誰でも自分の財布の中身が心配でしょうから」
ふんと葉山は鼻を鳴らした。「私もですよ。ただでさえ不況だというのに、公務員の薄給がさらにどうなるのか、家族の暮らしを考えたら気が気ではない。それでも職務に従事せざるをえないところが、私どもの辛いところでね。さあ、早いところお帰りください。電車が動いているうちにね」
「終電にはまだ早いですよ」
「そういう意味じゃありませんよ。偽札が溢れかえっている社会となれば、交通機関さえまともに機能しなくなるかもしれんでしょう。じゃ、失礼します」
葉山は頭をさげることなく、鑑識たちに合流すべく戻っていった。
ふいに吹きつける風が冷たく感じる。
寒気を覚えながら小笠原は莉子にいった。「まさか、ね。ありえないよ。電車が停まっちまうなんて......」
「ないとはいえない」莉子が真剣なまなざしで見かえした。「偽札が大量に出回っているとすれば、どの企業も自社の資産を正確に計算できなくなる。真贋の区別がきかないがゆえに、お札が紙切れ同然と見なされるようになれば、現金の貯蓄はなんの意味も持たない。いきなり潰れる会社もでてくるかも」
「はは......そんなことあるわけが......」
無理に笑おうとしても、表情が凍りつくばかりだ。事態が大きすぎてぴんとこない。ただ強烈な不安が押し寄せるばかりだった。
はっきりと理解できるのは、ひとつだけだった。葉山の指摘どおり、早く家に帰ること。電車が運行しているうちに。
小笠原はうわずった自分の声をきいた。「帰ろうか」
「......そうね」莉子も不安げな顔で踵をかえし。歩きだした。
歩調をあわせながら小笠原はきいた。「家はどこ? 独りで帰れる?」
「ええ。それは問題ない。ありがとう、心配してくれて」
会話はそれっきりだった。小笠原はひそかに肩を落とした。こんな状況でもプライバシーはいっさい非公開か。雑誌記者として聞いているわけではないのに。
マネーサプライ
世に偽札事件が報じられてから二日後の朝、凜田莉子は早くに目が覚めた。
仰向けに寝て眺める天井はまだ薄暗い。カーテンから陽の光が入っていない。べッドのわきの時計に目を向ける。午前四時二十三分。
妙な胸騒ぎを感じて身体を起こした。電気スタンドに手を伸ばして点灯する。
明大前駅にほど近いマンションに借りたワンルーム。室内は洋服を吊るしたハンガーラックが床面積のほとんどを占め、備え付けの収納も化粧品の類いやハンドバッグ、書籍で埋め尽くされて雑然としていた。残念ながら、ひと部屋しかない生活空間ではインテリアに気を配る余裕がない。それでも、莉子は満足していた。初めて上京したときに住んだアパートの三畳一間に比べれば、倍以上の広さがある。
忙しい二日間だった、と莉子は思った。
報道以来、万能鑑定士Qの店にも客が殺到した。偽札と見分けがつくなら、ぜひ鑑定してくれ。ありったけの紙幣を持ってきては、そう要請する客が絶えない。莉子は困惑しながらも、頭をさげるしかなかった。申しわけありません。わたしではご希望に添えそうにありません。情けない話だ、と莉子は唇を噛んだ。この目で偽札を見たというのに。
ベッドから抜けだして座椅子におさまり、テレビのリモコンのスイッチをいれた。
吊られた洋服の隙間からのぞくテレビは、NHKの報道特番を映しだしていた。チャンネルを替えてみると、民放各局も同様の番組を放送している。
というより、あの夜からずっとニュースがつづいていた。一時は普通の番組編成に戻ったものの、すぐにニュース速報のテロップが頻出し、それから断続的に報道センターに映像が切り替わるようになり、結局また無期限の報道特番が復活した。すなわち、国民の関心がいまや偽札の件以外には向けられていないことの表れだった。
世の中は荒れだしている。ほとんどの商店で一万円札による支払いを拒否する事例が起きていた。莉子の行きつけのコンビニにも『お支払いは小銭でお願いします』の貼り紙があった。
一万円札の精巧な偽物が作れるなら、ほかの札も信用できないというのが人情だろう。犯人グループが偽硬貨の製造に着手していない保証は、どこにもない。それでも現時点では紙幣よりはましだ。誰もがそう思っているに違いない。
きのうもニュースで観た。法律では、同一の硬貨をいちどに二十一枚以上使うと店側が受け取りを拒否できることになっている。けれども、いまではそれを実践する店など存在しないらしい。
巷では、小銭を手放したくない客が店に対し、逆にこの法律を振りかざして紙幣の受けとりを強要するケースが増えているという。だがそれは誤解に基づいている。法は店側に、二十一枚以上の同一硬貨による支払いを断る権利があると定めているだけだ。店側が積極的に硬貨での支払いを望んでいれば、その限りではない。
莉子はチャンネルをNHKに戻した。男性キャスターが原稿を読みあげる。「昨夜八時ごろ、財務大臣が国会内で記者会見し、通貨流通量の臨時特別調査の結果を受け、日銀が発行していないはずの通貨が少なくとも二十兆円前後、市場に出回っていることが確認されたと発表しました」
思わず鳥肌が立った。莉子はリモコンを操作し音量をあげた。
キャスターはつづけた。「日銀が民間金融機関に供給するマネー量、いわゆるマネタリーベースは現在、九十三兆二千百七十一億円となっています。これに対し、政府が特別編成した調査委員会が、全国六つの都市で銀行による小売店からの現金預かり額、一般の顧客の預貯金総額などのサンプルを各世代別に抽出し、そこから国民全体に流通する通貨量を推し量ったところ、百十二兆七千億円という額にのぼりました。これはマネタリーベースを二十兆円近く上回る異常な数値であり、日銀の発行していない通貨、すなわち本物と見分けのつかない精巧な偽札が相当数出回っているものとみて、財務省はさらに調査をつづけるとしています」
あまりに淡々と伝えられるせいで、ことの重大さが理解できるまでしばし時間を要した。
けれども、これが国家を揺るがす深刻な事態であることは疑いようがない。
偽札の存在が一万円札に限るとしても、手もとにある一万円札のうち、五枚に一枚が本物ではない......。
テレビ両面は、国会内のようすを映しだしていた。きょう午前二時というテロップが入っている。大臣たちの顔は憔悴しきっていた。
キャスターの声が告げる。「外国為替は混乱しており、円相場がはっきりしない以上、取り引きを停止せざるをえないという諸外国からの警告を受け、政府は緊急閣僚会議を招集し対応に追われています。東京外国為替市場では各国の要請を受けて、日本円による決済を急きょ米ドルやユーロに振りかえるなどしており、円は事実上、国際経済から切り離されつつあります。米財務長官は『日本円は暴落したというより、通貨として認められるものではなくなった』とコメントしており、日本政府はホワイトハウスに大使を派遣するなどして、発言の真意を問いただしたいとしています」
政府が何をしようとも、人件費は支払われねばならない。しかしその費用も決済のときを迎えれば、現金のうち二割は信用できないことになる。今後は、その二割を価格に上乗せするのか。いや、上乗せされたぶんの二割にもまた偽札が混じっている可能性がある。だから支払いを受ける側が納得するためには、元の金額を大幅に超える現金、場合によっては数倍の額を要求せねばならないだろう。
国の予算も二割は偽札。補正予算を組むとしても、やはりすべてが純然たる本物の現金であるためには、二割増しではなく数倍の金額が計上されねばならない。国債の支払いはどうなるだろう。従来どおりの元本プラス利子という算出法では国民が納得しまい。これも偽札を含んでしまう可能性を考慮すると、かなりの増額が求められてしまう。
画面のなかでキャスターがいった。「本物と区別のつかない通貨が存在する以上、すべてを一時的にでも本物とし、調査で判明した百十二兆円余りを日本のマネーサプライと認めることで、為替レートに対応すべきだという声もあがっています。これに対し政府は、偽札を通貨と認定するなど論外であるとし、新札発行などの対策で乗りきる意向をしめしています。しかし、新札がデザインされ発行されるためには一年以上を要し、それまでの具体的な方針は依然としてしめされないままです」
混乱を招く対応だが、ほかにどうしようもないだろう。偽札は二十兆円にとどまらず、今後も増えつづけるに違いない。ならば、そのたびに国際市場における一円の価値は下落してしまう。マネタリーベースはなんの意味もなくなり、日本円は自然発生する偽札の量とともに信用を失っていくことになる。最後は紙切れ同然と化すだろう。
「財務大臣は」とキャスターが告げた。「一日がかりの調査中にも、紙幣の流通量が増加しているようすが窺えたとし、現在では偽札は二十兆円にとどまらず、さらに増えているかもしれない、と見解を述べています。国民のあいだでは銀行で資産を米ドルに換金しようどする動きがさかんになっており、一部銀行では本日より、日本円から米ドルヘの換金中止に踏みきると発表したことで、利用客のあいだに不満が広がっています。政府は国民に対し、冷静な対応を呼びかけています」
さんざん不安を煽っておきながら、冷静も何もあったものではない。事態の閉塞感はいっそうの混乱を招く。明日はさらに荒れることだろう。
莉子は次々にチャンネルを替えていったが、この二日間と同様に失意を禁じ得なかった。
あの神楽坂でのマンションの一件も、工芸官の藤堂の名も報じられていない。すべては闇のなかに葬られてしまったかのようだ。いや、捜査はおこなわれているのだろう。けれども、世間はそれを認識していない。なにも報道がない以上、警察はなんら手がかりを見つけられずにいるのだろう。
携帯電話をそっと手にとる。リダイヤルの履歴を表示した。同じ番号が連なっている。
牛込警察署の電話番号。何度かけても話し中か、取り次いでもらえなかった。
こんな時刻にかけるのは非常識だろう。それでも伝えたい重要なことがある。国家の非常事態に対することは何より優先する、そう教えてくれたのはほかならぬ警察だ。
通話ボタンを押した。呼び出し音が耳のなかでこだまする。
「牛込警察署です」と応じる声がした。
「あのう、すみません、刑事部の葉山さん、おられますでしょうか」
朝の四時半すぎだ、いるはずがない。それでも伝言だけでも残せればいい。無碍に切られることさえなければ。
ところが、相手の返事は意外なものだった。「お待ちください」
ふいに心拍が速まるのを覚えた。もしかして、葉山は署にいるのだろうか。電話にでてくれるだろうか。
署内回線の呼び出し音が数回、それが途絶え、聞き覚えのある声が応じた。「葉山ですが」
「あ......。葉山さん。凜田です」
しばしの沈黙の後、葉山の声が物憂げにいった。「ああ、凜田さん」
「この時間にも署にいたんですか」
ふんと鼻で笑うのがきこえる。「そりゃいますよ。何日も家に帰ってません。うちの署だけでも捜査本部が三つ立ちあがってますから」
「葉山さん。どうしてもお伝えしたいことがあって」
「すみません。凜田さん。お聞きするわけにはまいりません」
「......なぜですか」
「本庁の人間が大勢きて、連日会議です。一般市民相手に捜査に関する会話は、いっさい交わしてはならない。そう厳命されてまして」
「どうして? わたしの意見を聞いてくださるだけでいいんですよ」
「それも駄目なんです」葉山は声をひそめてきた。「情報漏えいに敏感な公安部が目を光らせてます。あなたがまだ事件に執着していると知れば、あなたを拘東せねばならなくなる。警察はいま、そこまでピリピリしていてね」
「......わかります。でも、あの......」
「切りますよ。もうお話しすることはありません」
「ひとつだけ聞かせてください。藤堂さんはどうなったんですか。行方のほうは......」
ため息がノイズになってきこえる。葉山がつぶやいた。「完全に雲隠れです。神楽坂で消えて以降の足取りはまったくつかめません。じゃ、もう電話は遠慮してください。失礼します」
「ちょっと待ってください。藤堂さんって沖縄にいたかも......」
だが、その発言は葉山の耳に入らなかったようだった。直前に電話の切れる音がしていた。いまはツー、ツーという反復音が虚しく響くだけだ。
莉子は電話を切った。途方に暮れた気分で、呆然と壁を見つめる。
脅迫状の紙に含まれた湿気や、室外機の塩害対策にヤモリガードといった手がかりに、警察は気づいているだろうか。鑑識が見落とすはずがない。少なくとも、いまはそう信じるしかない。
藤堂は沖縄にいたかもしれない。そう書いて、署にファックスで送信してやりたい衝動にも駆られる。しかしそれが葉山の目に入るかどうかはわからない。先に警視庁の人間が見たら、きっと逆鱗に触れるだろう。わたしが拘束されるぶんにはかまわない。だが葉山は、禁に背いた疑いをかけられてしまう。悪くすれば解任されてしまうかもしれない。
どうにもならないのだろうか。沖縄。本島を含め四十九の有人島に数えきれないほどの無人島。藤堂は少なくとも、そのどこかにつながりがある......。
携帯電話の電話帳データを開き、実家の番号を表示する。
この二日間、牛込警察署よりも多くかけている番号。でも履歴には残らない。回線がまったくつながらないせいだった。
通話ボタンを押してみる。呼び出し音はない。ほどなく、女性の声がきこえてきた。お客様がおかけになった番号は、本社の都合により、おつなぎできなくなっております。申し訳ありません。そのメッセージが繰りかえされるだけだった。
莉子は携帯電話を置いた。手足を投げだし、べッドの縁にもたれかかって、しばし天井を仰ぐ。
お母さんにお父さん、おばあはどうしているだろう。高校のころの友達、それに喜屋武先生は......。
長い冬を越えてようやく春先を迎えた八重山諸島、観光シーズンはこれからのはずだった。西表島や竹富島のようには人が訪れない波照間島。旅行者が落としていく金もわずかなものでしかない。地元の集落は年を通じて、ごく少ない収益に支えられている。そんな雀の涙ほどの稼ぎさえも、通貨の価値暴落で無意味なものになってしまったとしたら......。
身体を起こす。目は自然にスポーツバッグに向けられていた。
上京時に持ってきたトランクは十八のころ、チープグッズに売った。いまはそれなりに生計を立てられるようになって、裏原宿系ブランドの洒落たスポーツバッグを買ってある。
旅にでるのも当分先だと思っていた。けれども、このバッグを使うときがきたかもしれない。
そうだ。電話が通じないのなら行動すべきだ。両親にも会いたいし、島がどうなっているか知りたい。そしてなにより、工芸官の藤堂が沖縄に残しているかもしれない手がかりをつかみたい。
沖縄は広い。ひとりの人間にとっては果てしなく広い。でも、東京であれこれ思索しているだけよりは、ずっと可能性がある。
もうためらうことはなかった。莉子はスポーツバッグに飛びつき、手当たりしだいに服を詰めこんでいった。
沖縄まで飛べるチャンスはおそらく、いましかない。日本円が紙切れになったら、国内便を飛ばす奇特な会社などあろうはずがない。
ジンバブエ
朝九時半をまわっている。小笠原悠斗は空を見あげた。雲ひとつない青空。その快晴が恨めしくさえ感じられる。事実、ゴミと砂ぼこりが舞う都心のすさんだ風景は、その空とは対照的にくすんでいた。
神田川沿いの商店も軒並みシャッターが下りている。小笠原は万能鑑定士Qの店の前に立った。偽札騒動の後、二日にわたって営業していた凜田莉子の店も、きょうは開いてはいなかった。
世のほとんどの店はただ無愛想にシャッターを閉じているだけだが、万能鑑定士Qは手書きの貼り紙がしてある。里帰りのため臨時休業します、申しわけありません。そうあった。
里帰り......。この混乱のなかを沖縄まで向かったのだろうか。国交省の指示を受け、航空各社は最低限の便数を飛ばすことを約束させられたというが、ここ数日の異常な物価高と同様、航空券もそう簡単に手がだせるしろものではなくなっていた。
莉子が姿を消したことに一抹の寂しさを感じずにはいられない。この砂漠のように荒みきった街角に取り残されたとあっては、なおさらだった。
ここにいても莉子には会えない。もう彼女は旅立ってしまった。
工芸官の藤堂が沖縄にいた可能性が高いことを、彼女は警察に伝えたがっていた。小笠原からも牛込警察署に何度か連絡をいれていたが、まったくもって取りつく島がない。
それでも小笠原は、警察に腹を立てる気にはならなかった。こんな状況下で、まだ公務員としての職務を遂行しようとする姿勢には頭がさがる。給料をあてにできる社会でなくなった以上、彼らを支えているのは、世を守るのは自分たちしかいないという義務感と使命感だけだろう。
しかしそれも、警察組織すべてに徹底しているものではない。
小笠原は万能鑑定上Qの看板の前を離れ、飯田橋駅方面へと歩きだした。
2075年、ホッキョクグマを救いましょう、というポスターが貼られた八百屋の店先で、店主の中年男が老婦をつかまえて怒鳴り散らしている。万引きは犯罪だろうが。老婦が血相を変えてわめきかえす。こんな値段、払えるわけないでしょ。いつからあんたの店はブランドショップになったっていうの。
店主は憤りをつのらせた。「ドルで払ってくれれば問題はねえんだよ!」
老婦も退かなかった。売り物のネギを手放す素振りもなく。その先を店主に突きつけていった。「どこの日本人がアメリカのお金なんか持ってるっての。馬鹿にしないでよ」
残念ながら、いまの世のなかでは店主の言いぶんが正しい。ここの値札にも、キュウリが五本で六千円という表示の下に、八十セントという米ドルの価格が記載されている。ドルなら従来どおりの常識的な値段だった。
けさ早くに立ち寄ったスーバーマーケットもそうだった。うなぎのひと口串は日本円では四千五百円もするが、アメリカの通貨ならたった一ドルで買える。本来は百二十円ぐらいのものだろうから、理にかなっている。大根煮百グラムは五千二百円で一ドル二十セント、ひじき煮百グラムは六千円で一ドル五十セント、ニシン煮の百グラムは六千八百円で二ドルちょうどだった。
小笠原はマンションの自室にいくらかのドル紙幣と小銭を持っていた。四年前に大学を卒業した記念でハワイに旅行し、そのまま持ち帰ったものだった。この二日間はなんとかそれで食いつないできたが、手持ちのドルが底をつくのは時間の問題だ。どうにかして日本円の貯金をドルに換金したいが、その願いも叶いそうにない。
外国通貨の両替をおこなっている銀行には、長蛇の列ができている。ニュースできいたところでは、成田空港内の銀行は七時間待ちということだった。それだけ待っても、ドルが手にいれられる保証はない。けさの財務省の発表以降、円相場は算出不可能になっていて、国際市場も円の買い取りを拒んでいるという。
無理もなかった。九十兆円の現金の流通量に対し、二十兆円もの偽札が存在しているとあっては、通貨に信用など置けるはずもない。むろん今後も偽札はいくらでも増える可能性がある。不安が不安を呼び、物価は二割増しどころか数倍、数十倍にも高騰している。
老婦が大声でいった。「わかったわよ。ほら、持っていきなさいよ」
ところが八百屋の店主はいっそう表情を険しくした。「一万円札なんか受け取れるか。五百円玉で払ってくれなきゃ売れねえ」
「ここに六千円って買いてあるじゃないの。一万円札だすのが非常識だっていうの?」
「当たり前だろうか。いまどき福沢諭吉を金とみなす奴がどこにいる」
ふたりの口論はヒートアップするいっぽうだった。きいているだけで頭痛がしてくる。小笠原は八百屋を離れて歩きだした。
自国の通貨が無価値に等しく、米ドルばかりが重宝される風潮は、途上国にしばしば見受けられる、ジンバブエあたりがそうだと先輩の記者がいっていた。
底なしの不況がつづき、経済において中国の興隆に対し日本の没落がささやかれた昨今だったが、ここまで壊滅的な状況になるなんて。せめて俺がそれなりに出世し、住む家ぐらいは持ててからにしてほしかった。これでは将来、家族など持てそうにない。生まれてくる子供が気の毒だ。
外堀通りにでたが、救急車とパトカーが連なって駆け抜けていったほかは、車両の通行はほとんどなかった。信号は意味をなしていない。誰もが横断歩道のない場所でもかまわず横ぎっている。
道行く人々の顔は一様に暗く、誰もがうつむき無言で歩いていく。皺だらけのジャケットや、薄汚れたワイシャツも目につく。経済の崩壊が家計を直撃している。衣食住すらままにならない。そんな深刻さが都心でも浮き彫りになりつつある。
角地にあるコーヒーショップは開いていた。なかにいるのは外人ばかりだ。まるで戦争直後だと小笠原は思った。貼りだされた紙には、一万円札お断り、小銭歓迎とある。メニューをみるとブレンドコーヒーがスモールサイズで二万二千円、米ドルでは二ドル九十セントとあるから、これは実質的に日本円の客を排除する姿勢を、明確にしめした店ということになるのだろう。今後はこういう店も増えてくるに違いない。
うんざりした気分で歩きだそうとしたそのとき、携帯電話が鳴った。
以前の着メロではない。小笠原の携帯電話は家に置きっぱなしだった。どうせつながらないし、料金の請求が怖くてかけられない。バッテリーの充電すらも電気代が気になる昨今だ。ゆえに、この呼び出し音は正確には携帯電話ではなく、PHSが発するものだった。会社が外にでている社員に持たせてくれていた。通信会社が機能を失いつつあるいま、唯一機能する回線といわれているからだった。
小笠原はPHSを取りだし、通話に応じた。「はい」
「荻野だ」編集長の声がした。「十時から経済産業省で臨時の記者会見がある。主力の記者は全員そっちに向かってもらったが、まだ人手が足りない。このところの会見はやたら混乱しがちで、会見場に入るのが抽選になる可能性が高い。おまえも頭数に加われ。すぐ経済産業省にいけ」
現政権になってから、記者クラブの閉鎖性は薄れて、週刊誌記者も会見場に入れるようになった。けれども、いまのところ門戸は狭いというのが実情だ。ほかの雑誌も人を送りこんでくる以上、負けられないというのが荻野の本音だろう。
腕時計を見た、九時四十二分。小笠原はPHSに告げた。「いまからじゃ、間に合うかどうか」
「いいから急げ。これを取りこぼすようなら、うちの雑誌に存続価値はないぞ」
まだ雑誌の刊行をつづけようとは見あげた根性だ。むろん、いまさらほかの仕事に就けないという事情もある。
お待ちください、といって小笠原は駆けだした。飯田橋駅はすぐそこだ。
駅の改札口が見えた。長い列ができている。駅員がハンドスピーカーで告げていた。上りは三時間待ちです。
一時間に一本ていどしか運行していない以上、人が押し寄せるのは当たり前だった。事実、けさの通勤電車も地獄をしのぐ混みようだった。
小笠原は駅前に連なるタクシーに走り寄った。ほかに誰も近づかない時点で怪しい予感がしていたが、やはりそうだった。初乗り四万二千円。ただし一万円札お断り。ビザカードをお持ちならドルでお支払いいただけます。貼り紙にはご丁寧にそこまで書いてあった。
ふと不安になり、小笠原はPHSにたずねた。「あのう、荻野さん。給料なんですけど......。日本円で支払われるんでしょうか」
「給料だと? 当然、日本円だろ。ほかに何がある」
「何か、って。ドルで貰えたらありがたいんですけど......」
「馬鹿いうな。日本企業に勤める日本人が、なんでドルを受け取るんだ。カップヌードルならくれてやる」
上司のおやじギャグにも、愛想笑いすらできない心境だった。「なら、せめて給料をあげてください。物価高に対応した現実的な金額に」
「給料の額は決まっている。増やすことなどできん」
「そんな......。ひと月もたせるどころか、数日で使っちゃいますよ」
「この正念場を耐え抜いてこそ本物の雑誌記者だ。早くいけ。会見に間に合わなかったら減俸だぞ」
「減俸って。この期におよんで......荻野さん。もしもし」
電話は一方的に切られていた。機械的な反復音だけがPHSからきこえてくる。
仕方がない。小笠原はPHSをポケットにおさめ、六本木方面めざして走りだした。
ジンバブエのマラソン選手は次期オリンピックで目立った活躍をみせそうだといわれている。その理由がわかるような気がした。ロンドンでは日本選手団も陸上競技で躍進するかもしれない。それまで国家が存続できればの話だが。
デノミ
午前十一時をまわったころ、凜田莉子はようやく羽田空港に到着した。
電車もモノレールもすし詰め、かつて東京でも経験したことのないぐらいの大混雑だった。下車して以降も、ホームの階段から改札口、出口までずっと長蛇の列ができていて、しかも牛の歩みだった。
春先だというのに、どこにいようと蒸し風呂のような暑さだった。カーディガンはとっくに脱いでバッグにおさめていた。歩きやすいデニムとスニーカーにしてきて正解だった。ヒールの高い靴では電車に乗るまでの時点で音をあげてしまっていただろう。
地下一階のモノレール乗り場から抜けだして空港内に入ったはいいが、第二旅客ターミナルのコンコースはまたも元旦の明治神宮のごとく異常な混みようで、いっこうに視界が開けない。とりわけエレベーター前の混雑は想像を絶するものだった。
なるべく壁づたいに進み、やっとのことで二階にあがる階段にたどり着いた。そこもまったく隙間がないほどの密集地帯だったが、コンコースよりはまだ流れている。
わずか一階あがるのに恐ろしいほどの時間をかけて、莉子はなんとか出発ロビーに入りこんだ。北ピアのようだ。
ロビーはさすがに広く、コンコースよりは人の密度も緩和されている。それでも朝の駅のラッシュと同等がそれ以上には混んでいるのだが、もう贅沢はいっていられない。動きまわれる自由があるだけでも、ありがたいと思わねば。
ところが、航空会社のカウンターに近づこうとすると、その手前にロープが張ってあった。警備員らがロープを保持して人々の行方を遮っている。
踏み台にあがった職員が大声で叫んでいた。「国内便ご利用のかたはしばらくお待ちください。国際便ご利用のお客様、チケットカウンターへどうぞ」
毛皮のハーフコートを羽織った婦人を連れて、質のいいスーツ姿の紳士がロープをくぐり、カウンターに向かう。ほかにも身なりのいい老若男女が続々と後につづいた。
あきらかに富裕層だった。家族を連れて海外に脱出しようというのだろう。
もともと彼らは、資産を多様なかたちで保有している。株式、不動産、そして外貨。日本の財政が破たん状態に至ったいま、彼らは資金のすべてを国外に逃がす。そして、みずからの生活の拠点も外国に移していく。
企業もそうだろう。一流にして黒字の会社は本社の海外への移転を考えているに違いない。税収のあがるはずのそれらの人や企業が国外に逃亡し、残される貧しき人々はますます苦境に立たされる。
金持ちの移動がひとしきり終わると、職員が怒鳴った。「いまからロープダウンしますが、絶対に走らないでください。転ぶと大事故につながりかねません」
ロープが下ろされ、人の群れが動きだした。駆け足ではないが、ゆっくりとした歩みでもない。後続の人々にも急かされ、自然に足が速まっていく。
さっきの富裕層が向かった国際便のカウンターの空き具合とは違い、国内便のほうはまたも激しい混雑になった。自動発券機はすべて電源が落ちているらしい。
莉子は人ごみをかき分けて全日空の看板にたどり着き、沖縄方面の札が掲げられている窓口の前に、やっとのことで滑りこんだ。莉子は周囲の喧騒にかき消されまいと大声でいった。
「石垣島にいきたいんですけど」
女性職員の顔に笑みはなかった。「直行便はもう満席です。臨時に伊丹、鹿児島を経由して那覇に向かう便が午後一時にあります」
「......沖縄から石垣へは? 飛んでいる便がありますか?」
「ANAではありませんが、地元の航空会社が臨時便を運航しているそうです。詳しいことは、現地でないとわかりません。電話が通じないので」
「わかりました。その那覇行きの便でお願いします」
「お支払いはドルですか?」
「いえ......。日本円で」
女性職員の頬がかすかにひきつった。マニュアルとして決められているらしい言いまわしを、淡々と告げてくる。「現在の国内事情により、航空券のお値段は従来よりも高騰しておりますが、ご了承いただけますか」
「はい。わかってます」
無言のまま女性職員はキーボードに指を走らせた。「三十一万二千円です」
思わず絶句してしまう。覚悟はしていたが。実際に金額を告げられると息が詰まりそうだった。以前なら、平日の石垣島行きは二万四千円ていどが相場だったのに。
さいわい、店のレジとATMから引きだしてきた金は四十万円ほどあった。スポーツバッグにおさめてあったハンドバッグを取りだし、カウンターに置く。
すると女性職員がきいてきた。「一万円札以外をお持ちですか?」
「ええ......。用意してきました」
莉子は輪ゴムでとめた千円札の束をハンドバッグから引っ張りだした。分厚い札束、まるでウォンだ。それから五百円玉と百円玉をありったけ詰めこんできた布袋。ふだんは店で銀行の集金に備えて使っているものだ。
そこまで準備してきているのを見て、ようやく女性職員が人間らしい面影をのぞかせた。申しわけなさそうな物言いでつぶやいた。「できましたら、なるべく硬貨のほうでお支払いを......。二十一枚以上になってもかまいませんから。一万円割引になりますし」
「了解です」莉子は笑顔をつとめた。「こちらの小銭は三万円ぶんあります。残り二十七万二千円を千円札で払います」
女性職員は微笑した。「恐れいります。ただいま発券いたしますので......」
いまは働いている人すべてに対し感謝こそすれ、サービスが不足しているなどと文句をぶつける時期ではない。わたしも自分の店を休業している身だ、苦情を覚悟で窓口業務に勤しむ彼女たちには頭がさがる思いだった。
金を数え終わるまで、しばらく時間を要した。女性職員はまた、一枚ずつ千円札の指の感触をチェックしているようだった。上司に指導されているのだろう。けれども、もし一万円札と同様に千円札にも偽札があるのだとしたら、それぐらいの検査にひっかかるものではない。
数分を費やし、やっと発券を受けた。戸惑いと憂いに満ちた笑みとともに、女性職員がいった。いってらっしゃいませ。
ありがとう。莉子は礼を告げて、窓口を離れた。
また人ごみのなかをすり抜けてカウンターから遠ざかる。別の窓口前から男性の怒鳴り声がきこえてきた。「馬鹿いうな! 五十万円なんてファーストクラスの値段じゃないか!」
職員に怒りをぶつけたところで、問題が解決するわけではないのに。莉子は乗客と職員の双方に同情を覚えた。どちらも悪くはない。原因は別のところにある。
そのとき、場内アナウンスが響いた。「東京国際空港をご利用のみなさまに、ご連絡申しあげます。二階出発ロビーのゆうちょ銀行。セブン銀行、三菱東京UFJ銀行、東京スター銀行、みずほ銀行のATMは、ただいまご使用になれません。また、トラベレックスジャパン、SBJ銀行羽田両替所におきましても、日本円から外国通貨への換金はご利用できなくなっております。ご了承ください」
辺りにざわめきが広がった。落胆の声もあがっている。ここでのドルヘの両替が頼みの綱だった人々もいるのだろう。
ベトナムドンさえも外貨に両替可能な時代を迎えているというのに、日本の空港では国内の金を外貨にできない。この国はもはや経済大国でも先進国でもないのだろう。もともと世界の大半は貧しい国が占めている。日本もそれらの国の仲間入りを果たすわけか......。
カウンター前の混雑を脱し、到着案内表示機の前にでた。
そのわきには壁に埋めこまれた巨大なスクリーンがあった。テレビのニュースが映しだされている。人々の関心は高いらしく、大勢が群がっていた。
女性キャスターの声がきこえてくる。「政府は緊急閣僚会議において、現在の国内における異常な物価高に関し、早急に価格価値のめどを定める新しい法律の制定が不可欠だという結論に達しました。一部閣僚からは、デノミすなわち通貨単位の切り下げをおこなうべきとの声もあがっていますが、現在のハイパーインフレはもともと偽札が大量に流通していることに端を発しており、デノミはなんら根本的な解決にならないとの懸念もあり、実現は困難との見方が有力です」
時を追うごとに手詰まり感が強まっている。政府がデノミを宣言したところで役に立たないだろう。通貨単位を切りさげて一万円を百円、あるいは十円、一円と改めてみても、日本円が国際市場で価値を認められない以上、物価高は変わらない。とりわけ輸入品は今後、まったく手に入らなくなる恐れがある。外国の売り手に対し日本円での決済ができないからだ。
新札発行なら別だが、それにはまだ時間を要すると報じられていた。たとえ新札がでても、現一万円札が偽札防止のためあらゆる工夫を施してあったことを考えると、ふたたび新札においても偽札が作られてしまう可能性がある。もはやすべては負のスパイラルの泥沼に入った。もがけばもがくほど事態の悪化を招く。
女性キャスターはつづけた。「外務大臣は中国および北朝鮮の大規模な偽札グループが関与している可能性が高いと明言し、過去の偽札事件を例に挙げて両国政府が故意に犯罪を見逃していると非難しています。これに対し中国および北朝鮮政府のスポークスマンは、日本政府による批判は的外れであり、偽札事件は日本の国内問題にすぎないと主張しており......」
もはや国際問題か。政府が焦りだしている。それは決して好ましいことではない。根拠のない名指し批判は世界的にみても日本の孤立を招くことになる。
とはいえ、外務大臣のいうことにも一理ある。二十兆円の偽札のすべてが一万円札だったとして、その枚数は二十億枚にも達する。どこか一国の政府の後押しによる戦争行為、破壊活動と考えるほうが適切かもしれない。
けれども莉子は、そうは思っていなかった。
工芸官の藤堂は国内にいた。それも、捜査の手が伸びるまでは都内で普通に暮らしていた。偽札づくりの拠点は国内にあるのだろう。二十億枚の偽札を製造するとなると、規模の大きな工場が必要になってくる。
都会やその近郊に建設するのは難しい。でも離島なら、あるいは......。
確信までには至らない。しかし疑ってみるだけの価値はある。
莉子はスポーツバッグを肩にかけ、搭乗ゲートに歩を進めた。愚行なのはわかっている。それでも微力ながら問題解決に貢献できるかもしれない。誰かが手がかりをつかまねばならない。それがわたしでないとどうしていえるだろう。
宝くじ
早稲田大学の理工学部、物理学科の准教授という肩書も、研究室を閉じられてしまってはなんの価値もない。ただの講師と同じだ。
氷室拓真は神田川沿いに歩を進め、万能鑑定士Qの店を目指していた。
特に急ぎの用事があるわけでもない。だからゆっくりと春の陽気の散歩を楽しみたいところだが、残念ながらいまの東京は情緒に欠けている。桜もほとんど散ってしまい、清掃員のいない路上にはゴミが舞う。商店は軒なみ閉店、あいている店からも言い争う声しかきこえてこない。
大学は今後の支払いが難しくなることを理由に、既存のあらゆる研究機関の閉鎖を通告してきた。学生たちはまだ授業に出席しているが、彼らにせよ講師を務める側にせよ、本音では今後の暮らしが心配で仕方がないだろう。交通機関の混乱で大学まで来られない学生を考慮し、単位の認定には柔軟な姿勢が求められているが、肝心の大学側も経費のやりくりに苦慮し始めていて、機能は動脈硬化を起こしつつある。
氷室はというと、シティバンクの誘いに乗って貯金の半分をオーストラリアドルに換金していたことが、今回はさいわいした。ここから米ドルに乗りかえるのはさほど難しいことではない。残り半分の日本円についてはもはや紙くず同然ではあるが。
しかし貯金がいくらあっても、研究室が使えなくては意味がない。
手持ちの一万円札のうち五枚に一枚が偽物なら、ぜひ研究室の設備を用いて検証したい。実際、これは怪しいのではという違和感を覚える紙幣は、財布のなかに何枚か見つかった。どこかどう違うのか、具体的にはあきらかではないが、とにかくわずかながら本物と異なる質感を持つ紙幣。その異質さの理由がどこにあるのか、科学鑑定で調べたい。司法がらみの研究機関がさんざん調べ尽くしているかもしれないが、俺がやれば新たな発見があるかもしれない。いや、かならず見つけだす自信がある。
教授や総長にもそう文書で進言したが、なんの返事もない。軽く見られたものだと氷室は思った。発見とは人と同じものを見ながら、人と違うものを見つけることだとノーベル賞受賞者のセント・ジェルジもいっている。ほかの研究者が見つけられなかったからといって、俺の研究を妨げる理由にはならない。
けれども、氷室は承知していた。大学も本当は真理の探究に力を貸したいのだろう。経済システムの崩壊のせいでそれが可能にならない。この世がいかに資本主義に依存してきたが、あらためて思い知らされる。
大学が完全に機能を失ったら、俺は無職も同然だ。凜田莉子に雇ってもらうか。科学鑑定の専門家としての不定期雇用。たいした稼ぎになるとは思えないが。
その万能鑑定士Qの店の前にきたが、シャッターが閉まっていた。さすがの彼女もこのご時世では、経営をつづけることはできなかったようだ。
シャッターの貼り紙の前には、四十代ぐらいの女性がいた。パーマ頭に濃い化粧、ぶかぶかのニットを羽織っている。服から靴まで色彩的にはばらばらで、タンスから取りだしたものをただ着ただけというように見える。
以前の社会なら、平日の正午前にこんないでたちで出歩いていたら、引き籠もりがなんらかの理由で外出している、そうみなされたことだろう。だがここ数日は、こういう服装の人もめずらしくなくなっている。ハイパーインフレの発生で、ふいに仕事を失いニート生活を余儀なくされた元社会人は、全体の六割にものぼると報じられていた。女は万能鑑定士Qに用があったらしい。貼り紙を眺めて腑に落ちない顔をしている。氷室も店の前に近づいた。貼り紙には、里帰りのため休業しますとある。
氷室は声をかけた。「この店に御用ですか?」
びくついたようすで、女は振りかえった。「ええと......ここ、鑑定してくれる店ですよね? 万能ってことは、どんな物でも見てもらえるんでしょうか」
「そうですね。いちおうオールジャンル対応という意味だと思いますけど」
「ジョークってわけじゃないですよね。毎日新聞の万能川柳みたいに」
「違いますよ。店主は僕の知り合いですが、大まじめだと思います。......万能川柳って?」
女はその問いに答えず、ハンドバッグをまさぐりだした。「これを鑑定してもらおうと思って」
氷室は肩をすくめてみせた。「一万円札の鑑定なら、ここでは無理でしょう。なにより見てのとおり、店主は不在で......」
ところが、女が取りだしたものは紙幣ではなかった。ジャンボ宝くじ一枚。女はそれを、さも大事なものを扱うようにそっと指先でつまんで差しだしてきた。
「ほう」氷室は手を伸ばした。「年末ジャンボと書いてありますね。去年の暮れの......」
いきなり女は鋭くいった。「気をつけて!」
びくっとして氷室は息を呑んだ。
女は真顔で告げてきた。「貴重なものですから。粗雑に扱わないでください」
「......触ってもいいですか?」
「ええ」
ようやく氷室は宝くじ券を手にした。「ええと。これが何か? まさか一等の当選券だとか?」
「だとしたら、どう思いますか」
「ありえないですね。ジャンボ宝くじ一等の当選確率は一千万分の一だ。いきなり転んで頭の打ちどころが悪くて死んだり、突然の心肺停止に陥る可能性のほうが高いぐらいです」
「ところが、そのまさかなんです」女はそういって、またハンドバッグに手をいれた。今度は、新聞の切り抜きを取りだしてきた。「ほら、これを見てください」
年末ジャンボ宝くじの当選発表だった。一等。二億円の番号に赤線が引いてある。32組、142072。
手もとの宝くじと見比べた瞬間、氷室は衝撃を受けた。思わず声をあげる。「当たってる!」
「でしょ?」女は勝ち誇ったようにいった。「ほら。一千万分の一だろうと、ゼロじゃなきゃ当たる人はいるのよ」
「すごいじゃないですか。早く換金してきたら? こんな世のなかじゃ、かつての二億円の価値は失われちまってるけど、でも無いよりはあったほうがいいでしょう」
女の表情が曇った。「そうなんですけどね......。みずほ銀行に持っていったんですけど、なぜか門前払いでした」
「ああ......。わかりますよ。いまや銀行は大混乱ですから、宝くじのことにかまってはいられないんでしょう」
「それが、違うんですよ。これを銀行に持っていったのは今年の一月のことなんです」
「一月?」
「ええ。弟が持ってきた新聞を見て、当たってるからびっくりして、すぐに銀行に電話したんです。正月はまだ営業してないから、四日以降にきてくださいといわれました。それで四日の朝に飛んでいったら、行員はこれを見るなり、呆れた顔で突き返してきて」
「拒否されたんですか? 理由は?」
「尋ねようとしたんですけど、なんだか急に恥ずかしくなって。もしかして自分の見誤りかもしれないと思って、走って逃げてしまったので。聞けずじまいでした」
氷室は宝くじ券と当選発表をかわるがわる見た。組も番号も合っている。ひょっとして、これは別の回の当選券ということはないだろうか。
その疑惑はすぐに晴れた。宝くじ券と当選発表の記事、いずれも第五百七十三回全国自治宝くじ、年末ジャンボ宝くじとなっている。記載された年も去年の抽選分で間違いない。
「しかし」氷室はいった。「家に帰ってたしかめてみたら、やっぱり当選券だったわけですよね」
「そうなんですよ」女は語気を強めた。「いまにして思えば、行員のほうが見間違ったのかもしれません。わたしみたいに不幸そうで冴えない、いかにも貧乏を絵に描いたような、口角下がった女が当たっているわけはないという先入観に支配されていたのかも......」
「そこまで自分を卑下しなくても」
「あなたもさっき、ありえないと決めつけてたじゃないですか」
「そりゃ、どうもすみません。謝ります。けど、いまおっしゃったのは一月の出来事でしょう? その後、三か月以上も経ってますけど......」
「怖くて銀行にいけないんです。だから向こうの真意もたしかめられなくて」
「ほかの支店にいけばいいでしょう」
「だめです。きっと支店どうし、横のつながりがあって、こんなわけのわからない女がきたと笑いものにしてるに違いありません」
「当選しているのは確かなんだから、堂々と持っていけばいいのに。向こうの間違いなんだとしたら、躊躇することはありませんよ」
「いいえ。行員は絶対の自信を持っているでしょうから、わたしを馬鹿だときめてかかっているはずです。そんな状況でこの当選券を差しだすなんて......。とてもわたしにはできそうにない......」
本気でいっているのだろうか。内心唖然としながら、氷室は告げた。「なら、僕が一緒にいってあげますよ」
「いいえ! あなたみたいな人は、わたしとは不釣り合いです。そのう、かっこいい男を連れてきたら、きっとホスト通いだと思われます。あの人、宝くじに当たったと思いこんで、先走って男を買ってきてるよとか、ひそひそと囁かれるのは目に見えてます」
思いこみの激しすぎる人だ。氷室は頭を掻いた。「いまの世のなか、人の噂に花を咲かせられる余裕なんか、行員にはないと思いますけどね。ホストクラブももう営業してないでしょう。っていうか、僕みたいな年齢のホストはいないと思いますが」
「あなたはわかっておられない。少年のようにうぶな若者から、中年、初老まで、あらゆる世代が揃っているんですよ、ホストは」
「よく知っておられるようで。行ったことあるんですか?」
「......とにかくわたし、これが本物の当選券だという自信を持たないと、窓口にはたどり着けないありさまで......。ここを通りかかったら、万能鑑定士って書いてあったので、じゃあお願いしてみようかと」
なるほど、そういうことだったか。リピーターではなく新規の客というわけだ。
氷室は当選券を眺めまわした。見る限りでは不審なところはない。番号も書き換えられた形跡はないし、すべての表記に怪しむべき点はない。コピーに特有のにじみもなく、ホログラムシールも偽造品とは思えない。
とはいえ、偽一万円札が本物と区別がつかない昨今だ、当選券の偽物が作られていてもおかしくはない。
氷室はきいた。「この宝くじ券、ちゃんとした売り場で買ったんですか?」
「そうです。駅前の売り場に出向いて買いました」
......嘘でないとすれば、非常に興味深い。まぎれもない当選券を、銀行は一笑に付したことになる。
いまから銀行に出向いても、行員は会ってくれない可能性がある。ハイパーインフレは社会のすべてを変えてしまった。窓口はいつでも応対してもらえる場ではない。
ふと思いついて、氷室は提言した。「よろしければ、僕が鑑定しましょうか」
「え? あなたも万能鑑定士なんですか」
「いや、そんな肩書の資格は存在しませんが......。この店から依頼があるたびに、科学鑑定に協力させていただいている者です。大学で准教授をやってます」
いまこの瞬間にも困っているという人を連れていけば、研究室の使用を一時的にも許可してもらえるかもしれない。総長はわりと話がわかる人だ、これを機に現在の状況における研究室の必要性を、認識してくれる可能性はおおいにある。
氷室は女にいった。「早稲田の研究室でなら、非破壊検査で真贋鑑定ができます。少し歩きますけど、いきますか」
「それは......もう。ぜひお願いします」
では、と氷室は歩きだした。
するといきなり女は横に並んで、手を氷室の腕に絡ませてきた。「大学の先生なんですかー。いい人と知り合いになっちゃった」
......妙な人と知り合いになってしまったものだ。きょう大学があってよかった。学生の大半が、大学に詰めている時間でさいわいだった。俺が受け持っている授業やゼミの学生たちに、こんな姿を見られたくはない。
フライト
羽田発那覇行き、ANA991便の機内でエコノミーシートにおさまった凜田莉子は、周囲に漂う異様な気配を感じとった。
フライトアテンダントの姿がない。乗りこんできた人々は、誰の案内も受けずにただ無言でそれぞれのシートに着席する。まるで長距離バスの車内のようだ。
アナウンスがきこえてきた。心なしか疲弊した声の響きに思える。「機長からみなさまにご案内申しあげます。諸事情により、客室乗務員は前方プレミアムクラス付近に一名のみ配置しております。シートベルトの締まり具合の確認などはご自身でおこなっていただきますようお願いします、大変ご迷惑をおかけしております......」やがて機体が動きだし、滑走路に進入していく。モニターが灯いて緊急時の対処法の説明が始まった。
上京時に乗った旅客機では、誰もこの映像を観ていなかった。けれどもいまは、莉子の視界におさまっている乗客のほぼ全員が画面を注視している。
不安のなせるわざだろうと莉子は思った。整備士の頭数までが削られていないことを祈るのみだ。
後ろの席から、年配の女性の話す声がきこえる。「年金どうなるのかしらね。前と金額が変わらないんじゃ、やっていけないでしょ、ひと月にごぼうを三本買って終わりだわ」
まだ報じられてもいない問題だった。政府は手いっぱいで、そこまで考える余裕もなさそうだ。
実家のおばあやおじいの今後にも暗い影を落とす話だった。ただでさえ冗談みたいに安いとされていた年金が、有名無実なものになっていく。老後の暮らしを支えられる福祉は、この国から消えていく。
誰かが悪循環に歯止めをかければならない。偽札がすべての元凶である以上、紙幣の真贋鑑定こそがすべての鍵を握る。
知られている以外の新しい判別の手段を見つけられれば、道が拓ける。そのためには、従来の鑑定法を網羅しなければならない。
莉子の手もとには『紙幣の製造』という新書サイズのノンフィクション本があった。かつて、勉強のために読みあさった書籍の山に埋もれていた一冊だった。以前は、ざっと目を通しただけでしかない。まさか、紙幣の鑑定を本格的に勉強する必要に迫られるとは、予想してもいなかったからだ。
本を開こうとしたとき、轟音とともに機体が速度をあげて前進しはじめた。
一瞬の緊張。しかし、離陸時の安定感は変わらなかった。ほどなく機首があがり、旅客機は上昇を始めた。
ほっと安堵のため息が漏れる。さすが全日空。国家の経済が破たんしていても、その信頼度に揺らぎはない。
順調に高度があがっていき、機体も水平に戻っていく。しばらくしてシートベルト着用のサインが消えたが、プレミアムクラスのほうにいるというフライトアテンダントは姿をみせなかった。
機内サービスには期待できそうにない。新聞もまわってこないばかりか、飲み物にもありつけそうになかった。
仕方なく本を開く。那覇に着くまでにあるていどのことは頭にいれておけるだろう。
紙幣とは最高にして一流の芸術品である、とその本にはあった。偽造できない完成度の高さはむろんのこと、紙も丈夫で手荒な扱いに耐え、インクの退色などありえない最先端の印刷技術が用いられているという。
紙幣の作り方はまず、工芸官によって原図が描かれることに始まる。これは文字どおり、筆と絵の具で描かれる。出来ばえは、完成後の紙幣と寸分たがわないという。
あの工芸官の藤堂は、一万円札のすべてを描いた男ということになる。しかも、彼の仕事はそればかりではない。
原図をもとに、原版を彫刻する。原図との誤差は十マイクロメートル以内、つまり百分の一ミリの正確さで原図を再現するらしい。公安部の緋崎のいっていたとおりだった。藤堂は恐ろしいほどの器用さを発揮する真の芸術家に違いない。
以下は藤堂の手を離れ、機械的な作業になる。原版を版面におこす製版作業がおこなわれる。そして国立印刷局の銀行券印刷機で印刷が始まる。
直刻凹版と、凸版のドライオフセットの組み合わせで、十六色以上のインクが使われている。財務省の絹笠がいったように、インクのなかで成分が完全に公表されているのはスミ、つまり黒だけで、それは全体の〇・二パーセントにしか使用されていない。ほかの色はすべて原料も調合も謎のままだ。
ここで、印刷に使われる紙が重要になってくる。いかに見事な製版であっても、紙が悪くてはインクはうまく乗らない。
日本工業規格は銀行券用紙を、以下のように解説している。耐久性のある証券用紙および安全紙で、多色印刷ができ、取扱いおよび折りたたみに対する耐久性に優れている用紙。
証券用紙とは銀行券、株券、証券などに用いられる耐久性が優れた紙。安全紙は偽造及び変造をあばくために、偽造防止特性を付与した紙だ。和紙であり、天然繊維のマニラ麻やミツマタを原料に含んでいるが、詳しい製造法は秘密にされている。
けれども、印刷前に紙をコーティングする方法は、外国の特許であり、詳細が公表されているばかりか、家庭ですら再現可能なものだった。
微量の二酸化ケイ素をまぶした水溶液を吹き付け、ムラなく温風にさらす。たったそれだけのことで、繊維素コーティングと呼ばれる皮膜のできあがりだ。これによって紙の表面に毛細管ができ、インクが入りこんで固着し剥がれにくくする。また、紙とインク皮膜のあいだに分子間牽引力、つまりファンデルワールス力を生じさせて、インクをスムーズに付着させる効力もある。
この繊維素コーティングによって発揮されるファンデルワールス力は極めて強く、ひとつの印刷済みのインクに日数をおいて同色のインクを重ねても、ふたつの皮膜は分かれずに完全に分子が結合し同化する。いちど固着したインクは経年劣化も色あせもなく、いつまでも印刷時と同じ分子構造を保つ。これにより紙幣は半永久的に一定の明度や彩度を保ち、たとえ洗濯機にいれられたり風雨にさらされたりしても、色が落ちることはない。
紙幣の印刷は一枚ずつではなく、二十枚が縦横につながった大判の状態で仕上がる。これにホログラムが貼られ、記号と番号が印刷される。
大判は人によって検査される。よって、紙幣の印刷ミスがあればこの段階で判明するため、一枚ずつの紙幣に断裁されることはまずない。硬貨と違ってエラー紙幣が出回ることがほとんどないのはそのためだった。
断裁された札はさらに検査され、千枚ずつの束にされる。これに十字のオビをかけて封包し、日本銀行に納入する。以上が、紙幣製造の工程のすべてだった。
莉子はため息とともに本を閉じた。
やはり工程の大部分は詳細が非公開になっていて、真似できるものではない。工芸官の藤堂は、製版以降の段階の秘密をどれだけ知りえていたのだろう。印刷や貼付に関しても彼が知識を持っていたとするなら、偽札製造における彼の役割は極めて大きいことになる。
ふいに激しい縦揺れが襲った。莉子はびくっとして息を呑んだ。
周りも同様だった。短く悲鳴さえきこえた。シートベルトのサインが点灯している。
アナウンスが響いた。「機長よりお知らせいたします。ただいま気流の関係で......」
いちど速まった心拍は、容易には遅くならなかった。莉子は深呼吸した。
いまこそ全日空のプライドに賭けて安全飛行を実現してください。心のなかでそう祈った。こんなに大きな物が飛ぶはずがないと思った上京のころの心境に戻りたくない。テクノロジーも、整備士らの使命感も、絶対だと信じたい。こんな世のなかであっても。
記者会見場
霞が関の経済産業省での記者会見は予定を大幅に遅れて午後一時に始まり、ついさっき終わった。昼飯にすらありつけずに、長いこと混雑のなかで待たされたのには辟易したが、開始時刻が延期されたおかげで、小笠原悠斗は遅刻せずに済んだ。
小笠原は、同僚の宮牧とともに記者会見場から吐きだされる記者の群れのなかにいた。ロビーに歩を進めながら、宮牧が愚痴をこぼす。「荻野さんも人使いが荒いよ。会見場の抽選に頭数を動員しようなんてな」
「結局」と小笠原はいった。「先輩たちだけじゃなくて、俺たちまで入れたな。なんだか、来るもの拒まずって態度だった」
「いまさら記者クラブでもないんだろうよ。フリーのジャーナリストまで問題なく入ってた。まるでハリウッドスターの来日会見みたいだった。ま、会見の主役はスターどころか、負のオーラを放つ陰気な官僚ばかりだったけどな」
「きこえるぞ」
「いいんだよ。実際、楽しい話なんてこれっぽっちもなかったんだしな」
宮牧のいっていることは間違っていない。文句を口にしたがる気持ちもわかる。周りの記者たちも一様に暗い顔をしていた。どの媒体だろうと、きょうのニュースを楽しくできるはずがない。
歯に衣を着せたような物言いの政府や財務省と違って、経済産業省は率直だった。年金や社債などの債券価値が暴落したことを公式に認め、金利は急上昇、株価は急落し、このままいけば国内産業のほとんどは一か月以内に倒産の憂き目にあうという。
なかでも深刻なのが人々の生活を支えるエネルギー産業だった。石油の購入が難しくなったため、電気の供給は今後抑えられ、地方では今週から断続的に停電が発生するという。やがては都市部でも同様の措置がとられる。ガスと水道についても関連企業が追随する動きをみせているらしい。
また、東京電力と東京ガスは使用料の支払いをドルで応じることを決め、日本円の場合には昨今の事情を反映した価格になるという。早い話、大幅値上げということだった。
それでいながら、年金の額は変わらないし、なによりほとんどの会社の給料は据え置きになっている。国民に飢えろといっているようなものだ。
宮牧が吐き捨てた。「だいたい、いい歳してPHSを持ち歩かされてる身にもなりやがれ。いまどき小学生にも馬鹿にされるぞ」
「時代が変われば風潮も変わるよ」と小笠原はいった。「携帯電話が機能しないんじゃ、しようがない。大臣の話じゃ、同じ市内局番に限って通話が可能になったそうだけどな」
「地方や離島の話だろ。都市部は除くといってたじゃないか。都会で働く俺たちが連絡を取り合えないなんて、どうかしてる」
「生協ですら牛乳一本九千円の世のなかだよ。いまさら嘆いても始まらない」
「なあ」宮牧はぎょろりと目を剥いた。「マクドナルドのスマイル0円って、いまじゃ五千円ぐらいになってるのか?」
「......ゼロはいくら掛けてもゼロだろ。だけど実際、笑顔にも高値がつく時代かもな」
「何うまいこといおうとしてんだよ、おまえ。ランボーか」
「そんなセリフあったっけ?」
「スタローンじゃねえよ。詩人だよ」
そのとき、スーツ姿の白髪頭の男が近づいてくるのを視界の端にとらえた。聞きなれた声が耳に届く。「ずいぶん張りきってるな。その元気なら、ただ働きを率先してこなせそうだ、社員の鑑だな」
宮牧が沈んだ面持ちでいった。「荻野さん。冗談きついっすよ」
編集長の荻野は真顔だった。「冗談のつもりはないけどな。給料の金額は変わらない。さっき社長からも通達があった。社員契約上、基本の額の変更はできないとな」
「はは......。まじですか」宮牧は空虚な笑いを浮かべ、頭を抱えて遠ざかった。
小笠原は荻野を見た。「先輩たちなら、先に会社に戻るといって......」
「ああ。さっき入り口で会った。深刻な会見だったみたいだな」
「この雰囲気の通りです。まるでお通夜ですよ」
「そのようだな。さあ、会社に戻れ。もちろん歩きだ」と荻野は背を向けかけた。
「あのう、荻野さん」
「なんだ」
けさからずっと悩んでいたことを、編集長にぶつけてみることにした。「沖縄に出張したいんですが......」
「またその話か」荻野は顔をしかめた。「きのうもきいたな。あれが、工芸官が以前に沖縄にいたっていう」
「そうです。中国語の脅迫状も沖縄で作成した可能性が高いんです」
「公安部が極秘で捜査してるだろ」
「いえ。彼らはまだ沖縄に関心を向けていません」
「なぜそういいきれる。おまえ、捜査員に特別なコネでもあるのか。沖縄に行ったとして、その後はどうする? マリンスポーツでもエンジョイする気か」
「遊びに行くつもりはありません。なんとか手がかりを探しだして......」
「行きたきゃ行け。自費でな」
「そんな。給料の額は据え置きなんでしょう? 飛行機代だけでも貯金がパアですよ」
「なら働いて稼ぐことだ。安くてもいまは国のため、会社のためと腹を決めて働け。取材は交通費のかからない範囲でしろ。いい記事を安く書け。これが当面の鉄則だ」
それだけいうと、荻野は足ばやに歩き去っていった。
呆然とその背を見送る小笠原に、宮牧がささやいてきた。「マンタに会えるダイビングポイント、教えてやろうか」
「だから遊びにいくんじゃねえってんだよ」
小笠原は頭をかきむしった。交通費のかからない範囲で取材、か。それなら考えがある。
給料据え置きだなんて許しがたい。元の世界に戻すためにも、雑誌記者の端くれとしてみずから行動してやる。都内に落ちている証拠を拾い集めて、この手で偽札製造グループの尻尾をつかんでやる。
帰郷
午後三時すぎ、凜田莉子は石垣島のフェリーターミナル近くの港にいた。
那覇から石垣島への国内便フライトは、驚いたことに米軍の提供だった。日本エアコミューターが使っていたのと同じYS11を、地域住民の移動用に貸しだしているのだという。もちろん、米軍関係者の足としても使われているのだが、機内にぴりぴりしたようすもなく、いたって快適だった。ハイパーインフレは、日本に限って起きていることを痛感せざるをえなかった。ドルの影響下にある在日米軍は、日本国内にあっても例外的存在だった。
もっともそれも、いつまでつづくかわからない。日本円の暴落は世界経済に影響を与える。大不況の引き金になるのではと諸外国に警戒されているに違いない。実際、YS11の片道の運賃はドルなら九十、日本円なら八万二千だった。ボランティアに近いサービスであっても円は冷遇されている。
このフライトで、莉子は持ち金をほとんどすべて使いきってしまった。けれども、さいわいなこともあった。石垣島に着いてからは、携帯電話が通じた。おかげで実家に連絡をとることができた。
ヨットハーバーから少し外れたところに、個人所有の漁船や小型貨物船が係留できる桟橋がある。莉子はスポーツバッグを肩にさげて、桟橋を渡っていった。
うろついていた猫が何匹も餌を求めてすり寄ってくる。島の港にはたいてい猫がいる。余った魚をあげる漁師が多いからだろう。そのせいで人には慣れている。莉子が歩いていくと、猫たちもついてきた。
行く手には、ダンボール箱が山積みになっている。貨物として島に運ばれる物だろう。こんなに大量の物資が桟橋を専有するのは朝方だけのはずだが、いまは例外に相違ない。海原を見ても、フェリーの航行する姿がない。荷物はそれぞれの島の集落が船をだして運ばねばならないのだろう。
見慣れた漁船がある。一本釣りと延縄専用の小ぶりな船。たしか波照間で知り合いの漁師が使っていた......。
そう思ったとき、ダンボール箱の陰からふいに人影が飛びだしてきた。「莉子!」
莉子ははっとした。かりゆしウェアを着た痩せた男は、まぎれもなく父、凜田盛昌だった。
「お父さん」莉子は一瞬、呆然とたたずんだが、すぐにこみあげる喜びとともにいった。
「おひさしぶり! 元気そうでよかった」
五年ぶりの再会で、もし見るからに老けて衰えたようすの親をまのあたりにしたらどうしよう、と内心気が気でなかった。しかし、目の前に現れたのは、まるで莉子が高校生のころに戻ったかのように、当時のまま何も変わるところがない、浅黒い日焼けもそのままの父の姿だった。
盛昌は満面に笑いを浮かべた。「莉子もあいかわらず健康そうでなによりさぁ。いやぁ。大人っぽくなったもんだね。美人になった。見た目だけかもしれんけどね」
「それどういう意味?」莉子はふくれっ面をしてみせた。「でも、迎えにきてくれて嬉しい。フェリーに乗るお金も残ってないからどうしようかと思ってた」
フェリーなんて、もう存在しないのも同然さー。ターミナルに入っても明かりは消えてるし、カウンターも売店も閉まってるし。おかげでどこも島を渡るには難儀でね。買いだしにでてくるのにも、この友達の漁船、借りてるわけよ」
「石垣のマックスバリュ、閉まってたみたいだけど」
「朝の二時間しか営業してないのさ。生活必需品は午前中に仕入れないと」
「お金はあるの?」
「それがうちも、ほとほと困り果ててたんだけどねえ。おばあの会社が米軍相手にも商売してるから、多少のドルは持ってるってことで、うちにもまわしてくれたのさ。あと、船の燃料もわけてくれるんだよ。これは大きいね」
ほっとひと息つくと同時に、莉子は思いだした。そうだ、おばあといえば、どうしても頼んでおかねばなちないことがある。
「ねえ、お父さん。おばあの会社、まだ機能してるのかな」
「あん? 八重山運送なら健在だよ。沖縄はドルが稼げる会社が多いから、内地よりはまだ踏ん張れるみたいでね」
八重山運送は沖縄県全域に根を張る老舗の運送会社だ。値段が安いことから、個人の引っ越しはたいてい八重山運送に依頼する。おばあはその元常務、いまは相談役だった。
莉子はスポーツバッグから、一枚の紙片を取りだした。家電カタログの一ページを破りとったものだった。
「おばあに連絡とれない?」と莉子はきいた。「この製品を引っ越しで扱ったかどうか、リストを調べさせてほしいの」
「なんだぁ、これ」盛昌は眉間に皺を寄せて、商品カタログの写真を眺めた。「エアコンなら、うちにあるさぁ」
「そうじゃなくて、沖縄から東京に引っ越していった人が、このダイキン製のエアコンを持っていったはずなのよ。室外機は塩害対策でフッ素樹脂によりコーティングされてる。ヤモリガードもついている仕様だから、こっちで使ってた物を、取り外して運送したに違いないの。電器屋さんのお世話になってるわけだから、工事の記録が明細に残ってるはず」
「待て。ちょっと待て。莉子。なんかずいぶん早口だな。都会にかぶれたか」
東京の基準でいえば、父の言葉のほうが早口だ。しかもアクセントの強弱をつけずに語尾が流れるから、内地の人間には聞き取りにくいだろう。
莉子は問題なかったが、それでもひさしぶりに耳にする八重山地方特有の喋り方は、注意深く聞かないと意味を取り違えてしまう可能性がある。
たぶん上京直後にわたしを面接した企業の人たちも、同じ印象を抱いただろう。
感慨深く思いながら、莉子はいった。「お願いよ。お父さんからも、おばあに頼んで。航空便じゃなく船便のプランだけに絞って探せば、すぐに見つかると思うの」
「どうして船便だけなんだ? 引っ越しする人はたいてい航空便だよ? 船なんて日数がかかりすぎて不便さぁ」
「航空便だと、エアコンを運送するより買いなおしたほうが安くなるの。だから格安プランの船便を選んだにきまってる。それとね、引っ越し前の住所は海岸から三百メートル以上離れているはず。もし三百メートル以内なら、もう一段上の耐重塩害仕様になるから」
「で、そりゃいったい何のために調べるんだ? あれか、東京にでてから、なんか鑑定業みたいなことをやってるって話だけど、それがらみか」
「......まあ、そんなところかもね」
「俺の財布のなかも鑑定してもらいたいよ。本物の一万円札っていう確証のない札は受け取れませんとか、そんなことをいう業者ばっかりだもんな」
莉子は複雑な気分になった。
やはり偽札事件は離島にまで暗い影を落としている。ドルの比率が高い沖縄でも、ハイパーインフレは深刻化しつつあるに違いない。なんとかして真贋鑑定の糸口をつかみたい。工芸官の藤堂の足跡が発見できさえすれば......。
そのとき、ダンボール箱の向こうから男の声がした。「盛昌さんよぉ」
ひょっこりと姿をみせたのは、これまた見覚えのある中年男だった。小太りで背が低いが、船の舵を握らせたらこれほど信用がおける奴はいない、父がいつもそう太鼓判を押していた友人だった。
父はいつも彼を苗字抜きで、朝英と下の名前のみで呼んでいた。いまだに苗字が何なのか、莉子は知らなかった。
「朝英」と盛昌はやはりいまも彼をそう呼んだ。「どうしたぁ?」
「荷物がちょっとわからなくなって......」朝英は莉子に気づいたらしく、目を丸くした。「おい。もしかして、莉子ちゃんか? 立派になって。いくつになった?」
「二十三です」と莉子は応じた。
「そうかー。時が経つのは速いな。結婚はまだか? いい人見つかったか?」
盛昌がすかさずいった。「娘のプライバシーに立ち入る質問はよしてくれ」
朝英は不服そうだった。「いつも莉子ちゃんのプライバシーばかりひけらかしたがるくせに。莉子ちゃん、あれだろ。なんでも鑑定団ってのに入ったんだろ」
同名の番組を、八重山地方の人々は知らない。放送されていないからだ。朝英の誤解の原因は、父に違いなかった。莉子は咎める口調でいった。「お父さん」
「冗談だよ。ほんとはあれだ、万能鑑定団だな」
「団じゃないって。わたしひとりだし」
「そっか、ひとりでやってるのか。で、朝英。どの荷物がわからなくなったって?」
朝英は弱りきった声をあげた。「キウイフルーツがひと箱あるんだけどさ。どれだかわからなくなっちゃって」
「なんだ、情けない。開けて調べりゃいいだろ」
「面倒だよ。時間もかかるし」
「島に持ち帰ってから捜せよ」
「そうはいかないんだよ。キウイフルーツだけ竹富島に運ばなきゃいけないから」
莉子は複数の箱を眺め渡した。猫が上に乗って、ごろりと寝そべっている箱がある。
「これですよ」と莉子は指さした。
「え?」朝英は面食らった顔をした。「なんでわかるんだい、そんなこと。......どれ」
朝英は箱をひきずってきて、ガムテープをはがして開封した。
直後に、朝英は驚きの声をあげた。「なんてこった! 大当たりだ」
父の盛昌も眉をひそめた。「どうしてわかったんだ?」
莉子は肩をすくめてみせた。「キウイフルーツは、長江流域で採れるシナサルナシがニュージーランドで改良されたもので、雌雄異株の落葉蔓性植物。マタタビ科マタタビ属なの」
「ほう」朝英は感心したようにつぶやいた。「マタタビねえ。それで猫がすり寄っていたわけか」
盛昌は莉子を見つめて神妙にいった。「おまえ変わったな」
「そうかなぁ」
「さあ、そろそろ行こう。しばらく休んで旅の疲れを癒せ。みんな家で待ってるさ。朝英船だしてくれ」
「おう」と朝英がうなずいた。「これ積みこんだらすぐ出発さぁ」
懐かしいわが家が、すぐそこにまで近づいている。瓢々とした父の態度、爽やかな八重山のそよ風。なにもかも昔のままだった。
この幸せを失いたくない。みなを悲しませたくない。紙幣といえど、たかが一枚の紙きれにすぎない。そんなものに何もかも奪われたくはない。
混乱
経済産業省の記者会見から、さらに五日が過ぎた。ハイパーインフレはおさまるどころか、悪化の一途をたどるばかりだった。
曇り空の薄暗い朝、小笠原悠斗が西池袋三丁目のマンションをでようとすると、管理人が立ちふさがった。来月から現在の物価に即した家賃に改定するという。具体的には、これまで月に八万三千円だったのが、来月からいきなり四十万六千円。
無茶すぎる、と小笠原は管理人に抗議した。ワンルームマンションで四十万だなんて。給料の金額が変わらないのに、不動産のオーナーだけが料金改定で収入の確保をはかるとは、不公平すぎる。
管理人はさらりといった。文句があれば訴えてくれて結構というのが、オーナーさんの意向だそうですよ。
訴訟沙汰にしようにも、弁護士事務所も裁判所も充分に機能しているかどうか疑わしい世のなかだ、真っ当に手続きしようとするだけ馬鹿をみる。だいいち、この料金が不当だと誰が判断できるだろう。
物価の異常な高騰には、公正取引委員会も出る幕なしといわれている。値上げは一部業者のしわざでなく社会現象であり、公取委もどこに矛先を向けるべきかわからないからだろう。それ以前に、公取委を構成するメンバー自体、日々の生活に四苦八苦に違いない。
釈然としない思いとともに、小笠原は自転車で会社に向かった。ついにひと区間が九千円を超えたJRや、米ドルの支払いのみを受け付ける有楽町線を利用する人間はごく少ない。ストも頻繁に起きていてダイヤも乱れがちだ。臨時運行のバスに乗ろうにも、ハワイ旅行から持ち帰ったドルが底を突きつつある。それなら人力で通勤するしかない。
同じ境遇の社会人は数多く、明治通りはクルマをすっかり見かけなくなった代わりに、自転車を漕ぐスーツの群れでにぎわっていた。経済成長した中国にはクルマが溢れ、日本はひと昔前の中国の様相を呈している。エコにはいいかもしれないが、情けないかぎりだ。パンクが起きないよう祈るしかない。タイヤの買い替えだけでも出費が痛すぎる。
たっぷり一時間半かかって、ようやく会社に着いた。角川本社ビル前の車両乗りいれ用スロープは、自転車置き場と化していた。ここ数日はお馴染みの光景だった。
びっしりと隙間なく自転車が連なっていて、もう停められない。仕方なく一階の駐車場を覘くと、以前は会長のキャデラックが駐車してあったスペースに、ぽつんと一台だけ自転車が停めてある。
会長も自転車通勤か。警備員の詰め所を見たが、誰もいなかった。ほかに停められない以上、仕方がない。小笠原は会長の自転車の隣りに置かせてもらった。
掃除の行き届いていない、塵と埃の舞うロビーに歩を進める。電気が消えている。エレベーターも稼働していなかった。息を弾ませながら階段を駆けあがる。
七階に着いたころには、すっかり疲れきっていた。乱れた呼吸で喘ぎながら、編集部に転がりこむ。
ところがその瞬間、疲労感もすべて吹き飛んでしまうほどの衝撃が襲った。
あの週刊誌特有の雑然とした喧騒はどこにもない。そこかしこにアニメ絵の立て看板が掲げられ、壁には華やかな色づかいのポスターが並ぶ。
デスクの数も半減していて、おさまっている編集員の顔ぶれも違う。何人かは知り合いだった。漫画誌の編集者ばかりだ。『少年エース』の......。
そのとき、宮牧が両手にたくさんの荷物を抱えて視界を遮った。
宮牧は小笠原に気づいたようすだったが、浮かない顔でいった。「おお、小笠原」
呆然としながら小笠原はきいた。「宮牧。これはいったい......」
「敗残兵は撤収ってことだ。おまえも早く、自分の持ち物を回収してこいよ」宮牧はそういって、フロアの片隅に顎をしゃくった。
壁ぎわに堆く積みあげられたのは、用なしになったデスクとその中身だった。ダンボール箱の山が天井にまで届いている。箱の側面には、社員の名前が記してあった。
小笠原は面食らっていった。「勝手に人のデスクを......」
「おまえのデスクではない。会社のだ。って俺もさっき偉い人にいわれた」
「どうしたっていうんだよ。新しい編集部は? どこに移転した?」
「ないんだよ。『週刊角川』は休刊だってさ」
「休刊......」小笠原は愕然とした。
「ま、事実上の廃刊だろうけどな」
「......漫画は生き残ってるってのか? こんなご時世なのに?」
近くにいた編集者がじろりとこちらを見た。小笠原はひるんで言葉を失った。
「でよう」と宮牧がうながしてきた。
小笠原は宮牧とともに廊下にでた。宮牧は両手の荷物を床に置くと、ふうっとため息をついた。
宮牧はいった。「漫画家にまだ働く気があるかどうかは知らないが、数号ぶんの原稿のストックがあるからな。当面は刊行できるらしい。漫画はドルの客を中心に、それなりに需要があるからな。もっとも、生き残ってるのはうちの会社のほかは『ジャンプ』とか、数誌だけらしい」
大半の漫画誌は休刊したのか。小笠原は思わず唸った。「知らなかったよ。近所のコンビニも、いまじゃ雑誌コーナーに警備員がいて近づけない。購入したい雑誌がある場合は警備員に声をかけろってさ。立ち読みは厳禁」
「どこでもそうだよ。六階を見たか? 手のあいている社員が総出で『少年エース』のバーコードの貼り替えに従事してる。印刷しちまった数十万部の値段の表示をぜんぶ変えるつもりらしい」
「ってことは、うんと高くするわけか」
「『ジャンプ』は六千円だぜ? 米通貨なら二ドルだけどな。日本円なら、それなりの値段にしないとな」
「社員の給料には還元する気ないんだろうな」
「どこの会社でもそれが問題になってる。きのう、隣りのビルに株主たちが怒鳴りこんできたの、知ってるか? 重役とほとんど掴みあいの喧嘩だったそうだ」
争いはあちこちで起きている。ここ数日は放火が多発しているとニュースも報じていた。この国はもう戦時中と変わりない。あるいは、ロシア共和国に変わったばかりの旧ソ連。紙きれと化した最高額紙幣をめぐって、醜い衝突が繰りかえされている。
階段に足音がした。息を切らしながら、頭の禿げあがった男がジュラルミンケースをふたつ抱えて姿を現す。男はこちらを一瞥してから『少年エース』編集部に入っていった。
編集員のひとりが立ちあがって応対する。大きな麻袋をひっくりかえし、無数の札束をデスクの上にぶちまけた。禿げた男はそれらをジュラルミンケースにおさめていく。
よく目を凝らすと、札束はすべて千円札だった。それにしてもかなりの額だ。
宮牧がつぶやいた。「仕出し弁当の集金だよ」
「弁当?」小笠原は驚きを禁じえなかった。「まるで麻薬取り引きだ」
「ハイパーインフレだからな。金額も莫大ってこと。弁当がでるだけでもうらやましいけどな。ほかの編集部じゃ、編集長が貰った去年のお歳暮の中身を少しずつ消費して、食費を浮かせてるらしい」
「おい」と男の声がした。
振りかえると、先輩記者のひとりがダンボール箱を抱えて、物憂げな顔で立っていた。
「おまえら、自分の物を回収したら、さっさと下の階におりてバーコード貼りをてつだえ。働く気がないと人事部にみなされたらクビ切られるぞ」
宮牧が荷物を持ちあげた。「すぐにいきます」
小笠原はいった。「手を貸すよ。ひとつ持とう」
「すまねえな。じゃ、これ頼む」
かなりの重さのある箱だった。先輩記者が姿を消したのを確認すると、小笠原は歩きながら宮牧にささやいた。「いつから人事部はゲシュタポになったんだ」
「陰口はよせ」宮牧は歩調をあわせてきた。「俺まで疑われて粛清される」
「監視の目は社員じゃなく社会に向けるべきだ。マスコミの一翼を担う企業として、偽札の発生源を追うべきだよ」
「まだそんなこといってんのか? 雲をつかむような話はよせ。いまは総力戦じゃなくて、サバイバル戦だろ。なんとか生き残って、給料がドルに切り替わるなり、政府が新札を発行するなり対策が講じられる日までたどり着く。それが俺たちにできるすべてのことだ。クビを切られたんじゃ元も子もないぜ?」
小笠原は返事をしなかった。無言のまま階段に向かい、一歩ずつゆっくりとおりていった。
雲をつかむような話と宮牧はいった。俺はそうは思わない。時間を見つけて都内を動きまわり、少しずつでも手がかりをつかんでやる。偽造メンバーはきっとあぶりだせる。たとえ雑誌が失われても俺は雑誌記者だ。真相を突きとめるまであきらめやしない。
南極
波照間島の一日は長い。何もやることがないせいで、時間が経つのが遅すぎる。
莉子はニシ浜にたたずみ、どこまでも広がる青い海を眺めていた。
ニシはこの島の方言で北を意味する。北なのにニシ。実際、ここは島の北側だった。春のいまごろは観光客でにぎわうのが普通だ。
いまは誰もいない。白い砂浜には、莉子のもの以外、足跡ひとつなかった。
八重山諸島のビーチのなかでも、ニシ浜はとりわけ美しい。理由は、珊瑚があまり存在しないことにある。このあたりの海水は澄んでいて、どこも素晴らしく透き通っているが、珊瑚があるとその一帯は黒く見える。ニシ浜は浅瀬が砂ばかりなので淡い藍いろに統一され、綺麗だった。もっとも、その美しさに惹かれてシュノーケリングをしてみると、海中の景色の変化のなさにやや落胆を禁じえないが。
この島全体も似たようなものだと莉子は思った。観光客の消えた島には落ち着いた風情が漂っているが、民宿やペンションを経営している家庭はなんの収入にもありつけない。フェリーのストがつづいているせいで島は孤立状態だし、船便もめったに届かないのでガソリンが貴重品になっている。以前なら一日に何度か走るのを見かけた軽自動車の類いも、すっかり存在感をなくしていた。
港では毎朝、集落の主だった顔ぶれが集まって、魚が高すぎると漁師と押し問答するのが常になっていた。たったひとりの警官も、ヤギが盗まれたと被害報告を受けて島じゅうを捜しまわっているらしく、駐在所をいつも留守にしている。
島に来てから五日。石垣にいるおばあからの連絡はまだない。工芸官の藤堂が八重山運送を利用したのなら、情報が残っているはずだ。そう信じて待つばかりの日々がひどくじれったい。
六百人しか住んでいない波照間島では、住民は以前から金を使わず、工夫して生活するすべを身につけている。その島民ですら貧困にあえぐようになってきた。都会はもっとすさんでいるだろう。東京はいまどうなっているのだろう。閉めてきた店は再開できるだろうか。
もの思いにふけっていたそのとき、クラクションの音がきこえた。
振りかえると、緩やかな坂の上に軽トラックが一台、停車していた。
いまどきクルマなんて珍しい、そう思っていると、運転席から顔をだしたのは、母の凜田優那だった。
「莉子」優那は手を振ってきた。「ここにいたの。捜して島をぐるりと一周しちゃったじゃないの」
一周といっても三十分ぐらいだ。莉子はきいた。「おばあが来たの?」
「まだよ。ずっと音信不通で。けど、テレビでなにかニュースをやってるよ」
「ニュースって?」
「偽札作ってる人たちがテレビ局にビデオ送ってきたとか、そんなこといってるさー」
莉子は息を呑んだ。
犯行声明か。あの中国語の脅迫状以来、二度めの犯人側の意思表示だった。
思わず駆けだした。坂を一気にのぼって、軽トラにたどり着くと、助手席のドアを開けて飛び乗った。
「早く行こ」莉子は母にいった。「急いで帰らなきゃ」
しかし、優那の言動はいつもと変わらず、おっとりとしたものだった。「そんなにあわてなくても、ずっと同じニュースが繰り返されるばっかりだし、ほかに放送もないしね。あんた、紅芋食べる?」
「いいからクルマだして」
「はいはい」優那はギアを入れ替えた。「都会の人はなにをするにも忙しいのね」
ふと胸のなかに暗雲が漂う。莉子はきいた。「お母さん。わたし、そんなに変わったかなぁ」
「え? どうしてそんなこときくの?」
「お父さんもそういってたから。おまえ変わったって」
「そうねぇ」優那は軽トラを走らせながら、ふっと笑った。「頭は良くなったね。ほんと、びっくりするぐらいに。それと、小難しい言葉を使うようになったさー」
「......ああ、そうかも。東京ってしっかり勉強してる人ばかりだし、その人たちと話してると、喋り方も堅くなるの」
「あと、しっかりして、大人っぽくなったね。島をでていったころの莉子は、もういないんだなって」
「それって......。寂しく感じてるってこと?」
「ちょっと違うね。莉子がこんなに立派になってくれるなんて、お母さんは予想もしてなかったの。だからもう、ただびっくりしてるさぁ。鑑定家さんだっけ、そんな仕事に就いてるってのも、昔のあんたからは想像もつかなくて。ただ、ね......」
「なに?」
「危ないこと、してない? 偽札がどうとか、物騒なことに首を突っこんで......」
「ああ」莉子は笑ってみせた。「鑑定業の端くれとして、お札の真贋をきかれることが多いからよ。なんとか区別できる方法はないかって、いつも気にかけてるの」
「そう。それだけならいいけどね。おばあにも妙なこと聞いてるみたいだから、お母さん心配になっちゃって。犯人とかそんなの捜すのは、警察にまかせときゃいいよ。お母さんからも駐在さんに頼んであげるから」
「いえ......。べつにいいって。なんか、容疑者らしき人が沖縄にいたかもっていう噂をきいたから、確かめたくなっただけ」
優那はため息をついた。「内地の人って、悪さをするとみんな沖縄に逃げてくるのよね。外国じゃ遠いし、沖縄ならちょうどいいって気分になるのかしら。住民装ったって、言葉でわかるのにね。『食べましょうね』といったら、食べはじめるんだもの」
それは本土の人にしてみたら腑に落ちないことだろう。しましょうね、という言いまわしは、自分がするという意味になる。相手を誘う物言いではない。
莉子は苦笑した。「うちはあんまり方言で喋らないね」
「おばあが商売でうるさい人だったからね。若いころに『お金払いましょうね』っていう言い方めぐってナイチャーと口論になったみたいだから」
「ふうん。おばあの影響だったんだね」
そうはいったものの、父も母もイントネーションは確実に八重山方言そのものだった。この島に生まれ、ふたりの娘として育たなければ、いまも何を話しているかよくわからなかっただろう。
軽トラは集落に入り、馴染みの赤瓦の平屋建ての軒先に停まった。
莉子は車外に降り立った。ハイビスカスが鮮やかに咲き誇る庭から、スイジ貝がぶらさがる縁側に向かう。
サンダルを脱いで居間にあがると、琉球畳の上に腰を下ろした父、凜田盛昌が、グラスを傾けて苦い顔をしていた。「まずいな、これ」
「何を飲んでるの?」と莉子はきいた。
「泡波が高くてもったいないから、水で薄めてみたんだけどな。まずくて飲めるしろものじゃないな」
「限りがあるのはお酒よりもドルでしょ。ちょっとは控えたら?」
盛昌は赤ら顔をこちらに向けて、とぼけた口調でいった。「なんだ、莉子か。最近お母さんに似てきたな」
酔っぱらいは手がつけられない。莉子はちゃぶ台からリモコンを取りあげた。「テレビつけるよ」
電源をいれて、チャンネルを変えてみる。三つしかない地上デジタルの放送局は、いずれも報道特番だった。このところ通常番組はまるで目にしなくなっている。民放であってもCMが流れることもない。
NHKの男性キャスターが告げていた。「このDVDは、NHKおよび民放各社の東京キー局に送られてきたものです。メッセージは同封されておらず、ただ大量の偽札が蓄えられていることをしめす映像が収録されているだけでした。ではここで、そのDVDの映像をふたたびご覧ください」
両面が切り替わる。鮮明な画質だった。音声はない。手持ちカメラらしく、ゆらゆらとフレームが揺れている。
映しだされたのは、氷床のペンギンの群れだった。アデリーペンギンのようだ。集団で腹這いになり、氷の上を滑っている。
それからすぐに別カットになり、何もない氷床をカメラがゆっくりとパンする。またカットが切り替わって、今度はアザラシがごろりと横たわっていた。
父の盛昌が泡波をすすりながらいった。「涼むにはちょうどいい」
「しっ」莉子は父を手で制して、テレビを凝視した。
アザラシの向こうに画面がズームしていく。氷床の果てにプレハブ小屋があった。立方体をいくつも積みあげたような形状で、どのような施設かはわからない、越冬隊の詰め所のようにも見える。
さらにカットが替わった。今度は室内だった。薄暗い部屋のなかはうっすらと氷が張っていて、つららも下がっている。白いもやが下から吹きあげているようだが、これはカメラマンの吐く息らしい。カメラはパンし、床に置かれた荷物にズームした。
それはビニール袋に包まれた札束だった。一千万円ずつとおぼしき束が縦横に五つずつ並んでいる。ビニールには霜が付着していたが、紙幣の表面ははっきりと見えた。まぎれもない日本銀行券、一万円札。
その札束をカメラがクロースアップでとらえる。ふいに右下から、札束とは別に二枚の紙幣がフレームインした。二枚はカメラマンの手によってビニールの上に置かれた。
解像度の高い映像だった。番号も読みとれる。二枚の番号はそれぞれRB627549E、HW207822C。
そして、ビニールの下に並んでいる札束のいちばん上の番号ふたつが、それらの紙幣と一致していた。RB627549E、HW207822C。
映像はそこで途絶え、NHKの男性キャスターが映しだされた。「ご覧いただきましたように、映像の長さは約一分間で、南極大陸と思われる場所に建てられた小屋のなかに、日本の一万円札が大量に保管されていることを示唆しています。このうち二枚について、いずれも同じ番号の紙幣が存在するようすを映していることから、ビニール袋のなかの紙幣すべてが偽札であることを主張しているものと思われます」
父がまた茶々をいれた。「わかりきったことを。ぜんぶ偽札にきまってるじゃねえか」
莉子は盛昌を振りかえった。「静かにしてよ」
キャスターの声はつづけた。「警視庁では、このDVDを発送してきたのは偽札製造グループである可能性が高いとしています。そのうえで、現在も大量の偽札を保管していると明かすことで、日本経済にいっそうの混乱をもたらそうと画策している疑いが強いとして、引き続き捜査する方針です。しかし、政府与党は日々流通量を増やしている偽札について具体的な対策のめどを立てることができず、本物と見分けのつかない偽札を通貨として扱うべきか否かについて閣僚内で意見が分かれているため、混乱はなおもつづくものと......」
盛昌は泡波を注ぎながらいった。「南極って中国か? 以前の脅迫状とやらは中国語だったんだろ」
莉子はリモコンでテレビの音量を絞りながら、父に告げた。「南極条約で、どの国にも属さない大陸になってるの。けど......」
また映像がリピートされていた。氷床のなかに見える小屋、氷漬けの室内の札束。
疑惑はたちまち確信に変わった。莉子はつぶやいた。「これはフェイクよ。南極じゃないわ」
「なんだと? ペンギンさんやアザラシさんがいたじゃねえか」
「たしかに冒頭は南極だけど。カットが幾度も切り替わってるでしょう。氷床のようすは、南極のツアー旅行で撮影した映像かもしれないし、あるいは販売されている素材映像かもしれない。デジタルだからコピーしても劣化しないし、新たにデジカメで撮影した画とスムーズにつながる」
「あのプレハブ小屋も、ちゃんと南極に建ってるものだろ。手前にアザラシが寝てる」
「そうだけど、あれはミサワホームの南極用木質プレハブよ。特徴的な木質パネル接着工法を用いてる。結露が起きにくくて腐りにくい構造になってるの。ミサワホームは観測のための建物をたくさん手がけてて、そのうちのひとつでしょう。犯罪者のグループがこっそり発注して南極に建てるなんて不可能よ」
「......よく知ってるな、そんなこと。あと、やっぱりおまえ、早口になったな」
「ズームした建物は、その次のカットで映る室内とは、なんの関係もない。ただ犯人側は、そう印象づけたくてこのような編集をおこなった。室内のカットは南極じゃなくて、どこかほかの寒いところで撮ったのよ」
「おい。そんなふうには言いきれないだろ。さっきのプレハブ小屋のなかじゃなくても、南極にある別の建物のなかってこともあるさぁ」
「ないって。絶対に」
「頑固だな。東京がどんなところが知らんが、嫁に貰われるためにはな、意地ばかり張ってないで......」
「カメラマンの吐く息が白く映ってたでしょ。息のなかに含まれる水蒸気が、大気中の塵や埃にくっついて水滴になるから、白く染まるのよ。南極は空気がきれいだから、そうはならない。吐息は白くならないのよ」
盛昌は面食らった顔で押し黙った。
「そっか」盛昌はしゃっくりとともにつぶやくと、また泡波の瓶を傾けた。「頭いいな、莉子は。よすぎて、俺の血とは思えなくなってきた。お母さん呼んで事情をきかないとな」
「なにいってんの」
「冗談さぁ。しかしなぁ。莉子。ほんっとに出世したなぁ。お父さんは嬉しい」
「出世って。まだたいした稼ぎにもなってないのに」
庭先から母の声がきこえてきた。「あらぁ。駐在さん、どうされたんですかぁ」
莉子は立ちあがり、縁側にでた。
物ごころついたときから、ずっとこの島にいた小太りの巡査長。いまは五十代後半だろうか。制帽をとると、白髪頭のてっぺんが禿げだしていた。
照屋巡査長は額の汗をふきながら、にこやかな顔で近づいてきた。「莉子ちゃん。ちょっといいかな。話をきいてほしい人がいるんだけど」
もうひとり、ワイシャツにズボン姿の痩せた老人が入ってきた。こちらも莉子の顔見知りだった。年齢はたしか八十を超えているはずだが、長年漁師をしてきたせいか背すじも伸びて若々しい。
とはいえ、足どりが力強いかといえば、そうでもない。そうとう酒が入っているらしく、千鳥足でふらふらと庭を歩いてくると、縁側に腰をおろした。盛昌が身を乗りだした。「おう、瑞慶覧さん。よく来たさー。泡波どう?」
「くわっちーさびら」と瑞慶覧は満面の笑いで応じた。瑞慶覧ぐらいの年齢の島民となると、方言はかなり強烈だった。莉子にとっても、気を抜いているとよく聞き取れないことがしばしばある。
嬉々として酒を酌み交わし始めたふたりに、駐在の照屋が咳ばらいした。
照屋はうながした。「瑞慶覧さん。さっきの話を」
グラスの泡波をあおってから、瑞慶覧はぼそぼそといった。「ジンぬ工場や、竹富島んかいぁる」
莉子は衝撃を受けた。「それほんと?」
照屋がうなずいた。「瑞慶覧さんの話では、漁で竹富島の南のほうに迷いこんだときに、お札を製造する工場を目撃したってことです」
莉子の母、優那が神妙な顔になった。「南って......。立ち入り禁止でしょ」
「陸はな」と父、盛昌が告げた。「車エビの養殖場があるからな。少し離れた海の上からは見える。ほかにも工場がいくつかあるけど、働いている人以外は基本的に入れん」
「でも」莉子は信じられないという気分でつぶやいた。「犯罪者が潜めるような場所かしら。あそこで働いているのって、真っ当な職業の人ばかりでしょ」
すると瑞慶覧が莉子を見つめてきた。「借りてぃーやたーやてぃん利用ないん」
たしかにそうだ。工場用地は貸しだされている。借りた業者は原則的に、自由に活用できるだろう。
表向きは別の名目で工場を借り、偽札の製造に利用する。ありえない話ではなかった。島民を雇用せずに、偽札製造グループのメンバーが従業員を装っていれば、内部の秘密は守られる。工程も似た印刷工場を偽装していれば、材料の運びこみや仕上がった偽札の搬出も、さほど人目を警戒する必要はない。
なにより、竹富島には駐在所が存在しない。警察の目を逃れるには絶好の立地かもしれなかった。
「莉子」盛昌がじっと見つめてきた。「竹富島の車エビ養殖場には、南端の岩場に冷凍施設があるぞ。それも海から見える」
冷凍施設......。
条件はすべて当てはまっている。事実、二十億枚を刷る偽札製造工程となれば、それぐらいの規模と自由度を必要とするだろう。
照屋はいった。「札束が大量に工場から運びだされるのを、瑞慶覧さんは双眼鏡で確認したっていうんです。それをきいた近所の人がびっくりして、駐在所に通報してきたわけで」
優那はため息をついた。「瑞慶覧さんが見たっていうだけ?」
「おい」盛昌は優那を指さした。「この島で生まれ育った俺がいう。瑞慶覧さんほど信用できる人はいないさー。嘘もつかないし間違いもしない」
「ふうん」優那は冷めきった顔で応じた。「誰かさんとは大違いっていいたいわけ」
すかさず照屋巡査長が仲裁に入った。「まあ、おふたりとも。私も瑞慶覧さんのおっしゃることは、聞き捨てならないと思ったからこそ、こうして莉子ちゃんのもとに来てるわけで」
莉子はたずねた。「わたしになにか......?」
「東京で鑑定屋さんをやってるんだろう、莉子ちゃん。本物の札と同一番号の偽札を、じっくり見る機会があったそうだね。違うかい?」
島にきてから、両親にしか打ち明けていない話だ。莉子はつぶやいた。「どうしてそれを......」
「どうしてって、島じゅうで噂になってるんでね」
優那が盛昌をにらみつけた。「お父さん」
盛昌は困惑したように視線を逸らし、ぶつぶつといった。「しかたないだろ。ほら、父親にとって娘ってのは、いつでも人に自慢したくなるもんだし......」
莉子も父とは別の理由で戸惑いを深めていた。「駐在さん。わたし、たしかに偽札と判明した紙幣を見だけど、真贋の区別がついたわけじゃないんです」
照屋は真顔になった。「それでも一緒にきてほしいんだよ。私だけでは、偽札をまのあたりにしたときに、どうにも判断がつかないので」
「......どういうことですか? 工場の捜査に踏みきるのなら、署から大勢の捜査員だとか、鑑識の人たちが来るでしょう」
「それが」照屋はまた額の汗をぬぐった。「お恥ずかしい話、石垣の八重山警察署とは連絡がとれんのですよ。きのうから電話がつながらないのは知ってのとおり、無線も機能しないありさまで」
「じゃあ、船で渡って直接知らせにいくしかないですね」
「そうなんだけどね、フェリーもないし、署のほうに船舶を要請する手段もない。それに署に申し立てるにも、私がこの目でしっかりと現認してからでないと、取り合ってもらえない可能性が高いんですよ。いまじゃ警察も人手不足で、てんてこ舞いなんで」
「竹富島の工場に立ち寄ってから、石垣の署にいくってことですね」
「その通り」と照屋は首を縦に振った。
優那は不満そうに告げた。「待ってよ。お母さんは賛成できない。莉子をそんな危ないところに連れてくなんて」
照屋は母親の反応を予期していたらしく、表情ひとつ変えなかった。「ご心配には及びませんよ。令状があるわけじゃないんだし、工場に足を踏みいれることはできません、瑞慶覧さんと同じように、遠くから観察するだけです。決して莉子ちゃんを危険な目になんかあわせません。ただ、偽札事件は深刻な問題です。一日も早く解決しないと」
盛昌が立ちあがった。「そういうことなら、早いほうがいいだろ。陽があるうちに、朝英に船をださせよう」
優那が咎めるようにいった。「お父さん」
莉子は母に微笑んでみせた。「心配しないで、お母さん。わたしならだいじょうぶ。五年も独り暮らしをしてきたんだし」
「だけど......」優那は声を詰まらせた。
泣きだしそうな顔の母を、莉子は抱き寄せた。「だいじょうぶだってば。暗くなる前に帰ってくるから。どれだけ役に立てるかわからないけど、駐在さんに適切な助言ができるように頑張ってくる。わたし、東京にもおまわりさんの知り合いがいるんだよ?」
本当は、母を不安にさせたくはない。それでも、偽札事件は捨て置けない。
工芸官の藤堂が沖縄にいた事実もある。ここからすべての謎が切り崩されることも充分にありうる。
今のままでは、島民に未来はない。渇水の問題どころか、経済が破たんした国もろとも沈没の憂き目にあうだろう。これ以上誰も悲しませたくない。わたしにできることがあるなら、躊躇する理由はない。
思いをこめて母を見つめた。
「莉子......」優那はささやいて、視線を落とした。
それっきり、母は何もいわなかった。
「よし!」盛昌がサンダルをはいて庭に飛びだした。「漁師たちから燃料分けてもらおう。島をあげて応援しなきゃな。莉子、話は俺がつけてやる。ついてこい」
莉子は歩きだした。門をでる前に母を振りかえる。
気をつけて。母の目がそう訴えていた。
莉子はうなずき、笑顔をつとめた。それから踵をかえし、何が待ち受けるやも知れない冒険に歩を踏みだしていった。
竹富島
父の盛昌は集落をかけずりまわって漁師たちと交渉したが、分けてもらえる燃料は充分ではないようだった。無理をすればなんとか竹富島経由で石垣島にたどり着ける、そんなぎりぎりの量でしかないという。
結局、船の舵を握る朝英と、照屋巡査長、そして莉子だけが小さな漁船に乗りこむことになった。乗員が少なければそれだけ軽く、燃料の消費も抑えられるというのが理由だった。
午後二時すぎ、莉子は漁船の甲板に立ち、見送りに集まった住民たちに手を振った。父は笑顔だったが、母はやはり心配そうしている。莉子は笑顔をつとめた。
船がゆっくりと動きだす。桟橋には人が鈴なりになっていて、誰もがこちらに手を振っていた。島じゅうの住民が集まってきたらしい。万歳三唱の声もきこえる。
莉子の隣りに立つ照屋巡査長が苦笑しながらいった。まるで戦艦大和の出陣だな。
朝英の話では、ここ数日は船舶無線局がろくに機能しておらず、よって無線は頼りにならないので、自分の目で航路をしめすブイを確認しながら竹富島をめざすということだった。大型船舶の国際VHF無線は健在だから、タンカーやコンテナ船はこちらにお構いなしに進入してくるらしい。それらとぶつからないよう、絶えず注意が必要さ。朝英はそういった。
沖にでると高波に船首は激しく上下したが、島に生まれ育った莉子は船酔いに悩まされることはなかった。きょうもフェリーが見当たらない。静けさに包まれた海原を眺めて、ただそう感じるだけだった。
一時間ほど経過したころ、船の速度が弱まった。朝英が前方を指さしている。
竹富島が眼前に追っていた。全体が隆起珊瑚礁でできた平坦な島。緑に覆われているが、波照間島とは印象が違う。八重山諸島はどこもそれぞれ特色がある。島民なら一見してその区別がつく。
こんな航路で竹富島に接近するのは初めてだ。見たことのない景色だった。海に張りだした珊瑚の岩の上に、箱状のコンクリートの建物がいくつか存在している。
照屋がつぶやいた。「あっちが星砂の浜か。ってことは、ここが島の南端かぁ」
船のエンジン音がやんだ。島まではまだ距離があるが、船体は洋上で静止した。
朝英がキャビンから甲板にでてきた。「浅くなってるから、この先は近づけんね。海苔の養殖もあるし」
緑地の見える範囲には、大きな建造物がふたつあった。ひとつはトタン板に覆われた長屋で、(株)竹富エビ産業と看板が掲げられている。平らな地面に養殖池が広がっているのがわかる。
もうひとつはコンクリの建物で、かまぼこ形のドーム天井を持つ工場棟がふたつ並んでいた。手前のスライド式扉は開いていて、一台のトラックが停まっている。いまのところ、ひとけはない。
照屋は、朝英が差しだした双眼鏡を受け取った。それを覗きながらささやく。「瑞慶覧さんがいってたのは、あの建物だな」
莉子はきいた。「怪しい物、なにか見える? 札束だとか」
「いや......。もぬけの殻かも。莉子ちゃんも見てみるか」
双眼鏡を受け取り、莉子は建物を拡大して観察した。
看板もないし、ダンボール箱や木箱が搬出されるようすもない。外壁は古くなっていて、空き工場にも思える。
ところがそのとき、ふいに戸口にひとりの男が姿を現した。
黒い開襟シャツを着たひげ面の男。痩せていて、頬骨が張りだしているのがわかる。鋭い目つきで辺りに視線を配ると、扉を横に滑らせて開け放った。
莉子は思わず声をあげて、双眼鏡を取り落としそうになった。
照屋がいった。「おい。あれ、人じゃないか?」
「ええ、そうよ」莉子はつぶやいた。「それに、工場のなかに......」
妙な機械がある。莉子はふたたび双眼鏡を覗きこんだ。
輪転機と枚葉機の中間のような、古風で大型の印刷機。オフセット印刷に必要な複数のロールらしきものが見てとれる。いまは稼働していないようだが、紙に印刷するシステムである可能性は高い。
もっとよく見ようとズームアップしたとき、ひげ面の男が視界に割って入ってきて、こちらをにらみつけてきた。
莉子はびくついて、膝から崩れ落ちそうになった。
照屋が莉子の身体を支えた。「どうしたんだ」
「やばいって」莉子はあわてていった。「こっち見てる。気づかれた」
「落ち着いて。ただの漁船としか思われてないよ」
「......制服のおまわりさんが乗ってるのに?」
沈黙が下りてきた。照屋の顔にはまだ笑いがとどまっていたが、すぐに自分がどんな服装かを思いだしたらしい。
今度は照屋が焦燥に駆られたようすで、朝英の肩をつかんだ。「すぐだしてください」
朝英は戸惑いがちに応じた。「いいけど、どこへ? もう石垣へ向かっていいの?」
「いや......それは困ります。竹富港にまわってください。島に上陸します」
莉子は不安とともに声をかけた。「駐在さん......」
「だいじょうぶですって」そういった照屋の額にも無数の汗が湧きだしていた。「私も警察官ですから、むやみに私有地に立ちいったりはしません。役場に寄って案内を頼んで、事情をきくだけです」
朝英が頭を掻いた。「でもさ、駐在さん。工場の借主なんて、警察だったら判るでしょう? 署できけば早いんじゃないの?」
「もちろんききますよ。だけどいまは、工場とその周辺のようすをしっかり観察しておかないと。署に報告するにも、知り得る限りの情報を集めておかなきゃいかんのです。さあ、早く船を港に」
わかったさ。朝英はひとり緊張を感じていないらしく、ぶらりとキャビンに入っていった。
エンジンが始動し、小刻みな揺れが身体につたわってくる。
莉子は島を見つめていた。ひげ面の男はたたずんだままだ。まだ視線をこちらに向けているだろうか。わからない。双眼鏡を覗く勇気がない。
船がゆっくりと動きだした。いったん沖にでるらしい。視界にあったものすべてが、徐々に小さくなっていく。
男の姿が、工場のなかに消えていく。ようやく莉子は安堵のため息をついた。
それでも、なおも身体の震えはとまらなかった。
警察の捜査の手が伸びたのを感じ、彼らが行方をくらますのはまずい。けれども、わたしたちが乗りこんだところで、逃亡を阻止できるだろうか。あの男ひとりきりとは限らない。わたしは、国家をも揺るがす魔手のなかに飛びこもうとしている......。
印刷機
竹富港のフェリー用浮き桟橋は閑散としていて、観光客はもちろん島民の姿もない。ただウミネコの鳴き声が不気味にこだまするだけだった。
漁船が横付けされるとき、莉子は生きた心地がしなかった。
島にあがるなんて。たったいま、犯人グループのひとりとおぼしき男に睨まれたばかりなのに。あの距離でも、制服姿の照屋を含む三人を要注意人物とみなすことはできただろう。同じ服装の三人を島内で見かけたら、それは彼らにとって緊急事態以外のなにものでもあるまい。
このまま船に留まっていたいという思いが胸をかすめる。しかし照屋巡査長も朝英も、さっさと船を下りてしまった。
仕方がない。わたしは偽札事件の手がかりを追って、遠路はるばる里帰りした身だ。怯えてばかりでは話にならない。多少の危険は覚悟のうえだ。
それでも、下船の際に照屋が差し伸べた手を握ったとき、腰がひけそうになった。膝の震えがとまらない。
照屋はこわばった顔でつぶやいた。「そんなに怖がらなくてもいいよ。私が一緒だから」
まったく心が安らがない。莉子はいった。「駐在さん。......てのひらにすっごく汗かいてません?」
「そりゃ......私も人間だからね。ははは」照屋の乾いた笑いが、無人の港に虚しくこだました。
いっそうの不安を募らせながら、莉子は照屋に寄り添うようにして歩きだした。ただひとり、朝英だけは相変わらず恐怖を微塵も感じていないようすで、飄々とした足どりで進みつづける。
どうしてあんなに堂々としていられるのだろう。なにが起きてもおかしくない状況なのに。
三人は島の中央部にある集落をめざし、サトウキビ畑沿いの道を歩いていった。島の周囲は九キロ、人口も波照間島より少ない三百五十人ていどだが、以前は石垣島に近いこともあって観光客がひっきりなしに訪れていた。いまはまるで無人島のようだ。農業にも精がでないのか、畑が荒れだしている。
集落に至るまでの数百メートル、わずか数分の徒歩の旅が果てしなく長い道のりに感じられる。交番はもちろん、駐在所も存在しないこの島で、ふいに犯罪者たちに襲われたらひとたまりもない。
自分でも意識しないうちに、照屋巡査長にぴったりと身を寄せていたらしい。照屋が困惑ぎみにいった。「あのう、莉子ちゃん。若くて綺麗な女の人に接近されるのは喜ばしいけどね、ちょっと歩きにくいさー」
「ああ......ごめんなさい。......駐在さんって、拳銃撃てるの?」
「いちおう持ってはいるけどねえ」照屋は腰のホルスターを力なげに叩いた。「射撃訓練をサボってるんで......。まあ威嚇ぐらいはできると思うけど」
ますます不安を掻き立てられる物言いだった。思わず港に引き返したくなるが、来た道をひとりで戻るのも怖い。気が進まない。
ようやく赤瓦の屋根が連なる集落が見えてきた。
そこは、木造平屋建ての民家ばかりが建ち並ぶ、未舗装にして白砂が敷き詰められた路地の入り組む住宅地だった。沖縄本来の景観ともいえる。貝を積みあげて固めた低い塀が道沿いに伸びる。
留守にしている住民が多いのか、塀のなかにも人影は見当たらない。集落の中央部に見える高さ四メートルの展望塔、通称〝なごみの塔〟をめざして歩いた。実際には階段が急すぎて、登ったはいいが下りられなくなる観光客が続出する、まるでなごまない塔。いまは寄りつく人もいないようすだった。
なごみの塔のすぐ近く、軒先に赤いポストがある平屋は、この島の役場だった。照屋が引き戸を開けて、なかを覗きこむ。「すみません」
事務机がいくつか並んだ室内に、ひとりだけ職員がいた。白髪頭、小柄で痩せた男が駆けだしてくる。ワイシャツは襟もとを開けていた。老眼鏡で目が異様に拡大して見える。
「なんでしょうか」と職員がきいた。
「ちょっとお尋ねします」と照屋は制帽を脱いだ。「南の商業地区の、竹富エビ産業さんの隣りね。なんの工場かわかりますか」
「ええと......。ああ、屋多磨工業さんですか」
「屋多磨。どんな会社です?」
「さあねえ。葬儀用品を作る工場だとか、そんなふうに申請されてましたな。三か月ほど前に契約されたばかりですよ」
......葬儀用品。
さっき船から見た印象とはまるで異なる業種だ。あの立派な印刷機らしきものが、葬式の御礼状や諸記録帳をつくるためだけに存在しているとは、とうてい思えない。
照屋が職員にきいた。「工場を拝見できますかね。なかに入らなくてもいいけど、近くで」
「そりゃできますけど、こんなご時世だから誰もいないかもしれませんよ」
「いや。人がいたのは確認してるんです」
職員は眉間に皺を寄せた。妙な依頼だと思ったのだろう。しかし、警官にわざわざ逆らうつもりは毛頭ないらしい。職員は外にでて歩きだした。「こちらへどうぞ」
役場のはす向かいは、建物のない広場になっていた。そこに水牛がたくさん寝そべっている。一頭だけ起きていて、十人ほどが乗れる牛車につながれていた。
「頼むよ」職員は、牛車の前にいた若い男に告げた。「屋多磨工業さんの工場まで」
水牛車でいくのか。なんて無防備な。莉子は足がすくむ思いだった。
朝英がこちらを見た。「顔いろ悪いね。役場で休んでたら?」
「いえ......。いいんです。だいじょうぶですから」
わたしがここに連れてこられたのは、偽札が否かを見極めるためだ。怪しむべき工場に同行しなくては、なんの意味もない。
でも怖い......。冷や汗をかきながら、莉子は水牛車に乗りこんだ。
照屋と朝英、それに役場の職員を乗せて、水牛車は動きだした。
まさしく徒歩と変わらない速度。それも壁はなく、まるで無防備だった。急襲されたらどうにもならない。
そんな状況だというのに、照屋は外に背を向けた状態で座り、のんきに職員に問いかけていた。「屋多磨工業さんで働いてる島民のかたは?」
「さてね」職員は首をかしげた。「従業員はみんな石垣から渡ってくるって話だったような。工場に泊まりこむのも原則禁止ですけど、守ってるかどうかはよくわかりませんね」
「すると工場は特に監視するわけでもなく、ほったらかしですか」
「ええ。駐在さんもいないんでね。おまわりさん、どこからおいでになったんですか。石垣ですか?」
「......まあ、ちょっと、ほかの島から......」
「ちょうどよかった。雑貨屋がシャンプーを一本七千円だといいだしたんで、おまわりさんから説得してもらえませんか。内地の真似なんかするなってね。それと、ガソリンスタンドがずっと休業状態で困る。こうして町の外まで牛車をだしているのも、ガソリンが手に入らないからなんですよ」
八重山の島民ならではののんびりとした会話と、高まる緊張感のギャップについていけない。莉子はめまいを起こしそうだった。
水牛車は狭い路地の角でも、器用に内輪差を考慮した動きで曲がっていく。町を離れると、広大な牧場のなかに伸びる道をゆっくりと進んでいった。
集落の南側。草地に放牧された牛だけが点在している。やはり辺りにひとけはない。
照屋が職員にたずねた。「住民の姿があまり見られないようですが」
「そうなんですよ」職員は困り果てた顔をした。「物資がまるで入ってこないんで、みんな石垣に渡っちゃってるんです。私の妻も子供を連れて、石垣の親戚の家にいってましてね。この島じゃ夜も停電しがちだから、仕方がないんですが」
やがて前方の丘に、金網のフェンスが見えてきた。フェンスの一部はゲートになっていて、開放されている。
職員がいった。「ここから先は業者以外、立ち入り禁止なんですけどね。ま、あまり堅苦しいことはいいませんけど」
ゲートの手前で下りるべきでは。莉子は進言したかったが、言葉を発することすら難しかった。緊張で全身が硬直している。声を発したら悲鳴になってしまいそうだ。
水牛車はゲートを抜けて、商業地帯を進んでいく。海が見えてきた。岩場が広がっている。島の南端に達しつつある。
しばらくして、エビの養殖池が視界に入ってきた。ここも無人のまま休業状態らしい。池の水が濁ったまま放置されている。近くに建つ密閉型の建造物、あれが冷凍施設か。屋上の室外機は稼働していないようだ。いまはなにも貯蔵していないのかもしれない。
ウミネコの声と、風に揺れる枝葉の音だけが響くなか、ついに行く手に、あのかまぼこ形の工場二棟が見えてきた。
トラックはまだ駐車したままだ。スライド式の扉も半開きになっている。
すると、トラックの陰から、ひとりの男が姿を現した。黒の開襟シャツ。あの目つきの鋭い、ひげ面の男だった。
男はこちらに目もくれず、台車を工場の扉に押していく。その台車の上にある物を見たとき、莉子は息が詰まりそうだった。
紙幣ほどの大きさの紙が山ほど積みあげられている。数百枚、いや数千枚はあるだろうか。それぞれはオビで束ねられて、まさしくこれから印刷され一万円札になろうとする、その原材料に違いなかった。
台車は扉のなかに運びこまれていった。トラックの周辺には、ほかに人はいないようすだ。
照屋が告げた。「停めてください」
水牛車はトラックから少し離れた場所で静止した。
緊張の面持ちの照屋が、水牛車を飛び降りた。「事情を聞いてきます。待っててください」
莉子は呼びとめようとしたが、言葉が声にならない。照屋は工場の扉に向かっていく。心拍が速まり、胸が張り裂けそうだった。莉子は固唾を呑んで、照屋の背を見送った。
照屋が扉のなかに消えた、そのときだった。
「バン!」
心臓が喉もとまで飛びあがるほどの驚きだった。莉子は思わずのけぞった。
だがその直後、朝英の笑い声が響いてきた。
銃声の口真似は、朝英が発したものだった。事情を知らないだろう職員も笑っている。
朝英がいった。「怖がりだねぇ、莉子ちゃんは」
「......な」莉子は震える自分の声をきいた。「なんてことするんですか。もっと真剣になってください。この工場は......」
そのとき、照屋が扉から姿を現した。
照屋は妙にのんびりした声で告げてきた。「莉子ちゃん、みなさん。おいでください。お金が作らされてましたよ」
莉子は呆然として、工場の前にたたずむ照屋を見つめた。
ことの重大さに反比例した、妙にのんきな物言い。ひょっとして、あまりの緊張と恐怖のせいで......。
もう待ってはいられない。莉子は水牛車を飛び降り、工場に向かって走った。ぬかるんだ地面を蹴って走る。
行く手になにが待ち受けているかわからない。それでも真実をこの目でたしかめたかった。照屋のわきをすり抜け、扉のなかに飛びこんだ。
男と目が合った。ひげ面のその男は、大きな印刷機の前に立っていた。工場の内部のほとんどを占めるのは、積みあげられたダンボール箱だった。そして、箱のうちのひとつは開けられて、男の足元に置かれていた。
なかを覗きこんだ瞬間、莉子は気が遠のきそうな衝撃を受けた。
電話
工場棟の内部の一画にある、事務スペースに据えられた接客用テーブルで、莉子は身を固くして座っていた。
照屋巡査長や朝英、役場の職員らも、揃って椅子に腰かけていたが、誰もがすっかりくつろいだようすだった。談笑しながら、だされた茶をすすっている。
職員はにこやかにいった。「しかし赤嶺さん。世のなかが大変なときだというのに、よくまた島に居残って働く気になりますね」
赤嶺というのは、あのひげ面、黒い開襟シャツの男だった。赤嶺は目を細め、木製のボウルを手にして棚から戻ってきた。「お互いさまでしょう。職員さんも毎日、お勤めご苦労さんじゃないですか」
「私はほかにやることもないから......。ほかの従業員さんは?」
「見てのとおり、工場そのものは休業してますんで。経営者としては、ドルでなんとか食いつなげるうちに、やれることはやっておこうかと。で、トラックに詰みっぱなしだった用紙を下ろしてたところで」赤嶺はそういって、ボウルを莉子の前に置いた。「食べる?」
ボウルにはサーターアンダギーが山盛りになっていた。
真っ先に手を伸ばしたのは照屋だった。いただきます、と一個をつまみとって口にいれ、頬張った。「ま、問題ない施設だったってことで、この島の今後も安泰ですな」
朝英はふんと鼻を鳴らした。「俺はこんなことだと思ってたよ」
心外だと莉子は思った。「それなら、そうといってくれればいいのに」
「いや」朝英は苦笑しながらも、ややあわてぎみにいった。「もとはといえば、駐在さんがマジになって莉子ちゃんを巻きこんだんだろ。なにもかも駐在さんのせいだよ」
照屋は笑った。「面目ない。だけど、それをいうなら私じゃなく瑞慶覧さんの言い方が悪かったんだよ。お金を刷ってる工場が竹富にあるなんて話をするから」
役場の職員も白い歯をみせた。「なるほどね、いったいどうして工場を見たいなんておっしゃるかと思ったら、そういうことでしたか」
赤嶺も穏やかにいった。「まあまあ、みなさん。こんな状況じゃ無理もありませんよ。ただ、問題視されるなんて夢にも思わなかったさー。葬儀用品の製造販売っていう届け出は役場にだしてあるんだし」
一同が楽しげに笑うなか、莉子は物憂げな気分で、足もとのダンボール箱の中身を見おろした。
そこに入っていたのは、製造済みの紙幣だった。とはいえ、この世の通貨ではない。
地元ではお馴染みの、来世のお金。すなわち打ち紙だった。
清明祭や旧盆のウークイに燃やして、あの世にいる祖先に届ける札束。藁が主原料になっていて、燃えやすい。製造工程は印刷ではなく、黄土色の紙に銭型を打ちつけるだけのものだ。あの印刷機に見えた設備は、打刻するためのプレス機だった。
ウチカビは、沖縄の葬儀店ならどこでも扱っている商品だった。実際、莉子の実家でも仏壇の引き出しのなかに、山ほど溜めこんである。
子供のころから慣れ親しんでいる地元の風習、それに葬儀用品の会社という情報を得ていながら、真相に気づかなかったなんて。こんなに情けないことはない。
朝英が椅子の背に身をあずけた。「でもさ、瑞慶覧さんもどういうつもりだったのかね。あの歳で呑んだくれであっても、巷の偽札騒ぎぐらいは知ってるんだろ」
照屋が苦い顔をした。「悪戯のつもりだったかもしれんし、単に耄碌してて見たままを口にしただけかもしれんさ。お金の工場、といっただけだからね。おかしいと思うべきだったよ」
照屋は通報を受けて、わたしのところに意見を聞きにきた。本来なら、わたしが真実に気づいてしかるべきだった。
たくさんの本を読んで、幅広い知識を身につけたつもりになっていても、やはりわたしは単純だった。子供のころから思考力や判断力を育ててきた世の大人たちとは違う。目先のことに翻弄され、だまされ、信じきっていた。この島にきてからというもの、わたしはただ怯えて震えることしかできなかった。
情けなさと悔しさで、涙がにじんできた。莉子は泣きだしていた。
赤嶺があわてたようすでいった。「おいおい、弱ったな。俺が悪かったよ。こんな時期に不審な行動をとるべきじゃなかった。ごめんよ」
犯罪者とみなしていた男性が謙虚に頭をさげてくる始末。わたしはいったい何をやっているのだろう。これでは周囲に迷惑をかけどおしではないか。
そのとき、けたたましくベルが鳴った。いったん途切れ、また同じペースで鳴りだす。電話の呼びだし音だった。
「ちょっと失礼」赤嶺が席を離れて、事務デスクに向かう。
嗚っているのは昔懐かしいダイヤル式の黒電話だった。赤嶺は受話器を取りあげて応じた。はい、屋多磨工業竹富工場です。ああ、本社のほうの。おひさしぶり。いや、従業員はいま全員休みをとってますが......。
照屋が眉をひそめた。「この島じゃ電話が通じてるのか?」
役場の職員がサーターアンダギーをかじりながらいった。「ここだけですよ。NTTはスト状態なんでね、一般家庭はどこも通じません」
「へえ。なぜここの電話は生きてるんです?」
「ここと隣りの竹富エビ産業さんの用地は、以前はひとつの会社で、食料品業者でね。もともと竹富鳥は米軍の上陸もなくて、軍人さんや出稼ぎの労働者が帰還したころには二千人の大所帯になってた。で、食糧が足らんということで、米軍の資本で会社が作られたんです。そのころの名残りで、短波帯多重無線による電話が引かれてましてね。NTTじゃなく米軍の回線なんで、まだつながるんです」
「石垣の署に連絡できますかね」
「いやー、前はNTTにもつながったんですけどね。いまは相手も同じ回線の電話じゃないとね」
短波帯多重無線による電話といえば、たしか......。
莉子ははっとした。そうだ。あの黒電話は、おばあの家にもあった。
立ちあがって事務デスクに駆け寄る。赤嶺は会話を終え、受話器を置いたところだった。
「すみません」莉子は赤嶺にいった。「いまの電話は......」
「ああ、石垣の本社からだよ。向こうの社屋も昔は米軍施設だったからね、無料でつながるのはありがたいよ」
おばあの家の電話代は無料だと、父がいっていた。莉子はきいた。「八重山運送にも電話できますか?」
「八重山運送......。同じ回線を使ってりゃ、かかると思うよ」
「お借りしていいですか」
どうぞ、と差しだされた受話器を受けとって、莉子はダイヤルを回しはじめた。
かけるのは会社の番号ではない。おばあは長年、経営に参加していて、自宅にも同じ回線をひいていた。それならいまでも電話は生きているはずだ。
ダイヤルを回し終えてしばらく待つ。呼び出し音がきこえてきた。
じりじりとした気分で待つこと数十秒、あるいは数秒だったかもしれないが、莉子にとって果てしなく長く感じられた時間を経て、ようやくしわがれた男の声が応じた。「凜田ですが」
おじいの声だった。「わたし。莉子。おばあいる?」
はいはい。おじいは瓢々と応じた。小さく呼ぶ声がきこえる。おい、莉子から電話さー。
やがて、おばあの声が告げてきた。「もしもし。莉子?」
「おばあ」莉子は心から安堵した。「よかった。つながった」
向こうも同じ気持ちらしい。おばあの声はため息まじりにいった。「やっと連絡がついたねぇ。波照間の家に電話しても、ちっともでないから。いつも話し中で」
「それは話し中じゃなくて、回線接続が無効だからよ」
「あー、そうだったね。うちは別の回線使ってたんだった。忘れてたさー」
「ねえ、何日か前に頼んだことだけど......」
「なんだっけ、ああ、エアコンの室外機の引っ越し記録だったねぇ。ちゃんと会社の人たちに調べてもらったさー。で、その結果をつたえようと思ったんだけど、電話つながらなかったんでね」
のんきな会話が、いまだけはひどくまだるっこしい。莉子は急かした。「で、記録はどうだったの? あった?」
「それがね。あんたのいうダイキンの塩害対策の室外機ってのを、こっちで外してどこかに届けたって例は、一件もなかったさ。東京ばかりじゃなくて、内地のどこにも配送した記録はないんだよ」
大きな失意と落胆が襲ってきた。莉子はまた泣きそうになった。
おばあがつづけた。「あと、あんたのいってた、ええと、藤堂さんだっけ。そういう名前の人も、扱った記録はないねえ」
「......たしかなの?」
「そりゃ、たしかさぁ。わたしのいちばん信用のおける社員さんたちに調べてもらってるからね」
すると、藤堂は転出時に、ほかの引っ越し業者の世話になったのだろう。あるいは知り合いに電気工事の専門家がいて、個人的に発注したのかもしれない。
なんにせよ、記録がなければ藤堂の足どりを追うことはできない。
絶望感にうちひしがれそうになったとき、おばあの声が告げてきた。「莉子。盛昌の話だと、あんた偽札犯人を捜してるんだって? 偉いねえ。東京にでると心構えが違うね」
「そうでもないよ......。いまも失敗したばかりだし」
「沖縄に犯人がいるの? 西表島のおかしな兄弟とかも関係ある?」
初耳だった。莉子はたずねかえした。「西表島? おかしな兄弟って?」
すると、赤嶺が口をはさんできた。「ああ。噂になってる引き籠もりのふたりだろ。謝花兄弟だっけ」
役場職員もうなずいた。「このあいだ、うちに物資を届けにきた船便の船長さんがいってたなぁ。船浮集落に下宿してるっていう、陰気な男たちだね。偽札作ってんじゃないかって、島民がみんな気味悪がってるっていう。私も、謝花って苗字だけは聞いた」
照屋が困惑顔でたずねた。「そんなに有名な話なんですか」
朝英も首を横に振った。「俺もきいたことないけど」
いまとなっては船の往来もほとんどない波照間島は、やはり情報に疎い地域のようだった。石垣島から竹富島、西表島は距離も近く緊密だ。莉子たちの知りえなかったことが、もはや常識になっていてもふしぎではない。
赤嶺がいった。「紙と画材を大量に運びこんで、部屋に閉じこもったきりでてこないってさ。隣人と口もきかないし、どうやって食ってるんだか見当もつかない。だからみんな、偽札犯人呼ばわりしてる」
電話の向こうのおばあも、会話をききつけたらしい。神妙な声でいった。「西表に住んでる津波古って人にきいたけど、絶対に怪しいって。何年か前から郵便局に、せっせと小包を運んでたらしくてね。津波古さんは郵便局に勤めてたから、送り先も確認できたって。東京に送ってたらしいよ。中身はなんですか、とたずねたら、紙としかいわないんだって。四角くて、分厚くて、いまにして思えば偽札がぎっしり入ってた可能性もあるってさー」
はぁ。思わずため息が漏れる。
不審な人物の不審な行動が人の目をひき、偽札犯人の噂が広まる。閉鎖的な村社会ならではの出来事だった。信ぴょう性も疑わざるをえない。たったいま、わたし自身が思いこみのせいで過ちを犯してしまったばかりだし......。
それでも、八重山諸島に育った莉子は、この噂を一蹴できないと感じていた。
島に下宿は多いが、国内のほかの地域とは違って、八重山に住む下宿人や間借り人はたいてい周囲に溶けこもうとする意思をしめす。海や山に頻繁にでかけることも多い。もし引き籠もるためだけなら、この辺りの島々は島民に対する制約が多すぎるためわずらわしいはずだ。都会を避けたいがために離島暮らしを選んだとしても、沖縄ではなく奄美諸島のほうが物がたくさんあるし、家賃も安かったろう。
謝花という苗字は沖縄人に多い。島民でないとすると、下宿している理由は何だろうか。
西表島の船浮集落の人口はたった五十人、住民の結束がひときわ高いことで知られている。集団の和がなによりたいせつにされる地域だ。わざわざそこに住んで孤立しながら暮らすとは、どういう了簡だろう。
人目を引きやすい状況ゆえに、犯人ではありえないのか。それとも、この噂こそが犯人の存在をしめす手がかりなのか。
自信を喪失した直後だけに気がひける。でも、真実はたしかめたい。藤堂の引っ越しの記録もなければ、この竹富島の工場の件も思いすごしでしかなかった。とあれば、いまはほかにたどるべき糸口がない。
「おばあ」莉子はきいた。「その謝花兄弟って、船浮集落のどこに下宿してるの?」
「さあね。細かいことはよく知らないから、津波古さんにきいたら? いまは郵便局どころじゃないから、浦内川の下流でトゥモールっていう店を手伝ってるってさ。食糧とか支援物資がそこに届くから、島民に分配してるんだって」
「わかった。いろいろありがとう」
「莉子。あんまり危険なこと、しちゃ駄目だよ。どこに行くにも、なるべくおまわりさんに付き添ってもらうんだよ」
思わず照星に目がいく。照屋はサーターアンダギーをかじり、茶をすすっていた。
心にもやを感じながら、莉子はおばあに告げた。「そうする。じゃ、またね」
受話器を置くと、莉子は照屋を見つめた。
照星は視線を感じたらしく、サーターアンダギーを頬張りながらこちらを見た。「なにか?」
「......石垣に行く前に、西表島に寄りたいんですけど」
「いや」照星は立ちあがり、制服におちた砂糖を手で払い落とした。「この工場が問題なかった以上、わざわざ署に報告にいくまでもありませんな。波照間島に戻ります」
「帰る前に西表の白浜港に寄港してほしいんです。時間はとらせません」
「だめだよ、莉子ちゃん」照屋は制帽をかぶった。「私は波照間の駐在だから、用が済んだらさっさと戻らないと。それに、莉子ちゃんをこれ以上連れまわしたら、ご両親にどやされるからね。朝英さん。船をだしてください」
「はいよ」朝英はうなずいて立ちあがり、工場の外にでていった。
役場の職員と連れだって、照屋が扉をくぐっていく。照屋の声の響きは、晴れ晴れとしたものだった。水牛車は乗りごこちいいですが、時間がかかりますなぁ。早くいかないと港に着くころには陽が傾いてきそうだ。
莉子はその場に立ちつくした。
彼らが正しいのだろうか。いまとなっては、噂話などをまともに受け取るほうが馬鹿げているようにも思えてくる。照屋や朝英もそういう気分なのだろう。
でも......。ほんのわずかな可能性も捨てきれない。それも真理ではないのか。
悩んでいる莉子の肩を、赤嶺がぽんと叩いた。
赤嶺がいった。「西表島なら、屋根の修理やってる知り合いが船で往復してるよ。頼んでやろうか?」
莉子は赤嶺を見つめた。真顔で見かえす赤嶺の瞳に、自分の顔が映りこんでいた。
名刺
夕暮れの都心は、ひどく薄気味悪かった。営業している企業や店舗も激減し、人の姿をあまり見かけないからだ。クルマの通らない車道に降り立つのは、カラスばかりだった。静寂のなかにその鳴き声がこだまする。
しかし、そんなカラスたちさえもやがては住処を変えていくだろう。ゴミをあさったところで食べ物はでてこない。飲食店がかならず供給してくれた彼らの餌は、もはや途絶えている。
小笠原悠斗は、ひとけのない神楽坂に歩を進めた。往来のない歩道には、長く伸びた自分の影だけがおちている。
あの南極の映像は強烈だった。テレビではその真偽が取り沙汰されていたが、大衆にとってはDVDの撮影場所がどこかは関係なかった。偽札がまだ大量に存在するという事実をまざまざと見せつけられただけでも、人々が震えあがるには充分だった。神楽坂にも深い爪痕を残していた。シャッターが開いている店は一軒もない。あの料理教室がおこなわれたテナントも借り手がつかないらしく、未入居のままだった。
その二階に目を向ける。工芸官の藤堂が住んでいた部屋。例の室外機はそのままになっていた。黄色いテープは取り払われている。家宅捜索は終わったようだ。
警察はなにか手がかりを得ただろうか。押収物をすべて隠さずに見せてほしい。写真だけでも撮っておけば、凜田莉子がそれらを観察し、なんらかの事実を引きだすかもしれない。
俺も彼女のやり方を間近で見た男だ。現場をあらためて眺め渡すことで、新たな発見を得る可能性もある。そう思ってここに足を運んだ。
しかし、やはり徒労のようだ。マンションのバルコニーを見あげていても、なにもわからない。ただカラスの声を聞きにきたようなものだ。
仕方がない、帰るか。そう思って視線をさげたとき、すぐ近くに男が立っているのに気づいた。
スーツ姿、三十歳前後の痩せた男は、小笠原と同じようにマンションを見あげていた。
生真面目そうな横顔が、視線に気づいたようにこちらを見る。男はふいに立ち去りかけた。小笠原に背を向けて、足ばやに遠ざかっていく。
反射的に小笠原は声をかけた。「すみません。ちょっと」
だが男は足をとめなかった。呼びかけられたのはわかっているはずだ。この静寂のなか、辺りにはほかに誰もいないのだから。
小笠原は駆けていって、男の前にまわりこんだ。
「すみません」と小笠原は男にいった。
行く手をふさぐと、男は苦い顔で立ちどまった。「なんです?」
こういう場合、自己紹介がものをいう。小笠原は名刺を差しだした。「『週刊角川』記者の小笠原といいます」
実際には休刊中だが、かまわない。取材をにおわせれば、とりあえず誰にでも話をきく理由づけにはなる。
男はいっそう戸惑いを深めたようだった。「何か......?」
「神楽坂には、どんな用事で?」
「いや。べつに......。不動産業なんで、建物を見てまわるのは仕事で」
また不動産か。公安との関わりはなさそうだ。こんなに腰がひけている男を、警察は内偵に使ったりはしないだろう。
小笠原はきいた。「どんな不動産屋さんなんですか?」
「な、梨間不動産......」
「ああ。電車の車内づり広告でよく見かけます。失礼ですが、お名刺をいただけませんか」
男は当惑を深めたようだったが、やがて懐に手をいれ、名刺いれを取りだした。
差しだされた名刺には、たしかに梨間不動産と記載されていた。営業管理部、杉山彰人。
「ふうん」小笠原は杉山を見つめた。「こんな状況なのに仕事熱心ですね。不動産も買い手がつかなくて大変でしょう」
「国内のお客様はそうですけど、外貨でのバイヤーは多くおられまして......」
「ああ。外国資本の進出ですか。まずいですよね。どんどん日本が乗っ取られちゃいますね」
小笠原が笑ってみせると、杉山もつきあいのような微笑を浮かべた。
「じゃ」杉山は歩きだした。「急ぎますんで、これで」
どうもありがとうございます。お気をつけて。小笠原はそういって見送った。
立ち去りながら、杉山は何度かこちらを気にする素振りをみせた。ときおり足をとめては、わずかに振りかえる。
その姿が角に消えていくと、小笠原は携帯電話を取りだした。
電話は通じなくなったが、グーグル携帯の場合はインターネットへの接続がまだ可能だった。液晶に表示された検索窓に入力する。梨間不動産従業者名簿一覧。
法律の改正で、宅地建物取引業は従業者名簿の公開が義務付けられている。記載漏れは違反になるため、全員の名が載せてあるはずだ。
名簿が表示される。五十音順を選んで名前を探した。
杉田、杉村はあった。しかし、杉山彰人の名はなかった。
業務別に切り替えて一覧を表示する。名刺にある通り、営業管理部のリストを開いた。
そこにも杉山の名はない。
小笠原は走りだした。杉山を名乗る男が立ち去った角に向かい、猛然と駆けていった。
逃がしてはならない。名刺まで作って偽名を使うからには、なにか理由がある。徹底的にマークせねば、そう小笠原は胸に刻んだ。人の消えた大都会、手がかりは二度と落ちてはいない。
西表島
東京に比べると、春であっても八重山地方の陽が傾くのはずいぶん遅い。赤道に近ければそれだけ太陽は高い位置にある。夕方五時を迎えてもまだ周りは明るく、空は青かった。
凜田莉子は西表島に流れる浦内川のほとりにいた。
沖縄県内で最長の河川は豊富な水量に恵まれ、対岸もはるか彼方だった。川岸から先は、亜熱帯の自然林が延々とつづいている。
景色は竹富島とも波照間島とも大きく違う。まさしくジャングルの奥地という風情が漂っていた。すぐ近くの港から舗装された道路沿いに数分歩いてきただけなのに、視界には橋以外の人工物がまったく存在しない。
けれども、この島には小学生のころから何度も足を運んでいる。川沿いの山道を下っていけばすぐに、観光用の施設があるはずだ。
集落から離れたこの一帯にはひとけはない。莉子はたったひとりで歩を進めていた。港まで送ってくれた赤嶺や、彼の知り合いの船長を連れてくるべきだったろうか。ふたりとも、よければ同行するといってくれた。だが莉子は、その申し出を断った。これ以上迷惑をかけたくないと思ったからだ。
よく考えてみれば、彼らと行動を共にするほうが、結果的に人の手をわずらわせずに済むかもしれない。わたしが自然林のなかで迷子になったら、島民が大勢で手分けをして捜索せねばならないだろう。このハイパーインフレの下、無償でボランティアを買ってでる頭数が揃えばの話だが。
いや。二十三にもなって道に迷うなど、もってのほかだ。しっかりせねば。
駐在の照屋や朝英も、この島に渡ろうとするわたしを引きとめようとした。わたしの身になにかあれば、彼らにも責任が及んでしまう。わたしはもう子供ではない。自分の面倒は自分でみる。そう肝に銘じねばならない。
行く手に小屋が見えてきた。たくさんのボートが係留してある。
ただし、状況は莉子が期待していたものではなかった。窓から見える小屋のなかに人影はなく、扉も閉ざされている。休業中の札がかかっていた。
ここも駄目かぁ......。下流の向こう岸にあるトゥモールという店にいくには、ボートが早いと思ったが、甘かったようだ。
ところがそのとき、小屋の裏手、数十隻のカヌーが立てかけてある一角に、貼り紙がしてあるのが目にとまった。
莉子は貼り紙に近づいた。手書きのメッセージがある。休業中はカヌーを自由にお使いください。日没前までには、元の場所に戻してください。そうあった。
店が閉まると通行が不便になることを、彼らは自覚していたのだろう。さいわいだった。ありがたく使わせてもらおう。
莉子は赤いろのポリエチレン製リバーカヤックを選び、川に浮かべた。ダブルブレードパドルを手にして、小さな船体のなかに両脚を滑りこませ、身を沈めておさまる。
川の流れは穏やかだった。背筋を伸ばし、フォワードストロークでカヤックを漕いで前進する。子供のころから慣れ親しんだ乗り物だけに、なんら危なげなく乗りこなせる。カヤックを傾けて逆側のブレードで水を掻き、岩場をぐるりとまわった。水が澄んでいるせいで隠れ岩もしっかり視認できる。
ほどなく、向こう岸に広大なマングローブ林が見えてきた。干潟を保ちつつ密生した無数の樹木。泥のなかで酸素が不足しがちになるせいで、呼吸根が地表に姿を見せ発達している。
仲間川よりこの浦内川のほうが秘境らしくて好ましい。かつてはそう思うていどだったが、いまではマングローブの種類も見ただけでわかる。オヒルギにメヒルギ、ヤエヤマヒルギ。ヒルギモドキもマパプシキもある。
わたしは自然に恵まれて育った、そう実感した。いまでも工芸品より植物や畑の作物のほうが詳しいのは、そのせいかもしれない。感動を伴うから記憶に残りやすいのだろう。
マングローブ林を抜けてしばらくすると、川岸に山小屋風の建物がいくつか見えてきた。山道沿いにある商店だった。土産物屋に雑貨屋、いずれも閉まっている。その隣りは軽食レストランで、こちらは人の気配があった。話し声もきこえる。看板にはトゥモールとあった。
あれか。店内に入ったことはないが、かつてハイキングで何度も通りかかったことがある。おばあの話では、いまは援助物資の備蓄所のひとつになっているらしい。船で運んできたものを置くのに適した立地だからだろう。
カヤックを川岸に寄せる、後ろに手をまわして、バランスを取りながら腰を持ちあげ、立ちあがった。ひょいと地面に降り立ち、ぬかるんだ斜面を登っていく。
店の正面にまわろうとしたとき、山道を歩く太った男と目が合った。男は外国人、白人だった。褐色の髪に青い目、チェック柄のシャツにジーンズといういでたちだった。なぜかひどく汚れている。
男は疲れたような顔でこちらに視線を向けたが、莉子が見かえすと、当惑を覚えたように目を逸らした。さっさと歩き去り、店から遠ざかっていった。
トウモールに立ち寄ったのだろうか。それとも、ここを通りがかっただけか。
店の軒先には、せかせかした足どりで麻袋を運ぶ男の姿があった。こちらは日本人のようだった。年齢は三十代から四十歳ぐらい、痩せてひきしまった身体つき。麻袋には英語の文字がプリントされている。米軍からの援助物資かもしれなかった。男が店のエントランスを入った直後、怒鳴り声がきこえてきた。「おい親泊! レジを開けっぱなしにするな。なんどいえばわかる」
莉子はエントランスに近づいた。大声を張りあげていたのは、いま麻袋をかついで店内に入った男だった。
その奥にもうひとり、さらに大柄の男がいた。Tシャツから胸板が透けてみえるほど筋肉質のその男は、不服そうな顔をしていた。「俺じゃないっすよ、津波古さん」
津波古。麻袋を持った男が、おばあの知り合いか。
莉子は話しかけようとしたが、津波古はこちらの存在に気づかないようすでレジを覗きこんでいる。
津波古が顔をあげて親泊をにらんだ。「小銭をどこにやった」
「知りませんよ」親泊は表情を凍りつかせた。「俺、ずっと厨房でゴーヤを炒めてたじゃないですか」
しかし津波古は納得がいかないようすだった。レジから一万円札を数枚引き抜いてかざした。「なんだこれは。いまどき一万円札なんかレジにいれておくわけねえだろ。おまえ、勝手に両替したな」
「してませんって」親泊はそういってから、莉子に気づいたようすで、武骨な顔に似合わない笑いを浮かべた。「いらっしゃい」
津波古が親泊の視線を追ってこちらを振り向く。その顔には愛想はなかった。「集落の人? 配給は七時からだよ」
「いえ」莉子は困惑しながらいった。「わたしはここに住んでるわけじゃなくて......」
「まさか、こんな状況で観光? 外人じゃあるまいし。それともドル持ってるの?」
「持ってないです......」
「じゃあ帰った帰った。ご多分に漏れず、うちも日本円じゃ商売はしないよ」
親泊が眉間に皺を寄せた。「おい津波古。せっかくきてくれたのにそんな口のきき方......」
津波古は怒りを募らせたようすで、親泊にまくしたてた。「おまえの口のきき方が問題だろうが。なんだ津波古って。呼び捨てにすんな!」
「とにかく俺、レジのことは知りませんよ。ついさっき、太った外人が立ち寄ったじゃないですか。あいつが持っていったんじゃないですか」
「......いや。おまえのしわざだろ。見ろよ、五円玉だけは手つかずのまま残して、ほかの硬貨は根こそぎ持っていってやがる。俺がしこたま集めた五百円玉をどこにやった。返せ」
「あるわけねえでしょう。なんだよ五円玉だけ残すって。一円玉はどうなってるんです?」
「一枚も残ってないな」
「俺がそんなおかしな盗み方、すると思います?」親泊の目が莉子を見た。「ねえ、そこの綺麗な人。どう思いますか」
津波古が親泊に詰め寄った。「関係ない人に意見を求めんじゃねえよ。さっさとポケットのなかにある物をだせ」
「何もないっすよ。ほら。こっちのポケットにあるのはタコライスの素の入った小袋。それと、こっちのポケットにあるのはシークワーサー」
「食材をポケットにいれるんじゃねえよ。小銭をどこに隠した」
「だから、たぶんさっきの外人が持ち去ったんですよ。両替しにきたんでしょう。レジに誰もいなかったから、紙幣を置いて小銭を......」
「それじゃ金額がまるで合わねえじゃねえか。小銭は全額で一万円ていどだ。三万も置いていった理由は?」
「悪いと思ったから、多めに置いてったんじゃねえんですか」
「そんな非常識な外人がいるかよ。おまえのしわざだろ」
「違いますって。おい、そこの綺麗な人。あなたはどう思っている」
「巻きこむなってんだ、無関係の人をよ」津波古はそういったが、ふと思い立ったようにこちらを向いた。「外人がレジの金、持っていくのを見た?」
「いえ」莉子は答えた。「見てませんけど......」
「ほらみろ」津波古は親泊に向き直った。「やっぱりおまえだ」
口論はなおもつづき、しかも徐々にヒートアップしつつあった。
莉子はあわてて仲裁に入った。「待ってください、津波古さん。親泊さんはお金をとったりしてませんよ」
津波古はじろりと見つめてきた。「どうしてそういえる?」
戸惑いが支配する。莉子は思わず言葉に詰まった。
ほとんど直感的に、わたしはそう思った。いや、勘ばかりに頼ったわけではない。理論的にそう判断を下した。
けれども、それが正しいかどうか、確信があるわけではない。状況をみて推測した、ただそれだけにすぎない。
竹富島では、わたしの推測は外れた。おかげで多くの人に迷惑をかけてしまった。わたしの思考力は、わたし自身がうぬぼれていたほど成長していなかった。根拠のない自信は人を惑わせる。よかれと思って進言したことが間違いなら、相手は困却の極みに陥る。悪くすれば、取り返しのつかない事態につながるかもしれない......。
莉子が黙っていたせいか、津波古は業を煮やしたようすで、怒りを親泊にぶつけた。
「おまえはクビだ!」
「そんな」親泊は悲痛な声をあげた。「いま仕事を失うわけにはいかないんですよ。しょぼい稼ぎでもそれなりに生活の足しになってるし......」
「しょぼいとはなんだ。おまえみたいな奴を推薦した俺が馬鹿だったよ。さっさと出てけ!」
莉子は、自分が一喝されたかのようにびくっとした。
わたしは......見て見ぬふりはできない。責任を回避しようとして、不幸になる人を見過ごすなんて、わたしにはできない。絶対に。
意を決して莉子はいった。「津波古さん。待ってください。レジのお金に手をつけたのは親泊さんじゃありません。さっきの外人さんです」
「な」津波古は面食らったようすだった。「なに? どうしてわかる?」
「店の外ですれ違っただけですけど、目を合わせようとしませんでした。なんだか申しわけなさそうな顔をして立ち去りました。それにひどく疲れたようすだった。どういう経緯があったかわかりませんけど、一万円札しか持っていないせいで、この島で足どめになったんでしょう。あちこちで両替を断られて、仕方なくここでこっそりレジを開けたんです」
「そりゃきみがそう思っただけだろ。なんの根拠もないのに外人のせいだと......」
「根拠ならあります。五円玉だけ残っていたからです」
「......あん?」
「あの疲労感から察するに、彼はこの島にも日本人にも慣れてません。意思の疎通にも不自由していたんでしょう。つまり日本語は喋れない、言葉がわからないんです。もちろん文字も読めない」
「それが五円玉となんの関係があるんだ?」
「日本の硬貨のなかで、五円玉だけがアラビア数字の表記がありません。漢字で五円と書いてあるだけです。だから西欧人は、五円玉が通貨かどうかを判断しかねるんです。真ん中に穴があいているという構造や、材質が黄銅であることも、多くの外国人にとって通貨の概念から外れています。お金に思えず、なんらかの用途のメダルかコインだと考えたために、持っていかなかったんでしょう」
津波古と親泊は、凍りついたように静止した。まるで時間がとまったかのようだった。
とりわけ津波古にとって、莉子の言葉はよほど衝撃的なものだったらしい。額にてのひらを打ちつけ、津波古は怒鳴った。「親泊! さっきの外人だ。捕まえてこい」
親泊が駆けだして、店の外にでていった。さすがに島の暮らしで足腰を鍛えているらしく、素早い身のこなしだった。
店内には、莉子と津波古だけが残された。
津波古はため息をついた。少しは冷静さを取り戻してきたらしい。穏やかな口調で告げてきた。「きみには感謝しないと」
「......まだ事実がわからないのに? 小銭をとったのが親泊さんだったら、まんまと逃がしちゃったことになりますけど」
ふいに津波古の表情が硬くなった。
しかし、ほどなく津波古は首を横に振った。「いや、俺はきみの言葉を信じるよ」
ふたりに沈黙が降りてきた。互いに視線を合わせるでもなく、たたずむだけの時間がいくらか過ぎた。
外に足音がした。ひとりではなかった。
息を切らした親泊が、太った男の腕をつかんで店内に入ってきた。連行されてきたのは、あの白人だった。
ただし、白人はふてくされたようすはなかった。憔悴しきった顔、目は泣き腫らしたように赤くなっている。
親泊が津波古にいった。「名前はトミー・オハラウッドだってさ。オーストラリア人。個人旅行で島に来てた最中にハイパーインフレになって、ドル持ってなかったから取り残されちゃったってよ。ほら、トミー。だしな。プット・アウト・ザ・シングス・ザット・エグジスト・イン・ユア・ポケット。オーケー?」
トミーは弱りきったようすで、両手をポケットにいれた。左右いずれからも、ひとつかみの小銭が取りだされた。
津波古が腕組みをして唸った。
親泊はトミーを急かし、身体じゅうのあちこちのポケットを満たしている小銭を取りださせた。小銭はテーブルの上に山積みになっていった。
やがて、親泊がトミーに対し軽くボディチェックを施し、ふうっとため息をついた。
「これで全部だ」
トミーは津波古を見つめると、訛りの強い英語でなにかをしきりに訴えだした。莉子に聞き取れたのは、ソーリーという言葉だけだった。上京してからは英語もそれなりに勉強したが、ヒアリングは苦手だった。
オーライ、ちょっと落ち着け。津波古はそういってから、トミーに静かにきいた。「いままで野宿してたのか? ディジュー・キャンプ・アウト?」
トミーは切実なようすで、なにかを早口でまくしたてた。
ふうん、と津波古は顎に手をやった。「どこにも泊まれずにニラカナイでごろ寝してたわけか。イリオモテヤマネコにひっかかれずに済んでよかったな」
津波古はなおもしきりに考えこんでいるようすだったが、しばらくしてぶらりとレジのほうに向かった。
レジの下の棚を開けて、手提げ金庫を取りだす。津波古はそれを開けた。なかに入っていたのは、米ドル紙幣の束だった。ほとんどが百ドル紙幣だった。
中身をすべてつかみとり、津波古はトミーに差しだした。「ほらよ。両替だ。インフレでレートがどうなっちまってるかわからねえから、てきとうに渡しておく。これだけあれば帰れるだろ。ユー・キャン・ゴー・ホーム。オーケー?」
トミーは信じられないというように目を丸くした。震える手で紙幣を受け取りながらも早口になにかを告げている。
礼を述べているかもしれないし、高額すぎてとても受けとれないという主張かもしれない。
津波古は苦笑に似た笑いを浮かべた。「いいから気が変わらないうちに受け取れよ。これは店の金じゃねえんだ、俺の個人的な蓄えだよ。心配いらないって。それと、親泊。トミーになにか食わせてやってくれ」
親泊がいった。「作りかけのゴーヤ炒めぐらいしかないけど、いいっすかね」
「だいじょうぶだろ。トミー。テイク・ア・ミール。飯を食っていきなよ。親泊、案内してやってくれ」
「了解です」親泊がトミーの肩をたたき、店の奥にいざなった。
トミーはいまにも泣きだしそうな顔になっていた。しきりに感謝の言葉を挙げ連ねながら、親泊とともに店の奥に向かっていく。
津波古がぼそりと告げた。「ああ、親泊」
「なんっすか?」親泊が立ちどまった。
「そのう......。さっきはすまなかった。いつも感謝してるよ。ありがとう」
親泊は黙って津波古を見かえしていたが、やがて笑顔になり、トミーに連れ添って厨房に消えていった。
津波古はまたため息をつき、床に目を落とした。
莉子は思わす笑った。「ほっとしました。一時はどうなっちゃうのかなと」
「過ちを認めるのに憚ることなかれさ」
「でも、いいんですか。あんなにたくさんのドル紙幣......」
「かまわねえって。また頑張って稼ぐさ。困ってる人を見過ごすことはできねえよ」
「やっぱり根はいい人なんですね。津波古さん。おばあの知り合いだけのことはある」
「おばあって?」
「凜田タキです」
「......ああ」津波古は目を見開いた。「八重山運送の相談役の」
「おばあと仲いいんですか?」
津波古は笑顔になった。「俺も前は郵便局員をしてたんでね。民営化のころにはいろいろお世話になった。ほら、このあたりの島って、ゆうパックでも一部離島の特別料金扱いってやつだろ。あれって地元の業者、ようするに八重山運送のネットワークを利用してるぶん、料金がかさむんだよ」
「ええ。おばあにきいたことがあります。最近、おばあと会ったんですよね?」
「石垣に物資を取りに行ったときにね。あいかわらず元気そうだった」
「世間話に花を咲かせたんでしょう?」
「......ひょっとして、謝花兄弟のことかい?」
「その通り。住んでる場所、ご存じなんですよね」
「まあね。でも郵便局員として知りえた住所を明かすのはご法度だよ」
「けど、偽札犯人の可能性もあるんでしょう?」
津波古は笑い声をあげた。「いまや八重山諸島全域に噂が広まってそうだな。たしかに怪しい奴らだけど、偽札づくりには関わってないと思うよ。家賃払えてないからな」
「え?」
「もう何年も滞納しっぱなしだってきいてる。インフレになるよりずっと前からだ。大家が行くと、あいつら明かりを消して居留守を決めこむ。夜逃げされちゃ面倒だってんで、大家もあまり強くでられないらしくてさ、苦労してたっぽいよ。もっとも、こんなインフレじゃ十倍に値上げしても割りにあわないだろうけど」
「......本物そっくりの偽札が作れるのなら、インフレ前にとっくに清算してたでしょうね」
「だろ? おかしな兄弟だけど、凶悪犯とは思えない」
「住所を教えてもらうわけにはいかないでしょうか」
「そうだな。......あいつらの下宿部屋を訪ねるつもりなら、俺が案内するよ」
「いいんですか?」
「ああ。あいつらのことなら、俺もちょっと興味あるし。きみには助けられたしね」
やった。莉子は心が躍るのを感じた。
待っててくれ、出かける準備をする。そういって津波古は厨房に入っていった。
厨房のなかから声がする。トミー、落ち着いて食えよ。ゴーヤは逃げやしないって。それに対し、トミーの笑い声が響く。親泊も一緒に笑っているようだ。
莉子は胸が温かいもので満たされていく気がした。
少しばかりの勇気と機転が、状況を変える。わたしは間違ってはいない。もう、何をするにもためらったりはしない。目的地を見据えていればゴールには着く。たとえどんなに遠まわりしようとも。
福山
夜六時半。すでに都心は暗くなっている。街路灯も数を減らしているいま、目を凝らしていないと相手の姿を見失いそうだ。
小笠原は、梨間不動産の杉山と名乗っている男を尾行していた。
男の行動は不審きわまりない。いちどは神楽坂から遠ざかったにもかかわらず、また路地を大まわりして元の場所に戻った。しかし今度は、なにを観察するでもなく歩道をぶらつき、さっきとは逆方向、神楽坂上へと立ち去っていった。
毘沙門天を過ぎて住宅地に入ると、男はしきりに周りのようすを気にしだした。十字路に差しかかるたびに立ちどまって振りかえる。小笠原はそのたび、とっさに電柱の陰に身を隠した。
まさしく冷や汗ものだ。あまり近づくのはまずい。かとって距離を置けば闇にまぎれてわからなくなる。
しばらく男は路地をうろついていたが、やがて一軒のマンションのエントランスに立った。
古いマンションだった。オートロックもエレベーターもない。階段は外に面していて、上っていく男の姿が見えている。
小笠原は路上に立ちどまり、その動きを目で追った。三階まで達した男が、二番目の扉の前で静止した。鳴らしたチャイムの音が、はっきりときこえる。
インターホンの低い男の声が応じた。はい。それに対し、男が告げた。福山です。
杉山でなく福山。それが本名か。いや、もうひとつの偽名ということもありうる。
扉が開いた。迎えた男の顔はここからでは見えない。太ったワイシャツ姿の男だった。よく通る声だ。「おう、福山。よくきた。入れ」
失礼します。そう告げて、男は戸口のなかに消えていった。扉が閉じて、辺りはまた静寂に包まれた。
男の差しだした名刺は梨間不動産の杉山彰人。けれどもその名は従業者名簿になかった。そしてここでは、福山を名乗っている。
小笠原はエントランスに歩み寄った。三階の二番目の扉、302だろうか。郵便受けを見たが、該当するポストには名前の表示がなかった。
身辺調査をおこなうだけの価値はあるだろう。小笠原は思った。少なくとも正体をつかむまで食い下がろう。ほんの小さなほころびが、大きな穴になることもある。垂れさがった糸は一度つかんだら手放さない。雑誌はなくなっても、記者として果たすべき使命が、俺にはあるはずだ。
製造元
夜七時をまわると、本土より赤道に近い西表島の空にもさすがに黄昏どきを迎える。雲の切れ間に無数の星が瞬きだしていた。
津波古の案内で、凜田莉子は船浮集落を訪れていた。
この集落は西表島の陸路の果てにある白浜集落から、さらに船で渡ったところにある。道路の通っていない陸の孤島だった。住民は五十人ていどだが小中学校もある。
真珠養殖場のすぐ近くにある赤瓦屋根の木造二階建てが、謝花兄弟の下宿しているというアパートだった。観光客も寄り着かない集落の南端に位置している。
大家の老婦は津波古の知り合いのようだった。津波古が、二階の部屋に住む奇妙な兄弟について尋ねると、大家は浮かない顔で告げてきた。「あぬちょーでーなら、ぬー日もめーんかい姿を消したさい」
謝花兄弟は何日も前に行方を眩ました、と大家はいった。家賃を滞納しまくっていて、一週間ほど前に取り立てにいったら、部屋はもぬけの殻だったという。
入居時にきいたところによると、兄弟の仕事はイラストレイターだったようだ。大家は一階の玄関わきの部屋に住んでいて、兄弟が夜逃げしないように目を光らせていたが、ふたりは窓から逃げたらしい。駐在にも訴えたが、いま警察はそれどころではないらしく、警官のひとりも訪ねてこないという話だった。
莉子は大家にきいた。部屋を見れますか。大家はうなずいた。くまへ来てしちゃさい。そういって大家は、莉子と津波古を二階にいざなった。
大家は引き戸の鍵を開けてくれた。なかは六畳一間の和室だった。壁のスイッチを入れると明かりが点いた。
踏みいった瞬間、莉子は息を呑んで立ちつくした。
部屋を埋めつくす無数の紙片。床に散らばり、壁に隙間なく貼られたそれらは、開け放たれた窓から吹きこむ風になびいていた。
無表情な肥満体の顔が何百、いや何千とこちらを眺めている。
力士シール。
こんなところで出会うなんて......。
津波古は入室してすぐに、呆れたような声をあげた。「なんだこりゃ。デブの顔ばかり熱心に描いてやがったのか」
「力士シールですよ」莉子は信じられない気分でつぶやいた。「ご存じないですか」
「知らねえな。シールなのか、これ。土産に売れそうには思えねえな」
考えてみれば、力士シールが異常発生したのは東京都内のことだ。沖縄ではほとんど報じられていないか、人々の関心をひく話題にはなりえなかったのだろう。
ちゃぶ台には画材が残されていた。裁断前の紙にインク。ペン軸も何本か転がっている。ペン先は、Gペンとカブラペンがあった。
ほかに、何に用いるのかわからない石ころのような白い結晶がいくつかと、ビンに入った液体もあった。それに顕微鏡。いくつかの米粒。
莉子はその米粒をひとつつまんだ。うっすらと模様のようなものが見える。
これはもしかして......。米粒を顕微鏡のステージに載せて、鏡筒を覗きこむ。十字動ハンドルを調整してピントを合わせていった。
津波古かきいてきた。「どうした? 何が見える?」
莉子は息を呑んだ。
米粒には、力士シールと同じ顔が描かれていた。極小の絵ながら、拡大して見てもその正確さに圧倒される。
顕微鏡を津波古に譲った。津波古はそれを覗くと、笑い声をあげた。「よほどこの顔にこだわりがあるんだな。もう神がかってるよ」
「そうね......」莉子はつぶやいて、落ちていた力士シールを拾いあげた。
インクがまだ新しかった。ここで描いていたに違いない。でも、これはいったいどういうことだろう。
偽札づくりをおこなっていた形跡はなさそうだった。サンプルもなければ画材も違う。
この部屋では力士シールのみが作られていた。兄弟はひたすらその作業に従事していた。でもなぜ。
夜逃げは計画的におこなわれたらしく、衣類や生活用品は残されていなかった。開いたサッシの外は布団干し用の小さなバルコニーになっていて、そこに太いロープが結わえてある。ロープの太さは直径三センチほどもあった。
外を見下ろすと、ロープは地面まで届いていた。そこはアパートの裏庭だった。低い塀を乗り越えて、路地にでるのはたやすい。ここから逃げたのは間違いないだろう。
莉子は津波古にきいた。「郵便局員だったころ、何度も謝花兄弟の小包を受け付けたんでしょう? 送り先は東京だったって、おばあからききましたけど」
「ああ。でも中身がこんな物だったなんてな。都会には、こんなの欲しがる人がいるのかねぇ」
「宛先はどこかわかりますか」
「さあな......。よく覚えてねえな。どこかの会社みたいなところだったと思うけど」
辺りを見まわしたが、封筒は残っていないようだった。メモもない。
津波古はもう郵便局を辞めている。郵送の記録を調べてくれるよう頼むのは筋違いだろう。というより、わたしに郵便局の情報開示を強制する権限はない。
ほかに手がかりがあるとすれば......。
莉子はロープをバルコニーからほどき、二メートルほど部屋に引っ張りこんだ。
一本の太いロープは、無数の細い紐が束ねられ、編みあげられたものだ。その先端部分をほぐしていった。
「おい」津波古は眉をひそめた。「なにする気だ?」
「ロープの芯を探してるのよ」と莉子はいった。「直径二センチを超えるJIS規格のロープは、芯の内部に紙縒り状になったテープが入っているの。そこにロープの製造メーカー名が記載されている」
PL法の指導に従った製法のロープであることを祈るばかりだった。莉子はロープをほぐしつづけた。
やがて芯が見えてきた。薄いビニール製のチューブを爪の先で裂くと、紙縒りが姿を現した。
津波古は驚きの声をあげた。「へえ。きみは本当に物知りだな」
紙縒りを捻って開く。そこには企業名が印刷してあった。
だがそれを見た瞬間、かつてないほどの衝撃が莉子のなかに走った。
このロープの製造元は......。
偽名
その朝、飯田橋駅ビルで唯一開いている店舗のすぐ近くに、小笠原悠斗は立っていた。
曇り空。雨が降りだしそうだ。しばらくこのままの天気であってほしい。傘を差しながらの尾行は困難だ。電柱に身をひそめるのもひと苦労になる。
店の看板は梨間不動産。ネオン看板は消えているが、これは停電によるものだ。店は間違いなく営業している。
あれから数日の張りこみで、杉山を名乗っていた男がたしかにこの店に出入りしていることがわかった。それも客としてではなく、勤務しているようだ。
だとすると、ふたつの謎が浮かびあがってくる。なぜ従業者名簿に記載がないのか。それに、どうして会社以外の場所で福山を名乗るのか。
彼を初めて尾けまわした夜、マンションをでた彼は、水道橋方面に歩いていった。そして文京区本郷一丁目の戸建てに入った。妻らしき女性が彼を出迎えた。家の表札も、福山となっていた。
編集部が機能していれば、いろいろと調べられることもある。交番に以前のように警官がいれば、住民について尋ねられる。いまはどちらも頼りにならなかった。だからこうして、連日のようにマークするしかない。
けさも男は通常どおりに徒歩で出勤し、この店に入っていった。なかで何かおこなわれているかはわからない。いちど顔をあわせてしまった以上、客を装って尋ねるのも無理がある。同僚の宮牧あたりに手伝ってもらいたかったが、ずっと連絡がつかなかった。
きょうも長丁場になりそうだ。小笠原はため息をついた。
ところがそのとき、ふいに扉が開いた。杉山、あるいは福山と呼ばれる男が姿を現した。
いきなりのことで、身を隠す暇さえなかった。男は辺りを見まわして、こちらに目をとめた。
つかつかと男は近づいてきた。表情には怒りのいろが浮かんでいる。「ちょっとあなた。どういうつもりです」
「......は?」小笠原はびくつきながら尋ねかえした。「何がですか?」
「ずっと尾けまわしているでしょう。私になんの用なんですか」
ばれていたのか。いや、発覚しだからといって、恐れる必要はない。雑誌記者であることはすでに告げてある。いまこそ真実を問いただすときだ。
「福山さん」と小笠原は、あえて呼んでみた。
男の表情がこわばった。頬をひきつらせて、男はつぶやいた。「私の名を......」
しかし、男を追いつめられたのはそこまでだった。だしぬけにサイレンが鳴り響いた。駅ビル前の広い歩道に、赤色灯を燈したパトカーが乗りあげてくる。
パトカーは目の前で停車し、制服警官がふたり降り立った。ひとりが小笠原と男をかわるがわる見て、たずねた。「杉山さん?」
男が声を張りあげた。「私です。ストーカーはこいつです」
「な」小笠原は絶句した。「なんだって? 違うよ。僕は......」
ふたりの警官は詰め寄ってきた。ひとりが目をいからせて問いかけてくる。「あなた、何をしてる人? 友達じゃないんでしょう? どうして朝っぱらからこんなところに立ってるの?」
「いや、僕は......記者なんです、『週刊角川』の」
すると警官の肩越しに、杉山を名乗る男がわめいた。「でたらめだ。うちの妻が会社を訪ねて聞いたぞ。雑誌はとっくに休刊してる。編集部も解散状態だそうじゃないか」
小笠原はしどろもどろになった。「それは......あのう、休刊でも、ですね、記者としての使命が......」
警官が腕をつかんだ。「話は署でききます」
焦燥が募った。男は通報したのだろう。電話は通じなくても、一一〇番と一一九番だけはいちおうまだ生きている。めったにつながらないと噂されていたが、よりによってこの怪しむべき男の訴えを真に受けるなんて。
小笠原は警官の手を振りほどいた。「でたらめはどっちだ。杉山なんて偽名だ。本名は福山......」
だが、抵抗とみなされる行為に及んだのはまずかった。警官のひとりが表情を険しくし、ぼそりと告げた。拘束します。
もうひとりが、素早く取りだした黒いアルミ合金製の輪を、小笠原の手首に巻きつけた。
手錠だった。
小笠原は愕然とした。全身が凍りつき、鳥肌が立つ。なにも言葉にできなかった。
逮捕されてしまった。怪しい男の素性を追って数日、結末は自分が容疑者になることだった。
スマイリーフェイス
東京は快晴だった。午前十時半。開店の時刻だ。
瀬戸内楓はチープグッズ本店のエントランス前に立ち、拡声器を片手に群衆に怒鳴った。
「ただいまより、インフレ前の値段で歯磨き粉と洗濯用洗剤、石鹸、シャンプーの販売を開始しますが、おひとりさま一個ずっとさせていただきます。どうかご了承ください」
人々は歩道から溢れ、もはやクルマの往来のない車道をも埋めつくしている。洗濯もままならないのか、薄汚れた服をまとった人も目につく。
集団はエントランスに殺到してきた。対するチープグッズの従業員は十人足らずにすぎない。誰もが必死で人員を整理しようと躍起になっていた。
楓は大声を張りあげた。「押さないでください! 事故が起きたら販売を中止せざるをえなくなります。ご協力をお願いします」
無我夢中で生活必需品を買い求めようとする群衆に、楓は心を痛めていた。
歯磨き粉が八十円、洗剤はひと箱百九十円。そんな常識的な値段を守っている商店は、もはやほかに存在しない。チープグッズにとっても、この価格でものを売るのは自殺行為に等しい。
それでも、できるかぎり人々の暮らしを救おうとする父の方針は、まぎれもなく正しかった。たとえ一万円札の支払いであっても拒絶するな、父は楓にそう厳命してきた。楓もそれを守り通した。ほとんど無料で物資をばらまくボランティアに近い行為だと自覚しながら、これでいいのかと迷うことなどなかった。地域社会の一員として当然のおこないだ。国家の危機となればなおさらだった。
不況つづきで減益に次ぐ減益、父はなんとか本店を維持しつづけてきたが、まさかこんなハイパーインフレの世になるとは予想もしていなかった。と同時に、もはや商売など二の次だよといった父の言葉を、楓はすんなりと受けいれられた。経営に四苦八苦した時代は過去のものになった。いまはとにかく、救えるだけの人を救うだけだ。日用雑貨に限ってはいくらでも放出しろと父はいった。わたしはそれを実践する。できるだけ多くの人に、少しでも以前の暮らしを取り戻してもらうために。
店頭販売は順調にまわりだした。そろそろ従業員にまかせて、奥にひっこんでもいいだろう。
楓がそう思ったとき、人垣のなかに聞き覚えのある声を耳にした。
「すみません」女の声は悲鳴に近かった。「お願いです、通してください。いえ、わたしは買いにきたんじゃないんです。お店に入りたいだけなんです。通ります。ごめんなさい」
ふと見ると、人の群れの頭上に大きなスポーツバッグが掲げられている。荷物をひきずっていては邪魔になるからだろう。誰かがこちらに向かっているようだ。
しばらくして、やっとのことでその人物が群衆から抜けだしてきた。
ツィードジャケットにデニム、ブーツといういでたちのその若い女は、ようやくスポーツバッグを下ろしてひと息ついていた。髪はくしゃくしゃに乱れていた。
女の顔を見て、楓は驚きの声をあげた。「凜田さん!?」
莉子は楓の声に気づいたようすで、顔をあげた。
疲弊しきった表情で、莉子は楓のもとに駆け寄ってきた。「ああ......。楓さん。おひさしぶりです」
「どうしたの、こんな大変なときに。とにかく、なかに入って」
大混雑のエントランスから、店の奥に入る。いまとなってはさっぱり売れない家電や宝飾品が並ぶ棚の谷間に来ると、もう外の喧騒ははるか遠くに思えた。
楓は莉子を見た。莉子はスポーツバッグを重そうにひきずってくると、疲れきったように棚にもたれかかった。
莉子が万能鑑定士Qなる店で独立したのは、彼女が二十歳のころ、つまり三年ぶりの再会だ。けれども彼女の外見は、まるで歳月を感じさせない。それどころか若返ったかのようだった。彼女が初めてこの店を訪ねたときの状況を彷彿とさせる。
楓は冗談めかせていった。「そのスポーツバッグ、また買い取ってほしくて持ちこんだとか?」
莉子は苦笑した。ひきつったようなぎこちない笑顔も健在だった。「いえ。そういうことじゃないんです。羽田からまっすぐここに来たので」
「羽田から、って?」
「里帰りしてたんですよ」
「へえ。こんな時期に、よく飛行機に乗れたわね。高かったでしょ」
「持ってたお金は行きの便で使いきっちゃったけど、帰りは島じゅうの人がドルをカンパしてくれたんです。どうしても東京に戻らなきゃっていったら、みんな協力してくれて」
「忙しいのね。でもなんでここに?」
莉子は、無言で小さな紙片を取りだした。
楓はそれを受け取った。薄手の紙だった。紙縒りにしてあったらしく、よれよれになっている。
「何これ?」と楓はきいた。
「ロープの芯のなかにあったんです。日の出製網繊維って書いてあるでしょ?」
「ええ」
「ずっと前に潰れた会社ですよね。わたしがここに勤めだしたころ、社長の瀬戸内さんが日の出製網繊維の在庫をぜんぶ引き受けるって......」
「ああ」楓は思いだした。「そういうこともあったわね」
「この数年間は、日の出製網繊維のロープはチープグッズしか扱ってなかったはず。そうでしょう」
「ええ、そうよ」
莉子の顔に憂いのいろが浮かんだ。「沖縄で夜逃げした人たちが、このロープを持ってたんです。売った心当たりはないですか」
「沖縄......? さあ。ロープの通販はおこなっていないと思うけど。どんなお客さん?」
「それがですね、ちょっと前に話題になった力士シールっていうのを描いてた人たちで......」
なんだ、あのふたりのことか。楓は呆気なくそう思った。
「謝花兄弟でしょ」と楓はいった。「あのふたりなら、この店にいるわよ」
莉子にとってその驚きは、まさしく人生最大のものだった。
思わず気が遠くなる。すべてが夢か幻のようにさえ思えてきた。
呆然として楓の顔を見つめる。楓はけろりとしたようすで、こちらを眺めていた。
「こ」莉子は震える声できいた。「この店にいるって......。謝花兄弟が?」
「そう、西表島のイラストレイターよね」楓は微笑した。「夜逃げって、まさかあいつら家賃払えなくて逃げだしたの? 冗談じゃなくて本当だったのね」
「このロープでアパートの二階から逃げたんです」
「あー。それでロープを送ってくれってメールしてきてたのかぁ。逃亡用だったなんてね。困った人たちよね」
「......楓さん。彼らが力士シールを描いてたのも知ってたんですか?」
「力士っていうか、ファットマン・キャラでしょ。巷じゃ力士シールのほうが名が通ってるけど」
「ファットマン?」
楓は歩きだした。「ついてきて」
信じられない気分で楓の後を追う。楓には悪びれたようすもなければ、隠しごとをする気配もない。
少なくとも楓にとっては、力士シールは摩訶不思議な謎でもなければ、守らねばならない秘密でもないようだった。いったいどんな真相なのだろう。
店内の間取りは、莉子が働いていたころからほとんど変化がなかった。雑貨類が天井まで積みあげられた棚が迷路のように入り組んでいる。楓は突き当たりの事務室のドアをノックした。
どうぞ、と応じる男性の低く落ち着いた声がまた懐かしい。社長の瀬戸内陸の声だった。
楓がドアを開けた。以前よりもさらに棚に多くのカタログ類が詰めこまれ、若干手狭になったとおぼしき室内に、三人の男がいた。
男たちは小さなテーブルを囲み、朝食を兼ねたミーティングの最中のようだった。瀬戸内陸は、片手にトーストを、もう一方の手に明細表を持ったまま、こちらに視線を向けた。
三年前となにも変わらない。渋い顔つきに穏やかで涼しい目。あいかわらず作業服にネクタイ姿だった。
瀬戸内は驚きのいろを浮かべた。「こりゃめずらしい! 凜田さん、おはよう。ご無沙汰だったね」
「は、はい。おはようございます」莉子は戸惑いがちに応じた。
再会を喜びたいところだが、いまは社長と同席しているふたりが気になって仕方がなかった。
想像していたのとは違い、兄弟はやせ細った草食系だった。髪も伸ばしていて面長、西表島に住んでいたとは思えないほど色白で、イラストレイターというよりミュージシャンのようだ。双子というほどではないが、ふたりとも顔はよく似ている。ひとりはトーストにマーガリンを塗っている最中で、もうひとりはスケッチブックを手にしていた。いずれも動きをとめて、こちらに視線を向けている。ぽかんとした表情だった。
年齢はふたりとも莉子と大差ないように思える、すなわち二十代前半だろう。もっとオタクっぽい外見を予想していたが、実態はまるで異なっていた。どうしてそんなイメージを抱いていたのだろう。たぶん、力士シールに描かれていた顔とその作者を、なんとなく結びつけてしまっていたに違いない。
瀬戸内陸は腰を浮かせた。紹介しよう、と兄弟に向かって莉子を指し示した。「こちらは凜田莉子さん、万能鑑定士クイーンという店を経営してる」
クイーン......。まだその名前にこだわりがあるのか。莉子が楓の顔を見ると、楓は噴きだしそうになっていた。
「そして」瀬戸内が莉子に告げてきた。「このふたりは......」
「謝花兄弟ですよね」莉子はいった。「お兄さんの名前は和希さん。弟さんは玲さん。西表島の船浮集落に住んでた」
顔だちからすると、スケッチブックを持っているほうが年長らしい。彼が兄なのだろう。謝花和希は唖然としたようすできいてきた。「なんでそれを......」
楓が謝花兄を見つめた。「アパートから逃げてきたんでしょ。うちから送ってあげたロープを使って」
兄弟は目を瞠って顔を見合わせた。
瀬戸内の表情が険しくなる。「和希君。家賃を滞納してたといってたが、まさか......」
「ごめんなさい」口を開いたのは弟の玲だった。「一年ぶん払えていなかったし、インフレになって家賃も値上げされちゃうかもと思ったんです。払わないと外にださないっていわれて、仕方なく......」
「ってことは、アパートの大家さんに、上京するって説明はしなかったわけか」
「はい......」
「黙ってでてくるなんて最低だぞ。ファットマンづくりで、それなりに食えていたはずだろ」
兄の和希がおずおずといった。「光熱費がけっこうかかって......。夜仕事するもんですから。すみません」
室内は沈黙した。瀬戸内は困惑したようすで押し黙っていた。兄弟ふたりは、ひたすら恐縮したようすで項垂れている。
莉子は瀬戸内にきいた。「あのう。こちらの兄弟に頼んだ仕事って......?」
ああ、と瀬戸内は棚に向き直った。「きみがこの店を辞めた後に始めたことだから、知るはずもないか。ええと、どこだっけな。あ、これだ」
瀬戸内は厚紙製の箱を取りだした。蓋を開けると、そのなかにはお馴染みのものがぎっしり詰まっていた。
真新しい力士シール。肥満体の顔がごっそりとおさまっていた。
娘と同じく、瀬戸内もなんのためらいもないようすで莉子にきいてきた。「見たことないかい? この顔」
「......もちろん、見たことありますよ。っていうか、ひところはちょっとした社会問題になってたじゃないですか」
瀬戸内は笑った。「それをいわれると弱いな。正直、私たちもあんなふうに話題になるとは思ってなかったんだよ」
「都内じゅうに貼りだしてたのは、瀬戸内さんだったんですか?」
楓がいった。「わたしも手伝ったよ。従業員は出勤前に貼ってたの。毎朝、最低十枚がノルマ」
莉子は絶句した。「ノルマって......」
「凜田さんが働いてたころにも、外まわりの延長で宣伝のチラシを貼ってもらったことがあったでしょ? 電柱とか電車の高架下に」
「ええ。たしかに......」
厳密には軽犯罪法に抵触する行為なのだが、小売をなりわいとする零細企業のあいだでは、チラシの貼りだしは半ば常識的な宣伝方法だった。瀬戸内と一緒に警察署に説明に行ったこともある。キャンペーン期間が終わったらすみやかに剥がして、痕も残らないようにしますから。瀬戸内はそう説明していた。
瀬戸内は頭を掻いた。「当初はチラシの延長として考えてて、店名や詳細を記さずに、インパクトのある絵で人々の記憶に残すってのはどうだろう、なんて安易にやってみたんだけどね」
莉子は呆然とした。「宣伝活動だったんですか?」
「そうだよ」と瀬戸内は、箱のなかから筒状に丸められた紙を取りだした。開くと、A4のサイズになった。
そこに描かれていたのは、特大の力士シールの図柄だった。チープグッズという店名、住所、電話番号が記してある。高価買い取り、安く売りますとキャッチフレーズも入っていた。
瀬戸内はいった。「これが図案でね、看板を作って、表に大きく掲げるつもりだった。ファットマンっていう印象深いキャラの顔は、この謝花兄弟の傑出した才能による産物だよ。ちょっと不気味なのも、独特の持ち味だ」
「発注したのも瀬戸内さんだったわけですか」
「ああ。イラストレイターを探していたら、彼らがサイトで仕事を募集しててね。沖縄の糸満市出身で、親もとを離れて西表島に住んでるって話だった。ブログに、毎日の暮らしに苦労してるって書いてあったから、彼らに仕事を振ろうと考えてね」
楓がため息まじりにつぶやいた。「またお父さんの同情の虫がでてきちゃったのよね」
「こら」瀬戸内は苦笑しながらいった。「いまはお父さんっていうな、社長だ。で、私は彼らに、印象に残るイラストを頼んだ。都内じゅうにたくさん貼りだして、あの太った顔はなんの意味があるだろうと世間が話題にし始めたら、チープグッズの名の入ったチラシや看板を展開しようって腹積もりだったんだが......。世のなかうまくいかないな」
社長の頭にあったのは、スマイリーフェイスすなわち、俗にいうニコちゃんマークの成功例だろう。莉子はそう思った。十九歳のころ、そんな内容の本を読んだことがある。貧乏だったあの当時、わたしが目を通したということは、この事務室にあった本を借りたに違いない。
シンボルデザインとしてのスマイリーフェイスは、スマイリーワールド社のブランドの象徴になっている。親しみやすさを強調したニコちゃんマークの逆の発想も有効だろう、とその本に書いてあった。太った男の仏頂面を描いた、彼らのいうファットマンなる図柄は、まさしくそれを実践したものだった。
「だけど」莉子はいった。「どうして手描き? 大変だったでしょう?」
瀬戸内がふっと笑った。「コピーにするつもりだったんだが、すべて一枚ごとに微妙な違いがあるっていうのも、話題につながりやすいと思ってね」
楓がにやついた。「とかなんとかいっちゃって。じつはこの兄弟に仕事をあげたくて、そうしたんでしょ。諸経費を別にして一枚十円で買い取るっていってたじゃん」
「鋭いな」瀬戸内はまた頭を掻いた。「知り合ったのもなにかの縁だから、彼らに収入を得てほしくてね。ふたりとも描くのが速いから、じゃんじゃん作ってこっちに送ってくれと頼んだわけだ」
二種類のタッチが存在したのはそのせいか。一方がカブラペン、もう一方がGペンを愛用していたのだろう。道理で、科学鑑定でも描かれた時期に差がみられなかったわけだ。オリジナルと模倣という関係ではなかった。彼らは同時に描いていた。どちらもオリジナル、競作だった。
瀬戸内の表情が曇った。「ところがファットマンは、こっちの見こみよりも強力すぎたのか、力士シールなんて呼ばれてマスコミに取りあげられた。やたら気味悪がられてたから、うちとしてもシンボルロゴとはいいだせなくなってきてね。そろそろ撤収して、警察にも事情を説明しようかと思ってた矢先、このハイパーインフレだろ、ファットマンが話題になるどころの世のなかじゃなくなった」
「でね」楓が莉子に告げてきた。「仕事にあぶれた兄弟を気の毒がって、家賃払うのが苦しいなら上京しろって、お父さんがメールしたの。先週から兄弟ふたりとも、このビルの五階に住んでるのよ。バックストック用のフロアに空きが生じてきてるから、そこにフトンを持ちこんでね。売り物のフトンも山ほど残っているから。呆れるでしょ」
瀬戸内は咳ばらいした。「しかし、家賃を踏み倒したまま夜逃げってのは感心しないな。大家さんの住所は? 私がなんとかしてやる」
謝花兄弟は驚いたようすだった。和希が困惑ぎみにいう。「でも、大幅に値上げされちゃうかも......」
「金額の変更は契約違反だろう。納得してもらうしかないさ。交渉は私にまかせておいてくれ。今後きみらは、東京でまともなところに住めるように頑張るしかない。こんなご時世だから、絵で食っていくのは大変だとは思うが......」
莉子は兄弟にきいた。「なにか仕事のあてはあるの?」
和希は戸惑いがちに、スケッチブックを広げた。「新しいチープグッズのシンボルロゴを考えてるんだけど......」そこには、多様なデザインが並んでいた。鳥や蝶をあしらったもの、幾何学模様、立体模型のワイヤーフレーム。
「へえ」莉子はすなおに感心した。「じょうず......。それに細かく正確に猫いてる。あのお米に絵を描いたのは、お兄さんのほうですね?」
和希は照れたように微笑した。「唯一の特技なんです。なんの役にも立たないけど......」
彼の絵には独特のタッチがある。あきらかに、二種類ある力士シールの絵柄のうちのひとつだった。
莉子はいった。「お兄さんのほうは、ふだんGペンを使ってるんでしょ」
「ええ」和希は目を丸くした。「どうしてわかるんですか? このデッサンは鉛筆書きなのに」
題戸内がにやりとした。「万能鑑定士クイーンの彼女に、わからないものはないんだよ」
楓が笑い声をあげた。兄弟は狐につままれたような顔を見合わせていた。
ただひとり、莉子の胸中は複雑だった。
兄弟のデッサンは秀逸だが、一万円札を再現できるほどの画力ではない。島民の噂は結局、ナンセンスな風評にすぎなかった。偽札づくりの真相は依然として闇のなかだ。
工芸官の藤堂が沖縄にいたからといって、そう簡単に手がかりにぶつかるものではない。いまになってようやく、その確率の低さを痛感する。
すべては徒労、無駄足だった。わたしは悪しき世の改善になんら貢献できてはいない。
物憂げな気分に浸りだしていたとき、瀬戸内がいった。「そろそろ朝のニュースだな。ハイパーインフレになってから、どの局も放送開始が遅くなって困る。楓、テレビつけてくれ」
「はい」楓は、棚のなかに埋もれるように据えられた十五インチのテレビに歩み寄り、スイッチをいれた。
またきょうも大規模な経済破綻が伝えられるだけだろう。きのうの時点で、いまの日本は二〇〇二年のアルゼンチン通貨危機を超える最悪の状態にあると報じられていた。この一週間、少しでも改善に向かったという話はきいたためしがない。けさはまたどこまで悪くなっているのか。
ところが、NHKのキャスターのようすはいつもとどこが違っていた。気色ばんだ顔のキャスターはまくしたてていた。「繰りかえしお伝えします。警視庁はけさの緊急記者会見で、国立印刷局工芸官を、偽札製造に関わった疑いが強いとして、全国に指名手配しました」
莉子はぎょっとした。画面には、見覚えのある中年男が映っている。神楽坂で見かけた男。工芸官の藤堂その人だった。
室内の全員がテレビに釘付けになったようすだった。瀬戸内が身を乗りだした。「指名手配? ついに犯人グループが割りだされたのか」
......違う。莉子は心のなかでつぶやいた。彼の名前はとっくに明らかになっていた。精巧な偽札を作りうる唯一の男、そして事件後に姿をくらますなど不審な行動をとりつづけた、たったひとりのキーマン......。
キャスターの声はつづいていた。指名手配されたのは藤堂俊一氏、四十七歳で、一九八五年に国家公務員Ⅰ種試験に合格、大蔵省印刷局勤務となり、その後国立印刷局工芸官となりました。警視庁によりますと、本来、指名手配は逮捕状の発せられている容疑者の逮捕を全国警察に依頼するものであるが、現在のわが国における社会情勢および事態の重大さを踏まえ、逮捕状の発行を待たずに手配に踏みきったとのことです。
人権への配慮ももはや限界だと考えたのだろう。異例の手段を使ってまで藤堂の名を全国に広く告知した。それはすなわち、警察および政府がほかに打つ手を持たないことを意味している。
この切り札が有効なものになってほしい。莉子は心から願った。本物と区別がつかない偽札。作った本人の口を割らせる以外に、世が悪夢から覚める道はない......。
アーグルトン
正午前、莉子は角川書店本社を訪ねた。
以前『週刊角川』の編集部があった本社ビルは、窓が薄汚れているうえにスロープに桜の花びらやゴミが舞い、どことなく廃ビルの様相さえ呈していた。警備員の姿もなく、ロビーの明かりはやはり消灯していて、受付カウンターにも人がいない。
エレベーターも動いていなかった。困惑しながらたたずんでいると、社員らしき人が通りかかった。莉子が元『週刊角川』の記者らの居所を尋ねたところ、三階だと教えてくれた。
階段をのぼって三階に向かう。するとフロアは賑やかで、まだ大勢の編集員が詰めていた。スーツ姿は少なく、みなカジュアルな服装だ。アニメ絵の看板やポスターの類いはない。デスクがいくつも組み合わされて巨大なテーブルが形成され、その上にいっぱいに広げられた航空写真があった。
編集長の荻野が、周りを囲む男たちに怒鳴っていた。「おい。この写真はどっちが北なんだ? レイアウトの前に確認しとけっていっただろ」
編集員のひとりが困惑顔で告げる。「専門家にきいてみます」
「早くしろ」荻野は頭を掻きむしった。「きょうの入稿に間に合わんだろうが」
莉子はゆっくり歩み寄り、写真を眺めた。
すぐに見当はついた。莉子は指さした。「北はこっちですね」
一同が顔をあげて、莉子を見つめてくる。
荻野は口をぽかんと開けていた。「ああ、鑑定家の......凜田さんだっけ。なぜ方角がわかるんです?」
「この野球場ですよ。本塁から投手板を経て二塁に向かう線は、東北東に向かっていることを理想とする、ってルールブックに書いてあるので、日本の球場はそれを踏まえて建設されてるんです」
「ほう......。素晴らしい知識ですな。みんなも見習え。こっちが北だぞ。さあ入稿の準備だ、急げ」
周りの編集員たちが散っていった。荻野は腕組みをして、航空写真を見下ろした。
莉子は荻野にきいた。「何に使うんですか、この写真?」
「大不況のいま、ものづくりの会社に求められるのは生活必需品のみですよ。紙媒体の出版社は、カレンダーと地図を発行することだけが唯一の道です。いまはその図版づくりでね」
「というと、ほかの雑誌とか本とかはすべて休刊ですか」
「そのとおり。ここがわが社に残された唯一の聖域です。漫画誌すら廃刊が決まりましたからね」
荻野は漫画にあまりいい印象を持っていないようだった。廃刊という言葉の語気を強めたことが、彼の心情の表れに思える。
莉子は航空写真に目を向けた。一見して神戸市全域とわかる。メリケンパークにポートタワー、六甲ガーデンテラスも見えている。それぞれの名称も書き加えられている。
だが莉子は、ふと妙な気分になった。写真に見覚えがある。地形が同じというだけでなく、陰のつきぐあいや粒子の粗さにすら既視感がある。
「すみません」莉子は荻野にいった。「これ、日本地図社の航空写真集と同じものですよね?」
荻野の眉間に皺が寄った。「そんなはずはありません。専門業者からオリジナルの写真を買い取りましたから」
「......いえ。やっぱり日本地図社のものですよ」
「どうしてそう言いきれるんです? 航空写真なんて、同じ場所を撮れば自然に似るものでしょう」
「そうでもないんですよ。ほら。ここ見てください。都賀川に或砂橋ってのが架かってる」
「そういう橋があるんでしょう」
「グーグルマップにアーグルトンって偽の町が描きこんであるのを知ってますか。Argleton、つまり〝本当のグーグルではない〟のアナグラムといわれてます」
「待ってください。......或砂橋。あるずなはし......」
しばらく間をおいてから、荻野は声を張りあげた。「あるはずなし! これはダミーか」
「地図や航空写真の複製を防ぐために、意図的にいれられてるんです。或砂橋は日本地図社が好んで用いる架空の橋です」
荻野は憤ったようすでデスクを離れた。近くにいた編集員をつかまえて怒鳴る。「あの業者をつかまえてこい。電話は通じないから直接いけ。オリジナルのデータがないなら全額返金しろと伝えろ。もちろんドルでだ。支払いを拒否したら......」
まいった。長引きそうだ。莉子は恐縮しながら荻野の後ろに近づいた。
言葉が切れるのを待って、莉子は荻野に声をかけた。「あのう」
荻野はまだ演説をつづけたかったらしく、苛立ちもあらわに振りかえった。「なんですか」
「小笠原さんはどちらにおいでですか」
「......ああ。あいつなら、逮捕されて警察署ですよ」
莉子は驚いた。「逮捕ですって?」
「まったく勝手なことばかりして、困った奴です。まあ会社もこんな状態ですから、出社しない社員は半ば自動的にクビを切られたも同然ですけどね」荻野はそれだけいうと、編集員に向き直った。「いいか。業者になめられて黙っていては会長に申しわけが立たん。経費は全額向こうに払わせて......」
莉子はひとり、呆然と立ちつくしていた。
小笠原さんが逮捕......。いったい何があったというのだろう。
論理の石
小笠原悠斗は牛込警察署の取調室で、事務用テーブルをはさんで警部補の葉山と向かい合っていた。
「だから」小笠原は葉山にいった。「いってるじゃないですか。不当逮捕ですよ。怪しいのは向こうです」
葉山は疲れ切ったように椅子に斜めに座り、脚を組んでいた。「こんな荒れ果てた世のなか、私たちも手一杯ですよ。あまり困らせんでください。どうしてあの人を尾けまわしたんです」
「雑誌記者としての使命と義務からですよ」
「筋の通った説明ができなかったらストーカーと同じでしょう」
小笠原は口をつぐんだ。
紙幣偽造は巨大な組織による犯行だ。犯人グループは警察の動きにも目を光らせていると見るべきだろう。真実に近づきつつある者の存在を、組織に嗅ぎつけられてはまずい。
そのとき、扉をノックする音がした。失礼します。と扉が開いて、制服警官が顔をのぞかせる。
警官はひとりの女性を連れていた。驚いたことに、その来訪者は凜田莉子だった。
沖縄から帰っていたのか。しかし再会の喜びも、場所が警察の取調室とあっては憂鬱な気分に相殺されてしまう。
「ああ」葉山は立ちあがった。「凜田さん。ちょうどよかった。あなたのお連れさんが騒動を起こしたんでね。二度とやらないようにいいきかせてくれますか」
莉子は戸惑った顔でこちらを見た。「騒動って......」
小笠原は憤慨した。「とんでもない。僕は僕なりに事件を追及しようとしたんだ。警察の捜査が遅々として進まないから、独自に手がかりを追ったんだよ」
「え?」莉子は目を丸くした。「なにか新しい事実でも?」
「あの男は怪しいんだよ。神楽坂の藤堂の部屋をじっと睨んでた」
「......睨んでたって。根拠はそれだけ?」
「まだあるよ。あいつは梨間不動産の杉山と名乗ってた。でもそんな名前の奴は、梨間不動産にはいないんだ。本名は福山っていうんだ」
この取調室に連行されて、初めて明かした根拠。莉子がきたからには大きな援軍になる、そう思って話したことだった。葉山も食いついてくるに違いない。
ところが、なぜか依然として取調室の空気は冷ややかだった。
半ば呆れたような顔で、莉子はきいてきた。「名前が違ってたってだけ?」
「......そうだよ。偽の名刺まで作ってた。充分に怪しいじゃないか」
莉子はため息をつき、ハンドバッグから携帯電話を取りだした。
ネットで不動産会社の従業者名簿が調べられることを、莉子も知っているらしい。しばらくの操作の後、梨間不動産の名簿ページを画面表示し、小笠原に向けてきた。「このサイトで調べたの?」
「ああ。見ればわかるとおりだ」
莉子はその表示をしばし眺めていたが、やがてぼそりとつぶやいた。「小笠原さん。その杉山を名乗っていた福山って人、フルネームは?」
「......さあ。福山のほうの下の名前は、そういえばまだ調べてない」
無言のまま、莉子はふたたび携帯電話を差しだしてきた。
五十音順のリスト、は行に福山の名はあった。小笠原はそれを見つめた。
「福山」と小笠原は読みあげた。「雅治......?」
葉山がいった。「そうですよ。小笠原さん。歌手で俳優の福山雅治さんと同姓同名でね」
「......なんのことですか」と小笠原はきいた。
莉子は困惑顔でいった。「福山さんが杉山さんを名乗ったのはね、たぶん芸能人と同じ名前だと目立つからよ」
「な」小笠原は絶句した。「なんだって?」
やれやれというように葉山が首を横に振った。「最高裁の判例もあるんですけどね。著名人と同姓同名で、当人がその名前によって人格に先入観を持たれたり、業務に支障がでると判断される場合は、職場の上司の承認を得たうえで別の姓を名乗ることができる。一般企業に限ることで、公務員は除外されますが」
小笠原は衝撃を受けた。「そんな。会社が社員の偽名を認めるってことですか?」
「偽名じゃないですって。あくまで業務を円滑に進めるためのサブネームです。ペンネームだとか、芸名と同じ扱いでね。契約だとか法的な効力が生じるケースでは、もちろん本名を明かすことが条件になってます」
積みあげてきた論理の石が、がらがらと音を立てて崩れていく。小笠原は呆然とそれを眺めるしかなかった。
いや、最初から論理などではなかった。いまになってそう思う。怪しいから、ただそれだけの思いで突き進んだ。その先になにかがあると確信していた。
けれども、なにもなかった。意識にぼんやりと残るのは、固定的な観念のせいで生じた近視眼的なものの見方、すなわち自分の愚かさだけだった。
葉山はいった。「ま、今後はもっと慎重に行動されることですな。小笠原さんはこの場で釈放します。いちおう厳重注意ということで......」
扉をノックする音がした。返事も待たずに、制服警官が扉を開けて入ってきた。
警官はこわばった顔で、葉山になにか耳うちをした。
ふいに葉山はあわてたようすで、いこう、といって扉を飛びだしていった。警官が後につづく。
小笠原は莉子を見た。莉子も小笠原を見返してきた。妙な顔をしている。
釈放を宣言したとはいえ、いちどは逮捕した俺をほうっておくなんて......。
莉子が歩きだした。「いってみましょう」
「そうだね」小笠原は後につづいた。何が起きているかこの目で見たい。もう思いこみに振りまわされるのはたくさんだ。
教室
莉子が牛込警察署のロビーに降り立ったとき、辺りは異様な空気に包まれていた。
ロビーには私服、制服を問わず大勢の警官がひしめきあっている。誰もが緊張の面持ちだった。署長らしき年配の制服の姿もある。
エントランスのわきには長テーブルが並べられ、その上に雑多な品々が置かれていた。炊飯器にオーブントースター、DVDやCD、書籍、衣類、それにアルバムや写真などだった。
私服警官らがそれらを整頓にかかっている。ひとりがつぶやくのがきこえた。お返しする物は全部揃ってるか。忘れ物があったらたいへんだ。
小笠原が莉子の耳もとでささやいた。「なにが始まるんだろ?」
「さあ......」
莉子は長テーブルに近づいた。写真はかなり古いもので、小学校の教室のなかが写っていた。大勢の児童がこちらを見ている。
教室の窓に特徴的な設備があった。この学校はもしや......。
そのとき、警官たちがいっせいに動きだした。エントランスを挟んで左右に分かれた警官たちは、来賓でも迎えるかのように直立不動の姿勢をとった。葉山はもとより、署長クラスの一群さえ、ひどくかしこまった姿勢をみせている。
ガラスの向こう、春の陽射しの下を一台の黒いセダンが入ってくる。セダンはロータリーをまわり、玄関先に横付けされて停まった。
運転手によって後部ドアが開けられ、ふたりの男がつづけて車外にでてきた。
すでに馴染みのある顔、痩せた男は財務省大臣官房秘書課の絹笠。太った男は警視庁公安部の緋崎だった。
セダンからは、さらにもうひとりの男が降り立った。その顔を見たとき莉子は思わず、あっと声をあげた。
小柄な中年、官僚っぽさを漂わせたスーツの着こなし。国立印刷局工芸官の藤堂俊一は、面白くもなさそうな顔で建物を見あげると、エントランスに足を運んできた。
手錠もなければ腰縄もない。むしろ絹笠も緋崎も、藤堂に対し異常なまでに気を遣っているようすだった。ロビーへの短い階段さえ、藤堂がつまずかないより足どりに注意を払う素振りをみせている。
出迎える幹部クラスが深々と頭をさげると、警官たちがそれにならった。
緋崎は所轄の人間には胸を張った。「藤堂さんの部屋から持ちだした物は?」
署長らしき男が長テーブルを指し示した。「あちらに用意しております」
藤堂は無言でテーブルに歩み寄った。品物を眺め渡し、ため息をつく。
振り向きざまに藤堂はいった。「私の部屋を捜索して、これらの物を押収した責任者は誰ですか。ここにいますか」
私服警官らの視線が交錯し、やがてすべての目がひとりの男に向けられる。
葉山は恐縮の面持ちで歩みでた。「私です。警部補の葉山と申します」
ふんと藤堂は鼻を鳴らした。「葉山君。令状がでたからには行動を起こすのがきみの義務だろうが、そもそも私はなんの容疑をかけられていたんだね。そこがどうも腑に落ちない」
ロビーはしんと静まりかえっている。葉山は当惑したようすで緋崎を見た。
緋崎はハンカチで額の汗を拭きながらいった。「公安としましては、本物にそっくりの偽札が作られた以上、工芸官である藤堂さんに事情をお伺いできればと......」
「私はなんの関与もしていない。アリバイも調べてもらえればわかるはずだ。国立印刷局の職員は厳重なスケジュール管理がなされている。人目を盗んで勝手な振る舞いをする暇など私にはなかった」
「承知しております。ただ、そのう、本物と同水準の偽札というのは、工芸官の藤堂さんに匹敵する技術を有していなければ作れないはずでして」
「それで私が第一容疑者か。乱暴にもほどがあるな。絹笠君」
「はい」絹笠が神妙に応じた。
「日本銀行の人間にきけばわかると思うが、工芸官というのは紙幣製造の過程において、原版づくりまでしか関わらない。それ以後の機械による処理は知らないことばかりだ。実際、私の手でも偽札は作れないように、原版は特殊な方法で左右のサイズが圧縮される。私の作った原版は、完成した一万円札のとおりではないんだ」
「うかがっております......」
「原画を描き原版を彫ったからといって、私ひとりの裁量で紙幣の複製などできない。冷静に考えればわかるだろう。それをなんだ、指名手配というのは。人を逃走犯のように喧伝するとは」
「それはですね、公安による捜索の直後、藤堂さんが行方をおくらましになったので......」
緋崎が焦燥に駆られたようすで付け加えた。「そもそも神楽坂の狭い部屋に、隠れるように住んでおられたので、なにかあるのではと」
藤堂は憤りをあらわにした。「国立印刷局工芸官となれば責任は重大だ。目立たない質素な暮らしをしろと厳命されてるし、住所も公には伏せている。それと、自分が危険を感じた場合、すみやかに姿を消すよう指示もされている。財務省にいながら把握していなかったのか、絹笠君」
莉子はひたすら衝撃を受けるばかりだった。
あの夜、藤堂が目の前で立ち去ったのは、工芸官としての自分の身を守るためだった。警察による家宅捜索だろうが何だろうが、その詳細を知るより早く、藤堂はまず真っ先に行方をくらますことを義務づけられていた。日本の通貨を作った張本人だ、そこまで保護されていて当然だった。
にもかかわらず、公安はそれを逃走とみなした。藤堂は理由もわからないまま、規則に従って国内のどこかに潜伏していたに違いない。ところがけさ、いきなり自分が指名手配されていると知り、憤慨して姿を現したのだろう。
その藤堂を前に、緋崎は釈明に追われていた。「なにしろ現在の情勢が情勢でして、少しでも疑惑がある場合は徹底的に追及せよとの警察庁長官の指示がでていまして......。科警研と科捜研の分析で、中国語の脅迫状が沖縄近辺で作られた可能性が高いとされているうえに、藤堂さんのお使いのエアコンも沖縄仕様だったので......」
「沖縄だと」藤堂の顔はいっそう険しいものになった。「沖縄には行ったことがないぞ」
緋崎と絹笠は絶句したようすだった。互いに驚きの顔を見合わせている。
......そういうことだったか。莉子は思わずため息をついた。
警察はやはり、わたしと同じところに目をつけていた。そして、いまになってわかる。彼らはわたしと同じ過ちを犯していた。
絹笠があわてたようにいった。「そのう、藤堂さん。工芸官の経歴の詳細はあきらかにされていないもので、てっきり沖縄のご出身か、もしくは沖縄に住んでおられたのかと......」
「何度いえばわかる」藤堂は苛立ちを募らせているようすだった。「沖縄など知らん」
莉子は告げた。「鹿児島市ですね」
ロビーはしんと静まりかえった。視線がいっせいに莉子に向けられる。
「ほう」藤堂が静かにいった。「私の実家の所在を知ってるとは。きみも国立印刷局の職員かな?」
緋崎が藤堂を見つめた。「いえ、誤解です。彼女はただの部外者です」
絹笠は苦い顔で莉子にきいてきた。「部外者のきみがなぜ知ってる?」
「知ってたわけじゃないです」莉子はいった。「この小学校の写真を見てわかったんです」
藤堂が眉をひそめた。「ひと目で出身地がわかる写真はないはずだよ。それも規則でね」
「いえ......。教室のなかの写真ですけど、化学実験室でもないのに窓に換気扇がついてます。外気の逆流を防止するカバーがあるのも確認できます。これは鹿児島の学校にのみ存在する設備です。桜島の降灰対策で」
緋崎が目を瞠った。「じゃあ、あの藤堂さんのエアコンは......」
莉子はうなずいてみせた。「対塩害仕様もヤモリガードも、沖縄だけじゃなく鹿児島でも扱ってますから」
ふむ、と藤堂は腕組みをした。「部外者の女性のほうが警察よりずっと聡明だな。教室の換気扇か。あるのが当たり前だと思っていたよ。今後は気をつけておこう」
警察にとって気まずく思えるらしい沈黙が降りてきた。誰もが渋い顔で押し黙っている。
やがて、署長らしき男がいった。「ここではなんですから、署長室へどうぞ。これらの品々はきちんと梱包させますので」
署をあげての丁重さが功を奏しつつあるのか、藤堂の怒りはしだいにおさまるきざしをみせていた。よかろう、と告げて、エレベーターに歩きだした。
絹笠と緋崎がその後につづく。幹部クラスが一緒にエレベーターに乗りこみ、扉が閉まる。
ロビーはざわめきだした。警官らによって、畳まれたダンボール箱が広げられていく。長テーブルの上にあった物がエアキャップに包まれ、テープでとめられて箱におさめられる。
葉山もダンボール箱を片手に、目の前を通りがかった。莉子をちらと見て、物憂げに告げる。「もう帰っていいですよ。これから忙しいんで」
歩き去る葉山の背を見送ってから、莉子は小笠原を見た。
小笠原は戸惑った顔で肩をすくめた。「仕方がないね。帰ろう。またしてもお呼びじゃなかったみたいだ......」
降雨
夕方五時半すぎ。ガラスの向こう、神田川沿いの桜はすっかり散って、いまは降りしきる雨の冷たさに耐えている。クルマはむろんのこと、人の往来もない。ハイパーインフレは都内の景色をすっかり変えてしまった。住民が群がるのは、物資の配給がある駅周辺のみ。この辺りはゴーストタウンと化して久しい。
小笠原悠斗は、薄暗い万能鑑定士Qの店の客用ソファに腰をおろしていた。
明かりは点いていない。太陽が厚い雲に覆われていても、この時刻はまだ一部の施設を除いて送電がストップしている。夜になっても使用を認められる電気は一軒あたりわずか十アンペア以下でしかない。エアコンは点けられず、一室の照明とテレビがやっとだ。それが昨今の暮らしだった。凜田莉子が物憂げな顔でデスクに頬杖をついている。小笠原は長いこと、無言のままその表情を眺めていた。
しばらくして、莉子が沈黙を破った。つぶやくような声で告げる。「小笠原さん。わたしはやっぱり馬鹿だったわ」
「......なにをいうんだよ。工芸官さえ唸らせてたじゃないか」
莉子はため息をついた。「小手先の知識をもてあそんだところで、本当の社会問題は解決できない。勇み足が過ぎて失敗ばかり。結局、なにも進展しなかった」
沖縄に里帰りした彼女がどんな体験をしたのか、署からの帰り道であらましはきいた。彼女なりの機知が裏目にでてしまったが、それは運が悪かっただけだと小笠原は思った。あれだけの偶発的な手がかりが散見されれば、彼女の判断こそ正しいと信じられて当然だ。事実、警察も同じ間違いを犯していたではないか。
小笠原は穏やかにいった。「僕のほうこそ見当違いの連続だったよ。きみが助けてくれたから早期釈放になったけど......。お互い、もがいてみたけど成果はでずじまいだったね」
莉子はデスクに前のめりに突っ伏して、腕のなかに顔をうずめた。「何も見抜けないのに万能鑑定士だなんて。こんなお店、看板と中身が一致してない。存在してる意味がないわ」
「いや。僕はそう思わない」
「え?」と莉子が顔をあげた。
「きみがこのお店を開いていたから、僕はきみと出会えた。いまもこうして向かい合って話してられる。世のなかは最悪だし職場も悲惨な状況だけど、ここにいられるだけで幸せだよ」
ふたりきりで。それが本音だったが、つとめて言葉にはしなかった。
彼女とつきあいたいとか、友達でなく恋人になりたいという下世話な思いではない。いまは彼女の心の支えになってあげたい、そんな純粋な気持ちがあるだけだった。そして、その役割を与えられた俺は、なんて幸せなんだろう。すなおにそう感じられる、少なくとも俺は、莉子がなぜ落ちこんでいるのか理解できている。彼女の話し相手になれるだけで充分だった。
思いが通じたのか、莉子の表情がかすかに和らいだ。笑みに至るほどではなかったが、いつものぎこちなさもない。
それでも、心が和むほどではなかったのだろう。莉子はまたデスクに視線を落とした。
失意は否定できなかった。中国語の脅迫状が沖縄で作られただろうことは、莉子も警察も一致した見解だったが、それ以外のことになるとさっぱりだ。あらゆる可能性が事実に結びつかなかった。あのレベルの偽札製造を可能にする犯人グループなら、紙の偽装ぐらいやってのけるだろうし、すなわち沖縄の紙というのもフェイントかもしれない。そもそも、紙の出どころが簡単に割れるほど安直な犯行ではなかったはずだ。紙幣用紙すら完璧に再現してしまう集団なのだから......。
重苦しい空気が店内に漂う。そのとき、ふいにドアが開いた。
自動ドアは電気がおちている。ロックも外してあるため、人力で開けられる。いまもまさしく、早稲田の准教授がそれを実行していた。引き戸のように横に滑らせると、外の雨音がひときわ大きくなった。
氷室拓真は後ろ手にドアを閉めると、びしよ濡れの服をハンカチで拭った。「やれやれ、ドルガバも台無しだな。ブランドの価値なんて下落して久しいけど」
莉子が目を丸くしていった。「氷室さん。どうしたの。こんな雨のなか......」
「川の向こう側を通りかかったらシャッターがあがってたんで、来てみたんだよ」氷室は小笠原を見た。「どうもこんばんは。雑誌記者さん」
小笠原は苦笑してみせた。「もう記者じゃないですけどね。雑誌がでていない以上は」
「うちもそうだよ」氷室は隣りのソファに座った。「さすがに大学も授業を続行できなくてね。学生が誰ひとり姿をみせなくなった。どの家庭でも、家族はみんな海外からの支援物資の奪い合いに参加してる。将来に夢がなくなったいまは、食いつなぐことが第一ってわけだ」
莉子が腰を浮かせかけた。「コーヒーをいれましょうか。ガスはとまってるけど、カセットコンロを使えばお湯も沸かせるし」
「いや」氷室は手で制した。「待ってくれ。きょうは、きみの留守中の客のことを伝えにきただけなんだ」
「......お客さん? こんな状況で? また偽札の鑑定とか......」
「そうじゃなかったんで、僕もちょっと興味を持ったんだけどね」氷室は懐に手をいれ、ビニールの包みを取りだした。
それを開くと、なかから現れたのは宝くじの券一枚だった。新聞記事の切れ端もある。ていねいにくるまれていたおかげで、雨には濡れずに済んでいた。
氷室がいった。「見てのとおり、去年の年末ジャンボでね。一等が的中してる。持ち主の女性はみずほ銀行に持って行ったけど、門前払いを食わされたってんで、鑑定に頼ってきたわけだ」
「へえ」莉子は券と新聞記事を見比べた。「32組、142072か。たしかに一等ですね」
「だろ? 研究室の設備を使わせてもらって、クロマトグラフィや光学検査、顕微鏡検査をしてみたんだけどね。番号が書き直されているわけでもないし、偽造でもないとでた。ふしぎだろ? 紙幣だけじゃなく宝くじの当たり券まで、本物そっくりの偽物が作られる時代なのかな」
「研究室はまだ使えるんですか?」
「この件に関してのみ大学側の了承を得たけどね。その日限りの許可だった。機材を駆使して偽一万円札を徹底的に分析したいのに、残念だよ」
小笠原は身を乗りだした。莉子が手にしている宝くじは。たしかに本物にしか見えない。
けれども、一万円札が偽造できるのに、わざわざ宝くじの当選券など複製するだろうか。日本円で支払われる賞金も、いまとなっては価値もかつての百分の一以下だというのに。
莉子が眉間に皺を寄せた。「この宝くじは本物だけど......。ちょっと待って......」
しばらく神妙な顔で、なにかしきりに考えこんでいた莉子が、ふいに顔をあげた。
「ああ!」莉子は声をあげた。大きな瞳がさらに見開かれている。「そうだわ。きっと、そうだったんだわ」
小笠原は驚いて、莉子にきいた。「どうかしたのかい?」
氷室も莉子を見つめてたずねた。「その宝くじ、本物が偽物がどっちなんだ?」
しかし莉子は、ふいに黙りこんだ。
表情もまた真顔に戻る。いや、目の輝きが失われ、沈みこんでいた。落ちこんで憂鬱な気分に浸っているようすの、さっきまでの莉子がそこにいた。
「......コーヒーいれてくるね」莉子はそういって立ちあがり、奥の扉のなかに消えていった。
小笠原は思わず、氷室と顔を見合わせた。氷室は怪訝ないろを浮かべていた。
妙だ。いったいどうしたのだろう。莉子はたしかに、何かに気づいた。でもそれを打ち明けようとしない。
なぜだ......。
祝祭
経営者として、かつての従業員が独立して巣だっていくのをみるのはなにより喜ばしい。
一国一城とまではいかなくても、いまや立派に個人経営の店主になった元従業員が、古巣に立ち寄ってくれることはよくある。閉店後の事務室で酒を酌み交わしながら、卒業生と差しで談笑する。それが瀬戸内陸にとっての、最高に楽しいひとときだった。
とりわけ、この凜田莉子という卒業生は、真の意味で特別な存在だった。外見ばかりでなく内面も人間的な魅力に溢れているし、頭のよさという点でも目を瞠る成長ぶりだ。
なにより、彼女の語る話はおもしろい。近況をきくだけだというのに笑いが絶えない。闇に覆われた世情をいっときだけでも忘れられる。人生のこの瞬間に心から感謝したくなる。
革張り椅子におさまった瀬戸内は、ブランデーの瓶を傾けてグラスに注いだ。「そのウチカビの工場に運びこまれた紙は、一万円札の用紙と似てたのかい?」
デスクをはさんだ向こう側、来客用の事務椅子に莉子は座っていた。酒の飲めない彼女は、ウーロン茶をすすっている。それでも酔っぱらったかのように上機嫌だった。
莉子は笑いながらいった。「それが、いまにして思えばですけど、まるで違ってたんです。燃えやすい藁でできてるから、当然藁色で」
「藁色......ってことは、ちょっと黄色っぽい中間色調って感じかな」
「でもわたしの目には一万円札の色にしか見えなくて。これじゃ鑑定家失格ですね」
「鑑定眼と錯視は違うだろ。きみは地表に近い月が大きく見えるかい?」
「ええ。とても」
「私もだよ。お互いだまされやすい性格ってわけだね」
ふたりは揃って笑った。
扉が開き、娘の楓が入ってきた。ロックアイスの入ったガラス容器をデスクに置くと、微笑とともに告げてきた。「ずいぶん楽しそうね。でもあんまり呑みすぎないでよ。明日も早いんだし」
「だいじょうぶだよ」瀬戸内はいった。「先に帰っていいよ。裏はお父さんが閉めとく」
「お店では社長じゃなかった?」
「ああ、そうだったな。ごめんな」瀬戸内が詫びると、室内にまた笑いが沸いた。
楓は莉子に声をかけた。「じゃ、ごゆっくり。凜田さん」
「ええ」莉子は応じた。「おやすみなさい、楓さん」
娘が部屋をでていき、扉が閉まった。
莉子はこちらを見つめてきいてきた。「どちらにお住まいなんですか?」
「この近くのマンションだよ」と瀬戸内は答えた。「知らなかったかい?」
「はい......。プライベートについてお尋ねしたことはありませんでした。失礼になるかもと思って」
「礼儀正しいね。楓にも見習わせたいよ」
「楓さんはとてもいい人ですよ。いろいろ教わりました」
ふっと瀬戸内は笑ってみせた。「あれは私の一番弟子みたいなものだからね。口うるさいところは、似なくてもよかったんだが」
ふたりはまた笑いあったが、今度はさっきほどには盛りあがらなかった。娘のことをネタにするのはあまり好ましいものではないようだ。莉子に気まずさを感じさせてしまったようにも思える。
しばし沈黙が降りてきた。瀬戸内はトングで氷をつまみとり、グラスのなかに落とした。
「ところで」瀬戸内は莉子を見た。「お店のほうはどう? こんな状況だからいろいろ難しいと思うが、私にできそうなことがあれば......」
「これ以上、瀬戸内さんに甘えることはできませんよ。開店資金も工面してもらったんだし」
「遠慮するなよ。もちろんうちも余裕はないが、人は助けあうもんだ」
「......最近のお客さんといえば、宝くじの当選券の鑑定だけですね。それも、わたしの留守中にきた相談だったんですけど」
「ほう。宝くじ......」
「年末ジャンボが当たっているというんで、知り合いの准教授さんが科学鑑定してくれたんですけど......、新聞の切り抜きによれば一等にぴたり当たっているのに、銀行では相手にもされなかったんですって」
「妙だね。その当選券は偽物かい?」
「いいえ。科学鑑定でも本物とでたんです。一万円札と同じで精巧な偽物かとも思ったんですけど、よく見ると、問題の原因は別のところにありました」
「別というと?」
莉子は笑顔でいった。「新聞の切り抜きのほうが嘘だったんです。一等の当選番号のなかで、1という数字にボールペンで書き加えて4にしてありました」
「......となると、その依頼人さんは最初から外れてたわけか」
「そう。4が1なら当選だったのにっていう、なんとも惜しい番号の抽選券だったんです。切り抜きを持ってきたのは依頼人の弟さんだったらしいんですが、彼は先にその事実に気づいて、驚かせてやろうと当選発表の記事に加筆したんでしょう」
「なんとも......。すると、きみの知人の准教授さんは......」
「ええ。氷室さんは真面目な人ですからね。宝くじ券のほうはさんざん鑑定したけど、切り抜きのほうは調べなかった」
「知ってびっくりの事実だね」と瀬戸内は笑った。莉子は微笑んだが、その顔にわずかに翳がさした。「それでわたし、ふと思ったんですけどね」
「どんなことを?」
「一万円札もそうだったんじゃないかなって。偽札なんて最初からなくて、あれは番号を書き替えた本物の札だったんじゃないかって、そう感じたんです」
グラスを注ぐ手が、思わずぴたりと止まる。
鈍い感触を覚えながら、瀬戸内はボトルをデスクの上に戻した。「番号の書き換え?」
「当選発表の記事は1を4にしてありました。同じように、3に書き加えれば8になります。数字のなかで、このふたつについては加筆のみで修正可能です」
「......でもそれで。同じ番号の札が二枚作れるのかい?」
「できますよ」莉子の目は輝いてみえた。「マスコミ各社に送られた、偽札とされる番号をチェックすればわかります。どれも下三けたに、4か8が合まれてます」
「下三けた?」
「一千万円を新札で銀行から引きだすと、すべて通し番号になっています。最初の札の下四けたが0001だとすると、0002、0003......とつづいて、0999、1000までが揃います」
「となると、百の位だけが1と4で違っていたり、十の位のみが3と8で異なっている番号などが頻出するわけか」
「そうです。それらに加筆すれば、二枚同じ番号の紙幣は、かなりの組数を作成できます」
「実に面白い」瀬戸内は酒をグラスに注ぎいれた。「しかし、ちょっとありえない話だな」
「なぜですか」
「鑑識ばかりか科捜研、科警研が調べているという話じゃないか。加筆に気づかないわけがないだろう。インクも調べるだろうし、そもそもお札のインクの成分というのは秘密になってるはずだろ?」
「そこなんですけどね」莉子はハンドバッグをデスクに載せて、なかをまさぐった。
取りだされたのは一冊の新書だった。『紙幣の製造』という書名だった。
莉子はきいてきた。「この本、お返ししなきゃと思って。持ってきました」
「返す? 私の本かい?」
「ええ。中野でひとり暮らししてたころ、勉強のために貸してくださった本のなかに埋もれてました。ひととおり学習し終えたらお返しするつもりだったんですけど......。いまだに数十冊がわたしの部屋の本棚のなかです。すみません」
「なに、かまわんよ」瀬戸内は笑って手を振ってみせた。「四割忘れたら復習って、前もいったろ。書物は何度読みかえしてもためになる」
「そうですね。この本にもいいことが書いてありました。財務省の人からも同じことをうかがったんですけどね。現一万円札のインクのなかで成分が公になっているのはただ一色、黒スミだけなんですって。それも全体の〇・二パーセントにしか用いられていないそうです」
「〇・二パーセントね。偽札づくりに利用できるデータとは、とても呼べないな」
「でも番号の書き換えは可能です」莉子は静かに告げた。「黒スミが使われている〇・二パーセントというのは、すなわち番号の部分ですから」
室内に静寂が漂った。
瀬戸内はぐいとグラスを呷った。ブランデーが熱を放ち、喉から胸の奥へと沁みわたっていく。
「とはいえ」瀬戸内は莉子を見つめた。「インクが再現できても、従来の紙幣の上に新しく加筆したなら、分析ですぐに判るだろう」
「......そうですね。誰でもそう思います。あまりに単純すぎて、疑うことすらなかった。けれども科学鑑定では、加筆された番号には気づけないんです」
「押すね」瀬戸内は思わず笑い声をあげた。「鑑定家として誓ってそういえるのかい?」
「ええ」莉子はにっこり笑ってうなずいた。「この本にも書いてあります。印刷前に紙をコーティングする方法は、外国の特許であり、詳細が公表されているばかりか、家庭ですら再現可能なものです。微量の二酸化ケイ素をまぶした水溶液を吹き付け、ムラなく温風にさらす。たったそれだけで、繊維素コーティングと呼ばれる皮膜のできあがりです」
「ほう。繊維素コーティングね」
「これによって紙の表面に毛細管ができ、インクが入りこんで固着し剥がれにくくなります。また、紙とインク皮膜のあいだにファンデルワールス力が生じて、インクをスムーズに付着させます」
「ファンデルワールス力か。それなら知っている。大学で習ったからね。電荷を持たない中性の原子、分子間などで働く凝集力のことだな」
「そうです。その凝集力によって分子間に形成される結合を、ファンデルワールス結合といいます。繊維素コーティングによって発揮されるファンデルワールス結合は極めて強く、ひとつの印刷済みのインクに日数をおいて同色のインクを重ねても、ふたつの皮膜は分かれずに完全に分子が結合し同化するんです。いちど固着したインクは経年劣化も色あせもなく、いつまでも印刷時と同じ分子構造を保ちます。お札というのは、これによって色落ちが防がれてるんです」
「......だとしても、お札の印刷工程ではさまざまな色のインクが重ねられるだろう。黒のインクにのみ同化するなんて可能かね」
「可能です。紙幣の製造において、番号の印刷は最後におこなわれます。ほかの図柄の印刷が終了し、ホログラムが貼られてから、記号と一緒に刷りこまれるんです。したがって、番号はすべてのインクの層よりも上にあり、同じ成分のインクを同じ分量だけ載せれば、ファンデルワールス結合で分子が同化します」
グラスのなかを眺める。氷がなかなか溶けない。酒は濃いままだった。
指先で氷をまわしながら、瀬戸内はいった。「それでも、よほど注意深く加筆しないと駄目だろうな。少しでもいびつなら、顕微鏡の検査で判明するだろう」
「その通りです。国立印刷局の工芸官は原版づくりの際に、百分の一ミリの狂いもなく作業をおこなうそうです。しかし、それを実現する人間が地上にいる以上、ほかの誰かが同じことをおこないうる可能性は充分にあります。まして、お札の絵を真似るのではなく、番号のごくわずかな加筆だけです。筆圧痕にも注意が必要ですが、失敗すればやり直せばいい。一千万円のなかには何度でもトライできるだけの該当番号があるだろうし、それらがすべて尽きても、また銀行に入金して、新札で一千万円をおろせばいい。いちど古札になってしまえば、紙幣のちょっとした落書きなんて、まるで問題視されませんから。実際、一回でも成功したら、残りのお金は交換してまた新たな連番を手に入れていたはずです」
「なるほどね。しかしたとえ細心の注意を払ったうえで、何度も試せたとしても、私にはできそうもないな。ほんの小さな加筆であっても、印刷とそっくり同じに仕上げるなんて」
「顕微鏡で確認しながらおこなうんですよ。米粒に絵を描ける器用さを持つイラストレイターなら、充分可能です」
グラスを呷りかけていた手が自然にとまった。瀬戸内はきいた。「いま何といった?」
「謝花兄弟に紙幣の模写は無理でしょうが、番号の加筆は十回のうち一回ぐらいなら、完璧な仕上がりを期待できるかもしれません」
水の冷たさがガラスを通じて指先に伝わる。そこから身体全体が冷えていく気がした。
「はて」瀬戸内はつぶやいた。「きみのいっていることはいつも明瞭だと思っていたが、今度ばかりはよくわからんな。お酒が入ったせいかな」
瀬戸内は笑った。グラスごしに莉子を眺める。
莉子の顔にもまだ笑みがとどまっていたが、大きな瞳はまっすぐにこちらを見つめていた。
「いえ」と莉子はいった。「番号の加筆をおこなったのはあの兄弟です。脅迫状の作成をおこなったのも彼らでしょう。西表島にいたがゆえに、紙が湿気を帯びてました」
酒が苦味を増す、瀬戸内は告げた。「和希君と玲君が、そんな悪戯に手を染めてたっていうのか? ファンデルワールス結合を利用して鑑定の目をだますことも意図していたと?」
「そうです」
「彼らには悪いが、そこまでの知識の幅があるとは思えないな」
「教えた人間がいるんです。西表島のアパートの部屋には、白い結晶とコップに入った液体がありました。あれは二酸化ケイ素と水溶液でしょう。お札に施された繊維素コーティングを、いつでも実験できる状態にありました」
「繊維素コーティング? でも彼らは......」
「力士シールを鑑定した氷室さんがいってました。ふたりの描き手による力士シールは、高速液体クロマトグラフィによる科学鑑定でも同じ数値がでたって。インクの成分も、経年劣化もまるで同じ。こんなことはありえないそうです。分析では、描かれた時期について数時間の差であっても検出できるはずなのに」
「それは、兄弟がせっせと同時に描いていったからだろ」
「氷室さんの説明によれば、一枚のシールのなかですら、線がどの順番で描かれたかわからないそうです。目、鼻、口のどれを最初に描いたのさえ不明。顕微鏡解析による斜光線照明検査やUV照明検査で、ミクロン単位の筆圧や筆跡の違いを割りだせるというのに、力士シールのインクはすべて同一。分析結果を信じるなら、すべてのシールのすべての線が一秒の差もなく同時に描かれたことになるって」
「ふうん......。それは奇妙だな」
「そうでもありません。謝花兄弟は力士シールを描く前に、用紙に二酸化ケイ素水溶液を吹きつけ、繊維素コーティングを施したんです。だからインクは、本来なら何重かの層に分かれるはずなのに、ファンデルワールス結合を起こして一層に同化した」
「きみはさっきから力士シールと呼んでいるが、それは俗称だよ。正しくはファットマンだ」瀬戸内は笑ってみせた。
だが莉子の口もとには、もう微笑はなかった。
真顔で莉子は告げてきた。「氷室さんが分析を終えたのと時を同じくして、写真週刊誌の『フライデー』が力士シールの記事を組みました。記事の内容を覚えておられますか」
こちらの指摘を無視して力士シールといった。
それは、瀬戸内の知る限り、莉子が初めてみせた反抗的な態度だった。
瀬戸内は心が冷えていくのを感じた。「知らん」
「記事にはこうありました。警視庁の科学捜査研究所が〝力士シール〟の科学鑑定をおこなっていたことがわかった。結果、これらのシールはすべて手描きであり、ふたりの描き手がいることは証明されたが、シールが描かれた順番は判別できず、どちらのタッチの描き手が先に描いたのかもわからなかった。科捜研では、科学鑑定を経てもこれらがあきらかにならないのは異常なことであり、さらに詳しく検査を進めるとしている」
「たいした記憶力だ。私の指導の通り学習法を実践してきたのは、感心に値するよ」
「瀬戸内さん、マスコミが力士シールについて取りあげるのを、予測してたんでしょう? 軽犯罪法に抵触するていどの行為とはいえ、あれだけ意味不明なシールが大量に貼りだされていれば、警察も動かざるをえない。調べればすぐに二種類のタッチがあることが判明し、どちらかがオリジナルでどちらかが模倣だという推測に至る。そして真犯人を捜すために、両者の時間差に念頭を置いた科学鑑定が実施される。あなたは実験したんです。インクのファンデルワールス結合が科学鑑定で見破れるか否かを」
瀬戸内は、莉子に目を合わせなかった。たとえ視線を逸らしていても、視界の端には常に彼女の顔がある。
瞳が大きいせいか、眼力もすさまじく強いように思える。彼女はふだん、そこにいることを誰も無視できないほどの存在感を放つ。美人だからというだけではない。凜田莉子は常に周囲に影響を与えつづける女だ。彼女と向き合うとき、自分の人生がいくらか変わることを覚悟せねばならない。瀬戸内は常々そう思ってきた。けれども、自分への影響は考えていなかった。予測を超えた化学反応だった。視界にある風景がすべて、彼女によって変えられていく。闇を脱したと思ったのに、ふたたび暗黒に包まれていく。
グラスを持つ手が震える。しばらくは声もでなかった。
やがて、やっとのことで瀬戸内はつぶやいた。「きみは、私が偽札騒ぎを起こしたっていうのか」
「『フライデー』に記事が載ったその日、マスコミ各社に、同一番号の一万円札二枚の入った封筒が持ちこまれました。記事によって、科捜研がファンデルワールス結合にただちに気づくことがないと証明されたため、あなたは準備してきた計画を実行に移した。西表島の謝花兄弟に作らせた同一番号紙幣と脅迫状をばらまいたんです」
「がっかりしたよ......。凜田さん。私はきみの将来を思い、常に希望溢れる未来を抱いてほしいと願っていた。そのために援助も惜しまなかった。ところがきみは、私を犯罪者だという。よく考えてみてくれ。私のようなしがない零細企業の経営者に、そんな大胆不敵なことが可能かね?」
「匿名の脅迫状と、ほんの少し加筆した紙幣を各社ロビーに置いてくるだけです。うまくいかなければ、悪質ないたずらで済んでしまうだろうし、あなたの身に捜査の手が伸びるとも思えない。力士シールをあしらったチーブグッズの看板やポスターを、世間に公開するつもりはさらさらなかったでしょうから。あれはただシールを貼ってまわる楓さんや従業員を納得させるための理由づけでしかなかった」
「娘をも欺いていたっていう話か。感受性の高さを想像力と結びつけろとはいったが、妄想に浸れとは教えていないはずだがね。日本経済を大混乱に陥れたのは私だってのか?」
「そうです」
「きみは思い違いをしている。経済が破綻したのは、マスコミに送られたわずかな枚数の同一番号紙幣のせいではない。世に出回っている二十兆円もの偽札のせいだぞ。私に二十億枚の偽札づくりが可能だというのか」
「二十兆円だなんて、そんなものはありはしません」
「しかしだな、政府の調査委員会が......」
「全国六つの都市で銀行による小売店からの現金預かり額、一般の顧客の預貯金総額などのサンプルを各世代別に抽出し、そこから国民全体に流通する通貨量を推し量った。それが政府による緊急調査のやり方です。結果としてマネタリーベースを二十兆円も上回る答えがでたため、パニックに拍車がかかった。でもそこには大きな勘違いがあります」
「とうとう政府から国民全体までが間違ってるといいだしたわけか。凜田さん、冷静になれ。いちど頭を冷やすといい。この世できみひとりだけが正しいなんてことは、ありえないだろ」
「政府調査が実施されたのは、NHKが偽札のニュースを報じてから三日後のことです。そのあいだになにが起きていたか。どの家庭でも一万円札を放出したんです。金曜の報道の後だから、土日は銀行が開いておらず両替は不可能だった。だから誰もが買うことで、お金を物に替えていったんです。そういう目的だから高額商品が売れた。高齢者を中心に、タンス預金が一気に各家庭から市場に解き放たれたために、通貨の流通量が異常増加しているとみなされた。いちど二十兆円という調査結果を得た財務大臣が、その後も通貨量が増えつづけていると発言しましたが、それも当然です。二〇〇八年の日銀の調査によれば、全国のタンス預金の総額は三十兆円。つまりあの調査方法では、マネタリーベースを三十兆円まで上回る錯覚が生じえたんです」
もはや泥沼だ。それでも反証せざるをえなかった。瀬戸内はいった。「このあいだ犯人グループがマスコミに送りつけたDVDには、南極にある大量の偽札が映ってたじゃないか」
「あの映像は、通貨量の増大に説得力を持たせるために駄目押しで用意してあったものでしょう。でも、いちばん上になっていた札のうち二枚に同一番号紙幣があるとしめされただけで、ほかの札束については検証映像もなく、なんの意味も持ちません。あまり巧いやり方ではありませんでした。もちろん撮影した場所も南極ではないし」
「ならどこだね」
「ここです。初めてわたしがこのお店に来て、瀬戸内さんの面接を待つあいだ、一階裏手のガレージに冷凍トラックが停まってました。従業員が照明用のスタンドを荷台から下ろしてた。誰だ、こんな物を載せたのはって怒鳴ってました。たしかに、あんな物を冷凍車で運ぶはずがありません。あなたが撮影に使ったんでしょう。終了後、札束は運びだしたけど、照明スタンドはそのままになってたんです。大勢の面接で忙しかったからでしょうね」
「撮影のために数千万の金を冷凍トラックに載せたってのか? 贅沢な話だね。私もあやかりたいよ」
莉子はいささかも動じる気配はなかった。「商売で純益があがっていなくても、銀行からの借り入れ金があったでしょう。札束を詰むだけなら、借りたお金で充分です。もちろん、同一番号づくりのための一千万円も借金だったでしょう。わたしが冷凍車を見かけたのは五年前。つまり、五年越しの計画だったんですね」
「......五年、ね。そのわりにはずさんと思わないかね? ファンデルワールス結合はたしかに気づかれにくい化学現象かもしれない。最初の科学鑑定では浮き彫りにならないかもしれんが、永遠にだましおおせるものとは思えない。近いうちに誰かが真相にたどり着くだろう。南極の映像にしたって、外の映像とつながっていないことはすぐに証明される。とすれば、私はなぜそうまでして、こんな手のこんだ悪戯をおこなった? 凜田さん。ウチカビのことを思いだしたらどうだ。きみにとってつながっているように見える一本の線は、じつは夢想にすぎないかもしれんのだよ」
莉子はわずかに視線を落とした。
速まる心拍とともに、瀬戸内はごく小さな可能性に賭けていた。動機だ。目的さえ看破されなければ、犯罪の立証には成りえない。
しかし、やはり聡明な凜田莉子につまずきを期待することはできなかった。莉子の目がふたたび、まっすぐに瀬戸内に向けられた。
莉子が告げてきた。「ボランティア精神に溢れた儲けなしの経営方針、銀行からの融資も断られて、あなたの負債は日を追うごとに膨らんでいたはずです。わたしが辞めた時点でもそうだったのに、なぜか三年経ってもチープグッズは方針を曲げないまま存続している。本来なら成り立たない経営です。融資はゼロのはずだし、負債額はもはや数十億か、それ以上にのぼるでしょう。会社はとっくに倒産していておかしくないし、商品は店舗ごと二束三文で引き取られ、あなたと楓さんのもとには莫大な額の借金だけが残る運命です。あなたは、迫りくるその運命に耐えきれなくなり、逃れられるすべを模索しだした。そして気づいたんです。ハイパーインフレさえ起きれば借金は帳消しになると」
グラスのなかの氷は溶けきっていた。ロックのブランデーは、もはやなみなみと注がれた水割りにすぎない。
その淡い琥珀いろの水面に自分の顔が映りこんでいる。老けて、憔悴し、何もかも失おうとしている初老の男の顔が。
「つづけてくれ」と瀬戸内はいった。
「ハイパーインフレになれば、現金の価値が下落し、物の価値は上昇します。あなたはこのお店に大量の在庫商品を有するいっぽう、巨額の借金を抱えている。つまりインフレが進めば進むほど有利になる。物不足が叫ばれる昨今、在庫を業者に引き取らせればドルで儲かる。そのうえで暴落した日本円を買えば、本来は莫大だったはずの借金の額が簡単に揃う。たちまち完済してしまえる」
「......忘れたのかい。私はインフレになってからも、人々のために生活必需品を安く売ってきたんだよ」
「石鹸とか歯磨き粉とか、そもそもが安価な小物ばかりです。家電や家具、OA用品、衣類のようにまとめて業者に売るための物は、値下げせずに温存してあったじゃないですか。わたしを含め、困窮している人からどんな物でも高く買い取っていたのは、ハイパーインフレになれば物がお金より強くなると知っていたからこそ......」
瀬戸内はかっとなった。「最初からそのつもりだったわけではない! 私は純粋に人々にとってよかれと思い、高価買い取りで困難な生活を支援してきたんだ。きみだってその恩恵を受けたじゃないか。恩を仇でかえすとはなにごとだ!」
自分の怒鳴り声が静寂に響くのを、瀬戸内はきいた。
目の前の莉子は、沈黙で応じただけだった。
力が抜けていき、ため息が漏れる。瀬戸内は椅子の背に身をうずめた。
憤りは常に冷静さを欠く。最初からそのつもりだったわけではない、か。自分の行いを認めてしまったようなものだ。
重く、長い静けさがつづいた。瀬戸内はもう莉子の顔を見ていなかった。視界には入っているが、焦点はさだまっていない。ただぼんやりと虚空を眺めていた。
どれくらい時間が過ぎただろう。あるいは、ほんの一瞬だったのかもしれない。
物が落ちるようなけたたましい音とともに、瀬戸内は我にかえった。
莉子が扉の向こうを振りかえった。たしかに音は、店内からきこえたようだ。
瀬戸内は立ちあがり、扉に駆け寄った。ノブをひねって押し開けたとき、瀬戸内ははっとして立ちすくんだ。すぐそこにいたのは楓だった。帰宅時にいつも羽織っていくハーフコートを着ている。怯えきったまなざしが、こちらに向けられていた。
「か」瀬戸内は震える声でつぶやいた。「楓......」
父親にいちども見せたことのない表情を、楓は浮かべていた。泣きだしそうな顔、恐怖をまのあたりにした顔。その対象はほかならぬ私だ、瀬戸内はそう感じた。
まだ帰っていなかったのか。楓。瀬戸内はなにもいえず、その場に立ちつくした。
楓は後ずさり、嗚咽に似た声をあげて背を向けた。そして、逃げるように走りだした。
娘の背が、閉店後の店内の暗闇に消えていく。床には楓のハンドバッグが落ち、中身が散乱していた。
しまった。いまの話を......。
「楓!」瀬戸内は通路に駆けだそうとした。
しかし、まだ椅子に座ったままの莉子がいった。「おかけください」
焦燥が募る。悠長にかまえてなどいられない。瀬戸内は莉子に告げた。「娘が早まったことをしたら......」
「いいからおかけください!」莉子は怒鳴った。
瀬戸内は唖然とした。
怒りの感情をあらわにした莉子を、瀬戸内は初めて見た。
けれども。それもわずか数秒のことだった。なおも憤然としているのはあきらかだったが、莉子の声は低く穏やかなものになった。「デスクの上の電話を見てください。いましがた外線のランプが点きました。楓さんはハンドバッグごと携帯電話を落としてしまったのに気づき、店内の子機で通話してます。いま都内でかけられる番号はふたつしかない。どちらに電話しているのかは、状況を考えれば明白です」
瀬戸内は、電話に目を向けなかった。莉子の視線は外れていた。その横顔をじっと見つめていた。
冷静な観察、思考、そして判断。いまの彼女にはそれらがある。私には残念ながら、備わってはいない。かつてはあったかもしれないが、すでに失われた。
ゆっくりとデスクをまわり、自分の椅子に戻る。足もとがふらついた。身体を投げだすようにして、革張りの肘掛けのあいだにおさまった。
また莉子と向かい合った。
静寂だけに耳を傾けていたい。そんな気分だった。
もう未来は変わらないのだろう。ファットマンを......世間のいうところの力士シールを警察が調べれば、繊維素コーティングはすぐに検知される。紙幣にしてもそうだ。偽札かもしれないという目くらましが取り払われ、純粋に番号の書き直しの痕跡に絞って調べられたら、さほど日数を要することなく真相は導きだされるだろう。すべては莉子のいった通りだと、裏付けられるに違いない。
経済はほどなく、以前の姿に戻っていくだろう。もとより、マネタリーベースどおりの通貨量の世のなかだ、悪夢からはいずれ覚める。
ただほんの数週間、世間を欺ければよかった。各方面の業者に手配がついて、在庫商品の売却の手筈も整った矢先だった。あと数日で借金を完済できた。地獄から逃れられた。
予想もしていなかった幕切れ。五年間積みあげてきた石。それを崩したのもまた私だった。莉子を学ばせ、成長させたのは私なのだから。
「凜田さん」瀬戸内は、ささやきのように漏れた自分の声をきいた。「私や、謝花兄弟。犯罪者の巣窟にきみはいる。さぞかし不安だろうね」
莉子は瀬戸内を見た。虹彩のいろがわずかに変化した。
「いいえ」と莉子はつぶやいた。「あなたのことだから、あの兄弟はとっくに逃がしてるでしょう。このビルに残っているのは、あなたと楓さんだけ」
「......悪人の父と、裏切られた娘というわけだ」
「悪人ではないですよ」莉子が静かにいった。「怖い人でもない。瀬戸内さん。あなたは尊敬すべき人でした。誰よりもやさしくて、いつもまじめで、理想をめざす人だった」
莉子の真摯なまなざしを、直視できない自分がいた。目をあわせたとたん、泣きだしてしまいそうだ。
氷の溶けきったグラスを、瀬戸内は引き寄せた。
「うまくいかないのが前提だった」瀬戸内は思いのままを小声で告げた。「マスコミや世間に本気で受け取られる可能性はごくわずかだ、そう思ってた。それでもやれることはやったと信じたかった。ところがうまくいってしまった、だからつづけざるをえなかった」
「あなたの初心とは、大きく食い違う行いだったはずです」
「そうかもしれない......、でもわからなくなった。当初は、救済こそが生き甲斐だった。金なんかに振りまわされる人々を苦境から救い、幸せな暮らしのなかに解き放ってやりたかった。けれども、理想と現実には開きがあるもんだ。気づいたときには。私自身が救われない人間になってた。私の信念は結局、金に負けたんだよ」
希望を抱いて歩んできたはずの旅が、袋小路に迷いこんだと気づくに至り、もがき苦しみ、最後はみずからが救いを求めて、よからぬことと知りながら道を踏みはずした。それが私の人生だった。絶望から逃れられるのなら、どんなことでもやってみようという気になっていた。それによって不幸になる数多の人々の事情さえ顧みずに。
莉子の表情は和らいでいた。「あなたはとても多くの財産をお持ちでしたよ。知という財産を」
受け継いだのは彼女だ。瀬戸内はそう認識した。願わくは私の理想も、彼女につたわっていてほしい。
それでも、私のようにはなってほしくはない。
瀬戸内は莉子を見つめていった。「きみも経営者である以上、これだけは守ってくれないか。稼ぎは絶対だ。利益を度外視するなんて馬鹿げてる。商売の第一原則に反してる。そこを踏まえるのを忘れないでほしい」
莉子は首を横に振った。「わたしは、あなたと同じ理想をめざします。収人なんて最小限でいいです。それより人のために尽くしたい」
「......それでいいのかい? 苦労するよ」
「わたしは身ひとつですから。支出も店舗の家賃代ぐらいです」
「ああ......。そうだな」瀬戸内は思わず笑った。こんなときだというのに、笑える自分に驚きを感じた。「きみは在庫を抱えずに済む商売だもんな」
莉子は微笑した。「あなたが敷いてくれた道ですよ、瀬戸内さん。わたしが同じ轍を踏まないよう、経費がかからない仕事を勧めてくださった」
いつも戸惑いを含んでいるかのような、ぎこちない微笑み。でもそれは、莉子が最高に親しみをこめた笑顔だと瀬戸内は知っていた。
「きみには才能があったんだよ」瀬戸内はため息とともにいった。「私にはなかった。だからほかに売るべき商品を抱えなきゃならなかった」
「瀬戸内さんが売ってきたのは物じゃないですよ。真心です。楓さんもきっとわかってくれる」
じんわりと温かいものがこみあげてくる。この心境に安らぎを与えられるなんて、彼女の懐はどれだけ深いのだろう。まだ二十三だというのに、驚くべき女性だ。
彼女の未来を信じてよかった。彼女に、私の拙い知識のすべてを与えてよかった。
遠くでサイレンの音が沸いている。
そろそろ旅も終わりか。瀬戸内はグラスを口に運んだ。
莉子がいった。「ひとつだけお願いがあるんですけど」
「なんだね?」
初めて彼女を面接したときと同じまなざしが、こちらに向けられていた。莉子は告げてきた。「店名のことなんですけど。Qはクイーンじゃなきゃ駄目ですか?」
思わず呆然とする、時間がとまったかのようだ。
瀬戸内は噴きだしながら応じた。「キューでいいよ。ずっとそう呼びたかったんだろう?」
莉子はさも嬉しそうに、にっこりと笑った。屈託のない無邪気な笑顔。そんな表情もみせるんだな、と瀬戸内は思った。
グラスをあおり、水割りのように薄くなったブランデーを流しこんだ。ほとんどなんの味もしない。しかし、いまこの瞬間には美酒にほかならない。宴をしめくくるのに最高の酒だ。そう、今宵は祝おう。才覚溢れる凜田莉子の船出を。万能鑑定士Qの巣立ちを。


万能鑑定士Qの事件簿 Ⅲ
ボイスチェンジャー
店内BGMに有線を使わず、CDの音楽を流しても、節約にはならない。
CD代に電気代、かかるのはそれだけではない。二〇〇二年以降、日本音楽著作権協会が店舗での音楽利用について、使用料を徴収するようになったからだ。
店舗面積千平方メートル以下なら年間一万円。六千平方メートル以下なら三万円。どんな曲をかけようと、この支払いだけは税金のように義務づけられている。
対する店舗経営者は、コストカットのためにさまざまな知恵を絞っている星合結衣もそんなオーナーのひとりだった。
『JJ』のモデル出身、いまや三十代半ばの結衣は、オリジナルブランドのショップ〝ラブラドール〟を経営している。
場所は新進の商業施設、飯田橋ヒルズ。洒落た吹き抜けのロビーからエスカレーターで二階に上ってすぐ、最高の立地だった。
結衣は、知り合いの経営者に教えてもらった方法を利用していた。無料で店内BGM用の音楽をブロードバンド配信しているサイトに会員登録し、パソコンをアンプに接続したのだった。著作権フリーの音楽ばかりだが、メロディもスコアも優れたものばかりで、しかもJASRACの課金の対象外だ。
微々たるものであっても、こういうところをしっかり切り詰めるのがオーナーの役割だと結衣は思った。
経営は順調だった。コンサバ系の割りには色づかいの派手な独特のデザインを中心に、人目を惹くファッショナブルな服を取りそろえたラブラドールは、開店当初から人気だった。ラブラドールは有名店となり、飯田橋ヒルズの名物のひとつになった。
だが、ピークと呼べる時期はさほど長くはつづかなかった。ある営業日の朝にかかってきた一本の電話を受けたとき、ラブラドールは泥沼の深みに嵌まりだした。
野太い声、それはニュースでよく耳にするボイスチェンジャーによる音声変換だった。喋り方からして、男に違いないだろう。
男の声はきいてきた。「店長の星合結衣さんですか」
店の奥で受話器を手にした結衣は、とっさに店内に目を向けた。開店直後、まだ客足はそれほどでもない。
「そうですが」と結衣は応じた。
「店長のあなたに申しあげておきます。来月の売り上げは、今月より四割ほどダウンします」
「失礼ですけど、どちらさまですか」
「あなたよりずっと高みに立って、ラブラドールの経営を見守る者です。私は社会事象とそれに伴う経済の変化、景気の波などあらゆる法則に従って金の動きを予測します。あなたの店は来月、四割の売り上げ低下にみまわれるのです。これは深刻な経営危機の始まりであり、その次の月はさらに大きな赤字に直面するでしょう」
「......どういう計算に基づいてそうおっしゃるんですか。飯田橋ヒルズは当分のあいだ安泰だと、誰もがそう思ってるんですけど」
「飯田橋ヒルズはそうでしょう。訪れる人の数も右肩あがりです。でもあなたの店には、客が寄りつかなくなる。吹いていた風がぱたりと途絶えるように、成長もこれまでになります。ご覚悟だけはお忘れなきよう。では」
返事もきかず、一方的に電話は切れた。ツー、ツーという耳障りな反復音が響くばかりだった。
妙な電話から一か月。結衣は心中穏やかならぬ自分を感じていた。
夜九時、閉店の時刻を迎えた。若い女性店員がレジを操作し、一日の売り上げの合計額をレシートにまとめていく。
かつてはおびただしい長さに達したレシートは、日を追うごとに印字の時間を短縮させていく。きょうもレジの作動音は、わずか十数秒で途絶えた。
女性店員が困惑顔で、レシートを差しだしてくる。
結衣はため息とともに、それを受け取って眺めた。
きょうもノルマに達しなかった。今月に入ってからずっと売り上げは水準以下だ。
どうなっているのだろう。客足は途絶えていないし、計算を間違えてもいない。それなのに、終わってみると集計結果は常に前日を下まわっている。
飯田橋ヒルズで売り上げが減少しているのは、ラブラドールただ一店だけだった。どの店も好調のようだ。両隣りの店舗も、順調に業績を伸ばしつづけているときく。
ライバル店が出現したわけでもない。理由はまったく浮かばない。このままいけば、たしかに今月は先月の四割減だ。あの奇妙な電話の男が告げたとおりに......。
ふいに電話が鳴った。
女性店員がでる。「はい、ラブラドール飯田橋ヒルズ店です。......少々お待ちください」
嫌な予感がする。結衣は差しだされた受話器を手にとった。
「お電話かわりました」結衣は受話器にいった。「店長の星合ですが」
きこえてきたのは、あのボイスチェンジャーの低い声の響きだった。「どうですか、星合さん。いったとおりでしょう」
「ふざけないでください。これはなんの冗談ですか」
「冗談? 私は現実を見据えているだけです」
「原因はなんです。どんな妨害を働いてるんですか」
男の声は短く笑った。「妨害だなんて、とんでもない。いったじゃないですか、私は高みに立って経済の行方を見守る者です。来月は今月のさらに二割減です。すでに四割低下したあとですから、これは痛手でしょう」
「......さらにその後は、月を追うごとに落ちこんでいくってことですか」
「いえ。再来月からは、じり貧とまではいかず、横ばいですね。ある意味で安定期に入るってことでしょう」
今月の二割減で売り上げが固定されてしまっては、大幅な赤字だ。従業員の給料どころか、テナントの賃料すら払えなくなる。
結衣はいった。「それじゃ倒産するのは目に見えてるじゃないですか。好転させる方法はないんですか」
「ないわけではありません。というより、私が伝えたかったのはまさにそこでね。あなたの店の経営を悪化させる複雑な事象を、私は知り尽くしている。それを取り除いて差しあげるのはさほど難しくはない」
「じゃあそうしてください。いますぐに」
「ただというわけにはまいりませんね。今後、月の売り上げの三十五パーセントを、こちらの指定する口座に振りこんでいただきます」
「三十五パーセントだなんて! このところの収益減となんら変わらないじゃないですか」
「そうでもありません。私が手を打つことで、あなたの船は嵐から逃れ、快晴のもと航海をつづけられるでしょう。売り上げはすぐに先月のレベルに回復します。あなたがさらに努力することで、収益はさらに伸ばせるはずです。三十五パーセントを私に支払ってもなお、大きな利益を得られるはずですよ」
頭がくらくらする。めまいを起こしそうだった。いまとなっては正気を保つのがやっとだ。
男の声はつづけた。「メモをおとりください。東京東和銀行、磯上支店。普通口座、8435272。口座名義、カナミチ・テルヨシです」
あわててボールペンを手にする。メモ用紙に殴り書きしながら、結衣は思った。こんなものは他人もしくは架空の名義にすぎない。けれども、わたしひとりで元をたどることなど不可能だろう。
「では」男の声がいった。「月末の第一回の振り込み、お待ちしております」
電話が切れた。またしても機械的な反復音だけが結衣の耳に残った。
通話ボタンを切って、受話器を電話に戻す。ぞっとするような寒気が結衣を襲った。店内の温度が急激に低下したかのようだ。
ストアシック
翌日、星合結衣は大久保通り沿いにある十階建てのグレーのビル、牛込警察署に相談に赴いた。
三階のいわゆる刑事部屋、フロアにひしめく事務デスクに、大勢の私服警官がおさまっていた。多少は頼りがいのありそうな厳めしい顔つきの男たちのなかで、知能犯捜査係の葉山翔太警部補なる男は例外的存在のようだった。
ひょろりとした身体つき、七三に分けた髪も長めにしている。年齢は三十代ぐらい、やや面長の馬面。男性ファッションモデルにはなりえないが、刑事部屋のなかではそれなりにイケメンの部類に入る。しかしそれは顔だちに限ったことであり、目には覇気がないし、無精ひげも生えていた。安物のワイシャツに形ばかり結んだネクタイも皺ができている。
葉山が持ってきたのは正規の書類ではなく、ただの白いわら半紙だった。
どこか瓢々としてみえる態度で、葉山はいった。「で、星合さん。あなたはそのう、かかってきたっていう電話の、どこをとらえて脅迫だと思ったわけですか」
結衣は面食らった。「どこって......。お金を払えといってきたんですよ。売り上げの三十五パーセントものお金を要求してきたんです」
「あなたはそれ、払う気あるんですか」
「......現時点では、ありません」
「なら、それでいいじゃないですか」葉山は脚を組んだ。「そんな悪戯なんかね、いちいち相手にしてたらきりがないでしょう」
「悪戯、ですか。けど売り上げは本当に四割のマイナスになってるんです」
「売り上げが伸びないこともあるでしょう。それともなんですか、具体的な営業妨害でもありましたか。お店を中傷するビラ紙を貼られたり、悪評を振りまかれたりとか」
「いえ。どちらもありません」
「では利益の上がったり下がったりを、あなたのいう脅迫犯とやらのせいにはできんでしょう」
ふいに頭に血がのぼった。「葉山さんはブランドショップのことをご存じないでしょう? うちの店は堅調なコンサバ系で勝負してるし、立地条件にも恵まれているからそんなに急な変化があるわけないんです。爆発的な売り上げ増も期待できないかわりに、突然の下落もありえない。お客さんがほかに流れてれば別ですけど、その気配もないんです」
「ほかに変わったことはありますか? 四割ダウンという以外に」
「ええと......。従業員が休みがちになってます。仮病ではなく、本当に体調を崩すことが多いみたいです。理由ははっきりしません」
「給料はちゃんと払っていらっしゃる?」
結衣は思わずむっとした。「当然でしょう」
「飯田橋ヒルズの二階、ね。あそこにはたしか飲食店もありましたね」
「ええ。向かいはチャイニーズレストランです。その隣りもファストフードがあるし、二軒先にはクレープのお店も入ってます」
「保健所の調査は、しょっちゅう来てるでしょ?」
「ファストフードはオープンしたばかりなので、つい先日検査があったときいてます。通路だとか、うちを含む飲食店以外の店頭についても調べたようです。飯田橋ヒルズでは、それが規則ですから」
「で、衛生面になんの問題もなかった。そうですね?」
「はい......」
「従業員さんは病院に行かれましたか? 診断書は?」
「別状がないってことなので......。特に診断書は......」
「じゃあ、そこも関係ありませんね。利益が思うようにあがらなかったってのは、まあ偶然でしょう。まだ店を開いて一年足らずでしょ。経営してりゃ、いろいろありますよ」
予想していたこととはいえ、わざわざ足を運んだ警察署でこうまでないがしろにされると、怒りを通り越してむしろ何も感じなくなる。結衣はつぶやいた。「暖簾に腕押し、ですね」
「お店なだけにね」と葉山はにやけた。
憤りを覚えて結衣がにらみつけると、葉山はあわてたようすで視線を逸らし、何も書かないままのわら半紙をテーブルから取りあげた。「じゃ、なにかあったらまた相談に来てください」
結局、深い失望を背負ったまま、重い足をひきずって飯田橋ヒルズに帰るしかなかった。
こんな目に遭っているのは、わたしだけなのだろうか。
いや......。あの脅迫電話の声はずいぶん熟れていた。それなりに場数を踏んでいるのではないか。
同じ境遇に置かれた全国の経営者たちが、わたしのように声をあげられずにいるのかもしれない。
相談相手もいない、警察も頼りにならない。どうすればいいだろう。
絶望感に打ちひしがれ、店の奥の事務室に入る。そのとき、マガジンラックに刺さった雑誌の見出しが気になった。
あなたのお店はだいじょうぶ? ストアシック症候群、蔓延中。見出しにはそうあった。
胸騒ぎを覚えながら雑誌を引き抜く。『週刊角川』だった。目次で記事を探してページを開いた。
──流行っていたはずの店が、ある日突然閉店しているのを見かけたことはないだろうか。ストアシック症候群。これといった理由もないのに、なぜか目に見えて客足が落ちていき、やがては倒産に追いこまれるという、経営者にとって恐怖の現象だ。
これを店主の怠慢だとか、絶対に存在するはずの原因に思いが及ばない経営者の想像力の欠如と断じる意見もある。だが、実際には内的・外的要因がいっさい見当たらないにもかかわらず、そのような事態に陥った例がいくつもあるのだ。
結衣は、引きこまれるように記事を読みふけった。
ストアシック症候群......。初めて聞いた。これを人為的に引き起こしたり、あるいは自然発生するのを予測することは可能なのか。そこが知りたい。
問い合わせ先はないのか。相談を受けつけてくれるところは......。
記事を眺めまわしていたとき、欄外のある一点が目にとまった。
取材記者・小笠原悠斗。ページの隅にその名が小さく記してあった。
編集部
晴れた日の朝、星合結衣は飯田橋駅から早稲田通りを渡り、複雑に入り組んだ住宅街の路地に歩を進めていた。
ラブラドールの営業日に飯田橋ヒルズを離れるのは初めてだった。従業員に店を預けるのは、たとえ数時間であっても不安でたまらない。けれどもきょうは、どうしても行かねばならないところがある。
日本歯科大の手前、細い路地の急な坂を上った左右に、真新しいビルが聳え立つ。ベージュいろのタイルに包まれた瀟洒なつくりの社屋は、一階の外壁がグレーの大理石で飾られている。左手のビルのエントランスは車寄せのスロープを上った先、ガラス張りのロビーのなかにあった。
株式会社角川書店、本社ビル。結衣はスロープ沿いの歩道をのぼっていき、ロビーに向かった。
カウンターのなかにおさまった女性社員が会釈をする。結衣が用件を告げると、立ちあがってエレベーターホールに案内した。七階です、と女性社員はいった。
上昇するエレベーターの内部には、新刊案内のチラシが壁面にびっしりと貼りめぐらされていた。目立つのはアニメ絵のキャラクターだった。大部分がその手のイラストに埋め尽くされている。
そういえば、角川グループはファッション雑誌を刊行していない。近いところで美容と健康を売りものにしている『シュシュ』ぐらいだろうか。ラブラドールは開店時に多くのマスコミ関係者が詰めかけたが、角川の人とは名刺交換したことがない。話し合いが不調に終わりそうなときにも、頼れる知り合いは誰もいない......。
憂鬱な気分でたたずんでいると、エレベーターの扉が開いた。
グレーのカーペットの通路をしばらく歩く。突き当たりのガラス扉に『週刊角川編集部』とあった。それを押し開けると、想像どおりの空間がひろがっていた。
編集部は喧騒に包まれていた。連なるデスクにおさまった編集員や記者たちは、パソコンのキーボードに指を走らせるのに忙しかった。フロア自体は広大だが、デスクはいくつかの部署に分けられている。それぞれの部署間での人の往来も激しい。コピー機やファクシミリはひっきりなしに作動し、電話の呼び出し音はそこかしこで鳴り響いていた。
近くを通りがかった、二十代半ばぐらいの男性社員がこちらを見て足をとめた。頬もこけて鼻すじも通っているが、ぎょろりと剥いた目は異様に大きく見える。
「なにか?」と若い男性社員はきいてきた。
「あ、あのう......。小笠原悠斗さんと約束がありまして」
「小笠原ですか。ちょっと待ってください」男性社員はフロアの奥を振りかえって、声を張りあげた。小笠原。
それから結衣に向き直り、社員は名刺を差しだしてきた。「私も記者をやってる宮牧拓海と申します。小笠原とは同期でして。よろしくお願いします」
「はあ......それはどうも」
宮牧という男はきわめて礼儀正しいが、目が大きすぎて視線を合わせづらい。見つめられると、無意識のうちに萎縮しがちになってしまう。
すると、宮牧の肩越しにもうひとり、同年代の男が歩いてくるのが見えた。こちらも痩せているが、宮牧よりわずかに背が高かった。髪は今風に長くしていて、少しばかり褐色に染めている。細面で鼻が高く、下あごは女のように小さいが、れっきとした男だった。涼しい目がこちらを見やる。男性ファッション誌でいえば、『サファリ』からはほど遠く『メンズノンノ』系のルックスだった。とはいえ、身につけているのはいかにも安っぽいスーツの三点セットで、せっかくの上質の素材を生かしきれていない。彼が本職のモデルだったなら、スタイリストをただちに交替させるべきだろう。
「小笠原です」その男は頭をさげた。「星合さんですね。ラブラドールの」
「そうです」と結衣は応じた。
彼が小笠原悠斗か。記事の文体の印象から、もっと年配の記者かと思っていたが、思いのほか若かった。
意外に感じると同時に、不安が結衣のなかに広がりだした。イケメンではあるがなんとなく頼りなさそうな、今風の若者という印象だ。果たして力になってくれるだろうか。
宮牧のほうがきいてきた。「ラブラドールって、飯田橋ヒルズの人気店の?」
小笠原が咎めるようにいう。「いいから。おまえは仕事に戻れよ」
「そういうな。どうしておまえばっかり綺麗な人を連れてくるんだ」
「さっさとホテルの記者会見に出かけろよ。遅れるぞ」
そのとき、遠くから中年の声が飛んだ。宮牧。
「はい」宮牧は返事をしてから、結衣に向き直った。「じゃ、星合さん。機会があったらまた」
そういって宮牧は、魚眼のような目で結衣を凝視すると、背を向けて立ち去っていった。
頭をかぎながら小笠原がいった。「すみません。同僚が失礼を」
「いえ......。なんだか、お忙しいところにお邪魔しちゃったみたいで」
「とんでもない。いつもこんな調子ですよ。まあきょうは、グランドフライヤーズ・ホテルが民事再生法を申請したっていうんで、記者の大半が取材にでかけるところです」
「あなたもおでかけになるんですか?」
「僕は......。外での取材能力をあまり買われてないので、そのう、留守番みたいなもんです」
「そうですか。でもストアシック症候群の記事は......」
「あれもじつは、海外で提携している雑誌社のニュースソースから翻訳して、抜粋しただけのものなんです。僕の場合、記事を書くだけって仕事が多いんですよ。もちろん最低限の裏付けは、ちゃんととってますけど」
落胆が襲ってきた。「じゃあ、ストアシックについて専門家の意見が聞けるわけじゃないんですね」
「ええ。ただ、そのう......。お送りいただいたメールを何度も読みかえしたんですが、星合さんのお店で起きていることと、ストアシックはちょっと違うんじゃないかと感じまして」
「違う? どのように?」
「ストアシック症候群っていうのは唐突かつ突飛な現象なんです。おそらくは偶然の積み重ねによって起きる事故のようなものと考えられます。しかし星合さんの場合は、収益減を予期した電話がかかってきたわけでしょう。しかも脅迫的内容を含んでいる。第三者に予測可能だったという時点で、ストアシック症候群の概念に当てはまりません」
結衣は当惑を覚えた。「だとしたら、なんでしょう?」
「さあ......。日本の経営学のプロは、まだストアシック症候群という言葉を用いていないようだし、似た現象を研究している人もいないようなので」
「そうですか......」
ため息とともにうつむく。やはりここでも答えは見つかりそうにない。手詰まりか。八方ふさがりの闇、希望の光はいっこうに射しこまない。
「ただし」小笠原は穏やかにいった。「誰にも相談できないわけじゃありません」
「え?」結衣は驚きながらたずねた。「でも、いま研究者がいないって......」
「経営学の専門家じゃありません。むしろまったく畑違いの人材といっていいでしょう。でもきっと、彼女なら力になってくれるでしょう」
「彼女? 女性ですか?」
「はい」小笠原は微笑とともにうなずいた。「それも、僕より年下ですけどね。鑑定業を営んでます」
鑑定業......。まるでぴんとこない。不安は募るばかりだった。
小笠原はそんな結衣の心のなかを見透かしたかのように、笑顔とともに告げてきた。
「心配いりませんよ。きっとなんらかの進展があるはずです。彼女の鑑定眼はあらゆるものを対象にしていますから」
万能鑑定士
星合結衣は小笠原悠斗に案内され、ハンドバッグ片手に外濠から神田川に沿って伸びる商店街を歩いていった。
正午まで間があるせいか、陽射しはそれほど強くない。それでも視界にまぶしさを感じる。いつも店のなかに詰めていることが多いせいだろう。考えてみれば、太陽の光をまともに受けるのもひさしぶりだ。炎天下になったら耐えられないだろう。
もう一段上のUVカットのクリームを塗ってくるべきだった。そう思いながら歩を進めていくと、雑居ビル一階のテナントが見えてきた。
小規模な店だが正面はガラス張り、入り口は自動ドアで、カフェか美容室のようでもあった。ガラスごしにスタイリッシュな内装が見える。艶消しのアルミとガラスを使った、無機質でシャープな印象の家具が据えてある。シンプルモダン風の透明なデスクに黒革張りの椅子、客用のソファが数脚。趣味のいい小物を飾ったキャビネット。
ただし、店内にひとけはなかった。接客はなぜか店の前でおこなわれていた。
エントランスの前に大型のセダンが横付けされている。四十代の生真面目そうなスーツ姿の男が、車体後部のトランクを開けていた。店の従業員らしき若い女がそれを覗きこむ。
女は二十代前半だった。ほっそりと痩せた身体、腕も脚も長く、頭部は小さくてモデルのようなプロポーションの持ち主だった。カジュアルな服装をそつなく着こなしている。ライダースとデニムにラベンダーのパーカを挟んだコーディネートもモデルっぽい。雑誌でいえば『モア』系だろうか。
小笠原が声をかけたのはその女だった。「凜田さん」
凜田と呼ばれた女が顔をあげた。「あ、小笠原さん。おひさしぶりです」
落ち着いた控えめな声の響き。見た目の年齢とは対照的だった。
ゆるいウェーブのロングヘアに縁取られた小顔に、猫のように大きくつぶらな瞳と高い鼻、薄い唇がそつなくおさまっている。可愛いというより綺麗という形容が当てはまる美人顔で、どこかクールで個性的に見える。
結衣はちらと店の看板に目をやった。アクリルにステンレス板を嵌めこんだ、しゃれた字体の看板だった。万能鑑定士Qとある。
してみると、小笠原が紹介したがっていた鑑定家とは、この若い女性か......。
小笠原がいった。「彼女は凜田莉子さん、このお店のオーナーです」
ひきつったようなぎこちない笑みで、莉子は頭をさげた。こわばった表情に見えるのは、目が大きすぎるせいで充分に細められないから、そんなふうに思える。
莉子はこの場の全員が知り合いになるべきと考えたのか、四十代の男を指ししめして告げた。「こちらは飛鳥優治さん。商社にお勤めで......」
飛鳥は咳ばらいをした。「私のことはいいですから。早く鑑定士の先生を呼んでいただきたいんですか」
「......はい。では、拝見します」と莉子はトランクのなかを覗きこんだ。
意外そうな面持ちで飛鳥がきいた。「あなたが鑑定するんですか?」
「そうですよ」
「お店の看板に万能鑑定士とあるから、私はてっきり......」
小笠原が口をはさんだ。「複数の鑑定家が在籍してると思われたんでしょう? だいじょうぶです。彼女の鑑定は信頼が置けますよ」
飛鳥は面食らったようすで黙りこんだ。結衣はトランクのなかを見た。
そこにはおびただしい数のハンドバッグがおさまっていた。すべて同じモノグラムの生地だった。ルイ・ヴィトン。
莉子はざっと眺めわたすと、すぐに身を起こした。小さなため息とともにつぶやく。「お気の毒ですが......すべて偽物です」
「なんだって!」飛鳥はハンドバッグのひとつを取りあげた。「そんなにすぐわかるのか? もっとよく見てもらわないと......」
「いえ」莉子のぎこちない笑みは苦笑に似ていた。「ここのアルファベット二文字を見てください。ヴィトンの工場は世界各地にあって、スイスならFA、アメリカならSD、スペインならLM、ドイツならLPという表記になります。そしてフランス国内でもSR、VI、MB、FLという複数の表記があるんですが、これらはすべてFLです。コピー品や模造品に最も多い表記です」
「それだけのことなら、本物の可能性も否定できんだろ」
「ホックの形が変です。ヴィトンのホックは、先が尖っています。でもこれは丸くなってる。本物にあるはずの〝R LOUIS VUITTON〟の刻印もありません。偽物のなかでもわりとよく出回っている中国製です」
飛鳥はあわてたようすで、ハンドバッグを次々に取りあげていった。「これも......駄目か。これも、これも......。おっと、これはどうだね。ホックが尖ってるよ」
「たしかにホックは本物です。付け替えたんでしょうね。けれどもバッグは偽物です」
「なぜそんなふうに言いきれる?」
「これはわりと新しい製品ですから、製造番号が刻印されています。ほら、ここです。六桁のうち、最初のふたつの数字はぜんぶで十五か所ある工場のどれかを表しています。残り四桁のうち、ひとつめと三つめが製造月、ふたつめと四つめが製造年です。ところがこのバッグでは、製造月が86になっています。ありえない数字です」
飛鳥は愕然としたようすでたたずんだ。その手からハンドバッグがこぼれ落ちる。偽ヴィトンはトランクのなかに転がった。
莉子の話し方は穏やかで、クライアントを傷つけまいとする配慮が感じられるものだったが、それでも飛鳥のショックは大きそうだった。顔面がみるみるうちに紅潮していく。
「では」飛鳥はトランクの奥に手を突っこみ、大きなビニール袋を引っ張りだした。「これはどうだね」
袋から取りだされたのは、未使用の衣服だった。どこのブランド品かはすぐにわかった。
アバクロンビー&フィッチ、通称アバクロ。つい最近、銀座店がオープンしたことで話題になったアメリカで人気のカジュアルブランド。ブリトニー・スピアーズやデイヴィッド・ベッカム、木村拓哉が愛用していることでも知られている。
見た目よりもずっと値が張る。その高価なアバクロが、袋から次々と取りだされる。飛鳥の手つきは、まるで卸の業者のようだった。
莉子は商品を手に取りもしなかった。眺めたのは、ほんの一瞬だった。憂いのいろを漂わせて、莉子はつぶやいた。「残念ですけど、これらも......」
「まさか」飛鳥の声は悲鳴に似ていた。「偽物だと?」
「はい......。黒いものは鑑定するまでもなく、すべて本物ではありません。アバクロでは紺はありますけど、黒の服は作っていないので」
「白のほうはまだ可能性があるのか」
「いいえ。たとえばこれなんか、ジッパープルが左側についてます。本物はかならず右です」
「このポロシャツは? もともとジッパーはついてないよ」
「ボタンが三つなのは変です。本物はふたつと決まってます」
「じゃあこのジャケットは? ジッパープルも左にある」
「ジッパーに入っているはずのムースマーク、あるいは Abercrombie とか A&F のロゴが見当たりません。しかもYKKだなんて......。本当に申しわけないんですが、かなり粗悪な模造品です」
飛鳥は絶句し、その場に立ちつくしていた。
たいしたものだと結衣は内心、舌を巻いていた。
アパレル業界に身を置くわたしにはわかる。莉子が指摘したことはすべて正しい。しかも、驚くべき観察力と識別力だ。速くて、しかも的確だった。服飾専門の鑑定家でも、ここまで迅速に仕事をこなすのは難しいはずだ。
やがて飛鳥は、憔悴しきった顔を莉子に向けた。「妻はこれらに総額、二百万円近くをつぎこんでるはずだが......」
「すべて本物とすれば、そうでしょうね」莉子は電卓を取りだした。「偽物ですから、買い取ってくれる店はどこにもありませんけど、これらの購入にかかる費用はおそらく......」
しばらく電卓に指を走らせてから、莉子は液晶表示を飛鳥に向けた。
飛鳥は目を丸くした。「十九万六千五百円?」
「およそ二十万円ってところです」
どうやら、飛鳥の受けた衝撃は想像を絶するものらしかった。紅潮していた顔は、いまやすっかり血の気がひいて青ざめている。トランクを閉めると、ふらふらと力のない足どりで運転席に向かった。
「......あ」飛鳥はうわずったような声で莉子にきいた。「あのう。鑑定料は......」
莉子は困惑ぎみにいった。「ざっと見ただけですから、お金をいただくほどのことじゃありません」
「それはどうも......。じゃ、失礼します。妻に本当のところを問いたださればなりませんので」
「奥さまは偽物だとご存じなかったのかもしれません。だましたのは業者であって、奥さまは二百万円を払ったのかも......」
「いや。本当にあなたは優しい人だ。凜田先生とおっしゃいましたね。お心遣い、感謝します。でもいまはとにかく、一刻も早く妻の本心が知りたい」
飛鳥はそれだけいうと、ドアを開けて運転席に乗りこんだ。エンジンをかけるや急発進し、たちまち走り去っていった。
静けさの漂う商店街。隣りの軒先の風鈴がそよ風に揺られ、涼しげな音を奏でている。
結衣は莉子に目を戻した。莉子はクライアントの身を案じるかのように、同情のいろを漂わせたまなざしで見送っている。
思いやりのある女性だと結衣は感じた。ラブラドールでも大勢の女性を面接し、そのなかの何人かを店員として雇用したが、ここまでの懐の広さを感じさせる人材はいなかった。
莉子の大きな瞳が、こちらに向けられる。
結衣は思わず視線を外した。冗談めかせた声が口をついてでる。「わたしのハンドバッグも、鑑定してもらおうかしら」
すると莉子の目は、結衣の携えるエルメスに向けられた。猫のような瞳の虹彩のいろが変わり、いっそう黒目がちになる。
すぐに莉子は人なつっこい笑みを浮かべた。「すごい。ラブラドールを経営していらっしゃるんですね。飯田橋ヒルズの」
結衣は驚いてきいた。「ショップにお越しいただいたことがあるんですか? 以前にお会いしたとか......」
「いいえ。でも、いちどは行ってみたいと思ってたんです」ふいに莉子の表情が曇った。「あ、だけど......。このところはちょっと売り上げ的に厳しくなってるんですか。大変ですね。不況のせいかな。......って、余計でしたね。ごめんなさい」
さっき飛鳥という客がしめした驚愕の反応の意味を、結衣は思い知った。
信じられない......。思わず絶句するしかなかった。どうしてそんなことまでわかるのだろう。店を訪れたことがないのにわたしを知っている。経営難すら見抜いている。
小笠原があわてたようすで、結衣に告げてきた。「僕はなにも伝えてません」
ぞっとするような思いとともに、結衣は莉子に視線を戻した。
莉子はすまし顔だった。結衣が何に驚いているか、まだ理解できていないようだ。たずねるような表情でじっと見かえしてくる。
やがて、ふと気づいたように莉子は告げてきた。「知っていたわけじゃないんです。ハンドバッグを見てわかったんです」
「それって、どういう......」
「エルメスのケリーバッグの特注品、派手なブランド品ですから、OLやお店の従業員では周りの目が気になって持ち歩けないでしょう。経営者クラス御用達のアイテムです」
「だからといって、飯田橋ヒルズに店を持ってるってどうしてわかるの?」
「特注仕様として、リュックのようなフラップ状の蓋がついてて、口もとをふさいでホックでとめられるようになってます。使用するには邪魔なはずの蓋をわざわざ取り付けたのは、必要だったからでしょう。飯田橋ヒルズはバックストックの商品の盗難を防止するために、スタッフ規定として口の開いたバッグの持ちこみを禁止してます。この近くのショッピングモールのなかで、各店舗のオーナーにまで規定が適用されるのは飯田橋ヒルズだけです。元になっているケリーは去年の新色ですから、デザインを発注したのは一年前。飯田橋ヒルズがオープンしたころです」
闇に包まれていた驚異的な思考が、しだいに白日のもとに晒されていく。結衣は大きくうなずきながらきいた。「たしかにそう。でも、ラブラドールのオーナーとは限らないでしょう?」
「いえ。エルメスの特注品となれば高価なだけでなく、それ相応のコネがなければ発注できないはずです。人気店のオーナーであれば申しぶんありません。お洋服のセンスからファッション系のショップを経営されていることはわかります。お持ちのエルメスに似合うのはコンサバ系。飯田橋ヒルズでいえばラブラドールしか考えられません」
「最近の経営が思わしくないっていうのは......」
「そのう、エルメスをお持ちなのに、アクセサリはいっさい身につけておられないので......。襟もとが開いたそのお洋服は、ネックレスをつけることを前提としていたでしょうし、指にも指輪の痕が残ってるので、お金に替えたのではないかと......。特注品のエルメスだけはカタログにないために、買い取り業者も値がつけられず、売れなかったんでしょう」
結衣はただ唖然として、莉子を見つめるしかなかった。
莉子は沈黙に戸惑ったようすで、ふいに頭をさげた。「申しわけありません。変なことをいってしまって」
「そんな」結衣はあわてていった。「いいんですよ。すべて事実だし。っていうか......。すごすぎ。あなたの鑑定って、品物だけじゃなくて持ち主にまで及ぶのね」
小笠原が莉子に告げた。「まだ紹介してなかったね。こちらは星合結衣さん。きみのいうとおり、ラブラドールの創業者であり、店長さんだよ」
結衣は小笠原にきいた。「あなたはびっくりしてないの?」
「いえ」小笠原は苦笑を浮かべた。「初対面のときにはさんざん驚かされましたよ。もう慣れてるんで」
莉子はおずおずといった。「ぶしつけなことばかりで、本当にすみません。......だけど、ふしぎですね。誰にきいても評判のよかった人気店のラブラドールが、いつの間に」
小笠原がうなずいた。「そこなんだよ。どうして収益がさがったのか、まったくの謎なんだ。だから、できれば力になってほしいと思って」
若干の気まずさを感じながら、結衣は莉子にきいた。「お願いできますか?」
「もちろんです」莉子はにっこりと微笑んだ。「ちょっとお待ちいただけますか。お店を閉めますから」
莉子はそういって踵をかえし、自動ドアのなかに消えていった。思わず胸を撫でおろしたくなる安堵を覚えながら、結衣は小笠原にささやいた。「すぐに出かけてくれるなんて」
「彼女はいつもそうなんですよ」と小笠原は笑った。「依頼には即応えるってのが信条みたいです。知恵で人の役に立ちたいっていう欲求も、ことさらに強いみたいだし」
なるほど。彼がわたしをここに連れてきたがった理由が、ようやくわかった。凜田莉子。まさしく類い稀なる才能の持ち主だ。
彼女ならあるいは、わたしの店を覆う暗雲を振り払ってくれるかもしれない。ストアシック症候群、あるいは似て非なる現象。なんであれ、頼るべき存在はもう彼女しかいない。あの吸いこまれそうなほどの大きく魅力的な瞳が、すべてを見透かしてくれることを祈るのみだ。
レジカウンター
小笠原悠斗は飯田橋ヒルズ二階、ラブラドールなる店舗に足を踏みいれた。
コンサバ系ということだが、男の小笠原からすれば相当に派手な色づかい、内装もディスプレイもどぎつさを感じさせるほどの色彩感覚に溢れている。女性誌を見ていつも思うことだが、女の人はよく目が疲れないものだ。それも細部に至るまでびっしりと美の追究がある。
大学時代の恋人は、朝から晩までこの手の店に入り浸るのが趣味だった。これは将来大変なことになると感じていたら、やはり別れてしまった。スーパー銭湯でもあるまいし、そんなに長いこと夢心地でいられるとは、いったいどんな魔法があるのだろう。
着飾ったマネキンの群れを眺め渡しながら、小笠原はつぶやいた。「ブティックに来るなんてひさしぶりだよ」
凜田莉子が妙な顔をしてこちらを見た。「ブティックって......。小笠原さんって二十六じゃなかった?」
「そうだよ。ブティックじゃないなら、なんていえばいいの?」
「まあショップとかでいいんじゃない?」
「ふうん」冷や汗をかきつつ小笠原はマネキンに近づいた。「このジャンパーとチョッキはかっこいいね。白黒の組み合わせで」
「ブルゾンとベストだってば......。モノトーンのね」
「ああ......そうだね。メーカーはどこだろ」
「ブランドよ......」
「いいじゃないか。ようするに製造元はどこかなって思っただけだよ」
すると、星合結衣が近づいてきていった。「うちのはオリジナルブランドなので、商標はラブラドールです。製造は国内の業者さんにお願いしてます。デザイナーと打ち合わせして、型紙をつくって、繊維を発注して......。ぜんぶ、うち主導でおこなうんです」
「経費がかかるでしょうね」
「ええ、それでも売れ線を狙った商品に絞って生産できるから、結果的には無駄はでませんよ」
莉子が結衣にきいた。「お値段も星合さんが設定してるんですよね?」
「そうですよ」結衣はうなずいた。「経費との兼ね合いで算出します。いままでは売れ残りはほとんどなかったから、値下げの心配もしていなかったんですけど......」
「バーゲンをするにしても幾らにするのか難題ですね。レジを拝見できますか?」
「もちろん。こちらへどうぞ」結衣は歩きだした。
莉子がそれにつづく。小笠原も辺りを見まわしながら歩調をあわせた。
店内には客が七、八人はいる。やはりこの立地では、客足が途絶えることはなさそうだった。平日の昼からこれだけの集客力があるのに、どうして売り上げが伸びないのだろう。
素敵な店には違いないが、なぜか息苦しさを覚える。ネクタイを緩めたくなる衝動を覚える。なぜだろう。窓のないせいで生じる圧迫感は、この店に限ってのことではない。ショッピングモールの店舗はたいていそういう造りになっている。それにここは、吹き抜けの広いスペースに面している。本来なら酸欠状態とは無縁のはずだ。
客たちも同じ気分を味わったのか、それとも単に興味が持続しなかったのか、売り場を離れていく姿が目につく。また新たに客が入ってくるため、無人状態には陥らないが、やや回転が速いように思えた。それもなかなか商品の吟味までは至らないせいで、レジに向かう客もまばらだ。
いまもふたつあるレジのうち、ひとつは空いていた。結衣がキーをレジに差しこんでひねる。液晶モニターが点灯した。
小笠原はそのモニターに表示されたアイコンを見た。「Tカード加盟店情報?」
結衣が微笑した。「うちも入っているんです」
「へえ。Tカードって、ツタヤのポイントカードのことですよね?」
「そうです」結衣はアイコンに指先でタッチした。「国民の三人にひとりが持っている普及率ですから、オリジナルのカードを発行するより有意義なんです」
画面が切り替わる。ポイントの貯められる提携チェーンの一覧がでた。エネオス、ファミリーマート、ニッポンレンタカー、東急ホテルズ、ドトールコーヒー、牛角......。スクロールしていくと、ラブラドール飯田橋ヒルズ店の表記もあった。
莉子がきいた。「お客さんがどこでポイントを貯めたかもわかるんですか?」
「ええ」結衣はドトールコーヒーショップ神谷町店をタッチした。「たとえば、ほら」
その一覧表には、時刻と会員番号、注文した品の名称、価格、獲得ポイント数が並んでいた。いちばん上の表示は、午後零時十三分になっている。アイスカフェモカのMと抹茶ラテをオーダーしていた。
小笠原は腕時計を見た。午後零時十四分。たった一分前の情報だった。「リアルタイム情報ですね」
結衣がうなずく。「販売時点情報管理システムにも直結してますから。売り上げ実績もひと目でわかります。顧客層の分析にも役立ちます」
「ラブラドールの客層の変化もわかりますか?」
「いえ、それが......」結衣はEXITのアイコンに触れて、メニュー図面に切り替えた。「すべての年齢層において減少してるんです。若い人だけとか、あるいはアラフォーが離れているとか、はっきりした傾向がでていれば対策も立てやすいんですけど」
莉子は店内に目を向けた。「さっきのお客さん、もういなくなってる......」
小笠原もその視線を追った。別の客が入店してはいるが、やはり入れ替わりが激しい。
結衣も神妙にいった。「お客さんの興味が持続しないみたいです。いちどは追いかけていって理由をきいたこともあったんですけど、なんとなく帰りたくなったみたいで」
「ふうん」莉子は結衣を見た。「このところ店員さんも休みがちだそうですね?」
「ええ。原因不明の体調不良とか......」
莉子はしばし伏し目がちに考えこんでいるようすだったが、ふいにその顔があがった。すたすたとレジから遠ざかると、店内を見まわす。
やがてその視線が一点に釘付けになった。その柱には、火災報知機の赤いランプが点灯していた。莉子はそちらに近づいていった。
何をするつもりだろう。小笠原は呆然と莉子の姿を見つめていた。
しばらくのあいだ、莉子は火災報知機を眺めまわしていたが、やがて人差し指を伸ばすと、アクリルのカバーに覆われたボタンに突き立てた。
「な」小笠原は思わず声をあげた。「なにするんだ、凜田さん」
直後、けたたましいベルの音が鳴り響いた。ビープ音とともに、合成音声が繰りかえされる。火災が発生したもようです。あわてず、落ち着いて退去してください。火災が発生したもようです......。
客たちはおびえた顔になって、店の外に飛びだしていった。吹き抜けの二階バルコニーで、人々がうごめいている。ほとんどが背を向けていた。警報がこの店からのみ発せられているのを知り、とりあえず遠ざかろうとしているようだ。
莉子は火災報知機の赤い扉を開けて、消火用ホースのわきにあるレバーを押しさげた。警報はやんで、静寂が辺りをつつんだ。
店員たちはびくついた顔のまま、遠巻きにたたずんでいる。通路に足をとめてこちらを眺める人々もいた。
結衣は呆気にとられているようすだったが、やがて我にかえったらしく、硬い顔をして歩きだした。「凜田さん。どういうおつもりなんですか」
小笠原も莉子に歩み寄った。「こんな悪戯をするきみじゃないのに」
すると、莉子はこちらを見て、人差し指を口もとにあてた。「しっ」
妙に思って小笠原は立ちどまった。結衣も静止した。
莉子は耳をすますしぐさをした。「何か聞こえません?」
無音だ。いや、BGMは耳に届く。入店してからずっと聴こえていたインストゥルメンタルの軽音楽だった。客がいなくなった店内に、残されたもの音はもはやそれだけ......。
いや、そうではない。小笠原は背後に咳をきいた。
誰だろう。振りかえったが、そこには人影はなかった。マネキンがたたずんでいるだけだ。
異様な空気が辺りを包んでいく。そのまま固唾を飲んで空間を見つめていると、また咳がきこえた。今度は数回、むせているようだ。
響きからして女性のようだった。けれども、咳を発している人物はいない。特定の場所からだけでなく、あちこちから聞こえる。
無表情のマネキンが立ちつくす店内に響く、複数の咳。鼻をすする音もした。リアルな人の気配がある。それなのに、視覚はいっさい人の姿をとらえていない。
結衣も不可思議な現象に眉をひそめていた。「これはいったい......」
くしゃみがこだまする店内で、莉子が穏やかに告げた。「お客さんの退店が早まっていたのは、このせいですね。咳やくしゃみが近くで響くので、なんとなく空気が悪く感じられたのでしょう」
「え?」結衣は目を丸くした。
「ここは人の絶えないお店です。きいてわかるように、ごく近くで咳とくしゃみが発せられたように思える。お客さんたちは互いに、相手が風邪でもひいていると思いこみ、居心地のよさを失うんです」
小笠原はいった。「わかるよ。けさも満員電車のなかで、後ろに立ってるおじさんのくしゃみが気になって仕方がなかった。早く降りたいと心から思ったよ......」
莉子はうなずいた。「新型インフルエンザウィルスは飛沫から物へ、そしてそれを触った手を介し感染します。意識的にも他人の咳やくしゃみには警戒しますけど、それ以前に無意識のうちにも嫌悪が生じるはずです。だからお客さんは咳やくしゃみを耳にしたとたん、自分でも原因をはっきり認識しないうちに、本能的にここから遠ざかりたいという衝動に駆られる」
結衣が莉子を見つめた。「わたし、毎日お店にいたのよ。咳やくしゃみなんか、そんなにきいた覚えはないわ」
「レジのなかや事務室にいたからです。接客している店員さんたちは、お客さんと同じくお店の中心近くにいたがゆえに、気分の悪さを感じ実際に体調を崩しました。わたしたちが立っているこのあたりでないと、ハース効果は発揮されないんです」
「ハース効果?」
「ステレオフォニックにより生じる現象です。映画館のいわゆる立体音響と同じ理屈ですね。スピーカーの位置や音量、音圧差や位相差を計算したうえで、それぞれの出力を調整すると、無の空間から音が発せられているように思えます。常にお客さんが周りにいる状態では、決してスピーカーからの音とは気づきません。まして店内では、お客さんどうしは目を合わせず、存在はせいぜい視界の端にとらえるだけです。咳がきこえれば、その人の咳に違いないと錯覚してしまいます」
「じゃあ、音の発生源は......」
「誰かがこのお店のスピーカーの位置を丹念に調べあげて、ハース効果を生むスピーカーバランスで再生してるんです。BGMは均一に響いていますが、咳やくしゃみだけは絶えず位置を変えてきこえます。BGMにかぶせて録音してあるんでしょう」
結衣は口もとに手をやり、息を呑んだようすで立ちすくんだ。
「BGM」結衣はつぶやいた。「じゃあ、あのサイトが......」
踵をかえし、結衣は駆けだした。レジカウンターの向こう、事務室の扉を入っていく。
小笠原も後を追った。事務室内に踏みこむと、結衣はデスクに置いたノートパソコンを覗きこんでいた。
結衣は憤ったようすでマウスをつかみ、滑らせた。「この音楽が原因だったのね。なにもかもこのサイトが......」
クリック音が数回響く。そのとき、莉子が部屋に飛びこんできた。
「待って!」莉子はいった。「まだ接続を断ってはだめ!」
びくっとしたようすで、結衣は顔をあげた。
しかし、一瞬遅かったらしい。店内BGMは途絶え、静寂が辺りを包んでいた。
小笠原は画面を見た。回線を切断しました。その一文がサイト上に表示されている。
ふうっとため息をついて、莉子は困惑のいろを浮かべた。「証拠を残すためには、咳やくしゃみが発信されてる状態でないと」
結衣はしまったという顔になった。「ああ、そうか......。待って。いますぐ接続しなおすから」
悪い予感がする。このサイトの管理者が周到に計画していたことだとすれば、突然の回線の断絶には、常に警戒心を働かせているに違いない。
BGMがふたたび流れだした。さっきと同じ音楽、静かな器楽曲だった。
だが、どれだけ耳を澄ましても、咳ひとつきこえなかった。くしゃみも、鼻をすする音もない。
莉子は落胆のいろとともにつぶやいた。「やっぱり......」
結衣が戸惑いがちにいった。「ごめんなさい。つい焦っちゃって」
「ファイルにデータが残ってませんか?」
「いえ。楽曲をダウンロードして再生するんじゃなくて、ブロードバンドでつなぎっぱなしにしてストリーミング再生するシステムなので......」
証拠はまったく残っていないわけだ。小笠原は思わず唸った。
莉子は結衣に微笑みかけた。「いいんですよ。お店から障害が取り除かれてよかったです。ところで、音楽の発信元は?」
結衣がパソコンを指さした。「店内BGMを無料配信してくれるって評判のサイトだったんです。JASRACに申請の必要がないっていうから、安心して利用してたのに......。わたしの友達もレストランを経営してて、お店で使っているのよ」
「なんの契約もしなくても、音楽が自動的に配信されるんですか?」
「いちおうメールフォームで登録申請が必要になります。でも特別な審査もないし」
「メールフォームにはお店の所在地とか、店名は書きこんだわけですよね?」
「ええ」
「なら、その情報をもとに何者かがここに下見に来たんです。このお店用にプログラムしたステレオフォニックを作成し、あなたの登録IDに対してのみ配信したんでしょう」
「どうしてうちの店が狙われたんですか?」
「下見の際に、あらゆる条件に合致したからです。ハース効果による音の錯覚が生じやすい環境で、人が絶えず、しかも脅迫によってお金を脅しとれるだけの稼ぎがありそうな店。標的にする店は全国各地に点在させ、決して近隣どうしにならないより配慮する。オーナーが孤立感を覚えることで、脅迫者に服従しやすくなるからでしょう。この界隈では、狙われたのはラブラドールただ一店に違いありません」
「信じられない......。だって、開店や閉店の時間にはお客さんもいないのに。咳やくしゃみなんて......」
「その時間帯は咳やくしゃみが配信されていなかったんでしょう。お店を一日じゅう、つぶさに観察すれば、人が増えるのがいつごろか見当がつきます。犯人はそこに狙いを定めてたんです」
小笠原はモニターを見た。SBGMというロゴが躍っている。サイトの正式名はその下に記してあった。スプレンディド・バック・グラウンド・ミュージック。
「星合さん」小笠原はきいた。「このサイトは登録したメンバーに対し、それぞれ違う音楽を配信してくれるわけですか?」
結衣はうなずいた。「自分のお店向けの曲を自動選別して、営業時間内にランダムに流してくれるっていう、そんなサービスって謳い文句でした」
「無料で、ですか?」
「わたしもずいぶん親切だなと思ったんですけど......。まさかこんな裏があるなんて」
「サイトの運営者は?」
「さあ......。あまり意識したことはなかったんですけど......」
莉子が身を乗りだした。「マウスお借りしていいですか」
どうぞ、と結衣がデスクの前を離れる。莉子は前ががみになってマウスを操作した。
ABOUT USと記されたアイコンをクリックする。表示されたのは数行だった。主催=グループSBGM。著作権フリー。当サイトの楽曲の再配信・再発売を禁じます。それだけだった。
「うーん」莉子は唸った。「会社概要も代表名も何もなし。アドレスはSBGMドットコムかぁ......。専用ドメインだけじゃなく、サーバも独自のものを使ってたら、素性をあぶりだすのは極めて困難よね」
小笠原はつぶやいた。「手がかりはまったく残されてないわけか」
「いえ」莉子は身を起こした。「悪だくみが始まる何日も前に、犯人はこのお店に来ている。スピーカーバランスや音量、音質、音圧などを耳でじかに測るためよ」
結衣が険しい表情になった。「どんな人かしら」
「まだわからないけど、耳がいい人でしょうね。コンサート会場の音響設営スタッフとか、レコーディングスタジオのディレクターだとか。いずれにしても、一日じゅう店内をうろつきまわったはずだわ」
莉子の目が壁ぎわに向けられた。結衣の視線も、それを追った。
小笠原も同じところを見つめた。そこには防犯モニターが並んでいた。早くも、ふたたび賑わいを取り戻しつつあるラブラドールの店内が、あらゆる角度から映しだされていた。
同一人物
牛込警察署にも慣れてきた。小笠原悠斗は着くなりロビー脇の階段をのぼり、三階の刑事部屋をめざした。
後ろをついてくるのは凜田莉子、それに星合結衣だった。重要なのは、結衣の訴えを警察に認めさせることだ。咳やくしゃみを録音できていればもっと話が早かったのだが、物証がない以上、口頭の説明だけで事実を伝えねばならない。そのためには、俺や莉子が証人にならねば。
刑事部屋は以前に訪ねたときと同様に雑然としていた。いや、騒然というべきかもしれない。電話がけたたましく鳴り響いている。捜査員も増員されているのか、いかつい顔の男たちが隙間なくうごめいていた。
デスクからデスクへと駆けまわる私服警官たちのなかに、知った顔を見つけた。小笠原は声をかけた。「葉山さん。葉山警部補」
葉山翔太は足をとめてこちらを見た。とたんに、あのやる気のない目つきに変貌する。葉山は手にした書類を振りおろした。「ああ、いつぞやの記者さん......。小笠原さんでしたね。なにか?」
「こちらのかたが相談にきてるんです。私はその付き添いです」
「相談?」葉山の目が結衣に向けられる。うんざり顔になった。さらに莉子の姿を見るに至って、大仰にため息をついた。「やれやれ。またですか」
小笠原は不満に思った。「またとはなんです。凜田さんはこのあいだの事件でも捜査に貢献したばかりじゃないですか」
「いまは忙しいんですよ。それに......星合さんといいましたっけ、そのかたの相談なら、すでに受けてますから」
結衣があわてたようにいった。「進展があったんです。脅迫電話を寄越した人が、どんなふうに営業妨害を企てたか明らかになったんです」
葉山の表情は変わらなかった。「そりゃよかった。でも警察は民事不介入なんでね。弁護士にでも連絡してみてください」
立ち去りかけた葉山の進路を、小笠原は手を伸ばし遮った。「脅迫も営業妨害も刑事事件だと思いますけど」
「公務の妨害もですよ」葉山は小笠原をにらみつけてきた。「いいですか。前にもいいましたよね。立件して初めて事件です。相談はあくまで相談。下の窓口で手続きしてください」
相変わらず意固地になる男だ。瓢々とした態度もとらえどころがない。知能犯捜査係というが、こんな性格でよく務まるものだ。
そのとき、前にも会ったことがある若手の私服警官が近づいてきた。雲津隼人は新聞の束を脇に抱えて、葉山に耳うちした。「ちょっといいですか」
葉山は小笠原を一瞥してから、背を向けて雲津につぶやきかえした。「なんだ」
「被害者のアパートの郵便受けにこれが入ってました。失踪したのは十五日のようです」
「証言があわないだろ」葉山は声をひそめているつもりのようだが、興奮しているせいか音程が高くなり、小笠原の耳まで届いてしまっている。「ガイシャがアパート前から連れ去られた日は......」
「ええ。でも見てください」雲津は十数部の新聞を近くのデスクの上に並べた。すべて朝日新聞の朝刊だった。「十六日以降、けさまでの新聞が投函されてます。十五日の朝まではガイシャは部屋にいて新聞を受け取っていた。部屋が空いたのはその翌日からです」
「馬鹿な」葉山は焦燥をあらわにした。「それじゃ、いままでの裏付けはなんだったんだ。ぜんぶ間違ってたってことか?」
奥のデスクで、年配の男が鋭い視線を放った。たしか係長だったはずだと小笠原は思った。
係長がいった。「葉山君」
「はい」葉山はかしこまって応じた。
「なにがあった。きょうじゅうに逮捕状が請求できるっていう話じゃなかったのか」
「いやそれが......。捜査本部でも異論がなかったので、この線に違いないと思ってたんですが......。若干の食い違いがでてきまして、連れ去りの日時と被疑者の移動距離がですね、そのう、私どもの調べでは、ガイシャが失踪したのは間違いなく......」
ふいに莉子が口をきいた。「二十日」
刑事部屋は沈黙に包まれた。全員が動きをとめて、莉子に注視する。
葉山が目を剥いて振りかえった。
「いまなんて?」と葉山がきいた。
「二十日です」莉子は穏やかな口調で告げた。「被害者が失踪したという日です。そのように裏付けがとれていたんでしょう? 事実ですからご心配には及びません。東村山市に住んでいる容疑者の逮捕も予定どおりおこなわれるべきでしょう」
「な」葉山は驚愕のいろを浮かべた。「なんで知っているんだ、そんなことまで」
雲津も真顔で食らいついてきた。「でもガイシャの部屋に届いた新聞は......」
莉子は平然としていた。「どんな事件かは知りませんけど、十六日以降の新聞が郵便受けに刺さっていたから、失踪が十五日と考えるのは早計です。その新聞、十六日から二十日までは十三版になってます。二十一日以降は東京地区のスタンダードである十四版です」
「ええと」雲津が新聞を取りあげた。「ああ。たしかにそうだ。小さく表記がある。そこからよく見えたね......、こっちは十四版。二十日までは十三版」
「犯人が連れ去りの日をごまかすために、郵便受けに十六日から二十日までの新聞をいれたんです。家庭版と駅売りの新聞の違いは知っていたらしく、犯人は自宅にあった新聞を持ってきたみたいですが、都内でも地域により版に違いがあることまで考えが及んでいなかった。配達に時間のかかる地域は締め切りが早く版が若いんです。朝日の十三版が配達されているのは東京都東村山市と福島県のみです。さすがに県内版のページの違いには気づくでしょうから、犯人が福島在住ってことはない。そうすると残るは東村山のみです」
刑事部屋はなおも静寂に包まれていた。
室内の全員が圧倒されたような面持ちで莉子を眺めていたが、それらの視線がやがて葉山に向けられる。目つきはいっせいに険しいものになった。
係長が咳ばらいした。「葉山君」
「は、はい」葉山はしどろもどろだった。「いえ、こんなのはですね、指摘を受けるまでもなくわかったことです。よく調べてみれば、はさんであるはずのチラシ広告がないとか、不自然な点も浮き彫りになったでしょう。鑑識にまわせばたちどころに報告が......」
だが係長の表情は冷めきっていた。「一刻を争う逮捕状の請求に、鑑識からの報告待ちだと?」
「......で、ですね。ええ。被疑者の偽装がこの場でただちに発覚したことは、誠に喜ばしいと私も思っております」葉山は雲津に対し、ふいに高圧的にいった。「偽装だ。逮捕状の請求は予定どおりにおこなえ」
雲津は苦い顔をしながらも、うなずいて立ち去っていった。
なおも葉山は、同僚たちの厳しい視線にさらされていた。どうにもならなくなったようすで、莉子の前に歩み寄った。
莉子を無碍に追いかえすことは、この場の空気からしてもはや不可能だと考えたのだろう。葉山は頬筋をひきつらせながら、莉子にたずねた。「それで、きょうはどんな相談で?」
「ラブラドールの防犯カメラの記録映像を検証してください」と莉子がいった。
「記録映像?」
結衣がハンドバッグを開けて、ケースに入ったディスクを数枚取りだした。「これです」
神妙な顔でそれを受けとった葉山が、莉子を見つめた。「われわれにどうしろと?」
「全国の警察署に、同様の相談は数限りなくあったと考えられます。各県警に呼びかけて、それらの店舗の防犯カメラ映像を取り寄せてください。犯行が始まる数日前に、同一人物が映しだされているかどうか確かめるんです」
「同一人物って、いったい何者です?」
「さあね」莉子は鋭い目つきで葉山を見かえした。「オーディオ関係に詳しくて、聴覚に自信があり、また実際に研ぎ澄まされた聴力を持つ男。それに大金をほしがってます。不特定多数から無差別に、無節操にお金を集めたがっている。音を武器にした新手の詐欺師です」
プライバシー
午後三時すぎ。陽射しもいくぶんやわらいできて、そよ風も涼しげに感じられる。都心の路上、はるか彼方に揺らいでみえた蜃気楼も薄らぎっつある。
小笠原は上着を脱いで肩にかけ、ワイシャツの胸もとを開けて歩いていた。会社に近づいたらネクタイを締めなおさればならないが、ここはまだ神楽坂の東、神田川沿いだ。だらしなさを咎められることはないだろう。
並んで歩いている莉子のほうは、いっこうに暑さが気にならないようすだった。平然とした面持ちで商店街に歩を進める。強い日照に莉子の顔は真っ白になっていた。
ひさしぶりにふたりきりになれたのだから、なにか話しかけたい。でも適当な言葉が見つからない。ふたりとも、飯田橋駅の改札をでてからずっと無言のままだ。
万能鑑定士Qの店はすぐそこまで迫っている。いまが最後のチャンスだろう。小笠原はうわずった声でいった。「あのさ」
「なに?」と莉子がきいた。
いざとなると気の利いた台詞を口にするなど至難のわざだ。それ以前に、なにをいえばいいのかさえ思いつかない。
小笠原はいった。「鑑定っていえば、このあいだ千葉にいったらさ、千葉鑑定団ってお店があって」
激しい自己嫌悪に陥る。何なんだ、千葉鑑定団って。もっとましな話題は見つからなかったのか。
「ああ」莉子は関心なさそうにつぶやいた。「古本とか中古ゲームソフトを売ってるお店だっけ」
「知ってるの?」
「間違い電話がかかってきたから。PS3の『ロストプラネット2』をいくらで買い取ってくれますかって。万能鑑定士Qって、その手のお店と勘違いされるみたい」
「鑑定って二文字しか共通してないのに?」
「千葉に住んだこともないし、わたしひとりだから団でもないのにね」
「茨城にもあるらしいよ。そっちは茨城鑑定団っていうらしい」
「ふうん」
会話は途切れた。
小笠原は自分に憤った。茨城鑑定団って。すでに道を誤っているのに、さらに突き進んでどうする。
己れの不器用さが嘆かわしい。小笠原はため息をついた。
莉子が微笑を浮かべた。「小笠原さんっていい人ですよね」
どきっとして小笠原は莉子を見た。「え?」
「記事を見て相談にきただけの星合さんにも。親切に応対するなんて。記者さんである以前に、立派な人ですよね」
「そ......そうかな。いや、困っているときはお互いさまだからね、はは」
莉子は無邪気そうに笑った。なんの含みもない、屈託のない笑いだった。
近くでみると、莉子はやはり別格と呼べるほどの美人だ。心も清らかだった。そんな彼女に誉められるのは、悪い気がしない。きょうは決して、最初からそれを求めていたわけではないのだが。
角を折れて、雑居ビルの前にでる。一階テナントの万能鑑定士Qの看板が見えてきた。
なぜか奇妙な既視感がある。店の前に停まっている大型セダンには見覚えがあった。けさ、星合結衣とともにここを訪ねたときに駐車していたのと、同じクルマだった。
こちらに気づいたらしく、運転席のドアが開き、ドライバーが降り立った。
やはり見た顔だった。四十代半ばぐらい、真面目そうな顔つき、スーツ姿の男。ヴィトンのハンドバッグやアバクロの服を鑑定依頼した飛鳥優治だった。
「凜田先生」飛鳥はどこか憔悴のいろを浮かべながら近づいてきた。「けさがたはどうも」
「飛鳥さん」莉子は驚いた顔できいた。「どうされたんですか」
「そのう......。家内に電話したんです。ぜんぶ偽物だったがどういうことかと」
「奥さんを問い詰めたんですか? よくないですね」
「まったくもって、そのとおりです。一方的に電話を切られてしまいました」
今度は家庭相談か。せっぱ詰まっているのはわからないでもないが、二十三歳の女性に泣きついたところで解決の糸口は見つからないだろう。
小笠原はつとめて穏やかに告げた。「飛鳥さん。ご夫婦の問題は、ご自分で解決されるしか......」
「いや」飛鳥の表情は真剣そのものだった。語気を強めて飛鳥はいった。「そういうわけにはいかないんです。もとはといえば、妻が娘のためにハンドバッグや服を買うからといって、私にお金を払わせたんですよ。娘の誕生日祝いやら、進級祝いやら、過去三年間にね。その合計額が二百万円。ところが凜田先生は、せいぜい二十万円だとおっしゃる」
莉子は戸惑いがちにうなずいた。「偽物ですから......もぐりの業者から買っていればそれぐらいでしょう。だまされたのでない限りは」
「なら家内は百八十万円を懐におさめたことになる。詐取、いえ横領着服ですよ」
ピートアップする飛鳥を、小笠原はなだめにかかった。「飛鳥さん。ご夫婦のあいだで着服なんて......」
「事実なんです」飛鳥はそういってから莉子に向き直った。懇願するような顔で飛鳥は莉子に訴えた。「何度か電話しましたが、家内はでてくれません、ひょっとしたら家内は、あれが本物だと信じきっているのかもしれない。だとすれば私の態度を心外だと思っていることでしょう。でもそのいっぽうで、家内が嘘をついていたとしたら。許せることではありません」
莉子は困惑のいろを深めた。「それならばいっそのこと、奥さまと話し合われるのが重要かと......」
「もちろんです。しかし、家内の買ったものが偽物だったという証拠が必要です。でなければ、家内は本物を買ったといい張り、話し合いは平行線になるでしょう」
「証拠といわれても......。けさご説明したとおりで......」
「だから、その説明を家内に対してもおこなってください。私があなたの言葉を請け売りしたのでは、説得力に欠けるんです」
「奥さまに会うんですか? わたしが?」
「ええ。それもいますぐにね。家内は、娘の高校にいます。お恥ずかしい話、娘は高三なんですが、まだ進路がきまっていなくて母親ごと呼びだされているんです。放課後にひとり居残って、英語の追試を受けることになってます。出席日数も足りなくて、このままだと卒業が危ぶまれると担任がいうもんですから」
鑑定家はクライアントのプライバシーを尊重する。莉子は以前そういっていた。ところがいまは、クライアントのほうから身内の事情を一方的にまくしたてられている。
莉子はいっそうの当惑を覚えたようだった。「後日というわけにはまいりませんか? いくらなんでも学校に押しかけるなんて......」
「校門の前で、家内がでてくるのをお待ちいただくだけでいいんです。むろん娘は先に帰らせます。お願いします。このまま会話のない夜の食卓を迎えるなんて耐えられない」
身勝手な言いぶんだと小笠原は思った。けれども、飛鳥の声は切実な響きを帯びていた。表情も真剣そのものだ。実際、妻の高額の使いこみに動揺し、どうすればいいかわからなくなっているのだろう。
その困惑ぶりに同情の余地ありと感じたらしい、莉子はいった。「わかりました。じゃ、奥さんに鑑定結果をお伝えするという役割に限って、お引き受けします」
飛鳥の顔がふいに輝きだした。「本当ですか? ありがとうございます。感謝してもしきれないぐらいです。では、どうぞ。後ろにお乗りください。すぐ出発します」
後部ドアを開け放つと、飛鳥は待ちきれないというように、運転席に駆けていった。
莉子が小笠原を見た。「きょうは忙しい?」
「いや......。締め切りに追われてはいないけど」
「じゃあ同行してくれません?」
「僕が? だけど、呼ばれてるのはきみひとりだよ」
莉子は声をひそめた。「これは実質的に、夫婦の揉めごとの仲裁よ。第三者の目はひとりでも多いほうがいいの。正直な発言を促す効果もあるし」
「僕らがやるべきことかい?」
運転席から飛鳥の声が飛んだ。「早くお乗りください。急いで」
莉子がじっと見つめてくる。小笠原は迷った。ジャーナリストである以上、人の家庭の内情に土足で踏みいりたくはない。というより、これは記者の仕事ではない。むしろ興信所の領域だ。
しかし、莉子は真顔で告げてきた。「お願い」
「......仕方がない、いこう」小笠原はそういって莉子を促し、先に後部座席に乗りこんだ。運転席の飛鳥に声をかける。「僕も一緒にいきます」
「どうぞ」飛鳥は、心から歓迎しているといいたげな顔で振りかえった。「援軍はひとりでも多いほうがいいですから」
援軍。すでに中立の立場は放棄しろと求められているようなものだ。
莉子が隣りに乗りこみ、ドアを閉めた。同時に、クルマは滑るように走りだした。
小笠原は莉子とともに、あわててシートベルトを締めにかかった。万能鑑定士Qの店にくると、いつも予測不能のことが起きる。きょうもそうだった。編集長の雷は覚悟しておかねば。きょうは会社に戻れそうにない。
ヒアリング
蔵谷瑛太は、教員になって以来ずっと私立神楽坂学園高校の教師として勤めあげていた。
教師生活も長くなり、年齢も三十代後半にさしかかると、生徒をいくつかのタイプに分類できるようになってくる。決して偏差値の高くない私立女子高においては、さらに区分ははっきりする。ごくわずかの進学組、大部分を占める就職組、そして、これもかなりの割合にのぼる未定組。
けれども三年の夏になって、卒業を危ぶまれるほどの欠席日数の多さ、試験における点数の低さ、そして当然のごとく進路も未定という二重苦を抱えている生徒となると、数えるほどしかいない。蔵谷が担任を務める三年A組で最下位の成績、飛鳥陽菜はまさしくそんな問題児に該当した。
放課後、生徒たちが帰宅し、がらんとした教室のなかで、蔵谷はひそかにため息をついた。
ひとりだけ居残っている生徒がいる。彼女の本来の席は窓側のいちばん後ろだが、いまは教壇の前に座っていた。蔵谷がその場所を指定したからだった。
髪をナチュラルに肩まで伸ばし、余分なアクセサリを身につけず、夏の半袖の制服をきちんと着こなした陽菜は、見ようによっては優等生に思えることだろう。ほっそりとしていて、腕や脚も長く、小顔で色白だった。教員のあいだで、来年度以降の学校案内のパンフに載せる写真のモデルにしようという話が持ちあがったのも、わからないでもない。ルックスだけを考慮すれば魅力的、理想的な生徒だろう。
しかしあいにく、ここは学校だ。いままでも春がくるたびに進級させるか否かでおおいにもめた落ちこぼれの生徒を、代表格のように扱りわけにはいかない。
廊下に足音がした。引き戸が開いて、派手な身なりの女性が教室に入ってきた。
「遅れて申しわけありません」陽菜の母親、飛鳥琴音がいった。「教室に来るのは初めてだから、場所がわからなくて」
飛鳥琴音とは、家庭訪問で面識がある。立派な洋館風の家に住んでいたはずだ。もっとも、都心部の私立の女子高に娘を通わせる親というのは、一定水準の富裕層ばかりだった。入学受験に学力の必要なし、親の財布の重さを量るのみと揶揄される本校においてはなおさらだろう。とりあえず娘の学歴を高卒以上に引きあげたい、そのためには金はいくらでも払うという親のニーズに応える高校。嘆かわしい話、それが神楽坂学園高校の一般に知られる存在価値だった。
飛鳥琴音は、陽菜の母親だけあって美人には違いなく、本人もそれを自覚しているのか、髪も明るく染めて緩く巻いている。黒のジャケットは学校を訪ねるのに最低限の良識を感じさせるが、その下のワンピースはエンジいろで、幾重にもかけられたネックレスとあいまってひどく場違いに見える。コーディネートにはさすがにこだわりがあるらしく、ファッションセンスは悪くはないが、なんとなく一九九〇年代を彷彿とさせる色づかいだった。彼女が四十代前半であることを考えると、おそらく美の基準が青春時代にストップしたままなのだろう。
娘の陽菜はわずかに顔をあげたが、振り向きはしなかった。母親のほうも陽菜の後頭部をちらと見ただけで、あえて目線を合わせようとしない。こういう場では当然だった。卒業できるか否かの瀬戸際に母子ともども呼びだされたとあっては、気まずさが漂うのも無理はない。
蔵谷は咳ばらいしてみせた。「どうぞ、どこにでもおかけください」
琴音は少し離れた廊下側の席に腰かけた。まだ表情には余裕の笑みがある。「最近の子っていろいろ忙しくて、勉強する時間もあまりとれないんですよ」
「お母さん」と蔵谷は琴音をそう呼んだ。「忙しいのはどの家庭の子も同じです。ただ、陽菜さんは部活もおこなっていないし、進路もきめていないじゃないですか。さほど暇がないとは思えませんが」
「いえ、そうじゃないんですよ。先生。陽菜には自分なりに進路を決めさせてあります。そのための準備もおこなっています」
「自分なりに? 先日の調査では未定というお話でしたか」
「学校に手助けしていただけるようなことではないので......。こちらでは卒業させていただくことだけが重要でしょう?」
蔵谷は絶句した。陽菜に目を向ける。陽菜は押し黙ったまま視線を落としていた。
ひそかに進路を決めてはいるが、学校に報告はしたくない。ただ高校の卒業証書だけがほしい。母親はそう主張していることになる。
困惑を覚えながら蔵谷は飛鳥琴音にいった。「まあ、ご事情はいろいろおありでしょうが、生徒は未成年ですし、できるなら進路については学校にご相談いただきたいと......」
「報告の義務があるわけじゃないんでしょ? いちおう未定のままってことで、問題はないと思いますけど」
「......陽菜さんがそれで納得しているのなら、ですけどね」
琴音は娘の顔をのぞきこんだ。「あなたも同感よね、陽菜?」
しばし陽菜は無言のままうつむいていたが、やがてこっくりとうなずいた。
仕方がない。進路指導は教師に課せられた義務のひとつではあるが、最終的には生徒みずからの問題だ。親とともに解決していく意志があるなら、徒に踏みこむわけにもいかない。
蔵谷は琴音を見つめた。「ただし、お母さん。はっきり申しあげて、娘さんの成績は、卒業の条件を満たしてはいません。出席日数についても同様です。三年に進級してからは数えるほどしか学校にでてこなかった」
「それは......さっきもいったように、うちのほうで陽菜の将来について準備してますので」
「学業を修了しないと卒業証書は差しあげられませんよ。で、お伝えしておりますように、きょうは救済措置のひとつとして追試をおこないます。私の担当している教科である、英語の筆記試験です」
琴音の目がなぜか光った。「この試験でいい点数をとれば、英語については問題なしとみなされるわけですね?」
「......そうしようとは考えています。現時点までの総合的な英語力をテストしますから、合格点がとれれば、学年に見合った学力が身についていると判断されます」蔵谷は陽菜を見た。「飛鳥。勉強してきたか?」
陽菜はうつむいたまま、顔をあげなかった。ひどく自信なさそうに見える。
質問の答えを聞くまでもなかった。だいたい、学業の遅れを数日で取り戻せるわけがない。
それでも追試は中止できない。教員のあいだで話し合った結果、決まったことだ。
蔵谷は、きょうのために作成してきた解答用紙を、陽菜の机の上に置いた。
教壇の上のCDプレイヤーの電源をいれながら、蔵谷はいった。「すべてヒアリング問題だ。問題文も選択肢も英語。よくきいて答えなさい」
総合的な英語力のテストとなれば、ヒアリングこそがふさわしい。蔵谷は常々、そう考えていた。言語学習の最終目標ともいえる。
再生のスイッチをいれる。ほどなく、高三の平均的な英語力に対応したスピードで英文が読みあげられていく。"Answer the following question, after hearing the following sentence..."
ヒアリング問題の教材選びには慎重さが求められる。ネイティヴ・スピーカーの外国人が録音したものでなければ意味がないし、かといって店で購入した教材では、生徒が同じものを持っている可能性がある。アメリカ人の知り合いがいれば問題ないが、あいにく蔵谷にそんなコネはなかった。
ただし、現在はいい教材が手にいれられる。英語教師のために、毎日まったく新しいヒアリング問題が提供される。配布は教師に限られているから、生徒が事前に問題と答えを知る心配もない。このCD-Rも、けさの新作問題のなかから選りすぐってダビングしたものだ。
高三の夏時点としては、やや難しめの問題ばかりだ。しかし、そのほうが好ましいと蔵谷は思った。学業をなめている生徒と母親にはいい薬だろう。
腕組みをして窓辺を見やる。無駄とわかっていても、終了まで待たねばならない。あるいは途中で、陽菜のほうからギブアップの意思表示があるかもしれなかった。
ところがそのとき、シャッというペンの走る音をきいた。
振りかえると、陽菜は答案用紙にチェックをいれていた。次の問題文が読まれる。また選択肢のひとつに陽菜がレ点を打つ。さらに次の問題。またペンが走る......。
でたらめにマーキングしているとは思えない。英文をきくかぎり、答えに該当するセンテンスが読みあげられた直後に、陽菜の手は動いている。まぎれもなく聴き取っている。ネイティヴの英語を。
蔵谷は驚いて、母親の琴音に目を向けた。琴音は冷やかな笑みを浮かべていた。
娘の学習に自信があったのか。陽菜は塾通いはしていないはずだが、家庭教師でもつけたのだろうか。
陽菜は無表情のまま、淡々と答案用紙に書きこみつづけている。まるで英語圏に生まれた少女が、日本人向けのヒアリング問題を退屈げにこなしている、そんな横顔にすら思える。
答えを知っているのか。いや、けさ提供されたばかりのヒアリング問題を一般家庭が入手できるはずはないし、なにより数百問のなかから蔵谷が選びだし、順序もランダムに配列した。すべて暗記して備えることなど不可能だ。
このCD-Rと解答用紙は、飛鳥陽菜の追試のためだけに作ったものだった。それもきょう、学校に来てから制作した。仕上がってからは職員室のデスクの引き出しに保管した。引き出しには鍵もかかっている。絶対に、事前に出題内容が漏れるはずがない。
CDプレイヤーは、最後の問題を読みあげた。
すかさず、陽菜が答案用紙にチェックをいれる。音声が途絶えると同時に、陽菜はシャープペンシルを置き、また無言でうつむく物静かな生徒に戻った。
彼女の母親は、試験の出来など気にしていないのか、あるいは絶対の自信でもあるのか、手鏡を取りだして前髪を撫でつけている。
蔵谷は陽菜の机から答案用紙を手にとった。教壇に向かう。用意してあった正解と照らしあわせた。
衝撃を受けるとは、まさにこのことだ。蔵谷は言葉を失った。
正解。すべて正解。陽菜の追試は、百点満点だった。
進路
小笠原はセダンの後部座席におさまり、気まずい時間を過ごしていた。隣りの莉子も戸惑い顔で辺りを見まわしている。
セダンは、校門の前で路肩に寄せて駐車中だった。運転席では、飛鳥優治がそわそわしながら外を眺めている。ステアリングに手を置いたり振りおろしたりと落ち着きかない。
とっくに放課後を迎えているらしく、下校の生徒の姿は見かけなかった。部活の掛け声は体育館から響いてくるものの、辺りはひとけもなく静寂に包まれている。
陽も傾きかけていた。門柱の神楽坂学園高校と彫られた白い石板も、赤みを帯びていく。
腕時計に目を走らせる。もう二時間近くここで待機していた。さすがにじれったさも募る。
小笠原は身を乗りだしていった。「飛鳥さん。申しわけないですが、後日またご連絡をいただくということで......」
するとそのとき、飛鳥が告げた。「きた。でてきましたよ。ほら、娘と家内です。蔵谷先生も一緒だ」
飛鳥が指さした校庭を、ゆっくり歩いてくる三人の姿が見える。
真っ先に問題の母親が目に入った。高三の娘を持つわりには若く、人目を惹くファッショナブルな装いだった。さばさばした顔、ときおり笑顔ものぞいている。いたって上機嫌のようだった。
娘の陽菜は一見して可愛い子だとわかる。父親が溺愛のあまり高価なハンドバッグや服を買い与えようとしたのも、わからないではない。もっとも、陽菜の表情は暗く、ずっと伏し目がちにしている。こちらにもまだ気づいていないようだ。
その後ろをついてくる蔵谷なる教師も渋い顔をしていた。だが彼は、真っ先に校門前のクルマに気づいたらしい。飛鳥琴音になにか告げている。
琴音はこちらを見たとたん、冷やかな面持ちになった。娘の陽菜に声をかけてから、小走りにやってくる。
飛鳥優治がドアを開けて、車外に降り立った。「ずいぶん遅かったな。追試は?」
「終わったわよ」琴音はいった。「迎えにきてくれるなら、そういってくれればいいのに」
莉子がささやいてきた。「でましょう」
「そうだな」と小笠原もドアを開けた。身体が外気に包まれる。気温はずいぶんさがって、涼しくなっていた。
「あら」琴音はすまし顔を向けてきた。「この人たちは?」
優治がいいにくそうに告げる。「あとで説明する。それより、陽菜。結果はどうだったんだ?」
陽菜は顔をあげて父親を見たが、その顔には憂いのいろが浮かんでいた。
母の琴音は対照的に、してやったりという表情になった。「きょうの英語については合格。卒業についても問題なし」
父親は驚いたようすで蔵谷を見た。「ほんとですか?」
蔵谷は苦い顔をしていた。「ほかの教科については、今後各教科の教員の判断にゆだねられますけどね。英語に関しては、学力さえそなわっていれば出席率の低さを大目に見ようというのが、私の考えでした」
すかさず琴音が優治にいった。「百点満点よ。陽菜はいちども間違えなかったの」
「満点?」優治は面食らった表情になった。「そりゃすごい」
すると蔵谷が咳ばらいをした。「お母さん。そのう、たしかに試験のほうはすべて正解でしたが......。陽菜さんはどうして口頭での質問に答えないんでしょう。いくつか英文についての知識を尋ねたのに、返事をしてくれない」
琴音は覚めた顔で応じた。「それは、先生と陽菜のコミュニケーションの問題で、成績とは関係ないでしょう」
「そんなに陽菜さんとの意思の疎通に難ありと感じたことはなかったですが......」蔵谷は陽菜をじっと見つめた。「飛鳥。なにか先生にいいたいことがあるんじゃないのか?」
だが、琴音が遮るように割って入った。「とにかく、追試で合格点をとればお咎めなしって、先生もそうおっしゃったじゃないですか。英語についてはこれでクリアでしょう。ほかの教科の先生にも、よろしくお伝えください。娘には時間がないので、きょうの英語の追試結果を基準に柔軟な判断を望みます」
「時間がないとおっしゃいますが、進路についてはやはり、私どもとしっかり相談されたほうが......」
「うちのほうでしっかり考えます。じゃあ先生、どうもお世話さまでした」琴音は陽菜の手をひいた。「ほら、陽菜。乗りなさい」
陽菜は無言だったが、抵抗のそぶりをみせるまでには至らなかった。母親が開けた後部ドアに乗りこんでいく。琴音も車内に入り、ドアを閉めた。
優治があわてたようすでそのドアをノックする。「琴音、ちょっと待て。こちらの凜田先生はな、鑑定......」
すると莉子が優治につぶやいた。「飛鳥さん」
「......なんです?」
莉子は真顔で声をひそめていった。「いまの話、本当ですか。娘さんの進路について、学校と相談してないって......」
「ああ。そのう、未定ですから。娘も悩み中のようで」
「お母さんはもうなんらかの進路を心にきめているようですが」
小笠原も同感だった。うちのほうでしっかり考える、飛鳥琴音はそういったが、むしろ決定済みの進路に横やりをいれてほしくない、そんなかたくなな態度に思えた。
知らぬは父親ばかりなり、そういう状況のようだった。優治は目を丸くした。「家内が......勝手にきめているというんですか?」
莉子はかすかに困惑のいろを浮かべた。「勝手かどうか、それは飛鳥さんの判断に委ねますけど......。ハンドバッグとお洋服について浮かせた百八十万円は、そのためのお金じゃないでしょうか」
「というと?」
「専門学校もしくは海外留学ってところじゃないですか? 娘さんを思っての出資なので、プレゼントの品の購入費からそちらに充てても問題はない、と奥さまは考えておられるんでしょう。奥さまの罪悪感のなさや、娘さんの将来に対する自信たっぷりな態度から察するに、そう考えるのが自然と思いますけど」
優治は衝撃を受けたようすで、口をあんぐりと開けてたたずんだ。
やがて優治は何度もうなずき、つぶやいた。「そうかもしれません。いや、きっとそうでしょう」
「奥さまとよく話し合われたほうが......」
「その通りです。凜田先生。よくご指導くださいました。家内の意見をきいてみます。じゃ、もう行かねば。ええと......このセダンは五人乗りですから......」
「わたしと小笠原さんはここで。ちょうどこの辺りに用事があったものですから」
優治が怪訝な表情でこちらを見た。
小笠原は平然とうなずいてみせた。莉子の意図はよくわからないが、調子をあわせておくに限る。
「わかりました」優治はそういって、運転席のドアを開けた。「いろいろありがとうございます。お手数をおかけしましたし、報酬についてはいつでもおっしゃってください。それでは」
そそくさと運転席に乗りこんだ優治がエンジンをかける。セダンは走りだし、校門前から遠ざかっていった。
しばしそれを見送っていた蔵谷が、苦りきった顔で背を向け、校門のなかに立ち去りかけた。
莉子が声をかけた。「すみません。蔵谷先生......。ちょっとお尋ねしたいことが」
蔵谷は振りかえった。「どちらさまでしょうか」
「凜田莉子といいます。陽菜さんの家庭教師をしてます。こちらは付き添いの小笠原悠斗さん」
小笠原は驚きが顔に表れないよう努めた。莉子がこんなはったりを口にするとはめずらしい。
「ああ」蔵谷は真剣な面持ちでいった。「やはり家庭教師をつけてたんですか」
莉子は微笑した。「担任の先生のお話をききたいと思い、陽菜さんのお父さんに相談したら、直接訪ねるようにいわれまして」
「なるほど。お父さんがあなたを凜田先生と呼んでいたのは、家庭教師だったからですね。なら、ぜひ私としてもお聞きしたい。いったいどんな学習をされたんですか」
「学習......」
「東大入試レベルのヒアリング問題も何問か混ぜてあったのに、難なく正解だなんて。考えられませんよ」
「どんな問題だったが、お教えいただけますか?」
蔵谷は考えるそぶりをみせたが、すぐに踵をかえして歩きだした。「いいですよ。こちらへどうぞ」
莉子は小笠原を見つめて、それから歩を踏みだした。
小笠原はそのあとにつづいた。あいかわらず、莉子がどんなことに興味を惹かれているのかは不明瞭だ。しかし、彼女は家庭教師を騙ってまで事情を探ろうとしている。きっと明確な理由が存在するに違いない。人助けのためには労力を厭わない、彼女の心を動かすなにかが。
HQ
小笠原にとって、女子高の校内に立ち入るのは初めての経験だ。わくわくしないかと問われれば、否定はできない。ただし、期待感も校舎に入ってすぐに潰えることになった。放課後だ。居残っている生徒はおらず、ただがらんとした無人の教室が連なるだけだった。
思いが顔に表れていたのか、莉子が見透かしたように呆れた顔を向けてきた。小笠原はあわてて苦笑してみせた。
蔵谷が案内したのは、三階のいちばん端にある教室だった。三年A組と札がかかっている。
入るなり蔵谷は、教壇に置かれたCDプレイヤーの再生ボタンを押した。
きこえてきた英語は、ごく常識的なヒアリング問題だった。読みあげる速度はセンター試験ぐらいだが、用いられている単語の難易度はそれほどでもない。
とはいえ、お世辞にも偏差値が高いとはいえないこの高校で、出席日数の少なさを問われる生徒にとっては、ききとるのも容易ではないと感じられた。
四問めには、いきなり難しい出題があった。『試験にでる英単語』の最終章あたりに紹介されていそうな、耳慣れない単語が頻出するセンテンスだった。社会人になってからも何度か海外出張を経験している小笠原には、なんとかその意味が理解できたが、受験勉強だけではついていくのもやっとだろう、そう思える。
小笠原は蔵谷にきいた。「陽菜さんは。いまの問題も正解したんですか」
蔵谷はうなずいた。「それに......ほら、この第六問。英語専門職に就くつもりでもなければ、暗記しようとも思わない単語の羅列です。これすらも正解してます」
「どうしてそんな問題を出題したんですか」
「そのう、満点をとらせるつもりは最初からなかったんです。さぼりつづけたうえで、いまになって授業内容に追いつくことがいかに困難であるかを、痛感してほしいと思ってました」
「お灸を据えようと思ったのに、あっさり解かれてしまったわけですね」
「ええ」蔵谷の目が莉子に向けられた。「まさかとは思いますが、あなたもHQを利用してるんじゃないでしょうね」
「HQ?」莉子はきいた。「初めてききますけど......。なんですか」
蔵谷はため息をついた。「やはり、ご存じのはずがありませんね。学校の教員でない限り、利用できないサイトですから。問題も毎朝、数百単位で追加されるし、そのなかから私がどの問題を選ぶかを予測するなんて不可能でしょう」
「これらの問題は、そのHQなるサイトで配信されてるってことですか」
「そうですよ。HQ、ヒアリング・クェスチョンズ・ドットコムです。英語教師のあいだでは重宝がられてます。小中高、あるいは大学入試やトーイックなど、用途に応じてレベル別のヒアリング問題が、無数に音声ファイルでダウンロードできます。クリックひとつでCD-Rに焼けるんですよ。けさ配信された新作問題から選びだして収録しました」
「すると、陽菜さんがたとえHQドットコムにアクセスできたとしても、数百問の問題と答えを丸暗記しないかぎり、全問正解は不可能ですね」
「それ以前に、生徒はサイトに会員登録できません。登録には教員免許や属する学校などの詳細データの送信が必要なんです」
「会員は有料ですか?」
「いえ。無料サービスですよ。だから会員は全国に何万人といると思います」
またしても無料サイト。小笠原は不可思議に思った。サイトにはバナー広告でも表示されているのだろうか。たとえ広告収入のみを頼りに運営しているのだとしても、数百もの問題を連日追加するには、相当の費用が必要になってくると思うが。
小笠原はCDプレイヤーに手を伸ばした。「ボリュームをあげてもいいですか」
「どうぞ」と蔵谷はいった。
ボタンを押しっぱなしにして、音量をめいっぱいにあげる。さらにイコライザのつまみをひねって、音質を変えてみた。
ラブラドールの店内BGMには、咳やくしゃみが紛れこんでいた。今度も、正解を知らせる微妙な音がかぶせてあるのではないか。そう思ったからだった。
しかし、どこにも異常はない。淡々と読みあげるネイティヴの英語がきこえてくるのみだ。デジタルの録音だけにノイズもない。正解の選択肢にも法則性はなさそうだった。
これをきいて正しい答えを導きだしたのなら、まさしくそれは相応の英語力が備わっている以外、考えられない。
莉子が蔵谷にたずねた。「このCD-R、ダビングしていただけませんか」
「差しあげますよ、きょうのために作っただけのものだし。いまケースか封筒をお持ちします」蔵谷はそういって歩きだし、廊下にでていった。
小笠原は莉子にきいた。「鑑定するの?」
「そう」莉子の目は輝きだしていた。「もう仕掛けははっきりしてるんだけどね。小笠原さんも気づいたでしょう?」
「え? あ、ああ。まあね......」
またしても自分に腹が立つ。こんなときに見栄を張ってどうする。わからないことは、わからないといえばいいのに。
莉子は微笑してうなずいたが、すぐに深刻な面持ちになった。
「証明するには、わたしの鑑定書だけじゃ不足よね」莉子は神妙につぶやいた。「科学の力を借りなきゃ」
分析結果
新宿区大久保三-四-一、早稲田大学西早稲田キャンパスの六十三号館、三階2B号室に、その研究室はあった。
壁ぎわにある黒い防犯カメラのような物体は、音響光学可変波長フィルターの近赤外分光光度計というらしい。プラスチックの種類を判別したり農作物の品質管理に役立ったりするようだ。その隣りのコンピュータ一式は音響分析装置。周波数を解析するものだという。
小笠原は、ひととおりの説明を受けたあともまだメモにペンを走らせていた。こんなところに来ることは滅多にないだけに、できるだけ情報を収集したい。記者という仕事柄、それらの知識がいつ必要になるかわからない。
さらにその隣りの機材。一見して電子レンジに見える。これはいったいなんだろう。
「氷室さん」小笠原はいった。「この機械はなんですか」
歩み寄ってきたのは、三十代半ばぐらいの痩せた男だった。白衣の下からのぞく着崩したスーツは、ブランドものらしい風格が感じられる。目つきは鋭く、整った顔だちは女にもてそうだが、くつろいだ態度のせいか愛嬌ものぞかせている。しなやかで優雅な物腰は、歌舞伎の女形のようだった。
「ああ」氷室はつぶやいた。「それはね、電子レンジ。昼飯をあっためるために使う」
ペンを握った手がふととまる。
氷室はふっと笑った。「そんなに気を張らなくてもいいよ、たいしてめずらしくもない機器ばかりだし」
「そうですか? 圧倒されますよ。ここにある機材のすべてのスイッチがどんな役割なのか、氷室さんはご存じなんですよね?」
「ぜんぶじゃないな。ここは僕の専門の研究室じゃないし。同僚の設備を借りるのも。そうあることじゃないしね。察するところ、きみは文系ひと筋みたいだな」
「当たりです」小笠原はテーブルに戻り、椅子に座った。「大学じゃいつも理系の頭のよさにひれ伏してました」
「社会人になったら文系のほうが収入は上さ」
ドアをノックする音がした。氷室がどうぞと応じると、莉子がハンドバッグ片手に入ってきた。
白のブラウス姿の莉子は、おじぎをしていった。「ごめんなさい、お待たせしちゃいました。西早稲田キャンパスには慣れてなくて」
氷室は棚からファイルを引き抜いた。「いつもの研究室で実験したかったんだけど、機材を貸してくれなくてね。さて。分析結果だけど、どのページだったかな......」
私立神楽坂学園高校の蔵谷教諭から、CD-Rを預かって二日後の夕方。氷室からの連絡を受けて飛んできたところだ。あの不可解なヒアリング問題にどんなからくりが潜んでいたか、是が非でも知りたいと小笠原は思った。
「あ、これだ」氷室はファイルから二枚の書類を取りだした。「こっちはランニングACF分析の結果。そしてこっちはパワースペクトラム表示をプリントアウトしたもの」
テーブルに並べられた書類は、いずれも複雑な折れ線グラフと微細に数値が印字してあった。それらがどんな意味を持つのか、文系の小笠原にはさっぱりわからなかった。
だがよく見ると、グラフのあちこちに赤い印がつけてあった。
氷室はペンで差ししめした。「赤くマーキングしたところは、ヒアリング問題の選択肢のなかで、正解が読みあげられた瞬間を表している。同時に、十八キロヘルツの高音が一秒間ずつ発せられているのがわかる」
「十八キロヘルツ?」小笠原は思わず驚きの声をあげた。
莉子が目を丸くした。「気づいてなかったの?」
「いや......。何もきこえなかったよ」
氷室はすまし顔でいった。「僕もだよ。いわゆる未成年にだけきこえる音ってやつだな。子供のころは上限二十キロヘルツあたりまでが可聴領域になっている。けれども、成人を境にして聴力が衰えてくるから、ほどなく十五キロヘルツあたりが限界になる。きこえたとしてもモスキート音、つまり羽虫が飛ぶ音だから、あまり長く耳を傾けていると不快な気分になるだけだと思う。この場合は一秒ずつだけなので、さほどでもなかっただろう」
「ええ。うちの雑誌でも昔、記事に取りあげましたよ。足立区が実験的に、深夜の公園にたむろする若者を追い払うために導入したとか。そこで夜を徹してモスキート音を発しつづけたらしくて」
氷室は苦笑した。「凜田さんも夜の足立区の公園にはいけないわけだ」
莉子は戸惑いがちに微笑した。「二十三なのにね......。子供っぽいからかな」
「若いからだよ。実年齢よりもね」
個人差もあるのか。小笠原はひそかにショックを受けていた。急に老けこんだ気分だ。
ふんと氷室は鼻で笑った。「僕も歳より若いといわれるけど、さすがに十代の耳というわけにはいかないみたいだ。とにかく、これらのヒアリング問題には、若者にだけ正解がわかるような合図が録音してあったわけだ」
「うーん」莉子が神妙につぶやいた。「陽菜さんがモスキート音をきいていたとして、事前の情報なしにそれが正解の合図と気づけたかどうか......」
氷室は首を横に振った。「まずありえないね。その女生徒は知っていたんだろう。モスキート音の持つ意味を」
小笠原はふと思いついていった。「ダウンロード元のHQドットコムっていうサイトは? ほかの問題もすべてそうなってるのかな」
「そこなんだが」氷室は近くのパソコンのマウスをつかんだ。
スクリーンセーバーが消えて、インターネットのブラウザが立ちあがる。表示されたのは、商用サイトのトップページだった。HQ.com というタイトルロゴ、新着問題一覧というカテゴリの下に、おびただしい数のアイコンが並んでいる。
氷室はそのなかのひとつにカーソルを合わせてクリックした。流れだした英語の音声は、CD-Rに録音されたものよりずっと早口で高度だった。
振りかえった氷室が告げてきた。「うちの大学でも英会話の授業やゼミを中心に、このサイトをよく利用してるそうだ。けれども......」
しばし音声に耳を傾けていた莉子がため息をついた。「モスキート音、入ってませんね」
「そう」氷室はうなずいた。「一年生に協力してもらって、できるかぎり多くの問題をきいてもらったんだけどね。それらしい音は入ってなかった。機械による分析でも、問題文を読みあげる声以外の音はいっさい存在していないとわかる」
「二日前までは、モスキート音が混在してたんでしょうか?」
「いや。ネットで評判を調べてみたけど、モスキート音が混じっていたなんてケースはいちどもないみたいだ。過去にそうなっていたら、うちの大学でも一年生らが騒いだだろうよ」
小笠原は莉子を見た。「このサイトも、利用者は登録制だといってたよね?」
「ええ」莉子は硬い顔になった。「ラブラドールが使ってたSBGMってサイトと同じね、配信側はある特定のIDからのアクセスに対してのみ、別のデータを送りこめる。あの日、HQドットコムの主催者は、蔵谷先生がヒアリング問題をダウンロードすると知っていた。と同時に、たったひとり追試を受けた飛鳥陽菜さんも、モスキート音が正解の合図と知らされていた」
「......金が絡んでるのかな」
「たぶんね。無料サイトといいながら、裏で特別なサービスを請け負ってる。申し出を受け、テストの作成者となる会員からのアクセスに対して、ひそかにモスキート音入りのデータを配信する」
「あの母親があやしいな」
「同感ね」
氷室が肩をすくめた。「陽菜っていう女生徒は当然、モスキート音が教師にきこえないと知ってたわけだ。母親ともども悪質だな」
どうだろう......。小笠原は疑問に思った。
あの日、校門に現れた陽菜は暗い顔でうつむいていた。いまにして思えば、罪悪感にさいなまれていたのかもしれない。
それに、カンニングに気づかれないようにするためには、たとえすべての問題の答えがわかっていても、何問かはわざと間違えるなど偽装を働くはずだ。全問正解はあまりにも不自然だろう。
しかし、彼女はそうした。教師に気づいてほしかったのではないか。母親に逆らえず、やむにやまれず実行したが、本当は事実が発覚することを望んでいたのでは。そうも思えてくる。
莉子が氷室にきいた。「このサイトの運営会社はわかりますか?」
氷室はパソコンに向き直り、マウスを操作した。「調べてみたんだけどね。ちゃんとした記載がないんだ」
表示されたデータに、企業名はなかった。運営元=日本ヒアリング研究所。その下にあるURLはHQドットコムのトップページのアドレスだった。メールアドレスもない。発信者に連絡をとる方法は掲載されていなかった。
SBGMなるサイトに似ている。いや、そっくりだ......。
静寂のなか、着メロが短く鳴った。莉子がハンドバッグに手をいれて、携帯電話を取りだした。
液晶画面を眺めると、莉子は深刻な面持ちでつぶやいた。「メールがきてる。ラブラドールの星合さんから」
小笠原は身を乗りだした。「どんな内容?」
「いま牛込警察署にいるって。できればおいで願えませんかって書いてある」莉子は携帯電話をしまいこんだ。「氷室さん、きょうはこれで失礼します。いろいろありがとうございました」
「いつでもどうぞ」氷室は愛想よくいった。「きみが持ちこんでくるものは、いい刺激材料になるよ」
莉子が戸口に向かう。小笠原も氷室に頭をさげて、莉子につづいた。
廊下にでると、窓の外はずいぶん暗くなっていた。莉子は足ばやに階段に向かっていく。小笠原も並んで歩いた。
小笠原はいった。「CD-Rに証拠が残っているから、陽菜さんの母親に事情をきくのは難しくなさそうだね。金を払った相手、つまり運営側の正体も浮き彫りにできるかも」
「いえ」莉子はささやくように告げた。「CD-Rだけじゃ絶対的な物証とは呼べない。わたしたちがねつ造した物だといわれればそれまで」
「なら蔵谷先生にアクセスしてもらって......」
「もうモスキート音入りのデータは配信してないわよ。ラブラドールのときと同じ。その日限りの配信に違いないわ」
「なるほど......。悪質だね」
「ええ。いつもぎりぎりの線で尻尾をつかませない。ずるいやり方よね」
思わず黙りこむしかない。現状は莉子の指摘どおりだ。
依然として状況証拠ばかりか。ネットの匿名性を利用し、全国の不特定多数の登録者から金を吸いあげる謎の人物。いったい何者だろう。音を巧みに操り詐欺の道具に利用する。まさに前代未聞だ。正体を知りたいと小笠原は思った。どんな背景があってこのような犯行に至ったのか、すべてを白日のもとにさらしてやりたい。
サウンドコンシェルジュ
小笠原が莉子とともに署の会議室に入ると、円卓にいたふたりが顔をあげた。
ひとりは星合結衣。困惑の表情から、さっと笑顔になった。もうひとりは警部補の葉山。こちらは、あきらかに苦い表情を浮かべた。
葉山は、その面持ちに表れた感情を包み隠さず言葉にしてきた。「やれやれ。弁護士より厄介な人が現れた」
思わずむっとして小笠原はいった。「聞き捨てならない台詞ですね」
結衣が訴えてきた。「酷いんですよ。わたしが防犯カメラの映像を提供したときには、一日か二日で調べがつくといってたのに、きょうに至ってもまだ調査中の一点張りなんです」
じれったそうに葉山が告げた。「さっきも申しあげたでしょう。全国あちこちから届いた防犯カメラと照合するのに時間がかかってるんです。しばらくお待ちいただくしかありません」
「しばらくっていうと」結衣はきいた。「どれくらいですか」
「さてね......。ひと月かふた月。それ以上かかることも......」
「どうしてそんなにかかるんですか。なんならわたしが観ますから、届いた防犯カメラ映像をぜんぶ貸してください」
「そんなことはできませんよ。あなたのお店の映像をお返しすることは可能ですけどね。ほかの証拠品はあなたに直接関係ないし、お渡しできませんよ」
するとそのとき、莉子が静かにいった。「葉山さん。容疑者は絞れてるんでしょう? 過去に司法に協力してくれた著名人だからといって、情報を隠匿するのは好ましくないと思いますけど」
ぎょっとした顔で葉山は莉子を見つめた。「なぜそのことを......」
結衣が険しい顔で葉山にたずねた。「容疑者が絞れてるって、それ本当ですか?」
葉山は動揺したようすで口ごもった。「それは......ですね。凜田先生。ご存じなら、星合さんにお話し願えますか」
莉子は首を横に振った。「わたしは何も知りません」
「でもあなたはいま、たしかに......」
「葉山さんが防犯カメラ映像を証拠品と呼んだからです。今回のことを事件としてとらえている。つまり映像のなかに容疑者とおぼしき人物を見つけたんでしょう。でも人物を特定したいまになって、情報の開示に慎重になってる。ということは、警察組織もしくは検察当局とつながりの深い人だとわかる」
「......著名人だというのは? どうしてわかったんですか」
「わたしたちが入室したとたん、あなたはおっしゃったでしょう。弁護士より厄介な人が現れたって。でもそのときのあなたは、わたしじゃなく小笠原さんを見てた。週刊誌の記者に知られたくない人物ってことです」
小笠原は葉山を見つめた。「興味深いですね」
葉山は大仰に顔をしかめた。「まったく。おふたりとも、署にきてあれこれ詮索するのはやめてくれませんか」
莉子はひきさがるようすもなくたずねた。「容疑者は誰ですか」
しばらくのあいだ、葉山は貝のように口を閉ざしていたが、やがてふっきれたように立ちあがった。「仕方がない、今度だけですよ」
ついてきてください。葉山はそういって戸口に向かった。
結衣は戸惑いがちに立つと、葉山の背を追った。次いで莉子が部屋をでていく。小笠原は最後に退室した。
夜になっても刑事部屋には大勢の私服警官がいた。その広い空間を突っ切って、反対側の扉に向かう。
葉山が押し開けた扉には、鑑識と書かれた札がさがっていた。
入室してすぐ、壁ぎわに四つ並んだモニター画面が目に入った。いずれも一見して防犯カメラのとらえた映像とわかる。それぞれが別の小売店の店内を映しだしていた。四分割のものもあれば、一定秒数で次々と画面が切り替わるものもある。
モニターの前に座っていた、鑑識係の制服の中年男が、驚いた顔でこちらを見あげた。
すぐに葉山が瓢々とした態度でいった。「かまわんよ。この人たちには、事実を知らせてもいい。ラブラドールの店内をだしてくれないか」
鑑識係は眉をひそめたが、担当刑事の指示に逆らうつもりはないらしい。いちばん端のモニターの下にある機械を操作し、DVD-Rを取りだすと、別のディスクに入れ替えた。
再生ボタンを押す。そのモニターに映ったのは、見覚えのあるラブラドールの店内だった。着飾ったマネキンが並ぶ店頭を俯瞰でとらえている。何人かの客が棚の商品を見てまわっていた。
映像には日付も表示されていた。先月の十一日、午後二時十六分。
葉山が鑑識係にいった。「問題の人物をだせ。午後三時八分四十秒の映像だ」
鑑識係が機械を操作する。映像は早送りされた。表示された時間はたちまち経過していき、やがて一時停止ボタンが押される。そこから少し巻き戻されて、葉山の指示したとおりの時間の静止画像になった。午後三時八分四十秒。
画面には、女性客に混じって店内をうろつくひとりの男が映しだされていた。やせ細った身体を白のスーツに包んでいる。背はさほど高くない。ジャケットの下は丸襟でネクタイはなかった。両手をポケットに突っこみ、どこか気取ったしぐさでマネキンを眺めている。
褐色に染めた髪はかなり長くしていて、サングラスをかけている。顔は細面、鼻は高くて顎が小さく、色白だった。
華奢で虚弱体質という印象もあるが、見ようによってはハンサムといえなくもない。芸能人っぽい男だった。いや、実際にそうかもしれない。小笠原は思った。どこかで見覚えがあるような......。
葉山が鑑識係に告げた。「画を進めてくれ」
再生ボタンが押され、一時停止が解除される。男は数歩移動してまた立ちどまり、斜め上方に目を向ける。その場でゆっくりと身体の向きを変えた。
結衣がつぶやいた。「スピーカーの位置を確かめたみたい。それと、耳をすましてる」
たしかに画面のなかの男は商品には目もくれず、視線もあちこちにさまよっている。聞き耳を立てているように思えた。
やがて葉山がいった。「別の店の映像もだせ」
鑑識の操作によって、残る三つのモニターの映像も次々と早送り、巻き戻しがなされる。スポーツ用品店、ファッション雑貨店、そして喫茶店の店内だった。それぞれの画面は一時停止され、静止画に変わっていく。
いずれの画面にも同一人物が存在していた。スポーツ用品店には紺のスーツ姿で現れ、雑貨店ではTシャツ姿、喫茶店では袖まくりしたワイシャツ姿でテーブルについている。共通しているのは、常に人に見られていることを意識しているような気障なしぐさだった。こうしてみると、どの画面もテレビドラマのワンシーンのようだ。
そう思ったとき、小笠原のなかでひとつの記憶が表層に浮かびあがってきた。
小笠原はいった。「この人、ひょっとして西園寺響?」
はっと息を呑んで、結衣が声をあげた。「そうよ。間違いないわ。西園寺ですよ。わたしは会っていないけど、店員からきいたことがあります。西園寺響がきましたよって」
葉山の顔つきが変わった。「接客した店員がいたんですか?」
「いえ......。基本的に女性のお客さまにしか話しかけないことになっているので、ただ見かけただけと思います。店内を見てまわっただけで、なにも買っていかなかったときいてますし」
莉子がたずねてきた。「西園寺響って......音楽プロデューサーだっけ?」
小笠原はうなずいてみせた。「そうだよ。僕が小学校のころ......十五年ほど前かな。打ちこみ系のダンスミュージックで一世を風靡した人だ。どこにいっても、西園寺のプロデュースした女性アーティストの歌が流れてた。富豪みたいな生活をしてるって、よくテレビで紹介されてたよ。海外のリゾートに別荘を持ってたり、自家用ジェッ卜を所有してたり」
ふんと葉山が鼻を鳴らして、書類の束に目を落とした。「昔の話ですよ。バブル期まではダンスミュージック系を得意とする大手レコード会社、カンツォネッタ・グループ・ホールディングスと専属契約して、ミリオンセラーを連発してましたけどね。二〇〇〇年代に入ってからは浪費癖がもとでカンツォネッタの柿内悠馬社長と対立、独立しました。その後は海外の資本家と手を結んでソウルにレコード会社を立ちあげたりしましたが、うまくいかなかったようですな。そうこうするうちに人気が急落して、CDも売れなくなり、六十億円もの借金を背負うことになったらしいです」
結衣が頭を掻いた。「時代がダンスミュージックからR&Bに移ったせいじゃなかった? 宇多田ヒカルとかでてきたし」
葉山は肩をすくめた。「私は十代のころ遊び歩いてたわけじゃないんで、音楽の流行の移り変わりには詳しくありませんけどね。渋谷あたりでガンガン鳴っていたのは記憶に残ってます。西園寺プロデュースの女性アーティストそっくりの恰好をした女の子が、マルキュー周辺をうろつきまわってた。たいして興味もありませんでしたけどね」
そういうわりにはよく覚えている。小笠原は葉山にきいた。「西園寺響の本名は?」
「意外にも芸名ではなくて、本名のままなんです。音楽関係にはぴったりの名前ですね。子供のころからピアノを習わされていたようだから、親も意識していたのかもしれません」
「ソウルの会社の経営から撤退して......いまはあまり見かけませんけど、どうしているんでしょう? カンツォネッタに戻ったとか?」
「とんでもない。カンツォネッタとは依然、犬猿の仲ですからね。かつてプロデュースしたアーティストたちはみな、現在もカンツォネッタ・グループの芸能事務所に所属してますから、新曲を提供することもない。新人を育てるべく、西園寺音楽事務所という新会社を都内に設立して、活動をつづけています」
「莫大な負債を抱えているのに?」
「ひところは時代の寵児であり、かなりの高額納税者でもあった人ですから。ダンスミュージックなんか聴かない中高年にも名前だけは知れ渡ってる。だから実際のところ、資金繰りには行き詰まっているという噂もあるいっぽうで、西園寺響というネームバリューにはまだ効力があるみたいです。あちこちから金を集めて会社を存続させているようですね。借金を清算できるほどではないですが」
「そのうち大ヒットに恵まれれば、借金なんていっぺんに完済できる。そう考えてるのかもしれませんね」
結衣は怪訝ないろを浮かべた。「ありえなくない......? もう過去の人だし。曲調も古いし、この十年ぐらいでプロデュースしたアーティストも鳴かず飛ばずだし」
葉山は書類をめくった。「それが、いちど天下をとった人物ってのは、落ちぶれてからもそれなりの支持を集めているもんでね。青春時代に西園寺の音楽に染まった人たち、つまりいま三十代後半から四十代の層に、依然として熱狂的なファンというのが存在するんです。宗教みたいなもんでね。西園寺響という名をきくと、無条件で崇め奉る」
「だけど、世のなかは不況だし、彼が作曲したってだけじゃCDは売れないと思いますけど」
「西園寺がターゲットにしているのは庶民ではなく、ごく一部の富裕層です。いずれまたヒットを飛ばして全盛期の勢いを取り戻すことを夢見ているのは間違いないですが、いまのところは資金集めに躍起でね。実現の可能性のない、大きなプロジェクトを立ちあげると発表しては出資を募る。いつしかプロジェクトも立ち消えになって金は戻らない。その繰り返しでね」
「詐欺師じゃないですか」
「しっ」葉山はふいに声をひそめた。「あくまで噂ですよ。詐欺というのは、ただでさえ立件が難しい犯罪なんです。借金にしても、返す意思がないという明確な証拠でもないかぎり。詐欺罪は適用されない。本人がいつか返すと主張しつづけていれば詐欺にはならないんです」
小笠原は思うままつぶやいた。「悪知恵が働きますね、西園寺ってのは」
「いや」葉山は書類から顔をあげた。「そうでもないですね。世のなかにはもっと頭のきれる詐欺師がいます。西園寺の場合、やってることは粗だらけですが、証拠だけは残さない。そのていどです。これがそこいらにいるチンピラなら、任意同行を求めて事情をきくところですが、西園寺には手をだしにくい状況で......」
「警察にどんな貢献をしたというんですか? まさか賄賂を......」
「違いますよ!」葉山は声高にいった。「あなたがたもよくご存じの一件です。つい最近のね。本庁の公安部が国立印刷局工芸官の藤堂俊一氏の部屋を、極秘のうちに家宅捜索しようとした......」
莉子が目を丸くした。「あの料理教室......」
「そうです」と葉山は苦い顔でうなずいた。「侵入には音が響く。だからそれをカモフラージュする方法はないかと、音の専門家をあたったようです。すると、西園寺が音楽事務所の一業務として、サウンドコンシェルジュなる部署を立ちあげていましてね。店舗におけるノイズを、音楽のマスキング効果で消す技術などを請け負うって話だった。公安の人間が相談にいき、西園寺の協力を仰いだ結果、あの料理教室の実施になったわけです」
「あきれた」莉子がため息をついた。「警視庁公安部までネームバリューに惑わされて、しかも偽装工作の知恵を借りるなんて」
「私たち所轄なら、やみくもに西園寺を信用したりしませんけどね。官僚ってのはネジが一本足りなかったりするもんです。主要国首脳会議に楽曲を提供したとか、各国首脳の前で演奏したとか、過去の栄光を並べたプロフィールを見てあっさり心を許しちまう。有名人だから頼りにできるってね」
小笠原は不満とともにいった。「結果的には、料理教室の偽装は貢献に当たらなかったはずですけど」
「まさしくそうです。けどね、本庁の上層部がいちど手を握った相手である以上、容易に手だしできないんですよ。彼を推薦した官僚たちの信用問題ですからね」
ふざけた話だった。犯罪の疑いがあっても。身内を守るために追及できない。それが警察のスタンスだという。断じて納得できる話ではない。
莉子が葉山を見つめた。「その西園寺さんの会社なんですけど、SBGMとかHQドットコムっていうサイトの運営に関わってないでしょうか?」
「目下捜査中なんですが、見通しは厳しいといわざるをえません。海外のサーバを使ってるし、サイトの管理者が何者なのか突きとめるのは至難のわざです。西園寺のことですから、自分とつながりがあることをしめす証拠は残していないでしょう」
結衣が面食らったようすできいた。「防犯カメラに映っているのに?」
「店内に現れたのはたしかでも、犯行のほうがあきらかでないんです。咳やくしゃみの入ったBGMが店内に流れた、たしかな物証がなければ......」
「そう......。音声も録音できるようにしとけばよかった」
「今後はそうすることで、再発を防止できますね。さて、小笠原さん」
「なんですか?」
「ご説明申しあげたのはですね、相談にみえた星合結衣さんに対し、警察として説明責任を果たすべきと考えたからです。あなたのお勤めになってる出版社から取材申しこみを受けたわけではないし、受理した事実もない。つまり......」
またそのフレーズか。小笠原はうんざりしていった。「記事にはしてくれるな、とおっしゃりたいわけですね」
「そういうことです」葉山はさばさばした顔で告げた。「ご理解のほど感謝申しあげます。じゃ、ほかの案件も抱えてますので、私はこれで」
葉山は書類をデスクに投げだし、戸口をでていった。
本来なら、来署した一般市民を鑑識部屋に置き去りにすべきではないだろう。だが、もうこれ以上質問を受けたくないと考えているに違いない。
結衣がため息まじりにいった。「西園寺響だったなんて......。有名人が相手じゃ何もできませんね」
小笠原は励ますべく、穏やかに告げた。「そうでもないですよ。警察の捜査に一縷の望みを託しましょう」
そのとき、莉子がつぶやいた。「ねえ。小笠原さん」
莉子は葉山がデスクに残していった書類を眺めていた。
「どうかした?」と小笠原はきいた。
「見て。ほら、ここ」莉子が書類の一か所を指さした。
その書類は、西園寺響に関する資料だった。公にされている情報を集めたものらしい。莉子が差ししめしたのは、来年度の活動予定の項目だった。
西園寺ミュージックスクール開校。初年度学費、教材費込み百八十万円。そう記してあった。
セカンドライフ
午前十一時半。神楽坂から江戸川橋にひろがる住宅街のなかで、ひときわ目立つ洋館風の三階建てがある。飛鳥優治一家の住む家だった。
けさ、小笠原は取材の名目で、飛鳥陽菜の母親である琴音にアポイントをとった。すでに夫は会社に行き、娘も登校後で、琴音はひとりで家にいた。いちど神楽坂学園高校の校門で顔をあわせた小笠原が『週刊角川』の記者と知って、琴音はかなり驚いたようすだったが、西園寺響のファンとして話をうかがいたいと申しいれると、渋るどころかおおいに乗り気になったようだ。
小笠原は、莉子を伴って家にあがり、応接間で琴音と向き合った。贅を尽くした感のある、アンティークな内装だった。猫脚のテーブルの上、装飾過多に思える花瓶から突きだした生け花は、派手なばかりでやや趣味が悪く感じられるが、華道をきわめればこれも見事ということなのかもしれない。
飛鳥琴音は光沢のある緑のドレスをまとい、厚化粧をしていた。ソファに浅く腰かけた琴音は、上機嫌で喋りつづけていた。「ですから、西園寺さんはいまの日本のミュージックシーンの立役者。古臭い歌謡曲と演歌にまみれた日本の歌謡界を、お洒落なJポップに転化させた功労者なんです。西園寺さんとカンツォネッタが未来的なダンスミュージックによって、革命を起こしたんです。カンツォネッタがリリースするシングルのPV、観たことあるでしょう? どれも洋風で洗練されてて、欧米のアーティストにもひけをとらない。とにかく、かっこいいんですよ」
莉子が琴音にたずねた。「昔はコンサートにも行かれたんですか?」
「それはもう!」琴音は目を輝かせた。「彼の所属するバンドはもちろん、プロデュースしたアーティストも大好きでしたから。渋谷系のファッションは、わたしたち世代にはツボだったんです。みんな真似してましたね」
発言に積極的なうちに、肝心なことをききださねばならない。小笠原は遠まわしに質問してみた。「そのころプロデュースしたアーティストはみな、カンツォネッタに留まっていますね。そろそろ西園寺氏も、新しいアーティストを発掘しないといけないのでは?」
「そうですよ。西園寺さんは来年、アーティスト育成のための専門学校を設立するんです。実は、わたしの娘も入学するんですよ」
小笠原は莉子を見た。莉子もこちらに視線を向けた。
琴音は夫に内緒で、娘の陽菜を西園寺ミュージックスクールにいれようとしているのではないか。その答えをききだすことが、きょうの目的だった。だが意外にも、琴音はあっさりと事実を明かした。
「ふうん」小笠原は手帳にメモをとるしぐさをしてみせた。「それにしても、初年度の費用が百八十万円とは、専門学校にしちゃずいぶん高いですよね」
「よくご存じね。だけど、あの西園寺響ですよ。卒業認定後は、西園寺プロデュースのアーティストとしてデビューを斡旋してもらえるんです。わたしたちが二十代のころを思えば、夢みたいな話ですよ。なにしろ雲の上の人だったんだから」
昔はそうだったろう。けれどもいまは違う。時代は移り変わっている。飛鳥琴音は、十五年という歳月を受けいれていない。気分はいまも自身の青春時代のままだ。
小笠原は琴音を見つめた。「失礼ですが、娘さんはその進路に納得されてるんでしょうか?」
「まだよくわかってない面もあると思いますが、しだいにその価値が理解できてくるでしょう。親馬鹿かもしれませんけど、娘は才能あるんですよ。音楽だけはいつも優秀でしたから」
「ご主人はご存じないようですが」
「......ああ。夫にはまだ話してません。古いタイプの人ですからね。四年制大学にいれることが最良だと思ってる。わたしはそうは思いません」
きっぱりとそういいきった琴音の顔には、いささかの迷いのいろもなかった。家族間の意見の対立も意に介さず、自分の希望どおりに押しきるつもりだ。
大事なのは娘さんの意志なのに。そう思いながら小笠原はきいた。「西園寺氏に、直接会ったことは?」
「面と向かって話したわけではないですが、ご本人は見ましたよ。去年、赤坂のグランドフライヤーズ・ホテルのイベントで」
「グランドフライヤーズ......。先日、倒産したホテルですね」
「あのころは盛況でしたよ。大広間でパーティーのような催しが開かれたんです。参加者は西園寺さんのファンクラブ会員から、特別に選ばれた裕福な人たちに限られてました。それでも千人近くはいたでしょうか。すごかったんですよ、西園寺さんの代表的な楽曲が次々に流れて、レーザー光線が飛び交って......」
「参加費用は? ずいぶん高かったでしょう?」
「二十万円だったかな。でも、都内在住の人であってもホテルの部屋をとってくれて、デイナーもついてましたから。安いぐらいですよ」
「......参加者は全員、宿泊を義務づけられてたわけですか」
「ええ」
景気のいい話だ。倒産寸前のグランドフライヤーズの宿泊費と夜食代、どう転んでもせいぜい四万か五万といったところだろう。
小笠原は皮肉を口にしてみた。「気づいたときには財布はからっぽってわけですね」
琴音は意味がわからなかったようすで、平然と応じた。「いいえ。盗難被害には遭ってません。会場に行く前に、貴重品は部屋の金庫にいれていきましたから」
莉子が困惑顔を向けてきた。小笠原も、その顔を見かえした。
信頼というより、信仰と呼ぶべきものだろう。琴音は西園寺を崇拝する自分の心に、まるで疑念をしめさない。
琴音は壁の絵画を差ししめした。「そのときのイベントでいただいた物です。百年前のアイルランドの画家が描いたものだそうです。日本ではあまり知られてませんけど、現地では二百万円以上の価値があるとか。こういう気前のよさも、西園寺さんがお金にこだわっていないがゆえのことでしょう」
金縁の額に入った薄汚い絵。バーカウンターとバーテン、何人かの客が描かれているが、さほど魅力的な筆づかいには思えなかった。莉子はすでに視線を落としていた。その横顔からも、絵の真価が琴音の主張どおりでないことはわかる。
小笠原は咳ばらいした。「飛鳥さん。それはなんのイベントだったんですか? 西園寺ミュージックスクールの入学説明会とか?」
「いえ。説明会は別の日でした。このときはもっと画期的な催しだったんですよ。サイバープロミネンス・シティヘのお誘いだったんです」
「......なんです? サイバー......」
「プロミネンス・シティ」琴音は立ちあがり、キャビネットの引き出しを開けて、分厚いファイルを持ちだしてきた。ソファにおさまると、そのファイルをテーブルに置いた。
小笠原はファイルを開いた。綴じてある資料の表紙に『現実を超えた仮想都市への招待』とある。
琴音はいった。「まだ開始されていないので、わたしもよくわかっていない部分があるんですけど、仮想空間のなかで買い物ができたり、広告収入が得られたりするんです」
「ようするに、西園寺氏の会社がネット上に仮想都市ポータルサイトを立ちあげて、そこに入会を呼びかけるイベントだったわけですか」
「もう圧倒されちゃったんですよ。大きなスクリーンにそのサイトの画像が映しだされたんですけど、3Dの仮想空間のなかを自由に行き来できるんです。自分以外の人もそこいらじゅうにいて、コミュニケーションがとれるんです」
そのイベントで上映されたとおぼしき画像は、ファイルのなかの資料にも印刷してあった。未来的なビルが建ち並ぶCGはたしかによくできてはいるが、デザインセンスはひと昔前のSF調だった。ターゲットにしている層が四十代である以上、それでいいのかもしれない。事実、琴音はすっかり魅了されているようだった。
資料のページを繰る。希望あふれる未来都市、サイバープロミネンス・シティのオーナーになりませんか。究極のインターネットビジネス。新たなるIT時代の幕開け。そんな謳い文句が次から次へと現れる。
最後のページには、透明なビニールのポケットがついていて、小型の携帯端末機がおさまっていた。液晶画面には保護シールが貼られたままだ。いちども電源をいれていないのだろう。
莉子が顔をあげて、琴音にきいた。「いつから始まるサービスなんですか?」
琴音はいった。「今年の秋ぐらいをめどに開発が進んでるみたいです」
「もう、入会してしまったわけですか」
「はい。予約だけでいっぱいになるところを、特別に手続きしてもらえたんです。なにしろ世界じゅうから申しこみが殺到してますから」
「入会金は......」
「ゼロです。ほかに登録料として五十万円を払いました」
「五十万......」莉子は絶句して。小笠原を見つめてきた。
小笠原は琴音にたずねた。「いくらなんでも、高くありませんか」
「全然」琴音は微笑した。「新しい加入者を紹介して、登録になれば報酬が入るんです。結果的には黒字になるんですよ。いわば、わたしたちは西園寺さんの事業のお手伝いをしてるんです」
紹介。それに報酬。
思わず莉子を見やった。莉子はりつむき、失意のいろを漂わせながら目を閉じた。
飛鳥邸をでると、神楽坂の住宅街には正午の陽射しが降り注いでいた。
まばゆいばかりの明るさに目がくらみそうだ。小笠原は莉子と並んで、駅方面に歩を進めていった。
やがて沈黙に耐えきれなくなり、小笠原は吐き捨てた。「ねずみ講じゃないか」
「そうね」と莉子も憂鬱そうにつぶやいた。「紹介によって報酬を得るなんて。連鎖販売取引、ようするにマルチ商法だわ」
「あの仮想空間とやら、本当に開発は進んでるのかな」
莉子は首を横に振った。「ありえないわよ。あのPDAは韓国のサムスン電子製、それも二年前のモデルよ。価格にして一万五千円からせいぜい二万円。ネットにはつながっても、資料に書かれていたような仮想都市でのセカンドライフは可能にならない。スペック的に無理よ」
「バーチャルシティ構想自体が嘘ってわけか」
「あの手のサイトって、開発に莫大なお金がかかるのよ。会員から集めた登録料を合計しても赤字でしょう。っていうか、いまさらセカンドライフだなんて......。もうとっくに廃れてるのに」
「アイルランドの画家の絵は?」
「偽物よ。バーカウンターの後ろの棚。ウイスキーの瓶のラべルに WHISKY と書いてあった。当時、あれはスコッチをさす言葉だったの。アイルランドのウイスキーなら、KとYのあいだにEがある WHISKEY でなきゃ。色づかいもアイルランド絵画の鮮やかさとは似ても似つかないし。ごく最近描かれたものでしょう」
「いくらぐらいかな」
「高くて三万円ってとこ」
「やっぱりな」小笠原は頭を掻きむしった。「どうする? あの奥さんを説得して、警察署に連れていくか?」
「無駄よ。これもほかの詐欺と同じ。西園寺さん側が、バーチャルシティの開発は遅れているだけで、いずれ完成させるって言い張っていれば、詐欺罪にはあたらない。返金を求める訴訟はできても、刑事告訴は不可能」
「ったく。せめて被害者が集団民事訴訟でも起こしてくれれば......」
「あの調子じゃ難しいでしょうね。きっとほかの会員も熱心な信者ばかりだろうし」
「なにを信仰しようと自由だし、そのために財産を吐きだすのも結構だけどね。でも......」
「ええ」莉子はうなずいた。「飛鳥家の場合、娘の陽菜さんが犠牲になろうとしてる」
沈黙が訪れた。ふたりは無言のまま歩きつづけた。
なんとかあの母親の目を覚まさせてやりたい。莉子も同じ気持ちだろう。そう小笠原は思った。不実なる信仰が生む不幸の連鎖。取り返しのつかなくなる前に、歯止めをかけたい。
過去の遺物
小笠原は、西園寺を追うことについて編集長の了解を得た。すなわち、事件性があることがはっきりしたら、記事にしてもよいという認可だった。
これで大手を振って調べられる。まずは予習だった。大学時代の同期、高須賀が他社の音楽情報誌『スクリーモ』の編集部に勤めているのを思いだし、連絡してみた。
『週刊角川』の編集部よりもさらに雑然としたフロアの片隅、間仕切りのない応接セットで、小笠原は高須賀と向かいあった。
高須賀は大学生のころから音楽好きだったが、茶髪のロングにしたいまは見た目もバンドマン風になっていた。高須賀はくつろいだ姿勢でいった。「西園寺サウンドの特徴っていえば、ポジティブで高揚感のあるメロディラインに歌謡曲的な哀愁を加えて、ダンスミュージックっぽく仕上げるってとこかな。大衆にもわかりやすかった」
「きみが西園寺を誉めるとは思わなかったな」小笠原はいった。「大学のころはボロクソだったじゃないか」
ふんと高須賀は鼻で笑った。「商業上の成功は認めてるよ。音楽的に考えれば、打ちこみのドラムの軽さはちょっと耳障りだし、粗製乱造のせいもあって薄っぺらくて安っぽい音づくりに思える」
「コンピュータに洋楽のヒット曲のデータを大量に放りこんで、よさそうなところだけ切り貼りして曲を作ってたって噂もあるけど」
「それは違うな。のちの西園寺もどきのプロデューサーにはそういう輩も多いけど。いちおう西園寺はオリジナリティにはこだわるほうだった。むしろ彼は、海外の音楽をよく知らなかったんじゃないかな。当時ロンドンで流行ってたレイヴとか、まるで理解できていないようすだったし、ダンスミュージックといいながらガラージハウスでもなかった。ひたすらジュリアナ風のハードコアテクノ、ユーロビート調の音楽ばかりだった。流行に無頓着であるがゆえに模倣者にはならなかった。それが俺の考える西園寺像だよ」
「ふうん......。私生活のほうはどうだろう。彼は自分のプロデュースした女性アーティストと、頻繁に色恋沙汰が噂されてたよな。実際に結婚と離婚を繰りかえして、七年ほど前に如月彩乃と結婚した。彼女も西園寺ファミリーのひとりといわれたボーカリストだったろ」
「ああ。本名は西園寺彩乃になったわけだが、いまも旧姓でいちおう歌手をつづけてるよ。披露宴が超豪華だったな」
「総額八億円とかいわれてたし」
高須賀は首をかしげた。「どうかな。たしかに豪勢に金をかけてたけど、世間にいわれているほどの額じゃなかったと思う。噂に尾ひれ背びれをつけて、西園寺自身が吹聴するもんだから、本当のところは誰にもわからなくなってるけどな。たとえばほら、西園寺が如月彩乃にプロポーズしたときのことだ。真夜中に多摩川沿いをふたりきりでドライブして、いきなり何十発もの花火があがった。西園寺が告白のためにあらかじめ花火師を配置して。その時間にあがるように仕組んでおいたって、そんな記事がでたろ」
「あったな。金持ちのサプライズは規模が違うなって思ったよ」
「あれも眉つばものらしいよ。近くに住宅地があるんだけど、花火の音をきいた住民がいないんだ。いまじゃもう話題にものぼらないけど、ときどきネットなんかで揶揄されてるよ。ただのほら吹き、嘘つきだって」
「そうか......。如月彩乃ともどもカンツォネッタから独立した直後だけに、懐ぐあいは厳しかったのかな」
「そのときだけじゃないさ。以後ずっとだよ」高須賀は脚を組みなおした。「カラオケの印税収入だけでも莫大な額ってよくいわれてるけど、前妻への慰謝料だとか、ソウルの会社の清算とか借金のカタに押さえられているんだよ。西園寺はもう無一文も同然だといっていい。八億の披露宴はそんな状況でおこなわれた。どうやって金を集めたかについちゃいろいろいわれてるが、そこんとこはきみのほうが詳しいだろ」
小笠原はうなずいてみせた。「でも、どうして派手な暮らしぶりをつづけるんだろうな。CDが売れてもいないのに、あやしまれるだけじゃないか」
「バブルに片足をつっこんで抜けだせないんだろうよ。西園寺は若くみえても今年五十歳だからな。金を手にしたら高級車、豪邸、クルーザー。物欲と見栄の両方を満たすことばかり追求しがちな世代だ。次々に立ちあげる詐欺まがいのプロジェクトも、本人には詐欺という自覚はなくて、大物なんだから常に実現の可能性があるなんて、現実と虚構の区別がつかなくなっているのかもな」
「最近はどうしてるんだろう。音楽活動のほうは?」
「インドネシアに行き来して、現地の音楽スタジオと共作を協議してるなんて発表してるけど、具体的な動きはさっぱりだ。っていうか、うちのライターがこのあいだ別の仕事でジャワ島に飛んだけど、向こうの音楽事情はひどいものらしくて、とても提携で儲けられるとかそんな状況じゃないってさ。西園寺のいう、インドネシアの音楽スタジオやプロデユーサーってのも、実名はわからずじまいだし、本当に実在してるかどうかもあやしい。黒い噂も流れてるよ。禁輸品の密輸に手をだしてるんじゃないかって」
小笠原は唸った。「噂ばかりか。こりゃ、本人の言葉をきくよりほかに判断のしようがないな」
「取材を申しこんだら? なんなら段取りをつけるのに協力してあげてもいいよ」
「本当に?」小笠原は驚きを禁じえなかった。「僕なんかのインタビューに応じてくれるかな」
「問題ないよ。どんなアーティストであれ、スキャンダル記事以外でマスコミに露出するのを望んでいるものさ」
「ふうん。いわれてみれば、そんな気がしてきた。ほかから冷たくされてるぶんだけ、乗り気になってくれるかな」
「ああ。間違いないさ」高須賀はにやりと笑った。「いまやどの音楽雑誌も見向きもしない、過去の遺物同然の人だからね」
イベント
小笠原は莉子に呼びかけて、西園寺の取材に同行を求めた。もちろんいきます、と莉子は応じてくれた。
場所はお台場のイベントスペース〝ブリーズ〟だった。西園寺御用達のグランドフライヤーズ・ホテルが倒産したいま、やむをえず催しの会場を移したのだろう。規模が縮小したかと思いきや、場内はホテルの大広間を圧倒する絢爛豪華な内装に満ちていた。
スモークを焚いた薄明かりの空間は幻想的で、霧のなかにスポットライトの光線を鮮やかに浮かびあがらせる。ひしめきあう人々のほとんどが中高年だ。セレプっぽさを強調したイベントだけあって、フォーマルな装いの客も少なくない。
小笠原はいつも通りのスーツ姿だったが、莉子のほうは会場の雰囲気を予測していたのか、周囲に溶けこんでみえるセミフォーマル風のワンピースを着ていた。取材許可をもらって入場できた記者の同伴者にすぎないというのに、莉子はどこから見ても立派な招待客のひとりだった。
そんな莉子とふたりでエントランスをくぐったとき、すでに場内には西園寺の声が大音量で響いていた。「ニューヨークの五番街、不動産王が建てた巨大なビルがあります。超高層複合ビルでして、階ごとに商業用と居住用に分かれています。ここに入居することは世界でも有数の金持ちであるという証明になります。いわば富豪のなかの富豪のステータスです」
座席はなく、客は全員立って演壇に目を向けている。スポットライトを浴びているのは、純白のスーツ姿、華奢な身体つきの西園寺響その人だった。トレードマークの長髪は、昔の写真よりもずっと明るい色に染めてあった。
西園寺はつづけていた。「西園寺音楽事務所のニューヨーク・オフィスもこのビルにあります。先日、真上の部屋に住んでいる人があいさつに来られたんですが、なんとブルネイの王様だったんです」
感嘆の声と笑いが混ざってきこえる。すごーい。近くの客のささやきあう声をきいても、誰もが西園寺の言葉を本気でとらえているのがわかる。
昔、テレビでみかけた西園寺は、寡黙で神経質という印象だったが、いま演壇で話している男は外見は同じであっても、中身が別人に入れ替わっているようにさえ思えた。饒舌で大胆。従順な信者ばかりを集めると教祖ぶりも助長されるのだろうか。
西園寺は上機嫌でいった。「本年度も西園寺音楽事務所は躍進します。長年、私が手塩にかけて育てたトランス系のユニット、アンビシャスのデビューシングルが間もなく発売になります。ヒットチャート一位は確実でしょう。さらに来年春には、待望の西園寺ミュージックスクールが開校になります。ここからも多くの新しい才能が巣立っていくでしょう。みなさんの投資総額は、二年半で元がとれます」
連れと笑顔を見合わせた客が多い。すなわち彼らは、投資の行方を心配して集まったのだろう。未来への展望がいかに明るいかを西園寺からはっきりときかされ、安堵を覚えたようすだった。その横顔には猜疑心のかけらもない。
さらに西園寺はたたみかけるように告げた。「近い将来、西園寺音楽事務所は上場を果たします。株価は四十倍から五十倍に跳ねあがるでしょう。セカンド・ステージを間近に控えた西園寺音楽事務所のさらなる飛躍にご期待ください。本日はお集まりいただき、ありがとうございました。心よりお礼申しあげます」
西園寺が深々と一礼すると、拍手が湧き起こった。黄色い声援も飛ぶ。客の年齢からすると不相応に思えるが、心は青春時代のままなのだろう。飛鳥琴音はやはり例外的存在ではなかった。同様の熱狂的ともいえる信者たちが、この広い会場を埋め尽くしている。
そのとき、莉子がいった。「小笠原さん。あそこにいるの、如月彩乃じゃない?」
莉子が指さした演壇の端。金髪のロングヘアの女が立っていた。
シルバーのスパンコールに覆われた派手なワンピースをまとい、同色の長い手袋とブーツできめたさまは、かつて二十代のころ、西園寺プロデュースの売れっ子アーティストだった如月彩乃そのままだった。
いまも三十代後半という実年齢を感じさせない若々しさを誇っているが、詰めかけた招待客の関心を惹くまでには至らないようだった。客たちの目は、演壇から降りようとしている西園寺に釘付けになっている。
彩乃は、演説を終えた夫に微笑みかけたが、西園寺のほうはそれに気づかなかったのか、無反応のまま素通りした。フロアに降り立った西園寺に彩乃もつづいたが、人々が群がるのは西園寺ばかりだった。誰も彩乃に見向きもしない。
客たちは西園寺にサインとツーショットの写真を求めている。声ひとつかからない彩乃は、表情をかすかにこわばらせたが、それでも笑みを絶やさず、夫の背を見守りつづけている。
意外だと小笠原は思った。音楽プロデューサーは、アーティストの人気がまず先行し、そのうえで存在を認められるものだと思っていた。ここでは立場が逆転している。
場内にはBGMが流れていた。西園寺がかって手がけたミリオンセラー曲のインストゥルメンタルだった。この曲はカンツォネッタに所属していたころの作品のはずだが、かまわないのだろうか。どうやら、世間に認められた業績については、独立以前のものであっても節操なく利用する考えのようだった。
やがて演壇の前に詰めかけた客たちに対し、黒服の男が割って入った。男は大声で告げた。「本日のイベントは終了です。西園寺氏はレコーディングスタジオに戻らねばなりません。申しわけありませんが、サインと記念撮影は日を改めておこなわせていただきます」
こうしてはいられない。俺は西園寺に取材するためにここにきた。逃がすわけにはいかない。
「いこう」小笠原は莉子の手を引きながら、人垣を掻き分けて進んだ。
演壇に近づくと、目の前に黒服が仏頂面で立ちふさがった。「なにか?」
「『週刊角川』の小笠原と申します。西園寺さんにインタビューの約束がありまして」
「......ああ」黒服の顔に笑いはなかった。「それでしたら、品川のレコーディングスタジオにお越しください」
「え?」小笠原は驚いた。「アポイントをとったら、ここに来るようにいわれたんですけど......」
「いまのイベントをご覧いただいた後、場所を移してのインタビューとなります。こっちとしては初めからそのつもりでしたが」
「そんな。うかがってませんよ。ここで取材をお受けいただけるというから......」
「ご不満でしたら、キャンセルいたしましょうか」
「いえ、そういうつもりでは......。わかりました。レコーディングスタジオにいきます」
黒服はうなずきもせず、硬い顔のままその場を離れていった。
小笠原は莉子を振りかえった。「まいった。どうなってるんだろ」
莉子はすました表情でいった。「インタビューの前に、このイベントを見せたかったってだけでしょう」
「なんのために? まさか、昔と変わらない人気ぶりをしめしておこうって?」
「ええ。インタビューで過去の人扱いされないための予防策ね」
きょうという日をわざわざ指定してきたのもそのせいか。たぶんレコーディングスタジオでも、彼の仕事場における大物ぶりをひととおり見せつける段取りに違いない。マスコミ関係者が彼に寄りつかなくなった理由が、なんとなくわかる気がした。
西園寺は、なおも名残惜しそうにすり寄るファンたちに囲まれながら、専用の出口に消えていった。彼の姿が見えなくなると、客たちは散っていった。残された如月彩乃が、ひとりぽつんと立ちつくしていた。
オーディション
スタッフにきいた住所に、タクシーで移動する。午後四時をまわったところだった。小笠原は莉子を連れて、品川の真新しいオフィスビル内にあるレコーディングスタジオに向かった。
エレベーターを降りて四階のフロアにでる。とたんに小笠原は、ぎょっとして立ちつくした。莉子も唖然としたようすでたたずんでいる。
そのフロアの小さなロビーは、大勢の若者たちでごったがえしていた。カジュアルな服装、ルックスもそれなりに思える男女が数名ずつグループになって、床に座りこんだり、壁にもたれかかったりしている。二十代が多いようだが、なかには十代とおぼしき顔もあった。ギターをチューニングしている姿も目につく。発声練習に興じている集団もあったが、ほとんどは無言のままだった。表情が硬い。一様に緊張しているように見える。
壁には分厚い扉がふたつある。それぞれ別の部屋につながっているようだ。室内が覗ける窓も二か所あった。いずれも防音らしく、ガラスを通して伝わってくるもの音はない。
部屋のひとつはメインのレコーディングスタジオで、女性ボーカリストとギター、ドラムの三人が入室している。もうひとつの部屋はスタジオサブで、ディレクターらしきサングラスの男の指示のもと、数人のオペレーターが業務用の機材を操作していた。
それらふたつの部屋のあいだも、窓つきの壁で仕切られている。バンドマンとオペレーターたちはガラスをはさんで向かい合い、言葉を交わしている。会話はスピーカーを通じて、ロビーにも流れてきた。
サングラスの男がインカムで告げる。「課題どおり、海外の著名アーティストの曲であれば、ロックであろうとクラシックであろうと、あるいはジャズであろうとジャンルは問いません。いいですね。じゃあ演奏を始めてください」
ドラムのスティックがリズムを刻むと、アップテンポの演奏とともに女性ボーカリストが歌いだした。英語の歌詞だった。
小笠原はつぶやいた。「きいたことがある曲だ」
莉子がいった。「スティーヴィー・ニックスね。フリートウッド・マックの」
ところがわずか数秒で、スタジオサブから声があがった。「だめだ。そこまで」
窓を通して見えるスタジオサブのなかで、いままでオペレーターの陰に隠れていた人物が立ちあがり、姿を現した。
ロビーにいっそう張りつめた空気が漂う。白いスーツのその男こそ、西園寺響だった。イベントを終えてすぐ、このスタジオに入ってオーディションを始めたらしい。
西園寺はすました顔で告げた。「声質が古臭い。ギターも野暮ったい。次」
バンドの三人は呆然としたようすだったが、うなだれている暇さえ与えられていないらしく、急かされるように扉に向かってきた。重い扉が押し開けられて、まずボーカリストが姿を現す。落胆のいろは隠せないようだった。つづいてギター。持ちこんだ楽器をだいじそうに抱えてでてくる。ドラムについては、スタジオ内の据え置きのものを使う規則らしい。スティックだけを手にして、不満げな面持ちで退室する。
スタジオ内にはドラムのほかにも、キーボードやグランドピアノなどがあった。次に入室するのは、フォーマルなドレスをきたひとりの女だった。
また扉が閉められる。スタジオサブの西園寺も椅子に腰をおろした。
いつになったらインタビューできるのだろう。じれったく思いながら、小笠原は窓に近づいていった。
すると、スーツ姿の大柄のスタッフがひとり、ロビーを横ぎって歩み寄ってきた。男は小笠原の前に立ちふさがった。「なんでしょうか」
「あのう......。西園寺さんに取材の約束がありまして」
「ご覧のとおり、いまは新人オーディションの最中ですから」
「さっきもイベント会場で、こちらに来るようにいわれたんですけど。『週刊角川』の小笠原です。話、通じてません?」
「うかがっております」男の顔はやはり硬かった。「どうぞオーディションのようすをご見学ください。このガラスごしに、西園寺を撮影されても結構です。ただし、参加アーティストに話しかけることはご遠慮ください。オーディション前に集中力を乱されては困りますので」
「ええと......。それで、西園寺さんにインタビューできるのは、何時ごろになりそうですか」
「多忙につき、インタビューはお受けできません」
「ええっ?」小笠原は驚いて、思わずうわずった声をあげた。
周囲の視線が降りそそぐのを感じる。小笠原はささやくようにきいた。「どういうことなんです。インタビューを申しこんだはずですよ。十分間でいいんです。なんなら五分でも」
「西園寺の日常を取材いただくことを許可したまで、ときいております。単独会見に時間を割くことは、申しわけありませんが不可能です。ご了承ください」
「そんな。インタビューできるっていうから来たのに......」
小笠原は苦言を呈したが、男はさっさと立ち去ってしまった。
開いた口がふさがらないとは、まさにこのことだった。質問はいっさい受けつけない。宣伝になる記事だけ書いてくれという露骨なほのめかし。唯一のサービスショットとして、スタジオサブで仕事する西園寺の写真を、ガラスごしに撮らせてやるという高慢な態度。この期に及んで大物ぶるとは悪い冗談としか思えないが、どうやら当人たちは本気のようだから始末に負えない。
スタジオでは、女がピアノソロの演奏を始めていた。『美しく青きドナウ』だった。
すぐにまた西園寺の声が飛んだ。「そこまで。......あのね、ピアノが巧いのはわかるんだけど、僕らが探しているのは次世代のスターなんだよ。トウの立った厚化粧のピアニストじゃないんだ。次」
女は表情を凍りつかせた。憤りをあらわにしてピアノの前を離れ、扉に向かった。
「ひどいね」小笠原は莉子にいった。「あんなに毒舌な男とは思わなかった」
莉子は憂いのいろを浮かべた。「これじゃ時間の無駄よ。なんとかして西園寺さんに接触しないと」
「そうはいっても......。向こうに会う意志がない以上、どうしようもないよ」
扉が開く。スタジオから女性ピアニストが、泣きそうな顔ででてきた。
するとそのとき、いきなり莉子が足ばやに歩きだした。スタジオの扉をめざしているようだ。
「お、おい」小笠原はあわてて声をかけた。「凜田さん。何をするつもりなんだ」
莉子は女性ピアニストとすれ違い、なおも歩きつづけた。次に演奏を控えているらしいバンドが立ちあがって、扉に近づく素振りをみせている。ところが莉子はそれに先んじてスタジオに入った。扉はなかから閉じられた。
ロビーの一同は呆気にとられたようすで、扉を眺めている。小笠原も同様だった。
窓を覗いてみる。スタジオのなかの莉子は黙ってグランドピアノの前に座った。その顔は、スタジオサブと向きあっている。
オペレーターたちは、オーディションの参加者の順番を特に気にかけていないのか、不審そうな面持ちではなかった。次のアーティストが入室した、そう感じただけのようだ。サングラスの男も莉子の顔をじっと見つめている。
ピアノなど弾けるのだろうか。小笠原はてのひらに汗がにじむのを感じた。
スタジオ内の莉子は、なぜか腕時計に目を走らせてから、ピアノの鍵盤部の蓋を開けた。両手を鍵盤に這わせる。
どんな曲が奏でられるのだろう。小笠原は固唾を呑んで耳をすました。
ところが、数秒経っても、なんの音もしない。莉子は虚空を見つめたまま、身じろぎひとつしなかった。
さらに数十秒が経過した。
サングラスの男がインカムを通じて告げる。「どうした? なぜ演奏を始めない?」
莉子は無言のままだった。鍵盤を眺めてはいるが、指はいっこうに動かない。
苛立ったようすでサングラスがきいた。「何してる。さっさと曲を......」
ふいに西園寺がいった。「待て。静かに」
辺りに沈黙が降りてきた。ロビーは静まりかえっている。スタジオサブも同様だった。そして、本来なら演奏が鳴り響くはずのスタジオさえも。
静寂のなか、時は過ぎていく。西園寺は身を乗りだし、莉子に見いっているようすだった。莉子のほうは西園寺に目もあわせず、ただ座りつづけている。
永遠とも思えるほどの、長い時間が経過していった。実際にはわずか数分かもしれない。けれども、小笠原には数時間のことに感じられた。
ロビーの人々も同様らしい。さすがにざわめきだした。どうなってる。あの女の子、どうして弾かないんだ。
莉子の視線が、また腕時計に向けられた。そこからしばらくして、莉子はおもむろに鍵盤の蓋を閉じた。
いきなり西園寺が立ちあがり、勢いよく拍手をしはじめた。
オペレーターたちがぽかんとした顔で、西園寺を振りかえる。サングラスの男も唖然としていた。
西園寺は興奮ぎみにいった。「わからないか? 彼女はきょう、課題を最も忠実にこなしたアーティストだ」
「......あのう」サングラスがおずおずときいた。「社長。どういう意味でしょうか」
「ジャンルを問わず、海外の有名アーティストの曲を完璧に演奏すること。彼女はそれを成し遂げたんだよ。ジョン・ケージの『4分33秒』を」
サングラスは驚きのいろを浮かべた。「なんですって? ジョン・ケージ?」
「ああ。一九五二年の作品だ。楽譜には休止しか記されていない。つまり四分三十三秒の無音のみの曲というわけだ。楽譜に忠実に演奏するという意味で、彼女の技術力は満点といっていい。蓋を開けてから閉めるまで、正確に四分三十三秒だった」
「......で、でも、それでは新たな才能の発掘というわけでは......」
「きみは鈍いな」西園寺は上機嫌のようだった。「彼女は音楽はできないが、ルックスを評価してもらいたがっているんだよ。でもモデルじゃなくアーティストになりたいんだ。利口だよ、こういう機会を利用して自分を売りこもうとはね」
サングラスの男はしげしげと莉子を眺めた。「なるほど、たしかに美人ですね。スター性というか、カリスマ性もある」
「だろ? スタイルもいいし存在感もたっぷりだ。人気のでそうな顔をしているよ。僕にはわかる」
「でも、少なくとも歌ぐらい聴いてみないことには、評価はいかんとも......」
「まあ待て」西園寺はにやりとした。「音楽的に何をさせられるのかは、まだわからないけど、少なくとも彼女は課題をクリアしたんだ。そして、見た目は抜群ときてる。これ以上の逸材はないよ。きょうのオーディションの結果はきまった。彼女を採用だ」
ええっというどよめきが、ロビーに広がった。
小笠原も同じ気持ちだった。信じられない。こんな手で合格だなんて。まるで一休さんの頓知じゃないか......。
ロビーのスタッフは、西園寺の気まぐれにも動じるようすはなかった。あくまで職務に忠実な態度を崩さず、スタッフはいった。「みなさん。お聞きのとおりです。合格者はきまりました。すみやかにお引き取りください。エレベーターは混雑します。そちらの階段からどうぞ」
若者たちは不満げなようすだったが、早くも立ちあがり移動を姶めた。オーディションに落ちるのは慣れているようだった。不本意な審査に振りまわされるのも、初めてのことではなさそうだ。
ぞろぞろと階段に向かうアーティスト候補たちを見るうちに、小笠原は状況がのみこめてきた。
プロデューサーがアーティストを育てるといえば聞こえはいいが、実際にはスターになりそうな逸材をいち早く見つけ、囲いこんで、人気がでてから作詞作曲による印税で儲けることが目的だ。すなわち、ほうっておいても売れそうな新人を獲得したいというのが本音だろう。西園寺は、音楽プロデューサーという肩書を看板にしながらも、じつはスターになる第一条件は歌唱力ではなくルックスと考えている。
たしかに彼がプロデュースした往年のアーティストは、美人揃いだった。そしてきょう、ここに集ったアーティスト候補と比べても、莉子の外見はずば抜けていた。音楽など、どうでもよくなるほどに。
ロビーは閑散としてきた。スタジオの扉が開き、莉子がでてきた。
「お疲れさま」小笠原はいった。「びっくりしたよ。きみは思ったよりずっと自信家だね」
「自信家って?」莉子がきいてきた。
「ルックスで選ばれるとわかってたから、あんな勝負に打ってでたんだろ?」
「そんな」莉子は苦笑に似た笑いを浮かべた。「わたしはただ、西園寺さんと喋る機会を持とうとしただけ。まさか合格をもらうなんて......」
そのとき、スタジオサブの扉が開いた。
西園寺がつかつかと歩いてきた。その顔には満面の笑いがあった。莉子を見つめて西園寺はきいた。「きみ、名前は?」
「凜田莉子です」
「ふうん。語呂のいい名前だね。アーティストにも向いてる。本名のままでいくのも、悪くないかもしれないな」
「あの、西園寺さん。わたし......」
「話はあとだ。僕はこれから世田谷の自宅に戻る。仕事場も兼ねてる家だから、きみもきてくれないか。方向性をきめるのは早いほうがいいし」
「あ......」莉子は動揺したようにいった。「で、でもですね、わたしは、そのう......」
サングラスの男がにやりとした。「あわてなくても、社長のご自宅には奥さんの如月彩乃さんもいるし、あくまで仕事の話だよ。きみの将来のためになる相談だ。それに、私たちとしても、きょうこのままきみを帰すわけにはいかないよ。ほかと契約されたんじゃたまらないからね」
デビューしたがっている新人を喜ばすつもりの発言だろうが、莉子はあきらかに戸惑っていた。しかし莉子が抵抗の素振りをみせる間もなく、一同は莉子を囲んでエレベーターへといざないだした。
小笠原はあわてて追いかけようとしたが、ロビーのスタッフがその前に立ちはだかった。
スタッフはいった。「取材はご遠慮願います」
そうじゃないんだ、彼女は僕の連れだ。そういいかけて、小笠原は口をつぐんだ。
せっかく莉子が西園寺に近づけたのだ、このチャンスを潰す手はない。
とはいえ、彼女にすべてをまかせてだいじょうぶなのだろうか。
莉子はエレベーターに乗りこむ寸前、こちらを振りかえり、目配せをした。心配しないで、そう告げているように見える。
エレベーターの扉が閉じた。ロビーには小笠原と、スタッフのひとりだけが残された。
気まずさのなかで、小笠原はぶらりとスタジオの扉に向かった。「僕も『4分33秒』を演奏しようかな......」
だが、スタッフがまわりこんで行く手を遮った。
小笠原はため息まじりにつぶやいた。「ってなわけには、いかないよね。やっぱり......」
リムジン
夕陽に赤く染まる世田谷の住宅街を、凜田莉子はメルセデス・ベンツSクラスの助手席から眺めていた。
運転席でステアリングを握っているのは。ほかならぬ西園寺響だった。レコーディングスタジオをでる前にグレーのスーツに着替えてきたあたりは、多少の常識をわきまえているように思える。
しかしそれも素行のすべてに徹底しているわけではない。閑静な住宅地だというのに、前を走るたった一台の自転車に、西園寺は遠慮なくクラクションを浴びせた。
強引に自転車を追い越しながら西園寺はいった。「メルセデスのホーンは響きが美しいよ。なぜだがわかるかい?」
「いえ......」
「このボッシュ社製のホーンは、高音と低音の二種類の音源をミックスして深みのある音になっている。ところが日本車ってのは、電気で金属板を振動させて音をだすブザーと同じ仕組みだ。あの下品な音はそのせいでね。構造からして違っている。音が美しいだけでもドイツ車を選ぶ理由になる」
男性の運転するクルマに乗ったからには、クルマ自慢を聞き流す器量が必要になるとどこかできいた。いまがそのときなのだろうと莉子は思った。
やがてSクラスは三階建ての邸宅の前に停車した。リモコン式の門が開き、そのなかに乗りいれていく。
地価の高い世田谷区、さすがに大豪邸とは呼べないが、ややこぢんまりとした佇まいながら金をしっかりとかけている。そんな印象の家だった。外観はレンガづくりに見えるが、実際は木造だ。しかしこれとて、たんなる安いパネルを貼りつけたわけではなく、本物のレンガで装飾している。玄関の扉もイタリアのピニンファリーナがデザインした最高級品だった。
車外にでると、西園寺が家のなかに案内した。扉のなかはちょっとしたホールになっていて、三階まで吹き抜けている。アンティークとモダンが混在していた。螺旋階段を上って二階に向かう。
すると、二階の廊下にひとりの女が立っていた。シンプルニッ卜に着替えていたが、金髪に染めたロングヘアで一見して如月彩乃とわかった。
「おかえりなさい」と彩乃はいった。視線が西園寺から莉子に移る。「この人は?」
西園寺は歩を緩めず、彩乃のわきを通り過ぎながら告げた。「凜田莉子さん。きょう掘りだしたばかりの原石だよ」
「......そう。よろしく」と彩乃が頭をさげてきた。
「こちらこそ」と莉子は恐縮しながらおじぎをかえした。
彩乃は西園寺の背に声をかけた。「響さん。きょうのディナーだけど......」
「キャンセルしてくれ」西園寺は突き当たりのドアを開けた。「いろいろ忙しいんだ。さあ、凜田さん。どうぞ」
困惑したようすの彩乃が、その場にたたずむ。莉子は気まずく思いながら、西園寺のもとに歩いていった。
戸口をくぐると、西園寺は彩乃を呼びこもうともせず、さっさとドアを閉めた。
そこは音響ルームだった。壁面は千鳥状の複雑な構造を持ち、窓は二重になっている。アンプにチューナー、ミキサーといった業務用機器が並び、スピーカーも四方にあった。さっきのレコーディングスタジオほどではないが、贅を尽くしたミュージシャンの憧れの部屋といった様相を呈している。
音は外に漏れない。こちらとしても、情報を探りだすのに好都合だ。
莉子はきいた。「来年から学校を開校するそうですが......」
「ああ。西園寺ミュージックスクールのことか。あんなものは才能のあるなしに拘わらず、希望者を募って授業料を集めるためのものさ。なかには使いものになる人材も見つかるかもしれないけど、期待はしてないね」
「でも、指導はするんでしょう?」
「これからきみにおこなうほどの有意義な教育は実施しないよ。ヒット曲をつくる秘訣は門外不出なんでね。ま、授業のほうは教師にまかせるつもりだから」
「西園寺さんは教えないんですか?」ふんと西園寺は鼻で笑った。「教員の資格を持っているアーティストは多い。稲葉浩志は数学。中島みゆきは国語。大塚愛は幼稚園の先生の資格を持ってるそうだな。でも誰も音楽は教えない。自分の作品を通じて世にアピールするのが仕事だ。ノウハウを切り売りするのはアーティストのやることではない」
入学希望者やその親がきいたらショックを受けるだろう。とりわけ飛鳥陽菜の母、琴音の耳に入ったら......。
「さて」西園寺がいった。「さっそく始めよう。部屋の真ん中に立ってくれないか。あのあたりだ」
莉子はいわれるままに、室内のほぼ中央に移動した。
すると西園寺は機器を操作し始めた。ほどなく、大音量の音楽が流れだした。
彼の得意とする打ちこみ系ダンスミュージックのイントロだった。メロディラインこそ、かつての西園寺サウンドの法則を踏襲しているが、きいたことのない曲だった。
やがて女性のボーカルが始まった。美しい声だった。音程も一瞬たりとも外れない。たいした歌唱力だ。しかしその声も記憶にはなかった。売れている歌手ではないのだろう。
演奏は周囲から立体的にきこえてくるが、歌声だけはなぜか自分の頭頂部から響いてくる。ヘッドフォンで音楽をきく感覚に似ていた。西園寺が機器を操作すると、さらにその声の発生源が位置をさげてくる。
異常な事態に思えてきた。ボーカルが、自分の頭のなかから発せられているようだ。みずからの声のように、わずかに籠もったようにきこえる。でもこれは、わたしの声ではない。
気分が悪くなり、莉子は両手で耳をふさいだ。
すぐに音楽がやんだ。西園寺は面食らった顔を向けてきた。「どうしてパフォーマンスをしない?」
「......え?」莉子は驚いてきいた。「それって、どういう意味ですか?」
「ルックスだけを武器に音楽業界に打ってでるつもりなんだろ? 歌ってるふりをしてごらんよ。表情だとか口の動き、振り付けの才能を見るから」
「ああ」ようやく事情が把握できつつあった。莉子はつぶやいた。「口パクってことですか」
「リップシンキングといってほしいね。インド映画音楽界ではプレスコアリングと呼ぶ。世界的にも認知されているパフォーマンスの一種だよ」西園寺は怪訝な顔になった。「そのつもりできたんじゃなかったのか?」
認知されているだろうか。ブリトニー・スピアーズの口パクはいつも世間の物議をかもす。北京オリンピックの開会式で独唱した少女の口パクも、国際的な非難の的になった。その中国では二〇〇九年以降、コンサートで口パクがあった場合には観客が主催団体に対し、消費者権益保護法に基づいて賠償を請求できるようになった。どの国でも事実上、禁止に向かっているとしか思えない。西園寺の認識は世界の常識に反するものだった。
莉子はいった。「わたし、ミリ・ヴァニリになるつもりはないんですけど」
「ほう。よく知ってるな」西園寺は感心したように笑った。「自分で歌っていないのがばれて、グラミー賞をはく奪されたミリ・ヴァニリか。心配はいらないよ。僕のやり方ならだいじょうぶだ。ボーカリストには、ステージ上で歌っているときと同じ条件でレコーディングさせる。つまりリアルな息継ぎを随所に入れたり、振り付けの過程においてマイクとの距離が異なる場合は音量や音質も変化させる。リップシンキング用ボーカル音源の作成はまかせてほしい」
「でも......」
「きみがいま体感したように、ボーカルがきみの口もとから発せられているように錯覚させることもできるんだ。ステレオフォニックによるハース効果というものを利用している」
莉子の背に緊張が走った。
「ハース効果?」と莉子はつぶやいた。
「この室内の、任意の空間を音の発生源に感じさせられるんだよ。自分でいうのもなんだが、ハース効果の研究において僕は第一人者といって差し支えないと思う。劇場の観客席で、そこかしこに笑いが沸き起こっているようにきこえるシステムは好評で、うちの会社は業務用パッケージ商品として興行主や劇場主に販売している」
覚めた気分で莉子はいった。「咳やくしゃみも発生させられるでしょうね。客足の絶えないお店の収益を低下させることも可能でしょう」
西園寺の表情が、ふいに硬くなった。
室内はしんと静まりかえっていた。音量を絞った楽曲が、スピーカーからわずかに漏れきこえてくる。西園寺が機器のスイッチを切ると、その音も途絶えた。真の沈黙が、ふたりを包んだ。
やがて西園寺が真顔できいてきた。「目的は何だ?」
莉子は無言のまま、西園寺を見かえした。
静寂に耐えきれなくなったように、西園寺は早口にいった。「どこかで噂をききつけて、僕から金を脅し取れると吹きこまれたのなら、あてが外れてるよ」
「ええ」莉子はうなずいた。「お金はお持ちじゃないでしょうから。お店のBGMや英語のヒアリング問題に細工して、日銭を稼ぐ必要に迫られている現状においては、返済以外の支出なんて不可能に近いでしょう」
「......いうね」西園寺はなおも表面上は穏やかな口調で告げてきた。「なにか根拠というか、証拠があってそういってるのかな。ただ臆測で中傷するのなら、責められるべきはきみということになる」
「証明はできません。だからご本人の口から、真実をお聞きしたいと思ったんです」
「いったいなんの権限があって......」
「権限というより許可です。きょうは『週刊角川』の取材をお受けいただいているはずです」
「......ああ」西園寺は憂鬱そうにつぶやいた。「その件か」
「スタッフのかたに、質疑応答を一方的に拒絶されてしまったので、ご本人はどういうおつもりなのかお伺いしたかっただけです」
「それでこのトロイの木馬みたいな戦術で潜りこんだのか? 勇ましいね。週刊誌の記者にきみのような人がいるとは思わなかった」
「わたしは記者じゃないんです。本当の記者さんは門前払いになっちゃったんです」
「なるほど」西園寺はさばさばした表情でいった。「気の毒なことをした。申しわけない。そういえばいいのかな。そして付け加えるとすれば、きみのいったようなことは事実無根。まったくナンセンスだ。ゴシップを記事にするのなら私のほうにも考えがあるよ。そう友人に伝えてくれ。きみが受け取る報酬がいくらなのか知らないが、これで満足だろう。以上だ」
莉子はしばし西園寺と無言で向き合ったが、彼にもう話す意志がないと感じ、戸口へと歩きだした。
「凜田さん」西園寺が声をかけてきた。「僕ならきみをスターにできたのに。残念だよ」
立ちどまり、莉子は西園寺を振りかえった。「ええ。わたしも残念です」
西園寺は、莉子の返答に潜む棘を感じとったらしい。眉間に皺を寄せた。
これ以上、話すことはない。莉子はドアを開けて廊下にでた。
行く手の螺旋階段に足音がした。如月彩乃が、紅茶のセットを盆に載せてあがってくるところだった。
莉子が階段を下りはじめると、彩乃が足をとめた。来客が帰るところだと知って、彩乃は驚いたようすだった。
盆の上にはティーカップがふたつあった。夫にあんなに冷やかな態度をとられても、彼女は彼とわたしのために紅茶を運ぼうとしてくれていた。
彼女の心情に深入りしたくなかった。夫婦の事情も知りたくない。
ごめんなさい。莉子はささやいて、階段を駆け下りた。玄関の扉を押し開けて、黄昏どきを迎えた空の下にでた。
薄暗い住宅街を、莉子は駅を探しながら歩いた。西園寺の邸宅があったのは、東急電鉄が早期に沿線開発した区画で、一軒ずつ広い敷地を持っている。そこから路地を抜ければ、かつてカーナビの開発の実験地に選ばれたほどの複雑で細い道がつづく。
京王線の明大前駅まで歩いたほうが早いか。そう思ったとき、またそれなりに幅のある道になった。
その一角に、白い車体のロングリムジンが停まっていた。
よくこんなところに乗りいれたものだ。あるいは迷いこんでしまったのだろうか。
すると、ふいに運転席と助手席のドアが開いた。
降り立ったのはいずれもスーツ姿の男たちだった。ひとりはスキンヘッドの巨漢で年齢不詳、もうひとりは二十代後半ぐらいの痩せた小柄な男だった。
その小柄なほうの男がきいてきた。「西園寺さんの家に寄られましたよね?」
「......ええ」
「少しお時間をいただけませんか。おききしたいことがあるんですか」
「どちらさまでしょうか」と莉子はきいた。
男は黙って名刺を差しだしてきた。よく目にする会社のロゴが印刷されている。
「ああ」莉子は男を見た。「で、どんな話を......」
「ここじゃなんですから、お乗りください。上の人間から話をさせていただきます」
スキンヘッドがリムジンの後部ドアを開ける。
無視して立ち去れる状況ではなさそうだった。不安が押し寄せたが、つとめて顔にはだすまいとした。
莉子は平静を装いながら、車内に入った。
そこは応接間と見まごうほどの空間だった。カーペットの敷かれた床にソファ。ミニバーも完備されている。
スキンヘッドのほうが乗りこんできた。ソファではなく、シートのほうを指さす。そちらに座れということらしい。
小柄な男は運転席にまわったようだ。莉子がシートベルトを締めると、リムジンはゆっくり動きだした。
サイドウィンドウにはシェードが下ろされ、外が見えなくなっている。キャビンと運転席を隔てる前方のガラスも、莉子の座っている位置からは覗けなかった。スキンへッドはソファに居座り、後方を振りかえることを妨げているようだった。すなわち、どこに向かっているのかを隠すつもりなのだろう。
心拍が速まりだした。行き先不明のドライブ。いったい何が待ち構えているのだろう。あの名刺から察するに、おそらくは......。
デッドライン
リムジンが目的地に着いたのは、一時間ほど経ったころだった。途中、首都高にも上がったようだ。都心部のどこかのビル街のようだった。小柄な男が外からドアを開けると、生暖かい風が吹きこんできた。
降りたとたん、そこが高層ビルの裏側だとわかった。職員用通用口に警備員が立っているが、こちらを見ても何もいわない。
小柄な男とスキンへッドは、莉子をガードするようにぴたりと身を寄せながら、通用口に向かうことを強制してきた。周囲に視線を向けることさえままならない。どこなのかはまるでわからなかった。
見あげるとビルの頂上部が、夜空に浮かんでいた。屋上の赤いランプがうっすらと見える。四つの似たビルが並んでいた。莉子が入ったのは、そのうちのひとつだった。
連れていかれたのは正規のエレベータ・ホールではなく、これも職員用のものらしかった。スキンへッドが、莉子に見えないようにボタンを押した。何階に向かうのかも明らかにしない。
エレベーターの上昇時間はごくわずかで、すぐに扉は開いた。
フロアには通路が延びていた。ホテルのように、たくさんのドアが連なっている。しばらく歩いて、小柄な男がノックした。どうぞ、と応じる男の声をきいて、ドアは開けられた。莉子はなかに入るよううながされた。小柄とスキンヘッドのふたりは、廊下に留まったままだった。
ひとり恐縮しながら入室する。と、すぐに靴脱ぎ場になっていた。和室だった。畳の上にあがると、そこは草庵風茶室の内部だけを再現した空間だった。純和風の内装で、掛け軸のかかった床の間の前に、ひとりの男が正座している。
痩せた身体を質のいいブランドもののスーツに包み、髪は七三に分けているが茶に染めていた。浅黒い精悍な顔つきはスポーツ選手のようにも見えるが、目つきが鋭く、固く結ばれた口もとに頑固さが垣間見えるようだった。年齢は西園寺と同じかわずかに下、四十代後半だろうか。
見覚えのある顔だと莉子は思った。というより、さっきのドライバーに渡された名刺で、誰との面会になるのかはおおよそ予想がついていた。
男は、向かいに敷かれた座布団を差ししめした。険しい表情のまま、控えめな口調でいう。「どうぞお座りください」
莉子はいわれたとおり正座した。
咳ばらいをして男はきいてきた。「私が誰だかご存じかな」
「はい。柿内悠馬社長。お顔はテレビで何度も拝見しました。カンツォネッタ・グループ・ホールディングスの代表取締役で......」
柿内は手をあげて莉子を制した。「私のことより、問題はきみだよ。西園寺がオーディションの直後に自宅に連れていったからには、よほど気にいったんだろう」
「......西園寺さんの家を見張ってたんですか?」
「まあ、いつも動向に目を光らせているとはいっておこう」柿内は莉子を眺めまわした。
「なるほど、売れそうな顔をしてる。西園寺からは幾ら提示された?」
「幾らって?」
「金銭面での折り合いがつかないかぎり、西園寺は逸材を解放しないよ。契約金について、それこそ目が飛びでるほどの額を告げられただろう。いっておくが、西園寺は破たんしたも同然だ。ホテル王だとか、自慢話をきかなかったかね? たしかに彼は以前、グランドフライヤーズ・ホテルの筆頭株主だったが、ホテルの倒産に伴いすべての株式も紙くずになった」
「グランドフライヤーズ・ホテル? 西園寺さんのイベントがおこなわれていたという......オーナーだったとは知りませんでした」
柿内は妙な顔をした。おかしなところに食いつくアーティスト候補だと思ったのだろう。
それでも柿内は、あくまでビジネスを優先したい考えのようだった。「西園寺が提示額を払える見込みはない。私のほうは同額か、それ以上をだそうじゃないか」
「......カンツォネッタと契約しろってことですか」
「強制じゃないよ。でもそのほうがきみのためになるといってるんだ」
露骨なヘッドハンティングだった。けれども、柿内は思い違いをしている。わたしは新人歌手ではない。
莉子はきいた。「わたしが首を縦に振ったら、この場でカンツォネッタと契約になるんですか」
「そういうことだ」
「口パク歌手としてですか?」
「......いや」柿内の顔に困惑のいろが浮かんだ。「西園寺とはそういう契約なのか?」
「契約は交わしてません。でも西園寺さんはそのおつもりのようでした」
柿内はうんざりしたように頭を掻いた。「まったく、またそれか。あいつも節操がないな。すまない。うちではさすがに、歌えない人を雇うことはできない。いまの話は忘れてくれ。ええと、お名前は......」
「凜田莉子です。あのう、柿内さん。わたしはミュージシャン志望じゃありません」
「ダンサーかね?」
「そういう意味でもなくて......。週刊誌の記者さんの取材に同行しただけなんです。西園寺さんの、主に金銭面の事情について探るつもりでした」
「きみの仕事は? ライターか何かか?」
「鑑定業の個人商店を営んでます......」
柿内は黙って莉子をじっと見つめてきた。やがて後ろを振りかえって、床の間に置いてあった茶碗を手にとり、莉子に差しだした。「これの価値はわかるかな」
鮮やかな紅いろの茶碗だった。莉子はそれを受けとると、指で軽くはじき、それから吐息を吹きかけた。
「琉球漆器ですね」莉子はいった。「十七世紀初めごろの作品。首里王府に貝摺奉行所という、非常に水準の高い漆器の製作所があったんですが、そこの作品に間違いありません」
「それを模した土産物品かもな」
「いえ。材質がプラスチックだとか、合成樹脂に木の粉を混ぜた天然木加工品なら、指で弾くと硬い音がします。これはもっと柔らかい音です。底の部分が厚くなっているし、塗膜が強く剥がれにくくなってます。偽物ならここまで漆が伸びません。冷えた表面に息を吹きかけると木目が浮かびます。天然木の証拠です」
「お見事」柿内は微笑を浮かべた。「それを購入した際の鑑定士の意見とまったく同じだ。すると......凜田さん。本当に鑑定家であられるようだ。失礼をお詫びしたい」
莉子は茶碗を畳の上に置いた。「どうも......」
「西園寺の家にいったのは、彼の資産がゼロだとマスコミに明かすためかな?」
「いいえ。西園寺さんのプライバシーにいたずらに立ちいるつもりはありません。でも、西園寺さんによる詐欺の被害に遭っていると思われる人が後を絶ちません。知りたいのはその真実です」
柿内の顔から笑いが消えた、深いため息をつきながら、柿内はいった。「どこへでもお送りするよ。ご迷惑かけて大変申しわけなかったが、きょうのことは内密に願いたい」
「またリムジンのなかに押しこんで、覆面状態で解放ってわけですか」
「この部屋がどのビルの何階にあるのか知ったところで、きみのためにはならんだろう」
「隠しておいででも、ここが虎ノ門アゲハビルの三階ってことはわかってます」
ふいに柿内はぎょっとした顔になった。「あいつら、指示に従わなかったのか」
「わたしを連れてきたふたりのことなら、ちゃんと目的地がばれないように徹底してました。でもいくら正面エントランスを避けても、入る寸前に見あげれば、いわゆる虎ノ門四連ビルだとわかります」
「四つのビルはそっくりだと思うが。そのうちのアゲハビルだとどうしてわかった?」
「屋上の赤いランプです。あれは航空障害灯というもので、航空法第五十一条により、高さが六十メートル以上なら点滅させることになってます。虎ノ門四連ビルのうち三つは五十メートル台、唯一ノダビルだけが六十二メートルです。裏口から見て航空障害灯が点滅しているビルの右隣りに入ったわけですから、アゲハビルとわかったんです」
「だが、三階というのは?」
「エレベーターに乗っていた時間はごくわずかだから、低層階であることははっきりしています。そして、あなたがおっしゃいました。何階、とね。がいと濁るのは三階だけです。答えを知っていたせいで思わず口走ってしまったんでしょう」
柿内は真顔できいていたが、いきなり笑い声をあげた。
「なんと」柿内は足を崩し、別人のように笑い転げていた。「おもしろい人だな、きみは。ぜひうちのほうで働いてほしいよ。秘書になってくれればどんなに業務か楽になるか」
莉子は静かに告げた。「柿内さん。場所を隠そうとしたのは、後になってわたしが警察に駆けこんで、拉致されたと訴えるのを防ぐためでしょう? 根拠がなければ捜査のしようがない。こう申しあげるのはなんですけど、西園寺さんのやり方に似てる気がするんですけど」
柿内の顔には、まだ笑いが留まっていた。「辛辣だな。ま、きみがそう思うのも無理はない。私と彼はビジネスパートナーだった。彼の音楽的才能に惚れこんで契約した。おかげでカンツォネッタは上場企業に成長したのだからね」
「それなのに新人をすかさず横取りできるように、いつも準備を怠らないわけですか」
「お互いさまだよ」柿内は真顔になって座りなおした。「彼は独立後も意地を張って、こっちのアーティストに似た新人をデビューさせては、発売日をぶつけてきたりした。ソウルの会社も、こっちに対抗するためだったろう。ただし、彼は優秀な音楽家であっても、経営者としての資質には欠けていた。大物ぶることに散財を厭わず、浪費癖も直らずに借金の嵐だ。そんな彼にも、もうすぐデッドラインが迫ってる」
「デッドライン?」
「西園寺自身、最終兵器と呼んでいるようだが、アンビシャスというトランス系ユニットのデビューシングルがもうすぐ発売される。彼はこれにすべてを賭けているらしい。ミリオンセラーを達成し借金を帳消しにするつもりだ。債権者たちにそう説明してまわっている」
「よほどの自信作なんですね」
「それが、ちょっとおかしいんだよ。たしかに西園寺が力をいれているのはわかるが、サンプルをきいてみたところ、曲の出来栄えとしては凡庸だし、アンビシャスというグループ自体、まるで人気がない。彼がなにをもって大逆転が果たせると考えているのか、そこんとこがどうもわからなくてね」柿内の目があやしく光った。「きみ、西園寺のもとに出入りできるのなら、内情を探ってくれないか」
「そんな......。そういうつもりで動いてるわけじゃないですし......」
「......だよな」柿内は落胆のいろを浮かべた。「きみからすれば、私も彼と同じ穴の狢だろう。きみをさらって契約を強制しようとしたんだからね。そうみなされるのも無理はない。ただし......」
「何です?」
「ものを頼める義理ではないが」柿内はじっと見つめてきた。「これだけはいっておきたい。私は西園寺の才能を誰よりも高く評価している。いまは路頭に迷ってしまったが、本来の彼は素晴らしいアーティストなんだよ。いろいろおかしなことに手をだして金を集めているみたいだが、できれば何もかもやめさせてやりたい。彼に会うことがあったら、真っ当な道に戻るよう、示唆してくれないか」
「わたしが西園寺さんを説得するんですか? とてもきいてもらえそうにないですけど」
「いや。そんなことはないよ」柿内は穏やかにいった。「きみは本物を見抜く目を持っている。西園寺もそのことには気づいたはずだ。価値ある助言には耳を傾けようとするだろう。彼も、苦境から抜けだそうと必死でもがき苦しんでいるのだから」
茶室は静寂に包まれた。ふたりに沈黙が降りていた。
......努力してみます。莉子はそうつぶやいた。ほかに言葉は見つからなかった。
詐欺行為が日常化している、借金王の音楽プロデューサー。その暴走をとめることができるだろうか。責任はあまりに重い。しかし、同時に明白なこともある。彼を改心させないかぎり、飛鳥陽菜と両親は救われない。そのほか無数に存在する信者の家庭も。
夜七時すぎ、まだ日中の賑わいを残す神田川沿いを、凜田莉子は歩いていた。
結局、リムジンで送ってもらうことを断り、中央線と総武線を乗りついで飯田橋に帰ってきた。西園寺と柿内、ふたりの争いに巻きこまれた感がある。トラブルを覚悟で首を突っこんだはいいが、ゴールは遠い。どうすれば西園寺の真実の顔に近づけるだろう。
雑居ビル一階のテナント、明かりの消えた万能鑑定士Qの店の前に戻った。
ロックしてある自動ドアを開けようとしたとき、そこに挟んであったメモ用紙に気づいた。
開いてみると、ていねいな字で伝言が記してあった。緊急の用件です。戻ったら電話をください。小笠原悠斗。そうあった。
莉子は携帯電話を取りだした。西園寺の家に向かうことになったときに電源を切って、そのままにしていた。
携帯電話を復活させて、小笠原の携帯の番号にかける。呼び出し音は一回、すぐに小笠原の声が応じた。「はい」
「あ、小笠原さん。凜田です」
「凜田さん」小笠原の声は心底ほっとした響きを帯びていた。「よかった。遅いから心配してたよ。何かあった?」
「べつに。虎ノ門で茶碗の鑑定をしてただけ」
「そうなんだ。忙しそうだね」
「いえ......。ところで、緊急の用件って......?」
「申しわけないんだけど、いま編集部まで来れる?」
「『週刊角川』の? ええ。問題ないけど」
「じゃ、お願いできるかな」小笠原は急に声をひそめてきた。「会ってもらいたい人がいるんだ」
石打ち刑
小笠原は恐縮しながら隣りに座った如月彩乃に、菓子皿を差しだした。「食べます?」
「いえ......」彩乃はつきあいの笑みを浮かべて、軽く頭をさげた。「どうぞおかまいなく」
どうも。小笠原のほうも会釈をして、菓子皿をデスクに戻した。
夜七時半。『週刊角川』編集部にはまだ半分ほどが居残り、仕事をつづけている。いつもの風景だった。しかし、今夜ばかりはどこか気まずい。
かつて絶大な人気を博した歌手が隣りにいるから、それだけではない。周囲の社員の態度があまりに淡々としていて、有名人に対するそれ相応の礼儀に欠けているからだ。
夕方、彩乃がやってきた瞬間だけは、めずらしいものを見るような目を向けてきた同僚たちも、ほどなく空気に馴染んで、いまや来客がいることさえ忘れてしまっているようだ、都心の企業、それもマスコミ関係とあれば、タレントもごく普通の人という認識はあって当然だった。けれども、もし全盛期の如月彩乃が来たのならば、こんなに物静かな状況ではなかったろう。編集員たちの反応は、過ぎ去った時間を感じさせる。彩乃にとってそれは極めて酷なことではないかと小笠原は思った。
とはいえ、彼女をどう気遣ったらいいか、よくわからない。こんなとき、宮牧がいてくれたら。ミーハーな彼なら有頂天になって、タレントの自尊心を満足させるだろう。残念なことに、宮牧は取材先から直帰だった。
彩乃は、その空いた宮牧の席に座っている。彼女もひとりでこんなところに来たくなかったに違いない。それでも足を運んだのは、どうしても伝えたいことがあるからだろう。
たぶん夫の西園寺響には黙ってきているに違いない。横槍が入る前に重要なことをききださないと。
そう思ったとき、先輩記者が声をかけてきた。「小笠原。お客さんだぞ」
戸口に目を向けると、凜田莉子が入ってくるところだった。
「お待たせしました」莉子は彩乃を見ると、頭をさげた。「さきほどはどうも」
小笠原は笑った。「無事でなによりだよ」
彩乃が立ちあがって、心配そうな顔を莉子に向けた。「柿内社長に連れていかれませんでしたか?」
莉子は戸惑いがちにうなずいた。「ええ......」
「やっぱり。オーディションの日にかぎって近所に出没するリムジンが、いなくなってたから......。ひどい目に遭ってたらどうしようって」
小笠原は困惑を覚えながら莉子を見た。「なにかあったの?」
「いいえ。たいしたことじゃないし」莉子は近くの空席を指さした。「座ってもいい?」
「もちろん」小笠原はいった。「如月さんもおかけください。......おふたりは面識が?」
椅子に腰かけながら、彩乃はうなずいた。「きょう家にお越しになったので」
莉子は微笑した。「ちゃんと話すのは初めてですけどね。凜田莉子です。よろしくお願いします」
「ええ、お名前は存じあげてます」彩乃は笑みを浮かべながらも、ため息まじりにつぶやいた。「アーティスト志望じゃなくて、こちらの記者さんがお連れになった助手のかただとか。お帰りになったあと、響さんがそういってましたから」
「ご主人とは、よくお話しされてるんですか?」
「いえ......。逸材を迎えたと喜んでいたのに、帰してもいいのときいたら、怒ったようすで吐き捨てたんです。ドアを閉めて部屋にひきこもって、それきりでした。いつものことですけど」
夫婦仲は良くないようだった。小笠原は当惑しながらいった。「そうでしたか。私がきょう取材を申しこんでいたことについては、如月さんは......」
「響さんのマネージャーからきいて知ってました。夫と会社にかわり、失礼をお詫びします」
「とんでもない。如月さんが謝ることでは......」
彩乃は憔悴のいろを漂わせながらつぶやいた。「夫は最近、おかしいんです。金銭的な事情はご存じの通りですけど、それ以外にも奇行が目立って」
「奇行? どんな?」
「会社のお金を使って、全国のあちこちの貸倉庫をレンタルしてるんです。しかも来週、一週間だけです」
「来週......」
「力をいれているアーティストのデビューシングルが発売になるというのに、いったいどういうつもりなんだか。使用目的もあきらかにしないんです。全国六都市とその近郊の貸倉庫を、四十か所も押さえてます」
「そのアーティストのイベントに用いるとか......」
「とんでもない。貸倉庫のうちひとつは、ほら、この近くの東京ドーム裏にある廃工場だったスペースですよ。本郷ストックハウスっていう名前の」
「あの老朽化したトタン屋根の建物? たしかに路地の入り口に貸倉庫の看板はかかってますね。でもイベントをやれるような場所じゃないですね」
「でしょう。かなりのお金をつぎこんでいるのに、わたしにも社員にも、なにも話してくれないんです」
莉子が彩乃を見つめた。「来週デビューのアーティストって、アンビシャスというユニットですよね? 西園寺さんはそこにすべてを賭けてるとか」
「ええ。返済のためにも大ヒットさせなきゃならないんですけど......。正直、響さんは昔みたいな才能を発揮できなくなってます。ミリオンセラーなんて、狙ってだせるものじゃないんです。時代だとかタイミングだとか、偶然が重なって自然発生する現象です。それなのに響さんは、当たるといいきってる。わたしの声にも耳を貸さないし、どうしたらいいのか......」
小笠原は穏やかにきいた。「如月さん。ご主人がお金をどこから集めておられるのか、ご承知ですか。SBGMとか、HQドットコムというサイトの名に聞き覚えはありますか」
彩乃は伏し目がちにいった。「わかりません。悪い噂があるのは知ってます。そしてたぶん、そのうちのいくつかは本当なんでしょう。いまの借金の額で家やクルマが差し押さえられないこと自体、ふしぎ以外のなにものでもないですから。けれども、経理も決済もすべて響さんが握ってますから、わたしにも詳細はわからないんです」
「......噂がもし本当だったら、あなたはどうされますか」
「わたしは響さんを信じてます。でも同時に、覚悟もできてます」彩乃は顔をあげた。「きょう来たのはその件です。夫の不審な行動をマスコミの力で暴いてほしいんです」
「いいんですか? あなたも不利な立場に追いこまれるかも」
「かまいません。昼のイベントをご覧になったでしょう。バーチャルシティのオーナーを勧誘するなんて......。これ以上黙ってられないんです。もう耐えられないんです」
彩乃はハンドバッグをまさぐり、一枚の写真を取りだした。
その写真がデスクに置かれる。西園寺響が写っていた。サングラスをかけ、アロハシャツを着た西園寺が、横を向いて誰かと立ち話をしている。相手はフレームの外だった。背景に外国とおぼしき家の二階が見える。古風なヨーロッパ建築だが、どこか雑然としている。服装からすると夏だろうか。
莉子がいった。「三角受木の木組み建築。十六世紀のドイツ木骨建築の特徴ね。クヴェットリンブルクの街並みに似てる」
「へえ」小笠原はきいた。「ってことは、これはドイツ?」
「いえ」莉子は写真を手にとった。「ドイツ建築だけどドイツ国内じゃないわ。洗濯物を外に干してる。法律に定められてるわけじゃないけど、ドイツのアパートの賃貸契約などには必ず記載されているの。洗濯物を見える場所に干してはいけないって」
「知らなかった......」
「当時、このドイツ建築法はオランダが海外植民地を築く際に、さかんに利用されたの。オランダ語がドイツ語にきわめて近いから、図面を使いやすかったのね。時代的にみて東インド会社、つまりインドネシアね」
彩乃は目を丸くした。「すごい。たったこれだけ写ってるだけなのに......。助手のかたでもこんなに博識なら、記者さんって頭いいんですね。ゴシップ追いまわすだけの人かと......」
小笠原は思わず苦笑した。「彼女は記者じゃなくて、外部の協力者ですから。でも、西園寺氏がインドネシアに行き来していることは知ってましたよ。音楽雑誌の知り合いにききました」
「向こうで音楽関係者と協議してるなんていってますけど、どうもあやしいんです。響さんが告げてきた音楽会社も、実在しないことがわかってますし......。それで、わたしに協力的な社員をインドネシアに行かせて、こっそり尾けさせたんです。この写真はそのとき隠し撮りしたものです」
「西園寺氏はひとりで行動してるんですか?」
「はい。いつもきまってジャカルタの安ホテルにチェックインするけど、それは偽装みたいです。そこから隣りのスマトラ島に飛んで、まっすぐアチェに向かいます」
「アチェ?」
莉子がいった。「スマトラ島最北端の州」
「そうです」と彩乃がうなずいた。「田舎だし、見わたすかぎり山と田んぼばかりの農村地帯のようです。いくつかある町も、二〇〇四年のスマトラ沖地震で壊滅状態だとか。とてもプロの音楽ビジネスが成立する場所じゃありません」
小笠原はつぶやいた。「でも田舎に足しげく通っているというだけじゃ、問題とはいえませんね」
すると、莉子が憂いのいろを浮かべた。「小笠原さん。アチェは大麻が自生している地域として有名なのよ」
「大麻......」
彩乃がため息をついた。「ええ、そうなんです。わざわざ栽培しなくても、山中に入ればいくらでも見つかるとか......」
「なるほど」小笠原は唸った。「それは問題ですね」
『スクリーモ』誌の高須賀もいっていた。禁輸品の密輸に手をだしている噂がある、と。
芸能界の大麻汚染は深刻さを増すいっぽうだった。西園寺響の立場にあればタレントの顧客を多くつかまえられる。みずから運び屋を買ってでれば、収益額は莫大なものになるだろう。
小笠原はふと思いついてきいた。「如月さん。ひょっとして、西園寺氏があちこちの貸倉庫を押さえたってのは......」
彩乃は悲痛な面持ちになった。「アンビシャスが売れないであろうことに響さんは気づいてて......。破産をまぬがれるために、全国的に、そのう......」
大麻の販売網を拡大するつもりだ。そうに違いなかった。
「......如月さん」小笠原は慎重にいった。「きわめて興味深い話です。記者として、追跡取材の許可もおりると思います。ただし......。いいんですか? スクープが誌面に掲載されたが最後......」
「いいんです」彩乃はきっぱりといった。「インドネシアでは、麻薬関連の法律はとても厳しいんです。大麻を持っていたオーストラリア人に死刑判決が下ったこともあるとか......特にアチェは。ほかの地域よりも厳罰に処せられる可能性が高いんです」
「まさか。捕まったその場で裁判にかけられることは......」
莉子がいった。「ないとはいいきれないのよ。アチェには州条例を制定する自治権が認められているの。イスラム法も厳しくて、去年は石打ち刑が問題になってる」
石打ち刑。
小笠原はぞっとした。図鑑で見たことがある。罪人の身体を半分ほど地面に埋めて、死ぬまで無数の石を投げつける処刑法。イスラム圏ではまだ採用しているところもあるときいていたが、アチェがそのひとつだったなんて......。
彩乃がまっすぐに見つめてきた。「お願いです。向こうで捕まったりしたら、響さんがどうなるか......。外国のことだし、警察は頼りにならない。どうか力を貸してください」
真摯な瞳がわずかに潤んだ。かつて一世を風靡したアーティストだけあって、やはり美人だった。小笠原は見つめかえすのが憚られる気分になり、視線を落とした。
小笠原はいった。「わかりました。編集長に相談してみます」
すると、彩乃は安堵のいろを浮かべながら、切実に告げた。「心から感謝します、小笠原さん。凜田さんも。響さんが次にインドネシアに旅立つのは明後日です。チケッ卜は早めに手配しないと」
「え?」と莉子が面食らった顔をした。
同様に小笠原も驚きを覚えた。「チケットって?」
「一緒においでくださるんでしょう? 響さんの実情を暴くためには、現地取材しないと」
「あ......あのですね」小笠原はあわてながらいった。「そのう、僕のほうはかまわないですよ。ええ、編集長の許可がでれば......。チケット代も経費で落とせるでしょう。けど、こちらの凜田莉子さんは鑑定家さんでして、無理強いすることは......」
ところが、莉子は真顔でつぶやいた。「いいえ。わたしも一緒にいきます。西園寺さんの暴走を食いとめなきゃならない」
凜田さん......。思わず情けない声が漏れそうになる。莉子の性格は知っているが、そこまで積極的に慈愛の精神を発揮しなくても......。
彩乃が泣きそうな顔で莉子の手を握った。「ありがとう。凜田さん。本当に......」
「如月さん。ひとつお願いがあるんですが」
「なんですか」
「西園寺さんの過去がわかるもの、何かお持ちですか。古い交友関係だとか、それこそ子供のころでもいいんですけど。人となりが把握できれば、行動も予測しやすくなるかも」
「......探してみます。ええ、できるかぎりのことはします。嬉しい、凜田さんが来てくれるなんて」
その目が小笠原に向けられる。莉子もたずねるような視線でこちらを見た。最終決定権はあなたが握っている、そういいたげなまなざしだった。
「......もちろんですよ」小笠原は自分でも信じたくない言葉を発した。「是非いきましょう」
やった。歓声に似た声をあげる莉子と彩乃を眺めながら、小笠原はひそかにため息をついた。石打ち刑の国。こんなに腰がひける海外出張は初めてだった。宮牧の早退が恨めしい。いまこそすべてをあいつに委ねてしまいたい。
空港
二日後の朝、天気が大荒れになってほしいと小笠原は願っていた。飛行機が飛ばなければ西園寺も出国できないし、それを追おうとしている俺たちも旅立たずに済む。
しかし願いもむなしく、東京の空は快晴だった。
小笠原は大急ぎで準備した旅行用トランクを転がして、成田エクスプレスに乗って空港に向かった。
旅費は無事、経費でまかなわれた。と同時に、重い責任を背負うことにもなった。スクープ記事のための巻頭特集ページを空けておくからな。編集長の荻野はそういった。もしこのページが埋まらないことがあったら、誰が埋められるかわかってるな。
生き埋めなら石打ちの刑よりはまだましだ、と小笠原は内心毒づいた。
エスカレーターをのぼって、第二ターミナルの広大な出発ロビーに足を踏みいれる。旅行シーズンからは外れているせいでそれほど混んではいないが、笑顔がそこかしこに見える。彼らの旅への期待感と俺の不安感をすげ替えてやりたい。
ミーティングポイントとされる正面の発着案内板の前に向かうと、そこに立つふたりの女性が目にはいった。
ふたりともサングラスをかけていて、服装はカジュアルだった。凜田莉子は白のカットソーにデニム、スニーカーだった。如月彩乃のほうもほぼ同様だが、首にストールを巻いて帽子を被っている。有名人だけに、それなりに顔を隠す必要があるのだろう。いずれの装いも旅慣れた感じがでている。小笠原のほうはいつものスーツ姿だった。傍目からは添乗員に見えることだろう。
おはようございます、とあいさつを交わしあってから、彩乃が告げてきた。「響さんはけさ一番の便で発ちました。きょうはインドネシアじゃなく、ロシアに個人旅行するなんていってたけど......。連絡先をきいたら、ホテルは行ってから決めるって」
莉子が彩乃にきいた。「ロシアに知り合いがいるんですか」
「いいえ。初めて行くはずです。もし本当ならね」
「嘘ですよ。日本の旅行会社はロシア行きの航空券を扱ってはいますけど、個人の観光ビザのみの申請代行はしてくれないんです。向こうの団体の紹介状でもないかぎり無理ですね」
「そう」彩乃は憂鬱そうに発着案内板を見あげた。「じゃあ響さんはいつもどおりジャカルタに飛んだのね。わたしたちの便は、十一時発のガルーダ・インドネシア航空......。三時間の差で追いかけるわけね」
小笠原はきいた。「航空券をお持ちですか。うちの会社が経費で立て替えますよ」
「どうもありがとう」彩乃はウェストポーチからチケットの束を取りだした。「これです」
受け取ったチケッ卜を眺めて、小笠原は思ったままを口にした。「如月さんもエコノミーにお乗りになるんですか?」
彩乃は苦笑した。「最近じゃ響さんもそうよ。公にはしてないけどね。無駄にできるお金はないし」
「今回はこちらで払ったのに」
「いえ。小笠原さんたちもエコノミーなんでしょう? ひとりで贅沢なんかできないわ。それに、どうせジャワ島からスマトラ島に飛ぶ際には上位クラスのシートなんかなさそうだし」
「そうですか......」
莉子がいった。「如月さん。西園寺さんの過去がわかる物。なにかありましたか」
彩乃は戸惑いがちに応じた。「それが、響さんの部屋には自由に立ち入れなくて......。書庫に小学校の卒業アルバムがあったけど、それぐらいしか」
「拝見できますか」
ええ。彩乃は旅行用バッグを開けて、ハードカバーの写真集サイズのアルバムを引き抜いた。
それを受け取り、莉子はぱらぱらとページを繰った。
やがて手がとまり、視線が一か所に釘付けになる。おもむろに莉子はいった。「これ、西園寺さんですよね?」
彩乃とともに、小笠原もページを覗きこんだ。児童の学校での生活風景をおさめたスナップが並んでいる。そのうちの一枚、アサガオを前にスケッチしている少年の姿がある。たしかに、西園寺の面影があった。
「ええ」彩乃は微笑した。「わたしも初めて見るけど、きっとそうね。まるで実の子みたい」
「ふうん」莉子はつぶやいた。「なるほど......」
妙な感触を覚えて、小笠原は莉子を見た。
真剣な表情から、一転して柔和な笑顔になる。莉子が告げた。そろそろサテライトに移動しましょう。彩乃も応じた。そうね、そうしましょう。
卒業アルバムを小脇に抱えて歩きだした莉子の背を、小笠原は眺めた。
彼女の癖がわかってきた。いま彼女は、なんらかの事実に気づいた。あの驚異的な観察眼で、新たな情報を見てとった。
いったいどんなことだろう。たしかめるためには、同行せねばならない。なんとか前向きになれそうだと小笠原は思った。莉子の聡明さがあれば大麻の里に赴いても、最悪の事態は回避できるかもしれない。女性の機知を頼りにしている時点で、情けなさの極みではあるが。
アチェ
フライトは八時間あまりだった。ジャカルタのスカルノハッタ国際空港を経由し、スマトラ島のボロニア空港に到着したとき、辺りはすっかり日が暮れていた。
日本国内の地方空港のような、素朴なつくりのターミナルが闇に浮かびあがっている。舟の先端部を模したような変わったかたちの屋根が見えた。独特の建築様式に思えた。
この時間になると、ロビーはがらんとしていてひとけもない。歩を進めるのは、たったいま到着した旅客機の乗客だけだ。照明も電気代を節約しているのか薄暗かった。
小笠原は、莉子や彩乃におくれをとったのでは男がすたると感じ、先に立って歩きだしたが、実のところインドネシアは初めてだった。それゆえに、どうにも勝手が違う風習に戸惑わざるをえなかった。
ふたりの女性は、空港の両替窓口で少額しか現地の金に替えなかった。小笠原はなにかあったときのために多めの金を持っておいたほうがいい、と進言した。けれども彩乃は眉をひそめた。莉子が耳うちしてきた。ルピアは日本円に戻せないから、最低限の換金にしておかないと損よ。
冷や汗をかきながら空港から一歩外にでると、東南アジアの国でよく見かける光景が広がっていた。夜だというのに、人が群れている。男ばかりだ。座りこんでいたり、壁にもたれかかってパンをかじったりしているが、小笠原たちが歩いていくといっせいに近づいてきた。誰もが誂りの強い英語で語りかけてくる。タクシー運転手の売りこみだった。
彩乃が値段交渉し、やっとのことでひとりを選びだした。ほどなく彼の愛車に乗りこむことができた。もはや骨とう品ものの初期型クラウン、錆だらけの車体だったが。
後部座席に三人がひしめきあって座る。クーラーもなく蒸し暑い。意識しないうちに、小笠原は真ん中になっていた。どちらに話しかけるべきか悩んだが、結局だんまりを決めこむことにした。こんなところで愛嬌を振りまいても意味がない。
舗装されていない道が多かった。窓の外は真っ暗で、何もみえない。国際空港といいながら、都市部とは離れているらしい。街路灯すらない道を蛇行しながら十分ほどドライブすると、いつしか街のにぎわいが広がりだした。
この都市メダンは、北スマトラ州の州都であり、島の東北部に位置している。県庁所在地でもあるらしいが、高層ビルは見当たらない。路面電車が走っているし、古い家屋は写真で見たとおりの十六世紀の木造建築だ。ヒンドゥー寺院が至るところに建っていた。軒先にはやはり集団が群れをなして座りこんでいる。何をするでもなく、ただ往来するクルマを眺めている。たぶん家のなかが暑いのだろう。冷房設備がなければ、風通しの悪い室内は蒸し風呂も同然に違いない。
西園寺はこの島の北部に用があるにもかかわらず、いつもジャワ島のジャカルタ市内に泊まっているらしいが、その理由はメダンの街並みを見れば一目瞭然だった。都市といいながら村落に毛が生えたていどだ。ここで音楽ビジネスを展開するという話はいかにも説得力に欠ける。
インフラは整っていないが人口は多いようだった。夜間でありながら二輪車が通りを埋め尽くし、未舗装でガードレールのない路肩に大勢の人々が溢れかえっている。車道と歩道の区別もなく、交通は渾然一体としていた。タクシーは交差点でUターンしたが、そのきっかけを運転手がどうつかんだのかもわからない。
タクシーはひときわ古く厳粛なたたずまいの建物の前に滑りこんだ。制服警官が立っている。警察署だとわかった。
彩乃が先に降り、莉子がつづき、小笠原は最後に車外にでた。短い階段をのぼってエントランスを入ると、すぐにカウンターだった。その向こうには事務机が並び、何人かの制服が立ち働いていた。
応対にでた小太りで丸顔の警官に、彩乃は英語で話しかけた。警官は英語を少しは喋るようだが、意思を通じあうのにはしばし時間を要するらしかった。
のんびりとした空気の漂う警察署だが、もし彼らに捕まったら、最悪の場合は石打ちの刑に処せられるわけだ。反感を買う行動は避けたい。間違っても彼らの逆鱗に触れたくはない。
やがて警官は同僚たちに声をかけた。室内の制服は全員が装備品を身につけだした。でかける準備をしているらしい。
彩乃が戻ってきていった。夫がアチェの奥地にいったまま帰らないと訴えたわ。パトカーをだして、捜してくれるって。
彼女の言葉には嘘がまじっている。西園寺は行方不明になっているのではない。みずからアチェに潜伏している。しかし、そうでもいわなければ、現地の警察は西園寺を発見しだい、大麻密売の疑いで逮捕してしまうだろう。
タクシーよりはいくらかましに思えるパトカーが三台、エンジンをかけて庭に待機していた。小笠原は莉子、彩乃とともに、そのうちの一台の後部座席に座った。またも真ん中だった。助手席におさまった小太りの警官が振りかえり、たどたどしい英語でいった。イッツ・ナイス・トゥ・ハブ・ア・プリティ・ガール・オン・イーチ・アーム。
両手に花......か。小笠原は愛想笑いをかえすしかなかった。莉子は肩をすくめていた。彩乃は窓の外に目を向けている。
パトカーは走りだし、また市街地を離れて暗い夜道を走行していった。
彩乃の話によると、以前に西園寺を尾行させた社員からの報告で、居場所は見当がついているらしい。アチェすなわちナングロ・アチェ・ダルサラーム州の西南部、ナガン・ラヤ県の海岸沿いに広がる廃墟の一画だという。
警官のブロークンな英語をなんとか聴きとったところ、その辺りはスマトラ沖地震の津波で甚大な被害を受けていて、復興も進まず住民も家を失ったままの地帯だという。ノロウィルスが流行してしまい、現地に蓄えられていた食糧は口にできないが、飢えをしのぐため感染を覚悟のうえで食べざるをえない住民が大半だという。
半壊状態の空き家に、大麻の密売人などが住みついているという噂もある。本来なら警察が取り締まるべきだが、州都のバンダ・アチェにあった警察署も倒壊してしまったため、警察組織がうまく機能していないらしい。それで彼らメダン署員を含む周辺の州の警察が、治安維持のために頻繁に出入りしているという話だった。
さらに警官は付け加えた。アチェはイスラム警察だったからね。ヒンドゥー教徒の俺らに捕まったほうが、麻薬の売人も幸運だろうよ。
小笠原はほっと胸を撫でおろしたい気分だった。彼らは野蛮な処刑には関与していないらしい。まだ緊張は解けないが、急にメダン署の面々が頼もしく感じられてきた。
一時間ほど暗闇を駆け抜け、小笠原も安心からか睡魔に負けてうとうとし始めたとき、警官が何かを告げた。
はっとして顔をあげると、窓の外には異様な光景が広がっていた。
莉子がつぶやいた。ひどい......
月明かりに照らされた家屋。そのほとんどは原形を留めていない。イスラム建築のドーム屋根が泥のなかに沈んでいる。モスクらしき塔も横倒しになっていた。レンガの建物は軒並み全壊または半壊状態で、家具が道端にまで溢れだしていた。
波の音がきこえる。海岸が近いらしい。この一帯は丸ごと津波に呑まれてしまったのだろう。
陰鬱な光景のなかを走りつづける。闇以外にはなにも存在しない。猫一匹見当たらない。まさにこの世のものとは思えない眺めだった。
どれぐらい時間が過ぎただろう。運転席の警官が、ふいに驚いたような声をあげた。
前方に光があった。窓の明かり。講堂のような大きな建物だった。
電気が通っているとは思えないが、松明や蝋燭の光とは思えない。揺らぎのない白色灯の光線が天窓から溢れ、空に向かって伸びている。
廃墟のなか、かろうじて走行可能とおぼしき脇道にパトカーが乗りいれていく。凹凸の激しい、無数の亀裂が走ったアスファルトを徐行して、建造物に近づいていった。
建物の側面には大きな金属製のスライド式扉があって、ここからも光が漏れだしている。その前に二台のクルマが駐車していた。いずれも真新しい4WDだった。車内に人はいないようだ。
パトカーが静かに接近して停車する。莉子は窓から4WDの車体後部を眺めていった。
「レンタカーだわ。ナンバーは北スマトラ州」
小笠原は息を呑んだ。「ってことは......」
「ええ」莉子はこわばった顔でうなずいた。「現地の人じゃないわ。わたしたちと同じく、空港からきてる」
廃墟に唯一存在する人の営み。そして来訪者。西園寺以外に考えられない......。
するとそのとき、彩乃がふいにドアを開け放ち、車外にでた。
「あ」小笠原は驚いていった。「如月さん!?」
彩乃は振りかえったが、その顔には悲痛ないろが浮かんでいた。じっとしてはいられない、真摯なまなざしがそう訴えている。
警官も制止を呼びかけたが、彩乃は身を翻して駆けだした。半開きになったスライド式の扉に向かって走っていく。
「危険だ」警官は怒鳴った。「戻りなさい!」
だが彩乃は聞く耳を持たず、扉に接近していく。
舌打ちした警官がドアを開け、外に降り立つ。ほかのパトカーからも続々と制服が姿を現した。
ところがそのとき、小笠原の隣りにいた莉子がやはりドアを開け放って、外に飛びだした。
小笠原はあわてて声をかけた。「凜田さん。駄目だよ。危ないって!」
「ほうってはおけない」莉子は建物に向かって駆けだした。「小笠原さんも、早く」
......こうしちゃいられない。小笠原は車外に這いだした。
生暖かい潮風が吹きつける。ひどく足場の悪い暗闇のなか、小笠原は何度も転倒しそうになった。建物の扉のなかに彩乃が消えていく。次いで莉子も飛びこんでいった。
警官たちが大声でわめき散らしながら、扉に駆け寄っていく。もっと早く突入を決意してくれれば、彼女たちを先に行かすことはなかったのに。じれったさを噛みしめながら、小笠原は全力疾走した。扉が目と鼻の先に迫った。光のなかに駆けこむ......。
バッテリーで稼働しているらしい非常灯の照明も、いまは太陽のようにまばゆく感じられた。視界を満たす光のなかで、立ちつくす莉子の背が見えた。彩乃もすぐ近くにいる。
ふたりとも呆然とたたずんでいるようだった。どうしたというのだろう。
ほどなく目が慣れてきた。とたんに、小笠原はぎょっとした。
グレーのスーツ姿の痩せた男、西園寺響が立っていた。こちらを見つめて目を丸くしている。その視線が、飛びこんできた一同に順に向けられた。
「......彩乃」西園寺はつぶやいた。「それにきみ......凜田さん。記者の人まで......?」
勇ましく突撃してきた警官たちも、言葉を失ったようすで静止している。
たしかに西園寺はいた。けれども、その光景は想像とはまるで違っていた。
床を埋め尽くす担架。寝ているのはほとんどが子供だった。大人たちも診療を受けている。持ちこまれた医療設備がずらりと並ぶなか、白衣姿の医師らしき面々と、女性看護師たちが立ち働いていた。
注射器を手にしていたマスク姿の医師が、こちらを見て英語で喋った。インドネシア人らしいが、発音に教養が感じられる。入るならマスクをして、手をアルコール消毒してください。そう告げている。
具合が悪そうにしている子供は点滴を受けていた。怪我をしたらしい老婦は包帯を巻かれている。X線の設備もあった。栄養失調ぎみとおぼしき青年が検診を受けている。
大麻取り引きなど、どこにも存在しない。働きぶりから、本物の医師や看護師だとわかる。患者たちは、いまも被災地に残る住民に違いなかった。そしてここは、紛れもなく臨時の医療施設。現地にとってなによりありがたい仮設病院だった。
小笠原は唖然として莉子を見た。莉子も呆然と小笠原を見かえした。
「これって」莉子がつぶやいた。「どういうこと......?」
報道発表
午前九時すぎ。ジャカルタのスカルノハッタ国際空港の食堂を占有しておこなわれる記者会見には、早くも日本のマスコミ各社の腕章が目についた。NHKにフジテレビ、TBS。もっとも、顔をみれば記者は現地民だとわかる。支社の人間に違いなかった。カメラマンは連れておらず、記者が手にしたハンディカムでみずから撮影していた。日本へは衛星回線ではなく、ネットを通じて画像を送るのだろう。
その一方で、会見場を埋め尽くす地元メディアの熱狂ぶりはすさまじかった。インドネシアのテレビ局はハイビジョンカメラに照明を持ちこんで随所に陣取っているし。新聞各社のカメラはひっきりなしにフラッシュを焚いている。このニュースに対する両国の温度差が浮き彫りになる状況だった。
小笠原は、この会見を見守る唯一の日本人記者に違いなかった。とはいえ、報道関係者としての扱いを受けているわけではない。凜田莉子と並んで、壁ぎわに追いやられていた。手持ちのデジカメで撮影しようにも、演壇が遠すぎて小さくしか映らない。列席している西園寺響や、医師団をはさんで端に座っている如月彩乃の姿は、ぼんやりと確認できるだけだ。
現地の記者からは、矢継ぎ早に質問が飛んでいた。いまもテレビ局の記者が、早口でなにかをたずねた。
西園寺の隣りにいる男が、たどたどしい日本語で通訳しているのがきこえる。日本では著名な音楽プロデューサーであるあなたが、アチェの局地的な医療活動を金銭面で支援していた理由を教えてください。
スーツ姿の西園寺は疲れたようすでハンドマイクを握った。国内のファンの集いで見せるような気取ったしぐさは微塵もない。西園寺は、かすれた声の日本語で告げた。「スマトラ島沖地震は私だけでなく、すべての日本人にとってショックでした。当時も支援を検討したんですが、最近になり、いまもなお劣悪な環境で暮らさざるをえない被災地があることを知りました。それがアチェだったんです」
通訳がそれを現地の言葉に訳し、マイクで告げる。すかさず別の記者が質問する。また通訳が西園寺にいった。現地にはインドネシア政府が定期的に水や援助物資を供給していますが、それでは不十分とお考えになったわけですね?
「そうです。誰もがご存じのことと思いますが、生命が脅かされる危険が去ってもまだ、人々が健康に暮らせる環境は整いません」
あの海岸沿いにはノロウィルスが蔓延しているそうですが......。
「ええ」西園寺はぼそぼそと告げた。「そうです。ノロウィルスは食中毒の原因になるし、経口感染するので集落にはたちまち広がります。ナガン・ラヤ県の被災地で最も深刻な問題がノロウィルスだと新聞で読みました。いまのところ、ノロウィルスに有効な抗ウィルス薬は存在しないので、政府も打つ手なしとして医療支援をしてこなかったのです。私が現地を訪れたとき、住民はそのほとんどが嘔吐や発熱に見舞われ、ひどいものでした。だから私はお金をだしてジャワ島の医師らに協力を呼びかけ、医療設備を運びました。住民に点滴を打って快復を促すいっぽうで、これ以上の感染拡大を防ぐためにあらゆる努力を惜しみませんでした。ほかに怪我や、別の病気の人もいるので、それらもまとめて面倒をみることになったんです」
女性記者がきいた。スマトラ島にはほかにも甚大な被害に遭っている被災地がたくさんあり、ナガン・ラヤ県よりもずっと医療支援を切望としている地域がありますが、そこの救済はおこなわないんですか。
「私が新聞で知ったのが、たまたまナガン・ラヤ県のあの集落だったので......。ほかの被災地についても救済を検討していきたいですが、いまのところ一か所で手いっぱいです」
最前列で手をあげた新聞記者が質問する。通訳が西園寺に告げた。「この医療支援活動について、インドネシアでも日本でもあなたは秘密にしておられたようですが、なぜ公にされなかったんですか?」
西園寺は口ごもり、視線を落とした。ため息をついてから顔をあげた。「私の仕事とは無関係であるし、あくまで個人的にきめたことなので......。社員にも話してませんでした」
彩乃がちらと西園寺のほうを見やる。西園寺は彩乃を見かえさなかった。
小笠原は、隣りに立つ莉子にささやいた。「まいったよ。いったいこれ、なんだったんだろ。慈善活動を報道させるための罠だったのかな。西園寺夫妻の売名行為に踊らされただけか?」
「うーん」莉子は唸った。「違うと思うけど......。如月さんはあきらかに戸惑ってるでしょ? 事実は知らなかったみたいだし、本気で西園寺さんを心配してたんだと思う。それに西園寺さんも、どういうわけか記者会見に困惑してるみたい。少なくとも、いまこの場を晴れ舞台と感じているようすはないし」
たしかにそうだ、会見の席の西園寺は、まるで世間にいえない秘密が暴露されてしまい、途方に暮れているかのように見える。堂々と胸を張っていればいいものを、笑いひとつ浮かべず、肩を落としてつぶやくように質問に応じている。言葉も途切れがちだ。
ふいに西園寺が腰を浮かせた。「すみませんが、徹夜で働いていたので疲れてまして......本業のほうもあるので、日本に戻らねばなりません。これで失礼します」
一礼をして、西園寺は演壇を離れた。まだ質問はつづいているが、西園寺は振りかえらなかった。壁沿いを、こちらに向かって歩いてくる。
彩乃も立ちあがったが、西園寺は目もくれなかった。通訳と医師団らが西園寺につづき、彩乃はその後ろに歩を進めた。
西園寺が彩乃に憤慨しているのはあきらかだった。夫を犯罪者と疑い、警察まで引き連れて乗りこんできた。許せない暴挙だと感じていてもふしぎではない。
なおもカメラのフラッシュを浴びながら、西園寺が近づいてきた。その目が小笠原に向けられる。次いで、視線は莉子をとらえた。
立ちどまった西園寺は、無表情にいった。「凜田......莉子さんだったな。彩乃がそそのかしたのか、あるいはきみに彩乃がそそのかされたのかは知らないが......。こんなところまで追いかけてくるなんて、ずいぶん暇だね。仕事はいったい何をやってる? 雑誌記者の助手は本業じゃないんだろ?」
莉子は西園寺をじっと見つめかえした。「鑑定家ですけど......」
「鑑定家? ふうん」西園寺の目は小笠原に移ってきた。「記者さんも、これで満足かい?」
「ええ......。まあ、そのう」
ふんと鼻を鳴らし。西園寺は立ち去っていった。
医師団たちが通り過ぎた後、彩乃が歩み寄ってきた。彩乃は当惑ぎみにいった。「ごめんなさい。凜田さん。小笠原さんも......。まさか真実がこんなことだったなんて......」
莉子はなだめるように微笑みかけた。「わかってます、如月さん。西園寺さんの身を案じていた、あなたの気持ちに嘘なんかない」
「ありがとう。理解してくれて。でも、どうして響さんは隠してたのかしら」
小笠原はいった。「強いていうなら、多額の負債があるにもかかわらず、ボランティアの医療活動に金をだすなんて言語道断だ、って債権者に責められるから......じゃないかな」
莉子は首をかしげた。「だけど、そうまでしてナガン・ラヤ県の集落を救おうとした理由は? 新聞に載っていたからだなんて、どうも腑に落ちない。ノロウィルスよりももっとひどい病原菌が蔓延している地域もあるのに」
三人は互いに視線を交差させた。考えたところで、答えは見つかりそうにない。
警察はけさ日が昇るまで、あのナガン・ラヤの仮設病院を調べた。令状はなかったが、西園寺が同意したからだった。医療支援を隠れ蓑にして大麻を密売しているのでは。警察もそう疑っていたにちがいない。
だが、疑惑は真実に反していた。設備はすべて純然たる医療用だったし、医師や看護師の身分証明書も照合された結果、全員が本職だった。麻酔用のモルヒネはあるがごく少量で、しかも管理が徹底していた。麻薬売買の痕跡などひとかけらもない。
被災地の人々は西園寺に心から感謝しているようすだった。西園寺が現地に残したのは善意だけだった。
納得がいかない。それでも、ほかの事実の存在をしめす根拠は見つからない以上、受けいれるしかない。
彩乃がいった。「いかなきゃ......。響さんに、一緒の便で帰るようにいわれているの」
莉子は微笑した。「お気をつけて。あ、なにかあったらうちのお店に電話してください。留守にしているときも多いですけど、留守電にメッセージを残してもらえれば」
「わかりました。本当にどうもありがとう。じゃ、また日本で」彩乃はそういうと、深刻な面持ちで去っていった。
その背が雑踏にまぎれていくのを見届けながら、小笠原はつぶやいた。「戻るしかないな」
「ええ」莉子が憂鬱そうにうなずいた。「またふりだしに逆戻りね......」
ローファー
帰国してから数日後の昼さがり、ようやく小笠原は自由に動ける時間を得た。真っ先に訪ねたのは、やはり万能鑑定士Qの店だった。
莉子はデスクに頬杖をついてつぶやいた。「ああ......。あれからなんの音沙汰もないね。如月さん、どうしてるのかな」
小笠原はブラックのコーヒーをすすりながらいった。「静かなのはいいことだよ。僕のほうなんか。がみがみと説教を食らいっぱなしだった」
「説教? どうして?」
「スクープ間違いなしと出向いたインドネシアへの出張取材が、みごと空振りに終わったからさ。大麻密輸なら巻頭カラー特集だけど、ひそかに善意の医療活動じゃあね......」
「悪い記事じゃないと思うけど。賛同してボランティアに参加しようって人がでてくるかもしれないし」
「それじゃ部数につながらないんだよ。インドネシア人にとってはよほど嬉しいことだったらしくて、連日あの話題で持ちきりだったらしいけど、日本じゃさっぱりだ。いくつかのワイドショーが現地レポートとしてあの記者会見を報じたけど、反響はゼロに近いって」
「『週刊角川』に記事は載らないの?」
「載ることは載るけど、ごく小さな扱いだよ。やっぱり僕には、外にでかける仕事は向いてないみたいだ」
それにしても、西園寺はどういうつもりなのだろう。数々の詐欺疑惑についても、依然として証拠がつかめないままだ。
もの思いにふけってしばし沈黙に浸る。コーヒーの味がひときわ苦く感じられた。
どれくらい時間が過ぎただろう。ふいに自動ドアが開いた。
息をきらして飛びこんできたのは、制服姿の女子高生だった。
見覚えのある顔だ。小笠原がそう思ったとき、莉子が立ちあがった。
「あなたは......」莉子がいった。「飛鳥陽菜さんね?」
そうだ。神楽坂学園高校の校門で見かけた。西園寺の熱烈な支持者、飛鳥琴音の娘だった。
陽菜は戸惑いのいろを浮かべて小笠原と莉子をかわるがわる見たが、やがて莉子を見つめていった。「あ、あのう......。母のことで、ご相談したいことがありまして......」
莉子は微笑みかけた。「そんなに硬くならないで。どうぞ、座って。コーヒー飲む?」
「いえ」陽菜は緊張ぎみにソファに浅く腰かけた。
母親がアーティストとしてデビューさせたがっていた娘。その願いもあるていどはうなずけると小笠原は感じた。たしかに人気のでそうな可愛い顔をしている。少なくとも、西園寺のオーディションに集まったアーティスト候補らと比べても群を抜いている。莉子とはいい勝負だと思うが。
莉子が陽菜にきいた。「きょうはひとりできたの?」
「......はい」陽菜はつぶやくようにいった。「ここの住所は、父にききました」
「ってことは、お父さんはあなたがここにくるのを知ってるわけね?」
陽菜はうなずいた。「お母さんの、いえ、母のことは、父も心配してますから......」
「なにがあったの?」
「変なんです。急に......そのう......」
「落ち着いて。お母さんになにがあったの?」
「CDを借りてきてるんです。山ほど」
莉子が妙な顔をしてこちらを見た。小笠原も莉子を見かえしてから、視線を陽菜に移した。
小笠原はきいた。「西園寺響のCDを?」
「違うんです。最近のアーティストとか、クラレックとか演歌とか、なんでもかまわずに借りてるんです。いま母の部屋はCDだらけになってます」
「枚数にして、どれぐらいありそう?」
「さあ......。クルマであちこちのお店をまわって借りてきたらしくて。それと宅配レンタルの分も合わせて......何百枚か、それ以上」
異常な話だ。小笠原は身を乗りだした。「それ、ぜんぶレンタルした物?」
「ほかに買っているぶんもあります。ほとんどは中古店で買ったみたいですけど、それも百枚ぐらい」
莉子が陽菜にたずねた。「購入したほうのCD、どんなアーティストかわかる?」
「ええと、嵐とか、AKB48とか、西野カナとか。加藤ミリヤもありました」
「わりと最近の作品?」
「そうです。雑誌に載ってたオリコンのチャートを見て、百位までのをぜんぶ買ってきてるみたいです。同じ物も何枚かずつ買ってたりします」
「どれぐらいの期間で、そんなに溜めこんだの?」
「二日です、きのうからきょうにかけて......」
「お母さんはそれらのCD、聴いてる?」
「いいえ。まったく聴く気はないみたいです」
小笠原はいった。「あなたに聴かせるつもりじゃないのかな。歌手になる勉強のために」
陽菜は首を横に振った。「違うっていってました。明日にはレンタルCDはぜんぶ返すし、買ったCDも中古店にまた売りに行くって」
「本当に? おかしな話だな。お母さんは理由をいわないの?」
「教えてくれないんです。でも、わたしのためになることだからって......。たぶん、西園寺さんがらみのことだと思います」
莉子が陽菜を見つめた。「西園寺さんが、お母さんにそう指示した?」
ファンクラブじゃないですけど、母は西園寺さんの特別な会員みたいなのに登録してるから......。よくメールを受け取ってます」
「じゃあ、このあいだの英語の追試も......」
陽菜は困惑を深めたようすだった。瞳をうるませながら必死に訴えた。「わたし、嫌だったんです。あんなカンニングみたいなやり方......。断ったんだけど、卒業できなくてもいいのっていわれて......。ほかに方法がなくて......」
「興奮しないで。あなたの気持ちはよくわかってるから」
「音が入った選択肢が正解だから、それをマークしていけばいいっていわれました。なんでお母さんがそんなこと知ってるのってきいたけど、なにも話してくれませんでした。けど、後になって、西園寺さんが助けてくれたんだって、そういうんです」陽菜は、頬をつたいかけた涙をぬぐった。「わたし、アーティストなんかなりたくないんです。けど、お母さん......母がぜんぶ決めてしまって」
「高校を休みがちだったのは?」
「ボイストレーニングを受けさせられてたんです。授業よりそっちを優先しなさいっていわれてました。わたし、もう嫌になって......。母はずっと西園寺さんのことばっかり。なにもかも、西園寺さんがやることに合わせようとするんです。西園寺ミュージックスクールが開校するってきいたとたんに、わたしの進路を決定してしまったんです。わたしは行きたくないのに。ずっとそんな調子なんです」
小笠原は陽菜にきいた。「学校の先生に相談しようとは思わなかったの?」
「そんなことしたら......」陽菜はうつむいた。「お母さんが可哀想だし」
母に対する愛情に満ちているが、そのせいで異常行動に歯止めがかけられない。陽菜はそういうジレンマに陥っているらしい。おそらく父の飛鳥優治も同様だろう。
陽菜はささやくような声でいった。「父にきいたら、凜田先生なら相談をきいてくれるかもしれないっていうから......。ほかにどうしようもなくて......」
莉子は微笑とともにうなずいた。「よくわかったわ。お母さんとも知り合いだし、できる限りのことはするから。陽菜さん。いまはお昼休みに学校を抜けだしてきたんでしょう? 神楽坂学園高校はバスに乗ればすぐだけど、そろそろ戻らないとまずいんじゃない?」
「え?」陽菜は目を丸くした。「あ、あのう。どうしてそのことを......」
「靴が上履きよ」
陽菜は自分の足もとを見て、悲鳴に似た声をあげた。「ああっ......。しまった。履き替えるの忘れてた」
「いいから。ちょっと待ってて」莉子はそういって、奥のドアにひっこんだ。
気まずい時間が流れる。陽菜は耳まで真っ赤になり、視線を落としていた。話しかけるのは酷に思える。
しばらくして、莉子がまた姿を現した。無地の麻袋を手にしていた。
「はい」莉子が麻袋から、一足の靴を差しだした。「レディースローファーの黒。あなたの高校の指定靴によく似てるから、これ履いていけば問題ないでしょう。上履きはこの袋にいれていって」
陽菜は目を瞠った。「わたしの靴のサイズと同じ。どうして......?」
「目で測ったの。この仕事してると、勉強のためにいろんな物を溜めこむようになるのよ。同じ靴のサイズ違いもたくさん持ってたりするの」
「ありがとうございます。こんなに親切にしていただけるなんて」
「お母さんのことはわたしたちにまかせて。じゃあ、急いで学校に戻って。気をつけてね」
なおも陽菜は呆然としていたが、やがてふと我にかえったように上履きを脱ぎ、莉子から借りた靴に履き替えた。それから何度も頭をさげながら、自動ドアをでていく。本当にありがとうございました。よろしくお願いします。
歩き去っていく陽菜に、莉子はガラスごしに手を振った。陽菜の姿が見えなくなると、その顔から微笑が消えていった。
莉子はきいてきた。「どう思う?」
「新興宗教だね」小笠原は感じたままを言葉にした。「間違いないよ。彼女の母親は、いわばカルト教団の熱狂的信者だ。教祖である西園寺にいわれるまま、どんなことでもやる」
「そうね」と莉子はうなずいた。「でも、飛鳥琴音さんひとりに指示を送っているとは思えない。ほかにも同じことを命じられている信者がいるかも」
「CDを大量レンタル、大量買いしろって? いったい何が目的なんだろ。西園寺プロデュースのアーティストでもないのに、レンタル率を伸ばして何になる? 中古店で買ったんじゃ売り上げランキングにも影響ないし......」
莉子はしばし考えているようすだったが、ふとなにかを思いついたように、棚を開けてハンドバッグを取りだした。
小笠原はきいた。「でかけるの? どこに?」
「ラブラドール」と莉子はいった。
「え? 飯田橋ヒルズの? どうして......」
「時間があったらついてきて。たしかめたいことがあるの」莉子はそういって、自動ドアに突き進んだ。
「もちろん。お供するよ」小笠原は立ちあがった。
インドネシアにまで足を延ばしたが西園寺の尻尾はいまだにつかめない。それでも、まだあきらめたくはない。きっと手がかりは落ちている。彼が詐欺師であることをしめす証拠はかならず見つかる。いや、見つけてみせる。
レンタル率
飯田橋ヒルズ二階のラブラドールは、以前に小笠原が訪ねたときとは打って変わって、大勢の女性客でにぎわっていた。レジカウンターまでたどり着くだけでも至難のわざだ。
そのレジにはすでに莉子がいて、店長の星合結衣と言葉を交わしていた。結衣がなにごとかうなずき、レジのひとつに〝閉鎖中〟の札をだした。
混雑のなかを掻き分けて、小笠原はようやくレジカウンターに近づいた。従業員の通用口をくぐって、カウンターのなかに入る。
小笠原はいった。「やれやれ。バーゲンセール並みの混雑だ」
結衣が笑みを浮かべた。「おかげさまで......。あれからすぐにお客さんが戻って、いまじゃ連日こんな調子です」
「ふうん。さすが人気店ですね」
ピッと音がして、レジの液晶画面の表示が切り替わった。結衣が莉子を見てたずねる。「これでいいんですか?」
画面には、Tカード加盟店情報のアイコンがあった。
莉子はうなずいた。「結構です。情報を検索しても?」
「ええ」結衣はレジの前を離れてさがった。「どうぞ」
すぐに莉子はアイコンに指で触れた。加盟店一覧が表示される。だが、莉子が次にタッチしたのは、リストの上にある〝TSUTAYA〟のアイコンだった。
新たな画面がでてきた。〝店舗検索〟と〝全店総合〟のふたつの選択肢がある。
迷うようすもなく、莉子は〝全店総合〟を選んだ。
細かい字でびっしりとリストが表示される。POSシステムにより、全国のツタヤチェーンのレジ情報が秒刻みで送られてくる。リストはどんどん下にスクロールしている。それだけ次々と新規のデータが入ってきているからだった。大阪花園店で新作映画DVDが二枚レンタル、広島フジグラン緑井店でコミック三巻販売、新潟西川店でCD四枚レンタル......。わずか数秒のあいだに一画面ぶんのリストが更新されていく。
莉子は、リストの脇の〝過去の履歴〟アイコンにタッチした。日時一覧から、本日午前十時以降を選択する。
今度は静止したリストが表示された。朝十時からのレジ情報。莉子は〝次へ〟に指で触れて、画面を次々に送っていった。
しかし、その画面は異常な様相を呈していた。
小笠原はつぶやいた。「十時十七分、福岡天神店。同じ会員番号がずっとつづいてる」
「そうね」莉子が神妙な顔になった。「CDを七十枚ぐらい、いっぺんに借りてる」
レジを覗きこんでいた結衣が眉をひそめた。「いちどにそんなにたくさん借りられるの?」
莉子は画面を送りながら告げた。「ツタヤでは借りられる枚数に上限はないから......。あ、ここにもある。静岡沼津三園町店、十時二十一分からずうっと......百枚近くレンタルしてる。それにこの神奈川本厚木駅前店に来てるお客さん、やっぱり八十枚ぐらい借りてる」
「けど」小笠原はいった。「なかには無関係の人もいるかもしれないよ。偶然、たくさんのCDを借りにきただけとか」
いえ、と莉子は会員番号を指で触れた。その客の個人データが表示される。さすがに実名はでてこなかったが、年齢と性別はあきらかになった。四十三歳、男性。利用している店舗はひとつではなかった。
「見て」莉子は画面を指差した。「本厚木駅前店で約八十枚を借りてから、七分後に蔦屋書店厚木戸室店でまた借りてる。今度も百枚ほどね。そして十六分後に愛甲石田店に現れて、またしても大量レンタル、それから四十七分後にさがみ野駅前店。二十一分後に瀬谷店、十四分後に三ッ境駅前店......」
小笠原は唖然とした。「クルマでまわりながらCDを山ほど借りまくってる。陽菜さんの母親と同じだね」
「借りてるタイトルは有名アーティストの新曲や人気曲ばかり。でもまだ一枚も返していない。陽菜さんの話では、お母さんの琴音さんは借りたCDをまったく聴くつもりはなさそうだった」
「なんだろ。嫌がらせかな。西園寺のCDを聴いてもらうために、それ以外のCDをぜんぶ貸し出し中にするつもりとか」
「そんなの現実的じゃないわ。在庫は一店舗につき数千枚あるだろうし、聴きたくもない曲を借りる人はいないだろうし。あ、だけど......。ちょっと待って......」
莉子は凍りついたように押し黙り、液晶画面にじっと見いった。
やがてふいに顔をあげると、莉子はあわてたようすで結衣に告げた。「どうもありがとうございます、星合さん」
「もういいの?」と結衣がきいた。
「ええ。充分に参考になりました。じゃ、これで」莉子はそういってから小笠原に向き直った。「いきましょ」
小笠原はレジカウンターをでながら莉子にきいた。「どうかしたの?」
「すぐ知らせなきゃ」莉子は人ごみを掻き分けながら歩を進めた。「葉山警部補に」
「え?」小笠原は必死で莉子につづきながらいった。「牛込警察署にいくの? どうせまた煙たがられるよ」
「いいえ」莉子は歩を緩めることもなく、きっぱりと告げてきた。「今度は黙ってきいてくれる。夜には捜査員を総動員してくれるでしょう」
本郷ストックハウス
莉子のいったとおりになった、と小笠原は思った。
パトカーの後部座席から、夜の都心部を見やる。東京ドームの巨大な丸屋根が山のように浮かびあがっていた。午前零時近いが、遊園地のネオンはまだ消えていない。観覧車もまわってはいないが、円の中心から放射線状に派手な色彩を振り撒いていた。
東京ドームホテル前を通り過ぎ、外堀通りを小石川後楽園方面に折れる。さらに日中友好会館の先、本郷ストックハウスと記された看板のある角を右折し、路地に入った。
そこは公道か私道かも判然としない、暗く狭い道だった。前方には二台のパトカーが先行している。いずれも赤色灯を消し、サイレンも鳴らしていない。
錆びついたトタン板を継ぎはぎした壁が両側につづく。金網はいたるところで破れ、雨どいは壊れて斜めに垂れさがっていた。
都内には、開発から取り残されたようにひどく老朽化した家屋や施設が見受けられる。たいていは私有地だった。国や都が管理する土地なら、とっくに建て替えられている。とりわけ、こんな一等地を行政が見過ごすはずがない。
小笠原は、隣りで窓の外を眺めている莉子にささやきかけた。「ここが如月さんのいってた......」
「そう」莉子がうなずく。「東京ドーム裏にある廃工場だったスペース。いまは貸倉庫になってる。今週一週間、西園寺さんが借りあげている」
「ほかにも、全国あちこちの倉庫を借りてるって話じゃなかった?」
すると助手席に座っていた葉山が振りかえった。「如月彩乃さんに連絡をとって、すべての場所を確認済みです。それぞれ道府県警、現地の所轄署が協力してくれています。零時きっかりに、いっせいに行動を起こす予定です」
莉子が葉山にいった。「よく令状がとれましたね」
「なに、軽いですよ。状況証拠ばかりではありますが、西園寺を追いつめる絶好の機会ですからね。本庁の公安部も納得してくれましたよ。凜田先生のいうことなら間違いないだろうって」
本当に心からそう思っているのだろうか。それとも、もし間違いだったとき、莉子のせいにする布石を打っておこうとする文脈だろうか。
当の莉子はまるで気にしているようすもなく、涼しげな顔で車外に目を向けている。
ずいぶん肝が据わっている。いや、彼女ばかりではない。俺のほうもこういう局面には慣れてきている。インドネシアで感じた恐怖に比べれば、日本の警察と行動を共にできているいまはさほどでもない。
やがて、視界が開けた。パトカーはゆっくりと停車した。
そこは中庭のようにぽっかりと空いた土地で、四方をトタン板の建物に囲まれていた。ワゴンが二台、列をなして駐車している。そのすぐ近くに、蛍光灯に照らしだされた観音開きの扉があった。鉄製で、片方の扉は半開きになっている。なかは真っ暗のようだった。
葉山がドアを開けて車外に降り立つ。ほかのパトカーからも、続々と警官が外にでた。
ふと不安になり、小笠原は莉子の腕に触れた。
莉子はこちらを向いた。ふしぎそうな顔でじっと見つめてくる。
やがて莉子は微笑した。「心配しなくても、外にでたりしないってば」
「わからないよ」小笠原は苦笑してみせた。「インドネシアでも真っ先に飛びだしていったし」
「きょうはそんなことしないって。ああいうの着てないし」莉子は車外を指さした。
葉山を含め、警官たちは全員が白いつなぎの防護服を身につけていた。防護服はフードが一体化していて、顔だけをだして頭部をすっぽり覆うことができる。両手には、緑いろのゴム手袋を装着していた。
警官たちは突入の準備に入った。ゴーグルをかけ、マスクで口もとを覆う。
そのとき、シューという甲高い音が響いてきた。葉山がびくついたように身がまえて、倉庫の扉を凝視する。
空気の漏れだす音、いや高圧洗浄の水が噴きだす音に近いかもしれなかった。倉庫内に人がいて、なんらかの作業がおこなわれていることはたしかだ。
この場を逃す手はないと思ったのだろう、葉山が周囲の警官に手を振り、合図を送っている。警官たちはいっせいに走りだした。観音開きの扉の左右の壁に身を這わせていく。
作業音はまだつづいている。葉山が鋭い声で告げた。「いけ」
防護服姿の警官らは扉のなかに踏みいっていった。警察だ、と怒鳴る声がする。明かりをつけろ。全員動くな。
しばらく喧騒が響いていたが、誰が何を喋っているかさだかではなかった。ようやく扉から光が漏れだしてきた。照明が点灯したようだ。なおも騒々しい物音や、怒鳴り声がこだまする。
パトカーの後部座席で、小笠原は唖然としながら莉子を見つめた。「思惑通り?」
「ええ」莉子は見かえしてきた。「小笠原さんはそう思わないの?」
「さあね。じつはなにが起きているのかさっぱりだ。葉山さんって、きみと相談するときにはいつも僕を閉めだすだろ。取材お断りとかいって」
莉子は笑った。「簡単なことよ。西園寺さんのインドネシアでの医療活動はやっぱり見せかけで、本当の目的は別のところにあった。ノロウィルスを収集すること」
「なんだって?」
ノロウィルスってね、ほかのウィルスと違って、実験室で増殖させる方法がまだ見つかっていないの。ワクチンの開発が遅れているのもそのせい。だから、大量のノロウィルスを入手しようとしたら、流行している地域で採取するしかないのよ」
「大量のノロウィルスって? まさかこの倉庫のなかに......」
「そうよ。国家間におけるウィルスの輸出入は、研究目的であれば両国の医療機関どうしが窓口になることで可能。世界保健機関がそう定めてる。西園寺さんは現地で収集したノロウィルスを瓶詰めにして、日本に送らせた。数百本ぶん、あるいは数千本ぶんにのぼるかもしれない」
「どうしてそんなにたくさん......」
「さっき聞こえていたのは、電動噴霧器の音みたいね。ノロウィルスで汚染した水を散布して、隈なく浴びせるのよ。レンタル店と中古店でかき集めたCDに」
小笠原は驚きを禁じえなかった。「CD?」
ノロウィルスは八十五度以上で一分間加熱したり、洗浄や消毒をしないかぎり感染性が失われないといわれてるの。散布した汚染水が乾いたちとも、ウィルスはCDやケースに付着したまま生きつづける」
「じゃあ西園寺の目的は......」
「そう」莉子は真顔で見つめてきた。「レンタル店と中古店のユーザーを激減させることが狙いよ。レンタルCDは明日には返却、中古で買ったCDもまた中古店に買い取らせる。そうすれば数日のうちに、店員や利用客がみな激しい発熱や嘔吐にみまわれる。CDに触れた手で食事をすることで経口感染して、伝染性の消化器感染症になるからよ。ノロウィルスの感染で死に至るような例はあまりないけど、一日か二日はひどい症状に苦しむことになるし、なによりまだ治療法が確立されていないから非常に恐れられているの」
「ああ。ノロウィルスが見つかった飲食店は即座に営業停止処分だしな」
「どこで食事を取ったかがまず問題視されるけど、ほどなく患者の共通項は、レンタルCDか中古CDに触れたことだとわかる。実際に保健所がCDを検査すれば、ノロウィルスが検出される。マスコミも報じるだろうし。不特定多数が触るレンタルや中古のCDは不潔きわまりないと風評も広まる」
小笠原は思わず額に手をやった。「まさか、新品のCDの売り上げを伸ばすためか?」
「だと思う。西園寺さんが最後の勝負を賭けたアンビシャスのデビューシングルが、もうすぐ発売になるのよ。その直前にレンタルと中古を封じておけば、人々はお店で新品を買うか、ネットのダウンロード販売を利用するしかない。いずれもランキングに作用するし、西園寺さんの印税につながる」
「アンビシャス以外のアーティストのCDも、すべて売り上げが伸びるわけだろ? 一位をとれるかどうかわからないよ」
「そこはプロデュースした本人だけに、作品に絶対の自信を持ってるんでしょう。ただ彼は、莫大な借金を返すためにもミリオンセラーを記録しなきゃと考えてる。かつてブームだったころメガヒットを連発したのに、二〇〇〇年代に入ってから売れなくなったのは、同時期に台頭した全国規模のレンタルと中古チェーンのせいだと信じきっているのね。借金を抱えているせいでレンタル禁止にもできない。だから、一九九〇年代の古いヒット曲をレンタルや中古で利用されてばかりの西園寺さんは、収入も限りなくゼロに近くて悔しい思いをしてたはず。貸与報酬請求権で得られるお金はごくわずかだし」
「で、レンタル店や中古店を殲滅することで、かつての栄光を取り戻そうとしたわけか......なんてことだ。常軌を逸してるよ」
車外に目を向けると、警官たちが倉庫内にいた不審者を次々に連れだしている。扉から離れた場所に並ばせられた容疑者は十人足らず。いずれも警官が着ている物とは別のオレンジいろの防護服を身につけていた。ゴーグルとマスクで顔は見えないが、叫んだり暴れたりしている者もいる。
葉山がつかつかと歩み寄って、警官らに告げた。「写真を撮れ」
警官が容疑者たちの顔を覆う物を引き剥がしていく。まず正体があきらかになったのは、四十代の男性だった。観念したのか、呆然と立ち尽くしている。次にマスクを外されたのは、やはり四十半ばぐらいの女性、こちらは泣き叫んで拳をふりかざし、警官たちに制止されている。
さらにもうひとり、激しく暴れる女性がいた。ゴーグルとマスクが外される。
小笠原は絶句した。
飛鳥陽菜の母親、琴音。血相を変え、髪を振りみだし、涙を流しながらわめき散らしている。「放してよ! なんだっていうの。ここは借りてるだけでしょ。なかでなにをしてようと自由でしょ。放して!」
莉子が小さくため息をつき、視線を落とした。
たしかに見るに堪えない光景だ。けれども、事実は確認しておかねばならない。
全員の顔が晒された。琴音以外はいずれも見知らぬ顔の中年男女だった。とはいえ、出会っている可能性もある。あのバーチャルシティのオーナー募集のイベントに出席していた者も、含まれているかもしれない。顔は覚えていないが年齢層は一致する。
小笠原はつぶやいた。「ノロウィルスをCDに散布するのが今晩だって、よくわかったね」
「CDはどれも一泊二日で借りられてたから......。きょうしかないと思ったの」
そう告げながらも、莉子はうつむいたままだった。横顔に憂いのいろが浮かんでいる。陽菜のことを思っているのだろう。
葉山は容疑者を見渡すと、舌打ちして振りかえった。警官のひとりにいう。「ビデオ班はなかに入って撮影しろ。鑑識を呼べ。CDの回収は明朝。こいつらを署に連行だ」
彼がなぜ苛立っているが、小笠原には理由がわかる気がした。
小笠原は莉子にいった。「西園寺、いなかったな」
「......ええ」莉子は伏し目がちにささやいた。「主犯を特定するには証拠が不十分よね。またしても」
カード
翌日の夕方、小笠原は牛込警察署に呼びだされたが、葉山からごく簡単な説明を受けただけだった。
倉庫内を撮影した映像も見せられたし、床を埋め尽くす大量のCDや電動噴霧器など、あらゆる物証は莉子の指摘どおりだった。小笠原は舌を巻いたが、そのいっぽうで新たに進展と呼べるものはなかった。
容疑者たちが口を揃えて、あくまで自分たちが自主的にやったことにすぎず、西園寺の指示は受けていないと証言したからだった。
西園寺の顧問弁護士の話も伝えられた。全国で奇行に及んだのはたしかに西園寺の熱烈なファンかもしれないが、彼自身はこのことに関知していない。如月彩乃は倉庫の借主が夫だと証言しているようだが、名義はすべて各地のファンになっている。事実、西園寺響はこの件と無関係だ、そういう声明だった。
ノロウィルスの輸入を請け負った医療機関が特定できず、国内に持ちこまれたことをしめす明確な物証が現時点では存在しない。よって、西園寺の海外における医療支援活動と今回の事件は、ノロウィルスという共通のキーワードはあっても、両者のあいだに因果関係をみいだすことはできない。捜査本部はそのように判断したらしい。
馬鹿げた話だと小笠原は思った。事実は明白だというのに、警察はまだ西園寺に任意出頭を求めない。いまだに警視庁公安部の顔いろをうかがっているのだろうか。
葉山は真顔で否定した。公安部もとっくに西園寺には愛想を尽かしてますよ。それにこの事件は、全国規模での一種の集団破壊活動という意味で、むしろ彼ら公安の領域です。しかしながら、組織犯罪としての裏付けに乏しい。現状では、狂信的ファンの暴走と片付けざるをえないんです。
そういいながらも葉山は、今度ばかりは記事にするのを止めようとはしなかった。証拠が揃わない以上、報道でプレッシャーをかけて西園寺をいぶりだそうとする腹積もりかもしれなかった。
小笠原の書いた記事は翌週の『週刊角川』でトップを飾った。西園寺響、インドネシア医療活動に潜む疑惑。急進的ファンによるノロウィルスCD汚染計画の全貌。部数は伸び、テレビ局のワイドショーやスポーツ紙の芸能面も追随した。編集長の荻野からはめずらしく誉め言葉をもらった。よくやった。これでインドネシアの出張経費をおまえの給料から差っ引かずに済む。彼はそういった。
同じ週に、西園寺プロデュースによるアンビシャスのデビューシングルが発売された。報道が逆に大衆の関心を呼ぶのではと予測する向きもあったが、オリコンチャートは初登場百六十八位、実売四百十一枚という、惨憺たるありさまだった。
四百十一枚でもいちおうチャート圏内に入るのかと小笠原は驚いたが、世間が西園寺のもくろみどおりには操作されなかったことはあきらかだった。一般の音楽ファンは、騒動以前に買う理由がない、と冷やかだった。
これで西園寺は借金返済のめどもつかず、評判も失墜して完全に追い詰められたはずだった。それでも西園寺は沈黙を守りつづけている。不気味な静寂だった。嵐の前の静けさのようだ。
莉子から電話がかかってきたのは、それからさらに何日も後のことだった。
いつもとはようすが違っていた。莉子の声は切迫した響きを帯びていた。飛鳥琴音の家に呼びだされているので、一緒についてきてほしい。彼女はそう要請してきた。
琴音がすでに釈放されていることを小笠原は知らなかったが、罪状がはっきりしなかったために不起訴となり、厳重注意で済んだらしかった。ノロウィルスの件に関わっていたほかのファンたちも同様だという。
激しく雨の降る日の午後だった。小笠原は傘をさして江戸川橋近くにある飛鳥家に向かった。
三階建ての洋館風の建物の前に着くと、そこには赤い傘を手にした莉子が、ぼんやりと立ちつくしていた。
「凜田さん」と小笠原は声をかけた。
「あ、小笠原さん......」莉子は戸惑いがちにそう応じた。
「先に着いてたのなら、なかに入ってくれてかまわなかったのに」
「いえ。そのう......」莉子の大きな瞳に憂いのいろが浮かんだ。「だって、顔を合わせにくくて」
「ああ。わかるよ。きっと怒ってるだろうしね」
「憤りをぶつけたくて、わたしを呼んだのかな。きっとそうよね......」
「心配いらないよ。一緒になかに入ってあげるから。僕のほうも嫌われ者の雑誌記者だけどね。僕が先に会って話をしようか?」
「......いいえ。だいじょうぶよ」莉子は深呼吸をして、微笑を浮かべた。「ありがとう、小笠原さん。やっぱりやさしい人ね」
小笠原は思わず照れ笑いをしながら、門柱のチャイムを押した。「じゃあ、ふたり同時に入ろう。そのほうが怒鳴られても負担が半分ずつで済むよ」
はい。応じたのは男の声だった。夫の飛鳥優治らしい。莉子がインターホンに告げた。凜田です。奥さまにお会いする約束がありまして。
どうぞ、門は開いてます。優治の声がした。
門を押し開けて庭に歩を進める。玄関の扉の前に着いた。
鍵を開けようとする音がした。緊張してきた。莉子も全身を硬直させている。
ゆっくりと扉が開いた。現れたのは、妻の琴音のほうだった。
「あ」莉子はこわばった顔で、たどたどしくいった。「あのう。奥さま。今回は、ですね。本当に、ええと......」
ところが琴音は、怒りのいろを表さなかった。むしろ哀願するような顔で訴えてくる。
「凜田さん! よくきてくださいました。さあ、早くなかに入って」
莉子はきょとんとした顔で、小笠原を見つめてきた。小笠原も呆気にとられていた。どうしたのだろう。抗議や説教のために莉子を呼びつけたわけではなさそうだった。
靴を脱いで廊下にあがり、リビングに通される。ソファには夫の優治が腰をおろしていた。こちらを見て、あわてたように立ちあがる。なぜかひどくやつれたようすだった。
部屋に入るや、琴音は悲痛な叫びをあげた。「ひどいんですよ。貯金がぜんぶなくなっちゃったんです」
「ど」莉子は面食らったようすだった。「どういうことですか、それ」
琴音の目が夫に向けられる。優治が一枚の紙片を差しだしてきた。
莉子はそれを受けとった。「クレジットカードの請求書ですね。名義は奥さま。上限なしのプラチナカード......。今月の請求額、千四百九十七万六千円?」
「ええ」琴音は莉子にすがりつくようにいった。「夫が加入しているカードの家族会員なんです。だから夫の口座、うちの唯一の口座の預金が、ほとんど全額引きだされちゃったんです」
優治が疲弊しきっているのはそのせいか。小笠原はそう思った。現金をすべて失ってしまうとは、想定外の出来事に違いない。
震える声で琴音は告げた。「引き落としはつい先日でした。通帳をみてびっくりして......。カード会社に問い合わせたけど、手続きは正規のものだった、の一点張りなんです。どうしましょう」
莉子は神妙な顔になった。「この履歴によると、キャッシュアドバンスのオンラインサービスで、現金をどこかの口座に送金したことになってますね。それも何十回も......。キャッシュカードと違って、クレジットカードの現金化は高率の利息がつきますから、そのぶんも請求されてます」
琴音の顔はみるみるうちに真っ赤になった。「誰がこんなことを!」
「......そのことなら」莉子は落ち着いた口調で告げた。「もうおわかりだと思いますけど」
「だ、だけど」琴音は焦燥のいろとともにいった。「カード会社の話じゃ、そのオンラインサービスを利用するにはカード情報のほか、暗証番号を入力する必要があるんでしょう? いったいどうやって......」
莉子はふと何かに気づいたような顔で、琴音を見つめた。「以前に、泊まりがけで西園寺さんのイベントにでかけたとおっしゃいましたよね? グランドフライヤーズ・ホテルでおこなわれた」
「ええ......でもあの代金は、事前に振りこんだのよ。カードの支払いじゃなくて」
「イベントの最中、財布を部屋の金庫に預けたともおっしゃった」
「そうです。わたし用心深いから、ちゃんと鍵もかけときましたよ」
「鍵といっても、四けたの番号をきめてロックしたんでしょう?」
琴音はうなずいた。「ふつうホテルの部屋の金庫って、そうなってるじゃないの」
「何番にしましたか?」
「ええと。番号は......」琴音ははっとした顔になった。「じゃあ......」
「記億しきれないからといって、四けたの暗証番号を毎回同じにしている人は少なくないんです。キャッシュカードもクレジットカードもぜんぶ同じ。そして金庫を閉じる際にも、新たに覚える自信がないからと同じ番号に設定した。そうじゃありませんか?」
「だ......だとしても、どうだっていうの? ホテルの金庫よ。信頼できるはずでしょ」
「奥さま。西園寺さんはグランドフライヤーズ・ホテルの筆頭株主でした。実質的に、西園寺さん自身がホテルのオーナーだったんです」
「そうはいっても、金庫の暗証番号がわかるわけないわ」
「いいえ。ホテルの客室用金庫はホテルセーフといいますが、高くてもせいぜい五万円ぐらい。簡易的な金庫にすぎません。あまり知られていないことですが、ホテルセーフというものは、ロック後に管理者が特殊な操作で暗証番号を読みとり、解錠できるようになってます。そうでなきゃ、暗証番号を忘れてしまったお客さんの金庫が開けられませんから」
琴音は衝撃を受けたようすだった。「なんですって......」
「自分を管理者に設定したホテルセーフを客室に常備させておけば、暗証番号は読みとり放題です。オーナー用のマスターキーで部屋に入り、金庫の暗証番号を確認、解錠して財布からクレジットカードを取りだし、番号や使用期限年月、裏面のセキュリティコードを記録する。そして、何食わぬ顔で元に戻しておいたんです」
「なぜ西園寺さんがそんなことを......」
「金銭面でどうにもならなくなったとき、お金を得られる最後の手段として温存しておいたんですよ。切羽詰まって、なりふり構わなくなった。まさにいまの西園寺さんの境遇です。イベント当日の宿泊客のうち、カードの暗証番号と同じ四けたの数字で金庫をロックした全員が、ここ数日のうちに被害に遭ったでしょう。あなたはそのひとりです」
琴音は呆然とした面持ちで、しきりに首を横に振った。
弱々しい声で琴音はいった。「絶対に信じられない。そんなことあるわけが......」
すると、夫の優治が語気を強めた。「琴音!」
びくっとして、琴音は優治を見つめた。
優治はため息まじりに告げた。「もうわかってるだろ。自分がいちばんよく理解できてるはずだ」
しばらくのあいだ、琴音は愕然とした表情のまま凍りついていた。やがてその目に涙が膨れあがり、頬をつたった。
膝から崩れ落ち、床に突っ伏す。琴音は声をあげて泣きだした。
もの音がした。誰かが廊下を駆けてくる。扉が開いた。娘の陽菜が、驚きのいろを浮かべて室内を見まわした。
その視線が、うずくまった母親に向けられる。陽菜は絶句しているようだった。
「お母さん......」陽菜はつぶやき、ひざまずいて母親の肩をそっと抱いた。
琴音はまだ泣きつづけている。陽菜が顔をあげた。だが、莉子を見つめるその表情に、悲痛のいろはなかった。どこか安堵を感じさせるものだった。
優治は肩を落としていたが、穏やかな口調で妻に話しかけた。「警察に被害届はだしてあるんだ。ほかにできることはない。金が戻ってこなくても、うちはローンの完済まであと少しだし、私もまだまだ働ける。高くついたが、勉強代だよ」
長い静寂があった。琴音の嗚咽だけが小さくきこえていた。最悪の事態に直面したことによって、かえって一家の絆は深まった。優治はそう信じたがっているように見える。陽菜も同じ気持ちらしかった。
それが事実だと思いたい。小笠原はこみあげてくるものを感じた。金では買えないものがある。この家族は、それを得たのだろう。
莉子は愛おしさに満ちたまなざしで、寄り添う琴音と陽菜を眺めていた。
だが、その表情がしだいに険しくなる。莉子は小笠原を見つめてきた。深刻な面持ちだった。
同感だよ、と小笠原はうなずいてみせた。
今度も、西園寺の犯行であるとは立証できない。グランドフライヤーズ・ホテルはとっくに倒産している。客室用金庫についても調べられない。
西園寺響。とうとう信者を見捨て、裏切ってまで金策に走った。しかしそれも、彼の莫大な負債からすればほんの一時しのぎにすぎない。最後のカードを切ったいま、彼はどうするつもりだろう。どうやって苦境を逃れるつもりか。
メモリーリセット
眠れない夜がつづいている。如月彩乃はべッドを抜けだし、階下に向かった。階段の踊り場にある柱時計が午前四時すぎを告げている。まだ外は暗い。
一階にあるオーディオルームのドアに近づくと、音楽が漏れ聞こえていた。ダンスミュージック調の速いテンポ、打ち込み系のリズム。彩乃のデビュー前に、西園寺が最初のヒットを飛ばした曲。ボーカリストは当時十四歳の少女だった。
ノックをしたが返事がない。彩乃はノブをひねってドアを開けた。
とたんに大音量の音楽が耳に飛びこんでくる。早朝とは思えない騒々しさだった。間接照明だけが点灯していて薄暗い。プロジェクターが昔のPVを大画面に映しだしていた。ガラステーブルには、ビールの空き缶が山積みになっている。
壁ぎわに寄りかかって立つ西園寺の姿を見たとき、彩乃は絶句した。
帰宅したときから着替えもせず、服装の変化はワイシャツの襟もとを開けただけだった。ただ、西園寺本人は別人のような変わりようだった。髪は乱れ、げっそりと痩せこけて見える、顔いろもよくない。
「響さん」彩乃は歩み寄った。
西園寺のうつろな目が、彩乃をとらえた。「ああ......」
「どうしたっていうの、いったい」
はん。西園寺は小馬鹿にしたような笑いを浮かべ、缶ビールを口もとに近づけた。
酒なんか一滴も飲めないはずだ。中華料理店で食事したとき、紹興酒をわずかに飲んだだけで卒倒してしまった。彼にとってはビールといえどテキーラと変わらないだろう。それを、こんなにたくさん......。
病的に思える顔は、何度か嘔吐したせいかもしれなかった。西園寺は缶をあおり、苦しげにビールを飲みくだした。こぼれた液体が首すじを滴り落ちる。
「ねえ」彩乃は西園寺の腕をつかんだ。「無理しないで」
西園寺はその手を振りほどいた。「触んなよ」
彩乃は凍りついた。
こんなに自暴自棄になった彼は見たことがない。追い詰められて、なにもかも見えなくなっているのだろうか。
「響さん」と彩乃は穏やかに声をかけた。「きょうも連絡があったわ。最終通告だって。今朝までに返事がなければ法的手段にでるって」
「......ほうっておきゃいい」
「だめよ。これ以上意地を張ったら、今度こそおしまいよ。いまのうちにやるべきことはやって......」
「なんだ。やるべきことってのは」
いざとなると伝えにくい。彩乃は言葉を選びながらいった。「弁護士さんにも相談したんだけど......この際、裁判所に申し立てをして......」
「破産の申請をしろってのか。自己破産なら借金地獄から逃れられると、そういいたいわけか」
「......ええ」
「世間知らずだな、彩乃は。審査ってもんがあるだろ」
「ぜんぶ洗いざらい話して、事情を打ち明ければ......」
「馬鹿いうな!」西園寺は怒鳴った。「洗いざらい話せ? 僕に自白しろと強制するのか。旦那は刑務所、自分はほかの会社で再デビューってわけだ」
「違うわよ。やめてよ」
「カンツォネッタの柿内とよりを戻して、昔みたいにやろうって盛りあがるのか。西園寺は抜きで楽しくやろうって」
彩乃は思わず大声をあげた。「やめてったら!」
西園寺は口をつぐんだ。血走った目があちこちをさまよう。
「お願い」彩乃はつぶやいた。「ほかにもうどうしようもないから......」
「どうしようもない? ふざけろよ」西園寺はまくしたてた。「やるべきことは山ほどある。自由もある。マスコミが叩いたからどうだってんだ。疑惑はあくまで疑惑さ。有名人にはつきものだ、昔から、あることないこと書きたてられた。そのうちのひとつだと世間は思うさ」
「今度は違うわよ。だって......」
「よせ。今度は事実だからとか、そんなふうにいうのか。人ってのは自分のこと以外、たしかなことはわからない。他人の噂の真偽なんて確認しようがない。スキャンダルは次のヒットまでの場つなぎさ。世間は名のある人間をほうっておけないから、作品がでてくるまではゴシップ記事にも興味をしめす。でもそんなのは、曲が当たれば吹き飛ばせる。音楽の力は絶大だ、泣ける歌ひとつで大衆の心はがらりと変えられる」
「響さん......」
「見てろ。まだ有力なアーティスト候補は何人もいる。そいつらを組ませてユニットをつくる。メインボーカリストは、オーディションをやろう。いや、それよりも、きみでいこう。如月彩乃、ひさびさのシングル。往年のファンもこれなら飛びつく。テレビは懐かしのヒット曲特集が花盛りだ。各局の編成や制作会社の知り合いに連絡しよう。ゲストとして登場して、新旧の曲をメドレーにして......」
「いい加減にして!」彩乃はかっとなった。「往年のファン? 編成や制作会社? 相手にされるとでも思ってるの? あなたは軽蔑されてるの。世間はもうあなたを必要としてない。ただの昔の人よ。いちど有名になったらなんでも許されるっていうのは思い違いだったのよ。知名度があれば、実情は借金まみれでも相手がそれを信じない、いつも大物扱いしてくれる。そんなのも、あなたの幻想。みんな真実を見抜いてる。認めてないのはあなただけよ」
西園寺は、疑い深げな目でじっと見つめてきた。「彩乃。きみまでか。残念だな。愛のある関係だと思っていたのに。金の切れ目が縁の切れ目か。これっきりってわけだ」
その態度に、彩乃は衝撃を受けた。胸を締めつけるような苦しみが、悲しみの感情に変わっていく。
気づいたときには、視界が揺らぎだしていた。涙が頬をつたうのを感じる。
震える声で彩乃はいった。「どこまで自分勝手な人なの。わたしは、あなたしかいないと思ってた。結婚したときには、もうお金なんかなかったじゃないの。わたしは知ってたのよ。カンツォネッタを独立したときに何もかも失ったことも、印税が借金のカタにとられてることも......。報道されるよりずっと早く知ってた。それでもあなたと一緒になりたかった。ふたりでならやりなおせると思ったのよ。わたしがいなきゃ駄目だと思った。あの当時ですら、あなたにはもう、誰もいなかったんだから」
西園寺の顔に、わずかに憂いのいろが浮かんだ。だがそれは一瞬にすぎず、すぐに酩酊状態に伴う子供じみた態度に逆戻りした。
「事実が見えてないのはきみのほうだ」西園寺はぶらりと壁ぎわを離れた。ふらふらと歩きながら西園寺はいった。「なにもかも世間は気づいてる? 笑わせるよ。なら、インドネシアから空輸されたノロウィルスは誰が受け取った? 窓口になった日本の医療機関は? ばれるはずがない。僕の知り合いの医者は口が堅い。きみの前に現れたこともないんだ。......そうそう、彼にいい物をもらったよ」
プロジェクター映像の明滅のなかに、西園寺は歩を進めていった。キャビネットから小さな瓶を取りだす。振りかえった西園寺の全身に、映像が重なっていた。
「......なによそれ」と彩乃はきいた。
「これが? これはな、最後の障害を取り除くためのものだ。僕がいま、なぜこんな状況に陥っているかわかるか? ひとりの若い女が現れたせいだ。ほんの数週間で、なにもかも目茶苦茶になった。彼女が雑誌記者や警察に入れ知恵したせいで、あらゆる計画が台無しになった」
「それって、つまり......」
誰のことを指しているのかは明白だった。彩乃は足ばやに歩み寄っていった。西園寺が手にした薬品の瓶を凝視した。頭に刻まねばならない、とっさにそう思ったからだった。
彩乃はきいた。「なんの薬?」
しかし、西園寺は瓶を握りこんで後ずさりした。「おっと。邪魔はしないでくれ。いいか、彩乃。来月にはまたふたりで笑っていられる。現状を取り巻くあらゆることが、過去の風評被害にすぎないと片づけられる日がくるだろう。いっとくが、警察に駆けこんでも無駄だぞ。いままでの例をみればわかるように、証拠はないんだからな。僕を信じろ、彩乃。かならず昔の暮らしに戻れる」
口もとを歪めた西園寺に、かつて感じた繊細さはなかった。西園寺は彩乃をじっと見つめてから、ゆっくりと動きだした。おぼつかない足どりで戸口に向かい、扉を開ける。振り向きもせずに廊下にでて、後ろ手に扉を閉めた。
涙がとめどなく流れ落ちる。彩乃は頬をぬぐった。泣いてばかりはいられない。
オーディオ機器に近づいて、スイッチを切る。音楽は途絶え、静寂が訪れた。
部屋のプッシュホンの受話器をとる。覚えている番号を押した。
この時間では仕事場にいるとは思えない。でも留守電にメッセージを残せると彼女はいっていた。
電話はつながった。応答メッセージは莉子の声だった。お電話ありがとうございます。万能鑑定士Qです。ただいま外出しております......。
発信音を待って、彩乃はいった。「如月彩乃です。どうしてもお伝えしたいことがあるんです。朝十時にうかがいます。では」
受話器を戻してから、すぐにメモリーのリセットボタンを押した。これでリダイヤルに番号の記録は残らない。
とそのとき、背後で音がした。
びくっとして、彩乃は振りかえった。
室内には誰もいない。扉が閉じる音のようだったが......。
立ち聞きされただろうか。でも、わたしの声をきいただけでは、どこに行くかはわからないはずだ。
気を落ち着かせようと深呼吸した。そしてすぐに、電話機のわきに置いてあったメモ帳を開く。彩乃はボールペンを手にした。
記憶に残っているかぎりの情報を走り書きにしていく。できるだけ正確に想起せねば、彩乃はそう肝に銘じた。莉子の命がかかっている。
五十ミリグラム
莉子は万能鑑定士Qのデスクにおさまり、紙の上にペンを走らせた。「ええと。ガラスの小瓶で、表面は茶色。中身は白い錠剤か粉末......ですか。どちらなのかは、はっきりしないんですね?」
向かいのソファに座った彩乃が告げる。「ええ。ちらっとしか見なかったから......。それに緑の蓋。ラベルにはアルファベットで、S、C、O、P、O、L......。スコポルって記憶してた。その単語にはまだつづきがあったみたいだけど、響さんの指で隠れてたから」
「ふうん。S、C、O......」莉子は紙に綴っていった。
小笠原はデスクのわきに立って、そのようすを眺めていた。彩乃から緊急の知らせがあるというので飛んできたが、大事には至っていないようすで、ほっとしたところだった。
しかし、西園寺が用意したというこの薬品はいったい、なんだろう。
莉子はしばし考えあぐねているようすだったが、やがてぼそりとつぶやいた。「考えられる薬品名はひとつしか......」
ペンがアルファベットの文字列を記していく。A、M、I、N、E。SCOPOLAMINE。スコポラミン、とでも読むのだろうか。
彩乃が身を乗りだした。「どんな薬かわかった?」
すると莉子は、一瞬あわてたような素振りで紙を裏がえし、デスクの端に追いやった。
「いえ。胃腸薬の一種と同じ名前の薬みたいだし、問題はなさそうかなって」
小笠原は妙に思った。いつもの彼女なら、たったひとつの手がかりからでも熟考にふけり、理路整然となんらかの答えを導きだすはずだ。いまも彼女は、薬品名に気づいたようだった。ところがそれ以上、思考を働かせようとしない。
怪訝に感じたのは小笠原だけではないようだった。彩乃もたずねるような目を莉子に向けた。「それほんと?」
「ええ。西園寺さん、酔っぱらってたんでしょ。あなたが猜疑心を持っているのを知って、悪戯のつもりでからかったのかも」
「そうかな......。響さん、なんだか怖い目をしてたのよ。っていうより、あなたに対して危害を加えることをほのめかしてたわ」
「危害って」莉子は微笑を浮かべた。「障害を排除するとかなんとか、抽象的な表現だったんでしょう? 如月さん、さっきそうおっしゃったじゃないですか」
「でも......」
小笠原も不安を覚えた。「凜田さん。警察に相談したほうがいいよ。ラベルは胃腸薬かもしれないけど、中身は青酸カリってことも考えられるじゃないか」
莉子の笑みは消えなかった。「出版社に勤めてる小笠原さんにはそう思えるかもしれないけど、青酸カリで毒殺なんて小説のなかの話であって、現実的じゃないのよ。空気に触れると炭酸カリウムに変化して毒性が失われるし、食べ物に混ぜてあったら、猛烈な不味さと口のなかの痛みですぐに吐いちゃうはずだし」
「そう......なのか? だけどさ......」
ふいに電話が鳴った。
デスクの上の受話器を、莉子は手にとった。「お電話ありがとうございます。万能鑑定士Qです」
しばしの沈黙のなかで、莉子の顔がこわばった。
「......ああ」と莉子はつぶやいた。「西園寺さん。おはようございます」
彩乃が息を呑んだ。「どうしてここに来ることが......」
小笠原は彩乃を制した。「しっ。静かに」
莉子が真顔で受話器に告げる。「よくここの番号をご存じでしたね。......声をきいて、わたしだとわかったんですか。なるほど。如月さんがかけた番号を試してみたら、わたしがでた。そういうことですね」
不可思議な話だと小笠原は感じた。ついさっき、彩乃はいった。リダイヤルできないようにメモリーを消去しておいた、と。
けれども、莉子にとっては疑念とはなりえないらしかった。「西園寺さんの家ってトーン回線でしょう? プッシュホンのボタンは横が順にレ、ミ、ファのシャープ。縦はファ、ソ、ラ、シ。ボタンを押すとこれらの和音がでますよね。耳を傾けていれば、かけた番号はわかる。そうじゃないですか?」
彩乃は絶句して、莉子の顔を見つめていた。
莉子は笑みを浮かべた。「当たり、ですよね。さすが西園寺さん、絶対音感ですね。ずいぶん酔っておられたそうなのに、一音も間違えないなんて」
無邪気な笑顔を見るにつけ、小笠原は心配になってきた。警戒心が薄すぎるようにも見えるが、だいじょうぶだろうか。
「はい」莉子はいった。「今晩、ですか。何時ごろでしょうか? ......ああ、はい。わかりました。ええ。それでは、失礼します」
受話器を置いた莉子に、彩乃がすかさずきいた。「なにを話してたの?」
「いろいろ積もる話もあるから、一緒に食事でもって。お誘いを受けちゃいました」
「え......?」
小笠原は莉子を見つめた。「断りなよ。危険だよ」
彩乃も同意した。「そうよ。怪しげな薬を用意してたのよ。妻のわたしだって、いまの彼と同じ食卓につきたいとは思わない」
莉子は目を丸くして、小笠原と彩乃をかわるがわる見た。
やがてにこりと笑って、莉子は告げた。「心配いらないですよ。もちろん、行くつもりはありませんから」
「でも」小笠原はきいた。「いまの電話、わかりましたって返事しただろ?」
「それは......考えてみてくれといわれたから、そう答えただけ。そんな顔しないで。わたし、昔から天然ってよくいわれたけど、ここで誘いに乗るほど馬鹿じゃないし」
屈託のない笑顔。莉子の澄みきった大きな瞳を眺めるうちに、彼女を信じようという気にはなる。
しかし、それでもまだ不安は残る。
彩乃も同じ気分らしく、神妙な面持ちでいった。「凜田さん。ひとりで無茶しないでね」
「ええ。如月さんも。......これから家に戻られるんでしょう?」
「さあ。友達の家に泊まろうかなって思ってるの。たとえ響さんが逮捕されても、別れたいとは思ってないけど......。限度があるかもね。彼のほうが変わってくれないと」彩乃は腰を浮かせた。「じゃあ、凜田さん。くれぐれも気をつけて」
莉子は立ちあがった。「どうもありがとうございます、如月さん」
彩乃はもういちど気遣うような目を向けてから、自動ドアに向かった。明るい午前の陽射しのなかを、彩乃はゆっくりと立ち去っていった。
店内はふたりきりになった。
小笠原は莉子にきいた。「本当に食事に行かないつもりか?」
「そうだってば。どうして何度もきくの?」
「......なんかさ、こういう場合、きみはひとりで行動しがちに思えるんだよ。周りを巻きこむまいとして、自分だけで対処しようとする」
「そんなことないって」
「だといいんだけど......。心配だよ」小笠原は心からいった。「凜田さん。僕自身、頼りない男であることは重々承知してるけど、次にもし西園寺に会うことがあるなら、ぜひ同行させてほしい。僕のことなんて気遣わなくていいから。きみにもしものことがあったら、耐えられないよ」
莉子は驚いたような顔で小笠原を見つめかえしてきた。
その表情がしだいに和らいでいく。「ありがとう。きっとそうするから」
......約束してくれた。ならば、これ以上の念押しは必要ないだろう。
小笠原はかすかな安堵を覚えながらたずねた。「きょうこれからは? どうするの?」
「もうすぐお客さんが鑑定依頼品を持ちこんでくるから......。ここで待ってないと」
「ああ。商売だね。わかった。僕も会社に戻るよ。いいね、くれぐれも気をつけて。なにかあったら、いつでも電話してほしいな」
「ええ」莉子はにっこりと笑った。「じゃあ、またね。小笠原さん」
少女のような笑顔に、手を振りかえす。小笠原は自動ドアをくぐり、外にでた。
昼に近づき、強まりつつある陽の光のなかを、神田川沿いに歩を進めていく。
商店街を抜けて、飯田橋駅改札口がみえる牛込橋に近づいたところで、ふと足がとまった。
どうもすっきりしない。彼女のようすは、どこか変だ。
小笠原は携帯電話を取りだした。インターネットに接続する。フルブラウザの画面に、グーグルの検索窓が表示された。
道端にたたずみながら、検索窓に文字を入力していった。S、C、O、P、O......。
検索結果に画面が切り替わる。英語のサイトばかりだった。アルファベットのみのキーワードを調べた以上、当然かもしれなかった。
いちばん上のサイトを表示してから、翻訳ソフトを起動させる。
数秒後、翻訳された日本語文が画面にでた。
スコポラミン。別名ヒヨスチン。ナス科のヒヨス、チョウセンアサガオなどにヒヨスチアミンとともに含まれるアルカロイド。無味、無臭。水に溶けやすい。急性毒性。致死量、ヒト五十ミリグラム。死後、体内から残存成分が発見されにくい......。
衝撃が走った。思わずよろめきそうになる。
たった五十ミリグラムで死に至る。しかも無味無臭だなんて。
こうしてはいられない。小笠原は、いま来た道を戻りだした。ほどなく歩が早まる。すぐに全力疾走に移った。
莉子が気づいていないはずがない。彼女は、西園寺が毒を盛ろうとしていることを承知していた。にもかかわらず、俺には打ち明けなかった。
警察に知らせるつもりなら、いつものように俺と行動を共にしてくれただろう。莉子は、ひとりで問題の解決をはかるつもりだ。
胃腸薬だなんてごまかしたのは、俺や如月彩乃を不安にさせないためか。狙われているのは莉子だ。俺たちを危険にさらすまいとして、自分ひとりで西園寺に対処しようとしている。
万能鑑定士Qの店の前に戻った。けれども、さっきとはようすが違う。ロールカーテンがさがっていた。外出中の札も掲げられている。
開かない自動ドアを、小笠原は叩いた。「凜田さん!」
返事はない。すでに店をでてしまったらしい。これから客がくるというのも嘘だった。彼女は行方をくらますつもりで、俺を追いかえした。
自動ドアにはさまった小さな紙片に、小笠原は気づいた。
それを手にとって開く。ていねいな字で、伝言が記してあった。
小笠原さん 心配しないで。警察には絶対に知らせないでください。莉子
膝の力が抜ける。小笠原はその場に座りこんだ。
そんな......。どうしてひとりで危険を冒そうとするんだ。彼女ひとりの人生じゃないのに。俺を含め、大勢の人の心の支えになっているっていうのに。
百舌
夜八時をまわった。西園寺響は駐車場のクルマから降り立つと、砂利を踏みしめて個室料亭〝百舌〟の門をくぐっていった。
田園調布のはずれにあるこの料亭の周りは、畑ばかりだ。クルマを停めておいたり、身をひそめられる場所はない。こちらを監視するのなら駐車場に入らねばならないが、辺りは閑散としていた。すなわち、警察の姿はない。いまのところは、であるが。
和服を着た女性従業員に通され、いつもの部屋に案内される。
なかに入ると、すでに莉子が席についていた。
床は畳だが、テーブルの下は掘ってあり、椅子のように腰かけられる。莉子は黒のセミフォーマル・ドレスを着ていた。西園寺に気づき、立ちあがろうとする。
「いや」西園寺はテーブルに歩み寄りながらいった。「そのままでいいよ。気らくにいこう」
西園寺は莉子の向かいに座った。他人とまっすぐに視線を交わしあうのは苦手だ。けれどもきょうは、あえてそうした。
莉子はぎこちなく見える笑みを浮かべた。「素敵なお部屋ですね」
「ああ......そうだね」西園寺は穏やかに応じた。「この店でも、いちばん景観のいい部屋だ。見てのとおり、日本庭園を眺めわたせる」
「ふうん。よく利用されるんですか」
「そうだな。何度か来たよ」今夜の目的に、この店は好都合だった。厨房の出入口に運ばれる前の料理が並べられる。偶然気づいていたことにすぎないが、こんなときに役立つとは思ってもみなかった。
無表情をつとめながら、西園寺はきいた。「お友達の記者さんは?」
「きょうは来られないっていう話でした。出張の予定があったとかで」
「そう。残念だね」
「ええ、小笠原さんも悔しがってました。高級会席なんて見たこともないのにって」
西園寺は思わず鼻で笑った。「七割は課長にさえなれないという世の中だけど、彼ならいずれ、自力でこの席につくだろう」
女性従業員が現れて座礼した。西園寺は彼女に告げた。ひとりキャンセルになったよ。お客さんは僕と彼女だけだ。女性従業員は深々と一礼した。かしこまりました。
「お酒は?」と西園寺は莉子にたずねた。「僕は飲まないけどね」
「いただきます」と莉子はいった。「赤ワインをグラスで」
「......飲むのかい?」
「はい。西園寺さんも昨晩は......」
「いや。あれはもう忘れたよ。ビールは駄目だな。けさは二日酔いでひどいものだった」
「ああ。蒸留酒じゃないと辛いですよね。ウイスキーか焼酎にしたら?」
「酒はもうごめんだよ」
ふたりは笑いあった。
......なんだろう、この時間は。
莉子の大きくつぶらな瞳は、なんの邪心も感じさせない。限りなく警戒心を解いて見える。というより、まったくの無防備のようでもある。
けれども、聡明な彼女のことだ。ポーカーフェイスもお手のものかもしれない。
グラスに入ったワインが運ばれてきた。西園寺は、この店ではいつものとおりウーロン茶だった。
乾杯をかわすと、莉子はグラスを大胆にあおった。ほとんど一気に飲みくだした。
ため息をついてグラスを置きながら、莉子は笑顔でいった。「飲みやすいですねぇ」
早くも顔が赤らんできている。酒に強くはなさそうだ。だいじょうぶだろうか。
いや、心配など必要ない。こちらにとってはむしろ好都合だ。
女性従業員が前菜を運んできた。まながつおの西京漬け、甘鯛木の芽焼。料理長自慢のコースの始まりだった。
いただきます、といって莉子は箸をつけた。
目を輝かせて莉子はつぶやいた。「すごく美味しい」
西園寺はうなずいてみせた。「ここの料理は天下一品だよ」
本当に彼女は、何も考えていないのだろうか。緊張感が微塵も感じられないが......。
わきに置いたカバンを開けて、西園寺はなかに手をいれた。「きみに見てもらいたいものがあってね」
取りだしたのは、水晶柱のかたちをした置物だった。一九九七年に受賞した日本音楽大賞のトロフィー。透明な六角柱が、銅製の土台から斜め上方に伸びている。
「わあ」莉子が感嘆の声をあげた。「きれい」
「これ、本物の水晶かな? 業界人のあいだでも意見が割れていてね」
「ちょっと失礼」莉子はトロフィーを受け取ると、両手のなかで回転させて眺めまわした。それから、ロングヘアを撫でつけて、髪を一本トロフィーにあてがった。
苦笑のような笑いを浮かべ、莉子はトロフィーをかえしてきた。「残念ですけど......」
「本物じゃなかった?」
「天然水晶なら結晶構造により光の屈折があるので、髪の毛が二本に見えるんです。それは練り水晶ですね。純度の低い水晶を粉末状にして高温で溶かして、不純物を取り除いてから、もういちど結晶化させた物です。大きくても安いですね」
「そうか......。これは値がつかないか。金に替えられないわけだ」
「記念にとっておかれたほうがいいと思いますよ。一九九七年といえば、如月彩乃さんのデビュー年でしょう? 奥さまのためにも、保管されるべきでしょう」
ふいに心が冷えていくのを感じる。
あるいは、これは莉子の挑発か。あえて彩乃の名をだしてきたのか。
前菜の器がさげられて、造里のフカヒレの刺身がテーブルに載せられた。
西園寺は莉子にきいた。「彩乃とどんなことを喋った?」
「......そうですね。西園寺さんの昔の写真を見せてもらいました」
「昔? いつごろの?」
「小学校の卒業アルバムです」
「それはまた、ずいぶん古いね」
「ええ......」莉子は西園寺の箸を持つ手をじっと見つめてきた。
「なにか?」
「いえ。西園寺さん、いまは右利きなんですね」
「......どういう意味かな?」
「子供のころは左利きだったんでしょう? 右利きじゃなきゃ駄目という風潮の中で」
自分でも判然としない、鈍い感情がこみあげてくる。西園寺はつぶやいた。「ああ。あの写真のことか」
「アサガオのスケッチをしているあなたの写真が載ってました。あなたは右手で鉛筆を握っているように見える。でもあの写真はネガを裏焼きにして。左右を反転させてありました。アサガオのツルが右巻きですから」
「本来ならツルは左巻き、か。きみの観察力は素晴らしいものがあるね」
「卒業アルバムに修整が加えられているってことは、左利きに対しよほど排他的だったんでしょう」
「そんな時代があったことを、きみは知ってたかな」
「いえ......。でも、昔の本で読んだことはあります。教育問題を扱った本でした」
「そうとも。僕は今年、五十だ。四十年も前には、小学校はひどく保守的で、理不尽な集団主義が強要されてた。左利きなんて、まるで異端児の扱いさ。矯正するまで帰さないとかいわれて、放課後にひとりで居残って、右手で一日十ページぐらい漢字を書かされた」
嫌な思い出がよみがえってくる。しかし、いまはそれを直視できる自分がいた。長いこと想起するのを避けてきたのに、今夜ここに限ってはむしろ過去に目を向けたい気分になった。
守るものがなくなったからだろうか。いまや無一文になり、世間からもそっぽを向かれている。少年時代と現在は異なるどころか、むしろまた同じ境遇になりつつある。そのせいか。
莉子がつぶやいた。「西園寺さんは、小学生のころから音楽が得意だったんでしょう?」
「ああ。そうだな。音楽だけは誰にも負けなかった。ピアノを習ってたからね」
「でもオーケストラの世界では、いまだに左利きは認められてない」
「......その通りだよ」当時が目に浮かぶようだと西園寺は思った。「ソロならともかく、管弦楽団のなかではバイオリンも弾けない。そう知ってショックだった。ピアノだけなら関係ないといわれそうだけど、いろんな道に挑戦したかった。真っ当な音楽家になれないんじゃ意味がない。ピアノなんかやってて、無口でおとなしくて、女みたいだと揶揄され、悪ガキたちにいじめられてた日々を、過去のものにできない」
西園寺は言葉を切った。
室内には、沈黙だけがあった。
喋りすぎたかもしれない。莉子にまんまと乗せられた。そうも思える。
だがいっぽうで、気づいたこともある。少年時代の記憶か。クラシックの音楽家よりもずっと大衆にとって親しみやすい歌謡界。管弦楽団の指揮者以上に、世間に名声と地位を見せつけられる音楽プロデューサー。本名でデビューしたのも、ことあるごとに富と権力を見せつけようとしてきたのも、すべては劣等感の裏返しだ。そういいきれる。
単純だ。このうえなく安易だ。しかし、人なんてそんなものだろう。自分で思っているほど、人生とは深みがあるものではない。理性の鎧をまとってみても、結局は子供じみた欲求がすべてに勝る。大のおとながセンチメンタルな音楽を聴いて、安っぽい涙を流すように。
成長しきれていない自分を意識しながら、おとなを演じる。しらばっくれて生きつづける。それが人の真実の姿だろう。
料理は、次々に運ばれてきた。蓋物として、穴子福紗包み。変鉢に、まぐろステーキ。そして揚物。
西園寺が何もいわずに食事をつづけると、莉子もその雰囲気にあわせてきた。ふたりは無言のまま箸を進めた。庭園の鹿おどしの音だけが、ときおり響いてくる。
こちらから沈黙を破るのは気がひける。それでも莉子が言葉を発しない以上、仕方がない。西園寺はたずねた。「きみは小学生のころ、どんな子供だった?」
莉子は苦笑いを浮かべた。「わたしですか? ちっとも勉強ができなくて、怒られてばかりでした。半端じゃなく成績が悪くて」
「きみが? 嘘だろ」
「本当ですよ。でも両親もそんなに勉強するほうじゃなかったから、いつも気らくでした。なんとかなるさーって」
「出身は沖縄?」
「ええ。そうです」
「なるほど。でも大学時代はかなりの学力だったんだろ?」
「いえ......。後からかなり勉強しなきゃならなかったのは、たしかですけど」
「子供のころと、いまの自分は違うと思うか?」
「思います」
「二十代はそうかもしれないな」西園寺は思わずため息をついた。「理想を追い求めて、夢を実現すると、人はやがて小学生のころと変わらない自分を見ると思う。教室は社会の縮図だったんだな、ってね。孤立して、自分は特別だと気取っていることだけが心の支えになっている子供は、将来も結局その役割におさまる。女の子にもてなかった奴は、やっぱりもてない」
「そういう人がいるんですか? 西園寺さんではないですよね」
「なぜ?」
「奥さまがいるじゃないですか。しかも心からあなたを愛してるし」
「......彩乃がそんな話をしたのか?」
「態度をみればわかります。如月さんはいつもあなたのことを思ってます。インドネシアに行ったのも、あなたの身を案じてのことでした」
「どうかな」
「いつも心配してます。西園寺さんのことを」
こんな話はしたくない。彩乃が自分をどう思っているのか、そのことに気持ちを向けたくはなかった。
それでもいまは、会話を途切れさせたくない理由がある。
また器がさげられ、籠盛りに千草揚がテーブルに載せられた。コースも終わりに近づいている。
西園寺は席を立った。「ちょっと失礼」
部屋をでて、廊下を足ばやに厨房に向かう。なにげない中座を演出したくて、直前まで当たり障りのないやりとりをつづけた。首尾は上々だろう。不自然さはなかったはずだ。
廊下には誰もいない。厨房の戸口に近づく。ワゴンにいくつかの器が並んでいた。にぎり寿司、香物の生姜桜漬け、そして味噌汁の椀。
スコポラミン、すなわちヒョスチンという猛毒は無味無臭だ。水にも溶けやすい。ひと口すすっただけで致死量を摂取させるには、味噌汁こそが最も適していた。
悪魔が耳もとにささやきかけているように、西園寺には思えた。いまこそすべてをひっくり返すときだ、そう告げている気がした。
西園寺は個室に戻った。
テーブルに酢物の蟹絹田巻の器が用意されている。莉子は箸を進めていた。
莉子は上機嫌そうにいった。「すっごく美味しいですよ、これも」
「酸っぱいのが好きかい?」
「ええ。お酢の風味、大好きです」
「ふうん。やっぱり沖縄の人だね。向こうの酢は本当に酸っぱいから」
何事もなかったかのように、さっきと変わらない時間が流れている。
しかし運命は、大きく変わりつつある。西園寺はそう思った。いよいよ仕上げのときだ。
にぎり寿司が運ばれてきた。生姜桜漬け、味噌汁の椀がテーブルに置かれる。
あまり彼女の椀に視線を注ぎたくない。それでも意識してしまう。
ごく自然にふるまおうとして、西園寺はたずねた。「きょうは何をしてた?」
「お食事の約束をいただいたので、美容院に行ってました」
「ほかには?」
莉子は寿司を口に運びながらきいてきた。「ほかって?」
「そのう......つまり、警察に行ったりとか......」
「警察? 行ってませんよ、そんなところ」
「ここに来ることを、誰かに相談した?」
「いいえ。一緒にお誘いをいただいた小笠原さんも、お店の場所まではきいてこなかったし」
「すると、邪魔は入らないわけだ」西園寺は無理に笑顔を取り繕った。「安心したよ」
なかなか椀の蓋を外そうとしない、香物ばかりに箸を伸ばしている。
無意識のうちに促したい。西園寺は自分の椀の蓋をとった。「きみみたいに綺麗な子が本当にアーティストになりたがっていたら、どんなによかったか。ぜひプロデュースしたかったよ。ま、一緒に食事できただけでも幸せだと思うことにしよう」
すると莉子がじっと見つめてきた。「西園寺さん」
「何だね?」
「こんなことは、わたしで最後にしてくださいね」
「......こんなことって?」
「女の人とふたりきりで食事することですよ」莉子は微笑みながらも、西園寺をじっと見つめてきた。「奥さまがかわいそうです。今後は、奥さまとだけお付き合いしてください。あなたが一緒にいてくれることが、奥さまにとってはなによりの幸せなんですから」
一瞬だけ、莉子に彩乃がだぶって見えた。
彼女もここにきて、莉子が座っている席で食事をした。あのときの彼女の笑顔は、料理の美味しさのせいばかりではなかった。いまになって、そう思える。
ふいに莉子が椀に手を伸ばした。
蓋をはずし、口もとへと運ぶ。
西園寺は、自分の心拍が急激に速まるのを感じた。てのひらに汗がにじむ。
湯気のなかで、莉子の顔には疑いのいろひとつ浮かばなかった。警戒心のかけらさえのぞかせず、莉子は味噌汁をすすった。
数秒のあいだ、莉子は味わうように目を閉じていた。
やがて、目を開けた。無邪気な笑みとともに、莉子はつぶやいた。「おいしい」
上品に味噌汁を飲みつづける莉子を、西園寺は無言で眺めていた。
潮がひいていくように、緊張のピークが過ぎ去っていく。心拍も少しずつ、ゆっくりとしたものに変わっていった。
目の前を覆い尽くしていた氷の壁が、ふいに溶け去ったかのようだった。
思わず脱力し、仰向けに寝そべってしまいたい衝動に駆られる。
いま手足を投げだして眠れたらどんなに楽だろう。そうしたい欲求だけが西園寺のなかにあった。当面、その願いさえ叶ってほしい。本気でそう思った。ほかにはもう何も望まない。
フェードアウト
多摩川台公園の西側、市街地の窓明かりが見渡せる小高い丘の上に、ベンツSクラスを停車させる。
うっすらと星空が浮かびあがっていた。都内ではよく見えるほうだ。さいわい、きょうは月明かりがない。牛飼座を構成するすべての星がおぼろげに見える。
助手席の莉子が、ささやくようにいった。「きれいですね」
「......ああ」西園寺はつぶやいた。「ここはね、思い出の場所だよ」
「思い出って?」
「いまにわかる」西園寺はダッシュポードの時刻表示を一瞥した。午後九時五十八分だった。「あと二分経ったらね」
「ふうん......」
静寂のなかで、西園寺は物憂げな気分で告げた。「きみには驚かされてばかりだよ」
「え?」
「最後の晩餐のメニューに気を配りもしないなんて」
そのほのめかしにも、莉子は無頓着のようすだった。穏やかな口調で莉子はきいてきた。
「西園寺さんは、最後の晩餐のメニュー、正確なところをご存じですか」
会話が噛みあわない。西園寺はたずねかえした。「なんの話だ?」
「ダ・ヴィンチの絵にはテーブルの上にオレンジが描かれてるんですけど、これは事実に反してるんです。当時、ローマ帝国にオレンジはなかった。ほかにも、絵のなかの料理はほとんどダ・ヴィンチの創作みたいです。本当は羊のローストだとか、シナモン、荒挽きの黒パンなんかを食べたんじゃないかっていわれてます」
「絵の話か。ミラノの修道院には行ったことがあるけど、じっくり見なかったね」
「横並びに座ってるのも、絵に描きやすいからそうしただけで、実際にはみんな寝そべって食べてたんですって。それが当時の風習だから」
「寝そべって......か。それじゃ雰囲気がでないな。まるで友達の家に集まった学生たちみたいだ」
そうですね、と微笑した莉子の目が、外を見つめる。「あれって......」
視線を追うと、地上の暗闇から光の束が、夜空に向かって伸びていくところだった。
十時になった。予定どおりだと西園寺は思った。
一瞬の閃光。そして、無数の花火が華ひらいた。鮮やかな原色の織り混ざる放射線が、星に変わって暗い夜空を彩っていく。
「すごい!」莉子は目を輝かせていた。「ありえないぐらい綺麗。それに、何発も何発も......。全然途絶えない。花火大会みたい」
「地主にお願いして、畑を使わせてもらってる。そこに花火師を待機させておいた。当時の職人は引退してしまったから、家業として継いでる息子さんが引き受けてくれてね」
「じゃあ、この場所って......」
「ああ。一部じゃ週刊誌の噂にもなったけどね。彩乃にプロポーズした夜も、さっきの店で食事をして、ここに連れてきた。その夜と同じ花火だ」
いや、今夜のほうが派手なようだ。美しい花火が惜しげもなく咲いては散っていく。
虫の声すら聴こえてくる静寂のなか、莉子はすっかり花火にみとれているようすだった。
西園寺は小声でいった。「当時、いろいろいわれたよ。西園寺は嘘つきだ。こんな住宅街に近い場所で花火をあげて、住民が音に気づかないはずがないって」
莉子はうなずいた。「アルミニウムや三硫化アンチモンの混合物をいれていない。音のない花火を作らせたんですね」
「......知ってたのか?」
「いえ。ただこの静かな花火を見て、気づいただけです。ドーンっていう音は、わざわざ発音剤をいれることで生じさせるわけですから、それを抜いたんでしょう」
「その通りだよ。マスコミや世間が、きみみたいに博識だったらよかった。いちど槍玉にあがった人間に対しては、思いこみだろうがなんだろうが攻撃の材料にしちまう。事実を知りもしないくせに、ろくでもない世の中だよ」
すると莉子は、花火を眺めながらぎいてきた。「子供のころと同じ。そんなふうにお思いですか」
「ああ、思うね。結局、僕は集団になじめない。世を超越した存在になることでその欠点を隠蔽しようとしても、群れのなかに引き戻されて、爪弾きにされる。少年時代の繰りかえしさ」
「そんなことはないですよ」莉子の声はあくまで穏やかだった。「人は変われます。絶対に」
西園寺は口をつぐみ、莉子の横顔をじっと眺めた。
ひとつの花火が開くたびに、新鮮な驚きを感じているかのように無邪気な笑みを見せる。彼女のほうこそ、まるで子供のようだ。
その屈託のない笑顔を眺めているうちに、西園寺は自分のなかで決意がしぼんでいくのを感じた。
いや、信念や執念は、とっくに鳴りをひそめている。料亭で食事を終えた瞬間から、それまで燃えたぎっていた炎は鎮火していった。燻りのなかに残されたものは、果てしない自問自答だけだ。僕はいったい、何をやっているのか。これまでの数週間はいったい、何だったのだろう。
その問いかけに対する答えも、とっくにでていた。ただ目をそむけているだけだ。いったん直視すれば、すべては終わる。いまはその終焉のときを故意に遅らせているにすぎなかった。
クルマのなかでふたりきり、あきらかに無防備な状況下で、花火に感動しつづける莉子。こちらが矛先を向けても、彼女は反応しなかった。猜疑心を一片たりとものぞかせなかった。
彼女の勝ちだ。そう気づいたとき、携帯電話を手にした。
かけたのは三けたの番号だった。男性の声がきいてくる。事件ですか事故ですか。
通信指令室と呼ばれる部署のお決まりの応対だった。西園寺はいった。「本来は署に連絡すべきことだろう。でも番号を調べるのが面倒だからここにかけた。音楽プロデューサーの西園寺響だ。大田区田園調布四丁目、丘の上にいる。この近くに駐在所もあったな。なにもかも打ち明けるから、パトカーを寄越してくれないか」
莉子が驚いた顔を向けてくる。
しかし、電話の向こうの警官はいまひとつ鈍い反応だった。
警官の声はきいてきた。「どういったことですか。どのような事件でしょうか」
週刊誌を読んでいないのか。いや、ただマニュアル通りに対応しているだけだろう。
西園寺は早口にいった。「緊急性がないと一一〇番じゃ受け付けられないっていいたいのか。いいだろう、女性をひとり預かってる。万能鑑定士Qの凜田莉子という人だ。牛込警察署の葉山警部補にきけばわかるだろう。それから渋谷署の逢沢警部、蒲田署の梶原警部補、池上署の増淵警部......。ほかにもまだまだいたな。全員が刑事部捜査二課もしくは知能犯捜査係だ。僕のしでかした、いろんな事件の担当者たちだよ。誰でもいいから問い合わせてみるといい。すぐパトカーを差し向けないと、凜田さんがどうなるかわからんぞ」
「それは......誘拐というか、脅迫ですか」
「なんでもいいから、早くこい、僕の気が変わらないうちに。以上だ」
ここまでいえば無視はできないだろう。西園寺は通話を切り、携帯電話をダッシュボードの上に投げだした。
フロントガラスの向こう、音のない花火が夜空に広がりつづける。
その明滅を受けて、莉子の顔がしきりにいろを変えて見えた。
莉子が静かにきいてきた。「わたしは人質ですか」
ふんと鼻で笑って、西園寺は首を横に振ってみせた。「まさか」
今度の沈黙は長くつづいた。やがて莉子はたずねた。「なぜ......」
「なぜ自白する気になったかって?」西園寺は鼻息荒く語る自分の声をきいた。「きみさ。きみのせいだよ」
「わたし?」
「ああ。なんだってそんなに、警戒心を持たずにいられるんだ。僕がやってきたことなら、わかっているはずだろう。犯罪者とふたりきりになって、不安を抱かないはずがない。それが普通の人間じゃないか」
「あなたは......人に直接、危害を加えたことはないはずです」
「だとしても、危険じゃないか。なのに、きみときたら、平然とした顔で食事をして、花火を見て......。なにより、疑いもなく味噌汁を飲んだ」
「だされたから、いただいただけですけど......」
じれったさがこみあげてくる。西園寺は莉子を見つめた。「だから、通常ならそれはありえないっていうんだ。きみは賢い。彩乃から薬の瓶の特徴をきいて、僕がどんな薬品を入手したかわかっていたはずだ」
「スコポラミンですか。別名ヒヨスチン」
「ほら。知ってたんだろ。毒を盛るのに最適なのは味噌汁だってのも、気づいて当然だ。なのにきみは抵抗なく口にした」
「実際に毒なんか、入ってなかったじゃないですか」
「それは......結果論だろう。とにかく、疑うのが当たり前なのに、きみはそうしなかった。あくまで僕を信じきっていた。とたんに、すべてが馬鹿らしくなった。僕のひとり相撲のように思えてきたんだよ」
花火はなおもつづいている。莉子はふたたび夜空に目を向けた。
「西園寺さん」莉子はささやいた。「毒を盛るつもりなんかなかったんでしょう? っていうより、スコポラミンも瓶を用意しただけで、中身はなかった。奥さまに見せて、わたしに伝えさせることだけが目的だった。そうでしょう?」
「......きみのいうことに、間違いなんかありえないだろう」
「わたしや小笠原さんをあわてさせ、通報させたかったんですね。食事が終わるころまでに、料亭をパトカーが取り囲む。そう信じてたんでしょう。おそらくわたしは、最後の味噌汁には手をつけない。そこで警官が踏みこんでくる。味噌汁に毒が盛られている疑いがあるとして押収し、あなたの身柄を拘束する」
西園寺は力なくいった。「当然の成り行きとして、そうなると思ってたよ」
「犯罪の動かぬ証拠を押さえたと思わせて、それをひっくり返すつもりだったんですね。毒が入っているに違いないって、警察が自信たっぷりにマスコミに公表する。でも科捜研が調べてみたら、まったくの事実無根だとあきらかになる。注目度が高まったぶんだけ、現実との落差のインパクトは強まる。あなたは記者会見を持って、なにもかもが濡れ衣だと訴えるつもりだったんでしょう」
「そう。思いっきり派手にね」
「以前の詐欺事件についての疑惑は完全には払拭されないけど、ひょっとしたらすべては噂にすぎず、警察やマスコミが勇み足を踏んだにすぎなかったのではという見方も増える。クロからシロとまではいかないけど、グレーゾーンにおさまることになる。真偽の怪しいゴシップがでまわる音楽業界においては、今後も活動していくにはそれで充分」
事実だった。彼女の指摘はいちいち的を射ている。けれども、すべてを認めてしまうのはなんとなく悔しく思えた。
西園寺はあいまいな物言いをしてみた。「どうかな。僕がそんなふうに画策してたのなら、いまごろは警察が料亭に押し寄せて大騒動になっていたわけだろう? でも僕はこの花火を、きみへのサプライズとして準備してたんだよ」
けれども、やはり凜田莉子を小手先の言いまわしで煙に巻くことなど、できそうもなかった。
莉子は微笑とともにいった。「わたしへのサプライズじゃなくて、警察に対してでしょう? 味噌汁に毒が入ってなかったことがあきらかになった後、あなたは証言する。わたしを連れて小高い丘にのぼり、花火を見せるつもりだったと」
「......その通りだよ。料亭を囲んだ警官たちは花火を目撃することになっただろうし、花火職人も僕からの依頼だったというだろう。毒殺の意志なんかまるでなかったと裏づけられる」
「それに」と莉子はいった。「奥さまにプロポーズしたときの素晴らしい思い出を、嘘ときめつけて踏みにじった人たちにも、知らしめてやりたかったんでしょうね。音のない花火の存在を」
自分でも見えていなかった事実に、ふと気づかされる。そんな感触が西園寺のなかにあった。
そうかもしれない。いや、きっとそうだ。心にひっかかるすべてのものを取り払いたかった。すべてが受けいれられ、あらゆることが肯定され、ふたたびスポットライトを浴びる瞬間を夢見ていた。
いまとなっては、すべては幻想だ。なぜなら、現実はまるで逆だからだ。犯罪者。己れの利益の追求のために、多くの人々を不幸に陥れた詐欺師。ぺてん師。泥棒。それが自分の正体だった。不思議なことだと西園寺は思った。みずから行ったことだというのに、悪事であるという意識はなかった。概念すら存在していなかった。悪いのは世の中のほうだ、そう決めつけていた。
でもそれは間違っていた。栄光を取り戻そうと歩んだ道は、正しくなかった。
花火はいったんおさまりかけて、また連続してあがりだした。クライマックスが近づいているようだ。
憂鬱の霧が晴れつつあった。むしろ肩の荷がおりたような気さえする。
西園寺はつぶやいた。「きみに出会えてよかった」
「なぜですか」
「きみ自身にはわからないかもしれないな。ものすごく人を信じやすいか、それと心並み外れて常識に欠けているか、きみはそのどちらかだよ。そうでなきゃ、味噌汁を飲む危険は冒さなかったはずだ」
莉子はしばし黙って花火を眺めていたが、やがて微笑とともに西園寺を見つめてきた。
「どちらでもありませんよ」
「......はて。どういう意味かな?」
「日本料理店では、板前さんがお椀の蓋に、茶筅や霧吹きで水滴をまんべんなくつけておくのが習わしなんです」
「な」西園寺は思わず絶句した。「なんだって? お椀の蓋......。たしかに結露みたいな水滴がついてたりするけど......」
「あれは結露じゃありません。自然現象でついた水滴のように装いながらも、誰も蓋に触れていないことを暗示する、和食独特の配膳の作法なんです」
「じゃあ、きみはそれを見て......」
「お味噌汁がでる直前、あなたは怪しげに中座しましたけど、わたしは蓋を開けてもいないとわかってました。水滴が拭われていなかったし、重ねて吹きつけたようすもなかったので」
西園寺はただ呆然と、莉子の顔を眺めていた。
味噌汁を飲んだのは、無謀な行為ではなかった。毒が入っていないとわかっていたから、彼女はそうした。それだけだった。
やはり単純な女性ではなかった。
記憶した情報を、すみやかに整理して事実と照合し、結論を導きだす。真の意味での天才だった。
そんな彼女に看破されたことは、幸せだったのかもしれない。
ため息とともに、つぶやきか漏れる。「作曲をしてると、どこで終わらせたらいいか判らなくなることがある。ベートーヴェンなんかもそうだったんじゃないかな。どの曲も最後がくどい。僕も似た状況にあった。いまというときを迎えなかったら、人を欺くばかりのフレーズが無限につづくところだった。きみはフェードアウトさせてくれた。僕の偽りだらけの日常を」
莉子は真顔でいった。「偽りだなんて。あなたは真心を持っていたんです。だから音楽を通じ、人々を魅了したんです。ここで奥さまにプロポーズしたときのあなたのお気持ちは、紛れもなく本物だったでしょう。音のない花火と同じように」
激しい閃光とともに、あらゆる種類の花火が夜空に華ひらいている。それを眺めるうち、胸が熱くなる気がした。
「そうか」西園寺は震える声を絞りだした。「僕にも、本物と呼べるものがあったのか」
「かつて人々は、あなたの心に打たれたんですよ。偽りのない心に」
あらゆる光の煌めきは、そのタイミングと同調して音楽に聴こえてくる。作曲家には重要な素質だ。ずっと忘れていた。いまそれが戻ってきた。花火を見つめるうち、ひとつのメロディが浮かびあがる。
音のない花火のメロディ。素晴らしい曲じゃないかと西園寺は思った。ずっと耳を傾けていたい。願わくは、永遠にフェードアウトせず心のなかで響きつづけてほしい。


万能鑑定士Qの事件簿 Ⅳ
サイレン
『プリティ・ウーマン』のポスターに載っているジュリア・ロバーツとリチャード・ギアの写真は、顔だけが本人で、首から下は別人だ。
ふたりが背中あわせに立っている全身像を撮ってはみたが、ジュリアの脚が長すぎるうえに、リチャードのほうは背が低すぎた。
ネガはデザイン化され、すでにポスターの印刷も始まっていたが、配給のウォルト・ディズニー・スタジオがこれを問題視し、撮り直しをきめた。しかしスターをふたたび撮影のために呼びもどすのは難しく、ボディ・ダブル専門の役者を使い、頭部のみ元の写真を合成した。
完成版ではジュリアがリチャードのネクタイを肩越しに引っ張っているが、これはその写真の継ぎ目を隠すための苦肉の策だ。ネクタイがふたりの首を横断しているおかげで、違和感なく仕上がっている。
原型のポスターのポーズを知る者は多くない。印刷所はストップがかかるまで三十一枚を完成させていたが、そのうち二十六枚は破棄された。残る五枚のうち一枚は配給会社に、そして四枚がオークションで流通した。ふたりの俳優がボディ・ダブルの使用を公に認め、チャリティの一助になるならと出品を了承したからだった。
したがって、これら四枚のポスターは配給会社の認定書が付いていて、常に高値で取り引きされている。購入者は、ポスターの図柄を一般には公開しないことを約束させられていた。複製を防止するため、そしてふたりの俳優のイメージを守るためだった。
世界にたった四人しかいないポスターの所有者。新宿区市谷田町三丁目に住む四十一歳、茅根涼太もそのひとりだった。
夜七時をまわっている。飯田橋駅から、住宅密集地のなかにある自宅をめざし歩きながら、茅根はそのポスターの滑稽な構図を思いだし、ひとり思わず吹きだした。
たしかにあのポスターでは、小さなおじさんと大女が繰り広げるドタバタコメディという印象だ。宣伝担当が泡を食ったのもうなずける。撮影現場では誰もおかしいと思わなかったのだろうか。いや、大物ふたりが登板しているだけに、カメラマンもスタッフも意見することは許されなかったのだろう。
茅根がひどくつまらない事務職を仕方なくこなしているのも、レアな映画グッズをコレクションするという趣味を満喫するためだった。でっぷりと肥満し、外出することさえなく、ただ巣籠りをつづける週末。それでも充実していた。一万点以上におよぶポスター、二万点以上のパンフ、チラシ、前売り券、そのほかもろもろのノベルティグッズ。得た金はほとんどすべて収集に費やしてきた。DVDで映画を観ることに興味はなく、ホームシアターも欲しいとは思わない。しかしグッズは別だ。
ディープな愛好家にならない限り、誰も俺の心情は理解できないだろう。茅根はそう思った。だから、他人と交流したいとは考えない。ネットで何人かの収集家と情報交換できれば充分だ。あとは、世間にも知られていないような希少なポスターが自室の壁を飾っているという、ひそかな優越感によって心は満たされる。事実、『プリティ・ウーマン』の幻のアドバンス・ポスターは、一日じゅう眺めていても飽きはしない。
膨大なコレクションを管理するには、収納の限られたマンションは不向きだった。二年ほど前、茅根はこの住宅地の隅に位置する一戸建てに引っ越した。
家とはいってもちっぽけなもので、築四十五年、老朽化した木造家屋だった。不況といえど、都心の地価はあいかわらず高い。ローンで三十五年払いを決めても、茅根の手が届くのはボロ家だけだった。いまどき、都市ガスではなくプロパンガスを用いている界隈が、新宿区の一画に存在しているとは、ここの住民になるまで知らなかった。クルマも乗りいれられない狭い路地、急な坂道を上り下りした先にある陸の孤島。そこが茅根の住処だった。
気ままなひとり暮らしだ、誰にも文句はいわせない。来客を迎える予定もない。きょうもレア中のレアもののポスターを眺め渡しながら、コンビニで買ったビールを飲もう。楽しきひとときだ。永遠に失われることのない、このうえない幸せ......。
ふと違和感を覚え、茅根は立ちどまった。
やけに騒々しい。都内では緊急車両のサイレンは頻繁に耳にするが、ちっとも鳴りやまない。それどころか、どんどん大きくなる。
ほどなくそれが、消防車の音だとわかる。人の怒鳴り声もきこえる。何をいっているのかはわからない。路地を駆けていく住民の姿があった。
まさか......。いやな予感がよぎる。茅根は足ばやに歩を進めた。
うねうねと蛇行する路地を突き進む。家が近づくにつれて、喧噪は大きくなってきた。夜空を見あげると、暗雲が赤く染まり、しきりに揺らいでいた。わずかに残った黄昏か、蜃気楼か。そのどちらでもない。熱風が空高く立ちのぼっている。
茅根は走りだした。駆け足など何年ぶりだろう。それでも無我夢中で走った。
あのプロパンか。いや、ボンベそのものは火事の原因にはならないと業者もいっていた。俺は煙草は吸わない。自炊もしないから、ガスの元栓も閉めっぱなしだ。火事になるはずがない。俺の家だけは絶対に......。
狭い神社の角を折れ、自宅が見えるはずの一本道に入ったとき、そこには異様な光景がひろがっていた。
大勢の野次馬がひしめきあっている。携帯電話を高くかざし、撮影を試みている者が多かった。怒鳴りつけているのは消防士だ。さがってください。危険です。
警笛がとめどもなく鳴り響く。進入禁止のロープが張られるなか、地面には無数のホースが這いまわっていた。ホースの一部は消火栓につながれていたが、ほとんどは路地のはるか先に伸びている。消防車は入ってこられず、外堀通りに待機したままなのだろう。
轟音とともに激しく燃える家屋。すでに屋根は焼け落ちて、オレンジいろの炎が噴きあがっている。押し寄せる熱風を肌身に感じた。
まぎれもない、茅根の自宅だった。
プリティ・ウーマンが......。三万点のレアな映画グッズ、俺の生きがいが......。
息苦しい。呼吸が困難だった。意識が遠のきかけている。
茅根はがっくりとその場に膝をついた。周りが息を呑んでこちらに目を向ける。意識したのはそれまでだった。次の瞬間には、茅根は地面に突っ伏していた。もはや起きあがる気力もなかった。燃え尽きた瞬間。いまがまさにそのときだった。
リサイクル記者
夜七時を過ぎても、フロアのデスクの半分は埋まっている。千代田区富士見の角川書店本社ビル七階。『週刊角川』編集部は、最新号の締め切り直前を迎えてあわただしかった。
五十半ばを過ぎて編集長に就任した荻野甲陽は、自分のデスクにおさまり、表紙のレイアウトをあれこれといじくりまわしていた。
「どうもしっくりこんな」荻野は、わざと周りにきこえるようにひとりごちた。「見出しがインパクトに欠けてる。キャッチーなネタもねえな」
とりわけ、古い事件を掘り起こしただけの記事に存在価値がない。この『昭和の鼠小僧次郎吉・上石玄』などその典型だ。
昭和四十九年の秋に逮捕された上石玄は、ひところ日本じゅうの話題をさらった強盗致傷犯だった。当時四十一歳。奪うのは現金のみで、犯行件数はわかっているだけでも八百件以上、被害総額は五億円にのぼる。
ところが上石は妻とともに、日比谷の安アパートで質素な生活を送ってきており、盗んだ金は一円も使われたようすもなかった。逮捕後の家宅捜索でも見つかっていない。おそらく、地方の貧しい村落や福祉施設に全額を寄付したのだろう、そう推測されている。このため昭和の鼠小僧次郎吉の異名をとり、一部に熱烈な支持者を生むことになった。
最高裁で無期懲役が言い渡されたとき、支持者たちは刑期を短くするよう署名活動をおこなった。けれどもその願いは叶わず、歳月が経つにつれて人々の記憶も薄れ、今年に入り、上石は獄中でひっそりと息をひきとった。享年七十七歳。死因は脳卒中だった。
平成大不況のいま、時代のヒーロー待望論にそれなりにリンクしうる内容ではある。しかし、しょせんは歴史を振りかえる穴埋め記事でしかない。突発的に起きる事象に伴う最新のニュース、その鮮度にはかなわない。
こんなときは、副編集長や班長と話したところで意味はない。中間管理職は無難な答えしか返さない。打てば響くのはごく一部の有能な編集員だけだ。
荻野はフロアを見渡した。だが、普段から目をかけている敏腕な記者たちは出払っていた。
やむをえず、視界に入った若手に声をかける。「宮牧」
ぎょろ目が特徴の痩せた青年、宮牧拓海がそそくさと駆けてきた。「なんでしょう」
「売りになる見出しが足りん。巻頭記事は埋まってはいるが、購買意欲をそそるか否かで判断すればいまひとつだ。よって最後のほうのどうでもいい見開き記事をひとつとばして、代わりになにか面白そうな記事を放りこみたい。何かないか」
「ええと、ですね。それでしたら、メディア部を通じてほかの編集部からの......」
「自社広告まがいのPR記事なら載せる気はない。角川文庫の新刊の話も『エヴァ』のパチンコの話も、なんとかいう萌えアニメがメイド喫茶開いた話も願いさげだ」
「詳しいですね」
「ぜんぶ提案されてたが却下してやった。売り上げが伸びているからといって『少年エース』ばかりか『ヤングエース』にまで人員を引き抜かれたんだぞ。うちではやり手だった佐久間まで。あっちじゃ付録の下敷きづくりにまわされてるそうじゃねえか。報道こそ出版の要だってことを役員に理解......」
荻野は言葉を切った。
やけに窓の外が騒々しい。消防車のサイレンがひっきりなしに鳴りつづけている。
何人かの編集者が窓ぎわに立った。口々に声をあげている。燃えてるよ。ほんとだ。近いな。
立ちあがって、窓辺に歩み寄る。荻野は遠方に目を向けた。
炎が夜空を焦がしている。新宿方面だった。住宅地に火柱が立ちのぼっているのが見える。古い家屋が密集している地域だ、さらに燃え広がる可能性もある。
すかさず編集部を振りかえり、荻野は怒鳴った。「なにをぼうっとしている。手があいている人間は現場にいけ。せいぜい数百メートルだ。燃えてる家や周囲のようす、写真を撮れるだけ撮ってネタを集めてこい」
しかし、フロアの反応は鈍かった。誰もが仕事を抱えていると主張するかのように、デスクに戻っていった。
ひとりたたずむ宮牧をにらみつける。宮牧は腰が引けたようすで告げてきた。「いまはどうしても手が離せないんです。キャプションをいれてページを完成させないと」
荻野は苛立ちとともに頭をかきむしった。たしかに、この時間に居残っている者は仕事に追われていて当然だった。
仕方がない。あの男を使うか。荻野は呼びかけた。「小笠原」
ロッカー沿いのデスクにいた青年がぼんやりと顔をあげる。
痩せていて、褐色の髪は今風に長くしている。細面で鼻が高く、下あごは女のように小さいが、れっきとした男だった。涼しい目がこちらに向けられている。
入社四年目になる小笠原悠斗は、いまひとつ似合わないそのスーツ姿と同様、どこかしまりのない声の響きできいてきた。「なんでしょうか」
「きいてなかったのか。火事を取材してこい。いますぐに」
「そのう。僕にも仕事が......」
「飛ばそうと思ってたのは、おまえの書いてる記事だよ。昭和の鼠小僧次郎吉」
「そんな......。上石玄の顔写真のレイアウトもばっちり決まったところなのに」
「心配するな。そのうちページが空いたら掲載してやる」
取材の苦手な記者。まさしく鳴かないウグイスと同義。それが小笠原という男だった。
仕方なく彼には、取材が不要な昔の話題や、海外のニュースソースを記事に起こす作業に従事してもらっている。通称、名ばかり記者。あるいはリサイクル記者とも呼ぶ。
いつまでもそうあってほしくはない。給料泥棒は願い下げだ。機会があれば現場に駆り立てねばならない。
「さあ行け」と荻野は発破をかけた。「デジカメの解像度は最大にしとけよ。付近住民だとか、家主の話もきいてこい」
「でも」小笠原は戸惑いがちに腰を浮かせた。「ただの一軒家の火事が、面白い記事になるでしょうか」
「それはおまえしだいだろ。読者の興味を惹きつけるようなネタを拾ってこい。徒労に終わってもかまわん」
小笠原は困惑した表情を浮かべたが、すぐに上着をつかんで駆けだした。「わかりました、いってきます。ただちに」
ドアを開けたとたん、入室してきた編集者とぶつかりそうになる。すみません、どうもごめんなさい。あわてたようすで口走りながら、小笠原は去っていった。
宮牧はにやついて首を横に振った。「あいかわらずですね、あいつは」
荻野は黙って椅子に腰をおろした。
たしかにドジなところもある。それでも、実のところ若手のなかでは最も有望株だ。
取材はまるでなっていないものの、あの男はこれまで立てつづけにふたつのスクープに貢献した。ホームランか三振か、百かゼロかの結果しかださない男。圧倒的にゼロの確率が高いだけに、使い勝手は悪い。それでもひとたび出陣したからには、彼に期待したい。
業績を大きく伸ばすタイプがいるとすれば、彼のほかにはありえないのだから。
保険調査員
翌朝、都心の空は蒼く澄みきっていた。
小笠原はいつもより早い電車で飯田橋駅に着いた。会社に向かう前に立ち寄るところがある。昨晩の火事の現場だ。
火が消し止められたのは十時すぎ、結果は全焼だった。群がる野次馬のなか、泣き叫んでいた肥満体の中年男が印象深い。彼が家主だったのだろうか。火事の背景はまだ何もつかめていない。記者としての務めを果たさねば。
朝の路地、通勤を急ぐ人々の流れに逆らって歩く。ほどなく現場に到着した。
けさはもう興味本位の見物人は姿を消し、制服と私服の警官が何人かうろつくのみだった。ひとりは鑑識のようだ。お馴染みの黄色いテープが張り巡らされているが、範囲は家屋の焼け跡に限られていた。昨夜のように路地の往来を妨げてはいない。
ひどいもんだ。小笠原は思わずため息をついた。
真っ黒になった柱を数本残し、なにもかもが消え失せている。炎はすべてを呑みこみ、炭に変えていた。わずかに原形をとどめる障子の隅や、ひっくりかえったちゃぶ台、溶けて形を崩した薄型テレビが、ここに人の営みがあったことを物語る。
何もなくなってしまうと、土地というのはひどく狭く感じられる。それでも地面から突きだしたコンクリ製の土台を見るかぎり、一階に三つほどの部屋があったのがわかる。
黒こげのボンベがいくつか横たわっていた。小笠原はぞっとした。ボンベに記された文字がかろうじて読める。プロパンガスとあった。
私服警官のひとりが、ぶらりとこちらに近づいてきた。やはりボンベが気になったらしい。神妙につぶやいた。「これ、危なくないか」
「いえ」鑑識らしき男が振り向きもせずに告げた。「損傷してないし、だいじょうぶですよ。消防も、火元はガスではないといってたし」
「ふうん。それにしても変わってるね。火元のない居間の中央付近から出火か」
「不審火ですね。家主が嘘をついていないのなら、侵入者が火をつけたとしか考えられませんね」
「侵入者ねぇ......。泥棒が入ったとしても、ふつう家をでる寸前に外壁に火を放つものだけどね。部屋の真ん中で火をつけたら、自分も火事に呑まれちまうでしょう」
私服警官は首をかしげていた。小笠原に目もくれず、また背を向けて去っていった。
小笠原は不審火の原因より、プロパンガス存在が気がかりで仕方なかった。
......本当に心配無用だろうか。長時間にわたって炎に包まれていたのは疑いようのない事実なのだが。
思わず距離を置きたくなる。後ずさりしたとき、どこからか男の甲高い声がきこえてきた。「そんなの変でしょう。火災保険にはちゃんと加入してたじゃないですか」
声は垣根を折れた向こうから響いてくる。小笠原はそちらに足を運んでいった。
行く手に、きのう見かけた肥満体の男が立っていた。着ている物もきのうと同じ、サイズがひとまわり小さなワイシャツにスラックスだった。あちこち黒ずんで汚れているのは、焼け跡を這いずりまわったからに違いない。
男は疲弊のいろを漂わせながらも、顔面を紅潮させてまくしたてた。「あなたたちは汚い。あれこれ理由をつけて金を払わずに済まそうとしてるんだ」
もうひとりは、スーツ姿の痩せた男だった。どうやら保険調査員らしい。彼の態度は冷やかで事務的だった。「どうか落ち着いてください、茅根さん。契約内容はよくわかっております。見てのとおり全焼ですから、家屋については相応の保険金が支払われます」
「家屋だなんて、あんなものは二束三文だろう。僕がいってるのは、家に置いてあった物についてだよ。保管してあった三万点のレアものコレクションだ」
「ですからそれは、火災保険とは別の契約事項なんです。家財のほうは明記物件といいまして、一個または一組の価額が三十万円を超える貴金属、宝石、書画、骨董類などについて、別途お申し出いただくことになっております」
「明記物件の契約ならしてあるはずだぞ」
「存じあげております。ですがその明記物件の契約におきましては、火災による焼失、損壊があきらかになった物のみについて補償がおこなわれると、約款に書いてございます」
「焼失しちまってるのは明白じゃないか」
「それぞれの家財がどのように焼失したが、客観的にみて納得できる整合性がありませんと」
「おい!」茅根は憤りを募らせたようだった。「燃えて灰になっちまうからこその火災保険だろうか。なんなら灰を調べてみろ。さっき実況見分が終わったあとでかき集めた残骸を見せただろ。端っこだけでも燃えずに残ってるポスターは山ほどあった」
保険調査員は平然と首を横に振った。「たしかにいずれも、ポスターの隅らしきものではありました。灰の分量からしても、相当数のコレクション......あなたのおっしゃる、映画のポスターやチラシ、それにパンフレットですが、そういったものが大量に焼失したことは間違いありません。よって一定の保険料は支払われます。しかしながら、あなたのおっしゃるプレミア度の高いアイテムにつきましては......」
「保険はむしろそれらにかけてあったんだぞ! なあ、あなたは『プリティ・ウーマン』のポスターを知ってるか。ボディ・ダブルでないほうの希少なやつだ。あれはもう値がつけられないって世界じゅうのコレクターの垂涎の的だったんだぞ。それと薬師丸ひろ子の『野性の証明』の初期アドバンスだ。キャッチコピーの『お父さんこわいよ、誰かが殺しにくるよ』ってところが『こわいよお父さん』になってるんだよ。これはな、『こわいよお父さん』では、怖いってのをお父さんに伝えているんじゃなくて、お父さんが怖い人だと指摘してるみたいに受け取られるのがボツになった理由だ。いうなれば『すごいよマサルさん』みたいなもんだ。ややこしいって理由で当時の宣伝部が刷り直しをきめて......」
「そう興奮なさらないでください。問題は、そういう付加価値があるとされる品々なんです。高値で売買する市場もたしかにあるのでしょう。けれども、隅だけを残し灰になった残骸から、元がそれらのプレミア品だったという確証を得るのはとても難しく......」
茅根はいっそう声を張りあげた。「僕の持ってたのが偽物だっていいたいのか。それとも、嘘をついているとでも? 僕がどれだけショックを受けているが、あなたにはわからないんだ!」
いまにもつかみかからんばかりの勢い。ほうってはおけないと小笠原は感じた。
「まあまあ」小笠原は仲裁に入った。「おふたりとも、ここは住宅街ですよ。朝の遅い人はまだ寝ておられるかもしれませんし、どうか冷静に」
ふたりの視線がこちらを向く。茅根は怒りのいろを漂わせながらきいてきた。「あなたは誰です?」
「そのう......記者です。雑誌のね。『週刊角川』の」
「角川?」
「そうです。ええと、茅根さんとおっしゃるんですね。昨夜のことは本当にお気の毒さまでした。あのう、さっきおっしゃってた『野性の証明』についてですけど、弊社はですね、角川映画とは別会社ではありますが、同じグループなので関係も深いんです。エレベーターのなかにポスターが貼ってあるのを見たような......。もし茅根さんがご所望であるなら、それを譲ってもらえるようお願いしてみましょうか」
茅根の表情は険しいままだった。「それオリジナル? リプリントやリイッシュー、リプロダクションじゃないの?」
小笠原は戸惑いを覚えた。「ええと......。オリジナル、はわかりますけど、リプリント? リイッシューって......?」
「記者さんの見たポスターって、薬師丸ひろ子の後ろに高倉健が立ってて、火がぼうっと燃えてるやつ?」
「ああ。それだ。たぶんそうです」
「ったく」茅根は吐き捨てた。「DVD発売のときの販促ポスターじゃないか。リプロダクションもいいとこ、つい最近刷られた物だよ。そんなんじゃ、僕のコレクションの代わりにはならないね」
「はあ......そうなんですか」小笠原は恐縮するしかなかった。「すみません」
保険調査員は控えめな口調で告げた。「茅根さん。ご提案なんですが、おっしゃるような付加価値については、その道の専門家でないとわからないでしょう。飯田橋駅前のビルにたしか、ムービーアレイというお店が入ってましたよね? あそこの店長さんにでも来てもらって、意見をきくっていうのはどうでしょう? ほんの小さな切れ端だけでも、鑑定できるかも」
鑑定。小笠原のなかに鈍い感触が生じた。
彼女はこの手の品物についても、真贋や価値の有無を見分けられるのだろうか。あらゆる物を鑑定することが売りの彼女なら、あるいは......。
いや。ここまでマニアックな分野となれば、やはり専門の目が必要だろう。保険調査員の指摘は的を射ている。ムービーアレイといえば全国通販も手がける映画グッズ専門店の老舗だ。プレミア価格の相場も知っているだろうし、適任だろう。
ところが茅根は大仰に顔をしかめてきた。「ムービーアレイだって? 冗談じゃないよ」
小笠原は意外に思ってたずねた。「なにかご不満でも?」
「ああ。不満なら山ほどあるね。あそこは金儲けしか考えていない。映画グッズに対する愛情なんか、これっぽっちもないんだ。ムービーアレイで買った『アラビアのロレンス』のアドバンスは状態良好といっていたのに、折り目がくっきりついていてひどいもんだった。以前に『史上最大の作戦』のアメリカ版オリジナルポスターを譲ってくれといってきたけど、断ってやった。提示額が安すぎるうえに、買ってやるみたいな態度で腹が立った。あんな店が駅前にあるだけでも虫唾が走る。ああそうだ、もしかしたら火をつけたのはあいつらかもしれないな。邪険に追い払われたのを根に持っての犯行かもしれない」
保険調査員が困惑のまなざしを向けてきた。小笠原も同じ思いで見かえした。専門店をライバル視、いや敵視する我儘かつ独りよがりのコレクター。これでは誰が損失額を算出したところで、首を縦に振らないだろう。保険会社との話し合いは、永遠に平行線をたどるに違いない。
途方に暮れかけたそのとき、遠くでサイレンの音が湧いた。
昨晩も耳にした消防車のサイレン。しだいに音量が大きくなる。すぐさま、けたたましいほどの響きと化し、それから徐々に小さくなっていった。すぐ近くの外堀通りを通過していったようだ。
誰かが路地を走る気配がした。振りかえると、火事の現場からでてきた警官たちが駆けていくのが見えた。
無線で応援要請が入ったのだろうか。警官らは駅方面に向かって走り去っていく。
「おい」茅根は不満そうにいった。「僕の現場は? ほったらかしかよ」
サイレンの音は、ふいにやんだ。停車したようだ。すなわち火事は、ごく目と鼻の先で発生したらしい。
失礼します、と小笠原は告げて、路地を走りだした。
消防車が停まったとおぼしき方角、距離、そこから導きだされるおおよその地点。飯田橋駅、もしくはその周辺に思えてならない。
息を弾ませながら路地を駆け抜ける。新たに救急車のサイレンもきこえてきた。前方に、警官の背をとらえる。蛇行する路地のなかで、その姿は見え隠れしていた。
妙に胸騒ぎがする。たったいま話していたことが脳裏をかすめる。二日連続の火事。もしや......。
東京理科大横の脇道から神楽坂下へ、そして飯田橋駅に向かって全力で走る。
道幅が広がるとともに通行人が増えてきた。交差点にでると、そこは大勢の人々で賑わっていた。青信号になっても横断歩道を渡る者は少ない。大半が野次馬だった。立ちどまったまま、道路を挟んだ向かいにある駅ビルを見あげている。
人々の視線を目で追ったとき、小笠原は息を呑んだ。
駅ビルの途中階から黒煙が噴きあがっている。窓ガラスが割れ、炎が立ちのぼっていた。はしご車のアームが伸びて、バスケットがその階に達しようとしている。地上からは放水がおこなわれているが、火の勢いは衰えるようすがない。
冷静になれ。小笠原は自分にいいきかせた。デジカメを取りだして電源を入れる。フレームをのぞきながら、ズームで拡大した。
火事が起きているフロア、側面の看板が見える。小笠原は衝撃を受けずにはいられなかった。
ムービーアレイ。看板にはそうあった。
呆然としながら、ただ無我夢中でシャッターを切る。それしかできなかった。出火の原因など、いまは思索できるものではない。ただ目に映っているものを記録するしかない。
野次馬の喧噪のなかで、電話の呼びだし音に気づくのが遅れた。小笠原はあわててポケットから携帯電話を取りだし、通話ボタンを押した。
「はい。小笠原です」
編集長の荻野の声がきこえてきた。「小笠原。どこで油を売ってる。出社日だってことを忘れてるんじゃないだろうな」
「ああ......。申し訳ありません。火事の取材をつづけようと思ったので」
「火事って、ゆうべのか。遅刻してまでやるようなことか? よほどおいしいネタをつかんだんだろうな」
皮肉めかせた荻野の物言いに、小笠原は思わずうなずいた。
「ええ」と小笠原はつぶやいた。「にわかには信じられないような事件です......」
マリリン
牛込警察署の五階は、ただ広いばかりの会議室だった。いまは長テーブルがふたつの島に分けられていて、それぞれに証拠品が並んでいる。
とはいえ、出入りする捜査員の姿はない。証拠の品といっても、これから鑑識や科捜研の手をわずらわせるようなものではない。いずれも火災現場から見つかったものではあるが、不審火の原因特定にはつながらないということで、早々に持ち主への返却が決まったからだった。
にもかかわらず、持ち主のふたりはテーブルに寄りつこうともしない。それぞれが部屋の隅に折りたたみ椅子を置き、うずくまるように腰かけている。ふたりの距離は離れていた。目も合わせない。会話もない。ただし、意気消沈して項垂れている点は共通していた。
小笠原は、がらんとした部屋の壁ぎわにたたずみ、ふたりを眺めていた。ひどく辛気くさい。さいわいにも犠牲者はひとりもでなかったというのに、この室内の空気ときたらまるで霊安室だ。
いや、実際、ふたりにとっては家族を失ったも同然なのだろう。ひとりは市谷田町三丁目のコレクター、茅根涼太。もうひとりのひょろりと痩せた眼鏡の中年男は、ムービーアレイ店主の菊井大悟。そしてテーブルには、彼らのかけがえのない宝だった映画ポスター類の焼け残り、すなわち薄汚い紙の切れ端にしか見えないしろものが、無数に並んでいた。
警官はふたりに、焼失した品物のリストを作るように頼んで去っていった。だがそれから一時間ほど経過したいまも、二枚のクリップボードはなんの書きこみもないまま放置されている。
無理もないと小笠原は思った。世間には通用しない価値を心の拠り所として生きてきた男たち。茅根はプレミア品に対する保険金の支払いを断られていたが、菊井のほうも同じ境遇にあるのだろう。誰も彼らの心の傷の深さを理解できない。その孤独を噛みしめつつ、少しでも傷が癒えるのを待つしかないのだろう。
ノックする音がした。ドアが開き、制服警官が顔をのぞかせる。「鑑定家の先生がきましたよ。リストづくりを手伝ってくれます」
警官が脇にどいて、鑑定家なる人物が入室してくる。
とたんに、小笠原は面食らった。「凜田さん!?」
お馴染みの二十三歳の女性は、こちらを見て目を丸くした。「ああ、小笠原さん。来てたの? ここではよく会いますね」
ゆるいウェーブのロングヘアに縁取られた小顔には、猫のように大きくつぶらな瞳と高い鼻、薄い唇がそつなくおさまっている。年齢相応の若さや瑞々しさは備えていても、可愛いというより綺麗という形容が当てはまる美人顔で、クールで個性的だった。猫そのものと向き合っているかのような眼力の強さ。あいかわらず圧倒的な存在感だと小笠原は思った。
ほっそりと痩せた身体、腕も脚も長く、頭部は小さくでモデルのようなプロポーション。ゼブラ柄のワンピースは彼女にしてはシンプルなコーディネートだが、このところの暑さを考えればびったりのファッションだろう。透き通るような白い肌は健在で、日焼けしたようすはない。外出のたびにUVカットのクリームを入念に塗りこんでいるのだろうか。
茅根と菊井は顔をあげてこちらを見た。いずれも鑑定家にしては意外なキャラクターの登場に目を瞠ったようすだった。
莉子はいつものように皮肉っぽい微笑を浮かべた。ややひきつったようなぎこちない笑み。少女のようなあからさまな破顔ではない、大人びた表情だった。そこが彼女のチャームポイントでもある。
けれども、ふたりの被害者たちの莉子に対する興味は、さほど長つづきしなかった。どうあっても映画オタクには見えない莉子の陽性の輝きは、むしろふたりをいっそう落ちこませるものだったらしい。茅根も菊井も壁に向き直り、無言を決めこんできた。
莉子は戸惑いを覚えたらしく、たずねるような目でこちらを見つめてきた。
どう返答したものか。小笠原も当惑しながら莉子にきいた。「映画グッズも守備範囲なの?」
「そんなに詳しいわけじゃないけど、この署で鑑定といえばわたしぐらいしか思いつかないみたい」
ふいに菊井が吐き捨てるようにいった。「鑑定? 笑わせちゃいけないよ」
茅根も同意をしめした。「まったくだ。一部の特殊な人間しか真価をみいだせない物だぞ。それを世間並みの物差しで測られたんじゃいい迷惑だ」
「ああ」菊井がうなずいた。「保険屋みたいに一枚一律千円なんて算出されちゃかなわん。警察は、あんたみたいな美人を寄越せば俺たちもすなおに従うと思ったのかもしれないが、なめられたもんだ。俺の恋人はモンローであり、エリザベス・テイラーであり、ヴィヴィアン・リーなんだ。悪いがでていってくれないか」
犬猿の仲だというふたりが口を揃えて批判とは、ずいぶん煙たがられたものだ。
莉子はいっそう目を丸くしたものの、気を悪くしたようすはなさそうだった。
「それじゃ」莉子はすたすたとテーブルに向かって歩きだした。「始めましょうか」
近づいたのは菊井の焼失品が並ぶ島だった。莉子はハンドバッグから薄手のゴム手袋を取りだし、両手にはめた。
「ええと」莉子はつぶやいた。「まずはポスターから......」
テーブルを覆い尽くす無数の切れ端。莉子はまるでトランプがタロットカードでも扱うような手つきで、切れ端を次々に入れ替えたり、いくつかの山に分けたりし始めた。
小笠原はきいた。「相場はどれくらいなんだろう?」
莉子は作業をつづけながらいった。「ピンキリだけど、昔に比べるとネットオークションが普及してお宝はごくわずかになってるの。こっちの山は千円前後。それから、こっちは二千円前後のもの」
ふんと菊井が鼻を鳴らした。「やっぱりな。しろうとはそんな見方しかできん」
棘のある物言いだ。小笠原はむっとしたが、莉子は表情ひとつ変えずに仕分けを続行していた。
ふと数枚が集められている山が気になる。小笠原はそれを指さした。「ここは?」
「五千円前後ってとこ」
「でも、これなら見覚えがあるよ。『ローマの休日』だろ?」
「当たり。端しか残ってないのに、よくわかったね」
「原題が入っているからね。Roman Holiday って。古い映画じゃないか。もっと価値があるんじゃないの?」
「インクの光り方を見て。それにこの紙質。グラビア印刷とフレキソ印刷を組みあわせた、トータルプレスっていう最新技術で製版されたものよ。つまり、ごく最近刷られたものってこと。時期的にみてデジタルニューマスターのDVD販促用ポスター。市場価格は五千円だったはず」莉子は顔をあげて菊井を見た。「そうでしょう?」
菊井は驚きのいろを浮かべながら、ぼんやりと応じた。「あ......ああ」
莉子はテーブルに目を戻し、別の切れ端を指先で滑らせた。「こっちのほうが高いわよ」
日活のKのマークが残っている。小笠原はつぶやいた。「石原裕次郎とか?」
「赤木圭一郎よ。『霧笛が俺を呼んでいる』の左上の隅。だけど印刷の質感が当時のものではない。たぶん七十年代に開発されたトッパンTHグラビアプロセス。ってことは一九七七年のリバイバル時のポスターだから、価格にして一万円ぐらい」
小笠原はちらと菊井を見た。菊井はあんぐりと口を開けている。正解か否かは、その反応をみれば一目瞭然だった。
「でも」小笠原は莉子にたずねた。「高くてもそんなものかい?」
莉子は微笑して、また一枚の切れ端を選り分けた。「これなんかどう? かなりのプレミア品だけど」
奇妙だと小笠原は思った。今度の切れ端はずいぶん真新しい。ポスターの右上の隅、キャッチコピーの一部が入っている。〝......テロの序章か?〟と〝......ールで描かれるサスペンス超大作〟とある。女優の写真の目もとが残っているが、誰なのかはすぐにわかった。
「戸田恵梨香だ」小笠原はいった。「これ知ってるよ。『アマルフィ』だろ。織田裕二の。当時、記事を書いたからよく覚えてる」
「ご名答。さすが記者さん」
「つい最近の映画じゃないか。ポスターも駅からコンビニまでありとあらゆる場所で見かけたぞ。なのに一万円以上するってのかい?」
「ええ。ほら、戸田恵梨香の左隣りを見て。俳優さんの髪の毛と額が写ってるでしょう」
「......ああ」
「『アマルフィ』のポスターは左から織田裕二、天海祐希、佐藤浩市、戸田恵梨香の順に写真が並んでいるけど、公開の前後に大量に刷られた物は、佐藤浩市だけ『ザ・マジックアワー』の写真が使われてるの。ひとりだけロケに入るのが遅くてスチルが撮れなかったからよ。でも後になって、ちゃんとした本編のスチルに差し替えられた物が製作された。ただし劇場公開終了間際だったから、数十枚程度しか行きわたらず、残りは破棄されてる」
ふたりの中年男は、揃ってどよめきに似た声をあげて立ちあがった。
菊井は興奮ぎみに歩み寄ってきた。「信じられん。佐藤浩市の写真は、差し替え前と後でさほど印象は変わってない。顔の向きもほぼ同じだし、髪型もわずかな違いでしかない。よく気づいたな」
茅根のほうは近づいてくるなり、菊井に毒づいた。「ムービーアレイは卸の業者から知恵を授かってるだけだからな。店主が目利きでないってことは誰でも知ってる」
むっとした菊井が茅根をにらみつけた。「なんだと」
小笠原はふたりをなだめた。「まあまあ、喧嘩はよしてください。凜田さんのおかげで、みなさんの被害額はきちんと算出されそうですよ」
しばしテーブル上を眺めていた莉子が、一枚の切れ端を手にとった。「たぶんポスターのなかで最も高価なのは、これね」
ピンクいろの背景に英字が並んでいる。二十世紀フォックスのロゴも入っていた。
ひときわ目立つ主演女優の名を、小笠原は読みあげた。「マリリン・モンロー?」
「そう、でも共演者も監督も、彼女のフィルモグラフィーにないはずの名前ばかり。これ、マリリン・モンローの幻の三十作目、未完の『女房は生きていた』のアドバンス・ポスターよ。海外のオークションでも高値で取り引きされてる、正真正銘のプレミア品」
菊井は声を張りあげた。「その通りだ! いやあ、これの価値をわかってくれる人がいるなんて思わなかった。どう証明したらいいか途方に暮れていたところだよ。相場についての判断も実に的確だ。あなたは印刷技術にも詳しいんだな」
そのとき、茅根がまわりこんで莉子の手をとり、自分の島へと誘おうとした。「僕のほうは『プリティ・ウーマン』のオリジナルがあるよ。それと『遊星よりの物体X』の旧作オリジナルや『未来惑星ザルドス』のアドバンス......」
「ちょっと待て」菊井が不満げに手で制した。「彼女は私のほうの鑑定をおこなっているんだ」
「そんなこと誰がきめた? 商売人の在庫の確認は後まわしでいいだろ。僕は個人のコレクターとして、どうあっても価値を保証してもらいたい物がある」
「それこそ後にしろ。趣味で集めたようながらくたに彼女をつきあわせるな」
「ほざいたな。そのがらくたを譲り受けようとあの手この手必死だったのは、どこのどいつだ」
「灰になったらすべてパアさ。強欲は身を滅ぼすとはまさにこのことだ」
「あんたのところの店にこそぴったり当てはまる話じゃないか。悪銭身に付かず。老舗専門店を気取ってたムービーアレイの末路......」
小笠原はあえて語気を強めた。「よしてください。おふたりとも、同じ被害者じゃないですか。冷静に考えてみてください。さっきまでおふたりは、焼失した物の価値を訴えても警察や保険会社が取り合ってくれないと失望していたはずです。でもいまは違います。凜田さんは署が呼びよせた鑑定家です。おふたりの申し出は彼女によって裏付けられるし、証明もしてくれるはずです」
ふたりの中年男はふいに真剣な面持ちになり、互いに顔を見合わせた。ようやく、状況の変化に気づいたらしかった。
莉子がいった。「それぞれに焼失した物のリストを作成していただけませんか。残留物のなかから実在を立証できる物はすべて、わたしのほうで書類にして署に提出します。保険会社さんへの意見書も作成できますよ」
菊井は大きくうなずくと、テーブルの上のクリップボードをひったくった。「さっそくリストづくりに入るよ。入荷の一覧表と、これらの残骸を見比べながら作業すれば、すぐに結果がだせる」
茅根がいった。「僕のほうも、先にそっちを手伝おう。ふたりでやれば、切れ端から全体像を推測するのも早く正確になる」
「そうだな。後でそっちのテーブルの仕分けにも手を貸す」
「頼む。じゃ、このあたりのチラシから取りかかるか」
ふたりは真顔で作業を始めた。必要最低限の言葉をぼそぼそと交わしながら、テーブル上の切れ端を選別するさまは、まるで学者か官僚レベルの役人のようだった。
たいしたもんだ......。小笠原はまたも、莉子の秘められた力量に舌を巻かざるを得なかった。
莉子は、無気力だったふたりを積極的に作業に向かわせた。彼らが焼失物をリストにまとめるのは、必ずしも彼ら自身のためばかりではない。映画グッズが大量に収集されている場所が、二軒立てつづけに燃えた。事件の可能性は充分にある。もしそうならば、犯罪者の意図を浮かびあがらせるためにも、リストの作成は急務だ。
彼女はそこまで考えて、ふたりに作業に入ることを勧めたのだろうか。莉子の瓢々とした態度からは、なにもわからない。ただにっこりと微笑んで踵をかえし、戸口に向かっていく。
小笠原は莉子を追って、廊下にでた。歩調をあわせながら小笠原はいった。「詳しくないどころか、映画通じゃないか」
莉子は苦笑した。「感動が伴うもののほうが覚えやすいから。ポスターの鑑定カタログは熟読したことあるし、けさ依頼を受けてからはもう一度復習してきたけど、自分でも思っていたより記憶に残っててびっくり」
「驚いたのはこっちだよ。古い映画のことまでよく知ってるなぁ」
階段に差しかかったとき。制服警官のひとりが階下からのぼってきた。さっき莉子を案内した警官だった。
「あ」莉子は警官に告げた。「おまわりさん。いまおふたりはリストを作ってますから」
「へえ」警官も感心したようすだった。「あのふたりが......。いつまで経っても子供みたいにいじけてるんで、どうなるかと思いましたよ」
「もうだいじょうぶですよ。ところで、この事件の担当はどなたですか?」
「それが、まだ確定していないんです。捜査本部も設けられていません」
「え......。どうして?」
「さあ。刑事課の係長が暫定的な指示をだしたので、私はそれに従っただけです」
「......わかりました。どうも」
莉子はそう告げて、階段を下りだした。
小笠原はそれを追いながらきいた。「どこへ行くの?」
「三階」
ここの三階といえば......毎度お馴染みの刑事部屋か。小笠原は莉子にたずねた。「話をするなら、リストができあがってからのほうがよくないか?」
「それじゃ時間がかかるわ」莉子は険しい顔で階段を下りつづけた。「真実の究明は早いほどいいと思うの。次の犯行を食い止めるためにもね」
カウンセラー
三階の廊下の突き当たり、開放された扉。きょうは小笠原が先に入った。
フロアにずらりと並んだ事務デスクに、大勢の私服警官がおさまっている。書類仕事に追われている者もいれば、電話をかけている者もいる。厳めしい顔つきの男がほとんどだった。
当初は武骨で物々しい雰囲気に圧倒されたものだが、いまではすっかり慣れた。顔馴染みもいる。もっとも、小笠原と目が合っても愛想よくしてくれる者は皆無だったが。
莉子が入室し、刑事部屋を眺め渡す。その視線が一点を見つめてとまり、微笑とともに呼びかける。「葉山さん」
せかせかした足どりでフロアを横断していた葉山が、こちらに目を向ける。
あいかわらず、葉山だけはほかの刑事たちとは異なる印象の持ち主だった。身体つきは痩せていて、七三に分けた髪も長めにしている。年齢は三十代。やや面長の馬面だが、この刑事部屋ではハンサムの部類に入るかもしれない。とはいえ、目に覇気がなく、無精ひげが生えていて、ネクタイも歪んでいた。
葉山はいつものようにうんざり顔で近づいてきたが、きょうばかりはれっきとした理由がありそうだった。
戸口のすぐわきにホワイトボードがある。写真や地図、新聞の切り抜きがマグネットで貼りつけられ、おびただしい数の書きこみがあった。そしてボードの周りには、複数の捜査員が寄り集まっている。
どうやらなんらかの捜査会議のなかに飛びこんでしまったらしい。ボードの資料を見るかぎり、今回の火事とは無関係の事例のようだ。
ため息まじりに葉山がいった。「あなたたちですか。来てることは知ってましたが、燃えかすの鑑定に集中していただけませんか。ここは別件で忙しいんです。凶悪犯罪の捜査中でね」
莉子は平然といった。「放火も凶悪犯罪に含まれると思うんですけど」
「まだ放火とは確定してないでしょう。不審火というだけです」
「捜査を始めないことには事実はあきらかにできません。放火犯の動機によっては、知能犯捜査係が担当する事件のはずでしょう?」
葉山はやれやれというように頭をかきむしった。「たしかに、マニアックな映画グッズの集積場所が連続して燃えたわけですから、それらの財産価値を失わせようとしての犯行の可能性もあります。何者かが手持ちのコレクションの価値を高めようとしたか、それとも業者が市場価格を吊りあげようとしたか。推論はいくらでもできるでしょう」
「茅根さんとムービーアレイの両者が共通して所有していた、高価なレアアイテムが判明すれば、放火犯の狙いは絞れてくるはずです」
「そうなんですけどね。さっき巡査からの報告をきいたところでは、あのふたりはリストづくりに非協力的というじゃありませんか。だからわれわれとしても調べようがないんです」
小笠原は口をはさんだ。「いまは違います。ふたりは一致してリストづくりに励んでます」
葉山はいっそう渋い顔になった。「ご覧の通り、われわれは現在進行形のヤマで忙しいんです。リストができあがったら係長がなんらかの判断を下すでしょう。担当は私かもしれないし、別の人間かもしれない。あなたがたが関与することじゃありません」
やはり、リストの完成を待たねば動けないという物言いだ。杓子定規な態度は毎度のことだったが、ここまで予想どおりだと失望を通り越して悲しくなる。
そのとき、ひとりの若い男が葉山に歩み寄ってきた。何度か顔を合わせたことがある、雲津という名の私服警官だった。
「葉山さん」雲津はぼそぼそと告げた。「コンビニ全チェーンの広報への問い合わせですけど、回答が出揃いました」
「ふうん」葉山も小声で応じた。「で、どこだった?」
「それが......。写真を見てもらったんですが、すべての会社が『自社の店舗ではない』と」
「なんだと。どこだかわからないってのか」
「はい。それぞれの地域マネージャーや各店舗の店長にまできいたようですが、一致する店はなかったようです」
「馬鹿いえ。絶対にどこかにあるはずだ。セブンイレブンやローソンやファミマみたいなメジャーなチェーン以外もあたってみろ。フランチャイズでない個人の商店も......」
「調べました。モンマートだとか全日食チェーン系列、国分グローサーズにヤマザキショップ。法人から個人の一店舗経営のものまで、コンビニエンス形態店は虱潰しにあたったんです。でも判明しませんでした」
葉山の顔から血の気がひいていく。雲津も弱り果てたようすで口をつぐんだ。
ホワイトボードを囲んでいた男たちが葉山を振りかえる。年配の白髪頭の男がいった。「葉山君」
「は、はい。係長」
係長はボードの写真を指差した。「この店はどこなんだ。きょうじゅうに判明するという話だったな」
「いえ......あのう、それが......。まだ調査中でして......」
ボードに貼られていたのはモノクロの写真だった。A4サイズに引き伸ばされている。粗い画像で、日付や時刻のデジタル表示がおさまっていた。どうやら、店内の防犯カメラの映像をワンカットだけ静止画で取りだしたものらしい。レジまわりや雑誌コーナー、エントランスの自動ドアを斜め上方からとらえている。
何人かの客のなかで、レジの脇にたたずむレインコート姿の男にのみマーカーペンで丸印がつけてある。彼が捜査対象のようだった。
見る限り、どこにでもあるコンビニの店内だ。陳列棚はぼやけてはいるが、どんな商品が並んでいるかははっきりとわかる。雑誌コーナーに面した窓ガラスの外には歩道、ガードレール、道路標識、そして車道の一部が見えていた。
特徴的なのは、自動ドアをでてすぐ右手の壁にエレベーターの扉があることだった。すなわちビルの一階のテナントらしい。
どのような事件かはわからない。この写真を入手した経緯も判然としない。しかし刑事たちは、この店の所在地を割りだす必要に迫られているらしかった。ありふれたコンビニ内部のようすであっても、一店ずつ違いはある。チェーン店をあたっていけばそのうち見つかると考えていたのだろう。けれども、思惑通りにはいかなかったようだ。
係長は眉間に皺を寄せた。「調査中とはどういうことだ。この店の従業員や利用客なら、ひと目でわかるはずだろう」
「はあ、そのはずだったんですか」葉山は困惑顔で口ごもった。「そのう......。一致する店舗はないらしくて......」
「ないだと。ないで済まされるか。四十七都道府県すべての警察本部に捜査員の待機を要請してあるんだぞ。きょうじゅうに着手できなければうちの面目は丸つぶれだ」
「はい。おっしゃるとおりなんですが......。もういちど各社に確認してもらって......」
するとそのとき、莉子が落ち着いた声でいった。「すみません。きょうのうちに現地で捜査するおつもりなら、すぐにでも成田に向かうべきです」
ざわっとした反応が刑事部屋に広がる。
葉山が妙な顔をした。「成田って?」
莉子は告げた。「このお店は国内じゃありません。韓国です。病院以外のビルの一階で、おそらく一社経営のビジネス専用の建物です」
「か」葉山は驚きのいろを浮かべた。「韓国? そんな馬鹿な。窓の外が見えるでしょう。歩道に道路標識、どう見たって日本です」
「車両進入禁止とバス専用、それに安全地帯の標識が見えてますね。でもこれらは日韓同じデザインなんです。歩道も日本とそっくりなのが韓国です」
「しかし、棚はどうです。おにぎりが並んでますよ。ぼやけていてもわかるでしょう」
「韓国のコンビニでは、日本とまったく同じようにおにぎりが売られてます」
係長が老眼鏡をかけて、写真に顔をくっつけんばかりにして眺めた。「商品のラベルまでは読めんな。日本語かハングルかも判別できん」
「でも」莉子がいった。「自動ドアのすぐ外、エレベーターの扉の上の表示板は見えるでしょう。数字が並んでいるなか、四階だけ表示がFになってます」
「F?」係長は食いいるように写真を見つめた。「ああ。たしかに......。そうなっとる」
「韓国は日本と同じく〝四〟と〝死〟が同音なので、縁起の悪い数字とされています。むしろ、日本よりも迷信が強いといえるでしょう。病院には一般的に四階はありません。居住用マンションも同様のところがあります。けれども四階のみを専有するわけでない場合、たとえばビル全体がひとつの企業になっていれば、忌避はさほど強くはありません。その際には四階のみFと表示するのが韓国の習慣です」
刑事部屋は静まりかえった。
ふうっとため息をついて、係長が振りかえった。近くにいた角刈りで猪首の刑事に告げる。「いまの話はきいたな?」
「はい。すぐに外事係を呼んで手配します」刑事は足早に立ち去っていった。
なおも沈黙はつづく。上司と同僚らの厳しい視線にさらされ、葉山はたじたじになっていた。
だが係長はそれ以上の小言は口にしなかった。感謝します、莉子に対してそっけなく告げると、デスクに歩き去った。
ようやく刑事部屋にざわめきが戻ってきた。
葉山は苦い顔でたたずんでいたが、やがてゆっくりと莉子の前に歩み寄った。
莉子を無碍に追い返すことは、この場の空気からしてもはや不可能だと考えたのだろう。葉山は頬筋をひきつらせながら、莉子にささやきかけた。「火事の件ですけどね、協力したいのは山々ですが、まだ動けないんですよ」
「なぜですか」と莉子がきいた。
「私は知能犯捜査係です。知能犯すなわち知的犯罪の定義は、暴行や脅迫などに重きを置かず、主として知能を使ってなされる犯罪ってことになります。たとえば犯人がレアな映画ポスターの値段を吊りあげて儲けることを画策していれば、放火という力業の行使があったとしても、私が捜査を担当するでしょう。でも現段階では、単なる異常者の犯行かもしれない。映画好きだとか、なにか執着する作品や俳優があったとしても、放火という行為自体には論理的理由がないかもしれないということです。はっきりするまでは捜査の任につくことはできません」
小笠原は腑に落ちなかった。「はっきりするまで、って......。捜査担当者がきまっていないのに、異常者の犯行かどうかを誰が判断するんですか?」
「こういうことは難しい問題でしてね。警察としては、臨床心理士の意見を仰ぐのか慣例になってます」
「臨床心理士?」
莉子が小笠原を見つめてきた。「カウンセラーよ。心理学の専門家」
葉山は咳ばらいした。「そうです。事務局を通じて、都内の臨床心理士の方々にいっせいに協力を要請するファックスを差しあげました。たいてい、みなさん忙しいですから、手があいている方が応じてくれるもんです。通常、一番早く返事をいただいた方にお願いすることになってます。今回もそうです」
小笠原はきいた。「その臨床心理士が、状況を伝え聞いて判断を下すわけですか? 異常者による放火だ、あるいはまともな人間の犯行だって」
「判断ではありませんね。意見書を提出していただくだけです。あきらかに正常な人間によるものと記してあったら、私の出る幕になるかもしれません。でも異常者の可能性ありと示唆してあったら......」
「それに従うんですか?」
「いいえ。次の段階として、精神科医の意見をうかがいます。そういう慣例なんです」
じれったさを噛みしめながら小笠原は葉山にたずねた。「すると、いまは第一段階の臨床心理士の意見書待ちですか」
「そう長くはかかりません、こちらとしても迅速にとお願いしているわけですから、今夜か、遅くても明日ぐらいには返事があると思いますよ」
莉子はうつむき、しばし考える素振りをしていたが、やがて顔をあげて葉山を見つめた。
「その臨床心理士さん、連絡先はわかりますか?」
葉山は眉をひそめた。「お会いになるつもりですか? 急がなくても明日になれば......」
「いいえ。急ぐんです。早く意見をききたいですから」
「せっかちですねえ」葉山はため息をついた。「でも、私どもが紹介しても、あなたに会ってくれるかどうか」
「いえ。それは問題ないでしょう」莉子は微笑とともにつぶやいた。「会うのはかまわないはずです。カウンセラーって、人と話すのが仕事でしょうから」
精神安定剤
正午すぎ、まばゆいばかりの陽射しが都心を白く染めている。小笠原はタクシーの後部座席の窓から、歩道を往来するクールビズ姿のサラリーマンたちを眺めていた。
東京療寿会医大病院までワンメーターとはいえ、タクシー券ももらえない不況のさなかにあって、この移動にかかる費用が経費として認められるかどうか怪しかった。なんとか記事として成立させられるだけの情報を得たい。自腹は薄給の身に心底こたえる。
隣りに座っている莉子は、料金の表示を気にかけるようすもなく、手にした一枚の紙片に見いっていた。
それは牛込署で葉山からもらったコピーだった。莉子は感嘆とともにいった。「すごいねー。臨床心理士って、カウンセラーの資格のなかでも最も取得困難な狭き門でしょ。指定大学院の臨床心理学系を専攻して、修士課程を修了したうえで資格審査の一次と二次の試験を合格して、やっと認定を受けて臨床心理士になれるんだって」
「ああ。地方の臨床心理士会を取材したことあるよ。昔はもう少し簡単だったみたいだけど、いまじゃすごく敷居が高くなってるってね」
「文部科学省の規定で、公立学校のスクールカウンセラーに採用されてるし、病院や保健施設でも要資格条件にされてるところが多いって。裁判所からも専門家として協力を要請されることが多いみたい」
「警察も真っ先に意見を求めるぐらいだからね。信頼を勝ち得ている資格職なんだろう」
「だけど有効期限があるんだって。五年以内に指定された活動で一定のポイント数を獲得しないと、資格が更新されない仕組みかぁ......。厳しいね。弁護士さんならいちど合格すれば、ずっとその肩書きとともに生きられるのに」
「だから悪徳弁護士が問題になったりするんだろうよ。プロフェッショナルにはそれぐらいの枷が必要さ」
「ずいぶんシビアなのね......小笠原さんって」
そうかな。小笠原は困惑とともに口をつぐんだ。
思わず冷たい物言いになってしまったのは、ファックスに載っている写真のせいかもしれない。発信元は東京療寿会医大病院精神科の臨床研究室D(担当:嵯峨)。そう表示されている。履歴書と、資格認定証書のIDカードが重ねてあった。IDカードには顔写真が入っている。三十代半ばぐらい、細面のハンサム顔だった。優しそうなまなざしに高い鼻、固く結ばれた口もと。片方の眉にかかったひとふさの前髪からさえ、知性がにじみだしているかのように感じられてくる。
「へえ」莉子は恍惚とした表情になっていた。「東京大学大学院の教育学研究科、総合教育科学専攻、臨床心理学コース修了だって。東大じゃん......。頭いいー」
なんだか面白くない話だ。利口な人間は存在してもかまわないが、ルックスにまで恵まれているとは不公平だった。莉子がさも嬉しそうに写真を眺めているのが、余計に神経を逆なでする。
思いがそこに及んで、小笠原は自己嫌悪に陥った。ようするに嫉妬か、情けない。莉子の出会う男性をいちいち恋敵のように見なして、ひとり力んで何になる。早稲田大准教授の氷室にしろ、今度の臨床心理士にしろ、聡明な莉子が言葉を交わす相手は相応に知的な専門職に就いていて不思議ではない。俺は俺だ。気にかける必要はない。
それでも、どうしても棘のある言い方を避けられない。小笠原はいった。「無理に会いに行かなくても......」
莉子は首を横に振った。「たとえ数時間でも待っていられないのよ。あれが意図的な放火とすれば、きょうのうちにも三度めの犯行が起きる可能性がある」
その莉子の反応を見て、小笠原はむしろ安堵を覚えた。
彼女は善なる目的のために行動を起こしている。すなわち、いつもどおりの彼女だった。決してハンサムな臨床心理上に心を奪われたわけではない。そう思えただけでも、ずいぶん気が楽になった。
小笠原はきいた。「その臨床心理士、名前は?」
「嵯峨敏也」莉子は紙片を眺めながらいった。「医療法人東京カウンセリング心理センターに四年間勤務。その後は病院臨床心理士として東京療寿会医大病院精神科を主たる活動領域とする」
「ふうん。ずっと精神科にいるのかな?」
「専用の個室を与えられているわけだから、少なくとも活動拠点のオフィスがわりにはなってるんでしょうね。助手の心理相談員は池川健人。ふたりで臨床研究室Dに詰めてるのが日課みたい」
「きょうも留守じゃなきゃいいけどね」
タクシーが停車した。ドライバーが振りかえっていう。つきましたよ。
車道から少しだけ入ったスロープに、タクシーは停まっていた。ドアが開いて、莉子が外にでる。小笠原も支払いを済ませ、後につづいた。
真新しく規模の大きな病院だった。ポストモダン建築の瀟洒な外観を持つ病棟がいくつも連なっている。エントランスはまるでホテルの正面玄関のようだ。
なかに入ると、吹き抜けのロビーは大勢の来院者でざわついていた。初診と再診の受付カウンターはいずれも閉じている。午前中の診療は終わったのだろう。処方箋の発行と支払いを待つ患者たちが、待合の椅子にひしめきあっている。
いつも思うことだが、この種の総合病院は体力を必要とする。あちこち動きまわって、長時間待たされ、自力で帰らねばならない。健康が前提条件の病院というのは、どこかおかしい。
莉子のほうは疑念を持つようすもなく、案内板をじっと見つめていた。「ええと、精神科。精神科......。あった。二階の奥。青いラインを追っていけばいいみたい」
ロビーのエスカレーターで二階にのぼり、床に敷かれた何本もの線のなかから、青いろを選んで辿っていった。
広大なフロアだけにかなりの距離を歩かされた。ようやく精神科の看板が見えてきた。
幅のある廊下には何列も待合椅子が並んでいて、診療を待つ患者たちがモニターの番号表示を見あげている。その傍らに受付カウンターがあった。ふたりの女性看護師が席についている。
カウンターから少し離れたところで、莉子は立ちどまった。小笠原もそれにならった。
あそこで尋ねるのかいちばん早いか。小笠原がそう思ったとき、女性看護師のひとりが卓上のマイクのスイッチをいれた。
辺り一帯に女性の声が響く。「嵯峨先生。嵯峨先生、精神科受付までおいでください」
莉子が笑みとともにこちらを見た。小笠原も見かえした。ちょうどいい。呼びだしてもらう手間が省けた。
廊下の向かい側の壁に並んだ扉が、臨床研究室という個室らしかった。そのなかのDと大書された扉が開いて、長身の痩せた男が姿を現した。
白衣は着ておらず、ワイシャツにネクタイ姿だった。嵯峨敏也は写真で見たよりも若い印象で、身だしなみにも気をつかっているのか、上品な風情を漂わせている。待合の椅子に何人か知り合いがいたらしい。愛想よく会釈をしながらカウンターに向かっていく。
カウンターの女性看護師が立ちあがった。「あ、嵯峨先生。池川さん。こちらです」
嵯峨は、同世代もしくは何歳か年下にみえる男をひとり連れていた。助手の池川健人もワイシャツ姿で、スマートな体型だった。背は嵯峨より低いが、こちらも利発そうで端整な目鼻立ちをしている。
女性看護師が嵯峨に一冊のファイルを差しだした。「お昼休みに入られる前に、これに記入をお願いします」
受け取ったファイルを開いて目を落としながら、嵯峨はきいた。「いつも通りに?」
「ええ。そうです」
「わかった。ありがとう」嵯峨は女性看護師に微笑みかけると、池川を振りかえった。小声でぼそぼそと言葉をかわし、ファイルを池川に手渡した。
池川はうなずくと、踵をかえして臨床研究室Dの扉に戻っていった。
嵯峨はカウンターに声をかけた。「じゃ、休憩に入るよ」
こちらに歩いてくる。話しかけるには絶好の機会だ。
小笠原は嵯峨に告げた。「すみません。嵯峨敏也先生ですね。臨床心理士の」
「はい」嵯峨は立ちどまった。「......どちらさまでしょうか」
「私は『週刊角川』で記者をしております小笠原悠斗と申します。こちらは凜田莉子さん。鑑定業を営んでおられます」
「記者さんと、鑑定家のかたですか」嵯峨は戸惑いがちに応じた。「どういった御用でしょう?」
莉子がいった。「わたし、牛込警察署からの依頼で、火災現場の遺留物の鑑定を受け持っているんですけど......」
「ああ」嵯峨は笑いを浮かべた。「例の火事の件ですか」
「署の人にきいたら、あれが異常者の放火かどうか、あなたに意見を求めているそうで」
「異常者というのは適切な表現ではありませんね」嵯峨は一瞬、待合椅子の患者を気遣うようなまなざしを向けた。「ここで立ち話もなんですから......。署のほうでお待ちいただければ、夜には意見書をお送りできますよ」
「いえ」莉子は食いさがる姿勢をみせた。「その前に、どうしてもお話ししたいことがあるんですけど」ふむ、と嵯峨は人差し指で顎を撫でた。「じゃあ、いまから昼食をとりますから、一緒にどうですか」
「はい」と莉子は満面の笑みとともにうなずいた。「よかった。ちょうどお腹もすいていましたし」
嵯峨は笑った。「食事代は経費で落ちますから、おごらせてもらいますよ。じゃ、行きましょう」
小笠原はあわてて嵯峨にいった。「支払いは私のほうで。うちでも経費にできますから」
すると、嵯峨は困惑顔で振りかえった。「申しわけありません......。規定で、マスコミのかたの取材を受けるわけにはいかないんです」
「え......。あ、でも、まだ本格的な取材というわけではなくて、お食事がてら、いえ、同席させていただくだけでも......」
「それでも、最終的には記事をお書きになるために動いておられるんでしょう? 記者としてのお仕事を離れて、ボランティアとしてここにおいでになったんですか? 知りえたことをいっさい公表しないと誓っていただけますか?」
「......いえ。そういうわけには......。僕も仕事ですし」
「では、本当に申しわけないんですが、ご遠慮いただけませんか。医師の場合はわりとオープンにできるんですが、僕の職業では報道関係のかたとのお付き合いは、いろいろと制限がありまして......。事前にアポイントメントがあれば別ですが、今回がどうかご容赦ください」
嵯峨は心から詫びているようすだった。深々と頭をさげられてしまったのでは、ごねるわけにもいかない。
仕方なく、小笠原は笑いかえした。「了解しました、嵯峨先生。いまはあきらめますよ。でもいずれ、正式に取材を申しこませていただきます。その際には、連絡は病院のほうでよろしいですか?」
「ええ。かまいません」嵯峨は愛想よくうなずいた。「じゃあ、ええと......凜田さんでしたね。外にでましょう」
先に歩きだした嵯峨を、莉子は追いかけていった。途中、こちらを振りかえると、申しわけなさそうな顔を向けてくる。小笠原は、気にしないでと目で訴えた。
すると莉子は笑顔になり、嵯峨に歩調をあわせて廊下を立ち去っていった。
小笠原はひとり、精神科の廊下に取り残された。
待合椅子の患者たちを眺め、それからカウンターを見やる。
精神安定剤でも処方してもらいたいよ。小笠原は内心毒づいた。
映画マニア
莉子は嵯峨の案内で、病院から少し離れたビルの地階にある和食店に入っていった。
店内は寿司と懐石に分かれていたが、嵯峨は懐石をすすめてきた。莉子も賛成した。
テーブルはそれぞれパーティションで仕切られ、個室感がある。嵯峨は手早く携帯電話でメールを打つと、それをポケットにおさめていった。「これでよし、と。いろいろ仕事が立てこんでるんでね。急いでいない人には待ってもらうことにしたよ」
オーダーを済ませてから、莉子はつぶやいた。「高そうなお店......」
嵯峨は苦笑に似た笑いを浮かべた。「そうでもないよ。経費で認められる昼食代はわずかなんだ。ごめんね」
「いえ......。でも病院の食堂でもよかったのに、ちゃんとしたお店に連れてきてくださるなんて。嬉しいです」
「僕もだよ。正直なところ、自腹ではろくなものを口にできないからね。臨床心理士の収入って、どれぐらいか知ってる?」
「ええと......。ニュースで観たことはあります......」
「だろうね。よく問題になってるよ。大学病院じゃ医師の稼ぎも限られているけど、臨床心理上はもっと辛い。年収にして、三百万円台がいいところだね。ワーキングプアも珍しくないよ。精神科医を兼ねてる人は別格だけど」
「それはお困りでしょうね」
「病院臨床心理士の場合も、診療報酬が認められるのは業務の一部にすぎないんだよ。学校臨床心理士も同様で、非常勤だから収入が安定しないんだ」
「改善策はないんですか?」
「最近、臨床心理士ユニオンっていう労働組合ができてね。僕も参加してるけど、なかなか難しいね。なにせ、出張があってもクルマは父親から譲り受けた昭和四十一年製カローラだよ」
「ってことは、初代カローラですね」
「詳しいね」
「旧車ってすてきじゃないですか」
「しょっちゅうエンストするから、修理代のほうが高くつくけどね」嵯峨はそこで言葉を切り、首を横に振った。「申しわけない。初めてお会いしたのに、僕ときたら愚痴ばかりこぼしてるよ。それもお金に関わることばかり」
莉子は笑ってみせた。「鑑定業は売値の試算ばかり要求されますから。お金の話は慣れてます」
「いい人だね、きみは。カウンセラーにも向いているかもしれないな」
すなおで飾らない性格の持ち主。莉子は嵯峨についてそう思った。どんな堅物だろうかと、会うまでは不安にさいなまれていたが、予想よりずっと社交的で親しみやすい人だった。
嵯峨はいった。「警察署からの依頼を率先して受けるのも、ある意味自分の暮らしを支えるためでもあるんだけどね。でもいちど請け負ったからには、被災した人や関係者の期待に応えられるよう、全力を尽くして臨む覚悟だよ」
従業員がワゴンを押してきた。皿や小鉢、鍋などが次々と並べられる。たちまちテーブルの上は隙間もないほどに埋め尽くされた。
ワゴンが去っていくと、莉子は感嘆のため息をついてみせた。「豪華ですね。こんなにたくさん......。やっぱり高いんでしょう?」
「気にすることはないって」嵯峨は笑い声をあげた。「ほら、メニューを見てごらん。このコースはひとり千二百円。安くて量がいっぱいだから、ありがたいんだ。こんな大きなタラバガニもつくしね」
「千二百円......。価格破壊ですね」そういいながら莉子は、タラバガニに目を向けた。とたんに、前言を撤回したくなる。「あ、そうでもないかぁ」
嵯峨は味噌汁をすすりながらきいた。「なにが?」
「これ、タラバガニじゃないですね。見た目はよく似てますけど、それより安いアブラガニです」
「そうなの?」
「甲羅の真ん中にある突起が四つしかありません。タラバガニなら六つです」
「メニューにはタラバガニって書いてあるけど......」
「もうひとつ上の懐石コースに、本タラバって書いてあるでしょう? こっちが本物のタラバガニですよ。うーん、まだこういう表記を使ってるなんて......、二〇〇三年の農林水産省の公示で禁じられてるのに」
「偽物をだすお店だったか。キャンセルしようか?」
「いえ。そこまで深刻に考えることじゃないです。うちの近所の回転寿司も、マグロといいながらアカマンボウをだしてますから。むしろ安心しました。安いには安いなりの理由があるので、それが判明して」
「鑑定家さんの条件反射かな」嵯峨は上機嫌そうにいった。「それにしても、いろんなことに精通してそうだね。火災現場の残留品についても、鑑定は進んでる?」
「ええ......、その件なんですけど、嵯峨先生。映画グッズの残骸とか、ご覧になりましたか?」
「いや」嵯峨は湯呑みに手を伸ばした。「署のほうには行ってないんだ。火災現場の跡も見てない。それらの物理的事象の観察は鑑識だとか、専門家にまかせてほしいって話だった。僕としては、署からの報告内容に従って意見をまとめるだけなんだよ」
「そうなんですか」
「客観性という面では腑に落ちないところもあるけど、世のなかは分業制ってことだね。きみもその一翼を担っているわけだ」
「すると、どんな品物が焼失したか、詳しい報告は受けていないわけですね」
「ああ。それらの鑑定はきみの仕事だろう?」
「はい。すべてリストアップできるのはまだ先になりそうですけど、二軒あわせてかなりの被害額になりそうです。......嵯峨先生は、どうお思いですか? 放火だとすれば、どんな人物によるものだと考えられますか」
「そうだな」嵯峨は神妙に告げてきた。「衝動制御の障害のひとつに放火癖というものがある。他人や自分に対し、危険が及ぶような行為に対する衝動を抑制できないんだ。行動の前には緊張と興奮を覚え、果たした後は快楽と満足を感じる。火災そのものや、消火活動や周囲の騒動など一連の光景にも魅了されがちになる」
「その理由は? どう考えられますか?」
「残念ながら、放火に至る心理学的メカニズムは解明されているとは言い難い。一般にいえるのは、女性より男性に多く、脳波異常や大脳半球優位性の左右混在、神経学的微徴候をしめすことが多い......。それぐらいかな、酒に酔うと衝動制御の能力も減退するから、アルコール依存症とも考えられる」
いかにも専門職らしい無難な回答だった。莉子は唸った。「もう少し具体的に考えてみると、どうなりますか。わたし、以前に本で読んだんですけど、放火って深夜の一時から三時までによく起こるそうですね。けど、茅根さんのほうは夜七時ぐらい、ムービーアレイは朝九時すぎに火災が起きてます。それと、動機については『燃えそうな物が偶然目に入った』っていうのが多いらしいんです。家の外に放置されたゴミだとか、古新聞の束、二輪車のカバーだとか。日頃から社会に恨みを抱きがちで、大勢の人が騒ぐのを見たいから火をつけるって話ですけど......。今回の二軒は、いずれもなかに侵入して火を放ってる。つまり、一般的な放火には当てはまりませんよね?」
「たしかに典型的なケースとはいえないかもしれないけどね。きみはどう思ってる?」
「嵯峨先生のおっしゃる、衝動制御の障害というものではなくて、れっきとした理由があって犯行に及んでいるんじゃないかと思うんです。他人の映画グッズを燃やすことによって、手持ちの物の資産価値があがるとか、お金が儲かるとか」
ふっと嵯峨は笑った。「金銭目的の犯行も、衝動制御の障害に含まれるんだよ」
「......そうなんですか?」
「ああ。きみは正常か異常かという極端な二分化で判断しようとしてるね。犯行の理由があれば正常、なければ異常と区別してる。けれども、そうじゃないんだ。放火癖は行為障害や躁病エピソード、反社会性人格障害ではうまく説明されない。混乱状態によって引き起こされるんじゃなくて、むしろ本人にしてみれば動機がはっきりしているものなんだ」
「じゃあ、嵯峨先生のご意見としては、今回の犯行はあくまで衝動制御の障害であると」
「そう思うね。同じ理由で窃盗癖というのも生じやすいから、侵入して何かを盗みだし、火を放ったのかもしれない」
「けれどもそれなら......いったん外にでてから火をつけるのが普通じゃないでしょうか。自分に危険が及ぶのも厭わなくなる症状だとおっしゃいましたけど、自殺願望とは違うんでしょう? どうして家のなかにいるうちに点火したんでしょう?」
「そこは、燃やされた品こそが真実を物語ってると思う。犯人はたぶん、たいへんな映画マニアだよ」
「マニア......ですか」
「たしかに衝動制御の障害であっても、みずから火だるまになるような行為には及びにくいと思う。けれど、毎日のように映画を観て、その世界に入りこんでしまっているなら別だよ。映画では燃えさかる建物のなかでも、主人公たちは果敢に行動するだろう? 充満するはずの煙や酸素の不足については無視されてる。そういう演出が映画においては定石になっている。映画マニアの犯人は現実との見境がなくなり、室内における放火に恐怖心を抱かないと考えられる」
嵯峨の言葉には説得力がある。実際、学術的には正しい分析のあり方なのだろう。
ただし、莉子は受けいれがたいと感じた。嵯峨の説を尊重するならば、別の疑念が湧いてくる。
莉子の反応を楽しむかのように、嵯峨はにこやかにいった。「きみは、納得できないと思っているようだね」
「ええ......」莉子は感じたままを口にした。「犯人が映画に毒されてしまっているのなら、プロパンガスに無反応だったのが、どうも......」
「プロパンガスだって?」
「はい。茅根さんの家は、都心にめずらしく都市ガスをひいていない区画にあったんです。ボンベは家の外にあるから目についたはず」
「きいてなかったな。だけど......火事で爆発したわけじゃないんだろう?」
莉子はうなずいた。「プロパンに限らず、ガスのボンベやタンクは、ただ炎に包まれたというだけでは爆発しません。コンロにしろガスバーナーにしろ、空気とガスがほどよく調合する仕組みだからよく燃えます。でも、管のなかにガスが充満していて圧力で押されているので、空気が入りこむ余地はありません。火は内部に逆流しないんです。燃えるのは常にガスと空気が混ざり合った部分のみ。ですから放火によって、ただちに爆発することはありえません」
「なら、問題視することもないじゃないか」
「けれども、映画マニアならどうでしょう。火事のなかでふつうに行動できるのが当たり前という感覚なら、同じく映画にありがちなボンベの爆発も起こりうると信じてるんじゃないですか? 映画では、ボンベは銃で撃ったり、熱したり、ひどいときにはマッチの火を投げこむだけでも爆発する描写があります」
「......なるほど」嵯峨は感銘を受けたように、大きくうなずいた。「それは興味深い意見だ」
「疑問はほかにもあります。犯人が映画の演出を鵜呑みにして、室内での放火の危険性を認識していなかったとしたら、逃げる準備も怠っていた可能性が高いでしょう。実際に火がついたとき、炎に呑まれる確率も高まります」
嵯峨はしばし口をつぐんで、視線をあちこちに向けながらしきりに考える素振りをした。そのあいだ莉子は箸を置き、じっと次の言葉を待った。
やがて、嵯峨はため息まじりにつぶやいた。「きみのいう通りだ......、犯人は衝動制御の障害という範躊でなくて、もっと冷静で理知的な思考を働かせていた可能性がある」
莉子は安堵を覚えた。「じゃあ、署のほうへの意見書にはそのように書いていただけますね?」
そうだな。嵯峨は頬杖をつき、また何やら考えはじめた。
学者なだけに、これまでの判断を変えるには明確な論理的説明を要するのだろう。嵯峨はそれを頭のなかで検証しているらしかった。
そのとき、ふいにひとりの女が近づいてきた。「嵯峨先生」
年齢は二十代後半ぐらい、髪は後ろで束ねている。半袖の白衣を着ていた。大学病院で見かけるようなものではなく、整骨院や獣医師が身につけるタイプの動きやすそうな服だった。
「あ、村谷さん」嵯峨は腰を浮かせた。
「紹介しよう。こちらは鑑定家の凜田さん。凜田さん、僕の知り合いで歯科医の村谷美羽さんだよ。この近くで勤務してる」
歯医者さんだったか。莉子は笑顔で会釈した。「はじめまして」
「どうも」美羽はおじぎをかえしたが、どこか落ち着かないようすで嵯峨に告げた。「ちょっとよろしいですか」
「何? 前に治療してもらった奥歯ならその後、なんともないよ」
美羽は冗談に笑う余裕すらなさそうだった。「どうしても見てもらいたいものがあるんです。臨床心理士の嵯峨先生として」
ふいに張り詰めた空気のなかで、嵯峨は莉子を見つめてきた。莉子も嵯峨を見かえした。
嵯峨は真顔になり、美羽にたずねた。「急を要すること?」
「ええ」美羽はうなずいた。「いますぐにおいでいただきたいんです。ひとりの子供が命の危険に晒されてます」
X線撮影
村谷美羽が勤める歯科医院は、和食店のすぐ近くのオフィスビル内にあった。面積はさほど大きくないが、五階のワンフロアすべてを専有している。エントランスには、篠田歯科医院とあった。まだ若い美羽はおそらく勤務医だろうと莉子は考えていたが、やはり院長は別にいるらしい。
昼休みらしく、院内にひとけはなかった。美羽は診療室に入ると、おもむろに一枚のX線写真を差しだした。
嵯峨がそれを受けとって、窓の明かりにかざす。莉子も覗きこんだ。
上下の顎と歯を透視した写真だった。一見して、幼児の口だとわかる。しかもほとんどの歯が黒ずみ、歪んでいる。
しばし写真を見つめていた嵯峨が、深刻そうにつぶやいた。「こりゃあ、ひどいな......」
美羽がうなずいた。「五歳の女の子なんですけどね。けさ、ひとりで来院したんです。すぐお知らせしたほうがいいかと思って」
「......ああ」嵯峨は眉間に皺を寄せた。「おおいに問題がある。すぐに手を打たないと、この子の身が危ない」
さっきの和食店でも、美羽は子供が命の危険に晒されていると告げてきた。どういうことなのだろう。莉子は疑問に思った。歯が悪いことは、わかるのだが、それが致命傷につながるケースがあるのだろうか。
「あのう」莉子は遠慮がちにきいた。「歯の病気にはあまり詳しくないんですけど......。どういう症状でしょうか」
嵯峨が莉子に目を向けてきた。「見てわかるように、大量の虫歯。それに歯槽膿漏だよ」
美羽もうなずいた。「わたしたち歯科医は、虫歯をう蝕と呼んでいます。この女の子の場合、まだ乳歯ですけど、同世代の子供に比べて三倍ものう蝕があります。それに極端な歯垢沈着も見られたし、口臭もきつかったんです」
莉子は美羽を見かえした。「それが......命の危険にかかわることなんですか?」
すると、嵯峨がX線写真を眺めたままいった。「親による虐待だよ」
「虐待......」莉子は驚きを禁じ得なかった。
「そうとも。虐待というと。親が子に対して暴力をふるう姿を連想しがちだけど、もう一方で養育放棄って問題も起きる。それが子供の歯のトラブルに表れるんだ」
「親が子供に歯磨きを義務づけていない証ってことですか」
「ああ。きみは物品の鑑定に役立つ知識には精通しているみたいだけど。こういうことには詳しくないようだね。デンタルネグレクトといって、日本小児歯科学会の児童虐待等防止対応ガイドラインにも具体例が挙がっているんだよ」
美羽がいった。「この子の歯を見るかぎり、何年も前から悪くなっていたはずなのに、いちども治療を受けた形跡がないんです。おそらく歯磨きの習慣はまったく身についてないんでしょう。未治療の多発性のう蝕に、歯肉の腫脹。口腔清掃不良による大量の歯垢沈着や口臭。まともに育てられている子供には考えられない状況なんです」
「でも」莉子は重苦しい気分とともにたずねた。「虐待以外の可能性もありますよね? この子が親のいいつけを守らずに、歯磨きを怠っているとか......」
「いえ。歯の傷みぐあいからみて、普通の食生活でないこともあきらかなんです。ネグレクトを受けた幼児は、カップ麺や清涼飲料水を摂取することが多いんですよ。親が料理をしないせいで、偏食になるんです。この子もそういうケースに当てはまると思います」
嵯峨が美羽にきいた。「親に連絡はとった?」
「電話はしました。家にいた母親と話しましたけど、なんていうか、実情とまるで食い違っているんです。歯磨きはちゃんとさせているし、虫歯については、娘が毎晩のように勝手に台所にある板チョコをつまみ食いするので、それが原因でしょうと」
今度の疑問点は莉子にも理解できた。「変ですよね。チョコレートを食べると虫歯になりやすいってのは俗説のはずです。チョコレート原料のカカオ成分は口内のソブリナス菌の活動を抑制するから」
美羽は目を輝かせた。「よくご存じですね。その通りですよ。う蝕の原因はミュータンスレンサ球菌よりも、ソブリナス菌にあることが最近の研究でわかっているんです。ホワイトチョコにはカカオ成分が入っていないのでそうした効果はありませんけど、電話で母親にきいたところ、女の子が食べているのは普通の板チョコだというもんですから」
嵯峨は憤りのいろを浮かべていた。「親の説明と子の現状が食い違うのは、ネグレクトの特徴のひとつだ。虐待があるとみてほぼ間違いない」
莉子は嵯峨を見つめた。「警察に通報しなきゃ」
「いや。それじゃ時間がかかりすぎる。すぐ手を打たないと」
美羽が告げた。「わたしのほうから児童相談所に知らせて......」
「駄目だ!」嵯峨はふいに声を張りあげた。「児童相談所なんか頼りにならない!」
室内が凍りついた。莉子はびくっとして息を呑んだ。
予期せぬ沈黙が降りてきた。気まずさのなかで、三人は互いに視線を逸らしあった。
やがて、取り乱したことを恥じるかのように、嵯峨がおずおずといった。「すまない......声を荒らげてしまって。この子の母親には、僕から話すよ。電話番号は?」怒鳴りつけられたことへの衝撃がいまだ冷めやらないようすの美羽は、呆然とした面持ちでつぶやいた。「事務室に......。番号は、デスクの上のメモ帳に書きこんであります」
「わかった」嵯峨は咳ばらいをして、奥の戸口に向かっていった。「電話を借りるよ」
嵯峨の姿が事務室に消えていく。扉の閉じる音が、静寂のなかに響いた。
診療室には、莉子と美羽だけが残された。
美羽の目は虚空をさまよっていたが、しばらくするとやや憤然とした態度をのぞかせながら、X線写真を封筒におさめた。それを壁ぎわの棚に戻す。せかせかした動作で、カルテの整頓に入った。
幼い子供を救いたい気持ちは誰もが同じはずだ。けれども、その方針をめぐって微妙な心のすれ違いがあるようだった。
わたしはどうすればいいだろう。莉子は考えたが、専門外のことだけに軽々しい物言いはできない。
美羽にどう言葉をかけるべきか悩んでいたそのとき、着信音が鳴った。
莉子はハンドバッグから携帯電話を取りだし、応答した。「はい、凜田です」
耳慣れた男の声がした。「牛込署の葉山です。けさがたはどうも」
覇気のない喋り方はいつも通りだが、いまはそれに加えて重苦しい響きを帯びてきこえる。
いやな予感がする。莉子はたずねた。「なにかあったんですか?」
「......ええ。そうなんです」葉山の声は告げてきた。「第三の火事が起きました。やはり不審火です。そして、また燃やされました。映画のポスターをね」
ダメージ
今度の火災現場は、あきらかに牛込警察署の管轄ではなかった。陽射しがひときわ強まる午後二時、莉子は東京駅の丸の内中央口改札をでて、高架線沿いに有楽町方面に歩いた。
ほどなく、巨大な建物が見えてきた。全面ガラス張り、船体のごとく弧を描いた近未来的な外観。東京国際フォーラムのガラス棟だった。全長は二百十メートルにも及ぶ。
ガラス棟に比べると、その隣りに連なる四つのホール棟は派手さもなく、やや見劣りする。この両者のあいだに存在する広い遊歩道に、莉子は歩を進めた。
ここは都の運営する第三セクターで、国際コンベンションセンターのひとつでもあるが、たいていイベントやコンサートの会場として使われる。莉子は以前、地下一階の相田みつを美術館には来たことがあったが、それ以外の施設は訪ねていなかった。
すぐ近くを走る車道を振りかえったが、消防車は一台も停まっていない。本当にここで火災があったのだろうか。昼下がりの遊歩道を行き来するのは、ビジネスマンや散歩中とおぼしき高齢者だけだ。
そのとき、車道を走ってきた一台のタクシーが、遊歩道の入り口に横づけして停まった。開いた後部ドアから降り立ったのは、嵯峨だった。
「あ」莉子は駆け寄りながら声をかけた。「嵯峨先生」
嵯峨はこちらを見て微笑した。「やあ。どうやら追いついたみたいだね」
ネグレクトの疑いのある母親と電話で話しこんでいる嵯峨を残し、莉子はひとりでこの現場に赴いていた。美羽には行き先について嵯峨への伝言を頼んでおいたが、こんなに早く再会できるとは思わなかった。
莉子はいった。「わたしもいま着いたところなんです。道、混んでませんでした?」
「平日のわりには空いていたみたいだね。少しばかり急いでもらったけど」
「あの子の母親との電話はどうでしたか?」
「聞く耳を持たないありさまだった。予想していたこととはいえ、辛いよ。だから児童福祉施設で働いている知人に頼んで、家に向かってもらったよ。法律の改正によって、子供を強制的に保護することも可能になったからね」
「うまくいくでしょうか......」
「さあ。後で連絡が入ることになっているから、いまは何ともいえない。どのみち、明日以降はその件にかかりきりになると思うから、連続不審火への意見書は意地でもきょうじゅうにまとめないと」
そうですね、と莉子はつぶやいた。
一刻も早く子供を救いたいというのが嵯峨の本音だろう。けれども、放火犯に対する警察の捜査も遅らせてはならない。
「さて」嵯峨はホール棟を見あげた。「現場はどこ?」
「それが、ええと。エントランスは、あそことここで......。あ、看板がでてるみたい」
目に入ったのは、ガラス棟の入り口の脇にあるパネルだった。景観を壊さないためか、告知の意味をなさないほどの小さな看板だ。第七回ムービーポスター展とある。
ふたりは看板の案内に従ってガラス棟に足を踏みいれ、下りエスカレーターで地階におりた。
そこは有楽町駅と地下で連結するコンコースと、白いベニヤで囲まれた特設会場から成るホール状の空間だった。ポスター展の入り口には本日臨時休業の札が掛かっていて、制服警官が立っている。だが、そもそもあまり世間の関心を惹かない催しなのか、入り口前に足をとめる人の姿はない。報道関係者も見当たらなかった。
莉子は警官に声をかけた。凜田といいます。牛込警察署の葉山警部補に呼ばれて来ました。
どうぞ、と警官はなかを指し示した。
恐縮しながら場内に歩を進める。間接照明のみで薄暗かった。ベニヤで区切った順路には、黒澤明の初期作品のポスターが額におさめられ、それぞれにスポットライトを浴びていた。
行く手を折れると、急に視界が開けた。ここだけ明るく照らしだされている。広い空間だった。莉子は思わず立ちつくした。
制服、私服を問わず、大勢の警官が動きまわっている。誰もが忙しく立ち働いていた。とりわけ目立つのは、鑑識の制服だった。十数人が四つん這いになり、床のカーペットを丹念に調べまわっている。壁の指紋を採取しているグループもある。鑑識課員の一眼レフカメラのシャッターが切られるたび、辺りに閃光が瞬いた。
余計な会話はひとこともなく、ただ黙々と現場検証をつづける警官の群れ。莉子がこれまで目にしてきた牛込署による同様の作業とは一線を画していた。静かで、しかもてきぱきした手際のよさ。ベニヤ一枚を隔てた外には決して混乱を生じさせない、そんな固い決意もうかがえる。徹底した秘密主義だった。
嵯峨がささやきかけてきた。「凜田さん、見なよ。ほら、あれだ」
中央付近の床に白いペンキがぶちまけられている。よく目を凝らすと、それは消火剤だとわかった。近くには壊れた額縁が落ちていて、ガラスの破片も散っている。
まだ鑑識は辺りを這いまわっているが、制服警官らが往来している部分の床は、おそらく歩いてもだいじょうぶなのだろう。莉子は慎重に進路を選びながら、消火剤の撒かれた一帯に近づいていった。
カーペットが焦げているのがわかる。消火剤のなかに埋もれていたのは、黒く炭状になった紙だった。いくつかの断片に分かれている。焼きつくされた一枚のポスター、その亡骸らしい。
歩み寄ってきた嵯峨がつぶやいた。「今度の被害は、この一枚だけか」
「そのようですね......。隅々まで真っ黒になってる。完全に燃やしきるまでここを離れず、火が消えかけたらその都度、点火しなおしたんでしょう」
「執念深いな。ただの放火じゃなさそうだ」
背後に足音がした。振りかえると、葉山が苦りきった顔で近づいてくるところだった。
「どうも」葉山はにこりともせずにいった。「凜田さん。それに、嵯峨先生。お初にお目にかかります。ご一緒されてるとは思わなかった」
嵯峨も真顔でかえした。「葉山警部補ですか。初めまして。凜田さんから興味深い話をうかがったので、やはり意見書をまとめる前に現場を見ておきたいと思いまして」
「......まあ、先生がそうおっしゃるのなら」
莉子は葉山を見つめた。「今回はボヤで済んだんですね」
「ええ。見てのとおりです。けさ十一時に開場の予定が、寸前に火災報知機が鳴ったそうです。駆けつけた警備員が炎に気づき、消火器で消しとめました」
「それはよかった......。こんな地下のコンコース近くで火事になったら大変ですね」
「カーペットが耐火仕様だったのが幸いしたようです。あまり燃え広がらないうちにセンサーが熱と煙を感知したらしいです」
「この燃やされたポスターは?」
「壁から外された額はひとつだけだったので、どのポスターかはすぐに判明しました」
「へえ......。どんな作品ですか?」
「お待ちください」葉山は手帳を開き、目を落とした。「邦画ですね。一九七四年、東宝製作、配給。日比谷映劇という劇場名のスタンプ入り。題名は『ノストラダムスの大予言』」
嵯峨は妙な顔をした。「......ノストラダムスの大予言? きいたことがない映画だ」
莉子は記憶の片隅をさぐった。「わたしもよくは知りませんけど......。たしか上映禁止になった映画じゃなかったですか? どこかの本で読んだような」
葉山はふんと鼻を鳴らした。「禁止じゃなく、自粛ということらしいです。僕もまるで知らない作品でしたけどね。うちの係長は、若いころ吉祥寺の映画館で観たのを覚えてるそうです。全国規模で公開された、わりと真っ当な映画だったみたいでね。雲津にネットで調べてもらったところ、出演者は丹波哲郎、黒沢年男、司葉子、由美かおる......」
往年の大スターばかりだ。莉子はいった。「大作だったんですね」
「そりゃもう。同年の邦画部門の興行収入で第二位というヒットだったそうです。ちなみにこの映画は二本立て興行だったようで、併映は、ええと......『ルパン三世 念力珍作戦』」
嵯峨が眉をひそめた。「アニメ?」
「いえ」莉子はかすかに想起できたことを口にした。「実写だったと思います。波照間島にいたころ、父が衛星放送で観ていたような......。たしか次元大介が田中邦衛」
「田中邦衛って『北の国から』の......」
「そうです。黒板五郎役。あと、銭形警部が伊東四朗だったような」
「五右衛門は?」嵯峨がきいてきた。「っていうか、肝心のルパンは誰がやったの? 外人?」
「さあ」莉子は頭をかきむしってみせた。「よく思いだせないんです」
「きみにも、うろ覚えってものがあるんだね」
「感動しないと記憶に残りにくいので......」
葉山が咳ばらいをした。「併映についちゃDVDもでてるから、興味がおありならお探しになればいいでしょう。けれども、メインの『ノストラダムスの大予言』はDVDどころか、レーザーディスクやビデオソフトにもならなかったんです。テレビでも当然のごとく放送されません。文字どおり、存在を抹消された映画なわけです」
嵯峨は葉山を見つめた。「闇に葬られた理由は? やはり、ノストラダムスの予言ってものにつきまとう、一種のいかがわしさのせいですか」
「いいえ」葉山は手帳を閉じた。「この映画はなんと、当時の文部省が公に推薦する作品だったんです」
「文部省」嵯峨は首をひねった。「教育機関がノストラダムスの予言を推してたとはね」
「私も映画を観たわけじゃないんでよく知りませんけど、わりと環境問題だとか、真面目に論じている作品だったようでしてね。いまでこそノストラダムスといえば胡散臭がられてますけど、一九九九年に世界が滅びるっていう予言は当時の人々にとって相当ショックで、公害などによる社会不安の背景もあり、半ば公然たる事実のように吹聴される傾向さえあったんです」
「ええ......。ぼんやりと覚えてますよ。世紀が変わるまではその種の本が書店にたくさん並んでいました」
「後にオウム真理教の事件を境にして、恐怖を売り物にするオカルト観はすたれていき、いまではインチキくささを笑い飛ばすことが主流になったわけです」
嵯峨はうなずいた。「時代は変わるものですね」
「とはいえ、上映を自粛したのはそんな時代の変化のせいではなくて、表現に問題があったらしいんです。モラルに反している、あるいは差別的な意味合いに受けとられる描写があったので、公開当時から人権団体による抗議行動があったようです」
「では」嵯峨は神妙につぶやいた。「火をつけたのはその人権団体の活動家だとか?」
葉山は苦笑とともに首を横に振った。「四十年近くも昔の話です。いまさら考えられませんよ」
莉子は葉山にきいた。「その『ノストラダムスの大予言』のポスターですけど、茅根さんやムービーアレイには......」
「そこです」葉山は真顔になった。「うちの管轄で起きた二件の火事、いずれも『ノストラダムスの大予言』が火災現場にあったんです。ふたりともそう証言してます。しかし一方で、残留品のなかには見つかっていない。ということはおそらく、このポスターと同様に完全に焼きつくされたんでしょう。むしろ放火犯の意図は『ノストラダムスの大予言』のポスターを焼失させることにあって、家や店舗が火事になったのはその副作用だったという見方もできます」
嵯峨は床に目を落とした。「この燃えかす、本当に『ノストラダムスの大予言』かな。ポスターは盗み去って、あたかも焼失したかのように別のポスターを燃やしたなんてことは......」
葉山は唸った。「ありえますけれども、それは科捜研の調査によってあきらかになると思います。茅根邸やムービーアレイでは厳しいかもしれませんが、ここじゃ見てのとおり、真っ黒になってはいるものの、形状はわりときれいな状態で残ってますからね。たしか、レーザーか何かで焼失前の図柄を読みとる方法があったと思いますが......。そうでしたね、凜田さん?」
「ええ」莉子はうなずいてみせた。「このまま崩れずに保存できれば、光学鑑定であきらかにできるでしょう。だけど、葉山さん。そのポスターの図柄、どんなものだったかわかりますか?」
「ええ」葉山は懐から、折りたたまれたパンフレットを取りだした。「この催しの受付で配っているものです。ここに載ってますよ」
広げられたパンフを、莉子は覗きこんだ。フルカラー四色刷りだった。ポスターの写真がずらりと並んでいる。くだんの題名はすぐに目についた。『砂の器』『伊豆の踊子』とともに一九七四年の邦画のカテゴリーにおさまっている。
初めて見るデザインだと莉子は思った。これまで目を通した映画グッズ関連のカタログにはなかったのだろう。そちらでも存在を抹消されてきたに違いない。横長のサイズで、雑誌『ムー』を彷彿とさせるタッチのイラストだった。上部には宇宙に浮かぶ目玉、月面のクレーター、『2001年宇宙の旅』風の宇宙ステーションが描かれている。下部には氷河のなかで凍りついたマンモスらしき絵がある。その隣りでは、扉をこじ開けるようにして丹波哲郎の顔が覘いていて、これが唯一の出演者の肖像だった。右上に東宝のマーク、右下には出演者のクレジット。そして中央にタイトル。一行目の『ノストラダムスの』は案外小さな扱いで、二行目の『大予言』がなにより強調されている。日比谷映劇のスタッフは、この写真の縮小率では確認できなかった。
映画本編に存在するという問題ある描写は、少なくともこのパンフで見るかぎり判別できなかった。実際、このような展示会に出品されている以上、なんら問題のない図柄だったに違いない。
このポスターを焼失させたがる理由はなんだろう。人目に触れさせたくないというのなら、個人の家のコレクションまで狙うことはない。それよりも、不思議なことがある。犯人はどうやってポスターの在り処を突きとめているのだろうか。
無言のまま考えこんでいると、何人か近づいてくる気配がした。
「きみ」スーツ姿の青年が、葉山に声をかけてきた。「もうちょっと下がってくれないか。まだ鑑識にやってもらうことがある」
鑑識課員を従えたその痩せた男は、葉山よりいくらか若いが、態度はやや高圧的だった。
スーツには皺ひとつなく、ネクタイも歪んでいない。腕時計も靴も一見して高級品だとわかる。身だしなみに気をつかわない葉山とは対照的だった。
男は立ちどまると、じろりとこちらを睨んだ。「この人たちは?」
葉山は硬い顔で告げた。「鑑定家の凜田莉子さんと、臨床心理士の嵯峨敏也先生」
「ああ」男の表情はいくぶん和らいだ。「牛込署管内での放火について、捜査にご協力いただいている方々ですか。丸の内署の尾下光希警部補です。よろしく」
莉子はおじぎをかえしながら思った。丸の内警察署といえば、霞が関を所轄管内に含んでいるためか、いわゆるキャリアが現場を経験するための赴任先になりやすいときいたことがある。尾下もこの若さで葉山と同じ警部補という職に就いているからには、そんな官僚の出世街道を歩むひとりかもしれなかった。
嵯峨が尾下にいった。「ボヤ騒動になっているかと思いきや、整然としてますね」
尾下は当然といいたげな顔をした。「うちの管内にあっては、このていどの火事でパニックを引き起こすわけにはいきません。文字どおり政治や経済の中枢ですからね。消防車を呼んだりして混乱をきたせば、即テロの疑いありと大規模な警戒につながってしまう。臨機応変に立ちまわること。それが二十三区内のほかの所轄との違いです」
葉山は尾下の物言いを、自分への当てこすりと感じたらしい、浮かない顔でつぶやいた。「情報の制限は、後でマスコミに叩かれるもとになる」
すると尾下も態度を硬化させた。「報道関係者の顔いろばかりうかがう必要はないんでね。うちの署は本庁の記者クラブとも密接な関係にある」
「ふん」葉山は嫌悪の表情を浮かべた。「ここに呼ばれたのは。互いの所轄で起きた類似事件について情報交換をはかるためだと思ってたんだが、違ったかな」
「牛込署のほうではまだ捜査担当者が決まっていないとか。なんでも二件もの不審火がつづいたにもかかわらず、いまだ犯人の意図をはかりかねているそうだな。そのせいで、いまだ担当部署も定まっていない。きみはたまたま手があいていたので、寄越されたにすぎないときいているが」
葉山は苦りきった表情で、嵯峨にたずねるような目を向けた。臨床心理士の意見をきく、それが牛込署の次のステップだからだろう。
嵯峨は肩をすくめた。「もう意見書を提出する必要はなさそうですね。ここでの放火も同一犯によるものと考えられるし、狙いも『ノストラダムスの大予言』だとはっきりしている。物証によって事件のあらましが浮き彫りになった以上、臨床心理学的見地よりもそっちが重視される。そうでしょう、葉山さん?」
「ええ」葉山は尾下を見据えてうなずいた。「さきほど係長からの命を受けてね。捜査一係と協力して、私も正式にこの事件を担当することになった。無差別放火に見せかけた知的犯罪の疑いがあるのでね」
尾下はなおも葉山に対し、火花を散らす構えのようだった。「知的犯罪? 牛込署の係長は、どこをどうとらえて知能犯捜査係の出る幕だと考えたのかな」
「ムービーアレイ店主の菊井氏によると、この『ノストラダムスの大予言』のポスターは諸般の事情により、小ロットでしか制作されていないらしい。映画自体が闇に葬られているわけだから、ポスターの再発売もなかった。だから元々高価で三十万円ぐらいしたものが、さらに数が減っていけば百万、二百万と天井知らずになるという」
丸の内署のほうでは、まだそこまで事実を認識していなかったようだった。尾下の表情がわずかにこわばった。「ふうん。まあ、そういうこともあるかもしれないな」
莉子は驚きを禁じえなかった。邦画のポスターで三十万円という値段は、例外といえるほど高価な部類に入る。現存する枚数はいったいどれくらいだろう。
床に這って燃えかすを調べていた鑑識課員が、ふいに声をあげた。「尾下さん」
尾下は進みでた。「なんだ」
鑑識課員は、ピンセットでなにかをつまみあげた。それは直径一センチほどの紙の玉だった。
もう一方の手にもピンセットを持ち、丸まった紙を慎重に開いていく。
薄手のメモ用紙だった。ボールペンで記した奇妙な記号が、横書きで連なっている。はじめは計算式かと思ったが、違うようだ。

なんだろう。もっとよく見ようと莉子は近づきかけたが、鑑識課員がビニール袋におさめてしまった。
落ちていた場所から察するに、犯人が一緒に燃やそうとして捨てていった可能性がある。火が早々に消しとめられたために、紙玉はそのまま残った。そう思えてならない。
「あ、あのう」莉子はあわてていった。「いまのメモ、もう少し拝見したいんですけど......」
尾下は冷やかに告げてきた。「うちの所轄で見つかった証拠品ですから、まずは持ち帰って調べます」
葉山が皮肉めかせた口調でつぶやく。「捜査協力も何もあったもんじゃないな」
「調査で判明したことはきちんとお伝えしますよ。われわれはしかるべき手順を踏んで捜査に取り組みます。ほかの所轄のように成り行きまかせにはしない」
「うちの署のことをいっているのなら、地域には地域のやり方があって......」
また始まった。同じ階級の警察官どうしのいがみあいはドラマのなかの話と思っていたが、そうでもないようだ。この調子では、いまのメモ用紙をじっくり見られるのは当分先になりそうだった。
莉子は聴覚を頭から閉めだし、目にしたばかりの記号とその配列を、できるだけ頭に刻みこむべく集中した。同時に、どんな意味があるのか考えてみる。ギリシャ文字やキリル文字、数学の記号が入り混じった複雑なものだ。煩雑というべきか。矢印もあったし、通貨単位らしきものも見てとれた。
順序に法則性は感じられない。少なくとも、それぞれの記号が持つ本来の意味とはかけ離れている。いったい何を表現しているのだろう。
ひとしきり頭を働かせてみたが、情報が少なすぎて解析は困難だった。
半ば諦め気分で意識を聴覚に戻す。いつしか話し合いは、嵯峨のスケジュール確認に移っているようだった。
嵯峨が葉山にいった。「それでいいんですが、病院での仕事もありますので......。この件を優先するなら、牛込署のほうから私をご指名いただく形にせねばなりません。そうしないと職務上の規定に反するんです。お手数ですが、お送りしたファックスをご返却いただけますか。すぐに臨床心理士会から、私に関する正式な紹介書類が送付されます。署のほうで保管していただくための資料です」
「わかりました」と葉山はうなずいた。「ファックスは返送させていただきますよ。送り先は東京療寿会医大病院のほうでいいですか?」
「はい、精神科か心療内科の臨床研究室D宛にお送りください。助手の池川が常に部屋に詰めていて、事務整理をしてくれていますから」
尾下が嵯峨にたずねる。「私のほうから先生に依頼する際にも、まずは臨床心理士会にご連絡差しあげるべきでしょうか?」
「いいえ。この連続放火事件に関する警察への協力という括りで扱われるはずですから、すでに牛込署から依頼をいただいている以上、丸の内署からあらためてお手続きいただく必要はありません」
葉山が割って入り、尾下にいった。「嵯峨先生はうちが指名した臨床心理士ですので、丸の内署のほうでききたいことがあれば、まずは私に連絡ください。私から先生にその旨お伝えし......」
今度は嵯峨を交えた三角関係の様相を呈しだした。ふたりの警部補はいずれも、機会さえあれば相手にダメージを与えようと隙をうかがっているように見える。まるで子供の口喧嘩だった。
呆れた気分で、莉子はぶらりとその場を離れた。
いまは真実を追究することが最優先だ。莉子は携帯電話を取りだした。
同床異夢
午後二時半をまわった。
小笠原は『週刊角川』編集部の自分のデスクから、壁の時計を見あげていた。
火事の件については、締め切りまでに記事としてまとめることはできなかった。あれは次週以降の掲載になるのだろう。
よって穴埋め記事『昭和の鼠小僧次郎吉』が復活した。校正を完了させることが、目下の仕事だ。
昭和の鼠小僧と呼ばれた連続強盗致傷犯、上石玄。彼の妻、真奈美も四年前に病死している。三人の子供がいたが、上石とのあいだにできた子は長男、慧のみで、しかも逮捕された当時はまだ妊娠中だった。裁判が始まった翌年の春、真奈美は慧を出産。その後、真奈美は再婚し、男女ひとりずつの子を産んだという。名前は一真と花音。教育上、いずれの子も真奈美が上石玄の妻だったことは知らされておらず、いまもごく普通に社会人として暮らしているものと思われる......。
小笠原は赤いボールペンを投げだした。集中できない。目で文章を追っても、内容が頭に入ってこなかった。気持ちは逸れるばかりだ。
これで何度めになるだろう。卓上の受話器を手にとった。リダイヤルのボタンを押す。
呼び出し音は数回。すぐさま女性の声が応じた。「東京療寿会医大病院です」
「臨床心理士の嵯峨先生をお願いできますか」
お待ちください。女性の声がそう告げると、受話器から保留中のメロディが流れてきた。
隣りのデスクにいた宮牧が、じろりとこちらを見やる。「悩みがあるなら相談に乗るぜ」
面食らって小笠原はきいた。「なんの話だ?」
「その電話だよ。さっきから臨床心理士に連絡をとろうとしてるじゃねえか」
「ああ......。べつにカウンセリングの予約じゃないんだ」
「ほんとか? ずっと深刻そうじゃねえか。顔いろも悪い。精神的に病んでいる証拠だ」
「それ、おまえの見立てか?」
メロディがやんで、女性の声がきこえてきた。「お待たせしました」
「は、はい」
「嵯峨先生は外出中のようですが」
「......そうですか。わかりました。どうもすみません」
落胆とともに受話器を置く。思わずため息が漏れる。
「ほらみろ」と宮牧がいった。「ため息だ。ストレスが鬱積してる」
「そんなに俺を病人にしたいかよ」小笠原は吐き捨てて、仕事に戻る素振りをしてみせた。
やはり落ち着かない。嵯峨が病院に帰っていないということは、まだ莉子と一緒に外にいるのだろう。
莉子に連絡がとれれば一番早い。しかし、彼女の携帯電話はずっと圏外だった。たぶん電源を切っているのだろう。
俺からの電話を受けたくないと思って、そうしているのだろうか、いや、そんなふうに考えるのは自意識過剰というものだ。彼女には普段の仕事がある。新規の鑑定依頼が一時的に受けられない状況ゆえに、誰からの電話にもでないつもりなのだろう。そう思いたい。
「小笠原」宮牧はゲラに赤ペンを走らせながらいった。「気になってるのは凜田莉子さんのことか」
ふいに図星を突かれ、小笠原はうわずった声をあげた。「ど、どうして?」
「見てりゃわかるよ」と宮牧はぎょろ目で小笠原を見つめてきた。「悪いことはいわない。忘れろ」
「な......。忘れろってどういうことだよ」
「あんな美人、おまえと釣りあうと思うか? 絶対に彼氏がいるって」
「なぜそんな話をする? 凜田さんとはあくまで仕事における付き合いであって......」
「よくいうぜ。なあ小笠原。サラリーマンのうつ病が問題になってる世のなかだ。まずは仕事。出世。それなりの地位と稼ぎがあって、女とは付き合える。恋の情熱は仕事に燃やせよ」
「......おまえがそんなまともなこというなんて」
「このあいだ、荻野さんが俺にいったことの請け売りだけどな」
「おまえも色恋沙汰があったのか? 知らなかった」
「家にいたらいきなり荻野さんから電話がかかってきてな。会社のメールや電話を私用に使うなっていわれた。気をつけたほうがいいぞ。盗聴されてるかもしれねえ」
「まさか......」
笑い飛ばそうとしたとき、ふいに着信音が鳴り響いた。
ぎょっとして小笠原は宮牧を見た。宮牧はすまし顔で見かえしてきた。
宮牧は告げてきた。「鳴ってんの、おまえの携帯だぞ」
心臓の鼓動が早くなる。ひや汗をかきながら、小笠原は携帯電話を取りだして応じた。
「はい。小笠原です」
すると、馴染みのある女性の声がきこえてきた。「あ、小笠原さん。いま忙しい?」
緊張から一転、天にも昇る気持ちとはまさにこのことだった。小笠原はいった。「ええ、凜田さん。だいじょうぶだよ」
隣りで宮牧がデスクの上に視線を戻した。「なんでえ。よかったじゃねえか」
携帯電話から莉子の声がたずねてくる。「調べてほしいことがあるんだけど、お願いできる?」
「いいよ。どんなこと?」
「『ノストラダムスの大予言』って映画。一九七四年公開」
「映画? じゃあ......」
「そう。放火犯の狙いはそのポスターだったみたい。なぜ燃やされてるか真相を突きとめるためには、作品の背景を知らなきゃ」
「なるほど。いかにも鑑定家らしい考え方だね。わかった。できるだけ調べてみるよ」
「お願い。じゃ、また後で連絡するから」
「凜田さんも気をつけて。それじゃ」
電話は切れた。
思わず顔がほころんでいたのか、宮牧が面白くもなさそうにいった。「頼みごとをされただけだってのに、頼られてると勘違いしちまう。男の悪い癖だな」
「そんなんじゃないよ。俺のほうは取材、彼女のほうは鑑定。仕事は違えど、同じ案件で協力しあうパートナーってところだ」
「同床異夢ともいうけどな」
「宮牧」小笠原は腰を浮かせた。「たしか、うちと角川映画の監査役を兼ねてる人がいたっけな。このビルでいつもぶらぶらしてて、映画史にやたらと詳しい......」
「ああ。エレベーターでよく会う人だな。いつも女性社員相手に昔の映画について、まくしたてるみたいに喋くってる。女性社員はたいてい迷惑顔だ」
「時間もらえそりかな」
「暇そうにしてる人だから、問題ないだろ。むしろ話し相手として大歓迎されて、抜けだすのが難しくなりそうだ。俺なら遠慮するね」
「仕事ならそうもいっていられない。行ってくるよ」
立ち去りぎわ、宮牧の声を背にきいた。おい、校正のほうは? ほったらかしでいいのか。
よくはない。しかし、いまはやらねばならないことがある。ノストラダムスの大予言か。莉子を喜ばせるくらいの手がかりをひとつかふたつ、絶対につかまねばならない。それが仕事に貢献し、ひいては社会のためになる。もちろん、自分のためにも。
撮影禁止
午後四時をまわり、都心のビルも長い影を落とす時間になった。それでもまだ夕焼けにはほど遠い。空はひとかけらの赤みも見当たらない。真夏を目前に控えたいま、一日は長くなっている。
凜田莉子は、停車したセダンの後部座席から這いだし、車外に降り立った。
気温はさほど高くなかった。有楽町二丁目にありながら、周りを雑木林に囲まれているせいだろう。
黒塗りの覆面パトカーからは、同行してきた男たちが続々と外にでてきた。後部座席に乗っていた嵯峨と葉山、それに助手席の尾下。
尾下は運転席の私服警官に告げた。「署に戻ってくれ。追って連絡する」
セダンは動きだした。砂利を踏みしめながら、いましがた入ってきた門に向かい徐行していく。門の外は幹線道路だった。すぐさまその流れに加わり、クルマは走り去っていった。
莉子は三人の男たちとともに、ほとんどがら空きの駐車場に取り残された。
嵯峨が目の前の建物を見あげてつぶやく。「風情のあるたたずまいだね」
その通り。歴史ある建造物には違いない。けれどもいまは、そのレトロな雰囲気に酔う気分にはならない。古いぶんだけ消火設備も行き届いていないだろうし、なにより木造ときている。足を踏みいれるのが怖い。
二階建てながら左右に幅広い洋館は、イギリスのチューダー朝時代の建築様式を模していて、まさしく絵本にでもでてくるような外観だった。ハンマービームのトラスに切妻屋根、レンガの煙突。雑木林の向こうに有楽町マリオンのビルが見えなければ、外国の風景と見まごうほどだ。
莉子はつぶやいた。「ここに『ノストラダムスの大予言』のポスターが......?」
「そうです」尾下が歩み寄ってきた。「日比谷グラビティホテル。昔の名前は東宝グラビティホテル。知ってのとおり、この界隈は阪急阪神東宝グループの管理するビルが林立しています。ここも以前はそのひとつで、来日した海外のスターを泊まらせることもあったようです。その後売却されて帝国ホテルの別館として使われ、いまは列島トラベルリゾートっていう、国内ツアー会社の経営で細々とやってるって話で」
「なぜ衰退したんでしょうか?」
「キャパに問題があったらしいです。ご覧のように洋館としては大きくても、ホテルとしては小規模ですからね。団体が入りにくいということもあったんでしょう。現在は食事抜きの素泊まりで、低価格で泊まれる宿として、ビジネスホテルがわりに使われるケースがほとんどだそうです」
葉山が怪訝な面持ちでつぶやいた。「本当にいまでもポスター飾ってあるのかよ」
尾下はむっとした。「当然、確認済みだ。映画がらみの展示室は、ホテルが東宝の傘下だったころから変わらず保存されている。現在、宿泊客には非公開になってるが、年にいちどだけ見学日が設けられる。そのニュースは新聞記事にもなっているし、訪問者がネット上のブログで触れていたりする」
嵯峨が唸った。「つまり、ポスターの存在は公になっているわけですね」
「ええ」尾下はうなずいた。「不特定多数が『ノストラダムスの大予言』の現存を知っている唯一の場所です。しかも、うちの管内ですからね。放火犯が牛込署管内からこっちに足を延ばしてきて、けさの国際フォーフムでのボヤ騒ぎ。次にここを狙う可能性は極めて高いでしょう。もう見張られているかもしれない」
葉山は歩きだした。「外での立ち話は好ましくないな。さっさとなかに入ろう」
三人は互いに顔を見合わせながら、葉山につづいて短い階段をのぼり、アーチをくぐって扉のなかに進んだ。
薄暗いホールは、チークと大理石がふんだんに用いられながらも、英国風の上品で質素な印象を残していた。シャンデリアの下、正面には二階につづく大階段があって、赤絨毯が敷かれている。傍らにはクロークとチェックインカウンターがあって、ここがホテルであることを再認識させる。
カウンターのなかにいた、やせ細った初老の男が駆けだしてきた。頭頂部は薄くなっていて、老眼鏡のせいで目が異様に大きくみえる。執事風の装いでもしていればぴったりだろうが、残念なことに単なる開襟シャツにスラックス姿だった。
男は愛想よく声を張りあげた。「どうもどうも。丸の内署のかたですね」
一同は困惑ぎみに視線を交錯させた。葉山に至っては苦々しい顔を尾下に向けている。
尾下はため息まじりに男に告げた。「小さな声でお願いします。われわれが警察だとはおっしゃらないように」
「ああ」男は声をひそめたが、妙に乾いた笑顔はそのままだった。「こりゃどうも、気がつきませんで」
「管理人の篠塚さんですか」と尾下はきいた。
「ええ。お待ちしていましたよ」
「展示室に変わったことは......」
「いまのところ何も。ご覧になりますか」
「ぜひ拝見したいですね」
じゃあ、どうぞこちらへ。篠塚はカウンターに立ち寄り、鍵の束を手にすると。大階段の脇から奥へと入っていった。
尾下がそれにつづく。莉子たちも歩調を合わせて歩きだした。
ホールの奥に廊下への入り口があったが、その左右には金の支柱が置いてあって、赤い仕切りロープが張られていた。一般客は立ち入り禁止ということらしい。篠塚は支柱からロープを外し、一同を招きいれると、またロープを元に戻した。
廊下を進みながら篠塚は告げた。「上は客室ばかりです。一階のこの扉のなかはレストランだったんですが、たまに催しで使うぐらいです。展示室はこの奥です」
葉山がきいた。「篠塚さんは、ここに長くお勤めですか」
「いえ。五年ぐらいです。いまの会社がオーナーになって以降なので、お客さんにあれこれ尋ねられても、なにも答えられませんで。困ってますよ」
「お勤めになるきっかけは......」
「求人募集を見まして。近くに住んでたもんですから応募したんです。私も定年を迎えて、しかも独り身だったんで」
特にホテルや映画ポスターに思いいれはなさそうな口ぶりだった。働いている人にしてみれば、そんなものかもしれない。
何度か角を折れて、観音開きの扉に突き当たった。篠塚が鍵を取りだし、解錠にかかる。
建てつけが悪いのか、きしむ扉だった。それを押し開け、篠塚は暗闇のなかに歩を進めていった。
ぱちんとスイッチの入る音がした。室内に明かりが灯る。同時に、莉子は思わず感嘆の声をあげた。
さっきのホールよりはひとまわり狭いが、絢爛豪華な内装の展示室だった。チューダー式というより、ゴシックに近いかもしれない。高い天井はアーチ型になっていて。床は継ぎ目のないモスグリーンの絨毯に覆われている。窓はなかった。壁ぎわにはずらりと金メッキの額縁が並び、古い邦画のポスターが整然とおさまっている。
室内には四角い柱が何本かあって、それぞれの前には大きなガラスケースが備えられていた。ポスター以外の展示物がおさまっている。とりわけ正面の柱を背に立つ、戦国時代の鎧が目をひく。
「ほう」尾下が足を踏みいれながらいった。「すごいですね。まるで美術館だ。この鎧は、黒澤映画か何かで使われたものですか?」
少し間をおいて。篠塚が口ごもりながら応じた。「ええ、まあ......そんなようなものですかね」
尾下が鎧の前で立ちどまった。ガラスケースのなかにある説明書きに目を落とす。「『川中島合戦』、一九四一年、東宝......」
篠塚がいった。「衣笠貞之助監督、って書いてありますね」
「ふうん」尾下の声は覚めたような響きを帯びていた。「ずいぶん古いものですね」
「そうですねぇ。一九四一年ですからね。真珠湾攻撃とかの年ですね」
沈黙があった。尾下はしらけたような顔になり、ぶらりと鎧の前を離れた。
管理人とはいえ、篠塚は展示品についてまるで不勉強のようだった。おそらくここに勤めることになった経緯も、自身の主張どおりなのだろう。
莉子はポスターを見てまわった。国際フォーラムで見た物より、さらに昔の映画が多い。『南国太平記』、一九三七年。『嵐に咲く花』、一九四〇年。『維新前夜』、一九四一年......。
やがてゴジラ映画が展示してある辺りから、急速に時代は新しくなった。六十年代の『東京オリンピック』や『血と砂』など、莉子もカタログで見たことがあるポスターが増えてきた。
そして七十年代のコーナー。問題のポスターがそこにあった。
一枚だけ横長になっている。図柄は国際フォーラムのパンフに掲載されていた物とまるで同じだった。さすが東宝系列のホテルだっただけに、保存状態は完璧に近かった。皺もなければ、染みも退色も見当たらない。
パンフの縮小された写真では、ケレン味に溢れた図柄という印象だったが、こうして実物大で見ると迫力があった。時代を感じさせる絵ではあるが、シュールな趣きもある。芸術としての価値は未知数だが、熱心なコレクターがいてもふしぎではない。そんな独特の存在感があった。
左下の隅、マンモスの絵の下あたりに映画館のスタンプが確認できた。莉子は読みあげた。「日比谷映劇......」
近づいてきた嵯峨がいった。「国際フォーラムで燃やされたポスターも、日比谷映劇のスタンプ入りだったよね。たしか」
「ええ。ここは有楽町だし、すぐ近くのメイン上映館のポスターを持ってきて展示するのはおかしくないけど......。偶然かなぁ」
「一枚三十万円って、どれくらいの希少価値なんだろ。実際のところ、全国に何枚ぐらい残ってるのかな?」
「さあ......。映画自体が無かったことにされている以上、コアなファンが人知れず抱えこんでいるケースがほとんどだろうから......正確なところは、なんともいえないかも」
嵯峨は振りかえった。「尾下さん。事件の詳細は、マスコミに伝えてあるんですか」
尾下は眉をひそめた。「というと?」
「『ノストラダムスの大予言』のポスターを狙った連続放火事件。そんなふうに報じられるんでしょうか」
「いや。夕方のニュースで第一報がでるとは思いますが、ある映画のポスターとしか表現されないでしょう。作品名までは公表できないというのが本庁の意向です」
「それは......よくないですね」
「どうして?」
「いつ標的にされるかもしれないポスターの持ち主たちが、全国津々浦々で何も知らされないまま暮らしている。報道を通じて警告を発すれば、彼らはポスターを手放す決断に踏みきるかもしれない。警察がポスターを郵送で受け付けてしまえば、彼らの身は安全になるでしょう」
ところが、葉山が口をはさんできた。「嵯峨先生。それは違いますよ」
「違う?」嵯峨は面食らったようすだった。
「いいですか。マスコミが騒ぎ立てたら、犯人の狙いどころか全国民に知れ渡ってしまいます。存在を消された映画ってこともあり、たちまち面白がって同じ行為に及ぼうとする模倣犯が続出するでしょう。むしろ真犯人による放火は鳴りを潜め、模倣犯ばかりが多発する事態になりかねないんです。ポスターの持ち主たちを、より危険に晒すことになります」
嵯峨は驚いたようすだったが、やがて納得したように視線を落とした。「......なるほど。たしかに」
尾下が穏やかにいった。「問題はそれに留まりません。一連の放火が、このポスターの価値を高めようとする者による犯行なら、当然その人物は同じポスターを持っているわけです。次々にポスターが燃やされていって、最後に残った一枚の所有者が犯人だというのなら、これはわかりやすい。でも報道で騒ぎになれば、自分のポスターは燃やされたことにして被害者を装う可能性もでてくる。被疑者を絞りこむのが困難になります」
「すると」嵯峨は硬い顔になった。「全国のポスターの持ち主たちは容疑者候補であると同時に、囮でもあるわけですか」
「ええ」葉山はあっさりと認める意思をしめしてきた。「我々にしてみればそうです。ただし、嵯峨先生。私たちはいま、そのなかでも次に狙われる可能性が最も高いポスターの前に立っているんです。ここで待っていれば、犯人は必ずやってきます」
尾下が篠塚にきいた。「消火設備は?」
「ええと」篠塚は廊下を指差した。「扉の外に消火器があります。あと、この部屋にも火災報知機が」
莉子は天井を見あげたが、センサーらしきものはなかった。辺りを見まわすと、柱の上部にひとつだけ、埃をかぶった円形の物体が備えつけてあった。しかし......。
「これって」莉子はつぶやいた。「煙を感知するだけの簡易的なセンサーですよね。それもずいぶん昔のタイプだし......。宿泊施設なら、熱と煙のどちらにも反応するセンサーの設置が義務づけられていると思うんですけど」
篠塚は困惑顔でいった。「ずっと使ってない部屋なんで......。オーナーの列島トラベルリゾートさんにいってくださいよ」
葉山がため息をついた。「なら、万一に備えて『ノストラダムスの大予言』のポスターだけ、別の場所に移動させよう」
「いや」篠塚はあわてたようすで首を横に振った。「それこそ論外ですよ。列島トラベルリゾートさんの許可なしに、展示品を移動させちゃいけません。私がクビになっちゃいますよ」
尾下は唸った。「では警官を見張りに立たせましょう。きょうから何日間かだけでも」
「駄目ですって」篠塚は頑なにいった。「展示室自体、本当は誰も入れちゃいけないんです。きょうは少しだけっていうからお通ししたのに......」
「やれやれ」尾下は頭をかきながら天井を見渡した。「防犯カメラも見当たらないし......。では、こうしましょう。録画用のカメラを置かせてもらいます。あちらの隅にね。それならいいでしょう」
篠塚はいっそう渋い顔になり、壁ぎわを指差した。「申しわけないんですが、あの注意書きが見えるでしょう?」
そこには、ひどく古びた木製の札がかかっていた。〝カメラ設置禁止〟と記してある。
尾下は目を丸くした。「放火犯が狙っているんですよ。それにわれわれは警察です」
「どなただろうと、オーナーの指示には従ってください」篠塚は語気を強めた。「好き放題にやられたんじゃ、管理人として立つ瀬がありません」
ブログには、見学した人の写真が載ってましたよ。それなのに撮影禁止だっていうんですか」
「撮影禁止じゃないです。カメラを設置しちゃいかんのです」
「なんでそんな理不尽な規則......」
莉子はいった。「尾下さん。たぶんオーナー企業さんは、この展示室が作られたころからの決まりごとを踏襲しているだけです」
尾下は妙な顔をした。「どういう意味ですか」
フィルム式の映画用カメラの設置撮影を禁じていたんでしょう。昔はモーターが焼けて火災につながる可能性があったからです」
うんざりしたように葉山が告げてくる。「凜田さん。いまや動画もHDDの時代ですよ」
「当時は違ったんです。見てのとおり天井には、かつては発火の危険が少ないとされていたタングステン電球を使っていた形跡がある。昔なりに火事には気をつけていたんです。ここをスタジオかわりに使うなという映画会社さんの意向でしょう」
葉山は吐き捨てた。「時代錯誤もいいところだ。二十一世紀のデジカメは、この木札のいうカメラには当たらない。それでいいでしょう」
篠塚は悲痛な声をあげた。「よくないですよ! どうか、私のためだと思ってあきらめてください。融通が利かないと思われても結構。オーナーが申し渡したことは、守らにゃならんのです」
「なあ」葉山は尾下を見つめた。「列島トラベルリゾートとやらに電話したらどうだ。そのほうが早いだろ」
尾下は腕時計を見た。「たしかにそうなんだが、もう五時をまわってる。担当者と電話が通じるかどうか」
「ちっ」葉山は舌打ちした。「消防法の改正に従ってもいないホテルの規則を、こっちは守らないといけないってのか。ありえない話だろ」
嵯峨がいさめるようにいった。「葉山さん......。公務員もマニュアルに従うのは職務上の原則でしょう。たとえ受けいれがたいことであっても。そうじゃありませんか?」
葉山と尾下は顔を見合わせ、無言のままたたずんだ。
警備も、防犯カメラの設置もできない。厄介な状況だった。だが、犯人がこのポスターを狙うであろうことは、まず疑いようがない。
どうすればいいだろう。莉子は思考を巡らせたが、答えはでなかった。
やがて尾下がいった。「篠塚さん。今夜の宿泊客は?」
「ええと......。十人ぐらいですかね」
「部屋は空いてますか?」
「そりゃ、半分ぐらいは空き部屋ですが......。お泊まりになるんですか?」
尾下はきっぱりと告げた。「私はそうする。放火犯が来るとわかっているんだ、みすみす逃す手はない。現行犯逮捕の絶好の機会だ」
すると、葉山も神妙にうなずいた。「だな。今夜の犯行になる可能性はきわめて高い。署の許可がおりたら、私も泊まろう。さいわいこの展示室には窓もないし、侵入経路は扉ひとつだけだ。不審者が姿を見せれば、すぐ取り押さえられる」
篠塚が瓢々といった。「じゃあ、おふたりさまご宿泊ってことで......。ダブルの部屋でいいですか?」
葉山が声を荒らげた。「馬鹿いえ」
尾下も憤りをあらわにした。「ツインにきまっているだろう」
「あいにくツインのお部屋は空きがないんです。シングルでしたら六部屋ほど空いてますか......」
「じゃ、当然シングルふたつだ。領収書は別々にしてくれ」
「ああ」葉山がうなずいた。「そうしてもらおう。よその所轄と一緒じゃ経費は落ちん」
篠塚はかしこまって扉に向かいだした。「わかりました。じゃ、みなさま。受付にどうぞ......」
ふたりの警部補が憤然としたようすで廊下にでていく。
それを見送った嵯峨が、莉子を振りかえった。「きみはどうする?」
「どうするって......」莉子は笑顔がひきつるのを感じながらいった。「わたしもダブルは遠慮します」
嵯峨は目を丸くした。「そりゃそうだろうけど......泊まる気かい?」
「もちろん」と莉子はうなずいてみせた。「すべてがあきらかになるかもしれない夜だもの。泊まらず帰るなんてありえない」
歌舞伎町
ここが新宿ゴールデン街か。きたのはこれが初めてだ。
小笠原悠斗は感銘と困惑の入り混じった複雑な気分とともに、その街角にたたずんでいた。
夕方五時半。傾きかけた紅いろの陽射しと相まって、狭い路地を挟んで左右に軒を連ねる木造長屋建てのミニチュアのような店舗は、まさに昭和の風情そのものだった。
どの店の看板も無造作に路地にはみだしている。建物は老朽化し、崩れかかって見える家屋さえある。割れたガラスをガムテープで補修してある窓もあった。店先に停められたカブの単車は埃をかぶり、錆びついたまま放置されていた。
けれどもよく目を凝らせば、無法地帯のような印象をかもしだしているのは、そこかしこに点在する閉店した店舗のせいだとわかる。
たしかに建物は古いままだが、一階の内装は新しくしている店が多かった。七、八人も入ればすし詰め状態で満員となるような、ちっぽけなバーやスナックがそれぞれに趣向を凝らし、路地の果てまで延々とつづいている。
昔は出版人が通い詰める店も数多くあったときくが、角川書店に入社してたった四年の小笠原には無縁の話だった。
文芸誌に関わっているわけではないので作家とのつきあいもないし、わずかに知り合いになった小説家や漫画家はいずれも若く、裕福で自己主張しないタイプばかりだ。なにより誰ひとり酒を飲まないので、この街に来るとは考えられない。
小笠原も同様だった。若い世代の客が増えているとさかんに喧伝されても、退社後にここで飲もうという気にはなれない。帰宅して自分の好きなことをして過ごすほうがずっといい。
そんな小笠原にとって、住所の表記もあいまいなゴールデン街のなかの一店舗を探しあてるのは至難のわざだった。
角川映画の監査役にきいた店の所在地のメモと、周りの店舗を見比べる。歌舞伎町一-一-七、花園三番街といえばこの通りで間違いない。店名は『バー・カサブランカ』......。
はっと目の前の白い看板に気づく。これだ。やたらと癖のある字体で Casablanca と記してある。
両隣りの店よりもさらにこぢんまりとした、まさしく隙間に押しこまれたような店構えだった。これといって装飾もなく、扉がひとつあるだけだ。営業しているのだろうか。
扉をそろそろと開けて、なかに入る。「こんばんは」
店内は、異様に思えるほどの狭さだった。すぐ目の前にカウンターがある。客用の椅子はわずかに三脚、扉とカウンターのあいだに押しこまれていた。
窓はなく、薄暗かった。よく見ると、壁には映画のポスターがびっしりと貼りめぐらされていた。
カウンターのなかに、ひとりの痩せた男が座っている。年齢は六十過ぎ。とろんとした目つき、真っ白な髭をたくわえていて、なぜかスキー帽をかぶっている。着ている物も薄汚れたセーターだ。この季節に暑くないのだろうか。
「客?」と男はきいてきた。
「ええ。まあ、そのう......」小笠原は返答に困りながらいった。「元映画監督の嬉野公平さんですよね?」
「......そうだよ。なんか用?」
「一九七〇年代の日本映画にお詳しいとききまして、お話をうかがえればと」
「そんな噂、誰にきいた?」
「ええと......私、角川書店という会社に勤めておりまして、弊社と角川映画の監査役を務めております......」
「ああ!」嬉野はいきなり声を張りあげた。「彼か。あー。出世頭だな。偉くなったもんだ。俺は取り残されてこのざまだ。知ってるか、俺とあいつは学生映画を一緒に......」
その話なら監査役から長々ときかされたばかりだ。映画製作に関わりたいのに会計監査にまわされたという愚痴とともに、思い出話を二時間以上も披露された。
これ以上はご免こうむりたい。そう感じながら小笠原はいった。「嬉野さんは、メジャーな映画会社の助監督もお務めになったんですよね。東宝とか東映、松竹の......」
嬉野は焦点の定まらない目で見返してきたが、その理由はすぐにわかった。震える手でグラスをつかみあげ、琥珀いろの液体を口に流しこむ。グラスがからになると、棚からウィスキーのボトルをひったくって注ぎいれた。こぼれてもおかまいなしだ。
こんな時間から、かなり酔っぱらっているらしい。いや、おそらくこの人物にとっては、昼も夜もないのだろう。
「そうそう」嬉野は呂律のまわらない口調で告げてきた。「俺ぁ監督としてはな、つまらん子供映画と、どうでもいい交通安全映画を二本撮らされただけだ。あとの仕事はぜんぶ助監。世のなかつまんねえ映画ばかりで、俺に撮らせろってんだよ。あいつにもいっとけ」
「......つかぬことをおうかがいしますが、嬉野さん。『ノストラダムスの大予言』って映画、スタッフとして参加されましたよね?」
「あん? ああ......。誰にきいたんだ。そうか、あいつか。よく覚えてたな」
「助監督をお務めになったわけですか?」
「いや。助監じゃねえんだ。あれはな、応援ってやつだ、つまり、手が足りないときに、臨時雇いみたいに連れてこられるわけよ。なんの映画かもよくわからんまま、使い走りをやらされるわけだ。サードの助監がいばっててよ。サードごときのくせに。いや、ありゃ別の映画だったか......」
「当時のスタッフと、まだお付き合いはありますか?」
「......ないな。それっきりだ。俺らの仕事はな、部活みたいなもんだ。あるいは土木建築だな。親方にいわれるままやる。何してんのか、どんな映画とか、よくわからねえまま、とにかく働くんだ」
小笠原はひそかに落胆を禁じえなかった。監査役からも期待するなといわれていたが、やはり嬉野は『ノストラダムスの大予言』の現場を経験したとはいえ、内情については何も知らないらしい。
当時の関係者なら、闇に葬られた映画の知られざる真実を握っているのでは。小笠原はそこに一縷の望みを掛けていたが、見事に外れた。記者の勘というものは、まだまだ俺には備わりそうにない。
内心失望しつつも、小笠原は嬉野にきいた。「あの映画は上映を自粛しちゃいましたけど、その経緯について、なにかご存じないですか?」
「知らんな。なんかの団体に反対されたとか、そういうことじゃなかったか」
「......はあ。そうですか」
「あの映画、復活しそうな気配があるだろ。だからたぶん、また躍起になって封じこめようとする連中がでてくるかもな」
鈍い感触が小笠原のなかに走った。「復活って?」
「ビデオやDVDはでてないけどな、劇中の音声を収録したドラマCDってのは発売になったんだよ。俺はこの歳だからパソコンとか触れんけれども、なんだったかな、オークション......」
「ネットオークションですか?」
「そう、それ。息子にきいたが、海賊版がよく売れてるそうじゃねえか。こりゃ儲かるってんで正式に再発売が実現したら、当時反対してた人たちは怒るだろうな。もう全力で阻止にかかるんじゃねえか」
......その可能性はどれくらいあるのだろう。小笠原は考えた。四十年近くも前の映画。抗議行動を起こした人々も、それだけ歳をとっている。果たして今に至ってもなお、闇に埋もれた映画が息を吹き返すことに警戒心を抱いているだろうか。
しかし、もしそういう人間がいると仮定したら、どうなるだろう。『ノストラダムスの大予言』を地上から抹殺したいと本気で願う者がいたとする。ポスターが現在も残り、レアアイテムとして高く取り引きされている。映画グッズ店で扱われ、展示会でも公開されている。その事実を知ったら......。
嬉野がふいに、小笠原の顔をじっと見つめてきた。「おまえさん、あのポスター見たいか」
「え......?」
「『ノストラダムスの大予言』なら、たしか二階にあるぞ」
小笠原は驚いた。「二階って、ここの上ですか」
「ああ。店舗兼住宅だからな。ほかを借りるより安いんで、上の部屋に住んでる」
「ぜひ拝見したいです」
嬉野は、ふらつきながら腰を浮かせた。「裏にまわらなきゃな。そこくぐれ」
指し示されたのは、カウンターの下部にある小さな戸口だった。小笠原は姿勢を低くした。床を這うようにして、なんとかカウンターのなかへと潜りこんだ。
床はひどく汚かった。空き瓶が散乱している。嬉野は、ぶらりと奥の厨房に入っていった。小笠原もそれにつづいた。ひと坪あるかないかのスペースだった。棚から突きだした調理器具のせいで、まっすぐ歩くこともままならない。嬉野はそれらを押しのけ、勝手口を開けて外にでていった。
小笠原も店の裏側にでた、店舗のバックヤードが向かい合わせになっている、猥雑な印象の舞台裏だった。山積みになったビールケースの傍らに、アルミ製の細い階段があった。階段は二階に伸びている。高さはさほどでもないが、階段の角度はずいぶん急で、足場も狭い。まるで梯子のようだ。それでも嬉野は器用にのぼっていく。
後を追いながら、小笠原は話しかけた。「ポスターはどのように入手されたんですか? スタッフとして参加した記念にもらったとか......」
「いや」嬉野は階段をのぼりつづけながらいった。「現場なんてものは、クランクアップしたら応援の連中はみんなお払い箱よ。その何か月か後に、俺は日比谷映劇で切符もぎりのバイトをして食いつないでた。それで公開終了日に支配人に頼んでもらったんだ。ま、記念だな」
やがて嬉野は階段をのぼりきった。サッシを開けて、二階に潜りこみながらいう。「おまえさん、靴は脱げよ」
戸口まで到達して、小笠原は室内を覗きこんだ。
三畳ほどの和室だった。敷きっぱなしのフトン、それに半開きのふすまが見える。ゴミ袋が大量に蓄積されていて、異臭も漂っていた。生ゴミを放置しているのだろうか。
どうやって靴を脱ごうかと思案しだしたそのとき、いきなり室内に物音がした。
ふすまを開けて、人影が飛びだしたのが見えた。ひっ、嬉野が声をあげてふらつき、床に尻もちをついた。
侵入者は男だった。痩せていて小柄。髪は長くしている。チェックのシャツにデニム姿。ポスターの筒を一本、手にしている。
確認できたのはそこまでだった。男は店の表に面した窓を開けて、外に身を躍らせた。
「ま、待て!」嬉野が叫び声をあげた。「泥棒!」
小笠原は階段を駆け下りようとして、足を踏みはずした。とっさに両手で階段にしがみつき、滑り落ちるのは防げたものの、向こうずねを打った。激痛が走る。けれども、ぐずぐずしてはいられない。
ほどなく地面に足がついた。痛みをこらえながら勝手口に飛びこみ、調理器具にぶつかりながら厨房を抜け、カウンターをくぐった。扉を開けて、路地に駆けだす。
すぐさま逃亡者が目に入った。長髪を振り乱しながら、区役所通りのほうに逃げていく。
小笠原は走りだした。全力で男の背を追った。
路地は狭くとも、通行人はまだ少なく、走るための支障はさほどない。しかし条件は、追われる者にとっても同等だった。男はポスターを握ったまま、やすやすと交通量の多い区役所通りにでていった。
ひたすら男を追う。小笠原が路地から抜けだしたとき、男は車道を駆けていた。信号待ちで停車中のタクシーに正面からぶつかり、ボンネットに上半身を乗りあげた。
だがそれも一瞬のことで、男は横方向に転がってボンネットから下りると、姿勢を立てなおして歌舞伎町の脇道に逃げこんでいった。
小笠原もそちらに向かったが、不案内なこの界隈での追跡はあきらかに分が悪かった。靖国通りや西武新宿駅近くならいざ知らず、歌舞伎町のこちら側はふだん寄りつかない。
歩は自然に緩んだ。息を切らしながら路地から路地へと探しまわる。ゴールデン街よりは行き交う人も多かった。ほとんどはスーツ姿だ。チェックのシャツは見当たらない。
路地の名称だけは、アーチや街路灯の看板の表示でわかった。区役所裏の東通りから桜通りに向かい、ひとけのない狭い路地裏に迷いこんだ。
そこで小笠原は、異様な光景をまのあたりにした。
誰もいない道の真ん中に、燃えているものがある。
ゆっくりと歩み寄る。すぐに炎はおさまり、燃えかすがくすぶりだしていた。
風が吹いた。炭状に黒く変色した紙片が、細かく砕けながら転がってくる。それらは落ち葉のように小笠原の足にまとわりついた。
男が持ちだしたポスターのなれの果てだった。
やはり。いまの男が放火犯だったか......。
膝の力が抜ける。小笠原は思わずその場にへたりこんだ。
封印
その夜、莉子は日比谷グラビティホテルにチェックインしたものの、午前零時を過ぎてもなお、自分の部屋に籠もることはなかった。
同じく宿泊をきめた嵯峨や、ふたりの警部補についても同様だった。莉子は彼らとともに、一階ホールの大階段の裏にあるソファセットに腰をおろし、無言のうちに時間が過ぎるのを待っていた。
管理人の篠塚もいた。葉山は展示室の鍵を貸してくれればそれでいいと告げたが、篠塚は同席する意思をしめした。鍵は一本しかなく手放せないので、自分も一緒にいるというのが彼の主張だった。お好きにどうぞ、と葉山は投げやりな口調で応じた。
このホールにいる限り、侵入者がいればすぐにわかる。展示室につづく廊下は、ホールを通らないかぎり立ち入れない。
けれども、それだけでは不安だった。警部補たちは、朝を迎えるまで交替で展示室を見回りに行く案を検討しはじめた。
がんじがらめの規則のせいで、展示室にデジカメを置くことさえできない。警部補たちが考えだしたプランは、規制をかいくぐるようなややこしい手順を踏んでいた。
まず、見回りの頻度。これは一時間ごとにおこなうことにきまった。ただし、全員で動いたのでは誰も仮眠がとれないうえに、足音が響いて宿泊客から苦情がでると篠塚が難色を示したため、ひとりずつの交替制になった。
それから、展示室の扉に鍵をかけるだけでは不安なため、以下のような手製の封印を用いることにした。
ガムテープを用意し、一本十センチずつの長さに切断する。これらに、一時間ごとの時刻をマーカーペンで書きこむ。11PM、0AM、1AM......。
それらのガムテープ製ステッカーは、ソファセットの中央にあるガラステーブルの側面に、端だけ貼りつけてぶら下げておく。
毎時間、ひとりの見張りが展示室にでかけるときに、動画撮影可能なデジカメとともに、現在の時刻が書かれたガムテープを持っていくのが義務だ。
見回りの人間は常に、展示室に入る前に撮影を開始せねばならない。左手でカメラを持ち、右手は扉に伸ばす。カメラは、その右手の動きを撮影しつづける。前の見回りが扉に貼っていった封印、すなわち一時間前の時刻が表記されたガムテープをはがし、扉を開けて、展示室に入る。
赤外線撮影が可能なカメラなので、明かりを点けずに室内を撮影。異常がないことを確認する。
そして部屋をでて、扉に鍵をかける。新たに持ってきたガムテープを貼りつけるところまで自分の手で撮影し、廊下を戻る。
夕食時にその提案をきいたとき、嵯峨は戸惑ったようすできいた。「そんな手間のかかるやり方が、本当に必要ですか?」
「ええ」葉山はうなずいた。「これなら、もし侵入者がいた場合、前後の映像をチェックすることによって、ガムテープが剥がされたか否かがわかります」
尾下も同意をしめした。「最近の映像解析の技術はすごいんです。たとえカメラの角度や明るさが違っていたりして、撮影条件が異なっていても、対象物に変化があるかないかを正確に判断できるんです。すなわちこの場合、ガムテープが一ミリでもずれていたり、あるいは前になかった皺が入っていたりすれば、専用ソフトでただちに判明するわけです」
見回りは葉山、尾下、嵯峨の三人でおこなわれることになった。
莉子は、女性を危険な目には遭わせられないという彼らの判断により、ローテーションから外された。
管理人の篠塚は、みずからローテーションに加わることを希望したが、警部補たちに却下された。見回りは私たちだけでおこなう、葉山はそっけなくそういった。
篠塚は一瞬、不満そうな面持ちになったが、すぐに気を取り直したようだった。警部補さんたちの好きになさってください、篠塚は笑顔でそう告げてきた。
一同にコーヒーを運ぶなど、かいがいしく働く篠塚の姿を見るにつけ、莉子は申しわけない気分になった。こちらから押しかけて協力を求めておいて、管理人の彼をも疑うなんて。
とはいえ、現状においては仕方のないことだった。初対面の人間は誰ひとり信用できない。
最初の見回りは午後十一時におこなわれた。葉山がデジカメとガムテープを手にして廊下に向かう。
ほんの五分ほどで、葉山は戻ってきた。デジカメの小さな液晶画面を全員が覗きこんで、いましがた葉山が撮ってきた映像を確認する。
すでに貼ってあったガムテープを剥がす葉山の手が映っていた。それから扉が開き、室内にカメラが向けられる。暗視撮影は良好だった。モノクロながら、細部まではっきり見える。異常はなさそうだった。それから廊下にでて、扉を閉じて鍵をかけ、新たなガムテープが貼られる。そこまでの動作がおさめられていた。
嵯峨がいった。「水も漏らさぬ厳重なチェックだね」
莉子も同意した。「これなら不審者も入りこめないでしょう」
一時間後の午前零時、尾下が見回りに立った。
さすがに二度目になると、当初の緊張感は失せつつあった。戻ってきた尾下がデジカメを再生する。全員は無言でモニターを見つめ、動画が終わると、それぞれソファにぐったりと身をあずけた。
午前一時。莉子は睡魔に襲われていた。ほかの全員も同様らしい。誰も、ひとことも口をきかなかった。篠塚が用意してくれた毛布が心地よい眠気を誘う。それでも頑張って起きつづけた。
嵯峨がデジカメとガムテープを持って出かけ、数分後に帰ってきた。動画の再生が始まったが、一同の態度は緩慢なものだった。
尾下が眠たげな顔で、葉山に声をかける。「おい。起きろ。嵯峨先生の見回りの映像だ」葉山はソファの背に顔をうずめるようにして寝ていた。顔を起こし、喉にからむ声で告げる。「いま観なくてもいいんじゃないか」
「馬鹿いうな。見回りの手順を決めたのは俺たちなんだぞ」
嵯峨も顔をしかめた。「そうですよ。ちゃんと観てくださいよ」
さもおっくうそうに身体を起こしながら、葉山がいった。「わかりましたよ。どれ」
いままでとなんら変わるところがない動画。問題のない室内。また閉じた扉にガムテープが貼られ、終了。
全員がすぐさまソファに突っ伏す。深い眠りに落ちてしまいそうだ。莉子は覚醒を維持しようと努力しながら、目だけは休ませようと閉じていた。
それ以降は、何度かうとうとしたものの、一時間おきにおこなわれる見回りの際にはなんとか目覚めて、動画を確認した。
午前二時、葉山。午前三時、尾下。午前四時、嵯峨。いずれもまったく同じことの繰り返し。異常などまるで見当たらない展示室内、新たに貼られるガムテープ。ひたすら事務的な確認だけが反復される。
侵入者など、現れるはずがない。そんな空気が濃厚になってきた。階上から下りてくる者はひとりもいない。宿泊客はみな寝静まっているようだ。玄関を入ってくる者も皆無だった。
まだ外が暗い。夜明け前だった。莉子が伸びをしたとき、篠塚がカウンターから何かを取りだしてきた。
それはトランプだった。篠塚はいった。「眠気覚ましに七並べでもやります?」
一同は無反応だった。おかしな提案を笑い飛ばす気力すら残っていないようだった。むしろ、七並べも悪くない。暇を持て余していると眠ってしまいそうだ。莉子はそう感じた。
嵯峨がぐったりとした状態でつぶやいた。「凜田さん。起きてる?」
「ええ」莉子は毛布にくるまったまま応じた。「起きてますよ」
「このいびきは誰?」
莉子は耳をすました。「......葉山さんじゃないですか?」
「尾下さん」嵯峨は呼びかけたが、静寂だけがつづいた。「尾下さんも寝てるみたいだ」
「いま何時ですか」と莉子はきいた。
嵯峨は物憂げに腕時計を見やった。「四時四十二分」
「もう少しで葉山さんの番ですね」
「凜田さん。......何のためにこんなことしてるんだっけ、僕らは」
「そりゃあ......。『ノストラダムスの大予言』のポスターがここにあって......」
「ああ、そうだったね。忘れかけてたよ」
「わたしも。なんだかすぐに思いだせなかったりして」
「眠いのはよくないね。ひさしぶりに実感したよ。睡眠はちゃんととるべきだ」
「臨床心理士の嵯峨先生がいうからには、そうでしょうね」
「ねえ、凜田さん。もうすぐ夜が明けるけど......。きょうの晩はどうするの?」
「きょうって?」
「もうとっくに日が変わっているわけだから、きょうの晩ってのは......」
「ああ、今夜ですか。さあ......。葉山さんたちはどうするつもりなんだろ」
「思うんだけどさ、もっと私服警官の人数を増やして泊まらせるべきじゃないのかな」
「そうですね。なぜ警部補さんたちだけなんでしょう」
「自分の手で逮捕したいってことなのかな。給料があがるとか」
ふいに尾下の声がした。「残念ながら、捜査一係の査定はノルマ制というわけでもないんです。部下を多く配置したら侵入者を警戒させてしまう。それだけですよ」
莉子は頭を起こして尾下を見た。「起きてたんですか」
「寝ちゃいませんよ」
嵯峨は笑った。「さっき呼びかけに応じませんでしたけど」
尾下はコーヒーカップに手を伸ばした。「休んでいただけです。牛込署の警部補とは違います」
葉山が起きがけの声でいった。「俺の悪口か。寝てないぞ俺は」
「嘘をいえ」と尾下は苦笑した。
莉子も、嵯峨と顔を見合わせた。思わず笑みがこぼれる。嵯峨の目の下にはくまができていた。
わたしの顔も相当やつれているのだろう。鏡を見るのが怖い。
しかし、放火犯はどうして現れないのだろう。茅根の家とムービーアレイを立てつづけに襲った手際のよさから考えて、国際フォーラムの次はここだと警部補たちは睨んでいた。その読みが外れたのだろうか。あるいは警戒されているのを察知したか、侵入が難しいと判断してあきらめたか......。
思考が鈍い。熟考しようとしても眠気のほうが勝ってしまう。また瞼が重くなってきた。
そのとき、けたたましいベルの音が鳴り響いた。
びくっとして、莉子は跳ね起きた。嵯峨も驚いたようすで辺りを見まわしている。
警部補たちの反応は、さすがに迅速だった。すでにふたりとも立ちあがっている。目をしっかりと見開き、鋭いまなざしを周囲に向けていた。
「なんだ」と葉山が怒鳴った。「このベルの音は......」
頭が割れそうなほどの大音量で鳴りつづけるベル。その騒音のなかで、篠塚が声を張りあげた。「火災報知機ですよ」
ふたりの警部補は衝撃を受けたようすで立ちすくんだ。
大階段に足音がきこえる。パジャマ姿の宿泊客が何人か、おぼつかない足どりでホールに下りてきた。なにごとかと、こちらを覗きこんでくる。
尾下は篠塚にいった。「客を外に避難させてもいいが、遠くにはやるな。全員、駐車場に待機させとけ」
返事も待たず、尾下は駆けだした。葉山もそれにつづいた。
莉子は飛び起きて、嵯峨を見た。「行きましょう」
「ああ」嵯峨も立ちあがり、警部補たちの後を追いだした。
さっきまでの眠気が嘘のようだった。激しい動揺があった。莉子は廊下に駆けこみ、展示室めざして走った。
まさか。外部の人間が侵入できるはずがない。わたしたちはずっとホールにいた。なのに、この鳴り響くベルはいったいなんだ......。
角を折れた先、突き当たりの展示室の扉の前に、ふたりの警部補たちはいた。
扉には封印がそのまま残っている。動画でも確認した、嵯峨の手で貼られた〝4AM〟のガムテープ。
嵯峨が息を弾ませながら、扉を見つめた。「僕が貼りつけたガムテープだ。剥した痕跡はない」
すなわち、中に入ったものはいない。そのはずだ。けれども、異臭が漂っている。焦げくさいにおい......。
葉山が鼻をひくつかせた。「煙だ」
扉の下の隙間から、黒煙が立ちのぼっているのが見える。ふと気づくと、廊下はいつしか霧に覆われたかのように、うっすらと視界がかすみだしていた。莉子はとっさに扉の把っ手を握った。だが、動かなかった。鍵がかかっている。
尾下が鋭く告げてきた。「さがって」
ガムテープが剥がされ、鍵が差しこまれる。解錠された。
扉を開けるべく、尾下が把っ手を握りしめる。
嵯峨があわてたようすで尾下を制した。「待ってください。バックドラフトの危険があります」
「違いないな」尾下は声を張った。「もっとさがってください、凜田さんも、嵯峨先生も」
莉子は後退した。一同が距離を置く。
唯一、扉の前に残った尾下が、勢いよく蹴り開けた。
炎は噴きださなかった。しかし、大量の煙が噴出した。廊下はたちまち黒い霧に覆われだした。
温度の急激な上昇を感じる。異様な暑さが莉子を包んだ。
尾下は、煙の充満する室内に飛びこみながら怒鳴った。「消火器!」
葉山が扉の傍らにある赤いボンベを手にして、尾下につづく。
莉子は戸口から展示室を覗きこんだ。熱風が押し寄せる。思わず息を呑んだ。
煙が充満した室内の真ん中、赤く立ちのぼる火柱がある。床の一部が音をたてて燃えていた。
なにも見えない。うごめく人影だけがおぽろげに浮かぶ。消火剤を噴射する音がした。煙はいっそう濃くなったが、炎が徐々に小さくなっていくのがわかる。
激しくむせながら、尾下が廊下に駆けだしてきた。「換気する方法はないのか」
嵯峨がいった。「たしか入ってすぐ、左手の壁にレバーが」
尾下の目は真っ赤になっていた。ハンカチで口もとを押さえ、また煙のなかに飛びこんでいく。
がちゃんと音がした。しかし、室内に変化はない。尾下の怒鳴り声がきこえる。「なんてちっぽけな換気口だ! 煙がいっこうに排出できん」
煙のなかにちらついて見える赤い炎は、ほぼくすぶりと化しつつあった。鎮火に至るのも時間の問題だ。
危険は去った。ならば、すぐにでも確かめたいことがある。
莉子は部屋のなかに踏みこんでいった。
「凜田さん」嵯峨の声が追ってきた。「待って。僕も一緒にいくよ」
室内の煙たさは想像以上だった。目が痛くなり、莉子は咳きこんだ。
「嵯峨先生」莉子はむせながら、なんとか声を搾りだした。「明かりのスイッチを探して」
同じく咳きこんでいた嵯峨が、壁を手でさすった。「たしかこの辺りに......。あ、これだ」
ふいに明るくなった。照明が灯った。
漂り煙が白く染まる。それでも、換気は進んでいるようだった。依然として濃霧に覆われたような視界ながら、どこに何があるのかは徐々に視認できるようになってきた。
真っ先に目を向けたのは、あのポスターが掲げられた壁だった。『ノストラダムスの大予言』、その独特の色づかいと構図を探した。
嵯峨が信じられないようすでつぶやいた。「そんな馬鹿な......」
莉子も愕然とせざるをえなかった。
ポスターがない。額縁ごと外されていた。壁には、その痕跡だけが白く残されている。
部屋の中央に目を転じた。葉山が消火器を床に置き、神妙な面持ちで床の焦げ跡を見つめている。
歩み寄るまでもなかった。莉子の目に、壊れた額縁や散乱したガラスの破片が映った。既視感がある。国際フォーラムの展示会場とまったく同じだった。
消火剤のなかには、黒く炭状に変化した燃えかすだけが残っていた。
葉山がため息まじりにつぶやく。「やられたな......」
莉子は煙のなかに立ちつくした。
こんなことが起きるはずがない。わたしたちはずっと警戒していた。なにより、この部屋は密室だった。出入りするすべはない。侵入し、火をつけ、脱出できる経路などあろうはずがない。
いったいなぜ......。
密室火災
腕時計を見て、莉子は驚いた。もう午前七時すぎか。
日比谷グラビティホテルの展示室に続々と入ってくる警察官らは、濡れたレインコートを羽織っていた。どうやらけさは雨らしい。日が昇る前からずっと、窓のない閉塞的な場所にいる。時間の感覚が麻痺しているばかりか、天気すら判然としない。
莉子は展示室にたたずみ。きのうの国際フォーラムと同様に、室内を調べまわる鑑識課員たちを眺めていた。
眠気はすっかり吹き飛んでしまった。嵯峨も同様らしく、丸の内署の私服警官の質問にきびきびとした態度で応じている。葉山も尾下も精力的に動きまわっていた。
唯一の例外は管理人の篠塚だった。ひとり部屋の片隅でパイプ椅子に腰かけ、肩を落とし項垂れている。疲弊しきった面持ちで、ただ床を見つめていた。
ボヤで済んだものの、管理人の彼は責任を免れない。あれだけ親会社の顔いろをうかがい、徹底してマニュアルを順守する姿勢を貫いたにもかかわらず、トラブルは避けられなかった。いまの状況は心底こたえるに違いない。
それにしても......。莉子は四角い柱を見あげた。
唯一の煙センサーは、ビニール袋ですっぽりと覆われ、輪ゴムでとめてあった。
古いセンサーだ。こんな乱暴なやり方でも、火災報知機のベルが鳴るまでの時間を引き延ばせる。
けれども、その人為的に生じさせられるタイムラグは、どれくらいの時間だったろう。おそらく、ビニール袋の密閉ぐあいによってあるていどは調整可能と思われる。輪ゴムを緩くしておけば数分。きつくしておけば数十分、もしくは数時間はもつだろうか。
いや、数時間だなんてありえない。
ベルの鳴るわずか四十二分前には嵯峨が、さらにその一時間前には尾下が室内を確認している。それ以前も、ずっとだ。見回りは昨晩の十一時以降、一時間ごとに実施されてきた。センサーが反応しなくても、煙が充満していればわかったはずだ。
尾下が、部屋の真ん中にうずくまる鑑識課員に声をかけた。「どうだ? 着火の原因はわかりそうか?」
中年の鑑識課員が顔をあげる。「国際フォーラムと同じですね。ライターか何かで、直接火をつけたんです」
「直接......」尾下は苛立ったようすできいた。「本当か? 時限発火装置とか、薬品とか、なんらかの方法で時間差を生じさせるような仕掛けは......」
「考えられません」鑑識課員は首を横に振った。「そんな痕跡はまるでありません。機械部品らしき物も見当たらないし、調合によっていわゆる点火薬類を精製したのなら、さっきの化学検査で反応がでたはずです」
「何者かが侵入して火をつけたってのか? いったいどこから入ったっていうんだ?」
「私にきかれましても......」
尾下は、途方に暮れたようすで壁ぎわを見やった。
莉子は彼の視線を追った。奥の壁、その上方にわずかに開いた換気孔。四つ並んだ小さな穴から、外の明かりが差しこんでいるのがわかる。尾下はそれを見つめていた。
外部から室内に影響を与えうるとしたら、あの換気孔しかない。放火犯がなんらかのかたちで利用したかもしれない、そう考えているのだろう。
けれども莉子は、そこに答えはないと感じていた。
換気孔といっても、ひとつの穴はわずか十センチ四方、それも内側から鉄製の網を嵌めてある。火災が発見されるまで、換気孔は閉じられていた。人どころかネズミ一匹出入りできるものではない。
ほかには、窓も扉もなかった。冷暖房のシステムもなく、空調ダクトもない。出入り口はただひとつ、廊下に面した扉だけだ。
額縁は壁から外され、壊されて、ポスターが取りだされている。焼却という行為も含め、人の手でなければ実現できない動作だった。鈎付きのロープを投げこんだり、細くて長い棒を差しいれてどうにかなるものではない。だいいち、それらの物を室内に突っこむ隙間さえ、この部屋には存在しなかった。
なぜこんなことが可能になるのだろう。どこから入り、どこへ消えたというのか。
葉山が歩み寄ってきた。「凜田さん。ちょっと来ていただけませんか」
「はい」莉子は葉山につづいて、戸口のほうに向かった。
そこには持ちこまれた長テーブルが置かれ、パソコンや外付けハードディスク機器が並んでいた。見回りに使われたデジカメが、USBケーブルで接続されている。キーボードを操作しているのは、若い鑑識課員だった。
嵯峨が私服警官らとともに、そのパソコンのモニターを覗きこんでいる。
鑑識課員は手をとめて、モニターを指し示した。「この表示は、カメラの操作履歴です。時刻を修正するとか、動画を消去するとか、なにかいじくった場合は必ず履歴に残ります。このデータは消せないんです。でも、そんな形跡はひとつもありません。見回りの映像はすべて記録された時刻どおりに撮影されています。どこにもごまかしはありません」
葉山が不服そうに告げた。「当然だろ。私たちは放火を防ぐために見回りをしたんだ。それともなにか、きみは私たちを疑ってるのか。いっておくが、見回りのローテーションのなかには、きみら丸の内署の尾下警部補殿も含まれているんだぞ」
「ええ......それはもちろん、存じております」鑑識課員は困惑したようにいった。「記録はすべて本物だと申しあげているだけです」
「結構。ほかに何か、映像からわかることはないのか」
「そうですね。いまも嵯峨先生にはご説明申しあげていたんですが......」
鑑識課員はキーを叩き、マウスを滑らせた。
画面が切り替わり、いくつかのウィンドウが表示された。いずれも見回り中の動画から抜きだした静止画で、扉を開ける前と後、すなわちガムテープの封印をとらえた画像だった。
それらの画像から、カーソルでガムテープの部分だけを選択領域にして、解析ソフトのウィンドウにドラッグして嵌めこんでいく。エンターキーを叩くと、画像の角度が自動的に補正されていき、二枚ずつ重ねられていく。
〝MATCH〟という赤い文字が、次々とウィンドウの上に表示されていった。
「見てください」鑑識課員が葉山にいった。「ガムテープによる封印は、いずれも貼られたときと、次の見回りによって剥がされる直前とで、まったく同一です。ズレもなければ皺もない。貼り直された可能性はゼロです」
葉山は頭をかきむしった。「どういうことなんだ。侵入者はこの扉を開けていないっていうのか?」
嵯峨が腕組みをした。「待ってください。僕らは見回りの際に、室内を確かめたつもりだったけど......。ひょっとして暗闇のなかに、見落としたものがあったんじゃないかな。ポスターの額縁や、火災報知機のセンサーはどうなっていますか?」
鑑識課員は唸った。「それなんですけどね......」
マウスをクリックすると。画面は四分割された。それぞれに動画が映しだされている。
「これらは」と鑑識課員はいった。「最後の四回の見回りの画像です。午前一時、二時、三時、四時」
葉山がため息まじりにつぶやいた。「センサー、映ってないな」
「そうなんですよ。火災報知機のセンサーは中央の柱の上部にあるんですが。どれもフレームアウトしちゃってます」
「『ノストラダムスの大予言』のポスターは?」
「お待ちください」鑑識課員がキーを叩くと、動画はいずれも静止した。マウスを滑らせて、奥にぼんやりと映る額縁を線で囲んでから〝拡大〟のアイコンをクリックする。
粒子は粗くはなったものの、額におさまったポスターははっきり確認できる。どの動画においても『ノストラダムスの大予言』は健在だった。やはりポスターに異常は生じていない。
嵯峨は眉間に皺を寄せた。「そうすると、ポスターが外されたのは午前四時以降か。すべての犯行は、僕が四時の見回りをした後におこなわれたわけですね」
「いや」葉山が告げた。「忍びこんだのは、もっと早くかもしれません。私たちはみんな、戸口から室内を眺め渡したにすぎない。カメラの映像もそうなってます。柱の向こうに隠れていたなら、充分にやりすごせたでしょう」
「でも」嵯峨は葉山を見つめた。「そうだとしても、いったいどこから立ち去ったんですか?」
葉山は困惑したようすで口をつぐんだ。
重苦しい空気が一同を包む。莉子もなにもいいだせなかった。こんなに不可解なことは初めてだ。
そのとき、尾下が足ばやに歩み寄ってきて告げた。「科捜研から連絡が入りました。きのうの国際フォーラムで燃やされたのは『ノストラダムスの大予言』に間違いない。光学鑑定でそう証明されたとのことです」
「ってことは」葉山がいった。「犯行目的については、ほぼ確定だな。燃やしたように見せかけて持ち去ったわけじゃなく、本気であのポスターを燃やしたがっているわけだ」
嵯峨は顎に手をやった。「そうなんですか......? 変わった人格の持ち主ですね。盗み目的の偽装で火をつけた、僕にはそう思えたんですが......。異常犯罪心理の研究は進んでいますが、こんな例はみたことがありません。焼失させるためだけにわざわざ侵入するとはね。しかもその手段もあきらかでない」
葉山は部屋の隅を振りかえった。頭を抱える篠塚を、葉山はじっと見つめた。
「どうもにおうな」と葉山はつぶやいた。
尾下がきいた。「管理人が?」
「ああ。鍵が一本しかないってのは、管理人の主張でしかない」
「誰かに合鍵を渡してあったってのか。ならガムテープの封印は? どう考える?」
「まだわからん。でもな、この建物に細工を施せる人間がいるとすれば、すなわち管理人をおいてほかにいない。そこは明白だろ」
「動機がないぞ。篠塚氏はただの雇われ管理人だ。ポスターの所有者でもなんでもない」
「誰かの依頼ってことも考えられるだろう。宿泊客は全員足どめしてあるのか?」
「もちろんだ。いまうちの捜査員が片っぱしから取り調べてる」
「こんな芸当、ひとりじゃできっこない。共犯者がいるはずだ。列島トラベルリゾート社に対しても、注意深くあたってみたほうがいい」
尾下はふんと鼻を鳴らした。「いわれなくても、そうするつもりだ」
嵯峨が憂いのいろを浮かべ、莉子を見つめてきた。莉子も浮かない気分で嵯峨を見かえした。
ふたりの警部補の憶測は迷走ぎみだった。本人たちも、それを自覚してはいるのだろう。ただあまりに奇妙な事態ゆえに、どこから手をつけていいかわからない。膠着状態を打破しようともがいた結果が、いまの会話だった。
着信音が鳴った。葉山が懐から携帯電話を取りだし、応じた。「葉山です」
しばしの沈黙の後、葉山の表情が険しくなった。「......本当ですか。では、すぐに戻ります」
全員の視線が葉山に注がれる。緊迫した空気を莉子は肌身に感じた。また何か起きたのだろう。
葉山は携帯電話に耳を傾けていた。「......はい? ああ、そうですか。じゃあ、こちらも代わります」
なんの話だろう。莉子がそう思っていると、葉山が携帯電話を差しだしてきた。
「凜田さん」葉山は真顔で告げた。「お友達です」
妙に思いながら携帯電話を受け取り、応答する。「はい。凜田ですけど」
聞き慣れた男の声がきこえた。「り、凜田さん」
「ああ......。小笠原さん。どうしたの、こんな朝早く」
「早く。葉山警部補と一緒に、牛込署に来てくれないか」
「......なにがあったの?」
「面が割れたんだよ」小笠原の声は興奮ぎみに告げてきた。「放火犯の顔があきらかになったんだ」
ツイッター
莉子はホテルをでて東京駅に向かった。葉山のほうは丸の内署の好意によりパトカーで送ってもらうようだが、莉子は同乗しなかった。
嵯峨が朝から仕事で、しかも電車で移動するといったからだった。莉子もつきあうことにした。東京療寿会医大病院に近い御茶ノ水駅まで一緒に中央線に乗り、そこからは莉子ひとりで牛込署を目指すつもりだった。
ところが、朝の通勤ラッシュは徹夜の身に心底こたえた。満員電車のなかで嵯峨はずっと青白い顔をしていたが、莉子も同様だった。電車に酔うのは初めてだった。
莉子が生まれ育った八重山諸島には電車がなかった。沖縄本島のモノレールにも滅多に乗らなかった。そのせいか、都民の足がわりであるはずのこの乗り物には、いまだに慣れない。体調を崩しているときに乗ると最悪だった。
ようやく御茶ノ水駅までたどり着き、嵯峨と別れて総武線に乗り替えたが、あいにくこの駅から下り方面の電車には女性専用車両がない。またしても激しい混雑のなかに身を投じることになった。車中では頭がくらくらしたが、なんとか耐えしのいで飯田橋駅に到着した。
けれども、徒歩はさほど苦ではない。暑さも気にならなかった。離島暮らしで培ったスタミナのおかげかもしれなかった。
牛込署の玄関を入ったのが午前八時半すぎ。三階の刑事部屋に赴いてみると、葉山は先に着いていた。
満員電車に揉まれなかった葉山は、莉子よりも体力を残しているようだった。朝っぱらから雲津相手に大声を張りあげている。「どうしてすぐ俺に知らせなかった。事件が起きたのはきのうの夕方だろう?」
雲津は困惑顔で応じた。「新宿署管内のことだったので、うちに連絡がくるのが遅れたんです。詳細が判明したのも夜半過ぎでした。小笠原さんが新宿署員に進言してくれたおかげで、うちに情報が提供されたんです」
葉山は憤然としていった。「雑誌記者にはあまり知られたくなかったけどな」
「ポスターの件を取材してて、あのゴールデン街の店に行き当たったみたいですよ。第一通報者だから、今回は爪弾きにするわけにはいかないでしょう」
莉子はそっと声をかけた。「あのう......」
「ああ、凜田さん」雲津は上司の小言から解放されるきっかけを感じたらしく、安堵の表情を浮かべた。「どうぞ。鑑識のほうにおいでください」
そそくさと歩き去る雲津を、葉山が苦々しげに見送る。その葉山の目が莉子に向けられた。「ずいぶん時間がかかりましたね」
「朝のラッシュ時だったので......」
「いきましょう。こちらです」
葉山がつかつかと歩を進めていく。莉子は恐縮しながらそれにつづいた。
案内されたのは、前にも立ち寄ったことがある鑑識部屋だった。
がらんとした室内に、映像機器が置かれている。そのわきのパイプ椅子に、小笠原が腰かけていた。
ワイシャツ姿で、ネクタイを緩めている。上着は椅子の背にかけてあった。彼も徹夜したらしく、瞼が重そうだった。
莉子を見ると、小笠原はほっとした表情で立ちあがった。「凜田さん、おはよう。怪我はないの?」
「怪我って?」
「ホテルのほうで火事があったとか......」
「ああ。それは全然だいじょうぶ。小笠原さんのほうこそ大変だったんでしょう?」
「いや、たいしたことないよ。まさか、放火犯と鉢合わせするなんて予想もしてなかったけど」
葉山が渋い顔で振りかえった。「取材も結構ですが、ご無理をなさらないでください。危険な目に遭われても責任は負えませんよ。だいいち、捜査上の秘密を聞きつけて記事にしようと動きまわるのは感心しませんな」
小笠原は戸惑いのいろとともに口をつぐんだ。
莉子は当惑を覚えながら葉山に告げた。「あのう......。小笠原さんに『ノストラダムスの大予言』を調べてもらったのは、わたしなんです」
「はあ?」葉山は眉間に皺を寄せた。「凜田さん。あなたの才能には敬服してますが、捜査は私たちにまかせてくださいよ。なにも記者さんに秘密を漏洩しなくてもいいでしょう」
これにはぐうの音もでない。莉子はつぶやいた。「すみません......」
少し間を置いて、葉山は気を取り直したようにいった。「まあ、小笠原さんのおかげで被疑者の面が割れたことでもあるし......。あんなゴールデン街のバーなんて、まず捜査線上に浮かばないでしょうから、結果的にはお手柄だったわけですけどね。しかし、よくあんなバーを突きとめましたね」
小笠原は苦笑を浮かべた。「会社のほうにいろんな人がいまして」
雲津が棚から一枚のディスクを取りだしてきて、映像機器に挿入しながらいった。「おふたりはたいしたものですよ。別件ですけど、先日の防犯カメラの画像、凜田さんのご指摘どおり韓国でしたよ。現地に問い合わせたらすぐに判明しました。ソウル市郊外のビジネスビルでしてね。おかげさまで、近所に潜伏してた被疑者の確保につながりました」
莉子はようやく笑みを浮かべる気になった。「それはよかった......」
「まったくです。あのまま延々と国内を探しつづけるところでしたよ」
葉山の表情がまた険しくなった。「おい。余計なこというな。映像、まだでないのか」
「もうちょっとです」雲津は叱責を気にしたようすもなく、平然とした面持ちで機器を操作しつづけた。「これでよし。再生します」
モニターに映しだされたのは、繁華街の車道だった。夕焼け空の下、早くもネオン看板に明かりが灯っている。一見して、歌舞伎町の区役所通りだとわかる。
カメラは固定され、静止していた。下のほうにクルマのボンネットが見えている。フロントウィンドウから車両の前方を撮影したものだった。フェンダーミラーが左右に見えている。すなわちタクシーのようだ。信号待ちをしているらしい。
駆けてきた若い男が、いきなりクルマの前方に体当たりし、ボンネットに乗りあげた。
莉子はびくっとして身を退いた。
一瞬、男の顔が画面いっぱいにアップで映しだされる。その直後、男は横に転がってフレームアウトし、それっきり姿を消した。
新たな人影が、画面を横切っていく。小笠原だった。男を追っているらしい。やはり彼もすぐに画面から見切れていった。
雲津が告げた。「タクシーのドライブレコーダーの映像です。ルームミラーに取り付けられた小型カメラが、ずっと前方を撮影しつづける仕組みで、何もなければ記録映像は常時上書きされていきます。しかし、ぶつかったりして衝撃を感知すると、それ以前の数秒間を含めてデータが保存されます。車両事故の分析におおいに役立つものです」
葉山はうなずいた。「この場合、男のほうからタクシーにぶつかっていったわけだが、その衝撃で動画が記録されたわけだな」
「そうです」雲津は映像機器を操作した。「巻き戻して、顔を確認します」
映像がふたたび最初に戻された。今度はスローで再生される。
ほどなく、チェック柄のシャツにデニム、スニーカー姿の痩せた男が、こちらに向かって駆けてきた。スローでもかなりの速度だ。ボンネットにぶつかった。ひとコマごとにその顔とカメラの距離が急速に縮まっていく。
顔が大写しになったところで、雲津がボタンを押した。映像は静止した。
タクシーに衝突した瞬間のため、当人も驚きのいろを浮かべている。目を丸くし、あんぐりと口を開けているが、顔の特徴ははっきりとわかる。年齢は二十代後半ぐらい、さっきは気づかなかったが眼鏡をかけている。ハーフフレームだった。髪は長くしている。シャツは量販店の安物に思えた。
細面で色白、鼻の頭には傷がある。一重まぶた。唇は薄く、歯並びは悪い。
葉山は雲津にきいた。「まだ何者かは特定されてないんだな?」
「前科者のデータと照合中です。うちと新宿署が合同で調べてます。それから本庁のほうも、捜査に乗りだす意向のようです」
「本庁か?」
「ええ。きのう歌舞伎町の路地で回収された燃えかすを、新宿署が科捜研に提出しましてね。丸の内署につづいて二件連続、同じ内容の科学鑑定依頼ってことで、本庁か興味をしめしたようで」
「ふん。うちのほうからはそれ以前に、放火被害拡大の可能性ありと報告しておいたのに。なにをいまさらって感じだな」
小笠原は身を乗りだし、雲津を見つめた。「それで、歌舞伎町で燃えていたのは......」
雲津はうなずいた。「けさ早く、科捜研から新宿署に鑑定結果が伝えられたようです。二度目なので作業も効率よく、迅速におこなわれたみたいです。やはり『ノストラダムスの大予言』でした」
「そうかぁ」小笠原はため息をついた。「どうしてあんなに急いで燃やす必要があったんだろ。逃げている途中で、しかも繁華街の路地で火をつけるなんて」
葉山は小笠原にきいた。「被疑者はあなたに、何か言葉を発しましたか」
「いえ。彼はいちども振り向きませんでした。顔も、この映像で初めて確認できたくらいで」
「ふうん」葉山は神妙な顔で莉子を見つめてきた。「もしこの男が単独犯なら、きのうの夕方、歌舞伎町でひと仕事終えて、それから有楽町に移動したってことになりますが......」
「うーん」莉子は思わず唸った。「でも葉山さんは、共犯者がいるとお考えでしょう?」
「けさのホテルでの手際を考えるとね。密室なのに神出鬼没。ところがこいつは、忍びこんだところを小笠原さんに見つかり、窓ガラスを割って逃げだしたうえに、タクシーにぶつかるへまをしでかしてる」
たしかに、ホテルの展示室に比べると、このゴールデン街での犯行はひどく稚拙で乱暴だった。複数の実行犯が存在するのだろうか。
それに......。もうひとつの疑問点も解明されないままだ。
莉子はいった。「犯人は、どうしてポスターの在り処を知ってるんでしょう。小笠原さんが会社の人にきいて、やっと判明したような場所にまで現れるなんて......」
すると、雲津が手帳を取りだした。「そこは、少しずつあきらかになってます。最初に放火の被害に遭った茅根さんによると、ツイッターで不審な呼びかけがあったそうです」
「ツイッター......?」
「ええ」雲津は手帳を開き、ページに目を落とした。「半年ほど前のことらしいんですが、『ノストラダムスの大予言』のポスターがほしい、金に糸目はつけない、というツイートを投稿した人がいたそうです。茅根さんはこのユーザーのフォロワーになり、いくらで買うかたずねました。最低でも二百万だすという返事でした」
「茅根さんは売る気になったんですか」
「まだ決めかねていたようですが、値段が値段なので前向きに検討したいと思ったようです。向こうも茅根さんをフォローしてきたため、ダイレクトメッセージで私信をやりとりできるようになったそうです。相手が直接会っての取り引きを望んできて、しかも茅根さんのほかのコレクションにも興味をしめしてきたので、家に招いてもいいと考えるようになりました。そのうち住所を聞かれたため、疑いもなく教えてしまったそうです」
「それで......その後はやっぱり、音沙汰なしになったと」
「仰せの通りです。しばらくして、相手はアカウントを消して行方をくらましてしまいました。商談も何もなかったそうです。住所を聞きだすことだけが目的だったんでしょう」
「そのユーザーには、茅根さんのほかにもフォロワーが?」
「ええ、いました。茅根さんの話によれば『フォローしている』と『フォローされている』が、いずれも三十前後でほぼ同数だったそうです。おそらく茅根さんを含め、興味を持ってフォローしてきた全員に対しフォローを返して、私信での会話に持ちこんだんでしょう。新宿署によれば、ゴールデン街の嬉野さんの息子も、このフォローに参加したことがあるそうです。ダイレクトメッセージで、父の店の所在地を教えたといっています」
ということは、公に告知された展示物以外のポスターの在り処は、ツイタターによる情報収集で割りだされた可能性が高い。
巧いやり方だと莉子は思った。簡易投稿サイトのツイッターは、緩い会話が特徴だ。犯罪を疑われにくいし、著名人でない限り素性を明かさなくても不自然さはない。アカウントを消せば即撤退できる。
莉子は雲津にきいた。「住所のほかには、なにも質問されなかったんでしょうか?」
「いえ。劇場名をきかれたそうです。なんでも、昔の映画のポスターには上映館のスタンプが押してあって、それによってプレミア価格も上下するとか。茅根さんの物は日比谷映劇だったそうです」
小笠原が目を瞠った。「嬉野さんのも、たぶんそうだ。日比谷映劇で手にいれたといってましたから」
国際フォーラムの展示会場、日比谷グラビティホテルの展示室。いずれも燃やされたのは日比谷映劇のスタンプ入りポスターだった。やはり偶然ではないようだ。
葉山が莉子にきいてきた。「どういう意味があるんでしょう?」
「映画グッズの市場においては、日比谷映劇の名前が入っているだけで商品の査定額があがるんです。かつての東宝洋画系のチェーンマスターだった映画館なので、ブランド価値があるんでしょう。コレクターが日比谷映劇のスタンプ入りかどうかを気にかけるのは、ごく自然なことです」
「なるほど」葉山は雲津に目を向けた。「ムービーアレイの菊井さんにきけ。燃やされたポスターが日比谷映劇のものかどうかをな。それと科捜研に連絡だ。燃えかすからスタンプが確認できるか、問い合わせてくれ」
「わかりました」雲津は手帳にペンを走らせた。
そのとき、ノックが数回きこえた。返事も待たず扉が開いて、白髪頭の男が顔を覘かせた。「葉山。ここにいたか」
「あ、係長」葉山はかしこまって立った。
「埼玉の大宮西警察署から連絡が入った。ついさっきマンションの一室でボヤがあった。家人の留守中に侵入した何者かが、壁に貼ってあった映画のポスターを剥がして火をつけたらしい。なんという映画なのかは、きくまでもないだろう」
「......はい」葉山が緊張の面持ちで応じる。
莉子は、ぞっとするような寒気を肌身に感じた。
埼玉......。ついに犯行は都内に留まらなくなった。というより、東京に存在するポスターは、すべて焼き尽くしてしまったのかもしれない。ならば、今後は地方が標的となる。どこに犯人が現れるのか、まるで予測はつかない......。
係長が告げた。「本庁はこれを受けて、一連の放火を広域重要指定事件とする運びになった。新たに捜査本部が招集される。雲津とともに、出向するための準備を整えておけ」
はい。葉山が応じる。係長は硬い顔のまま、扉の向こうに姿を消した。
雲津が葉山を見つめた。「デスクに戻ります。資料を集めないと」
「そうだな。俺もすぐにいく」
張り詰めた空気のなか、雲津が扉をでていった。
葉山が肩で大きくため息をつき、こちらを振りかえる。
彼の視線は、莉子から小笠原に移った。葉山は真顔でいった。「小笠原さん。新宿署管内での事件について、第一通報者として今後も捜査にご協力いただきたいんですが」
「ええ」と小笠原はうなずいた。「もちろんです。できるかぎりのことをします」
「それとですね。知りえた情報は公表しないでください。記事にするどころか、今後は職場でも話題にしないよう切に願います、特に『ノストラダムスの大予言』という題名。これは絶対に口にしないでください。禁句です」
「......でも」小笠原は当惑ぎみにいった。「世間に知らせたほうが、危険が少なくなると思いますけど」
莉子も同じ思いだった。「葉山さん。犯人はツイッターによって情報を収集し、標的をリストアップしています。けれどわたしたちは、どこの誰が狙われるか、まるで知りません。嵯峨先生もいっていたように、マスメディアを通じてポスターの持ち主に警告を発したほうが......」
葉山は頑固に首を横に振った。「捜査本部が情報を開示するまで、勝手なことはしないでください。犯人の動きが追えなくなります」
思わず莉子は語気を強めた。「次の犯行を阻止できなくてもいいんですか?」
室内は静まりかえった。葉山は、無表情に莉子を見かえしている。
やがて葉山は踵をかえした。「ご協力感謝します。ではこれで」
そっけない物言い。これ以上の議論は無駄だといいたげな響きを帯びていた。葉山の姿は、閉じる扉の向こうに消えた。
小笠原が、憂いのいろとともにこちらを見つめてくる。
同感ね、と莉子は目で応じた。
視線はいつしか、モニター画面に流れる。タクシーにぶつかった瞬間の男の顔。名も知れない放火犯。いまどこにいるのだろう。次にどこを標的に選ぶつもりだろうか。
原作本
夕方の退社時間を迎えると、小笠原はさっさと会社をでた。記事の校正もなんとか間に合った。昼休みには仮眠もとれたし、体調は戻りつつある。約束をすっぽかすことはできない。
待ち合わせ場所はPRONTO飯田橋店だった。昼はカフェ、夜はバー形態になるプロントのチェーン店のほとんどは、開放感あるガラス張りのつくりになっているが、ここはビルの地下一階にあるため隠れ家っぽくなっている。会社の近くであっても、同僚に見つかりにくいのはありがたい。
すでに賑わっている店内に入ると、ふたりはテーブルについていた。莉子が笑顔で手招きする。嵯峨は、すっと立ちあがって会釈をした。礼儀正しさと、質のいいスーツの着こなしがごく自然にマッチして見える。
莉子のほうも、洒落たサテンブラウスを身にまとった姿は、カジュアルながら上品な装いに感じられる。ふたりはお似合いのカップルのようだ。
いや。そんなふうに考えて卑屈になるのはよせ。嵯峨とはまだ知り合ったばかりじゃないか。
テーブルに近づくと、莉子がたずねるような目を向けてきた。「どうしたの? なんだか気分が悪いみたい」
嵯峨も気遣うように告げた。「もし食欲がないようなら、少し休んだほうが......」
「いいや。だいじょうぶです」小笠原は大仰に笑ってみせながら席についた。
内心、自分に対し軽い失意を覚える。悩んでいるのに具合が悪いように見られるとは。善意ある心遣いさえ、見当はずれを誘う。俺は、ついていない星の下に生まれたのか。
椅子は、もうひとつが空いていた。小笠原はきいた。「あとは誰が来るの?」
莉子が答える。「尾下さんって人。丸の内署の警部補さん。けさまでずっと一緒にいたの」
「へえ......。わざわざここまで足を運んでくれるの?」
「向こうから話があるって電話してきて、近くまで来るっていうから......」
「みんなタフだね。ホテルでは夜通し寝ずの番をしてたんだろ?」
嵯峨が見つめてきた。「きみの勇気と行動力にはかなわないよ。犯人をあと一歩まで追いつめたそうじゃないか」
すると莉子が目を輝かせて嵯峨にいった。「そうなんです。犯人の顔も判明したし、小笠原さんのおかげで事件は解決に向けて大きく前進したんですよ」
さも感心したように、嵯峨は真顔でうなずいた。「僕らとは大違いだな。ひと晩頑張ったのに、まんまと侵入されてポスターを焼かれてしまった。小笠原さんは犯人が赴きそうな場所に先回りしてたんだからね。さすが雑誌記者さんだ。勘が違う」
誉められるのは悪い気がしない。しかも、こちらが劣等感を覚えるほど有能なふたりに賞賛されたとあっては、いやがうえにも機嫌は良くなる。小笠原は高揚した気分に浸った。
ちょうどそのとき、ウェイトレスがやってきた。「いらっしゃいませ。ご注文は?」
「ビール。中ジョッキで」と小笠原は応じた。
すると、ふたりは急に妙な顔になった。
眉をひそめながら莉子がきいた。「お酒飲むの?」
嵯峨のほうは、変に感心したようすでいった。「僕らはノンアルコールだよ。ビールなんか入ったら、たちまち眠ってしまうよ」
......そうだった。莉子や嵯峨と同様、俺もろくに寝てはいなかった。ついさっきまでは飲酒する気なんか、さらさらなかったのに。
あわてて注文を取り消そうとしたが、ウェイトレスはすでにカウンターに引き揚げていた。ああ......。小笠原は絶句した。一瞬の舞いあがった気分が仇となった。
失敗に肩を落としていると、それに気づかないようすの莉子が嵯峨にいった。「さっきの話のつづきですけど、単独犯じゃなくて複数の実行犯がいるとすると、いったいどんな集団なんでしょう?」
「カルト的な結びつきかな」嵯峨は険しい顔になった。「標的になっているのが、終末論を描いた映画のポスターだというのが気になる。特定不能の精神病性障害に、コタール症候群というのがあってね。何も実在しないとか、身体がばらばらになってしまった。あるいは世界が終わろうとしている......そんなふうに虚無妄想に支配される症状がある。その一歩手前で、終末論を極度に恐れる精神状態なら、あの映画の存在自体を否定したくなるのかもしれない」
「ずっと昔に闇に葬られた映画であっても、ですか?」
「主犯格の人物が中高年で、子供のころにあの映画を知ったのであれば説明はつくよ。終末論を否定したいがために、まずは真っ先に記憶にのぼる映画を抹消したい衝動に駆られる......。仮説にすぎないけどね」
「でもそうすると、日比谷映劇のスタンプ入りばかり狙う理由は?」
「そこだよな」嵯峨は頬杖をついた。「コレクターが業者が価値を吊り上げようとしているのなら、侵入してポスターに火をつけるという病的なまでの執念深さは、むしろ計算された演出とも思えてくる。カルト集団による犯罪に見せかけようとしているだけで、真意は金銭目的以外にはないのかも......」
どうやら臨床心理学的見地からの分析でも、現在までの犯行の目的を特定することは困難なようだった。異常犯罪の例は多様すぎて、どこに当てはまるのか考察しにくいのかもしれない。少なくとも、放火犯の行為の痕跡から、その人物像を割りだせるものではなさそうだった。
嵯峨がつぶやいた。「やっぱり僕は、狙われているのがどんなポスターなのか公表すべきだと思う。いまのところ負傷者はいないけど、今後はどうなるかわからないわけだし」
「そうですね」莉子が同意をしめす。「でも、マスコミは遠からず真実を嗅ぎつけるんじゃないですか。ひょっとしたら、もう情報をつかんでいるのかも......」
「いや、それはないと思う。僕の知り合いにNHKのフロアディレクターがいて、夜七時のニュースを担当しているんだけど、そんな兆候はないっていってた。もちろん、彼にも秘密は打ち明けていないよ。いまのところ、どんなポスターが狙われているのかを知っているのは『週刊角川』編集部の、ごく限られた人たちのみだね」
小笠原は嵯峨にいった。「うちじゃ警察の許可がないかぎり、明かしませんよ。編集長はそういうところに堅い人間なので。おかげでスクープを逃しまくってますけどね」
ウェイトレスがにっこりと笑って、小笠原の前に中ジョッキを置いた。泡立ちのよいビールがなみなみ注がれている。いまにも零れ落ちそうなほどだった。
ふたりの白い目を感じながら、中ジョッキをしばし眺める。注文したときとは違い、いまの小笠原は冷静だった。ひと口飲んだだけでもテーブルに突っ伏してしまう恐れがある。それぐらいは自己分析できる。
困惑を覚えたそのとき、ひとりの男がテーブルに近づいてきた。
「あ」莉子が顔をあげた。「尾下さん。こんばんは」
三十歳前後のその男は、警部補という階級から連想されるよりずっと若く、まさにキャリアと呼ぶべき独特の存在感を放っていた。牛込署の私服警官とはまるで異なる印象だ。
嵯峨が愛想よくいった。「どうぞおかけください」
「いや」尾下は立ったまま告げてきた。「このまま失礼します。すぐに本庁の捜査本部に戻らねばなりませんので」
莉子が小笠原を指し示した。「こちらは『週刊角川』の......」
「小笠原悠斗さんですね」尾下は真剣な面持ちで頭をさげた。「話は牛込署の葉山警部補からききました。被疑者の特定につながる有力な画像、ありがとうございます」
「いえ......」小笠原はおじぎをかえした。「きょうも葉山さんとお会いになったんですか」
「さっきまで一緒でしたよ。本庁の捜査本部に、関係者が全員集まってますから」
嵯峨が尾下にきいた。「なにか進展ありましたか?」
「いちおう、昨晩の日比谷グラビティホテル、宿泊客全員の取り調べが終わりました。小笠原さんが追った男は、これら宿泊客のなかにはいませんでした。けれども、不審人物はひとり浮かびましたよ」
莉子が身を乗りだした。「不審人物って?」
「李基鎬といって、二十一歳の中国人留学生です。彼は『ノストラダムスの大予言』という題名の本を持っていました。あの映画の原作本で、昭和四十八年に刊行されたものです」
「......本を持っていただけですか?」
「李さんは展示室の真上の部屋にチェックインしました。彼自身がそう望んだからです。窓からの見晴らしがいいというのが、その理由だといっています。ふだんは京都で寮住まいらしいんですが、ノストラダムスの予言には常々興味があって、あのホテルにポスターがあるという噂をききつけ、わざわざ上京したそうです。管理人の篠塚さんに、ひと目だけでもポスターを見せてほしいと頼んだみたいですが、篠塚さんは非公開だからと断ったらしいです」
嵯峨が神妙にうなずいた。「ちょうどポスターが燃えた日に泊まるなんて、偶然にしてはできすぎてるかもな。凜田さんはどう思う?」
莉子は戸惑いのいろを浮かべた。「まだなんとも......。真上の部屋といっても、あの展示室に入る方法はないんでしょう?」
尾下は渋い顔でいった。「その通りです。鑑識が隈なく調べましたが、天井にも壁にも抜け道はない。犯人の侵入および脱出経路は、依然として謎です」
小笠原は不満とともにきいた。「それだけですか?」
「ええ」尾下は鋭い目つきで一同を見渡した。「現段階での捜査状況は以上のとおりです。お判りいただいたところで、みなさんに申しあげたいことがあります。本庁は一連の事態を重く見て、広域重要指定事件として大規模な捜査を開始しました。よって今後は、すべてを警察におまかせいただきたいと思います。必要が生じたらこちらからご連絡いたしますが、みなさんにはどうか普段どおりの生活、および本来の仕事に戻っていただき、事件を追うことは控えていただくよう、お願い申しあげます」
莉子と嵯峨が、そろって落胆のいろを漂わせた。小笠原も同じ気分だった。
やはり......。わざわざ出向いてくるときいた時点で、こんなことだろうと察しはついていた。
全員が沈黙したせいか、尾下はこれ以上の説明は蛇足だと感じたらしい。深々とおじぎをして、歩き去っていった。
三人は無言のままだった。誰も何もいいだせない。失意の念だけがひたすら渦巻く。そんな心境だった。
やがて、嵯峨が憂鬱そうな顔でジョッキを眺め、小笠原にいった。「飲まないの? 僕がもらってもいいかな」
「え......?」小笠原は言葉に詰まった。そういわれると、自分で飲み干したくなる。いや、尾下のせいでそんな気分になったのだろう。
莉子が深々とため息をつき、嵯峨にたずねた。「中ジョッキ、あとふたつ追加します?」
スタシャワー
結局、三人はそれぞれ中ジョッキを一杯ずつオーダーした。莉子は実は酒が飲めないらしく、ひと口すすっただけで顔が真っ赤になっていた。飲めない彼女にすら酒を頼みたくさせる、負のエネルギーだけを尾下は店に残していった。
閉店まぎわに店をでる。眠気などなかった。むしろ、寝付くためにはもっと酒を必要とする。小笠原はそんなふうに感じていた。
莉子を送るために、夜の外濠から神田川沿いにつづく商店街に歩を進める。閉店時間を迎えたらしく、そこかしこでシャッターが閉じる音が響く。三人は万能鑑定士Qの店をめざし、並んで歩いた。
「あーあ」莉子はつぶやいた。「強制終了かぁ。国際フォーラムの展示会場に落ちてた暗号文みたいなの、もう一回ちゃんと見たかったな」
小笠原はきいた。「暗号文って?」
嵯峨が答える。「記号ばかりが並んだおかしなメモだよ。丸められて、床に落ちてた」
「ふうん。そんなものがあったんですか」
莉子は唸った。「んー。手がかりはいろいろありそうなのに......。どうして警察って、わたしたちを信用してくれないんだろ。力になれるかもしれないのに」
めずらしく莉子が愚痴をこぼしている。酒が入ったせいだろう。彼女のいつもと違った面が見られるだけでも、ビールを頼んだ意義はあった。俺の一杯が彼女の一杯を誘うことになったのだから。
明かりの消えた雑居ビル一階のテナント、万能鑑定士Qが見えてきた。看板は闇のなかに溶けこんでいる。
その店の前に、うごめく巨体があった。でっぷりと肥満した男がうろついている。Tシャツのサイズは4XL、いやそれ以上かもしれない。
男は見覚えがあった。小笠原は声をかけた。「茅根さん」
茅根涼太はこちらを見て、ほっとしたような笑いを浮かべた。「ああ、記者さんじゃないですか。それに凜田さん......。よかった。お店が閉まってたんで、きょうはもうお会いできないかと」
莉子は気遣うようなまなざしを茅根に向けた。「いまはどちらに......」
「あー、寝るところなら心配いりません、この近くに立派なマンションの部屋を借りられましてね。火災保険のオプションのひとつですよ」
「そうでしたか。よかった」
「凜田さんのおかげで、保険会社も態度を改めましてね。焼失したプレミア品の査定額を、保険金の支払い額に反映させてくれることになりました」
「素晴らしいコレクションでしたからね。お察しします」
「なに。金が入ったら、また集めなおしますよ。むしろイチから収集できる楽しみが戻ってきて、ありがたいぐらいです」
人は変わるものだと小笠原は思った。つい先日、家が全焼した人間とは思えない明るさだ。むろん、莉子の尽力があったからこそだろう。彼女はいつも、鑑定を通じて関わった相手を笑顔に導く。それでいて手柄を鼻にかけず、報酬もろくに受け取らないことが多い。
歌舞伎町での偶発的な追跡劇だけでも、誉められて有頂天になる俺とは大違いだ。小笠原は自虐ぎみにそう思った。
莉子は茅根にきいた。「それで、今夜はなにか......?」
「ええ。お伝えしたいことがあってきました。警察に話してもよかったんですが、なんとなく癩に障るのでね。牛込署の警部補、葉山って名前でしたっけ。ありゃ気にいらない。優柔不断を絵に描いたようなやつだ」
「......どのようなお話でしょうか?」
「あ、こりゃ失礼。ついかっとなりまして。お知らせしたいのはですね、私のネット仲間で、愛知県に住んでるスタシャワーさんというのがいまして」
「外人さん?」
「いや。日本人です。スタシャワーってのはハンドルネームでして、本名はええと......たしか鯉淵。そうだ、鯉淵陽向っていう人です。私と同じ、レアな映画グッズコレクターでしてね、もっとも彼は邦画専門ですが」
「その鯉淵さんと茅根さんは、面識あるんですか?」
「はい、オフ会でいちどご一緒しましたからね。その後もメールでやりとりしてるんですけど、けさ事件のことを知らせてやったんですよ。彼も『ノストラダムスの大予言』のポスターを持ってるんで」
莉子が困ったようすで口をつぐんだ。
嵯峨が咳払いをして、控えめに告げる。「茅根さん......どんなポスターが狙われているか、まだ情報は口外しないほうが......」
「まあ、ね」茅根は悪びれたようすもなく、妊婦のように出っ張った腹を揺すって笑った。
「心配いりませんよ。口の堅いやつですから。それに、彼のポスターも狙われるかもしれないんだから、警告しておくに越したことはないでしょう」
それについては間違ってはいない。小笠原は思った。警察の反対さえなければ、とっくに情報を記事にしているところだ。
莉子も戸惑いがちに笑みを浮かべた。「そうですね。でも、その鯉淵さんは......例のツイッターのフォローに参加してたんでしょうか?」
「いや。彼はあのユーザーのツイートには気づかなかったみたいですね」
「じゃあ狙われることはないかも。犯人に住所も知られてないし」
「だといいんですけどね。きょう、メールで気になる返信を寄越してきたんです。『ノストラダムスの大予言』のポスターが狙われる理由について、思い当たるふしがあると」
「......鯉淵さんが、連続放火の動機を知ってるというんですか?」
「少なくとも、そのようににおわせてます」
「どんな理由なんですか?」
「それが......私にも教えてくれないんです。警察に伝わると嫌だから、その一点張りです。決して打ち明けないと約束する、そう伝えたんですが、やっぱり駄目で。彼は、僕以上の官憲嫌いですから。ネット上でもスタシャワーの警察叩きは有名でして」
「鯉淵さんに、詳細をうかがうことはできないんですか」
ふいに茅根は莉子に人差し指を突きつけた。「そう、そこですよ。僕が今回、火事で散々な目に遭った経緯を彼にメールしましてね。でも凜田莉子さんっていう鑑定家さんに助けられたという話をしたら、鯉淵さんも是非会いたいと返信してきまして」
「......はあ」
「あなたになら事件の重要な情報を伝えてもいい、と鯉淵さんはメールを寄越してきたんです」
嵯峨がいった。「待ってください。鯉淵さんは事件の情報......犯人の動機について知っていて、それを面識のない凜田さんに伝えたがっているっていうんですか? 赤の他人である凜田さんに?」
「赤の他人じゃないですよ」茅根はしかめっ面になった。「私にとっての救いの女神です。ということはすなわち、同好の土である鯉淵さんにとっても親しみやすい女性ってことです」
妙な話になってきた。莉子も嵯峨も、困惑の表情を浮かべている。
しかし、茅根はどうみても変わり者だった。彼らのようなマニアックなコレクターたちは、社会常識の通用しない世界で意思を共有しあうものかもしれない。茅根に対し献身的な姿勢を貫いた莉子を、鯉淵は話のわかる女性と感じ、その結果として情報を託せる相手とみなした。そう考えられなくもない。
ふだんから女性とつきあいがないというより、つきあう努力をしない無頓着さ、ひとりで趣味の世界に浸る内向的な性格......。茅根のようなタイプはふだん。恋人どころか友達すらろくに作れていないのだろう。莉子に優しくされて、急に心を許す気になってしまうのも、わからないではない。
とはいえ......。どこか胡散臭く感じられる話だった。どうして愛知県に住む鯉淵が、犯人の動機について知りえているというのだろう。
莉子はしばし黙りこんでいたが、やがて愛想よくいった。「わかりました、茅根さん。わたしからその人にメールしてみます」
「いえ。それじゃ駄目なんです。鯉淵さんは直接、凜田さんと会って話がしたいといってます。重要なことなので、メールでは伝えられないと」
「......では、愛知からお越しになるわけですか?」
「あの人は地元を離れませんよ。家を出たがらない性格ですから」
「わたしから会いに行けってことですか」
「事件についての重要な情報ですよ。あなたがそれを知りたくないというなら、別にかまいませんけど」
「ええと......。どこにおうかがいすれば......」
「住所はこちらに書いておきました」と茅根はメモを差しだした。「いつでもお越しくださいって、鯉淵さんはいってます。仕事もなく、ずっと家にいるそうなので」
莉子は凍りついた笑みとともに、メモを受け取った。「わかりました。わざわざお知らせいただいて、本当にありがとうございます」
「鯉淵さんのコレクションもぜひ鑑定してあげてください。戻ってきたら、いろいろ話をきかせてくださいね。じゃ、僕はこれで」
茅根はそう告げると、にやにやと笑いながら歩き去っていった。
しばしその背が小さくなるまで見送ってから、小笠原は莉子を見た。「担がれてるよ」
嵯峨もうなずいた。「同感だね。彼らのようなタイプは、異性に対し免疫がないうえに、過度の幻想を抱きがちだ。異性と知り合いになったら、即恋人の関係に発展すると信じがちなんだ」
「そうだよ」小笠原はいった。「キモオタでも相手にしてくれる美人と出会って、すっかり恋人気分なんだよ。茅根さんは自分の恋人を鯉淵さんに披露してるつもりだし、鯉淵さんのほうは、茅根さんから自分にあう女性を紹介されたと思いこんでる」
すると嵯峨が真顔で告げた。「小笠原さんの分析はこのうえなく正しい。そもそも恋愛というものがどんな過程を経るもので、どのような意味を持つものか、彼らにはよくわからないんだ。だから映画で観た幻想を鵜呑みにする。自分のすべてを容認してくれる美しい女性が現れるのを待っている。彼らは意識的、あるいは無意識的に、現状をその幻想に引き寄せようとしているんだ」
嵯峨の態度から察するに、彼も莉子には気があるようだ。ここはふたり力をあわせ、全力で莉子を引き留めねばならない。
莉子は当惑を覚えているようすだった。「でも、重要な情報があるって......」
「餌だ」嵯峨はきっぱりといった。「鯉淵さんは、自分の思い描く理想が幻想にすぎないことを、心の片隅では認めている。だからそれが崩れないように、きみを誘えそうな餌になるネタをひねりだしたんだよ」
三人に沈黙がおりてきた。暗い夜道にたたずみながら、互いの視線を交錯させる。
やがて莉子がつぶやいた。「わたし、放火事件を食い止められるものなら、そうしたいし。解決の糸口はぜひともつかみたいし......。だから、いちど鯉淵さんに会ってみようかと......」
「ああ」小笠原はじれったくなって声を張りあげた。「もう!」
すかさず嵯峨がいった。「仕方がない。善は急げだ。無駄なら無駄と、早くはっきりさせたほうがいいだろう。明日なら僕は非番だ。愛知までつきあうよ」
小笠原はあわてた。「ま、待って。僕のほうも出張の許可をとるから」
懐から携帯電話を取りだし、編集部にかける。まだ誰か居残っているはずだ。
呼び出し音の後、応じる野太い声がした。「『週刊角川』編集部です」
よりによって編集長の荻野だ。腰がひけつつも、小笠原は告げた。「あ、あのう......」
「小笠原か」荻野の声は、早口にまくしたててきた。「どこで油を売ってる。おまえ、校正漏れが山ほどあるじゃねえか」
「え......?」
「明日、朝一番にきてやり直せ。それからすぐに警視庁に行ってもらう」
「お、荻野さん。あのですね、明日、重要な情報を入手するために愛知のほうに......」
「愛知? 馬鹿いうな。ういろうでも食って明治村で遊ぼうってのか。出張は許可できん」
「どうか、そこをなんとか。例の連続放火事件のことで」
「おまえは歌舞伎町での第一通報者だろ。犯人と接触してるんだぞ。おまえが手記を書くだけで部数が伸びる。文章がへたでも気にするな。角川書店きっての優秀な校正陣を用意する」
「荻野さん......」
「明朝は校正のやり直し、警視庁。昼以降は原稿だ。体調崩すなよ。じゃあな」
一方的に電話は切れた。
夜道に漂う静寂が辛い。その静けさにこそ耳を傾けたい気分だった。
小笠原は失意とともに、莉子に告げた。「僕は......行けない」
嵯峨は穏やかにいった。「心配ないよ、僕がついていくから。鯉淵さんって人がどんな人格かも見抜いて、トラブルは未然に防ぐよう彼女をバックアップする」
莉子はにっこりと微笑んだ。「ありがとうございます、嵯峨先生」
つきあいで笑いながら、小笠原は力いっぱい奇声を発したい気分だった。プロントに戻りたい。朝まで浴びるほどジョッキを傾けたい。
雲
翌朝、午前八時半の東海道新幹線、のぞみ三号に莉子は乗っていた。
ホリデー・シーズンからは外れているせいか、車内は空いていた。普通席もがらがらだった。莉子は嵯峨と並んで座り、澄みきった青空の下、吸いこまれるように後方に流れていく景色を眺めていた。
嵯峨は、めずらしくTシャツにサングラスというカジュアルスタイルに身を包んでいた。昨夜、茅根に渡されたメモをじっと眺めている。
「書いてあるのは住所だけだ」と嵯峨はつぶやいた。「愛知県清須市新清洲七-六-一。電話番号もメールアドレスもない。おかしいよ。やっぱり凜田さんを誘いたいだけなんだ」
困惑を覚えながらも、莉子は笑ってみせた。「そこまで心配してくださるなんて......。恐縮です、でもだいじょうぶですから」
「だといいけど」嵯峨はメモをしまいこんだ。「藁をもつかみたくなる気持ちはよくわかるよ。手がかりはいまのところゼロに等しいからね」
「......嵯峨先生は、きょう休みだったんでしょう? こんなことに付きあわせてしまって......。申しわけありません」
嵯峨は笑顔になった。「一日かぎりの休暇なんて、単に暇を持て余すだけだからね。きみのおかげで、少しは有効に使えそうだよ。鯉淵さんの情報がガセだったとしても、人間観察の機会は得られる」
「でも、デンタルネグレクトの女の子とか......。いろいろ抱えている案件はあるんでしょう?」
「あの少女については、福祉施設から家庭裁判所への申し立てがおこなわれることになった。以前は、虐待を防ぐためには親の親権を失わせるしか手段がなかったんだけど、今年の二月ぐらいに法律が改正されたからね。一時的に親権を制限することも可能になった。僕も福祉施設に協力する運びになってる。長引きそうだよ」
「いい結果を期待したいですね」
「まったくだ。なにより子供が可哀想だよ」
莉子はうなずいて、窓に目をやった。
さっき東京駅をでたばかりなのに、もう神奈川県内だった。ビル群のなかに横浜アリーナの丸い屋根がのぞいている。
ふと心にひっかかることがあった。親権......。喪失......。
けれども、それについて嵯峨に問いかけるより早く、嵯峨のほうが話しかけてきた。
「『ノストラダムスの大予言』のポスターって、全国に何枚ぐらいあるのかな」
「あまり多くないってのが業界の見方ですけど......。でも実際には、日比谷映劇のスタンプ入りに限っても、かなりの数が残っているのかもしれません。タブー視された映画ゆえに現存数があきらかにならなかっただけでしょう。少なくとも、数枚ってことはないはずです」
「どうして?」
「放火犯はツイッターを情報収集に使いましたけど、フォローしている数もされている数も三十前後でほぼ同数。ってことは、それだけの数の人とダイレクトメッセージで私信を交換していたんです。『ノストラダムスの大予言』のポスター以外に話題はなかったそうだし、高値につられて売却を希望した人がそれだけいたということでしょう」
「ってことは、被害はまだ序の口ってわけか。これから何十件も放火がつづくとか......」
「いえ。三十人のフォロワーがみな住所を教えたとは考えにくいです。むしろダイレクトメッセージとはいえ、ツイッターで個人情報を送信する人は稀でしょう」
「そうすると、ポスターは三十前後存在するけど、犯人側が在り処を把握しているのは数件ていどかもしれないわけか。今後は別の方法で所在を探りだそうとする可能性もあるね」
「ええ。放火犯が何人いるかによって、情報収集力は変わってくるでしょう。あの歌舞伎町の実行犯以外に、共犯者がいるとすればですけど」
「すでに不審者に目をつけてるって、尾下さんがいってたじゃないか。中国人留学生の、ええと......」
「李基鎬さん。でも、その人は関係ないんじゃないでしょうか」
「そう?」
「ポスターが展示室にあることは公になってたわけだから、ノストラダムスのマニアが来てもおかしくないわけだし。偶然、展示室の真上の部屋だったってだけで、疑うのは気の毒でしょう」
「警察も手詰まりなせいで、ほかにやることがなかったんだろうね」嵯峨は身を乗りだし、窓の外を眺めた。「だんだん曇ってきたな。まだ薄日は射してるけど......。高層雲ってやつかな」
「いえ。太陽のかたちが透けて見えて、日がさができてますから。巻層雲です」
嵯峨は目を丸くした。「雲まで鑑定できるの? すごいね」
「見分け方を知ってるだけですから......」
莉子は笑ってみせたが、心にはもやが漂いだしていた。
手詰まりで、ほかにやることがない。嵯峨は警察についてそういった。わたしたちも同じだと莉子は思った。ほとんど無駄足とわかっていて、会ったこともないコレクターのもとに赴こうとしているのだから。
記者会見
記者クラブという制度は、日本と中部アフリカのガボン共和国、それにジンバブエにしかない。韓国にも以前にはあったが、すでに廃止された。
テレビ局と新聞社、通信社の記者ばかりが会員になっていて、週刊誌記者はまず除外される。よって、重要な記者会見に参加できず、面白くない立場に追いやられることが多い。
しかしきょうは、小笠原悠斗は同僚の宮牧拓海とともに、警視庁本部庁舎の記者会見場で最前列に座っていた。
他社の雑誌記者の姿はない。出席を許されたのは、あくまで特別な配慮だった。ゴールデン街の事件で第一通報者になったことが、これほどの優遇につながるとは思わなかった。
宮牧は、いつも以上に目を剥いて辺りを見まわしていた。「おい......。すげえところだな。みんなぴりっとしてやがる。いっぱしの記者になった気分だな」
「しっ」小笠原は小声でささやいた。「はしゃぐなよ。目立つよ」
「俺らなんかより、先輩らが来たほうがよかったんじゃねえか?」
「そうなんだけど、荻野さんが俺らを指名したから、しょうがないだろ」
「質問とかしていいのかな。『週刊角川』の宮牧です、なんていったら笑い物かな。三ツ星レストランで福神漬けを要求するぐらい場違いかな」
「そこまでじゃないだろ......」
ざわついていた室内が、ふいに静まりかえった。制服姿の男たち三人が登壇し、一礼して着席する。いずれもきびきびとした動作で、警察官僚らしい厳めしい顔つきをしていた。
周囲を眺めたが、牛込署や丸の内署の警部補の姿はなかった。小笠原を世話した新宿署員も見当たらない。警視庁の捜査本部に出向しているはずだが、こういう場に顔を見せることはないらしい。
三人の真ん中、初老の男が年齢に似合わず張りのある声で告げた。「おはようございます。広域重要指定事件、東京および埼玉で発生しております連続放火事件につきまして、ご報告申しあげます。新宿区歌舞伎町にて、バー・カサブランカ二階に侵入、映画ポスターを持ち去り路地で火を放った人物につき、現場から採取された指紋および、タクシーのドライブレコーダーの画像が決め手となり、特定に至りました」
カメラのフラッシュが連続して閃く。新聞記者はICレコーダーで録音しながら、すさまじい速さでメモを手帳に書きなぐっている。
ようやくあの男の素性があきらかになったらしい。小笠原はほっとした。もし万が一にも、こちらの所在を突き止められて反撃されたらと思うと、内心気が気ではなかった。
会見場に声が響き渡る。「男の名は野間一真。年齢、二十九歳。住所不定、職業不詳。警視庁はこの野間一真を、全国に指名手配いたしました。強盗致傷、および有印私文書偽造による前科があり、実刑判決を受けて二年間服役。出所後、六年が経過しております。なお、野間一真の母親は野間真奈美、すなわち連続強盗致傷犯、上石玄の元妻にあたります」
「え?」小笠原は思わず声をあげた。
報道関係者にも、ざわっとした驚きの反応がひろがっていた。
「野間真奈美は」と会見の声がつづく。「上石玄の服役中に離婚が成立し、地方公務員と再婚。しかしやがて、ふたたび離婚。野間一真は、このふたりめの夫とのあいだにできた子供であります」
わが耳を疑うとは、まさにこのことだった。上石玄のことなら記事にしたばかりだ。小笠原は鳥肌が立つのを感じた。
ご質問があれば。その声に対し、いっせいに記者たちの手があがった。
記者の声が後方からきこえる。「上石玄とは、先日獄中で死去した、昭和の鼠小僧次郎吉と呼ばれていた人物のことですか」
「その通りです」
別の記者の質問が飛ぶ。「土石玄の別れた妻の子ということで、土石とは血縁関係にないわけですが、野間一真の犯行の手口に上石との共通点などはみられますか」
「捜査中ですので申しあげることはございません。ただし、野間一真が生まれたのは上石玄の逮捕後七年も経ってのことであり、父親も異なるため、思想等を受け継いでいるわけではないと考えます」
「放火の標的になっているとされる映画のポスターですが、その作品名等はまだ公表できませんか?」
会見場は一瞬、静まりかえった。
その沈黙は、いまの質問事項が報道陣にとって、いかに興味深いものであるかを物語っていた。
しかし警察側の応答はそっけのないものだった。「現段階では、公表を差し控えたいと思います」
嘆きにも似たため息がいっせいに漏れるなか、宮牧がささやいてきた。「おまえは知ってるんだろ? 教えてくれよ」
小笠原はつぶやきかえした。「黙ってろ。極秘事項だ」
「ちぇっ。監査役にきいてみようかな」
「荻野さんが知ったら激怒するぞ。おまえ、干されて『ハイウェイウォーカー』にまわされてもいいのかよ」
「いや」宮牧は目を白黒させて口ごもった。「フリーペーパーは、ちょっと勘弁......」
宮牧が黙りこんだおかげで、小笠原は周りのざわめきを思考から締めだすことができた。
ひたすら考えにふける。けれども、何も見えてこない。暗闇のなかをさまようばかりだ。
上石玄の元妻、真奈美の子供。なんの影響も受けず、ごく普通の社会人として生活しているに違いない。記事を書いていた時点ではそう思っていた。
いったいなぜ、彼は犯罪者への道を歩んだのだろう。ほかの現場と違い、彼はポスターを盗みだしてから外で焼いた。窃盗、いや荒っぽい手口は強盗に近い。上石が得意とした強盗。果たして偶然だろうか。それとも......。
シャッフル
莉子は嵯峨とともに名古屋駅に降り立ち、そこから名鉄線で名鉄岐阜方面、新清洲駅で下車した。昼前に到着できたのはさいわいだった。
しばらく降雨がなかったのか、空気が乾燥している。早くも蝉の声がきこえていた。
駅前こそ、それなりに栄えていたものの、少し歩くと田畑ばかりの平野が広がっていた。住宅街もいたるところにあるが、わりと新しい。宅地開発は最近になって進んだのだろう。
通行量の少なさに比べて、車道も歩道も幅広かった。途中、交番で道をきいたが、どの角で折れるのかもわかりやすい。区画整理が行き届いている。
歩きながら嵯峨はいった。「ずいぶんきれいな道だね、地方財政は疲弊してるって話なのに」
莉子は笑った。「鳥山明さんが住んでるからでしょう。『ドラゴンボール』の作者の」
「本当に? それで多額の税が納められてるわけか。地元にいるの?」
「『ジャンプ』に週刊連載してたころから、この辺りに住んでたみたいですよ。道を整備したのも、編集者が漫画の原稿を取りにくるのを遅らせないためらしいって。たぶん都市伝説だろうけど」
「なんだ。一瞬本気にしたよ」
ふたりは笑いあいながら、農地に点在する新興住宅地のひとつに入っていった。
清須市新清洲七-六-一。メモに書かれた住所はすぐに見つかった。門柱に鯉淵の表札がある。これといって特徴のない、二十坪ほどの床面積の二階建て。周りの家も一様に同じデザインだった。建売物件だったのだろう。
チャイムを鳴らすと、家のなかでどたどたと駆ける音がする。
やがて鍵が外され、扉が開いた。顔を覘かせたのは、小学校低学年ぐらいの男の子だった。
「こんにちは」と莉子は話しかけた。「お父さん、いる?」
「ちょっと待って」男の子は顔をひっこめた。扉が閉まる。その向こうで、男の子が声を張りあげているのがきこえる。お父さん。
嵯峨が莉子につぶやいた。「いまの見た? 男の子の着てるTシャツ。『ドラゴンボール』じゃなくて『ワンピース』の絵がプリントされてたよ。清須市民なのに」
莉子は苦笑してみせた。「べつにかまわないじゃないですか」
ふたたび扉が開く。中年男が姿を現した。茅根ほど太ってはいないが、やはり肥満型で、眼鏡をかけている。エンジいろの麻のシャツは下ろしたてらしく、まだ折り目がくっきりと残っていた。
「どうもどうも」と男は目を細めて笑った。「凜田莉子さんですね。お待ちしてました」
「はじめまして。鯉淵陽向さんですか」
「そうですよ、ええ......」鯉淵の視線が嵯峨に向けられる。ようやく莉子に連れがいることに気づいたようすだった。とたんに、鯉淵の笑顔が凍りついた。
鯉淵はきいてきた。「こちらは?」
「嵯峨先生とおっしゃいます」莉子は答えた。「臨床心理士でして、今回の件を一緒に調べてまわっています」
よろしく、と嵯峨は会釈した。
それに応じて頭をさげた鯉淵は、浮かない顔になっていた。露骨に首を傾げてさえいる。
嵯峨が莉子をちらと見て、肩をすくめた。
どうやら、嵯峨や小笠原が指摘したとおりだったらしい。莉子はそう感じた。鯉淵はわたしとふたりきりで会うつもりだったのだろう。
鯉淵は、猜疑心のこもったような目でこちらを見つめてきた。
莉子は笑顔を取り繕った。鯉淵はそれにつられたように、ぎこちない笑いを浮かべた。
咳ばらいをして、嵯峨が告げた。「ポスターをお持ちだとか。見せていただけますか」
「ええ......。いいですよ。こちらへどうぞ」鯉淵はそういいながら、扉を大きく開け放った。
なおも首を傾げながら、鯉淵は階段を二階にのぼっていく。莉子は靴を脱いで、その後につづいた。嵯峨は最後に家にあがった。
案内されたのは、二階の八畳ほどの洋室だった。壁ぎわにはブリキやソフトビニール製の玩具が並んだ棚が並んでいる。そして、筒状に丸めた無数のポスターが、ダンボール箱にぎっしりと詰めこまれていた。
莉子は鯉淵にきいた。「奥さまはご在宅でしょうか?」
「いえ。きょうは働きにでてます」
「......失礼ですが、鯉淵さんは......」
「私? ええ。私は目下、職探し中で」鯉淵はダンボール箱から筒を引っ張りだしては戻す、その作業を繰り返していた。
やがて、鯉淵は一本の筒を引き抜いた。「あった。これだ、これ」
ポスターは開かれた。鮮やかな色調。保存状態も良好な『ノストラダムスの大予言』だった。
嵯峨が端を持って大きく広げる。莉子は左下の隅に目を向けた。イラストのマンモスの足もとに日比谷映劇のスタンプを見たとき、莉子のなかに緊張が走った。
「鯉淵さん」莉子は告げた。「このポスター、放火犯に狙われる可能性がありますよ」
「へえ」鯉淵はポスターを嵯峨から受け取り、元のように筒状に丸めだした。「そりゃ興味深いですね。でもこんな田舎には来ないでしょう」
「安心は禁物ですよ」
「だいじょうぶですよ」鯉淵はふたたび筒状になったポスターを、ダンボール箱のなかに差しこんだ。
莉子はいった。「その状態では、また探しだすときに手間がかかるのでは......」
「そうですね。整頓したほうがいいんでしょうけど、めんどくさくて。それにいまは、どれが『ノストラダムスの大予言』が判らないほうがいいんでしょう? 侵入者に見つからないようにね」
鯉淵は笑いながら、箱のなかの筒を混ぜだした。莉子と嵯峨に背を向け、視線を遮るようにして混ぜつづけた。
ここでも嵯峨は紳士的に振るまった。しっかりと鯉淵に背を向け、彼の手もとを見まいとしていた。やがて鯉淵が向き直ったとき、どれがさっきのポスターだったが、莉子の目にも判別できなくなった。
「よし」鯉淵は満足げにつぶやいた。「僕にもどこにあるのかわからない。木の葉を隠すなら森の中ってやつですな」
......果たしてそうだろうか。犯人は『ノストラダムスの大予言』のポスターを燃やすことが目的だ。ダンボール箱ごと、すべてのポスターに火をつけられたら終わりではないか。
莉子の心配をよそに、鯉淵は別の筒を何本か引き抜いた。次々にポスターを開きながら、鯉淵は解説を始めた。「僕のコレクションでは大映が充実してましてね。これは『眠狂四郎』シリーズの二作目。こっちは『陸軍中野学校』シリーズの『竜三号指令』......」
いかにも話を合わせるような態度で嵯峨がいった。「知ってますよ。市川雷蔵でしたっけ」
「そう!」鯉淵は目を輝かせた。「市川雷蔵といえば、ほかに『忍びの者』も......」
莉子は鯉淵にささやいた。「すみません......。これらは素晴らしいコレクションと思いますが、きょうお伺いしたのは、放火事件に関してなにかご存じのことがあると......」
「ああ、はい。その話ですか」鯉淵は頭をかいた。「じゃあ、場所を変えましょう。近くの喫茶店でお話しします。嵯峨先生、ご興味がおありなら、お好きなだけポスターをご覧になってていいですから」
嵯峨は硬い顔でいった。「いえ。僕もいきます」
すると鯉淵は、ひどく残念そうな面持ちでつぶやいた。「ああ、そうですか......」
鐘の音
そこは、鯉淵の家からすぐ近くの幹線道路沿い、戸建てのログハウス風喫茶店だった。東京に住む莉子には異常に思えるほどの広さを誇る駐車場。クルマは数えるほどしか駐車していない。これで採算があうとすれば、羨ましい地価の安さだね。嵯峨がそうつぶやいた。
三人はテーブル席につき、全員がコーヒーを注文したが、運ばれてきたのは皿いっぱいに盛りつけられた菓子類、ピーナッツ、それにトーストだった。
嵯峨が困惑のいろを浮かべた。「頼んでないけど......」
莉子はいった。「愛知県はコーヒー一杯にたくさんのおまけが付くって、本当だったんですね」
「ええ」鯉淵はさも当たり前のようにうなずいた。「むしろ東京が異常ですよ。僕も以前にレア物を求めて上京したことがあるんですが、銀座だったかな。一杯九百円ぐらいもするくせに、コーヒーしかでてこない」
「ふうん」嵯峨は運ばれてきたコーヒーカップを手にとり、ひと口すすった。「僕らには、それが普通だけどね」
鯉淵は不満そうにつぶやいた。「東京はけちですよ。喫茶店の座席も狭い。僕のように身体の大きな人間には不向きです」
莉子は切りだした。「鯉淵さん。それで、放火犯の動機についてなにかご存じとのことですけど......」
「ああ、放火ね。はいはい」鯉淵は虚ろに見える目でいった。「あの『ノストラダムスの大予言』という作品はですね、いまじゃどこでも観られないんです。かつて封切られたときに、描写に問題があると抗議を受けて......」
嵯峨が口をはさんだ。「それは知ってます。で、放火犯というのは? どんな人物ですか?」
「......そんなことは知りません」
「知らない? でもあなたは......」
「私は、茅根さんから『ノストラダムスの大予言』のポスターが連続して焼かれているって話をきいて、それなら犯行の目的が想像できるといっただけです。記録にほとんど残ってませんが、じつは一度だけテレビ放送されてるんです。そのときも大幅にカットされてましてね。これらの削除されたシーンの復活を望まない人もいるはずなんですよ。そういう人が実力行使にでたとしても、ふしぎではありません」
莉子は戸惑いながらきいた。「実力行使って......? ポスターを燃やしてまわることで、なんらかの主張をしたいわけですか? それとも本気ですべてのポスターを焼失させるつもりでしょうか」
「まあ、そう。あれですね。そのどちらか、あるいは両方かもしれません、なんにしても、変わり者ですよ。ええと、それとですね、この映画は撮影中に火事があったんですよ。東宝撮影所の第七スタジオが全焼しました。ひょっとしたら、この火事となんらかの関係があるかも......」
嵯峨は穏やかにいった。「鯉淵さん......。べつに情報なんか、お持ちじゃなかったんでしょう? 凜田莉子さんという女性について茅根さんからきかされて、お近づきになりたいと思った。そうじゃないですか?」
「いや......。僕は別に、情報といったわけじゃ......」
「僕はこれで東京に帰りますけど、凜田さんとおふたりでゆっくり話されますか。鯉淵さんにその気がなければ、凜田さんも僕と一緒に帰ると思いますが」
「あ、それじゃそのう、いえ、凜田さんがよろしければ、お昼でも......。っていうか、家にもまだまだ面白いコレクションがありますし」
莉子は笑ってみせたが、内心、落胆を禁じえなかった。
徒労だったか。予想できていたこととはいえ、ここまで豪快な空振りに終わると、失意を通り越してむしろ何も感じなくなる。
莉子は戸惑いがちにいった。「鯉淵さん。お気持ちはありがたいんですが、わたしにも仕事が......」
そのとき、ふいにけたたましいサイレンの音が耳をつんざいた。
甲高い鐘の音がこだまする。消防車の真っ赤な車体が、窓の外を横ぎっていった。進行方向は、鯉淵の家がある住宅街だった。
鯉淵は半ば呆然とした顔で、窓に目を向けている。いかなる事態が危惧されるかも、まだ理解できていないようすだった。
嵯峨の顔は、あきらかに青ざめていた。莉子も血の気がひいていく思いだった。
サイレンはフェードアウトせず、ぴたりと途絶えた。
近くに停まった。莉子は息を呑んだ。
リストアップ
愛知県清須市にある鯉淵宅に赴き、その日のうちに東京にとんぼ返りしてから、早くも一週間がすぎた。
凜田莉子は、万能鑑定士Qの店内でデスクにつき、ガラス越しに見える神田川沿いの人の往来を眺めていた。
正午をまわったが、客足は途絶えていた。しばらく留守にしていたおかげで、受理している依頼がない。鑑定希望の品を持ちこんでくる新規の客も現れなかった。
やるべきことは山ほどある。毎日のように発売される新製品、あるいは市場に流れる骨とう品のカタログに目を通し、知識を身につけていかねばならない。
けれどもここ数日、勉強は手つかずだった。ノストラダムスの大予言。例のポスターにまつわる放火事件が頭から離れない。
あの日、消防車が向かったのは鯉淵の家ではなかった。そこから少し離れたところにある、宅地造成済みの空き地だった。雑草が生い茂るその一帯は、空気が乾燥していたこともあり、広範囲に炎上していた。付近住民が火に気づき、一一九番通報したという。
焼け跡から発見されたのは、炭と化した一枚の紙片。大きさからみてポスターに間違いなかった。数日後、愛知県警の科捜研により確認がなされた。『ノストラダムスの大予言』だった。
当時、留守番していた鯉淵の息子の証言によると、いきなり二階でガラスの割れる音がして、足音が響いてきたという。駆けあがって父親の部屋のドアを開けると、すでに誰もいなかった。少年はそう証言していた。
たしかに二階の窓ガラスは割られていて、床からは侵入者のものらしき靴の痕も見つかった。しかし状況は、あまりに不可解だった。
ダンボール箱におさまっていたポスターの筒は、ばら撒かれることもなく、そのまま残っていた。失われていたポスターはただ一枚。『ノストラダムスの大予言』だけだ。
侵入者は、鯉淵自身見つけるのが困難だと主張する状況で、一本しかない正解の筒を即座に引き当てたことになる。
喫茶店に向かう前、鯉淵は箱のなかの筒を混ぜた。わたしと嵯峨の視線を遮るようにして、徹底的にシャッフルした。たとえ目をそらさずに注視していたとしても、容易に判別できるものではなかった。それなのに、いったいどうやって。
西枇杷島署での事情聴取を終え、夜遅くの新幹線で東京に戻る途中、嵯峨はぼそりとこぼした。考えにくいことだけど、ポスターを見つけだせる人物がいるとすればひとりだけ、鯉淵さんしかいない。
たしかに彼なら、混ぜたとみせかけてポスターの位置を把握しておくことも可能だろう。でも彼は、わたしたちと一緒に喫茶店にいた。男の子が留守中に仕組んだのか。まさか。それこそありえない。
日比谷グラビティホテルの展示室といい、今回の鯉淵の家といい、わからないことばかりだ。犯人はどうやって不可能を乗り越えているのか。
それに......。なぜいつも犯行現場に出くわすのだろう。小笠原は歌舞伎町で、莉子と嵯峨は愛知の清須市で、それぞれに火災発生に直面した。偶然のひとことでは片づけられない。
もの思いにふけっていると、ガラス越しに停車するセダンが見えた。
客だろうか。莉子が立ちあがると、セダンからふたりのスーツ姿の男が降り立った。
ふたりはまっすぐにこちらに向かい、開いた自動ドアから店内に入ってきた。
いずれも顔馴染みだった。莉子はいった。「葉山さん。それに雲津さん。めずらしいですね、ここに足を運ばれるなんて」
葉山は頭を掻きながら告げてきた。「きょうも本庁の捜査本部に行くところでしてね。ちょっと寄ってみたんです」
「なにかお役に立てることがあれば......」
「いや、愛知の後で山梨と千葉でも放火があったでしょう? どちらもやはり『ノストラダムスの大予言』のポスターが燃やされたわけですけど、ここ数日は犯行も途絶えているじゃないですか。そろそろ犯人も、在り処を知っていたポスターは焼きつくしたんじゃないかと思うんです。だから事件の緊急性は、低下する方向にあります」
「そうですか......。でも、いまだにマスコミはどんな映画のポスターなのか、発表していませんよね。捜査は継続してるんでしょう?」
「むろんですよ。ポスターは非公開でも、野間一真は指名手配しましたからね。有力な情報も寄せられましたよ」
「どんな?」
「野間が通っていたスナックの飲み友達からのタレコミですけどね。半年ほど前に野間は新宿の大手デパートでパートとして働いていたというんです。店名は不明ですが、それなりに懐具合もよく、言葉づかいから接客態度が身についていたこともうかがえるので、まず間違いないというんです」
「それは調べてみる価値がありますね。新宿区の大きなデパートといえば数も限られますから、片っぱしからあたっていけば、そのうち見つかりますね」
「そうなんですけどね......ええ」葉山は口ごもった。視線も逸れがちになってきている。
やがて雲津がじれったそうに、懐から紙片を取りだした。「大勢の捜査員を動員して該当するデパート、のみならずスーパーマーケットやその他の量販店まで範囲を広げて調べたんですが、いまだ発見に至らないんです」
莉子はつぶやいた。「本名じゃなく、偽名を使っている可能性も......」
葉山がいった。「そりゃそうですよ。野間一真は有印私文書偽造の前科があるんです。偽の運転免許証や住民票を作って所持していたぐらいですからね。今回も本名で働いてるわけはないですよ」
「それで」莉子はため息まじりに告げた。「デパートの従業員に顔写真を見せてまわったのに、成果は得られていないと、そういうわけですか」
雲津が紙片を開いた。「変なんですよ。新宿区内の店舗をコンピュータでリストアップして、全店に捜査員を派遣したんです。漏れている店なんか一軒もないはずです」
葉山は気まずそうに顎を撫でまわすばかりだった。雲津は莉子に対し、しきりにたずねるような目を向けてくる。
どうやらふたりは、その線で行き詰まって莉子を頼ってきたらしかった。態度から察するに、雲津のほうがいいだしたのだろう。葉山は難色を示しただろうが、ほかに方法もなくここを訪ねたに違いなかった。
莉子は微笑してみせた。「新宿駅南口。タカシマヤをあたってみてください」
ふたりは面食らったような顔で見かえしてきた。
雲津がきいてきた。「新宿タカシマヤですか?」
葉山がうんざりしたような顔で、投げやりにいった。「凜田さん。コンピュータでリストアップしたと、雲津もいったでしょう。そんな大手を見逃すはずが......」
ところがそのとき、紙片に目を落としていた雲津が、驚きの声をあげた。
「は、葉山さん」雲津は目を瞠っていた。「リストに新宿タカシマヤがありません!」
「な」葉山は愕然とした面持ちで、紙片を雲津の手からひったくった。「なんだと!?」
莉子は穏やかにいった。「店名は新宿タカシマヤでも、住所は渋谷区です。だからリストから漏れたんです」
ふたりは絶句したようすだった。しばらくして、葉山がつぶやいた。「渋谷区......」
「そう仮定すれば『新宿の大手デパートで働いている』と本人がいったのもうなずけるでしょう。違います?」
よほど衝撃だったらしい。葉山はぽかんと口を開けて雲津を見た。雲津はそんな葉山を見返し、真顔でうなずいた。
やがて葉山は、そわそわしながらいった。「どうも、凜田さん。お手間をとらせました。渋谷区ね......。凡ミスもいいところだ。雲津、いくぞ」
さっさと自動ドアをくぐって外にでていく葉山とは対照的に、雲津は深々と頭をさげてから退店していった。
走り去るセダンを見送ってから、莉子はため息をついた。
そそっかしい人たち。でも捜査は進展しているようだ。野間一真なる実行犯の尻尾をつかむときはくるだろう。近いうちに、かならず。
計算式
莉子のもとに葉山からふたたび連絡が入ったのは、それから二日後のことだった。
電話の向こうの葉山は興奮した口ぶりでいった。やっぱり新宿タカシマヤでした。あいつは地下一階の食料品売り場の臨時雇いとして、偽名で働いていたんです。でも提出された履歴書から、住所があきらかになりました。家宅捜索の最中ですから、おいでいただけませんか。
このところ都内の大型店舗では、パートやアルバイトの雇用についても調査を徹底している。住所不定の人間が、偽りの所在地を書きこむのを嫌い、電話をいれたり直接訪ねたりする。野間一真の場合、身分証明書は偽造できても、住所を明かさずに仕事は得られなかったのだろう。
葉山から教えられたその住所は、新宿区弁天町二丁目。牛込警察署の管内だった。
どしゃ降りの雨の日の午後、莉子は傘をさして野間一真の住んでいたというアパートに向かった。
外苑東通り、弁天町交差点にほど近い老朽化した木造二階建て。お馴染みになった鑑識課員の制服が階段を上り下りしている。一階の軒下には共同のコインランドリー、コインシャワーが設置してあった。いまはそれらにも黄色いテープが張られている。
二階にあがって、開け放たれた扉のなかを覘きこむ。靴脱ぎ場には大量の靴が並んでいた。なかからカメラのシャッター音がきこえるたびに、閃光が漏れだしてくる。
莉子も靴を脱いであがった。玄関と呼べるスペースはほんのわずかで、その先は台所だった。キッチンは錆びついている。行く手を折れると、六畳一間の居住空間があった。
ずいぶん埃っぽかった。空気が薄くなるのではと心配になるほど、大勢の鑑識課員がひしめきあっている。指紋の採取、写真撮影。畳は剥がされ裏側までも丹念に調べられている。杉貼りの目隠し天井の一部が外され、脚立が据えられていた。頭上から這いまわるような音が響いてくる。屋根裏までも調べているらしい。
スーツ姿に手袋をした葉山が近づいてきた。「凜田さん。どうもご足労さまです」
「家賃の手ごろそうな物件ですね」
「格安ですよ」葉山はポケットから手袋を取りだし、差しだしてきた。「あなたもどうぞ」
「ありがとうございます」莉子は両手に手袋を嵌めながらきいた。「野間一真さんが帰ってくる心配はないんですか」
「ええ。当初は張りこみをしていたんですが、いっこうに姿を見せる気配がありませんで。住民にきいたところ、一週間以上も行方をくらましているとのことでした。家賃はそれ以前から、ずっと滞納しているようでして。捜索差押許可状がでたので、ガサ入れに踏みきったんです」
莉子は室内を眺め渡した。しかし、畳のほとんどが剥がされ、襖も取り除かれたいまとなっては、野間一真の生活の痕跡をしめすものは見当たらなかった。
戸惑いがちに莉子はたずねた。「なにか拝見できるものは?」
葉山は部屋の隅を指さした。「室内にあった物なら、そちらに固めてあります。だいたい、ちゃぶ台の上とか周りに置いてありました」
ビニールの敷かれた一角に、まるでフリーマーケットの商品のように雑多な品物が並んでいる。真っ先に目についたのは、異常ともいえるほどの数のライターオイルの缶だった。ポケットにおさまりそうなサイズの四角い缶。きちんと並べてあるおかげで、個数が把握できた。縦に七、横に十一。合計七十七。いずれも商標はジッポーだった。
そのジッポーのライターも三つ置いてある。うちふたつは使いこまれて傷だらけになっていたが、残る一本は真新しかった。いずれもビンテージ物ではなく、ごく一般に売られている廉価型だった。
莉子は顔をあげて、室内のにおいを嗅いでみな。無臭だった。「タバコを吸ってはいなかったようですね。実際、灰皿もないし。これらはすべて放火のために買い集めたとみて間違いないでしょう」
葉山はうなずいた。「缶はほとんどが未使用です。ずいぶんと多くの放火を手がけるつもりだったようですね」
「ええ」莉子は缶を次々に手にとった。「どれも合成イソパラフィン系炭化水素が主原料になってますね。以前の重質ナフサを主原料とするオイルよりも引火点が低くて、揮発性が高いものです。切り替わったのはここ数年のことです」
「ふうん。それが何か?」
「放火はごく最近になって計画したことであり、何年か前には考えてもみなかったってことでしょう。だけど、ずいぶんたくさん用意したもんですね。ポスターがよく燃えるように、オイルをかけておいたりしたんでしょうか」
「いや。私もそれを疑ったんですが、鑑識の話では焼けたポスターの残骸からは、オイルの成分は検出されなかったそうです。あれはライターの火だけで燃やしたんですよ」
だとすると、いったいなぜこんなに多くのオイル缶が必要だったのだろう。いちどオイルを注入しておけば、ライターはしばらく使える。ひと缶が空くだけでもかなりの使用回数が必要になる。これだけの缶を消費するには、何千回、いや何万回にわたって着火を繰り返すしかない。
けれども、それなら火打ち石の予備はどこにある。フリントの交換に使うマイナスドライバーも見当たらない。ライターを使い捨てにする気なら、三本では心もとない。
なんとも不可解な物資の調達法だった。これらの缶はいかなる使用目的のために集められたものだろう。
莉子の目は、その隣りに置いてある紙類の束に移った。
求人情報の切り抜きが何枚も重なっている。莉子はそれらを一枚ずつ眺めていった。印がつけてある募集要項の店舗所在地は、河田町、天神町、市谷甲良町、神楽河岸......。
職探しは、このアパートから通勤することを念頭に置いて考えられていることがわかる。やはりここは野間一真の生活拠点だったとみて間違いない。それらの求人情報の下に、皺くちゃのメモ用紙が二枚あった。
とたんに、はっとしてその表面を見つめる。「これって......」
「そうです」葉山はいった。「脱ぎ捨ててあったワイシャツのポケットにありました。国際フォーラムに落ちてた紙玉と似てますね」
一枚めの紙片には、ボールペンで書きこまれた記号が並んでいた。

その下にあった二枚めは、大きさも紙質も異なる別のメモ用紙だった。こちらには折りたたまれた痕がある。水性ペンで書かれたものらしく、一部はインクが溶けてにじんでいた

莉子は時間が経つのも忘れ、夢中でその謎の記号列を眺めつづけた。
これら二枚の記号の配列は異なっている。そして、国際フォーラムの展示会場に落ちていたメモ用紙も、違った並びだったように記憶している。
けれども、筆跡はどれも似通っていた。同一人物が記したのか。いったいどんな意味があるのだろう。
「葉山さん」莉子はきいた。「国際フォーラムのメモは、見せてもらえそうにないですか?」
「いや......。本庁の捜査本部では、全員が情報を共有してますからね。あのメモの記号列も、捜査員に配布された資料にコピーされてます。署に戻ったらお見せしますよ」
「お願いします。でも......これって暗号でしょうか?」
「さあね。いまどき暗号文でもないような気もしますけどね。携帯電話やパソコンのメールも、通信中には文章のデータが自動的に暗号化されるわけでしょう?」
「はい。送信とともに暗号化され、受信した瞬間に復号される仕組みです」
「だから第三者に読みとられる心配はない。メールのほうがよほど安全ですよ。記号化した暗号文を紙でやりとりするなんて、いまどき考えられません」
「それはそうですけど......」
「私としては」と葉山は隅に置かれた封筒に手を伸ばした。「むしろこっちのほうを凜田さんに見ていただきたかったんですが」
封筒から取りだされたのは、これまたおびただしい数の書類だった。住民票、印鑑証明書、それに戸籍謄本の写し。さらには、あらゆる銀行の通帳。そして印鑑。
葉山はいった。「実在しない人間の証明書の数々です。見てのとおり、いくつもの偽名を使い分けています。そして、それらを元に作った架空名義の口座。新宿タカシマヤのパート従業員だったときの偽名も、そのなかに含まれています」
「給料を振り込んでもらうために、必要だったんでしょうね」
「ええ。ほかの通帳も、パートやバイトで働いていた職場からの支払いを受けるためのものです。いずれも入金後にただちに全額を引きだしてますから、残高は〇円ばかりですけど」
「運転免許証や、パスポートの類いはありませんね」
「以前は野間の十八番だったみたいですが、最近はICチップが埋めこまれたりして、偽造が難しくなってますからね」
莉子は通帳の入金額をざっと確認すると、偽の住民票や印鑑証明書を凝視した。紙の硬さを確認し、印字面を光にかざして斜めから見ることで、インクの乗りぐあいを確かめる。
やがて莉子は、思いのままを口にした。「偽造をおこなったのは、野間さんって人じゃないですね」
「え?」葉山はうわずった声をあげた。「どういうことです。やつは有印私文書偽造の前科持ちですよ」
「逮捕された根拠が物証か本人の自白か知りませんけど、野間さんが偽物を作るところを捜査員が見たわけじゃないんでしょう?」
「まあ、それはそうですけどね。やつの所持品から、大量に偽の身分証明書が見つかったときいてます」
「この紙は官公庁専用販売商品で、偽造防止用紙というものです。四か所に『証』の文字の透かしがあって、さらに隅に二か所メッセージが入ってます。『透かし等の不正防止処置を施してあります』って」
「一般には買えないものだとか?」
「いいえ。その気になれば誰でも、株式会社タツノなどメーカーのウェブサイトから購入できます。A4五百枚で五千円ほどですから高くもありません。問題は、この印刷です。役所のプリンターと同様に、偽造防止用紙のトナーがいっさい削られずに綺麗に印字してある。これにはきわめて高価なプリンターが必要で、しかも細かくメンテナンスしないかぎり偽造書類をそれらしく仕上げることはできません。この部屋にそんな設備はないし、あった痕跡もありません。野間さんのパート収入では、製版に必要なハード類の購入はおろか、プリンターのメンテ代も捻出できません」
「じゃあ、野間には共犯者がいて、偽造書類を手がけているのはその人物だと......」
「そう思います」莉子は、さっきの記号列が書きこまれたメモを手にとった。「急いで書いたもののようですが、線がしっかりしているしバランスがとれています。書き手は器用な人のようですね。この人が偽造をおこなっていた可能性は充分にあります」
「......本庁に問い合わせて、暗号文について詳しい人間が科捜研にいるかどうか、きいてみます」
葉山はそういって踵をかえし。戸口に駆けだしていった。
莉子はため息をつき、まるで解読の手がかりのない記号列を見つめた。
わたしたちは核心に近づきつつある。そう感じる。でもまだ、見えない壁が立ちはだかっている。それを乗り越えるすべを見つけないかぎり、真理はあきらかにできない。
解読不能
正午前に小笠原は会社をでた。腹は減っているが、食事をとるよりも先におこなうべきことがある。
数日のあいだ降りつづいた雨もやみ、青空がひろがっていた。澄んだ空気を透過する陽射しがまぶしい。外濠から神田川沿いへとつづく歩道に、日傘をさす婦人の姿が目につく。
小笠原は早稲田通りにでて、牛込警察署に向かって歩いた。週刊誌記者がなんの前触れもなしに訪ねることを、彼らが快く思わないのは知っている。けれどもいまは、どうしても届けねばならないものがある。
携えている封筒の中身。けさ、嵯峨から託された物だった。
角川書店本社ビルの受付から編集部のデスクに電話が入り、ロビーに臨床心理士の嵯峨という人がきている、そうきいたときには心底驚いた。俺に何の用だろう。小笠原が訝しがりながら下りていくと、嵯峨はいつものようにきちんとした身なりで頭をさげた。
嵯峨が、彼の知人であるNHKのフロアディレクター経由で入手したそれは、警察の捜査態勢に大きな影響を与えうるものだった。
凜田さんに渡したかったんだけど、ずっと留守にしているみたいだから。嵯峨はそういった。悪いけど、小笠原さんの手で牛込警察署に届けてくれないか。彼女もたぶんそこにいると思う。
きょう、嵯峨は虐待を受けている少女のために家庭裁判所に赴かねばならないという。小笠原は、かならず届けると約束した。お願いします、嵯峨は真顔で告げて立ち去っていった。
郵送は好ましくない。時間がかかるし、捜査関係者に直接手渡すべき重要なしろものだった。
牛込警察署のエントランスを入る。ロビーの階段を三階にのぼった。
刑事部屋に足を踏みいれる。いつもの光景がひろがっていた。葉山の姿を探したが、見つからなかった。
顔見知りを求めて辺りを見まわす。コーヒーを片手に歩いてきた雲津が目に入った。
小笠原は声をかけた。「雲津さん」
雲津は顔をあげ、驚きのいろを浮かべた。「記者さん。なんの用ですか」
「葉山さんはいらっしゃいますか」
「ええ......。凜田さんと一緒に会議室に......」
いつもの奥の扉だな。ありがとうございます、そう告げて小笠原は歩きだした。
「待ってください」雲津が足ばやに追ってきた。「いまは重要な案件を話しあっている最中で......」
追いつかれるわけにはいかない。小笠原は歩を速めて、すぐさま会議室の扉に達した。その扉を開け放つ。
円卓を三人が囲んでいた。何枚かの書類を見おろし、会話を交わしていたようだ。手前に座っているのは葉山。その向かいに莉子。さらにその隣りには、眼鏡をかけた見知らぬ初老の男が身を乗りだし、書類を指さしていた。
莉子がこちらを見て、目を丸くした。「小笠原さん!?」
葉山が振りかえる。とたんに、いつものように苦々しい顔になって立ちあがった。「なんです。新宿署の事件に関わったからといって、出入り自由になったわけじゃないんですよ。記者さんは外にでてください」
雲津が小笠原の背後で、困惑ぎみに告げる。「引き留めたんですけど......」
毛嫌いされるのは予想済みのことだ。小笠原は気にもかけずにいった。「きょうは記者として来たんじゃありません。嵯峨先生からの預かり物を届けにきたんです」
葉山が眉をひそめた。「預かり物?」
「そうです」小笠原は封筒を開けて、紙の束をつかみだした。「狙われているのがどんなポスターか、マスコミに情報が漏れましたよ。今夜にも報道される予定です。テレビのニュース番組で」
「まさか」葉山は首を横に振った。「捜査本部は極秘事項として扱っているんですよ。あなたたちがリークしない限り、NHKだろうと民放だろうと真実を知りません」
「ところが、そのNHKか嗅ぎつけたんです。見てください」
小笠原は紙を開いて、テーブルに並べた。
それはNHKのロゴが入った専用紙で、原稿用紙のようにマス目が印刷してあった。走り書きされた文字は、ほとんどがそのマス目からはみだしてしまっている。最後の行は書きかけで終わっていた。
眼鏡の男が真顔でいった。「NHKのニュース原稿用紙だ。キャスターが手もとに置いて、読みあげる物だよ。以前、家族でスタジオパークの見学にでかけたときに見た」
莉子もうなずいた。「わたしも見たことがあります。NHKのウェブサイトでも写真入りで紹介されてますから」
「そうです」小笠原はいった。「嵯峨先生が、知人のNHKのフロアディレクターから入手したものです。これは書き損じた原稿で、破棄されそうになっていたところを、フロアディレクターが拾いあげたんです」
葉山はその紙をひったくった。食いいるように文面を見つめる。
「ええと」葉山は読みあげた。「首都圏全域および中部地方の一部で起きた連続放火事件について、実行犯とされる野間一真容疑者が狙っていた映画のポスターが、一九七四年に公開された日本映画『ノストラダムスの大予言』であることが、NHKの取材により判明しました......」
一同が驚きの声をあげる。雲津も、小笠原の後ろでつぶやいていた。なんだって......。
頬をひきつらせながら葉山がつづきを読みあげていく。「この事件は、新宿区市谷田町に住む茅根涼太さんの自宅が火事になったことを皮切りに、東京や埼玉、愛知、山梨、千葉で同様の火災が起きたもので、いずれも特定の映画のポスターに火をつけられていることが共通点となっていました。今回判明したポスターは日本映画『ノストラダムスの大予言』で、日比谷映劇のスタンプが......」
葉山はそこで言葉を切り、苦りきった顔でニュース原稿をテーブルに放りだした。
眼鏡の男が憂いのいろを漂わせながらいった。「警視庁の捜査本部に知らせるべきじゃないか? 情報の流出に歯止めをかけねばならんだろう」
「でも」莉子が困惑顔でつぶやいた。「こうなった以上、他局や新聞社が追随するのは時間の問題だと思いますけど」
「ああ」葉山は大きくうなずいた。「違いないですね。きょうの報道を自粛させたところで、もう各社に情報は筒抜けでしょう」
小笠原は告げた。「嵯峨先生がいうには、いまこそ『ノストラダムスの大予言』のポスターを持っている人々に呼びかけて、警察が回収をはかるべきだと......。責任を持って保管し、事件が解決を迎えたら返却するといえば、所有者の大半は応じるだろうといってます。それによって本人や家族の安全が確保できますし、映画ポスターのコレクターが近隣住民に迫害されたり、映画グッズ専門店が風評被害を受けたりするのを防げます」
雲津がいった。「しかし、たとえ所有者がポスターを署に送っても、手放したことを知らない犯人が火をつけに現れるかも......」
葉山は首を横に振った。「実行犯はポスターに直接火をつけている。ポスターの存在を確認せずに家屋に火を放ったりはしない。ポスターがなければ放火をまぬがれる可能性はある。嵯峨先生のいうことにも一理ある......」
莉子が葉山を見つめた。「わたしも同意見です。マスコミが気づいた以上は、これ以上映画の題名を伏せていても意味はありません。怪我人がでる前に手を打つべきです」
しばし沈黙があった。葉山は無言のまま、じっと考えこんでいるようすだった。
やがて葉山は立ちあがった。つかつかと戸口に歩いてくると、雲津に声をかけた。「一緒にこい。まず係長にかけあって、それから捜査本部に連絡する」
「はい」雲津は葉山につづいて、刑事部屋へと歩き去っていった。
室内に安堵の空気が漂った。莉子も心底ほっとしたようすで、微笑を浮かべてこちらを見た。
莉子は、隣りの眼鏡の男を紹介してきた。「こちらは上智大学大学院の外国語学研究科で、理論言語学の教員を務めておられる美濃部教授です」
小笠原は会釈した。「警察関係のかたじゃなかったんですね」
美濃部は苦笑いを浮かべた。「とんでもない、私がそんなに鈍そうに見えるかね?」
「いえ」小笠原は椅子に腰かけた。「警察になにか、協力を要請されたんですか」
「そんなとこだよ。警視庁の科捜研からは、何度か意見を求められたことがあってね。期待に応えられたかどうかわからないが、今回もまたお声がかかったわけだ」
莉子はいった。「美濃部さんは、暗号の研究もしておられるそうなんです」
「暗号?」と小笠原はきいた。
美濃部はため息をついた。「専門は語彙の構造と語彙化の認知的基盤の解明だよ。暗号はお遊びていどにすぎんのだが、警察にはわかってもらえなくてね」
小笠原はテーブルに目を落とした。三枚の紙片はいずれもコピーのようだった。それぞれに数学式のような、奇妙な記号の配列が描かれている。
「これが」小笠原はいった。「前に話してた......」
「そう」莉子がうなずいた。「放火現場に落ちてたメモが一枚。それに野間一真さんの潜伏先で見つかった二枚。暗号なら解読できないかと思ったんだけど......」
美濃部が告げた。「無理だな。サンプルが少なすぎるよ。使われている記号の数と、各ブロックの記号数を見る限り、これらはおそらく、暗号文のなかでも最もシンプルで古典的な方法......サイファの換字式ってやつだと思う。五十音を一字ずつ記号に置き換えてるんだ」
小笠原は記号列を見つめた。「そうすると、アがなにか特定の記号で、イもなにか別の記号、ウも......って感じですか」
「そのとおり。漢字やカタカナ、ひらかなの違いは含まれていないと思う。それならもっと記号の種類が多いはずだからな。カナの五十音順のみだろう」
「じゃあ、わりと判りやすいですね」
「ところが、そうじゃないんだ。アルファベットなら二十六文字だし、比較的解読しやすい。英文はeが最も多く使われるから、数の多い記号をeと仮定して当てはめてみるとか、二文字だけくっつけてあるところはたぶん接続詞かBe動詞だろうとか......」
「ああ」小笠原はうなずいてみせた。「小説で読んだことがあります」
「しかし、日本語はそうもいかないんだ。英文は単語をひとつずつ区切って書くが、日本語は一文が全部つながっている。これらの記号列の、空白がある部分がセンテンスの区切りとすれば、その前のひと文字かふた文字が接続詞か接続助詞の可能性もある。とはいえ助詞だけでも『が』『から』『て』『と』『のに』『ので』『たり』とバリエーションが豊富だし、副助詞の『まで』『だけ』や格助詞の『に』かもしれない。文末だったとすれば文体か話体か、普通体か丁寧体かによりがらりと変わってしまう」
莉子がつぶやいた。「体言止めの可能性もありますしね」
「そうとも。主語だって省きがちなのが日本語だし、品詞は英文ほど決まりきったかたちをなさない、標準語じゃなく方言を使っているかもしれんし、そうなったらまるでお手上げだ」
「わかります」莉子はため息まじりにいった。「わたしの出身地の八重山地方と沖縄本島ですら、まるで違ってますから......。あ、先生。数字はどうでしょう。〇から九までの数字も、それぞれ記号に置き換えられているんじゃないですか?」
「いや。解読されにくくするためにイチとかニとかサンとか、読みを五十音に変換して表記しているだろうな。そういうわけで、文法上の法則に当てはめて解明するのは不可能だ。少なくとも、この三枚だけではね」
「どれくらいサンプルがあれば、解読できると思われますか」
「まあ、そうだな。この長さの暗号なら、最低でも百枚」
「百枚......」
「それでようやく共通する記号を見つけだし、接続助詞か格助詞、副助詞のどれであるかを推測できるだろう。しかしそれでも、あきらかになるのは五十音のうちほんの一部だ、結局、変換表なしには解読は無理だ」
失意のいろを漂わせながら、莉子は小声でささやいた。「変換表ですか......」
「そう。この三枚に限っていえば、アがこの記号、イがこの記号という表がなければ、スーパーコンピュータを使おうとも解読はできない。シンプルゆえに難しいんだよ。お役に立てなくて恐縮だが......」
莉子はため息をつき、下を向いた。
これほど落胆をあらわにする莉子も珍しかった。小笠原は自分のことのように胸が痛んだが、慰めの言葉ひとつ思いつかなかった。
扉が開いて、葉山が足ばやに入室してきた。「ええと、さっきのニュース原稿......。あこれだ」
葉山は急いでいるらしく、がさがさと音をたててニュース原稿をかき集めると、それらを携えてまた部屋をでていった。
すると、しばらくして莉子の視線があがった。記号列をじっと見つめる。その瞳の虹彩のいろが変わったように見えた。
小笠原はきいた。「どうかした?」
「え?」と莉子はこちらを見た。その視線がまた逸れていく。「いいえ。べつに......」
つれない返事。しかし、小笠原はぼんやりと莉子の心情の変化に気づきだしていた。
以前にもたびたび感じたことだ。彼女はいま、なんらかの事実に思いが及んだ。見えていなかった真相が、彼女のなかで浮き彫りになった。
何に気づいたのだろう。小笠原は、沈黙する莉子の顔をじっと見つめた。
終電前
警察の対応は早かった。七時のニュースで報じられるより早く、捜査本部の関係者が記者会見を開き、標的になっているポスターが『ノストラダムスの大予言』であること、そして警視庁がポスターを着払いで受け付ける旨を発表した。夕方には全放送局のニュースで報じられ、新聞の号外もでた。
それから一週間以上が経過した。警察には二十枚近くの『ノストラダムスの大予言』のポスターが送られてきたという報道がある一方、放火は一件たりとも起きていなかった。
嵯峨の提案が功を奏したようだ。野間一真の行方を追うのは困難になったらしいが、真実が明かされることで犯罪が抑止できたのはさいわいだった。
晴れた日の午後、小笠原は万能鑑定士Qの店の前を通りかかった。ガラス越しに店内を眺める。
実際には、毎日のようにここを訪ねていた。たいてい莉子は接客中もしくは留守だったので、声さえかけられなかった。でもきょうは、莉子はひとりでデスクについている。
心が躍るのを感じながら、小笠原は自動ドアの前に立った。
ドアがスライドして開く。莉子が顔をあげた。「あ、小笠原さん。おひさしぶりです」
「こんにちは」小笠原は笑いかけた。「ずっと忙しそうにしてたんで......。もしお昼がまだなら、一緒に食事でもと思って」
莉子の顔には笑みがあったが、返事はやはり期待したものではなかった。「ごめんなさい。いまから嵯峨先生が来る約束なの」
「そうなんだ......」
「あ、でも、そんなに長くはかからないと思うの。とはいっても、三十分後にお客さんの予約が入ってるんだけど......」
小笠原はため息をついてみせた。「一喜一憂だね」
「ほんとにごめんなさい。でもまたどうせ暇なときも来るから......」
そのとき、自動ドアが開いた。
嵯峨はきょうも、そつのないスーツの着こなしを決めてきていた。落ち着きはらった態度と、適度に友好的な微笑。どうすればあのような余裕がかもしだせるのか、機会があればきいてみたい。小笠原はそう思った。
「どうも」嵯峨は先にこちらに頭をさげてきた。「小笠原さん。それから凜田さん。こんにちは」
莉子は愛想よくいった。「嵯峨先生。ご無沙汰でしたね」
「例の少女のことについて、いろいろ煩雑な手続きがあったからね。凜田さんのほうはどう? ポスターの鑑定は進んでる?」
「ええ。残すところ二、三枚ぐらいかな。夕方にこの店を閉めてから保管場所に行くから、夜遅くまでかかっても数枚ずつしか鑑定できなくて」
話が見えてこない。小笠原はきいた。「ポスターの鑑定? 保管場所って?」
嵯峨がいった。「警視庁に送られてきたポスターが一か所に集められていて、凜田さんはそれらの鑑定を依頼されているんだよ」
「そうなの」莉子はうなずいた。「ポスターの保存状態だとか、日比谷映劇のスタンプが本物かどうかとか、ほかになにか共通項はないか、とか......。いろいろチェックして書類にしなきゃいけないの。役に立つかわからないけど、捜査の一環として可能な限り情報を得たいって、警視庁の偉い人がいいだしたらしくて」
小笠原はつぶやいた。「そりゃ大変だね......」
嵯峨が莉子にきいた。「毎晩、警視庁に通ってるの?」
「いえ。保管場所は警視庁ではないんです。放火犯に知れたら危険ってことで......。田舎の、それも団地の一室に置いてあるんです。保谷警部補って人のご両親が住んでた部屋で、いまは引っ越して空いてるからって」
「なぜそんなところに......。かえって危険じゃないのかな」
「これも偉い人の判断らしくて、消防署に近くて周りに被害が及びにくいところを保管場所にしろってお達しがあったみたいなんです。埼玉の川口市にある古びた公団......いまはUR賃貸住宅っていうんだっけ、そういう集合住宅だし、もう居住者のいない建物だから、そこがいいだろうって話になって」
「お店が終わった後で埼玉まで行くの?」
「そう。埼京線に乗って」莉子は苦笑いを浮かべながら、引き出しを開けた。メモを取りだして嵯峨に差しだす。「ここなんです。田舎でしょう?」
「どれ」嵯峨はメモを読みあげた。「埼玉県川口市横曾根府へきる野彪見寺七。青戸メモリーレッセN628。保谷進。......N628って、北棟の六二八号室ってことだね。いかにも昔の公団住宅だ」
「ええ。周りは田んぼばかりだから、万一の場合にも火が広がる心配もないですし」
小笠原は莉子にたずねた。「向こうには誰か、警察関係の人が詰めてるとか......」
「いいえ」莉子は少しばかり顔をしかめた。「それが、初日こそ何人か刑事さんがついてきたんだけど、以後はわたしひとりなの。鍵も預かってるし。ひとりで行って、ひとりで作業して......。終電前に帰るとか、そんな感じ」
「危なくない?」
嵯峨もメモを返しながらいった。「同行しようか?」
「だいじょうぶです」莉子は笑顔で首を横に振った。「うまくいけば、今夜じゅうにすべて終わらせられると思いますから」
「そう......。気をつけてね。きみの鑑定結果を、捜査本部が何らかのかたちで生かしてくれるといいね」
「はい。そのように願ってます」
放火犯の動機はいまもわからない。野間一真の行方も杳として知れない。莉子の鑑定が、知られざる事実を浮かびあがらせるのを祈るのみだ。小笠原はそう思った。
嵯峨が腕時計をちらと見た。「じゃ、僕は病院に戻るよ。凜田さんの鑑定が終わったら、いちど三人でバーにでも繰りださないか。赤坂にいい店があるよ」
莉子はうなずいた。「ありがとうございます。お受けします。小笠原さんは?」
「もちろんお供します。ビールはもう遠慮したいですけど」
すると嵯峨は笑っていった。「心配ないよ。腕のいいバーテンがいるから、悪酔いしないカクテルを作ってくれる。では、また連絡するね」
嵯峨が自動ドアの外に立ち去っていく。小笠原はその背を見送った。
スマートな体型でありながら頼りがいのある背中、堂々たる歩調。あれを真似るところから始めてみるか。
小笠原はできるだけ胸を張って、莉子に声をかけた。「あのう、凜田さん。僕になにか手伝えることがあれば......」
莉子はきょとんとした目でこちらを見た。
駄目か......。またつれない返事をきくだけの結果に違いない。
そう思ったとき、莉子はにっこりと笑って、意外な言葉をかえしてきた。「じゃあお願い。今晩会えない?」
侵入
暗闇のなかで、野間一真が振りかえった。懐中電灯を向けずとも、怯えた顔なのがわかる。
一真は震える声で告げてきた。「兄貴......。高いところにのぼるのは苦手だ。逃げ遅れたら煙に呑まれちまうよ」
二十九にもなって、だらしない。上石慧はあえて穏やかにいった。「心配するな。高いといっても六階だ」
「でもよぉ......」
「ムービーアレイで窒息しかけたのをまだ気にかけてるのか? あのときは空調ダクトしか出入り口がなかったが、きょうは無人の団地だぜ? 同じコンクリの建物であっても、逃げ場はいくらでもある」
まだ一真の不安は消えないようだった。「兄貴は親父の血だからさ、心臓強ぇだろうけどさ。俺、いつもびくびくもんでさ」
「これで最後だ。ほら、勇気をだせ。俺が先に行くか?」
「いや......。後からついてきてくれよ。兄貴」
「その意気だ。さあ走れ」
一真が息を呑む気配がした。覚悟をきめたらしい。黒の長そでのシャツに黒のスラックス、そして蛍光部分を黒く塗ったスニーカー姿の一真が、暗い田んぼのあぜ道を駆けだした。
慧も同じ服装だった。都心の建物に侵入するなら、身なりはもっと普通でいい。黒装束など、どこかに忍びこむつもりだと自供しているようなものだ。けれども、このような視界の開けた田舎では、闇に溶けこむ必要がある。
あぜ道は未舗装で、街路灯もなかった。月のでていない夜だ、万が一にも遠目に発見される心配はない。接近する車両があれば、へッドライトでわかる。
蛙の合唱がこだまするなか、一真を追って慧は走った。踏みしめる砂利の音も、この盛大な蛙の鳴き声にかき消されて、自分の耳にすらほとんど届かない。運はこちらの味方だ。
行く手にうっすらと見える金網のフェンスは、あちこちが破れていた。ペンチは必要なかったようだ、慧はそう思った。一真がフェンスにあいた大穴から、公団の敷地に侵入する。慧も後につづいた。
辺りは雑草だらけだった。腰ほどの高さにまで生い茂った雑草のなかに、一真がひざまずいて隠れる。
慧も姿勢を低くした。一真の荒い息づかいがきこえる。
「な?」慧はささやぎかけた。「簡単だろ?」
一真は沈黙をかえしてきた。だがその呼吸で、彼が自信を回復しつつあることを慧は悟った。
腕時計を見る。蛍光塗料で光る針が現在時刻を指ししめす。午前二時をまわった。
茂みから顔をだし、辺りのようすをうががう。誰もいない。錆びついたブランコや鉄棒の向こう、七階建てのコンクリの建物が見えていた。
老朽化した集合住宅。扉がずらりと並んでいる。その傍らの小窓は暗く、明かりひとつ漏れだしていない。居住者なしという情報に間違いはなさそうだった。そのいっぽうで、階段の蛍光灯は点いている。まだ廃墟ではなく、賃貸物件でありつづけている証左だった。
この一帯が急速に過疎化したのは、近くを走る路線が廃止され駅がなくなったからだという。交通も不便なこのオンボロ団地に入居したがる物好きはいない。見学者もゼロだろう。すすんで足を踏みいれたがるのは俺たちぐらいのものだ。
「よし」慧は一真にいった。「ライターと、予備のオイル缶はあるな?」
「もちろんだ。兄貴」
「さっさと片付けよう。行け」
一真が立ちあがり、走りだした。慧もそれを追う。
通用口に駆けこんで、郵便受けの脇にある階段をのぼった。昭和の高度成長期の遺物だ、エレベーターなどない。六階まで自力で駆けあがらねばならない。
息を切らし、しだいに歩を緩めながら、なんとかふたりは六階にたどり着いた。
団地は横に広い。名前のない表札の上に記された番号を追っていく。六二二号室。六二三号室。六二四号室......。
やがて、六二八号室の前まで来た。ここの扉だけ生活感が残っている。懐中電灯を点けて、表札に向けた。保谷という札がまだ差しこまれたままだった。
ここだ。問題は、どうやって入るかだ。鉄の扉はバールでこじ開けるのにしても時間がかかる。その横にあるキッチンの小窓にも鉄格子が嵌めてある。
するとそのとき。一真の声がした。「兄貴! ここからベランダ側にまわれるぜ」
懐中電灯で照らすと、すぐ先に廊下があった。部屋の外側をまわりこんで、向こうにでられるらしい。
「そっちから行こう」慧は廊下に向かった。
団地のベランダ側には、往来はないものの車道が走っている。それを嫌って裏側から侵入したが、時間はかけられない。
さいわい、廊下の先の低い手すりを越えればベランダにあっさりと侵入できそうだった。辺りは真っ暗で、静寂に包まれている。民家も近くにはない。
安全を確認し、一真の肩を叩く。一真はベランダに身を躍らせた。慧も手すりを乗り越え、ベランダのなかに入った。
まだ物干し竿がそのままになっている。懐中電灯をサッシに向けた。ガラスごしに錠が見える。ぼろぼろのカーテンがかかっていて、室内のようすはわからない。だが、人の気配はなさそうだった。
叩き割れば簡単に開けられる。慧はいった。「一真。道具をだせ」
「はいよ」一真がウェストポーチからハンマーを取りだした。
それを受け取り、ガラスに軽く当てて狙う場所をたしかめる。ハンマーを振りあげ、一気に振り下ろした。
けたたましい音をたててガラスが砕け散る。手を差しいれて錠を外した。そのときだった。
まばゆいばかりの光が、辺りを包んだ。
「ひっ」一真が悲鳴をあげたのがきこえる。
真昼のような明るさ。いや、そのていどではない。すべてが白ばんでみえた。
振りかえると、光源は地上からだった。目もくらむような光がいくつもこちらに向けられている。
サーチライトだった。それも無数に設置されている。
拡声器の声がきこえてきた。「野間一真。上石慧。持っている物を下に置け。抵抗するな。その場で待て」
警察......。
慧は呆然として立ちすくむしかなかった。なぜだ。どうして一真ばかりか、俺の素性を知っているんだ。
魂の抜け殻
小笠原は地上にたたずみ、大勢の捜査員とともに団地を見あげていた。
サーチライトに照らしだされたベランダのふたり。ここからでも顔ははっきりとわかる。ひとりは野間一真。タクシーのドライブレコーダーに映っていた、あの男に間違いない。そしてもうひとりは......。
まるで稲妻に打たれたかのような衝撃が身体を貫く。小笠原は思わず絶句した。
「さ」小笠原は叫ぶような自分の声をきいた。「嵯峨先生!?」
野間がベランダで膝をつき、うずくまるのと対照的に、立ったままこちらをぼんやりと見おろす男。黒ずくめの服に身を包んでいるが、その顔はまぎれもなく嵯峨敏也だった。
信じられない、いや受けいれがたい光景だった。こんなことは、断じてあってはならない。あろうはずがない。
しかし、夢でも幻でもない、すべては現実だった。野間一真の共犯者。いや、主従関係はベランダのようすを見ても一目瞭然だ。野間は共犯にすぎない。主犯は嵯峨だった......。
団地を遠巻きに包囲し、ベランダを見あげる無数の捜査員たち。誰もが身じろぎひとつしない。そんななかで、ひとりだけ前方に向かって歩きだす姿があった。
凜田莉子だった。小笠原はあわててその背に声をかけた。「凜田さん」
こちらを振りかえった莉子の顔に、驚きのいろはなかった。すまし顔でじっと見つめてくる。
小笠原は莉子にきいた。「知ってたのか......? 犯人が嵯峨先生だってことを」
莉子の表情に変化はなかった。「あれは嵯峨先生じゃないわ。上石慧。昭和の連続強盗致傷犯、上石玄の実の息子」
「ほ......本当に? だけど......」
「彼は池川健人を名乗って、心理相談員として東京療寿会医大病院に売りこみ、精神科で働いていたのよ。勤務期間はさほど長くないけどね」
「池川? 嵯峨先生の助手だろ?」
「ええ。臨床心理士の助手になることが上石の狙いだったの。助手になれば臨床心理士と同室できて、事務職のすべてをまかされる。メールやファックスも使いほうだいになるから、臨床心理士の名を騙って偽のIDカードや履歴書を送信できる」
「なぜそんなことをしたんだ?」
「捜査状況を知るためよ。署が都内の臨床心理士に協力を呼びかけることを予期してたのね。臨床心理士なら意見書の作成を依頼され、捜査で知りえた情報のすべてが伝えられる。牛込署管内での二件の放火に対する進展具合がどれぐらいかを知ろうとしたのよ」
「まさか......。警察相手に素性を偽るなんて無謀な行為だよ。すぐにばれるじゃないか」
「ほんの一日、正体が発覚しなければいいって考えだったのよ。もちろん意見書を提出する気なんかさらさらなかった。牛込署員にはなるべく顔を合わせず、電話ですべての情報をききだして、夜には行方をくらますつもりだったのよ」
「それが......どうしてずっと、僕らと一緒に......」
「わたしが彼の理論に異議を唱えたからよ。彼は、ほうっておけば放火は異常者による犯行と見なされ、自分たちには捜査の手は及ばないと信じてた。だけどわたしは、彼がいうように映画マニアによる衝動制御の障害とは考えなかった。プロパンの爆発を恐れなかったのは無謀だったからじゃなくて、計算高い知性があるからだと指摘したのよ。わざわざ侵入してポスターに火をつけたのにも、同じくれっきとした理由があるはず。図星を突かれたせいで、彼はなおも捜査の行方を見守らなきゃならなくなった。わたしは鑑定家として牛込署からの依頼を受けているし、捜査員がわたしの意見に耳を傾ける可能性もあるから」
「それで彼は、あえて正体がばれる危険を冒してまで、きみにつきまとったってのか」
「彼は牛込署に送信したファックスの回収に躍起になってた。あれこれ理由をつけて、葉山さんに返却を迫ってたわ。予定がくるって、しばらくのあいだ嵯峨先生を演じつづけることになった以上、警察署に偽の文書を置いておきたくないと考えたんでしょう。でもさすがに怖かったらしくて、牛込署にはいちども寄りつかなかった。あなたにNHKのニュース原稿を持たせたのもそのせい」
途方もなく思えた事態の一端が、小笠原のなかでしだいにあきらかになってきた。
俺は莉子とともに病院を訪ねた。莉子が嵯峨に会いに行くといいだしたからだ。ずいぶんせっかちだなと感じたが、いまにして思えば、あれは嵯峨の正体に気づく絶好のチャンスだった。
にもかかわらず、こちらは偽装に気づけなかった。精神科に着いたとき、受付はふたりの名を呼びだしていた。ひとりが嵯峨、もうひとりは助手の池川。
事前に資料を見ていたせいで、上石慧を嵯峨だと思いこみ、本物の嵯峨を助手の池川だと見なしてしまった。ふたりが一緒に出歩いていたのは偶然ではないのかもしれない。上石にしてみれば、嵯峨を騙って資料を送信した以上、捜査員が協力を求めて直接訪ねてくることも考えられる。ゆえに嵯峨にべったりと貼りついて、警戒していたのかもしれなかった。
実際、莉子から『嵯峨先生』と声をかけられた上石は、あわてたようすもなく嵯峨になりきって応対した。父親譲りのずぶとい神経の持ち主。あるいは、周到な心構えによる泰然自若の態度。いずれにしても、小笠原はまんまと騙された。猜疑心のかけらも抱かなかった。
莉子のほうはどうだったのだろう。小笠原はきいた。「いつ嵯峨先生があやしいと気づいたんだ?」
「あなたが彼に託されたニュース原稿を持ってきたとき。葉山さんが紙をかき集めようとして、がさがさと音を立ててた。あれで原稿が偽物だとわかったのよ」
「あの原稿が......偽物?」
「本物のニュース原稿は耳障りな音がマイクに入らないように、防音用紙が使われてるの。マス目やロゴなどの印刷はウェブでも公開されてるけど、そっちの再現性は完璧だった。書類の偽造が得意なのは野間一真じゃなくて、主犯格のほう。当然、お手のものよね」
「だから彼が主犯と気づきえたわけか」
「ええ。あの日、NHKの報道局はまだ、狙われているポスターが『ノストラダムスの大予言』だとは気づいていなかった。もちろん七時のニュースでも報じる予定はなかった。でも土石は、マスコミに情報が漏れたと思わせた」
「なぜ......」
「警察にポスターを回収させるためよ。ツイッターで知りえたポスターの在り処は襲撃し尽くした。だから残るポスターを一か所に集めさせて、その場所に忍びこもうとしたのよ」
小笠原は呆気にとられながら、目の前の団地を見あげた。
消防のはしご車のアームが伸ばされている。すでにベランダには、何人もの捜査員が降り立っていた。葉山や尾下の顔も見える。野間一真が引きたてられて、バスケットに乗せられようとしていた。一真は身をよじって抵抗している。泣き叫ぶ声が地上にまで届いた。
上石慧のほうは、ただ呆然とたたずんだまま、そのようすを眺めている。一真は慧に助けを求めていた。兄貴。手を貸してくれよ、逃げる方法はねえのかよ。
慧は無反応だった。凍りついたように立ちつくすさまは、まさしく魂の抜け殼のようだった。
莉子がふたたび、前方へと歩きだした。
「ちょっと」小笠原はいった。「待ってよ。どこにいくつもりだ?」
足をとめて、莉子は振りかえった。「彼と話してくる。心配しないで」
そういって莉子は、団地を包囲する人ごみのなかに深く踏みいっていった。サーチライトの照り返しのなかに、彼女の背が消えていく。地面に落ちる長い影も、やがて見えなくなった。
未来の家族
上石慧はベランダにたたずみ、泣き叫ぶ野間一真の声に耳を傾けていた。
光と影が生む強烈な二極化のコントラスト。この世とは思えない光景だった。ふたりの捜査員に挟まれ、バスケットのなかで大声をあげてもがく野間の顔は、逆光によって見えなくなっていた。
それでも視線は感じる。俺を見つめている。憤りと失意のこもった射るようなまなざしが、俺を直視している......。
バスケットは闇のなかに消えていった。真っ暗で何も見えないが、声はきこえる。一真はひきずり降ろされ、地上を連行されていく。あの先に、パトカーが集結しているのだろ
誰か男の声がした。警官のひとりだろう。乗るつもりですか。どうして。駄目ですよ。まだ被疑者がもうひとり、上に残っているんですよ。
押し問答をしているようだ。何があったのだろう。早くも報道関係者が駆けつけたのだろうか。
はしご車のアームがふたたび作動し、バスケットがゆっくりと上昇してくる。
そこに乗った人影が近づいてきた。かなり接近するまで、何者かはあきらかにならない。
ベランダの目と鼻の先まできた。慧は絶句した。
「り」慧はつぶやいた。「凜田さん......」
バスケットに乗っていたのは、凜田莉子だった。カジュアルな装いがやけにファッショナブルに見える。サーチライトの効果のせいかもしれない。
葉山が眉をひそめた。「凜田さん。何してるんですか。どうして上がってきたんです」
莉子はバスケットの上に伸びあがると、腕を支えにしながらぴょんと跳び、ベランダのなかに降り立った。
こちらを見つめて莉子がいった。「慧さんとお話ししたくて」
慧......。莉子は、初めて本名で俺を呼んだ。以前とまるで変わらない気さくな態度で、
「話?」尾下が甲高い声をあげた。「馬鹿なことを。この男はいま連行するところですよ。取り調べの結果なら、のちほどお伝えします」
「いいえ」莉子はきっぱりと告げた。「いま話したいんです。慧さんのほうもそう望んでおられるなら、ですけど」
慧は沈黙して、莉子を見つめかえした。
本来なら、無視すべき提案かもしれない。無言でいれば、私服警官たちが彼女を地上に追い返すだろう。
すべての元凶ともいえる彼女の存在を、憎悪してもいいはずだった。
けれども、そうはならなかった。つぶらな瞳のせいか。美人ゆえに、なんでも許せてしまうのか。それもあるだろう。人とは単純なものだ。
とはいえ、いまの俺の心境は違う。慧はそう思った。彼女に敵愾心など抱いていない。反発しようとあえて過剰に意識してみたところで、慧のなかに燃えあがるものはなかった。
ベランダの上の私服警官たちは、こちらをじっと見つめている。
慧は視線を落とし、うなずいてみせた。
莉子はにっこりと笑い、穏やかにいった。「ここじゃなんだから、中で話しませんか」
葉山が顔をしかめた。「凜田さん......」
「ほんの五分ぐらいですから」莉子は、サッシを横に滑らせて開けた。「不法侵入にはならないでしょう。この部屋の賃貸契約を結んだのは、わたしだもの」
ここが......凜田莉子の借りている部屋?
呆然とする慧の前で、ふたりの警部補が苦い顔を突き合わせていた。
葉山が尾下にきいた。「玄関側にも捜査員は配置してあるな?」
「当然だろ」と尾下が応じる。「六階の通路にも十人ほどいる」
俺の逃走を警戒しているのか、慧は他人ごとのようにぼんやりと思った。無駄な配慮だ。俺はもう逃げようなどとは思っていない。
莉子はすでに、部屋のなかに足を踏みいれていた。「どうぞ。土足のままでいいですよ。ガラスの破片に気をつけて」
尾下が苦言を呈した。「せめて手錠をかけてから......」
「いいから」莉子は手招きした。「そのまま入って。慧さん」
警部補たちの険しい視線が突き刺さる。慧はうつむきながら、開け放たれたサッシのなかに歩を進めた。
室内の暗がりに、目が慣れるまで時間を要する。そのあいだに、莉子がカーテンを閉じた。
布ごしに、昼のような光が差しこんでくる。部屋のなかはおぼろげに照らしだされた。
何もなかった。ひどく狭い居間にダイニングキッチン、いにしえの公団住宅の間取りそのものだ。しかし家具は何ひとつない。むろん、集められているはずのポスターも。
慧は、莉子に目を向けた。
ため息とともにつぶやく。「きみに疑われるときが来るなんて、夢にも思わなかった。と同時に、こんな瞬間をどれだけ恐れていたことか」
「でしょうね」莉子は静かにいった。「わたしが病院を訪ねてからも、あなたは自分が嵯峨先生だとアピールするのに必死だった。まずはばれないようにわたしを病院から連れだし、食事に誘った。テーブルについたとき、あなたはただちにメールを打った。歯科医院の村谷美羽さんを呼びだすためでしょう。警察に対し嵯峨先生を装った以上、誰かが訪ねてきたときのために、あなたはその場しのぎの芝居を用意してた。それがあの歯医者さんでのデンタルネグレクトの会話」
理路整然と事実が紐解かれていく。慧は莉子に告げた。「きみはやっぱり頭がいい人だね。あの念押しは完璧だと思ったのに」
「ええ。よく勉強されたと思います。だけど、変だったんですよ。そのときには心にひっかかるていどだったんですけどね。あなたは美羽さんから、虐待を受けている子供の名も、その母親の名も聞かされていなかった。それなのにあなたは母親に電話するといい、美羽さんも番号はデスクのメモ帳に書きこんであるといった。名前も知らないのに連絡をとろうとするなんて、不自然でしょう」
「そう......だったね。母子の名前はきめてあったよ。もちろん架空の名だけど。口にするのを忘れてたんだな。俺も彼女も。緊張していたんだろう」
「美羽さんは、歯科医じゃないですね。篠田歯科医院で働いているだけ。名前も違う。本名は野間花音、一真さんの妹さんですよね」
胸に突きつけられる現実の刃。ちくりと剌されたような痛みを感じる。慧はつぶやいた。「よくそこまで......」
「外にまで白衣を着てくるなんて、やりすぎでしょう。それに、あなたの偽装にいつでも加担できる準備を整えている女性なんて、花音さんしか考えられない」
「......その通りだ。一真と花音。そして俺は、ひとつのチームだった」
「なかでも上石玄の実の子であり、長男のあなたはリーダー的存在だった。でも心を抑えきれないこともある。花音さんが歯科医院でのお芝居の最中、児童相談所と告げたでしょう。たぶんアドリブだったのね。あなたはふいに『児童相談所なんか頼りにならない』と声を荒らげた、あなたは、児童相談所に対し憎悪の念を抱いてた。施設で暮らし、育ちながらも、愛情を受けられない境遇を嘆いていた。一方で、母の真奈美さんが再婚相手とのあいだにもうけた一真さんと花音さんは、真奈美さんの手で育てられたため、施設入りすることはなかった。あなたと、父親違いのふたりとのあいだには、埋められない心のギャップがあった」
刃は、胸もとの奥深くまで食いこんでくるようだった。と同時に、それを望んでいた自分を感じる。
ようやく理解してくれる人とめぐりあえた。そう思った。今後ふたりの距離が縮まることはない。俺の味方になってくれるわけでもない。それでも、判ってくれる誰かを求めつづけてきた、その願いは果たされた。
ふしぎな安堵感とともに、慧はいった。「両親を恨んだよ。心の底から憎んだ。俺ほどではないにしても、一真と花音も肩身の狭い人生を送ってきた。歳は離れていても、俺はあいつらを可愛がった。母が死んでからはなおさらだ。父が刑務所で死んだという報せを受けたときには、何も思わなかった。でも母の死はこたえた」
「......お母さんが亡くなったとき、あなたは両親の遺品を受け取った。そのなかに、お父さんの日記が含まれてた。上石玄の若いころの記録を、初めて読んだ」
慧はぎくっとした。
「な......」慧は莉子を見つめた。「なんでそこまで......」
「総額五億円もの現金を盗んだ上石玄は、ずっと質素な生活を送り、逮捕されてからもお金は発見されなかった。ゆえに、貧しい人々のために全額を費やしたといわれた。昭和の鼠小僧次郎吉と呼ばれて伝説になった。でもそれは、伝説というより俗説。あなたは日記を読んで、父が義賊ではないと知った。五億円はいまも手つかずのまま、どこかに隠してある。上石玄は逮捕前に、そのお金を妻と息子......つまりあなたに託そうと考えた」
苛立ちが募る。慧は莉子に詰め寄った。「どうしてそんなことまで知ってるんだ。誰が教えた!?」
「誰も。強いていうなら、あなたよ」
「俺......?」
「きょう。わたしの店を訪ねてから、日比谷公園に向かったでしょう? 噴水のわきのベンチの下に、メモ用紙をはさんで立ち去った。大勢の捜査員が見張っていたから知っているのよ。捜査員はメモを回収し、コピーをとってから元に戻しておいた。しばらくして一真さんが現れて、メモを持っていった。あなたが主犯格で、一真さんに連絡をとっていたことが立証されたの」
「捜査員が見張っていた......? 俺を尾けてたってのか?」
「ええ。わたしが葉山さんに頼んだの。暗号解読のキーを手にいれるにはそれしかないって」
「暗号......。キーだって?」
「そう」莉子は壁を指さした。
慧は暗がりのなかを凝視した。思わず、あっと声をあげる。四枚の紙片が画鋲でとめてあった。きょう、慧が日比谷公園に置いてきたメモの写しも含まれていた。
莉子は冷静な口調でいった。「これって、たぶんあなたと一真さんが子供のころから慣れ親しんだ遊びだったんでしょう。五十音を記号に置き換える暗号ごっこ。変換表は頭に入っているから、大人になってからも普通に文字を読むのと同じように内容を理解できた」
「それをわざわざ俺らが通信に使ったってのかい? 携帯電話でメールをやり取りできる時代に?」
「メールじゃ携帯電話を差し押さえられたときにすべてが明るみにでちゃうし、たとえ削除してもデータはメモリーのなかには残っていて、電話会社のソフトで復活できる。通信文の暗号化と復号は頭のなかでおこなうほうが安全なのよ。事実、発見された三枚だけでは、言語学の専門家でさえもお手上げだっていってた。記号の種類の数から憶測できるのは、漢字は使わずカナのみの五十音表記で、数字も読みで表現していることだとか、濁点や半濁点もそれぞれひとつの記号で表し、拗音は無視してる......。それぐらい。変換表がなければ解読できないっていわれた」
「......でもきみは解読した。そうなんだろ?」
「ええ」莉子はうなずいて、日比谷公園のメモの写しを壁から外した。それをこちらに向ける。

莉子はいった。「あなたは偽のニュース原稿によって警察をそそのかし、全国の『ノストラダムスの大予言』のポスターを一か所に集めさせた。当然、その場所を知りたいと思うはず。だからわたしは、そこに通って鑑定を進めていることにしたの」
「なんだって? きみは集まったポスターを鑑定してはいなかったのか?」
「鑑定どころか、一枚も見ていないわ。ポスターの保管場所もここではない。だけど、あなたにはそう信じさせたのよ。ここが警察関係者の身内の家ってのも嘘。まるで無関係の空き室だったのを、きょうわたしが借りたの」
「どうしてこんな田舎に......」そういいながら、慧はひとつの可能性を感じとった。「まさか......」
「そう」莉子は冷静に告げてきた。「苦労したわ。わたしの望んだ住所を、捜査員が全員で探してくれたの。そして、首都圏に十一か所の該当する住所があることがわかった。ただし、そのなかで空き家になってたのは三か所だけ。捜査員が待ち伏せして包囲するのに適しているのは、ここだけだった」
「その......きみが望んだ住所ってのは......」
「表記に五十音のすべてが含まれてること。埼玉県川口市横曾根府へきる野彪見寺七、青戸メモリーレッセN628、保谷進。実際には〝を〟の一字だけが漏れているんだけど、それはどれにも当てはまらなかった記号が該当するでしょう。だから五十音すべてがわかる。あなたはこの住所を共犯者の一真さんに伝えるはず。これまでも暗号文で連絡を取りあっていたからには、今回も暗号を書いたメモを一真さんに渡すにちがいない」
「で、そこには絶対に住所が記載されているはず......。そういうわけか」
「ええ。濁点も一字と数えた場合、二段落目が文字数もぴたりと合うことがわかった。これで五十音の変換表が手に入ったの。あとはもう、一段落目と三段落目も楽に解読できる。それがこれ」
莉子は紙片を裏がえした。そこには、解読文がていねいな字で書きこんであった。
ホカンバショガハンメイシタ オレガイケナカツタラ オマエヒトリデイケ
サイタマケンカワグチシヨコソネフヘキルノヒユウミデラナナ アオトメモリイレツセエヌロクニハチ ホヤススム
ゴゼンニジニ ゲンチデオチアウ
「それと」莉子は壁に手を伸ばし、皺くちゃになった別の紙片を外した。それを裏がえす。
「国際フォーラムに落ちてた暗号の内容はこれ」
ゴゼンシチジニ セイソウインヲヨソオツテシンニユウ クジハンマデカクレル カサイホウチキガカンチスルマエニタイヒシロ
「犯行の指示ね」と莉子はいった。「『午前七時に清掃員を装って侵入、九時半まで隠れる。火災報知機が感知する前に退避しろ』とある。さらに、アパートの部屋から見つかった二枚のうち、一枚は......」
莉子が次の紙片を手にとり、裏がえした。
ゴオクハ オレトオマエトカノントデ キントウニワケル イマノサツヘノコウカンハスコシズツオコナエ
「『五億は俺とおまえと花音とで均等に分ける。今の札への交換は少しずつおこなえ』と書いてある。上石玄がお金を隠したのは四十年近くも前だし、当然旧一万円札よね。銀行で現在の紙幣に交換できるけど、あやしまれないように少額ずつにしろって指示してる。なにより、三人で等しく分けるっていうあなたの約束を残しておきたくて、一真さんはこのメモを保存していたんでしょう。それから、もう一枚」
シンパイスルナ オヤジノニツキニアツタトオリダ ゴオクノカクシバショノチズハミカンジルデウラニカイテアル
「『心配するな。親父の日記にあったとおりだ。五億の隠し場所の地図はみかん汁で裏に描いてある』......これは、文面から察するに一真さんの疑問にあなたが答えたものね。あなたは一真さんの不安を払しょくするため、勇気づけてる。一真さんは心の拠りどころとして、このメモをずっと手もとに置いていたんでしょう」
「馬鹿なやつ」慧は頭を掻きむしった。「読んだら捨てろとあれほどいっておいたのに」
「慧さん。上石玄が逮捕されたのは、昭和四十九年の秋。つまり一九七四年。『ノストラダムスの大予言』が封切られたのと同じ年。上石玄は日比谷の安アパート住まいだった。ポスターは自分の部屋にあったんでしょう。彼は逮捕直前、奥さんとあなたに五億円を託すために、ポスターの裏にみかん汁で地図を描いた。炙りだしでそれが浮かびあがるように」
「単細胞だよ、親父は。炙りだしだなんてね。ガキの遊びじゃあるまいし」
「現代の裁判では民事と刑事は明確に線引きされてるけど、あの当時、窃盗犯や強盗犯は実刑確定後、被害者への弁済のために家財を差し押さえられて競売にかけられるのが常だった。当時はほとんど価値のなかったポスターも、そのなかに含まれていた。そうでしょう、慧さん?」
莉子は俺を上石ではなく、慧と呼ぶ。上石玄の息子であることを恥じ、恨んでいる俺に対する、細心の配慮にちがいなかった。そしてそれはありがたかった。上石と呼ばれるたびに、喩えようのない孤独感にさいなまれた日々。その過去に背を向け、逃れようともがきつづけた。彼女は、そんな俺の苦悩を理解してくれている。
慧は震える自分の声をきいた。「愚かな行いってことは、わかってたよ。四十年近くも前のみかん汁が、まだ残っているかどうかも定かじゃなかった。それでも、何もせずに手をこまねいているよりましだった。負け犬の人生はもうたくさんだったから」
「大量のライターオイルを用意して、複数のジッポーライターを点けっぱなしにして床に並べて、ポスターを炙ったのね。ごくうっすらとしか残っていない可能性もあるから、徹底的に炎りだしを試みた。いつも最後は、燃え尽きて灰になるのが常だった」
「親父が遺した宝の地図を探しまわってたわけさ。親父を恨んでおきながら、その財産だけはいただこうとしてた。それが親父への復讐になると、勝手な解釈を心の支えにしてね。ポスターを見つけたら、なるべくその場でただちに炙ることにしてた、持ったまま逃走して捕まったら、ポスターは没収されちまって結果が判らずじまいだからね。ツイッターで知りえたポスターの在り処を片っぱしからまわったよ。それ以外にも、所蔵していることを公表してる店だとか展示会、ホテル、そしてきみと一緒にいたことで存在を知った場所......」
「愛知の鯉淵さんの家に行ったときにも、あなたは一真さんに連絡をとっていたのね。わたしたちが喫茶店に移動した後、一真さんは家の二階に侵入した」
「子供がいるから、ポスターにはその場で火をつけずに外に持ちだせといっておいたよ」
「一真さんが侵入してすぐ目的のポスターを見つけられたのも、あなたから連絡があったからでしょう。鯉淵さんが『ノストラダムスの大予言』のポスターを見せてくれたとき、あなたはその端を手で持った。曲げるなり、爪痕をつけるなりしてマーキングしたのね」
「......当然、日比谷グラビティホテルの密室火災の件も説明がつくよな?」
「ええ。最後に見回りをしたのはあなただった。展示室内を撮影して、廊下にでて扉を閉め、ガムテープで封印するところまで撮影する。カメラを止めてから、封印を剥がしてふたたび入室、火災報知機をビニールで覆ってポスターを外し、ライターで炙った。煙は充満したけど、ベルが鳴るまで時間は稼げる。あなたは部屋をでて、またガムテープを貼りなおした。次にみんなが扉の前に立ったのは、ベルが鳴ってから。そのときは誰も扉を撮影していなかったし、ガムテープもただちに剥がしてしまったので、封印のずれを検証することはできない。あなたはそこまで計算してた」
ヘリコプターの音がする。いままでとは別のサーチライトが、カーテンの向こうに流れた。空からも監視が始まったらしい。
ずいぶん大きな騒ぎになったものだ。そして、その騒動の渦中にいるのは、ほかならぬ慧自身だった。自分のまいた種だ。いまさらながらそう思った。
「きみのいうとおりだな」慧はつぶやいた。「アブラガニはタラバガニにはなれない。東大大学院をでてる臨床心理士を装うなんて、どだい無理な話だった」
「あなたは勤勉で、博学だったわ。知識については申しぶんなかった。でもいったんあなたを疑いだしたとき、すべてが変に思えてきた。あなたには職務に対する信念が感じられなかった」
「信念......」
「虐待を受けている女の子に対し、あれほど親身になる姿勢をみせていたのに、わたしとほぼ同時に国際フォーラムに到着した。都心部の車道は混んでるし、御茶ノ水の歯科医院からあそこまでは、電車もクルマもさほど差はつかないはず。あなたはわたしが出発してすぐ、タクシーに乗った。女の子の母親を説得しようと電話しているはずなのに」
「......そうだったね。俺にとっては架空の少女の身を案じるより、一真が燃やしたポスターの捜査状況のほうが心配だったから」
「翌日以降は少女のことにかかりっきりになるといっていたのに、なんの準備もせず日比谷グラビティホテルに泊まったり、わたしや小笠原さんとフロントで飲んだりしてた。愛知の清須まで日帰り旅行している暇があったら、少女のもとに赴いているはず。それにね。一時的な親権の制限は、まだ法律で制定されていないの。以前、二月に制定の見こみって記事が新聞に載ったけど、結局流れてる。絶えず幼児虐待撲滅のために闘っている臨床心理士なら、知らないはずがないわ」
深く、長いため息だけが漏れる。外からかすかにきこえる喧騒。
これだけ大勢の人間が、闇のなかで息を潜め待ち構えていた。俺は何も気づかなかった。何も見えていなかった。
「俺には」慧はささやいた。「虐待の子は救えないな」
「ええ」莉子は真顔でいった。「あなたが親に見放されたと世を恨みつづけるかぎりは。不遇な生い立ちだったとしても、あなたには現在と未来がある。過去ばかり振りかえらずに前に進めば、きっと人を幸せにできる」
厳しい指摘だった。しかし慧は、莉子の厳しい物言いとは逆に、心の温かさに触れた気がした。
「きみは強い人だね」慧は告げた。
莉子の大きな瞳が、かすかにいろを変えて見えた。「いいえ。でも、支えてくれている家族がいたから......。あなたの孤独は、痛いほどわかるの。だから、できれば立ち直ってほしい。未来の家族のためにも」
家族、か。考えたこともなかった。
俺にとっての家族とは、憎悪の対象だった。ゆえに持つまいと心に決めていた。
けれども、いまはわかる。これから妻になる女性がいるとすれば、そして子供が生まれるとしたら、そこには過去の俺はいない。新しい人生が始まる。未来を生きられる。
胸が詰まる思いだった。かすれる声を、慧は搾りだした。「やりなおせるかな、俺は」
莉子はうなずいた。「絶対に」
そのなんの偽りも感じさせない、真心を絵に描いたようなまなざしを、慧は見つめかえした。
この出会いがもっと早くあれば、俺の生きざまも変わっていたかもしれない......。
ベランダで物音がした。カーテンを開け放ち、尾下が声をかけてきた。「上石。もう五分超過してる。行くぞ」
ふいに差しこんできたサーチライトのまばゆい光。莉子の顔に明暗の落差をつくる。
しばし莉子を見つめ、それから頭をさげた。慧はゆっくりと歩きだした。
目もくらむような光のなかに歩を進めていく。吹きこんでくる風を全身に感じる。なぜかすがすがしい気分だった。
そう、行く手は明るい。常に光が射している。そう信じて前進しよう。いままでとは異なる道を。ずっと目を背けてきた将来なるものに向かって。
花壇
週末、降りつづいた雨がやんだ日の午後、凜田莉子は初めて本物の嵯峨敏也と出会った。
潤いのある陽射しのなか、東京療寿会医大病院の庭園には黄いろいマツバギクが咲き誇っていた。花壇のなかに延びる小道を、うすいグレーのサマースーツ姿の嵯峨と並んで歩いた。
第一印象、あるいは刷りこみというものは恐ろしい。顔をあわせてしばらくのあいだは、彼が心理相談員の池川としか思えなかった。嵯峨という名から連想する顔は、依然として上石慧のままだった。
けれども、時間が経つにつれてその思いこみは薄れていった。実年齢よりも若く見えるルックスながら、嵯峨は慧よりずっと大人だった。落ち着いた話しぶり、控えめな口調。慧がじつは嵯峨の喋り方やしぐさを真似ていたのもわかった。演じきれずに、ときおりほころびが生じた慧とは違い、嵯峨は感情的にならなかった。終始冷静だった。
ゆっくりと歩を進めながら、嵯峨は語りかけてきた。「医局から彼を紹介されたのは、ほんのひと月ほど前のことだったよ。心理相談員として赴任してきたときいた。書類も完璧だった。特任准教授の推薦状もあった......。もちろん身分証明書もね。だから疑いなんか持たなかった」
莉子は歩調をあわせながら嵯峨にきいた。「助手としての彼は......よく働いてましたか」
「専門的な指示を与えると、手つかずのまま放置していることがあった。妙に不器用なところもあるなと思ってたけど、着任して間もないから仕方がないかなと受け流してたよ。いまになって思いかえすと、たぶんよく業務内容がわかっていなかったんだな」
「そうですか......」
「彼も気の毒な男だ。勾留中の容疑者には臨床心理士が派遣されることも多いけど、もし要請があったら、僕が行こうと思う」
「嵯峨先生が? なぜ?」
「短いあいだだったけど、一緒に働いたからさ」嵯峨は足をとめた。「ほかの臨床心理士より、彼のことは理解しやすいはずだ。それに彼のほうも、僕と会うことで安心するだろう。恨みを買っていない、敵を増やしてはいないと知ることになるから」
莉子は思わず微笑を浮かべた。「嵯峨先生。やっぱり献身的な人ですね」
嵯峨の顔が、ふっと和らいだ。「ところで、炙りだしで地図が描かれてたっていうポスターだけど......。見つかったかい?」
「いいえ。警視庁に送られてきたすべてのポスターを科捜研が調べましたけど、地図どころか、みかん汁の痕跡ひとつなかったそうです」
「ふうん。上石玄のポスターは紛失してしまったが、それとも......」
「日記に書かれていたことが嘘だったか。もしくはみかん汁が薄すぎて、四十年近い歳月のなかでわずかな残留物さえも検出されない状態になってしまったか。いまとなっては歴史の闇のなかです」
「僕らが取りくんでも。答えをだせる問題じゃないな。それにしても、万能鑑定士Qとはおもしろい商号だね。精神鑑定もするの?」
「まさか......。いえ、専門外です」
「そう」嵯峨は笑った。「僕らは心の領域にしか詳しくない。鑑定家さんのきみは、かたちある物質の専門家だろう。それでもきみは、彼と心を通わせた。彼にとってのよき理解者となりえた。経験を積んだカウンセラーにも難しいことだよ。おそらくきみはよこしまな考えをいっさい持たない、清らかな心の持ち主だ。そんなきみに会ったことで、彼は変わった。でなきゃ、すべてを自供することに積極的になるはずはないんだ」
どう答えていいのか戸惑いを覚える。莉子は苦笑ぎみにきいた。「それ、嵯峨先生のわたしに対する鑑定ですか?」
嵯峨は噴きだした。「きみのほうからの鑑定も怖いよ。僕をどのように評価するのかな。値段かな。それとも......」
「真贋です」と莉子は笑ってみせた。「あなたこそ、本物の嵯峨先生でした。そう断言できます」
「ありがとう」嵯峨は冗談めかせていった。「そのうち鑑定書を頼もうかな」
莉子は嵯峨と顔を見あわせ、静かに笑いあった。
そのとき、女性看護師が声をかけてきた。「嵯峨先生。午後のカウンセリングの時間です」
「すぐ行くよ」嵯峨は看護師にそう告げてから、莉子に向き直った。「今後なにか話があったら、いつでも声をかけてくれ」
立ち去りかけた嵯峨に、莉子はいった。「あ、先生。申しあげたいことが」
嵯峨は足をとめた。「何?」
「表の職員用駐車場に停まっている昭和四十一年式カローラ、嵯峨先生のですよね?」
「ああ。それが何か?」
「このところお忙しくて、今年は夏を迎える前の点検を受けられずにいるでしょう?」
「たしかに......。例年この季節に点検を受けてるけど、でもどうして知ってる?」
「あれだけ保存状態がいいわけですから、暑くなる前にプロのメンテナンスを受けていることはわかります。でもいまは、排気管が普通よりやや黒ずんでます。黒鉛の付着量が増大しているんです。エンジンが不完全燃焼を起こしつつあります、早めに調整しないとエンストを起こしますよ。環境にもよくないし」
嵯峨はかすかに驚きのいろを浮かべた、それから莉子を見つめ、愛想よく告げてきた。
「たいした観察眼だね。すぐに手続きするよ。エコには配慮しないとね」
莉子は笑ってうなずいた。
じゃ、また。嵯峨は片手を軽くあげてあいさつし、背を向けて歩き去っていった。
わたしも店に戻る時間だ。莉子は踵をかえした。
蛇行する小道が、マツバギクを敷き詰めた絨毯のような花壇を愛でる機会を、幾度となく与えてくれる。人生もたぶん同じだと莉子は思った。行く手は絶えずうねっている。曲がりくねった道。でもその両脇には花が咲いている。角にさしかかるたびに美しいものに触れられる。遠まわりであっても、心は洗われていく。それが成長というものだろう。
わたしもゆっくりと道を歩もう。目的地に着いたとき、その瞬間にふさわしい自分であるために。


万能鑑定士Qの事件簿 Ⅴ
ロワール
フランスに住みはじめてからの大きな変化は、とにかく日が長いことだ。とりわけいまの季節は、夜九時をまわってもまだ昼間のように明るい。十時に至ってようやく夕暮れ、十時半に黄昏どきになる。真っ暗になるのは深夜の十一時をまわってからだ。
それでも日本と同じ時刻には店のシャッターが下り、会社も工場も業務を終える。以後、開いているのはバーだけだ。だから、太陽がずいぶん高いところにあろうとも油断はできない。いまのように青い空が広がっていても、腕時計の針が午後六時を指していれば、取り引き先が閉まるのは間もなくだと判断せねばならない。
沖縄の波照間島から、ひとりパリに渡って五年。二十三歳になる楚辺瑛翔は、地平線の彼方までつづくブドウ畑のなかに伸びる道に、おんぼろのシトロエン2CVを走らせていた
ときおり突きあげるような振動が襲う。店の先輩の調理師に借りたクルマだが、無事にパリに戻って返却するまでエンストはご免こうむりたい。帰る手段がなくなるし、なによりコック見習いという立場では修理費に給料がすべて吹き飛んでしまう。
辺りには誰もいない。ノルマンディーとブルターニュ地方に隣接する、ロワール川流域のこの一帯は、いたるところに古城があって観光地として栄えている。しかしそれらを除けば、こんな田園風景が広がるだけだ。ときおり見える農家は、いずれも切妻屋根に煙突という、絵本から抜けだしてきたようなたたずまいだった。
丘を越えると、行く手に近代的な工場棟が見えてきた。規模は大きくてもどこか素朴な印象がある。設備は最新であっても、そこで働く人たちの動きはのんびりしている。正面ゲートの警備員の愛想のよさも、いつものとおりだった。
敷地内の砂利にクルマを徐行させる。倉庫の前までくると、つなぎの無菌服を着たふたりのフランス人が目に入った。
ふたりはお馴染みの食材が入ったケースをいくつか外に運びだしていた。長身で痩せた男の顔があがり、こちらを見る。マスクを外すと、その下から白い歯がのぞいた。
五十近くにはなるだろう実年齢に反し、工場長ヤニク・クストーのルックスは若々しく、全身に精気が漲ってみえた。クストーは歩み寄りながらいった。「日本の二枚目青年のおでましだ。どうだ、うちの娘をロックコンサートに誘う気になったか?」
楚辺は苦笑し、クルマを停めてエンジンを切ると、車外に降り立った。「僕なんか相手にもされませんよ」
「馬鹿いえ」クストーは笑った。「すらりとしていて頬がこけてるハンサム顔で、すましてて、冷静で、嫌味がない。それに謙虚で、よく働く。フランスの男どもに見習わせたいよ」
すると、もうひとりが身体を起こした。ごわついた無菌服の上からもプロポーションのよさははっきりと見てとれる。マスクを外した。九頭身の小顔につんとすましたような高い鼻、フランス人形そのものの大きな青い瞳。長い金髪が風に揺れていた。
「お父さん」とアンジェリーク・クストーはしらけたような顔を浮かべた。「楚辺さんに失礼でしょ。身内への婚姻を迫ったって訴えられるわよ」
父のヤニクはなおも口もとを歪めていた。「そういうな。二十五歳の放浪娘が父親のもとに帰ってきて、一緒に工場で働いてもいいといいだしたんだ。どんな男が彼氏にふさわしいか、あれこれ想像をめぐらすのは俺の喜びのひとつだ。もっとも、アンジェリークを嫁に迎える気なら、いまよりずっと出世してもらわねばならんけどな」
アンジェリークはあきれたように首を横に振ってから、楚辺に笑顔を向けてきた。「こんばんは、楚辺さん。遠いところをわざわざありがとう。父の軽口も気にしないで」
「どうも......」
「さて」ヤニクが仕事の顔になった。ケースに引き返し、なかの氷をハンマーで砕いてから、ひとつのパックを取りだす。それを手に戻ってくると、楚辺に差しだした。「今回もいい出来だぞ。脂肪分も増していっそう柔らかくなってる。新開発のパックも丈夫で注射針ひとつ通さない。品質管理は折り紙つきだ」
楚辺はそれを手にとった。グレーのビニール製、無菌真空パック。小売店にあるレトルトのパックよりも厚手で、ずっしりと重い。中身のぶんだけ膨らんでいた。あらゆる段階のチェックを経たことをしめすシールが貼ってある。
一個六百グラム、ラグビーボールよりひとまわり小さいその食材は、フォアグラだった。ヤニク・クストーの工場、バベット精肉は、フランスでも指折りの上質なフォアグラ食材の開発メーカーだった。
敷地内にある農場で独自に飼育する鴨やガチョウの、肥大化した肝臓を取りだし、徹底した衛生管理のもとでパッキングしている。宇宙開発技術を応用したという頑丈なパックは小穴を開けることもできず、専用のハサミでないと開封できない。よって、事故あるいは故意によるパックの破損で、食材が外気に触れたりする心配はない。
創業は十八世紀、ヤニク・クストーはバベット精肉の六代目の工場長だった。同じく老舗のフォアグラ専門レストラン・ベランジェールとの付き合いも古い。長きにわたる取り引きの歴史上、問題が起きたことはいちどもないときく。
ゆえに、ベランジェールに見習いとして雇われている楚辺にとっても、責任は重大だった。たとえ店の希望を先方に伝えるだけの使い走りの役まわりでしかなくとも。
「クストーさん」楚辺はパックをかえしながらいった。「それで、お値段のほうは......」
「いつもどおり、三パックにつき百ユーロだ。うちの食材のクオリティは承知しているだろ? それを考慮すれば大盤振る舞いだ」
「ですね。ええと、数のほうですけど、いくつお譲りいただけますか」
「そこも先日と同じ。六十パック、きちんと仕上がってる。不良品はひとつもないよ。しめて二千ユーロってことだ」
「あのう......。この段階になって申し訳ないんですが、もうちょっと数を増やしてもらえないでしょうか」
ヤニクの顔が険しくなった。「どれくらい?」
「カヴェニャック総料理長がいうには、最低でも百パックほしいと」
「百? それも最低で?」ヤニクは論外だというように目を瞠った。「無茶だろ。こんな直前になって」
「はい......。無理なのは充分わかってます。でも聖母被昇天祭も近いですし、諸外国からの観光客も増える時期なので」
「例年のことだろ」
「ええ。でも今年は、早くからサルコジ大統領がベランジェールで食事したり、女優のエマニュエル・ベアールが来店したりで話題になったので......」
「楚辺君。帰ってカヴェニャックにいってやれ。たしかにうちはベランジェールなしには経営をつづけられないが、こんなのは横暴だとな。きみみたいな若いのを寄越して重要な案件を伝えさせる神経も疑う」
アンジェリークが諭すように告げた。「お父さん。そうはいっても、このまま追い返したら楚辺君が叱責されるだけでしょ」
ヤニクは唸って、頭をかきむしった。「知ってるだろ。完成品は六十しかないんだぞ。ほかはもう、別の得意先に出荷しちまってる。在庫はもうないんだ」
「それなら......。同じ水準のフォアグラを作ってる、ほかの工場に声をかけてみたら?」
「......ほかの工場、か」ヤニクは真顔になった。「ああ、それなら心当たりがある。ヴァランタン・コタヴォのところなら、たっぷり手間をかけて良質の鴨やガチョウを育ててるときいた。工場も新しいし設備も整ってる。どれだけ生産してるか知らないが、モノはうちと同等だろう」
楚辺はいった。「だけど......クストーさんの工場と取り引きしているのに、ほかのメーカーに声をかけるわけにはいきません」
「ほう」ヤニクの目が穏やかないろを帯びた。「若いのにしっかりしてるな。そのとおりだ。ベランジェールのほうから、うちとコタヴォの両方に食材を発注するのはなにかと問題がある。コタヴォはニースのホテルやレストランが主要な取り引き先だし、縄張りが違うからな。でも心配するな。私からコタヴォにきいておいてやる。ただし、コタヴォがいくつ用意できても、うちの六十パックは買い取ってもらうのが条件だ」
「クストーさん......。ありがとうございます」
「好青年のきみに免じてのことだ。カヴェニャックにもよろしく伝えておいてくれ」
「どうも......。じゃ、これで失礼します。パリまで戻らなきゃならないんで」楚辺は頭をさげて、シトロエンに駆け戻った。
アンジェリークが涼しげな顔でいった。「気をつけてね。飛びだしたリスとか撥ねちゃ駄目よ」
「は......はい。気をつけます」
クルマに乗りこみながら、楚辺は気をひきしめた。リスを撥ねるな、か。免許取り立てのころ、西表島を初めてクルマで走った日を思いだす。あのときも、助手席で凜田莉子がいっていた。ゆっくり走ってね。内地の人みたいにイリオモテヤマネコを撥ねないで。
飯田橋
強烈な陽射しに白ばんで見える都心部は、いたるところに陽炎が立ちのぼり、その武骨な景色を揺らがせている。外濠から神田川沿いに伸びる商店街には、風鈴の音が響いていた。しかしその涼しげな音色も、この猛暑に伴う体感温度を和らげてくれるものではない。夏物のスーツに身を包んでいても、じんわりと汗がにじんでくる。
小笠原悠斗は、馴染みの雑居ビルの一階テナントを目指して歩いていた。万能鑑定士Q。アクリルにステンレス板を嵌めこんだ、しゃれた字体の看板が見えてきたとき、小笠原は唖然として立ちどまった。
そのカフェか美容室のようなガラス張りのエントランスを先頭に、長い行列ができている。並んでいる人々の年齢や性別に偏りはなく、まさしく老若男女問わずといった感じだ。誰もが大小の荷物を抱えていた。持参した鑑定依頼品に違いない。
かつてない盛況ぶりは、盆休みの前だからか。万能という触れこみが決しておおげさなものでないと人々が知るにつれ、客層も恐ろしく拡大したものだ。
「ちょっとすみません」小笠原は、そそくさと先頭の客の前に割りこみ、開いた自動ドアのなかに滑りこんだ。
女性がオーナーの店舗は、冷房が効き過ぎていないから好ましい。小笠原はそう思った。狭いがシンプルモダンでまとめられた、スタイリッシュな内装。艶消しのアルミとガラスを使った、無機質でシャープな印象の家具。わずかに青みがかった透明なデスクの向こう、黒革張りの椅子から腰を浮かせている若い女がいた。
凜田莉子は接客中だった。年齢は小笠原より三つ下、すなわち二十三歳。ストライプ柄のカシュクールタイプのワンピースを自然に着こなしている。ゆるいウェーブのロングヘアに縁取られた小顔には、猫のように大きくつぶらな瞳と高い鼻、薄い唇がそつなくおさまっていた。年齢相応の若さや瑞々しさは備えていても、可愛いというより綺麗という形容が当てはまる美人顔で、総じてクールで個性的だった。
猫そのものといった印象の強烈な眼力を発しながら、デスクの上に散らばったボタンらしきものを見つめている。その顔があがって、こちらを見た。
すぐさま、ややひきつったようなぎこちない笑みが浮かぶ。皮肉めかせているのではない。彼女の場合、目が大きすぎて、微笑むとそんな顔になるのだった。
「あ、小笠原さん」と莉子はいった。「ちょっと待ってて。すぐ終わるから」
客は白髪頭の老人だった。鑑定依頼品は、やはり洋服のボタンだ。大きさも色もまちまちで、しかもずいぶん古そうな物だった。
莉子は客に対し、申しわけなさそうにいった。「本当は赤外線で分光するのがいちばんですけど......」
老人は咳ばらいをした。「うちに分光器はないんです。百年も前の樹脂ですが、高価な物じゃないのでそんなにお金をかけられなくて」
「そうですね」莉子は鼻をひくつかせた。においで直感したらしい。客を見つめてたずねる。「タバコをお吸いですか?」
「......ええ」
「じゃあ、ライターをお持ちですよね」
「持ってますよ」老人は百円ライターを取りだした。「ほら、これです」
「お借りします。それと、ボタンを少し削ってもいいですか」
「どうぞ」
莉子は引き出しを開けて、メモ用紙を取りだし、三枚を破りとって並べた。それから小さなヤスリを、ボタンの裏にあてがった。三枚のボタンをわずかに削り、粉末をメモ用紙に落としていく。ライターを点火し、メモ用紙の下から炙って粉末を燃やした。
三つのサンプルで実験し終えると、テーブル上のボタンを次々に指先で滑らせ、三つに分けた。莉子は老人に告げた。「右からエボナイト、セルロイド、ベークライトです」
「ど」老人は目を丸くした。「どうしてわかるんです?」
「エボナイトは生ゴムを加硫で硬化させたものですから、燃やすと硫黄化合物のにおいがします。真ん中の粉末はよく燃えたので硝酸セルロース、すなわち当時のセルロイドです。その反対に燃えにくくて硬くなるのは、難燃性で熱硬化性のフェノール樹脂、つまりベークライトです」
老人は目を輝かせて身を乗りだした。「凜田先生......。聞きしに勝る鑑定眼ですな。お代のほうは......」
「これくらいなら代金はいただきませんよ。またどうぞ」
「そりゃどうも。お若いのに感心です」老人は三つに分けられたボタンをそれぞれすくい取ると、カバンのポケットにおさめて立ちあがった。「さっそく帰って標本づくりに役立てます。どうもありがとうございました」
「お気をつけて」莉子は立ちあがって、老人の退店を見送った。
邪魔してはまずい。次の客が入る前に、小笠原は急いで三省堂書店の手提げ袋を差しだした。「はい、これ。頼まれていた物」
「わあ、ありがとう」莉子は満面の笑みとともに受け取った。袋を開けて書籍を取りだすと、莉子はいっそう嬉しそうにいった。「『地球の歩き方・パリ&近郊の町』。このシリーズ大好き。字が多くて読むところいっぱいあるし」
「......旅行にいくの?」
「ええ」
「ツアーとか?」
「じゃなくて、個人旅行。ルーブルとかオルセー美術館の展示品をこの目で見たいって、ずっと前から思ってたの」
個人旅行......。これは聞き捨てならない。詳しい日程について尋ねたかったが、次の客が入店してしまった。
「いらっしゃいませ」莉子は頭をさげた。
客は五十歳前後の化粧の濃い女性だった。ビニール袋から醤油の瓶を取りだして置く。新品ではない。中身は半分ほど減っていた。
女性はいきなり用件に入った。「これ、うちのお店でだしてる醤油なんだけど、なんだか高かったわりに味が安っぽい気がして......」
莉子は眉をひそめることもなく、瓶を手にとった。「拝見します」
いきなり瓶を縦方向に激しく振り、ぴたりと静止したかと思うと、じっと観察する。キャビネットに向き直り、透明なガラスの花瓶からバラの花を抜き取るや、水のなかに醤油を一滴垂らした。
無言のうちに数秒が過ぎた。莉子は首を傾げながらつぶやいた。「ラベルにあるような甘露醤油じゃないですね。中身はもっと安物です」
「まあ? やっぱりそうなの」
「はい。高級品なら振った場合、無数の細かい泡ができて、しかもなかなか消えません、これは大きな泡ができてすぐ弾けてしまいます。水に垂らしても、直後に混ざりあっちゃいますし。ラベル通りの物なら、混ざらずに底まで達するはずです。この状態で売られていたとは考えにくいので、買って開封した後に誰かが中身を入れ替えたんでしょう」
「それなら誰なのか想像つくわ」女性は瓶を手にとった。「ところで、鑑定料はおいくらかしら?」
「お金をいただくほどじゃないので......」
「そう。ありがとう。じゃあ、店に行って犯人をとっちめてやんなきゃ。待ちきれないわ」
「......どうかお手柔らかに」莉子はぎこちない微笑を浮かべて、女性を見送った。
小笠原はいった。「ずいぶんいろんな物を鑑定してるんだね」
「チープグッズで働いてたから、日用品のほうが得意なの。でも鑑定家を名乗る以上は芸術を見る目も育てないと......。だからパリに行きたかったの」
もしフランス語を喋れたら、いまこの場で通訳として同行したいと申しでることができただろう。けれども、小笠原にとってはせいぜい英語の日常会話がやっとだった。大学でも第二外国語はドイツ語だった。それもいまとなっては、ほとんど覚えていない。
どうしても彼女に尋ねておきたいことがある。小笠原はきいた。「ひとりで行くの?」
莉子は何かをいいかけたが、自動ドアが開いて次の客が入店したため、そちらに向き直った。「いらっしゃいませ」
今度はジャージ姿の十代の少年だった。緊張の面持ちで数枚の写真を差しだしてくる。いずれもサッカー選手、ディヴィッド・ベッカムの顔写真だった。直筆らしきサインが入っている。
それらをざっと眺めて、莉子は一枚だけを取りだし脇に置いた。「これだけは本物。あとは偽物」
少年は面食らったように、鼻息を響かせながら莉子を見つめた。「偽物ですか......? これも?」
「全体に右上がりで、DとBをはっきりと大文字の活字体に近い形で際立たせるサインは、マンチェスター・ユナイテッドで背番号10をもらう前なの。その後はDもBも筆記体に近づいて小さくなってる。この写真はレアル・マドリードに移籍してからのものだし、いきなり昔の書き方に戻るとは思えないの。ごめんね」
「わかりました......。あのう、お金は......」
「鑑定料をいただくほどのものじゃないから、サービス。じゃあ、またね」
ありがとうございました。少年は礼儀正しく頭をさげて写真をかき集め、立ち去った。
小笠原は莉子を見つめた。「以前にサッカーには詳しくないって......」
「サインの鑑定依頼がときどきあるから、カタログに目を通したの。日々勉強」
「いえてるね。あ、さっきの話だけど、旅行は......」
「ひとりで行きます」と莉子はにっこりと笑った。
「ああ、そうなんだ......」
自動ドアが開く。中年男性の客が入ってきた。スポーツバッグを開けて、雑多な鑑定依頼品を取りだす。壺、七福神と宝船が彫りこまれた木製の置き物、それに古びた炊飯器......。
これ以上留まって、多忙な彼女の業務に支障を与えるばかりでは男がすたる。小笠原は告げた。「僕も会社に戻るよ。旅行、気をつけてね」
「あ、ちょっと待って」莉子は歩み寄ってくると、素早くなにかを小笠原の上着のポケットに滑りこませた。
すぐに莉子はデスクの向こうに戻り、来客に対し愛想よく応じた。いらっしゃいませ。
小笠原はしばし呆然として莉子を眺めていたが、彼女が仕事に入るのを見届けてから、自動ドアをくぐって外にでた。
商店街に伸びる長い列から離れて、小笠原は立ちどまった。
じつは航空券が一枚入ってたりして......。淡い期待を抱きながらポケットに手をつっこんだ。
しかし、みずからの手が取りだしたのは小さな封筒だった。開けてみると紙幣と硬貨が入っていた。合計、千七百八十五円......。
三省堂書店で受け取ったレシートと見比べてみる。『地球の歩き方』購入にかかった代金と、ぴたり同額だった。
金なんていいのに......。小笠原はため息をついた。
赤ワイン
翌朝十時過ぎ、バベット精肉のヤニク・クストーは娘のアンジェリークを連れて、ブロワの城下町にあるコタヴォ精肉株式会社を訪ねていた。
ギリシャ教会のような白い塗り壁のなかに、場違いなほどの近代的な設備。同業のヤニクからすれば、何もかもが効率的かつ能率的に設計されているとわかった。しかも、鮮度の維持といい品質管理といい、あらゆる面で見て完璧に近かった。
フランスのフォアグラ製造工場のほとんどは、ハンガリーのガチョウ飼育業者と提携している。生鮮フォアグラはみずからの手で育てるのではなく、輸入するのが普通だ。しかしここでは、バベット精肉同様に鴨やガチョウの飼育を敷地内でおこなっている。フォアグラ以外の部位は食肉、脂、羽毛など、あらゆる製品に加工し出荷するため、まったく無駄が生じない。その貪欲さと徹底ぶりはバベット精肉をも凌いでいた。
無菌服を着て、ひとしきり工場の生産ラインを見学した後、ヤニクとアンジェリークは社長室に案内された。
オーナーが別にいるバベット精肉と違って、この会社では経営者のヴァランタン・コタヴォが工場長を兼ねていた。
年齢はヤニクよりいくらか上、五十代半ばのコタヴォは、太りぎみの身体に薄い頭髪の陽気な男だった。パリのナチュール・キャピタルのイベントでいちど顔を合わせたきりだが、向こうもヤニクのことをよく覚えていてくれた。そのときにアドバイスした製法のひとつを、もう実際に工程に組みこんでいるのだから頭がさがる。
「さて」コタヴォは笑って両手を広げた。「どうかな。うちもあんたのところ同様、食の安全という点では折り紙つきだよ。味も品質も問題なし。袋も頑丈、注射針も通さない。出荷時には私自身が一品ずつ確認して、ケースに詰めて氷漬けにし、蓋に封印のラベルを貼る。あんたもそうしてると思ったが?」
「ああ」ヤニクはうなずいてみせた。「最終検査と封印は私の義務だよ。不良品が間違って紛れこむなんてことはいっさいない」
「そのとおり。ただし、私とあんたの工場には、大きな違いがある」
「どんな?」
「私はね、安売りはしないんだ」
ヤニクは不安になってアンジェリークを見た。
アンジェリークも戸惑いがちに見かえしてから、視線をコタヴォに移した。「さっきのお話では、キャンセルになった契約の余剰生産分がいくらかあって、それらを売ってもいいって......」
コタヴォはにやりとした。「たしかにそういった。うちも完成したばかりのフォアグラを六十パックほど提供できる状況にある。あんたのところの六十と合わせて、百二十パック。これならベランジェールの料理長も文句をいわんだろう」
「もちろん」とヤニクはいった。
「しかしなぁ。うちの食材はおかげさまで好評で、南フランスでは引く手あまたでな。余剰分があるなら譲ってくれという声が後を絶たん。それなのに、あんたのところの取り引き相手に出荷するわけだろ? パリのレストランに。得意先でもないのに優先するわけにはいかないな」
その気がまったくないのなら、ここまで時間をかけて工場を案内したりしないだろう。ヤニクはそう思った。商魂たくましいコタヴォがビジネスチャンスをみすみす逃すはずがない。
ヤニクはきいてみた。「価格がご不満かい?」
「そうだな。あんたのところは六十パックを......三点百ユーロで売ってるって? 安すぎるよ。自分でもそう思わないか?」
「私は工場長だし、経理は別の人間が......」
するとアンジェリークがコタヴォにいった。「二点百ユーロではどうですか?」
「......ふむ」コタヴォは指先で顎を撫でまわした。「二パックにつき百ユーロか。六十パックをその値で売れば、三千ユーロになるな。それなら話は別だな」
ほっとしたように笑みを浮かべるアンジェリークを横目に見て、ヤニクの不安は募った。ちょっと失礼、コタヴォにそう告げてから、娘の腕をつかんで部屋の隅に連れていった。
「おい」ヤニクはささやいた。「どういうつもりだ。価格の決定は俺たちの裁量じゃないんだぞ」
アンジェリークは覚めた顔で見返してきた。「そんなこといって、この場で商談がきまらなかったらどうするの。ベランジェールの要求に応えられなかったら、困るのはお父さんでしょ」
「それはそうだが......」
「経理は後で説得すればいいじゃない」
「うちの会社はよくても、取り引き先はどうなる。ベランジェールがいまさら値上げに応じてくれるとは思えん」
「うちのは三点百ユーロで据え置きにして、コタヴォさんの商品だけ二点百ユーロにすればいいでしょ」
「......ほとんど同じクオリティの製品なのに、値段に差を設けるのか? 同じ数だけ出荷して、千ユーロも違いがでるなんて......」
「ほかにどうしようもないじゃない」そのとき、コタヴォが咳ばらいをした。
ヤニクが向き直ると、コタヴォは腕時計に目を落としていた。
「クストーさん」コタヴォは真顔で告げてきた。「悪いが、もうすぐ会議だ。知ってのとおり、フォアグラホールは真空パックしてあっても足がはやいんでね。余剰分をどうするかも会議で話し合われると思う」
露骨な催促。時間を無駄にしない男だ。けれども、それはヤニクのほうも同様だった。二千ユーロの稼ぎにしかならないというのに、際限なく手間暇をかけるわけにはいかない。
「わかった」とヤニクはいった。「ベランジェールもうちの社長も、私が責任をもって説き伏せる。きみの言い値で六十パック譲ってくれ」
コタヴォはじっと見かえすと、ふたたび笑顔になってミニバーの棚からワインボトルを取りあげた。「商談成立だな。乾杯といこう」
アンジェリークはヤニクを見て、肩をすくめた。そして微笑とともに父親の手をひき、ミニバーにいざなってくれた。
まいったな。娘に助けられる日がくるとは。ヤニクは頭をかきながら、赤ワインがなみなみ注がれたグラスをコタヴォの手から受け取った。
卒業アルバム
夜七時すぎ、十六インチのモニターに映しだされた古いフランス映画に、凜田莉子はのめりこんでいた。
莉子の知覚においては、その小さな画像は視野すべてに拡大したも同然だった。涙で視界がぼやけだしてからは、トリップ感覚にいっそうの拍車がかかった。
DVDを原語の字幕表示に設定し、セリフを見聞きしながら発音の練習をしていた莉子は、すっかり物語に没入していた。気分はフランス宮廷にたたずむ王室の一員、王妃の侍女だった。字幕が出現するや情感をたっぷりとこめ、自分の言葉と錯覚しつつ発声していた。
「ああ、美しきヴェルサイユ!」莉子は早口に声を張りあげた。「王の散歩道、アポロンの泉、そして大運河。お妃さまが赴かれるところ花が咲き乱れ、風は穏やかになり、晴れ渡った空には太陽がさんさんと輝くでしょう」
フランス語の勉強を独学で始めて半年。テキスト本に二百以上も挙げられていた構文を丸暗記したおかげで、頭のなかでいちいち日本語に変換することなく、語彙に含まれるニュアンスを理解し把握できるようになっていた。チープグッズの店長、瀬戸内陸は語学の習得法を教えてはくれなかったが、コツはほかの勉強と同じだった。情動に従うこと。高まる感受性に身をまかせ、ありのままの自分でいること。
「お妃さま、案ずるには及びません。太陽王がフロンドの乱を鎮圧されるまでお仕えした宰相マザランのように、わたしの心はお妃さまとともにございます。なんなりとお申し付けください。わたしは祖国フランスのために、偉大なる君主と運命を共にし......」
ふいにけたたましい音がした。扉を叩く音。それも金属製の扉だった。
地下の牢獄、一瞬はそう思えた。思わずアドリブでつぶやきが漏れる。ああ、なんということ、イングランドの兵がもう目と鼻の先に。
しかし、妃との悲運を嘆くのも瞬時のことにすぎなかった。すぐに莉子はわれにかえった。
部屋の手狭さや窮屈さがよみがえってくる。明大前駅にほど近いマンションに借りたワンルーム。室内は洋服を吊るしたハンガーラックが床面積のほとんどを占め、備え付けの収納も化粧品の類いやハンドバッグ、書籍で埋め尽くされて雑然としていた。残念ながら、ひと部屋しかない生活空間ではインテリアに気を配る余裕がない。
莉子はあわててリモコンを手にとり、テレビを消した。玄関のドアに駆け寄り、錠をはずしてそろそろと開ける。見覚えのある顔が覘きこんだ。廊下で何度かすれちがったことがある中年女性だった。
女性は苦情をぶつけにきたらしく、目が吊りあがっていたが、莉子を見たとたんにその表情が緩んだ。
「あ」女性は驚きのいろを浮かべた。「あなたなの......。玄関先でよくすれちがうわね。綺麗な人と思ってたら、女優さんだったのね」
「え? いえ、わたしは......そのう......」
「いまの何語? 向こうの映画がテレビにでるの? たいへんね」
「ええと......。ごめんなさい。うるさかったですよね」
「セリフの練習は結構だけど、夜はやめてくれないかしら。悪いけど、パートで朝早いのよ」
「本当に申しわけありませんでした。もうやりませんので」
「お願いね」女性はそういって立ち去っていった。
莉子は靴を履いて外にでると、廊下を歩いていく女性に深々と頭をさげた。
足音が聞こえなくなって、ようやく莉子は顔をあげた。
自分でも気づかないうちに、大声をあげていたようだ。なんて恥ずかしい。しかも近所迷惑だ。これでは公害と同じではないか。
しょんぼりと肩を落としていると、今度は中年男の声が背後からきこえた。「なんだぁ? 莉子。またなにかやらかしたのか」
耳に馴染んだその声。莉子は衝撃とともに立もすくんだ。それから、ゆっくりと振りかえる。
「お」莉子は思わず声をあげた。「お父さん!? それに、お母さんまで......」
波照間島と同じく、ひょろりと痩せた身体にかりゆしウェアを身につけた父、盛昌。その陰に隠れるように、遠慮がちに身を屈める母、優那。彼女も地元で愛用しているワンピースを着こんでいた。
いやな予感がした。上京してくるのにまるで普段着なんて。よほど急いで旅にでたに違いない。
優那は面食らったようにいった。「あら。あなた、泣いてたの?」
「え?」そういえば、目を泣き腫らしたままだった。莉子は頬をぬぐった。「いえ。これはね......。別になんでもないの」
盛昌の顔が硬くなった。「家賃。払えてないのか」
「だから違うって」莉子は告げた。「いったいどうしたっていうの。連絡もなしにいきなり来るなんて」
「ちょっと話があってな。あがるぞ」盛昌は扉を開け放ち、なかに踏みいった。
「待ってよ」莉子は焦って静止しようとした。「勝手に入らないで」
しかし、母親の優那も両手に荷物を抱えながらその後につづいた。
すぐにふたりの嘆きの声があがる。盛昌の声が響きわたった。なんだぁ。ひどい散らかりようだな。まるで男ばっかり素泊まりした民宿の朝じゃねえか。
莉子は両親を追って室内に入ると、声をひそめていった。「大声ださないでよ。いまも怒られたばっかりなのに」
盛昌が振りかえった。「泣いてたのはそのせいか」
「違うってば」
優那が荷物のなかから茶筒を取りだし、それを手に部屋の隅の流しに向かった。「お茶を淹れようかしらね」
「あ」莉子は駆け寄ろうとした。「それならわたしが......」
「いいから。あなたはお父さんの話をきいてちょうだい。あんた、ジューシーかまぼこ食べる?」
「いらない。わざわざ持ってきたの?」
「座るぞ」盛昌は床に腰をおろした。「莉子。いつも仕送りありがとな。それと、竹富町役場の人もお礼をいってたぞ。島の渇水対策の募金に協力してくれて感謝してますってな。水が綺麗になれば泡波がたっぷり飲めるさー」
そういって父は豪快に笑った。莉子は咎めた。「静かにしてったら」
「ああ、そうだった。悪い悪い」いっこうに気にしたようすもなく盛昌がいった。「しかし、東京ってとこは人ばっかりで息が詰まるな。どこに行ってもムシャーマみたいな人出だな。きょうは祭じゃないんだろ?」
「違うわよ。で何の用?」
「旅行の準備は済んだのか。もうすぐフランスに行くんだろう。おばあも心配してたぞ」
「まだ一週間以上あるから......」
「莉子。喜屋武友禅先生、覚えてるか」
「......そりゃ、もちろん」忘れようとしても、忘れられるはずがない。印象深い高校最後の年の担任だった。
盛昌は渋い顔になった。「喜屋武先生はな、おばあ以上に気にかけとった。おまえをひとりで外国に行かせるなんて無謀だってな」
「はあ? それどういうこと? どうして喜屋武先生がわたしの旅行について知ってるの?」
ふいに盛昌がいいにくそうに口ごもった。すると優那が振りかえり、笑いながら告げてきた。「お父さん、毎晩のように近所の人呼んでは一緒に飲んで、自慢したのよ。あんたがフランスに行くって」
「な......。なんでそんなこと吹聴するの? ちょっと予定知らせただけなのに......」
父は気まずそうな顔を浮かべた。「そう怒るな。娘が晴れて海外に渡るってのに、喜ばない親はいないだろ。あれだな、帰ってきたらいよいよ莉子も帰国子女だな」
「違うでしょ。パリ四泊六日だし。気ままなひとり旅だし」
「そう」盛昌は膝を打った。「まさにそこだ。おまえの旅行の噂をききつけた喜屋武先生が、うちに連絡してきた。ツアーじゃなく個人旅行で行くと知って、いっそう不安を募らせたみたいだ。保護者としてご両親は同伴されるんですかときいてくるから、いいえと答えたら、もう気が気じゃないみたいでな。すごい剣幕で怒ってきて、ひとりで行かせるなんてとんでもないっていうんだ。で、ご両親が行かないなら私が一緒に行きます、っていいだしてな」
莉子は絶句した。思わずむせそうになりながら、莉子はたずねた。「一緒に、って......。喜屋武先生が?」
優那が湯呑みを三つ盆に載せて戻ってきた。正座して、各々の前に湯呑みを置きながら、優那は笑った。「先生、ずっとご無沙汰だったから知らないのよね。あんたがいまじゃ案外、賢くなってるってこと」
盛昌は湯呑みをすすると、大袈裟に顔をしかめた。「やっぱうめえな、さんぴん茶は」
「お父さん」莉子は抗議した。「わたし、航空券もエコノミークラスだし、旅費もなんとかひとりぶん捻出できたところなのよ。誰だろうとツアーメイトのぶんを出費するなんて予定外......」
「そこはだいじょうぶさー。喜屋武先生は、自分の旅費は自分でもつっていってるから」
「わざわざ自腹で? そんな。断ってよ」
「いや、それがな......。ちょっといいにくくてな」
「なにが?」
優那が穏やかにいった。「石垣のほうも子供が減っててね。喜屋武先生、今年はクラス担任から漏れちゃってるみたいなのよ。それでずいぶん暇にしてて、昔の教え子のことが気になってるみたい」
「だからって、五年も前の生徒だったわたしを心配してくれなくても......」
「先生がいうにはね、教師生活のなかで、あんたほど将来が不安な生徒はいなかったって。高校卒業間際のこと、覚えてる? お母さんと一緒に学校に呼びだされたでしょ。この成績じゃ卒業証書はあげられないって校長先生にいわれたって、喜屋武先生も途方に暮れてたじゃないの」
「まあ......、そんなこともあったけど」
「結局、喜屋武先生が校長先生やほかの教科の先生を説き伏せてくれたでしょ。卒業後もなにか問題が発生した場合には喜屋武先生が面倒をみると約束して、ようやくあんたは卒業式に出席できたんじゃないの」
きのうのことのように目に浮かんでくる。喜屋武は莉子の両手を握り、真顔で告げてきた。頑張れよ。立派な社会人になるまで、トラブルが起きたらいつでも力になるからな。
優那は莉子を見つめてきた。「いってみりゃ、あんたの卒業は喜屋武先生による条件つきのものだったわけさー」
盛昌も腕組みをして、うんうんとうなずいた。「刑務所でいえば仮釈放だな」
「ちょっと」莉子は憤慨した。「その喩えは変だって」
「いいえ」と優那は首を横に振った。「あんたは本当にやばかったのよ。あんた自身も、喜屋武先生に頭をさげたでしょう。卒業してからも、何かあったらよろしくお願いしますって。まさか忘れちゃったの?」
「覚えてるけど......。でも現状は違うわけだし、喜屋武先生に同行してもらわなくても......」
すると盛昌が真剣な面持ちでいった。「莉子。それがな、喜屋武先生はどこか妙に嬉しそうでな。あの人は教師の鑑さー。かつての問題児の世話を焼けるとあって、使命感に燃えてる。フランス語の日常会話の本を買ってきて勉強したり、パリの地図を覚えようと頑張ってるみたいさー。そこまでおまえのこと心配してくれてるんだ。お父さんたちもどうも、断りにくくてな」
莉子は頭を掻きむしった。視線が自然に本棚に流れる。そこには卒業アルバムがおさまっていた。
「ねえ」と莉子は両親につぶやいた。「喜屋武先生の連絡先、以前と変わってない?」
優那が答えた。「変わってないさー。実家は宮古で、先生は石垣で独り暮らし」
結婚はしていないわけだ。当時から女子生徒にはひそかに人気があったのだが、本人はそのことを知ってか知らずか、ひたすら教員としての務めを貫く姿が印象的だった。
本棚から卒業アルバムを引き抜き、巻末の電話帳のページを開く。コードレスの子機を手に、喜屋武の石垣の家の番号をプッシュした。
盛昌が眉をひそめた。「どうする気だ?」
「自分で断るの」莉子はそういって、呼び出し音に耳を傾けた。
すぐに先方が電話にでる気配があった。きこえてきたのは、張りのある懐かしい声だった。「喜屋武ですが」
「あ、あのう......。喜屋武先生」
「......おお。凜田か! ひさしぶりだな」
名乗らなくてもわたしだと気づいた。わたしの声はよほど記憶に残るのか。それとも、父のいうように、いまだに先生の頭のなかはわたしのことでいっぱいなのか。
「あのですね、先生。旅行のことなんですけど......」
「ああ。ご両親にきいた。海外に行きたいっていう心掛けは立派だ。先生も感心したぞ」
「いえ......それで、そのう......」
「向こうでのことは心配するな。先生がついていって、わからないことはなんでも世話してやる。もちろん、おまえの邪魔になるようなことはしないつもりだ。宿も当然、別室をとる。あくまで保護者がわりに同行するだけだ。いまは嫌と思うかもしれないが、なにか問題が起きてからじゃ遅い。世のなかはまだまだおまえの知らないことばかりだ。まして外国なら、なおさらだ。そうだろう?」
「はあ......。でもですね、先生」
「凜田。パスポートはちゃんと持ってるか? 赤い表紙の小冊子だぞ」
「え? はい。あります」
「よし。航空券と一緒にして、でかける前にもういちどチェックするんだぞ。空港で迷子にならないように、事前にお父さんに調べてもらって地図を書いていくといい。遠足と同じで、旅行は家に帰るまでが旅行だ。はしゃいで気を抜くなよ」
まるっきり未成年者扱いだ。わたしはもう二十三だというのに。「あのう、喜屋武先生」
「宿の手配は先生にまかせとけ。浮いた宿泊代は、美術の見学費にまわせばいい」
......どうするつもりだろう。パリのホテル予約に自信があるのだろうか。
疑問が頭をかすめたせいで、言葉を発するのが遅れた。その隙を突くように喜屋武の声がすかさず告げた。「出発便はご両親からきいてるからな。さいわい、まだ空席があったからとっておいた。だから飛行機のなかでも心配ないぞ。じゃあ、詳しいことは空港で会ったときに話そう。体調を崩さないように気をつけておけ。風邪ひくなよ」
「あ、ちょっと......。先生。もしもし」
電話はすでに切れていた。
こちらから連絡したのに、一方的に押し切られてしまった。ずいぶん気分が高揚していたようだ。あるいは、話の腰を折られるのを恐れていたのかもしれない。教師は生徒に煙たがられるものだ、そういう自覚があった気配もうかかえる。
莉子は不本意だった。わたしはもう生徒ではないのに。
困惑とともに両親に目を向ける。
父の盛昌は平然といった。「よかったじゃねえか。喜屋武先生は頼りになる人だしな」
「ええ」母の優那も同意をしめしてきた。「お母さんもひと安心」
すべて丸くおさまった。両親は強調したがっているようだった。そのためだけに上京してきたのだろうか。たぶんそうだろう。喜屋武の顔を立てるために、娘を説得しようと出向いてきた。それが両親がここにいる理由だった。
やれやれ。莉子は壁にもたれかかってうずくまり、卒業アルバムを投げだした。床に落ちたとき、莉子のクラスのページが開いた。卒業写真のなかで、莉子は喜屋武の隣りにいた。将来になんの不安も抱かない、天真爛漫な笑みを浮かべた十八歳の莉子の姿が、そこにあった。
パリジェンヌ
その朝、パリは快晴だった。
バベット精肉のヤニク・クストーは冷凍トラックのステアリングを切って、リヴォリ通りから一本入った石畳の裏路地に乗りいれた。
コンコルド広場にほど近い高級フォアグラ専門店、老舗レストランのベランジェール。その裏手には、いつものように従業員たちが何人か繰りだしていた。路上駐車しようとするクルマを追い払い、搬入のためのスペースを確保しつづけている。
ヤニクは、その店側が用意した空間にトラックをぴたりと寄せて停めた。助手席のアンジェリークがシートベルトを外し、ドアを開ける。ヤニクも外に降り立った。
コックコートにソムリエエプロンを身につけた中年男が歩み寄ってくる。顔馴染みの総料理長シモン・カヴェニャックは、いつものように渋い顔で見つめてきた。「遅かったな」
朝っぱらから文句をいわれたのではたまったものではない。ヤニクもあえて無愛想にいった。「文句があるなら市庁舎前のストライキの集団にいってくれ。路上にゴミぶちまけてて、片側通行しかできなくなってた」
四人の若い従業員がトラックの荷台に向かう。うちひとりは楚辺瑛翔だった。楚辺はヤニクににこやかに告げた。「おはようございます、クストーさん」
「おはよう」ヤニクは彼らとともに荷台の後方にまわった。「さっそく商売だな」
ヤニクが後部ドアを開けると、四人が荷台にあがる。白い霜のなかに埋もれていた四つの大きなプラスチックケースを、慎重に搬出し始めた。
それらのケースは、店の勝手口前に並べられた。いずれも蓋はバベット精肉の社印入りシールで封印してある。
けさ早く、ヤニクはひとりですべての食材パックを念入りにチェックし、ケースに詰めて氷で固め、蓋を閉じた。氷を砕かない限り、パックは取りだせない。シールもヤニクが貼った。封印の持つ意味は重い。わが国の精肉業界では、現場のトップがすべての責任を負う。だから誰の手も借りず、工場長であるヤニクみずからが最終確認をする。
いつものことではあるが、今回の食材にも不備などいっさいなかった。バベット精肉でこしらえた食材パックはむろんのこと、コタヴォ精肉の提供した製品も品質の面で完璧といえた。パックについても、すべて隈なく調べて穴ひとつ開いていないことを確認済みだった。どこにも落ち度はない。
カヴェニャックも、封印の意味を理解しているプロフェッショナルのひとりだった。四つのケースに貼られたシールを順繰りに指先で撫でまわし、密閉状態なのを確認している。
食材管理について、ここまではヤニクの責任。ここからはカヴェニャック。その職責が譲渡される瞬間がきた。
「よし」カヴェニャックは従業員らに告げた。「開けろ」
楚辺たちがカッターナイフの刃でシールを切り、ケースの蓋を外す。各々がハンマーで氷を砕きながら、ケースのなかにパックがいくつあるか、数えはじめる。
アメリカや日本などでは、ひとつのケースに一ダースずつとか、あらかじめ詰めこむ数量をきめるが、わが国の食肉業界の習慣は違う。数が足りているか否か、どうせ確認が必要になるのだから、一ケースあたりの数をきめておいても無駄だ。
よって、配達先のレストランの従業員がまず取りかかる作業は、ケースごとの商品の数の把握だった。四人は黙々とパックを数えだしていた。アンジェリークがメモ帳を渡し、ひとりずつケースのなかのパックの数を書きこんでいく。それらが終わると、カヴェニャックが合計数を確認する。そしてアンジェリークがメモ帳を受け取ってヤニクに渡す。いつもの流れ作業だった。
ヤニクは合計数をたしかめた。百二十。用意したパックのすべてを、間違いなくベランジェールに届けた。
入荷数は声にはださない。これも慣例だった。ライバル店の人間が立ち聞きして、こちらの懐具合や用意できる料理の数を予測するのを防ぐためだ。
カヴェニャックはずっと四つのケースから目を離さなかった。彼は食材を宝物のように扱うことで知られる。従業員らの行動に粗相がないが、絶えず監視しつづけている。
いまもカヴェニャックは、視線をヤニクに向けることなくつぶやいた。「こんなに揃うとは思わなかった。よくやってくれた」
ふんとヤニクは鼻を鳴らしてみせた。「頼まれたら嫌といえないのが業者のつらいところだ」
「三パック百ユーロでいいな?」
「いや......。今回はうちの工場以外にも協力を求めたんで、少しばかり価格を改定してもらっていいかな」
「いくらだ?」
ヤニクのほうは三パック百ユーロ、コタヴォは二パック百ユーロ。併せて請求したほうがわかりやすいとアンジェリークがアドバイスしてくれていた。ヤニクはカヴェニャックにいった。「五パック二百ユーロでお願いしたい」
二千ユーロ、プラス三千ユーロの儲け。コタヴォが千ユーロ余分に稼ぐのが気にいらないが、この際やむをえない。
「すると」カヴェニャックは得意の暗算で即座に答えをだしてきた。「五千ユーロだな。無理をきいてくれたんだから、それぐらいの値上げには応じるよ」
ほっとしてヤニクはアンジェリークを見た。アンジェリークも微笑とともに見かえした。
カヴェニャックが従業員にいった。「蓋を閉じろ」
今度はカヴェニャックがみずから用意したシールを貼ってまわる。新たにベランジェールによる封印がなされた。厨房で調理が始まる寸前、ふたたび開封されるきまりだ。ベランジェールも誇り高い有名店だけに、食材管理の徹底ぶりは精肉業者に勝るとも劣らない。
封印済みのケースが重ねられ、台車に載せられて勝手口に搬入されていく。
楚辺が歩み寄ってきて、にこやかにいった。「本当にありがとうございます、クストーさん。心から感謝します」
ヤニクは笑った。「なら礼に娘とデートしてやってくれ。田舎でいきがってるスキンヘッドの若造なんかより、きみのようにちゃんとした日本人のほうが将来の結婚相手にふさわしい」
アンジェリークがふくれっ面をした。「お父さん。やめてよ」
困惑が垣間見える苦笑いとともに、楚辺は頭をさげた。「じゃ、仕事に戻りますので」
「ああ。頑張れよ」ヤニクはそういって、勝手口に消えていく楚辺の背を見送った。
「さてと」アンジェリークが肩をすくめた。「帰る前に、ユニクロに寄ってかない?」
「ユニクロ?」
「知らないの? オペラ地区にある日本のショップ。お洋服がお洒落で安いの」
「へえ......。楚辺君に教えてもらったのかい?」
「パリジェンヌなら知らない人はいないの。さ、いきましょ」
俺の娘はパリジェンヌなのか。いまも実家に同居しているから、てっきりロワールの田舎者かと思ってた。心のなかでひとりごちながら、ヤニクはトラックの運転席に向かった。
旅立ち
午前九時半。成田空港第一ターミナルは混んでいた。
旅行用トランクを転がす凜田莉子の耳に、かすれぎみの男性の声が飛びこんでくる。ジェイアールピー月下氷人ツアーの集合場所は第四サテライトに変更になりました。大変恐縮でございますが第三サテライトをお通りになりまして、その先の第四サテライトまでご足労いただきますようお願い申し上げます。
月下氷人といえば、医師と弁護士限定のセレブなお見合いツアーだと新聞で読んだ。そんなエリートの富裕層向けのツアーですら、土壇場での調整を強いられている。周りを見渡せばツアー旅行者だらけだった。国際線出発ロビーは異常なほどの過密状態にある。
背後から父、盛昌の声がした。「おい、莉子。おいていくなよ。もっとゆっくり歩け」
ため息とともに振りかえる。大混雑のなか、莉子は両親に向かっていった。「なんでついてくるの?」
母の優那は土産の詰まった紙袋を、両手にさげていた。「なんでって、あんたを見送ったら、わたしたちも波照間に帰るからよ」
盛昌がうなずいた。「石垣行きの便はな、羽田より成田発のほうが格安便の本数が多いんだ」
莉子はなおも不満だった。「なら、もう帰ればいいじゃない。搭乗手続きも入国審査もどこ行けばいいか予習してあるし、心配ないからさ」
「いや」盛昌は頑固に告げてきた。「外国は初めてだろ。旅立ちを見届けるのは親の役目さー」
「もう。何度いえばわかるの。わたしはもう二十三......だし......」
言葉が消えいりそうになった。父の肩越しに、見覚えのある人物の姿をとらえたからだった。
背はさほど高くはないが、スマートな体型だった。地味なグレーのスーツ、それも決して高価でないものを身につけているあたりは、職業柄やむをえないことだろう。カバンをたすき掛けにして、黒いトランクをひきずってくる。髪は清潔そのものの七三分け、目鼻立ちははっきりしていて、彫りが深く、涼しげなまなざしが印象的だった。肌は真っ黒に日焼けしているが、これは地元なら当たり前のことだった。
五年前とまるで変わらない。待ち合わせ場所の北ウィングの一画、沖縄人にめずらしく時間どおりに現れる几帳面さも、昔のままだった。
なぜか照れくさくなって、莉子は視線を落とした。顔をあわせるのは、妙に気恥ずかしい。
母の優那が気づいたようすで、声をあげた。「あらぁ。喜屋武先生。おひさしぶりです」
盛昌も振りかえって、満面の笑いとともに喜屋武を迎えた。「わざわざご苦労さまです。無事にお着きになって、なによりです」
「いえ」喜屋武は控えめに告げた。「朝一番の便で石垣から飛んできたんですが、場所がわかりにくくて苦労しましたよ」
笑いあう三人の大人の声。莉子は依然として床を見つめていた。
喜屋武の目がこちらに向いたのを感じる。ひどく顔がほてる気がした。
「凜田」喜屋武は教師特有の快活な声で告げてきた。「ひさしぶりだな」
優那が咎めるようにいった。「ほら、莉子。ちゃんと挨拶なさい」
「......お」莉子は上目づかいに喜屋武を見ながらつぶやいた。「おはようございます......」
恩師はかつてと同じく、か弱い小動物をいたわるような目つきで莉子を見た。「いろいろ不安はあると思うが、先生にまかせておけばだいじょうぶだからな。ゲートでブザーが鳴っても、取り乱すんじゃないぞ。まずは深呼吸だ。それから、自分が金属を身につけているかどうか、冷静にたしかめるんだ。見落としがちなのはベルトのバックルだ。それから......」
「せ、先生......。金属探知機のことなら、わかってますから心配いりません」
「いや、無理するな。修学旅行で満員のエレベーターに乗ってブザーが鳴ったとき、火事と叫んで取り乱したのは誰だった?」
「ああ......。そんなこともあったような......」
「凜田。おまえはな、人より勝ってもいなければ、劣ってもいない。ごく普通の人間なんだ。だから自信を持て。知らないことは、知らなくて当然だ。一歩ずつ学んでいけばいい」
「はい......」
盛昌がいった。「そうだぞ、莉子。先生のいうことはちゃんときくさー。おまえはもともと、そそっかしいところがあるから......」
ところが、喜屋武は真剣な面持ちで口をはさんだ。「お父さん。それは違います。人間、生まれながらにして欠点があるわけではありません。もし人と違うところがあっても、それは個性です。莉子さんはいってみれば、非常に個性的な性格の持ち主であり......」
やれやれ。莉子はひそかにため息をついた。喜屋武先生はわたしを父からかばってくれている。いまでも最大限の憐れみを持って接するべき元生徒だと考えているのだろう。わたしの海外旅行には、保護者が不可欠と本気で信じているようだ。
ひとしきり喜屋武の演説が終わり、沈黙が訪れた。優那が一行の静寂を破るように、笑みとともにいった。「わたしたち、お飲み物買ってきますわ」
盛昌もぽんと手を叩いた。「そうしよう。先生、莉子と一緒に休んでてくださいな」
莉子はあわてて両親にいった。「ちょっと。なんのつもり?」
「いいから」優那はすでに立ち去りかけていた。「積もる話もあるだろうし」
どんな話があるというのか。莉子は呼びとめようとしたが、両親は笑いながら遠ざかっていった。
喜屋武は近くの待合椅子を指さした。「座ろう」
反抗したところで意味はない。莉子は無言でトランクを転がし、椅子に腰かけた。
隣りに座った喜屋武がささやいてきた。「凜田。ご両親の手前、ああはいったが、本音では先生も凜田のことをずっと気にかけてた。上京した後、どこの会社にも就職できなかったんだろう?」
莉子は困惑した。父はなぜ断片的な情報しか提供しないのだろう。「でも、自分でお店開きましたから」
「店ってなんだ。......まさか凜田」
「水商売じゃありません」
「そうか」喜屋武はいったん黙りこくったが、また不安がこみあげたのか、莉子に向き直った。「凜田。水商売ってのはミネラルウォーターを売るという意味ではなくて......」
「先生。もうちゃんとわかってますから」
「......ならいい」喜屋武は前方のテレビモニターに目を向けた。「しかしな、ご両親が危惧されるのもわからないではない。卒業式で校長先生は生徒に卒業証書を渡すが、俺はそれとは別に、生徒ひとりひとりに対し、自分なりに卒業を認めるかどうか真剣に考える」
「すると、先生はまだわたしを卒業生と認めてないってことですか?」
「気を悪くするな。先生はおまえに関しては、まだ保留段階だと思ってる。上京してどんな暮らしをしてきたかは知らん。だが、どうも見るかぎり、あいかわらず世の中をよくわかっていないように思える。とはいえ、案ずるな。この旅行で学べることは美術だけじゃないんだ。先生ができるかぎりのことを教える。きっとそのうち、年齢相応の立派な大人になれる。先生がおまえの卒業を認める日は、かならずくる」
莉子は黙って聞き流した。親身になってくれる喜屋武先生の好意を無にするつもりはない。ただ、必要かどうかといえば、大きな疑問符がつくのだが。
「なんだ」喜屋武は眉をひそめた。「明るさが取り柄の凜田と思ってたが、むっつり口を閉ざしたままか。妙にいらいらしているな。カルシウムが足りていないんじゃないのか。ほら、これを食べろ」
差しだされたのは、アルミで包装された一本のウェハースだった。カルシウム入りと大きく書いてある。
カルシウムが不足すると精神的不安定に陥るというのは、俗説以外のなにものでもない。たとえ摂取量が少なくて血液中のカルシウム濃度が低下したとしても、骨のカルシウムが溶けだして一定の値に戻る。この補助食品によって不足分が補われるわけではない。
けれども莉子は、恩師を傷つけるつもりはなかった。どうも、といいながらウェハースを受け取った。「先生。パリに行ったことはあるんですか?」
「いや、初めてだ。でも『地球の歩き方』を熟読して、地図もできるだけ頭にいれてきたぞ」
同じスタートラインか。莉子は肩を落としながらつぶやいた。「フランス語は?」
「日常会話を少し覚えたていどだ。英語なら、教員免許も持ってるし楽勝なんだがなぁ」
ふたりに沈黙が下りてきた。莉子は静かにモニターを眺めていた。NHKのニュースが映っている。
キャスターが告げていた。この男性は命に別状はないとのことですが、頭部に全治一か月ていどの怪我を負っており、警察では事件性の有無を含め慎重に捜査したいとしています。男性の祖父は地元でもよく知られた資産家で、先ごろ亡くなっており、これについても男性の負傷となんらかの関係があるのではと......。
するとそのとき、近くに座っていた三十歳前後の男性ふたりの会話が耳に入ってきた。
質のいいスーツを着たそのふたりは、ニュースの感想を口にしていた。ひとりが告げた。「全治一か月か。頭蓋骨にひびが入ってなきゃいいけど」
もうひとりはポテトチップスをかじりながらつぶやいた。「転んだだけかもしれないだろ。おじいさんが金持ちだったからって、遺言書に別の相続人の名義があれば関係ないしな」
莉子は、自分でも無意識のうちに思考をめまぐるしく働かせていた。と同時に、視覚にとらえたあらゆる情報を脳に伝え分析の材料とする。
ポテトチップスのメーカーはコイケヤ。袋の裏がこちらに向けられている。賞味期限につづけて〝HセK〟と印刷してある。製造所固有記号が、京都府南丹市の京都工場で生産された物であることを表している。販売地域は北陸、中部、近畿、四国、中国地方。地元で買った菓子を食べているのだから、朝の便で飛んできたばかりだろう。でも国際線出発ロビーにいるのだし、ここからまた新たに海外に向けて旅立つ予定に違いない。
ひとりの袖からロレックスのサブマリーナーが覘いている。スーツはふたりともドルガバ。お洒落な富裕層ではあるが、スーツの肩から背にかけて埃がうっすらと積もっていたり、襟の後ろに皺ができていたりする。鏡に映る前面の身だしなみは整っていても、背面にだらしなさが残る。奥さんや同棲相手がいないからだろう。
職業もはっきりしている。〝ずがいこつ〟ではなく〝とうがいこつ〟と発音したほうは医師。〝ゆいごんしょ〟を〝いごんしょ〟と呼んだのは弁護士だ。
莉子は身を乗りだし、ふたりに告げた。「すみません。月下氷人ツアーにご参加なら、集合場所が第四サテライトに変わりましたけど」
喜屋武が驚いてこちらを見た。「おい、凜田? なにをいってる。その人たちは知り合いか?」
「いえ。初対面ですけど......」
するとそのとき、ポテトチップスを手にした男性が腰を浮かせた。「第四? そうなんだ。道理で誰もいないと思った」
もうひとりも立ちあがりながらいった。「教えてくれてありがとう。遅刻するところだったよ」
ふたりは会話しながら歩き去った。でも彼女、どうしてわかったんだろ。さあね、きみが鼻の下伸ばしてたからじゃないのか。きみこそ初めてのお見合いだからって、はしゃぎすぎだろ。
喜屋武はぽかんとして、ふたりの背を見送っていたが、やがてこちらを見てきいた。「いったい何の話だ?」
「ええと......。向こうで呼びかけてたツァーの参加者さんたちかなーって気がしたので」
「気がした? 凜田。根拠もなく人に声をかけるな。いまは偶然合ってたみたいだが、間違っていたら失礼になるぞ」
「はぁい」莉子は生返事をした。
まだ腑に落ちなそうに首を傾げる喜屋武の横顔を見やりながら、莉子は思わず微笑した。しばらくは種明かしせずにおこう。保護者のせっかくの前向きな気分に水を差すのはよくない。
機内
三時間後、莉子は高度四万フィートの上空にいた。
莉子はエールフランスのエコノミークラスの座席におさまり、食事をとっていた。別々にチケットを買ったため席は離れているのではと思っていたが、喜屋武が購入時に航空会社と交渉したらしい。結果として同伴者であると認められたようだ。かつての恩師は隣りの席に並んで座っている。
簡易テーブルに並ぶのは、プラスチックの容器に入ったサーモンにスパイシーチキン、ポテトサラダ、ライス。それにインスタントの味噌汁に小さなフランスパンだった。
朝食をとっていないので食欲がある。莉子はメインディッシュをほとんど平らげていた。
喜屋武がちらと莉子の皿を見た。ナプキンで口もとをぬぐいながら喜屋武がいう。「凜田。外国に行くんだから、テーブルマナーもしっかりしなきゃ駄目だ」
「......間違ってますか?」
「ああ。さっきからポテトサラダを食べるのに、フォークの背を使わずにいただろ。ライスを食べるときには右手に持ちかえたりもしてたよな。それになんだ、食べ終わった後のフォークとナイフの置きようは」
「二本揃えてお皿の上に置くんじゃなかったですか?」
「揃えるのはいいが、どうして右方向に寝かせている? ほら、先生の皿を見ろ。こうしてまっすぐ縦に二本揃えればいいんだ」
「ほんとに?」
「ああ、本当だ、そっちの座席の人を見ろ。ちゃんとしているじゃないか」
喜屋武が顎をしゃくったほうに目を向ける。通路を挟んで、白人の初老の夫婦がいた。妻のほうはフォークの背を使い、持ちかえることもない。夫はすでに食事を終え、フォークとナイフを揃えて縦に置いていた。
妻が夫にささやきかけた。いま何時? 夫が腕時計をしめして答える。十二時十五分
はぁ......。莉子は心のなかでつぶやいた。フランス語でなく英語での会話、しかも、Twelve fifteen ではなく A quarter past twelve という言いまわし。夫婦はイギリス人だ。ふたりの国ではあのテーブルマナーで正しい。でもフランスでは......。
莉子が黙りこくっていると、ふてくされているように喜屋武は受け取ったらしい。喜屋武はいった。「納得がいかないか? じゃあ、先生がちゃんときいてやる。しっかり学んでおけよ」
喜屋武は身を乗りだし、通路を通りかかったキャビンアテンダントに、ぎこちない英語で話しかけた。「エ......エクスキューズ・ミー。クッジュー・ティーチ・ハー・テーブル・マナーズ?」
フランス人のキャビンアテンダントはにっこりと笑い、莉子の空いた皿をそのままさげた。それから喜屋武の皿に手を伸ばし、縦に置かれたフォークとナイフを右方向に寝かせてから、皿ごと持ち去った。
歩き去るキャビンアテンダントを、喜屋武が呆然とした顔で見送る。
莉子は思わず噴きだしそうになったが、なんとか笑いをこらえて。すました表情を保った。
喜屋武は咳ばらいをしてから、座席を後方に倒した。「まだフライトは九時間以上もある。寝ておけよ。それと、向こうに着いたら楚辺瑛翔のアパートに世話になるから」
ふいに気圧が変化し、音が籠もったように聴こえる。唾を飲みこんで耳抜きしながら、莉子はきいた。「楚辺君って、あの......。うちのクラスの......?」
「そうだ。調理師免許をとるために頑張ってた彼だ。卒業してすぐ、修業のためにひとりでパリに渡った。以後、ずっと向こうで暮らしてる」
「知りませんでした......」
「たしか凜田は、楚辺と仲良かったよな?」
また顔がほてってくる。莉子はいった。「昔の話ですよ。別につきあってたわけじゃないし。けど、楚辺君のアパートにあがりこむんですか? 迷惑じゃないですか」
「楚辺にメールで相談したら、彼のほうから部屋に泊まればいいといってきたんだ。それとも、ほかに安くてよさそうな宿があったか?」
「いちおうモンマルトルのプチホテルを見つけてたんですけど」
「モンマルトル! 凜田。漫画ばかり読んでないで『地球の歩き方』に目を通せ。あそこはパリでも最もいかがわしい界隈だぞ。東京でいえば新宿の歌舞伎町だ」
「先生、行ったことあるんですか。歌舞伎町」
「いや......。あくまでイメージだが、実際、モンマルトルは夜の治安も悪いようだ。そんなところに泊まらせるわけにはいかん」
「ムーラン・ルージュのショーを観たかったんですけど。劇場はモンマルトルにあるし」
「なんだって。おい。ムーラン・ルージュ? 凜田。あれはな、キャバレーだぞ」
「キャバレーでも、お洒落なところだし女性の観光客もたくさん......」
「駄目だ。たとえ成人していても、おまえはまだ若い、というか幼い。教員として、一緒にキャバレーに行くわけにはいかん」
「先生が嫌なら、わたしひとりで行きます」
「許可できるわけないだろ。おまえは世間を知らん。伊豆をテーマにした作文を書く課題でも『秘宝館に行きたい』なんて記してただろ。凜田。秘宝館ってのはな......」
「いまじゃよくわかってます。行きたいとも思いません。でもムーランルージュは......」
「キャバレーさぁ。行ってはいけない」
頑固なまでに譲らない。莉子はむっとして、毛布を広げると頭からかぶり、シートの背を倒した。
毛布ごしに喜屋武の小言がきこえる。凜田、寝るならテーブルは片づけろ。
知らない。莉子はつぶやいた。高校の担任が同伴者、宿泊先は元クラスメートの部屋。行きの飛行機のなかで不貞寝。先が思いやられる。
到着
サマータイムのこの季節、東京とパリは七時間の時差がある。現地時間の午後四時すぎ、凜田莉子はシャルル・ドーゴール空港に降り立った。
旅行ガイドブックには、やたらと巨大で複雑な空港と書いてあったので不安だったが、人の流れに沿って歩けば、自然に入国審査から到着ゲートへと掃きだされた。看板がフランス語なのを除けば、成田と変わらない印象だった。
到着ロビーの人ごみのなかに、Tシャツにデニム、スニーカー姿のほっそりと痩せた若い男がいた。身につけている物はいずれもユニクロ製だが、バランスよくまとめている。女の子と見まがうような小顔で、細面ではあるが、かつて長く伸ばしていた髪は短くなっていて、妙に清潔な印象を漂わせている。背丈は日本人男性としてごく普通。顔つきは、切れ長の目に高い鼻、小さな下あごと昔のままだ。少しばかり肌の色が白くなった気がする。
いきなり視線が合ってしまったので、莉子は戸惑いを覚えた。おじぎなのか、それともただ単に下を向いただけなのか、自分でもよくわからない動作で応じた。
喜屋武は教え子との再会の喜びをすなおに態度に表していた。「よう、楚辺! 立派になったなぁ。いい男になったさー。どうだ、元気にやってるか?」
「はい......まあね」楚辺は微笑した。控え目な笑顔。もともとおとなしい性格だったが、いまでは社会人としての礼儀が備わって、いっそう大人びて見える。
妙に暑い。顔が真っ赤になっているのではないかと思うと気が気でなくなる。すぐさまこの場から立ち去りたい衝動に駆られるが、そうもいかなかった。
莉子の心情とは裏腹に、喜屋武は平然と告げてきた。「楚辺。凜田とは卒業以来だな?」
わずかな間をおいて、楚辺が穏やかにいった。「ひさしぶり」
「こ......」莉子はささやいた。「こんにちは」
「荷物持とうか?」
「いえ。自分で持ってくから」
楚辺は喜屋武に向き直った。「じゃあ先生のぶんを運びます」
「そうか? 悪いな。ええと、バス停はどっちだ?」
「クルマで迎えにきてるんですよ。こちらへどうぞ」と楚辺は喜屋武のトランクを転がして、奥のガラス戸に向けて歩きだした。
「運転するのか。だいじょうぶか? 左ハンドルだろ?」
「平気ですよ」楚辺は莉子に目配せしてきた。「ね?」
思わずどきりとする。莉子はあいまいに返事した。「え......ええ」
彼の運転に乗せてもらったことがある。いや、正確にいえば、あれは人生でたったいちどのドライブデートというものだったのだろう。
高三の秋、運転免許をとったという楚辺が莉子を西表島に誘った。浦内川をカヤックで川下りするのにつきあってほしいという話だった。
同学年の友達はみな、就職活動や受験勉強に忙しくて、莉子はひとり暇を持て余していた。楚辺もどこかに調理師の弟子入りをするという話で、早々に進路決めの重圧から解放されていた。莉子は無邪気に喜んで同行した。
彼のクルマはフォルクスワーゲンのビートルで、左ハンドルのマニュアル車だった。一本道の国道がひたすら伸びるだけの西表島に、運転の上手い下手は関係なかった。帰りのフェリーも午後三時半には出航してしまうので、まだ陽が高いところにあるうちに島を後にした。それだけだった。
ところが翌日、その出来事を友達に告げると、誰もがひやかしてきた。それってデートさぁ。何もなかったの? うそー。ほんとは泊まってきたんじゃないの?
莉子は純粋にカヤックを楽しんだだけだったが、周りは、楚辺が莉子に好意を持っているに違いないという意見で一致していた。
それから楚辺を意識せざるをえなくなった莉子は、かえって彼に対しよそよそしい態度をとらざるをえず、言葉も交わしにくくなり、そのまま卒業のときを迎えてしまった。
十八にもなってウブもいいとこ、と友達はみな笑った、いまでも思いだすたびに冷や汗がでる。照れくさいような気恥ずかしいような妙な気分になる。よりによって初めてのパリで、その彼と再会するなんて。
空港の外は真昼のような明るさだった。ロータリーには無造作かつすし詰め状態にクルマが駐車している。横付けするとスペースをとるせいか、どのクルマも歩道に対し垂直に鼻先を突っこんでいた。
コンパクトカーばかりの駐車車両のなか、西表島で見たビートル同様に丸みを帯びた、ひどくレトロな車体に楚辺は近づいていった。シトロエン2CV。一九四八年に誕生して以来、デザインがほとんど変わらなかった大衆車だった。
楚辺は車体後部のトランクを開け、喜屋武の荷物をおさめると、莉子の荷物については助手席に載せた、それからドアを開ける。喜屋武が後部座席に乗りこみ、莉子もその後につづいた。
ほどなく、クルマは発進した。走行音はやかましく、振動も激しいが、加速は申しぶんないようだ。すぐさま空港の敷地を抜けだし、高速道路の流れに加わった。
騒音のせいで言葉を交わす気にならないためか、誰も口をきかなかった。窓の外の風景もさほど外国を感じさせない。日本と変わらないイケアの看板を見ると、千葉の船橋にでもいるような錯覚に襲われる。
しかし、やがて高速を降りてパリの市街地に入ると、さすがに様相は一変した。エンジン音やロードノイズも小さくなって、楚辺の声が普通に耳に届く。運転しながら楚辺がいった。「ほら。向こうに見えるのがセーヌ川だよ」
莉子は呆然としながらその風景を眺めた。どこもかしこも絵葉書から抜けだしてきたような景色。百年以上は経っているであろう街並みは、派手でありながら気品に満ちていた。
石造りの建物は細部に彫刻がなされていて、上げ下げ式の窓を持つバルコニーや三階まで届く街路樹、マロニエの葉とも絶妙にマッチしていた。宮殿にみられるようなゴージャスでこれみよがしなスタイルではなく、もっと落ち着きのある均衡のとれた建築様式だった。なにより、自由な空気が感じられる。馬車道の時代のままの石畳、歩道に張りだすカフェテラス、色彩艶やかな店舗の前をさまざまなファッションの男女が行き交う。
どこに目を向けても洒落ていて、小可愛く、心を奪われる。看板一枚すら遊び心に満ちている。まさに芸術の都パリ。莉子はすっかり魅了されていた。
オペラ座の壮麗で豪華絢爛な外観が見えてくると、車道は激しく混みだした。どのクルマも車間距離を異常なほどに詰め、割りこみは当たり前、クラクションもひっきりなしに響いている。
渋滞に慣れていない離島の人間には拷問に等しい。喜屋武も危険を感じだしたのか、うわずった声で楚辺にいった。「急がなくていいさー。時間はたっぷりある」
楚辺は笑った。「僕はそのつもりでも、後ろがせっついてくるんですよ。心配いりません。これが普通ですから」
「路上駐車もずいぶん多いな。あんなに前後を詰めて......。でられるのか?」
「ゆっくりバンパーで押して、前のクルマをどけながら抜けだすんですよ。高そうなクルマが相手の場合は、傷をつけちゃまずいんでタオルを挟みます」
「本当か。そこまでして違法駐車しなくても......」
「こっちじゃクルマ買うのに車庫証明いらないんで、みんな車道に停めるんです」
「ふうん......。おっと、あれは花屋か? いや違うか。雑貨店みたいだ」
「花屋? シャンゼリゼ通りにはたくさん見かけますけど、こっちのほうではもっぱらスーパーマーケットですね。何本かずつセット売りですけど、割安ですよ」
「やっぱりこの国でも、安い物のほうが好まれてるのか」
「ええ。僕が来たころには通貨はすっかりユーロに切り替わってましたけど、それ以前のフランスフランの時代から暮らしている人たちは、みんな不景気になったっていってます。物価がやたら高くて、給料は据え置きだもんだから、不満が募ってますよ。日本なら二千円ぐらいで上等なランチのコースが食べられるでしょう? こっちじゃ倍以上がかります」
「最近じゃギリシャもユーロの足を引っ張ってるからなぁ」
「そうなんです。あちこちストライキが起きたりしてますから、観光に行く場合は注意したほうがいいですよ。ヴェルサイユ宮殿なんかも突然休業したりしますから。あ、凜田。左を見てみなよ。サッポロラーメンってカタカナの看板があるだろ」
「ええ......」
「レストランがどこかわからなくても、あそこで食事をとれば問題ないよ。日本語通じるし」
莉子は押し黙った。楚辺も喜屋武やほかのクラスメート同様、わたしの高校時代の成績を知っている。いまもそのころと同じように接する必要があると考えているのだろう。
やがて道を折れると、左手に中世の城館そのものといった感じの外壁が、延々と伸びていた。
楚辺が指さした。「これがルーヴル美術館。ずーっと向こうまでつづいている」
ルーブル......。莉子は思わず身を乗りだした。美術書でしか見たことのない、憧れの名画や彫刻の数々を所蔵する聖地。
「で」楚辺は反対側に顎をしゃくった。「それが、僕の働いている店」
そこには、さっき目にしたオペラ座に勝るとも劣らない、古風にしてゴージャスなエントランスがあった。規模は一軒のレストランといった感じだが、風格に満ち、優美さに溢れていた。まだ営業時間前のようだが、店の前に足をとめる人も少なくない。
喜屋武は看板に記された店名を、ぎこちなく読みあげた。「ベランジェール......か」
楚辺がうなずいた。「フォアグラの専門店で、いちおう老舗の名店ってことになってますけど」
「すごいじゃないか」
「まだ見習いですけどね。店の近くにアパートを安く借りられるってのが、最大の利点ですよ。ルーブルにも歩いていける距離です。ほら。このすぐ先です」
そういって楚辺はステアリングを切り、交差点から一本裏手の路地に入った。
連なる路上駐車のなかに、わずかに空いたスペースがある。車体の長さや幅とほぼ同等にみえる空間に対し、楚辺は何度か切り返し、みごとに縦列駐車を果たした。
莉子はドアを開けて車外にでた。道は狭いが、ここも石畳になっていて、両側に古い建物がある。五階建て、アールヌーヴォー様式のレトロなビルの入り口。大きな観音開きの木製の扉の前で、楚辺がテンキーに暗証番号を打ちこむ。セキュリティだけは刷新されているらしい。
エレベーターはなく、重い旅行用トランクを引っ張りあげながら、らせん状の階段をひたすら上る。何度か楚辺が手を貸してくれた。ありがとう、と莉子はつぶやいたとき、すぐ近くで楚辺の顔が微笑とともに告げてきた。どういたしまして。
自然にふたりの距離は縮まりつつある。そう感じた。
「二階だよ」と楚辺はいったが、すなわち日本でいう三階だった。やっとのことで階段を上りきると、楚辺が廊下の突き当たりの扉を開けた。
室内は、建物の外観とはうってかわってモダンな内装だった。アメリカンで機能的な家具類、原色を多用した壁紙に、またしてもここがどの国か判然としなくなる。
キッチンとリビングのほか、ドアは三つあった。それぞれ八畳ほどの広さをもつ部屋につながっていて、べッドや机、本棚が揃っている。窓の外には、美しいパリの街並みが広がっていた。
へえ......。莉子は感心した。ひとり一室、シェアハウスとしては充分なつくりだ。
喜屋武も同様らしかった。弾んだ声がきこえてくる。「いい部屋じゃないか」
楚辺の声が応じる。「ルームメイトふたりと同居してたんだけど、でていっちゃったんですよ。新しく見習いが入るまでは、ここは僕ひとりなんです。さて、そろそろ仕事にでかけないと」
莉子はリビングに戻った。楚辺は本棚からクリップボードを引き抜き、挟んであった書類のページを繰って眺めた。
店の従業員の連絡先と、シフト表が一緒になったものらしい。楚辺は顔をあげた。「きょうはホール係を手伝う日だ。ちょうどよかった。ディナーを食べにきたら?」
喜屋武が部屋の戸口にたたずんで、困惑ぎみにいった。「無理さぁ。あんな高そうな店......」
「総料理長に頼んで、安くしてもらいますよ。日本から来た恩師と友達だって伝えれば、絶対に歓迎してくれます」
「そうか......? でもどんな恰好をしていけばいい?」
「スーツなら問題ないですよ。じゃ、ひと足さきに店に行きますから。鍵は置いておきます。下の暗証番号は二二三一ですから」楚辺はそういって、玄関の扉に向かいかけた。
「あ」莉子は呼びとめた。「楚辺君」
「なに?」と楚辺は振りかえった。
「ありがとう......。泊めてくれて」
楚辺は目を丸くしたが、すぐに笑ってうなずいた。「ゆっくりしていってね」
まだ充分に感謝の念が伝えきれていない。莉子はそんな思いにさいなまれたが、何をいうべきかもわからない。戸惑っているうちに、楚辺は扉の外にでていってしまった。
思わずため息が漏れる。五年前のことを気にしすぎだろうか。彼はもう充分に大人だ。高三の出来事なんて、すっかり過去の話に思えているのだろう。
悩んでいてもはじまらない。わたしはパリに着いた。思いっきり芸術の都を堪能しよう。
「先生」と莉子は喜屋武を振りかえった。「さっそくですけど、美術館に行きましょう」
「美術館? いま着いたばかりだぞ」
「飛行機のなかでぐっすり寝たじゃないですか。でかけて動きまわらないと、夜寝られませんよ」
「たしかに時差ボケは治しておいたほうがいいが......。もう夕方の五時さぁ」
「ルーヴルは六時までやってるんです。フランスは日も長いし、まだ全然暗くならないし」
「......わかった。ちょっと待て」喜屋武はカバンから『地球の歩き方』を取りだし、莉子に背を向けた。
綴じこみの地図を広げ、しばし見いってから、青い表紙のメモ帳を一冊取りだした。メモ帳から紙片を一枚破りとって、本を下敷きにして走り書きをする。それから小銭入れを開ける。三枚のコインをつまみだした。一ユーロ、五十セント、十セント。それらをメモ用紙に折りこんで、ポケットにおさめる。
ルーヴル美術館は目と鼻の先だというのに、やたらと慎重だ。まるでこれから密林に深く分けいろうとするかのように、入念な準備を欠かさない。
「よし、いこう」喜屋武は歩きだした。「離れるなよ。迷子になったら、動きまわらずに椅子があるところでじっとしていろ。先生のほうから探しに行くからな」
まさに〝引率の先生〟だ。莉子は苦笑しながら、喜屋武につづいて部屋をでた。
国際電話
莉子は初めてパリの市街地を歩いた。驚いたのは、歩行者信号が青になっている時間の異常な短さだった。赤から青に変わった瞬間に歩きだしたというのに、向こう側どころか中央分離帯に達してもいないうちに、点滅もなくあっさりと赤になる。動きだしたクルマにクラクションでせっつかれ、喜屋武ともどもあたふたと走りまわる羽目になった。
パリジェンヌやパリジャンは、赤であってもクルマが来ていなければ平然と信号無視をする。たとえクルマが迫っても気にしない。すでに渡りだした以上、優先権は自分にある。そういいたげな態度で肩で風を切り車道を横断していく。
そんなローカルな交通ルールには閉口したものの、ルーヴル美術館の正面に着いたとたん、もやもやした気分はすっかり晴れて、秀麗なる風景にまたもや圧倒された。
どこまでも広がる宮殿。いまでこそ三十万点の所蔵作品を誇る世界最大の美術館として知られているが、かつては外敵からパリを守る城塞だった。国王が代わるたび、増改築が繰り返され、しだいに豪華な国王の居城となっていったという。
三世紀におよぶ建設、そのあいだの建築様式の移り変わりをあるがままに反映した、美しく巨大な城館に三方を囲まれている。中央は広々とした庭園になっていた。大勢の観光客でにぎわうなかに、透明なガラスづくりのピラミッドがある。
喜屋武はピラミッドに向けて歩きながらいった。「あそこから地下におりたところが美術館のエントランスだ。見ろ。あのピラミッドは、いくつもの小さなガラス板から成り立ってる。ガラス板はぜんぶで六百六十六枚だ」
「へえ......」
「建設当時、フランスの大統領だったミッテランが、古代エジプト文化に傾倒しててな。西欧では不吉な数字とされる666を、あえてガラスの枚数に採用したんだ」
「ほんとですか?」
「もちろんさぁ」と喜屋武は足をとめて、カバンをまさぐった。
取りだされたのは、一冊の文庫本だった。『ダ・ヴィンチ・コード』の上巻だった。
喜屋武は笑顔で告げてきた。「空港で買って、機内で読んでた。小説も勉強になるもんだ。凜田も活字の本を読むといい。まずは児童文学から始めてだな......」
『ダ・ヴィンチ・コード』なら、三年も前に読了している。だが、それを口にできる空気ではなくなっていた。
莉子はおずおずといった。「あのう、先生。小説なんだし、書いてあることが本当とは限らないかも」
「いや。たしかにケレンに満ちてるが、ルーヴルについての豆知識は本当だろう。凜田も読書に慣れ親しめば、そのうち書かれていることの真偽か区別できるようになる」
「そうですか......」
「写真を撮っていって、生徒たちに話そう。六百六十六枚のガラスのピラミッドをこの目で見てきたってな」
「え!? 生徒に......ですか」
「朝礼のときに話すネタも尽きてきてるからな。生徒たちが美術や歴史に関心を持つきっかけになればいい」喜屋武はまた歩きだした。「さて、どこに入り口があるのかな......」
莉子は立ちつくしたまま、遠ざかる喜屋武の背を眺めていた。
教師としての心掛けは立派そのものだ。けれども、全校生徒の前でスピーチするとなると、おおいに問題がある。喜屋武のいったことは事実に反しているからだ。
とはいえ、わたしの保護者としてパリに飛んできた喜屋武先生のプライドを、傷つけたくはない。
ふと思いついたアイディアがあった。そうだ、あの会社は、木曜と金曜はみな遅くまで居残っているときいた。いま日本は深夜だが、なんとかなるかもしれない。
莉子は携帯電話を取りだした。〇〇八一をプッシュしてから、市外局番の最初の〇を外して、馴染みの番号にかける。
呼び出し音の後、莉子にとって親しみ深い声が応じる。「『週刊角川』編集部、小笠原です」
「小笠原さん。夜分遅くすみません。凜田ですけど」
「あ、凜田さん! どうしたの? いまはもうパリにいるはずじゃ......」
「そう。ルーブルの前にいるの。ちょっとお願いごとがあるんだけど......。会社としてきいてもらえる可能性はあるかな? 無理ならいいんだけど」
「うちの会社で凜田莉子さんからの頼みを無視できる人間はいないよ。どんなこと?」
莉子は単刀直入に用件を話した。小笠原は、いますぐ上司に伝えて手配するといって、電話は切れた。
「おい」喜屋武が人ごみのなかで手招きした。「凜田。離れるなといったじゃないか」
足ばやに駆けていき、莉子はいった。「ごめんなさい。ちょっと用があったので」
「用? いったい......」そのとき、ふいに着メロが鳴った。
喜屋武は眉をひそめて、カバンから自分の携帯電話を取りだした。その液晶表示を見つめて、いっそう難しい顔になる。
「どうかしましたか?」と莉子はきいた。
「うーん」と喜屋武は唸った。「日本からの電話だ。馴染みのない番号だな、誰だろう? 頭に〇を加えて、市外局番は〇三......。東京からみたいだ」
莉子は液晶画面を覗きこんだ。「あー。これはひょっとして......。先生、さっきの文庫本。最後のページを開いてください」
「最後?」喜屋武は『ダ・ヴィンチ・コード』を開いた。奥付のページが現れる。
そこに小さく記された電話番号を、莉子は指差した。「これじゃないですか?」
喜屋武は驚愕のいろを浮かべた。「まじかよ? 角川書店から電話さぁ」
「でたほうがよくないですか」
「......そうだな」喜屋武は通話ボタンを押して応じた。「はい。あのう、喜屋武といいますが。......ええと、角川書店の井上さん? 失礼ですが、どのようなお方で......」
莉子は咳ばらいをして、ふたたび奥付を指し示した。電話番号の隣り、発行者・井上伸一郎とある。
「い」喜屋武は目を瞠っていた。「井上伸一郎さん? しゃ、社長さんですか? は、初めまして。どうも......」
......はい。......はあ、なるほど。そうなんですか......。喜屋武は神妙な面持ちで相槌を打っていたが、やがて何度か頭をさげながら告げた。どうも、わざわざありがとうございます。それでは。
喜屋武は狐につままれたような顔で、携帯電話をカバンに戻した。「角川書店の社長さんだったよ......」
「へえ。なんて?」
「『ダ・ヴィンチ・コード』は面白い小説だけど、あくまでフィクションだから、事実でないことも混じってるって。ピラミッドのガラスも六百六十六枚じゃないってさ」
「ふうん」莉子はあっけらかんと笑ってみせた。「そうなんだー。勉強になりましたね」
「ああ。でもなんで......」
「さ」莉子は喜屋武の後ろにまわり、背中を押した。「早くチケットを買いましょう。閉館になっちゃいますよ」
「......そうだな、そうしよう」
まだ腑に落ちない顔で、ピラミッドを見あげる喜屋武をうながし、莉子は夢にまで見た世界的な美術品の宝庫へと歩を進めていった。
下ごしらえ
楚辺瑛翔は今夜、ベランジェールのホール係の助手を務める。だが営業時間を迎える前に、やるべきことがあった。楚辺は見習いの立場ながら、食材管理のスタッフの一員に抜擢されているからだ。
厨房や食材室のエリアに、そのまま立ちいることは許されない。店の裏手から入った楚辺は、同僚たちとともに専用のシャワールームで身体を洗い、無菌服に着替えた。
警備員が立つ分厚いガラス製の自動ドアを開けてもらい、なかに入る。その先はエアシャッターになっていて、空気がカーテン状に勢いよく噴きだしている。これによって、エリアには虫一匹、塵ひとつ侵入できない仕組みになっている。
日頃から念入りに清掃がおこなわれている通路は一定の温度に保たれていた。建物自体は古く、店はレトロな内装でも、このエリアだけは数年ごとに改装され常に最新の滅菌設備が導入されている。
行く手に同じ無菌服姿のフランス人がいた。年齢は四十すぎ、この店ではすでにベテランの域にあるイヴォン・ダングルベールは、マスクごしにくぐもった声で告げてきた。「揃ったな。じゃ始めるか」
さらに自動ドアを抜けて、楚辺は同僚たちと冷凍室に入った。
バベット精肉から入荷した百を超えるフォアグラ食材、それらがおさまった四つのプラスチックケースが詰みあげられている。総料理長のシモン・カヴェニャックにより、受け取り直後にシールで封印された。いまもシールはそのままだ。
ダングルベールが頭上を見あげていった。「ビデオ、まわってるな」
スピーカーから管理室の声が響いてくる。「記録してます」
よし。ダングルベールは棚の引き出しを開けた。
錆ひとつない各種刃物は、やはり徹底して無菌状態に保たれている。そのなかからナイフを取りだし、封印のシールを切っていく。
蓋が外された。引き出しから、専用のハサミが取りだされる。楚辺も一本を受け取った。
全員が黙々と作業に入る。銀いろの真空パックをひとつずつハサミで開封し、中身の食材をステンレス製の皿に載せて、ベルトコンベアに置く。皿の数がそれなりに揃うたび、ボタンを押してベルトコンベアを作動させる。食材は隣りの厨房に運ばれる。
豚レバー肉にも似た外観。厨房では常温で解凍、包丁で切られ、一個あたり二十から三十人ぶんのソテーになる。
むろん、厨房の衛生管理も完璧だった。食の安全という面でベランジェールはパリの、いや全フランスの飲食店の手本だった。市長賞を何度も受賞しているのもうなずける。だからこそ著名人が多く訪れ、名店としての誇りをさらに高めている。
単純な作業であっても、手を抜いてはならない。とりわけ、今回のバベット精肉からの入荷分は、楚辺がみずから交渉に遣わされた特別なものだ。万が一にも不良品があったら、すぐに発見し排除せねばならない。そんな心意気で目を光らせていた。
しかし、そこはさすがにヤニク・クストー工場長のバベット精肉。品質にはまったく落ち度がない。この段階までの衛生管理にも問題は見当たらなかった。食材はすべて完全な状態で調理に入る。腐敗や味落ちか懸念されるような製品は一点たりとも存在しない。
ここのフォアグラは絶品だ。莉子もきっと満足してくれるだろう。楚辺は思った。きょう、ホール係でよかった。彼女の喜ぶ顔が早く見たい。
セザンヌ
巨大なルーヴル宮を、たった一時間でまわりきれるはずがない。莉子は、きょうのうちは有名どころの美術品だけ鑑賞しようと心にきめていた。そうすると、用があるのは三つの展示館のうち、セーヌ川寄りにあるドノン翼だけだ。
閉館時間が迫っているせいか、内部は異常な混雑ぶりだった。個人だけでなく団体旅行客も詰めかけている。歴史的建造物の内装を堪能する暇も与えられず、人の波に流されて階段を上へ下へ、名画の連なる長い回廊も立ちどまることなく歩きつづけた。
パンフの館内見取り図を見なくても、道に迷う心配はなかった。『モナ・リザ』と『ミロのヴィーナス』については、そこかしこに看板と矢印があって在り処が指し示されてい
有名な彫像『サモトラケのニケ』がたたずむ階段をのぼって、通路を進み、ようやく〝モナ・リザの間〟に足を踏みいれた。
異様な人だかりがある。フラッシュ禁止だというのに、閃光がひっきりなしに瞬きつづける。デジカメを頭上高く掲げて撮影する人々。スクープを求めて著名人に群がる報道陣を彷彿とさせる。
莉子の目には、その先に何があるのかまったく見えなかった。喜屋武が露払いを買ってでて、人垣に分けいった。莉子は少しずつ名画に近づいていった。
かなりの時間をかけて、じりじりと前進する。ふいに視界が開けた。ようやく最前列に躍りでた。
防弾仕様という触れこみの、分厚いガラスケースにおさまっていたのは、世界でもっとも有名な絵画だった。
モナ・リザ。ジョコンド夫人の肖像画。その謎めいた微笑が目の前にある。
喜屋武が感嘆の声をあげた。「素晴らしいな。これこそダ・ヴィンチの傑作中の傑作だよ」
しかし莉子は、どことなく釈然としない思いを抱きはじめていた。
莉子はつぶやいた。「これって......本物かなぁ?」
「あん?」喜屋武は苦笑を浮かべた。「何いってんだ。はるばるパリまで飛んできてルーヴルに来たのに、自分の体験が信じられないのか?」
いや......。『モナ・リザ』を所蔵する美術館を訪問しているのはたしかだ。けれども、いまこの瞬間、世紀の絵画をまのあたりにしているとは感じられない。胸の奥にまで沁みいってくるような情動がない。名画と呼ばれる物を前にして、自発的に昂ぶるはずの激情のようなものもない。無味乾燥。この空間に感じられるのはそれだけだった。
最前列といえど、じっと絵画を見つめていられる状況にはなかった。ひしめきあう人々の誰もが前にでようと争っている。バーゲンセール、あるいは満員電車のようだ。こちらを見つめる『モナ・リザ』の微笑が、まるで嘲笑のようにすら思えてくる。
やがて、見かねた係員の黒人女性が、最前列に張ってあったテープを外し、群衆から抜けだす道を与えてくれた。莉子は喜屋武とともに、やっとのことで混雑から逃れた。
莉子は思った。やはりおかしい。あれほど厳重に警戒しておきながら、絵画の前の立ち入り禁止区画に人をいれるなんて。
とはいえ、疑ってみたところで始まらない。同行している喜屋武にも悪い。いまは鑑賞のノルマを少しずっても消化せねば。
つづいてギリシャ彫刻のフロアに移り、『ミロのヴィーナス』を見に行ったが、ここも中国人の旅行客でごったがえしていた。莉子は鑑賞しようと近寄ったが、記念撮影に興じる中国人女性の群れに押しのけられてしまった。
喜屋武は唸った。「どこの国でも、カーリーヘアみたいなおばさんパーマの女性がずうずうしいってのは共通してるな」
「んー」莉子は頭をかいた。「もっと早い時間に来ないと駄目なのかな。明朝、また観にこようっと。先生、オルセー美術館に行きましょう」
「なんだって? もうすぐ六時さぁ」
「きょうは木曜だから、十時近くまでやってるの」
「しかし......。楚辺の店にディナーに行くんだろ?」
「レストランの開店は八時ぐらいですよ。こっちは日が長いから」
「そうか。......じゃ、まあ行くか」
喜屋武は歩きだしたが、しきりに腕時計を見つめている。莉子は首を傾げた。なぜ時間を気にするのかしら。
ドノン翼をでて、セーヌ川にかかる橋を渡る。遠くにエッフェル塔が見えていた。河畔の散歩道に腰をおろすパリ市民たち、碇泊するさまざまな船。それ自体が一枚の絵画のようだ。
対岸に渡ってすぐ、ベル・エポックの香り漂う壮麗な建物がある。外壁にふたつ存在する大きな時計盤は、駅舎の様相を呈している。事実、ここはかつてパリの終着駅として建造された。その過剰なまでの優美さから、美術館としての存続が決まったのだった。
なかに入ると、オルセー駅の面影はいうそう色濃く残っていた。プラットホームの谷間を埋め立てた敷地は縦方向に果てしなく長い。アーチ型のガラス張り天井からは自然光が差しこんでいる。いまにも汽笛の音が響き渡りそうだった。
ルーヴルと違い、ここは団体のツアー客があまり訪れないせいか、わりと閑散としていた。絵画の展示もこれみよがしではなく、見やすく目の高さに配列してある。
それでも有名なミレーの『落ち穂拾い』やルノワールの『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』の前には人だかりができていたが、莉子が真っ先に鑑賞したい絵はほかにあった。
駅だったころのホーム沿いに飾られた印象派の絵画を眺めつつ歩を進める。ほどなく、美術の教科書で見覚えのある『カード遊びをする人々』が目に入った。そして、同じ作者の手によるその絵は、すぐ隣りに展示されていた。
莉子は吸いこまれるような錯覚すら覚えた。
リンゴとオレンジ。写真ではわからなかった色彩の艶やかさ。まさしく本物だった。
「ああ」喜屋武がいった。「これか。凜田のお気に入りの絵だな。作者はスザンヌじゃなくて......」
「セザンヌです」
「......もちろん知ってるよ。おまえが昔そういったさー」
莉子は思わず片手をあげて、喜屋武の小言を制した。目は絵画に釘付けだった。
なんて綺麗......。莉子は言葉を失っていた。
静物画であっても、そこには画家の切実かつ複雑な思いがこめられている。遠近法をも無視し、対象のかもしだす印象をこそ優先的にヴィジュアライズする試み。造形の美しさ。構図は考え尽くされていて、赤と橙いろのコントラストも鮮やかだった。
眺めているうちに涙がにじみそうになる。ずっとこの絵の前にたたずんでいたい。莉子は心からそう思った。
喜屋武のほうは、そこまで夢中になれないようだった。しきりに腕時計を気にしながら、喜屋武は咳ばらいをした。「凜田。この絵が好きなのはわかるが、ほかのも見ないと」
「明日以降にします」
しばし沈黙がつづいた。
やがて喜屋武がたまりかねたように告げてきた。「そろそろアパートに戻ろう。レストランは八時からでも、着替えもあるし、余裕をもってでかけないと」
「着替えって......。まだ六時過ぎですよ」
「それはそうだが」喜屋武はじれったそうにいった。「先生、ちょっと用事があるんだ」
「なら、先に帰ってもいいですよ」
「おまえをひとりでおいてはいけん」
「だいじょうぶですって。アパートは川を渡ってすぐじゃないですか」
「......たしかに」喜屋武はなおも気遣うような目を向けてきたが、そわそわした気分が勝ったらしい。カバンから『地球の歩き方』を取りだし、押しつけてきた。「万が一にも迷子になったら、地図を参考にしろ」
この本ならわたしも持っているのに。莉子はいった。「先生。迷うような道じゃないですよ」
「おまえのことだから心配してるんだ。じゃ、先生はいくぞ。充分に気をつけてな。まっすぐ前を見て歩けよ。人に声をかけられてもついていくな」
莉子は苦笑ぎみに応じた。「わかってます」
喜屋武はしばらく莉子を見つめてから、背を向け歩き去っていった。
保護者かぁ......、莉子はため息をついた。いい加減、わたしのことは心配いらないと知らせてあげたい。
ふと、気になることが脳裏をかすめた。『地球の歩き方』の表紙を眺める。
先生がパリで用事って......?
サン=ポール駅
午後七時というのに、パリの空はまだ明るく、赤みがかってさえいない。マレ地区の街角は大勢の人でにぎわっていた。
喜屋武友禅は、メトロの出口にたたずみ、交差点の喧噪を眺めていた。
東京すらあまり行ったことがないが、ここは喩えるなら自由が丘もしくは代官山。パリのなかでもひときわ洒落たスポットに違いない。古風な建物に、原色の看板を掲げた洋品店や雑貨店、カフェにレストランが連なる。駅前には、移動型の小さなメリーゴーランドさえある。行きかう人々も若者が中心だった。
手にした薔薇の花束を、じっと見つめる。
買うのにひと苦労した。スーパーマーケットに入ったはいいが、何もかも勝手が違う、こちらでは、レジに並んだら客が自分で品物を籠から取りだして、台の上に置かねばならない。日本では籠を滑らすための台は、フランスにおいてはベルトコンベアになっていて、置いた商品が自動的にレジ前に移動していく。そのままだと、前後の客と商品が混ざってしまうので、みずから小さなつい立てを置いて区切るのがルールらしい。
レジの店員は椅子に座っていて、ガムを噛んでいた。バーコードを読み取った商品は、やはり籠や袋にはおさめられず、ただ放りだされる。店員は表示された価格を読みあげもしない。こちらが金を払うと、釣り銭を乱雑に投げだす。
フランスでも失業率の高さがしばしば問題になるというが、理由は日本とは別のところにあるのではないか。そう苦言を呈したくなる。
この国に長く住んでいれば、あんなレジの応対も気に障らなくなるのだろうか。喜屋武はため息とともに歩きだした。生活習慣の違い。俺には受けいれられそうにない。
目指す住所は地下鉄出口のすぐ目と鼻の先にあった。サン=タントワーヌ通りに面した三階建ての家。アパートではなく一軒家だった。テラスハウスのように両脇の建物と隙間なく接している。
外観は歴史を感じさせるが、玄関の扉は真新しく、重厚だった。喜屋武は傍らのボタンを押した。呼び鈴が鳴るのがかすかに耳に届く。
不在だったら出直すだけだ。そう心にきめていたが、意外にもあっさりと錠が外れ扉は開いた。喜屋武には理解不能なフランス語のつぶやきを発しながら、日本人女性の顔が覘いた。
変わっていない......。二十代の終わりにさしかかっても、彼女は昔のままだった。あいかわらず痩せている。肌艶もよくて健康そうだ。
ナチュラル感漂うワンピースを着て、髪を長く伸ばした仲野瑠南は、目を大きく見開いていた。信じられないというように、瑠南はささやきを漏らした。「喜屋武さん......」
「瑠南」喜屋武は緊張しながらいった。「ええと、そのう。ひさしぶりだね」
「ええ......」瑠南は戸惑いがちに応じた。「喜屋武さん。パリに来てたの? メールじゃ何も......」
「ま、そうだな。突然現れてすまない。驚かせちゃったかな」
花束をどうしようか悩む。いきなり差しだすのも気がひけるし、かといって後ろ手にまわして隠すのもきざっぽい。
結局、瑠南の目に入るあたりに花束を浮かせて持った。
瑠南はちらとそれを見て、困惑のいろを浮かべた。
その反応は、喜屋武の期待したものとは違っていた。
沈黙だけがあった。時とともに、気まずさが漂いはじめる。ふたりの視線が交錯しあった。
しばらくして、奥から駆けだしてくる幼女の姿があった。「ママ」
すると、瑠南は幼女を振りかえり、抱きとめながらフランス語でなにか告げた。幼女は喜屋武を見あげてから、背を向けて走り去っていった。
言葉は判らなくても、瑠南と幼女の関係は見ればわかる。顔もよく似ていた。そして、半分は白人の血が混じっているようだった。
折り合いが悪く、落ち着かないと感じられた空気。その理由ははっきりした。よそよそしい状況をつくりだしたのは、ほかならぬ自分だ。喜屋武はそう感じた。
「......父親は彼?」と喜屋武はきいた。
瑠南は当惑を深めたようすだったが、無理に取り繕ったような笑みとともに告げてきた。
「ええ、そうよ。ティボーよ」
名前だけはきいていた。ティボー・シャントルイユ。ソルボンヌ大学卒業。三十半ばにして、フランスの大手の文房具卸し会社、マルグリットの重役を務める。こちらでは、人生は早い段階で決まると瑠南はいっていた。エリートの生まれか、それ以外か。彼はエリートだった。
喜屋武と共通しているのは、年齢だけだった。ほかは、すべてが異なっている。国籍、習慣、生活。なにひとつ馴染みがない。
その喜屋武と無縁の世界に、瑠南は魅せられ、染まっていた。
初めからわかっていたことだ。彼女は永住をきめていた。ゆえに、わかりきっていたことだった。それでも気持ちをたしかめたくて、ここまで来た。直接会って話したかった。
戸惑いながらも、喜屋武は告げた。「あのな、瑠南。俺は......」
「あなたは」瑠南は、ぎこちないながらも微笑した。「立派な先生。教育者として、あなたほど素敵な人はほかにいなかったわ。わたしにとっては、十代の最良の思い出」
「思い出、か......。はっきりといってくれるね。お国柄かな」
「結婚して何年も経つから......。こっちじゃ自己主張しないと受けいれられないの」
シャントルイユという青年とつきあっていることは、以前から知っていた。彼女はメールに、何度もその名を記していた。しかし、結婚したことは知らせてくれなかった。
なぜ教えなかったか。それをきくのは野暮だった。彼女なりの心くばりだったのだろう。俺の理想と彼女の現実。かけ離れていると知ればこそ、瑠南は何もいいだせなかったのだろう。
二十代、教員になって初めての年、まだ十代だった彼女と仲を深めた。教え子ではなかったが、彼女は高校生だった。実直を絵に描いたような、プラトニックなつきあいだった。交際は半年ほど。その後はメールでのやりとりだけだった。瑠南がパリに渡ってからも、音信不通にはならなかった。いまにして思えば、返信は彼女のやさしさの表れだったのだろう。俺は甘えていたにすぎない。そんな彼女の情け深さに。
気づけば、もう十年が過ぎていた。俺も彼女も、それだけ歳をとった。
これ以上、交わすべき言葉もなかった。喜屋武は、花束を差しだした。困惑しているようすの瑠南に、喜屋武はいった。「旦那さんとの食卓にでも飾ってくれ」
瑠南は小さくため息をつき、花束を受け取った。「ありがとう......。喜屋武さん。それに......」
「何?」
「ごめんなさい......」
「謝るなよ」喜屋武は笑ってみせた。「娘さんの名前は?」
「フランソワーズ」
「そう。フランソワーズにもよろしく。ティボーさんにもね。幸せを祈ってるよ」
沈黙がかえってきた。喜屋武にとっては、最良の返事に思えた。踵をかえし、玄関を離れた。
しばらく、振り向きもせずに歩いた。地下鉄の入り口にまで達したとき、ようやく立ちどまり、瑠南の家に目を向けた。
すでに玄関は閉まっていた。彼女の姿は、家のなかに消えていた。
......これでいい。ひと区切りだ。また新たな日々を歩んでいける。潔く過去と決別しよう。
地下への階段を下りかけたそのとき、呼びとめる女の声がした。「喜屋武先生」
喜屋武はびくっとして、顔をあげた。
凜田莉子が、地下鉄の看板に寄りかかるように立っていた。
「り」喜屋武は驚きとともに、震える声を発した。「凜田......? どうしてここに?」
莉子は穏やかな笑みを浮かべていた。「先生、恋人と再会したくてパリに来たんですね。それならそうと、いってくれたらいいのに」
喜屋武は絶句せざるをえなかった。なんとか声を絞りだしてたずねる。「見てたのか? なにもかも」
「はい」と莉子はうなずいた。
思わず額を手で打った。なんて体裁が悪い。いや、すべては自分の責任だ。
パリに飛んで瑠南に会うことは、いつでもできた。なのに、俺はそこまで瑠南に執着しているわけではないと自分を欺いてきた。ほかに渡仏する重要な案件でもあれば、ついでに瑠南に会うのも悪くない。常々そんなふうに、みずからの心に弁明してきた。
莉子にとっては心外だろう。けれども、俺は決して元教え子の彼女をダシにしたわけではない。
「凜田......。あのな、こんなことをいっても信じてもらえないかもしれないが......。たしかに俺は、いまさっき女性と会った。でもな、それが第一の目的じゃないんだ。凜田の身が心配で、同行したいと思ったのは本当だ。いまでも、おまえの保護者がわりを務めることが自分の使命だと肝に銘じている。ただし、そのう、行き先がパリだというから、それなら彼女のところにも立ち寄れると思ってだな......」
「よくわかってます」莉子は猜疑心のかけらもない、屈託のない笑顔とともにいった。
「先生はなにより、わたしの身を案じてくださいました。だからこそ、お知らせしておきたかったんです。もう心配してくださらなくてもだいじょうぶだって。先生は、先生のなさりたいことをなさればいいんです。せっかくのパリ旅行なんだし」
喜屋武は驚きと同時に、なんとも形容しがたい複雑な感情を覚えた。
「凜田」喜屋武は冷静にいった。「気づいていなかったが......ずいぶん大人になったな」
莉子の大きな瞳は澄んでいて、理知的ないろを帯びていた。「先生が女の人と会うつもりなのは、察しがついてました。パリに着いてすぐ、楚辺君に花屋の場所をたずねてたし」
「しかし、どうしてここにいると......」
「『地球の歩き方』って、日本の書籍にはめずらしくカバーがなくて、洋書のペーパーバックと同じ厚紙表紙なんです。ハードカバーのようにボール紙が入っているわけじゃないから、下敷きにするとわずかな筆圧でもペンの痕が残ります」
「ああ......」喜屋武はポケッ卜に手を突っこみ、メモ用紙を取りだした。「これのことか。でかける前に走り書きした......」
「はい。表紙に残った痕から St.Paul と読み取れました。直訳すれば聖パウロ。意味するところもさまざまです」
「地下鉄の駅名だとどうしてわかった?」
「先生はそのメモと一緒に、一ユーロ六十セントぶんの硬貨を用意してました。メトロ全線均一の乗車券の値段です。ということは一番線のサン=ポール駅です」
喜屋武は唖然として、かつての問題児の顔を見つめていた。
普遍的な前提から、特殊かつ個別的な結論を得る。莉子の演繹的思考に揺らぎはなかった。あらゆる事実を見落とさない観察力、それらを脳にしまいこむ記憶力も身についている。
通知表の連絡欄を書いた俺にはわかる。高校生のころの莉子には、なにひとつ備わっていなかった。
「変わったな」喜屋武は感慨とともにいった。「知性をのぞかせないように振るまってたが、本当はずいぶん賢くなってる。成田での出来事といい、飛行機のなかといい......。社会人としての信頼も得てる。そうでなきゃ大手出版社の社長さんに頼みごとなんてできないはずだ」
莉子の表情に、わずかに翳がさした。「先生。怒ってますか......?」
「怒るって、凜田が頭のよさを隠してたことをか? まさか。凜田は、先生を気遣ってくれてたんだろ? 保護者として同行すると申しでた先生が、旅行を中止せずに済むよう配慮してくれたんだ。ひょっとして、出発前にわかってたのか? 先生にプライベートな目的があることを......」
「いえ」莉子の顔に笑みが戻った。「そこまでは」
「教え子の成長を喜ばない教師はいないさぁ。凜田。先生はな、本当に嬉しい。嬉しいぞ!」
誉められたときの莉子の反応は、昔よりもずっと大人びていた。控えめな微笑を浮かべて、莉子はいった。「涼しくなってきたし、地下鉄には乗らずにセーヌ川沿いを歩いていきませんか。ディナーには充分に問に合いますし」
「賛成だ。じつは、地下鉄でここに来るのも至難のわざだったさー。『地球の歩き方』あるか? 地図で道を確認しなきゃな」
「心配いりませんよ。あっちへ行けばフラン・ブルジョワ通り、そっちはリヴォリ通り。セーヌ川へは、この脇道を抜けていくんです」
「......来たことあるのか?」
「初めてです。でも『地球の歩き方』に書いてあることは頭に入ってますから」莉子は歩きだしてから、振りかえった。「先生。早く」
「あ......ああ」
青天の霹靂とは、まさにこのことだ。いや、それとは逆の珍事かもしれない。雷雨をともなう厚い雲が、ふいに振りはらわれて快晴になった、闇に覆われていた過去から一転、眩いばかりの光に包まれた。凜田莉子。まぎれもなく、最も大化けした生徒だった。
サミュ
楚辺瑛翔は、いまだに慣れないタキシードに蝶ネクタイという姿で、宮廷のようなレストランの一角にたたずんでいた。
すでに店内のテーブルは埋まりつつある。上流階級の紳士淑女がワインを酌みかわし、絶品のフォアグラに舌つづみを打っていた。ピアノの生演奏が流れる。リチャード・クレイダーマンの『午後の旅立ち』の美しい旋律。先輩のウェイターたちが忙しくテーブルをかけずりまわって、注文を受けている。いつもどおりの盛況ぶりだった。
まだ見習いにすぎない楚辺は、テーブルに近づくことはできない。役割はウェイターから厨房への連絡係だ。
どうしても気になって、入り口付近の空席に目を向ける。無人のテーブルはもう、残すところわずかしかない。
莉子と喜屋武先生、遅いな。楚辺は心のなかでつぶやいた。先輩に頼んで、特別に格安価格でフォアグラを提供できるよう取り計らったが、それは埋まっていないテーブルが存在するという条件下においてだ。満席になったのでは、友達に便宜を図ることは許されない。
アパートに電話をかけてみるか。いや、もう外にでている可能性もあるし......。
「楚辺」ぼんやりと男の声が耳に入った。「おい、楚辺!」
はっとして、呼びかけた男に目を向ける。ウェイターがグラスを一杯に載せた盆を掲げながら、眉間に皺を寄せていった。「なにをぼうっとしている。パルム・ドールを二人前だ。それからソムリエを呼んでこい。大至急だぞ」
「わかりました。ただちに」楚辺はあわてて踵をかえし。厨房に向かおうとした。
そのとき、ふいにけたたましい音が響きわたった。何かを床に叩きつけたような騒音。楚辺は驚いて振りかえった。
店内に、ざわっとした空気がひろがった。誰もが固唾を呑んで、店の中央付近のテーブルを見つめている。ただならぬ静寂。ピアノの演奏もやんだ。
ひとりの初老の男性が、椅子ごと後方に倒れ、仰向けに転がっている。脚はまだ椅子にかかったままだ。
宙に突きだされた両手は指先まで痙攣し震えていた。全身が断続的にひきつる、白目を剥き、口から泡を噴いていた。
テーブルに同席していた婦人が、悲鳴とともに立ちあがる。
ウェイターが何人か足ばやに近づき、かがみこんで男性のようすを見る。ひとりが顔をあげていった。「救急車を......」
その瞬間、少し離れたテーブルの若い男性が、いきなり立ちあがった。食器が床に投げ落とされて砕け散る。男性の顔は真っ青だった。嘔吐をこらえるように口もとを押さえている。それから一気に駆けだし、ロビーに消えていった。
緊張と不安が高まっていく。誰もが怯えきった顔で視線を交錯させていた。
沈黙はしばらくつづいた。
すると今度は窓ぎわで、ドレスを着た女性客がテーブルに突っ伏した。顔は皿のなかに埋まり、トマトソースにまみれている。それでも女性は、身体を起こすことはなかった。失神しているようだ。同席の家族たちが大慌てで救出にかかる。
悲鳴がたちまち各テーブルに連鎖し、動揺がひろがった。逃げるようにロビーに駆けだす者もいる。店内はもはやパニック状態だった。
「SAMUを呼べ!」ウェイターが怒鳴っていた。「誰か一五に電話してくれ。医者つきの救急車をありったけ寄越すようにいってくれ。誰でもいいから頼む!」
混乱のなか、楚辺は厨房に走りながら唇を噛んだ。
なにが起きたというんだ、ここはベランジェールだ、食の安全が脅かされる可能性は万にひとつもない。そのはずだった。なのに、一体......。
急転
夜八時を過ぎても、やはりまだ外は明るい。リヴォリ通りは賑わっている。パリ市民はいつ家に帰るつもりだろうか。
アパートで黒のナイトドレスに着替えた莉子は、同じくそれなりに余所行き風のスーツに身を包んだ喜屋武とともに、チュイルリー公園沿いの歩道をぶらついていた。
莉子は、喜屋武の胸もとを横目に見て、思わず笑った。
「なにがおかしい」と喜屋武がきいてきた。
「だって、そのネクタイ......。色はまあ悪くないですけど、真ん中に大きくモナ・リザの顔が......」
「ああ、これが。高級レストランでディナーなんて考えてもいなかったから、ましなネクタイの持ち合わせがなくてな。さっき、そのへんにある店で買った。土産物だからしょうがないさー。パリの人にはおかしく見えるのかな?」
「石垣でシーサーのTシャツを着るのと同じでしょう」
フォアグラもフランスの名物だよな? つまりは石垣で豚の角煮を食べるのに似てるわけか。シーサーのTシャツ姿で」
「もうちょっと高級だと思いますけど......」
そろそろベランジェールの前だ。莉子は胸が高鳴る思いだった。楚辺君はどんな料理を用意してくれるのかしら。
前方に目を向けたとき、莉子の歩は自然に緩んだ。
喜屋武がつぶやいた。「なんだ......あれ?」
行く手に人だかりがある。リヴォリ通り沿いは、にわかに渋滞しはじめていた。クラクションとともに笛の音がきこえる。警官が路上で交通規制を始めていた。無数の青いランプが明滅しているのが見えた。緊急車両が何台も停車している。
あの辺りは......。莉子は足を速めた。
「おい、凜田。待てよ」喜屋武の声が追いかけてくる。
嫌な予感がする。何時間か前、楚辺はこの道路をクルマで案内してくれた。そして彼の職場も......。
歩道は、大勢の野次馬でごったがえしていた。すでにロープが張りめぐらされている。ベランジェールのエントランス前は立ち入り禁止区画になっていた。
複数の救急車が駆けつけている。救急隊員により、後部ドアが開かれた。同時に店内から、ストレッチャーが運びだされてきた。横たわる患者は、ドレス姿の婦人だった。全身を激しく痙攣させている。
そのさまを見て、野次馬から驚嘆の声があがった。マスコミでもないのにカメラ付き携帯をいっせいに高く掲げ、撮影に入る。フラッシュが辺りに閃いた。救急隊員が患者にシーツを被せる。
さらに続々とストレッチャーが出現した。ふたりつづけて男性だった。服装から見て、ディナー客に相違ない。若いほうはぐったりとしていたが、初老の男性は絶え間なく身体を震わせていた。
ただの食中毒とは思えない。まさしく異常事態だった。
救急車のサイレンがこだまする。車両は動きだしたが、野次馬が邪魔で車道にでられない。警官がロープを外すと、人々が店の前に押し寄せる始末だった。たちまち阻もうとする警官とのあいだでいざこざが生じ、辺りは大混乱になった。
喜屋武のつぶやきか耳に届いた。「俺のネクタイに注目する人間は皆無のようだな」
「ええ」莉子も小声で応じた。「それどころじゃないみたい......」
パリ市警
その夜、楚辺はアパートに帰ってはこなかった。電話があったのは翌朝だった。それも楚辺本人ではなく、矢崎と名乗る人物だった。
矢崎は妙に落ち着き払った声で告げてきた。従業員全員のご家族に迎えにきてもらっています。恐縮ですがパリ市警本部までおいで願えませんか。楚辺君は独り暮らしということで、身寄りがいないようなので。
朝九時すぎ、莉子は事情もよくわからないまま、喜屋武とともに徒歩でセーヌ川沿いをシテ島に向かった。
シテ島は川の中州であり、パリ文化発祥の地とされる。いまとなってはパリで最も古い〝新橋〟を渡ると、あのノートルダム大聖堂を中心にした官庁街が広がる。いずれも歴史的な建造物をそのまま活用していた。マリー・アントワネッ卜が幽閉されていたというコンシェルジュリーもここにある。そして、二百年の伝統を持つパリ市警本部も。
新古典主義建築の優美な庁舎のなかは、大勢の市民で混乱状態だった。従業員の家族たちが、警官に対し食ってかかっている。真面目に働いていただけなのに、どうして拘束されねばならないのか。誰もが血相を変えて抗議している。
教会のように天井の高い受付ロビーには、朝の陽射しが窓から差しこんで明暗の落差をつくりだしていた。光に照らされた埃の舞う空間に浮かぶ警官らの顔は、いずれも険しかった。
莉子がカウンターの前に着くと、制服姿の女性警察官が事務机から立ちあがってこちらにきた。
喜屋武は緊張の面持ちでつぶやいた。「何ていえばいいんだ?」
「さあ」と莉子もささやきかえした。「わたしにきかれても......」
するとそのとき、女性警察官の肩越しに、ひとりの痩せた男が近づいてきた。「私が応対しましょう」
黒髪を短く刈りこんだ、長身のアジア人だった。年齢は二十代半ばぐらいの青年。スーツはオーダーメイド、市警の給料で買えそうなものではない。
ハーフフレームの眼鏡をかけたその男は、真顔のまま低い声の日本語で告げてきた。
「おはようございます。駐仏日本大使館、領事官補の矢崎凱哉と申します」
「ああ」喜屋武はほっとしたような顔になった。「外交官のかたですか」
矢崎はにこりともしなかった。「語学研修に派遣されただけの若造です。いちおう領事部の配属ということになってますので、この件につき市警に出向させられました。こちらへどうぞ」
歩きだした矢崎の後につづく。アーチ型の戸口をくぐって廊下へ、そしてその先の大広間にでた。
そこは礼拝堂のような微細な彫刻に彩られたホールで、大勢の人々がうごめいていた。あたかも野戦病院のような様相を呈している。防護服に全身を包む者たちが、ビニールで臨時にこしらえた隔離部屋を管理し、レストランの制服姿の職員たちを出入りさせている。なかでは検診がおこなわれているようだ。白衣姿の医師や看護師も忙しく右往左往している。ベッドも複数置かれ、上着を脱いだ職員たちが疲れた顔で座っている。
従業員たちは着替えの自由さえ与えられなかったのか、ほとんどが職場の服装のままだった。コックコートにソムリエエプロンを身につけた中年男が、防護服のひとりに早口でまくしたてている。
喜屋武がきいた。「あの人は?」
矢崎が応じる。「総料理長のシモン・カヴェニャックです。保健局の人間に文句をいっても通らないと思いますが」
「へえ。誰なら苦情をききいれてくれるんです?」
すると矢崎の視線が、広間の片隅に向けられた。
そこにいたのは、すらりとした身体をスーツに包んだ女性だった。長い金髪を後ろでまとめ、化粧も薄めにしている。つんとすまして見える高い鼻に、冷やかな目つき。年齢は三十代半ばから後半ぐらい。周りの制服警官に対する態度から察するに、その上司にあたる私服警官らしかった。
「彼女です」と矢崎がいった。「パリ市警のジュリエンヌ・バゼーヌ警部。事件性の有無を含め、事態の調査の指揮をとってます。ま、事件であることは明白ですけどね」
莉子は矢崎にたずねた。「何が起きたんですか?」
「昨晩からテレビのニュースで報じられているとおりです。十一人が失神、七人が嘔吐、ふたりが幻覚症状を訴えました。店で発症した人もいれば、帰宅後に救急車を呼んだ人もいます。いずれも命に別状なしですが、念のため病院で精密検査をおこなっています」
「食中毒とか......?」
「いえ。原因は不明です。全員が昨晩、ベランジェールで食事をとり、入荷したばかりのフォアグラを食べたことが共通項です。政府はただちに保健局を動かして店舗を閉鎖。料理、食器、食材、調理器具などを押収。従業員は全員、警察に連行のうえ検診と取り調べをおこなってます。ご覧の通りですが」
「それで、楚辺君はどこに?」
「いまご案内します。そっちの問題のなかった従業員の群れのなかにいるはずで......。どこだったかな。楚辺君。おい」
そこは、あたかも敗残兵が集うような一画だった。誰もが床に腰をおろし、ひとことも発せず、膝を抱えてうずくまっている。全員で二十人ぐらい、ほとんどが店内で下働きを仰せつかっていたとおぼしき若者ばかりだった。
矢崎が繰りかえし呼びかけた。楚辺君。いるか。
ひとりの青年の顔が、ぼんやりとあがった。
たったひと晩を経ただけだというのに、楚辺の顔は見るからにやつれていた。頬がこけ、目の下にくまができている。
不眠不休なら、それも当然だった。まして、身を寄せていた職場に起きた事態の大きさを考えれば、彼の受けた精神的ショックは計り知れないものだろう。
矢崎が告げた。「楚辺君。先生と友達が迎えにきてくださった。帰っていいぞ」
楚辺はうつろな目のまま、ゆっくりと動きだした。ふらつきながら立ちあがる。
その視線が矢崎に向けられた。
「......あのう」楚辺はかすれたような声できいた。「これからどうなるんですか」
「さあな」矢崎は眼鏡の眉間を指で押した。「政府からの信頼も厚かったはずの有名店でこの騒動だ。営業の無期限停止、さらにはレストラン経営の認可も取り消しになる公算が大きいだろうな」
「......衛生面に問題はありませんでした。安全管理も徹底してました」
「きみが関わった仕事についてはそうだろう。きみに責任がないことは立証されている。だから帰宅を許されたんだ」
「フォアグラに......原因はありません。品質のチェックは......いつもどおり完璧で......」
よほど衝撃が大きかったらしい。楚辺のつぶやきは、うわごとのような響きを帯びていた。
喜屋武が楚辺の肩を軽く叩いた。「楚辺。おまえがどれだけ真面目な人間か、俺がいちばんよく知ってる。アパートに帰って休もう。ここにいても仕方がない」
楚辺は震える声で、ささやくようにいった。「店がなくなったら......僕は行く場所がない......」
莉子は鋭い刃で胸もとをえぐられたような気がした。
身につまされるような楚辺の失意。このまま見過ごせるはずがない。
「矢崎さん」莉子はいった。「原因究明までどれくらいかかりますか。スキャンダルが長引けば、お店の信用を回復することが困難に......」
だが、矢崎の態度はあくまで事務的だった。「警察は店のオーナーであるローラン・ビュッセルを呼んで事情をきく方針です。容疑が固まりしだい逮捕となるでしょう」
「逮捕って......」
「守られるべき食の安全が脅かされた。フランス政府にとっては忌々しき問題です」
「衛生面に問題はなかったって、楚辺君もいってるじゃないですか。飲食店では食材管理については、経営者よりも現場の人間のほうがよく知ってるはずで......」
「オーナーと総料理長をはじめ、現場の責任者も含め入念に取り調べがおこなわれます。ええと、凜田莉子さん......でしたね?」
「......はい」
「どんなご職業か知らないが、この国へは観光の目的でおいでになったんでしょう?」
「そうです......」
「ならばフランス国家警察の捜査方針などは、現地当局におまかせいただくべきでしょう。旅行者の指図でどうなるものでもない。違いますか?」
これにはぐうの音もでない。莉子は黙りこむしかなかった。
矢崎は一行をうながすように歩きだした。「せっかくのご旅行ですから、時間を無駄にせずにパリの街並みをお楽しみください。ミュージアム・パスはお持ちですか? 案内所でも買えますが、必要なら差しあげますよ。美術館や凱旋門に並ばず入れます。ヴェルサイユ宮殿にもね。庭園は別料金になりますが」
楚辺は喜屋武に支えられながら、おぼつかない足をひきずり歩を進めていった。
莉子もそれにつづいたが、ふと気になり背後を振りかえった。
まだ大勢の若者たちが居残っている。ぼんやりとした目が、こちらに向けられている。
まるで容疑者扱いだ。家族や親族が迎えにくるまで、みな帰宅を許されない。しかも、朝になってもまだここにいるからには、彼らの身寄りはパリ近郊にはいないのだろう。フランスの地方か、あるいは外国か。
誰もが孤独だった。身を寄せ合う船から荒波に放りだされた。わたしはどうすればいいのだろう。ひとりの観光客にすぎないわたしに、できることはあるのだろうか。
報道
曇り空の下、コンコルド広場からシャンゼリゼ通りに入ったばかりの広い歩道に、莉子はたたずんでいた。
公園のようなその一帯は未舗装で、ときおり風に吹かれ砂ぼこりが舞う。それでも楚辺はベンチに座り、地面に目を落とすばかりだった。
莉子は並木道の彼方に見える凱旋門を眺めた。
クルマの往来はいつもどおりだが、心なしか人通りは少ない。この辺りの飲食店がいっせいに休業しているせいもあるのだろう。パリ名物のオープンカフェは、少なくとも半径十キロ圏内には見られない。保健局、そして警察の指導ということだった。当局によって食材の安全が確認されるまで、営業はできないらしい。
小走りに駆けてくる足音がした。振りかえると、喜屋武が新聞を手に売店から戻ってくるところだった。「買ってきたぞ。英字の新聞なら、なんとか読めるからな。一面トップの扱いだ」
莉子はきいた。「どんなことが報じられてるんですか?」
「待て」喜屋武は立ちどまり、記事をしばし眺めた。「うーん......。状況については警察できいたことばかりだな。ええと、専門家の意見では、鳥インフルエンザの可能性はゼロ......。しかし発症した客の数から考えて、食材として使用されたフォアグラホールのいくつかに、急性中毒を引き起こすなんらかの物質が混入していたと考えられる」
楚辺は伏し目のままつぶやいた。「ありえないよ......。入荷してすぐ総料理長が封印して、次に開けたのは無菌室のなかだ。真空パックに異状がないことも、取りだした中身にわずかな変色すらなかったことも、スタッフ全員の目で確認してる。誰も手を抜いたりはしていない。それらの作業はすべて映像に記録するきまりだったし」
喜屋武がうなずいた。「新聞にも書いてある。無菌エリアの食材管理はビデオに録画されており、問題がなかったとされている。よってこの段階に関わった従業員は、早期に捜査対象から外されるものとみられる......。この朝刊は未明に刷られているからな。事実、楚辺たちは解放されたわけだ」
だが、楚辺は浮かない顔でささやくようにいった。「意味ないですよ。店が営業しないんじゃ、僕は失職したも同然です。家賃も払えない」
「楚辺」喜屋武はいいにくそうに告げた。「現実問題として、ほかのレストランに転職することも視野にいれたほうが......」
「無理です。僕はまだ見習いにすぎません。っていうより、ベランジェールで働いていたと知ったら、どこも雇ってくれませんよ。だいいち、当分のあいだ飲食店はどこも閉まったままです」
莉子は胸を痛めていた。
楚辺君の将来がかかっている。のみならず、これはパリの飲食業界全体を揺るがす問題だ。なんとかしたい。でも、わたしに見えていることはごくわずかだ。
原因が異物混入だとして、食材がパックから取りだされる過程に落ち度がなかったのなら、その前後に起きたことと考えられる。
「ねえ、楚辺君」莉子は静かに語りかけた。「無菌エリアでの管理は徹底していても、厨房はお客さんの出入りするホールとつながっているし、結局は外気に触れるでしょう? お客さんのテーブルに料理が運ばれるまでの段階で、誰かがいたずらできそうな状況はない? できあがった料理がウェイターによってテーブルに運ばれるまでのあいだ、人目につかない場所を通るとか......」
楚辺は首を横に振った。「警察署でひと晩じゅう待たされているときに、さんざん考えたよ。同僚とも話し合った。でも、そんなことはありえないんだ。ベランジェールの厨房に入るには所持品検査がある。総料理長であってもコショウの瓶ひとつ持ちこめない。完成した料理はその場で蓋が被せられる。皿の下に敷かれるクロスは麻でできていて、いちどでも蓋を持ちあげると皺ができる。ウェイターはワゴンをテーブルまで運んだ後、皺がないことをしっかり目で確認してから蓋を開ける決まりなんだ」
喜屋武が唸った。「警察が従業員の身柄を拘束しつづけるのはそのせいか。ウェイターかコックの内部犯行を疑ってるんだろうな」
「絶対にない」楚辺は悲痛のいろとともに訴えた。「ありえないんですよ。みんなこの仕事に情熱を注いでいる人たちばかりです。料理に近づけるのはベテランだけだし、僕も昨晩はホール係の手伝いをしましたけど、挙動不審な人なんてひとりもいなかった。掃除も行き届いてたし、食器も高圧洗浄で徹底的に殺菌されてる。店に問題はないんです。誓ってもいい」
莉子は思いを口にした。「楚辺君......。もしそうなら、食材は入荷前の段階で汚染されてたと考えるほかにないでしょう。総料理長さんが封印のシールを貼る前に」
「入荷前には、バベット精肉側の封印があったんだ。工場長のヤニク・クストーさんは自分ですべての製品の仕上がりをチェックする。シールはその自信の証だよ。創業以来二世紀ものあいだ、バベッ卜精肉のフォアグラ食材には一個たりとも不良品が存在しなかったんだ」
「そうはいっても......」
「待った」楚辺は片手をあげて莉子を制した。「そうだ......、今回の入荷はバベットの食材ばかりじゃなかった。半分はたしかコタヴォってところの製品だ」
喜屋武が新聞記事を見つめながらいった。「楚辺。バベット精肉についてなら、ここにも書いてある。訳してみるぞ。......異物混入の疑いのある食材をノーチェックで客にだした店の過失が問われる一方、食材を提供したバベット精肉も、きょうのうちに家宅捜索がおこなわれる見通しである......」
「そんな」楚辺は血相を変えて立ちあがった。「クストーさんのチェックに見落としがあるわけがない。原因はバベット精肉じゃないよ。コタヴォ精肉のほうだ」
莉子は楚辺にきいた。「そのコタヴォってところ、これまでベランジェールと取り引きは?」
「ない。クストーさんの紹介だからね。コタヴォの製品もクストーさんが調べたうえで箱詰めにしてるけど、工程は把握していないわけだから、あるいは......」
「楚辺」喜屋武は眉間に皺を寄せた。「新聞にはどこにも、コタヴォの名はないぞ。捜査対象になる食材業者は、バベット精肉だけだ」
「こうしちゃいられない」楚辺はあわてたようすでいった。「僕からも警察に証言しなきゃ。怪しいのはコタヴォだって」
「バベット精肉ってのはどこにあるんだ? パリ市内か?」
「いえ。郊外です。ロワール地方」
莉子はいった。「なら、捜査担当は市警本部じゃなく現地の所轄でしょう。家宅捜索に異議申し立てをするのなら、ロワールに行ったほうが早いかも。一緒に行くわ」
喜屋武は眉をひそめた。「凜田。さっき大使館の人に釘を刺されたばかりだろ。俺たちゃ観光客だぞ」
「それ以前に、楚辺君の友達です。違いますか?」
「......ああ」喜屋武は真顔でうなずいた。「そういうことなら、先生も楚辺の元担任だからな。同行しよう」
楚辺は複雑ないろを浮かべた。「感謝します......。でも、クルマは先輩に返しちゃったんです。どうやって向こうまで......」
莉子は微笑んでみせた。「クルマがないなら電車。心配しないで。切符代ぐらいならおごるから」
TGV
三人はアパートでカジュアルなスタイルに着替えたのち、地下鉄でモンパルナス=ビヤンヴニュ駅に向かった。そこから連絡通路を抜けてフランス国鉄のモンパルナス駅に移動する。エスカレーターでビル内を上昇した。
ホームは高架線の高さにあるが屋内に位置している。駅構内の規模は想像を絶していた。ポルト・オセアンと呼ばれるそのフロアには、じつに一番線から二十四番線までの線路がずらりと並んでいる。すべて始発であり、駅舎は線路の頭端側に広がっていた。
九番線までのホームのいくつかには、鳥類の頭部のごとく、嘴状の先端を突きださせた銀いろの動力車が、こちらに顔を向けて停車していた。TGV。かつて世界一だった日本の新幹線の営業速度記録を破った、ヨーロッパ随一の高速鉄道車両だった。
莉子は構内を見渡した。フランスというよりアメリカ風の近代建築だった。さまざまな人種の旅客が入り乱れ雑然としている。インフォメーションのアナウンスが流れる前のチャイムが、人の声をサンプリングした音階になっているのが耳に残る。
フランス語に堪能な楚辺が、窓口に切符を買いに行っている。莉子はそのあいだ、喜屋武とともにホームが見えるカフェで待つことにした。
このカフェでも、きょうから鳥肉料理は扱っていないという。影響はかなり深刻なようだった。
コーヒーが運ばれてきた後、喜屋武は椅子の背に身をあずけながら伸びをした。梁から下がった案内表示板を眺める。「TGVって、新幹線と一緒で次々に発車するんだな。あの Voie ってのは、乗り場の表示欄だろ? どうしてあそこだけ空欄になってるんだ。あれじゃ切符が買えても、何番線ホームに行けばいいかわからん」
莉子が応じるより早く、喜屋武は隣りの席で食事をしていた白人男性に声をかけた。
「エ......エクスキュゼ・モア。ウ・ス・トゥルーヴ・ラ・レ・ドュ・ビュス?」
その言い方では、バス停はどこですかときいていることになる。白人男性はフォークを宙に浮かせたまま凍りつき、ぽかんと口を開けて喜屋武を見かえした。
当然だろうと莉子は思った。意味不明なフランス語で話しかけられたこと以前に、この男性は喜屋武の言葉をまるで理解できなかったのだろう。
すぐに莉子は白人男性に丁重に告げた。「ソーリー、ザッツ・オールライト」
白人男性は肩をすくめて笑い、食事に戻った。
喜屋武は不服そうに莉子にきいてきた。「だいじょうぶって、どういうことだ。せっかく先生がフランス語で喋ってるのに、英語で話の腰を折るなんて......」
「あの男性はアメリカ人の旅行者です。フランス語でたずねても要領を得なくて当然です」
「アメリカ人? どうして?」
「お肉をすべて切ってからナイフを置いて、フォークを右手に持ち替えて食べてる。アメリカならではの食べ方です。ヨーロッパの人ならひと切れずつ切って食べます」
そのとき、スーツ姿の黒人男性がカフェに入ってきた。さっきの白人男性と目が合ったとたん、互いに大仰なほど声を張りあげて再会を喜びだした。ハーイ、ナイス・トゥ・ミーチュー。
いかにもアメリカ人。これ以上、証明の必要はなさそうだった。
喜屋武は戸惑った顔を莉子に向けてきた。「乗り場がどこなのか、うかつに聞くこともできんな。誰にたずねたら......」
「だいじょうぶですって。乗り場は発車の二十分ほど前になると表示されるんです。この国の鉄道の慣習です」
「二十分前? なら、一番上のTGVについてはそろそろ......」
ふいに、例の音声サンプリングの歌うようなチャイムが響き、案内板の Voie の欄に次々に数字が表示されていった。同時に、乗り場を確認した乗客たちがいっせいに動きはじめる。
それを眺めていた喜屋武が、莉子を見て苦笑した。「まいった。いまじゃすっかり凜田が先生の保護者だな」
莉子は笑みを浮かべてみせた。「単に旅本で得た知識ですから......。就職活動中にツアコンの会社の面接受けるために、いろいろ読んだんです」
人の流れに逆らって、楚辺がひとりこちらに歩いてくる。手には切符が三枚あった。それをかざしながら楚辺がいった。「指定席券を買えました。乗り場もいま確定したところです」
「ああ」喜屋武が立ちあがった。「そのようだな。凜田からきいたよ。変わった国だ。病院の待合ロビーで自分の番号が呼ばれるのをひたすら待つ時間に似てるな。どれ、切符を一枚」
「あっちにある黄いろい機械に差しこんでください。改札はないんで、乗車手続きの打刻はそれでおこなうんです」
「黄いろって......あれか? 薬局の横にある......」
「あれは郵便ポストですよ。間違っても切符をいれちゃいけません。ほら、あの壁の......」
「三つ並んでるやつか。よし、わかった」喜屋武はそういって歩きだした。
その背を見送ってから、楚辺は莉子を見つめていった。「凜田、ごめん......。僕のために、せっかくの旅行が」
「気にしないで。西表島でも、帰りのフェリーに間に合うようにクルマ飛ばしてくれたでしょう?」
「でも、イリオモテヤマネコを轢いちゃいそうだから減速してって......」
「もう少し早くカヤックを切りあげればよかったのよね。わたしってわがままばっかり。反省してる」
「べつに迷惑だなんて思ってなかったよ」楚辺は穏やかに笑った。「きみは本質的に自由人だからね。そういうところも変わってない」
「楚辺君も......。あいかわらず真面目な人のままね」
ふたりは見つめあい、笑みを交わしあった。
するとそのとき、喜屋武が声をかけてきた。「おい。切符をいれてみたら、よくわからない音声が流れるぞ。どうすればいい?」
苦笑とともに楚辺が莉子にきいてきた。「行こうか」
「ええ」莉子もうなずいて歩きだした。
「行きましょう。今度ばかりは遅れないうちに」
監視
TGVの乗り心地は、莉子にとって上京したばかりのころに乗った0系新幹線を彷彿とさせた。トンネルに入るたびに急激な気圧の変化が起きて窓がきしむ。揺れも騒音もかなりのものだったが、なぜか温かみがある。窓の外に広がる田園風景のせいかもしれない。
モンパルナス駅を出発して暗いトンネルを抜けると、パリの喧騒はどこへやら、黄緑いろののどかな農村地帯が果てしなく広がっていた。まだときおり教会を中心にした市街地が見えるが、地方に行けばいっそう閑散とした風景に変わっていくのだろう。
ところが、莉子の予想とは裏腹に、目的地であるロワール地方のトゥール駅は、思いのほか栄えた街並みのなかにあった。ホームに降りた直後の印象はJR八王子駅。その先にある駅舎はさすがにヨーロピアン風の格調の高さを誇っていて、オルセーと同じ建築家による大きなアーチ状の窓ふたつが印象的だったが、さらにその外となると......。
喜屋武がいった。「味気ないな。街はいちおうフランスチックだけど、パリみたいな厳粛さに欠けてる」
楚辺はすまし顔のまま歩きつづけた。「ごくありきたりの地方都市ですからね。工場へはバスで三十分ほどです」
カフェテラスや公園にいる人々もどこかのんびりしている。駅前にはロータリーはなく、片側一車線の狭い道路が通るのみだが、家族や知人を迎えにきたクルマは平気で停車しドアを開ける。後方からクラクションの合奏が響いてもまるで意に介さない。
三人で路線バスに乗り、中心街を離れる。ロワール川沿いの道を進んでいくと、対岸に古城が見えた。アンボワーズ城だった。
脇道に入り、森林を抜けると、盆地が広がっていた。途中、何度かバス停に寄り、乗客はみな下車していった。気づいたときには、車内にいるのは莉子たち三人と運転手だけだった。
ここだ、と楚辺がボタンを押す。ブザーが鳴って赤いランプが点灯する。このあたりのルールは、日本と変わらない。バスは次の停留所で停まった。
楚辺の後につづいて外にでる。周りには何もない。牛の唸りがきこえる農地のど真ん中だった。草原に羊が群れをなし、ひたすら草を食べつづけている。
そこからしばらく歩いた。数分もすると、金網に囲まれた広大な敷地が見えてきた。なかにあるのは近代的な工場棟だった。ミルク工場を思わせる銀いろの円筒形のタンクを備えている。フェンス内には切妻屋根の牧場もあって、ガチョウの鳴き声がきこえてくる。
「あれですよ」楚辺が喜屋武に告げた。「見てのとおり周りに何もないんで、働いている人たちも常にマイペースです。のんきだけど、でも仕事はしっかりしてますよ」
ところが近づくにつれて、工場は異様な雰囲気に包まれていることがわかった。
正面のゲートは開きっぱなしになっていて、砂ぼこりの舞う未舗装の庭に無数のクルマが駐車していた。大勢の人間がいる。工場関係者ばかりではないようだ。
ゲートのすぐ前まで来ると、車両の大部分がパトカーだとわかった。制服、私服を問わず警官がうろついている。ほかに腕章をはめた男たちがカメラ片手にかけずりまわっていた。報道関係らしい。
莉子は戸惑いがちにつぶやいた。「入ってもいいのかな......?」
楚辺は首を傾げた。「いつもなら警備員さんがいるんだけどね。きょうはかまわないだろ」
敷地に足を踏みいれる。出入りに関してはノーチェックとなっているのか、特にこちらに関心をしめす者は皆無のようだった。カメラマンはあちこちに散り、工場の外観写真を撮りまくっている。警官は待機の命令でも仰せつかっているのか、手持無沙汰げに退屈そうな表情を浮かべていた。
家宅捜索の本隊は別にいるのだろう。莉子はそう思いながら歩いた。
工場棟のスライド式の扉はすべて開け放たれていて、内部が見えている。ほぼ無人で、がらんとしていた。稼働している機械はない。倉庫らしき空間も、なかにあった物がすべて押収されてしまったのか、もぬけの殻になっていた。
楚辺が足をとめて、困惑ぎみに周りを見まわした。「誰もいないな。工場じゃないとすると、牧場のほうか」
また楚辺が歩きだす。工場棟のあいだの通路を抜けて、反対側へと向かった。
切妻屋根の小屋が近づくと、しだいににおいがきつくなっていた。藁がそこかしこに積んであって、薄汚れたバケツが転がっている。洗練された工場とは対照的な空間が広がっていた。
ここまできてようやく、従業員らしき男たちの姿を見かけるようになった。楚辺が手をあげてあいさつすると、向こうも同じようにして応える。誰もが茶いろの革製のつなぎを着ていた。襟もとに同じ素材のフードがついていて、頭をすっぽりと覆っている。
喜屋武がいった。「妙な恰好だな。まるでクリスマスパーティーのトナカイの扮装だ」
楚辺が苦笑した。「あれは鹿皮の作業服ですよ。工場のほうでは無菌服だけど、こっちじゃ作業服を着るのが義務なんです。においが身体に移るのを防ぐ効果があります」
「におい......」喜屋武は自分の袖を鼻に近づけた。「俺たちの服は......?」
「ほんの一、二時間でしたら、だいじょうぶです。でも何日も普通の服で牧場に滞在したら、鳥肉のにおいが肌に染みつきます。風呂に入ったぐらいじゃ落ちませんよ」
「ふうん。独り暮らしなら、べつに問題なさそうだな」
「動物を飼っていなければね。猫がいれば、寝ているあいだに噛まれたりします。先生ん家、猫は?」
「宮古の実家じゃ四匹飼ってる。当分は怖くて帰れねえな」
小屋の周りには、遠巻きに報道陣が輪になって囲んでいた。やはりにおいが気になるのか、誰もが一定の距離を置こうとしている。
莉子たちが近づいていくと、記者たちはじろりとした目つきでこちらをにらみつけた。
何者かと疑うような視線。むしろ当然の反応だと莉子は思った。ここまで誰の許可も得ずに入りこんでいるのだから。
ふいに楚辺がつぶやいた。「知ってる顔が何人かいる」
「え?」莉子はきいた。「マスコミに知り合いがいるの?」
「まさか。記者なんかじゃないよ。あいつらは......」
そのとき、小屋の開け放たれた扉から、作業服姿の従業員がひとり駆けだしてきた。
ほっそりとした体型だった。フードを外すと、長い金髪が風に泳ぐ。二十代半ばぐらいの白人女性だった。
女性は笑みを浮かべていた。「楚辺君。来てたの」
「こんにちは、アンジェリークさん。きょうは家宅捜索だって......」
「そうなの」アンジェリークと呼ばれた女性は表情を曇らせた。「工場のほうはぜんぶ調べ終わって、最後に牧場を見せてたところ」
「なにか問題でも......」
「あるわけないわ。知ってるでしょう? うちの品質管理は完璧よ」
「あのう......アンジェリークさん。報道陣のなかに不審な人が......」
「もう気づいた?」アンジェリークは声をひそめた。「ライバル店のマネージャーたちが野次馬気分で潜りこんでる。パリのデルフィーヌだとか、ル・マンのコランティーヌとか」
「フランセットの料理長もいますよ。気にいらないですね。機に乗じて、これ幸いとばかりに内情を探りにきてる」
「彼らの耳にいれたくないから、企業秘密については口にしないでね。それと取り引きの詳細も。出荷数だとか、値段とか......」
「ええ。この国の慣例なら承知してます。黙っておきます」
そのとき、扉のなかからぞろぞろと人の群れが姿を現した。報道陣がいっせいにカメラをかまえる。シャッター音が絶え間なく響いた。
何人かは、鹿皮の作業服を着ていた。みなフードは外している。そのなかで頭に白いものが混じった中年男性は、一見してアンジェリークの父親だろうと思われた。顔がよく似ていたからだった。
莉子の推測どおり、アンジェリークはその男性に駆け寄っていった。「お父さん」
男性はアンジェリークを抱き寄せて、真顔で告げた。「心配ないよ。もうすべて済んだ」
ほかに白い無菌服に全身を覆った者が十人ほど、連れ立って扉をでてくる。胸もとに afssa とあった。保健局から派遣された調査グループだろう。
それ以外は警官だった。数人からなる制服組を束ねているのは、口ひげをたくわえた目つきの鋭いスーツ姿の男性だった。年齢は四十近い。私服警官、おそらくは警部か警部補と思われた。
アンジェリークが父親を連れて近づいてきた。「楚辺君」
父親のほうは目を丸くした。「楚辺君! よく来てくれた。たいへんなことだったな。店のほうはどうなった。お客の容態は?」
「全員、快復しつつあるみたいです。原因はまだ不明ですが......」
「原因なんかはっきりしている」中年男性は苦々しくいってから、こちらに目を向けてきた。「この人たちは?」
「日本からきた僕の友達です。恩師の喜屋武先生。それから、元同級生の凜田莉子さん」
「ヤニク・クストーです。工 場 長 を し て ま す。といっても、言葉はわからんか......」
莉子はいった。「いえ。それぐらいのスピードで話していただければ、なんとか......」
喜屋武のほうは、きょとんとした目で見かえすばかりだった。どうやら、フランス語についてはまだヒアリングは苦手らしい。
実際、莉子にとってもネイティブなフランス語を理解するのは至難のわざだった。手帳でも持ってくればよかった。メモをとりながら、あるいは筆談に頼りながらであれば、もう少し円滑なコミュニケーションが可能になるのに。
するとそのとき、口ひげの私服警官が歩み寄ってきた。「すみません。会話が耳に入った。お店の人だとか? こちらの青年は、ベランジェールの従業員さんですかな」
うなずきながら楚辺はいった。「まだコック見習いですけど......」
「ちょうどよかった。オルレアン警察署のギュスターヴ・シャミナード警部です。お店のほうで、この工場に関し不備な点だとか、噂にのぼっていたことはないですかな。あなたたちの店を取り潰さんばかりの態度をとるパリ市警と違って、われわれは公平です。すなおにお話しいただければ、悪いようにはしません」
高慢な態度はパリ市警となんら変わるところがない。楚辺も気にいらないと思ったらしく、態度を硬化させた。「なにもありません。クストーさんが管理するバベット精肉にミスがあるはずないんです。ベランジェールもそうです」
「ふうん」シャミナードは不満顔になった。「製造元にもお店にも原因はないという。でも現に、大勢の人が被害に遭ってるんですけどね」
「製造元はここだけじゃないんです。今回に限って、もうひとつ別の工場からも食材を入荷したんです」
ヤニク・クストーが割って入り、シャミナードをにらみつけた。「ほらみろ。ベランジェールに勤めている彼もそういってるじゃないか。この警部ときたら、私の申し立てをまるで無視してる。コタヴォ精肉からも入荷してるといったのに、聞く耳持たないんだ」
シャミナードは困惑のいろを漂わせた。「しかし......。帳簿によれば、ぜんぶこちらのバベット精肉が出荷元になってると......」
「出荷はそうだ。でも製造はうちだけじゃないんだ。ベランジェールの求める数を揃えられなかったからな。コタヴォに頼んでわけてもらった」
「そのコタヴォという業者からは、いくつ入荷したんですか?」
楚辺は当惑の表情を浮かべてアンジェリークを見た。
アンジェリークも楚辺を見かえしてから、シャミナードに告げた。「取り引きの詳細については、ここで発言するのはちょっと......。あとで書類をお目にかけます」
記者たちのなかに何人か、苦い顔をしながら引きさがる姿があった。踵をかえし、そそくさと立ち去っていく。彼らがライバル店の人間だろうと莉子は思った。情報を得られないとわかって興味をなくしたらしい。
「警部さん」アンジェリークは腕組みをした。「うちの設備を隈なく調べたうえで、保健局の人たちも問題なしと判断しました。あなたは、父がコタヴォ精肉の名を口にしたのを、苦し紛れのいいわけか何かだと判断したんでしょう。でも違います。事実として今回、ベランジェールのフォアグラ料理の半分はコタヴォの食材を使っていたんです」
「半分も......」シャミナードは真剣な面持ちになった。「なら、軽んじるわけにはいきませんな。しかし、それだけの数を出荷したなら、ちゃんと取り引きを公示しておいてくれればよかったのに」
「うちとベランジェールは長年にわたり独占取り引きをおこなってきたので......。例外的措置はあまり表沙汰にしないのが業界のルールなんです。ほかの会社や店舗との関係にも響きますので」
アンジェリークの作業服は、彼女のプロポーションに合わせて仕立てたのか、ぴたりと身体に合っていた。その容姿もプロ意識を感じさせる。父のヤニクやほかの従業員とともに立つと、彼女の服だけ色がわずかに明るいが、艶っぽさはなかった。手入れのための保革油を塗りこんでいないからだろう。それでも作業服の着心地に問題はないらしい。経費は父親以上にしっかりと切り詰めているようだった。
「ふむ」シャミナードは口ひげをなでながらいった。「それなら、すぐにでも裁判所の許可をとってコタヴォの工場を調べよう。せっかくこんな田舎までご足労願った保健局の方々にも、もうひと働きしてもらうべきだろうな。ただし、この工場から押収した在庫や備品は、いったん持ち帰って徹底的に調べさせてもらいますよ」
制服警官がダンボール箱を抱えて、シャミナードに近づいてきた。「オフィスから押収したこれらはどうしますか? 書類以外の使い捨ての品のようですが」
「さっきぜんぶ調べ尽くした物ばかりだ。元あったところに戻しておけ」
ヤニク・クストーがダンボール箱をのぞきこんで、ふんと鼻を鳴らした。「ゴミ箱の中身じゃないか。いらんよ。必要な物は持ち去って、不要な物を戻すのか。どこまで嫌がらせをすれば気が済むんだ」
困惑顔でたたずむ制服警官をちらと見てから、シャミナードがいった。「われわれが勝手に捨てるわけにはいかないので......。いったん戻させてもらいます」
なおもヤニクが愚痴をこぼしつづけるなか、莉子はダンボール箱のなかを覗きこんだ。
ふと、赤表紙の小さなメモ帳が目に入った。ダブルリングで上部を綴じた、どこにでもある事務用品のひとつだった。捨ててあったらしいが、表紙を見るかぎりまだ新しい。
ヒアリングのためにも速記できる物がほしい。このままでは遅かれ早かれ壁に突き当たる。
「あのう」莉子はおずおずといった。「なかの物に触っても?」
シャミナードは眉をひそめた。「持ち主はクストーさんなので」
莉子はヤニクに視線を向けた。ヤニクは黙って肩をすくめた。
ダンボール箱からメモ帳を取りだし、開いてみる。なかも新品同様、ざっと見たかぎりではどのページにも書きこみはなかった。莉子はきいた。「これ、お売りいただけないでしょうか」
ヤニクは笑った。「楚辺君に似てるな。彼もどんなつまらない物であっても、くれというと悪いと思ってるのか、売ってくれという。かまわんよ。もっといい物を差しあげたいが、見てのとおりすべて取りあげられてしまったのでね」
シャミナードが咳ばらいをした。「皮肉はそれぐらいで。午後からはコタヴォ精肉の捜索に入るかもしれませんが、立ちあっていただけますかな」
「いいとも。どこにでもいってやる。私はいま、猛烈に後悔してるよ。コタヴォなんかと組んだことをな。絶対にすべてをあきらかにしてやる」
アンジェリークがなだめるようにいった。「お父さん。そう興奮しないで......」
報道関係者らが散りはじめている。次の目的地への移動を開始したのかもしれない。
喜屋武が楚辺に笑いかけた。「よかったじゃないか。これできっと店の濡れ衣も晴れるさぁ」
楚辺も笑みを浮かべた。「そうですね......。だといいんですけど」
だが莉子は、そこまで楽観的になれない自分を感じていた。
妙に胸騒ぎがする。三つある可能性のうちふたつの潔白が証明された。あとひとつが元凶だったというのなら、話は早い。でも世のなかには不可解なことが存在する。コタヴォ精肉にも問題がなかったとしたら......。
銀食器
莉子は寒気を覚えながらたたずんだ。悪い予感が当たってしまった。
コタヴォ精肉工場はロワール川沿いに東へ五十キロ強、中世の面影を色濃く残すブロワの城下町にあった。周囲に何もなかったバベット精肉と違い、ギリシャ風建築の建造物内に設けられたコタヴォの設備はこぢんまりしているが、そのぶん機能的だった。
外観とは対照的に、あらゆる工程は高度にオートメーション化されていて、一見して製薬会社か精密機器メーカーの製造所のようだった。隣接する牧場も近年に刷新されたらしく、床を滑るように走る円筒形のロボットにより清掃が半自動的におこなわれる仕組みで、清潔さが維持されていた。これもバベッ卜精肉とは異なり、においがほとんどしない。
あらゆる面でバベット精肉と同等どころか、はるかに凌ぐ設備と管理の徹底ぶり。やはり機材や食材は押収され、保健局は二時間余りも施設内を隈なく調査したが、その結論は......。
シャミナード警部は無菌服姿の保健局の人間からクリップボードを受け取ると、それをじっと見つめたのち、ため息とともに告げた。「現場における判断としては、コタヴォ精肉工場は衛生および品質管理の両面において、なんら問題なしと考えられる」
工場内でも広い床面積を持つ生産ライン脇に集まった人々の反応はさまざまだった。
質のいいスーツを着たヴァランタン・コタヴォと、彼に雇われた制服姿の従業員たちは、いっせいに歓喜の声をあげた。
保健局の男たちや警官らは一様に戸惑いの表情を浮かべた。
そして、あきらかな憤りのいろを漂わせているのが、ヤニクとアンジェリークのクストー親子だった。
ヤニク・クストーは顔面を紅潮させてまくしたてた。「そんなはずはない! 食材に異物が紛れこんだとしたら、ここしか考えられないんだ。もっとよく調べてくれ」
「そうよ」アンジェリークも口を尖らせた。「ずいぶんと機械に頼りきって、人員を削減してる工場のようですけど、メンテは充分なんですか? 機械に使われてる洗浄剤や油が、ベルトコンベア上を運ばれる食材に降りかかるってことも......」
太りぎみの身体に薄い頭髪のヴァランタン・コタヴォは、大仰に顔をしかめた。「お嬢さん。いまどき、信頼できるのは人だとでも? 作業工程でのことをいうのなら、あんたのところのほうが、よほど人目を盗んで怪しげな薬品を食材にかけるぐらいわけないと思うがね」
シャミナードは仲裁に入りつつも、コタヴォの肩を持つ姿勢をみせた。「クストーさん。こちらの工場では、全工程がハードディスクに映像として記録されてます。真空パックが仕上がってから、冷凍室で保管されているあいだもずっとカメラはまわりっぱなしです。裏の駐車場も録画されていて、当日の朝あなたがトラックで製品を引き取りにくるようすまで映ってる。あなたの手に引き渡されるまで、コタヴォさんの食材管理になんの落ち度もないことはあきらかです」
ヤニクはなおも不満げだった。「映像記録といっても、保健局の人間がいちど通して観たぐらいじゃ欠陥は露呈しないのかもしれん。警察の鑑識にじっくり調べてもらって......」
コタヴォが声高にいった。「クストーさん。あんたがいうまでもなく、映像記録機器はハードディスクごと警察が持っていくよ。私がこの手ですべての食材を箱詰めにして、水漬けにし、封印してから、あんたに渡した。その一部始終も余すところなく撮影されてる。封印を切って中身を取りだしたのはあんただろ。バベット精肉の食材と一緒にして、ベランジェールに運んだ。なにかあったとしたらその道中じゃないのかね。もっとも、食材がベランジェールの手に渡った後でなんらかの事態が起きたとしたなら、私たちが知るよしもないが」
楚辺は聞き捨てならないとばかりに声を荒らげた。「問題を起こしたのはうちの店だっていうんですか?」
「きみの店じゃないよ」コタヴォは皮肉めかせた。「正確には、きみを雇っている店だ。見習いなら、そんなに店に忠誠心をしめす必要はなかろう。国に戻ってスシ屋でも始めたらどうだ」
はやしたてるようなコタヴォ精肉の従業員たちの声、楚辺をうわまわる剣幕で怒鳴り散らすヤニク。アンジェリークも、警部のシャミナードも、いっせいに声を張りあげていた。もはや誰が何を喋っているのか、フランス語を勉強したての莉子にはさっぱり聴き取れなかった。
莉子は困惑を覚えながら喜屋武を見た。「先生。いまみんなが話してたのは......」
「ああ」喜屋武は憂鬱な面持ちで見かえしてきた。「言葉はわからなくても、どんな状況なのかは一目瞭然さぁ。また楚辺の店に矛先が向けられてるんだろ? 深刻な事態だな」
喧騒のなかで、アンジェリークがひときわ甲高い声を発した。「静かに! お願い、ちよっと聞いて」
紛糾していた工場内が、しんと静まりかえる。誰もが顔をひきつらせながらアンジェリークに視線を向けた。
アンジェリークはため息まじりに告げた。「いまは争っている場合じゃないでしょう。うちとコタヴォさんの工場、それにベランジェール。三者は一蓮托生なのよ。原因がどこにあっても、当分のあいだは風評被害はまぬがれない。フォアグラどころか、食肉業界全体に波紋が広がってる。このまま働けない毎日がつづいたら、みんな遅かれ早かれ共倒れよ」
沈黙のなか、コタヴォの従業員たちが顔を見合わせた。
正論だった。三者がいがみ合ったところで何も生まれない。むしろこの場にいる全員が、沈みゆく船の乗員、運命共同体でしかない。彼らもようやくそれを悟ったのだろう。
ヤニクは苦い顔になった。「違いないな......。うちのオーナーも憂慮してる。信頼の回復には時間がかかるだろうし、ひと月も工場を再開できなかったら。うちは破産だ」
コタヴォはふんと鼻を鳴らした。「そいつはお気の毒に。自転車操業の零細企業、火の車が事故を起こして火だるまってわけだ」
「なんだと」ヤニクは怒りのいろを漂わせて詰め寄った。「あんたのところも業績はうちと同じぐらいだろう。むしろ設備に投資しているぶんだけ苦しいはずだ。黒字だとはいわせないぞ。銀行からの借入金もかなりの額にのぼるはず......」
「しかしうちには、さらなる融資を求められる担保があってね。あれを見るといい」コタヴォは上方を指さした。
天井と壁の継ぎ目に、古い額縁が並んでいる。コタヴォの家系とおぼしき肖像画や写真の数々、そしてひときわ光り輝く金の額におさまっているのは、エンジのフェルト布に整然と配置された銀の食器セットだった。ガラス板のなかに、繊細な柄が浮き彫りになったフォークとナイフ、皿、燭台がふたつずつおさまっている。
コタヴォは自慢げにいった。「先祖から代々受け継がれてきた家宝だ。ほかにもいろいろあったが、工場の設備に変えていったんでね。だが私には、まだこの切り札があるわけだ。この辺りの土地がトゥーレーヌとしてフランス王領に組みこまれたとき、記念に王室から贈られたものだよ」
アンジェリークが軽蔑したようにつぶやいた。「なんだ。結局、祖先の遺産を食いつぶしてるだけじゃないの」
けれどもコタヴォは動じなかった。「雇われ工場長親子には理解できないかもしれんが、私は経営を兼ねてるのでね。受け継ぐものが伝統だけでしかなかったバベット精肉じゃ、社長が金策に走りまわっても限度があるだろう。やがてうちの傘下に入ることもありうるんだ、行儀よくしておいたほうが利口だと思うが」
「あなたがボス? お断りよ。その銀食器がいくらになるか知らないけど、お金を作ったところで一時しのぎにしかならないわ」
「骨とう品の価値が理解できない労働者階級はこれだから困る。王家の紋章が入った中世の逸品だぞ。どれだけ安く見積もっても価格はおそらく......」
莉子は思いついたままを口にした。「八ユーロ」
またしても、工場のなかは静寂に包まれた。
コタヴォは面食らった顔でこちらを見つめてきた。
しばし絶句していたコタヴォが、ふたたび笑いを浮かべた。「ヨーロッパの通貨単位を知らんようだな。買い取り価格でも八十万ユーロはくだらないはずだ。オークションにだせばその何倍もの価格が......」
「つきませんって」莉子は覚めきった気分でいった。「ナイフの先端が丸いし」
「......何?」コタヴォはぎょろりと目を剥いて、額縁を見あげた。「ナイフ? 先端......?」
「フランスの方ならよくご存じと思いますけど。食器のナイフの先が丸くなったのは、リシュリュー枢機卿の発案によるものです。招待客が尖ったナイフの先で歯間を掃除する無作法に耐えきれず、それができないデザインに変えた。以後、ヨーロッパじゅうに広まったんです」
「そんなことは誰でも知っとる。それがどうした」
「この一帯がトゥーレーヌとして王領になったときの記念品でしょう? つまり一五八四年。リシュリューが生まれる一年前なのに、どうしてナイフの先が丸くなってるんですか?」
「......え」コタヴォは額縁と莉子の顔を、かわるがわる見た。「それは......さあ。いったい......?」
しどろもどろの経営者に、従業員たちの不安は一気に募ったらしい。ひとりの男が動揺をあらわにした。「社長。どうなってるんですか? 資金繰りのほうは心配ないんですよね? ね?」
ほかのひとりが、ひきつった笑いとともにきいた。「工場が休業状態でも、給料はちゃんと払われるんでしょう? さっきそうおっしゃったじゃないですか」
コタヴォは目を白黒させていたが、やがて従業員に向き直ると、尊大な態度で告げた。
「まだ給料の支払いを確約したわけではない。工場の再開のめどが立たない以上は、雇用契約は一時的に打ち切ることも......」
これにはさすがに労働者たちも黙ってはいられないらしい。従業員はいっせいにコタヴォのもとに押し寄せて取り囲み、怒号の渦が広がった。
喜屋武は困惑顔で莉子を見つめた。「何を喋った? 火に油を注いだじゃないか」
「本当のことをいっただけですけど」と莉子は髪をかきあげた。
なおも騒然とした状況のなか、かすかに電話が鳴るのがきこえた。
シャミナード警部が顔をしかめながら、携帯電話を取りだす。それに応じながら、もういっぽうの耳を指でふさいだ。先方の声を必死で聴き取ろうとしている。
「はい」シャミナードは電話に告げた。「了解。......ああ、よくわかった」
その目がこちらに向けられる。白熱する口論を背に、シャミナードは真顔で莉子に近づいてきた。
「きみ」シャミナードが小声で話しかけたのは楚辺だった。「よくない報せだ。ベランジェールの料理人のひとりが、罪を認めたぞ」
「え!?」楚辺は目を瞠った。「まさか......。誰です?」
「イヴォン・ダングルベールって男だそうだ。知ってるか」
「ダングルベールさんが? ベテラン中のベテランですよ。そんなことありえるわけが......」
咳ばらいをしてシャミナードは告げた。「きみはまだ見習いということだが、店に雇われているわけだろう? すぐにパリに戻ったほうがいい。従業員としてなんらかの証言を求められる可能性がある」
楚辺は不安そうに、紛糾中の工場内を眺めた。「ここのみなさんには、どんなふうに説明を......」
「後で私から話す」シャミナードは戸口にうながした。「さあ、もう帰ったほうがいい。みんな頭に血がのぼってる。店で真犯人が名乗りをあげたと知ったら、きみに食ってかかるかもしれん」
賢明な判断だった。楚辺はなおも人々に目を向けていた。とりわけ、クストー親子に別れのあいさつを告げたかったのだろう。だが、ヤニクもアンジェリークもコタヴォ精肉の議論に巻きこまれていた。いや、みずから積極的に加わっているようだ。
ヤニクは声を張りあげていた。「従業員を引き取りたくても、うちのほうも工場は閉鎖されてるんだ。娘のいうとおり、私たちは運命を共にしてる。真剣に未来を考えなきゃならん!」
「でよう」喜屋武が楚辺の腕を引いた。
莉子は彼らとともに工場をでた。午後の陽射しが降りそそぐ城下町、坂道の石畳に目を落としながら、三人は黙々と歩いた。
やはり原因は店にあったのか。だとするなら、楚辺の職場復帰は風前の灯だ。
彼の沈痛な横顔は、見るにしのびない。希望を失わせたくない。でも事態は悪化するいっぽうだ。老舗の名店、ベランジェールがパリの地図から消える。フランスの伝統料理フォアグラをめぐってレストラン業界は、未曾有の危機に直面している......。
マカリオス
日の長いフランスでは、夕暮れはまだまだ先だった。青い空の下、美しく照らしだされた田園地帯が窓の外を飛ぶように流れる。
莉子は、モンパルナス駅行きのTGVの指定席車両で、喜屋武と楚辺に向かい合っていた。
ひどくそわそわしたようすの楚辺に、喜屋武が穏やかに声をかけた。「落ち着け。向こうに戻るまでは焦っても始まらん」
「そうですけど」楚辺は頭を掻きむしった。「ダングルベールさんは、僕が店に雇われてからずっと面倒を見てくれた人なんです。きのう、食材を開封したときにも一緒にいましたけど......。あの人がおかしなことをするなんて信じられない。フォアグラ料理に半生をささげてきた人ですよ」
「故意じゃなく、なんらかの事故ってこともあるさぁ。とにかく冷静にいこう。......でも、異物混入ってやつだとしたら、真実を解明するのは難しそうだな」
莉子は深刻な気分になった。「ええ。ギョーザ事件でも、中国で容疑者が逮捕されたとはいえ、事実関係に判然としないところがあるみたいだし......」
「ギョーザかぁ」喜屋武はのんきに伸びをした。「そういえば、腹が減ってきた。こんなときに申しわけないが」
「お昼を食べてませんからね」
「オペラ座界隈にサッポロラーメンの店があったけど、ソーキそばはあるかな」
「ないでしょう......。沖縄料理は」
「日本の味が恋しくなってきたさー。フレンチのレストランは、騒動の影響で閉まっているところも多そうだし」
楚辺がいった。「先生。なら、うちで作りますよ。アパートの部屋で」
「できるのか?」
「はい。笊や圧力釜はありますから、あとはスーパーで材料を揃えれば。......ただ、そのう、パリに着いたら真っ先にベランジェールに向かいたいので」
莉子は楚辺を見た。「じゃあ、わたしがスーパーに買いだしに行く。でも、醤油や昆布や鰹だしはなんとか揃うかもしれないけど......。泡盛や黒糖は?」
「似た調味料があるよ」楚辺は記憶を探ろうとするように眉間に皺を寄せた。「ええと、まず泡盛に関しては、ギリシャの島で日本酒そっくりの酒を造っているところがあって。なかでもニコス島のマカリオスって銘柄が......」
「待って」莉子はメモ帳を取りだした。「マカリオス......。綴りは?」
ボールペンを手にしてメモ帳を開く。ふと気になるものが目にとまり、莉子は思わず静止した。
楚辺がきいてきた。「どうかした?」
「ええ......」と莉子はつぶやいた。
赤表紙のダブルリング綴じのメモ帳。さっきは気づかなかったが、その一ページめに数字が書きこまれていた。
41 18 36 25
四つの数字はいずれも線の太さや濃さが異なり、違うペンが使われているのがわかる。また、すべて別の筆跡のようだった。間隔もまちまちだ。
莉子はメモ帳を楚辺に見せた。「これ、なんだかわかる?」
「......さあ」楚辺は首を傾げた。「見覚えのない数字だ。字の癖も......馴染みがないな。知り合いじゃないかも」
喜屋武がいった。「さっきの工場でもらったメモ帳だろ? しかも捨ててあった物じゃないか。従業員が誰かが、走り書きしただけさー」
「......そうですね。たぶん」
「凜田。数学の先生、覚えてるか。知念先生」
「ああ、はい。もちろん」
「あの人、数列を見ると、それらの数字の因果関係を求めたくて仕方なくなるみたいでな。生徒の緊急連絡網に記された電話番号をじっと見つめたりしてることもあった。教頭先生が不審がって、声をかけたぐらいだ」
莉子は笑った。「そんなことがあったんですか」
「凜田もいろいろ勉強したみたいだが、まさか数学者への道を歩んでるわけじゃないだろ。数字を目にしたからといって、急に計算に没入するのはよせ。暗くなっちまうぞ」
「わかりました。気をつけます」
「......っていうより、そんな心配はないか。いくらなんでもそこまでの頭脳派になっちゃいないよな。凜田。ここに三本の棒があったとする。表層はペンキでそれぞれ赤と青と黄に塗り分けられてるが、素材は木製または純金製のどちらかだ。もし赤が純金製だったら、黄は木製。一本もらえるとしたら、どれにする?」
「青ですね。条件に合致する組み合わせのパターンは六つ。うち、赤もしくは黄が純金である確率は三分の一、青は二分の一ですから」
喜屋武と楚辺は絶句したようすで、互いに顔を見合わせた。
楚辺は呆然とした面持ちできいてきた。「きみ......。本当に凜田かい?」
莉子は思わず苦笑した。「きのう先生にもきかれましたけど、間違いないです......」
「そうか......安心したよ」楚辺はこわばった笑いを浮かべた。「で、さっきのマカリオスの綴りだけど、M、A、K、A、R......」
「M、A、K......」莉子は復唱しながらメモ帳のページを繰った。
またしてもその手が自然にとまる。
最後のページにも書きこみがあった。今度も四つの数字だ。
29 32 16 48
さっきとは異なる数字。使われているペンも四種類だが、最初のページのものとは違っている。合計八種類の筆記具。しかも、筆跡も一致していなかった。すなわち八人がそれぞれ、二桁の数字を書きこんだことになる。
ぱらぱらとページをめくってみたが、ほかは白紙だった。書きこみは、最初と最後のページのみだ。
「凜田」と喜屋武が咎めるように見つめてきた。
莉子はため息をついた。ささいなことばかり気にしすぎだ。いまは手もとの問題に集中しよう。ソーキそばが食べられるか否かが現在の課題だ。ほかに注意を奪われるべきではない。
実況見分
楚辺瑛翔は、パリのリヴォリ通り沿いの歩道をひとり駆けていった。ベランジェールに戻ったのは、午後六時すぎだった。
いつもなら開店準備に追われているはずの店内は、別の理由であわただしかった。エントランスからフロアにかけて、パリ市警からの捜査員がひしめきあっている。
保健局による検査は終わったらしく、無菌服姿の男たちは専用のバンで現場を後にするところだった。ロビーにあったはずの、見慣れたアンティーク家具や調度品の数々は運びだされていた。床の絨毯さえ剥がされている。
制服警官に行く手を遮られたが、楚辺は従業員であることをしめすIDカードを見せ、通行の許可を得た。
ディナー用のフロアに足を踏みいれる。絢爛豪華な宮廷を思わせるこの空間も、いまはテーブルや椅子がすっかり姿を消して、あたかも舞踏会場のように見えてくる。グランドピアノのみ搬出しきれなかったのか元の場所に残されているせいで、いっそうダンスフロアの様相を呈していた。
とはいえ、無粋で武骨な私服警官たちが腕組みしてたたずむさまは、パーティーの優雅さからはかけ離れたものだった。彼らは一様に険しい顔で、フロアの中央でおこなわれている実況見分に見いっていた。
彼らの視線の先には、パリ市警でも見かけたジュリエンヌ・バゼーヌ警部がいる。金髪を頭の後ろで束ね、レディススーツに身を包んでたたずんでいた。猪首の刑事たちとともに、ひとりの容疑者を囲んでいる。
容疑者のその男は、粗末な麻のジャケットをまとい、キャスケットをかぶっていた。
コックコートから普段着に着替えたイヴォン・ダングルベールは、ひどく貧相で卑屈に見えた。冴えない中年男が、おどおどしながら質疑に応じている、そんな印象だった。たった一夜にしてずいぶん老けこんだな、楚辺はそう思った。
「で」女性警部のジュリエンヌはボールペンを突きだした。「あなたはいつもより一時間早く無菌エリアに入った。そのころには、まだ誰も出勤していなかった。そうね?」
ダングルベールは視線を落としながら、弱々しく応じた。「その通りです......」
「早く出勤した目的は?」
「食材の一部を......粗末なものにすりかえる予定でした。用意した食材を五つほど持ちこんだんです」
その告白は楚辺にとって、まさしく衝撃にほかならなかった。
わが耳を疑うとはこのことだ。断じて受けいれられなかった。彼は誰よりも、食の安全を説いてきたはずではなかったか。客の満足を第一に考えるコックの鑑、ずっとそう信じてきた。なのに、いま彼が目にした言葉は......。
ジュリエンヌに代わり、猪首のひとりがきいた。「その持ちこんだ食材というのは?」
ダングルベールはつぶやくようにいった。「先月の休暇で、スペイン国境を越えてすぐの、サン=セバスティアンって街までクルマを飛ばして行きまして」
「サン=セバスティアン? バスク地方だな」
「はい......。そこで知り合った農夫から、でき損ないの鴨の脂肪肝を五つ譲り受けたんです。農夫は鴨の猟師でもあって、隣りのランド地方にある自分の農場でフォアグラを作るのを試みたんですが、うまくいかなかったみたいで......。鴨に餌のトウモロコシを与える過程で、ちゃんと飲みこませることができずに、嗉嚢に貯めこませちまったんです」
それが騒動の元凶か。異物混入ではなかった。フォアグラ自体に問題があったわけだ。
嗉嚢は、動物の消化管の一部だった。食道につづいた部分が膨らみ。餌を一時的に滞留させる仕組みになっている。フォアグラは鴨に大量のトウモロコシを強制給餌することで太らせ、肥大化した脂肪肝を作らせるが、鴨が餌を飲み下さず嗉嚢に蓄積してしまうと、それらは発酵し、結果として鴨の体内に多量の酸を発生させる。
酸を過剰に含んだフォアグラ食材。しろうと製法にありがちな不良品、粗悪品。問題はそれだけに留まらない。酸を多く含んだフォアグラは、極甘口の貴腐ワイン、ソーテルヌの糖度を高めるためのボトリティス・シネリア菌と反応して毒素となる。摂取すると、命に別状はないものの、ひどい嘔吐に襲われたり発熱に見舞われたりする。フォアグラをソーテルヌにあわせる客が多いことを見越したうえでの、意図的な犯行の可能性も捨てきれない。警察はそうみているのだろう。
腐敗してはいないため、外見上は安全な食材との区別はつきにくい。とはいえ、化学検査によってそれらを選り分けるのは、この業界において基本中の基本だ。バベット精肉にしろコタヴォ精肉にしろ、出荷前のチェックで見落とすとは考えにくい。
とすると......。ダングルベールの告白は真実なのか。しかし......。
ジュリエンヌが冷やかな目でダングルベールを見据えた。「食材は一個ずつ真空パックに入っていたはずだけど」
「はい......。私が家で似たようなパックを施しました。家庭用パッキングのキットで」
「でも、真空パックはすべて氷漬けになってたんでしょう?」
「店に入荷した朝、総料理長の指示で従業員が氷を砕いたので......。そうしないと数を確認できませんから」
「ケースの蓋は? 入荷して中身をたしかめた後すぐに、総料理長の手によりシールが貼られて、ふたたび封印されたはずでしょう? 映像にも、あなたが無菌エリアで規定どおりに開封する姿が記録されてる。その後、食材をすりかえるような動作はなかったけど」
「すりかえは、無菌エリアでの開封前におこなったんです。封印をはがし、五つのパックを入れ替えてから、偽のシールを貼りました。これも、私の家のパソコンとプリンターで複製したものです」
「......正規の開封時、あなたの周りにはほかにも従業員がいたでしょう。食材の真空パックは、彼らを含め数人が手にしたはず」
「ケースの封印シールは私が切りましたから、彼らはよく見ていなかったはずです。私の持ちこんだパックも、極力、自分で手にとって開封するよう努めました。だから誰も気づかなかったんです」
嘘だ、と楚辺は思った。ゆうべのことなら、はっきり記憶に残っている。ダングルベールの主張は事実に反している。まるっきりでたらめだ。
抗議しようと口を開きかけたとき、荒々しい足音が室内に飛びこんできた。
スーツ姿の中年男が、つかつかとダングルベールに歩み寄っていく。やはりいつもと服装が違うせいで、誰なのかを判別するのに時間を要した。総料理長のシモン・カヴェニャックだった。
カヴェニャックは顔を真っ赤にして、憤りのいろをあらわにしていた。「ダングルベール! きさま、なんてことをしてくれた。恥を知れ!」
いきなりカヴェニャックはダングルベールにつかみかかった。私服警官らがあわてたようすで制止にかかる。店内はにわかに殺気立った。
たまりかねて楚辺は声を張りあげた。「やめてください!」
誰もが動きをとめ、こちらを見つめた。カヴェニャックとダングルベールの目にも驚きのいろが浮かんでいる。警部のジュリエンヌだけは、ひとり冷徹なまなざしを向けてきていた。
重苦しさを伴う静寂に気後れしながらも、楚辺は必死の思いで訴えた。「シールを貼り替えたなんて、そんなことありえません。僕は無菌エリアで一緒に作業しました。ダングルベールさんの隣りにいたんです。誓ってもいいです。あのシールは偽物じゃありません。入荷したときにカヴェニャックさんが貼ったままの物でした。ケースのなかの真空パックにしても、どれもきれいに形が揃ってたんです。手製のパックが紛れこんでいたら、触るまでもなく違いは目で見てわかります」
店内はしんと静まりかえった。
カヴェニャックが、ダングルベールに対し探るような視線を向けている。ダングルベールは床を見つめていた。
沈黙を破ったのはジュリエンヌ・バゼーヌ警部だった。「失礼、あなた、見習いの人よね。名前は、ええと......」
「楚辺です」
「そう。楚辺君。わたしと直接言葉を交わすのは、これが初めてよね?」
「はい......」
「あなたがいったことに、なにか根拠はある? シールが貼り替えられていなかったことを証明する、具体的な物証は?」
「......ケースをたしかめてみればわかることです。偽物が貼ってあるなら、ひと目で......」
「ところが、ケースはゆうべの開店前に処分されちゃったのよね。無菌エリアの映像記録を観たけど、天井に備え付けのカメラから俯瞰で撮影されてるだけなの。だから、手もとについては拡大してもドットが粗くて、よく見えない。ダングルベールの自白をひっくり返す決め手にはならないのよ」
「だけど」楚辺はあわてていった。「それなら、自白が本当だっていう証明にもならないでしょう?」
「そうはいっても、状況は裏付けられつつあるの。病院からの報告では、被害者たちは全員、たしかに酸を多く含むフォアグラを食べていたそうよ。皿の上の食べ残しからも酸が検出されたし、厨房からも実際に同様の食材が発見された。新たに身体の異常を訴えた客の数も併せて考慮すると、供述どおり五つほどのフォアグラホールが不良品だったとわかる」
そんな......。楚辺は思わず絶句した。
たしかに、僕の手ですべての食材を真空パックから取りだしたわけではない。でもこの店に雇われて以来、連日のようにおこない慣れ親しんできた作業だ。異状があればすぐに気づく。不審な工作があったなんて考えられない。断じてありえない。
しかし、理詰めでは勝ちようがなかった。ジュリエンヌは冷静に結論づけてきた。「出荷元のバベット精肉およびコタヴォ精肉になんら問題なしと、オルレアン警察署のギュスターヴ・シャミナード警部からも報告が入っているわ。すべてを考えあわせると、ダングルベールの自白には信ぴょう性があると判断せざるをえない」
楚辺は納得がいかなかった。募るばかりの疑念を直接、その対象にぶつけた。「ダングルベールさん。嘘をつかないでください。あなたがこんなことをする道理はないはずです」
総料理長のカヴェニャックは苦々しげにいった。「ダングルベールには三歳の息子がいる。名前はセヴランだったな。国の福祉はそれなりに充実してるとはいえ、子育てには金がかかる。おおかた、ほかの店に金でも握らされてやったことじゃないのか」
ダングルベールは何もいわず、ただ目を閉じてうつむいた。
楚辺は胸もとを鋭い刃で抉られた気がした。ダングルベールのその反応は、あたかもカヴェニャックの指摘が図星であると認めたかのようだった。
ジュリエンヌはなおも落ち着き払った声で告げた。「カヴェニャックさん。彼が自白に及んだ理由もまた、息子さんあってのことかもしれません。わたしはそう信じます」
しばし沈黙があった。ジュリエンヌが腕時計を見やってから、ほかの刑事に目を移す。
いかめしい顔の刑事が、ダングルベールにゆっくりと歩み寄ると、手錠を取りだした。ダングルベールは抵抗の素振りもみせず、黙って両腕を突きだした。
鋭い音とともに、金属の輪がイヴォン・ダングルベールの両手首に巻きついた。
絶望と失意が同時に襲う。楚辺はダングルベールを見つめた。
ダングルベールは楚辺と目を合わせることなく、刑事たちの誘導に従い、ゆっくりと戸口に歩を進めていった。
つづいて立ち去りかけたジュリエンヌに、カヴェニャックが声をかけた。「あのう」
「なにか?」とジュリエンヌが振りかえった。
「原因もはっきりしたことですし......。店のほうは、いつ再開できそうですか」
「それは被疑者確保とはまた別の問題ですね。というより、ふたたび営業を開始することは難しいでしょう」
「難しいって......どうして? あいつの工作がないかぎり、不良品の食材が紛れこむなんてことは二度と......」
「原因はどうあれ、不良食材を見抜けず調理して客に提供した事実に揺らぎはないわ、食の安全という面からみても忌々しき問題でしょう。保健局の調査結果を待って裁判所の判断を仰ぐことになるでしょうけど、わたしの考える限り、再開は不可能ね。お気の毒だけど」
同情のかけらもしめさず、ジュリエンヌはそう言い放つと、踵をかえして戸口に歩き去った。
カヴェニャックは呆然とした面持ちでその背を見送っていたが、やがて項垂れると、無言で退室していった。
私服警官たちが散りはじめる。楚辺はなにもいえず、その場に立ちつくしていた。
ひとりの警官が楚辺に近づいてきて告げた。「ほかの従業員同様、きみにも話をきかなきゃならん。明朝、九時に署のほうに来てくれないか」
返事も待たず、その警官は歩き去っていった。
視界が揺らぎだす。涙がにじみだしていた。理想はここにあった。なのに、たった一夜にしてすべてが崩れ去った。夢を追った五年間は無駄に終わった。残ったのは、胸にぽっかりとあいだ空虚さだけだった。
ツタンカーメン
翌朝早く、まだ青空にわずかな赤みを残す時間帯、莉子はエッフェル塔の真下にいた。
東京タワーとは違ってここに建物はなく、四本の脚のなかは、石畳の広場になっている。じきに塔に登ろうとする観光客がチケット売り場前に長い列を作り、無許可の土産売りがうろつきだすのだろう。
けれどもいまは、朝の陽射しが足もとに長い影をつくるほかに、広場を埋めるものはなかった。売店のシャッターも下りている。鳩さえも寄りついてはこない。まだ餌をもらえる可能性は低いと判断しているのだろう。
若い男女のジョガーが息を弾ませながら通り過ぎていく。きょうも平和な一日の始まりだった。表層的には、であるが。
喜屋武が深呼吸しながらいった。「ゆうべのソーキそば、うまかったなぁ。ほとんど完璧な八重山そばの味だったさー。おかげで活力がみなぎってる。やっぱ楚辺は料理人の素質に溢れているな。フレンチに限らず、なんでもござれって感じじゃないか」
職場復帰の見込みの立たない楚辺に対する気遣いなのはあきらかだった。ベンチに腰をおろした楚辺は、うつむきながらも微笑した。「凜田の食材のチョイスがよかったんですよ。まさか沖縄産の黒糖の味に近い、マスコバド糖の銘柄があるなんてね。勉強になったよ」
莉子も笑ってみせた。「あのスーパーマーケット、モノプリだっけ? ほんとに品揃えが豊富なのね。買い物にはぜんぜん苦労しなかったわ」
「調理も凜田が手伝ってくれたから、スムーズにできたんだよ......。なんでも器用にこなすね」
喜屋武はいった。「まったくその通りだ。良妻賢母の素質ありってとこだな」
気まずい空気が流れる。莉子は楚辺と視線を逸らしあった。
いまひとつ場違いな発言を吐いてしまったことを、敏感に察知したらしい。喜屋武はとぼけたような顔でふたりから離れ、ぶらついた。その目が一点を見つめてとまる。
「おや?」と喜屋武はおどけたような声をあげた。「ありゃいったい何だ?」
車道をはさんだ向こう側、シャン・ド・マルス公園の芝生が広がる方面を、喜屋武はじっと凝視している。
その視線を追うと、ベンチに奇妙なものが腰かけているのがわかる。全身を金いろに包んだ、怪しげな人物だった。
よく目を凝らすと、顔はツタンカーメンだとわかる。再現度はさほどのものではなく、どことなく愛嬌のあるマスクの造形だった。仮面を被り、身体は黄金いろのマントで覆っている。脚を伸ばしてベンチに座ったまま、彫像のように身じろぎひとつしない。
足もとには、小さな缶が置いてあった。小銭をいれるためのものらしい。
楚辺がつぶやいた。「この辺りでよく見かける大道芸人ですよ。シャイヨー宮やシャンゼリゼ通りにもいるから、たぶん複数存在するんでしょう」
「ああ」喜屋武は笑った。「ニューヨークにも自由の女神の扮装をしている輩がいたな。ぴくりとも動かないってのがひとつの芸なわけだ。金をいれると何かやってくれるのか?」
「さあ......。試したことはないので」
「一ユーロあげてみよう」と喜屋武は歩きだした。
好奇心旺盛な先生......。その背を見送りながら莉子は楚辺にきいた。「なんでツタンカーメン? パリと関係ある?」
「わからないな。コンコルド広場にルクソール神殿のオベリスクが建ってるけど、その関係かな。本人にきいてみたら?」
喜屋武が横断歩道を渡り、ツタンカーメンに近づいていく。恐縮したようすで頭をさげたが、ツタンカーメンのほうは無反応だった。
莉子はいった。「遠慮しとく。......ねえ、お店のことだけど」
「もう気にしなくていいよ」
「え?」
「僕の個人的なことにすぎないし、職場の事情に振りまわされるってのも、よくある話だし。きみだって、いまの職に就くまでは紆余曲折あったんだろ? 同じことだよ」
「だけど......。本当にイヴォン・ダングルベールって人のしわざだったの?」
楚辺は真顔になった。「考えられないよ。絶対に違うと思う」
「じゃあ真実を突きとめないと......」
「いいから」楚辺は穏やかに告げてきた。「パリにいられるのも、きょうと明日いっぱいだろう? 観光を楽しみなよ。僕はまだ見習いにすぎないんだ。これから何度でも出直せる。いつでも希望はあるよ」
「楚辺君......」
朝の静寂に、からんと金属音が響く。
公園に目を向けると、喜屋武が缶にコインを投入したところだった。
ツタンカーメンはおもむろにベンチの背から上半身を起こすと、座ったまま機械的な動作で深々とおじぎをした。そしてふたたび頭があがり、元の姿勢に戻った。
しばらく時間が過ぎた。ツタンカーメンは不動だった。
「それだけかよ!」喜屋武が声を張りあげた。「一ユーロなのに。楽し過ぎだろ。ていうか、どんな意味なんだ? なぜツタンカーメンさー?」
楚辺はそれを見て微笑すると、ゆっくり立ちあがった。
莉子はきいた。「どこへ......」
「警察署。事情聴取に呼ばれてる」
「まだ時間あるでしょう?」
「ここからじゃ距離あるし、地下鉄に乗らずに歩いていきたいから......。じゃ。先生にもよろしく伝えといて」
背を向けたまま、楚辺は立ち去っていった。振りかえることはなかった。丸めた背が、話しかけられることを無言のうちに拒んでいた。
莉子は黙って見送るしかなかった。それでも、胸の奥が疼きだす。
何もせずにいるなんて不可能だ。わたしは彼を信じる。すなわち、真相は別のところにある。事実を白日のもとに引きだし、彼の閉ざされた未来にふたたび希望の光を宿らせる。いまのわたしにできることは、それだけだ。
決意に満ちた莉子の耳に、喜屋武の声が飛びこんできた。「おーい、凜田」
公園を振りかえると、何も知らないようすの喜屋武は、ツタンカーメンと仲良くベンチに並んで腰かけていた。「そこからデジカメで撮ってくれないか。後ろの噴水もいれてくれよ」
正面突破
莉子は楚辺のアパートに戻るや、リビングの本棚に駆け寄った。
喜屋武が面食らったようにたずねてくる。「凜田。どうしたんだ?」
この辺りにあったはずだ。楚辺は出勤前にクリップボードをチェックしていた。挟んであった書類は二種類。従業員の連絡先と、シフト表だった。少なくとも、わたしの目にはそう映った。
棚を埋め尽くす料理本の隙間に板状のものを発見した。すぐさま引き抜く。記憶していたとおりだった。楚辺のクリップボード。書面は当然ながらフランス語だった。名簿は店内における役割別に記載されていた。Cuisiniers という欄に目を転ずる。厨房関係者。ファミリーネームの頭文字がAの調理師から順に記載されている。
ほどなくその名は見つかった。ダングルベール、イヴォン。
「あった」と莉子は思わず声をあげた。
「凜田......。まさか、家を訪ねるつもりか」
「ほかに方法はありません。楚辺君によれば、ダングルベールさんは嘘をついている。つまり、なんらかの理由で罪を被ろうとしてる。店の人間ですら事情を知らないわけだから、家庭に目を向けるしかありません」
「遠くに住んでるんじゃないのか?」
「いいえ。楚辺君もいってました、従業員は近くにアパートを安く借りられるって」莉子はリストの記載内容を確認した。「サン=ロエル通り二一七、部屋番号三一四。このすぐ裏じゃないですか、やっぱ近所です」
莉子はクリップボードを本棚に戻すと、足ばやに玄関の扉に向かった。
喜屋武が歩調を合わせてきた。「ご家族がいたらどうする? まずは電話をかけてみたほうがいい」
「無実の罪を着ようって人の家庭ですよ」莉子は廊下にでた。「ありのままを観察するためにも、唐突に訪ねるべきです」
「やりすぎじゃないのか?」
莉子は喜屋武が廊下にでるのを待って、扉を閉めて鍵をかけた。「楚辺君はダングルベールさんの無実を信じてます。わたしも楚辺君を信じます」
螺旋階段を駆け下りる。喜屋武も後からついてきた。「それは先生も同じ気持ちだよ。だがな、凜田。高三のころ、職員室に呼ばれたときのことを覚えてるか。おまえはご両親ともども、怪しげな通信教育を申しこんでた」
「ええ。先生のおかげで事なきを得ました。とっても勉強になりました」
「あれはクーリングオフ期間をいたずらに消化させて、キャンセルできなくするっていう単純な手法だったが、犯罪者ってものはずる賢い。まして勝手のわからない異国だ、どんな奸智か潜んでるかわからんぞ」
階段を下りきって、大きな木製の扉を押し開け外にでた。莉子は喜屋武を振りかえっていった。「先生。部屋で待っててくれてもかまわないですよ」
「見損なうな」喜屋武は真剣な面持ちで見かえしてきた。「臆病風に吹かれて、こんなことをいってるわけじゃないんだ。元教え子にひとりで危ない橋を渡らせるわけにはいかん」
「さすが先生ー。学年女子の人気ナンバーワンだっただけのことはありますね」
「......そうなのか? いや、冷やかすのはよせ」
まんざらでもないようすの喜屋武が胸を張ってついてくる。莉子は路地をピラミッド通り方面に向かい、横断歩道を渡った。サン=ロック教会を右手に見ながら、目指すサン=ロエル通りの標示板を確認する。
古い街並みであっても住所はわかりやすい。クルマの往来のほとんどない細い道、建ち並ぶビルの四軒め。アパートらしきたたずまいがあった。八階建て、いやフランス風にいえば七階建てか。
ここにも正面に大きなエントランスの扉がある。インターホンのテンキーで部屋番号を押した。三一四。呼び出しのベルがかすかに響く。
しばらく間があった。スピーカーからノイズがきこえ、それから女性の低い声が応じた。「はい?」
ここは嘘をつくわけにはいかない。騙して扉を開けさせても、対面した直後に警察を呼ばれたのではなんの意味もない。
莉子は告げた。「おはようございます。イヴォンさんが面倒をみていた調理師見習いの日本人青年、ご存じですか、彼の友達です」
「......なにか?」
「わたしたちも今度のことで当惑してまして......。ぜひお会いして、お話をうかがえればと」
しばし沈黙があった。
駄目かなぁ......。不安とともに喜屋武を見る。喜屋武も黙って見かえしてきた。
やがて、ブザーとともに開錠する音がした。
「どうぞ」と女性の声が告げた。「三階です」
莉子は心が躍る気がした。「ありがとうございます」
扉を押し開けてなかに入る。古い建物だ、やはりエレベーターはない。
喜屋武がため息まじりにいった。「三階ってことは四階だな」
「そう」莉子は階段を上りだした。「パリ暮らしも大変ですね」
延々と上りつづけ、何度となく踊り場をまわって、ようやく目的の階に行き着いた。
楚辺の住んでいるアパートよりは、高級感の漂う廊下に思えた。壁紙も床板も真新しい。表札を横目に見ながら歩いていき、ダングルベールの部屋の前にきた。三一四。
喜屋武がドアに手を伸ばした。軽く四回、ノックの音を響かせた。
思わず莉子は笑みとともに喜屋武を見つめた。「先生、さすが」
「ふん」喜屋武はにやりとした。「豆知識は凜田の専売特許じゃないぞ。初訪問のノックは四回じゃなきゃ失礼さー」
かちりと錠が外れる音がきこえた。きしみながら扉が開く。
顔を覘かせたのは、三十代半ばの痩せた白人女性だった。年齢からしてイヴォン・ダングルベールの妻だろう。黒髪を長く伸ばしているが、どことなく乱れている。化粧はしておらず、顔のいたるところに染みやそばかすがあった。目の下にくまができていて、やつれたようすでもある。
モノトーンのボーダーワンピースは部屋着としては洒落ていて、ふだんはそれなりにファッションに気を遣う性格だとわかる。ところがいまは、ノーメイクのみならずアクセサリ類も身につけずに、接客に応じている。
夫が逮捕されたとあっては、眠れない夜を過ごすのも無理はない。けれども、どこか妙だ。疲弊しすぎているように思える。血の気もひいて顔は青みがかっていた。
莉子は自己紹介した。「凜田莉子と申します。楚辺瑛翔君の友達でして。こちらは、高校時代の担任の喜屋武友禅先生。......あのう、だいじょうぶですか? お身体の具合は......」
「ええ。心配いりませんわ」女性はつぶやくようにいった。「エミリー・ダングルベールです。主人のことでおいでになったからには、昨晩のことは......」
「はい。存じあげております」
「......お入りになって」エミリーは扉を大きく開けた。「すみませんけど、もの音を立てないよう願えませんか。子供がまだ寝てるので」
「わかりました」莉子はささやいて、足音をしのばせながら戸口のなかに入った。
間取りはファミリータイプで、やはり楚辺のアパートより部屋数は多そうだった。この建物は外観だけでなく、内装にまでアール・ヌーヴォー風の暖炉や室内彫刻が残されている。リビングのソファやキャビネットも、レトロなスタイルで統一されている。キッチンはリフォームしたらしく、食器洗い乾燥機もついた最新のものだった。棚は雑多な物が押しこめられていて、生活感がにじみでている。
散らかっているのは、小さな子供がいるせいに違いなかった。両親も自由奔放さを推奨しているのか、部屋じゅうに子供が描いたとおぼしき絵が貼りだされている。幼児の絵にありがちな、ピカソも真っ青の前衛的なクレヨンの表現からは、何か描かれているのかを読みとるのは難しい。しかしよく見ると、どの絵もスタンドに大勢の客が詰めかけ、フランスの国旗を掲げている。さらに目を凝らせば、バスケットボールのコートだとわかった。
半開きの扉の向こう、子供の寝室があった。NBAのポートランド・トレイルブレイザーズの応援旗やポスターが壁に貼ってある。べッドの上で、毛布が小さく盛りあがっていた。
莉子はいった。「お子さん、バスケットボールが好きなんですね」
「ええ」エミリーは寝室の扉をそっと閉めた。「主人の影響ですの。トルコの大会をテレビで観戦する日が来るのを、ずっと待ちわびてて......。毎日のように絵を描いてたんですよ」
トルコの大会とは、下旬から始まる第十六回バスケットボール世界選手権のことだろう。貼りだされた絵は、いずれも隅に日付が記されていた。古い絵は退色しているのですぐに見分けがつく。年月日は三か月ほど前だった。そこから日付順に部屋をぐるりと囲むように貼られ、きのうときょうの絵に達する。成長とともに、それなりに腕をあげているようだ。
「ふうん」莉子はエミリーにきいた。「けさも描いたんですか? その後で寝たとか?」
「ええ......」エミリーは複雑な表情をのぞかせた。「早くに目覚めて朝食をとるんです。いつもならそのまま起きてるんですけど、きょうは主人がいないので......」
寂しさもあって、ふたたびベッドに潜りこんだのだろう。室内にきのうまであったはずの活気がふいに失われた。イヴォンが当たり前のようにいた日の名残りが感じられるのが、なんとも切なかった。
テレビは音量を絞った状態で、点けっぱなしになっていた。CMが流れている。女性が自家製のサンドウィッチやスシを箱に詰めて、ピクニックにでかける映像だった。日本の弁当によく似ている。そう思っていると、画面に大きく文字がでた。。〝Bento boite〟。
喜屋武がつぶやいた。「そのまんまだな」
莉子はエミリーを振りかえった。「奥さまも、ご主人のことは心配でしょう?」
「もちろん......。早く裁判になって、情状酌量の余地が認められればと思います」
胸にひっかかるものがあった。酌量。彼女はそういった。
「あのう」莉子はエミリーを見つめた。「失礼ですが、奥さまはご主人が罪を犯していると......」
「わかりません」エミリーは硬い顔でいった。「ただし、逮捕されたのは事実です」
「それはそうですけど......」
「逮捕されたからには、一刻も早く罪を認めて、反省する気持ちがあることを裁判官にアピールして、家に帰ってきてほしい。それだけです」
「でもそれでは、ご主人の名誉が失われたままになります」
「たしかに悔しいですけど、セヴランが......息子が、父親の帰りを待ち望んでいるので」
莉子は口をつぐみ、黙りこむしかなかった。
子供のためにも、夫の帰還を待ちわびている。その心境はわかる。しかし、だからといって前科者のレッテルを貼られることを躊躇しないものだろうか。一家の担い手が社会的な信用を失墜させることは、今後の家族の生きざまに大きく影響を与える。収入も落ちこむだろう。それが気にならないというのだろうか。
エミリーは無表情に見かえしてきた。「ところで、お話というのは......」
「ああ......」莉子はいった。「ええと、おたずねしたいことがあったんです。ぶしつけで恐縮ですが、ご主人がもし犯行に及んだのなら、その理由にお心当たりはありませんか」
「......さあ。仕事のことはいっさい、家で語らない人だったので」
「そうですか......」
「すみません。もしほかにお話がなければ、わたしも疲れてますので......」
「わかります。本当にご迷惑をおかけしました」
莉子がそういって踵をかえそうとしたとき、喜屋武がささやきかけてきた。「凜田、見ろ」
喜屋武はテレビの画面を指さしていた。ニュースが始まっている。男性キャスターの肩ごしに映しだされているのは、ベランジェールの外観だった。
キャスターの声は告げていた。「パリのフォアグラ専門店の老舗、ベランジェールで数十人の客に健康被害が生じた事件で、パリ市警は昨夜、この店に勤める四十代の調理師を逮捕したと発表しました」
イヴォン・ダングルベールの名は伏せられていた。この国では実名報道の基準がどのあたりにあるのかはわからないが、まだ当局は捜査に慎重な姿勢を崩していないのだろう。名誉を挽回するチャンスはまだある。
だが妻のエミリーは、まるで死刑宣告でも下ったかのように悲痛のいろを浮かべ、ただ無言でうつむいていた。
失意の念に染まり過ぎてはいないか。莉子は疑問を募らせた。どうして希望に目を向けようとしないのだろう。
テレビからキャスターの声がきこえてくる。「この調理師は、粗末な食材をスペインの猟師から購入したとしており、捜査本部はその取り引き現場とされる写真を押収し、報道陣に公開しました」
画面に映しだされた一枚の写真にはふたりの人物が写っていたが、いずれも顔にモザイクが入っていた。ひとりは Un suspect と字幕で示されている。容疑者、つまりイヴォン・ダングルベールらしい。もうひとりの男は太っていて、デニムのジャケットを羽織っていた。
ふたりが立っているのは風光明媚な海岸の前で、背景には桟橋が見えている。看板の文字はスペイン語だった。埠頭にはコロンブスの古い立像があって、右を向いている。
供述どおり、スペイン国内であることは間違いない。しかし......。
莉子はエミリーにきいた。「この写真、誰が提供したんですか?」
「......主人が自供するにあたって、持ちだしたときいてます」
「持ちだした? じゃあ写真はこの部屋にあったんですか?」
「ええ」
「一緒に写っている相手のことはご存じですか」
「それは......知りません。さっきもいったように、主人の仕事については関知していないので。申し訳ないですが、これで......」
莉子はエミリーの顔をじっと見つめた。
決定的な物証などひとつも存在しないというのに、この落ちこみようはなんだろう。
ニュースで紹介された写真には少しばかり違和感を覚える。さらには、部屋の壁を埋め尽くす絵。セヴランの描いたバスケットボールの試合。どうにも気になる。
ふたたび絵を眺め渡したとき、ふとあることに思いが及んだ。
莉子のなかに、ひそかに焦燥が募った。
まさか......。いや、ほかに可能性はない。
「どうも」莉子は心情をつとめて顔にだすまいと努力しながら、エミリーに告げた。「お邪魔しました。幸せな日がすぐにでも戻ってくることを、心からお祈り申しあげます」
「ありがとう」エミリーは力なくつぶやいた。「では......」
莉子は玄関に向かった。喜屋武も頭をさげて、莉子につづいてきた。
ふたりが廊下にでると、エミリーは一礼をして、扉を閉めた。
静寂のなかに、鍵をかける音が響く。莉子は喜屋武とともに立ちつくした。
喜屋武は小声でいった。「辛いな。子供も可愛い盛りだろう。一家の大黒柱が捕まったとあっちゃ、奥さんも今後......」
それ以上、耳を傾けている暇はなかった。莉子は階段を駆け下りだした。
「おい」喜屋武のうわずった声が響いてきた。「凜田? どこへ行くんだ」
「パリ市警」
「市警って、あの警察署か? 何のために......」
「説明している暇はないの。先生も早く!」
本当は、エミリーが部屋にいるうちに行動にでたかった。しかしそれは違法行為だ。彼女の理解も得られない。イヴォンを、楚辺を、そしてベランジェールを救うためには、当局を動かすしかない。正々堂々と、正面突破の道を選ばねば。
マルベーリャ
シテ島のパリ市警庁舎は、きのうの朝のようにすんなりと奥まで入りこめる状況にはなかった。莉子は喜屋武とともに二階の大回廊にまでは歩を進めたが、そこは大勢の報道陣でごったがえしていた。
ベランジェールの事件について取材に押しかけた記者たちだった。三階につづく大理石の階段の前で制服警官に遮られている。
捜査本部はこのすぐ上、開放された扉の向こう側だときいた。そこまで行けば関係者に申し立てができる。
しばらく待ったが、警官らは報道陣と押し問答を繰り返すばかりだった。記者たちは会見を開いて容疑者について詳しく説明すべきだと要求しているが、警察側は突っぱねている。
困った。参考人として呼ばれている楚辺の友人と告げて受付をパスできたのはいいが、莉子がいま用があるのは捜査担当者だ。
どさくさまぎれに頼んでみるか。莉子は喧騒にかき消されまいと声を張りあげて警官に告げた。「すみません。ジュリエンヌ・バゼーヌ警部をお願いします」
「あなたは?」と警官がきいてきた。
「凜田莉子といいます。楚辺君の友達です」
緊急か否かは判断できないだろうが、警部の名を口にしたのは効果的だったようだ。警官は踵をかえし、階段を駆け上がっていった。
喜屋武が耳もとでささやいてきた。「ここでは楚辺の友達というべきじゃないだろ。言葉を濁しておけばよかったのに」
「そうですか?」
「ああ。楚辺への差しいれなら下の階だといわれるだけだよ。たぶん、きのうの日本大使館長の若造がでてくるね。今晩のソーキそばを一杯賭けてもいい」
その可能性を吟味するまでもなかった。制服警官とともに階段を下りてきたのは女性警部ではなく、喜屋武が告げたとおりの人物だった。
高級そうなスーツをきちんと着こなした青年、矢崎凱哉は莉子の顔を見るなり、日本語でいった。「楚辺君なら下の階ですよ」
ほらな、と喜屋武が肩をすくめる。
莉子は矢崎にいった。「大至急、警部に取り次いでいただけませんか。緊急の用件なんです」
「緊急......?」矢崎は眉をひそめた。「警部になんの用ですか」
「容疑者とされてるダングルベールさんの家庭のことで......」
「ああ」矢崎は咎めるように片手をあげて制してきた。「凜田さん......でしたよね。きのうもいったでしょう。あなたは観光客です。同じ日本人として再度、忠告しますよ。この国で起きた事件は、この国の司法にまかせておけばいい。お友達の店の問題だからって首を突っこんじゃいけません」
「でも......」
「議論の余地はありません」矢崎は背を向け、立ち去りかけた。「疑問点があるなら、帰国前に楚辺君に伝えておけばいいでしょう。彼から店の経営者にでもきいてもらえばいい。むろん、彼の責任でね。あなたはこの件に関し、何ら関わりを持つべきではない。以上です」
「待ってください。ほんの五分だけでいいんです。警部さんと話させてもらえませんか」
だが矢崎は聞く耳を持たないようすで、振りかえることもなく階段を上っていき、扉の向こうに消えていった。
失意とともに、苛立ちが莉子のなかでくすぶりだした。ここで手をこまねいている場合ではない。
莉子はあえて日本語で、怒鳴った。「ねえ、矢崎さん!」
思いのほか声がよく通った。周りの報道関係者がぎょっとして静まりかえり、こちらを注視してくる。警官たちも妙な顔をして莉子を見た。
喜屋武も面食らったように、おずおずときいてきた。「どういうつもりだ、凜田」
かまわず莉子は大声でいった。「矢崎さん。わたし、フランス語も自分なりに勉強してきました。いまから日本語で喋ることを、あとでフランス語で繰りかえします」
日本語のわからない記者や警官たちは、ひたすら怪訝な面持ちで莉子を眺めている。
莉子は怒鳴りつづけた。「楚辺君にききました! ダングルベールさんはスペインのサン=セバスティアンで猟師と密会して、不良品の食材を五つ譲り受けたと供述してるって。でもそんなの嘘です。取り引きなんかなかったんです」
「なに?」喜屋武が目を瞠った。「そりゃ本当か、凜田」
恩師に答えるかわりに、莉子は大声で階上に呼びかけつづけた。「矢崎さん! ダングルベールさんが供述内容の根拠として提出したあの写真、見ましたか? 埠頭にコロンブスの銅像が写ってたじゃないですか。サン=セバスティアンなら海は陸から見て北にあります。スペインにあるすべてのコロンブスの銅像は、アメリカの方角を向いているから、西、つまり左を向いていなきゃいけません。ところがあの写真に写ったコロンブス像は右向きです。角度から考えても、あの海は南部のコスタ・デル・ソル。アンダルシア州マラガ県のマルベーリャです。地中海に面したリゾートで魚介類が豊富、鴨猟師ともフォアグラとも縁遠い土地です」
階段付近は沈黙していた。階上の扉から人の現れる気配はない。
莉子はなおも日本語で怒鳴った。「ダングルベールさんが休暇でスペインまでドライブしたってのは本当でしょうけど、その道中で撮られたあの写真は、供述内容と食い違ってます! 行ったのはマルベーリャなのに、フォアグラづくりのさかんなバスク地方と偽ってる。つじつま合わせのために、でっちあげの裏づけとして無関係の写真を提出したんです。ニュースではサン=セバスティアンとは公言していなかったので、視聴者から抗議は来ないでしょうけど、パリ市警本部が気づいてないはずないですよね? ......ではこれから、フランス語で同じことを繰りかえします。いいですか、いきますよ。ニュースで紹介された写真についてですが......」
そのとき、いきなり階上の戸口に矢崎が姿を現した。
矢崎は血相を変えて階段を駆け下りてくると、莉子の手をつかんで引っ張った。「きてください。警部がお会いになります」
莉子は矢崎とともに、階段を駆けのぼった。喜屋武もその後をついてくる。
ただならぬ気配に、報道陣たちはいろめきたった。莉子を追って階上に押し寄せようとして、またしても警官と押しあいになった。記者たちはいっせいに質問を投げかけていた。彼女は誰です。なにを喋ろうとしていたんですか。写真がどうかしたんですか。
喧騒が後方に遠ざかる。莉子は戸口をくぐったが、そのとたん、異様な気配に立ちすくんだ。
捜査本部には私服組と制服組の警官たちが入り混じって詰めていた。デスクワークをしていた者もいれば、出動態勢にあった者もいたらしい。いまは動きをとめて、ただじっとこちらを見つめている。
記者たちと同様に、捜査員たちも矢崎の取り乱した挙動に注意を喚起されたらしい。彼が連れてきた莉子と喜屋武に、何者なのかと探るような視線を向けてきた。
矢崎は捜査関係者らを見渡し、フランス語で弁明した。「すみません......。彼女が、捜査の極秘事項を記者の前で叫ぼうとしていたので。ええと、警部。彼女が警部に話があると」
奥のデスクに寄り集まって立つ、屈強そうな私服たちのなか、女性警部のジュリエンヌ・バゼーヌがこちらを見据えた。ゆっくりとデスクを迂回し、莉子のほうに歩み寄ってくる。
鋭い目つきで眺めまわすように莉子を観察しながら、ジュリエンヌはきいてきた。「何を知ってるの?」
単刀直入な問いかけだった。名前も素性もたずねようとしない。
莉子はジュリエンヌを見つめた。「自供の内容に疑わしい点が見えてきたわけですから、ダングルベールさんをいったん容疑者のリストから外すべきです」
ジュリエンヌはしばし黙って莉子を見つめかえすと、平然と首を横に振った。「まだその段階じゃないわ。筋が通らないところがあっても、彼は自分で罪を認めているわけだし」
危惧したとおりだと莉子は思った。この国でも警察の捜査はのんびりとしたものだった。竹富島の牛車の歩みのように遅く、じれったい。
「そういうことでしたら」と莉子はいった。「すぐにでもダングルベールさんのアパートにおいでいただかないと」
「アパート?」ジュリエンヌは片方の眉を吊りあげた。「どういう意味なのか理解しかねるけど」
莉子はジュリエンヌの青い瞳をまっすぐに見据えた。「すぐにでも行動を起こさなきゃいけません。三歳の子の命がかかってるんです」
扉
サン=ロエル通り二一七のアパート前にパトカーが連なって停車したのは、それから間もなくのことだった。
警官のひとりがインターホンで三一四を呼びだす。ブザー音とともに解錠した。まず制服警官たちが、つづいて私服、そしてジュリエンヌ・バゼーヌ警部がクルマを降り立ち、扉に向かう。
ジュリエンヌは足をとめて振りかえり、後部座席の莉子に呼びかけてきた。「あなたたちも来て」
日本の警察とはずいぶん違う。葉山警部補なら、クルマからでるなと念を押してくるところだ、現場に立ちあわせてもらえるだけでもありがたい。莉子はドアを開けて、車外にでた。
喜屋武も莉子の後についてきた。もう小言は口にしなかった。市警の捜査本部で莉子の説明をきいた以上、恩師の彼も今度ばかりは勇み足とは感じていないらしい。
三階まで上ると、扉の前にはすでに警官たちが群れていた。ひとりがノックをする。
錠が外れ、扉がそろそろと開く。エミリー・ダングルベールの不安げな顔が覘いた。
すぐさま、エミリーを押しのけるようにしてジュリエンヌが踏みこんでいった。「お邪魔させていただきます。どうも、エミリーさん。昨晩は警察までご足労いただき、ありがとうございました」
エミリーは戸惑いがちに、リビングにたたずんだ。「あのう......。急になんのご用でしょう。主人は......?」
「まだ署のほうで取り調べ中です」ジュリエンヌは警官らとともに、室内をうろつき周囲に目を配った。
困惑ぎみのエミリーの目が、こちらを見つめてとまる。莉子の姿を見て、いっそう心配になったらしい。表情がこわばっていく。
歩きまわる警官たちに対し、エミリーはささやくように告げた。「どうかお静かに......。子供が寝てるんです」
「ふうん」ジュリエンヌはエミリーを見やった。「こんな時間になってもまだ起きないんですか」
「......ちょっと身体の具合が悪いので」
「なるほど」ジュリエンヌは壁いっぱいに貼られた絵を見渡した。「体調を崩したせいで、絵にも影響があらわれた。そういうことですか」
エミリーは当惑顔できいた。「おっしゃる意味がわかりませんか」
しばしジュリエンヌは絵を眺めつづけていたが、やがてある一点を見つめて静止した。壁の絵を指さして、ジュリエンヌは莉子にたずねてきた。「これと、それからこれね」
「ええ」と莉子はうなずいてみせた。
少しばかり苛立ちを募らせたようすで、エミリーがきいてきた。「なんの話ですか」
莉子はエミリーを見た。「絵の描き手が変わってるんです。きのうと、きょうだけは」
「......描き手?」エミリーはあきらかに動揺をしめした。「これらの絵は、ぜんぶセヴランが......」
「すべてではありません。この二日間は別人の手によるものです。子供の一見でたらめな絵を模倣するのは、簡単なようで、じつは大変難しいんです」
「いったい何を根拠に......」
「国旗です」莉子はいった。「フランス国民のあなたならご存じですね? トリコロールの三色は面積が三等分されてるって説と、少しずつ違っているという説とがあります。青が三十パーセント、白が三十三パーセント、赤が三十七パーセント。はためいたとき、三色が均一に見えるようにするために、そんな比率になってるという説です。セヴラン君はその説の支持者なんですね。賢い子です。どの絵も赤、白、青の順にわずかずつ面積を狭くしながら描くことにこだわっていた。でもきのうときょうの絵は......」
エミリーは絵を見ることなく、目を伏せた。確認するまでもないのだろう。莉子はそう感じた。
ジュリエンヌが絵の前に立った。「この二日間だけ、国旗の三色の面積配分が均一になってる。子供より、むしろ大人が描きがちな絵じゃないですか。エミリーさん。そう思いません?」
するとエミリーの表情が、急に硬くなった。
居直ったかのようにジュリエンヌをまっすぐ見つめかえし、エミリーはたずねた。「何をおっしゃりたいんですか、警部さん」
女性警部のほうも動じなかった。「お子さんはどこで寝てますか? セヴラン君は?」
エミリーはいっそう険しい顔になった。「病気だといっても、納得してもらえないんでしょうね」
「寝顔だけでも拝見できれば、と」
張り詰めた空気が室内に蔓延する。ジュリエンヌとエミリーは互いに一歩も退くようすはなく、火花を散らしあっていた。
やがてエミリーが、ゆっくりと背を向けた。仕方ないわね、そうつぶやいた。奥の扉に向かう。
莉子がさっき訪ねたとき、扉は半開きになっていた。べッドに子供が横たわっているように見えたが、あれはシーツを盛りあがらせていたに過ぎないのだろう。セヴランはいない。きのうから姿を消している。莉子はそう考えていた。
エミリーは扉を軽くノックした。返事を待つようにしばしたたずむ。
どう言いわけするつもりだろう。莉子が見つめていると、エミリーは扉を開けた。
子供用べッドが見えている。エミリーはそこに歩み寄っていった。
「セヴラン」とエミリーは声をかけた。「ごめんね。ちょっと起きて」
そのときシーツが、もそっと動いた。
ゆっくりと起きあがる小さな子供の身体。フードつきのパジャマを着ている。頭はすっぽりとそのフードで覆っていた。エミリーがべッドに座ると、セヴランは母親に甘えるようにすり寄っていった。
莉子は愕然とした。
警官たちも、いっせいに息を呑んだようすだった。ジュリエンヌが表情を硬くして莉子を見つめてくる。
そんな......。セヴランは誘拐されている。そう考えれば筋が通っていたのに......。
エミリーはセヴランをあやすように胸に抱き、背をさすった。「だいじょうぶよ。心配しないで。ゆっくりお休み」
寝室の母子と、それを見つめる警官たち。奇妙な構図が室内にあった。
すると、喜屋武がふいに寝室に歩きだした。
突然のことで、呼びとめることさえできない。莉子は驚きとともにつぶやいた。「先生......?」
喜屋武は、断りもなく寝室に踏みいった。にこやかにエミリーに笑いかけてから、ぎこちない言葉づかいでセヴランに告げる。「おーよしよし。どうした、眠いか? 起こしちゃってごめんな」
法律も習慣も異なるアジア人が、カタコトのフランス語で喋りながら近づく。それも決して強引にではなく、むしろ愛想のよさと友好的態度をしめしながら。
エミリーにしてみれば、予想しえなかった事態だったのだろう。反発することすら忘れているようすで、ただ呆気にとられながら喜屋武を見あげている。
喜屋武は手を伸ばし、セヴランの頭をなでた。すると、セヴランは母親同様に、喜屋武にもなつくしぐさをみせた。エミリーの胸もとから這いだし、喜屋武に抱かれようと両手を伸ばした。
もはやエミリーは観念したように視線を逸らし、あきらめ顔のまま座っていた。喜屋武はセヴランのフードを脱がせながら、穏やかにたずねた。坊や、名前は?
フードの下から現れた、小さなインド系の浅黒い顔がつぶやいた。「クレマン」
「そうか、クレマン君か」さすがに会話が困難になってきたのか、喜屋武は笑いながら日本語でいった。「クレマン君、おうちはどこだ。本当のお母さんも心配してるだろ」
ジュリエンヌが寝室の戸口に歩み寄った。傍らの制服警官に耳うちする。
警官は寝室に入っていき、クレマンに声をかけた。おまわりさんと一緒に外にでよう。
クレマンは、エミリーに手を振って別れのあいさつをした。エミリーのほうは、ただ見かえしただけだった。クレマンは気にしたようすもなく、警官と手をつないでリビングを横切り、玄関の戸口の外に消えていった。
莉子は喜屋武を見つめた。「先生......。なんて大胆な。それとも気づいてたんですか? セヴラン君じゃないって」
「当然だろ」喜屋武は寝室からリビングに戻ってきた。「俺も教員になって久しいからな。母親が子供に接する態度は見りゃわかる。親子の愛情は万国共通だなってあらためて思ったよ。彼女はそうじゃなかった」
ジュリエンヌが腕組みをして、ため息まじりにつぶやいた。「ロマの子ね。どこから連れてきたの? この二日間の絵もあの子に描かせたのね」
エミリーは黙ってうつむいていたが、やがて耐えきれなくなったのか、両手で顔を覆った。肩を震わせながら泣きだした。
そのエミリーの偽らざる率直な感情が、すべての真実を物語っていた。
莉子は戦慄を覚えた。やはり、ダングルベール家の子セヴランはいない。誘拐された。
センチュリー
パリ市警本部庁舎の三階は、教会のようなアーチ型の廊下に取調室が連なっていた。そのなかの一室に莉子はいた。
壁ぎわに莉子と並んで立つのは、喜屋武、楚辺、そしてジュリエンヌ・バゼーヌ警部だった。四人はデスクの向こう側で、小さくちぢこまって座るイヴォン・ダングルベールの姿を眺めていた。
扉をノックする音がした。制服警官が荷物を抱えて入室してくる。布製の手提げカバンと衣類だった。それらがデスクの上に置かれる。ダングルベールの所持品だった。
「釈放よ」とジュリエンヌがぶっきらぼうに告げた。「と同時に、あなたからの被害届を受理しなきゃね。意地でも提出してもらうわよ。子供がさらわれているのに通報しないなんて、パリ市民の義務に反するわ」
ダングルベールはデスクに視線を落としていたが、やがてやつれた顔をあげると、ぼそぼそと喋りだした。「きのうの朝早く、アパートに帰ったら、妻が青ざめてまして......。エッフェル塔近くのメリーゴーランドでセヴランを遊ばせてたら、いつの間にかいなくなったときかされました。と同時に、ロマの子が手紙を届けてきたと......。そこに、犯人からの指示が書いてありました」
「その手紙はどこに?」
しばしダングルベールはためらうような素振りをみせたが、やがて意を決したようにカバンに手を伸ばした。ひっくりかえし、なかに入っていた本や筆記具、財布をデスクにぶちまける。からになったカバンの内側をまさぐった。
「ほつれた二重底の切れ間に押しこんでおきました」ダングルベールはそういって、小さく畳まれた紙片を取りだした。
それを受けとりながら、ジュリエンヌがため息をついた。「折りたたんだのはあなたよね? できるだけ元のまま保存してほしかったのに」
「すみません......」
紙片が開かれた。皺くちゃになったその表面を莉子はのぞきこんだ。パソコンのプリンターで印字されたとおぼしきフランス語。ほとんど隙間なくびっしりと綴られている。
ジュリエンヌが読みあげた。「子供が無事に帰ってくることを願うなら、以下の指示に従っていただきたい......。宛名も差出人名もないわね。でもあなたがベランジェールの料理人ってことは知ってたみたい。要するに、あなたが不良食材を持ちこんだことにして警察に自首しろと、一方的に命令してきたわけね。自供の段取りまでこまごまと書いてある。
『もし最近の海外旅行の写真があれば、そこで食材を調達したと主張すること』......か。説得力を増すためのアドリブも犯人の入れ知恵ってわけ」
楚辺が苛立ったようすでダングルベールに訴えた。「どうして本当のことをいってくれなかったんですか。料理人としての誇りを捨ててまで......」
ダングルベールはつぶやいた。「セヴランのことが心配だった。自分でもよくわかっていなかったが、今回のことで気づかされたんだよ。いまの私にとって、いちばんたいせつなのは息子だった。仕事はその次だ、きみもいずれ結婚して、子を持つ親になってみればわかる」
諭すようなその声の響きに、室内は自然に沈黙した。楚辺の顔にも、戸惑いと憂いのいろが同時に浮かんだ。
ジュリエンヌはなおも紙片を見つめていた。「子供の失踪を誰にも気づかれるな、とも書いてあるわね。『替え玉としてこの子を使え』とも......。この子ってのは、例のロマの男の子よね」
莉子はジュリエンヌにきいた。「犯人とどんなつながりがあるんでしょう。実の子だとか......」
「いいえ。たぶんお金で雇われただけでしょう。とにかくこれは鑑識にまわすわ。分析からなにかわかるかも」
「待ってください」と莉子はいった。「その前に、手紙を拝見できませんか」
「重要な証拠よ」
「それは理解してます。でも鑑識課が調べ終えるまでには、ひと晩を要するでしょう。いまわかることがあるかもしれません」
「失礼だけど、あなたは楚辺君のお友達で、ただの観光客......」
「仕事は鑑定家なんです。お願いします。一分だけでいいんです」
ジュリエンヌは黙りこくって莉子を見つめていたが、やがてふっきれたように、紙片をデスクに置いた。「じゃ一分だけ。折り目を増やさないでよ」
喜屋武はフランス語のやりとりをよく理解できなかったらしく、怪誘な面持ちになった。
「なんだ? 凜田が調べるのか?」
「しっ」楚辺が喜屋武を制した。「彼女の邪魔しちゃいけません」
莉子は紙片を眺めまわし、思いついたことを言葉にしていった。「薄手でじょうぶな紙......。たぶんインクジェットプリンター用のマット紙。廉価で、細かく折りたためる。きめは細かい。印字のほうは......水溶性染料を使ってる。印刷のムラは、インクがへッドに落ちて固まってるせいね。パソコンやプリンターの種類はわからない。フランスの製品には詳しくないし......」
ジュリエンヌが告げた。「そろそろ一分だけど」
「字体は......。行間も字間もぎりぎりまで詰めて設定してる。一枚にすべての文面をおさめるためね。字体はセンチュリーの活字体で統一してる。......いえ、違うわ」
「時間よ」
「待って。ねえ、これ変だと思いませんか。一行目、suivantes のtだけ字体が違う。ほかはセンチュリーなのに、一文字だけチェルテナムになってる」
「パソコンのキーのおかしなところを叩いちゃったんでしょう。よくあることよ」
「だけど......ほら、ここも。risque のr。それから二行目、o。i。......s。三行目、espere のr」
女性警部の顔つきが変わってきた。
ふいにジュリエンヌは身を乗りだし、デスクからメモ帳をひったくると、ボールペンで走り書きした。「t、r、o、i、s、r。それから?」
莉子は文面を目で追った。チェルテナム字体のところだけ拾っていく。「u、e、f、a、b......」
当初許された一分どころか、かなりの時間をかけて文末に達した。
ジュリエンヌはため息をとともに、ボールペンを投げだした。
メモ帳に綴られた文字を、莉子は見やった。troisruefabienneufe。数を表す単語を数字に直し、区切りをいれていけば、意味をなす文体になる。3 Rue Fabien 9e。
楚辺が驚きの声をあげた。ファビアン通りの三番地だって? 店のすぐ近くだ」
ダングルベールも目を丸くした。「というより、私のアパートのはす向かいだよ」
ジュリエンヌは穴が開くほど紙片を見つめてから、莉子に視線を移してきた。
「気にいらない」ジュリエンヌはつぶやいた。「警察への挑戦状って感じ。罠かもしれないし」
「けど」莉子は穏やかにいった。「記された住所を調べないわけにはいかない。そうでしょう?」
わずかに唇を噛んだジュリエンヌが、踵をかえして扉に向かった。開け放つとともに怒鳴る。「クリストフ警部補、パトカーを用意して。ただちに突入班も編成するのよ。全員、武装させて。優秀な部下だけ集めてよ。足手まといはいらないから」
皇帝ナポレオン
どんよりと曇った空の下、十数台の警察車両が連なって走る。リヴォリ通りから路地に入り、いくつかの角を曲がって、一方通行の狭い並木道に停車した。
莉子がパトカーの後部座席から降り立ったとき、すでに大勢の武装警官が辺りに展開していた。ジュリエンヌの呼びかけどおりに精鋭が揃ったらしく、きびきびとした動きをみせている。黒ずくめの防護服に身を固めた警官たちは、車道の閉鎖にかかっていた。通行を妨害された一般車両がクラクションを鳴らしている。
通り沿いのアパートから人の顔がのぞく。なにごとかと目を瞠っていた。警官たちは、続々とひとつの建物の前に集結していく。
石造りの古風な外観ながら、オフィスビル風に改装された細長い建物。日本でいう三階建てだった。最下階のエントランスはシャッターになっている。
ジュリエンヌが莉子にいった。「ここから動かないで。日本人のお友達はみんなここで待機。いいわね?」
さすがに今度ばかりは、先陣を切って乗りこむわけにはいかないらしい。どんな危険が待っているか予測できない。ジュリエンヌも突入は武装警官にまかせているらしく、大きく後退した位置にほかの私服警官らとともに陣取った。
武装警官たちは慎重にビルの周囲を調べているようすだったが、やがてシャッターに手をかけ、上方に開け放った。
意外なことに、施錠はされていなかった。手動のシャッターはたちまち天井のボックスに吸いこまれ、全開状態になった。
警官たちが踏みこんでいく。何匹か犬の野太い鳴き声がきこえる。それ以外には、もの音はしない。奇妙なほど静まりかえっている。
数分が過ぎた。ジュリエンヌの襟もとで、くぐもった声がノイズにまみれて響いた。無線を受信したらしい。
ジュリエンヌは短い言葉でそれに応じると、足ばやに歩きだした。「ダングルベール夫妻を連れてきて」
別のパトカーの後部ドアが、制服警官によって開けられる。イヴォンとエミリーが這いだしてきた。ふたりは不安そうな顔でジュリエンヌの後につづいた。ジュリエンヌは物怖じしない態度をしめしながらエントランスに踏みこんでいった。
喜屋武がつぶやいた。「安全が確認......されたのか?」
楚辺が歩きだそうとした。「行ってみましょう」
「待てよ。ここにいろといわれただろ?」
「ダングルベールさんと奥さんが呼ばれてるんですよ? 危険はないって証明されたんです。だいじょうぶですよ」
「そうね」莉子は歩を踏みだした。「外にいたんじゃ何もわからないし」
「おい......」喜屋武の声が追いかけてきた。「まったく。とんだパリ旅行さぁ」
建物のエントランスに近づく。武装警官たちが左右で見張りに立っていたが、莉子の行く手を阻もうとはしなかった。警部の連れだとすでに誰もが認識しているようだった。
最下階に足を踏みいれる。そこは本来、ガレージのようだったが、ずいぶんと清潔に保たれている。掃除が行き届いていて、床もワックスで磨きあげられていた。
ただし、落ち着いた雰囲気かといえば、そうではない。大型犬が三匹も跳ねまわっていたからだった。ラブラドール・レトリバー二匹と、シベリアン・ハスキーが一匹。吠えまくりながら、身体をよじってジャンプしつづける。なんともおかしな動作をみせる犬たちだった。
シベリアン・ハスキーが喜屋武に身体ごとぶつかっていく。喜屋武は顔をしかめて退いた。「やめろって。なんだ、おい。石垣でもよく見かける馬鹿犬みたいだな」
そのとき、ラブラドール・レトリバーの一匹が莉子めがけて飛んできた。莉子は悲鳴をあげて逃げまわった。
楚辺が制止にかかる。「よせ。ほら、お座り。静かにしろってんだよ」
犬たちはまるでいうことをきかない。こちらが動きまわると、余計に興奮するようだ。
大型犬は賢いという印象がある。ここの犬たちは例外のようだった。しかし、なぜかいいにおいがする。どの犬も毛艶がいい。ボディシャンプーを欠かさず日課にしているのだろうか。
莉子は室内の隅に追いつめられてしまった。目の前で跳ねる犬の腹には、注射痕がいくつも見える。頻繁に予防接種を受けているようだ。健康なピンクいろの肌。皮膚に炎症もみられない。爪切りもしてあった。
鎖につながず放し飼いにしてあるものの、手入れはずいぶん行き届いている。費用もかかるはずだ。なのに、このしつけのなさはなんだろう。
喜屋武も同感のようだった。「見た目は賢そうなのに、脳みそのほうはとんでもなく軽そうだ。誰かさんの高三時代を思いだすな」
楚辺が笑い声をあげる。莉子は思わずむっとした。「誰のことですか?」
警官が何人か駆け寄ってきて、犬を引き離してくれた。ようやく莉子たちに平穏がおとずれた。ほっと胸を撫でおろしながら階段に向かう。
階上は、ひとつの扉に通じていた。その扉もいまは開いている。
なかは広い部屋で、一見して子供部屋とわかる。派手な原色の壁紙、床はこれも染みひとつない清潔そうなカーペット。たくさんのおもちゃが散らばっていた。
ジュリエンヌの指示のもと、カメラを手にした鑑識課員が、それらをひとつずつ写真におさめていた。
窓ぎわには小さなべッドがあって、寝た跡がある。そのベッドの主はすでに起きだしていて、両親と再会を果たすところだった。栗いろの髪に白い肌、丸顔のセヴランは、嬉しそうな顔で父母のもとに駆け寄った。
「セヴラン!」イヴォン・ダングルベールが歓喜の声をあげた。「よかった。無事で」
母のエミリーも涙を浮かべて、わが子を抱き寄せた。「もう離れないわ。心配ないわよ、怖かったでしょう」
ところが、セヴランの反応は、両親の感情とは相いれないものだった。
セヴランはけろりとしたようすでいった。「ずいぶん早かったね。ママ、パパ」
両親は妙な顔をしてセヴランを見た。
父のイヴォンがたずねる。「早かった......って、何がだい?」
「ええとね、朝になってから来るって、きいてたから」
ジュリエンヌの顔が険しさを増す。ゆっくりと近づくと、しゃがみこんでセヴランに問いかけた。「朝になったら、パパとママが来るってきいたの? 誰に?」
セヴランは黙ったまま、近くにあった小さなテーブルを指さした。
その上には、日本の弁当箱風のランチボックスがあって、中身が食べ散らかしてあった。セヴランが食事をとったのだろう。ライスにキュウリのサンドウィッチ、バナナが残っている。
ほかに、クレヨンとスケッチブックが置いてあった。
ジュリエンヌは立ちあがり、テーブルに歩み寄った。スケッチブックの絵をじっと見つめる。
莉子もそれを覗きこんだ。
黄土いろを塗りたくった顔。三歳児だけに観念だけで描いている。しかし、対象物の特徴は垣間見える。この顔は......。
「ツタンカーメンですね」と莉子は告げた。「それも目が大きくて愛嬌がある。エッフェル塔の近くで見かけた大道芸人が被ってた物みたい」
ジュリエンヌは、スケッチブックをセヴランに向けた。「きみをここに連れてきたのは、この人?」
セヴランはうなずいた。
「そう」ジュリエンヌはさらにきいた。「食事を運んでくれたのも、パパとママがここに来るっていったのも、この人ね? きみはずっとここにいたの? ひとりで寝るのは怖くなかった?」
「お引っ越しするの」とセヴランはいった。
「引っ越し? ああ」ジュリエンヌは笑った。「そういわれたのね。ツタンカーメンのマスクを被った人物が、適度におどけたりしながらやさしく振る舞ったんでしょう。あの大道芸人、子供にも人気あるし、普段見慣れていて親近感もあるだろうから......。たぶんセヴラン君にとっては、親戚の家に招かれて泊まってるぐらいの感覚だったのね。窓の外に見えるのは近所の風景だし、両親も明朝には来るってきかされているから不安もない」
母親のエミリーは衝撃を受けているようだった。「見ず知らずの人の家で、ひとりでも怖がらずにいたなんて......」
ジュリエンヌは肩をすくめた。「わたしも子育ての経験があるからわかるけど、もう少し上の年齢なら、逆に知恵がついて怖がったかもしれないわね。けど、三歳児ならすんなり受けいれることもあるでしょう。おもちゃや絵本も山ほどあるしね」
莉子は床に散らばった絵本を眺めた。宮沢賢治の『注文の多い料理店』と『狼森と笊森、盗森』のフランス語訳版が混ざっていた。
「警部さん」莉子はジュリエンヌを見た。「あのツタンカーメンのマスクってのは......」
「どこでも売ってるのよ。コピー品も多くでまわってるし。だから、誘拐犯は大道芸人ってわけではない。セヴラン君に親しみやすく接するために被っていただけ。もちろん、正体を隠すためでもあるだろうけど。大人には不気味に思えても、子供は愛着を持つものよ」
「そうですね......。でもこの部屋、ずいぶん綺麗にしてありますね」
「ええ。下のガレージと同様にね。セヴラン君を迎える前に、徹底的に掃除したんでしょう」
「ビルのオーナーは?」
「二か月前に賃貸契約に応じたってだけで、名前以外に詳しいことはわからないって。どうせ偽名よ。最近は不況のせいもあって、パリじゃ高い物件でもろくにチェックせずに、ネット経由で簡単に部屋貸しを決めてしまう大家が多いの。振りこみさえあれば信用取引成立。必要書類も事後確認が常。いい加減な世のなかよ」
「あの犬がいる理由はなんでしょう?」
「子供を外にださないため。犯人が置いていった見張りよ」
まだ階下が騒がしい。莉子はいった。「ずいぶん無駄吠えが多いみたいですけど......」
「おとなしかったら番犬にならないでしょ」ジュリエンヌは頭をかきむしった。「ったく。例の脅迫状、きっとうちの鑑識も字体の違いには気づいただろうけど、報告は明朝になったはず。セヴラン君の話でも、犯人は明朝には親子を再会させるつもりだった。子供をさらっておきながら、怖がらせないように丁重にもてなして、しかもすぐに居場所が判明するよう仕組んでる。いったい何の冗談よ」
「でも、犯人が近くにいたことはたしかですよ。あの犬たち、賢くはなかったけど、とても大事に育てられてるみたいでした。警察に連れていかれたら、いずれ保健所送りになっちゃうでしょう? 犯人はこの時間にはまだ、警察がここに来ないと踏んでたんです。明朝、夜が明ける前に、ここに立ち寄って犬を連れだすつもりだったんでしょう」
「侵入を周囲に知らせる警報器の役割も兼ねてたのかもね。けど、吠えられちゃった以上、もう犯人は逃げおおせているわね......」
ジュリエンヌは舌打ちすると、無線に命じながら歩き去った。「クリストフ。緊急配備網を敷いて。検問を設けるのよ。南北は五区から十八区、東西は十一区から七区......」
莉子は部屋にたたずんで、寄り添う親子三人の姿を眺めていた。
ふと気になることがあり、視線がふたたび床に落ちる。
絵本の表紙を見つめた。宮沢賢治......。
そのとき、喜屋武が歩み寄ってきた。「とりあえずはよかったな。子供が無事で」
莉子はなおも絵本を凝視しつづけていた。
しだいに、ぼんやりとした像が具体性を帯びだした。思考がひとつの形をとりはじめる。
そうだ......。それですべての謎がつながる。まだ仮説にすぎないが、たしかめるすべはある。
「先生、ひとつお願いが......。あ、いえ。やっぱりいいです。難しそうだし......」
「なんだ? どんなことでも遠慮せずにいえ。フランス皇帝ナポレオンと同様に、先生の辞書にも不可能の文字はないぞ。あ、この場合、安物の薄っぺらい辞書っていう意味ではなくてだな......」
「先生。説明していただかなくてもわかります」
「そうだったな。凜田の顔を見ると、つい昔の癖がでちまう」
「じゃあお願いできますか......。先生の元カノと、もういちど会ってください」
「な」喜屋武の表情が凍りついた。「なに? 瑠南と? また彼女のアパートを訪ねろって?」
「はい。ぜひとも」
喜屋武はしばし絶句した後、ため息まじりにつぶやいた。「それは......ほんとに難しそうだな。不可能って字ぐらい載せたくなってきた」
ナイトークルージング
翌日の午後九時すぎ、パリの空にうっすらと浮かぶ薄雲も、ようやく紅いろに染まりつつあった。青みがかった空に星が瞬きだしている。
莉子はシルクのドレスを着て、ハンドバッグ片手に街に繰りだしていた。楚辺や喜屋武とともにシテ島のポンヌフ橋に向かう。橋の中央、アンリ四世の銅像のわきから、河畔に下る階段に身を躍らせた。
セーヌ川沿い、バトーヴデット・デュ・ポンヌフなる船着き場。停泊しているのはディナー・クルーズ用の遊覧船で、屋上はパーティー・スペースになっていた。すでにテーブルや椅子が持ちこまれ、ビュッフェ形式の料理が並んでいる。カウンターにはシェイカーを振るバーテンダーの姿もあった。
風もなく、快適な日だった。莉子たちは桟橋を渡り船に乗りこんだ。喜屋武は早速とばかりに屋上に上っていったが、楚辺は着替えのために船室に行くと告げてきた。彼はきょうもバーテンのひとりとして働くことになっている。せっかくの夜なのにと莉子は残念に思ったが、楚辺はどこか嬉しそうな顔をしていた。ひさしぶりの勤務に喜びを覚えているようだ。
事件の真相はいまだあきらかではない。ベランジェールの営業再開のめどは立たず、バベット精肉、コタヴォ精肉のいずれの工場も閉鎖されたままだ。いまや三者の関係は最悪に近かった。
そこで、パリ市警の呼びかけもあり、三者の弁護士が話し合いを持ったうえで、今晩のこの集まりが催されることになった。ベランジェール、バベット精肉、コタヴォ精肉の従業員および関係者が一堂に会し、親睦を深める。いわば、いがみ合いや遺恨に端を発する泥仕合を避け、真相究明のための協力関係を結ばせるための苦肉の策だった。
日本ではこのような呼びかけに対し、対象者らが集まるかどうかは微妙なところだが、意外にも遊覧船の屋上には続々と人が集まってきていた。ヤニクとアンジェリークのクストー親子や、ヴァランタン・コタヴォもセミフォーマルの装いで出席している。彼らが引き連れてきた従業員は、すでにビュッフェ料理に舌つづみを打ち、ワイングラス片手にご機嫌だった。笑い声もそこかしこできこえる。
労働者に手厚い福祉が認められているフランスならではの光景かもしれなかった。彼らは自分たちが社会の主役だと認識している。警察の捜査や司法判断をじっと待つより、できればみずからの手で問題を打破していきたいという考えもあるのだろう。
それでも三者のグループ同士は、やはり互いにけん制しあう素振りをみせなくはなかった。ベランジェールの従業員らはバーテンとして働いていたが、彼らを見守るオーナーのローラン・ビュッセル、総料理長のシモン・カヴェニャックは、いずれもタキシード姿に不釣り合いな仏頂面でデッキにたたずんでいる。工場長とは目も合わせない。むろん、両工場のトップ同士もまたしかりだった。
船がゆっくりと桟橋を離れ、エッフェル塔方面に向けて動きだした。夕暮れの空の下、ライトアップされた石造りの建物の優美なたたずまいがある。河畔の散歩道には若いパリジェンヌ、パリジャンが腰をおろして、こちらをぼんやりと眺めていた。
デッキはそれなりに賑わいだしていて、いつの間にかほろ酔い状態の喜屋武が、乾杯の音頭をとる役割にまつりあげられていた。
莉子は驚いて喜屋武に声をかけた。「先生......?」
「まかせろ」喜屋武はそういって、やや呂律のまわらない日本語で演説を始めた。「えーこのたびは、みなさま遠路はるばるお集まりいただき......」
「先生。フランス語じゃなきゃ通じないって」
「あーそうか。まあいいや。乾杯!」
喜屋武がグラスを高々と掲げると、みながそれに倣った。対立関係にない第三者の音頭は、彼らにとって歓迎すべきものだったらしい。喜屋武は従業員たちに温かく迎えられ、グラスにワインを注がれている。
意思を通じあうどころかムードメーカーにまでなるとは、さすが先生。莉子は半ばあきれながら、ぶらりとその場を離れた。
船首近くに立って景色を眺めていると、コタヴォが近づいてきた。
「なあ」とコタヴォは莉子に話しかけてきた。ストラスブールの有名な鑑定家を呼んだよ。銀食器についちゃ、あんたのいったとおりだった。おかげで恥をかかずに済んだ。礼をいうよ」
「......どうも」
「ただし、お宝はあれだけじゃないんだ」コタヴォはポケットから、布に包まれた小物を取りだした。
布が開かれる。それは錆びついた缶切りだとわかった。
コタヴォはいった。「一八二一年、ナポレオンによるモスクワ侵攻を記念して作られた缶切りだよ。皇帝の紋章入りだ。現存する物はこれひとつしかない」
莉子は困惑を覚えた。「コタヴォさん。......そのう、缶切りはそんな昔からあったでしょうか」
「おっと。さすがのきみも知らないらしいな。今度こそ私は歴史を紐解いてきたんだぞ。缶詰が発明されたのは一八一〇年。この缶切りができる二年前だ。明日、鑑定家にチェックしてもらうことになってる。二十万ユーロはつくだろうな。楽しみだよ。どれ、ベランジェールの店長にも披露してやるか」
それだけいうとコタヴォはワイングラスをあおり、上機嫌で歩き去っていった。
わざわざ見せびらかすためだけに持ってきたのだろうか。プロの鑑定を受ける予定なら、わたしが指摘するまでもないけど......。従業員のみなさんのお給料が心配。
心のなかでそうつぶやきながら、莉子は階段を下りてキャビンに入った。コタヴォの幻の宝について、ほかの人から質問されるのを避けたかった。
キャビンのソファはほぼ無人だったが、アンジェリーク・クストーがいた。小皿のサラダをフォークでつついていたアンジェリークが顔をあげた。「ああ。楚辺君のお友達の......凜田さん。どうしたの? 上は寒かった?」
「まあ、ある意味では......。アンジェリークさん。お料理はそれだけでいいんですか?」
「卵料理に長い列ができてたから、待つのが嫌になっちゃって」
「わかります。でもいまは列もかなり消化されてますよ。取ってきましょうか」
「そんな。悪いわよ」
「いいんですよ。目玉焼きですか、それとも卵焼き......」
「じゃあ、オムレツでお願い。プレーンで」アンジェリークはふと思いついたようにいった。「そういえば、コタヴォの工場でのあなたの鑑定、すかっとしたわ。彼ったら、きょうも缶切りみたいな物を持ってきて見せびらかしてたけど」
「あー、その件ならべつに、お気になさらずに」莉子は微笑してみせた。ハンドバッグをソファに置いて、ふたたびデッキヘの階段を上る。
すると、屋上はさっきとは様相が変わり、出席者たちは一か所に寄り集まっていた。
中心にいるのはコタヴォだった。その手もとに目を落としていたヤニク・クヌトーがこちらを振りかえった。
「ああ」ヤニクは声を張りあげた。「彼女がいたよ。ちょうどいい。缶切りについて意見をきこうじゃないか」
全員が黙りこんで、莉子にたずねるような顔を向けてきた。
莉子はひそかにため息をついた。せっかくの親睦会なのに、またひと騒動起きるのか。彼らが取っ組み合いの喧嘩にならないことを祈るのみだった。今度は船の上だ、逃げられそうにない。
凱旋門
パリは夜を迎えていた。エッフェル塔全体が派手に煌めいている。午後十一時を告げるイルミネーションだった。眼下のシャンゼリゼ通りに、ヘッドライトの河が滞りなく流れつづける。
ヤニク・クストーは凱旋門の屋上で深呼吸をした。フェンスはわりと低く、ヤニクの背丈なら視界を遮るものは何もない。ここを中心にして放射線状に伸びる十二本の道路、その行く手に広がる無数の窓の明かりを眺め渡した。
社交辞令だらけのディナー・クルーズが終わってすぐ、ヤニクは娘のアンジェリークとともにタクシーに飛び乗ってここにきた。営業終了間際に滑りこんだせいもあって、もはや周りには誰もいない。閑散としているが、ヤニクはこの環境をひそかに望んでいた。どこに行っても従業員のことばかり気にかけている現状。息が詰まる。
この凱旋門の屋上に達するためには、螺旋階段を延々と上らねばならない。酒が入った後なので不安だったが、要らぬ心配だった。まだまだ体力は衰えてはいない。アンジェリークのほうはハイヒールを履いてきているから、ゆっくり上るといっていた。まだ彼女は屋上に姿を見せていない。
......これからが厄介だ、とヤニク・クストーは思った。
ベランジェールの騒動のせいで、業界は大打撃をこうむった。フォアグラをメニューから外すレストランも増えている。風評被害以外のなにものでもなかったが、やむをえないというのが各店舗のオーナーの判断らしかった。
マスコミはフランス伝統料理の存続の危機と喧伝しているが、ヤニクは文化面の変革に興味はなかった。気になるのは工場の未来だった。従業員たちを食わせていくためには収益をあげねばならない。牛肉や豚肉に力をいれるか。しかし、いまから方針を変えれば設備投資に巨額の追加費用が必要になる。うちのオーナーや株主も承認しないだろう。それに、新しい市場でライバルに打ち勝てるだけのノウハウもない......。
ヤニクは自分のため息をきいた。
高いところで風にあたって頭を冷やせば、なにか知恵が浮かぶかもしれない。そう思って凱旋門に上ってみたが、気分は落ちこむばかりだ。
どうすればいい。怪しげな骨とう品にばかりすがろうとするコタヴォをあざ笑ってばかりもいられない。うちの工場には、担保になりそうな財産ひとつ存在しないのだから。
そのとき、若い女の声がした。「お困りですか」
アンジェリークではない。ヤニクは直感した。言葉にかなり強い訛りがある。母音を強調したような発声。アジア人だった。
顔をあげて振りかえる。シルクのドレスに身を包んだ、ほっそりとしたシルエットが屋上の照明のなかに浮かんでいた。
楚辺瑛翔の友人、凜田莉子がゆっくりと歩み寄ってくる。微笑とともに莉子は告げてきた。「あらためまして、こんばんは。クストーさん」
「きみか」ヤニクは思わず笑った。「船の上での話は痛快だった。コタヴォがまたも目を白黒させたのも一興だった」
莉子は戸惑いのいろを浮かべた。「従業員の人たちに迷惑がかかるんじゃないかと心配でした」
「きょうばかりはコタヴォ精肉のみんなも大笑いだったな。もう誰も本気にしちゃいなかったんだよ。それにしてもきみは物知りだな。一八二一年には缶詰はあったけど、缶切りはまだなかったなんて。長年、食品に携わってきたけど、初耳だったよ」
「本来、缶詰というのは刀や工具で無理やりこじあけるものでしたから......。一八五八年になってようやく、缶切りという便利な道具が発明されたんです」
「もっと私にも学があればなぁ。工場長の職を父から受け継いだけど、若いうちは土くさい仕事は好きになれなくてね。きみのように頭がよければ、どこで不良食材が紛れこんだのか、たちどころに判るかもしれないな」
すると、莉子はふいに沈黙した。
「......クストーさん」莉子は穏やかにいった。「それならはっきりしてます。不良品をベランジェールに持ちこんだのは、ほかならぬあなたです」
「な」ヤニクは驚きを禁じえなかった。「なんだって?」
「あなたがベランジェールに引き渡した四つのケース、そのなかにおさまっていた食材のうち五パックが、問題になった不良食材だったんです」
ヤニクは絶句していた。凱旋門の屋上を吹き抜ける風が、莉子の長い髪を揺らす。まっすぐに見つめてくるその瞳を、ヤニクは見かえしていた。
憤りがこみあげてきた。ヤニクは莉子に告げた。「きみの博識ぶりは尊重するが、その冗談は好ましいものではない。私は出荷前にすべての食材をチェックし、ケースに封印した。一品たりとも欠陥品を見落とす私ではない。まして五つもだなんて。ふざけている」
「あなたが用意したものじゃなかったら?」
「すり替えられていたとでも? パックはすべてケースのなかで氷漬けにしてあったんだ。だから取りだすことは不可能だ」
「おたずねしたいんですが、クストーさん。出荷した食材はいくつですか?」
「百二十だ。私の工場で作った物が六十、コタヴォの製品が六十」
「コタヴォさんから提供された食材はすでに真空パックに詰められていて、中身については確認していないんでしょう?」
「ああ。だから不良食材はあいつのもとで製造されたと、私はいまでも信じてる。ただし、真空パックの表面については徹底的に調べた。完璧なパッキングだったし、針の穴ひとつ開いていない。だから私は問題なしと判断して、ケースに詰めたんだ」
「お値段ですけど......。楚辺君の話では、クストーさんとコタヴォさんのところでは違いがあったとか」
「コタヴォは強欲だったからな。同じような製造工程だったのに、うちの三パック百ユーロに対し、あいつは二パック百ユーロにしろといってきた。うちは二千ユーロの儲けなのに、コタヴォは三千ユーロの稼ぎになる。むかっ腹が立ったよ」
「ベランジェールには、いくら請求なさったんですか」
「私とコタヴォの値段設定を併せて、五パック二百ユーロだ。総料理長のカヴェニャックも快諾したぞ。五千ユーロ、きっちり支払ってくれた」
莉子は真顔で告げた。「おかしくないですか。ぜんぶで百二十パック。五パック二百ユーロ。四千八百ユーロにしかならないと思いますけど」
「......なに?」
ヤニクは軽い混乱状態に陥る自分を感じた。
また風が吹き抜ける。今度の風は冷たかった。
五パックで一セット、百二十パックあれば二十四セット。
二百ユーロかける二十四は......暗算でも答えはだせる。四千八百ユーロだ......。
「ど」ヤニクは衝撃とともにつぶやいた。「どうしてこうなる......?」
「あなたの工場で製造された六十パックは、三パック百ユーロですから、二十セットあったわけです。だから二十セット売ったら、あなたの六十パックは完売しています。しかし同じ時点で、コタヴォさんの製品は二パック百ユーロなので、四十パックしか売れていない計算になります。二十パックは売れ残っているんです」
「ああ......たしかに。その売れ残りの二十パックはコタヴォの製品だから......」
「二パック百ユーロで十セット、千ユーロになります。ところがあなたは、これらも五パック二百ユーロで売ってしまった。すると四セットにしかならないので、八百ユーロです」
アルコールが入っているせいか、思考が鈍い。それでも計算は、繰りかえすたび精度が高まる。
何度反復しようとも、結果は変わらなかった。四千八百ユーロ......。どんな道筋を通ろうとも、その答えに行き着く。
「そんな馬鹿な」ヤニクはうわずった自分の声をきいた。「アンジェリークがアドバイスしてくれたんだぞ。それにカヴェニャックも五千ユーロ払ってくれた。......みんな間違ってたってことか?」
「いいえ」と莉子は首を横に振った。「カヴェニャックさんはパックの総数をきちんと確認したのち、五パック二百ユーロというあなたの申し出を受けいれて。正当な金額を支払ったんです」
「じゃあ......」
「ケースには百二十五パック入っていたんです。だから五千ユーロです」
「余分なパックが紛れこむはずがない! 私がこの手でちゃんと......」
「あなたひとりでケースに詰めて、封印した。でも朝の工場にいたのはあなたひとりじゃないでしょう」
ヤニクは言葉を失った。
こればかりは従業員にはまかせられない仕事。そう思って、出荷の最終段階は自分ひとりでおこなうことに決めていた。入念に真空パックを調べ、数をチェックして、封印する。早朝、まだ誰も出勤していない工場で、ひとりで作業する。それが常だった。
けれども、ここ最近は、朝早く工場にいるのは私ひとりではなかった。家を飛びだしていた後継者が帰ってきてくれたからだ。
アンジェリークが......。
「ええ」娘の声が静かに告げた。「そうよ、お父さん。わたしが五つの不良食材をケースに紛れこませたの」
シャンゼリゼ
アンジェリーク・クストーにとって、この瞬間には奇妙な既視感があった。状況を何度も思い描いたからかもしれない。誰によって真相が暴かれるのか、それは問題ではなかった。ただ、事実を知った父と顔を合わせるときがくる。そう覚悟していただけだった。
怯えも、恐れもなかった。こちらを振りかえったヤニクの茫然自失の表情にも、罪悪の念は湧かない。わたしは、正義に生きているのだから。
静寂に包まれた屋上で、ふたりに歩み寄る。自分のヒールの音だけが、やけに甲高く響いた。
「......アンジェリーク」ヤニクは絞りだすような声でつぶやいた。「そんな、おまえが......。ありえんよ......」
「いいえ。お父さん」アンジェリークはきっぱりといった。「わたしは生産ラインに触れられるし、パッキングも夜中にはひとりでおこなえる。不格好な仕上がりだったけど、そこはどうでもよかったわ。お父さんが確認するのは百二十個だけだもの。それらは氷漬けになってるから取りだせないけど、追加するのは簡単。わたしが用意した五個は、お父さんが蓋を閉めてシールを貼る寸前に紛れこませたの。五個のパックを分散して、一個か二個ずつケースにいれて、魔法瓶で水を注ぎこんでおいたのよ。冷凍室だからたちまち凍って、わたしのいれたパックも氷漬けになる。だからお父さんが再度たしかめることはない。お父さんはひとりで作業してるから、ひとつのケースにかかりっきりになっているあいだは、別のケースに背を向けてる。目を盗むのも難しくなかった」
「たわごとだ。だってそうだろ? 食材をベランジェールに届けたとき、カヴェニャックは私たちの目の前でケースを開けて、数を確認したじゃないか。楚辺君たち従業員が手分けして数えていたが、合計数なら私もたしかめた。届けたのは百二十パックだ」
莉子がいった。「違うんです。楚辺君たちが数えあげたのは百二十五パックです。もっとも、彼ら四人はひとケースずつの数しか把握していない。合計数を確認したのはカヴェニャックさんです。彼は百二十五パックの入荷に対し五千ユーロを払うことにきめた。それをあなたは、百二十パックだと思いこんでいたんです」
「それは......どういうことなんだ......?」
沈黙のなかで、莉子は赤い表紙のメモ帳を取りだした。
やっぱり。アンジェリークはため息をついた。まだ彼女の手のなかにあったか。
「これ」莉子はヤニクにきいた。「なんだかわかりますか?」
「メモ帳だろ。......そうだ、きみがうちの工場から持っていった物だ。ゴミ箱に捨ててあった......」
「ええ。どういう経緯で、あなたのオフィスのゴミ箱に捨てられたかご存じですか?」
「知らん。事務用品など使い捨てにするのが常だ」
「でもあなたは、以前にもこのメモ帳を目にしているんです。食材引き渡しの当日にね。習慣化された段取りのせいで、いちいち記憶に残っていないんでしょう。アンジェリークさんも、まさにその習慣を利用したんです。あなたに同行することが多かった娘さんは、ベランジェールとの取り引きがどうおこなわれるかを熟知してた。カヴェニャックさんがどのように食材を数えあげ、あなたと確認しあうのか。入荷数を決して口にせずに、数字の筆談で意思を通じあう。領収証には金額のみが書きこまれ、そっちには個数は記載しない。何もかも承知してたんです」
ヤニクは目を瞠っていた。「娘が......私を欺いたっていうのか?」
「見てください」莉子はメモ帳をしめした。「ダブルリング綴じのメモ帳ってのは、表紙をぐるりと裏側にまわして開きます。アンジェリークさんはこのメモ帳の裏表紙を開いて前にまわし、最後のページを露出させて楚辺君たちにまわした。ダブルリング綴じの場合裏表どちらからでも普通に使えますから」
「四人はそれぞれ数字を書きこんでいった......」
「ええ。これです」莉子は裏表紙を開いた。
29 32 16 48
莉子はいった。「見てのとおり、四つの数字はばらばらの筆跡、別々の筆記具です。これらは、四つのケースにそれぞれ入っていた食材の数です。合計すると百二十五です。カヴェニャックさんはこれを見て総数を把握した。メモ帳はアンジェリークさんの手を経て、あなたに渡された」
「じゃあ、そのあいだに......?」
「はい。表側にまわっていた裏表紙と表紙は重なっています。これら二枚をぐるりと後ろにまわすだけで......最初のページが現れます」
そういって莉子はメモ帳をひっくりかえした。一見、さっきと何の違いもないように見えるメモ帳。けれども、記載されている数字は変わっていた。
41 18 36 25
「このとおりです」と莉子は告げた。「合計数が百二十になる数列の出現です。四つともわざわざペンを変えて、筆跡も変えてみせてますけど、ぜんぶアンジェリークさんが書いたものです。そうでしょう?」
莉子の大きな瞳がこちらを向いた。アンジェリークは思わず視線を逸らした。
喉もとに刃を突きつけられるような気分。初めて味わう感覚だとアンジェリークは思った。
「待て」ヤニクが声を張りあげた。「私は信じないぞ。これは、なにかの罠だ。イヴォン・ダングルベールの身に起きたことと同じだ。私と娘のあいだに不信を植えつけて、工場に混乱をもたらそうとしてるんだ。なぜさっき船の上で知らせてくれなかった? 偶然にも関係者が一堂に会してたんだ、きっと真犯人はあのなかにいたはずだ。ひとりずつ詰問していけば......」
「クストーさん」莉子は片手をあげてヤニクを制した。「きょうのディナー・クルーズは偶然じゃないんです。わたしとジュリエンヌ・バゼーヌ警部が相談して、パリ市警からそれぞれの弁護士に打診してもらい、実施させたんです」
「......何? 主催者はきみと警部だってのか」
「ええ。すべてがアンジェリークさんのしわざだという、明確な根拠を得るためです。わたし、キャビンに下りてアンジェリークさんとご一緒しましたよね? そこにハンドバッグを置き去りにして、ふたたびデッキにあがったんです」
そうだったか。罠だとは気づかなかった。アンジェリークは瞼を閉じた。
パーティー自体が、わたしをパリに誘いだすたあの偽装......。巧みな策略だった。わたしは疑いすら持たなかった。
暗闇のなかで、ヤニクの声が怪訝そうにきいた。「どういう意味かわからんが」
アンジェリークは目を開き、ヤニクを見つめた。「わたしは、彼女のハンドバッグのなかを探ったのよ。このメモ帳のことがずっと気になっていたの。破棄したはずだったのに、警察によってごみ箱から回収されて、彼女の手に渡ったメモ帳がね。工場でも、気が気じゃなかったわ。平静を装うだけで精いっぱいだった」
莉子はもう一冊のメモ帳を取りだした。色も大きさもまったく同じだった。
そのメモ帳のページをぱらぱらと繰る。すべて白紙だった。最初と最後のページも。
「これ」と莉子はいった。「さっきハンドバッグにいれてたメモ帳です。最初と最後のページには、元のメモ帳そっくりに数字を書きこんでおいたんです。でも、デッキから下りてハンドバッグのなかを調べてみたら、それらのページは破りとられてた」
ふん。アンジェリークは思わず鼻で笑った。
ドレスの胸もとに滑りこませてあった紙片を取りだす。それを開いた。数字の書きこまれた二枚のメモ用紙。入手経路は莉子の指摘どおりだった。
アンジェリークはそれをかざしながらつぶやいた。「船を下りてから、失敗に気づいたわ。筆跡は似せてあるけど違う。使ってるペンの太さも異なってる」
「わたしが書いたものですから......」
「鑑定家さんが贋作に手を染めたわけかぁ。器用ね。それに、そのメモ帳。よく手に入ったわね。あまり売ってるのを見かけない物なのに」
「知り合いの知り合いに頼んで探してもらいました。マルグリットっていう会社の重役さんだときいていたので」
「マルグリットね......。文房具の卸し会社では最大手よね。あそこなら在庫を持っていてもおかしくないわ。でも、いい勘してる。そのメモ帳に疑いの目を向けるなんて......」
「ほんの少ししか書きこんでいない新品同様のメモ帳が、ごみ箱に捨ててあったんです。妙に思わないほうが不思議です。パリに帰るTGVの車内で楚辺君にも見せたけど、彼はぴんと来なかった。筆跡にも心当たりがないっていってた。最初のページ、つまりあなたが書いた数列のほうを見たからです。のちに真相に気づいてから、最後のページを確認してもらったんです。彼は自分の書いた字を覚えてました」
理路整然とした説明。チェスの強豪のように無駄のない思考。こんな女性にメモ帳を拾われたのが運の尽きだった。
船内で破りとった二枚のメモ用紙を、莉子に差しだす。アンジェリークは微笑んでみせた。「ブラヴォー、凜田さん」
莉子は無言のままメモ用紙を受けとると、メモ帳のなかにはさんだ。
ヤニクは顔を真っ赤にしていた。「なぜだ。アンジェリーク。どうしてこんなことをした。戻ってきてくれたんじゃなかったのか。工場を継ぎたいって......。あれは嘘だったのか。なにもかもぶち壊しにするなんて。私の娘にあるまじき行為だ」
アンジェリータは黙っていた。どうせ父にはわからない。理解しあえるはずもない。言葉で通じるものなら、積年の思いはとっくに伝わっている。
すると莉子がヤニクに対し、穏やかにいった。「クストーさん。すみませんけど、アンジェリークさんとふたりきりにさせてもらえませんか」
「な......何? 私たちは親子だぞ」
「そこの階段を下りてすぐのフロア、休憩所になってたでしょう? 警部さんたちが待ってます。詳細をおききください」
ヤニクは絶句し、呆然とした面持ちで莉子を見つめていた。やがて、その目がアンジェリークに向けられた。
アンジェリークは見かえさなかった。父を無視しつづけた。十代のころ、ずっとそうしてきたように。
かなりの時間が過ぎた。ヤニクは、肩を落として階段に向かった。どんな顔をしているのかはわからない。アンジェリークは直視しなかった。
足音が階下に消えていく。アンジェリークは顔をあげた。たった二日前に知り合ったばかりの日本人女性と向き合った。
「理解できる?」とアンジェリークはきいた。
「さあ」莉子は視線を落とした。「でも......なんのためにそうしたかは、わかっているつもりです。あなたがどんな人なのかも」
「そう? ほんとに?」
「ええ。セヴラン君を誘拐した後の、あの丁重にして配慮のきいたもてなし。五つの不良食材も、酸を過剰に含んでいただけ。ワインと化合して発生する毒素も微量。摂取した人の命を危険に晒すものではなかった。犯罪者のわりには、きわめて人道的です。で、根はやさしい性格の持ち主だと思ったんです」
「......誉めてもらえるのは、悪い気がしないわね。あなたのような賢い人になら、なおさら」
「けれど、思想は偏ってる。そんなふうにも感じました。番犬たちの手入れや健康管理は行き届いているのに、無駄吠えが多くて、おかしなポーズで跳ねる。ああいうの、わたしの故郷の島でも何度か見たことがあります。飼い主が甘やかしすぎて、しつけをまったくおこなわないと、犬はあんなふうになる。本能の赴くままに、好き勝手にはしゃぎまわるんです。散歩に連れだしてもまっすぐ歩かずジャンプしてばかりです」
「人の思惑どおりに歩くのが、利口な犬とは限らないわよ」
「でしょうね。あなたはそうおっしゃると思いました。工場でみんなが着てた鹿皮の作業服、あなたひとりだけ色が明るくて、でも艶がなかった。光沢がないのは保革油を塗っていないから。でもそれなら革が硬化してひび割れてしまうはず。なのに、あなたの作業服は柔らかく、摩擦抵抗も少なくて、歩くのに支障もなさそうだった。鹿皮より明るいということは、マイクロファイバーに合成樹脂を浸透させたフェイクレザー。においがつかないことを理由に鹿皮が採用されてるのに、意味のないものをわざわざ作って着ている。あなたは極端な動物愛護精神の持ち主、〝動物の権利〟の運動家ですね」
極端。この日本人女性はわたしをそう断じた。ノーマルとされるものから著しく外れている。あるいは、甚だしく偏っている。そんなふうにみなしていることになる。
アンジェリークはつぶやいた。「なにをもって普通と考えるのか、それが問題よね。あなた、日本に生まれたのなら、宮沢賢治は読んだことあるでしょ?」
「セヴラン君の部屋にも絵本がありましたね。『注文の多い料理店』に『狼森と笊森、盗森』。どちらも宮沢賢治の菜食主義の思想が色濃くでている作品とされてる」
「本当なら『ブランドン農学校の豚』を読ませたいところだけど、三歳の子を怯えさせたくはなかったから」
「生命を尊重する姿勢は敬服に値すると思います。だからこそ、警察が捜査に乗りだしてすぐ、セヴラン君の居場所が発覚するよう脅迫状に細工しておいたんですね」
「ええ。わたしはべつに、ベランジェールにばかり罪をなすりつけるつもりはなかった。ひとたび元凶であるかのように報道されれば、そこの信頼は失墜するものよ。料理人の自供が狂言とわかって、翌日にはまたそれ以外の原因が疑われる。今回初めて取り引きがあったコタヴォ精肉があやしいとされるでしょうね、これもゴシップ紙や週刊誌は、さも真犯人のように書き立てるでしょう」
「けど、バベット精肉の正規の出荷数も、そのうち警察による関係者への聴き取り調査で発覚する。そうすれば......」
「父の工場こそが疑わしいって話になるのよ。いいじゃない。三者三様に世間から冷遇される。フォアグラの老舗として知られる製造元も店も潰れれば、影響は業界全体に波及する」
「フォアグラを作りだすための強制給餌は、アニマル・ライツの信奉者にとっては根絶したい行為なんですね」
「凜田さん。あなた、鯨は食べたことがあるの?」
莉子は口をつぐんだ。無表情のまま、じっとこちらを見つめてきた。
ふっ。なぜか自然に笑みが漏れる。アンジェリークは告げた。「日本人がどれだけの頻度で鯨を食べるのか知らないけど、幼いころから家の食卓にのぼっていれば、なんら抵抗はないかもしれないわね。でも鯨漁を生業とする父親を持つ子の感覚は違うかも。もしいちどでも父の船に乗って、なにがおこなわれているかをその目で見ていればね」
「......あなたはフォアグラについて、その立場にあったといいたいんですね」
「そうよ。フォアグラの〝フォア〟は肝臓って意味。〝グラ〟は、脂肪太りをあらわすの。生まれたばかりの鴨を放牧して、基礎体力をつけさせたら、屋内に閉じこめて身動きをとれなくする。喉までロートを突っこむ。柔らかく蒸したトウモロコシを一日三回、たっぷりとロートに流しこむ。抵抗することはできない。吐き戻す自由もない。一か月もすると、肝臓が二キロをうわまわるほど肥大化して、解放しても鴨は横たわったまま起きあがれなくなる。醜悪で、見るも無残な姿よ。それでも鳴き声だけは響くの。息も絶えだえに、ぜいぜいと呼吸音を響かせながら......」
莉子は静かにつぶやいた。「あなたはいつごろから、その鳴き声を......」
「三歳か、四歳のころからずっとよ。昔、父は工場に住みこみも同然に働いていたから。母のいないわたしの家庭では、父は職場に寝泊まりする日には、いつもわたしを連れていった。毎晩、あの苦しげな鳴き声が宿舎にまで響いてくる。でも、やがてその声も、急に途絶えるの。もう少し大きくなってから、何かおこなわれているかをこの目で見たわ。父がわたしを工場に連れていったから。肝臓が極限まで膨れあがった鴨は絞め殺される。そして脂肪肝が取りだされ、血管や神経を取り除いてから、冷水に浸すの」
鳴き声が耳にこびりついて離れない。あのときの光景は忘れられない。きのうのことのように目に浮かぶ。父は笑っていた。おまえの婿になる男は将来、この仕事を継ぐだろう。それまではおまえが後継者だ。仕事をよく覚えて、将来の夫に伝授してやれ。できればこの業界の男と結婚しろ。俺が教える手間が省ける。父はそういった。
アンジェリークはひたすら堪えていたが、限界はやってきた。父の笑い声が響くなか、工場から駆けだし、広い敷地のなかをひたすら走った。牧場に駆けこんで、草むらに突っ伏した。激しく嘔吐し、目からは涙が溢れた。
顔をあげると、羽をはばたかせながら走りまわる鴨やガチョウの姿があった。あのような運命をたどるためだけに、ここで飼育されている幾多の生命。それを意識した。
ため息とともにアンジェリークはいった。「十代になると、父親ってのはただ説教くさくて、プライベートに口だししてくる最低な存在になってた。あなたもそうじゃなかった? もしまだ父親にべったりだったら、気をつけたほうがいいわよ。思春期を過ぎても父親への依存心がある娘って、幼少期に父から充分な愛情を受けてないがゆえに、それを取り戻そうとしてるにすぎないっていうし」
「ってことは」莉子は真顔でいった。「あなたは小さかったころ、お父さんから充分な愛情を注がれたわけですね。だから自立の段階に進みえた」
アンジェリークは沈黙した。
嫌なところを突いてくる。だが、無意味な指摘だ。愛情以前に、わたしは父を人として認めない。その行為は人の道から外れている。
「十五になって」アンジェリークはささやいた。「わたしは家を飛びだした。いろんなところを転々としたわ。何人もの男とつきあって、世のなかはとんでもなく広いと感じるようになった。賢い人間もいれば、その逆もいる。魚を釣りあげて高らかに笑う男は最低だと思った。野蛮で、粗暴な心があるから、魚の命が気にならないんだってそう感じた。いまという時代が正しいかどうかもわからない。教会にもいったけど、安らぎはなかった。父がカトリック教徒だったから、受けいれたくなかった」
「代わりにアニマル・ライツという思想と出会って......そこに安堵を覚えたわけですか」
「違うわよ。アニマル・ライツは宗教ではないの。心の拠りどころにするものでもない。人間っていう高等生物に生まれたのなら、誰もがめざすべき到達点なの、科学はもっと進化しなきゃいけない。獣の肉を口にしていた時代に別れを告げて、真に文明的な生き方を模索しないと......。人にたんぱく質が必要なら、クローン技術であらゆる食肉を作りだせばいい。動物の命を奪う必要はない。そんな時代が、もう目の前にきてる」
「けれど、あなたは待てなかった。あなたの国が、時代に逆行してると感じたから」
「......そうよ。フランスはフォアグラづくりをやめるどころか、二〇〇五年の国民議会で保護すべき文化遺産と法で定めた。文明国にあるまじき話よ。だってそうでしょう。アメリカのカリフォルニア州、イスラエル、アルゼンチン、それに欧州評議会の三十五か国が、フォアグラづくりを禁止してるのよ。イギリスやスウェーデン、スイス、オランダでも違法になる。ドイツでも、フィンランドでも、ノルウェーでも、ポーランドでも、デンマークでも......。それから、ええと......」
「チェコ。ルクセンブルクも」
「......へえ」アンジェリークはひそかに感心した。「よく知ってるのね......」
「読書を通じて得た知識にすぎません」莉子の声は落ち着いていた。「アンジェリークさん。最近になってお父さんのもとに戻ったのは、復讐のためですか。幼いころ、自分を怖がらせて、絶えず不安にさせた。そんなお父さんが許せなかったわけですか」
アンジェリークのなかで苛立ちが募った。「違うってば。わたしは父の行為をやめさせねばと思ったのよ。読書家のあなたなら、ピーター・シンガーの『動物の解放』は読んだでしょ? 動物は人と同じく、苦痛を感じる。だから人と同じ配慮を受けねばならないのよ。種が異なることを盾にして差別を容認するのは、種差別以外のなにものでもないわ」
「ピーター・シンガーの著書とアニマル・ライツの思想には開きがある。あなたも気づいているでしょう。彼は人と動物に同等の配慮が必要だといってるだけ。動物に権利を持たせろとはいってない」
かっと頭に血が上った。アンジェリークは思わず声を張りあげた。「人権と同等の権利を認めてこその平等なのよ! 生きるために奪われる命もあってやむなしだなんて、そんなことを認めた時点で人は知性をかなぐり捨ててる。動物実験、狩猟、商業畜産。フォアグラはその最たるもの。どれもやめさせない限り、人は明日への一歩を踏みだせない。奪うべき命があると考えるようじゃ、戦争はなくならない!」
「アンジェリークさん......」
「肉を口にしている以上は暴力的衝動は抑えられない。とりわけ男の力まかせの暴走に歯止めがかからなくなる。人種差別も、性差別も、動物の命を奪っているあいだはなくならない。人は動物なのよ。動物を食べても平気でいられる男は、いずれ暴力に走る。絶対にそうなる!」
叫びに似た自分の声を、アンジェリークはきいた。
視界はいつしかぼやけていた。涙がとめどなく溢れている。頬を撫でる風が、妙に冷たかった。
莉子は黙ったまま、こちらをじっと見つめている。
......冷静な彼女は、わたしの心情を察しただろう。
アンジェリークはそう思った。家を飛びだしてからわたしの身に起きたこと、受けた仕打ち、日を追うごとに鬱積していった苦悩を理解してくれただろう。
具体的事象まではわからなくても、おおよそのことは見当がついているに違いない。そう、聡明な彼女なら。
男と女のあいだに起きたこと。それも一度ならず、何度も。すべての元凶は父にある。やがてそう思えてきた。父のせいでわたしは道を踏みはずした。男と出会うたび、代わりの父性を求めていた。しかしそれは誤りだった。
わたしは健全な成長を阻害されたひとりの女に過ぎなかったのか。アニマル・ライツヘの傾倒とその精神に基づく父の事業への妨害は、ただその不満をぶちまけるためのものでしかなかったのか。
アニマル・ライツは信仰でしかない。本当の望みは、別のところにある。わたしは救われたかった。父の呪縛から解き放たれたかった。
いまになってそう思える。ふいに自分のそんな感情に気づいた。なぜだろう。
アンジェリークは、莉子の顔を眺めた、シャンゼリゼ通りの光の河。彼女の虹彩にその流れが映りこんでいる。
莉子が穏やかに告げてきた。「ねえ、アンジェリークさん......。人は、動物とは違います。そう思いませんか?」
「......え?」
「ライオンや虎は、自分より弱い動物を追いかけて捕食しなきゃ生きていけない。けど、人間はそうしなくても生きていける」
「そうよ。肉と野菜のどっちを食べるか選択の自由があるのに、肉を選ぶなんて......」
「違うの」莉子はなおも静かにいった。「自由ではなくて責任。なぜなら、植物も穀物も生きているから。動物のように苦痛は感じなくても、命を奪われるという意味では同じなのよ。どの生命を奪うかを選ぶ。それは人が背負う重責。選択の余地のない動物とは違う」
「人は選択の責任からは逃れられない......か。ピーター・シンガーもそう書いてたわね」
莉子はうなずいた。「人が判断を下すとき、そこには道徳心がある。理性に裏打ちされた規律も。動物には、それらはない。動物の残忍に思える行為と一部が重なってみえたとしても、それで動物のように凶暴で、粗野で、残酷な存在とはならない。人は唯一特殊な存在だから、動物とは違う。なにが正しくてなにが間違っているが、判断できる生き物なんだから......。人はきっと正しくあるべきほうに進む。歩みは遅くても、常に前進しつづけている」
アンジェリークは長いあいだ、莉子の顔を眺めていた。風がわずかに強まる。重なりあう照明の光のなかで、莉子の長い髪が泳いだ。
胸を締めつけるような痛みに似た感情がある。でも、きょうの悲しみはいつもとは違う、どこか温かさを伴っている。
「莉子」アンジェリークは目の前の女性をそう呼んだ。「あなたとは、もっと早く会いたかった」
「......わたしも」と莉子がつぶやいた。
彼女との対話によって、わたしは自分と向き合った。アニマル・ライツの先に潜んでいた、みずからの心に触れた。
きっとそうだとアンジェリークは感じた。莉子は、わたしのなかに絶えず存在しつづけた信念の揺らぎに、目を向けてくれた初めての人だった。拒んでも、歩み寄ってきてくれた。
彼女が真相を察しえたのが、そのなによりの証だ。莉子はわたしと心を通じあった。だからこそ、彼女はわたしの求めていた答えをくれたのだろう。
靴音が響く。等間隔に設置された光源のなか、歩いてくるスーツ姿の女性が見え隠れしている。
ジュリエンヌ・バゼーヌ警部はアンジェリークに近づいてくると、静かに告げた。「行きましょうか」
「......父は?」とアンジェリークはきいた。
「オルレアン署から出張してきたシャミナード警部が引き受けてます。もうクルマに乗ったころでしょう。だいじょうぶ。無理に引き合わせたりはしません。あなたが会いたいと願うまでは」
それはいつごろになるだろう。アンジェリークは考えた。わからない。答えはまだだせない。路頭に迷う日々が長すぎた。闇から抜けだせたかどうかもさだかではない。
でも......きっと前に進むことはできるのだろう。彼女がいったように。
踵をかえして歩きだしてから、ふと足がとまる。
アンジェリークは莉子を振りかえった。「パリにはいつまでいるの?」
「......明朝の便で帰ります。そういう日程なので」
「そう。残念ね。またパリに来ることがあったら......会えるといいわね。わたしが望んでいるだけかもしれないけど」
「いいえ」莉子は微笑した。「それはわたしの願いでもあります。アンジェリークさん。ぜひ、またお会いしましょう」
「ありがとう。莉子」
立ち去りかけながら、アンジェリークは莉子に目を向けた。彼女はずっとこちらを見つめていた。旅立ちを見送る人がいる。わたしにとっては初めての経験だ。
予想もつかなかった出会い。彼女に会えて、なんてわたしは幸運だったのだろう。破滅に向けてひた走るばかりだったわたしの心を、彼女は救いだしてくれた。幼いころに止まったままの時計が動きだす。わたしはやっと歩みだせるかもしれない。人生の長い道のりを。
帰国日
翌朝、シャルル・ド・ゴール空港のターミナル2E、その混みあうフロアにトランクを転がしながら、莉子は全力で駆けていた。
喜屋武も何かの競争のように、同じくトランクを押して横に並んだ。「急げ! もうすぐ搭乗手続きの締め切り時刻さぁ」
そうはいっても、この空港は異常なほど広い。楚辺がクルマを停めた付近のエントランスをくぐってから、もうずいぶんと長い距離を移動している。本当に入り口はあそこでよかったのかと勘繰りたくなる。
旅客たちを右に左によけながら、猛然と前進しつづける。反射神経にはそれなりに自信がある。喜屋武も同様だった。最小限の進路変更で障害物を確実に回避している。ふだんはのんびりしている八重山出身の人間も、いざとなれば素早い。いまこそ本領を発揮すべきときだ。
喜屋武は走りながら愚痴をこぼした。「だいたい、楚辺の朝食の準備が遅かったのが悪い。一時間で着くから余裕ですよといっておきながら......」
そのとき、追いかけてきた楚辺がいった。「総料理長がいいクルマを貸してくれたせいですよ。シトロエンならもっと飛ばせたけど、傷つけちゃまずいんで」
「シトロエンだって傷は駄目だろ」
莉子は辺りを見まわした。「楚辺君。チェックインカウンターはどっち?」
「あれだろ」と喜屋武がさらに速度をあげた。
楚辺があわてたようすで制止する。「違いますよ。あれは大韓航空です。エールフランスはこっち」
指示に従って向きを変える。横転しそうになったトランクを間一髪支えた。ふたたび走りだす。白人の家族連れのなかにわずかにあいた隙間を、一瞬のうちに強行突破した。びくついたようすの家族に莉子は告げた。すみません。
やっとのことで、目的のカウンター前まで到達した。息をきらしながら列に加わる。
喜屋武が額の汗をぬぐいながらつぶやいた。「やれやれ。最後まであわただしかったな」
すると楚辺がにやりとした。「でも、元カノと二度も会えてよかったじゃないですか」
「馬鹿いうな」喜屋武は顔をしかめた。「俺からの連絡を受けて、向こうはなにごとかと大騒動だったみたいだぞ。ふたりの両親や親せきまで集まってきてた。あれはまいった」
莉子は驚いた。「へえ......。そんなに大勢待ってたんですか」
「そうさー。みんなが固唾を呑んで見守るなか、俺はひとりで小さくなって座ってたよ。で、瑠南の義父のフランス人......白髪頭だけど引退したプロレスラーみたいに体格のいいオヤジが、腕組みをしていうわけさ。いったい何の用だ、って」
「ちゃんと説明したんですか?」
「もちろんさー。先生はおもむろにメモ帳取りだして、瑠南の夫にいったよ。これと同じ物買えますかって」
「そう......いったんですか、単刀直入に?」
「ああ。部屋はしんと静まりかえったな。パリにあんな静かなアパートがあるとは思わなかった。瑠南は情けない顔をして先生を見たよ。メモ帳って何、ってつぶやいてた」
莉子は思わず楚辺の顔を見た。楚辺も見かえした。互いに目を合わせるうちに、おかしさがこみあげてきた。楚辺が腹をかかえて笑い声をあげた。莉子もつられて笑った。
喜屋武はむっとした。「おかしいか。先生はな、おまえに頼まれたとおりにやったんだぞ」
「ごめんなさい。先生。つい......」莉子は笑いをこらえながらいった。「でも、すべては先生のおかげですよ。じゃなきゃ、一日で同じメモ帳は入手できませんでしたから」
「凜田の使い走りにされるとは思わなかったよ」順番がまわってきた。喜屋武はトランクをカウンター前に運んだ。
荷物を預けて、手続きを済ませる。ようやくトランクの運搬から解放された。莉子たちはカウンターを離れた。
また広々としたフロアを横切っていく。チケットに記されたゲート前に着いた。税関と金属探知機の先に見える空間は、まるでショッピングモールのようだった。無数の免税店が軒を連ねている。シャネルやエルメス、カルティエのロゴをあしらった、きらびやかな看板が並んでいた。
帰国前に最後のお金を落としていってください、そんな願いで設けられたのだろう。あいにく、わたしたちのような貧乏旅行には無縁の一帯だった。
「先に行くぞ」喜屋武が税関に向かいかけた。「楚辺。世話になったな。帰郷したら連絡くれ。じゃあな」
喜屋武の背がゲートに消えていく。莉子は立ちどまり、楚辺を振りかえった。
楚辺は微笑とともにいった。「お別れだね」
「うん......」
「凜田。こんどの旅行は、本当にごめん」
「え? 何が?」
「いろんなところを見てまわりたかっただろうに、僕の店のせいで......」
「そんな」莉子は笑った。「想像もつかないほど充実した旅だったわ。観光客の立場じゃ、行けそうにないところにも行ったし。いろんなことがあったし」
莉子はそこで言葉を切り、視線を落とした。
アンジェリークは取調室で号泣し、反省を口にしている。けさのニュースがそう報じていた。涙の意味まではわからない。彼女にとって、フォアグラをだしていた店はもちろん、そこに来る客さえも、動物の権利を奪う罪深い共犯者でしかなかったのだろうか。命に別状はなくとも、故意に人々を入院に至らしめたという自分の所業をどうとらえているのだろう。
彼女が泣いたのは、被害者の受けた苦痛に思いが及んで胸を痛めたから。そう信じたい。昨晩、凱旋門の屋上に垣間見えた彼女の心の揺らぎが、錯覚ではないと思いたい。でなければ、あまりに辛いことだ。彼女がとらえる悲観的なものの見方のままに未来が閉ざされてしまうではないか。
それに、事件に端を発する苦難も苦行も、彼女ひとりだけのものではない。
莉子は顔をあげてつぶやいた。「アンジェリークさんのお父さん......ヤニク・クストーさん、どうしてるかな」
「ロワールに帰ったってきいてる。かなりショックだったみたいだけど......。いずれアンジェリークさんと話し合う日がくると思う。少しずつでも判りあえればいいね」
「だいじょうぶ......じゃないかな」莉子は期待をこめていった。「親子なんだし」
「......だね。ふたりともいい人たちだよ。工場についても、きっといい解決策を見つけてくれるだろう」
楚辺が言葉を切ると、沈黙がおとずれた。
見つめあうのは、なんだか照れくさい。莉子はうつむいた。楚辺もほぼ同時に視線を逸らした。
「あのさー」と楚辺がいった。「き、きいてもいい?」
「何を?」
「いま、彼氏は?」
莉子は口をつぐんだ。返答に困る質問だった。
いるといえば嘘になる。でも、いないといえば......本当にそうなのかな。
首を傾げたまま、しばらくぼうっとたたずんだ。
「凜田?」楚辺の声が、遠くからきこえるように感じられる。「凜田。なあ」
はっと我にかえる。楚辺が妙な顔をして、こちらをのぞきこんでいた。
楚辺は眉をひそめた。「どうしたんだ? 急に昔の凜田に戻っちまったみたいだ」
「あー。ごめん......。ちょっと考えごとしてたから」
「で、いるの? 彼氏」
「さあ」
「......さあ、って。どういう意味?」
「はっきりしたことはいえないの。新しく知り合った人とか、いまは大勢いて。新しい街に住んでて......。新しい仕事をして、新しい人生を歩んでる。これまでとは全然違うから、なにが待ってるか、まだよくわからない。けど、すごく楽しいの。毎日が刺激的で」
楚辺は難しい顔になった。どことなく肩すかしを食わされたような気分になったらしい。頭をかきながらいった。「そうかぁ......。ま、よくわからないけど、実際、昔の凜田とは全然違うしな......。仕事もうまくいってるの?」
「どうかなぁ。儲かってはいないけど」
「つづけられそう?」
「ええ」莉子はうなずいてみせた。「いろんなことを教えてくれた人の信念を受け継いでるから。収入なんて最低限でいいの。きてくれた人が幸せになってくれれば」
「......そうかぁ。僕も見習わなきゃな」
「楚辺君はきっと成功するわよ。頑張り屋さんだし、才能あるし」
「ありがとう......。本当に、すべてに感謝してるよ。なあ、凜田。甘えてばかりで恐縮だけど、もうひとつ頼みをきいてもらえないかな。嫌ならいいんだけど」
「なんでもいって」
「今度、凜田が実家に帰って、僕も同じときに帰省していたら......。また西表島のドライブにつきあってくれないかな」
「ええ」莉子は笑みとともに楚辺を見つめた。「もちろん」
楚辺も笑顔で見つめかえしながら、何かをいいかけた。
そのとき、中年男の声が甲高く響いた。「マドモワゼル! マドモワゼル・リンダ!」
驚いてフロアに目を向ける。グレーのスーツ姿の男が、巨大な中国風の壺を抱きかかえて走ってくるのが見えた。ヴァランタン・コタヴォは血相を変えて怒鳴っていた。「この壷を鑑定してくれ! 乾隆帝の時代の逸品だ」
「まずい」楚辺が莉子に向き直った。「総料理長が出発ターミナルを教えちゃったんだな。早く行って。かかわってると飛行機に乗り遅れるよ」
莉子は困惑した。楚辺の進言には従うべきだ。けれども、誰であれ鑑定を依頼してきた人物がいるからには、無視して立ち去りたくはない。
とはいえ、壷の価値に関しては、目の前にくるまで待つほどのこともなかった。まだかなりの距離はあるが、どんな物なのかは遠目にもあきらかだった。
「楚辺君」莉子は早口に告げた。「コタヴォさんに伝えて。あれは乾隆帝のころの陶磁器じゃなくて、それを模した清朝末期の品よ。官窯が衰退して、美術品から工芸品に成りさがっちゃってるから、土産物としての価値しかないの」
「わかった」と楚辺が身を翻して駆けだそうとした。
「あ」莉子はいった。「それから、もうひとつ。結果をきいても壷を落とさないよう、前もって注意を呼びかけておいて」
楚辺は笑いながら手を振った。「了解。じゃ、またな。凜田」
接近しつつあるコタヴォの進路を阻むように、楚辺が駆けていく。莉子は背を向けて、足ばやにゲートへと歩を進めた。
喜屋武がゲートの向こうで手招きしている。「凜田。どうした。急げ」
「すぐ行きます」莉子は税関にパスポートを提出した。スタンプをもらうと、金属探知機に進む、小物をトレイに載せてゲートをくぐった。
免税店の連なるそのエリアで、莉子は喜屋武と再会した。
「ったく」喜屋武はため息をついた。「ひやひやさせるな。もう時間がないっていってるだろ。いったい何をしてた」
「ええとですね、いまは......」
そのとき、ふいになにかが砕け散るような騒音が耳をつんざいた。
ざわっとした驚きが周囲に広がる。警備員たちが警笛を鳴らして走り、ゲートの外へ飛びだしていった。
喜屋武も目を丸くしていた。「なんだ......いまの音は?」
考えるまでもない。莉子は微笑してみせた。「さあ。壷でも割れたんじゃないですか」
「壷? ふうん」喜屋武は背伸びしてゲート越しに目を向けていたが、何も見えなかったらしく、あきらめたようすで告げてきた。「何分か余裕ができた。いまのうちに渡しておこう」
「渡すって、なにを?」
すると、喜屋武は手にした革のカバンを開けて、なかをまさぐった。「きのう。瑠南のところに行く前に、ルーヴルとオルセーに行ってきてな」
「美術館に、ですか。先生ひとりで?」
「ああ。本当は凜田も二日目以降、もっとじっくり見るつもりだったろ? お土産も買いたかったはずだ。時間がなさそうだったから、先生が代わって買ってきた。ほら。まずこれ」
取りだされたのは、文庫本ほどのサイズの紙製の物体だった。なかは空洞で、ふたつの覗き穴があいている。
妙に思いながら、それらの穴を両目で覗きこんだ。
とたんに、莉子は絶句した。
ルノワールの『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』。オルセーにあった絵画だ。モンマルトルのダンスホールいっぱいに戯れる大勢の男女。音楽の生演奏があり、ダンスがあり、語らいがある。喜びと楽しさに溢れた一枚だった。
驚くべきは、スコープのなかに再現された臨場感だった。平面のはずの絵が立体化されている。ダンスホールにはあきらかな奥行きがあり、はるか彼方で踊る人々の姿が見えている。手前の女性の顔は丸みを帯びていた。カンカン帽には手を伸ばせそうだ。
「すごい」莉子は感嘆とともにつぶやいた。「ほんとにその場にいるみたい」
「絵画を立体化した3Dスコープだってさ。ゴッホのやつも買ってきた。それから、もうひとつある」
喜屋武は、一枚の絵葉書を差しだしてきた。
セザンヌの『リンゴとオレンジ』......。縮小されてはいるが、鮮やかな色彩がそのまま印刷で再現されている。
「わあ」莉子はそれを受けとった。「ありがとう。すごく嬉しいです。先生」
「これも先生のせいで、鑑賞を途中で切りあげさせちまったからなぁ。本物じゃないけど、じっくり眺めてくれ。それと、裏にそのう、ちょっと書いておいたから」
「裏?」莉子は絵葉書をひっくりかえした。
さらなる驚きがあった。そこには、喜屋武の几帳面な性格を反映した、ていねいな文字が毛筆で綴られていた。
卒業証書
凜田莉子殿
あなたは沖縄県立八重山高等学校三年C組を卒業し、
万能鑑定士としての称号を授与されたことを、
ここに証明します
沖縄県立八重山高等学校三年C組 担任 喜屋武友禅
その文面を、莉子はしばし無言のまま眺めていた。
やがて、しだいに文字が読みにくくなっていくのに気づいた。視界に涙がにじみだしたせいだった。
頬をつたいそうになった涙を堪える。莉子は胸のなかに熱いものがひろがっていくのを感じた。
喜屋武が照れたようにいった。「筆ペンって、さすがのマルグリットでも調達困難だったらしくてな。無理いって取り寄せてもらって、けさになってようやくアパートに届いたさ」
「......先生」莉子は泣きながら笑った。「万能鑑定士って、お店の名前でしかないから......。称号じゃないですよ」
「いいんだよ。先生がきょう凜田に授けたんだ、その称号を。凜田は万能鑑定士さぁ。先生は誇りに思うよ。教師生活のなかでも、凜田莉子は最高の生徒さー。ちょっと待ってくれ。やっぱ。ちゃんと渡したほうがいいよな」
喜屋武は絵葉書、いや莉子の卒業証書をいったん受けとると、両手を添えてまっすぐに腕を伸ばした。「卒業証書! 凜田莉子殿。あなたは沖縄県立......」
なにごとかと足をとめてこちらを眺める外国人旅行客のなかで、莉子は喜屋武と向かいあっていた。喜屋武が文面を読み終えて、小さな卒業証書を半回転させ、莉子に差しだす。
油断すると、大泣きしてしまいそうだ。莉子は口をつぐんだま、頭を垂れつつ、両手でそれを受けとった。
最良の日。人生で最高の思い出。こんなに素晴らしい旅はない。先生と一緒にきてよかった。先生の教え子で、本当によかった。
ルーヴル
火曜日、ルーブル美術館は休館となる。
中央のシュリー翼もがらんとしていて、静けさに包まれる。ルーブル宮は本来の姿を取り戻す。響くのは関係者の靴音だけだ。
学芸員のリシャール・ブレは、シュリー翼の回廊に歩を進めていた。
ふと足をとめてラ・トゥールの絵画『大工の聖ヨセフ』を眺める。ロウソクの光に浮かぶ父と子の明暗の落差。その卓越した表現。何度見ても飽きない。
大半の客にとっては、これほどの絵ですら鑑賞の対象外となる。時間を気にしてせわしなく館内を駆けめぐるだけの旅行者に、美を見つめる余裕などない。
回廊を歩きつづける。壁ぎわには十七世紀のフランス絵画がずらりと並ぶ。角を折れるたび、百年ずつ時代が新しくなる。
ブレはグランゼコールの専門研究課程を修了し、修士号を取得、文化遺産の保護や修復を担う国立機関〝INP〟に入学した。学士号をとっていれば試験は受けられるが、生半可な知識では合格など夢のまた夢だ。
美術史と考古学はもちろんのこと、歴史、民俗学、自然科学など広範囲にわたり学習せねばならない。ブレは難なく突破した。
INPに入学後は、さらに専門分野が細分化される。古文書や調査、科学、技術、自然遺産、歴史的建造物、古学。
一年半におよぶ研修のなかで、付随する法律や管理についての教育も受け、学芸員となった。観光客のいないルーヴルで、好きなだけ芸術鑑賞できるのは真に道を究めた者に許された特権だ。ブレはその一員だった。
二階に下り、ドノン翼に向かう。サモトラケのニケが飾られた階段ホールには、観光客が目当てにしている有名どころの美術品について、道しるべが貼られている。ミロのヴィーナス、そしてモナ・リザ。
ふんと鼻で笑って、ブレは『モナ・リザ』の矢印が指し示す二階に足を向けた。
学芸員の仕事はさまざまだ。雑務もある。この辺りの絵画の説明文はプレが原稿を書いた。海外の美術館から展示品を借りたいという要請があった際には、窓口になることもある。
もう少し知的な仕事としては、新たな美術品を購入する際、あるいは寄贈を受ける場合の調査がある。すなわち作品の鑑定だった。
考古学のほうは発掘の状況が重視されるが、絵画においては出どころが課題になる。昨今の贋作者は知恵をつけている。他界した著名な画家と生前かかわりのあった系譜の末裔に接触し、そこに伝わっていた物という触れこみで美術館に贋作をつかませようとする。
ブレは、そんな偽装にはひっかからなかった。絵画が本物なら、それにまつわる歴史は常にひとつだ。例外などない。
鑑定のために、ありとあらゆる出版物の類いや、新聞、雑誌の記事を読みあさる。肝心なことはすべて脳に刻みこむ。いちど目にしたものの記憶は、まずもって消えない。ルーヴルで学芸員を務めていれば、当然要求される素質だった。
まっすぐに伸びる館内のあちこちに、自分と同じ学芸員の姿がある。彼らは設備をチェックしている。警報装置や防犯カメラの作動状況、そして絵画の状態。環境の変化にも気を配る。湿度が規定より一パーセントでも上昇すれば、それは数々の名画にとって忌忌しき問題となる。
同期の学芸員、オディロン・ボワイエが立っていた。ボワイエは分厚いファイルを抱えて歩み寄ってきた。「やあ、リシャール。早いな」
「最重要課題は取り急ぎ消化しないとな。準備はできてるか」
「もちろん。もう作業に入るところだ」ボワイエはそういって、通用口のひとつをくぐっていった。
ブレはそれにつづきながら、傍らの表記を眺めて苦笑した。二階の廊下の入り口までは『モナ・リザ』の写真入りの道しるべが貼りだされているのに、肝心のゴール寸前には〝ジョコンド夫人の間〟とフランス語で小さく記してあるだけだ。大挙して押し寄せる観光客に対する、わが美術館のせめてもの抵抗、あるいは皮肉。いったい何人の訪問者に伝わっているだろう。
室内に入ると、学術班のスタッフたちがひとつの壁の前でひしめきあっていた。総出で作業に従事している。
取り外しの不可能な防弾ガラスは、壁から十センチほど浮かせて設置してある。横の隙間から『モナ・リザ』を額縁ごと、慎重に抜き取る。
ゆっくりと作業しているのは、壁とガラスに傷をつけないためだ。決して絵画を大事にしているわけではない。
取りだされた『モナ・リザ』は、ひとりのスタッフが片手で扱い、床に寝かされる。その時点で、もうこの絵画に関心を払う者はいない。
ボワイエが歩み寄って。その絵を見おろした。
ふっとボワイエは笑った。「ガラスの反射がなくなると、なんとも不自然なてかり具合だな」
ブレは腕組みをした。「それでも、街の鑑定家レベルならだまされる。ガラスを通して見せるだけなら、百パーセント欺けるだろう」
三次元ビジョンとロボットアームが組み合わさった複製絵画の作成装置は、年々進化している。千分の一ミリの油絵の具の厚みの変化までを読みとり、筆で正確に再現する。
ルーヴルで複製を用意する場合、キャンバスは時代に沿ったものを使うが、絵の具は違う。万が一にも処分されず世にでまわったりしないよう、即座に鑑定で見破れるように現代の絵の具が用いられる。
この『モナ・リザ』もそのせいで表層の光沢や艶がありすぎ、いかにも不自然な出来ばえだった。人工的かつ無機的な印象しかない。ダ・ヴィンチが表現した深みはまるで感じられなかった。
それでも、見る目のない団体客に拝ませておくには充分だ。彼らは歯止めがきかない。一日じゅう、この世界一有名な絵画の前に押しかけて、平気でカメラのフラッシュを焚く。カタログにさんざん載っている絵を写して何になるのかわからないが、とにかく撮影しないと気が済まないらしい。
夏のホリデー・シーズンには、そんな団体客の数もピークを迎える。ルーヴル最大の宝を、危険にさらすわけにはいかない。だから、一定の期間はイミテーションと入れ替える。本物は保管庫に、厳重に仕舞いこまれる。
廊下からざわめきがきこえた。その本物が運ばれてきたらしい。
複製は遠ざけられ、代わりに大勢のスタッフに囲まれて一枚の絵が到着した。
モナ・リザ。正真正銘のダ・ヴィンチによる珠玉の名画。いま本来あるべき場所に戻されようとしている。
ブレはボワイエにきいた。「秘密の保全に揺らぎはないな?」
「当然だよ」とボワイエはいった。「スケジュール表では、きょうのこの時間は『モナ・リザ』のコンディション・チェックとされてる。取り外して徹底的に調べ、また元の場所に戻す」
「作業としては似通っている。疑う者はいないだろう」
『モナ・リザ』がガラスの向こうにおさまった。室内の様相ががらりと変わった。死んでいた空間に、ふたたび魂が宿った。なにもかもが明るく輝きだした。
ボワイエが感銘を受けたようにつぶやく。「こうしてみると、全然違うな」
「そう感じるのは僕らだけだよ」とブレは告げた。
「本当に?」
「ああ」ブレは真の名画をまっすぐに見据えた。「分子レベルまで分析可能な科学鑑定。筆づかいの微妙な違いまで見極めるプロの観察。だが鑑定の基本中の基本は、その絵画の持つ抗いがたい魅力を理解し、心に感じることだ。感受性の強さが真贋を見極める。どんな知識も、そこに生じる直感にはかなわない」
すると、ボワイエが微笑しながらブレを見た。「冷静沈着なきみの口から、感受性って言葉がでるとはね。予想外だったよ」
ブレは『モナ・リザ』から視線を外さなかった。「冷たい人間に見えるか?」
「見えるとも」
「なら、きみの観察には誤りがあるよ。感受性のない人間に鑑定はできない。僕は絵と向き合うとき、画家の心と触れ合う。本物は、向こうから語りかけてくる」
ボワイエは本気にしていないらしく、にやつきながらいった。「一日に三万人の入場者がいて、しかもそのほとんどが『モナ・リザ』を見るんだ。ひとりかふたりぐらい、気づく人間がいてもよさそうなものじゃないか」
床に投げだされた複製に目を向ける。二枚のモナ・リザ。ひとつはあるべき場所に、もうひとつは地に這っている。
「......そうだな」ブレは複製を見おろし、深い感慨とともにつぶやいた。「出会ってみたいよ。理詰めでなく、これを偽物と気づきうる人物に。僕でさえも、予備知識なしには真贋の鑑定はできないんだから。きっと天使のように純粋な心の持ち主で、女神のごとき美の理解者にちがいない。この世にいるなら、いつか会える日がくるだろう」


万能鑑定士Qの事件簿 Ⅵ
夢物語
東京湾埋立地、芝浦埠頭の倉庫街は、真夜中になるとひとけが途絶える。ゆりかもめの駅が近くにあるが、この時刻には運行していない。レインボーブリッジを徒歩で渡るための入り口も閉鎖される。
前面が傾斜した、未来的な三角のフォルムが特徴的なヨコソーレインボータワーも、首都高からの眺めこそ『ブレードランナー』を彷彿させるが、こうして地上に降り立ってみると閑散とした車道沿いにぽつんと建っているにすぎない。近くにコンビニもない。マンションの住民も出歩かず、ひたすら部屋に引きこもっている。
八木沢駿介はセダンのステアリングを握っていた。その静寂に包まれたビル脇を徐行し、倉庫へのゲートに乗りいれる。警備員の姿もない。見る限り果てしなくつづくコンクリートの広大な空間には、トタン板を壁面に打ちつけ補修した古びた倉庫が連なるばかりだった。
クルマを停車させて、エンジンを切る。キーを抜き取ると、ヘッドライトが消える代わりに車内灯が点灯した。
ルームミラーに映った自分の目もとを見る。
アパレル業界に打ってでたころは、もっと若々しかった。それなりのハンサムを自負し、女性にももてるほうだと考えていた。五十を過ぎたいまも痩せた体型だけはなんとか維持できてはいるが、ほかはぼろぼろだった。酒の飲みすぎで肝臓が悪い。状況が好転してくれれば、少しはアルコールも控えられるのだが。
藁をもつかむ思い、それを実感する日々だった。おかげで、こんな頼りなげで怪しげな話にまで引き寄せられる自分がいた。会社がうまくまわっていれば、素性すらあきらかにしない相手との話し合いに臨んだりしないものを。
ドアを開けて外に降り立つ。気温は低かった。冷たい夜気のなか、潮の香りが漂っている。八木沢はスーツの前をかきあわせてボタンをかけた。歩きだすと、静寂のなかに自分の靴音だけがこだました。
待ち合わせ場所の第十七番倉庫の看板が、街灯におぼろげに照らしだされている。錆びついた鉄製のスライド式の扉は、わずかに開いていた。覗きこんだが、なかは真っ暗に見えた。
困惑を覚えながらたたずんでいると、内部から若い女の声が響いてきた。「どうぞ。お入りください、八木沢さん」
面食らいながらも、おずおずとなかに足を踏みいれる。
外からはなにも見えなかったが、倉庫内は薄明るかった。天窓から差しこむ月の光のせいかもしれない。床は木板で、腐っているのかひどくきしんだ。
しだいに目が慣れてきた。八木沢は息を呑んだ。
衣服のラックがずらりと並んでいた。ハンガーにかけられているのは新品の洋服、それもレディスものばかりのようだ。
よく見ると、カジュアルウェアが大半を占めていた。フリルのついたワンピースやカーディガン、トップスにデニム、オールインワン。若い女性をターゲットにしたものらしい。デザインセンスは今風、いやまさしく旬といえる売れ線のファッションばかりだった。
うちの工場が手掛けるものと方向性が一致している。趣味はだんぜんこちらのほうがいいが。
そのとき、足音が響いた。倉庫内に築かれた木製のバルコニーから、階段を下りてくる人影がある。ほっそりとした女のシルエットだった。
近づきながら女はいった。「そのワンピース、いいでしょう。店頭では五千九百九十円で販売になります。二千四百九十円のクラッチバッグと組み合わせれば、よりスマートに見えますよ」
渋谷か原宿のショップ店員の接客を思わせる口ぶりだった。八木沢はふんと鼻で笑ってみせた。「試着までは勧めんだろうな。いい歳したおっさんに、この手の商品説明は無用だよ」
しかし女の声は落ち着き払っていた。「そう。てっきり十代の女の子かと思った。小柄で、しかも痩せてるから」
むろん本気ではないだろう。皮肉めかせた冗談だった。決して趣味がいいとはいえない。初対面、それもこちらを呼びつけておいて、いきなりため口とは。
苦言を呈そうとしたとき、八木沢はぎょっとして言葉を呑みこんだ。女の全身が、月明かりに照らしだされたからだった。
女はパンク・ファッションに身を包んでいた。髑髏の刺繍が入ったレザー、ゴスなミニプリーツに網タイツ、華奢な脚に異様に太くみえるブーツ。ライブハウスでロックバンドでも率いていそうだ。
だが顔は意外にもメイクが薄く、透き通るような色白の肌で瞳も大きかった。ストレートのショートヘアを明るく染めてはいるが、なぜか清純さを残していて、真摯な面持ちに感じられる。端整な美人顔のなせるわざか。
年齢は二十代前半に見えるが、冷静沈着な態度からするともう少し上かもしれない。つんとすましてみえる高い鼻は小生意気にも思えるが、見下すことを許さない強烈な存在感によって、こちらとしてはなんともいえない気分に陥る。
八木沢はきいた。「きみは誰だ? 従業員か?」
「ええ。まあ、そんなとこ」
「それで、責任者はどこにいる。きょう私が話す相手は」
「目の前に」女は平然といった。「はじめまして。雨森華蓮といいます。八木沢社長」
「......きみの上司は同行していないのか。私との商談にきみひとりを寄越したのか」
「ナンバーワンならお越しになりません」
「なに? ナンバーワン?」
「上司でも、リーダーでも、好きなようにお呼びになればいいでしょ。法人登記していないから社長じゃないし。わたしたちはナンバーワンと呼んでる」
あきれた。子供の遊びか、もしくは学生のサークル活動だったか。
特殊な流通経路を掌握していて、大量の商品制作を発注する用意がある。そんな話を真に受けた自分が馬鹿だった。
八木沢は踵をかえし、雨森華蓮なる女に背を向けて歩きだした。「ままごとにはつきあっていられないのでね。失礼する」
華蓮の声はあわてたようすもなく告げてきた。「社長みずからビジネスチャンスを逃すようじゃ、社員たちが路頭に迷うのは目に見えてますね。稼働しない工場を抱えた零細企業ならなおさら」
「経営の何たるかを知りもしない分際で、好き勝手な言動は慎んでもらいたいね。会社なら、うまくいってる。素人目にはわからんだろうが」
「二十億近い負債を抱えて、返済のめども立たないのに?」
思わず足がとまる。八木沢は華蓮を振りかえった。
「なにをいってる」
「社長以下数名が働くオフィスを除いて工場は休業状態、従業員の給料も滞っている。今月末にまとめて支払うと約束して組合の抗議を退けたけど、銀行の融資を受けられない多重債務の状態にあって給料をだせるはずがない。自宅はとっくに抵当にいれちゃったし、きょう乗りつけたクルマも『わ』ナンバーのレンタカー」
八木沢は袖をまくって腕時計を眺めた。「誰にきいたか知らんが、根拠のない噂話だ。時間を無駄にしたよ」
「......っていいながらロレックスを見てるかっこいい俺、って感じ? こんな腕時計、儲かってなきゃ身につけていないって?」
嫌なところを突いてくる。あてずっぽうにすぎないだろうが、図星というのは気分が悪いものだ。
この腕時計は友達に借りた。ロレックスには詳しくないが、ブランド品を持っていれば商談の際になめられずに済む。そう思ってのことだった。自前のクルーザーを海外に所有していて、しょっちゅうマリンスポーツにでかける友人だ。懐には余裕がある。バーに誘って一杯ごちそうしただけで、快く承諾してくれた。日焼けした肌に体格のよさ、あの威厳にあやかりたい気分もあった。
ところが華蓮は、まるですべてを見透かしたようにいった。「お友達が外国にクルーザー持ってるって法螺話、まさか真に受けちゃいないんでしょ? 口でいってるほど儲かってないし、いざというときにも資金を都合してくれる余裕なんかないから、気をつけて。お友達が誇れるのは体格のよさだけ。なんにしても、あなたはわたしと商談する気がなくなったみたいだから、安酒場でお友達に一杯おごったのも無駄になっちゃったわけね」
「な」八木沢は絶句した。咳きこみながら華蓮にたずねた。「なんで......。どうして知ってるんだ、彼を」
「彼って?」
「私の友達だよ」
「ああ。知らない。会ったことないし」
「だが、いまきみは......」
「その腕時計、バンド合ってないじゃん。ふだんはもっと手首が太い人が身につけてるんでしょ。ロレックスのヨットマスター。クルーザー持ってるセレブリティ御用達の品。たしかに沖にでて腕時計を潮風に長時間晒してるわけだから、クルージングしてるのは本当でしょう。金無垢のはずの縁取りが錆びて剥げかけてんじゃん。ようするに金メッキ製の偽物ってこと」
「なんだって!?」八木沢は腕時計に目を凝らした。「これ、本物じゃないのか?」
「フェイクのなかではよくできてるS級やA級もしょせんは量産品。お友達の腕時計は、その上をいくスーパーコピー。クルーザーは海外にあることにしておけば、あなたに見せずに済む。だけど、スーパーコピーのロレックス持って空港の税関を抜けられるわけないから、国外にでてるはずがないでしょ」華蓮はつかつかと歩み寄ってきて、八木沢の腕をつかみ、腕時計に顔を近づけた。「魚のにおいがしみついてる。クルージングは趣味じゃなく仕事。ようするに漁業ね」
「馬鹿な」八木沢は腕をふりほどいた。「たしかに彼はシーフード関係の会社を経営しているって話だったが、漁船に乗ってるわけじゃないだろ」
「シーフード」華蓮は笑った。「英語にすればなんでもかっこつくわね。海沿いに建ってるぼろアパートもウォーターフロントもしくはオーシャンビュー。職安はハローワーク。商談不成立はエヌジー。狭くてちっぽけな居酒屋もバーっていえばさまになる。お通しのミックスナッツのかけらがネクタイに残ってるわよ。運転があるからお酒は飲まなかったでしょうけど、だいぶあわててたみたいね。腕時計借りようと思って必死だったんですね。でもそんな店に誘われて飲みにくる時点で大富豪じゃないでしょ。考えてみればわかりそうなものだし」
華蓮は八木沢のネクタイを軽く手ではたいた。
いわれてみれば、たしかに......。友人にはすべて当てはまることだ。そして、自分についてはぐうの音もでない。
あなどれない女。いまさら隠しごとをしたところで無駄のようだった。
八木沢は咳ばらいをしてみせた。「先に白状したところで意味はないだろうが、たぶんきみなら、私のスーツがコナカのバーゲン品ってことも見抜いてるんだろうな」
「ジャケットとスラックスはね。ワイシャツと靴は青山。ネクタイはどこで買ったかしらないけど、中国製の大量にでまわってるやつ。上野駅の売店なら千円」
「きみは......鑑定でもおおせつかっているのか。ボスの右腕として」
「鑑定だなんて」華蓮の顔から微笑が消えた。「そんな儲からない事業に手をだしたりしません。商品の流通に必要な知識というだけです」
「さっきいってたな。ボスは社長じゃなくて......ええと、ラウンドワンとか......」
「ナンバーワン。ラウンドワンってボウリング場でしょ。CMはピン芸人の墓場」
「そのナンバーワンって人は、本当に流通業界の大物なのか? きみらのグループは、あらゆる有名チェーンに顔がきくって話だったか」
「嘘偽りは申しません。だからあなたの工場に、新規商品の制作を大量発注したいと考えているんです」
「この倉庫にある品物は? 小売りの値段もきまっているようだが」
「埼玉のある工場に注文して作らせた物です。明日にはH&M各店で販売されます」
八木沢は耳を疑った。「なんだって? H&M? ユニクロやZARAの向こうを張って日本に進出した......」
「そう。スウェーデンのヘネス・アンド・マウリッツ。低価格ながら良質のファッションを提供するショップです。ここにある四千着は国内向けで、大部分は銀座中央通り店と原宿明治通り店、新宿三丁目店に出荷されます。それから埼玉ららぽーと新三郷店、大阪ラズ心斎橋の戎橋店にも......」
「待て。ちょっと待ってくれ」
華蓮は口をつぐんだ。
沈黙のなか、八木沢はため息をついた。
「なあ」八木沢はつぶやいた。「ドラマや映画ならともかく、こんな突拍子もない話をきいたのは初めてだ。いくらなんでもH&Mに卸せるなんてありえない」
「そういわれても、事実だからしょうがないです。H&Mは、製造小売業でありながら自社工場を持たないファブレス企業だし。生産拠点は世界二十ヵ国、協力工場は八百社。わたしたちはそのサプライヤー以外に即戦力となる工場を常に探しまわり、H&Mに推薦します」
「H&Mが私の工場を気にいらなかったら終わりってわけだ。虫のいい仲介事業だな」
「ところが、H&Mのナンバーワンに対する信頼は絶大なものです。商品は百パーセント、店舗に流通します。売り上げも、私どもが提案する商品のコンセプト通りに仕上げてもらえば、確実に完売に至ります」
「いや......。そんな話は信じられんよ。H&Mが私たちのような町工場を相手にするなんて」
「どうして? H&Mの物流システムはご存じないでしょ?」
「たしかに、H&Mは商品調達の過程を企業秘密にしてる。でも噂ならきいたことがある。世界各国間の流通は中国資本の海運業者が取り仕切ってるんだろ。飯田橋にある私の工場から、渋谷や原宿のH&Mに直送なんて、まるで考えられん。むろんこの倉庫からもな」
華蓮はしばし無言で八木沢を見つめていたが、やがて傍らの棚に向かうと、引き出しを開けて裁縫用のハサミを取りだしてきた。
ラックにぶらさがった洋服のなかから、一枚を無造作に引っ張りながら、華蓮はハサミを差しだした。「どうぞ」
八木沢はハサミを手にとった。「なんだね?」
「このワンピースのフリル......。隅のほうなら目立たないでしょう。ここを小さく切り取ってください」
「なに? 売り物だろう?」
「いいから。好きなように切って」
困惑を覚えたが、向こうから指示してきたことだ。八木沢はハサミの先端をフリルに這わせた。
小さく切り取るといっても、目印にならなければ意味をなさないだろう。そう思って、八木沢は故意にハサミを上下左右に傾け、ギザギザに切り取った。
ハサミの切れ味は鋭かった。小指の先ほどのサイズの切れ端が、ワンピースのフリルを離れて八木沢の手のなかにおさまった。
華蓮はその切れ端をつまみとり、透明なビニール製の小袋のなかにおさめた。小袋を八木沢に渡しながら、華蓮はいった。「このワンピースは明日、渋谷の東急文化村通りにあるH&Mに出荷されます。二階奥の売り場に陳列される予定です。あなたの目でおたしかめください。切れ端を突き合わせてみれば、真偽のほどはわかるでしょう」
「陳列って......。きみのいうことが本当だとしても、H&Mの店員がダンボール箱を開けて陳列する時点のチェックで、フリルの異常に気づくはずだ。不良品としてダンボール箱に戻すだけだよ」
「ところが、違うんです。ナンバーワンを経由して入荷した品は、H&M側もノーチェックで陳列することになってる。ちぢれていたり、破れていたりしても、お店に並ぶんです。もちろん普段は商品管理も徹底するけど、今回に限っては、わたしたちの流通業界における影響力の強さを知っていただくのに有意義な実験でしょう。そう思わない?」
八木沢は呆気にとられながら、常識では売り物にならないワンピースを眺めた。自分の手で切り取った以上、そのフリルの無残な箇所にばかり目がいく。
これはもうアウトレットや古着店ですら扱いかねる代物だろう。なのに、H&Mでは商品として扱われるという。そんなことがありうるのか。長年アパレル業界で働いている八木沢にとっても。まさに前代未聞の疑念だった。
胡散臭く思いながら、八木沢はビニールの小袋をかざした。「わかった。では明日、渋谷に出向いてたしかめるとしよう。話はそれからだ。いいかね?」
「結構です。朝十時ごろには東急百貨店本店地下の食品フロア、お菓子のコーナーのあたりにいますから。じゃ、また明日」
それだけいうと華蓮は背を向けて立ち去った。階段をのぼり、振りかえりもせずにバルコニーの暗闇に姿を消していく。
狐につままれた気分のまま、八木沢はそれを見送った。
くだんのワンピースに、もういちど目を向ける。
渋谷のH&Mでこの服と再会するのか。それも明日......。夢物語だ。
ビニールの小袋をポケットにねじこんで。八木沢は扉に向けて歩きだした。
家に帰って、ブランデ・グラスでも傾けてから、何もかも忘れて眠ってしまおう。たとえ朝寝坊をして、明日渋谷に行かなかったとしても、後悔はすまい。
信ぴょう性がゼロに等しい話であっても、期待感を持ってしまう。そんな自分が嫌だった。ありもしない大仕事の受注を夢見て、眠れない夜を過ごすぐらいなら、飲みあかしたほうがずっといい。
H&M
翌朝、午前十時前。都心の空は晴れ渡っていた。八木沢は首都高にセダンを飛ばし、渋谷出口で降りて道玄坂を下ると、109前を左折して文化村通りに入った。
道沿いのパーキングスペースは、本来は業者の荷下ろし用だ。しかし八木沢はかまわず空いている枠内にセダンを滑りこませた。業者専用というのなら、俺もそのひとりだ。
セダンを下りて横断歩道を渡る。渋谷はひさしぶりだった。目的のその場所は、かつてはブックファースト渋谷店という大型書店のビルだった。いまはH&Mの真紅のロゴを誇らしげに掲げる四フロアのメガストアに変貌している。
エントランスの前にくると、ちょうど開店したところだった。待っていた客たちが吸いこまれていく。八木沢もその人の流れに従った。
この時間に訪れたのは、決して逸る気を抑えてのことではない。あの華蓮なる女、もしくはその一派が、店に客として入ってこっそりワンピースを置いてこないとも限らない。店員の目を盗んで商品を置く、いわば〝万引き〟ならぬ〝万押し〟行為だ。そんな姑息な手で欺かれてたまるか。
店内は賑やかで艶やかな、ニューヨークの街並みを思わせる装飾で統一されていた。モノトーンを基調にしたインテリア、二階までは吹き抜けになっている。八木沢はエスカレーターに乗って階上に向かった。
客の趣向ごとにエリアが明確にわかれている。例のワンピースがありそうな売り場はすぐに目についた。若い女性客ばかりが右往左往するなかに、八木沢は歩を進めた。
しばらくラックを観察していき、ふと足がとまった。
あった。間違いない。この色、このデザイン。きのう倉庫で目にしたワンピースだ。
商品は専用のハンガーにかけられ、値札とタグをつけられてラックにおさまっていた。陳列状況からみて、外の人間によって勝手に持ちこまれたものとは思えない。
問題はフリルだ。八木沢はワンピースを引っ張りだした。
と同時に、鳥肌が立つような寒気が走った。
該当箇所は、ギザギザに切り取られていた。きのう、俺が切断したものだ。ハサミをどう運んだが、はっきりと手に感触が蘇ってくる。
あわててビニールの小袋を取りだす。切れ端をつまみだして、切断面にあてがってみる。
完全に一致した。同じ製品でもわずかずつ色が違っているものだが、これらはまったくの同色だった。故意に複雑なかたちに切った部分もぴたりと符合する。あのとき、布がハサミの先にひっかかり、糸が何本かほつれたが、その痕跡もフリルと切れ端の双方に残っていた。
持ってきたルーペで拡大して観察する。糸の先を一本ずつ照合してみる。ハサミが斜めに入っていれば、糸も当然、そのように切断されているはずだ。
八木沢はため息を漏らした。やはり疑いの余地はない。まぎれもない、きのう芝浦埠頭の倉庫で見たワンピースがここにある。
ハンガーごとワンピースをラックから引き離し、足早にレジに向かった。女性店員が笑顔で応じる。いらっしゃいませ。
「あのう」八木沢はいった。「このワンピースなんだけど、ほら、見てくれ。フリルが切れてる」
店員は神妙な顔でワンピースを手にとった。すぐに目を丸くして八木沢を見かえす。「まあ。申しわけありません。すぐにほかの物を......」
「いや、ちょっと待ってくれ。値札のバーコードを読み取ってもらえないか」
「でも、これは不良品ですし」
「いいから。商品情報を見たいんだよ」女性店員は腑に落ちないようすだったが、スキャナを手にしてワンピースのタグに押しつけた。
ピッと音がして、レジの液晶画面に表示がでる。八木沢は身を乗りだし、それを覗きこんだ。
ワンピース、五千九百九十円。商品番号。情報におかしなところは見受けられない。正規の商品に相違なかった。
八木沢は店員にきいた。「馬鹿げた問いに思えるかもしれないが......これ、H&Mの商品かね?」
「もちろんですよ。入荷したての人気商品です」店員は戸惑いがちにいった。「少々お待ちください、同じ物の在庫があるかどうか、確認してまいりますから」
店員は、カーテンを割って奥にひっこんでいった。
唖然としながら八木沢は店内を振りかえった。
よく目を凝らせば、いたるところにきのう倉庫内で見た商品が並んでいる。カットソーにも、カーディガンにも見覚えがある。
二割ほどが、倉庫にあった商品だ。信じられない。ナンバーワンなる人物は本当に、H&Mへの直送の卸しを可能にしている。
こうしてはいられない。八木沢は駆けだし、下りのエスカレーターに向かった。一階に到達するや、すぐに外にでる。都会の喧騒と雑踏のなか、交差点を渡り、東急百貨店本店を目指した。
ブランドショップが連なる一階から、エスカレーターで地階に下りる。食品売り場とはいえ上品そのもののフロアだった。店員の態度も厳かだった。
まだ客の数はそれほどでもなかった。生鮮食品から調味料の連なる棚を抜け、菓子のコーナーに行く。
いた。きのうとはまた別のパンクなスタイルに身を包んだ雨森華蓮が、陳列棚を見おろしている。明るいところで見ると、いっそう若く見えた。ファッションは総じて洒落ているが、すっぴんに近い横顔は肌艶もよく、十代の少女のようですらあった。ショートヘアのいろは金髪に近い。
八木沢は息を切らしながら近づいていき、華蓮に声をかけた。「なあ、きみ。いったいどうやって......」
「しっ」華蓮はこちらに目も向けず、片手をあげて制してきた。
華蓮が見つめている先には、森永チョコボールの箱がずらりと並んでいる。二十箱入りカートンだった。
「......なにをしてる?」と八木沢はたずねた。
「くちばしに金のエンゼルがあれば一枚で、銀のエンゼルなら五枚で応募可能。おもちゃのカンヅメがもらえるの」
「知ってるよ。ぜんぶ買えば当たりも含まれてるだろ。カートンを丸ごと大人買いしちゃえばいい」
「そんなことだから経費を余分に使っちゃって、会社が傾くんでしょ」華蓮はあきれたようにつぶやくと、いくつかの箱を引き抜いた。「これと、これ、それからこれとこれね」
「運だめしでもしてるのか?」
「まさか」華蓮は四箱を手にして歩きだした。「賞味期限の揃っている箱は同じ工場の生産ラインで製造されているから、仕上がりぐあいも同一になるはず。けど。くちばしは箱と一体化しているから、その工程は当たりとハズレで完全に別々のラインになってる」
八木沢は歩調をあわせた。「印刷の色合いが微妙に違うわけか。あるいは箱の組みあげ方が異なっているとか」
「いいえ。そういう都市伝説もあるけど、メーカーも馬鹿じゃないから露骨なミスは残さない。でも外装フィルムにまでは注意が及んでない。森永の工場は箱の組みあげ後、それぞれの生産ラインごとに包装の工程があるの。外装フィルムの貼り合わせには機械のくせがでやすい。ごくわずかでも、ほかと異なってる包装について見逃すのは愚鈍じゃん」
華蓮はレジに並びだした。八木沢もじれったく思いながらそれにつきあった。
八木沢はいった。「いまH&Mに行ってきた。驚いたよ。ナンバーワンってのはいったい何者なんだ?」
「流通業界の大物、とだけいっておきます」
レジの店員が華蓮から商品を受け取る。四個のチョコボールの箱にバーコードのスキャナを這わせる。華蓮は財布を取りだした。
「あ」八木沢は反射的にさえぎった。「その支払いぐらいなら、私が」
「駄目よ」華蓮は冷静に告げてきた。「なんでもおごろうとしないで、それ、経営者の資質としてはマイナスでしょ」
「せいぜい数百円だし......」
「なら、おごられたほうもたいして喜ばないでしょ。いい? おごる機会を探りたがるのは、つまり精神的優位に立ちたいっていう願望を抑えきれてないから。でもあなたは多重債務者、わたしは儲かってる。恩着せがましく数百円の身銭を切っても形勢は逆転できない。わかるでしょ?」
若い娘に説教されて、なにもいいかえせないとは情けない。いっそのこと高飛車にでてみるか。「昼にはきみをイタリアンに誘おうと思ってたのにな。この近所の店の、イノシシ肉ラグーソースのタリアテッレは最高だよ」
「ラグーソース」華蓮はレジを抜けながら顔をしかめた。「うちの猫でも、またいで通るわよ」
「グルメとは知らなかった」八木沢は華蓮を追いかけた。「どんな料理がお好みかな」
「会食は結構」と華蓮は足をとめて振りかえった。「商談のたびにいちいち食事するなんて、あなたたちの世代のつまらない仕来たり。そんなことだから......」
「わかったよ。わかった。降参だ」八木沢は両手をあげてみせた。「大手の発注も途絶えて、うちの工場は蜘蛛の巣が張ってる。生産しても、どこにも卸せず突き返されたんじゃ、やっていけない。でも、きみのところは違う。ナンバーワンなる人物はH&Mとか、有名店舗に卸せるんだろ? ってことは、報酬も確約されてるわけだな」
「保証します」華蓮は真顔でいった。「流通コストを極力省いて、そのぶんを消費者と製造元に還元します。初回はブラウスを四万枚、カーディガンを三万枚、カットソーを三万枚発注させてもらいます。急ぎますので、一点につき二千円を支払わせていただきます。あなたの工場にとっては、二億円の収入になります」
一点二千円。安く買いたたかれることが多い服飾メーカーの下請け工場にとっては、目もくらむほどの金額だった。この仕事で負債の一割が軽減できる。
八木沢はおずおずときいた。「もしよかったら、その後も取り引きを......」
「ええ。ナンバーワンはあなたの工場を高く評価しています。今回と同規模の発注を十回も繰り返せば、借金は帳消しになるでしょう。悪い話じゃないと思いますか」
むろんだ。とはいえ、頭痛の種はほかにもある。「そのう......手付金についてなんだが」
華蓮は首を横に振った。「八木沢さん。こちらからの支払いは、すべての商品が出来あがって納品された後になります」
「しかし、当面の運転資金が......。知ってのとおり、もう銀行からは借りられないんだ」
「ほかにもお金を貸してくれるところはあるでしょう」
「まさか......闇金業者をあたれと?」
「金策はどのようにでも」華蓮は四箱の森永チョコボールのうち、三箱を八木沢に押しつけてきた。「これ、あげます。脳に糖分を行きわたらせて、じっくり考えてください。オーケーなら、きょうじゅうにメールで返事をください。型紙のデータを送らせてもらいます。布とか、ボタンなどの部品の指定もね。じゃ、ナンバーワンに会いますから、これで」
「私も会わせてもらえないかな」
「忙しい人だから、ちょっとね」そういいながら華蓮は手もとの箱の包装をはがし、くちばしを開けた。にっこりと笑ってそれをかざす。「ほらでた。金のエンゼル。魔法缶と冒険缶は持ってるけど、宇宙缶はまだだったの。じゃあ、また」
華蓮はぶらりと立ち去っていった。これ以上声をかけられることを拒むような、沈黙の背が遠ざかっていく。
八木沢はそれをぼんやりと見送った。
闇金......。ぜったいに手を染めたくないと思っていた資金の調達法。でもほかに方法はない。工場を動かさなければ仕事は受けられない。
まさに地獄のギャンブル、命がけの綱渡りだ。八木沢はチョコボールの箱に目を落とした。
ひどく気になる。三箱の包装紙を次々にはがし、くちばしを開けていった。
八木沢は衝撃を禁じえなかった。
三つならんだくちばし。いずれにも、銀のエンゼルが刻みこまれていた。
ボーナス
千代田区飯田橋一丁目、六百坪の敷地面積を誇る服飾縫製工場は、ずっと休業状態がつづき廃墟も同然だった。それがけさは、ひさしぶりに賑わいを取り戻している。二百人の従業員が総出で各部署に詰めている。生産ラインはフル稼働状態だった。
フロアを埋め尽くす無数の工場用ミシンが、いっせいにけたたましい音を奏でている。八木沢は中二階の渡り廊下からそのようすを眺めていた。安堵に胸を撫でおろしたい気分だった。
資金繰りもぎりぎりで都合がついた。従業員たちも戻ってきてくれた。やはり工場というのは、このように喧騒に包まれているにかぎる。蒸すような熱気もかえって心地よく感じられる。
工場はふたたび息を吹き返した。わが工場の第二の全盛期がはじまる。そう信じたい。
八木沢は廊下を歩きだした。そのとき、ヒールの音が追いかけてきた。
女の声が呼びかけてくる。「社長。ちょっとお待ちを」
足をとめて振りかえった。年齢は二十代半ば、痩せた身体を自社製のレディススーツに包んだ秘書の片貝咲良は、これまでならかなりの美人に見えていた。きょうはその限りではない。なぜだろうかと八木沢は訝しがった。
雨森華蓮と知り合ったからか。タイプはまるで違うが、華蓮はずっとプロポーションがよく、派手で若々しかった。顔だちが整ってはいても、黒髪に眼鏡という咲良は没個性的で、なんとなく陰気で辛気臭かった。
工場の低迷期の象徴に思える秘書とは、あまり言葉を交わしたくない気分だ。八木沢はあえてぶっきらぼうにきいた。「なんだ?」
咲良は両手にいっぱいの書類をかかえていた。「これらの型紙データ、コピー禁止って書いてありますよ。『生産を終えたらただちに破棄すること』ともありますし......」
「いいんだよ。不具合がでたときのために残しておくべきだ。コピーもとっておくのが常識じゃないか」
欺瞞だった。実際には、優れたデザインであるがゆえに制作のための資料を保存しておきたい、そう思ってのことだった。いずれ少し手直しして、自社製品として生産するのも悪くない。
「でも」咲良は腑に落ちないようすでいった。「いったい誰がデザインしたんですか。ブラウスにしろオールインワンにしろ、いつものクライアントとはレベルが違います。裁縫にも工夫がみられるし、シルエットもかっこいい。ボタンの指定もセンスよすぎだし、複数のデザイナーが関わってる印象も受けるし......」
「百人のデザイナーが毎年十回以上、世界各国を周遊して、行く先々で受けたインスピレーションをもとにデザインしてるんだ。そりゃ秀逸なものが揃うさ」
「......それ、どっかできいた話ですね」
「ああ。きいて驚くな。いまここで生産している製品はすべて、海外を含むH&M各支店に並ぶんだ」
「H&Mですって?」咲良は目を瞠った。「M&Mじゃなくて?」
「ミルクチョコレートを作ってどうする。いいか、きみが信じられんのも無理はない。私もこの目で見るまでは半信半疑だったんだからな。しかし今回は、裏流通ルートを掌握している業界の大物と接触した」
「まさか......」
猜疑心に満ちた秘書の目を見るうちに、不安もこみあげてくる。だが、いまのところ八木沢のなかでは、高揚した気分のほうが優勢だった。
「そのまさかなんだ」と八木沢はいった。「いいか、腰を抜かすなよ。うちの工場で生産した商品はひとつ残らず買いあげられる。百パーセント現金化されるわけだ。今後の話もしてある。うちは持ち直すぞ。中国製との違いを見せつけてやる。海外市場にも技術力の高さを認めさせてやる。新しい時代の幕開けだ。その社員用のスーツも、もうちょっとポケットの底を深くしないとな」
「なぜですか」
「大きい財布が入るようにだよ。年末にはボーナスを弾むぞ」そういって八木沢は笑い声をあげた。心の奥底に、しこりのように残る杞憂を払拭すべく、大仰に笑ってみせた。
エラー通知
十万点の製品が完成し、箱詰めにされて大型トラックで搬出されていく。工場に静寂が戻った。
片貝咲良は、がらんとしたオフィスを見渡してため息をついた。ひとり居残って自分のデスクにつき、パソコンの画面を眺めつづける。それだけの仕事なのに、妙に落ち着かない。
実際、不安で仕方がなかった。社長が今回、金策のために話を取りつけたという複数の金融業者は、いずれもその名に聞き覚えがないところばかりだった。まともな会社とも思えない。社長はとうとう、闇金に手をだしてしまったのか。
借り入れ金は、利息の先払い分を除いて五千万円。それも工場を稼働させるためにほぼ全額を使いはたしてしまっている。従業員の給料は、入金がない限り払えない。まさしく自転車操業ここに極まれりという状況だった。
取り引き内容も信用がおけない。まず、発注元がはっきりしない。社長の話ではクライアントはH&M本社ではなく、仲介業者だという。しかも一点二千円だなんて......。どうしてそんなに高く買い取ろうとするのだろう。もっと安く発注できる工場は世界に数多あるというのに。
靴音がきこえた。広大な工場はふたたび休業状態となり、静寂に包まれていたが、出勤しているのは咲良ひとりではなかった。もうひとり、経営の最高責任者は当然ながら、毎日のようにオフィスに姿を現している。
どことなく憔悴してみえる顔で、八木沢は戸口を入ってきた。「どうだ? 振り込みはあったか?」
咲良はキーを叩いた。オンラインで口座の残高を調べる。入金の履歴はゼロだった。咲良は首を横に振ってみせた。「ありませんね......」
「おかしいな」八木沢は後頭部に手をやってうつむいた。「もう入金日を二日も過ぎてるのに」
「先方に問い合わせたほうがよくないですか?」
「そうだな......。メールに記載してあった電話番号、伝えてあったな。そこにかけてみてくれ。雨森華蓮って人を呼びだせ」
受話器をとり。メモの番号をプッシュする。〇二六-二五八-二三二三。この市外局番は長野県か。
呼び出し音もなく、すぐに電話はつながった。きこえてきたのは、馬の嘶きと牛の唸りを混ぜあわせたような、奇妙な動物の叫びだった。それも何度も繰り返されている。
咲良は黙って受話器を八木沢に手渡した。
八木沢は受話器を耳にあてると、眉間に皺を寄せた。「ゾウの声かな」
ため息とともに、咲良は電話番号をグーグルの検索窓に打ちこんだ。これがなんらかのテレフォンサービスなら、どこかのサイトに番号が記載されているだろう。
すぐに検索結果がでた。咲良はいった。「野尻湖ナウマンゾウ博物館。『ナウマンゾウの声を聴いてみよう』の番号です」
「な......馬鹿な」八木沢は駆け寄ってきて、パソコンのモニターを覗きこんだ。「そんなわけがない。そんな......」
沈黙のなか、ナウマンゾウの鳴き声がかすかに響いてくる。
「社長」咲良は覚めた気分で告げた。「電話を切ってください。長距離はお金がかかります」
「ああ......そうだな」八木沢の手は震えていた。やっとのようすで受話器を戻した。
咲良は八木沢を見つめた。「メールに返信してみたらどうですか?」
「やったさ。しかし、受取人は雨森さんじゃなく、提携先か何かの海外の業者らしくてな。英文がかえってきた。訳してみたが意味がよくわからない。メーラーダエモンとかいう、業者名もしくは個人名のようだが」
なんてこと。咲良は思わずてのひらで額を打ち、天井を仰いだ。
八木沢は目を白黒させながらきいてきた。「ど......どうかしたのか」
「社長。Mailer-daemon ってのは、Eメール配送システムのエラー通知です。存在しないメアドに送ると、自動的に返ってくるんですよ」
「なに!? 存在しないアドレスだって?」
「それをメーラーダエモンさんだなんて......。ヤフーオークション初心者の中学生ですか」
パソコンに疎いとは知っていたが、まさかこれほどとは。咲良は半ば放心状態だった。呆れて声もでない。
八木沢の顔は、文字通り血の気がひいて真っ青になっていた。目を大きく見開き、ふらふらと後ずさると、背を打ちつけた棚から物が転げおちた。
心配になって咲良はたずねた。「社長。だいじょうぶですか」
「ああ......。いや、そのう」八木沢はふと何かを思いついたように、身を翻した。「ナウマンゾウより速く走れるかどうか試したくなった。ちょっとランニングしてくる」
絶滅した動物の速度がどれくらいだったが、わかりうるのだろうか。疑問が咲良の頭をよぎるより早く、八木沢は戸口の外に駆けだした。
「社長?」咲良は驚きとともに立ちあがり、八木沢を追ってオフィスをでた。
だが八木沢の背は、すでに廊下をはるか先にまで遠ざかっていた。階段を下りて外にでていく。こんなに速く走る五十代を、わたしはかつて見たことがない。咲良はそう思った。
静寂が戻り、しばらく時間が過ぎた。たたずむ咲良のなかに、現実が戻ってきた。
逃げられた。社長に......。
無人の工場、未払いの給料。なすすべもなく立ちつくす社長秘書、すなわちわたし。それらが、ここに残されたすべてだった。
噂の女
八木沢駿介社長が失踪してから四日めの朝。どんよりと曇った空の下、小雨もぱらつきだしていた。
けさも休業状態の工場棟と社屋前の駐車場には、トラック一台すら存在しない。代わりに、百人近い従業員が集結して、団体抗議行動よろしく詰め寄ってくる。
片貝咲良は当惑していた。自分以外に、味方はわずか数人。年配の取締役だけだった。彼らの顔にも戸惑いのいろがある。トップが姿を消してしまったのでは、組織の全員が不本意ながら衝突を繰りかえさざるをえない。
従業員のひとりが怒鳴った。「今月こそ給料が払われる約束だったのに、いっこうに振り込みがないじゃないか!」
「そうだ」別のひとりも声を張りあげた。「工場に呼びだしたと思ったら、きつい仕事を強要して、その後はなんの音沙汰もなしか。社長はどこにいるんだ。会わせろ!」
同意をしめす声が怒号のような響きを帯びて、群衆にひろがっていく。
咲良はすっかり腰がひけていた。「あのう......わたしも社長に連絡をとろうと努力しているんですが、携帯電話にでてもすぐ切られてしまいまして」
「切られだだって? あんた社長秘書だろ」
「ええ。でも事実ですから、しようがないんです。わたし、社長と同じくiフォーン4を使ってますから、なんとか情報を得ようとテレビ電話でかけてみたんです。きのうの時点で、社長はご健在でした。けど、忙しいとかいわれて......以後はずっと電話にでてくれないありさまで」
「iフォーン4って」女性従業員があきれたような声でいった。「携帯電話を新調して通話料払う余裕があるなら、給料だしてよ」
「いえ、社長も決して贅沢をしているわけでは......」
「贅沢はしてないだと?」中年の男性従業員が大声で告げた。「先週、社長室の前に捨ててあったゴミを見たぞ。オリジン弁当のなかでもいちばん高い、鹿児島産うな重のパッケージだったじゃないか」
今度は、味方のはずの取締役までもが目を丸くした。「うな重? 私ですらホイコーロー弁当だったのに」
「ちょっと」咲良は苛立ちとともにいった。「そこ、食いつくところじゃないでしょ」
役員の足並みが揃っていないことが窺えたせいか、従業員たちはヒートアップしだした。怒鳴り声とともに押し寄せてくる。のり弁当しか買えない俺たちを馬鹿にしてるのか。ケー・タイなんか解約して糸電話と手旗信号で話せ。社長の家にある物はひとつ残らず金に替えて給料を払え、耳かき一本すら残すな。
従業員と取締役たちは押し合いになったが、多勢に無勢、咲良と役員はたちまち社屋の外壁の前に追いつめられてしまった。
なおも怒声、罵声が浴びせられるなか、咲良は群衆のなかに、奇妙な動きをしめすひとりを見てとった。従業員でない女性が紛れこんでいる。
年齢はたぶん咲良よりもわずかに下。二十二か三ぐらいと思われた。ほっそりと痩せた身体、腕も脚も長く、頭部は小さくてモデルのようなプロポーションに見える。カジュアルながらフェミニンなファッションで、大きめだが趣味のいいハンドバッグを肩にかけ、ニーハイブーツもきまっていた。ロングヘアに縁取られた小顔には、猫のように大きくつぶらな瞳と高い鼻、薄い唇がそつなくおさまっている。
適度にクールさの備わった、可愛いと綺麗の中間といえる美人顔だが、どこか変わった個性の持ち主に感じられる。若さや瑞々しさは備えていても、ベテランのキャリアウーマンのように見える瞬間もあるし、女子大生そのものの素人臭さを漂わせたりもする。
女性は、ほとんど暴動と化した混乱のなかに埋没しそうになりながらも、必死にこちらに近づこうとしている。人をかきわけながら、女性は咲良のすぐ近くまできた。取締役と従業員らが激しい言葉の応酬を繰りひろげるなか、女性は喧騒にかき消されまいと大声で告げてきた。「すみません。片貝咲良さんですか?」
「そうですけど」咲良のなかに閃くものがあった。「あ、もしかして......。万能鑑定士Qってお店の......」
「凜田莉子です。はじめまして」
莉子は少しばかり人見知りする猫のように、上目づかいにぎこちない笑みを浮かべた。大きすぎる瞳のせいで、自然な微笑に見えないのかもしれない。この女性の場合、それはそれで独特の魅力をかもしだしている。
騒々しさのなかで莉子は声を張りあげた。「ごめんなさい、遅れてしまって......。門のところに大勢の人が立ってて、なかなか入れてくれなかったので」
「ああ......。組合の人たちがガードしてるのね。気にしないでください。こちらへどうぞ」
咲良は通用口のドアを開け、莉子にくぐるよううながした。いまのところ役員たちは、津波のように押し寄せる社員に対する防波堤として機能しているようだった。咲良は急いで莉子につづき、通用口を入ってドアを閉めた。
壁ごしに怒号はまだ響いていたが、さっきよりは静かになった。明かりは点かず、薄暗い。すでに電気を止められているせいだった。
がらんとした廊下を歩き、オフィスの扉に向かう。「ここです、凜田さん」
莉子をオフィスのなかに招きいれる。無人の室内は散らかっていた。書類や布地、裁縫道具があちこちに放りだされている。
咲良はため息を漏らした。髪を掻き撫でながらつぶやく。「わざわざご足労いただいて......。本当に感謝してます。ラブラドール飯田橋ヒルズ店の星合結衣店長、お知り合いですよね? 彼女にきいたら、今度みたいなことはあなたに相談すべきだって」
室内を見渡していた莉子が振りかえった。「そうですか......。どこまでお役に立てるかわかりませんけど、全力を尽くします。でも、大変な状況ですね」
「ええ。ファックスでお伝えしたとおりです。その後、事態に進展はありません。社長は雲隠れしたままです」
「それで、制作した服の型紙は?」
「ここにあります」咲良はデスクに歩み寄って、円筒状に巻かれた大判の模造紙を広げた。四隅にペン立てやセロハンテープの台を置いて錘にする。
八木沢社長のもとに送られてきたEメールの添付ファイル、その画像データを拡大し、印刷したものだった。一枚めはニットのカーディガンの型紙だ。
次いで、別の模造紙を広げにかかる。ロイヤルブルーの花柄ブラウス。それを一枚めの上に重ねる。
咲良はさらに模造紙の筒を手にとった。広げながら莉子に説明する。「ええと、この大洋紙は......カットソーね。袖のラインが独特でしょう? そのぶん工程に手間がかかったの。しかもいきなり三万枚も頼んでくるから、生産ラインときたらもう、夏のとしまえんの流れるプール並みの大混乱でした」
莉子は型紙を眺めながらいった。「片貝さんって新潟のご出身なんですね」
「......どうして知ってるんですか?」
「模造紙のことを大洋紙って呼んだからです。富山ではガンピ、東海地方ならB紙、九州じゃ広用紙。地方によってものの呼び方はさまざまですね」
「へえ。どこでも大洋紙で通用するかと思った。凜田さん、どこの出身? ケンタッキーフライドチキンをケンタっていいます? それともほかになにか呼び方が......」
莉子は真顔で告げてきた。「とり」
「とり? それで通じるんですか?」
「石垣島のケンタッキーはみんなそう呼んでましたけど」莉子はしばらく型紙を見つめていたが、やがて神妙な面持ちでつぶやいた。「んー、これはひょっとして......。片貝さん、パソコン借りられます?」
「停電してるし、もうネットにもつながってませんけど、それでいいなら」
「もちろん駄目ですよ」莉子は苦笑して、ハンドバッグからiパッドを取りだした。
薄手のタブレット型モバイル機器に電源が入る。莉子はモニター上のアイコンを軽く指で叩き、インターネットのブラウザを立ちあげた。
ネットに接続すると、ソフトウェアキーボードを表示してアドレスを入力していく。画面が切り替わり、英字のサイトがモニターに現れた。
アパレル業界関連の記事のようだ。ファッションショー、もしくはレディスブランドの新商品発表会らしき画像が十数枚、掲載されている。
莉子がモニターの上に指を滑らせて、そのうちの一枚を拡大した。
とたんに、咲良は絶句した。「な......なにこれ。まさか......」
画像のなかのモデルが着ているものは、今回の仕事で制作したブラウスにそっくりだった。いろはロイヤルブルーで、しかも花柄だった。
無言のまま、莉子がiパッドを操作して別の画像を拡大表示する。今度のモデルが着用しているのはニットのカーディガン。またしても型紙および完成した製品とほぼ同一。さらに、三枚めの写真。やはり工場が手がけたカットソーとうりふたつだった。
咲良は愕然としながらつぶやいた。「どういうこと? いったい......」
「イタリアの超人気カジュアルブランド、ニコレッタの新商品です。まだ発表されたばかりで、店頭に並ぶのは早くて来月下旬。しかもニコレッタはアジアに進出してないから、代理店でも取り扱っていなくてプレミアがつきやすいんです。偽物をつくれば売れる、まさに絶好のタイミング」
「偽物!?」咲良は悲鳴に似た自分の声をきいた。「うちの工場、偽ブランド品を作っちゃったってこと?」
「残念だけど、そういうことです。何者かが画像を参考にして、ニコレッタの新商品そっくりのコピー品をデザインして型紙を起こしたんです。大量生産するには、当然あるていどの規模と技術力を持つ工場を動かす必要がある。だけど、偽ブランド品づくりに協力してくれる工場なんかあるわけない」
「じゃあ......うちの社長はだまされたってことですか」
「支払いもなく、商品だけを持ち去られたって話ですよね? まんまと無料で奉仕しちゃったってことです」
そんな。借金をさらに膨れあがらせて、犯罪者に利用されただけなんて。
悔しさと情けなさで泣きそうになる。憤りを覚えながら吐き捨てた。「あの馬鹿社長!」
「片貝さん。さっき外で話してるのきいたんですけど、きのう社長さんとテレビ電話したとか......」
「ええ」咲良は自分のデスクに足ばやに歩み寄って、引きだしからiフォーンを取りだした。「アプリをインストールして、通話内容を録画しました。すぐ切られましたけど......」
「見れます?」
「ちょっと待ってください」咲良はiフォーンのタッチパネルを操作して、再生画面を立ちあげた。「これです。きのうのお昼ごろ」
モニターは真っ暗だった。はい、と八木沢の応じる声がする。咲良の声がいう。あ、社長。わたしです、片貝です。
そこからカメラがひいていき、八木沢の耳もとがアップになった。テレビ電話だと気づいたらしい。iフォーン本体を顔の前に持っていった。画面には、やつれきった八木沢の顔が大写しになった。どこかのビルから外にでたようだ。曇り空、雨が降っていた。煽りぎみの映像に、信号機がちらと映りこんだ。
八木沢は眉をひそめてこちらを見ている。咲良の声が問いかける。社長、いまどちらに......。
すぐさま八木沢はiフォーンをいじりだしたらしく、画面が上下左右に激しくブレだ。八木沢の声はいった。「いま忙しいんだ。ちょうど出かけるところだし」
「出かけるって......社長」
返事はなかった。八木沢は通話終了のアイコンにタッチしたらしい。音声は途絶え、動画も消えた。
咲良は嘆きの声をあげた。「これだけなんです。どこにいるのか皆目見当もつかない」
「一瞬だけど信号機が映ってましたね? 交差点付近にいたのかも。静止画にして出せますか?」
「できますよ」咲良はタッチパネルに触れながらいった。「すでに何度も見返してますけどね。信号機には地名の看板すらないんですよ。手がかりゼロです。......ほら、これ」
八木沢の顔のアップ。その傍らに、信号機が小さくフレームインしている。ほかにはなにも映っていない。場所を特定できるはずがなかった。
ところがそのとき、莉子の大きな瞳が鋭い眼力を放った。腕時計を眺めながら、莉子がきいた。「きょう時間があります?」
「もちろん、見てのとおり暇ですから」
「じゃあ旅の支度をしてください」莉子は歩きだした。「羽田へ行きましょう」
「は、羽田?」咲良はあわてて追いかけた。「どこへ飛ぶんですか」
「高知です。その信号、小さな丸い看板がついてるでしょう。アルファベットのE」
iフォーンの画面を見かえす。たしかに信号機の支柱にEと書かれた丸看板があった。「ええ......」
「平成十八年以降、高知では観光客のために、地図と運動して交差点にアルファベットを振り分けたんです」
「え!? それがこの看板なんですか」
「そう。Eの交差点を探せばすぐにわかるはずです」
「でも......。きのうの時点でその交差点にいたというだけで、きょうどこにいるかは......」
「雨が降ってたけど、傘をさしていない社長さんの髪はまだ濡れていなかった。社長さん自身も『ちょうど出かけるところだ』といってました。交差点にでる前にいたビルは宿泊施設もしくは、現在の生活の拠点とみるべきでしょう」
思わす歩が緩む。咲良は唖然としながら、歩いていく莉子の背を見つめた。
ラブラドールの店長にきいたとおりの、恐るべき観察眼と思考力の持ち主。彼女を頼ったのは正解だった。行動力も半端ではない。四国に飛ぶことを即決するなんて。
莉子は振りかえった。「片貝さん。早く」
「は......はい」咲良は駆けだした。フットワークの軽さについていくのがやっとだ。それでもなんとか彼女にしがみついて、社長のもとにまで辿りつかねば。工場は風前の灯だ。
鑑定依頼
辻中隆はアパレル業界各社を転々とした後、四十代前半にして服飾評論家兼鑑定家として、それなりに世間に名が通っていた。
顔が売れるきっかけは、日本テレビとテレビ朝日のワイドショーでレギュラーのコーナーをまかされるようになったことだった。とりわけ、ブランド物の洋服の真贋を問う企画で数字を稼いでからは、同じテーマの講演会に招かれたり、一般の鑑定依頼も多く寄せられたりするようになった。
マスコミにかかわりだして以降は、しょぼい仕事は受けつけない方針だった。きょうの昼下がり、小雨がぱらつく新宿区と文京区の境に足を運んだのも、大口の仕事だと認識してのことだった。
ところが、指定された住所に行ってみると、そこは取り壊されたビルの跡地になっていた。トタン板の塀のなかは広大な空き地のようだ。
引き返そうかと思っていると、塀に設けられた扉が開けられ、辻中はなかに招きいれられた。
雑草が伸びほうだいの湿った土の上に、数台のトラックが停車していた。辻中に歩み寄ってきたのは、ワイルドテイストのファッションに身を包んだ若い女だった。ドクロの刺繍の入ったレザーにワークブーツという、ハードロックバンドそのものといった感じの装いをしたその女は、菊原樹里と名乗った。トラックの積み荷をいまこの場で鑑定してほしいという。
辻中はいった。「妙な物はお断りだよ。こんな人目に触れない場所を選ぶなんて、やばい品を扱ってるんじゃないのか」
「どうぞご勝手に」樹里は平然と告げてきた。「別の鑑定家さんが先に到着して、すでに荷台のなかで作業を始めてますから」
「別の鑑定家? 誰だ?」
「嶋真央さんって人です。ご存じですか」
むろん知っている。年齢は三十代後半ぐらい、世間的には美人で通っている女性だった。TBSとフジテレビのワイドショーで、辻中と同じようなコーナーを担当している服飾評論家。会ったことはないが、立場上ライバル視せざるをえない相手だった。
彼女がきていると聞いたのでは、そうあっさりと引きさがるわけにはいかない。辻中は咳ばらいした。「先に、報酬についてお伺いしておきたいんだが」
「もちろん充分に用意しております。いまからたった数時間の鑑定で、おひとり百万円のギャランティをお支払いします」樹里は意味深げに辻中を見つめてきた。「領収書不要の取っ払いです。キャッシングで相当な借り入れ金があるあなたにとっては、非常に魅力的な額ではないかと思います」
なぜこちらの経済事情まで知りえているのだろう。
警戒心は働いたが、辻中は依頼を受けることにした。
百万という報酬には、ここでの仕事について口外するなという意味合いが含まれているのだろう。心得たと辻中は返事した。金は世のあらゆる価値に優先する。
辻中は真央と手分けして、トラックの荷台にある物を片っぱしから調べていった。すべてレディスのカジュアルブランドだった。デザインにはそれなりに見るべきものがある。しかし......。
午後二時半をまわったころ、すべての荷物を鑑定し終えた。辻中は真央とともに、トラックの外で樹里と向かいあった。
「最低だね」辻中は感想をそのまま口にした。「ニコレッタの新商品をパクっただけのブラウスにカットソー、カーディガン。ずいぶんたくさんこしらえたもんだが、売るのはあきらめたほうがいい」
真央もうなずいた。「わたしもそう思います。急いで作ったのか裁縫も雑だし、ボタンが取れかけているところさえあります。ニコレッタもブランドを貶める悪質なコピーとして訴えるでしょう。在庫を抱えているだけでも危険です」
樹里は表情ひとつ変えなかった。貴重なご意見、どうもありがとうございます。仏頂面のままそういうと、辻中と真央にそれぞれ厚みのある封筒を手渡してきた。
「お帰りはあちらです」樹里は、入ってきたのと同じ塀の扉を指さした。
辻中は真央ともども、塀の外に送りだされた。
真央と目が合う。ふたりは無言で、手もとの封筒を開けだした。
気になるのは報酬のみだ。開封してみると、なかにおさまっていたのは本物の紙幣だった。百万円の札束。銀行の帯もついている。
ほっと安堵のため息を漏らしたとき、妙なにおいが鼻をついた。
焦げくさい。古着の処分場に漂う悪臭に似ている。すなわち繊維類が燃えるにおいだった。
熱風を感じる。顔をあげて空を仰いだ。曇り空がしきりに揺らいでいる。
塀のなかでなにかが燃えている。しかも大量に。小雨などものともせず、広範囲に燃えあがっているようだ。ガソリンを撒いたのかもしれない。
ふたりの鑑定家があきらかな偽物と断じるや、ただちに服を燃やしにかかった。
辻中は真央を見た。真央もこわばった顔で見かえしてきた。
「私は」辻中はつぶやいた。「何も見てない」
「ええ」真央もいった。「わたしも」
会話はそれきりだった。ふたりは背を向け合い、足ばやに歩きだした。
早くここから立ち去りたい。封筒のなかの現金を家に持ち帰って、後は知らぬ存ぜぬで通したい。その願いさえ叶うのなら、あの樹里なる女がいったとおりにしよう。そう、誰にも口外などするものか。
交差点
午後三時すぎ。高知の空は快晴だった。片貝咲良にとって初めての四国は、ただめまぐるしい忙しさだけを伴う旅だった。
凜田莉子とともに高知龍馬空港からバスで県道一三号を北上。市電の趣きのある一両編成、土佐電気鉄道ごめん線に乗って移動した。
菜園場町駅で下車し、市街地に流れる川沿いの歩道を莉子と並んで進んだ。莉子は、空港の案内所で入手した観光用地図を広げていた。
莉子は歩きながらいった。「高知って、通りの名前があまり知られてなくて、道順を教えるのがたいへんなんですって。だから地名にちなんだアルファベットを振るようになった......って書いてありますね」
「地名にちなんだ?」咲良は歩調を合わせながら地図を覗きこんだ。「ああ。高須って交差点はTになってますね。はりまや橋もHだし」
「でも」莉子は眉をひそめた。「この県庁ってところの交差点、なんでU?」
「県庁ならKですよね」
「こっちの県庁前交差点にKを使っちゃってるから......かなぁ」
「だからってケンチョウのウですか? 苦しすぎ。この大橋通も、どうしてD? オオハシじゃなくてダイハシとでも呼ぶんですか」
「いえ」と莉子はとぼけた顔になった。「通のDかな」
「それじゃ、ほかにもたくさんの道に当てはまるじゃないですか」
「最初のうちはちゃんとやってたけど、アルファベットが足りなくなったんでしょう。追手前高校北東のVとか、グリーンロードのZとか、完全に投げやりですね」
「ったく、公務員はこれだから......」
「でも」莉子は行く手に目を向けた。「おかげで目的地に着きましたよ。ほら、見えるでしょう。菜園場町のE」
咲良は思わず吐き捨てた。「なんでSじゃなくてEよ」
そこは国道三二号線沿いの、これといって特徴のない交差点だった。十字路の周辺には、少しばかり年季の入ったビルが並んでいる。とり丑精肉店に山本歯科、菜園場ビル......。
歩行者用信号が青になった。莉子が横断歩道を渡ってから、頭上に目を向ける。「あー、この角度ですね。間違いない」
咲良は莉子に歩み寄ってから、その視線を追った。
たしかにそうだ。咲良は息を呑んだ。信号機の支柱に丸看板。Eの文字が記されていた。
「すると」咲良は背後を振りかえった。「社長がでてきたのは、このビル......」
角に建つ三角錐のビル。周囲の建物よりはひとまわり大きい。自動ドアに貼ってある切り文字を見た。菜園場ビジネスホテルとある。
「ここですね」莉子はそうつぶやいて、自動ドアに向かって歩きだした。
恐るべし、万能鑑定士Q......。そういえば、Qはどんな意味なんだろ。
感嘆しながら咲良は莉子につづいて自動ドアをくぐった。入ってすぐ脇にフロントがあった。奥のフロアはこぢんまりとしたラウンジになっている。
莉子がカウンターの女性従業員に問いかけた。「すみません。お尋ねしますけど......」
咲良はぼんやりとラウンジに目を向けた。
とたんに、心臓が喉もとまで跳ねあがったかのような衝撃を受けた。
ラウンジの窓際の席に、見慣れた中年男が座っている。ブルゾンに野球帽という地味な服装に着替えていたが、その顔は忘れられるものではない。
八木沢駿介はコーヒーカップをすすりながら夕刊紙を眺めていたが、殺気を感じたのか、その顔がこちらに向けられた。
ぎょっと目を剥き、全身を硬直させる。コーヒーカップは、ほとんど落下も同然に皿に叩きつけられた。
咲良はつぶやいた。「社長......」
その声に反応したように、八木沢は跳ね起きると、あたふたと逃げだした。工場のオフイスでみせたのと同じ敏捷さを発揮しつつ、ラウンジの奥の扉に猛然と駆け寄る。
八木沢は扉を開け放った。しかしそこは、出口ではなく清掃用具入れだった。モップやバケツがひしめく狭い空間が八木沢の行く手を阻む。八木沢は扉を叩きつけると。追い詰められた獲物のようにすくみあがり、絶望の面持ちでこちらを振りかえった。
ひたすら震えあがるばかりのその挙動が、咲良の神経を逆なでした。自分のことしか考えていないとは。怒りを覚えながら咲良はつかつかと歩み寄った。「社長!」
「も......申しわけない」八木沢はうわずった声をあげた。「逃げたわけじゃないんだ。そのうち、こちらから連絡するつもりで......」
咲良は八木沢の胸もとをむんずとつかんだ。「電話を一方的に切っておいて、なにが連絡するつもりよ」
「片貝さん」莉子が走ってきて、ふたりのあいだに割って入った。「落ち着いて。どうか冷静に」
八木沢は咲良の両手から逃れると、びくつきながら弁明してきた。「許してくれ。本当に知らなかったんだよ。まさか一円の入金もなしにドロンされるとは想像もつかなくて」
「社長も同罪ですよ」咲良は憤りをぶつけた。「H&Mに商品が並ぶなんていって、従業員をだまして......」
「それは、私もそう信じてたんだ。実際、あの雨森華蓮って女は証明してみせた。ほら、これを見てくれ」八木沢は上着のポケットをまさぐった。「ええと、どこにやったかな......」
「弁解なんか結構です。いまさら責任逃れなんて」
「待ってくれ。私には、信じるに足る理由があったんだ。あった。これだ、これ」八木沢は、皺くちゃになったビニールの小袋を取りだした。「女が借りてた倉庫にあった服の切れ端だ。女の指示で私が切り取った。翌朝、渋谷のH&Mに行ってみたら、その服が並んでたんだ。正規の商品としてだぞ。切れ端を合わせてみたがぴったり一致した」
「嘘ばっかり」咲良はさらなる怒りを募らせた。「そんなことあるわけないでしょ」
「本当なんだよ! 誓ってもいい。でなきゃ、女の話を鵜呑みにして十万点もの制作に踏みきるわけがなかった」
「この期に及んで、なんて往生際が悪い......」
するとそのとき、莉子が穏やかな声で告げた。「待ってください。社長さんがいってることは、本当かもしれません」
「凜田さん。まさかあなたまで、H&Mに裏の流通ルートがあるなんていうつもりじゃ......」
「いえ。それはありません」莉子は八木沢に向き直った。「社長さん。その切れ端、本当に倉庫で洋服から切り取った物ですか?」
「もちろんだよ。私がこの手で、ワンピースのフリルの片隅を切ったんだ」
「だけど、ビニール袋におさめたのはあなた自身ではない。でしょう?」
「......ああ。たしかに。彼女が切れ端を受け取って、ビニール袋におさめてから、私に渡した」
「やはりね」莉子はため息まじりにいった。「社長さん。この切れ端は、あなたが切った物じゃありません。その雨森って女性が前日にH&M渋谷店に行き、ワンピースを買ったうえで、店頭にあった同一商品のフリルをこっそり切り取ってきたんです」
「な......なんだって? どういうことだ?」
「あなたが倉庫で見たというワンピースは、れっきとしたH&Mの正規商品で、女性がお店で購入した物にすぎなかったんです。彼女は裁縫バサミをあなたに渡して、服のどのあたりを切るかまで指定してきたでしょう?」
「そうだ。けれども、私は自由に切ったんだよ。ハサミを動かしてわざとギザギザに......」
「目印にするわけですから、あるていどいびつに切り取ろうとすることは予測がつくでしょう。切れ端のサイズもおのずからそれぐらいになる。女性はあらかじめ、ほぼ同じ大きさの切れ端を用意しておいて、あなたから受け取った切れ端とすり替えてビニール袋におさめたんです。丸めれば小さくなりますからね。指先に隠し持つのも難しくないでしょう」
八木沢は目を瞠った。「それじゃ、この切れ端は......」
「もともとお店にあった服を切り取った物ですから、一致するのは当然です。実際には、その切断面はあなたの切ったかたちとは違っているはずなのに、疑いようのない経緯のせいで同一と信じてしまった。単純だけど効果的なトリックですね」
「トリック......。あの倉庫にあったほかの服も......」
「H&Mの商品と同じ服がほかにもあったんですか? なら、それらもお店で買った物でしょう。裏の流通ルートなんかない。すべては、あなたの工場を意のままに操って、十万点の偽ブランド品を製造させるために仕組まれた難です」
「......偽ブランド品だって?」
咲良は静かにいった。「社長。あの型紙は、ニコレッタの新商品の盗作です」
八木沢はあんぐりと口を開けて、莉子と咲良をかわるがわる見ていたが、やがて腰が抜けたようにその場にへたりこんだ。
うなだれる八木沢を見おろしながら、莉子が告げた。「東京に戻って、警察に被害届をだしましょう。従業員のみなさんのためにも、あなたにはそうする責任があります」
しばらく沈黙があった。八木沢は床に目を落としたまま、こっくりとうなずいた。
「わかった」と八木沢はつぶやいた。「罪ほろぼしになるかどうかわからんが、私にできることはそれしかないな......」
バックアップ
高知からとんぼ返りして二日後の朝、雲の多い空に太陽が見え隠れしている。莉子は飯田橋駅の東に広がるビル街にいた。
都会の喧騒の真っただ中にいるはずなのに、それを忘れさせるような開けた景色。ここは取り壊されたビルの跡地だった。土台も埋められて、たんに雑草が生い茂る空き地と化している。
たたずんでいるのは莉子ひとりではなかった。むしろ賑やかだ。駐車車両だけでも数台、覆面パトカーのほか、白と青のツートンに赤色灯を備えた機動隊バスが停まっている。鑑識課員は空き地に散って、そこかしこに残る燃えかすの採取に忙しかった。
八木沢駿介社長と、秘書の片貝咲良も現場検証につきあわされていた。ふたりの相手をしているのは、雲津という牛込警察署刑事課の若手だった。
雲津はピンセットで地面から小さな物をつまみあげた。「見覚えがあるでしょう?」
「あ」咲良は目を丸くした。「これ、例のブラウスを作るのに使ったボタン......」
「そうです。服は完全に燃え尽きちゃってますが、合成樹脂のボタンは少し溶けただけで、まだ原形を留めてますね。ファスナー類とか金属の部品も同様です。鑑識の話では、いずれも安価な大量生産品だけれども、ニコレッタなるブランドの服の部品に似ていることが共通点だそうで。あなたがたの工場の部品入荷リストにも一致してます」
八木沢は呆然とした面持ちで空き地を眺め渡した。「まさか......。私たちに作らせた物を、すべて燃やしたのか?」
雲津がうなずいた。「でしょうね。これも鑑識の意見ですが、灰になった衣服は十万点前後だろうと」
「なんてことだ。うちの工場が全力を挙げて仕上げた製品を......」
「社長」咲良が穏やかにいった。「むしろ喜ぶべきことかもしれません。わたしたちは偽ブランド品製造販売の共犯、いえ主犯にならずに済んだんですから」
「しかし......どうして火を放った?」
すると雲津はいいにくそうに咳ばらいをした。「偽ブランド業界の連中がよく使うランク分けに、超A級とか特A級ってのがあります。AA級、A級とつづいて、B級もあればC級もある。大量販売で儲けをだせるのはAA級以上らしいです。つまりあなたがたの工場で作った物は、その基準に満たなかったという......」
「なんだと!」八木沢は心外だというように声を張りあげた。「うちはな、技術力には定評があるんだ。いい出来だったんだぞ。ニコレッタのカタログ写真を見たが、うちで作った物と大差なかった」
咲良はしらけた顔になった。「社長。主張すべきところが間違ってます。本物に近ければ近いほど問題なんです。つまらない見栄やプライドは捨ててください」
なおも紛糾する三人を眺めながら、莉子は無言で立ちつくしていた。
その莉子に、男の声が静かに語りかけてきた。「犯人が欲していたのは、超A級を超えるスーパーコピーだったんでしょう。少しでもアラがあったら、なんのためらいもなく焼却しちまう。噂どおりの大胆不敵な奴ですよ」
「葉山さん」莉子はつぶやいた。
年齢は三十代、身体つきは痩せていて、七三に分けた髪も長めにしている。やや面長の馬面ではあっても、いかつい顔の多い刑事のなかでは優男の部類に入る。とはいえ、いつものように目に覇気がなく、無精ひげが生えていてネクタイも歪んでいた。だらしなさはあいかわらずだった。
牛込警察署、知能犯捜査係の葉山翔太警部補は、機動隊バスに顎をしゃくった。「本庁の人間が、凜田さんに話したいことがあるそうです」
莉子は歩きだしながらたずねた。「いま、噂どおりの大胆不敵な奴って......。犯人の目星はついているんですか?」
「ええ」葉山は足ばやに莉子を追い越し、先に機動隊バスのステップをあがった。「こちらへどうぞ。紹介します。本庁捜査二課の宇賀神警部」
車内に入ると、何人かの私服警官と目が合った。牛込警察署の面々とは一見して異なる険しさに満ちた顔つきをしていた。猪首で大柄の男たちが大半を占めるなか、スマートで長身、品よくスーツを着こなした中年が立ちあがった。
「宇賀神博樹です」男は頭をさげた。「凜田莉子先生ですね? どうぞおかけください」
金網の張られた窓を背に、シートは向かい合わせになっていた。莉子は腰をおろした。
「さてと」宇賀神もシートに腰かけると、大きな封筒を手にした。「先日の映画ポスター連続放火に関する事例は、丸の内署の尾下警部補にききました。この牛込署管内では、ほかにもいくつか捜査にご協力いただいているそうで」
「いえ」莉子は恐縮しながらいった。「たいしたことでは......」
「鑑定業を営んでおられることでもあるし、凜田先生にはぜひ知っていただきたいことがあるんです」宇賀神は、封筒から大きく引き伸ばされた写真を取りだした。
莉子は写真を受け取った。
モデルのグラビアのような構図だった。雑誌『KERA』のパンク・ファッション特集にでも掲載されていそうなルックスだ。それもコーディネートのセンスのよさが光る。細身で、とりわけほっそりとした脚には一見不似合いなごついブーツが妙に可愛い。過剰な装飾を施した服装とは対照的に、顔はノーメイクに近かった。莉子と同じぐらいの歳に思える。鋭さと憂いの入り混じった真摯な瞳が印象的だった。
宇賀神はきいてきた。「お知り合いですか?」
「いえ......。誰ですか」
「雨森華蓮。怖くなって通報してきた鑑定家たちの前では、菊原樹里と名乗っていたとか。ほかにもいくつもの偽名を持ってます。若く見えますが、年齢は二十六です」
葉山が写真を指さした。「じつは相当な大物でしてね。凜田さん、ICPOご存じですか」
「ええと......」莉子は困惑した。警察組織に関する本はあまり読んだことがない。「『ルパン三世』の銭形警部が所属してるんでしたっけ。あと『ストリートファイター』の春麗もそうでしたよね? 女性捜査官とかで」
宇賀神は眉をひそめて葉山を見た。「博識ときいていたが」
すると葉山が戸惑いがちに告げた。「まあ専門外のことですから......。凜田さん、インターポールはたしかに国際刑事警察機構と呼ばれてますが、実態は各国警察の連絡機関でしかないんです。ICPOの国際捜査官なんてものは存在しません」
「そうなんですか......。勉強になりました」
「ですが、そのインターポールのデータベースにも、要注意人物として雨森華蓮の名が登録されてるんです。彼女は台湾やフィリピン、マレーシアでも詐欺を働いて、警察にマークされていますから」
「詐欺?」莉子は写真を見つめた。「この人、詐欺師なんですか?」
「ええ。あくまで要注意人物であり、指名手配されているわけではないんですが、ICPOの記録では All-round Counterfeiter の疑いありとされてます。訳せば万能贋作者といったところですか」
「へえ......。万能贋作者。どんなことをやるんですか? 『スーパージャンプ』の『ゼロ』みたいな人?」
「違いますよ。いくらなんでも、ありとあらゆる芸術品を複製できるとか、そんな超人はこの世にいないでしょう。......凜田さん、『スーパージャンプ』読むんですか」
「単行本を買ってるんです。『ゼロ』かっこいい。大好き」
宇賀神が咳ばらいをした。「葉山君」
「は、はい。すみません、横道に逸れまして」
「凜田先生」宇賀神が真顔で見つめてきた。「万能といっても、原語では Multi ではなく All-round と表されてます。本質的には詐欺師なので、この場合はなんでも作れるというより、金儲けのために節操無くどんな偽物づくりにも手をだす、というニュアンスが強いんです」
莉子は窓の外を見やった。「じゃあ、八木沢社長はこの写真の女性に操られて......」
葉山はうなずいた。「雨森華蓮はかなり鋭い鑑定能力を持っているらしいんですが、手先が器用というわけではないようです。だから専門業者を抱きこんで偽物づくりに加担させる。出来栄えは自分だけでなく、そのジャンルを得意とする外部の鑑定家にチェックさせるんです」
「鑑定家?」
「そうです。著名な鑑定家を招いて鑑定させ、口止め料込みで大金を握らせて追いかえすのが常です。ブツが本物に見えるというジャッジを鑑定家が下さなければ、今回のように焼き捨ててまたすぐに別の犯行に移ります。彼女は、己れの鑑定眼にうぬぼれることのない、奇妙なほどのストイックさを垣間見せるんです。犯罪者なりのプロ意識ってやつでしょう」
宇賀神がいった。「よく練られた犯行ですよ。鑑定家が恐れをなして証言に応じてくれようとも、事実は断片的にしか浮き彫りにならない。彼らは雨森華蓮から、偽ブランド品の鑑定依頼を受けたにすぎない。同様に工場の人間にしても、商品の制作を受注しただけであって、雨森が贋作者だという証拠にはならない。商品を本物のブランド品と偽って販売しない限り、告発はできないんです」
「でも」莉子は宇賀神を見つめた。「八木沢さんは嘘の話を持ちかけられたんですよ。商品をH&Mに卸せるって......。しかも支払いがないんです」
「証拠がありません。あの洋服の切れ端だけでは、むろん物証にはなりえません」
「そんな......」
「われわれは機会あるごとに、雨森華蓮の動きを監視してます。彼女が偽ブランド品の即売会でも催せば、その場で逮捕できる。しかし、彼女はそんなことはしない。これだけ人前に姿をさらして、みずからいろんな工作を働いておきながら、尻尾をつかませるへまはしでかさないんです。責任の所在が自分にあると特定される事態は、巧みに避ける。ナンバーワンという主犯が別にいて、自分は仕えているにすぎないと主張するのもその一環です。主犯は雨森華蓮以外にありえないのに、証拠だけは残さない」
葉山が莉子を見つめてきた。「愉快犯めいたところもあり、犯行を誇りたがるところがあるくせに、いつも間一髪のところで難を逃れる。綱渡りな人生ですよ」
莉子はきいた。「どうしてそんな生き方を選んだんでしょう?」
「知的犯罪者ってのは一般的に、育った家庭環境に複雑な問題を抱えていたりします。雨森華蓮の場合も、幼くして両親が蒸発した経緯からグレて、社会に対する憎悪や反抗心を募らせていったようです。以前に彼女と知り合いになった詐欺仲間によれば、雨森は逮捕を恐れていないそうで、これもじつは知的犯罪者に多いタイプなんです。あくまで逃げおおせようというのではなく、自分を打ち負かすような強い力に出会うことをどこかで望んでいる。そのためにも、好き放題やって社会を挑発しつづける気です」
宇賀神は唸った。「自己破壊願望の屈折したかたちともいえるな。自殺を望む輩が勝手気ままに暴れまわるのと同様に、雨森も逮捕によってすべてが終わるときがくるのを心待ちにしているようだ。そのせいで犯行の規模はエスカレートする一方です。しかし彼女は非常に頭がいいから逮捕に至らない。歯止めもかけられないわけです」
莉子は宇賀神にたずねた。「すると、手がかりはゼロですか?」
「いや」宇賀神は渋い顔で封筒をまさぐった。「いま葉山君がいった、雨森の詐欺仲間ですが......。すでに別件で逮捕されていて服役中なんです。でも雨森はそれを知らない。彼女は犯行の節目ごとに、かつての仕事仲間にメールを一斉配信するんです。押収済みの携帯電話にも送られてきました。これです」
取りだされた写真を莉子は受け取った。今度は、携帯電話の液晶画面を接写したものだった。
MNC74発動したよーん こうご期待
メールの本文にはそうあった。莉子は思わず首を傾げた。「MNC74......?」葉山がいった。「詐欺仲間によれば Making New Counterfeit──新たな偽物づくりに取りかかるという意味だそうです。その七十四番目ってことです」
「ってことはつまり、八木沢さんの工場に作らせた偽ニコレッタの服ですか」
「いえ。あれはひとつ前の七十三番目です。八木沢社長が芝浦埠頭で雨森華蓮に密会する直前に、MNC73と送信がありました。だからこれは次の犯行予告です」
「またどこか別の工場をだまして洋服を作らせるとか」
「その可能性は低いと思います。雨森華蓮はつい先日、台湾の山村部にある工場を同じような手口で欺き、ブランド服の偽物を作らせてるんです。マレーシアや韓国でも同様の犯行に及んでいます。しかし、販売した形跡がないんです。われわれの監視が厳しくなっているために、金に替えられずにいる。今回の偽ニコレッタをただちに燃やしたのも、本物とうりふたつという出来栄えでない限り、どこにも捌けないと踏んだからでしょう。堂々と焼却の痕跡を残したことも、もうこの手口に未練はないという意志の表れに思えます」
宇賀神は語気を強めた。「しかしMNC74は発動されてる。雨森華蓮はなんらかの偽物を作って詐欺を働くつもりです。次も偽物が出来上がりしだい、鑑定家を呼んで真贋を見抜かせようとするでしょう。われわれが先手を打てるとすればそこだけです。万能には万能で挑むんです」
「......は?」莉子は唖然とした。「どういう意味ですか」
葉山が莉子の顔を覗きこんできた。「雨森華蓮が何の偽物を作ってくるかわからないので、広範囲に対処できる鑑定家こそふさわしい、という見解で一致したそうです。本庁の捜査本部の話ですけどね」
「ふさわしいって......。あのう、いったい何が......?」
宇賀神は莉子をまっすぐに見据えてきた。「鑑定家です。雨森はミーハーなところがあって、テレビによくでている有名どころの鑑定家に声をかけようとする。彼女が凜田先生に着目するよう仕向ければ、状況はわれわれにとって非常に有利になります」
「待ってください」莉子は動揺した。「わたし、有名じゃないですよ。神田川と外濠が交わるあたりのちっぽけなお店で、細々とやってるだけで......。きのうの鑑定依頼もトルコ石と、変なお皿と、首のないバービー人形だけだったし......」
葉山が遮った。「これから売りだせばいいんです。マスコミ関係に仲のいいお友達がいるじゃないですか」
「友達ってまさか......。小笠原さんのことですか?」
「『週刊角川』の特集記事なら注目度も高いし、ほかのマスコミ各社に対するアピール度も段違いでしょう」
「そんな。週刊誌記者と友達だからって、それだけで掲載されるわけじゃないですよ」
すると、宇賀神の目が鋭く光った。「ご心配には及びません。本庁が全面的にバックアップしますから」
グラビア
千代田区富士見にある角川グループのフォトスタジオで、凜田莉子はひたすら当惑を覚えていた。着せられている服はこれまでの人生でいちども袖を通したことのない、ドット柄インナー付きスーツの四点セットで、しかもシルバーの光沢を放っていた。インナーストーンはなんと本物のダイヤ、ダブルベルトは本革というゴージャスさだった。
慣れないハイヒールに転びそうになる。椅子に座って、なんとか落ち着きを取り戻した。コーディネーターは、よくお似合いですよと誉めてくる。ヘアメイクは男性だったが、物腰といい喋り方といい女性そのものだった。
彼は莉子の顔に、ふだんなら絶対にしない睫毛のエクステを施し、たっぷりと時間をかけて髪をセットした。ヘアメイクは笑顔でいった。「これで出来あがり。あらぁ可愛い。あなたの場合、素髪が緩くうねるから、その癖を生かさせてもらったのよ。毛先にレイヤーとゆる巻きをプラスして、重めのロングでちょっとクラシカルに決めたわけ。素敵よ」
「ど、どうも......」
上機嫌のうちにヘアメイクが立ち去ると、フォトスタジオの全容が視界に広がった。
二階まで吹き抜けの天井に無数のライトがさがっている。莉子の周囲には幅一メートルほどもあるストリップライトがずらりと並んで、眩い光を放っていた。カメラマンはデジタル制御の大型ストロボの調整に余念がない。最大で八千八百万画素を誇るハイエンドデジタルカメラがセッティング済みだった。
ほかにも、なんの仕事をしているのか判然としないスーツ組が大勢いて、こちらを眺めている。莉子は顔がほてるのを感じた。おそらくいま、わたしは耳もとまで真っ赤になっているのだろう。
近づいてくる痩身の若者がいる。やはりスーツ姿だが、髪は今風に長くしていて、少し褐色に染めている。細面で鼻が高く、下あごは女のように小さいが、れっきとした男だった。わたしより、彼のほうがモデルにふさわしい。莉子はぼんやりとそう思った。
小笠原悠斗はにこやかに問いかけてきた。「気分はどう? 緊張してない?」
莉子は戸惑いながらいった。「小笠原さん......。こんなの変だって。記事の写真なんて、お店のデスクで簡単に撮ればいいでしょう?」
「僕もそういったんだけどさ、上がうるさくて。撮るならちゃんとしたところで撮れって......」
するとそのとき、野太い中年男の声が告げた。「うるさい上ってのは誰のことだ。まさか、おまえを飛ばすも飛ばさないも自由にできる、ある特定の人物のことじゃあるまいな」
小笠原は、ばつの悪そうな顔を浮かべてから、しゃきっと直立の姿勢とともに振りかえった。「もちろんです、荻野さん。そのう、上がうるさいってのは、このスタジオの階上が騒がしいという意味でして......」
目つきのすわった白髪頭の男が、上を見やる。そうでもないけどな、と編集長の荻野甲陽はつぶやいた。
荻野は莉子に視線を向けてきた。「やあ、よくお似合いですよ。あなたみたいな美人がいる店なら、どんなに高くてもボトルをいれたいですな」
中年特有の空気の読めなさ加減を発揮しつつ、荻野は豪快な笑い声をあげた。
莉子は恐縮しながらきいた。「読者に誤解を与えませんか? 普段は、こんな派手な装いで仕事をしてるわけじゃないので」
「なに、かまいませんよ。グラビアページに採用するんだから、ばっちり決めないとね」
「グラビア......ですか?」
「そう。美人すぎる鑑定士ってキャッチで、表紙にも謳うから」
思わず絶句する。莉子は半ばむせながらきいた。「ちょ、ちょっとそれは......。きいてませんけど」
小笠原も困惑ぎみにいった。「荻野さん。もう少し穏やかな扱いにできませんか。彼女はイロモノじゃないんですし」
「俺は大まじめだぞ」荻野は平然と告げた。「彼女について掲載を決めたのは、警察の圧力に屈したからではない。単純に売れると思ったからだ。部数が伸びなきゃ人目にも触れん。当初の目的も果たせんだろう。違うか?」
「それはそうですけど......」
カメラマンが割って入ってきて、莉子に露出計を突きつけてきた。それから莉子を眺めまわすと、背後の助手を振りかえって怒鳴る。「手もとが寂しいな。鑑定士さんなんだから、何かブツを持ってこい。そこにあるレモンなんかどうだ」
荻野がしかめっ面で横槍をいれた。「待て。『ザテレビジョン』じゃないんだぞ。鑑定といえば高価な品物だろう。年代もののワインボトルでも持たせればいいだろ」
だがカメラマンは不服そうに反論した。「一杯やろうとしている女にしか見えないでしょう。ノーサンキューですよ」
ふたりの議論は白熱しだした。そこへ、莉子が顔を合わせたことのないスーツ姿の男性が近づいてきた。
「角川メディアハウスの倉永です」男性は携えてきた書類を差しだした。「当社は『ケロロ軍曹』を通じてテレビ東京と関係が深いので、その筋から『開運! なんでも鑑定団』に凜田莉子さんが出演できないかオファーを試みてます」
荻野は倉永に向き直った。「なんだって? おい。たしかに『なんでも鑑定団』は人気番組だが、メディアハウスの力をもってすれば、ほかの局も狙えるだろ? 四、六、八は?」
「ダブルプレーですか?」と倉永はいった。
「それは六、四、三だろうが。誰が野球の話をしてる。民放各局に話を通してみろっていうんだ」
小笠原が首をひねった。「テレ東もいい番組多いですよ。『空から日本を見てみよう』とか」
「馬鹿か」荻野は吐き捨てた。「彼女の店が点にしか映らない空撮で、どれだけ訴求力が生じると思ってる。たとえ少し取材を受けても、くもじいに捨て台詞を吐かれて終わりだ」
詳しいですね、と小笠原がつぶやく。倉永がさらに提案する。こうしちゃどうでしょう。日本ホラー小説大賞は角川書店とフジテレビで主催しましたから、その関係で......。
話がどんどんおかしなほうに向かっている。莉子はため息をついて視線を落とした。早く終わってほしい。この時間が過ぎてくれるのなら、とりあえずほかに何も望まない。
対面
『週刊角川』で〝美人すぎる鑑定士〟の特集が組まれてすぐ、各局の情報系番組はこぞって追随し、凜田莉子を取材した。民放のワイドショーのみならず、NHKの『おはよう日本』のスタッフまでもが、バズーカ砲のように巨大なハイビジョンカメラを抱えて万能鑑定士Qの店を訪れた。
それらのVTRがオンエアされた週明け、店には長蛇の列ができていた。
小笠原悠斗は、狭いがシンプルモダンでまとめられたスタイリッシュな店内に立ち、莉子の接客のようすを眺めていた。自動ドアを入ってくる客は老若男女さまざまで、テレビの影響力の強さをあらためて感じさせる。
しかし、客たちの持ちこんでくる鑑定依頼品といえば、土産物としか思えないような茶碗や、印刷まるだしの掛け軸、あるいは錆びだらけで値がつかないブリキ看板など、どうしようもないガラクタばかりだった。
客が入れ替わる隙に、小笠原は莉子に耳打ちした。「大賑わいでも、一円の儲けにもならないなんて。『アド街を観た』っていえば鑑定料ゼロなんてサービスするからだよ」
莉子は当惑顔で応じた。「仕方なかったのよ。ディレクターさんが、どうしてもって頼んできたから......」
自動ドアが開いて、次の客が入ってきた。三十代ぐらいの女性が、戸惑いがちに告げてくる。「あ、あのう......アド街を観ました......」
「どうぞ」莉子はにっこりと笑った。「おかけください。なにを鑑定しますか?」
「これです」女性は革張りの椅子に腰かけながら、布製の手提げ袋を差しだしてきた。cherというロゴと赤いハートマークが交互に並ぶ、人気のエコバッグだった。
「ああ」小笠原はいった。「チャーのエコバッグだね」
すると、莉子と客の女性が揃って妙な顔を向けてきた。
「シェルよ」と莉子がささやいた。
「あ、そう......なんだ」小笠原は冷や汗をかきながらつぶやいた。「シェルって読むの......」
莉子はバッグを裏がえして縫い合わせを眺めた。女性客にたずねる。「正規店で購入しましたか?」
「いえ......。友達のプレゼントなんです。偽物が出回っているってきいたから心配で。なんとなく黄色っぽいし」
しばし莉子は穴が開くほどバッグを見つめていたが、やがて微笑とともにいった。「安心してください。本物ですよ」
「え? ほんとですか!」
「白いのは逆に偽物なんです。本物は、このように生地が黄色がかってます。ロゴもにじんでないし、裏地もきちんと処理してある。正真正銘のシェルのエコバッグです」
「ありがとうございます」女性客はバッグをひったくると、喜びをあらわにして自動ドアから駆けだしていった。
代わって入ってきたのは、五十代とおぼしき主婦だった。買い物袋をさげている。「あのう、アド街......」
「いらっしゃいませ。おかけください」
差しだされたのは、袋のなかにおさまっていた五個の卵だった。主婦はたずねてきた。「産地直送の卵をふたつ買ったんだけど、ほかにスーパーの安売りの卵も買ったから、どれだかわからなくなっちゃって」
もはや鑑定家にたずねるべき相談内容かどうかも怪しい。しかし、莉子は嫌な顔ひとつ見せずに、卵を一個ずつ手にとり表面を撫でまわした。
やがて、二個の卵を選り分けて莉子は告げた。「これとこれが新鮮な卵です」
「まあ。たしかなの?」
「産みたての卵は表面がざらついてます。クチクラ層といいまして、卵殻の外側を覆う蛋白質と少量の糖質から形成される皮膜状の凹凸です。最近じゃ洗浄されるケースも多いみたいですけど、これは違いますね。スーパーに安価に流通している卵は、運送中にクチクラ層が剥がれて、なめらかな表層になったりします。産地直送という条件に当てはまるのは、これらふたつでしょう」
主婦は顔を輝かせて、卵を袋に戻し立ちあがった。「さっそく、きょうのお献立に反映させます。どうもありがとうございます。お若いのに学があって、感心ですわね」
そういって主婦は自動ドアをでていった。
疲れからか、莉子は目もとを指先で押さえてため息をついた。
無理もないと小笠原は思った。多種多様というよりは雑多な物ばかり片っぱしから鑑定させられ、しかも客足はいっこうに途絶える気配をみせない。
「あのさ」小笠原は莉子を気遣って声をかけた。「午後からは、お店閉めたらどうかな」
莉子は振りかえって、笑みを浮かべた。「だいじょうぶ。これも捜査協力の一環だし。偽物づくりは野放しにできないし」
「だからって、ひとりで頑張らなくても......」
自動ドアが開き、次の客が入ってきた。
小笠原は全身に電気が走る気がした。
いままでの庶民派の客とは、あきらかに異質とわかる存在感を放っている。ワイルドテイストのパンク・ファッション、網タイツにブーツ。華奢な体型、メイクの薄い美人顔。
警察が目を光らせている人物の特徴ならきいている。小笠原は息を呑んだ。するとこの女性が......。
パンクの女性は、どこか冷やかに見える微笑とともにいった。「凜田莉子さん?」
莉子は椅子から立ちあがった。「そうですけど」
「テレビで拝見しました。ご活躍ですね」
「いえ......」
「突然ですが、凜田さん。鎌倉までご足労いただいて、ご一泊がてら鑑定依頼をお受けいただくことは、可能ですか」
「......変わったお申し出ですね」
「出張はなさらない?」
「いえ。そういう意味ではなくて......。大口の仕事の場合、たいてい依頼人はまず小さな鑑定を持ちこんできて、わたしの能力を推しはかろうとするものですから」
「ああ。そこについては、もう全面的に信頼してますから。万能とおっしゃるからには専門分野はひとつやふたつに絞られないわけでしょう。それに、お店からでてくるお客さんの顔を見ていれば、顧客満足度がいかに高いかわかります。列の消化も早い。つまり鑑定も時間をかけず素早くおこなわれる。まさしくナンバーワンが切望する人材。理想どおりの鑑定家さんです」
「ナンバーワン?」
「わたしの上司のようなものです」
「あなたのお名前は?」
「雨森華蓮といいます。どうぞよろしく」
本名を口にした。なんて大胆な。小笠原は舌を巻きつつも、驚きが顔にでないよう努めた。
それでも、華蓮の直感の鋭さは莉子に匹敵するらしい。気配を察したのか、華蓮の目がこちらを向いた。
華蓮はきいてきた。「あなたは?」
「小笠原悠斗といいます。『週刊角川』の記者をしています」
「じゃあ凜田さんを取材中ですか」
「ええ」
「いつも感心するけど、週刊誌の作業速度は神業ですね。製版原稿や文字校正紙、青焼き責了紙、レイアウト指定紙がいっぺんにでてきて、面付けは正しいかどうか短い時間で判断、印刷所に入稿するわけでしょう」
「文字責了紙と青焼き校正紙です。正しくはね」
華蓮の目の奥が光った。「なるほど。本物の記者さんですね」
脳髄の奥まで見透かすような虹彩の輝き。小笠原はすました顔を維持するのがやっとだった。
やがて華蓮の視線が莉子に移った。「いかがですか」
莉子はいった。「出張はあまりしませんけど、せっかくのご依頼ですから。お受けします」
「やったぁ」華蓮は笑顔とともに喜びをあらわにした。「けど、凜田さん。あなたも変わってますね」
「なにがですか」
「どこにある何を鑑定するか、たずねようとしないなんてね。じゃ、日程はまた連絡します」
華蓮の顔にはまだ笑みが留まっていたが、眼光は鋭さを増して見えた。ぶらりと背を向けるしぐさも、なにげなく思えるが、どこか隙がない。華蓮はそれっきり二度と振り向かず、開いた自動ドアの外に消えていった。
小笠原は、莉子と同時にため息をついた。
莉子がきいてきた。「どう思う?」
「油断できない相手だね。週刊誌の記者ときいても、名刺を要求することもなく、すかさず出版関係者しか知りえないことを口にした。わざと業界用語を間違えてね」
「私服警官がどうかを、まず疑ったんでしょうね。名刺なんかいくらでも偽造できるから、信用の証にはならない。即座にそう判断したのよ」
「びっくりするほどの頭の回転の速さだね。誰かさんにそっくりだよ」
「誰のこと?」
莉子はきょとんと見かえしたが、次の客が入ってきたので、そちらに向き直った。いらっしゃいませ。
小笠原は無言で莉子の横顔を見つめた。
つぶらな瞳に潜む観察眼。天然に見えて、恐ろしいほどの思考力。ふたりは似た者どうしだと小笠原は思った。まずいことに、雨森華蓮はまだ手の内をほとんど見せていない。能力も未知数だ。彼女の頭のよさが、莉子をうわまわることがあったら......。
お迎え
その週末の午後、鎌倉の空はすっきりと晴れ渡っていた。
莉子は江ノ電鎌倉駅の西口駅舎前にいた。平日のせいか、人出はさほどでもない。ロータリーに連なるタクシーの運転手も暇そうにしている。
スーツ姿の小笠原は辺りをぶらついていたが、やがて浮かない顔をして莉子に近づいてきた。「遅いね。待ち合わせは本当にきょう?」
「ええ」莉子はうなずいてみせた。「まだ約束の時間を十五分ほど過ぎただけでしょう。気長に待ちましょうよ」
「沖縄の人はどんなに待たされても平気ってきいたことがあるけど、本当みたいだね」
「限度はあるけど......。でも、三十分ぐらいは当たり前かな」
「バスに乗り遅れたりしないの?」
「んー。島によってはバスのほうも三十分遅れたりするから。観光客用の乗り物はちゃんと時間通りに来るけど、地元民向けはルーズきわまりなくて」
「雨森華蓮さんも沖縄の出身かな」
背後から近づいてくる足音がしたが、華蓮ではなさそうだった。足取りがゆっくりとしていて、歩幅の広さを感じさせる。音の響きから男物の靴だとわかる。
振りかえると、葉山警部補が頭をかきながら歩いてくるところだった。
葉山もやはり待ちくたびれているようだった。「まだですかね。覆面パトの連中も鳩サブレーを食い尽くしちまったんですが」
小笠原が顔をしかめた。「葉山さん。隠れてるほうがいいんじゃないですか? どこで彼女が見てるかわかりませんよ」
「なに、平気ですよ」葉山はにやつきながら胸もとに手をやり、緩んだネクタイの結び目をさらに引きさげた。「鎌倉署の私服が大勢、周辺に散って監視してますから。私はあくまで偽ニコレッタ事件が牛込署の管轄だったんで、ここに出向いているだけです。とはいえ、凜田さんの安全については、私に全責任が委ねられていますが」
「頼りないですね」と小笠原はいった。「守護神が葉山警部補だなんて」
「お互いさまでしょう」葉山は苦い顔になった。「角川書店のフットサル大会ではエースとして期待されてても、いざというとき女性が頼りにできる存在かどうかは判りかねますね」
小笠原は面食らったようすだった。「どうしてそんなことまで......」
「私も記者さんと同じく、調べるのが仕事なんでね」
「へえ」莉子はすなおに感心した。「小笠原さん、フットサル得意なの?」
「まあ、会社から評価されてるのはそこだけで......」
葉山はふんと鼻を鳴らした。「推理作家協会のソフトボール大会でも、編集者チームに助っ人として招かれてるでしょう。仕事そっちのけで」
「誰にきいたんですか」
「小笠原さん。あなたのことは人として信用してますよ。週刊誌記者ってのは、なにかすっぱ抜こうといつも耳をそばだててるもんだ。だから苦手だったんですが、あなたはそうでもない。若手だからという意味ではなくて、ぼうっとしてるし、記者として編集部からさほど高く買われてもいない。テクニックもなさそうだし、私たちを出し抜いたりはしないでしょう」
「誉めてくれてるわけじゃ......ないんでしょうね、やっぱ」
「ところで」葉山は莉子を見つめてきた。「いいですか、凜田さん。雨森華蓮はなんらかの偽物をこしらえて、詐欺に及ぼうとしている。前回、ニコレッタの偽物づくりに失敗しておきながら、鑑定家には二百万円ものギャラを払ってる。つまり、損を補って余りある大規模な犯行を準備している可能性が高いんです」
莉子はうなずいた。「MNC74が何の偽物づくりなのか、それを知ることが急務ってわけですね」
「その通りです。彼女は、あなたの鑑定眼を頼ってくる。どんな偽物が作られているか判明したら、携帯電話で私に知らせてください。できるだけ近くで待機してますから」
「わかりました。でも......雨森さんは、わたしに秘密を明かしてくれるでしょうか」
「そのためにここで待ち合わせる約束をしたんでしょう。じゃ、私はそろそろ消えます。くれぐれもお気をつけて。では」
葉山はそれだけ告げると、さっさと歩き去っていった。
小笠原がささやきかけてきた。「怖くない?」
「わりと平気」と莉子は答えた。「これまでも鑑定家さんに危害は加えられていないし」
「万が一の事態になったら、すぐに電話してよ。飛んでくからさ」
「ありがとう。......小笠原さんって、頼りになる人。わたしはそう思ってる」
ふいに小笠原は目を丸くして見かえすと、照れたように視線を落とした。「追っ手にボールを蹴ってぶつけるぐらいしかできないかも」
「それで充分」と莉子は笑ってみせた。
するとそのとき、銀の大型セダンがロータリーをぐるりとまわって、莉子たちの前に急停車した。
BMW760Li。後部座席に充分な広さを持たせたロングボディだった。洗車したてらしく、ホイールまでもが光沢を放っている。
運転席と助手席の扉が開いて、ふたりの女が降り立った。いずれも黒いスーツに身を包んでいる。ドライバーのほうは太っていて、丸い眼鏡をかけていた。対照的に、助手席の女はげっそりと痩せ細っていて、前歯がでていた。
身のこなしから察するに、ふたりとも二十代後半かせいぜい三十歳ぐらいと思われるが、顔は妙に老けていて中年のようだ。そこに愛嬌があるともいえるが、どことなく不気味にも感じられてくる。
痩せた女は、かたちばかりの笑みを浮かべてきいてきた。「凜田莉子先生ですか?」
「あ......はい。そうです」
「雨森華蓮のいいつけで、お迎えにまいりました。わたしは天笠絢音。そっちのデブは......」
「おい」太った女は声を張りあげた。「誰がデブだよ」
絢音は振りかえった。「デブじゃん」
「ドライバーだってば。そう呼びなよ」
「ええと」絢音は莉子に視線を戻したが、また太った女に向き直った。「眼鏡のネジは、到底回せないってことでいいの?」
「太すぎるドライバーっていいたいのかよ。当てこすりはよせよ」
「はいはい」と絢音は表情ひとつ変えずに、莉子に告げてきた。「彼女は熊切比乃香。運転手です」
比乃香は愚痴っぽくつぶやいた。「ったく、初めからそういえよ。歯並びのいい美人さんよ」
絢音は乾いた笑い声をあげた。「ははは......。ごめんよガリ痩せ」
なおもふたりの皮肉めかせたひとことの応酬はつづいた。莉子は呆気にとられて、そのようすを眺めていた。
仲がいいのか悪いのか、まるで判然としない。ふたりとも、変わり者なのはたしかだった。雨森華蓮は、彼女たちのどこを評価して雇用しているのだろう。
やがて絢音が後部座席のドアを開けた。「どうぞお乗りください、凜田先生」
小笠原がにこやかに絢音に声をかけた。「あのう、私は......」
「知ってます」と絢音はいった。「小笠原悠斗さんですね。凜田先生のお友達の記者さん」
「雨森さんからお聞き及びでしたか。あのう、よろしければ私も......」
「申しわけありませんが、取材はお受けできないとのことです」
「あ......そ、そうなんですか......」
「さあ」絢音は莉子を目でうながした。「急かすわけじゃないですけど、雨森が待っていますから一秒でも早く乗ってください」
比乃香が顔をしかめた。「急かしてんじゃねえか」
はい......、莉子は戸惑いながらも、後部座席に乗りこんだ。
素晴らしく座り心地のいいシートだった。空間も充分に確保されている。脚を伸ばしても、前のシートに届かないほどの距離がある。
ドアが閉められた。莉子は窓の外を見やった。小笠原が不安そうに見送っている。莉子はそれに目で応えた。明日には帰るから。
運転席に比乃香が、助手席に絢音がおさまった。クルマは走りだした。ロータリーをまわって、たらば書房の角を折れると、市役所前の交差点へと向かう。
絢音が振りかえりもせずにいった。「彼、イケメンですね」
「はい?」莉子は思わず甲高い声をあげた。「......わたしにいってるんですか?」
「あなた以外にいないでしょう。豚女にイケメンの彼がいるわけないし」
比乃香が吐き捨てた。「豚女って。もういっぺんいってみろ、ビーバー女」
「ポークレディ」
なんで英語にするんだよ、こいつ。もういっぺんいえって指示したのはどっちだっけ。からかうんじゃねえよ。
莉子はひたすら唖然として、前部座席のふたりの攻防を眺めるしかなかった。本気なのか冗談なのか、さっぱりわからない。
ただひとつだけ、あきらかなことがある。このふたりは、わたしに話しかけられることを望んでいない。激しいやりとりは、いうなれば言葉のバリアだ。彼女たちの実際の仲がどうあれ、現地に着くまで、わたしにはなんの質問も許されない。
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「着きましたよ」と絢音の声がした。
うとうとどまどろんでいた莉子は、はっと我にかえった。国道一三四号にでて海沿いを走りだしたことは記憶に残っていたが、その後眠ってしまったらしい。
クルマはまだ走りつづけていた。緑豊かな小高い丘をのぼっている。木々の合間から江ノ電が小さく覘く。その向こうに海岸が見えた。地形には見覚えがある。七里ヶ浜のようだった。するとここは、鎌倉プリンスホテルが建つあたりから、さらに奥まった丘陵地帯に位置する高台になる。
莉子は身を乗りだして前方を見やった。固唾を呑む光景がそこにあった。
バロック様式の半円アーチを頭上に掲げた壮麗な門が、自動的に左右に開いていく。行く手にはまだ道があった。イギリスのブレナム・パレスを思わせる広大な庭園に、石畳の馬車道がつづく。BMWはその道沿いに徐行していった。
手入れの行き届いた英国式風景庭園。森林だけでなく草原も池もあり、切り立った崖から小川に滝が注いでいる。ゆっくりと回る水車は陽の光を浴びて、飛沫を鮮やかに輝かせていた。
蝶が舞う花園を眺めながら、莉子はつぶやいた。「いったいどれくらいの広さが......」
絢音はのんびりした物言いで告げた。「二千坪ぐらいだそうです」
「二千坪......」
「たいしたことないですよ。伊豆の千人風呂金谷旅館と同じ広さですし」
運転席の比乃香がいった。「どういう基準でたいしたことないって判断してんだよ」
「あー。見えてきました。あれが本館ですね」
木立の向こうに、古城を思わせる巨大な屋敷が建っていた。パワーズコートのような風格を誇る石造りの三階建て、しかし軒だけは日本家屋のように長くしてある。雨が穏やかに降るヨーロッパのままの建築スタイルでは、この国の激しい雨に対処できないと考えてのことだろう。環境に合わせてイチから設計したことがわかる。
エントランスにつづく石段の前に、BMWはぴたりと横付けして停まった。
前部座席のふたりが素早く車外にでる。絢音がドアを開けにきた。莉子は畏まった気分でクルマから降り立った。
海辺から吹く微風は丘の上にまで届き、木々は枝葉をすり合わせてざわめく。江ノ電の警笛と走行音がわずかに耳に届く。もの音はそれだけだった。
観音開きの扉から、黒猫が一匹飛びだしてきた。ニャーと鳴き声をあげながら、出迎えるように石段を駆けおりてくる。莉子の前までくるとうずくまった。
莉子は思わず微笑して、猫を抱きあげた。「庭に走ってっちゃ駄目よ。広すぎて迷子になっちゃうでしょう」
そのとき、聞き覚えのある女の声が響いてきた。「ヨゾラ? ああ、そこにいたのね」
見あげると、玄関の扉から雨森華蓮が姿を現していた。あいかわらずのパンク・ファッションだが、レザーアイテムが増えてロンドンテイストが強くなっている。英国風の屋敷や庭園に合わせた、彼女なりのコーディネートなのかもしれない。
華蓮は莉子に近づくと、微笑とともにいった。「こんにちは。よく来てくれたわね」
莉子は猫を華蓮にあずけた。「ヨゾラって名前なの?」
「そう」華蓮は猫を抱いた。「最近じゃ猫の名はソラってのがポピュラーみたいだけど、黒猫だからヨゾラ」
ふと猫の足の裏が莉子の目にとまった。「後ろ足の指が五本......」
比乃香が背後でいった。「指示五本って、べつに普通じゃん」
間髪をいれずに絢音が比乃香に告げた。「何いってんの? 猫は前足の指が五本、後ろ足は四本が普通でしょ。体脂肪蓄えてると余分な物にも気づきにくくなるわけ、オーバーウェイト」
「へんなニックネームつけんな。あと、いちいち英語にすんな」
華蓮はふたりの即興漫才を無表情に聞き流し、莉子を見つめてきた。「多指症でね。後ろ足はめずらしいでしょ。親指が二本あるの。この子の母親もそうだった。遺伝病かな」
「病気だなんて......。ちょっとした個性を持つ種類って考えてあげればいいでしょう」
「ふうん。やさしいのね、凜田先生。生きものを大事に考える人とは気が合いそう。お部屋に案内しましょう。どうぞこちらに」
絢音がいった。「雨森さん。わたしと比乃香はどうしましょうか」
「クルマをガレージに置いてきたら、ディナーの準備をして。比乃香。間食しちゃ駄目よ」
はい。比乃香が不満げに低く返事をすると、絢音はけらけらと笑い声をあげた。
華蓮が猫を抱いたまま石段をのぼっていく。莉子はそれにつづいた。
莉子はきいた。「あのふたり、ふだんはどんな仕事を......?」
「見てのとおり、運転とか雑用ばかり。ドジなんだけど、落ち着くのよね。奸智を働かせられるほど頭も良くないから、裏表がなくて安心できるし」
内部からの裏切りを警戒しての人選というわけか。犯行の肝心なところをまかせられる部下とは思えない。重要な仕事はすべて華蓮がひとりで抱えこんでいるのだろう。
階段をのぼりきり、扉を入ろうとしたとき、この高さから眺められる景色が目に入った。屋敷のわきにはガラス張りの大きな温室がある。さらにその向こうは駐車場になっていた。真新しい外車ばかりだが、車種は男性の趣味とは異なる。色とりどりのニュービートルにBMWミニ、プジョー。ベンツもCクラスがほとんどだった。
ナンバーの陸運局名までは見えないが、華蓮のカーコレクションでないとしたら......。
ふいに華蓮がいった。「お察しのとおりよ。富裕層のご婦人たちが大勢訪ねてきてる」
「え......?」
「あなたが屋敷を抜けだして、ナンバープレートをたしかめにいく手間を省いてあげたのよ」
莉子は黙って華蓮の背を眺めていた。
振りかえりもせずに、わたしが駐車場を注視していることに気づいた。どうやって......。
その疑問は、屋敷に足を踏みいれたとたんに氷解した。
広いエントランスホールには、格調高いヴィクトリア調の内装が施されている。いたるところに金縁の額におさまった鏡があった。そこに映った華蓮と目が合う。彼女は、鏡に反射するわたしを、逐一監視しつづけていた。
ぞっとするような寒気が襲う。華蓮はわたしを疑っているのだろうか。それとも、万が一のことを考えて、あらかじめ来客の襟を正させようというのか。華蓮を出し抜こうとする行為は許さないという警告だろうか。
莉子はきいた。「このお屋敷の持ち主は? まさか雨森さんだとか......」
「そのまさかよ。っていいたいところだけど、残念ながら違うわ」
「じゃあ誰の家? ナンバーワンとか?」
華蓮は黒猫を床に下ろした。猫が螺旋階段をのぼっていくのを見送ってから、華蓮は莉子を振りかえった。莉子の肩越しに壁を指差す。「スポンサー企業があってね」
彼女が指し示すほうに目を向ける。そこには、パネルに嵌まったポスターがあった。
Canonのロゴがでかでかと掲載されている。一眼レフカメラEOSの広告だった。
スポンサー......? いったいどういう意味だろう。
質問する余裕も与えず、華蓮はさっさと螺旋階段を上りだした。莉子はあわてて華蓮を追った。
二階の廊下は赤い絨毯がつづき、壁には絵画がかかっていた。いたるところに調度品も飾られている。著名な作家の物は見当たらないが、いずれも十八世紀から十九世紀ごろの芸術品と思われた。じっくり見ないとたしかなことはいえないが、たぶんどれも本物だろう。
華蓮は立ちどまって扉を開けた。「ここよ」
吸いこまれるように、部屋のなかに招かれる。莉子は思わず目を瞠った。
カスタムメイドとおぼしきアンティーク調の家具に囲まれた、絢爛豪華たる室内。天蓋つきのベッドはキングサイズ、窓辺に揺れるカーテンは赤い布地に金の刺繍が施されている。高い天井からはシャンデリアがさがっていた。
壁ぎわにはもうひとつのドアがあって、それを開けると洗面室と浴室があった。ヨーロピアンスタイルの猫脚の浴槽。ホテルのアメニティのごとく、シャンプーや石鹸も揃っている。硫黄入り入浴剤の小袋まで置いてあった。
ゴージャスさに圧倒されながら洗面室をでて、ふたたびベッドに近づく。
華蓮がクローゼッ卜を開け放った。なかには、きらびやかなドレスがずらりと並んでいた。
「サイズもあなたにぴったりのはずよ」と華蓮はいった。「先日会ったときに目で測ったから。ディナーのときには、好きな服に着替えてね」
贅を尽くしたもてなし。もはや、何が起きても驚くには値しない。莉子は恐縮しながらつぶやいた。「どうもありがとう......」
「ほかに必要な物は?」
そうね。莉子は室内を見渡した。
素敵な部屋だが、徹底して古風だ。文明の利器が見当たらない。
莉子は華蓮にきいた。「テレビは?」
「ないのよ。雰囲気を大事にしたくてね。電話も置いてないし、インターネットもつなげないの。ひと晩ぐらい、情報社会から離れるのも悪くないでしょう」
「そうね......。で、わたしが鑑定する物はどこに......?」
「あせらないで。いくつか見てもらいたい物があるから。また後で呼びに来るわ」華蓮は戸口に向かいかけてから、振り向いていった。「それまでは部屋にいて。いいわね?」
莉子が黙ってうなずくと、華蓮も無言のまま部屋をでていった。扉が静かに閉まる。
携帯電話を取りだして、液晶画面を見た。圏外だった。
石造りの建物のせいか。窓辺に赴き、バルコニーにでてみる。雑木林の向こうに海が見えていた。その陽射しのなかに携帯電話をかざしたが、受信感度の表示に変化はない。依然として圏外のままだった。ネットの電波も入らない。
ため息とともに、携帯電話の電源を切った。コンサート会場と同様にジャミング装置を仕掛けてあるのかもしれない。外部との通信手段は断たれた。少なくともこの部屋からは無理だ。
MNC74。何の偽物を作ったのだろう。そして、どんな犯罪計画を練っているのだろう。
江ノ電の警笛がきこえる。距離的には、七里ヶ浜はすぐそこだ。しかしこの部屋からは、果てしなく遠い。はるか彼方にかすんで見える蜃気楼のようだ。
不意打ち
小笠原悠斗は七里ヶ浜にほど近い、三階建ての雑居ビルにいた。
このビルは地元の自治会によって集会所として運営されているらしい。各階に広い会議室があって、長テーブルとパイプ椅子には不自由しない。廊下にはコカ・コーラの自販機がある。缶ではなく瓶がでてくる、いまどきめずらしいレトロな仕様だった。ほかに一階奥に簡易キッチンがある。警察がここを拠点と決めたのも、必要な物がそれなりに揃っているからだろう。
裏手に乗りつけた複数の覆面パトカーから、続々と捜査員がビルのなかに入ってくる。二階の会議室が、とりあえず司令部になるらしかった。窓のブラインドは下ろされ、さらに内部から暗幕を張っている。日没後も外に明かりが漏れるのを防ぐためらしい。ほかにも私服警官たちは、長テーブルの上に地図を広げたり、無数の電話機を設置したりと作業に追われている。
警視庁捜査二課の宇賀神博樹警部が声を張りあげた。「きいてください。凜田莉子さんを乗せたBMWは、鎌倉市七里ガ浜静舞一番地の豪邸に入った。鎌倉署のみなさんはこの邸宅の所有者を大至急調べてください。本庁の監視班は、望遠で撮影したBMWの運転手および助手席の女性の身元をあたるとともに、車両のナンバーから所有者を割りだしてください。邸宅の監視はひきつづきおこないますが、近づきすぎないよう注意してください。午後四時から会議をおこないます。以上」
捜査員たちは沈黙して宇賀神の声に耳を傾けていたが、宇賀神が言葉を切ると、それぞれの作業を再開した。
小笠原は邪魔にならないよう部屋の隅に立って、忙しく立ち働く私服警官たちを眺めていた。
すると、葉山が小笠原に声をかけてきた。「役得ですね。凜田さんが捜査協力してるおかげで、記者さんも独占取材を許されてるわけだ」
「記事にできるかどうかは微妙ですけどね」と小笠原は答えた。「現段階ではまだ事件になっていないんだし、ここも捜査本部ってわけじゃないんでしょう?」
「その通り。じっと息を殺して、何が起きるのか待ってる状況です。ゆえに、情報を外に漏らすことは許されません」
「ほらきた。編集部への報告すら厳禁ってわけですね」
「しかたないでしょう。とりわけいまは、凜田さんの安全にかかわる問題ですよ」
小笠原は黙りこんだ。
荻野編集長からは、鎌倉に一泊して取材を続行する許可が下りている。どうせ会社に戻っても、退社時間後にフットサルの練習に参加するだけでしかない。ここにいれば、少なくともなんらかの情報が得られる可能性がある。
葉山がいった。「それにしても、凜田さんの知識の広さにはいつも感服させられますね。捜査における演繹的推理ってやつとはずいぶん違いますが、それでも有意義なやり方です」
「へえ......。警部補さんがすなおに凜田さんを認める発言をするなんてね。めずらしい」
「私も馬鹿じゃありませんから、彼女の貢献は評価してるつもりですよ。人が知らないことを知ってて、ここぞというときに持ちだしてくる。いわば知力による不意打ちですな。私も見習いたいですよ」
そういって葉山はぶらりと小笠原から離れ、室内の喧噪のなかに消えていった。
知力による不意打ち、か。なるほど、言いえて妙だ。凜田莉子の特技をひとことで集約すると、たしかにそのようになるだろう。
人が知らないことを、ここぞというときに持ちだす。そして真実を暴く。俺にもできるだろうかと小笠原は思った。できそうな気がしてくる。あまり世間に知れ渡っていないことに、偶然当てはまるような機会があれば......。
オールマイティ
午後三時半をまわった。まだ夕暮れまでには間がある。
莉子はしかし、豪邸二階の割り当てられた部屋のなかで、クローゼットのドレスを次々と取りだして試着するのに忙しかった。
最終的に、莉子は深紫いろのシルクのロングドレスを選んだ。こうして鏡に全身を映してみると、今宵のディナーにはちょうどいいと思える。ほかのドレスのようにシックすぎたり、あるいは派手すぎたりといったところがない。
なにより、両脇にポケットがあるのがよかった。携帯電話をそのポケットに滑りこませる。部屋では電波が受信できない以上、外に持ちださなければ意味がない。
ノックする音がきこえた。
莉子は扉に歩み寄って、錠を外した。ノブをひねり、そろそろと開ける。「はい?」
廊下に立っていたのは、スーツ姿の太った女と痩せた女だった。
また寒い漫才が始まりそうだ......。莉子がそう思った直後、予想どおりの状況と相成った。
丸顔に眼鏡の比乃香が、にやにやしながらいった。「わー。よくお似合い。でも気が早すぎ。まだ四時前なのにぃ」
痩せこけた頬に出歯の絢音も、うすら笑いを浮かべていた。「明るいうちからそんなの着てると、ご出勤ですかってききたくなっちゃう」
「ほんとねー」と比乃香が大仰にうなずいた。「ばっちり似合いすぎてるのがちょっとねー」
「ま、巨漢の嫉妬はそれぐらいにして」
「おい! 誰が巨漢だよ」
「凜田さん。雨森がグラスハウスにおいで願いたいそうです」
「グラスハウス? ええと、わかりました」莉子は扉を閉じかけた。「じゃ、すぐに着替えますので」
「いえ」絢音は素早く手を伸ばして扉を支えた。「可及的速やかに、ってことですので。そのままおいで願います」
「可及的って......。そうですか。わかりました、行きます」
比乃香がいった。「どうせあっという間に時間が過ぎて、ディナーの時間になりますよ」
絢音が比乃香を横目で見やる。「食うことしか考えられねえのかよ。無理ないか。寝言でいつも『もう食べられないよー』っていってるし」
「いわねーって! そんなデブに定番すぎる寝言」
先に立って廊下を歩きだしたふたりは、またしても絶え間なく言葉の応酬に明け暮れだした。莉子は話しかけることもできず、ただ黙ってその後につづくしかなかった。
長い廊下に歩を進めていき、来るときに上ってきた階段も通り過ぎて、何度か角を折れた。それから外にでて、バルコニーから地上に下る狭い石段に案内された。
庭園におりてしばらく歩くと、ガラス張りの巨大な温室が見えてきた。植物園の設備に匹敵する規模だった。まさにグラスハウスの名がふさわしい。
比乃香と絢音は入り口の扉を開けにかかっている。莉子はその隙に、ポケットの携帯電話を取りだした。
受信表示......。三本のアンテナが立っている。ここなら通話できそうだった。
ふいに絢音が振りかえった。「どうぞ」
「あ、はい」莉子はとっさに携帯電話をポケットに突っこみ、なにくわぬ顔で歩きだした。
入り口をくぐって、温室のなかに足を踏みいれる。よくあるドーム型天井ではなく、尖った屋根が鋸の歯のように並ぶフェンロータイプだった。椰子の木がそこかしこにそびえている。辺りは熱帯や亜熱帯、乾燥帯地方の植物に埋め尽くされていた。
温室内はガラスの壁によっていくつかのエリアに区分けされていた。隣りのエリアへの扉を、絢音と比乃香がくぐっていく。莉子もそれに従ったが、温度の差がはっきりと感じられた。さっきよりは涼しい。春から初夏にかけてみられる花が、辺り一面に咲いていた。
ざわついた声が響いてくる。密林を思わせる椰子の密集地帯をまわりこんでいくと、その先に人の群れがあった。
婦人ばかり三十人以上が固まって、花壇を眺めている。年齢は、四十代から五十歳ぐらいが中心だった。ブランドものの服が目立つ。ハンドバッグも高級品のようだ。駐車場に連なる外車の持ち主たちだろう。雨森華蓮がいったとおり、今宵の屋敷は大勢の来客を迎えている。
その華蓮は婦人たちの前で、温室についての講釈を繰り広げていた。「一年を通じて、同じ環境が保たれています。日照の少ない時期には、そのぶん気温をあげるなどして調整します。さきほどご覧いただいたエリアではサボテンやベゴニアを育ててましたが......」
絢音が声をかける。「雨森さん」
華蓮の目が絢音に向けられた。それから比乃香に、最後に莉子を見つめてとまる。
「ああ」華蓮が歩み寄ってきた。「ちょうどよかった。凜田莉子さんをご紹介します。夕食が待ちきれないのね。もうドレスに着替えてる」
婦人たちに控え目な笑いが起きる。莉子は困惑ぎみに頭をさげた。
近くにいた三十歳代の婦人が、にこやかにいった。「よろしくね」
「どうも」莉子は婦人に話しかけた。「きょうは、どちらからおいでになったんですか」
「どちら......って」婦人はふいに苦笑に似た笑いを浮かべ、周囲に目を向けた。
ほかの婦人たちも、なぜか愛想笑いをかえすだけで、具体的な答えを口にしない。
莉子はさらにたずねた。「植物を観賞しに来られたんですか?」
またしても婦人たちは笑った。今度は、戸惑いのいろさえ漂わせていた。突っこんできかれたくない質問のようだった。回答する気も毛頭ないらしい。
「あのう」莉子はきいた。「失礼ですが、お名前は......」
華蓮が割って入り、莉子を見つめてきた。「凜田先生。インタビュアーだとは思わなかったわ」
莉子は黙って華蓮を見つめた。華蓮は不敵な微笑を浮かべたまま、莉子を見かえした。
婦人たちはなおも静かに笑っていたが、誰ひとりとして華蓮を差し置いて自己紹介を始めようとする気配はなかった。むしろ華蓮の助け船によって救われたと感じているらしい。一様にほっとした表情を浮かべている。
素性も、ここにきた目的も明かしたがらない。奇妙な訪問者たちだった。しかも連帯感がある。一致団結して、なんらかの秘密を守ろうと口を閉ざしている。
これ以上の質問は許さないという頑なな態度。華蓮と婦人たちの思いは共通しているようだ。莉子は、ひとり蚊帳の外に置かれていた。
しかし華蓮は、莉子に対し冷たく振る舞う気はないらしい。「みなさま、ご存じのかたもおられるかもしれませんが、凜田先生は飯田橋で万能鑑定士Qというお店を経営しておられます。文字どおり、オールマイティの鑑定家さんです」
ざわっとした驚きがひろがる。婦人たちの目が、興味深そうに輝きを増してみえた。
莉子は当惑を覚えた。「オールマイティだなんて......。単に、専門のジャンルを掲げられるほどの知識や経験がないだけでして」
「ご謙遜を」華蓮は足もとを指さした。「これを見てもらえますか、凜田先生」
そこには鉢植えの花がずらりと並んでいた。紫いろの花びらばかりだった。茎は薄手のプラスチックフィルムにくるまれて、隣りあった花と葉が接触しないようにしてある。一見、どれも同じ種類に思えるほど似通っていた。
華蓮がいった。「清掃業者が鉢を動かしたせいで、混ざりあってしまったのよ。仕分けしてくださるとありがたいんだけど」
......業者のミスではあるまい。これらの鉢植えは、故意にこのように並べられた。目的はわたしへのテスト以外の、なにものでもない。
莉子はかがみこんで、鉢植えを次々に入れ替えていった。
三つのグループに鉢を分けると、莉子は身体を起こした。「こちらから順にアヤメ、カキツバタ、ハナショウブです」
「まあ」婦人のひとりが声をあげる。「どうしてわかるんですの?」
「花の中心の模様です。網目になっているのはアヤメ、白く細かいのはカキツバタ、黄色の目型模様がハナショウブ」
しばし静寂があった。
ふいに華蓮が手を叩いた。「お見事。見分けにくい小さな模様ばかりなのに、この短い時間でよく判別がつきましたね」
婦人たちは、ようやく喜びの感情を表すことを許されたかのように、いっせいに笑みを浮かべて拍手をした。
華蓮は鋭い目つきで莉子を見た。「花はよくわかったけど、包装はどう?」
「包装?」と莉子はたずねかえした。
「庭師が手当たりしだいに、そこらにあった物で花をくるんだものだから、このままでいいか気になっちゃって」
プラスチックフィルムの判別か。一見どれもまったく同じ、透明のビニールだ。莉子は唸った。「うーん......。厚み計とか、あります? 薬品だとか機器による定性分析や元素分析、吸収スペクトルによって素材の区別は可能ですけど......」
「そんな専門的な道具、用意してないのよー。すぐにわからないかしら。一分ぐらいで」
莉子は口をつぐんだ。華蓮の顔には、まだ笑みが留まっている。しかしその瞳には、挑発のいろが浮かびあがっていた。
今度は一分間というタイムリミットがついた。テストはしだいに遠慮なく、露骨な問いかけに変わっていく。
ふたたびしゃがみこんで、莉子は花の茎を覆うプラスチックフィルムに手を伸ばした。指先でこすったり、引っ張ったりしてみる。それからまた鉢を入れ替えて、数鉢ずつ七つのグループに分ける。
莉子は立ちあがって告げた。「いちばん端は耐久性があるナイロンです。その隣りは揉むとパリパリと音がするからポリエステル。それから、引っ張るとよく伸びて若干白くなるポリプロピレン。その次が、腰が強くて滑らかな手ざわりのポリエチレン。次は腰がなくて、しなやかで、いたって透明......。たぶん軟質のポリ塩化ビニルですね。そして、硬くて腰があるくせに破れやすいポリアクリロニトリル。最後のは水をよくはじくセロファン」
婦人たちは、今度こそすなおに感嘆の声をあげた。互いに顔を見合わせ、すごい、さすがとささやきあう。
彼女たちは、花に対してあきらかに関心を持っていなかった。温室そのものについても同様だ。しかしいまは、興味をしめしている。包装の素材に対してではない。鑑定という行為にこそ惹きつけられているようだ。
華蓮は満足そうな笑みを浮かべていた。「素晴らしいですね、凜田先生。包装はすべて取り払って、ラミネートフィルムにでも変えておいたほうがいいわね」
初めからそのつもりだったろうに。莉子は平然とした態度をつとめながらいった。「わたしを呼んだのは、これらの鑑定のため?」
「まさか。温室の整理整頓のために、わざわざ凜田先生にお出まし願うわけないでしょう。わたしの家でもないのに」
比乃香と絢音が、大仰に笑い声をあげた。婦人たちも、くすくすと笑っている。
「こちらへ」華蓮は歩きだした。「館内を案内しますわ」
婦人たちがいっせいに動きだす。比乃香と絢音は立ちどまったまま、莉子に先に行くよう目でうながしてきた。
莉子は一同とともに歩きながら、ひそかに首を傾げた。
鑑定家の意見を傾聴しただけで、あんなに沸くものだろうか。でたらめをいっているかもしれないし、事実と違っている可能性もある。ところが婦人たちは、なんの疑いもなくわたしの鑑定を正解だと信じているようだ。
もしくは、答えを知っていたのか。華蓮だけでなく、ここにいる全員がわたしをテストしているのだとしたら......。
わたしはいったい何のためにここに招かれたのだろう。莉子のなかで猜疑心だけが増大していった。
びっくりハウス
日が暮れた。
凜田莉子はひとり館を抜けだし、温室の入り口付近へと向かった。
ロングドレスにハイヒールでは駆け足は無理だった。急ごうにも限界がある。可能なかぎり足ばやに歩を進めていくと、ようやく携帯電話が圏内の表示になった。
辺りを見まわす。誰もいなかった。館の窓から漏れてくる明かり以外に、光源は存在しない。温室の向こうにあるはずの駐車場には、近づけそうになかった。背丈の何倍もあるフェンスが行く手を阻んでいる。どうやら別の道があるようだ。
携帯電話の電話帳機能で番号を検索する。葉山警部補の番号はきいていたが、どうせなら信用できる人にかけたい。今晩は警察と行動を共にするといっていた。彼に伝えれば、自然に葉山の耳にも入るだろう。
通話ボタンを押す。呼び出し音が数回きこえてから、馴染みの声が応じた。「はい。小笠原です」
莉子は声をひそめていった。「小笠原さん? わたしよ」
「あ、凜田さん」小笠原の声とともに、電話の向こうでざわつきが収まり、静かになった。警官たちも、こちらからの連絡に固唾を呑んでいるらしい。
小笠原の声がきいてきた。「だいじょうぶか? 危ない目に遭ってない?」
「それは心配ないんだけど......。なんだか変なの」
「変って?」
「いきなり温室に呼びだされたと思ったら、大勢のご婦人の前で花とか包装フィルムとかの鑑定をさせられて......。夕方以降も、庭の家庭菜園で採れたっていう野菜を見せられたのよ。どれが新鮮か鑑定してくれって」
「新鮮な野菜......。見た目で区別がつくの?」
「まあ、水っぽくて、艶がよくて、張りがある物を選んでいけば......。切り口に水分がなくてざらついてたり、葉先が丸くなって変色してる野菜は、収穫からかなり日数が経ってるとわかるし」
「へえ。さすがだね」
「あと、キッチンにも連れていかれて、賞味期限を消した缶詰をいくつも見せられたのよ。やはり新鮮な物を鑑定で選びだしてくれって。もちろん開けずに」
「中を見なくてもわかるの?」
「蓋や底を指で強く押さえたら、へこむ物が混じってたの。これは悪いガスが溜まっている証拠なのよ。賞味期限を何年も過ぎて、中身が発酵してるのね」
「さすが凜田さん。なんでもござれだね」
「ご婦人たちも、やたらと盛りあがるのよ。鑑定をするたびに拍手喝采で......。みんな、正解を知ってるんじゃないかな。でなきゃ、あんなに手放しで喜べないと思うけど」
「待ってよ。凜田さんが鑑定するたび、ご婦人たちが手を叩いて、はしやいだりするわけ? 妙な状況だな。高く売れそうな偽ブランド品とかは?」
「それが、まだ全然見てないの。雨森華蓮がだしてくるのは、いっさい特殊性のない、どこにでもあるような物ばかり。なんらかの偽物を作って詐欺で儲ける計画なんて、片鱗すら見えないのよ。だいいち、あのご婦人たちは何者なの? みんなお金持ちみたいだけど、名前をきいても答えてくれないし」
「きみ以外に邸内に来客がいるなんて初耳だよ。すぐ警部補さんに伝える」
「お願い。それに、この立派なお屋敷だけど、いったい誰の......」
そのとき、背後に足音らしきものをかすかにききつけた。莉子はとっさに通話を切り、携帯電話をポケットに突っこんで振りかえった。
庭園の木々のなか、懐中電灯の明かりがふたつ見え隠れしている。それらがしだいに大きくなる。
近くまでくると、例のふたりだとわかった。比乃香と絢音が、眩いばかりの光源を揃ってこちらに向けてきた。
「あー」比乃香は懐中電灯で自分の顔を下から照らした。暗闇に不気味に浮かびあがる比乃香の顔がいった。「凜田先生。ここにいたんですか」
絢音のほうも同じく、顎から煽る角度で懐中電灯をみずからの顔に向ける。「勝手にお部屋をでちゃ駄目でしょう」
冗談のつもりかもしれないが、ふたりの顔は本当に化け物のようだった。莉子はぞっとして、思わず身を退かせた。「ごめんなさい......。外の風が気持ちよくて」
比乃香は笑みを浮かべたが、顔に大きな影ができて、薄気味悪さにいっそうの拍車がかかった。
「お待ちかねのディナーの時間ですよー」と比乃香はいった。「早く来ないとなくなっちゃいますよー」
「わかりました......。行きます」莉子は歩きだした。
暗闇に包まれているだけに、どこが歩道かも判然としない。戸惑っていると、絢音が懐中電灯で足もとを照らしてくれた。
ありがとう、と莉子はつぶやいた。優しいのか意地悪なのか、はっきりしないふたりだ。
しばらく歩を進めて、館の外壁に達した。ここまでくれば、懐中電灯の助けを借りずとも、窓の明かりで充分に視界を確保できる。二階につづく石段をのぼっていった。
廊下に入る。とたんに、莉子は立ちすくんだ。
行く手にひとりの男が立っていた。痩せていて長身、ワイシャツにスラックス姿だった。年齢は三十前後だろうか。ウェーブのかかった髪は長く、顔は精悍で頬がこけ、無精ひげが生えていた。ハンサムではあるが、どことなく頼りない感じがする点では、小笠原に似ているかもしれない。
男は壁にかかった絵を眺めていたが、すぐにその前を離れた。こちらに視線を向けることもなく、曲がり角に姿を消していった。
莉子は駆け寄りたい衝動に駆られたが、ロングドレスのせいで走りだせなかった。急ぎ足で廊下を進み、角の先を覗き見る。
誰もいない。男はどこにいったのだろう。
絢音が追いかけてきて、莉子にきいた。「どうかしましたか」
「いまの男の人......誰?」
「男?」比乃香がぽかんと口を開けて、廊下の先を眺めた。「どこ?」
それを横目に見て、絢音が苦言を呈する。「だらしねーな。よだれ垂らすなよ。男なんているわけねえだろ」
莉子は絢音にいった。「たしかにいたのよ」
「どんな人が?」と絢音がたずねてきた。
「ええと......見た目はそれなりにかっこよくて、でもちょっと頼りなさそうで......」
「かっこよくて頼りない? そんなの矛盾してません? 凜田先生、ひょっとして〝くまのプーさん〟好きだったりします?」
「......まあ、嫌いじゃないですけど」
「やっぱり」絢音はにやついた。「くまプーが好きな女って、つまりダメ男好きですよ。あんな、他人の家屋に侵入して、勝手に蜂蜜食べてさ......。挙句の果てにひとこと『僕の蜂蜜が』だよ。まるでニートじゃん」
比乃香がつぶやいた。「わたし、くまのプーさんみたいってよくいわれるけど」
「あんたは溶けかかった雪だるまだろ」絢音は冷たく言い放つと、莉子の手をひいて歩きだした。「さあ。早く行きましょう。芋のにっころがしが待ってますよ」
莉子は面食らった。「芋の......?」
「ジョークですって。超一流店並みのコース料理をご堪能ください」
強引に食堂へと連行されながら、莉子はめまいを覚えていた。原因は空腹のためばかりではあるまい。わからないことだらけだ。さっぱり要領をえないびっくりハウス。雨森華蓮はわたしに何をさせたいのだろう。
ディナー
屋敷の三階にある食堂は、まさに舞踏会でも催されるような大広間だった。この空間のみロココ調の内装が施され、曲線を多用した繊細なインテリア装飾に彩られている。フランス宮廷を思わせる優美な光景。莉子はただ唖然として眺めるしかなかった。
ディナーはビュッフェ形式で、着飾った婦人たちが立食パーティーのように皿を手にあちこちをうろつきまわっている。驚くべきはその人数だった。かなりの床面積を誇る食堂だというのに、それなりに混みあっている。温室よりも来客は増えて、百人以上はいるようだ。
上品なざわめきのなかで、バイオリンの調べが耳に届く。音楽の生演奏が入っていた。ピアノに、ふたつのバイオリンとヴィオラ、チェロからなる五重奏。いずれも演奏家は燕尾服姿の男性だったが、白髪頭の高齢者ばかりだった。さっき廊下で見かけた三十歳ぐらいの男は、どこにも見当たらない。
雨森華蓮にきいてみるか。いや、比乃香と絢音のコンビがしらばっくれている以上、彼女も真相は打ち明けてくれないだろう。依然として孤立無援。それがわたしの置かれている現状だった。
白いテーブルクロスの上には洋食だけでなく、和食や中華まで揃っている。素晴らしい料理の数々を眺めていると、華蓮の声がきこえた。「どう、楽しんでる? Qちゃん」
莉子は顔をあげた。華蓮はすぐ近くに、グラスを片手に立っていた。周りの婦人たちはセミフォーマルのドレス姿だというのに、彼女はあいかわらずのパンク・スタイルだった。
「Qちゃん?」莉子は思わず眉をひそめた。
「いつまでも凜田先生なんて、よそよそしいじゃん。わたしのことも華蓮って呼んでくれていいわよ」
「じゃあ、華蓮さん。この館は......」
「待って。華蓮って呼び捨てでいいのよ。親友にはそう呼ぶ権利があるの」
「......華蓮。もてなしには心から感謝してる。本当よ。でも、そろそろ仕事に入らせてもらいたいの。わたしに何を鑑定させたいの?」
華蓮の目が鋭く光った。ふいに踵をかえし、つかつかと生演奏の楽隊に向かう。いきなり演奏家の手からバイオリンをひったくった。演奏家は弓だけを持ったまま困惑顔になったが、華蓮に抗議することはなかった。楽隊のほかのメンバーも、なにくわぬ顔で演奏をつづけている。バイオリンのパートがひとつ欠けてもお構いなしのようだった。
その奪ったバイオリンをぶらさげながら、華蓮は莉子の前に戻ってきた。バイオリンを莉子の鼻先に突きだして、華蓮はたずねてきた。「ハワイアンコアかマホガニーか」
質問の直後、演奏はぴたりとやんだ。
婦人たちも沈黙し、動きをとめてこちらに視線を向けてきた。食堂の全員がいまや、莉子ひとりを注視している。
莉子は面食らった。震える手でバイオリンを受け取る。
この静寂はなんだろう。華蓮がわたしに問いかけたら、何を差し置いても無言になれ、物音を立てるなと厳命してあったのだろうか。なぜ誰もが華蓮の指示に無条件で従うのだろう。
疑念は尽きない。けれどもいまは、与えられた課題をこなすほうが先決だった。
バイオリンに目を落とす。なるほど、高度な質問だった。ハワイアンコアのバイオリンとはめずらしいが、ないとも限らない。そもそもハワイアンコアとマホガニーはよく似た素材だが、この楽器の場合は特に外見上の判別が困難だった。
とはいえ、微妙な違いを見極めるのは不可能ではない。莉子はバイオリンを頭上に掲げ、シャンデリアの光にかざした。角度を傾けて表面を観察する。それから胸の高さに戻し、両手のなかで重さをはかる。
ため息とともに莉子はいった。「どちらも褐色だけど、マホガニーならほんの少し赤みが見られるはず。それと、光を反射させると木目が浮かびあがるのはコア材の特徴。ごく一般的なマホガニーの楽器よりも重みがある」
「で」華蓮は冷ややかに見据えてきた。「結論は?」
「ハワイアンコア」
華蓮はしばし勿体をつけるかのように沈黙したが、やがて声を張りあげた。「正解!」
婦人たちにどよめきがあがり、拍手が沸き起こった。
音楽の演奏も再開した。華蓮は楽隊に歩み寄り、演奏家にバイオリンをかえした。
笑顔で祝福する婦人たちの顔を、莉子はどこか不気味に思いながら眺め渡した。
どういうつもりだろう......。いまのがわたしへの鑑定依頼だったのか。ありえない。ハワイアンコアはたしかに環境保護のため伐採に制限がかかり、今後は希少価値が高まるかもしれないが、純金やプラチナとは違う。素材を偽って儲けられるほどの物ではない。
莉子は華蓮によって、近くのテーブルにいざなわれた。寿司がずらりと並んでいる。イクラの軍艦巻きばかりが収まった重箱を指さして、華蓮はいった。「イクラってロシア語なのよね。でも、ロシアでイクラの寿司を注文したら、これがでてくるとは限らない」
「ええ。タラコも数の子もキャビアも、ロシア人はイクラって呼ぶから」
「さすがQちゃん。十八のころにツアコンになりたくて、面接の予習で旅本を読みあさって知恵をつけたっての、本当だったのね」
「......調べたの?」
「わざわざお越しいただくんだから、その人となりぐらいは理解しておかないとね。フリーランスには、看板を掲げているだけのインチキも多いし。もちろん、あなたは違うって承知してるわよ。さ、遠慮なく食べて」
いやにイクラの軍艦巻きばかり勧めてくる。莉子は割りばしを手にした。
すると華蓮がいった。「一個だけ、偽物のイクラで作ったお寿司があるけどね」
莉子は箸の先を宙に浮かせたまま静止した。上目づかいに辺りのようすをうかがう。婦人たちはなおも、興味深げにこちらのようすを見守っていた。
思わずまたため息が漏れる。どうやらゲームはつづいているらしい。
華蓮がきいた。「食べないの?」
莉子は覚めた気分でいった。「日本カーバイド工業が人工イクラの開発に成功してから、長い年月が経ってる。近ごろは製法も洗練されてるし、サラダ油と海草エキスを主原料にして、皮膜にはアルギン酸ナトリウムやカラギーナンなんかを使う。食感も味も、本物のイクラとほとんど区別がつかない。だから食べてみるだけ無駄」
「お手上げ......ってわけじゃないんでしょ?」
「当然」莉子は箸を軍艦巻きに伸ばした。「こうするのよ」
軍艦巻きのイクラをひと粒つまみとって、茶のために沸騰させてある湯のなかに放りこむ。ほかの軍艦巻きからも、ひと粒ずつを採取し、同じようにした。
イクラの粒は湯のなかで、表層の蛋白質を白く変色させていく。だが、ひとつだけ無反応の粒があった。
莉子は該当する軍艦巻きをつかみあげて、小皿の上に載せた。「これ」
静寂のなか、華蓮はまたじらすように口をつぐんだまま、こちらを見つめてきた。
やれやれ。莉子はうんざりした気分でいった。「みのもんたさん? 時間の無駄なんで、巻きでお願いできますか」
「そういわないでよ。楽しんでるんだし」華蓮は微笑を浮かべた。「正解」
またしても婦人たちがいっせいに歓喜の声をあげる。生演奏もひときわ音量をあげたようだった。
四十歳代の婦人のひとりが、顔を輝かせていった。「すごいですわね。知識だけじゃなくて、観察眼も......。ちらっと見ただけで判断を下せるなんて」
華蓮はまるで自分が誉められたかのように、満足そうな笑みとともにいった。「鑑定家さんは、目も良くないと」
すると、白髪頭の老婦が笑った。「うらやましいですわ。わたしなんか、いつも少しお金を数えるだけで目が疲れちゃうのに」
露骨な金持ちアピールにも、婦人たちはしらけるどころか同調の笑いが沸き起こった。やはり変わった集団だと莉子は思った。成金を認めあう人ばかりの群れであるらしい。
そのとき、華蓮が上機嫌に告げた。「ためしてみましょう。万能鑑定士のQちゃんがどれだけ目がいいかを。お金を数えるのもほんの一瞬でしょう」
「え?」莉子は驚きを覚えた。「なんの話?」
華蓮は遠くに目をやり、指で合図をした。比乃香と絢音がそそくさと近づいてくる、ふたりは手提げ金庫を持っていた。
それを開けて、華蓮は中身をわしづかみにして取りだした。千円札ばかり、おそらく百枚以上はある。華蓮は近くにあった容器の蓋をとった。小麦粉をいれる直径二十センチほどの円筒形の缶だった。いまは空らしい。そこに千円札の束を放りこみ、手荒にかきまぜた。
「これでよし」華蓮は莉子を見つめてきた。「ご婦人がつかみとる紙幣が何枚か、そこから見て当ててくれる?」
「ちょ、ちょっと」莉子はあわてた。「そんなの鑑定とはいわないでしょう」
「いいから。あなたの観察眼の証明になるでしょ」
「証明してもらわなくても......。専門外だってば」
「うふ、可愛い。Qちゃんでも焦ったりすることがあるのね」華蓮は近くにいた婦人に缶をすすめた。「どうぞ」
その婦人は好奇心に満ちた顔をしながら、缶のなかに手を突っこみ、無造作に紙幣の束をつかみだした。
婦人の手のなかにある紙幣を見ることができたのは、まさに一瞬だった。すぐさま婦人はそれを後ろにまわして隠した。
「さあ」華蓮がきいた。「何枚だった?」
「え......ええと」莉子はうわずった自分の声をきいた。ほとんど当てずっぽうで、見たままの印象を口にする。「三十枚......ぐらいかな。三十二枚。いえ、やっぱ三十三枚」
すぐさま婦人が札束を身体の前に戻し、数えだす。一枚、二枚、三枚......。
三十枚を超えたあたりで、まだかなりの札が残っていた。食堂のなかの人々は、一様に嘆きの声をあげた。
四十三、四十四、四十五......。四十六枚。正解は莉子の回答とはほど遠かった。婦人たちは落胆のいろを浮かべ、肩を落とした。比乃香と絢音も、いかにも残念そうな顔をしている。まるでサッカー観戦中、相手チームに先制点を奪われたサポーターのようだった。
だが、華蓮は失意をしめすこともなければ、莉子の失敗を嘲笑う素振りもみせなかった。
華蓮はすぐさま、グラスがたくさん載ったトレイをテーブルから取りあげて、婦人たちに振る舞った。「どうぞお試しください」
ダラスのなかには黄色い液体が入っていた。誰もがそれをひと口すすると、また微笑を取り戻した。
婦人のひとりがいった。「この酸っぱさがおいしさにつながりますわね。シークヮーサーですか」
別の婦人がつぶやいた。「あら。四季柑じゃないですの?」
華蓮はうなずいた。「おっしゃるように、これらはシークヮーサーと四季柑です。沖縄産と台湾産という違い以外には、味も見た目も同一です。まずもって区別がつきません。でもQちゃんなら鑑定できるでしょう」
トレイからふたつのグラスを取りあげて、華蓮は莉子に差しだしてきた。
そもそも不可能なことだったとはいえ、札束の実験に失敗して凹んでいるせいか、莉子は自分でも驚くほどすなおにグラスを受け取った。
ふたつの液体を飲みくらべてみる。たしかに内地の人間には区別はつかないだろう。しかし、沖縄出身の莉子には味の違いがはっきりと認識できた。
酒はほとんど飲めないが、シークヮーサーの味なら知っているし、与那国島経由で波照間に入ってきた四季柑も飲んだことがある。四季柑には、シークヮーサーにないルチンやフロレチンという栄養素が含まれている。
莉子はいった。「こっちが四季柑。で、こっちがシークワーサー」
今度は、華蓮も間も置かずに告げた。「正解! さすがQちゃん」
華蓮が満面の笑みとともに手を叩くと、婦人たちは異常ともいえるほど熱狂したようすで、歓喜の叫びをあげた。全員が莉子のもとに集まってきて、祝福を口にする。おめでとう。本当に素晴らしいわ。目が覚めるような鑑定ばかりで、感激しちゃった。
いつしか自分が笑みを浮かべていることに、莉子は気づいた。戸惑いはある。いまも得体の知れないこの催し、素性のわからない婦人の群れに対する猜疑心は失っていない。それでも、面目を失わずに済んだことへの安堵のほうが大きかった。
わたしが沖縄出身だと知っていて、確実に正解できる鑑定を持ちかけた。たぶんそうだろう。華蓮は、わたしが婦人たちの信頼を失わないよう配慮してくれた。窮地を救ってくれた。
とはいえ......絶対にわかるはずのない無理難題を持ちかけてきたのも、また彼女だ。
混乱してきた。周りに笑顔を振りまきつづける華蓮を眺めながら、莉子は背筋が寒くなるのを感じた。わたしは彼女に踊らされつつある。この魂の抜け落ちた者ばかりが集う晩餐会に取りこまれていく。徐々に、しかし確実に......。
ノリタケ
ディナーの終盤、立食パーティーは特有のぐだぐだした雰囲気に陥る。それに乗じて、莉子は食堂を抜けだした。部屋に帰るのに、またあの比乃香と絢音の漫才をきかされるのはたまったものではない。自室がどこにあるのかはわかっている。案内なんが必要ない。
莉子は軽いめまいを覚えながら、中央階段を二階に下った。状況が夢でも見ているかのようにとらえどころがなく、とりとめのないものに感じられる。不思議の国をさまようアリスの気分だった。こんな説明のつかない、おかしな環境に身を置いたのは初めてだった。
二階の階段ホールに降り立ったとき、莉子ははっと息を呑んだ。
ホールにはひとりの男が立っていた。さっき食堂に向かう前に見かけた、ワイシャツ姿の華奢な男だった。いまは台の上に据えられた調度品のひとつを眺めている。花柄の伊万里風水差しだった。
男はこちらには気づいていないようだ。
莉子はそっと背後に忍び寄って、男に声をかけた。「あのう」
「ひっ」と男は声をあげた。身体を硬直させてから、怯えた表情で振りかえる。
無精ひげを生やしているものの、やはり顔だちは整っていて、よくいえば優男、悪くいえば頼りなさそうな三十男だった。背は莉子より高いが、その反応は猫にすくみあがるネズミのようでもあった。
「な......なんだい?」男はうわずった声できいてきた。「何か用?」
「わたし、凜田莉子といいます。そのう、はじめまして」
「どうも......」男はぼんやりと応じたが、莉子が名を明かした以上、自己紹介を求められていると悟ったらしい。男は視線を躍らせながらいった。「須磨康平です」
「須磨さんですか、ここでは何を......?」
「いや、べつに」須磨は依然として、妙におどおどとした態度のままだった。「この伊万里、一七〇〇年代の前半ぐらいかなあって」
「へえ。美術品に詳しいんですか」
「骨とう商なんだよ。職業柄、こういう物の価値が気になって」
「それで観察してたんですか」莉子は水差しに目を向けた。
ふと、水差しの注ぎ口が気になった。磁器は揺れていないのに、注ぎ口だけがぐらついているように見える。
気になって、注ぎ口に指で軽く触れた。
とたんに、その注ぎ口は根元からぽろりと取れて、莉子のてのひらに転がった。
一瞬の沈黙。須磨が声をあげた。「あー。壊したなぁ」
莉子は衝撃を受けたが、すぐに我にかえった。
須磨を振りかえって、莉子は静かにいった。「壊したのはあなたでしょ」
「え......?」須磨はたじろいだ。「ぼ、僕のせいにするのか」
「注ぎ口が取れてしまって、あわててつなぎあわせたら、微妙なバランスで落ちなかった。そっと立ち去ろうとしたけど、なんとなく気になってしばらく眺めてたら、わたしに声をかけられた。違いますか?」
「なんでそんなこというんだよ。僕は何も知らない」
「須磨さん。すぐに立ち去らなかったのは、あなたに良心の呵責があったからでしょう? どうしようかって迷ってたんでしょう。あなたはいい人です。知らないふりをすることも、他人に罪をなすりつけることも、できるはずありません」
莉子は無言のまま須磨を見つめた。須磨は、びくついた面持ちのまま莉子を見かえした。
やがて須磨は、莉子の手から注ぎ口をひったくると、それを水差しに戻そうとした。しかし、指先が震えているせいか、うまくいかなかった。注ぎ口は落ちて、台の上に転がった。
須磨はあたふたとしていたが、どうにもならないと悟ったらしく、汗だくの顔を向けてきた。「そうだよ......、壊したのは僕だ。よく見たかったから手にとったら、注ぎ口が折れちゃって......。とんでもないことをしたよ。きみは、よく冷静でいられるね。伊万里だよ。弁償しようにも、ワーキングプアの僕にはとても......」
絵に描いたような頼りなさをしめす男だが、すなおなのは好感が持てる。莉子はそう思った。動揺の必要もない。なぜなら......。
そのとき、別の男の声が低く響いた。「うろたえるな、みっともない。たとえ買い取りを求められても、せいぜい数万円だよ」
須磨が目を丸くした。「数万って......? あなたはいったい......どなたです?」
莉子はその視線を追って振りかえった。
近づいてくるのは、高級そうなスーツに身を包んだ男だった。年齢は四十歳ぐらいだろうか。華奢な須磨とは対照的に、肩幅が広い中肉中背で、歩き方からもかなり鍛えあげているとわかる。髪は短く刈りあげ、口髭を生やし、肌のいろは浅黒い。健康的なスポーツマンタイプだった。自信に満ちた目に高い鼻、ひきしまった口もと。昭和の中期なら二枚目で通っていたかもしれないルックス。いまは若干アナクロに思える押し出しの強さを備えていた。
「折橋って者だ」と男は硬い顔でいった。「外の風にあたろうと部屋をでたら、くだらない会話がきこえてきた。よくそれで骨とう商が務まるな」
須磨はすくみあがっていた。「あ......あのう、それはつまり、どういう......」
莉子は頭に閃いたままを口にした。「折橋さん? ひょっとして、美術鑑定家の折橋智哉先生ですか」
「......ほう?」折橋が莉子に目を向けてきた。「私の名前をご存じとは」
「もちろん存じあげてますよ。著書も拝読しました。『西洋美術史のセオリー』と『なぜ花も鳥も描かなくとも花鳥画と呼ぶか』を」
折橋は莉子をじっと見つめると、ふいに目を輝かせた。「きみは、ずいぶん若いな。きょう屋敷にいる女は、雨森華蓮以外みな年増ばかりだと思ってた。ディナーでは見かけなかったな。食事がまだなら、私の部屋でシャンパンと果物でもどうだね?」
莉子は自分の表情が凍りつくのを感じた。
慶応大卒の美術鑑定家として名高い折橋智哉は、無類の女好きとゴシップ誌に書きたてられたことがある。既婚者でありながら、女優やモデルと不倫を繰りかえした過去があったはずだ。噂は本当のようだった。知り合って数分と経たないうちに、折橋はナンパを始めているのだから。
しかし、それよりも気になったことがある。折橋はディナーに出席していたという。わたしは食堂で、彼の姿をいちども確認していない。
莉子はきいた。「折橋先生......。ディナーにおいでになったんですか?」
「ああ。夕方から食堂に招かれてね。ご婦人たちの相手をするのは疲れたよ。誰もが私に興味をしめしてくるんでね」
「何時ごろ、部屋にお帰りになったんですか」
「さあ。一時間か、二時間ぐらい前か。早い時間の晩飯だったから、もう腹がすいてきたよ。一緒にデザートでもどう? というより、きみはコース料理をご所望かな。食堂に行って頼んであげよう」
「いえ......。わたし、さっきまで食堂にいたんです。食事もいくらかご馳走になりました」
「ふうん、そうなのか。まだディナーがつづいているとは知らなかった。ご婦人たちも物好きだな」
「すると、わたしたち......。時間差を設けられて、ひとりずつディナーに呼ばれたんでしょうか」
折橋の表情が険しくなった。視線が須磨に向けられる。
須磨は困惑のいろを浮かべた。「僕には、なんのことかさっぱり......。きょうは手弁当で来るようにいわれましたし、食堂がどこにあるかも知らされてませんし」
「だろうな」折橋が吐き捨てた。「この水差しを本物の伊万里と見間違うような輩が、華蓮に太刀打ちできるはずがない」
「本物じゃないですって......? じゃ、これは贋作ですか」
莉子はいった。「いえ、偽物じゃありません。骨とう品としては真作だけど、時代がもっと新しいんです。これは一九〇〇年代のオールド・ノリタケで、伊万里パターンと呼ばれる柄を施した輸出仕様なんです」
折橋がぎょろりと目を剥いた。「おや。お嬢さん。芸大美術学部の学生さんかね。これがわかるってことは、それなりに成績優秀のようだ。さすが私の著書を読んでいるだけのことはある」
「いちおう社会人なんです。鑑定を生業にしてます......」莉子は折橋に告げてから、須磨に目を戻した。「蓋の金地が剥げかかっているところに、近年になって誰かが修復を試みたらしく、メッキが塗りこまれている。アマチュアが手を加えたせいで価値が急落してるんです」
「そ......そうなのか」須磨は水差しをそっと手にとった。「ああ。いわれてみればたしかに......底に初期マルキ印がある。オールド・ノリタケのイギリスへの輸出品だ」
「ふん」折橋が鼻を鳴らした。「やっと判ったらしいな。そんなレベルで骨とう商を名乗っているのか。よく仕事として成立するな。いったいどこで働いてる?」
「店を開いているんです。地方ですけど......」
莉子は穏やかにいった。「ねえ、須磨さん。ディナーには招かれなかったそうですけど、あなたも今晩、この屋敷に宿泊の予定ですか?」
須磨はうなずいた。「雨森華蓮さんの依頼で......。鑑定をお願いしたいから、泊まりがけで来てくれないかって。部屋も用意されたよ。すごく豪華で快適な部屋」
わたしと同じ条件だ。莉子はさらにきいた。「どんな鑑定を頼まれましたか?」
「いや......。必要があったら呼ぶからといわれて......。でも暇なんで、廊下をうろついていたところで」
折橋が呆れたようにつぶやいた。「きみはそうだろうな。私も華蓮に招待された身だが、ずっと忙しかったよ。食堂では、壁にかかったすべての絵について説明を求められた。ご婦人たちも興味しんしんに聞きいっていたよ」
莉子は折橋を見つめた。「絵を鑑定させられたわけですか? 華蓮の指示で?」
「ああ。どこか余興めいていたが、私が一席ぶつまでご婦人らがおさまらなくてね。絵はどれも本物だったが、残念ながらさほど価値がある物ではなかった。この水差し同様に数万円か、せいぜい十数万円ていどの売値しか期待できそうにない。とはいえ、古風な屋敷を彩る装飾品としては充分に合格だ」
「ご婦人のみなさんは、いったい何者でしょうか」
「さあね。華蓮が招いた客じゃないのか。彼女の素性自体よく知らないから、どんな事情があるか私は関知してない。鑑定家っていうのはそんなもんだ。屋敷に招かれ、置いてある物を値踏みする。クライアントの依頼に応えればそれでいい。余計な詮索がはしないことだ。きみもよく心がけておくといい」
「......折橋先生。専門外の、おかしな頼みごとをされませんでしたか? ご婦人がつかみとった千円札の枚数を正確に見極めろとか......」
須磨が面食らったようにたずねてきた。「そんな依頼があったのかい?」
あまりに突飛な質問だったせいか、折橋も言葉に詰まったようすだった。「......考えられないな。鑑定とはいわんだろう。座興の一種じゃないのか?」
「でも、わたしは頼まれたんですよ。鑑定家なら目もいいはずだろうって」
折橋はにやりと笑いを浮かべた。「からかわれたんだよ。ご婦人たちがきみの美に嫉妬して、恥をかかせてやろうと思ったのかもな」
莉子は困惑を覚えて口をつぐんだ。
依頼してきたのは華蓮だ。決して婦人たちの冗談ではない。しかも、ほかにも鑑定家を招いているにもかかわらず、わたしひとりだけに試してきた。あの実験にはどんな意味があったのだろう。
須磨は、なおも動揺を抑えられないようだった。折れた水差しの注ぎ口を手にしながら、戸惑いがちにつぶやいた。「これ......どうしよう」
折橋が顔をしかめた。「華蓮に会って、正直に打ち明けろよ」
莉子は同意できなかった。たしかに罪を認めることは重要だ、しかし、いま須磨が告白したら、たぶん彼は館から追いだされてしまうだろう。彼はまだ仕事の依頼を受けていない。一円にもならず、ここへの出張も徒労に終わってしまう。
カミングアウトは、すべてが終わった後でいい。莉子はそう思った。
「貸してください」莉子は須磨から注ぎ口を受け取った。
それを水差しの本来の場所にあてがう。バランスをとりながら、慎重に手を放した。
注ぎ口は水差しと微妙に一体化した。しばし固唾を呑んで見守ったが、注ぎ口が外れることはなかった。
折橋が顎髭を撫でながらいった。「器用だな。『VS嵐』にでれば、ローリングコインタワーで高得点が得られそうだ」
そのとき、階段から女の声がきこえてきた。「そこ、何やってんですか。勝手に歩きまわっちゃ駄目でしょう」
振りかえると、比乃香と絢音が足ばやに階段を下りてくるところだった。
比乃香が愚痴っぽくいった。「折橋先生。きょうはもう部屋をでるなと雨森もいっていたでしょう。大事なゲストでも、約束は守ってもらわなきゃ困りますよ」
絢音も嫌味な口調で告げてきた。「須磨先生。役に立たないんだから、せめていいつけには従ってください。凜田先生もなんですか、自分以外のゲストがふたりとも男性だから、ちやほやされて有頂天になってるんですか。まるで工学部の女子大生ですね」
莉子は思わずむっとした。「さっき、館内に男性はいないって言ってなかった? わたしが見たのはこの人よ。須磨さん」
「ああ。そう。だから何? 勝手に顔を合わせて、状況をややこしくしているのはあなたたちでしょ。ここに集まって何してたんですか。白状なさい」
ずいぶんと高飛車な物言いになったものだ。わたしたち三人が監視の目を逃れて出会ったことが、よほど不満らしい。
莉子はしらけた気分でいった。「そこの水差しに虫がとまっていたから、気になっただけ」
「虫?」比乃香が妙な顔をして水差しに近づき、手を伸ばした。
次の瞬間、注ぎ口がぽろりと取れて落下し、比乃香の足もとに転がった。
絢音は悲鳴に似た声をあげた。「ひ、比乃香!?」
「わ」比乃香はひどくあわてたようすで、表情をこわばらせながらいった。「わたしじゃないって。もろすぎでしょ、こんなの」
「壊したぁ!」絢音は声を張りあげた。「比乃香、どうすんのよ。何千万円すると思ってんの」
「何千万円なの......?」
「......知らないけど、まずいって。ちょっと。近所に瞬間接着剤売ってるとこない? ジョイフル本田とかケーヨーとか......」
ふたりは水差しの前であたふたとするばかりだった。もはや莉子たちに目もくれない。
折橋はため息をつき、頭をかきながら歩きだした。「もう寝る。道化にはつきあってられん」
立ち去っていく折橋の背を見送りながら、莉子も須磨にささやいた。「わたしたちも部屋に戻りましょう」
「そう......だね」須磨は緊張の面持ちでうなずくと、廊下に歩を進めた。「凜田さん、だったね。どうもありがとう。助けてくれて」
「どういたしまして」莉子は歩調をあわせた。「いまは味方がひとりでも多いほうがいいから。このワンダーランドでひとりぼっちは嫌です」
コーラ
夜も更けてきた。
七里ヶ浜付近の雑居ビル二階の会議室には、大勢の捜査員がひしめきあっている。光が漏れないように暗幕を張り、窓を閉め切っているせいで、熱帯夜のような暑さだ。
小笠原悠斗は廊下に面した戸口の脇に立ち、会議の行方を見守っていた。
私服警官のひとりが、企業案内のパンフらしき物をホワイトボードに貼りつける。表紙には、赤字に白抜きで誰もが知っているカメラメーカーのロゴが記載されていた。Canon。
警視庁の宇賀神警部がそれを指さしていった。「古都鎌倉では旧字体の地名が多いこともあって、大邸宅の資料はコンピュータ化されずに、いまだに不動産登記簿謄本のままだ。その写しを取り寄せて参照した結果、例の屋敷は、国内大手グループ企業の所有であることがあきらかになった。欄外の特記事項によると、使用目的はイベントや会合のほか、スチル撮影用のスタジオとしても役立てているとある。ただ詳細は、とっくに退社時間を過ぎているため、担当者を呼びだすことができず判明しない。鎌倉署のみなさんは明朝、ただちに企業窓口に問い合わせて、邸宅の運営状況などを洗いだしてください」
葉山警部補が片手をあげて質問した。「法人の所有ということは、雨森華蓮はそれを借りているにすぎないってことですか」
「そこも判然としません」宇賀神は硬い顔になった。「多くの企業は、自社のイベントスペースを使用しない期間は、広く一般に貸しだしていたりする。日付を押さえてレンタル料さえ支払えば、誰でも借りられる仕組みです。ただ、この邸宅がそのような扱いになっていたかどうかも含め、企業に問い合わせてみないことにはわかりません」
別の私服警官が首をひねった。「たとえ一般向けのレンタルサービスがあったとしても、素性のはっきりしない雨森華蓮みたいな女に二千坪の貸し切りを許すでしょうか。大手有名企業なのに」
「おおいに疑問です」と宇賀神はいった。「企業の公式サイトには邸宅についての記載はないので、やはり朝を待つしかないようです。鎌倉署のほうからは、何か報告がありますか」
初老の捜査員が手帳に目を落とした。「ヘリで確認したところ、敷地内の駐車場にたくさんのクルマが停まっているようです。航空法の特別条項に基づき、この地域での低空飛行は禁止されているため、残念ながら接近は不可能でした。駐車場は建物に囲まれていて、垂直に見下ろすかたちでしか視認できず、望遠でもナンバープレートまでは読みとれません」
「地上監視班からは何か?」
「ケータリングのトラックと、弦楽器を積んだ生演奏バンドのワンボックスカーの出入りが確認されました。どちらもごく一般の業者で、本日のディナーパーティーのために予約を受けたにすぎないと話しています。申しこんできた団体の代表名はナンバーワン、担当者名は雨森華蓮」
捜査員たちから失笑が漏れる。ひとりのつぶやきがきこえた。「ふざけてやがる」
小笠原は思わず唸った。莉子は邸内の植物園の花や、家庭菜園の野菜を鑑定させられたというが、それらは法人の所有物にすぎず、華蓮の物ではなかった可能性が大きい。いったい何が目的なのだろう。
ふと、廊下で人の声がするのに気づいた。男の声がたずねている。ここで何をしている。どこから入った。
妙に思って、小笠原は戸口から廊下に半身を覘かせた。
廊下に置いてある自販機の傍らに、縞模様のつなぎを着た若い男がりずくまっていた。つなぎと揃いの柄の帽子を被っている。男の背にはコカ・コーラのロゴがプリントしてあった。
男に声をかけていたのは、見張り役の私服警官たちだった。そのひとりが厳めしい顔で男にたずねる。「こっそり忍びこんだのか? なぜだ」
すると男はうわずった声で応じた。「なぜって......。いつものことですよ。忍びこんだわけじゃないです。あっちのサッシの鍵は常時開いてるんです。瓶の回収と、自販機の中身の補充に来たんですよ」
「こんな時間にか?」
「ええ。国道沿いの自販機をまとめてまわりますから。昼間は渋滞しっぱなしなんで」
「パートか? それとも......」
「正社員ですよ」
「じゃあ社員証は? それから運転免許証」
「ええと」男は腰を浮かせて、尻のポケットをまさぐった。「あったかな......。クルマに置いてきちゃったかな......」
男の足もとには、からになったコーラの瓶がおさまった木箱がある。それらを運ぼうとしていたように見えなくもないが、どこか不自然な姿勢に思えた。壁ごしに会議に聞き耳を立てていたのではないか。
廊下のただならぬ雰囲気を察知したらしい。私服警官たちはぞろぞろと会議室からでてきた。宇賀神が険しい目でつなぎ姿の男を見やる。「どうかしたのか」
つなぎの男はあわてたようすで、ポケットに両手を突っこんだ。「なんでもありませんって。社員証......どこにいったかな。持ってきたはずなのに」
時間稼ぎかもしれない。つなぎの男が囮になって、共犯が逃亡をはかる恐れもある。
小笠原のなかで、ふいに閃くものがあった。そうだ、いまこそ知力の不意打ちなる行為によって、男の素性を浮かびあがらせるときだ。
「待ってください」小笠原は廊下に声を響かせた。つなぎの男にたずねる。「コカ・コーラの瓶のかたちは、何に由来していますか」
一同がしんと静まりかえる。
葉山が眉をひそめてたずねてきた。「記者さん。なんでそんな質問を」
「しっ」小笠原はささやいた。「正社員なら、勤め先の社史にもそれなりに詳しいはずです。入社試験の前に勉強しているはずだし、研修で頭に叩きこまれたりしますからね」
つなぎの男は、おどおどした態度で見かえしてきた。「ええと......どういう意味でしょうか」
小笠原は木箱から空瓶を一本取りあげた。「この独特の瓶の形状、特に下部のくびれは何を意図してデザインされたのか。正社員のあなたにたずねているんです」
「あの......。それは、そのう......くびれていたほうが、持ちやすいからじゃないですか」
「......違います」小笠原は莉子のいいまわしを真似しつつ、きっぱりと告げた。「これは女性のボディラインをイメージしてデザインされた物です。究極の美をモチーフにしているってことですね。正社員なら、知らないはずがないでしょう。あなたの正体は業者ではありません」
つなぎの男は、愕然とした表情を浮かべた。
きまった。小笠原は心躍る自分を感じていた。偶然知っていた豆知識が、思わぬところで役に立った。その応用法は莉子に学んだ。彼女と行動を共にしてきたことで、知らないうちにコツが備わっていたようだ。
私服警官たちも、小笠原が真相を見抜いたことに驚きを隠せないらしく、ただひたすら沈黙しつづけていた。
ところが、やがて体感温度が妙に低く感じられてきた。一同が冷やかな視線を投げかけているように思える。
葉山が呆気にとられたような顔でつぶやいた。「記者さん。それ、有名なガセネタのような気が」
宇賀神も神妙にうなずいた。「ひさしぶりにきいたな。団塊以上が信じきってた古臭い都市伝説だと思ったが」
「え?」小笠原は絶句した。
携帯電話のバイプ音が、静寂のなかに唸った。振動は、自分のポケットからつたわってくる。
小笠原はあわてて携帯電話を取りだした。「ちょっと失礼。......もしもし」
「あ、小笠原さん」莉子の声がきこえてきた。「また屋敷を抜けだして、電波の届くところに来たんだけど」
定例報告に耳を傾けるよりも。真っ先にたずねたいことがあった。「あのさ、凜田さん......。コカ・コーラの瓶って、なんでくびれてるの?」
「コーク・ボトル......? 持ちやすいからでしょう」
文字通り、ガーンという衝撃音が小笠原の頭のなかにこだました。
私服警官たちは無言のまま。ぞろぞろと会議室に引き揚げていく。
葉山は真顔で近づいてくると、片手を差しだした。「凜田さんからの電話ですね。貸してください」
半ば呆然としながら、小笠原は葉山に携帯電話を手渡した。葉山はそれを耳にあてて、きわめて事務的な口調で喋りながら立ち去っていく。「葉山です。凜田さん、ご苦労さまです。その後、何が気になることは......」
つなぎを着た男が、しらけきった顔で私服警官にパスケースを差しだしている。「社員証、ありました。免許証も」
それを一瞥した私服警官が、頭をさげていう。どうもお手間をとらせました。運ぶの手伝いましょうか。業者は苦笑ぎみにつぶやいた。いいです、仕事ですから。
宇賀神が戸口を入る寸前、目をあわせることなく、小笠原の肩をぽんと叩いた。「ドンマイ」
小笠原の頭は真っ白になっていた。すみません......。小声でささやきながら、そそくさと会議室に舞い戻った。
恋愛ゲーム
翌朝、すっきりと晴れた空の下、莉子は館の外にでた。部屋のバルコニーから、庭園でお茶会を開く婦人たちが見えたからだった。
芝生に据えられた無数の丸テーブルと椅子で、着飾った婦人の群れが紅茶のカップを傾け談笑している。まるでルノワールの絵画のようだった。
集団の中心にいたのは、やはり雨森華蓮だった。朝っぱらからパンク・ファッションを整えることに余念がない。寝癖のように見える髪に鋲打ちの革ジャン、スリムジーンズ。ブランドはヴィヴィアン・ウェストウッドで統一しているようだった。
華蓮は、同席した四十代ぐらいの婦人と話しているところだった。テーブルの上にはアロマオイルの褐色の小瓶がいくつか並んでいる。
莉子が近づいていくと、華蓮は会話を中断して顔をあげた。
「おはよう」華蓮は微笑を浮かべた。「Qちゃん。よく眠れた?」
「まあね」莉子はいった。「ここに来てもよかったのかしら。けさはまだ、あのふたりが姿を見せてないけど」
「ああ......。比乃香と絢音なら、ひどく落ちこんでるのよ。二階のホールでオールド・ノリタケを壊しちゃったって」
「......そうなの?」
すると華蓮は悪戯っぽい笑みとともに身を乗りだし、莉子に耳打ちしてきた。「ここだけの話、あの注ぎ口を割っちゃったの、わたしなのよ」
「ええっ!?」莉子は思わず声をあげた。「まじで?」
「そう。来てすぐ、あれを手にとって眺めてたら、落としちゃってね。そっと継ぎ目を当てたら、くっついたからそのままにしておいたの。あのふたりに非はないんだけどさー、なんだかもう言いだせない雰囲気でね。ほら、調度品は館のオーナー企業の物でしょ。ばれたらやばいからさ、Qちゃんも黙っておいてね」
莉子は口ごもった。
屋敷が丸ごと法人の所有であることは、ゆうべの電話で葉山からきいて知っていた。華蓮の言葉はその事実を裏づけるだけでなく、彼女自身が不注意から責めを負いかねない立場であることを、赤裸々に打ち明けるものだった。
わたしに秘密を共有させることで、共犯意識を持たせようとしているのだろうか。ひと晩を経てもなお、彼女の狙いははっきりしない。
華蓮はテーブル上の小瓶を指し示した。「こちらのご婦人が、ラベンダーのアロマオイルをご所望なの。いい物を選んでくれない?」
莉子が隣りの婦人に目をやる。婦人は微笑とともに会釈した。
周りのざわめきがフェードアウトしていく。全員が視線をこちらに向けてきた。
また例の余興、もしくはゲームとでも呼ぶべき状況が始まった。莉子は婦人にいった。「おたずねしますけど......」
すると、華蓮が片手をあげて莉子を制した。「わかってると思うけど、お客さんたちに素性を尋ねないでね。名前や住所をきくのも禁止。ここにいる目的も、旦那さんがどんな芸能人に似ているのかもね」
婦人たちは笑い声をあげた。
「ええ」莉子はうなずいてみせた。「わかってます。ききたかったのは、ラベンダーのアロマオイルを所望されている理由です。どんな効果を期待されてますか」
華蓮が無言のまま目でうながすと、婦人が答えた。「安眠でしょうか。リラックス効果を求めてるんです」
ふうん。莉子は小瓶をつまみあげては、ラベルを眺め、蓋を開けてにおいを嗅いだ。それから直観的思考を基に、瓶をチェス駒のように動かしていく。いくつかのグループに分けて、そこからまたさらに細分化させていった。
最終的に、ひとつの瓶を婦人の前に置いた。「どうぞ。これがおすすめです」
「へえ」華蓮は別の瓶を取りあげた。「これ、いいにおいがするんだけど。駄目なの?」
「ラベルは綺麗ですけど、植物の学名のラテン語による記載がありません。もぐりの商品でしょう」
「じゃあ、こっちは? これは学名が記してあるわよ」
「Lavandula stoechas とあります。ラベンダーであってもリラックス作用がない、抗菌を効能とするアロマオイルです」
「こっちのは?」
「屈折率から察するに、人工香料や有機溶剤が混ざっています。においもまったく駄目です。それからこれは、ロッ卜番号が不自然な偽物」
「残った三本は、どれも良好みたいだけど?」
「ええ。なかでも水蒸気蒸留法で抽出したことが明記してある、その瓶を選んだんです」
「素晴らしい!」華蓮が手を叩いた。
わあっと婦人たちが沸いて、笑顔とともに拍手する。
またこの反応か......。今度こそ空気に呑まれないよう、冷静でいなければ。
婦人がいった。「素敵。鑑定家さんって、目だけじゃなくて鼻もきくんですわね」
別のテーブルについていた婦人がつぶやく。「五感すべてに優れてるんじゃないかしら」
華蓮はうなずいた。「ためしてみましょう」
そういって立ちあがると、華蓮はテーブル脇のワゴンから皿を一枚手にとった。
さほど高い物ではない。バロック様式のレリーフが入った縁取り、リチャードジノリのベッキオホワイトプレートだった。白ばかりと思っていたが、黄緑いろとは珍しい。
だが、華蓮はその皿の鑑定を求めてきたわけではなかった。莉子の背後にまわると華蓮はいった。「ご婦人が皿の上に小物を投げ落とすから、何なのか耳で聞いて判別してくれる?」
「ちょっと」莉子はさすがに抗議せざるをえなかった。「そんなのわかるわけが......」
「あー、振り向かないでよ。だいじょうぶ、ヒントをあげるから。指輪と、硬貨と、鍵と、イヤリングのうちどれか。じゃ、いくわよ」
仕方なく背を向ける。しばらくして、チリンという音が一回だけきこえた。その響きの情けなさに思わず気が滅いる。
華蓮の声が告げてきた。「もう振りかえってもいいわよ。皿の上にある物は隠したから」
いわれたとおり華蓮に向き直る。からになった皿がテーブルに置いてある。婦人たちは興味深そうにこちらを見つめてくる。
莉子は頭を掻きながら、勘で答えた。「イヤリング」
プロゴルフでパットを外した瞬間のような、嘆きの声が婦人たちから沸き起こる。婦人のひとりが握っていたこぶしを開いた。真珠の指輪がおさまっていた。
「残念」華蓮は歩きだした。「でもあなたの実力は、こんなことじゃ推し量れないでしょう。こっちに来て」
そんなふうに誘導されたのでは、彼女についていかざるをえない。莉子はまたもペースに呑まれつつあるのを感じながら、華蓮の後につづいた。婦人たちはその場に留まり、お茶会をつづけるようすだった。
華蓮はテラスに向かい、開放されたガラス戸から館のなかに入った。
莉子も足を踏みいれた。そこには、数十人の婦人たちのグループが待っていた。
お茶会にいたのは、ゆうべの食堂にいた来客のうち半分ぐらいだったらしい。残る半数はここにいる。図書室のように本棚が連なる部屋のなかで、椅子に腰かけて外を眺めていた。
彼女たちの近くにはアールデコ調のデスクがあり、その隣りにはパソコンやプリンターが並んでいた。華蓮はデスクの引き出しを開けて、一枚の写真を取りだした。
差しだされた写真を、莉子は眺めた。カラーだった。洋風の家の外観で、正方形の窓がいくつも連なる独特の形状をしていた。
華蓮がいった。「それらの窓だけど、一か所だけガラスじゃなくてプラスチック板を嵌めてあるのよ。どれだかわかる?」
ひとりの老婦人が首を横に振った。「まさか、無理でしょう。実物を目にせずに鑑定なんて」
莉子は無言で写真に見いった。たしかに、この写りだけでは判別は困難だ。でも......。
ちらとプリンターに目をやる。Canonのロゴがあった。するとこれも、オーナー企業の備品か。
「これ」莉子は華蓮にきいた。「使っても?」
「どうぞ」と華蓮は告げた。
パソコンとプリンターがUSBケーブルで接続されているのをたしかめてから、それぞれの電源をいれる。プリンターにはスキャナ機能がついていた。蓋を開けて、ガラスの上に写真を伏せて置く。それからマウスを滑らせて、パソコンのモニターに表示されたスキャニング開始のアイコンをクリックする。
鈍い音を立てて、画像の読み込みが始まった。数秒と経たないうちに、写真と同じ画像がモニター上に取りこまれた。
莉子はフォトレタッチのソフトを立ちあげて、コントラストのみ数値をあげていった。画像の色のついた部分がしだいに強調されていく。思いきり濃くすると、一枚の窓だけが青みを帯びた。
「右からふたつめの窓ですね」莉子は静かにいった。「透明のプラスチック板っていうのは、より透過性があるように錯覚させるため、薄くブルーに着色されているんです。こうして色彩を濃くすれば判別できます」
「お見事」華蓮はまた笑顔になった。「写真だけで材質を鑑定しちゃうなんて、応用力もあるのね」
莉子は愛想笑いを浮かべる気にはなれなかった。ただ華蓮の顔をじっと見つめかえしていた。
パソコンやスキャナが揃っている部屋に、わざわざ連れてきてから出題してきた。すなわち、答えが見つけられる環境が事前から用意してあった。
やはり正解はあらかじめ華蓮が握っている。わたしは、試されているだけだ。でもいったい、何を......?
ノックの音が響いた。奥の扉が開いて、比乃香と絢音が入室してきた。
絢音がすました顔でいった。「凜田先生。お部屋にご朝食をお持ちしました」
華蓮は腕組みをしてつぶやいた。「じゃあ、また食事の後でね。Qちゃん」
矢継ぎ早に質問を浴びせたい衝動に駆られる。しかし、思い留まった。華蓮が手の内を明かすはずがない。
婦人たちの視線は片時も外れることなく、戸口に向かう莉子を見送っている。莉子は彼女たちに軽く頭をさげて、部屋を後にした。
廊下を歩いて階段ホールに向かう。比乃香と絢音は後ろにぴったりとついてきていた。
ホールに近づいたとき、行く手にひそひそと話す声がきこえた。
男の声が低く告げていた。「それならいい店を知ってるよ。人里離れた隠れ家的な雰囲気を持つ立地なんだ。上品なたたずまいで、きみのエレガントさにもぴったりとそぐう」
「まあ」女の声がささやいた。「おじょうずですわね。でも、あの人たちに見つかったら......」
「心配ないよ。僕のほうから電話する。待ち合わせ場所は、きみの家の近くでいい?」
莉子は足音を忍ばせながら、ホールに足を踏みいれた。
壁にもたれかかるようにして、折橋智哉がひとりの婦人の顔をのぞきこんでいる。婦人は、来客のなかでは若いほうで、しかも美人だった。微笑とともに折橋を見つめかえすその目には、好意のいろが浮かんでいる。なにより、恋人どうしと見まがうほどに詰められたふたりの距離が、関係の深さを物語っていた。
「こら!」だしぬけに絢音が声を張りあげながら、莉子を追い越して折橋に駆け寄っていった。「そこ! ルール違反でしょ」
比乃香も丸顔を紅潮させながら、つかつかと折橋のもとに向かった。「折橋先生、勝手に出歩いちゃ駄目っていってるでしょう。それに、ご婦人。あなたもなんですか」
ふたりにとっては折橋のナンパ行為よりも、婦人のひとりが群れから離れることのほうが見過ごせない違反であるらしかった。比乃香と絢音は婦人の両腕をつかみ。廊下へと連行しだした。
婦人は歩きながら顔をしかめた。「わかったってば。離してよ。集団に戻っておとなしくしてればいいんでしょ」
折橋はそれを見送りながらいった。「またね、ご婦人」
すると婦人は微笑して振りかえり、目で別れを告げた。嫉妬のオーラを全身から放つふたりの女にひきずられ、廊下を遠ざかっていく。
階段ホールには、莉子と折橋だけが残された。折橋は気取ったしぐさで、ネクタイの結び目を正した。「やあ、きみか。おはよう」
「折橋先生。いま、あのご婦人とデートの約束を......」
「ああ。交わしたよ。来客のなかではレベルの高い女性を選ばせてもらった。人妻は要領をわかっているから、手がかからなくていい。いまも見たように、早くも私にメロメロでね。住所も名前も教えてくれた。もちろんメアドも、電話番号もね」
呆れた人。莉子は内心そうつぶやきながら、折橋を見つめた。「ご婦人たちの個人情報を知るのは、まずいと思うんですけど」
「どうして? 雨森華蓮の定めた規律だからか? 恋愛のゲームってもんは自分のルールで進めるもんだよ。よかったらきみも......」
「遠慮します」
「いうと思った」折橋はにやりとした。「さて、シャワーでも浴びて着替えるか。きょうも何の鑑定を依頼されるかわかったもんじゃないが、プロに徹して淡々とこなすだけだ。それじゃ、また会おう」
折橋は上機嫌のようすで、軽快なステップで階段を駆けあがっていった。
莉子はそれを見送ってから、ゆっくりと階段をのぼりだした。
プロに徹して淡々とこなすだけ、か。そこだけは見習う価値がある。莉子は思った。わたしは迷宮の奥深くに迷いこんでいる。いまは一歩ずつ進むしかない。
目薬
朝八時すぎ、小笠原は葉山警部補とともに七里ヶ浜の雑居ビルをでた。
夜明けとともに徹夜組は、警視庁や鎌倉署から新たに出向いてきた交替要員に仕事を引き継がせることになっていた。葉山が外にでるのが遅れたのは、目立たないように少人数ずつ入れ替わっていたせいだった。
江ノ電の踏切から海を眺めながら、葉山は伸びをした。「朝日が眩しいな。じきに、どの会社も営業時間を迎えますね。あの屋敷のオーナー企業とも連絡がとれるでしょう。記者さんは寝ずに出勤ですか」
「いえ......。いちおうきょうは、遅番でもだいじょうぶっていわれてますけど」
「ならこの近くに、知り合いがやってる飲食店がありますから、朝食をそこでどうですか」
葉山に案内されたのは、国道一三四号線沿いのちっぽけなスナックだった。夜間の営業が主体らしく、目の前に海が広がっているというのにオープンテラスもない。陽の光の射しこまない、薄暗い空間にカウンター席のみの店内。客はほかにいなかった。店のマスターは白髪頭だが、体格のいい髭づらの男で、どことなくヤクザっぽい雰囲気を漂わせている。葉山はビールを注文したが、背を向けて厨房に入ろうとしたマスターの手に、目薬の容器が持たれていることに小笠原は気づいた。
「葉山さん」小笠原は緊張感とともにささやいた。「まずくないですか、ここ」
「あん? まだ何も食べてないのにどうしてわかるんです」
「いえ、そういう意味じゃなくて......。マスター、目薬を隠し持ってましたよ」
「目薬? それがなにか?」
「ひょっとしてビールに入れるつもりだとか」
葉山は呆れたような顔になった。「記者さん。ひょっとして、この店のマスターが私たちを眠らそうとしてるとか、そういいたいんですか」
「ちょっと気になったというだけです。警戒するに越したことはないんじゃないかと」
「まいったな。記者さん。詳しくないのはコーラだけかと思ったら」
「え......。それってどういう......」
マスターがビール瓶とグラスを手に戻ってきた。それらをカウンターに置いて、ぶっきらぼうに告げる。「はい。ビール、お待ち」
葉山は妙になれなれしい口調でマスターに話しかけた。「おやっさん。目のぐあい、どう?」
「だいぶいいね」とマスターは答えた。「毎日、目薬さしてるから」
「そのせいで、こちらの若手記者さんが疑ってるよ。ビールに目薬を混ぜて、俺たちを眠らせる気じゃないかって」
するとマスターは、そのいかつい顔に似合わない笑いを浮かべた。「睡眠薬がわりになるって? ずいぶん古い迷信信じてんだね」
小笠原は面食らった。「迷信......ですか?」
「ああ」マスターはうなずいた。「四十年か五十年ぐらい前まで、目薬にアトロピンとかヒヨスチアミンが含まれてたころの話だな。ヒヨスチアミンは、チョウセンアサガオから採取されるアルカロイド類だから、睡眠導入剤の役割を果たすことも考えられた。でも現在、日本で販売されてる目薬には、そんな成分は含まれてないよ」
「な......」小笠原は絶句した。「ど、どうしてそんなに詳しくご存じなので?」
葉山はビールをすすりながらいった。「おやっさんは私の先輩でして、大船署にいたころは鑑識課のベテランだったんです。目を悪くしたんで引退して、以後はひとりでこの店を切り盛りしてるってわけです」
「......か、鑑識さんだったんですか」
「知力の不意打ちを食らわせるつもりが、返り打ちにあいましたね、記者さん」
これにはぐうの音もでない。小笠原は下を向いて黙りこむしかなかった。
マスターは仏頂面で告げてきた。「お通しに青菜でもだすか。塩をふりかけて」
「おやっさん」葉山は咎めるようにいってから、小笠原に向き直った。「ねえ、記者さん。私たちは損な役まわりです。私たちが顔をあわすときは、たいてい凜田さんが一緒にいるから、お互いどこか抜けているようにみえてしまう。でも私たちは大学もでてるし、立派に社会人を勤めてるんです。無理して背伸びする必要はありませんよ。気らくにいきましょう。ま、一杯どうです」
「はあ......。そ、そうですね」
主人に渡されたグラスを手にすると、葉山が瓶を傾ける。
彼が警部補という役職にありながら、瓢々とした生き方を選んでいる理由が、なんとなくわかった気がする。
それにしても......敏腕記者への道はまだまだ遠いな。小笠原はそう思った。いまの俺にできることは、この白く泡立ったビールを一気にあおることだけだ。
前室
莉子は自室で朝食を終えると、比乃香と絢音に案内されて館の離れに向かった。
平屋建ての別館は、本館と同じく英国風の建築様式だったが、開放的で南国にあるイギリス総督府のようだった。なかはいくつかの部屋に分かれていたが、莉子が通されたのは角部屋の洋室だった。
ソファに座っていた須磨康平が腰を浮かせた。「やあ、凜田さん。おはよう」
「おはようございます」莉子が入室すると、比乃香と絢音はそそくさと立ち去っていった。
室内にはもうひとりいた。折橋智哉はテーブルに片肘をつきながら、携帯電話で話しこんでいる。「そう。明日。チェックインは昼過ぎだな。宿泊は二名。朝食? コンチネンタル・ブレックファストならいらないよ」
折橋の手もとには、数十枚の切り抜きが重ねて置いてあった。いちばん上は、石川県の和倉温泉の有名な旅館の広告だった。
だが折橋が電話をかけているのは、別の宿泊施設らしい。彼はその切り抜きを取りあげて、顔にくっつけんばかりにして眺めている。視線があがり、莉子と目が合った。折橋はすぐさま、その一枚をテーブルに置いた。隠すように切り抜きの束を上に重ねると、念入りに何度も束の上下を入れ替えて混ぜた。
「じゃあ頼んだよ」折橋は携帯電話に告げた。「クルマで行くから」
そういって電話を切る。折橋は立ちあがった。「また会ったね」
莉子は折橋にきいた。「ご旅行ですか?」
「野暮な質問だ。さっきの階段ホールからの流れで、私が誰とアバンチュールを楽しもうとしているか、当然わかってるだろ」
アバンチュール......。胸を張って自慢することでもないと思うが。莉子は呆れながらいった。「マメですね。宿泊先の広告の切り抜きを集めてるんですか」
「ああ。一休ドットコムや、じゃらんで検索するばかりじゃワンパターンになる。相手の女性も、誰かに連れられて行ったことがある可能性も高い。だから、よさそうなところは普段から自分で探しておくんだよ。きみも参考にするといい」
莉子はテーブルに近づき、切り抜きの束を広げた。北海道もあれば鹿児島、沖縄もある。まさに全国津々浦々、ありとあらゆる宿泊施設の広告記事のコレクションだった。
折橋はいった。「どこを予約したかは内緒だ。きみにも打ち明けられないが、興味あるかね?」
不倫の日程を自慢したがるとは、屈折した心理だ。莉子はあえて冷たく言い放った。
「べつに」
須磨が莉子に話しかけてきた。「そろそろ、ここでの僕らの仕事は終わりみたいだよ。さっき雨森華蓮さんがそういってた。僕は、ほとんど何も依頼されずじまいだけど......」
「ふん」折橋は鼻で笑った。「鑑定家も人気商売だな。私の部屋には、朝からご婦人たちが押しかけて大変だった」
莉子は折橋を見つめた。「そんなに大勢と不倫を......」
「違うよ。私が相手にしているのはひとりだけだ。それとは別にけさ早く、華蓮が婦人たちを引き連れて私の部屋にきたんだよ。しかも妙な鑑定を依頼してきた」
「妙な鑑定って?」
「華蓮は、いくつかのネックレスを持ってきていた。そのうちのひとつが銀製だから、ただちに判別してくれというんだ。私は絵画が専門で、アクセサリーの鑑定は生業にしていない。弱ったよ、とはいえ、私の別の専門分野に該当することではある」
「別の専門分野というと......」
「女性だよ。当然、美人が身につける物についてはいつも気にかけている。よって知識も備わっている。私はそれらのネックレスを手に、彼女たちと浴室に入ったよ」
須磨が驚きのいろを浮かべた。「よ、浴室? 鑑定依頼にきたご婦人たちと?」
折橋は顔をしかめた。「服を着たままだぞ。風呂に入ったわけじゃないんだ。私はたしかにモテる男だが、見境なくハーレム状態を楽しんだりはせん。華蓮もそんな状況を許すはずがないだろう」
莉子はいった。「折橋先生、ネックレスを鑑定したんですね。硫黄入り入浴剤を浴槽にいれて、そこにネックレスを浸した」
「その通りだ。銀製のネックレスだけが黒く染まるからな。実験後はクリーニング剤できれいにして返却。じつに迅速でスマートな鑑定だ。ご婦人たちはみな興奮して、廊下の絵についてもいちいち説明を求めてきてね」
ということは、莉子のプリンターを使った写真鑑定と同様、折橋も硫黄入り入浴剤という解決用アイテムのある場所で依頼を受けたことになる。あらかじめ答えが用意されたクイズ。どうしてわたしたちに出題する必要があるのだろう。
「折橋先生。聴覚を試すとか、そんな実験は求められませんでしたか。皿の上に落とした小物が何なのか、音で判別しろとか」
「......さあ」折橋は硬い顔になった。「そこまでおかしな余興はなかったな。もはや鑑定とはいわんだろ、そんなもの」
須磨がおずおすといった。「僕もそれは頼まれなかったけど......。変わった実験というなら、けさいちどだけ経験したよ。やっぱり、ご婦人たちが大勢いる部屋に呼びだされて、雨森華蓮さんに依頼されたんだ。缶のなかに入ってる液体はガソリンか、灯油かって」
折橋は大仰にため息をついた。「冴えない骨とう商であっても、ごく一般的な知識ぐらいはあるんだろ? 色でわかるじゃないか。ガソリンはオレンジいろ、灯油は無色だ。安全のためにわざわざ色分けされてる」
「でも、金属製の缶に入ってたんですよ。指をいれてもいいっていわれたけど、それだけじゃ色は区別できなかった」
莉子はいった。「その指を振ればよかったんですよ」
「振る?」
「すぐ乾けばガソリン。そうでなきゃ灯油です」
折橋が同意をしめした。「ガソリンは揮発性に優れているからな。蒸発しやすいわけだ」
須磨はしきりにうなずいた。「そうか......。勉強になったよ。でも雨森さんは、どうして僕にきいたんだろ。ふしぎだな」
ふん。折橋はまた鼻を鳴らした。「私にとっての不思議は、きみがここにいることだ」
莉子はたずねた。「折橋先生。知り合いになったご婦人から、何かきいてませんか。なぜここにいるのか、雨森華蓮さんとどんな関係か......」
「さあね。彼女はいいたがらないし、私も詮索する気はない。私が興味を持っているのはご婦人そのものであって、この館においては職務に徹するだけなのでね」
そうですか......。莉子は視線を床に落とした。華蓮の目的が見えてこない。
なんらかの高価なブランド品の偽物をつくり、その精度を鑑定家にたしかめさせたうえで、詐欺計画を実行に移す。それが雨森華蓮の常套手段だったはずだ。ところが、ここでは意味のない鑑定や座興もどきの実験で茶を濁してばかりで、それも間もなく時間切れになるうとしている。
戸口に足音がした。比乃香と絢音が室内を覗きこんでいた。
絢音が告げてきた。「お三方。これからおひとりずつ雨森とご婦人がたの前で、最後の鑑定依頼をお受けいただきます。まず凜田先生から。こちらへどうぞ」
莉子は身が引き締まる思いがした。
最後の鑑定依頼。ついに......いや、ようやく華蓮が動きだした。どんな偽ブランド品が待っているのだろう。あるいは。有名な美術品か骨とう品の贋作だろうか。
莉子は戸口に向かって歩きだした。すべての神経を集中させねば。いよいますべての真相があきらかになる。
ブローチ
ところが、莉子を待っていたのはまたしても失望だった。
いや、正確には、最初のうちはまだ本格的な鑑定依頼を予感させるものがあった。別館の広間に集まった百人前後の婦人たちは、何列も連なる椅子に座り、オペラの観客のように莉子ひとりを注視していた。雨森華蓮は莉子にきいてきた。みなさんの身につけている物の価値はわかる? たとえば......。
「そうねぇ」華蓮は、最前列に座っていた女性の膝の上にあったハンドバッグを指さした。
「これなんかどう?」
莉子は答えた。「エルメスのパーキン、三十センチですね。ローズショッキングに、白のステッチ。パーソナルオーダーで、シェーブル、金具はシルバー。本物です。二百万円は下らないでしょう」
「お召しになっているワンピースのブランドはわかる?」
「イザベル・トレドです。ニューヨークの超高級ブランド。オバマ夫人が大統領就任式で着ていたことで有名です」
「そのとおり。このワンピースにパーキンのハンドバッグはマッチしてると思う?」
「......色彩の対比はいい感じですし、とても趣味がよいかと」
「ええ。そうよ。こちらにお集まりのご婦人がたは、みなそれぞれにファッションの嗜好が違っているけど、いずれもセンスのいいかたばかり。鑑定家としては、みなさんの持ち物のひとつからでも、持ち主がどなたであるか判断を下せるものと思います」
またおかしな方向に誘導しようとしている。莉子は警戒心とともにいった。「所有者の好みまでは鑑定できません......。そんなことは鑑定家の仕事じゃないし。たとえサザビーズやクリスティーズみたいな有名オークションの鑑定士でも、物から逆算してオーナーを割りだすことなんてできないでしょう」
しかし莉子の抗議もむなしく、実験は執りおこなわれた。標準サイズ、長4号の封筒が二十枚、最前列の婦人たちに配られた。彼女たちはそれぞれ、ハンドバッグのなかにある小物を封筒にいれるよう求められた。ただし、運転免許証などあきらかに所有者がわかる物は対象外となる。
婦人たちは、手もとを隠すようにしてこっそりと小物を封筒におさめ、封をした。それらの封筒は比乃香と絢音によって集められ、徹底的に混ぜ合わされてから、莉子のもとに届けられた。
莉子は封筒を一枚ずつ開封し、持ち主が誰であるかを判別せねばならなかった。最初の封筒に入っていたのは、ルビーに金の縁取りをしたブローチだった。
最前列の婦人たちを眺めまわす。光り物が好きという時点で、似たようなアクセサリーを身につけている女性のみにとりあえず的を絞る。ブローチのデザインからして、三十代の好みということはないだろう。四十代後半から五十代、もしくはそれ以上。
対象と思われるのは四人ほどだった。ブローチの針をよく見ると、先が折れているのがわかる。つけるのに手間取ることが多いのだろう。理由として考えられるのはネイルを伸ばしている、あるいは不器用、もしくは老眼。
該当するのはひとりだけだった。白髪の婦人の前に行き、莉子はブローチを差しだした。
「あなたの物だと思いますけど......?」
老婦人はにっこりと笑って、それを受けとった。「よくおわかりで」
感嘆のどよめきと、拍手が沸き起こる。この館にきてから、何度も婦人たちの祝福を受けた。今回の反応はひときわ大きかった。
だが、快進撃はそこまでだった。二枚めの封筒に入っていたホワイトゴールドのブレスレットを、莉子は五十代の痩せた女性の物と考えたが、正解はまるで違っていた。実際の持ち主は、そのブレスレットの直径に手首がおさまりそうにない、三十代の小太りの婦人だった。何年も前に夫にプレゼントされた品だが、体重が増えてしまったので身につけられなくなり、次に痩せるまでのあいだハンドバッグにいれているのだという。
以降も、成績は散々だった。花柄のハンカチ、香水の瓶、腕時計、ボールペン、オイルライター。なにひとつ持ち主を正しく割りだせなかった。
正解できたのは最初のブローチを除いてわずかふたり、それもかなり数が絞りこまれた終盤においてだった。エメラルドの指輪は、指の太さと比較することでなんとか正解できたし、月型の小さな櫛は、歯についていた髪の長さと色によって所有者が判明した。どれだけ注意深く観察しても、持ち主探しはそれが限界だった。
二十人すべての所持品について検証し終えたとき、莉子は疲労の極致にあった。まさしく身も心もぼろぼろだった。
婦人たちは静かにこちらを眺めていたが、その目が冷やかないろを帯びていることに、莉子は気づいていた。
鑑定能力と関係のない技能を試されて、結果をだせずに冷遇される。心外な扱いだった。莉子は悔しさのあまり泣きそうになった。
莉子は華蓮を見つめた。「ほかに、わたしの仕事は......」
「ないわ」華蓮はあっさりと告げてきた。「これで終わり」
「終わりって......」
「謝礼はのちほどお支払いするわ。お引き取りになって結構よ」
苛立ちがこみあげてくる。莉子は華蓮に怒りをぶつけた。「シェパードかドーベルマンを訓練したら? 警察犬には向いてる実験だと思うけど、鑑定家の持つ知識とは無縁でしょう」
「犬......ね」華蓮は硬い顔でいった。「いい考えね。次からそうするわ。じゃ、またあとで」
華蓮のみならず、婦人たちの無言の圧力に追い立てられ、莉子は扉に向かわざるをえなかった。
外にでたとたん、視界が揺らいだ。涙が頬を零れ落ちる。
実験に敗北したせいではない。わたしは何もつかめなかった。華蓮に翻弄され、踊らされただけの二日間だった。手も足もだせずに、尻尾を巻いて帰るしかない。
疾走
朝九時をまわった。
七里ヶ浜、国道一三四号線沿いのスナックで、小笠原はマスターにだされたトーストをぱくついていた。
ビールを飲んでいた葉山は、隣りでカウンターに突っ伏していびきをかいている。夜通し働いた刑事の勤務明けというのは、いつもこんな感じなのだろうか。ここから牛込署までは遠いが、葉山はどこに住んでいるのだろう。
マスターが熊のように太い腕で皿をふきながらいった。「お兄さん。角川にお勤めなら......『涼宮ハルヒの驚愕』っていつ発売かわからないか。年内だってきいてたのに」
「さあ、文庫編集部のほうからは何もきこえてきませんけどね。......ライトノベル読むんですか、マスターが?」
「いや。俺の息子が好きでね、もう五十過ぎてるけど」
「はぁ......」
沈黙がおりてきた。俺も遅番で出勤だ。そろそろ帰ってシャワーでも浴びておくか......
そう思いながら、ぼんやりと葉山に目を向ける。彼の腕の下に、大判の封筒が一枚あった。
小笠原は手を伸ばして、その封筒を引き抜いた。葉山はいびきをかきつづけていた。
捜査資料のなかでも、持ちだしてかまわない物の写しがおさめられている。編集長への報告のためにも、きのうからの出来事を頭のなかでまとめておかねばならない。
書類はごくわずかだった。いちばん上にあったのは、不動産登記簿のコピーだった。鎌倉市七里ガ浜静舞一番地。莉子が入っていった豪邸に関する資料だ。
表題部に、面積など物理的状況が掲載されている。それから所有権に関する事項。所有者。東京都大田区下丸子三-三十-二。キャノン株式会社......。
おやっと小笠原は思った。眠い目をこすって、もういちど文面を見やる。
「ねえ」小笠原は葉山の身体を揺すった。「警部補さん。起きてください」
「なんだ」葉山はうつぶせのままつぶやいた。「ちょっと寝かせろ。どうせ俺は所轄の刑事だ、電車で帰るんだ」
「この不動産登記簿、おかしいですよ。見てください」
「おかしいって、なにが?」
「だからこの欄を見てくださいよ」
しかし葉山は顔をあげようとしなかった。ほどなく、またいびきがきこえてくる。
やれやれ。小笠原は携帯電話を取りだした。さっきの捜査員たちの隠れ家の番号はきいてある。
登録してある番号を液晶に表示し、通話ボタンを押した。すぐに警官の声が応じる。
「はい、待機所」
待機所というのは、あの雑居ビル内の会議室をあらわす暗号だった。小笠原はきいた。「宇賀神警部はおられますか」
「警部は帰られました。引き継ぎの警部補はおられますが......」
「誰でもいいからきいてください。あの豪邸を所有する企業に問い合わせてみましたか?」
「ええと......ついさっき、鎌倉署の人間が電話したようです。担当者を探してみるという話で、折り返し電話を待っている状況で」
「本当にその会社の所有ですか?」
「というと?」
「変なんですよ。不動産登記簿のコピーを見たんですが、これって偽造じゃないですか?」
「偽造?」電話の向こうの声は緊張の響きを帯びた。「失礼ですが、どちらさまですか」
「あ、ええと、私は......。さっきまでそこにいた『週刊角川』の小笠原という者で」
「小笠原......ああ」警官の声は、ふいに軽い口調になった。「例のコーラの人」
誰かがゆうべの出来事を、引き継ぎの際に喋ったらしい。小笠原は苛立ちを覚えながらいった。「所有者がキャノン株式会社って書いてあるんです。おかしいでしょう。この企業、読み方はキャノンでも、キヤノンと表記するはずですよ」
しばし沈黙がかえってきた。だが、警官はことの重大さを認識したわけではなさそうだった。「それがなにか」
「なにかって? 不動産登記簿が偽造なら、あの屋敷は大手有名企業の所有でもなんでもない。胡散臭い、所有者不明の敷地です。監視を強めるとか、いろいろやるべきことが......」
「先方から折り返し電話があってから、こちらとしてもしかるべき対応をします」
「そんな悠長な......。もういい、わかった」小笠原は電話を切って立ちあがった。
マスターが、まだ寝ている葉山に声をかけた。「おい。こちらの記者さんが、不動産登記簿があやしいって」
葉山は顔をあげなかった。「記者さんのいうこと......? あてにならんでしょう。後でちょっと調べときますよ」
駄目だ。誰もが俺に対し偏見を持っている。まるで本気にしてくれない。
けれども、ことは一刻を争う。得体の知れない屋敷に莉子がいる。彼女の身にもしものことがあったら......。
「これ、借ります」小笠原はそういって、不動産登記簿のコピーを手にしたまま外に駆けだした。
「おい!」マスターの声が響く。「葉山。あいつ、捜査資料を持っていっちまったぞ」
かまうか。小笠原は歩道を猛然とダッシュした。いまこそフットサルやソフトボールで鍛えた脚を試すときだ。徹夜明け、丘の上の屋敷まではかなりの距離がある。しかし苦にはならない。頼れるのは自分だけだ。
思想
凜田莉子は、本館の一階にある書斎風の部屋に通された。
いつしか屋敷は静かになっていた。ここにくるまでのあいだ、廊下では誰ともすれちがわなかった。ひょっとしたら、居残っているのはわたしひとりかもしれない。いや、正確にはもうひとり。いま目の前にいる、すべての鍵を握る女が存在している。
雨森華蓮は革張りの椅子におさまり、巨大なマホガニーのデスクの向こうで引き出しを開けていた。封筒を取りだし、それをこちらに押しやってくる。
「さてと」華蓮はさばさばした口調で告げた。「これ、あなたへの報酬。ひと晩、無理をきいてくれて本当にありがとう」
莉子は封筒に目を向けた。かなりの厚みがある。だが、手は伸ばさなかった。
「華蓮」莉子は静かにいった。「報酬を辞退する代わりに、教えてほしいことがあるんだけど」
「......なに?」
「何が目的だったの?」
しばしの沈黙の後、華蓮はふっと笑った。「最初にあなたのお店で依頼したとおりよ。泊まりがけで、いくつか鑑定をお願いする。それだけのこと」
「でも......。腑に落ちないことばかりよ。わたしのほかにも鑑定家さんを呼んでいたし。あのおふたりは......」
「もう帰ったわ。ふたりとも、喜んでお金を受け取っていったわよ」
「ご婦人たちは?」
「五台のバスに分乗して鎌倉見物にでかけた。そこまでがスケジュールに含まれてたの。楽しい一泊二日のツアー。もうここへは戻ってこないわ」
「戻らない? だけど、みんなクルマで来てるんでしょう?」
華蓮はにやっと笑って、椅子から立ちあがった。窓に歩み寄って、莉子を振りかえる。
「Qちゃん。こっちにきて」
莉子はいわれたとおり窓辺に向かった。
庭園が見えている。その奥に駐車場があった。婦人たちのクルマがない。代わりに、十トンもの積載量を誇るであろう大型貨物車が何台も連なっている。
驚きとともに莉子はきいた。「クルマをトレーラーに積んだの?」
「そう。鎌倉見物を終えた後、ご婦人たちは郊外で解散になるの。そこにクルマを運んであげるのよ」
「わざわざそんな手間を......」
「かける価値はあるのよ」華蓮は窓辺を離れた。「監視してる警官に、来客のクルマのナンバーを控えられちゃ困るし」
莉子は口をつぐんで、華蓮の横顔を眺めた。
警察の監視に気づいている。いや、彼女にとってそんな状況は日常の一片にすぎないのだろう。そして彼女はいま、みずから明かした。警官に追われる身であることを。
「なぜ」莉子はつぶやいた。「わたしにそんな話を?」
華蓮はふっと笑った。「あなたなら、たとえ民間人であってもおまわりさんがいろいろ教えてくれるでしょう? 絶大な信頼を得ているものね。ハイパーインフレ騒動、西園寺響の詐欺事件、映画ポスターにまつわる連続放火事件。最近じゃパリ旅行中に食品業界のトラブルを収拾してきたって? ねえ、どんなに大きな事件の解決に貢献しても、総監賞って上限が五万円ぐらいって本当? けちくさいよね。そう思わない?」
莉子は凍りついていた。立ちすくんだまま、ただじっと華蓮を見つめていた。
華蓮は不敵な微笑とともに見かえした。その大きな瞳に燃えあがる炎が宿る。「凜田莉子。いちど会いたいと思ってた。まだ若くて、フリーラフンスの鑑定家にすぎないのに、そこまで司法に貢献してるなんてね。年下相手にこんなに熱くなったのって初めて」
「......自分の身に危険が及ぶのを承知で、わたしに依頼してきたの?」
「ええ。あなたほど魅力的な鑑定家はいないから。このところ急激に売れてきてたしね。テレ東での露出が多かったのは、やっぱ角川さんつながり?」
莉子は心拍の速まりが表情にでないことを祈った。平静を装いながら莉子はいった。
「話が早くて助かるわ。MNC74って、どんな贋作?」
華蓮の表情は一瞬、硬くなった。やがて口もとは歪んだが、目は笑っていなかった。
「やっぱり」華蓮はささやくように告げた。「警察もあなたに頼りきりなのね。そこまで明かすなんて」
「きのうからきょうにかけて、あなたが鑑定を依頼してきた物のなかにMNC74は含まれてない。どれも偽物づくりで儲けられるような物じゃなかった。婦人たちのハンドバッグや服はたしかにブランド品だったけど、あれらはぜんぶ本物だったし、あなたの所持品ではない。だからきいてるのよ。目的は何だったの?」
「鑑定家さんをゲストに招いたからって、いつも同じことをするとは限らないのよ。逆にききたいんだけど、わたし、何か罪を犯した? ただちに通報されるようなことでもした? あるいは、犯罪者だって告白した? どれも当てはまらないでしょ。わたしが話してるのは一般論。抽象的表現ばかり。そこんとこ念頭に置いといてくれる?」
あからさまに正体を晒しておきながら、まだ捕まる気は毛頭ないという意思表示だった。ならばこちらも心を閉ざして、華蓮の手の内を読むことに集中せねばならない。
莉子はつとめて無表情にいった。「ニコレッタの新商品発表の画像をもとに、あれだけの型紙が起こせるんだから、真っ当にデザイナーとして働けばいいのに」
「なんのことかしら。けど、一理あるかもね。どうしてわたし、こんなに面倒で煩わしい世界に手を染めてるんだろ」
沈着冷静に見える華蓮の心に、ほんの少しの揺らぎを感じる。畳みかけるべきときだと莉子は思った。「偽物づくりのたびに、いちいち外部の鑑定家を呼ぶのは、リスクにつながる行為だと思うけど」
「偽物づくりって? ま、仮にそんなものがあるとしたら。あなたのいう通りよ。でも客観的な意見もきかなきゃ。専門家の言葉ならなおさら。いまもそうしてるし。でしょ?」
「けど、そのオープンな性格のせいでいつかは捕まっちゃうかも」
「......それも悪くないわね」華蓮はつぶやいた。「ねえ、Qちゃん。正直者のあなたでも、物心ついたころから現在に至るまで。いちども嘘をつかなかったわけじゃないでしょ?」
答えを期待していない質問に違いない。莉子は黙っていた。
華蓮の前で氷が溶けさったように、ふいにその表情が和らいだ。「子供は嘘をつく。悪さをして、それをなんとかごまかそうとする。でも、知恵がないから大人にばれる。そんなことを、人生のなかで何度も繰り返す。やがて人は、嘘をつくことで体裁を悪くして孤立するよりは、正直に生きることで社会とのつながりを保つほうが得策だと感じるようになる。それが世間でいう成長ってやつ。じつは躾けられているだけ」
「信頼を育てているともいうけど」
「あなたみたいな人にとってはそうかもね。だけど、考えてみて。幼いころについた嘘が、その子の天才的才能ゆえに、真実としてまかり通ったら? 何年か経ってからついた嘘も、やっぱり大人に疑われることなく鵜呑みにされたとしたら、どう? そんなふうに歳月を重ねていったらどうなるか。答えは簡単。詐欺師になる」
静けさのなかで、華蓮の目に鋭さが戻った。豹のようなまなざしがじっと莉子を見据える。
華蓮は落ち着いた声の響きで告げた。「人は社会によって制限を受け、いつしか逆らわずに過ごすほうが暮らしやすいと感じるようになる。けれども、歯止めをかけられなかった人間からすれば、社会になびくなんて愚の骨頂。みんなが旗印に掲げているルールに従わずとも生きていけるから、その背景にあるモラルなんてものも受けいれられない」
「あなたにとってはルールもモラルも破り放題で、しかもお咎めもないから、その意義は理解できない。世を尊重する気にもならない。そういいたいのね」
華蓮はしばし真顔で莉子を見つめていたが、すぐに微笑を浮かべた。「一般論よ。自分のしてきたことの具体例を挙げてるわけじゃないわ」
「......華蓮。いちどでもあなたの嘘を見破る人間がいて、世間が善とみなすことの価値を証明できたら、あなたの人生は変わるかも。いずれそんなときが来るかもね。どう思う?」
無言のまま莉子を見かえしてから、華蓮は硬い顔でいった。「待ちきれないわね。けど、その状況をもたらすのは、あなたじゃないわ」
「どうしてそういえるの?」
「わたしはここでの目的を果たした。でも、あなたには何もわかってない」
莉子は反論できず、言葉を呑みこむしかなかった。華蓮は、デスクの上の封筒を取りあげた。「本当に受け取らないの?」
「......ええ。報酬に値することは、何もできていないから」
「潔いのね。噂どおりの人」華蓮は封筒を投げ落とした。「さて、比乃香と絢音にクルマをまわさせようか。駅まで送らせるわ」
「いいの。歩いて帰るから」
「ふうん。でも道わかる? 近くで見張ってるおまわりさんたちも、迎えのクルマはだしてくれないんでしょ? まだ事件が起きてないから正式な捜査じゃないし」
挑発には乗らない。莉子は背を向けた。「江ノ電の七里ヶ浜駅までは下り坂だから。ちょっと道のりが長くても、散歩には最適よね」
返事もきかず、莉子は廊下にでると、後ろ手に扉を閉めた。
扉にもたれかかり、ため息とともに天井を仰ぐ。
華蓮は満足げだ。たしかに彼女は、なんらかの目的を果たしえている。わたしには見えない。事実の断片すら浮き彫りにならない。
坂道
小笠原は、丘の上につづく車道の路側帯を、マラソンのごとく疾走しつづけていた。
この季節にしては気温が高い。陽射しがきついし、目もくらむ。それでもペースを落とす気にはなれなかった。莉子の身が心配だ。
坂道の角度が緩くなった。丘の頂に近づいている。そろそろ屋敷も見えてくるはずだ。
そう思ったとき、行く手にひとりの女性が姿を現した。
足を重そうにひきずりながら、地面に目を落としてとぼとぼと歩いてくる。趣味のいいカジュアルウェアも、やけに地味に見えた。
一瞬、誰なのか判然としなかった。その原因は、彼女のかってないオーラの弱さにあった。こんなに自信を喪失して、凹んだようすの莉子に会ったことがない。
「凜田さん!」と小笠原は声をかけた。
莉子は顔をあげると、信じられないというように目を瞠った。「ああ、小笠原さん......。どうしてここに?」
「気になって、ようすを見にきたんだよ」小笠原は莉子に近づくと、息を切らしながら立ちどまった。「怪我とかない?」
「ええ。でも、なぜそんなこときくの?」
「ほら」小笠原は懐から紙片を取りだし、開いてみせた。「これ見てよ」
「......不動産登記簿のコピーね。いまどきめずらしい。あ、古都鎌倉だから特例としてコンピュータ化されてないわけかぁ」莉子はそれを手にとり、じっと見いった。
観察は数秒だった。莉子は、はっとした顔になった。すぐさま身を翻し、いまきた道を駆け足で戻りだす。
「凜田さん。待ってよ」小笠原は必死で追いかけた。
「こうしちゃいられない」莉子は走りながらいった。「キヤノンがキャノンになってる。でも住所はキヤノン株式会社の本社ビル。この登記簿は偽物よ!」
やった。小笠原は思わずガッツポーズをとった。ついに凜田莉子と同じ思考で事実を暴いたぞ。葉山警部補たちの驚く顔が見てみたい。
小笠原は莉子に並走した。「よかったよ。まさかとは思うけど、危ない目に遭ってやしないかって」
「そこは心配なかったわ」莉子は深刻な面持ちになった。「けれど、偽の登記簿ってことになれば、屋敷にいる彼女に事情をきける。すぐ警察に通報して......」
そのとき、けたたましいクラクションとともに、十トントラックの巨体が前方から突っこんできた。
「気をつけて!」小笠原は莉子の手をつかみ、電柱の陰に引っ張りこんだ。
さほど幅のない道だというのに、大型貨物車は猛然と坂を下っていく。それも一台や二台ではない。車間距離をあけずに次々と通過していくさまは、まるで特急列車のようだった。
それらが走り去ると、小笠原はほっと胸を撫でおろした。「なんだぁ? アマゾンのお急ぎ便か」
「なら夜にしか届かないでしょ」
「まあね。いつもそうだよ、その日のうちにと言っときながら」
「あれ、ご婦人たちのクルマを積んだトラックよ。刑事さんは監視してくれてる?」
「さあ......。丘を下ったところに覆面パトは一台いるけど、ちゃんと目を光らせているかどうか」
「頼りない」莉子は吐き捨てて、また屋敷方面へと駆けだした。
小笠原は莉子を追って走りだした。何もつかめなかったのか。後手にまわらざるをえない状況のようだ。莉子を翻弄するとは......。雨森華蓮、恐るべき女だった。
トレーラー
その夜、警視庁庁舎でおこなわれた会議に、小笠原も出席した。
予想できていたことだが、場の空気は最悪だった。しかめつ面をした幹部たちを前に、宇賀神警部をはじめとする捜査員らがしきりに弁明しては、ごくわずかな成果を強調する。その繰り返しだった。鎌倉署の面々も、牛込署から出向いてきている葉山も、黙りこくって視線を逸らしあってばかりいる。
小笠原がけさ、莉子とともに屋敷に着いたとき、門は固く閉ざされていた。すでに無人になっていることは、敷地の外からでも窺い知れた。ただちに携帯電話で通報したが、警察の動きは鈍かった。自分が信用を失っているせいかと思い、莉子に代わってもらったが、結果は同じだった。やっとのことでパトカーが到着したのは正午すぎだ。
いま、会議の席では罵り合いが繰り広げられていた。幹部の代表、馬面に吊りあがった目の管理官が怒鳴っていた。「不動産の登記簿が偽物であることに気づいていれば、ただちに令状をとって家宅捜索に踏みきることも考えられた。これは現場の落ち度だ」
宇賀神が弱々しい声でいった。「登記簿については鎌倉署が調査したことでして......」
鎌倉署員のひとりが、むっとしたようすで発言した。「朝になって会社の営業時間を迎えてから問い合わせろというのが、本庁のかたの指示でした」
会議はさらに紛糾した。怒声や罵声が飛び交うなか、小笠原はうんざりした気分で床を見つめた。
あの豪邸と二千坪の敷地は、キャノン株式会社の所有物ではなかった。データベース化されていない不動産登記簿というものは、法務局の出張所で申請書を提出すれば閲覧が可能だ。厳密には、職員の見ている前でファイルを広げて読むしかないが、ずっと監視されているわけではない。職員が電話にでたり、ほかの業務に席を立った隙に、閲覧者が書類を入れ替えることは不可能ではない。過去にも地上げをめぐる詐欺事件で同様の行為が確認されている。
きょうの鎌倉署の調べによると、当該の不動産登記簿はひと月ほど前に、二十代の女性によって閲覧されていることがわかった。申請書に記入された氏名も住所もでたらめだった。その正体が雨森華蓮であることは、いまや誰の目にもあきらかだったが、証拠は何ひとつ存在しない。応対した職員も彼女の顔や特徴を記憶していなかった。
では、豪邸の真のオーナーはいったい誰だったのか。これもきょうになって、横浜に拠点を持つ建設会社の社長だとわかった。だが、彼は多額の負債を抱えていたため、ひと月前に屋敷の売却をきめていた。雨森華蓮は一流企業の名を騙り、代表取締役秘書を装ってこの社長に接触、まんまと偽の売買契約を交わした。むろん支払いはおこなわれていないが、オーナーはいずれ入金があると信じきっていたという。
売買契約は実のところ非成立なわけで、豪邸は依然として建設会社社長の所有物ということになる。しかし華蓮は、譲渡が無事果たされたように装っていた。それが、くだんの偽の登記簿へのすり替えだった。
こうして、大手有名企業の保有する土地と偽装することにより、華蓮は巧みに事実の発覚を遅らせていた。けさの問い合わせの例をみるまでもなく、大企業の組織は複雑だった。代表番号からほかの部署にまわされ、さらに担当者が呼びだされて事実が確認されるまで、途方もない時間がかかる。カメラメーカーにおける不動産取得の有無という、会社の例外的な事業についての確認なら、なおさら困難だった。
きょうの午後、ようやく令状が発行され、捜査員は邸内に踏みこんだ。あきれたことに、本館のいたるところにCanonのロゴが入ったポスターや機材が用意されていた。ガサ入れ時には意味をなさなくても、それ以前に捜査員が訪問者を装って内偵した場合、事実の発覚を遅らせる効果がある。華蓮は何事にも用意周到だった。
彼女はなぜそうまでして、この豪邸を一時的にも自分の物にする必要があったのか。理由は、きのうからきょうにかけてのイベントを実施せんがためとしか思えない。すなわち、何人かの鑑定家を招いたうえで、婦人たちの前で奇妙な鑑定を依頼するという、まったくもって理解不能なイベントだ。目的はさっぱりわからない。
管理官は額に青筋を立てていた。「屋敷を訪れていたという、百人前後の婦人の行方は?」
「不明です」宇賀神は額の汗をぬぐいながらいった。「来客たちのクルマはトレーラーで外に運びだされたので......」
「屋敷に出入りした十トントラックの群れを、なんの疑いもなく見過ごしたっていうのか!」
「ナンバーは照会しました......。神奈川県内の運送会社の所有で、やはり企業名を騙った雨森華蓮に依頼を受けていました。トレーラーは正午に円覚寺近くの駐車場ですべてのクルマを下ろし、集合した婦人たちに返却されたようですが......。われわれがその事実を確認したころには、トレーラーは業務を終えて会社のガレージに戻ってました」
「最初から尾行していれば、こんな失態を演じずに済んだ。きくところによれば、週刊誌の記者が不動産登記簿の怪しい点に気づき、指摘していたそうじゃないか」
何人かが小笠原を振りかえる。誰もが苦い表情をしていた。
「それが」宇賀神は弱りきったようすで、つぶやくようにいった。「そのう、朝になって監視体制を交替要員に引き継いだばかりで、どの通行車両に対象を絞るべきか、各班の認識が統一されておらず......」
「言い訳はいい。鑑定家を送迎したBMWは? 持ち主は判明したか」
「盗難車でした......。ドライバーの熊切比乃香、および助手席にいた天笠絢音は、雨森華蓮と行動を共にしている、実質的に一味のメンバーといえる存在ですが、彼女たちの足取りもつかめません。雨森とともに行方知れずです」
「まったく」管理官は頭をかきむしった。「雨森華蓮の一味は逃亡、婦人たちは素性も判明しない。三名の鑑定家ぐらいは押さえてあるんだろうな」
葉山がいった。「われわれが協力をお願いした凜田莉子先生のみ、すぐに呼びだすことが可能です。折橋智哉先生、須磨康平先生に関しては遠方在住につき、連絡してみないことにはわかりません。監視班がノーマークで帰してしまったらしいので」
私たちのせいだっていうのか。ひとりが声を荒らげると、またしても会議は喧騒に包まれた。誰もが声を張りあげて怒鳴りあい、もはや収拾がつかなくなった。
小笠原は席を立った。これ以上、話をきいても無駄だ。実際に雨森華蓮と渡りあったひとりの女性に会うほうが、ずっと有意義に違いない。彼女とは今夜、新宿アルタ前で待ち合わせる約束だった。
アルタ前
その夜、新宿アルタ前の雑踏のなかで、小笠原悠斗は凜田莉子と再会した。
近くに評判のいいフレンチレストランを見つけてあった。以前から莉子を誘おうと思っていたが、ついに念願のときがきた。
しかし莉子のほうは、鎌倉での失敗もあってひどく落ちこんでいるようすだった。きょうは店を閉めていたはずだが、あまり眠っていないのか、どこかやつれた顔をしている。
ロングコートにブーツ姿の莉子は色白で華奢なせいもあって、きょうのように憂いのいろを漂わせていると、病弱そうに見えたりする。儚げな印象を漂わせてたたずむさまに秋という季節を感じる。自信に満ちているときには鋭い光を放つ大きな瞳も、いまは輝きを失い伏し目がちになっていた。
小笠原はいった。「元気だしていこうよ。いまから行く店のアンギーユは最高だよ。すっきり爽快になるよ」
莉子は力なく微笑した。「アンギーユってうなぎよね? ありがとう、誘ってくれて。でも小笠原さん、体力あるのね。きょう徹夜明けで会社に出勤したんでしょ?」
「若手記者は身体が資本だしね。ついでにボールが友達だし」
「社内フットサルの大会ってもうすぐだっけ」
そう。小笠原がうなずいたとき、頭上のアルタビジョンから女性アナウンサーの声がきこえてきた。「横浜F・マリノスが前半の一点を守りきりました。十二分、サイドから攻めて、最後は松田が押しこんだかたち......」
小笠原は思わず笑った。「僕も活躍したいよ。それしか期待されてないから。さあ、店にいこう」
「そうね」莉子も歩きだした。
アルタ前の混雑を抜けだそうと人を掻き分けて進むなか、スポーツニュースの声が響く。
「NHK杯、女子フィギュアの二日目。ISUグランプリシリーズ出場資格でシード選手となった如月は、シーズンベストスコアで......」
ふいに莉子が足をとめた。
小笠原はきいた。「どうかした?」
莉子は。大きな瞳をさらに見開いて立ちすくんでいた。
「いま」莉子はつぶやいた。「シードって......。小笠原さん。シードってきいたら何を連想する?」
「シード? なんだろ。コンタクトレンズ。ガンダム。あと、ファイナルファンタジー8にでてくる特殊部隊。任務に必要だからって社交ダンスまで習っているっていう......」
「シード選手!」莉子はいきなり声を張りあげた。「いまニュースはそういったのよ!」
「あ......ああ。それがなにか?」
「そうよ......シード選手。ああ、そうだわ。あれも、それからあれとか、あれなんかも......そういうことだったんだわ」
「いったい何の話だい?」
莉子は険しい顔になると、小笠原の腕をむんずとつかみ、横断歩道に向かいだした。
「待ってよ」小笠原はいった。「店は向こうだよ。なぜ西口方面に行く?」
「小田急線の新宿駅に行くのよ」
「なんだって?」
「明日の特急の切符を予約するの」莉子は歩を早めた。「急いで。午前中は銀行とホームセンターにも寄らなきゃならない。そしてお昼すぎには、どうあっても箱根に着かなきゃ」
秘密
箱根も平日は空いている。晴天の昼下がり、美術鑑定家の折橋智哉は、きのう知りあったばかりの女性とともに温泉宿のロビーにいた。
あまり高級な旅館は人目につく。ここはエントランス脇にジュースの自販機が並ぶなど、素朴な外観だが、部屋は綺麗だし個室露天風呂仕様だ。大浴場に行かなくても、連れの女性といい雰囲気になれる。一階のレストランで食事をするだけの約束だが、部屋に連れこめるのは確実だ。細工はすでに施してある。
ソファに並んで座りながら、折橋はカバンから取りだした缶コーヒーを女性に手渡した。
「そこの自販機で買った。どうぞ」
「ありがとう」女性はにっこりと微笑んで受け取った。「いいところを知ってるのね、折橋先生」
「先生はよそう。智哉さんって呼んでくれれば嬉しいんだけどな」
そういいながらも、折橋は相手の女性の名前を意識していなかった。ふたりきりになれば、女性など誰でも一緒だ。問題になるのは年齢と顔、プロポーションだけだが、きょうはまずまずといったところだった。
あの屋敷で会った年増の婦人たちのなかでは、この女性がいちばん若くて美人に違いなかったが、外に誘いだしてみると平均レベルだった。いたって普通、どこにでもいるOL風の女にすぎない。最近の人妻の収穫はいまいちだ。やはり未婚の若い女がいい。とはいえ、雨森華蓮には洟もひっかけられなかったし、とびきり美人の凜田莉子にも相手にされなかった。
凜田莉子。あれはいい女だった。さいわい、同じ鑑定業を営んでいる。そのうち仕事関係で、ばったり出会うこともあるだろう......。
そう思いながら、手もとの缶コーヒーを開けて飲もうとしたとき。エントランスの自動ドアが開いた。ニットチュニックのレイヤードを着た、スタイルのいい女が入ってくる。自販機にちらと視線を投げかけてから、人を探しているようにロビーを眺め渡す。
美人だな。それも見たことのある顔......。
折橋は思わず口にふくんだコーヒーを吐きだしそうになった。身体を起こし、げほげほとむせた。
隣りの女が心配そうにたずねてきた。「だいじょうぶ? 智哉さん」
まさか、夢じゃなかろうか。いま連想したばかりの女がこちらに目をとめた。まっすぐに歩いてくる。
「こんにちは」凜田莉子は、なぜか不敵に見える目の輝きとともにいった。「きのうはどうも。折橋先生。それと、鎌倉のお屋敷の階段ロビーでお会いした......」
「ああ。ええと」折橋は激しく動揺していた。連れの女性の名前が頭に浮かばない。あわてて記憶からひねりだす。「竹添志保さんだ」
志保は目を丸くしていた。「あなたは鑑定家の......凜田先生? どうしてここに?」
莉子がひとりの若い男を連れていることに、折橋は気づいた。ルックスはそれなりにいいが、どこか頼りない感じは、あの須磨という骨とう商を連想させる。しかし別人だった。年齢はもっと若そうだ。
「紹介します」莉子は向かいのソファに座りながらいった。「こちらは小笠原悠斗さん。『週刊角川』の記者」
「小笠原です」男はおじぎをしてから、莉子と並んで腰をおろした。「よろしくお願いします」
志保が焦りだした。「き、記者さん? まさか......あのう、わたし、これで失礼します」
不倫をスクープされたのではたまったものではない。折橋もうわずった自分の声をきいた。「私とこの女性とは、そのう、なんの関係もなく......」
莉子は冷静な表情を浮かべていた。「折橋先生。いまさらそんなこと......。志保さんにもぜひ話をきいていただきたいんです。あ、おふたりの関係には興味ないですから、ご心配なく」
折橋は志保を見た。志保も折橋を見かえした。
その志保の手におさまった缶コーヒーに目がいく。未開封だった。折橋はすかさずそれをひったくり、蓋を莉子に向けないよう注意しながら差しだした。「凜田先生。まずはこれでも飲んでゆっくりしたらどうかね。そこの自販機で買った物だよ」
志保は不満げにいった。「それはわたしの......」
「いいから」と折橋は志保を制して、莉子にすすめた。「どうぞ」
莉子はなぜか手を差し伸べようとしない。缶を受け取ったのは彼女ではなく、小笠原のほうだった。
「いただきます」と小笠原は笑った。「ロマンスカーが思いのほか混んでて、喉が渇いたんで」
「あ......」莉子は困惑したようすで、小笠原の顔を見た。
だが、小笠原はすでに缶をあおっていた。
折橋の心拍は速まりつつあった。いまの莉子の反応。まさか、すべてお見通しというわけでは......。
平静を装いながら折橋はいった。「まさかここに来るとはね。どうして私の居場所を......」
莉子はじっと見つめてきた。「きょうの宿泊場所、予約電話をいれてたじゃないですか」
「......あの広告の切り抜きなら、私がどれを選んだか知らないはずだろ?」
「いいえ。教えてくださらなくても、わたしにはあなたの行き先が予測できてました。あなたが電話をかけていたとき、切り抜きの束のいちばん上は石川県の和倉温泉の広告だった。電話を終えた後、あなたは手もとの切り抜きをテーブルに置き、隠すようにその上に束を載せた。束をふたつに分けては、上下を入れ替えて何度か混ぜた。トランプでいえばシャフルではなくカットですね。でもその混ぜ方ならどれだけ繰り返そうとも、あなたが使った切り抜きは和倉温泉の切り抜きのひとつ上にあるんです」
「ああ。きみはその後、切り抜きの束を見たんだったな。それでここの広告とわかったわけか。鋭いね」
「折橋先生。鑑定家としては尊敬してますけど、お金持ちのご婦人と不倫関係を結んでお小遣いを得ようとするのは感心しません。雨森華蓮からの依頼を受けたのも、裕福な女性が集まるときいたからでしょう? 最初からどなたかひとり誘うつもりだったんですね。じゃなきゃ、宿泊施設の広告の切り抜きなんて持ち歩かないでしょう」
「ば......馬鹿いえ。私と志保は、そのう、それぞれの家庭環境はともかく、本気で愛し合ってだな......」
「なら女性を眠らせて、何かをしようなんて思わないはずですけど」
志保は妙な顔をした。「眠らせるって? なんのこと?」
そのとき、小笠原がソファの背に身をあずけ、いびきをかきだした。
莉子が呼びかける。「小笠原さん? ねえ、ちょっと」
身体を揺すったが、反応はない。ぐっすりと眠りこんでいる。
小笠原の手から缶が落ちそうになっていた。莉子はそれを取りあげて眺めまわした。「蓋のわきに小さなハンダの痕がありますね。注射器で睡眠薬を流しこみましたね」
まずい。折橋は動揺を禁じえなかった。「な......あのう、どうして......」
「蓋をわたしに向けていなかったのに、なぜ気づいたかって? あなたはそこの自販機で買ったとおっしゃいました。たしかに同じ缶コーヒーが売られてるけど、販売価格は百二十円じゃなく百円でした。百円の自販機って、製造日から三か月以上経過した物を売ってるんです。この缶の底には消費期限が記載してあります。ずっと先の日付。つまり製造したばかりです」
なんと......。エントランスを入る寸前、一瞥しただけの情報を心に留めていたのか、信じられないほどの洞察力だった。
「ご、誤解だ」折橋は必死に弁明した。「そのう、私も知らなかったんだよ。たしかに自販機で買ったんだ。なあ、志保。きみからも何かいってくれ」
だが、志保は冷やかな目を向けてくるばかりだった。
折橋はすっかり平静を失っていた。
終わりだ。不倫ばかりか、いかがわしい小細工を弄していたことが週刊誌の記事になったら......まさしく身の破滅だ。
莉子はすました顔で告げてきた。「おふたりとも、事実の解明にご協力をお願いします。いまさら断る気にはならないと思いますが」
雨森華蓮をしのぐほどの鋭い目つき。折橋はすくみあがった。
志保がきいた。「おふたりって......。わたしにもなにか......?」
「ええ」莉子はうなずいた。「秘密を打ち明けていただきます。ご安心ください。わたしの説明をきいた後なら、それを隠し通すのは無意味だとお判りいただけるはずです」
シード
小笠原はぼんやりと目を開けた。
寝ていたようだ。畳の上に仰向けに転がり、毛布をかぶっていた。ここはどこだ。窓の外から陽の光が射しこんでいる。まだ空は明るい。
はっとして跳ね起きた。そうだ、箱根の旅館のロビーにいたはずだ。なぜか急に眠気が襲ってきて......。
辺りに視線を配る。広々とした和室だった。ふと、莉子がこちらを見ているのに気づく。
「あ」莉子はほっとした表情を浮かべていた。「目が覚めたのね。よかった」
「り......凜田さん。ここはいったい......?」
「旅館の一室。従業員さんがここまで運んでくれたのよ。昼間っから酔いつぶれてると思ったみたい」莉子はくすりと笑った。「ちょっと待ってて。いま実験中だから」
実験。何をしているのだろうか。
座椅子に折橋と志保が腰を下ろしていた。ふたりの前で莉子は、直径二十センチほどの丸い缶に手をいれ、なかを掻きまわしている。がさがさと紙の音がした。
莉子は無言で缶を差しだした。志保が怪訝な面持ちのまま、缶に手を差しいれる。
志保の手がつかみだしたのは、千円札の束だった。すぐに志保はそれを後ろにまわして隠した。
その直後、莉子がきっぱりと告げた。「二十七枚」
眉をひそめながら、志保は札束をふたたび身体の前に戻し、一枚ずつ数えだした。
「二十四、二十五、二十六......」志保は目を丸くした。「二十七」
折橋は驚きのいろを浮かべていた。「また当たった。どうしてだ」
志保もうわずった声をあげた。「凜田先生、あのとき当てられなかったのに。折橋先生も」
「あ......」折橋はばつの悪そうな顔になった。「いや、私は、そのう......」
莉子はにっこりと微笑んだ。「折橋先生。弁解なさらずとも、もうわかってますから。先生もディナーにひとり呼びだされたときに、美術鑑定とともにこの実験を強要されたんでしょう? 失敗して恥をかいたから、わたしや須磨さんの前では、そんなことは頼まれなかったと嘘をついた。あと、この実験もご記憶でしょう?」
そういって莉子は黄緑いろの陶器の灰皿を志保に押しやった。志保はそれだけで、どんな実験なのか理解したらしい。ハンドバッグに手をいれて、小物をひとつつまみだした。
莉子は顔をそむけている。小物が何なのかを見てはまずいらしい。
志保が小物を灰皿に投げいれた。それは鍵だった。ちゃりんと金属音が響く。
そのあいだ、莉子は音に耳を傾けているようすだった。志保が灰皿から鍵を取り除き、ハンドバッグに戻す。莉子はまっすぐ前に向き直った。
ただちに莉子は告げた。「鍵。三つ葉型で、片方だけギザギザがあるピンシリンダーのタイプ」
折橋はあんぐりと口を開けた。「どうして......。鍵の種類や形状までわかるなんて。本当に音で判別がつくのか?」
「いいえ」莉子は首を横に振った。「わたしもそこが疑問だったんです。鑑定能力どころか、人間の知覚で察知しえないような実験を、どうしておこなう必要があったのかって。けれども一方で、これらすべての実験はトリックによって成功したように装うことが可能だとも思いました。そして、そこには重要な意味があったんです」
「トリックで成立可能って......? どうやったんだ?」
莉子は缶を折橋に手渡した。「なかのお札の番号をよく見てください」
「番号......」折橋は札束を取りだして一枚ずつ眺めていった。「HZ050168A、HZ050169A、HZ050170......。なんてこった、そうか。続き番号か」
「十万円を新札の千円札で下ろせば、連番の百枚が手に入るんです。一枚ずつ折り目や皺をつけて古いお札に見せかけて、番号順にしたうえで、これぐらいの大きさの缶におさめます。やってみればわかりますけど、直径二十センチの筒のなかでは、かき混ぜてもお札の順番は変わらないんです。実験において、札束がつかみとられた後、缶をちらっと覗いて残りの一番上の番号をたしかめれば、枚数はおのずからわかります」
「聴覚の実験のほうは?」
「その灰皿、ホームセンターで買ってきた材料で細工した物です。裏返しに伏せてみてください」
折橋がいわれたとおりにした。「おや。ぼうっと緑いろに光ってる」
「そうです。白いはずのリチャードジノリの皿がなぜ黄緑いろだったか。これがその疑問の答えです。夜光塗料が塗ってあったんです。外の陽射しの下、小物を投げ落として数秒後に取り除いても、身体で日光を遮って皿に影を落とせば、小物のシルエットがおぼろに浮かびあがります。事前に知っていなければ判別できないくらいに、うっすらと見えるていどですから、周りの人間は気づかない」
渋い顔になった折橋が、皿を押しやった。「じゃあ、ご婦人たちの所持品を集めて、持ち主探しをさせたあの実験も......」
「ええ。あなたもわたしも、まじめに取り組んだだけ馬鹿をみたわけです。あれは、ご婦人たちに配られた封筒に、小さく通し番号が記してあったに違いありません。封筒は最前列の席のご婦人らに、端から順に配られましたから、回収された封筒の番号を見るだけでどの席の人の所持品がわかったんです」
折橋の顔は、みるみるうちに紅潮しだした。憤りのいろを浮かべて吐き捨てる。「どういうことなんだ。トリックを使って切り抜けることが正解だったってのか?」
「いいえ。トリックなんて、わたしたち鑑定家がすべきことじゃありません。すべてはシード選手に花を持たせるために仕組まれた段取りなんです」
「シード選手?」
「そうです。鎌倉のお屋敷で折橋先生とわたしは、それぞれご婦人たちの前に呼ばれ、いくつかの鑑定を依頼されました。そして、できるかぎりの難題をクリアした。でも、わたしたちにも不可能なことがある。つかみだしたお札の枚数を一瞬で見極めるのも、皿に落ちる音で小物が何なのか判別するのも、所持品から持ち主を割りだすのもうまくいかなかった。ところが、この三点において、成功した人がいたとしたら?」
「......なるほど」折橋は神妙にうなずいた。「シード選手ってのはそういう意味か。私たちに無理だったことを実現できれば、そいつが一番だと見なされる。まして鑑定家の肩書を名乗っていれば、私たちにできたことは、そいつもできて当然と誰もが信じる。本当はできなくてもな」
「その通りです」莉子が小笠原に目を向けてきた。「MNC74ってのは、物じゃなかった。ご婦人たちに最も信頼される鑑定家。今回、雨森華蓮がつくりだそうとしたのはそれよ」
「なんだって!?」小笠原は驚きを禁じえなかった。「どうしてそんな奴をでっちあげる必要があったんだ?」
「ご婦人たちに偽ブランド品を売るためよ。華蓮はこれまでに多種多様な偽物を大量生産したけど、いろんな国の警察が目を光らせているから、容易にさばけなくなった。消費者が信頼する流通ルートに卸せない以上、自分で販売するしかない。そのためには、どうやって消費者をだますか、偽物を本物と信じさせるかが課題になる。華蓮自身、かなりの鑑定能力を持ってるけど、彼女がみずから即売会を開くわけにはいかない。その時点で警察に捕まっちゃうから」
折橋が驚きの目で志保を見つめた。「そうか......。きみらご婦人はみな、その即売会に客として集められる会員候補だったわけだ。華蓮は金持ちのご婦人たちを囲いこんで、偽ブランド品を売りまくるつもりだったんだよ。鑑定家が主催するブランド品即売会なら、百パーセント信用できる。なにせ、真贋を見分げるプロなんだからな」
莉子はいった。「でも、鑑定家を育てるのは簡単ではない。ご婦人たちの前で、いかさまの鑑定ごっこを演じたところで、うまくいきっこない。ご婦人の質問に答えられなかった時点で、知識がないとみなされるから」
「だから、そこは私たちにやらせておいて、しかるべきのちにシード選手が登場した。彼は私たちに不可能だったパフォーマンスを成功させることで、婦人たちの信頼をかっさらったんだ」折橋は莉子を見つめた。「シード選手ってのは須磨だな?」
「ええ」莉子はうなずいた。「わたしたちの前では失敗ばかりだといってたけど......」
「嘘だな。本物の鑑定家の前では、知識があるようには装えない。だからむしろ無知をさらけだして、警戒されないように振る舞ってたんだ。もちろん、ご婦人たちの前での態度は別物だったろう」
折橋が志保に目を向ける。
莉子も同様に、志保をじっと見つめた。「もう話してくれますね、志保さん?」
志保は困惑のいろを浮かべながら、ささやくようにいった。「須磨先生は......とても紳士的な人でした。控え目で、おとなしくて、無口で......。余計なおしゃべりはいっさいしなかった」
「ふん」折橋が不快そうに鼻を鳴らした。「喋れなかっただけだよ。何も知らないんだからな」
「けど」志保は真剣な面持ちで告げた。「おっしゃるとおり、折橋先生や凜田先生にできなかったことを成し遂げたから......。わたしたちのあいだでは、須磨先生が一番だって評判になってました。近日中に彼の主催するパーティーがあるって話だったから、みんなででかけようって」
莉子は険しい顔つきになった。「ようするに即売会ですね。日程や会場はご存じですか?」
「ええ」志保はさばさばした態度をしめした。「絶対に口外するなっていわれてましたけど。でも、もう構わない。何も信じられないから」
志保はハンドバッグを開けると、なかから一枚の葉書を取りだした。
それを受け取った莉子がつぶやいた。「招待状ですね。リゾートフジ・レイクホテル。ちょうどよかった、山中湖に行きたかったの。紅葉も見ごろらしいし」
即売会
山中湖畔にあるリゾートフジ・レイクホテルの宴会用広間は、大勢の婦人たちで賑わっていた。百人近い出席数ということは、あの鎌倉の屋敷に招いたほぼ全員がこちらにも顔をだした計算になる。
つくづく、雨森華蓮の慧眼には頭がさがる。彼女は名簿業者から手にいれたゴールドカードもしくはプラチナカード会員のなかから、住所、年収、家庭環境、最近の買い物履歴など限られた情報に基づいて。カモになりそうな既婚女性を選びだした。いわく、派手好きで見栄っ張り、ひとりっ娘として育てられ、持ち家もしくは高級マンション住まいである。東海三県出身で父親が自営業者ならなおよし。
それらの条件に沿った人選がいかに的確なものだったかは、この会場を見ればわかる。
ガラス張りの窓の向こうにそびえる、雄大な富士の姿には目もくれず、誰もが争うように棚の商品を手にとり、試着しては鏡の前に立つ。なにもかも飛ぶように売れていた。洋服、ハンドバッグ、靴、アクセサリーの四つのエリアの中央に位置するレジはフル稼働状態だった。
そのレジはアルバイトで雇った若い女性にまかせていた。正直なところ、じっくり会話を楽しみたい相手はそのレジの女性ぐらいだ。見るからにあさましい年増どもとは目も合わせたくない。しかしそんな本音は、仕事が終わるまでは包み隠しておかねばならない。
須磨康平は、営業用のスマイルを心がけながら場内を歩きまわっていた。どこに行っても声をかけられる。須磨先生、このドレスどうかしら。どちらの靴が合うと思います? わたしの髪にはやっぱりハンドバッグはこっちかしら。それともこっちのほう?
偽ブランド品で全身を固めてれば世話はない。内心毒づきながら、うわべだけは笑顔を取り繕う。須磨はいった。「奥さまにはシャネルってことはないですよ。こちらのエルメスのほうが気品という点でぴったりです」
「まあ」婦人は上機嫌だった。「わたしの思ったとおり。さすが須磨先生。じゃ、これにしておくわ」
嬉々としてレジに商品を運んでいく婦人を見送りながら、須磨はひそかにため息をついた。
華蓮の読みどおりだ。誰も本格的な鑑定を依頼してはこない。
一週間前、あの屋敷で周到に鑑定家としてのキャラを受けいれさせた以上、もう鑑定は必要なくなる。華蓮はそういっていた。須磨康平が厳選した商品を取りそろえての即売会となれば、みな夢中で買いあさる。女性は自分を飾ることにしか興味を持たない。真贋についていったん信頼を寄せたなら、後は盲信するのみ。すべては華蓮が断言したとおりだった。
田舎の骨とう商としてさっぱり芽の出なかった俺に、華蓮は突然声をかけてきた。彼女は、俺のなかに眠る詐欺師としての資質を見抜いたうえで、高く評価しているようだった。
華蓮の計画をきいたときには正直、不安もあった。うまくいくだろうかと懸念した。けれども、すべては危惧にすぎなかった。三つのトリックを演じただけで、俺は万能の鑑定家として揺るぎない信奉を集められた。
今後もあの女と組もう。より大きな信頼を得るためにも、売り上げを伸ばしておくにかぎる。
須磨は営業活動を続行した。デパートの店員のように婦人にたずねる。「お困りですか?」
「ああ、須磨先生。このヴィトンのパピヨンは、もう持ち歩くには古すぎるでしょうか?」
「なら」須磨は商品名すらよくわからない、ただ高値の札がついたハンドバッグを手にとって、婦人にすすめた。「いっそのことこっちにすべきでしょう。お美しさに磨きがかかりますよ」
別の女性の声がきいてくる。「このニコレッタのワンピース、エルミーニアならもっとよかったんですけど」
やれやれ、忙しい。須磨はろくに視線も向けずに答えた。「エルミーニアより、そのワンピースのほうが絶対によくお似合いですよ」
「そう」女性の声は冷やかな響きを帯びた。「エルミーニアはニコレッタのワンピースの別名ですけど。何と何を比較してその鑑定結果なんですか、須磨先生?」
ぎくりとして、須磨は立ちすくんだ。
出席者のわりにはずいぶん若い声。でありながら落ち着いた物言い。二度と聴くことはないと思っていた自信に溢れる声の響き......。
須磨は振りかえった。凜田莉子が、ハンガーに吊るしたワンピースを手にして立っていた。
「り......凜田さん」須磨は呼吸困難に陥りそうだった。「き、きみも、ここに来たのかい?」
莉子の大きな瞳がまっすぐに見据えてきた。「須磨先生。ひょっとして、これが本物のニコレッタではないと認識しておられるんですか。なら正しいですね。飯田橋にある八木沢さんの工場で作られた物にうりふたつです。なぜ骨とう商なのにお洋服を鑑定なさるのか、そこんとこがよく判らないですけど」
額に汗がにじむ。須磨は震える声できいた。「なにをいってるのか......さっぱりわからないよ。八木沢って誰?」
「燃やしてなかったのね」莉子はハンガーをラックに戻した。「処分したのは、これ以前に作らせた台湾製だったわけか。出来が悪かったからあのタイミングで焼却して、八木沢製の偽物がもうこの世にないように装った。おかげでニコレッタの偽物が大量にでまわっているって噂も流布されないし、市場価格も落ちない。まったく、華蓮もよく考えるわね。まんまと偽物に仕立て上げられた気分はどう? MNC74さん」
「MNC......74って?」
須磨が面食らったそのとき、あわただしい足音がきこえた。婦人たちの悲鳴があがる。
男の怒鳴り声が響いた。「警察だ。全員そのまま。動いちゃいけません」
制服と私服が入り混じって、津波のように会場内に押し寄せる。出席者を圧倒する数の男たち。誰もが猪首の屈強そうな体格だった。
ぶつかりあったら、ひとたまりもない。須磨はあわてて逃げだそうとした。
ところが須磨は、自分の背後にこそ敵の本陣があることを知った。司令塔らしい、階級の高そうなスーツ姿の男たちがずらりと並んでいる。須磨はひるんで、すくみあがるしかなかった。
「須磨康平だな」中央の男が告げた。「警視庁捜査二課の宇賀神警部。逮捕状と捜索差押許可状がでている」
しんと静まりかえった場内。婦人たちの目がこちらに向けられている。射るような視線が一箇所に集中する。その対象はまぎれもなく自分だった。
複数の警官たちに腕をひねりあげられる。須磨はみずから情けないと感じる声をあげた。
「すみません。ごめんなさい。でも僕は、共犯にすぎないんです。ぜんぶ雨森華蓮に頼まれてやったことです」
「知ってるよ」宇賀神は冷たく言い放った。「共犯っていうより、体よく操られた道具にすぎないんだよ、あんたは。彼女がこしらえた七十四番目の偽物だ」
「七十四......偽物?」
「凄腕の鑑定家だとご婦人たちに信じさせられれば、誰でもよかったのさ。さて。取り調べは署に行ってからだが、いますぐきいておきたいことがある。雨森華蓮はどこにいる」
「......彼女は、ここにはいないよ。本当だ」
「それもわかってる。わざわざあんたを代役にして即売会を主催させてるんだ、近くにいるわけがない。だが売り上げは彼女に渡すはずだろう。落ち合う場所は?」
「金の受け渡しなんかない。レジを調べてもらえばわかる。クレジットカード決済、それもプロパーカードの銀行提携型即時入金ってやつを利用してる。ぜんぶ彼女の口座に自動的に振りこまれる仕組みだ。もちろん口座は幽霊会社の名義だから、追跡したって所在はあきらかにならないよ」
宇賀神の顔が険しさを増した。「あんた、協力的な人間だと予想してたんだがな」
「きょ、協力はしますよ。ええ。でも連絡先は知らない」
「これらの商品を搬入したはずだ。やりとりがなかったとはいわせない」
「向こうからの一方的な連絡だったんだよ。会場の準備も、在庫の写真をもとに進めたんだ。商品が届いたのはけさになってからだ」
「その写真ってのはどこにある」
「レジに......。放してくれよ、見せるからさ」
宇賀神が警官たちに目で合図する。須磨はレジにまで強制連行され、そこで解放された。
周囲の婦人たちの視線が、時間の経過とともに冷たさを増す。気温がさがっていくように感じる。レジの女性も怯えきった顔で凍りついていた。須磨は愛想笑いを投げかけたが、女性は無反応だった。
須磨は震える手でレジカウンターの下から、スポーツバッグを引っ張りだした。それを開けて、アルバムにストックした写真をみせる。
写真の撮影はいずれも屋外でおこなわれていた。アスファルト上に梱包状態の洋服やハンドバッグが置いてある。見下ろす角度で撮影されているため、背景はまったく写っていない。
刑事たちがカウンターに群がってきた。宇賀神がアルバムのページを繰る。
宇賀神は上目づかいにこちらを見た。「これはどこだ」
「知らないって」
「運送業者は? どこから運んだといってた?」
「京都の倉庫だってさ。でも、そこに搬入した業者はわからない。そうやって、互いに知り合いでもない業者をリレーさせて運搬するのが常でね。元はたどれないよ」
いかつい顔の一団は沈黙した。宇賀神も写真を見つめながら、苛立たしげに唸った。
「京都ってことは、少なくとも西日本からの輸送か......」
そのとき、莉子がアルバムを覗きこんで、すぐさま一枚の写真を指先でぽんと叩いた。
「関西は偽装ですよ。見ればわかります。ここからなら、大宮まで行って新幹線で北上ですね」
宇賀神が妙な顔をして、その写真に目を落とす。須磨もそれにならった。
山積みになった靴の写真。ほかに情報はない。いや、あることはある。アスファルト上のかすれかかった小さな文字。『歩道橋まで一〇〇m』と読める。それだけだった。
歩道橋なんて全国津々浦々、どこにでもあるだろうに......。
ところが驚いたことに莉子は、すでに場所を特定したらしい。踵をかえして歩きだしていた。「移動にかかる所要時間は五時間ってとこ」
彼女に対する警察の信頼は厚いようだった。宇賀神は真顔で莉子を追いかけた。「目的地はどこですか。現地所轄に連絡をいれておきます」
まるで姫に率いられた武家の行列のように、私服警官たちはぞろぞろと莉子とともに遠ざかっていく。仕事はそちらにしか残っていないといいたげな振る舞いだ。
「......おい」須磨は呆気にとられていった。「もう僕に興味はないのかい」
口座
厚いカーテンを閉め切り、陽の光もほとんど差しこまないアパートの一室の暗がりで、雨森華蓮はノートパソコンのモニターを眺めていた。
クレジットカードによる口座への入金が止まった。最後の送金から五分が経過している。まだ即売会は開催中のはずだ。それなのに、分刻みの更新はゼロの表示がつづいていた。吹いていた風がぱたりと途絶えたかのようだった。
絢音が肩ごしに覗きこんできた。「変ですねぇ......。売れすぎで回線が混みあってるとか? 須磨に電話をいれてみましょうか」
「......いいえ」鈍い警戒心がこみあげてくる。華蓮はつぶやいた。「絶対に電話はしないで。即売会は中断したわ。ガサ入れとともに」
「ガサ入れって......まさか、警察が?」
「そのまさかよ」華蓮はマウスを滑らせた。ブックマークから銀行のサイトを選び、ブラウザに表示する。
ネットバンキングでIDとパスワードを入力し、自分の口座を開いた。むろん、口座名は偽名だった。預金を丸ごと別の口座に移し替える手続きをとる。送金先も別の名義になっている。華蓮のサイフには十枚以上のキャッシュカードが入っているが、名前はばらばらだった。こんなものはネットのアバターと同じだ。本名を登録するリスクなど冒せない。
絢音はそわそわしたようすで、室内をうろつきだした。「華蓮さん......。心配ないですよね? 須磨には、こっちの居場所は教えてないんだし」
華蓮はパソコンの操作をつづけた。さらにまた別の口座に金を移す。「どうかしら。須磨の即売会を急襲するほどの機動力があるなら、ここにもやってくるかも。逮捕状もでたろうしね」
「た......逮捕状?」
「須磨とご婦人たちの証言が揃えば、さすがにわたしを指名手配犯にしないわけにはいかないでしょう」
警察だけなら恐るるに足りないが、凜田莉子が一緒だ。須磨の正体に気づいたのも彼女に違いない。
「あの娘」華蓮は表情がひきつるのを感じた。モニターに映りこむ自分の顔に、微笑が浮かんでいる。「思ったよりやるじゃん」
「感心してる場合じゃないでしょう。早く逃げないと......」
「あわてないでよ。予算不足の警視庁捜査二課に、ヘリの出張の許可が下りるとは思えない。山梨から高尾にでて、快速むさしの号で西国分寺から大宮。新幹線はやて号は一時間十五分ぐらいかな......。その後、東北本線がクルマの移動で三十分。到着まで五時間はかかる」
「五時間後かぁ」絢音は少しばかり表情を和らがせた。「夕方ですね」
「銀行はとっくに閉まっているから、例によって明朝まで詳しいことはわからない。たとえ追跡を始めても、これだけいろんな金融機関の、しかも全国支店の口座を経由させれば、最終的にどこに着金したかはなかなか割りだせない」
「さすが華蓮さん。冴えてる」
そう。わたしの計略には一分の隙もない。それに......。
我ながら冷淡な思考だと華蓮は思った。実際のところ、こうした事態への対策はひとつやふたつではない。
携帯電話を手にとり、比乃香に電話をした。
「はい」比乃香の声が応じた。
「店じまいよ。すぐに七和銀行の仙台支店に行って、預金を全額下ろしてきて。金額は過去の収益すべての合計額。五億二千四百十七万六千八百八十六円。名義の印鑑を忘れずに持っていって」
比乃香の声は震えていた。「七和銀行に移したんですか......。もっとマイナーな銀行のほうがよかったんじゃ......」
「地方の信用金庫じゃデータ上は預金できても、五億を超える金額をいっぺんに引きだせないでしょう。あなたも知っての通り、あの銀行には支店長に念入りに根回ししてあるし、委任状なしでも全額引き出せる手筈が整っている。だいじょうぶ。大分湯布院信用金庫とか、古くさいシステムのせいで追跡されにくい金融機関をいくつも経由してるから。引きだしたら、例のマンションの部屋に運んで」
「ええと......。どれぐらいの量になりますかね」
「ジュラルミントランクは銀行が用意してくれるわ。一億円収納用で幅四十八センチ、奥行き二十二センチ、高さ三十五センチが五箱。プラス、カーボンアタッシュケースがひと箱。重量は、紙幣のみで一億円ごとに十キログラム。当然、クルマで運ぶのよ」
「その後はどうします?」
「お金をぜんぶマンションの部屋に運びこんだら、すぐにいったん退去して。夜六時に絢音と一緒に行くから、マンション一階のエントランス前で待ち合わせましょう。いい? お金を搬入したら、ただちにマンションをでるのよ」
「わかりました。じゃ銀行に急ぎます」比乃香がそう告げて。電話は切れた。
携帯電話を置きながら、華蓮はつぶやいてみせた。「心配ね」
絢音がきいた。「なにが?」
「比乃香よ。大金をまかせてもだいじょうぶかなって、ふと思って」
「ああ、それなら不安を覚えることはないですよ。あいつにネコババする度胸なんか、ありゃしませんから」
笑いながら台所に立ち去る絢音を、華蓮は黙って見送った。
もちろんわかっている。比乃香は巨体に似合わず蚤の心臓の持ち主だ。それでも逃げ足だけは速い。だからこそ面白いことが起きる。長年の相方だった絢音にすら予測不可能なことが。
沿岸地域
夕方五時半。小笠原悠斗は切り立った崖の上から、オレンジいろに染まる松島湾を眺めていた。
砂質海岸の仙台湾や石巻湾と違い、ここは磯の香りが漂う独特のムードがある。海原のいたるところに黒々とした暗礁が見える。船舶も容易に接近できないのか、漁船すらあまり見かけない。伊達家が軍港として用いていただけのことはある。
それにしても、さすがは日本三景のひとつ。風光明媚とはまさにこのことだった。鮮やかなばかりではない。夕焼けはどこかせつなく、郷愁に満ちている。
背後にクルマが徐行する音がした。振りかえると、知らぬうちに車両が数を増している。いまもまた、新たに一台の覆面パトカーが滑りこんできたところだった。宇賀神は、宮城県警から続々やってくる応援と挨拶を交わすのに忙しそうだった。捜査員には、須磨が所有していた写真のコピーが手渡される。華蓮が出荷前の偽ブランド品を、どこかのアスファルトの上で撮影した写真。しかし、現地警察の動きの鈍さから察するに、まだ場所の特定には至らないのだろう。
やむをえないことだと小笠原は思った。写っているのが地面だけでは、どこなのかを割りだすのは困難に違いない。
路上に記された文字にしても、ここに来てみて、まったく珍しくないものだとわかった。小笠原は地面に目を落とした。足もとにも似たようなものがある。アスファルトに嵌められたプレートには、矢印とともに表記があった。歩道橋まで三〇〇m。
そのプレートに長い影が落ちた。小笠原が顔をあげると、凜田莉子がロングコートのポケットに両手を突っこんで立っていた。長い髪が潮風に揺れている。
「やあ」小笠原はいった。「凜田さんの知識は底なしだね。たしかに、あらゆるところに標識やらプレートやら見かけるよ。どれも歩道橋までの距離が書いてある」
「本で読んだのよ」莉子はつぶやいた。「松島町は沿岸地域で観光客も多いから、津波の際に地理に不案内な人でも避難できるよう、小高い場所がどこにあるのか記してあるの」
「まさにビンゴだ。ここからが問題だろうけど」
「ええ」莉子の顔に翳がさした。「写真には、アスファルトに路面文字だけの案内が写ってたけど、ああいうのは松島町のあちこちにあるって。絞りこむのはとても無理みたい」
宇賀神が硬い顔をして歩み寄ってきた。「凜田先生。あの写真からは、ほかに読みとれる情報は......」
莉子は憂鬱にいった。「新幹線のなかでアルバムを何度も見かえしたけど、松島町ってこと以外には何もわからなくて......。ごめんなさい」
「いや。とんでもない。少なくとも雨森華蓮の潜伏先がこの辺りだと判明したんです。路面文字を参考に、コツコツと調べていきます」
「調べるって......。対象になる範囲はどれぐらいありますか?」
「いま県警の人間にきいたところでは、五十四平方キロメートルとか......。島もありますので、一朝一タというわけにはまいりません。しかし、手がかりはほかにもあります。売り上げが送金された口座を割りだせば、雨森の動きは読めるでしょう」
「ええ。でも即売会の最中に入金が途絶えたんだし、もう逃げの準備に入っているでしょうね。預金は下ろしているかもしれません」
「即売会の収益だけならたいしたことありませんが、いままで詐欺で得た金を貯めこんでいたらかなりの額でしょう。引き出すだけでも目立つ行為になります。いまや指名手配犯ですからね、きっと尻尾をつかんでみせますよ」
宇賀神はそれだけいうと、背を向けて歩き去っていった。
小笠原はつぶやいた。「銀行か......」
「この時間には閉まってる」莉子がため息をついた。「朝がくるまで詳細はわからない。またしてもそんな状況」
「今晩はどうしようか? とりあえず、牡礪丼でも食べる?」
それも悪くないと小笠原は思った。予期せぬ景勝地への一泊旅行。しかも凜田莉子が同行しているとなれば、楽しくないはずがない。
取材としての出張だから、ここでの出来事はすべて記事にすることになっていた。記者としての使命はそれで果たされる。加えて旅の楽しみが満たされればいうことはない。
だが莉子の真摯な横顔からは、浮かれたようすなど微塵も感じられなかった。
莉子はささやくようにいった。「今晩にも動きはあるでしょう。じっとしていられるほど、華蓮は呑気な人じゃないし」
マンション
日没を迎えた。松島の空はわずかに黄昏を残している。午後六時。天笠絢音はホンダ・アクティの軽トラックのステアリングを切って、町の北部にある町営住宅棟に乗りいれていった。
北部のはずれにあるこの一帯からは海も見えず、周りは山ばかりで、国道四五号線を走るクルマのヘッドライト以外に光をもたらすものはない。人の営みはあるが、老朽化しマンションの住民たちは相互に無関心だ。よって誰の干渉も受けずに済む。
徐行していくと、マンションのエントランス前に、馴染みのカローラワゴンが横付けされていた。絢音は軽トラをその後ろにぴたりとつけて停めた。
助手席の華蓮がシートベルトを外しながらいった。「ちょうど時間ね」
絢音は車外に降り立つと、急いで車体を迂回し、助手席側のドアを開けた。手を差し伸べて、華蓮が外にでるのを助ける。
全身をパンク・ファッションできめた華蓮は特に礼も口にせず、さっさと先に立って歩きだした。
彼女のいつもの態度だった。気を悪くするようなことではない。絢音はむしろ、華蓮の媚びない態度にこそ惚れこんでいた。物怖じしない彼女の挙動には、いつも感銘を受ける。あんなふうになりたい、心からそう思う。
熊切比乃香と組んで寸借詐欺や自販機荒らしに明け暮れていた絢音の日常を、華蓮は劇的に変えた。どこで知ったのか、華蓮は会うなり絢音たちが何度も警察の世話になっていることを指摘し、もっと要領よくやれる方法があるといった。
初めは半信半疑だったが、華蓮の主導するいくつかの計画に協力するうち、これこそ自分の生きる道だと確信した。華蓮は揺るぎない反骨精神を内包した、正真正銘の詐欺師だった。そして絢音にとっての人生の師範、あらゆるものの手本となった。
わたしは彼女の信頼を受け、富を共有する立場になった。誰にも自慢できなくても、満足だった。絢音はそう思った。いまこの瞬間にも、彼女とともに最良の時間を過ごしている。ともに働ける喜びを味わっている。
カローラワゴンの運転席のドアが開いた。丸々と太った比乃香が車外に這いだしてくる。
「こんばんは」比乃香は軽く頭をさげた。「あいかわらず遅刻とは無縁ですね、華蓮さん」
華蓮は微笑した。「五億が待ってるとあっては、すっ飛んで来ざるをえないでしょう。銀行では問題なかった?」
「ええ。別室に呼ばれましたけど、コーヒーもだしてもらって丁寧な対応でした。インスタントでしたけどね」
絢音は口をはさんだ。「豆を挽いてみたところで、豚に味の違いがわかるのかよ」
比乃香は丸い眼鏡の奥で目を吊りあがらせた。「うるせえぞビーバー。その出っ歯でコーヒーをろ過して焙煎しな」
かちんと頭にくる。絢音は声を荒らげた。「意味わかんねえんだよ雪だるま。あったかいもの飲んでどろどろに溶けちまえ」
華蓮がうんざりした顔で、両手をあげて制止にかかる。「やめてよ。あんたたちはどうしていつもそうなの。比乃香も目くじら立てずに聞き流したらどう」
比乃香は心外だというように、絢音を指さしていった。「こいつの肩持つんですか、華蓮さんは。きょう汗水流して働いたのは、わたしですよ」
絢音のなかに苛立ちと憤りがこみあげてきた。
長いこと行動を共にしているせいで、比乃香との会話はじゃれ合いや、仲の良さゆえのことと見なされがちだ。華蓮もかつてそういっていたし、須磨も同意見のようだった。しかし、事実はおおいに異なる。わたしは、比乃香の態度に腹が立って仕方がない。向こうもわたしが気にいらないようだが、実際のところ不仲の原因は比乃香にある。
いまも華蓮に対して盾突こうとするなど、身の程知らずも甚だしい。華蓮と知り合いになる前に、こんな愚かな肥満体と組んでいたことがそもそもの間違いだった。わたしの連れでなければ当然。華蓮も比乃香なんか相手にしなかったものを。
華蓮は辛抱強く比乃香をなだめていた。「いいから。あなたの働きはちゃんと理解してるわ。で、ジュラルミントランクはクルマに積んで、ここまで運んだのね?」
「......はい」比乃香は面白くもなさそうな顔でいった。「ひとつずつエレベーターで部屋に運びいれました。尾行や監視がないのも確認したし、誰にも疑われてません」
「ご苦労さま。じゃ、さっそくお金と対面といこうかな」華蓮はつぶやきながら、エントランスを入っていった。
絢音は比乃香とけん制しあいながら、華蓮の後につづいた。
十階建てのマンションは内外ともにひどく古くなったまま放置されている。壁の塗り替えひとつおこなわれていない。エントランスをくぐると狭いホールがあったが、蛍光灯は切れかかって明滅を繰り返していた。エレベーターも一基しかなく、下りてくるまでひどく時間を要する。
やっとのことで扉が開いた。こんなエレベーターでも保守点検だけはおこなわれているのだろう。東芝製だった。日本のメーカーの故障の少なさを信じたいところだ。華蓮はともかく、もうひとりのデブと密室に閉じこめられるのはまっぴらだった。
三人はエレベーターに乗りこんだ。華蓮はボタンの前に立ったが、自分で押そうとはしなかった。絢音に目でうながしてくる。
絢音は身を乗りだし、八階のボタンを押した。扉が閉まる。エレベーターは上昇を開始した。
静けさのなかで、華蓮が比乃香にきいた。「トランク、重くなかった?」
「そりゃ重いですよ。廊下は引きずっていかざるをえませんでした」
絢音はいった。「胴まわりの余分な荷物を落としてからいうんだな」
「なにを! この筋だらけのミイラ女」
「食われろ。おまえなんかヒグマの餌になれ。霜降り肉」
エレベーターが静止し、扉が開いた。華蓮はため息とともに、廊下にでた。
その廊下は壁がなく、外から吹きこむ風で肌寒かった。いつものことながら、床がひどく汚い。近くの山林から一年じゅう、あらゆる種類の花粉が飛んでくるせいで、それらが常時降り積もって白くなっている。
華蓮が別名義で借りている部屋は三つめの扉、八〇三だった。
そこまでのわずか数メートルの距離に、華蓮は足をとめた。「変ね」
絢音はきいた。「どうかしましたか」
「いえ......。別にいいわ。比乃香、鍵は持ってる?」
「もちろん」比乃香が扉を開けにかかった。解錠してノブをひねる。「どうぞ」
扉のきしむ音もいつもどおりだった。そろそろ蝶番に油を差すべきだろう。絢音はそう思いながら、比乃香と華蓮につづいて部屋に入った。
2DKの素朴な間取りだった。靴脱ぎ場の向こうはすぐにキッチン、そして洋室があって、引き戸を挟んで和室がある。
比乃香が壁のスイッチに触れて明かりを点けた。「苦労しましたよ。どうせこうやってすぐに取りに来るんだから、わざわざ運びこまなくても......」
ふいに比乃香の言葉が途切れた。
妙な空気が室内に漂いだす。比乃香は洋間にたたずんだまま、身じろぎひとつしない。
室内のようすは、ふだん隠れ家として立ち寄るときとなんら変わりない。テレビに食器棚に座椅子。必要最小限の家具類に、色あせたカーペット。
いや......。いまはそのカーペットが見えること自体がおかしい。本来なら、床には五つものジュラルミントランクが並んでいるはずだ。
「......ない」比乃香は呆然とつぶやいた。「こんなことって......」
華蓮の表情が険しくなった。「ないって?」
「こ、ここに置いたんですよ。たしかに、カーペットの真ん中に並べて」
「絢音」華蓮が振りかえった。「室内を調べて」
「ただちに」絢音はすぐさま、隣りの和室に入った。
だが、調べようにも遺失物の行方を探せる場所はほとんどなかった。和室にはタンスがひとつあるだけだし、どの引き出しも空だった。畳を剥がしてみたが、ここは一軒家ではない。床板を外すと、硬いコンクリの床張りがすぐに姿を現した。物置きにも何も入っていない。タンスを足場にして天板を外してみたが、そこにも物を隠せるスペースはなかった。
壁紙を剥がした形跡もなく、細工を施してあるようには見えなかった。五つものジュラルミントランクを収められる空間などどこにも存在しない。
ただし、異常は皆無ではなかった。カーテンが揺れている。閉まっているはずのサッシから風が流れこんでくる。
カーテンを開け放って、絢音は声を張った。「華蓮さん」
華蓮が足ばやに和室に入ってきた。比乃香もその後につづいてくる。
窓ガラスは割れていた。錠を外せるくらいの穴が開いている。
比乃香は咳こむようにいった。「誰かが侵入したんですよ! 隣りのバルコニーから外づたいに......」
すると、華蓮が低い声でつぶやいた。「馬鹿いわないでよ。ガラスの破片が落ちてないでしょ。なかから割ったのよ」
絢音は息を呑んで、比乃香を見つめた。比乃香は目を白黒させていた。
「待ってよ」比乃香はひきつった笑みを浮かべた。「わたしが盗んだとでもいうの? 部屋に搬入したお金を、またわざわざ持ちだしたって?」
「いえ」華蓮は硬い顔で告げた。「運びこんではいないでしょ。銀行から引きだした後、クルマを運転している最中に魔がさしたのね」
「か、華蓮さん......。なんでそんな......」
「花粉と埃だらけの廊下に、なんの痕もないでしょう。おかしくない? あんたさっき、廊下ではトランクを引きずったって言わなかった?」
絢音は、こみあげてくる怒りを感じた。「比乃香。おまえ......」
「な」比乃香は顔を真っ赤にして怒鳴った。「なわけねえだろ! なんでわたしが盗るんだよ。こんなの罠だろ。絢音こそわたしを陥れようとしてんだろ!」
「馬鹿いうなよ! わたしはずっと華蓮さんと一緒にいたんだぞ。おまえがいってることはでたらめだ。トランクひとつ搬入してねえだろうが!」
華蓮は冷やかな目で比乃香をにらみつけた。「いちどだけきくわ。正直に答えて。わたしと絢音のお金はどこ?」
比乃香は蛸のように顔面を紅潮させていた。何かをいいかえそうと口をぱくぱくさせているが、うまく言葉にならないようだった。ひとりパニック状態に陥ったようすの比乃香は、いきなり子供のような叫びをあげると、身を翻して玄関に逃走しだした。
あの女。絢音は歯ぎしりしながら走りだした。「待て!」
必死の形相で靴を履くと、比乃香は廊下に飛びだしていった。玄関の扉が閉まる。絢音も比乃香を追って外に駆けだそうとした。
そのとき、背後から華蓮が呼びとめた。「絢音! ここにはもう戻らないで。夜七時に高城町駅の前にいて。わたしも行くから」
「わかりました」絢音は戸口に急いだ。
「待って。もうひとつ」華蓮は早口にまくしたてた。「たとえ警察に身柄を拘束されることがあっても、このマンションのことだけは口にしないで。わたしもそう心がける。互いに独りになっちゃったら、ここを隠れ家にしましょう」
「ええ。ほかには?」
「もし警察に問い詰められたら、比乃香がお金を持って逃げたことは早々に明かしていいわ。彼女を足どめしないことには、どうにもならない。高飛びされるよりはましよ」
華蓮はいつしか目を潤ませていた。思いは同じだと絢音は感じた。ここへきて、あんな女の裏切りによって、すべてが台無しになるなんて。
絢音は靴を履き。廊下に駆けだしながら告げた。「華蓮さん、豚狩りに行ってきます。また後で」
「お願い」華蓮の声を背にきいた。「エレベーターは遅いわ。階段を使って」
指示通りエレベーターを無視して、非常階段を駆け下りる、断じて許せない。絢音は燃えあがる決意を感じた。首に縄をかけてでも捕まえて、ここに連れ戻してやる。
華蓮はひとりマンションの室内に居残った。
洋間にたたずみ、もの音に耳をすます。
絢音の足音が階段を下っていく。それがしだいに小さくなる。いかに急ごうとも、比乃香はすでにエレベーターで一階に下り、カローラワゴンで逃走を始めている。絢音が建物の外にでて、軽トラを発進させるまで三分以上のひらきがある。
冷静に思考を働かせれば、エレベーターを待つほうが早いとわかる。頭に血がのぼっていては、人は論理的に行動できない。絢音は比乃香を捕まえられないだろう。
携帯電話を取りだす。一八四をプッシュしてから、指示記憶している電話番号にかける。〇二二-三六二-......。
電話の向こうで男性の声が応じた。「塩釜警察署です」
「本庁と宮城県警から捜査本部を設ける要請がありましたね。本日逮捕状がでた指名手配犯、雨森華蓮の件で」
「......失礼ですが、どなたでしょうか」
「七時に高城町駅にパトカーを寄越してください。仲間のひとり、天笠絢音が待っています」
「あなたは? 天笠さんご自身ですか? もしもし」
華蓮は携帯電話を切った。なにもないカーペットを見下ろす。
これでよし。ほんの数分後には、わたしはこの無の空間に五億の金が出現するのを見る。誰もわたしに指一本触れることさえできやしない。愚かしいほどにバランスを欠いたゲームだった。結局、わたしがまた勝者になる。
Q
二時間が過ぎた。
華蓮はマンションの部屋にいた。
こうしていると何も変化を感じない。絢音が飛びだしていった後、ずっと同じ時間が流れていたかのように感じる。
しかし、状況は異なっている。洋間のカーペットの上、五つのジュラルミントランクが並んでいた。その傍らに、端数の金をおさめたカーボンアタッシュケースも。そのケースを持ちあげてトランクの上に載せ、蓋を開ける。一千万円ぶんの札束を取りだした。百万円ずつ銀行の帯でくるんである。それをひとつ引き抜いて、あとはケースに戻した。
百万円の束を手のなかで眺めまわす。金は力だ。五億もあれば新しい事業も興せる。そして、朝にはこれらを難なく持ちだして、どこへでも好きな場所に旅立てる。仕組んだ罠によって、必然的に警察はこのマンションについてノーマークになる。
鍋が沸騰する音がした。札束をケースの上に放りだして、キッチンに向かう。
菜箸を手にとり、鍋のなかを掻きまぜた。冷蔵庫にあった買い置きの品で、鶏もつ鍋をこしらえた。ごぼうとさやえんどうがないのが物足りないが、味付けさえうまくいけば問題ないだろう。
日の出料理酒を加えようとして、計量スプーンを探す。ところが、あるはずの場所に見つからなかった。
そうか。華蓮はふっと笑った。スプーンはここには......。
ふいに玄関のチャイムが鳴った。
華蓮はびくついたりしなかった。こんな時間に隠れ家を訪ねてくる者があるはずはない。夜になってから訪問販売を試みる不届きな業者だろう。前にも何人かいた。オートロックのないマンションはこれだから困る。居留守を使うに限る。華蓮はそっと玄関の扉に歩み寄り、覗き穴を見つめた。
すると、広角レンズの向こうにあったのは馴染みの顔だった。絢音がぼんやりした顔でたたずんでいる。
頭に血がのぼった。あいつ、高城町駅に行かなかったのか。ここには戻るなといっておいたのに。
急いで錠を外し、華蓮は扉を開け放った。「絢音! どうしてまたここへ......」
華蓮は思わず息を呑んだ。
絢音は虚ろな目を向けてくるばかりだった。両手首には、金属製の輪が巻きついていた。手錠だった。
腰縄を手にしているのは、廊下に何人もひしめく私服警官のひとりだった。上質なスーツが、所轄でなく警視庁の人間であることを物語る。
時間が止まったかのようだった。視界に映るものすべてが、一枚の絵のごとく思えてくる。華蓮は身動きひとつできなかった。硬直し、沈黙のなかに立ちつくすしがなかった。
警部クラスとおぼしき男が口を開きかけた。すると、それを制するように片手をあげた者がいた。
ロングコートをまとった、すらりとした体型の女が戸口に近づいてくる。その別人のように落ち着き払った態度のせいで、凜田莉子だと気づくのに数秒を要した。
莉子は私服警官らに告げた。「外で待っててくれませんか。すぐ済むから」
ある意味、滑稽かつ痛快な眺めだった。警視庁のキャリアどもが、莉子の犬に成り下がっている。権力を笠に着るのが当然の輩どもが、逆らう素振りさえ見せずにすなおに指示に従う。
ただし、華蓮は笑う気にはなれなかった。いっさいの感情が沸きあがってこない。なにも感じられなかった。
すると莉子は、華蓮をうながすようにして後退させ、静かに室内に押しいってきた。後ろ手に扉を閉めると、部屋のなかは華蓮と莉子のふたりきりになった。
莉子は靴を脱ぐと、すぐに辺りを見まわした。洋室のジュラルミントランクは、真っ先に目に入ったはずだ。
だが彼女は、そちらを注視しようとしなかった。代わりに、煮え立つ鍋の音をききつけたのだろう。キッチンに歩を進めていく。
ガスコンロを眺めまわし、莉子はつぶやくようにいった。「料理酒を入れようとしたけど、計量スプーンがなくて困った。そんな状況ですね。上の部屋に忘れてきちゃったんでしょう、九〇三に。家具はふたつ用意してあっても、小物は移動させるつもりだったから、あまり注意を払ってなかったのね」
華蓮はなにもいえず、ただ無言で莉子を見つめていた。
彼女がここにいること自体、信じがたい眺めにほかならない。悪夢のなかにいるようだ。しかし、すべては事実だった。そう認識した。
莉子は冷蔵庫を開けて、ペットボトルを取りだした。その蓋を開ける。
「......ああ」華蓮は思わず声をあげた。「なるほど。その蓋を使うのね」
「そう」莉子は料理酒を蓋に注いだ。「大さじ一杯って、つまり十五cc」
「ペットボトルの蓋二杯も十五cc。ふだんならすぐ思いつくところだけど」
「これ」莉子がきいてきた。「大さじ二杯でいいの? ってことは四杯ね」
「ええ」華蓮は自分でも驚くほどあっさりと応じた。「いったん火をとめておいて。こんぶ出し汁をいれてからは、あまり煮すぎないほうが好みの味加減になるの」
「ふうん。人によってこつが違うのね」莉子はガスコンロのつまみをひねり、火を消した。
華蓮はささやいた。「あのさ」
「なに?」
たずねたいことは山ほどある。どうやって松島に目をつけたのか。これほど早く移動したからには、よほどの確証があったに違いない。
しかし、なによりも先に解消したい疑問があった。華蓮はつぶやいた。「絢音は......」
「ああ」莉子はキッチンを抜けだして、ぶらりと洋間に向かった。「彼女なら、ちゃんとあなたの指示に従ったわよ。七時に高城町駅に姿を見せた。で、塩釜署の人たちに身柄を拘束された。彼女は涙ながらに、比乃香がお金を持って逃走していることを訴えた」
「じゃあ、どうしてこのマンションに......」
莉子はジュラルミントランクを一瞥すると、華蓮を振りかえった。「あなたも孤独な人ね」
「......なにがよ」
「わたし、ずっと疑問だったの。比乃香と絢音は、本心ではお互いのことをどう思っているのかなって。喧嘩するほど仲がいいって状況なのか、それとも本気でいがみ合ってるのか。あなたは、ふたりの仲が険悪であることを承知で雇ってたんでしょ。一触即発の感情のぶつかりあいがあればこそ、いざというときに仲たがいさせて、警察の目をそちらに向けさせられる。そう考えてたのね」
じわじわと核心に追ってくる。嫌な距離感だった。華蓮はうわずった自分の声をきいた。
「だからなんの話よ。わたし、あのふたりは大好きだったわ。いつでも戻ってきてほしいって、心から思ってた。だからずっとここで待ってたのよ」
「ひとりぶんの鍋料理しか用意してなかったのに?」莉子はじっと見つめてきた。「比乃香も絢音も直情型で、話してみれば嘘のつけない性格だとわかる。あなたはそれを利用した。絢音が警察に捕まれば、お金を持って逃げた比乃香に対する憤りを表出させる。すでにお金が持ち去られて一円も残っていないこの部屋のことなんか、おくびにもださない。人は重要と信じる秘密については隠しきれずにぼろをだすけど、どうでもいいと思っていることはシラをきれるものでしょう。絢音もそうだった。捕まった当初は、この部屋のことなんか完全にスルーしてた。比乃香がお金を持ち逃げした、ってそればかりだった。思い当たる比乃香の逃亡先として、この部屋から遠く離れた場所ばかり挙げていた。ゆえに、ここはノーマークになる。あえて絢音を捕まえさせることで、あなたは明朝には余裕で旅立てる。それが狙いだったんでしょう」
「......けど、Qちゃんは真実に気づいたわけか、ふたりは操作されてるにすぎず、お金は、失われたはずの場所にそのまま残されていると」
「あなたならどうするか、それを念頭に置いて考えたのよ。万能贋作者の雨森華蓮がなにかをひとつ用意するとき、そっくりの偽物も同時に作っていると思わなきゃいけない。隠れ家が古いマンションの八階だとわかった瞬間、おかしいと感じたのよ。逃走を考えたら低層階に住むべきだし、オートロック付きの新しいマンションのほうがいいし」
華蓮はため息とともにいった。「ほんとね。この状況がすべてを物語ってる。まさにあなたのいうとおりだったわ」
「八階の部屋にしたのには、なにか意味がある。その一方で、偽の部屋を作るのなら、本物の部屋の階下より階上にするでしょう。比乃香も絢音もふだん八階以上には上らないだろうから。でね、ここにきてエレベーターに乗ったときに、憶測は確信に変わったのよ。一基しかないエレベーターは東芝製だった。つまり......」
「行き先の階のボタンを押した後でも、すばやく二回つづけて押せばキャンセルできる」
「そう。業者用にそんな裏技が隠されてる。絢音さんの話だと、あなたはエレベーターのなかで妙な振る舞いをしたのよね。ボタンの前に立ったのに、自分では押さなかった。絢音さんが八階のボタンを押した。たしかに八階に行くと信じさせるために、彼女に押させたんでしょう。そして、比乃香と絢音が喧嘩するように仕向けた。ふたりがヒートアップしているあいだに、あなたは九階のボタンを押して、八階は二度押すことでキャンセルした。古いエレベーターだから......」
「到着階の音声アナウンスもない。階の表示は扉の上のランプだけ。八階で降りると信じている以上は、いちいち見あげたりしない。エレベーターを下りるときにはすべてのボタンが消灯しているから、目的階に着いたっていう錯覚も強まる」
「階段もそうね」と莉子はいった。「絢音が大慌てで比乃香を追いかけているときには、駆け下りたのが八階だったか、それとも九階だったのか、判然としない」
「そ。ちょっとおかしいと思っても、疑うより比乃香を捕まえるほうが急務だし。九〇三号室はもうたしかめた?」
「表札は八〇三から九〇三に戻してあったけど、室内には痕跡が残ってたわ。サッシのガラスが内側から割ってあった。比乃香の偽装だと絢音に信じさせるために、そうしておいたのね。八〇三と同じ鍵に替えてあるって管理人さんが驚いてた」
「管理人さんに鍵を借りたってことは、刑事に強権を発動させられるだけの確証があったのね」
「ええ。廊下にね」
「廊下?」
「花粉と埃が堆積しているせいで、いろんな痕がつくの。この八〇三号室の前にはなにか重いものをひきずった痕と、あなたの家族の足跡があった。足跡はすべて、指が五本だった」
家族......?
そのとき、ニャーという鳴き声がした。和室から。半開きの引き戸を抜けて黒猫が姿を現した。
「......ヨゾラかぁ」華蓮は思わず笑った。「猫って気まぐれよね。ほうっておくとあちこち出歩いちゃうから」
「感謝すべきかも」莉子はいった。「ヨゾラはあなたのいうことをきかなかった。でもそれは、あなたのためを思ってのことかも」
黒猫はキッチンに赴くと、流しの近くに座り、物欲しそうな顔で華蓮を見た。料理のにおいを嗅ぎつけたらしい。
華蓮はつぶやいた。「いい勘してるのよね。Qちゃんにそっくり」
莉子は黙っていた。コートのポケットに両手を突っこんで、ジュラルミントランクに目を落としていた。
その視線を追う。アタッシュケースの上に百万円の束が投げだしてあった。
いつもの思考回路が働く。偽装、弁明、その場しのぎ。たちどころに十を超える言い訳を考えつく。そのなかで、最も信ぴょう性のありそうな嘘が口をついてでそうになる。
とはいえ......莉子が相手では、小手先のわざが通用するはずもない。
それでも、何秒で嘘が見破られるか試してみたかった。華蓮はいった。「いまさら、なにをいっても信じてもらえないだろうけど......。ちょうど六年前のきょう、わたしの両親が蒸発してね。そのお金、父が置いていったものなの」
通常ならばこの先、金を横取りしようとした知人が、華蓮のことを詐欺師だといいふらした......とつづく。いま、知人に当てはまるのは逃亡中の比乃香だろう。彼女のせいでわたしは濡れ衣を着せられ、これら五億の金もわたしが詐欺で得たと警察は信じてしまった。でも事実は違う。悲劇のヒロインはわたし......。
しかし、そんな妄想めいた作り話を受けいれる姿勢など、莉子は微塵もしめさなかった。莉子はあっさりといった。「無理があるでしょ。お札の裏にキジがいないし」
「......早っ」華蓮はため息をついた。我ながら呆れる。「でも、そうよね。これキジじゃなくて鳳凰だもんね。同じ福澤諭吉の一万円札でもD号券じゃないし」
「ちょうど六年前のきょうって。E号券が発行されたのは二〇〇四年の十一月一日からでしょう」
「ふだんなら、こんなポカはしないんだけどなぁ。駄目ね。Qちゃんとふたりきりじゃ緊張しちゃって」
「そうでもないわよ。完全なんてことはありえないの。ささいなことでも、ミスは残るものよ。キヤノンに、歩道橋まで一〇〇メートル」
「......ああ。なるほど。不動産登記簿の表記、間違ってた? あと、アスファルトの文字かぁ。写真に写ってたのね。うっかりしてた」
「ねえ、華蓮。鎌倉で話したこと、覚えてる?」
「なんのこと?」
「わたし、あなたにいったのよ。いちどでもあなたの嘘を見破る人間がいて、世間が善とみなすことの価値を証明できたら、あなたの人生は変わるかもって」
「正確に記憶してるのね。でも、世間が善とみなすことの価値って? どういう意味? わたしが刑務所にぶちこまれることで、みんなの溜飲がさがるとか?」
「あなたが逮捕されて、これらのお金が残る。裁判には詳しくないけど、ニコレッタの偽物を作らされた八木沢さんが民事訴訟を起こせば、お金持ちのあなたから経費ぶんを取り戻せるかもしれない。ほかの被害者も同様。みんなの生活はもとに戻る。心の傷も、いずれ癒える」
「正義の鉄槌が下って、わたしという悪に困らされてた人たちがみな救われるってこと? そう単純かしら」
すると、莉子は真顔で華蓮を見つめてきた。褐色の虹彩がわずかにいろを変える。
「人の本質は善なのよ」莉子は静かに告げた。「あなたも同じ」
華蓮は言葉を失った。沈黙したまま、莉子を見かえした。
こんなふうに、ぶれずにひとつの価値観を説いてくる人間とまっすぐに向き合ったのは、いつ以来だろう。
記憶にない。両親のことなど、とっくに忘却の彼方だ。
やがて、華蓮はふっと笑った。自分でもどう解釈していいかわからない笑みだった。
「Qちゃん。いずれこういうときが来るって、予言してたわよね」
「ええ。あなたは、待ちきれないっていってた」
「いまがその瞬間ってわけか。ねえ。ひとつお願いしていい?」
「なに?」
「ヨゾラのこと。わたしが出所するまで、面倒をみてほしいんだけど」
莉子は、キッチンの床に寝そべる黒猫を振りかえった。
その目がふたたび華蓮に向き直る。莉子はきいてきた。「そのとき、あなたは変わっているかしら」
「どうかなぁ」と華蓮はつぶやいた。
刑務所の居心地は悪くないときいたことがある。いちど前科がついたからには足を洗う気になるだろうか。もしくは、入所することに対する恐れも抵抗も失われ、むしろいままでの信念を強化し、従来の生き方を貫こうとするだろうか。
ひとつだけ確実なことがある。わたしが変わらなければ、ふたたび莉子が行く手を阻むだろう。
それも悪くない。そんなふうに思うと、妙に気が軽くなった。
「さてと」華蓮は玄関に歩きだした。「もう行くね。鶏もつ鍋、よかったら食べていって」
「華蓮......」
「また会おうね、Qちゃん。絶対に」
莉子はじっと華蓮を見つめてきた。「ええ」
期待している、そんなふうに訴えかけてくる大きな瞳を、華蓮は見かえした。
そうよ。わたしもできれば、あなたが思うようになりたい。
こちらを見あげる黒猫と目が合った。ヨゾラはいつでもぼんやりとしている。長い別れになるとは、考えてもいないのだろう。次に会うときには、わたしのことなど忘れてしまっているに違いない。
華蓮は靴を履き、玄関の扉を開けた。いつもでかけるときにそうするように、日常となんら変わることのない、ときの流れに身をまかせていった。
天使
秋晴れの空の下、莉子は飯田橋一丁目にある、六百坪の服飾縫製工場を訪ねた。
敷地の門をくぐってすぐ、以前にここに来たときとはまるで様相が異なっていることに気づく。工場棟から工業用ミシンの音が響いてくる。駐輪場は埋まっているし、行きかう従業員たちの顔にも笑いがあった。なにより、活気に満ちている。賑わいを取り戻した工場。都心にあるべくしてある風景だった。
社屋に歩み寄ったとき、ドアが開いた。
洒落たビジネススーツを着た細身の女性は、書類やファイルの束を山ほど抱えていた。荷物に気をとられているようすで、なかなか視線があがらない。ドアを閉めて振りかえったとき、危うく莉子にぶつかりそうになった。
ようやく顔をあげた片貝咲良の目がこちらを向く。とたんに、その表情に笑みがひろがる。「凜田さん! よかった、来てくれて。早かったですね」
莉子は笑いかえした。「このところまたお客さんが減って暇だから......。こちらの工場はすごいですね。生産ラインもフル稼働って感じ。正直びっくり」
「そうなんです。理由を知って、社員もみんな戻ってくれたし、銀行も協力してくれたので」
「きょうの鑑定依頼というのは......?」
咲良はさも嬉しそうにドアを開けた。「なかへどうぞ。社長はいま打ち合わせ中です」
恐縮しながら事務所棟に入る。ここも以前とはがらりと異なって、大勢の人々が忙しく働く健全な社内の風景へと変貌していた。
事務机のいずれにも役員たちがおさまって、受話器片手に業務に追われている。やはり誰もが笑顔だった。負債はまだ大きくとも、この会社は確実に復興しつつある。みな希望を信じている。遅かれ早かれ苦境を脱し、組織として新しい生命を得るのだろう。彼らが行動をもってしめす未来の理想像に、莉子は共感を覚えた。
会議テーブルを囲んで立つスーツ姿の一団がある。中心にいるのは八木沢駿介だった。卓上に広げられた工場の図面を指さしながら、あれこれと指示をだしている。
八木沢は真剣な面持ちで告げていた。「セクションをこっちに移せば、ミシン縫いと手縫いのプロセスをうまく融合できるし、能率もあがる。裁縫工は充分だが。裁断工と最終仕上げは何人か増員したい」
そこで八木沢は、莉子と咲良か近づいてきたのに気づいたらしい。言葉を切って視線をあげた。
満面の笑いを浮かべて八木沢は声を張りあげた。「凜田先生! よく来てくださいました」
どうも、と莉子は軽く頭をさげた。「ご盛況おめでとうございます。完全復活の日も近そうですね」
「まだまだこれからですよ。下請けの受注を取り戻せただけでもラッキーですけど、がっぽり稼ぐためにはやっぱりオリジナルブランドでも始めなきゃね」八木沢は上機嫌にそういうと、周囲のスーツたちに告げた。「じゃあ、みんなよろしく。ミーティングのつづきは夕方にでも」
各部署のチーフらしき男たちが、ぞろぞろと立ち去っていく。
莉子は八木沢にきいた。「オリジナルブランドっていうと、何か見込みでも?」
「ええ。きょうお越し願ったのはその件でね。ご多分に漏れず、うちも公式サイト上じゃデザイナーを募集してたんだが......。このたび有力な応募があって」
「いいデザイナーさんが見つかったわけですか」
咲良が困惑のいろを浮かべた。「それが......まだわたしたちも会ったわけじゃないんです。作品が送られてきただけで」
八木沢が筒状に丸めた模造紙を手にとり、テーブルの上に広げた。「これです」
洋服の型紙、それも十枚以上あった。細部まで丁寧に描きこまれている。
一見して秀逸なデザインだとわかる。単体のブラウスでありながら、ベストの上にカーディガンを羽織ったように見えるユニークな発想。シルエットも美しく、着痩せして見えるのはあきらかだった。その下の模造紙に描かれているカットソーも、小ぶりなフリルで装飾した独特のスタイルだ。ワンピースからストールに至るまで、こんな切り口があったのかと驚きを覚えるほどの大胆さに満ちている。店に並んでいたら、わたしもきっと欲しくなるに違いない。莉子はすなおにそう感じた。
莉子はいった。「まぎれもなく、このデザイナー独自のセンスとアイディアですね。適度な高級感を内包しつつも、従来のブランド品のいずれにも似てません。まったく新しい方向性といえるでしょう」
咲良が喜びのいろとともに八木沢を見た。八木沢も笑顔で咲良を見かえした。
「素晴らしい!」八木沢は興奮ぎみに莉子に告げてきた。「私たちも、このデザインなら売れると確信してたんだが、偽ニコレッタの二の舞はごめんだったんでね。慎重を期したかったんです」
「心配ありませんよ」と莉子は笑ってみせた。「あとはデザイナーとロイヤリティの面でうまく折衝して、契約にこぎつけるだけですね」
「それが、契約はもう結んだも同然でね」
「え?」
八木沢はファイルを開くと、一枚の書類を取りだした。「型紙に同封してあったこの誓約書に、デザインの権利をすべて譲るから、自由に生産していいと記してあったんです。収益の分配も放棄するとあります。すなわち売り上げは全額、私たちのものになるんです」
「......そんな申し出をしてくるデザイナーが?」
「私も半信半疑だったんですが、顧問弁護士に見せたところ、書面に問題はないという話でした。まるで天使の仕業ですよ」
咲良が一枚の封筒を差しだしてきた。「匿名ってのが気になるんですけど、善意の申し出と解釈することも可能かなって......。送られてきたのはこの封筒です。誓約書と一緒に、型紙のデータが入ったメモリーカードがおさめてありました」
莉子は封筒を受け取った。宛先はこの工場。差出人の名はなかった。消印は葛飾小菅。
小菅。もしかして......。
辺りを見まわすと、事務机の上のヘアドライヤーが目に入った。図面のインクを早く乾かすために用いられるものだろう。莉子はそれに歩み寄り、八木沢を振りかえった。「お借りしてもいいですか」
「ええ......。どうぞ」
ドライヤーのスイッチをオンにして、温風を封筒の裏面に浴びせる。
ほどなく、ぼんやりと浮かびあがってくる手書きの文字があった。差出人の住所と氏名だった。
東京都葛飾区小菅一-三五、東京拘置所、雨森華蓮......。
莉子は思わず、ふっと笑った。
水性サインペンにソルビトールと葉酸を適正に混ぜれば、時間とともに消えるインクが作れる。ソルビトールにはビオレなどの中性ハンドソープがそのまま使えるし、葉酸は拘置所で食事にだされるレモンなどから抽出できる。
拘置所から郵便をだすにあたって、無記名というわけにはいかず、苦肉の策を思いついたのだろう。八木沢たちに対しては匿名で通したかったに違いない。
型紙を作成したのが彼女だと知れば、世の人々はみなふたたび詐欺の計略かと疑うだろう。だから彼女も名は伏せざるを得なかった。
けれども、わたしにはわかる。これは正真正銘、雨森華蓮のオリジナルだ。
咲良が神妙にきいてきた。「あのう、凜田さん。なにか......?」
「いえ」莉子は笑顔を取り繕った。「この封筒、もらっていいですか」
八本沢が眉をひそめながらいった。「かまいませんが......。何かわかったのなら教えてくださいよ。これらの型紙、商品化していいものかどうか」
「そこは申しあげましたとおり、まったく心配いりません。では、わたしはこれで失礼します。お仕事がんばってくださいね。心から応援してます」
不思議そうな顔で見送る咲良と八木沢をあとに残し、莉子は事務所棟をでた。
敷地に足を踏みいれたときには気づかなかったが、門の内側にはコスモスが咲いていた。並木からは枯れ葉が舞い落ちてくる。やわらかい陽射し、穏やかな風のなかを歩いた。
幸せなときが流れている、莉子はそう実感した。人は、複製に満足はできない。最後にはかならず本物を求める、邪心も猜疑心も、そこに至るまでの過程で振り払われていく。
門をくぐり、外界へと戻っていく自分を感じながら、莉子は空に目を向けた。笑顔で見守ろう。誰の心であろうと、人としてそう違いはないのだから。


万能鑑定士Qの事件簿 Ⅶ
クリスマスイヴ
鏡に映った自分の姿は、まさしく子供のころに思い描いた理想の女性そのものだ。
モデルのプロポーションを基準にしても、上位に選抜されるであろうスリムなボディライン。背は高すぎず低すぎず。髪は洗練されたマニッシュボブでクールにまとめ、小顔に引き立つ大きな瞳は、ブラウンのグラデーションとパール入りシャドーでさらにサイズを増している。頬と口もとのメイクは、肌艶のよさを生かしてあっさり。黒のワンピースにグローブ、ハイヒール。ロンドンガール風パーティースタイルながら、仕事のできる女という印象の、完璧なコーディネート。
中身と同じぐらいルックスを重視する採用は、株式会社ステファニー出版においては長年の伝統であり、常識だった。当然、社員のファッションにもセンスのよさとハイソな風格、なにより時代の先端をいく装いが求められる。
人の外見だけではない。社屋はエクステリア、インテリアともに贅を尽くしながらモダンなデザインを追求している。照明器具からデスク、小物のひとつに至るまで、内装との高度に芸術的なマッチングを成している。社内のどこを撮影しても絵になる。どのフロアも、その気になればスタジオ同然の背景となりうる。
そんなわが社の社風を、はったりだと思う人間がいる。とりわけ、少しばかり出版の仕事をかじった輩に多い。
百万部を超える女性誌を発行していようと、読者の目に触れない業務エリアまできらびやかに飾られているなど、素人の妄想だ。そう断じたがる。どんなにお洒落が売り物の会社であっても、ドアを開ければ雑然とした編集部の実態があるのさ。無精ひげの中年男が猫背でパソコンのモニターを眺めているにきまっている。綺麗なモデルを撮影するフレームの外には、安物の収納ボックスが連なっているもんだ。そんなふうに吠えては、冴えない自分たちの仕事環境を正当化したがる。
ステファニー出版入社五年目、二十七歳にして編集長第一秘書の座についた園部遥菜にしてみれば、そちらの認識のほうがお笑いだった。彼らは自分たちがファッション業界、あるいは雑誌業界の端くれだと思いこんでいる。それこそ妄想の名にふさわしい。
真の女性誌の製作現場には、カジュアルルックのライターの出入りはない。粗末なスーツを着た出っ腹の初老が事務机で書きものをすることもない。見渡す限り、日常を遠く離れた美の世界。ニューヨークやパリには存在しても東京には稀な、作り手にもトレンドを徹底する数少ない企業。わたしは夢にまでみた職場で、要となる役割に従事している。これほどの喜びがほかにあるだろうか。クリスマスイヴに朝まで残業といえど、ステファニー出版の夜は特別だ。わたしたちは異性にうつつをぬかす、ただの消費者とは違う。今宵こそ、わたしの人生の晴れ舞台。
高揚した気分で鏡の前を離れて、広大なフロアを歩きだす。
ロココ調を若干シンプルに、モダンにアレンジした編集部では、遥菜同様にスマートな体型を最新のファッションに包んだ社員たちが待機していた。
張り詰めた空気のなか、セクション間の連絡係を務める櫻井美咲が、iパッドを手にして小走りに駆けてくる。丸顔に丸い目が特徴の二十三歳、美咲はややあわてたようすで告げてきた。「園部さん。テクニカル部から電話が入りました。購入希望者のアクセスが殺到して、二ギガヘルツ帯の3G回線でダウンロードが不安定になる恐れがあります。一部動画にブロックノイズが発生するかも......」
遥菜は歩を緩めず、デスクの谷間を突き進みながらいった。「SIMロック端末のユーザーを優先して、五十万部ずつのダウンロードに区切って。それ以外は日が変わってからアクセスを許可すればいいでしょ」
「でも」美咲は歩調を合わせてきた。「先月号では電子版の購入者は四百万人に達してます。今夜はクリスマスイブなので、配信直後にダウンロードを希望する人が多いらしくて、そのう、三百五十万人が不満を感じることに......」
じれったさを感じながら遥菜は足をとめ、美咲をにらみつけた。「何度いったらわかるの? 特殊なプラグインがない状態でも、記事はレイアウトの隅々まで瞬時に表示される必要があるの。ページ間の移動もスムーズでストレスを感じさせず、画像は常に鮮明に美しく。むろん電子版の最大の長所である動画は、一瞬たりともぎこちなさを伴うことがあってはならない。パリコレの舞台から洋服の質感まで、映像コンテンツはすべて迫真の臨場感を伴って読者に届かなきゃいけないのよ。クオリティの高い表現こそ、なにより優先すべきもの。編集長もそういってたでしょう」
「すみません......。売り上げ部数も気にかけろと営業部にいわれていたので」
「『イザベル』はいまや世界に冠たる女性誌よ。少しぐらい待たせても購入希望者は減ったりしないわ」
紙媒体として書籍流通している月刊誌『イザベル』は、シャネルやエルメスの特製カジュアルバッグを独占的に付録に採用していることもあり、販売は堅調だった。しかし、それ以上に幅広い読者層の支持を得ているのは、半年前から刊行を開姶した電子版『イザベル』だった。
印刷所を経て製本されるせいで、どうしても記事にタイムラグが生じる紙媒体と違い、電子版はその情報の新しさが売りだ。テレビ番組制作と同様に、配信の寸前まで記事の刷新がおこなわれる。携帯電話版も用意されているが、最大の人気を誇るのはiパッドをはじめとする大型画面の携帯タブレット端末版だった。
『イザベル』電子版の登場以来、タブレット端末を買い求める女性が急増、アップルやマイクロソフトは電子出版業界でも他に例を見ない成功ぶりに、ステファニー出版に業務提携を申しでるほどだった。大手出版各社が書籍や雑誌の電子化に二の足を踏むあいだに、わが社は率先して業界に参入し『イザベル』を大ヒットに導いた。その収益をさらなる電子版のクオリティ向上、配信システムの整備につぎこんできたため、もはや他社が追随しようとも及ばないほど高度な電子出版の完成形に、限りなく近づいている。
今年最後の電子版、クリスマス特集号は、午後六時に配信される。遥菜は腕時計に目を向けた。午後五時三十七分。あと二十三分。
編集部以外にも、あらゆる部署の人間が社内に居残って、いつでも業務を再開できるよう待機している。今晩、夜通しおこなわれるクリスマス・パーティーを待つばかりが、皆の仕事ではない。編集長の最終確認が済んでいない以上、配信寸前まで修正を命じられる可能性ありとして、対処できるよう身構えておく必要がある。万一に備え、フォトスタジオとカメラスタッフ、モデルにスタイリスト、メイクアップアーティストまでスタンバイさせてあった。
美咲がおずおずといった。「あのう、園部さん......。今月号は編集長からの連絡、なかったようですけど」
「ええ」遥菜はうなずいてみせた。「前にも何度か、ノーチェックのまま出版に至ったことはあったわ。わたしたちを信頼してくれてるのよ」
「そうですね」美咲は笑った。「このまま無事に終わってくれれば......」
「しっ、そんな言い方するべきじゃないでしょ。編集長は必要があれば直しを要求してくる。いつだろうと、どんな内容だろうと対応するのがわたしたちの務めでしょう」
「は......はい、失礼しました。おっしゃるとおりです」
編集部内の緊迫した雰囲気が、さらに重みを増す。誰もが無言のまま視線を交錯させていた。着飾った社員たちが沈黙して、ひたすら時が過ぎるのを待つ。
遥菜はひそかにため息をついた。美咲に対してああはいったものの、わたしだって祈りたい気分だ。何ごともなく配信に至る。それさえ実現すれば、とりあえずいまは何もいらない。どんなクリスマス・プレゼントにも代えられない褒美だ。
そのとき、静寂のなかに、かすかに電話の音をききつけた。
フロアの奥、社長秘書室から漏れきこえてくる。そして次の瞬間には、すぐ近くのデスクの上にある電話機のランプが灯ったのを見た。
編集部内のすべての電話が鳴りだす寸前に、遥菜はすかさず受話器をとった。「ステファニー出版編集部、園部が承ります」
すると、低い女の声がぼそりと告げてきた。「遥菜」
背筋に冷たいものが走る。遥菜は思わず、社員研修で習ったとおりの直立姿勢をとった。「編集長......。こんばんは」
ざわっとした驚きと、いっそうの緊張が編集部内に漲る。誰もが固唾を呑んでこちらを見つめてきた。
人呼んで、出版界の女帝。あるいは、日本版〝プラダを着た悪魔〟。ステファニー出版代表取締役の城ヶ崎七海は、社長と呼ばれることを何よりも嫌う。雑誌づくりのあらゆる段階に目を光らせ、すべてのクリエイティブな作業の確認と決定に介入するという意思表示を兼ねて、全社員に〝編集長〟と呼ばせている。
氷よりも冷たく感じられる城ヶ崎七海の声の響きが、耳もとでささやく。「電子版の見本はどこ?」
「あ......あのう」心拍の速まりを覚えながら遥菜はいった。「今月号の見本データなら、いつもどおり一週間前に校了したものを、専用サーバ経由でお送りしているはずですか」
「ないわ。クリスマス特集号という表紙のついた、まるで商品として成り立たない試作のゴミデータなら、わたしのタブレット端末に映っているけど」
城ヶ崎特有の遠まわしに皮肉をきかせた表現、しかしそれは、彼女の憤りの強さを表すバロメーターだった。今度の怒りも相当なものだ。
遥菜は編集員に指で合図した。誰もが着席してパソコンのモニターを見つめる。遥菜自身も、手近なデスクのモニターに目を向けた。「申しわけございません。修正箇所についてお気づきの点があれば、ご教授願えますか」
「十八ページ」と城ヶ崎の声が告げた。
タッチパネルスクリーンに触れてページを繰る。
編集長による確認作業はもっと何日も早くおこなわれるべきだ。訂正の指示にしても、余裕を持ってもらわねば困る。誰もが心のなかではそう思っている。しかし、おくびにもだしてはならない。配信まであと二十一分。間に合わないという泣き言の通じない、ぎりぎりのタイムリミット。
城ヶ崎が指示したページを開くまで、最小限の時間しか許されない。三秒足らずで操作を終えた。文字中心のレイアウト、世界のクリスマス・ディナー特集だった。
遥菜はいった。「十八ページ、開きました」
受話器から城ヶ崎の声が響く。「第一秘書は社内の酸素を二酸化炭素に変えるだけが仕事かしら」
この言いまわしは前にもきいた。ひと呼吸する前にページのミスに気づきえてしかるべきという意味だった。
思わず息をとめてモニターを凝視し、表示の隅々にまで目を走らせる。レイアウト、ページ番号、配色。本文の校正ミスではないだろうと遥菜は思った。もしそうなら、さすがの城ヶ崎も三回の呼吸までは許可してくれるはずだ。
瞬時に、遥菜のなかを電気が走り抜けた。遥菜は受話器をさげて編集部内に怒鳴った。
「見出しの X'mas って何よ! アポストロフィをつけるなんて、いったいどこの町内会チラシよ」
Xはアルファベットのエックスではなく、ギリシャ語のカイ。mas は祝祭を表す。そもそも英単語ではないのだから、省略形は誤りだ。
いまどき、地方のスーパーマーケットの広告看板でもお目にかからないほどの稚拙なミス。遥菜は頭に血をのぼらせた。「ただちに Xmas に修正して。ページを責了した担当者は後で名乗りでること。ボーナスカットは覚悟しておいてよ。急いで作業に入って!」
編集員たちはいっせいにパソコンのキーを叩きだした。該当するページの担当者だけでなく、誰もが身に覚えがあるらしい。確認せずにはいられない、そんな心境のようだった。
まったく、どいつもこいつも......。ファッションには精通してるくせに、基礎学力にはおおいに問題がある。心のなかで吐き捨てて、受話器に告げる。「対処しました」
「次」と城ヶ崎七海の声がいった。「二十六ページ」
素早くモニターを操作する。「はい......。二十六ページ、表示しました」
そこはグラビアページだった。白人女性のモデルを使い、姫の扮装をさせたうえで、中世のイギリスの城内でのクリスマスを再現している。きわめて経費のかかった撮影だった。
城ヶ崎の声が響いてきた。「『イザベル』電子版は海外にも配信されてるんだけど」
「はい。今月号も英語版、フランス語版など、十八ヵ国の言語の翻訳版が同時配信されます」
「この写真もイギリスに向けて公開するわけ? アングロサクソンの嘲笑がきこえてくるようね。文化はやっぱり西高束低って」
嫌味を聞き終わらないうちに、遥菜は問題点に気づいた。別の電話の受話器をひったくると、内線ボタンを押してスタジオを呼びだした。男性の声が応じた。「フォトスタジオです」
「園部だけど。ただちに写真の差し替えをお願い。二十六ページの上段」
「なにか問題でも......」
苛立ちが募る。遥菜は早口にまくしたてた。「なにか、ですって? この写真の真ん中に突っ立ってる緑いろの物体はなによ? 中世のイギリスにはまだ、クリスマスツリーを飾る習慣なんかなかったのよ!」
十八世紀の終わりにドイツから英国に嫁いできたジョージ三世の妃、シャーロットが持ちこんだのが始まりだ。ページ担当者はいったいどこの大学をでているというのか。やはりファッション以外の知識に疎い。しかも目も当てられない勘違いは、それだけに留まらない。
遥菜はじれったさを噛みしめながら怒鳴った。「クリスマスケーキにロウンクなんか立てないでよ。こんなの日本とか韓国とかの風習でしょ。わかったらさっさと撮り直して」
「で......でも、記事に合う写真はほかにありませんし、フリーは大きすぎてデジタル処理でも消せませんし......」
「なんのためにフォトスタジオをスタンバらせてると思ってるの。前と同じじゃなくていいから、適切と思えるコンセプトの写真を大至急撮影して掲載して。ついでにこのモデル、鼻の穴が大きいからうつむかせて、下を向いていれば向いているだけいい写真になるわ。ウィッグは七番のロングカーリーブロンド、マスカラはアイボリーで濃いめにするのよ」
「けど......いまから撮り直しなんて......」
返事などききたくない。受話器を叩きつけてから、もうひとつの受話器に対しては穏やかに報告する。「指示をだしました。かならず間に合わせますので」
城ヶ崎の声がいった。「百十九ページ」
まだあるのか。遥菜は冷や汗をかきながら、電子版のページを繰った。「はい。ページ開きました」
「こんな写真を掲載しているようじゃ、わたしは世間に顔向けできないわ」
遥菜は絶句した。
そこには、クリスマス特集とは異なるレギュラーのコラムが掲載されていた。アメリカとイギリスを旅する特派員記者が写真つきでお洒落な海外生活を紹介している。今回はイギリス特集だった。ビッグベンやロンドン橋、ストーンヘンジのような有名な観光地から、郊外のごくありふれた街角まで、ありとあらゆる写真が存在している。その数、じつに百以上。
「へ......編集長。大変お手数をおかけしますが、どの写真に問題があるのかお教え願えましたら......」
「ページ修正が完了しないかぎり配信してはならない。と同時に、配信は一秒も遅れず予定どおりおこなうこと。以上ふたつを厳守」
電話は切れた。
遥菜は呆然としながら受話器を置き、画面に目を凝らした。
あきらかに公序良俗に反している写真でも含まれていれば、なんとか発見できる。しかしこれは......まるでわからない。ロンドンに行ったことはあるが、どれもこれもイギリスの素朴な風景だ。看板の文字は英語、建物はすべて英国風建築。記事の内容とも、問題なく合致しているようだった。
まずい。このままではページ担当者ばかりか、わたしの責任問題に......。
救いを求めてフロアを見渡す。だが、編集員たちは最初の校正について発生した騒動をなおもひきずっていた。誰ひとりとしてこちらに目もくれず、ひたすらパソコンにかじりついている。
第二秘書はどこだ。こんなときに姿を消すなんて。
課長の雲伊司なら、第二秘書の行方を知っているかもしれない。遥菜は美咲にきいた。
「雲伊課長はどこ?」
「警備会社に行っておられます。GPS付きの手提げ金庫をレンタルするとか......」
「ああ、そうだったわね。忘れてた」
「呼びだしますか?」
「ええ。いますぐに」
美咲が近くの受話器をとる。はやる気持ちを抑えながら、遥菜は腕時計を見た。
残り二十分を切った。サンタが何を持ってこようと、いまは突き返したい。わたしの目下の望みはこの場を無事に切り抜けることだけだ。
手提げ金庫
雲伊司は、東京スカイツリーにほど近い押上駅前に連なる商店のひとつ、日本統合警備の墨田区出張所にいた。
店舗は狭く、ガラスケースを兼ねたカウンターが床面積の半分ほどを占めている。展示されているのはプロの警備会社が貸しだすセキュリティーアイテムの数々だった。警報機に煙探知機、懐中電灯、強化アクリル製の盾や伸縮自在の警棒もある。
奥から顔馴染みの中年男が姿を現した。この店の主人だった。「やあ、雲伊さん。早いね。クリスマスイヴだから、道も混んでただろうに」
雲伊は苦笑してみせた。「馬鹿いっちゃいけないよ。都内でクルマなんか。東京メトロ半蔵門線って便利なものがあるじゃないか」
「へえ......意外だね」店主はカウンターに肘をついた。「『イザベル』の編集部一のやり手で、城ヶ崎七海さんの絶大な信頼を得ている課長さんが、電車で移動かい。ドルガバのスーツを着た三十七歳のイケメンが、聖夜にひとりで駅の改札をくぐるとはね」
「残業でデートはお預けってことだよ。社用車を使う自由はあるんだけどね。都内の道はよく知らないんだよ」
「たしか家は江の島だっけ?」
「そう。あの辺りも道が混むんで、クルマじゃ近場にしかでかけない。おかげで保谷市がなくなったのを知らずに谷保までドライブしちまったこともある。千駄ヶ谷と千駄木はしょっちゅう間違えるし」
「鷺沼と鷺ノ宮の違いも判らなそうだね。あと鷲宮も」
「駅のアナウンスの『王子・田端・池袋方面』ってのが長いこと、オーじたばた池袋としか聴こえなくてね。無知を笑いなよ」
「このご時世に業績が右肩上がりの優良企業にお勤めの御仁を、馬鹿にできるはずないでしょう。で、きょうはGPS手提げ金庫をご利用ってことでいいかい?」
「そう。パーティーに来る客から、とんでもなく高価なアクセサリーを借りて撮影に使うんでね。朝方にお開きになるまで、安心して保管できるツールが必要ってことで」
「これでしたらなんの心配もありませんって」と店主はガラスケースのなかを指さした。
ジュエルボックスほどのサイズの金属製手提げ金庫が六つ並んでいた。どれも頑丈そうで、側面にテンキーと液晶表示板がついている。デザインはすべて同じだが、蓋にはゴシック体のアルファベットがAから順に、一文字ずつ大きく印字してある。
店主がきいた。「ご入り用は、いつもどおり二個だね?」
「そう。編集長の信条でね。機械ものは故障に備えてふたつ用意しておくこと」
「こいつが壊れることなんて、めったにありえないのに。ま、二個ぶんのレンタル料を稼げるんだから、うちとしちゃ有難いけどね」店主はガラスケースを開けた「じゃ、AとB......」
「末尾のふたつにしてくれ。いつもAから順に貸しだしてるんだろ? なら新品に近いのはEとFだよな」
「ちゃっかりしてるねえ」店主はにやつきながら、ふたつの手提げ金庫を取りだしてカウンターに置いた。
Eの手提げ金庫の蓋を開ける。内張りはビロードだった。その高級感漂う黒い光沢のなかに、店主が手を差しいれる。ぱちんとスイッチの入る音がした。
店主は顔をあげた。「見てのとおりGPSのスイッチは、内部にある。もちろん電池ボックスもご同様。だから蓋を閉めて暗証番号を入力、ロックしちまえば、外からは絶対にオフにできない」
「わかってるよ。位置をモニターする方法もいままで通りだね?」
「ああ。携帯でもPCでも」店主はノートパソコンを開いて、キーを叩いた。「サイトにつながりさえすれば、どんな端末でもオーケーだよ。ほら」
モニターに地図が表示されていた。三千分の一の縮尺だった。押上駅前のこの店舗の位置に点滅する三角形の印がある。Handy cashbox-E と表示されていた。
「ご機嫌だね」と雲伊はいった。
「最寄りの携帯電話基地局に一分おきに位置情報を送信するから、どんなに遠くに持ちだされようと、確実にサイト上のマップに表示されるよ。無理にこじ開けようとしても開くもんじゃないし、万が一にもロックが壊されたら、半径二キロ圏内に届く音量で警報が鳴り響く。なかにアクセサリーを保管するのはひと晩だけかい?」
「そう。明朝には返すよ」
「なら、夜中以降はGPSのスイッチを入れっぱなしにしておけばいいよ。バッテリーは八時間もつし」
「八時間か。充分だね」雲伊がそう返したとき、携帯電話が鳴った。
店主が眉をひそめた。「会社かい? そういえば『イザベル』電子版のクリスマス特集号、きょう配信だったね」
「ああ」雲伊は携帯電話を取りだした。「だからこそ喜んでパシリ役を請け負ったのにな。配信直前の編集部に身を置きたくなかったんでね。たちまち胃が痛くなるよ」
液晶画面に表示されているのは、ほかならぬ編集部の三文字だった。やれやれ。雲伊はため息をつきながら応じた。「はい。雲伊ですか。手提げ金庫なら無事借りられましたよ」
すると、編集長第一秘書の園部遥菜の悲鳴に似た声が耳をつんざいた。「それどころじゃないんです! 莉子がどこにいるか知りませんか。第二秘書の居所です」
「第二秘書って......凜田莉子? 彼女なら、午後はずっと四階だよ。大会議室に入り浸ってるはずだけど」
「大会議室? ああ、そう。わかりました」遥菜の声はそう告げながら、息が弾んでいた。ハイヒールで駆ける甲高い足音が響いている。すぐさま電話は切れた。
雲伊は壁の時計に目を向けた。午後五時四十二分。配信まであと十八分。
「どうやら」雲伊はつぶやいた。「いつにも増して嵐の予感だな」
店主が眉をひそめた。「戻ってあげなくていいのかい?」
「必要ないね」雲伊は肩をすくめてみせた。「第一秘書がいっぱいいっぱいでも、第二秘書は頼りになるんでね。クリスマスイブだよ。のんびりいかなきゃ」
第二秘書
園部遥菜はエレベーターを降りると、四階の廊下を猛然と突き進んだ。
残り時間十四分。きょうはミーティングの予定などないのに、莉子はなぜか大会議室に籠もっているという。配信時間が迫っているのに編集部を離れるなんて。
突きあたりの観音開きの扉を押し開けて、大会議室に踏みいった。
とたんに、遥菜は異様な状況に立ちすくんだ。
会議テーブルは壁ぎわに寄せられ、空いたスペースには撮影スタッフがひしめきあっている。背景合成用のグリーンバックがセッティングされ、その前に中世の英国貴族風の衣装を身につけた白人のモデルたちが立っている。アンティークもののテーブルや椅子、家具、調度品などもセッティングしてあった。いずれも、問題になったグラビア撮影に使われたものばかりだ。ただし、クリスマスツリーやロウンクを立てたケーキについては排除されている。城ヶ崎七海が苦言を呈した要素は残らず姿を消していた。
照明スタンドがいくつも立ち並んで、被写体を明るく照らしだしている。カメラマンは三脚を据えて、ポラの撮影に忙しかった。アシスタントが露出計を片手に駆けまわっている。
まるでフォトスタジオが丸ごと引っ越してきたかのような状況だった。遥菜は呆気にとられてたたずんだ。
すると、眼鏡をかけた冴えない青年がひとり近づいてきた。名前を思いだすのも煩わしい、このグラビアページの担当編集者が、泡を食ったようすでまくしたててきた。「園部さん。こんなのは無茶ですよ」
「......なにが起きてるの?」
「グラビアを撮り直そりとしたら、モデルも小道具もこの大会議室に集められてるっていうんです。第二秘書の凜田さんが取り仕切って、昼過ぎから準備してたって」
「昼過ぎ? 誰が許可したの?」
「雲伊課長です。でも、言いだしっぺは凜田さんのようなんです。私はさきほどの連絡を受けて、駆けつけたばかりでして。見てのとおり、凜田さんが勝手に......」
事態が飲みこめてきた。遥菜は厳しくいった。「なにが勝手よ。残り十四分、あなたがイチからセッティングして、撮り直しが間に合ったとでもいうの? そこをどいて」
青い顔をして退いた編集者を横目に見ながら、遥菜は部屋の奥に歩を進めた。壁ぎわのテーブルの上には、デジタルカメラと接続されたハードディスクやモニターの類いがずらりと並んでいる。グラフィック担当のスタッフが何人か寄り集まっていた。
そのなかにいたひとりの若い女が、カメラマンを振りかえって指示をだす。「押さえのライトを上手に寄せてください。フォトショップで輪郭がうまく抜けないんです。......それで結構です」
年齢は二十三。ほっそりと痩せた身体、腕も脚も長く、頭部は小さくてモデルのようなプロポーションの持ち主だった。遥菜同様にパーティースタイルのワンピースを着ているのは、今夜のステファニー出版においてはそれが編集長秘書の正装だからだ。ゆるいウェーブのロングヘアに縁取られた小顔には、猫のように大きくつぶらな瞳と高い鼻、薄い唇がそつなくおさまっている。女子大生のような瑞々しさは備えていても、可愛いというより綺麗という形容が当てはまる美人顔で、総じてクールで個性的だった。
遥菜は静かに歩み寄ると、モニターを覗きこんだ。
そこには、問題箇所がすべて修正されたグラビア画像があった。グリーンバックに城内の景色が合成され、自然な仕上がりになっている。いや、以前よりずっと美しく幻想的なライティングで、モデルもより魅力的に見えた。
カメラのシャッター音が響き、フラッシュが焚かれる。静止画がいくつもモニター上に並んだ。
莉子はいきなりこちらを見つめてきた。「遥菜さん。どれがいいと思いますか?」
「ええと......。そうね、四番。お姫様の顔が白くきれいに浮かびあがってるし、ドレスの質感もいいし。左を十五パーセントほどトリミングするべきかな」
すぐさま莉子はスタッフの肩に手をかけて告げた。「四番のデータを電子版製版部に転送して。左十五パーセント断ち切ってください。お姫様を写真のセンターに」
「わかりました。ただちに」スタッフがマウスを滑らせる。
別のスタッフは受話器をとり、インターホンを通じて指示をだした。「製版部につないでください」
莉子はようやく微笑を浮かべた。「間一髪。お昼休みに気づいてよかったです。担当編集者がフォトスタジオを貸してくれないんで、雲伊課長に頼んでぜんぶこっちに引っ張ってきました」
「助かったわ......。けど、莉子。修正箇所はこれだけじゃないのよ」
ふいに莉子の表情が曇った。「ほかにもまだ問題が?」
「きて」遥菜は、空いているパソコンの前に莉子をいざなった。配信前の電子版のページを繰って、例の特派員記者のコラムを探す。
くだんの百十九ページが表示された。イギリスの風景を撮影した写真が百枚以上、サムネイル風の縮小画像で並んだ。
遥菜はいった。「編集長は例によって今回も、ページのどこに問題があるのか教えてくれなくて」
莉子は画面をじっと見つめた。虹彩がモニターと同じいろを放つ。大きく見開かれた目は猫そのものだった。
腕時計に視線を落としたとたん、遥菜は悲鳴をあげそうになった。五時五十四分。あと六分しかない。
「莉子......」
「待ってください」莉子の声は落ち着き払っていた。
緊迫した空気のなか、じりじりと時間だけが過ぎていく。ときの流れの異常な速さ。朝、家をでる前をもうわまわるペースに感じられた。残り五分。四分。三分......。
もうどうにもならない。ここまできたのに......。遥菜は鳥肌が立つ思いだった。
そのとき、莉子の手がマウスに伸びた。ひとつの画像を選択し、拡大表示する。
「これですね」と莉子がいった。
遥菜は画面を凝視した。門の前に乗りつけた郵便配達のクルマだった。車体側面に Post Office とある。驚きを禁じえない。遥菜はうわずった自分の声をきいた。「これ?」
「ええ。この特派員記者は米英両国を周遊してるでしょう? アメリカの写真が紛れこんじゃったんです」
「嘘でしょ。これイギリスの写真よ。右ハンドルよ」
「だから記者さんも編集者さんも間違いに気づかなかったんでしょう。アメリカでも、郵便配達のクルマは右ハンドルなんです。そのほうが配達しやすいから」
思わず、はっと息を呑む。「じゃあ、これが編集長のいうミス......」
莉子が受話器をとって、インターホンのボタンを押した。「編集部? 欧米生活のコラムページの担当者をだしてください。上段から七列め、左から三番めの郵便配達車の画像を、記事内容に合致する別の写真に差し替えて......」
遥菜は腕時計を見た。心臓がとまりそうだ。一分を切っている。
あと五十秒。四十秒。三十秒......。莉子はまだ受話器と話している。二十秒。十秒......。
そのとき、モニターのなかで、問題の写真が消えた。代わりに表示されたのは、今度こそ紛れもなくイギリスの名物、バッギンガム宮殿の前に横付けされた郵便配達車の画像だった。
直後に、モニターに大きく文字が映しだされた。Delivery Starting──配信開始。
深く、大きなため息を遥菜はついた。
莉子はにっこりと笑った。「やったぁ。クリスマス特集号、無事配信。仕事納めですね」
遥菜はしばし凍りついていた。
やがて、じわりと実感が湧いてくる。助かった......。
室内に歓声がこだましていた。拍手もきこえてくる。
目の前にたたずむ莉子の顔を、じっと見つめた。
その屈託のない笑顔を見るうちに、思わず抱きつきたい衝動に駆られる。だが、かろうじて自制した。わたしは第一秘書だ、社員の見ている前では終始冷静でいなければ。
「ありがとう」遥菜は控え目につぶやいた。「じゃ、屋上での撮影を監修してから、パーティーの準備ね」
「はい」莉子はうなずいて、さも嬉しそうに踵をかえし駆けだした。
その後ろ姿を見送りながら、遥菜はようやく安堵のときが訪れたのを悟った。
過去はどうあれ、いまこそすなおに感謝したい。凜田莉子。彼女が第二秘書になってくれてよかった。四か月前のあの暑い夏の日、鑑定家からステファニー出版に転職する道を選んでくれて、本当によかった。
四か月前
クリスマスイヴまで、あと四か月余り。夏も猛暑の峠を越えて、そろそろ秋の気配が漂いだしていた。
雲伊司は窓の外を眺めていた。季節の変わり目には、世間のファッションの推移が気になる。ステファニー出版に勤めていれば、レディスの流行予測は常に頭に入っている。『イザベル』の記事どおりのものを女性たちが身につけているかどうか、いつも目を光らせている。
十階のミーティング・ルームの窓から見下ろす銀座七丁目界隈の歩道に、色とりどりの装いの女性が行きかう。国際流行色委員会の仕掛けた色とは違う。インターカラーが世に流行らせようとするプランは、百パーセント完全な成果をもたらすわけではない。風向きが変わることもしばしばある。今年はその典型だった。色彩、デザイン、着合わせ、すべて城ヶ崎七海の予想どおりだ。
わが社の代表取締役であり、名物編集長でもある彼女の下で働くためには、いくつか順守せねばならないルールがある。嘘をつかないこと。誠実であること。職務に忠実、熱心であること。
女性社員が七割を占めるこの会社で、少数派の男性社員のなかで課長職にまで出世できたのは、そういった努力を怠らなかったからだ。雲伊は常々、そう自負していた。
ゆえにきょうも、厄介な雑用であっても城ヶ崎の鶴のひと声には従わねばならない。雲伊は会議テーブルの自分の席に戻った。ほかに列席者はひとりだけ。並んで座る園部遥菜も、愚痴ひとつこぼさずに来客を待っている。
ドアをノックする音がした。雲伊は姿勢を正して応じた。「どうぞ」
入室してきたのは、この社屋ではたいしてめずらしくもない、ドルガバのスーツを着こなした細身の男性だった。年齢は四十二だが、雲伊よりも年下に見えなくもない若々しさを誇っている。このところ黒髪を短く清潔に保っているのは、早稲田大の非常勤講師を兼ねているからだろう。『メンズイーエックス』や『ゲイナー』のモデルがやや年を重ねた感じ。それが、菊原琢磨という男だった。
菊原は上機嫌のようすで、会議用テーブルをはさんだ向かいの席に腰をおろした。「いやー、暑いね。記録的猛暑ってやつだね」
まずは世間話か。雲伊は控えめな口調を心がけながらつきあった。「汗っかきの女性が増えることは、香水評論家の菊原先生にとっては歓迎すべき状況では?」
「そうでもないねぇ。欧米人とは違って、日本人は体臭が少ないし、女性ならなおさらだしね。販売される香水も輸入品ばっかりで、品揃えは代わり映えしない。この季節に書く記事は、毎年同じだよ」
遥菜がいった。「そうはおっしゃっても『イザベル』に連載中の菊原先生のコラムは、読者にたいへんな人気ですけど」
菊原は笑い声をあげた。「ま、女性のニーズを的確にとらえているってことかな。きょうは、単行本にして出版するって話かい。記事も溜まったころだし、そろそろ声がかかると思ってたよ」
「いえ」遥菜の顔には笑みはなかった。「逆です。単行本の出版については無期延期。コラムの連載も打ち切りにさせていただきます」
しばらくのあいだ、菊原の顔にはまだ笑いが留まっていた。
雲伊は困惑を覚えて目を逸らした。あまりに気の毒で、直視に耐えない。
園部遥菜の態度はこのところ、城ヶ崎七海に似てきた。彼女のみならず、ステファニー出版においては女性社員全員が城ヶ崎の影響を受けつつある。女王がいるイギリスでは、組織において女性の権力が強まる傾向が顕著というが、この会社も同様だった。ずばずばものをいう女性たちに圧倒されて、すっかり肩身が狭い思いをしている雲伊にとって、菊原の受けた衝撃は他人ごとではなかった。
「......ど」菊原の顔はひきつっていた。「どういうことなんだ、延期とか、打ち切りとかって」
遥菜は手もとのジュラルミンケースを開けると、なかから一冊のハードカバーを取りだした。
「これ」遥菜は菊原にきいた。「なんだかわかりますか」
ふんと菊原は鼻を鳴らした。「私の本だよ。香水のエッセイだけじゃ文才がもったいないからと、小説の執筆をすすめてきた編集者がいてね。それでこつこつと書きためて、出版に至った。香水を扱った純愛小説でね」
題名は『バラと女と香水と』。タイトルからしてセンスに恵まれていないと雲伊は思った。香水評論家としては有名でも、小説家向きとはお世辞にもいいがたい。それが菊原という男だった。
仏頂面の遥菜がいった。「主人公の名前は安室渚となってますね」
「安室奈美恵のファンなんでね。そこからとった。読者には好評だったよ。角川書店から今年の六月にだしたんだが、初刷は完売したし」
「二千部しか刷ってないんだから、売れ残ったら逆に問題でしょう」
「増刷の話もきて当然なんだよ。なぜかまだ連絡はないけど......」
「理由があるんです」と、遥菜はもう一冊、別の単行本をテーブルの上に滑らせた。
「なんだこれ」菊原は眉をひそめて本を手にとった。
「それも小説です」遥菜はいった。「『フゼアとハーブとオーデコロン』。版元は精進書店。著者は藪野稔となってます」
「きいたことない作家だな。タイトルから察するに、これも香水を扱った小説かな」
遥菜は無言のまま菊原を見つめた。菊原は、ぱらぱらと本のページを繰った。
しだいに、菊原の顔が紅潮していく。
やがて真っ赤に染まった顔をあげて、菊原は甲高い声をあげた。「な......なんだ、こりゃいったい?」
冷やかな面持ちの遥菜が告げた。「菊原先生の作品にそっくりですね」
「そっくりなんてものじゃないよ......。まるで同じだ。語尾とか、言いまわしがところどころ変えてあるけど......ほとんどそのまま僕の小説を写してる。こりゃ盗作だ!」
「その本、菊原先生の小説より先に出版されてるんですけど」
「な......何?」
「奥付によれば『フゼアとハーブとオーデコロン』は今年の五月十三日の出版です。菊原先生の『バラと女と香水と』は六月六日刊行。三週間以上も差があります」
「ま、待ってくれ」菊原はあわてたようすで身を乗りだした。「雑誌なら発売まで三週間あれば、まだ入稿も間に合ったりするだろう。電子版なら配信の直前までいじれる、でも書籍ってのは違うんだよ。印刷所にまわされてから製本まで、一か月以上は優にかかる。僕の小説は、春には入稿を終えてたんだ」
「条件は藪野稔って人の小説も同じでしょう。刊行が早かったぶんだけ、向こうの小説のほうがずっと前に入稿していたと考えられます」
「日付は正確なのか? 奥付に載ってる初刷刊行日ってのは、サバを読んでたりするものなんだよ。本屋は一定期間、棚に置いてあったのに売れなかった本を返本する。そのとき、奥付の日付を実際の刊行日より何週間か後にしておけば、返本を遅らせられるんだ」
「そんなの、二流の出版社の常套手段でしょう? 角川書店のようなちゃんとした大手はおこないません。それに今回のケースでは、精進書店のほうも正確な刊行日を奥付に載せていたことを確認済みです」
「園部さん。まさか、僕がこの名も知らない作家の小説を盗用したとでも? 冗談じゃない。城ヶ崎さんはどこにいる。彼女ならわかってくれるはずだ」
遥菜は戸惑いのいろを浮かべて、雲伊に目を向けてきた。
雲伊は咳ばらいをした。「菊原先生。コラムの連載中止は城ヶ崎編集長の判断です。編集長はこの件を重く見ています。正直、まったく売れていなかった無名の作家による『フゼアとハーブとオーデコロン』なる小説を、あなたがそのままコピーし自分の小説と偽って出版した。そう結論せざるをえないんです」
「三週間で小説が書けるわけない!」
「もちろんです。ただし、他人の作品に一部手を加えただけで出版に及ぶには、充分な期間といえます。主人公の名前が芝里佳子になっているほか、登場人物名はすべて違っていますが、作品としては同一のものといっていい。あなたに対しては連載中止のみならず、今後わが社がお付き合いできる状況にないというのが編集長の意見です」
「しかし......担当編集者からは何も......」
遥菜はじれったくなったのか、冷淡に言い放った。「角川書店さんも迷惑がってるみたいですよ。ライトノベルじゃたびたび起きることらしいけど、今度は社会的地位もある菊原先生のことだし。それで編集者も連絡を控えてたんじゃないですか?」
菊原は目を瞠り、なおも反論する意思をみせつつ口をぱくぱくさせていたが、思うように言葉にならないようすだった。
やがて、呆然とした面持ちで立ちあがると、菊原はふらつきながら戸口に向かい、部屋をでていった。
会議室には沈黙だけが残った。
雲伊は思わず唸った。「私見だけどね。彼が嘘をついているようには見えない。盗作したのは、こっちの藪野って人じゃないのか」
だが、遥菜は覚めきった顔で書籍をジュラルミンケースに戻した。「どっちでもいいですよ。世間の注目度が低いからまだ騒がれてないけど、いずれ問題視されるでしょう。盗作疑惑を持たれてる文筆家の肩を持ったりしたら、ステファニー出版のブランド力を下げることになりかねません。さて、と。三時から来月号の特集記事の打ち合わせです」
立ちあがって、さっさと歩き去る遥菜の背を見送りながら、雲伊はため息をついた。
冷酷な物言い。やっぱり編集長にうりふたつだ。城ヶ崎二号の誕生か。女権は当分、揺るぎそうにない。
Qの店
勤め先の角川書店の社内は、なんだか朝から不穏な空気に満ちていた。『バラと女と香水と』という、さっぱり売れていない小説に盗作疑惑が持ちあがったらしい。
もっとも、揉めているのは書籍関連のセクションの一部のみだ。『週刊角川』編集部のほうは、取り立てて重要なニュースもなく、先輩記者たちも暇を持て余しているようすだった。
入社四年目、二十六歳の小笠原悠斗も退屈な会社を抜けだして、ネタ探しと称して飯田橋駅付近をぶらついた。昼下がり、いつものごとく万能鑑定士Qの店に行き着く。
狭いがシンプルモダンでまとめられた、スタイリッシュな内装の店内。床には黒猫のヨゾラが寝そべっている。小笠原は壁ぎわにたたずんだ。青みがかった透明なデスクを挟んで、凜田莉子が買い物帰りの主婦らしき女性を接客するのを、じっと見守った。
主婦がエコバッグから取りだしたのは、無地のビニール袋に入った白い粉だった。
「あのね」主婦は深刻そうにいった。「小麦粉を買ってきて、この袋に移したのよ。そしたら、強力粉か薄力粉かわからなくなっちゃって」
なんとも気が抜けるような依頼内容。しかし莉子の横顔は真剣そのものだった。
莉子は主婦にきいた。「ほんの少し、分けていただいてもいいですか」
「ええ、どうぞ。なんなら半分ほど......」
「いえ、そんなには要りません」莉子は袋を傾けて、少量の粉をてのひらにこぼした。その手をぎゅっと握ってから、ゆっくりと開く。自分のてのひらを一瞥すると、莉子はにっこりと笑った。「握力であるていど固まるのなら薄力粉ですけど、これはさらさらですね。すなわち強力粉です」
「よかったー!」主婦は顔を輝かせた。「うっかり天ぷら鍋にいれるところだったわ。あのう、それで、鑑定料はおいくら?」
「ご心配なく。このていどなら......」
「無料なのね。噂どおり。本当にありがとう。そのうち夫が収集してる骨とう品持ってくるから、鑑定してね。ヘンな壷や掛け軸ばっかり買ってくるから、叱ってあげて」
「......またどうぞ。ありがとうございました」莉子は立ちあがり、頭をさげた。
主婦が自動ドアの外にでていく。夏の陽射しが注ぐ神田川沿いの路上には、この店に関心をしめす人の姿はない。
小笠原は莉子に笑いかけた。「お客さんの数、またずいぶん減っちゃったね」
「ほんと」莉子も苦笑した。「テレビの効果って一過性っていうけど、そのとおりね」
「無料サービスばかりしてると利益あがらないんじゃない?」
「そうでもないの。法人からの依頼があればいっぺんに数十点とかの鑑定が持ちこまれるし。でも、そういうのは月にいちどあるかないかで......。あとはこんな調子。こことマンションの家賃を払って実家に仕送りしたら、ほとんどなくなっちゃうけど」
「波照間島の渇水対策にも寄付してるんだろ? たいへんだね」
「でも今月は、おかげさまで先日までの取材攻勢のギャラが入ってきてるから......」
「そのうちまた、荻野編集長が凜田さんを記事に取りあげようっていいだすかもよ。とはいっても、取材があったところで掲載は何週間も先になるだろうから、即効性は期待できないけど......。スクープが命の週刊誌なんだから、電子版も開拓すべきなのにな」
「それ、いい考えね。『イザベル』みたいに大成功したりして」
「ちょっと難しいなー。あんな予算規模が認められるわけないよ。会社からして美男美女ぞろいだなんて。うちとは大違い......」
ふいに自動ドアが開いた。小笠原はあわてて言葉を呑みこんだ。ヨゾラが跳ね起きて店の奥へと駆けこんでいく。
戸口にたたずんでいるのは社内では見たこともない、カーディガンにロングスカート姿の痩せ細った女性だった。
年齢は三十代後半、長く伸ばした髪はぼさぼさで、どことなくやつれていた。うつろな目で店内を見渡す。
莉子はにこやかに会釈した。「いらっしゃいませ」
女性はぼんやりと莉子を見つめていたが、やがて携えていた箱をデスクの上に置きかけた。
ハワイの土産によく見かける、マカデミアナッツの写真入りの紙箱だった。ところが、軽そうなその箱がデスクに据えられる瞬間、ゴトッと重量感のある音が響いた。
小笠原は妙に思って、女性の顔に目を向けた。だがすぐに女性は身を翻して、そそくさと自動ドアの外に立ち去っていった。
「あ」莉子があわてたようすで呼びかけた。「待ってください。ちょっと......」
女性は振りかえらず、背を向けたままぼそりと告げた。「また来ます。鑑定よろしくお願いします」
自動ドアが横滑りに閉じる。莉子が呆気にとられた顔で、小笠原を見つめてきた。
「何?」と莉子が眉をひそめる。
「さあ」小笠原は紙箱に手を伸ばした。
持ちあげようとしたが、箱はデスクから浮かびあがらなかった。ずしりと重い。両手で慎重に保持する。
蓋を開けてみた。なかの物体は新聞紙にくるまれている。それを開いてみると......。
「げっ」小笠原は思わず声をあげた。「これ、金の延べ棒じゃねえか」
縦十センチ、横五センチ、厚さ一センチほどの金属の塊。縁は丸く、わずかに台形になっていた。刻印もある。
莉子が目を丸くした。「たしかに......。金の延べ棒、ゴールドバーね。でもなんか変。ゴールドバーってことは純金でしょ。こんなに黒ずんでるんだっけ」
なるほど、この延べ棒の表面は美しいとは言いがたい。艶も光沢もなく濁っていて、ざらついた触感だった。黄金いろというよりは赤褐色に近い。しかもその色にもムラがあって、表は赤みがかっているが、側面から裏にかけては青みが増している。
打刻された純度は〝Au99.9999%〟。すなわち、百パーセントに限りなく近い純金であることを表している。けれども、どう見てもそうは思えない。
形状は延べ棒に違いないが、材質は純金にはほど遠い合金のようだった。おかしな物体だと小笠原は思った。いったい何に用いるのだろう。
しばし莉子は延べ棒を眺めていたが、やがてキャビネットを振りかえり、巻き尺と秤を取りだした。延べ棒の縦、横、高さの寸法を計測してから、秤に載せて重さをたしかめる。
「うーん」と莉子は唸った。「縦百十三ミリ、横五十二ミリ、高さ十ミリのサイズでちようど一キログラム。質量から考えると、純金とまったく同じ」
「でも......どう見てもこれ、金じゃないよ」
「そうね、いろんな金属を溶かしこんだ合金としか思えない」
「金の延べ棒のイミテーションかな? 展示用にレプリカが作られたりするってきいたことあるけど」
「ええ。でもそれなら、表面を金メッキしなきゃ、この色じゃレプリカとしても使えないでしょう」
莉子は黙りこくって、その不可解な物質を見つめた。小笠原もそれにならった。
名乗らずに立ち去った正体不明の依頼人。彼女にしても、まさかこれを純金と信じてはいないだろう。だが彼女は、凜田莉子に鑑定を依頼した。何が目的なのだろう。この物体には、どんな意味がこめられているのだろうか。
科学分析
金の延べ棒もどきの奇妙な合金が持ちこまれてから四日後、小笠原は新宿区大久保三-四-一、早稲田大学の研究室を訪ねた。
凜田莉子も待ち合わせ時間に遅れることなく現れた。きょうは、預けてあった合金の分析結果が伝えられる日だ。
グレーの金属製ラックに物々しい機材が並ぶ室内で、白衣をまとった三十代半ばぐらいの痩せた男が、やや気取った振る舞いで書類をチェックしている。胸もとからのぞくスーツはブランドものらしい風格が感じられる。磨きあげられた靴も高級品らしい光沢を放っていた。目つきは鋭く、整った顔だちは女にもてそうだが、くつろいだ態度のせいか愛嬌ものぞかせている。ゆっくりとした物腰はしなやかで、歌舞伎の女形のようでもある。
早稲田大学の基幹理工学部、物理学科の准教授の氷室拓真は、ビニール袋に入った合金を莉子に差しだした。「これ、忘れないうちに返しておくよ。もっとも、紛失したところでたいした賠償額にはならないと思うけど」
莉子がいった。「ってことは、やっぱり純金じゃなかったんですね」
「当然。見てのとおりだよ。金はわずか三・二四パーセント。最も多いのは鉛の三十七・五三パーセント。ついで鉄の二十六・九一。銅十八・六五。ほかにきわめて価値の低い非鉄金属の原料鉱石まで混じっている。うまく融合できないから、このとおり色にもムラがあって、醜悪な外観になってる。興味深いことに、質量だけは純金と一致してるけどね。つまり、同じサイズの純金の延べ棒があったとすれば、これと同じ重さってことだ」
小笠原は思わず唸った。「するとやっぱり、金の延べ棒の偽物をこしらえようとしたわけですか」
「どうかな」氷室は渋い顔になった。「実際に金メッキを施そうとしてみたんだけどね。成分に鉱石が含まれているせいもあって、酸化還元電位も低いし一定でもないから、うまくメッキが載らないんだよ。早い話、メッキのコーティングで純金に見せかけることも不可能なわけだ」
莉子は首をひねった。「じゃあ、どうしてこの形に精製したんでしょう。どこかの製錬業者の刻印まで入ってますよね。形状と質量だけは本物のゴールドバーと同じだなんて」
「真っ暗闇で純金と偽って取り引きするんじゃない限り、誰もだまされないだろうね。あるいは卑金属を純金に変える、いわゆる錬金術でも研究してるのかな。なら、依頼人に知らせるべきは鑑定結果じゃなくて、賢者の石の入手法だろうな。現実的な用途としては、ペーパーウェイトか漬けもの石の代わりがいいところだろうが」
莉子は深刻な表情になった。「あの女の人、どんな素性の持ち主なのかな。次にいつ来店するかもわからないし」
すると、氷室が近くの事務机の引き出しを開けて、なかをまさぐった。小さな白い紙箱を取りだし、莉子に渡す。「これを店に仕掛けておくといいよ。実験に使うCCDカメラ。一個余ってるから貸してあげる、なんなら録画機器も用意してあげよう」
「録画って......」
小笠原は莉子にいった。「僕も賛成だよ。こんな得体の知れないしろものを持ちこんでくるなんて、まともな女性とは思えないし。防犯カメラは必需品だと思うよ」
莉子は気が進まなそうだったが、あまりに不可解な状況に対しなんらかの手を打つべきと考えたのだろう。浮かない顔でうなずいた。「すみません。それではお言葉に甘えまして、これお借りします......」
氷室は腕組みをした。「しかし、この刻印はどこの冶金工場だろうな。金の延べ棒の鋳型さえあれば、溶かした合金を流しこむだけだが......。なぜこんな物を作った?」
そのとき、ドアをあわただしくノックする音が響いた。どうぞ、と氷室が告げる。
ドアが開き、着崩したスーツ姿の男が足早に入ってきた。脇に二冊の本を携えている。
一見して有名人とわかる。テレビや雑誌でよく見かける顔だ。『週刊角川』で彼についての記事が掲載されたことはないと思うが、女性誌では常連の香水評論家だった。
というより、小笠原の勤め先ではここ数日、彼の名は別の意味でポピュラーになっている。あの盗作騒ぎの『バラと女と香水と』の作者だ。
菊原琢磨は血相を変えて氷室に詰め寄った。「すまない。きみの知り合いの......なんといったかな、飯田橋鑑定団Qだっけ。そういう店の経営者が来てるときいたので」
氷室は呆れた顔で菊原を見かえしてから、莉子を指ししめした。「店名が千葉鑑定団と混ざってないか。正しくは万能鑑定士Qの凜田莉子さんだ。凜田さん、こちらは非常勤講師の菊原君。臭気判定士の国家資格を持っていて、いまは各方面で活躍してる......」
「ええ、存じあげています」莉子は愛想よくいった。「はじめまして、菊原先生」
ほっとしたようすで菊原は告げた。「きみが鑑定家さん......? ずいぶん若いんだね。菊原です。どうぞよろしく。下の名前は氷室君と同じ、タクマだよ。字は違うけどね」
「わたしに何かご用でしょうか......?」
菊原は真剣な面持ちになり、二冊の本を差しだした、一冊は彼の著作『バラと女と香水と』。そしてもう一冊は、藪野稔なる著者の『フゼアとハーブとオーデコロン』だった。
莉子はそれらを受け取り、ぱらぱらとページを繰った。その表情が曇りがちになる。
「二冊ともそっくりな内容......」
氷室が莉子の肩ごしに覗きこみながらいった。「ほんとだ。固有名詞を入れ替えて、文末の言いまわしをちょっといじっただけ。学生のレポートにも、たまにこういうのを見かけるよ。ウィキペディアをコピーして、少し手を加えただけのしろものだとか」
小笠原はため息をついてみせた。「書籍編集部は迷惑がってましたよ。ただ回収の手間は、それほどでもないって言ってました。二千部しかでてなかったし、ほとんど売れずに返本されていたので」
菊原は目を剥いて小笠原を見つめた。「するときみは角川の人? なら頼む、私の身が潔白だと編集部に訴えてもらえないか。これは濡れ衣以外のなにものでもないんだ」
「でも『フゼアとハーブとオーデコロン』のほうが早く出版されてるそうですけど......」
「たった三週間の差だぞ。それに、私も独自にいろいろ調べた。この著者の藪野稔ってのはな、現在三十六歳、勝どき印刷っていう印刷所の跡取り息子だ」
小笠原の胸にひっかかるものがあった。「凜田さん。ちょっと本貸してくれる?」
『バラと女と香水と』の最後のページを開き、奥付を眺める。印刷所の表記を見た。株式会社、勝どき印刷。
「なるほど」小笠原は本を閉じた。「勝どき印刷は小さな会社ですけど、安く引き受けてくれるので、売れそうにない小ロットの本をだすときには角川でも利用することがあるんです。菊原さんの本は、勝どき印刷に入稿してますね」
菊原は苦虫を潰したような顔になった。「無茶苦茶な言われようだな。まあいい。とにかく、藪野稔は入稿した私の原稿をいつでも見られる状況にあった。大急ぎで作業にかかれば、こっちの三週間前に発刊することも可能だった。被害者は私だけじゃないんだ。現に奴は、ほかにも勝どき印刷に持ちこまれた本のいくつかを、ほとんどそのままパクって自分名義で出版してる。元の本があまり知られていないから騒がれてもいないが、こいつはパクリの常習犯なんだ」
氷室が眉をひそめた。「菊原。こういっちゃなんだが、そんな売れそうもない本ばかりパクっても、評判にならないんだから儲かりもしないだろう」
小笠原は氷室を見た。「そうでもないんです。本ってのは委託販売で、問屋を経由して書店に卸し、消費者に売るわけですけど、この問屋に本を預けた時点で出版社にはお金が入るんです。消費者が買わなくても、刊行と同時に問屋が肩代わりして立て替えてくれるんですね。そうしないと、売り上げ金が巡りめぐって出版社にようやく回収されるのが、半年から一年も先という事態になってしまうからです」
「あー」莉子がうなずいた。「それ『女子大生会計士の事件簿』のドラマ版で観ました」
「うちの社屋でロケしたやつ? なんでもチェックしてるんだね、凜田さんは。とにかく、本ってものは刊行点数を増やせば、目先の金はそれなりに稼げるんです」
菊原が興奮ぎみに声を張りあげた。「その通りだ! いやぁ、さすが角川さんは優秀な社員を抱えてらっしゃる。この藪野稔ってパクリ作家の本をだしてる精進書店ってのも、勝どき印刷のすぐ近くの雑居ビルに入ってる弱小出版社にすぎなくて、しかも藪野が経営に参加してるんだよ。これは詐欺事件以外のなにものでもないんだ」
莉子は戸惑いがちにいった。「じゃあ、この件についてはわたしじゃなくて小笠原さんに手を貸してもらうほうが......」
「いや!」菊原は莉子に詰め寄った。「今度、一連の藪野の盗作事件を専門に調べている弁護士のところに相談に行くことになってる。ぜひあなたにも同行してほしいんです、凜田先生。プロの鑑定家として、藪野の小説が偽物にすぎないと証言してほしい」
「小説の真贋鑑定ですか?」莉子は困惑のいろを浮かべた。「ちょっと経験ないですけど......。それに、しばらくは店を離れられない状態でして」
莉子は、あの合金を届けた女性の再訪を気にかけているのだろう。いつ訪ねてくるかわからない以上、留守にするわけにはいかない。
すると、氷室が菊原を戸口に押し戻す素振りをみせた。「きいたろ。彼女は忙しいうえに、そんな仕事は専門外だとさ。自分のデスクに戻って講義の準備でもしてろよ」
菊原は追いやられながらも食いさがった。「万能というからにはなんでも鑑定できるんだろ? 万能ねぎもいろんなレシピに使えるじゃないか。暇になってからでいいんだ! ぜひ弁護士にひとこと添えてくれ。このままじゃ『イザベル』の連載も打ち切りだ。業界から干されてしまう」
「こら」氷室は顔をしかめた。「大声をあげるなよ。適正な音圧レベルを超えている。要するに、やかましいんだよ。さあ、廊下にでろ」
「凜田さん! よろしく頼む。協力してくれたら謝礼のほかに、きみにぴったりと合う香水を見つくろってあげよう。何人の男に言い寄られたいか希望をきかせてくれれば、それに応じて濃度を調整したフェロモン香水も......」
氷室が菊原を室外に押しだし、引き戸をぴしゃりと閉めた。
ようやく部屋に静けさが戻った。一同はいっせいにため息をついた。
奇妙な文芸
安室渚は、すとんとした青色の服を着て、典型的な病院の診療室で、やはり典型的な医者が座っている場所から一メートルぐらい離れた椅子に座って、健康診断の結果を聞こうとしていた。
医者は安室を見つめて、これ以上ないというぐらいのレベルで物凄く真面目くさって言った。「安室さん。心を強く持って聞いてください。あなたは、薔薇のにおいを嗅いだとたんに、すべての記憶を無くしてしまうという、世界的にもめずらしい不治の病にかかっているんです!」
その衝撃は安室にとって、スプーンおばさんの笑顔がはちきれそうになるのとは正反対に、悲しみで胸が張り裂けそうになるものであった。
わたしは病気だったのだ! ああなんという孤独。絶望的である。とてつもない悲しみが日本海の荒波のように安室に押し寄せ、安室の哀れな心を濁流のなかにゴウゴウと音をたてて押し流していった。知らず知らずのうちに顔が茄でダコのように真っ赤になっていた。
「先生」安室は滝のように涙を流しながら言った。「じゃあ、あの素敵なひと......香水の工場の社長である菊島さんからプレゼントされたバラのかおりの香水をつけるたびに、わたしはあの人のことも忘れてしまうんですね」
「とても悲しいことだが、そうなんだよ。きみは菊島さんを愛するあまり、真実を知りながら、デートの前には香水をつけてしまうんだ。彼を傷つけたくないために、記憶を失うと知りながら香水をつけてしまうのだ。じつは私にとって、きみにこれを説明するのは百七回目なんだよ!」
五百キログラムのハンマーで頭をぶん殴られたかのようなショックを安室は感じていた。
なんて酷い残酷な運命であろうか。でも......ああ......わたしはやっぱり菊島さんを悲しませたくない。彼の香水をつけていないと、彼はきっとなにかあったのかと心底悲しんでしまい自殺してしまうかもしれない。だからわたしは、彼を悲しませないためにきょうも香水をつけなくては......。
なんだこの小説......?
小笠原は呆気にとられて顔をあげた。
万能鑑定士Qの店、ソファにおさまった小笠原は、デスクの向こう側で自分と同じように読書にふけっている莉子を見た。
莉子の視線もあがった。彼女もやはり目を丸くしている。
「そのう」莉子はつぶやいた。「なんていうか......すごく個性的な内容」
「っていうか」小笠原は頭をかいた。「これ泣かせる話のつもりなんだろうけど......。比喩に問題があるよね。顔がタコのように真っ赤って。文章は主人公の視点じゃなかったの? どうして顔いろの描写がいきなり飛びこんでくるんだろ。なによりタコって......」
「あ、やっぱりそっちの小説にも、その表現があるの? ほかにも、典型的な診療室とか、すとんとした服とか意味不明......。ワンピースのことかな」
「やれやれ。ひどいね。担当した編集者の話じゃ、テレビ番組や雑誌で紹介するから絶対売れる本になるって菊原先生がごり押ししてきて、少部数でもださざるをえなくなったんだって。文学賞も獲ったことにできないかって頼まれたらしいよ。賞金は二千万円にしておいて、辞退したって発表すりゃいいってさ」
莉子は『フゼアとハーブとオーデコロン』を閉じた。「とにかく、文体も表現もそっちの本とうりふたつってことはよくわかったわ。違うのは接続語とか語尾とか、登場人物の名前ぐらい。なんだか根本的に理解不能な表現も含まれてるけど」
「どんな?」
「ええと」莉子はふたたび本を開いた。「どこだったかな、ああ、これね。主人公が祖父のお葬式にでるくだりに『万年茸のにおいが漂っていた』ってあるの」
「万年茸のにおい? なんとも想像しづらいね」小笠原は『バラと女と香水と』のページを繰った。「菊原先生の本でも、そういう表記なのかな」
そのとき、自動ドアが開いた。
莉子が腰を浮かせる。「いらっしゃいま......」
絶句した莉子の顔に、驚愕のいろが浮かんでいる。小笠原は立ちあがり、来客に目を向けた。
あの合金を持ちこんだ女性だった。いっそう痩せこけてみえる顔は、血の気がひいて青白く、ロングドレスは皺だらけだった。
女性は戸口にたたずんで、無言で莉子を見つめている。
「あ」莉子はあわてたようすで引き出しを開け、合金の入ったビニール袋を取りだすと、デスクの上にそっと置いた。「お返しします。鑑定結果もでてますよ。こちらに成分表が」
書類を取りだそうとする莉子の背後に、小笠原はなにげなくまわりこんだ。
キャビネットのなかに隠されたHDDの録画ボタンを押す。これで小型カメラの映像が記録される。広角レンズだ、女性の顔もばっちり映る。
莉子が差しだした紙片を、女性は受け取った。手が小刻みに震えていた。その書面に視線が落ちる。
しばし書面を見つめていた女性の顔があがる。生気のない目が莉子をとらえた。
「あのう」と、女性が喉にからんだ声でいった。
「なんでしょうか」と莉子がきいた。
「いっても信じないと思いますけど......。これ、わたしが購入したときには、純金だったんです」
「......はい」
「十本の金の延べ棒を、相応な値段で買いました。どれも間違いなく純金でした」
「でもこれは......」
「表面は艶やかで、本当にきれいな黄金いろでした。わたしに同行した専門家が、蛍光X線で検査したり、電気抵抗を調べてくれたりしました。紛れもなく純金だったんです」
「......失礼ですが、蛍光X線スペクトルのL線を読んだとしても、調べられるのは表層から十マイクロメートルていどです。電気抵抗についても同様です。合金に純金の外殻が被せてあったら騙されちゃいますし、だいいちこの合金の場合はそんな外殻すらも......」
「でも純金でした」女性はか細い声で、ささやくようにいった。「外側だけじゃないんです。延べ棒の、どこでもいいから切断して中身を調べようって話になって......。わたしの指定した場所をレーザーで切ってくれました。端から四センチ三ミリの場所を切断してくださいって、頼んだんです。その数字はわたしが咄嗟に思いついたもので、誰も予想できたはずがありません。作業も目の前でおこなわれました。正確に四センチ三ミリの位置がなめらかに切断されました。これは、わたし自身が物差しで測ったのでたしかです。そして、切断面も隅々までX線検査をして、電気抵抗を測定しました」
「その結果、中身も間違いなく純金だったわけですか」
「そうです」
「あなたのおっしゃるとおりなら、延べ棒は間違いなく純金だったでしょう。でも、ここにある合金は......同一の物とは思えません」
「ええ。けれど。間違いなくこれなんです」
「検査した延べ棒は、切断したんでしょう? これは切れてませんよね」
「十本買った延べ棒のうち、わたしが選んだ一本を切断しただけなので」
「ってことは、正確にはこれじゃなかったんですよね?」
「いえ。これです。わたしが買った延べ棒はすべて、いまはこの色になってしまいました」
女性はしばし黙りこんだ。虚空を見つめる目にわずかに涙をためている。ドレスのポケットをまさぐり、数枚の千円札と、小銭をひとつかみ取りだした。
「ありがとう」女性は小声でいった。「もっとたくさんお礼したいんですけど......。いまはもうこれだけしか持ち合わせがないんです。鑑定料としては不足と思いますけど、どうかお納めください」
それらの金をデスクに置くと、女性は合金を取りあげて、ふいに踵をかえし自動ドアに向かった。
莉子はあわてたようすで呼びかけた。「まってください。もっと詳しく話を......」
だが女性は、莉子の制止に耳を傾けるようすもなく、足早に立ち去っていった。
小笠原は莉子にきいた。「追いかけようか?」
「......いえ」莉子は深刻な面持ちで椅子に腰をおろした。「お客さんのプライバシーにはむやみに首を突っこめないし......。けど、裕福な暮らしから一転、貧しくなっちゃったのはたしかかも。あのヘアスタイルとカラー、元は高級な美容室のお世話になってたんだろうけど、いまじゃまるで手入れしてないし。首もとにも指先にも手首にも、アクセサリーの痕が......。ぜんぶ売り払っちゃったのかもね」
「ずいぶん思い詰めているようすだったね。だいじょうぶかな」
つぶやきながら小笠原は、デスクの土に散らばった紙幣と小銭を眺めた。
これだけしか持ち合わせがない。女性はそういっていた。現在の所持金すべてという意味だろうか。あるいは、文字どおりこれが彼女の全財産だったとしたら......。
ガリバー
その翌週の月曜、莉子は東京療寿会医大病院の精神科にある臨床研究室Dをたずねていた。
三十代前半か半ばぐらいの若さで、この部屋をまかされている嵯峨敏也は、莉子の持ちこんだブルーレイ・ディスクを再生するテレビモニターに見いっていた。
ほっそりとした体型に端整な顔、院内では頼りがいのある若い医師という風格ながら、実際には医療が専門でないため白衣は着ていない。清潔そうだがいたって地味なスーツ姿だった。彼は文部科学省認可の民間資格を有するカウンセラー、すなわち臨床心理士だった。
画面に映しだされているのは、例の合金について莉子の鑑定をきく謎の女性の顔だった。さいわいにも映像は鮮明で、女性の頬筋のわずかな痙攣さえも克明にとらえている。
女性の声がスピーカーから流れる。「わたしの指定した場所をレーザーで切ってくれました。端から四センチ三ミリの場所を切断してくださいって、頼んだんです」
莉子は嵯峨にきいた。「どう思われますか」
嵯峨はため息とともに微笑した。「これだけではなんとも......。カウンセラーは占い師じゃないんでね。人相学や観相学を頼りたいなら、相談する相手を間違っていると思うよ」
「そうですか......」
「とはいえ、ほら、この部分だけど」
画面のなかの女性が告げた。「正確に四センチ三ミリの位置がなめらかに切断されました。これは、わたし自身が物差しで測ったのでたしかです。そして、切断面も隅々までX線検査をして、電気抵抗を測定しました......」
ボタンを押して一時停止すると、嵯峨は莉子にいった。「カウンセリングにおける会話スタイル特性の決定因に、答えがすぐ返ってくるが、副次的言語表現をどれくらい使うか、たいせつな情報を積極的に提供するかというチェックポイントがある。話す速度や声の大きさ、同じ内容を反復するかどうかも見る。でもこの女性の場合、冷静なうえに非常に理性的だ。説明も理路整然としていて、余分な繰り返しもない」
「ってことは、彼女の思考は正常なわけですね」
「さあ。そんなに結論を急ぐべきじゃないな。会話分析はひとつの手法にすぎない。喋っている内容の真偽とか、感情がどうであるか、人格はどうかという判断は分析の対象を超えてる。ただし......」
「なんですか?」
嵯峨が再生ボタンを押す。画面のなかでは後ろ姿の莉子が女性に告げる。「検査した延べ棒は、切断したんでしょう? これは切れてませんよね」
女性が答える。「十本買った延べ棒のうち、わたしが選んだ一本を切断しただけなので」
「ってことは、正確にはこれじゃなかったんですよね?」
「いえ。これです」
「ふむ」嵯峨はまた映像を停止させた。「話に一貫性を欠くのがこのくだりだ。会話分析のためのトランスクリプトとして字に書き起こしたら、精神病性障害の妄想を疑うところかもしれない。でも画面を観るかぎりでは、そうは思えないね。妄想患者なら陽性症状と陰性症状を持つ、つまり妄想が生じていれば、感情平板化という負の反応も表れるはずだ。彼女には適度な感情の起伏がみられる。私見だけど、僕にはこれが彼女の妄想には思えないな、さらにいえば、嘘をついているわけでもない」
「話していることは真実......ですか?」
「少なくとも彼女は、実体験を忠実に表現しているつもりじゃないかと思う。物理学の専門家がどういうかわからないけどね」
「意見はもうききました。どんな化学反応であっても、純金があんな不純物だらけの合金に変わるなんて考えられないそうです」
「逆錬金術とでも呼ぶべきかな。実に不可解だね」嵯峨は再生機器のボタンを押して、ディスクを取りだした。「でも、興味深い記録だったよ」
莉子は浮かない気分でディスクを受けとった。
彼女の言葉が嘘でなかったとしたら、いったい何が起きたのだろう。切断した延べ棒についての彼女の説明が若干あやふやなのも含めて、どうも腑に落ちない。
ふいに莉子の携帯電話が短く鳴った。メールの着信音だった。
「あ」莉子はあわてて携帯電話を取りだした。「すみません。電源切っておくべきでした」
「なに、かまわないよ。ここは診療エリアじゃないからね」
液晶画面にメッセージを表示する。氷室を介して送られてきた、香水評論家の菊原からのメッセージだった。〝凜田先生。ご都合いかがですか。盗作野郎の藪野は許せません。私としては、是非とも弁護士のもとにご同行いただきたく......〟
謎の女性に合金の鑑定結果を伝え終えたいま、菊原の依頼を断る理由はすでに失われていた。
ため息をついて携帯電話をしまいこみ、莉子は立ちあがった。「どうもありがとうございます、嵯峨先生。お忙しいところをご協力いただいて」
「いつでもどうぞ」嵯峨は笑った。「そのうち、僕のクルマの鑑定を頼もうかな」
「あの昭和四十一年式カローラの? 査定ならガリバーでできますよ」
「持っていったんだけど、ガリバーの店員ときたら、日産マーチのカップホルダー一個と同額だなんて冗談をいうばかりでね。たぶん古すぎて資料がないんだろうけど、本当の値段を知りたいよ」
そうですね、そのうちまた......。莉子は愛想笑いに努めながら部屋をでた。
ガリバーの査定は全面的に正しい。だが、それを嵯峨に告げるのは忍びない。困ったなあ、と莉子は内心つぶやいた。今後しばらくは、ここに顔をだせそうにない。
法律相談
横畑大和弁護士は、三十九歳で独立、東京都北区の荒川沿いにプレハブ一戸建ての個人事務所を構えていた。
堤防に広がる野っ原にぽつんと存在する小屋だけに、クルマを乗りつけるには不自由しない。事実、きょうも愛車のマークXは玄関前に横付けしてある。もっとも、立地について長所があるとすればそこだけだ。風が吹けば建物全体が揺れるし、大雨で川が増水すれば避難勧告に従わねばならない。
一階は物置、二階が事務所になっているが、ふだん少額訴訟のつまらない相談ていどしか持ちこまれないせいもあって、自分のやる気のなさが部屋の散らかりぐあいに表れている。今回の依頼人である香水評論家、菊原琢磨がこんな美人を連れてくると知っていたら、何日も前から清掃を徹底していたものを。
凜田莉子というその鑑定家は、窓辺の椅子に腰かけて外を眺めている。すさんだ室内よりも、川辺の風景を好んでいるらしい。差しこむ朝の陽射しがその穏やかな顔を白く浮かびあがらせていた。
デスクを挟んで、肘かけ椅子におさまった横畑は、胸の高鳴りを抑えながら莉子にきいた。「綺麗でしょう? 夜は真っ暗で物騒だけど、朝方は特にのどかでね」
ふうん、と莉子は視線をさげた。外に停めてあるクルマを眺めているようだ。「暗いうちからご出勤されたんですか」
「いえ。いつもここに来るのは朝十時以降ですよ。どうしてそうおっしゃるんです?」
「花がたくさん咲いているところをタイヤで踏んじゃってますから。なんだか可哀想」
「ああ、べつに運転ミスじゃないんですよ。事務所の前は花壇のように見えますけど、じつは自然に咲いてるだけなんです。この辺りの土手にはマツバボタンがそこかしこに密集して見られます。事務所を構えて三年になりますが、例年ちゃんとまた花が咲きますよ」
向かいに座っていた菊原が咳ばらいをした。「相談に来ているのは私なんだが」
「ええ」横畑は笑顔を取り繕った。「もちろん、忘れてはいませんよ。ただ、そのう......。藪野稔なる人物を訴えるのはやめたほうがいいかと思います。反応はどうあれ、内容証明郵便を送りつけるぐらいでいいんじゃないですか」
菊原はむっとしたようすだった。「なぜそんなことを? あなたは藪野の盗作疑惑について、一手に引き受けている人物だときいていたが」
「そうなんですけどね......。正直、訴訟に持ちこむには費用がかかるんですよ。いままでのクライアントにしてもみんな当初は、訴えてやると意気込んでいたんですが、見積もりをきいたとたんに及び腰になりましてね。失礼ながら、あまり売れてもいない本の損害賠償を求めてもたいした金額には......」
「かまわない。これはプライドの問題だ。ほかの貧乏作家どもは知らないが、私にはそれなりに蓄えもある。たとえ大赤字になっても藪野って男をぎゃふんといわせたい」
「お金の問題だけじゃないんです。盗作を立証するだけの確たる証拠がありませんと」
「横畑先生。盗作であることは明白だよ。鑑定家の凜田先生もそう証言してくれる」
「法廷に提出できる物証が必要なんです。提出物が書類の場合、誰かの所感や所見ではなくて、具体的な記録じゃないと」
「そうか。それなら証明してやる。藪野に香水の識別テストをおこなってほしい」
「テスト?」
「あの小説には、臭気判定士から香水評論家に転職した私の知識がふんだんに盛りこんである。香水の区別についても、私独自の見解が反映されてる。藪野の『フゼアとハーブとオーデコロン』にも、そっくりそのままの文章が載っていた。あれを書いたのが藪野だというのなら、彼もにおいから私と同程度のことを認知できるはずだ」
「つまり、小説にでてくる香水を嗅ぎわけられない人間に、あの内容が書けるはずがないとおっしゃるわけですか」
「そう。一般に香水のかおりとして知られるものは、体臭と混ざりあった状態で成立するのであって、液体そのもののにおいとは異なっている。だが知識があれば、液体のみであっても嗅覚でブランドを識別できるはずだ。小説にはそういうくだりがでてくるし、そこではきわめて主観的な香りの特徴について噛み砕いた表現の描写がある。知っていればこそ書けるんだ」
「なるほど......。テストの一部始終が記録できれば、裁判所に証拠として採用されるかもしれませんね。じゃ、薮野さんに声だけかけてみますか。彼が応じるかどうかはわかりませんが」
「内容証明郵便で、テストを受けない気なら訴えると脅せばいい」
「脅すっていうのは適切な表現じゃないですよ、菊原先生。強制力はありません。判断は彼しだいですが、あなたが望むのなら書面をしたためましょう」
「ぜひお願いする。日時は向こうの都合に合わせる」
「では」横畑はボールペンを手にとり、メモ帳を開いた。「ええと......。テストの場所はここでいいですか」
菊原はうなずきかけたが、そのとき凜田莉子がこちらに目を向けてきた。
莉子がいった。「すみませんが、公正を期すためにも場所は第三者に提供してもらったほうが......。どこかの小さな喫茶店でも貸し切ってはどうでしょう」
「......お望みならそうしましょう。では早速、書面の作成にかかりますので」
「よろしく頼む」菊原は立ちあがると、さっさと戸口に向かった。
莉子も椅子から腰を浮かせた。にっこりと微笑んで、礼儀正しく頭をさげた。横畑も思わず笑いかえした。
ふたりの客は部屋をでて、階段を下りていく。玄関のサッシを開け閉めする音がした。
横畑は窓の外を見やった。土手を歩き去るふたりの後ろ姿がある。
充分に遠ざかるのを待ってから、横畑はぼそりと告げた。「でてきていいですよ」
隣りの部屋につづくドアが開いて、ひとりの男が姿を現した。
頭髪は薄く、顔は丸顔で風船のように膨らんで見えた。Tシャツもデニムもはち切れそうなぐらいの肥満体で、実際、首は肉のなかに埋もれてしまっている。相撲取りにありがちな細い目と、禿げあがった額のせいもあって、三十代ながら妙に老け顔だった。五十歳を超えているようにすら見える。
藪野稔は、巨漢に似合わない高い声でいった。「やっと帰ったか。めんどくさい奴だったな。本の内容をパクられたぐらいで、しつこく追及してきやがる」
横畑はため息をついてみせた。「藪野さん。だから前にもいったでしょう。印刷所に入稿した原稿を盗むなんて危険です。まして丸ごと書き写すのは大問題ですよ」
「書き写すだって?」藪野はへらへらと笑った。「馬鹿いっちゃいけないよ。誰がそんな手間をかけるもんか。データを複製するだけだよ」
「なおのこと駄目でしょう」
「手は加えてるんだぞ。まず登場人物の名前を一括変換する。それから一般名詞を同義語に一斉変換するソフトを使うんだ。ありゃ便利だよ。『言語』を『言葉』、『本屋』を『書店』、『田んぼ』を『田園』という具合にさ。これで原稿はかなり印象が変わる。後は確認がてら語尾をちょっといじって、接続語の『だが』を『しかし』に変えたりして、一時間かそこらで出来あがりだ」
「そんなていどの改変じゃ、自分の著作だとは主張できませんよ」
「もっと手間をかけろって? ごめんだね。次から次へと出版しなきゃ、たいして稼げないし。一巻あたり十万部も売れる本なら別だけど、そんなのパクったら目立っちゃうしさ、陽のあたらない本だからパクれる。なのに、たまたま粘着質の輩の書いた本をパクっちまったおかげで、この騒ぎか。割りに合わないな、ほんとに迷惑だ」
自分の所業を棚に上げて、無実の者を非難する。藪野の価値観は断じて誉められたものではない。
しかし、いまの横畑にとって、正義とはすなわち金払いのよい人間になびくことだった。精進書店の顧問弁護士を務めるようになって以来、藪野とのつきあいも長い。むしろ、定期的に彼が問題を起こしてくれたほうが、謝礼を受け取る機会に恵まれて有難かった。
藪野はデスクの上のクリアファイルを手にとり、うちわ代わりに扇いだ。「とにかく、火消しはあんたにまかせたよ。いつもどおり、うまくやってくれるんだろ」
「ええ。でも今回は、藪野さんにもご協力いただかなければ。テストってやつを実施しないと、あの菊原って男はおさまりそうにないんで」
「ったく、しようがないな......。なんか、女の鑑定家とやらが一緒に来てたんだろ? だいじょうぶかな」
「心配ありませんよ。弁護士という立場上、裁判所に提出する証拠については私に監督責任があります。テストの方法も何もかも、私の裁量できめられますので」
「頼りにしてるよ。ああ、そうだ。万が一に備えて、これも用意してきた。前にも使った手だけどな」藪野はデニムのポケットから、折りたたまれたグラビア誌を取りだした。
開いてみると、それは皺くちゃになった0円雑誌だった。表紙写真は木村拓哉と常磐貴子。ドラマ『ビューティフルライフ』特集号とある。小見出しには〝プレイステーション2間もなく発売〟とあった。
十年以上も前の色あせた印刷物。横畑は思わずにやりとした。「ここまでやらなくても、今回はあっさり退けてみせますよ」
「念には念を、ってね」藪野は客用の椅子に腰をおろし、ふんぞりかえった。「とにかく、早く片をつけてくれよ。AKB48握手券のホログラムシールの版下が手に入ったばかりだ。イベントの開催日までに偽造しなきゃ儲からないんでね」
マルサの男
チケットの偽造があとを絶たないらしい。AKB48の握手券から、一月のカタールでのAFCアジアカップのチケットまで、ありとあらゆる偽物がでまわっている。製版や印刷技術の向上のせいもあるのだろう。同様の犯罪は全国各地で多発している。警察の捜査二課もそれらの取り締まりに翻弄されていて、肝心な詐欺事件の捜査に人員を割けない状況だという。
国家をも欺こうとする最悪の詐欺、それは脱税だ。ところが、以前なら大規模な脱税の調査には警察も協力を惜しまなかったというのに、いまは人手不足を理由に共同戦線を張るのをためらってくる。
嘆かわしい限りだ。国税局査察部に属して十一年、そろそろ中年の気配が忍びよってきた風峰颯太は、セダンの運転席でため息をついた。
頼れるチームはこのクルマに乗りあわせている男たちだけ。嶋、今崎、淀川。マルサのなかでは精鋭に数えられるメンバーが揃っている。ただし、この連中をもってしても、きょうの調査対象はひと筋縄ではいきそうにない。
車外に目を向ける。曇り空の下、ひとけのない埠頭に建つ巨大な倉庫。外壁には色の異なるトタンをつぎはぎにして修復した跡がある。窓はなく、内部のようすは窺えない。いくつもの法人の手を経て、いまは世田谷在住の資産家の所有になっている。
「でかいな」と風峰はつぶやいた。
助手席の嶋が倉庫を指さす。「正面以外に、側面にも裏手にもいくつも出入口があります。いまはどこも施錠されてますが、逃げだされたら厄介ですよ。俺たちだけじゃ固めきれません」
後部座席の今崎は軽い口調で告げてきた。「だいじょうぶですよ。いま倉庫のなかにいるのは警備員ひとりだけです。ひと晩じゅう監視してたんです、間違いない」
その隣りに座る淀川が身を乗りだした。「所轄警察の応援を待ちますか? あてにはできませんが」
「......いや」風峰はドアを開け放った。「この機は逃せない。俺たちだけで行く」
ドアは次々と開いた。全員が車外に降り立つ。陽は射さなくとも、夏場だけに湿度は高く蒸し暑い。東京湾から吹きつける風も妙に生温かく、汗を拭い去るものではなかった。
三人の仲間たちが散っていく。風峰はひとり正面の扉に突き進んだ。四角い倉庫の一辺につき、ひとりずつか。倉庫を夜通し見張っていた今崎の報告が正しいことを祈るしかない。
鉄製の扉の前に立つと、風峰は力まかせにノックをした。反応は待たない。ひたすら扉を叩きつづける。
やがて、内部で錠が外れる音がした。扉が横滑りに開く。ぶかぶかの制服を着た年配の警備員が迷惑そうな顔を覘かせた。
すかさず風峰は書類の束を取りだし、警備員の鼻先に突きつけた。「裁判所からの令状だ。国税犯則取締法に基づき強制調査をおこなう。こっちが令状。それからこっちが法人税に関する質問検査章だ。入るぞ」
「ちょ、ちょっと」警備員はあわてたようすで立ちふさがった。「いったいなんの話です。あなた、警察の人ですか」
「マルサだよ。きいたことあるだろ」
「うちの会社じゃ昆布ぽん酢は扱ってませんよ」
「そりゃヤマサだろうか。そうパニくるな。わかりやすくいうとだな、あんたの雇い主は税逃れをしてる。だから俺たちがきたんだ」
「なら外でお待ちください。いますぐ会社に確認の電話をいれますから」
「眠たいことをいわないでもらえるか。税務署の調査は任意だが国税局のは強制なんだ。どきな」風峰は倉庫のなかに踏みいった。
広々とした空間は薄暗く、壁ぎわの非常灯によってうっすらと照らしだされるのみだった。積みあげられたドラム缶の山は、この倉庫のオーナーがフィリピンから輸入させた大量の海水だった。研究のためのサンプルという名目らしいが、失笑ものだと風峰は考えていた。
追いかけてきた警備員が抗議の声をあげてきた。「触らんでください。私が怒られちまいますよ」
「心配しなくても、ドラム缶を開けてまわったりはしないさ。こんなのは目くらましにすぎないからな」
「目くらましですって?」
「ああ。あんたの会社の社長さんは、これらの海水を輸入するにあたり、イギリスの運輸会社を通してタンカーの航行許可を申請した。ところが出港直前にそれを取り消して、アメリカの会社経由で再度申請してる。なぜそんなことをしたかわかるか?」
「全然......」
「だろうな、社長さんはタンカーの積載量をごまかしたんだよ。一バーレルはイギリスでは百六十三・七リットルだが、アメリカじゃ百十九・二リットルなんだ。ところが申請会社移管のどたばたのせいで、英米の単位の違いが考慮されず、イギリスの積載量の数値のまま認可が下りてる。むろん社長さんが最初から意図して企んだことだ。結果、一・六二トンぶんの積み荷をごまかしてタンカーに載せることに成功した。要するに密輸だ。隠し資産をなんらかの価値ある物に変えて、国内に持ちこんだんだよ」
「へえ......。それがこの倉庫にあるってんですか」
「タンカーの積み荷はすべてここに運びこまれている。ほかに隠し場所はない」
扉を叩く音が響いた。
奥の壁に目を向ける。等間隔に扉があって、上部に非常口の緑いろのランプが点灯していた。そのうちのひとつ、音がきこえてくる扉に歩み寄る。
閂を抜いて錠を外し、扉を開けた。同僚のひとり、嶋がなかに入ってきた。「周りには誰もいません」
ガサいれを見抜かれていなかったのはさいわいだ。だが、倉庫内を見渡す限りでは、ドラム缶以外の物は存在しない。
風峰は警備員をにらみつけた。「ドラム缶と一緒に、一メートル四方の鉄製のコンテナがふたつ運びこまれたはずだ。監視班が確認済みだし写真もある。どこにやった」
「知りませんよ。搬入の日には、私は当番じゃなかったし......。ときどき社長さんと一族の人がここに来て、なにかやってるんですけど、そのときは外にでてるよういわれるんで」
なるほど。隠し財産の秘密を一介の警備員に漏らすはずもないか。
倉庫内を歩きまわりながら熟考する。床を剥がした痕もない。頭上も梁が剥きだしで、屋根裏などは存在しなかった。四方の壁は非常口が連なるのみ。どこにも一トンを超える物体を隠しおおせるスペースはない......。
ふと気になるものが目にとまった。風峰は非常口の扉のひとつに歩み寄った。
嶋がきいてきた。「どうかしましたか?」
「妙だな」風峰はつぶやいた。「ここの非常口のランプだけ、ほかと違わないか」
万国共通の非常口のマーク、戸口を駆けだす人型が描かれている。ほかの扉の上にあるランプはすべて、緑地の背景に白でマークが描かれていた。ところがいま風峰が向かいあった扉のランプだけは、白地に緑で描いてある。
「ええ」嶋はうなずいた。「たしかに違いますか......。どちらもよく見ますよ。二種類あるっていうだけで、意味はないんでしょう」
「......いいや。緑地に白のランプは、そこが非常口だってことをしめしている。白地に緑のほうは、非常口につづく通路に設置されるんだ。白の面積が多いせいもあって明るく光るからな」
「え!? ってことは......」
「白地に緑のランプを非常口の上部に掲げるはずがない。偽装だ。この扉は出入口じゃないぞ」
風峰は扉を開けにかかったが、南京錠がかけてあって閂が抜けなかった。壁ごしに大声で怒鳴る。「今崎、淀川! クルマから工具をとってこい!」
ほどなくふたりが工具箱を抱えて駆けこんできた。なかからバールが取りだされる。今崎が錠を壊しにかかった。マルサをやっていれば、こんな状況には日ごろから出くわす。作業も手慣れたものだった。
わずか数分で、扉は開いた。なかには薄く畳まれたコンテナの外壁がおさまっていた。それらを取り除くと、奥行わずか三十センチほどの空間が現れた。
その床は刳り抜かれ、アルミ製の梯子が地下に伸びている。淀川が懐中電灯片手に下りていく。
しばらくして、淀川はレンガほどの大きさの物体を重そうに抱えながら、梯子をとってきた。
「ありました」淀川は歓喜の声をあげた。「地下室にぎっしりです。金の延べ棒ですよ」
大当たり。密輸品は金塊か。ひさしぶりの大金星だ。
だが、風峰はそれを手にしたとたん、違和感を覚えた。懐中電灯の光を向けてみる。
風峰は思わずつぶやいた。「なんだこりゃ......?」
テスト
勝どき印刷の跡取り息子、藪野稔は阿佐谷のパール商店街にある、珈琲専門店の看板がかかった小さな喫茶店にいた。
本来なら、こんな無駄な時間を過ごしたくはない。自分が盗作した本の著者と顔を合わせるのも気が進まない。それでも、この菊原琢磨なる男に訴訟を断念させるためには、きょうのテストは甘んじて受けねばならない。
店内は貸し切りで、カウンターのなかにも従業員の姿はない。目をいからせている菊原と、彼が連れてきた妙に若くて美人の鑑定家以外に、来客はない。
だが、こちらもひとりではない。弁護士の横畑という強い味方がついている。
その横畑は、五つの同じかたちの小瓶をカバンから取りだし、テーブルに並べた。「菊原先生。小説にでてきた代表的な香水を五種類、用意させていただきました」
菊原はしかめっ面で、それらを一本ずつ手にとり蓋を開けて、においを嗅いだ。ひととおり確認を終えると、菊原はうなずいた。「たしかに」
「では」横畑は小瓶をすべてかき集めると、テーブルを離れた。「これらを並べ変えましょう」
横畑がカウンターに赴き、こちらに背を向ける。小瓶をカウンターの上でチェス駒のように滑らせながら、横畑はいった。「菊原先生、あらかじめ申しあげておきますよ。このテストの結果に基づいて、藪野さんを訴えるか否か慎重に判断なさってください。訴訟沙汰になった場合、法廷には、きょうの記録がありのまま提出されることをお忘れなく」
「むろんだ」菊原は苦々しげな口調でいった。「ぺてん師の化けの皮を剥いでやる」
菊原はにらみつけてきたが、藪野はあえてしらけた顔をしてみせた。弱い犬ほどよく吠える。数分後には負け犬の遠吠えを聞くことになるだろう。
ほどなくして、横畑がカウンターから離れた。五本の小瓶が整然と並んでいる。
鑑定家の凜田莉子が、小瓶の周りにあった喫茶店の備品を遠ざける。コーヒーメーカーや調味料の容器、スプーン立て。なぜかコーヒー豆の入った小さなガラス容器は置きっぱなしになっていた。
だが、そんな忘れ物をいちいち指摘している暇などない。さっさと終わらせるに限る。藪野はつかつかとカウンターに歩み寄った。「さっそく始めよう」
菊原も歩み寄ってきて、カウンターの前に並んで立った。
藪野は左端の瓶を手にとり、蓋をとってにおいを嗅いでみせた。少しばかり間を置いて告げる。「カルパン・クラインのCKbeだな」
眉をひそめた菊原が、藪野の手から瓶を受け取る。その瓶に顔を近づけて鼻をひくつかせると、菊原は驚きのいろを浮かべた。
「次」藪野は二番目の瓶を取りあげて蓋を開けた。「こいつは......似ているけど若干重い。ブルガリブルーだな。それと、この三番目の瓶。......アナスイだ」
小瓶を手渡すたび、菊原は目を瞠る。滑稽な見世物だと藪野は思った。高名な香水評論家を気取る男がまんまと術中に嵌まっている。
四番目の瓶のにおいを嗅ぐ。薮野はいった。「これは少し甘いにおいだから、ブルガリブラック。そして最後のは......。メンズ向けの香水だが、プラダマンだな」
「馬鹿な」菊原は驚愕のいろを浮かべていた。「素人が全問正解だなんて。とりわけフゼァアンバリーのにおいはどれも似通っている。こんなにあっさりと識別するとは......」
横畑が間髪をいれずに告げた。「菊原先生。テストは終了です。いや、私にとっても驚きです。しかし、結果は明白です。藪野さんはあの小説を書きうる専門知識を有していた。その事実がこの場で立証されたんです」
菊原はまだ納得がいかないらしく、あわてたようすで詰め寄ってきた。「藪野......さん。いくつか質問をしたい。これらの香水にはバニラが入っているか......」
すかさず横畑が咳ばらいをした。「お待ちください、菊原先生。そういうのは感心しませんね。あなたの要請もあって、きょうはこのテストをおこなうのみという約束で藪野さんを呼びだしているんです。ほかの質問をなさるのなら、藪野さんに事前の承諾を得ませんと」
「だが......ちょっと聞くだけのことだよ。テストに合格したのなら、当然わかるであろうことを確かめたいだけだ」
「すべてはテストの結果が示しています。法廷も証拠として採用するでしょう。藪野さん、ご足労さまでした。お帰りになって結構ですよ」
「な......なんだと。横畑先生。あんたはいったいどっちの味方だ」
藪野は表情を変えないよう努めながら、商店街に面した出入口に向かって歩きだした。
敗北感に満ちた菊原の恨めしい視線を背に感じる。藪野は内心せせら笑っていた。愚かで哀れな香水評論家。弁護士が俺とグルとも知らず、テストのすべてを任せきるとは。横畑が香水の瓶を置く順番は打ち合わせ済みだった。俺は端から順に、記憶したとおりの香水の名称を口にしたにすぎない。
終わってみれば、赤子の手をひねるよりたやすかった。帰ってビールでも飲むとしよう。忌々しい面構えの男だったが、もはや二度と目にすることはない。
ドアを開けて外にでようとしたとき、凜田莉子の声が呼びとめた。「藪野さん。これをお忘れですけど」
藪野は妙に思って静止し、ゆっくりと振りかえった。
莉子が手にしているのは、さっきカウンターの上にあった物だった。彼女がテスト前に片付けそこなった、コーヒー豆の入った小さな容器だ。
ふんと藪野は鼻で笑ってみせた。店内に悠然と戻りながら藪野はいった。「俺のじゃないよ。見てわかるだろ。それともなにか、こだわりの豆を挽いてもらおうと俺が喫茶店に持ちこんだってのか。どう見てもここの備品だろうが。頭がおかしいんじゃないのか」
ところが次の瞬間、店内の空気がふいに冷やかなものになった。
莉子は覚めた顔でじっとこちらを見つめてくる。
なんだ......? 藪野は息を呑んだ。俺、なにかやらかしたか? いや、問題はないはずだ。俺のコーヒー豆じゃないんだし......。
すると莉子は藪野を見据えたまま、容器を菊原に差しだした。「どうぞ。先生はお使いになるでしょう」
菊原は、ついさっきまでの狼狽した態度からは豹変し、妙に落ち着き払った顔でそれを受けとった。容器の蓋をはずし、たっぷりと鼻から息を吸いこむ。
横畑もわけかわからないようすで、目を白黒させている。「な......なんです? どうしてコーヒー豆のにおいを......」
「これはな」菊原は仏頂面で告げた。「私が持ってきた物だ。香水の鑑定をなりわいにする人間の必需品でな。私たちはにおいリセッターって呼んでる」
「におい......リセッター?」
「香水を次々に嗅ぐと、においが混ざりあって正確に識別できなくなる。だからこいつが必要になる。コーヒー豆の香りによって、いったん嗅覚をリセットするんだよ。鑑定の最中はむろんのこと、終わったあともこれを使って鼻をすっきりさせる」
「け、けれど」横畑の顔は青ざめていた。「あなたもさっきは、そんな物使ってなかったでしょう」
「五種類ていどの香水を嗅ぎおけるぐらいなら、私のような熟達した者にはにおいのリセットは必要ない。ただし、これを使おうが使うまいが、においの勉強をしたのならコーヒー豆の入った容器が何を意味するのか、知らない者はいない」
横畑が怯えきった顔を向けてきた。藪野も思わず横畑を見かえした。自分の顔からも血の気がひいていくのを感じる。
菊原が一瞬にして冷静さを取り戻したのは、そのせいか。奴は俺に知識がないと気づいた。とたんに形勢が逆転してしまった。
藪野は震える自分の声をきいた。「知るかよ、そんなこと......。俺はな、独学で香水の勉強をしたんだ。プロを名乗る人間は、コーヒー豆なんかに頼るのかよ。へえ、初めて知ったね。それがどうしたってんだ。俺はテストに合格した。ええと、弁護士の先生。名前はなんといったかな、そうだ、横畑先生。あんたも確認しただろ」
横畑が口をきく前に、凜田莉子がすかさずいった。「藪野さん。どうして横畑先生と初対面のふりをするんです? 知り合いでしょう? わたしと菊原先生が荒川沿いの弁護士事務所を訪ねたとき。あなたは隣りの部屋で聞き耳を立ててたじゃないですか」
五百キログラムのハンマーで殴られるような衝撃とは、まさにこのことだ。藪野は愕然とした。
なぜわかるんだ。そのひとことを発しそうになり、あわてて飲みこんだ。
まさか、横畑が喋ったのか。いや、そんなはずはない。現に横畑の顔にも動揺のいろが垣間見える。
莉子は冷静沈着な態度を貫いていた。「藪野さん。菊原先生の本を盗用しましたね? 具体的には、印刷所に入稿したデータの人物名を別の名前に一括変換してから、同義語変換ソフトにかけた。そして語尾をいじり、接続語の『だが』を『しかし』に変えるなどして出来あがり」
藪野の心臓はいまや、はちきれんばかりに激しく脈打っていた。
「な、なんで......」とうとうその言葉が自分の口をついてでた。「どうして......」
「どうしてわかるのかって? 作業が雑ですよ、藪野さん。あなたの『フゼアとハーブとオーデコロン』という小説、主人公の芝里佳子が祖父の葬儀に出席するくだりで『万年茸のにおいが漂っていた』とあります。万年茸のにおいって? おかしな表現でしょう。見直しのときにもっと注意深く読みこむべきでしたね。盗作を大量生産するために、ひとつの作品にあまり時間はかけられなかったんでしょうけど」
「なんの話だ。俺がどんな表現をしようが勝手だろ。あれは俺の小説だ」
「違います」莉子はなおも落ち着いた声で告げてきた。「ストーリーの同じ部分で、菊原先生の『バラと女と香水と』にはこう書いてあります。『霊安室と同じにおいが漂っていた』と」
「......霊安室?」
「わかりませんか? あなたは主人公の苗字を安室から芝に変えた。安室なんて単語はほかにないだろうとタカをくくり、パソコンで一括変換した。おかげで関係のない言葉も変換されちゃったんです。霊安室が霊芝にね」
藪野はみずから情けないと感じる声をあげた。「れ、霊芝だって? じゃあ......」
「その後、同義語変換をおこなったので、霊芝はより一般的な名称である万年茸に変わったんです。『万年茸と同じにおいが漂っていた』となった文章を、その後は手作業で添削して『万年茸のにおいが漂っていた』に簡略化した。あなたがおこなったすべての痕跡は、本文に克明に刻みこまれていたんです」
息苦しい。呼吸するのを忘れていた。藪野はあわてて空気を吸いこみ、咳こんで激しくむせた。
こちらが喋れない状況であることを察したらしい、横畑が助け舟をだしてきた。「凜田さん。憶測が過ぎますよ。それに侮辱に近い決めつけもある。どうして私の事務所に藪野さんが隠れていたなどとおっしゃるんです。名誉毀損になりますよ」
莉子は動じなかった。「横畑先生が嘘をついておられるのは? 虚偽には当たらないんですか」
「な......嘘って......なにを......?」
「朝十時に事務所に出勤しただなんて。マツバボタンは明るくなると花が開き、夕方にはしぼむんです。後日、荒川の土手に行ってみましたけど、先生が出勤したっていう時間帯には八分咲き以上、ほぼ満開でした。なのにあの日、先生のクルマのタイヤ痕がついた地面には、蕾の状態のままで潰された花ばかりがあった。あんな閑散とした場所に建つ事務所に、暗いうちに出向く必要があったのは、人目を避けたかったからでしょう? 一緒にいるところを見られたくない人物を連れていったから。違います?」
横畑は凍りついた表情のまま固まっていた。
馬鹿。絶句するやっがあるか。藪野は横畑に腹を立てた。饒舌さを失った弁護士など、無力に等しい。こんな奴が唯一の味方だとは。
こうなったら、最後の手段に訴えるしかない。藪野はいった。「あんたらが何をいおうと、俺はあの小説のアイディアをずっと昔から練ってたんだ。十年以上前からな」
その言葉が合図だと気づいたらしい、横畑は我にかえったようすで、懐に手をいれてまさぐった。「そうだ、私も調査の過程で興味深い物を見つけました。菊原先生には、真っ先にお見せしようと思ってたんですか」
取りだされたのは、古びたフリーペーパーだった。十年以上前にJR各線の駅前で配布されていたものだ。
横畑は震える手でそれを開き、菊原にしめした。「このページに、藪野稔の名義でエッセイが掲載されてるんです。内容は『フゼアとハーブとオーデコロン』のあらすじにそっくりです」グラビア八枚綴り、十六ページのフリーペーパー。製作した出版社は、とっくに潰れている。部数もごく少数、話題にもならなかったから、どこかに保存されているとは考えにくい。フリーペーパーは国立国会図書館にも完備されてはいない。確認済みだ。
製版は勝どき印刷が請け負ったため、版下のデータは残っていた。その七ページめにあるエッセイを、藪野が新たに書いたあらすじに差し替えておいた。
ただし、フリーペーパーを丸ごと復刻したのでは、紙質が新しすぎて偽装がばれやすくなる。よって該当する七ページめを含む一枚だけを印刷し、海水に浸けたり日干しにしたりして退色させ、古びさせてから、ホッチキスを外してバラした当時のフリーペーパーのなかに綴じこんだ。だから表紙や、ほかのページはすべて当時の物だ。それらのページと、新しく付けくわえたページの違いは見た目には判らない。
菊原は顔を真っ赤にして怒鳴った。「ナンセンスだ。こんなものはでっちあげだ」
横畑はいくらか落ち着きを取り戻していた。「紛れもなく十年以上前の出版物です。小説の内容が藪野さんのアイディアだったという、なによりの証明です」
勝った。藪野は今度こそ確証した。
専門家に事情を打ち明けずに冊子全体を鑑定させたところ、まんまと昔の印刷物という証文を得た。その鑑定書も横畑が保管している。法廷に提出すれば、再度の鑑定を待たずこちらの申し立てが認められる可能性が高い。事実、過去の盗作騒動でもこの手を使って切り抜けたことがあった。
菊原は激しく憤っているようだった。納得できるはずもない。いつまでも吠えまくるだろう。だが構わない。この決定的な物証によって、訴訟沙汰は回避される。藪野はほっと胸を撫でおろした。
しかし、嫌な気配を感じて、藪野は視線を莉子に向けた。
莉子はフランス人形のごとくすました表情を浮かべていた。こちらが用意したすべての筋書きを、茶番劇と見抜いているかのような覚めきった目つき。
胸騒ぎがする......。藪野は全身から汗が噴きだすのを感じていた。
やがて莉子は自分のハンドバッグに手をいれ、カンペンケースを取りだした。そこから消しゴムをつまみだし、菊原のもとに歩み寄った。「テーブルに置いてください」
怪訝な表情を浮かべた菊原が、いわれたとおりにする。テーブル上のフリーペーパーの表紙に、莉子は消しゴムをあてがい、ごしごしとこすりだした。
しばらくして、ページをめくり、また同じように消しゴムを走らせた。
菊原が眉をひそめた。「凜田先生。何をやってるんだ?」
莉子は作業の手を休めなかった。「『ビューティフルライフ』が放送されてたのは二〇〇〇年の一月から三月末。その年の春から秋にかけて、雑誌の印刷に使われるインクはいっせいに変わったんです。環境問題を考慮して、植物性の大豆油を使ったインクに」
「大豆油?」
「ええ。資源の再利用を効率化するために、色落ちしやすい印刷になったんです。これによって再生紙がローコストで製造できるようになりました。昔のグラビアは、見てのとおり消しゴムじゃ消えませんけど、いまの雑誌は......」
ちょうど問題の七ページめに差しかかった。莉子の手にした消しゴムがその上を滑った。
授業が終わった後のホワイトボードのごとく、消しゴムの先の軌道は真っ白に染まった。摩擦とともにページは消去されていく。
しまった......。藪野は言葉を失い立ちつくした。
菊原の燃えるような怒りの目が薮野をとらえ、それから横畑に移った。「このフリーペーパー、たしか弁護士先生の懐からでてきたんだよな」
横畑が観念したように目を閉じた。それ以上は何も見えなかった。藪野も横畑に倣ったからだった。
任意
午前十時すぎ。陽気な朝だった。銀座七丁目界隈も賑わいだしている。ケヤキ並木が連なる石畳の歩道で、小笠原悠斗は凜田莉子とともにたたずんでいた。
不二家旧本社ビルやリクルートGINZA7にほど近い、ステファニー出版の社屋のエントランスが見えるこの場所は、セブンイレブン銀座七丁目店の前だった。
コンビニの外壁にポスターが貼ってある。西武有楽町店は、本年十二月二十五日をもって閉店いたします。
小笠原はふとそのポスターが気になり、莉子にきいた。「これ、有楽町マリオンに入ってる西武百貨店のこと?」
「そう」と莉子は、ステファニー出版本社ビルを眺めたままいった。「阪急百貨店とフロアを分け合ってるでしょ。レディスブランドに力をいれてたのに、ちょっと残念」
「なんでセブンイレブンが案内を貼りだすんだろ」
「西武百貨店はいまじゃセブン&アイ・ホールディングスの傘下だから」
「ああ、そうか。それで思いだした。この西武有楽町店の食料品売り場、週末は深夜営業しててね。セブンチケットの端末機で、夜中近くでも当日のホテル予約ができたんだよ」
「知ってる」莉子は微笑した。「一休ドットコムや楽天トラベルがオンライン予約を打ち切った後も、西武有楽町店の端末なら受け付けてくれたし」
「急な出張のときとか便利だったんだよなぁ。コンビニのセブンチケットじゃ無理なんだよ。あそこでだけ可能だったんだ。あれもたぶん......」
「閉店とともにさよならよね。......あ、でてきた」
莉子の見つめる視線を追って振りかえる。小笠原はステファニー出版のエントランスに目を向けた。
開いた自動ドアから、足どりも軽く菊原琢磨が姿を現した。満面の笑いとともにこちらに小走りに駆けてくる。いまにもスキップでも始めそうな勢いだ。
「凜田先生!」菊原は通行人の目も気にならないようすで、大声を張りあげた。「なんと感謝したらいいか。『イザベル』の編集部は連載中止を撤回してくれたよ。私のコラムは今後も存続することが決まった」
「よかったですね」莉子が笑顔で応じた。「菊原先生の名誉は全面的に守られたんです。ね、小笠原さん?」
小笠原はうなずいてみせた。「うちの会社でも菊原先生の小説に関し、絶版にせずに販売を継続させていただくことになりました。ことの顛末は『週刊角川』で記事にしますから、インタビューには応じてくださいよ」
「いいとも。なんにでも答えるよ。遅い朝食でもとりながら話さないか。近くにいい店ができてね」菊原は尊大さを取り戻しつつあるようだった。「パリの名店、トゥール・ジャルダンの系列店がオープンしたんだよ。以前はニューオータニにしかなかったんだが」
歩きだした菊原の背を眺めながら、小笠原は思わず噴きだしそりになった。莉子に小声でささやく。「トゥール......ダルジャンのことかな? いまジャルダンって......」
「しっ」莉子は小声でかえしてきた。「笑ったら悪いって。ジャージの上下を、ジョージのジャーゲっていうみたいなものでしょ。よくあることよ」
「そんな間違いするかな」
「するって。わたし上京するまで、ずっとレーコン・ベタスバーガーっていってたし」
菊原が立ちどまり、妙な顔で振りかえった。「マクドナルドに行きたいのかい?」
「いえ」莉子は笑顔を凍りつかせた。「そういうわけでは......」
どうやら菊原は、いまの商品名の間違いにも気づいていないらしい。さすがあの個性的な小説を執筆しただけのことはある。
そのとき、歩道に寄せて停めてあった黒塗りのセダンのドアが、いっせいに開いた。
降り立ったのはいずれも屈強そうな身体をスーツに包んだ男たちだった。いかつい顔も何人か混じっていたが、リーダー格らしき人物は痩せていて、態度もそれなりに紳士的だった。
「すみません」とその男はいった。「あくまで任意なのですが、もしよろしければお話をうかがえませんか」
菊原は妙な顔をして、莉子を振りかえり、それから小笠原を見つめてきた。
男に向き直ると。菊原は胸を張った。「なんです? 私は香水評論家の菊原琢磨だよ」
だが男たちは無言のまま見かえすばかりだった。
その反応に菊原はたちまち萎縮してしまったらしい。弱腰な物言いでつぶやいた。「知らなきゃいいんですよ、べつに......。香水に興味ある男性も少ないだろうし」
「どなたであろうとかまいません」男は涼しい目をしていった。「あなたが、いましがたでてきた会社についてお尋ねしたいんです。ステファニー出版に関してね」
サンプル
どんな不本意な取り調べを受けるのかと小笠原は不安だったが、数台のセダンに分乗して連れていかれた場所は、角川書店からさほど遠くない千代田区大手町一丁目の合同庁舎だった。男たちは私服警官ではなく、財務省の役人だという。
莉子とともに案内されたのは、広く開放的なオフィス・フロアだった。全面ガラス張りの壁面の向こうには、日本経済の中核をなす数々のビルが見えている。立ち働く職員たちはみなクールビズ風のノーネクタイ、ワイシャツ姿で、態度もくつろいだ気さくなものに思えた。
フロアの隅にある応接セッ卜に通され、小笠原はやわらかいソファに身を沈めた。隣りでは莉子も同様にしていたが、その顔には不安のいろがあった。
心配ないよと声をかけてあげたいが、実際のところ小笠原のほうも内心は激しく動揺していた。なぜこんなことになったのか理解に苦しむ。菊原はほかの部屋に連れて行かれたようだし、自分たちが何をたずねられるのか見当もつかない。
ただし先方の態度は高圧的なものではなく、むしろ低姿勢の極みというものだった。頭の禿げた中年の職員が、盆に湯呑みをふたつ載せてやってきた。小笠原たちに茶をだしながら、男は大仰なほどの笑顔でいった。「少々お待ちくださいね。すぐ係の者が参りますんで」
小笠原は困惑を覚えた。「すみません......。きょうは平日ですし、僕らも仕事があるんです。午前中の空き時間を見つけて菊原さんにつきあっただけでして。そろそろ戻らないと、上司に何をいわれるか......」
「あー、それでしたら、心配ご無用ですよ。よろしければ私どもにご協力いただいている旨、職場のほうにもご連絡させていただきますので。失礼ですが、どちらにお勤めで?」
「角川書店です。こちらの凜田さんのほうは......」
莉子は、彼女が初対面の相手によくみせる、上目づかいの人見知りする態度でつぶやいた。「わたしはフリーランスですので......。鑑定家をしてます」
「鑑定家?」男の顔つきが変わった。「どんなご専門の?」
「ええと......。いちおうどんな物でも」
「ふうん。ちょっとお待ちください」
男はいったん小笠原たちの前から立ち去ると、すぐ近くの事務机にいた女性職員に声をかけた。サンプル、ひとつ借りていいか。鑑定家さんに見せるんで。
女性職員がぼそぼそと応じる。鑑定家さん? 来るのは午後のはずでしょう。
いや、と男がつぶやいた。正式にお願いした人じゃなくてさ、そこにいる女の子が鑑定業を営んでるらしいから。
小笠原は莉子を見つめた。莉子も眉をひそめながら、小笠原を見かえした。
ずいぶんくだけだ職場のようだ。あるいは、こちらに対しては警戒心を抱いてはいないということか。
やがて禿げ頭の男は、布にくるまれた何かを手に戻ってきた。重量感のありそうな物体をそっとテーブルに置き、布を取り払う。
出現したのは、延べ棒だった。万能鑑定士Qの店に持ちこまれた物とは形状が異なり、角が丸みを帯びていて、ひとまわり大きかった。刻印の種類も違っている。
ただし、純金ではないという点は共通していた。表層はまたも赤みがかった褐色で、ざらついていた。
莉子がため息をついた。「ゴールドバー......じゃありませんね。見てのとおり不純物だらけの合金です。質量だけは金と同じですが、実際の含有量はわずか三・二四パーセント。ほかに鉛三十七・五三パーセント、鉄二十六・九一。銅十八・六五......」
その声をききつけた近場の職員たちに、ざわっとした反応が広がった。
四十代前半ぐらいの精悍な顔つきの男が、つかつかと歩み寄ってくる。「なぜ成分をご存じで?」
「鑑定を依頼されたばかりだからです」と莉子は答えた。「形状は違いますけど、色や特徴はまるで同じでした」
男は真顔になった。禿げ頭の中年男に対し、代わろう、と告げた。中年男は会釈をして引き下がった。
生真面目そうなその男は、向かいのソファに腰を下ろした。「国税局査察部の風峰颯太と申します。本日は突然のご無礼をお許しいただき、ご協力いただけましたこと、心より感謝申しあげます」
小笠原は風峰を見つめた。「国税局査察部? マルサですか」
「その通りです。ステファニー出版について内偵中でして、社員以外にあの社屋に出入りする人物について、裏をとる必要に迫られてまして」
「誰彼がまわず声をかけるなんて、よっぽど切羽詰まっている状況なんでしょうか」
「お恥ずかしい話、そうなんです。ただ......。この奇妙な合金については、別件で押収した物なんです。世田谷区在住の海運業の資産家が、海辺の倉庫に隠していまして。地下室に山ほど詰めこんでありました」
「隠し資産を探すのが仕事のマルサとしては、こんな無価値な物を見つけても意味ないですね」
「まったくです。でも、私どももけさ知ったんですが、同様の事態は全国で多発していたんです。仙台や金沢、名古屋、高松、福岡の国税局でも、多額の資産隠しが疑われる富豪の邸宅や社屋から、同じような合金の延べ棒を発見していました。かたちはそれぞれ違いますが、成分はこちらの先生がさっきおっしゃったとおりです。ええと、失礼ですが......」
「凜田と申します」莉子はいった。「どうして形状が毎回異なるんでしょうか?」
「延べ棒というのは、どろどろに溶かした金を鋳型に流しこんで作ります。冶金工場ごとに違う鋳型を持っているでしょうから、異なっていて当然です。刻印についても同様です。ただ、こんな合金を延べ棒にするなど前代未聞です。酔狂が過ぎますよ」
「でも持ち主は純金の延べ棒だった......そう主張してるんじゃないですか?」
「おっしゃるとおりです」風峰は目を光らせた。「どいつもこいつも、悪質な脱税者にほかならないんですが、事情をきくとみんな魂の抜け殻にでもなったかのように、放心状態でぼそぼそとつぶやくんです。元は純金だった。なぜかこんな合金に変わってしまった、と」
あの女性と同じか。小笠原は鳥肌が立つ思いだった。
風峰の表情は真剣そのものだった。「延べ棒を購入する際、彼らは表面だけでなく内部も純度百パーセントの金であると、充分に確かめたそうです」
莉子が神妙にうなずいた。「レーザーで任意の場所を切って、その切断面を隈なく調べたと......」
「あなたのところに持ちこんだ依頼人もそういってたんですか? なら対象者は、国税局が把握している以上に存在しているのかもしれません。脱税者に限っていえば、彼らが隠匿していたとみられる資産と同額ぶんの金塊と、まさしく釣り合うだけの量の合金が見つかっているんです。彼らの主張を鵜呑みにすれば、隠し資産を金の延べ棒に変えておいたら、いつしか合金になってしまった......となるわけです」
小笠原は唸った。「うーん。その言いぶんこそが税逃れで、やっぱり本物の金の延べ棒はほかの場所に隠されてるんじゃ......」
「むろん、私どももそう考えましたよ。けれど、もう探しようがないんです。脱税者たちは合金をたいせつに保管していました。彼らがあれを無価値と考えていたふしはありません。いつかまた純金に戻るかもしれないと、涙ながらに訴えてきた者までいました。私には、どうも彼らが......」
莉子がつぶやいた。「嘘をついているようには思えない。とおっしゃるんですね」
「......ええ」風峰はうなずいた。「にわかには信じがたいことですが、事実かもしれません」
小笠原は固唾を呑んで、テーブルの上の合金を見つめた。
まったくもって不可解な謎だ。それだけに興味深い事象といえる。この機を逃したのでは、雑誌記者の肩書がすたる。
「あのう」小笠原はおずおずと告げた。「私、じつは『週刊角川』の者でして」
ふいに風峰が険しい顔つきになった。「週刊......角川?」
「あ、いえ、ここに来たのはあくまで偶然の成り行きで......。ただですね、そのう、非常に面白い事態でありますので、取材......でなくてもいいんですが、記事にする許可だけいただければよいかなと......」
及び腰になっている自分が情けない、だが、致し方なかった。さも頭の切れそうな国税局の職員相手に、先輩記者のようにずうずうしくは振る舞えない。
いきなり風峰が立ちあがった。
小笠原は思わずうわずった声をあげた。「駄目ならいいんです。きいてみたかっただけで」
ところが、風峰の反応は、小笠原が予想したものとは違っていた。
風峰は深々と頭をさげた。「お二方とも、どうかお時間をいただけませんか、甚だ恐縮ではありますが、是非ともさらなる力をお貸しいただけないかと」
ブローカー
その二日後の昼下がり、千代田区富士見二丁目の角川書店本社ビル前に、黒塗りの日産プレジデントが数台連なって駐車した。
財務省関連の役人が複数訪れていた。関東財務局の査察管理課の秘書たちと、角川の取締役が面会しているあいだに、小笠原は査察部の風峰に呼びだされた。万能鑑定士Qの店に電話をいれると、すぐに莉子も飛んできた。
角川の会議室は本館三階と新館一階に複数存在するが、たいてい予約で埋まっている。きょうも空いていたのはメディア部の広報用の控え室だけだった。
応接用ソファはあるものの、ケロロ軍曹のレインボープリントTシャツや朝比奈みくるのマウスパッドに長門有希のメガネふき、式波・アスカ・ラングレーのフィギュアなどが袋詰めにされ、四方の壁に堆く積みあげられている。けばけばしい色彩に囲まれた狭苦しい空間で、三人は顔を突き合わせることになった。
小笠原は戸惑いながらいった。「すみません......。急なご訪問だったので、ほかに部屋がなかったんです。決して他意があるわけでは......」
「わかってます」と風峰は真顔で告げてきた。「御社の納税申告に不備はないときいております。この部屋に通されたことを不審に思ったりはしていません、むしろ御社らしいお部屋といえるでしょう」
「はあ......。それはどうも、恐縮です」
「いま私の上司も御社の取締役のかたにお願い申しあげているところですが、先日も申しあげましたとおり、ご協力いただきたいことがございまして」風峰は事務カバンを開けると、一冊の雑誌を取りだし、テーブルに置いた。
それは有名な女性向け月刊誌だった。莉子が目を丸くした。「これ、ステファニー出版の......」
「そう」と風峰がうなずいた。「『イザベル』です。電子版もたいへんな人気ですね」
小笠原は風峰にきいた。「これが何か......?」
「ご存じと思いますが、ステファニー出版は名物社長兼編集長の城ヶ崎七海が『イザベル』創刊のために立ちあげた会社で、彼女自身が筆頭株主です。業務内容はこの雑誌のほか、十代向けの『イザベル・テイーン』など数誌を出版するのみ。いわば城ヶ崎ブランドの色彩が濃厚な女性誌だけに絞って世に送りだしているわけで、ここ数年で瞬く間にシェアを伸ばし、現在ではこのジャンルの市場を独占、さらには電子版女性誌の草分け的存在となっています」
「ええ。角川で女性ファッション誌を刊行しないのは、飛ぶ鳥を落とす勢いの『イザベル』には対抗できないと判断しているからで......。ほかの大手出版社も、続々と市場から閉めだされつつあります」
「御社は『イザベル』を買収しようと、城ヶ崎社長に持ちかけことがあったそうですが」
「......さすがお詳しいですね」小笠原は慎重に言葉を選びながらいった。「私のようなヒラ社員に詳細は知らされてませんが、うちの持ち株会社である角川ホールディングスは、ステファニー出版との経営統合を検討したことがあったみたいです。決してやみくもに傘下におさめようとしたわけじゃなくて、独自に新しい女性誌を創刊するよりは既存のブランドを買い取ったほうがいいという考えがあってのことでした。と同時に、電子版の製作にかなりの出資をおこなったステファニー出版の財務体質は、表に知られているほど良好ではないかも、という読みがありまして......。城ヶ崎社長がじつは資金繰りに苦労しているとすれば、うちとの経営統合にも乗り気になるんじゃないかと」
「そこです」と風峰はいった。「大手出版社はどこも、あんなにカネをかけて女性誌のみを商品に業界に打ってでれば、収益が見こめず倒産必至と考えていたようですね。御社をはじめ各社がそれを予期して、ステファニー出版の買収を試みたのに、城ヶ崎七海は申し出をことごとく退けてきた。なのに彼女の総資産額は膨れあがるいっぽうですし、会社の規模も拡大の一途です」
「不思議ですね。いくら売れているからといって、あそこまでコストかけ放題のゴージャス路線を貫いて、どうやって利益をだしているんでしょう」
「なに、簡単なことですよ。私どもが調査に乗りだしているわけですからね。脱税です」
「......法人税を逃れているわけですか」
「のみならず、法人事業税に法人住民税、消費税に源泉所得税、償却資産税もあきらかに納税額が足りていません。発行株式数が三千万株、七百人の従業員を抱えて、売り上げは本年の三月期で八百億円。東証二部上場の優良企業でありながら、過少申告もいいところですよ」
そのとき、莉子が遠慮がちにいった。「あのう、風峰さん......。きょう呼びだされたのはステファニー出版の件ではなくて、例の合金の延べ棒についてのことだと思ってましたが......」
「ええ、そうですよ」風峰は身を乗りだした。「両者はいまや無関係ではなく、むしろ一体化した問題となりつつあるんです」
「というと......?」
「私ども国税局査察部は悪質な脱税容疑者を片っぱしから調査してきましたが、このところ、行き着くのはあの無価値の合金ばかりです。本人を事情聴取しても、純金が合金に変わってしまったと、そればかりでね。この二日間、全国の国税局が調べたところによれば、彼らが金の延べ棒を購入したのはどうやら、すべて同一のブローカーからのようだと判明したんです」
「へえ」莉子は目を瞠った。「合金に変わった金塊を売りつけたのは、共通の人物だったわけですか」
「そうなんです。このブローカーは、私どもマルサが目をつけ調査に入ろうとする脱税容疑者に、先まわりしてコンタクトをとり、隠し資産を金塊に変えないかと持ちかけているようです。一億三千万円ものカネが、金にすれば三十五キログラムの物体に変わります。重量はあっても体積が非常に小さくなりますから、隠しやすくなる。それで脱税者は誰もが飛びつくんです。ところが、しばらくするとその純金は合金になってしまうという......。脱税者も隠し資産を失ってガックリですが、私どもも大打撃ですよ。莫大な額の税金を取りっぱぐれているわけですから」
莉子は風峰にきいた。「そのブローカーは、マルサの調査対象になる脱税容疑者をどうやって知りえているんでしょうか?」
「そこは簡単です。私どもが目をつけているターゲットは極秘ではありません。むしろ積極的に、国税局に睨まれる存在であることを世間に知らしめるのが常です。マルサは大手を振って脱税容疑者の身辺につきまといます。そうやってターゲットを心理的に追いこむのが目的でしてね。先日、ステファニー出版に出入りする人々に事情をきいていたのも、その一環です。脱税容疑者を孤立させ焦らせるわけです」
ではブローカーなる人物は、そういうマルサの動きを観察しているわけか。小笠原は風峰を見つめた。「プローカーってのはいったい何者です? 目星はついているんですか?」
「いや......。お恥ずかしい話、手がかりはさっぱりです。その人物から延べ棒を購入した脱税者たちが口を割ってくれれば話は早いんですが、みんな黙秘を貫いたり、あるいはショックで言葉も発せられない状態だったりで......。でも、ブローカーが次に狙うのは城ヶ崎七海に違いありません」
「もう接触してしまったかも......」
「いいえ。それならほかの脱税者と同様、合金の延べ棒を抱えて茫然自失という状態のはずです。とはいえ、ぐずぐずはしていられません。城ヶ崎の隠し資産が謎のブローカーの手によって、無価値の合金に変えられてしまうより先に、こちらから手を打たねば」
莉子がきいた。「わたしたちに何かできることが......?」
「ええ」風峰は『イザベル』を手にとり、ぱらぱらとページを繰った。「私も菊原さんに教えてもらったことなんですが......。ええと、どこだったかな。ああ、これだ」
雑誌が開かれてテーブルに置かれる。小笠原はそのページに見いった。
憧れの『イザベル』編集部で働いてみませんか、とある。編集長第二秘書急募。そうあった。
小笠原は読みあげた。「応募条件。二十二歳以上、三十歳までの女性に限る、大卒優遇......」
ふいに莉子の表情がこわばった。「ちょ、ちょっと......。まさか......」
風峰がいった。「そのまさかです。凜田先生に是非ともご応募いただきたいと考えております。理由は、その先を読めばわかるでしょう」
「先?」小笠原は雑誌に目を戻した。「秘書勤務経験のほか、宝石鑑定士・鑑別士・時計技師・貴金属彫金師などの有資格者優遇」
咳ばらいをして風峰は莉子を見つめた。「城ヶ崎は高級ブランド志向ですから、グラビアページは常にカルティエのアクセサリーやエルメスのハンドバッグなどで埋め尽くされてます。彼女の沽券にかかわるので、偽物を載せることなど許されません。だからいつも高い鑑定能力を持ったスタッフを求めています」
莉子はあわてたようにいった。「わたし。資格なんか持ってないんですよ。万能鑑定士ってのもお店の名前だし、認めてくれたのは二十歳のころのバイト先の店長と、高校時代の担任だけですし......」
「あなたの技能なら、私どもも尊敬に値すると考えてますよ。菊原さんが賛美しまくっていましたからね。弁護士までがグルになっていた詐欺師の罠を、あなたはたちどころに見破ったそうじゃないですか。凜田先生ほどの適任者は、ほかにいません」
「だ、だけど......。ほら、この採用条件にも『出版社勤務実績につきましても重視させていただきます』ってあるじゃないですか」
「そこも問題ありません。ご友人から教われば、編集者と同等の知識はほどなく得られるでしょう」
小笠原は面食らった。「ご友人って......僕のことですか?」
「いま私の上司が御社の取締役と話し合っているのも、まさにこの件なんです。凜田莉子先生がステファニー出版に入るにあたり、御社からも強力に推薦していただけるよう、お願い申しあげているんです」
「実質的な潜入捜査の片棒を担げっていうんですか?」
「捜査じゃありません。あくまで調査ですよ。裁判所に直接、証拠能力を認められるものではありませんが、内情を知れば大きな躍進になります。公安もよくおこなっていることですよ」
莉子は困惑をあらわにしていた。「風峰さん......。わたしは公安じゃないですよ。菊原さんの件は、あくまで成り行き上のことですし、事情を伏せて会社に潜りこむなんて......」
すると風峰は居ずまいを正し、まっすぐに莉子を見つめた。「凜田先生。本来は無関係であられるのに、このような状況に巻きこんでしまい本当に申しわけありません。しかしながら、私どもとしましては、凜田先生のお力を借りずにはいられないのです。このまま脱税者の隠し資産を徴収できない事態がつづけば、財政悪化、ひいては国力の低下につながりかねません。私どもがマークする、極めて悪質な脱税疑惑のある大物は当面、城ヶ崎七海で最後なんです。ブローカーも彼女を狙ってくるでしょう。いわばこれが最終ラウンドです」
「でも......」
「お願いします」風峰は深々と頭をさげた。「ステファニー出版の内部事情を探るのにご協力ください。編集長第二秘書という立場なら、ブローカーが城ヶ崎に接触してくるのに気づきうるかもしれません。彼女の隠し資産を押さえ、同時にブローカーの正体を暴く絶好の機会です。金塊が合金に変わる謎も解けるかもしれません。ブローカーの被害に遭っているのは脱税者ばかりですが......このままでは、あなたのお店を訪ねた女性同様、路頭に迷う人間が続出するでしょう。多くの運命を正しくあるべき方向に導くためにも、どうかお力を」
莉子は当惑のいろとともに黙りこんだ。憂いのいろとともに小笠原を見つめてくる。
小笠原は莉子にきいた。「お店はどうするの?」
「正社員として就職するのなら......しばらく閉めるしかないかな」
「ヨゾラは?」
「いつもマンションの管理人さんが預かってくれるからだいじょうぶ、けど、どうしよう......」
沈黙のなか、小笠原は思った。たしかに彼女なら、マルサからの要請に応えるだけの能力を発揮しうるかもしれない。けれども、さすがに今度は断るべきだ。
出版社に正社員として雇用されながら、社長の立場にある人間の身辺に目を光らせるなんて......。そこまでの話、フリーランスの鑑定家である彼女に受けいれる義務はない。そればかりはさすがに......。
面接
ひときわ暑い夏の日、凜田莉子はレディススープに袖を通し都心に繰りだした。小笠原悠斗に付き添われながら、銀座七丁目のステファニー出版本社ビルのエントランスをくぐる。
高級エステとブランドショップが入り混じったような内装のロビーで、受付に用件を伝えると、すぐに六階の編集長秘書室にあがるよう指示された。
ふたりでエレベーターに乗りこみ、ボタンを押す。扉が閉じて、エレベーターが上昇を始めた。
小笠原が見つめてきた。「意外だったよ、よく決心したね」
「ええ......」莉子はつぶやいた。「風峰さんが非常事態だって強調するから......」
「ひとりでだいじょうぶ? わからないことがあったら、いつでもきいてよ」
莉子は微笑してみせた。「ありがとう。がんばってみる」
エレベーターはゆっくりと静止し、扉が開いた。
この階の廊下もモダンなインテリアに彩られ、ファッショナブルではあったが、じつに機能的だった。編集部はガラス張りになっていて、なかが見通せる。採用条件に容姿が大幅に考慮されると評判の会社だけに、立ち働く男女はみなモデルのように端整でスマート、スーツ姿も決まっている。ただし、せかせかと動きまわるようすはテレビで見かけるニューヨーカーのようでもあり、厳めしい顔で遠慮なくものをいうさまは男女ともに〝肉食系〟揃いに思えた。同じ出版社でも角川書店とはずいぶん違う。莉子はそう思った。
草食系男子の極みというべき小笠原が歩きながらいった。「第一秘書の園部遥菜さんって、すごい美人なんだよ。テレ東の『ガイアの夜明け』で見たことあるんだけど、頭もよくて礼儀正しくて、本物の大和撫子って感じ」
「会うの楽しみ?」と莉子はきいた。
「まあね」そういって小笠原は、突き当たりの扉を押し開けた。
編集長秘書室に足を踏みいれたとたん、女の甲高い声が耳に飛びこんできた。
「締め切りは三時っていってあったでしょ!」デスクの前に立ったその女性は受話器を手にしていた。フェミニンなスーツとは対照的に、まさしくこの会社の典型と思える態度で怒鳴りつづけている。「イヴ・サンローランのオートクチュールを特集しようってのに、モデルの撮影に衣装が間に合いませんでしたで済むと思ってるの? これ以上遅らせるのなら、編集長に自分で頭をさげることね。いっとくけど、いつものピエール・カルダンのふざけた服で現れたら叩きだすから。いいわね」
乱暴に受話器を叩きつけると、女性は乱れがちな髪をかきあげて、デスクの上の書類をまとめだした。
「あのう」小笠原は、ひるんだようすで声をかけた。「ちょっとすみません......」
振りかえった女性は数秒のあいだ、その顔に憤りのいろを残していたが、小笠原を見たとたん営業スマイルに転じた。「はい。なにか?」
「ええと、私、角川書店の小笠原と申します」
「ああ。小笠原さん。十時にお約束の......。お早かったですね」女性は優雅なしぐさでデスクをまわりこむと、名刺を差しだした。「編集長第一秘書の園部です」
莉子は呆気にとられていた。たしかに、いま彼女が見せた物腰や天使のような微笑は、テレビを視聴する男性を魅了するものだろう。計算し尽くされた動き、話し方。これが一流企業の秘書というものだろうか。
けれども、どこか妙だと莉子は思った。園部遥菜の笑顔はごく自然に見え、目もとも穏やかで、心なしか顔も火照っているように感じられる。小笠原を見つめるまなざしは、時間とともに優しさを帯びている。
まさか......。いや、ありえなくはないだろう。この社屋のなかでは、彼のような草食系はめずらしいに違いない。
小笠原のほうも彼女の好意を感じたのか、名刺交換は格式ばったものではなく、笑いあいながらごく親しみやすい空気のなかでおこなわれた。ふたりの距離は妙に縮まっている。遥菜がそれだけ手早く間合いを詰めたからだった。
「ど、どうも」小笠原はぎこちなくいった。「有名な園部さんとお会いできるなんて......、緊張してますよ」
「まあ」遥菜はいっそうの笑みを浮かべた。「そんなに硬くならなくても。角川書店にお勤めのエリートさんが、うちのような弱小出版社をお訪ねくださるなんて。本来ならこちらから出向いてしかるべきなのに」
「弱小だなんてとんでもない......。すばらしい会社で圧倒されましたよ」
すっかり相思相愛だ。やや遥菜のほうが力で押している感じではある。莉子はひたすら唖然としながら眺めた。たしかに動物の世界では、草食は肉食に食べられる運命だが......。
ふいに遥菜の視線が莉子に向けられた。「で、この人が......」
「ええ」小笠原がうなずいた。「凜田莉子さんです」
「そう」遥菜は品定めでもするように、莉子の全身を眺めまわした。「服装は問題なさそうね。じゃ、社長室に行きましょう」
莉子は驚いた。「社長室......ですか?」
「面接は城ヶ崎編集長がみずからおこなうのよ。くれぐれも失礼がないようにね。余計なことはいわないこと。質問を受けたときだけ答えればいいから」
小笠原はこわばった笑顔でいった。「では僕はこれで......、凜田さん、頑張ってね。園部さん、どうかよろしくお願いします」
「こちらこそ」と会釈をした遥菜は、やはりまた満面の笑みを浮かべていた。
本当に好意を抱いているのか、それとも男性に対しては常にこういう態度をとるのだろうか。
そう思ったとき、エレベーターホールに向かいだした遥菜と、ひとりの男性社員がすれちがった。
わりとルックスのいい男性にもかかわらず、遥菜はためらうようすもなく憤りをぶつけた。「ちょっと、扉を開けたら閉めてよ」
「すみません......」男性社員はすっかり萎縮していた。
やはり彼女のあの態度は、小笠原にのみ向けられているらしい。角川書店ではガールフレンドができたという噂もきかないのに、場所が変われば価値も変動するものね......。莉子はひそかにそう思った。
廊下にでると、遥菜は振りかえりもせずにいった。「凜田さん。こっちよ」
「あ、はい」莉子は足ばやにつづいた。
ふたりでエレベーターに乗りこむ。遥菜は最上階、十二階のボタンを押した。
上昇するエレベーターのなかで、遥菜は仏頂面で告げてきた。「凜田さん。提出した履歴書に書き漏らしはない?」
「え......? あ、だいじょうぶだと思いますけど」
「ほんとに?」遥菜はじろりとこちらに目を向けてきた。「あのままじゃ最終学歴は高卒ってことになるでしょ」
「事実なので......」
遥菜は大仰にため息をついた。「沖縄県立八重山高等学校卒。以後は飯田橋で鑑定業を営む。それも従業員なしの個人事業で不定休。ときどき角川書店の業務を手伝うものの正社員としての雇用歴はなし。角川の井上社長の推薦がなかったら、うちの編集長が相手にすることもなかったわ」
ぐうの音もでない。しかも、その履歴にすら誇張がある。角川の業務を手伝ったことはない。わたしは出版社の仕事についてまるで未経験だ。
「それと」遥菜はいった。「高校時代の通知表の写しを取り寄せたんだけど......。冗談でしょ? 主要教科オール一って」
「あ、あの......」莉子はさすがに焦燥に駆られた。「通知表って? どうやって入手したんですか」
「編集長が欲したものはなんでも手にいれる。それが秘書の仕事なの」扉が開いた。遥菜は歩きだしながらいった。「面接はせいぜい数分でしょうけど、結果がどうあっても泣かないでよ。すべての女性にとって憧れの職場なんだし、倍率も恐ろしく高いのよ。もう大勢が面接で落とされてる。あなたが受かる見込みなんて、まずもってないんだから」
莉子は恐縮しながら遥菜の後につづいた。ホテルの客室フロアのように瀟洒な通路に歩を進め、大きな観音開きの扉に突き当たる。
遥菜が姿勢を正してノックをする。どうぞ、と女性の声が応じた。
「失礼します」遥菜はそう告げて、厳かな動作で扉を開けた。
そこは編集部の総床面積に匹敵、いやそれ以上の空間を占有する部屋だった。四方はガラス張りで銀座のビル群が見渡せる。内装はヨーロピアン・スタイルでまとめられ、ロココ調の曲線を多用した繊細な装飾の家具で統一されていた。ソファのセットや本棚、キャビネットは、広大なフロアにたっぷりと間隔を置いて、ところどころに点在しているにすぎない。編集長のデスクもまたしかりだった。
猫脚ながらエグゼクティヴ・クラスのサイズを誇るデスクは、部屋の奥、銀座四丁目の和光時計塔を望むガラスを背にしていた。ひとりの痩せた女性がデスクについて書きものをしている。
レディススーツは巷で見かけるハイミセス風のものではなく、もっと高貴で洒落ていた。うつむいた顔は老眼鏡をかけていたが、姿勢正しく書類にペンを走らせるさまは十八世紀の西洋からくり人形のようにどこか魅力的で、いちど目を向けたからには二度と無視できない存在感に溢れている。緩くカールした白髪を半分ほど淡いブルーに染めているが、それがスーツと絶妙にマッチして、年配ながら貴婦人と呼ぶべき端整な美を放って見える。まるで一枚の絵画のようだった。
デスクの前に到達すると、遥菜は立ちどまった。莉子もそれにならった。
遥菜が城ヶ崎七海を恐れているのは、態度をみれば一目瞭然だった。遥菜はかしこまっていった。「第二秘書候補の凜田莉子さんです」
城ヶ崎は顔をあげた。ゆっくりと老眼鏡をはずす。
実年齢は六十を過ぎている。さすがに風格を漂わせているものの、丁寧なメイクのせいもあってかその顔は四十代の若々しさだった。社交辞令の笑みはない。莉子を見つめる目には、ワンマン経営で上場企業を取り仕切るリーダーとしての凄みと鋭さのみがあった。
「ああ」城ヶ崎はすました顔で、低くつぶやいた。「角川書店さんのトップご推薦の......。井上社長はお元気かしら」
莉子は身を硬くしながら答えた。「申しわけありませんが、存じあげません......、お会いしたことはないので」
城ヶ崎は妙な顔をした。「そうなの? 会ったこともないのに、なぜあなたをうちの秘書に推してきたのかしら」
「わたしの本業が鑑定だと、社員の方からお聞きになっていたようです。そして偶然『イザベル』誌の募集記事をご覧になり、わたしのことを思いだされたようで......」
「で、あなたの就職の世話までしてくれたわけ。ずいぶん親切な社長さんね」城ヶ崎は莉子をじっと見つめてきた。「雑誌業界に身を置く者としては、他社の刊行物にも常に気を配っているわ。最近の『東京ウォーカー』って、ずいぶん洗練されたレイアウトなのね。モダンで、ポップで。角川書店さんの社風を反映してのことかしら」
「......失礼ながら『東京ウォーカー』は、いまでは同じグループ系列企業の角川マーケティングの刊行です。角川書店とは別会社です」
城ヶ崎は無言のまま莉子に目を向けていたが、やがてわずかに表情を和らげた。「そう。どうやらちゃんと推薦を受けてるみたいね。国税局のスパイじゃなくて安心したわ」
そういって城ヶ崎は遥菜を見やった、遥菜はすぐさま微笑を浮かべた。社長の冗談めかせた軽口に対し、望まれる反応を正確にかえす秘書。遥菜は逸材に違いなかった。
莉子も笑みを取り繕ったが、表情筋がこわばるのを感じていた。なにげない会話を装いながら、城ヶ崎はわたしに対する猜疑心を隠そうともせず、即座にテストを試みた。くつろいでいるようで、攻撃的姿勢を一瞬たりとも崩さない。肉食のなかの肉食、まさに百獣の王ライオンの貫禄だった。
革張りの椅子の背に身をあずけながら、城ヶ崎は莉子に告げてきた。「妙な男たちがビルの周囲を嗅ぎまわっているけど、気にしないで。彼らと口をきいたら、あなたにはもう用はない。いいわね」
「......はい。肝に銘じておきます」
「結構」城ヶ崎は身体を起こすと、椅子の脇に置いてあった物を取りあげた。それをデスクの上に放りだすように置き、たずねてくる。「これ、なんだかわかる?」
ハンドバッグだった。城ヶ崎の私物らしい。
莉子は手を触れることなくいった。「エルメス、ケリー32の特注品です。素材はボックスカーフ。昨年、グレース・ケリーの生誕八十周年を記念し、限定八十のみ刻印が入れられました。これはそのうちのひとつです。金属パーツのシリアルナンバーによれば十番目に製造されています。価格は時価で三百五十万円はするでしょう」
「四百万円で売れるってきいたことがあるんだけど」
「ええ。上部カーフ地に傷が入る前はそうだったと思います。お使いになるのはいいんですが、物を出し入れするときにはくれぐれも慎重に......」
遥菜が小声で鋭く咎めてきた。「ちょっと」
「あ......」莉子は言葉を呑みこんだ。
城ヶ崎の顔には、なんの表情も浮かんでいなかった。「いいのよ。じゃ、午後の会議は三時半から。デスクのパソコンは常時オンにして、メールの呼びだしにもすぐに対応するように。以上よ」
すると、遥菜が意外な顔をして城ヶ崎を見た。「あ、あのう、編集長。いまのご指示は......?」
「あなたじゃないわ」と城ヶ崎がそっけなくいった。「第二秘書に向けてのものよ」
「編集長」遥菜はあわてたように訴えた。「さきほど参考書類を提出しておきましたが、凜田さんは石垣島の公立高校卒で、成績は全教科......」
「美人でしかもこのハンドバッグの価値がわかる。スーツが安物なのは気になるけど着こなしは悪くない。当面はそれで充分。使いものにならなかったらクビにするだけ。それは全社員同じ。うちでは組合の泣きごとみたいなのに耳を傾ける姿勢はないから。わかった? ならふたりとも、さっさと秘書室に戻って。業務については遥菜にきいて。夕方以降は知らぬ存ぜぬでは済まさないわよ。いいわね、莉子」
いきなり下の名で呼ばれ、莉子はどきっとした。「は、はい」
遥菜はなおも腑に落ちないようすだったが、やがて諦めたように城ヶ崎に頭をさげ、踵をかえした。
莉子も同じようにして、遥菜につづいて部屋をでた。
自然に笑みがこぼれる。マルサに仰せつかった密命はさておき、わたしは面接に受かった。正式に雇われた。十八歳で上京して以来、初めての快挙だった。
エレベーターホールに着くと、遥菜はため息をついて頭をかいた。「電話を保留にしようとして切らないでよ。前の第二秘書はそれで解雇されたんだし」
「だいじょうぶです」と莉子は笑ってみせたが、内心冷や汗をかいていた。その失敗ならチープグッズでバイトしていたころ、さんざん経験した。二度とやらかさないよう気をつけねば。
対処済み
小笠原悠斗はスターバックスの銀座コリドー通り店で、カフェ・モカのホットをすすりながら腕時計を見た。
午後三時すぎ。いったん角川書店に戻ったものの、莉子が気になって結局またステファニー出版のエントランスを眺めに、この場所に赴いてしまった。
莉子から連絡がない。飯田橋の店に帰ったようすもないし、面接に呼ばれたきりこの社屋からでていないようだった。まさかこんなに長く合否を吟味されたりはしないだろう。いきなり研修にでも駆りだされたのだろうか。
経緯をあれこれ推察していたとき、開いた自動ドアを入ってくる女性の姿があった。小笠原は、思わずカフェ・モカを噴きだしそうになった。
園部遥菜だった。両手に抱えきれないぐらいの数の手提げ袋をさげている。いずれもブランドのロゴ入りだった。オレンジいろはエルメス、黒はシャネル。中央通りのあらゆる有名店を巡回して、大量に買い物をしてきたらしい。
遥菜はカウンターで注文をし、コーヒーの受け取りを待っている。床に置いた荷物の量だけでも、狭い店内の貴重な空間を独占してしまいそうだ。
運ぶのも大変だろう。小笠原はそう思って席を立ち、遥菜に歩み寄った。「こんにちは」
振りかえった直後の遥菜は、仕事のできる美人特有のつっけんどんな態度そのものだったが、小笠原の顔を見たとたんに目を輝かせた。「あ、小笠原さん......」
まっすぐに見つめてくるまなざしに、小笠原はいささかたじろいだ。
さっきもステファニー出版の秘書室で感じたことだが、彼女はどうも俺に気があるようだ。『週刊角川』の編集部に戻って同僚の宮牧拓海にその話をしたが、彼は『また始まったよ小笠原の妄想癖が』と主張して譲らなかった。
しかし、ふたたびこうして園部遥菜と出会ってみると、やはりまんざらでもなさそうだ。
小笠原はいった。「荷物、持ってあげようか」
「え? あ、そ、そうですか。じゃあお願いします」遥菜はエスプレッソのカップが載せられたトレイを手にして、テーブルに歩きだした。「優しいんですね、小笠原さんは。うちの男性社員とは大違い」
「御社ではみなさん忙しそうだから......。僕はいつも雑用係だし」
「まあ、そんなご謙遜を」遥菜は妙にうっとりとした顔を向けてきた。「小笠原さんみたいに控え目な男性にはあまり会ったことがなくて。つきあっている人とかいらっしゃるんですか」
ずいぶんと積極的だ。最近の『サザエさん』のカツオに対する花沢さんの態度にうりふたつに思えた。
直後に自己嫌悪に陥る。花沢さんって......。園部遥菜はほっそりと痩せた美人顔で、上場企業の社長秘書だし、いまもブランド品の山に囲まれている。場所は銀座だ。この状況でサザエぐらいしか連想できない自分が悲しい。稚拙な愚民の発想、ここに極まれり。そのうちこちらの内面を知ったら、きっと遥菜もてのひらを返すだろう。
小笠原はテーブルの下に荷物を並べると、椅子に腰かけた。「仕事上の買いだしなの?」
「そう」遥菜は小笠原の隣りに座り、ためらうようすもなく距離を詰めてきた。クリームを開けてカップに注ぎこみながら、大仰にため息をつく。「巷の新商品についての写真付きレビューは読者にも好評なの。モデルに配って一週間ほど使わせてから、彼女たちの感想をライターにまとめさせるの」
「うらやましい経費の使い方だねぇ......。でもさすがに、こんなに高価な物ばかり買い集めるなんて、社長の信順を得ている第一秘書にしかできない仕事だね」
「とんでもない」遥菜はカップを口に運びながら、顔をしかめた。「雑用もいいとこ。本来は第二秘書がやるべきことよ」
「第二秘書......。凜田さんの就職がきまれば、彼女の役目か」
「違うって。莉子ならもう第二秘書になってるし」
「え......? そうなの?」
「面接したその日から就労。編集長の気まぐれひとつでスケジューリングはどうなるかわからない、あんなの採るなんてね」
「あんなの?」
「あ」遥菜は笑みを浮かべた。「小笠原さんのお友達を悪くいうつもりはないのよ。ただ、そのう、彼女には彼女に合っている職業があるでしょう。無理にうちに入らなくても」
「凜田さんは聡明だし、仕事もできると思うよ」
「求められてるのは秘書の資質なの。莉子ったら、デスクについて最初の電話を受けたとたん、なんだっけ......ああそうだ。『お電話ありがとうございます、万能鑑定士Qです』とかいうのよ」
「あー......。そりゃまあ、いつもの癖もあるだろうしね」
「わたし、なんだか彼女が可哀想で。小笠原さん、彼女のお友達なら、相談に乗ってあげてくれないかしら。このままでいいか、彼女の率直な気持ちをきいてあげてほしいの」
小笠原は気分が萎えていくのを感じた。
遥菜のような美人と知り合えたのは嬉しいし、彼女のほうからも好感を持たれているのだとすれば心底ありがたい。とはいえ、遥菜のこの態度が何を意味するのかはあきらかだ。彼女は凜田莉子を蔑んでいて、第二秘書に不適格だと考えている。可哀想などという物言いは口先だけで、実際には莉子が会社を辞めるように仕向けようとしている。
莉子は国税局査察部の願いを受けて、城ヶ崎を内偵するために会社に潜りこんでいる。遥菜の考えるような、ただ恰好のよい職業に就きたいという欲求に支えられているわけではない。
「でもね」小笠原は穏やかな口調を努めていった。「ほんの数時間じゃ適性はわからないよ。凜田さんは変わった人でね、どんなことでもスポンジのように吸収して適合していくんだよ。園部さんも先輩として、凜田さんの成長を見守ってあげてくれないかな」
遥菜は小笠原の発した言葉に、いちいち感銘を受ける体質らしい。酒でも入ったかのように恍惚とした表情で告げてきた。「お友達想いなんですね、小笠原さんは......。うちの会社じゃ、みんな出世を争ってばかりでギスギスした関係だらけ。わたしも心が広い人になりたい」
いまこそ莉子に対してその態度をしめすべきだろう。小笠原が内心そう思ったとき、携帯電話の着メロが鳴った。
小笠原ではなく、遥菜の携帯電話だった。遥菜はスタイリッシュなFOMA携帯を取りだして電話にでた。「園部です。あ奥住さん。ちょうどよかった。グラビアページの印刷入稿だけど、アドビのCS5じゃそろそろ古くなってきたから、システム全般についてバージョンアップを......」
ふいに遥菜の表情が曇った。「......はい? もう対応してるって? でも誰が......。莉子が指示した? それいつの話よ。さっき?」
始まった。小笠原は思わず口もとが緩むのを必死で堪えた。莉子の環境適応能力はすさまじいものがある。業務に不慣れな新参者でいたのも、せいぜい午前中までだったろう。
焦燥のいろを浮かべた遥菜が電話を切り、また別の番号にかけた。どういうことよ、とひとりごちてしばし沈黙、やがて電話に告げる。「園部です。椎名さん、コシノジュンコデザインオフィスヘの連絡だけど......昼過ぎに済ませたですって? けど、プレゼン用の書類もまだ揃っていないはずでしょ。......第二秘書がぜんぶ手配した? 莉子が?」
遥菜のあわてぶりは、小笠原が予想した以上だった。すぐ戻ります、そういって電話を切ると、席を立って荷物をまとめだした。
小笠原はきいた。「もう行くの?」
「ええ」遥菜は早口に告げてきた。「ごめんなさい、急用ができたの。そのうちお食事でもご一緒しましょう。じゃあ」
それだけいうと、遥菜は手提げ袋を両手いっぱいに抱えて自動ドアをでていった。まるで朝九時、収集車が来る直前にゴミ袋を手に駆けだす主婦のようだった。
食事に誘われた。それ自体は悪い気はしない。会社に戻ろう、と小笠原は腰を浮かせた。やはり莉子については心配なさそうだ。彼女はどんな逆風のなかだろうと翻弄されたりしない。むしろ、嵐を巻きおこすのは彼女のほうなのだから。
エアコン
園部遥菜はブランド品の買い物袋を山ほど抱え、つかつかとステファニー出版のエントランスをくぐった。
せっかく従順そうなイケメンと知り合いになったというのに、ゆっくりお茶をする時間もない。社内はガツガツした男ばかりだし、社外恋愛は出会いのきっかけすらままならない。なんて腹立たしい。
ロビーを一気に横切ろうとして、思わず足がとまる。
周りの雰囲気ががらりと変わっていた。アンディ・ウォーホルのアート画をモチーフにした大判のポスターが十数枚、壁に貼りだされているからだった。脚立の上に、つなぎ姿の若い男性社員が立って作業をおこなっている。見たところ八割がた貼り終えているようだった。
さっき、でかけるときにはまだ一枚も貼られていなかったのに。遥菜は唖然として男性社員に声をかけた。「ねえ、ちょっと......」
男性社員はこちらを見おろした。「ああ、園部さん。もうすぐ終わりますから」
「もうすぐって......。たしかにきょう掲出する予定のポスターだけど、どうやってこんなに早く......。いつもなら一日かかるはずでしょ?」
「ええ、そうなんですよ。ここ、壁と天井の境目が斜めになってるし、壁板も複雑に歪曲しているせいで、まっすぐ貼りにくくて。定規をあてがって作業するのに時間がかかってたんですけど、きょうは違うんですよ。ほら、これをもらったので」
そういって男性社員は片腕をまっすぐ伸ばした。彼の手からは、二メートルほどもある糸が垂れ下がっている。その先に五円玉が吊るしてあった。
男性社員は笑った。「どうして気づかなかったんだろうな。これがあれば床に対して直角に貼るのも楽勝ですよ」
「誰の思いつき?」
「第二秘書の......ええと、凜田さんって人です。きょうから働いてるんですってね」
莉子。優先順位としては低いはずのロビーの装飾にまで気をまわしている。それより重要なスケジュールについては、すでに済ませているということか? まさか......。
遥菜は手提げ袋をすべて受付カウンターの女性に押しつけた。「秘書室に届けておいて」
返事もきかず足ばやにエレベーターに向かい、乗りこんで六階まで上昇する。
いつものようにあわただしい編集部を横目に見ながら、秘書室に達した。なかに入るや、遥菜は声をかけた。「莉子......」
だが、室内は無人だった。第二秘書のデスクにも莉子の姿はなかった。
身を翻して廊下に駆けだそうとしたとき。やってきた雲伊司とぶつかりそうになった。
編集部きってのやり手である雲伊課長は、面食らったようすで見つめてきた。「やあ、遥菜。ちょうどよかった。グラビアページの修正案を持ってきたよ」
差しだされた大型の封筒を受け取りながら、遥菜はつぶやいた。「修正案?」
封筒を開けて中身を取りだす。有名なカメラマンがイランの奥地で撮りおろした少女の写真が、見開きで掲載されたページのゲラだった。少女の頭に、赤鉛筆で斜線が描きこまれている。
雲伊は目を輝かせていた。「知らなかったよ。イランの女性は、年齢によってスカーフの巻き方が変わるそうだ。この少女は九歳を超えているから、スカーフを被らなきゃならない。現地の人にみえるけど、実際にはカメラマンが連れていったモデルだからな。うっかりこのまま出版してたら、イスラム圏から苦情がでるところだったよ」
「スカーフを合成するわけ?」
「いまスタッフと打ち合わせしてきたけど、フォトショップで難なく可能らしい。それと、季節も夏だからチャドルもレース地にするのが現地の慣習らしいから、いじってそれらしく見せる」
「......誰が指摘したの?」
「第二秘書だよ。凜田莉子さんだっけ。驚いたね。本当かなと思ったけど、ネットで調べてみたら英文のサイトにその通り書いてあったよ。で、第一秘書のきみに確認してもらおうと思って......」
「修正ならさっさとおこなってください。入稿予定は遅らせないでくださいよ」遥菜は雲伊に写真と封筒を押しつけると、廊下を歩きだした。
莉子はどこだ。何もかもわたしを先まわりして、しかも潜在する問題をことごとく炙りだし、次々と解決に導いている。まるで道なき道を突破していくかのように......。
廊下で、セクション間の連絡係を務める櫻井美咲とすれちがった。美咲が振り向いて声をかけてくる。「あ、遥菜さん。発送が遅れているお中元についてですけど、例の禅宗寺院の人宛ての......」
いまはそれどころではない。遥菜は苛立たしげに足をとめて美咲にいった。「さっさと送っておいて。関東地方じゃただでさえお盆に送っても月遅れだけど、編集長がお世話になったお寺の偉い人だしね。何もださないよりまし」
「はい。でも中身なんですけど、そうめんって......」
「いいのよ。編集長の指示なんだし。禅宗寺院じゃ祝いごとの昼食に、そうめんを食べるんだって。職人に手延べで作らせたからパッゲージも何もないけど、品名はそうめんにしておいて。前にいったでしょ」
「ですよね......。さきほど第二秘書の凜田さんというかたの指示で、新しく中身を取り寄せるよう手配しました」
「待って。新しく中身を......? なによそれ」
「凜田さんのお話では、用意してあったお中元はそうめんではなく、ひやむぎだとか」
「ひやむぎ? どう違うの?」
「ええと」美咲はメモ帳を取りだした。「凜田さんがおっしゃるには......そうめんは小麦粉を塩水でこねて作った生地に、綿実油もしくはゴマ油を塗る。ひやむぎは同じ生地ですが、油は塗らない。箱の中身を一見して違いがわかったそうです」
中身ならわたしも確認した。調理前の白くて硬い棒状の物がたくさん束ねてあるに過ぎなかった。あれを見てほんのわずかな違いに気づいたというのか。彼女が得意とするのはブランド品の鑑定だけではないのか......。
なんにせよミスは放置できない。遥菜は吐き捨てた。「第二秘書の指示を受けたのなら、そうすればいいでしょ。いちいちわたしに確認を求めないでくれる?」
「......わかりました。それと、三時半からの会議ですが」
そうだった。もうあまり時間がない。遥菜は歩きだしながらいった。「各部署にメールで議題を事前通達しておいて。会議室はわたしが準備しておくから」
エレベーターに乗り十階に上る。目がまわるような忙しさはいつものことだが、きょうは特にきつい。要領を得ないせいだ。莉子の働きによって、わたしの仕事は軽減されている。それがかえって重荷になる。ふだん、わたしの仕事がいかに効率悪くミスを頻出させるものであるか、いちいち指摘を受けているような気分になる。
この会議室だけはわたしの領域だ。重役専用の洒落たラウンジ風のミーティング・ルーム。同席を許されるのは第一秘書のわたしだけ。第二秘書の出る幕はない。
まだ室内には誰もいなかった。磨きあげられた円卓に埃ひとつ落ちていないことを確認する。閉め切っているせいで、かなり蒸し暑かった。リモコンを手にして、冷房のボタンを押す。
ところが、壁のエアコンは反応しなかった。ピッという作動音もきこえなければ、ウィングプレートが上下するようすもない。あわててボタンを何度も押す。だが、状況は同じだった。温度が急激に上昇していくように感じる。頬をつたう汗を拭った。
まずい。編集長はこの見晴らしのいい重役専用の会議室を使うことに、何よりステイタスを感じている。会議の場所をほかへ移すのを受諾してくれるとは思えない。
無理を承知で、遥菜はインターホンの受話器をとった。社長室につながるボタンを押す。
「はい?」と城ヶ崎の声が応じた。
「編集長......。三時半からの会議ですが、十階の会議室のエアコンが動かないんです」
しばしの沈黙の後、城ヶ崎の声は冷やかにいった。「十階で会議をするわ。いつもそうしているように」
「で、ですが、会議室はいまとても暑くてですね......」
「涼しく快適な環境で会議を進行します。予定どおり三時半から、十階でね。あなたも遅れないように」それだけいうと、通話は切れた。
震える手で受話器を戻す。どうしよう......。この部屋の窓は開かず、換気も不可能だ。
エアコン本体にはボタンはなかった。壊れているのが本体かリモコンかもさだかではない。
そうだ、電池だ。予備はキャビネットの引き出しにあった。
ただちにリモコンの電池を入れ替えて、再度試みる。結果は......同じだった。エアコンは作動する気配ひとつみせない。
思わず泣きそうになる。機械のせいにはできない。そんな弁明を許す城ヶ崎ではない。不本意なことだらけなのは承知のうえで耐えてきた。なのに、エアコンの故障ですべてが水泡に帰すなんて......。
足音がきこえた。誰かが部屋を入ってくる、遥菜はびくついて振りかえった。
莉子が目を丸くして立っていた。「遥菜さん......?」
もはや第二秘書が来るべきところでないなどと、意地を張って突っぱねている場合ではない。遥菜はすがる思いで駆け寄った。「エアコンがつかないのよ。もうすぐ会議なのに......」
すると、莉子は壁のエアコンを見あげてから、テーブルの上のリモコンに目を落とした。ポケットをまさぐり、携帯電話を取りだす。
どうする気だろう。遥菜が見守っていると、莉子は携帯電話をカメラモードに切り替えた。
遥菜はきいた。「何をしてるの?」
「故障の確認です」莉子はリモコンの先端に向けてシャッターを切った。「デジタルカメラのCCDセンサーを通すと、人間の目に見えない赤外線が写ります。見てください、リモコンの送信部が消灯してる。機能していれば点灯して写るはずです。電池切れでしょうか」
「電池ならいま交換したわ。じゃあリモコンの故障ね? どうしよう、サンヨーのエアコンは社内でここだけなのよ。ほかの部屋のリモコンは使えないの」
莉子は携帯電話を操作した。「マルチリモコンのアプリを探してダウンロードしてみます。このエアコンに適合するソフトがあればいいんですけど......」
遥菜は急いで椅子の上に乗り、エアコン本体の機種の確認にかかった。「サンヨーの業務用機種で、HS449......。二か月前に取り付けてもらったばかりなのよ」
するとそのとき、莉子の表情が険しくなった。「やばいかも......」
「な」遥菜は椅子を飛びおりて駆け寄った。「なんなの?」
「新しすぎてソフトがないみたいです」
思わず悲鳴をあげたくなる。「嘘......。冗談でしょ。リモコンが壊れてるだけなのに、作動させられないなんて」
しかし、なおも莉子は涼しい目をしていた。指先で携帯電話を操作しながらいった。「サンヨーのブランドが廃止されたのが先月末。パナソニックに統一されることはそれ以前からの決定事項ですから、リモコンの信号も同じにしてあったかもしれません。パナソニックのアプリをダウンロードして......と。さあ祈りましょう。えい!」
莉子が携帯電話をエアコンに向けて、ボタンを押した。
ピッという電子音。そして厳かな響きとともに、風が吹きだしてきた。
遥菜はしばし放心状態だった。肌に感じる風の冷たさ。幻想ではない、本物だ。
そう思ったとき、遥菜は脱力し、椅子のなかに身を投げだした。
たたずむ莉子の長い髪が風に揺れる。終始冷静だった彼女の顔にも、安堵のいろが浮かんだ。
数分前までは思いもよらなかった言葉を、遥菜は莉子につぶやいた。「ありがとう......」
莉子の大きな瞳が遥菜を見る。微笑とともに莉子はいった。「ひやむぎでも食べます? たくさん余っているので」
現在
凜田莉子という、ちょっと変わった第二秘書が入ってきて四か月。クリスマスイブの夜も更けてきた。それでも銀座七丁目のステファニー出版本社ビルは、あらゆるフロアに明かりが灯り、社員も総出で働きつづけている。
きょうは仕事納めだった。無事に『イザベル』電子版クリスマス特集号の配信も終わったいま、ほとんどの従業員は、午後十一時以降に催されるパーティーの準備に追われている。唯一の例外はこの八階のフォトスタジオだった。
夜十時をまわっていた。園部遥菜は大勢のスタッフたちとともに、今年最後の仕事になるグラビア撮影に立ち会っていた。
真っ白な背景に溶けこむような純白のドレスに身を包んでいるのは、きょうのためにわざわざパリから招いたスーパーモデルだった。金髪のロングヘアに負けず劣らず光り輝く、五・一八カラットのブルーダイヤモンド。世界にただひとつのペンダントがその胸もとにあった。
カメラのフラッシュが焚かれるたびに、ダイヤはそれ自体が光源と化したかのように青白く輝いた。こんなに美しいペンダントは見たことがない。来春の特別号の表紙に不可欠と、城ヶ崎七海が譲らなかったのもうなずける。
撮影に見いっていると、遥菜と同じくパーティースタイルのドレスを着た凜田莉子が近づいてきた。
莉子もうっとりとした顔でつぶやいた。「綺麗ですね......」
「ほんとにね」遥菜は思わずため息をついた。「傷ひとつないフローレス・ダイヤモンド、色はファンシー・ビビッド・ブルーですって」
「ものすごく高価な物だと思いますけど......。編集長の私物でしょうか?」
「まさか。そうだとしたら撮影に貸しだすはずがないわよ。これ、編集長が知り合いのお金持ちから借りたそうよ。天王寺海翔って不動産チェーンの会長。今晩のパーティーにも来るから、そのとき返却する約束なの」
「あー、それで雲伊課長が手提げ金庫を借りてきたわけですか」
「そ」遥菜はうなずいてみせた。「撮影終了からパーティーまでのあいだ、責任を持って保管しないとね。なにしろ天王寺さんがサザビーズで落札したときの額は、三百九十万ポンドだったそうだから」
「さ、三百九十万......」莉子は目を瞠った。「日本円で五億円ですか」
「海外での撮影じゃ、もっと高いアクセサリーを身につけるのが当たり前ですって。来月、わたしパリに行くでしょ。冬のオートクチュール・コレクションって、プレタポルテより服飾ブランドの注目度が低いから、そのぶんアクセサリーに力が入るんだって。十億とか二十億もザラらしいの。いまから楽しみ」
「へえー。遥菜さん、冬のパリは初めてなんですか」
「ええ、夏は城ヶ崎編集長が招待されるからよくついていくけど。莉子はフランス行ったことは?」
「今年行ったばかりです」
「ふうん。どこを回ったの? やっぱヴェルサイユ宮殿とか?」
「いえ......。美術館を少しと、パリ市警と、ロワールのフォアグラ工場をふたつほど......」
「なにそれ。社会科見学?」
スタジオがふいにざわめきだした。張り詰めた静寂から一転して、くつろいだ雰囲気が漂う。モデルも姿勢を崩し、スタイリストが衣装の締め付けを緩めにかかる。カメラマンが機材をしまいながら、大声で周囲に告げた。「終了です。お疲れさまでした」
スタッフたちがいっせいに拍手をする。遥菜もそれにならった。
莉子はあたかもブロードウェイの幕が下りたときの観客のように、満面の笑みで手を叩いていた。
やはり変わっている、と遥菜は思った。働きだして四か月も経つのに、莉子はいまだに社内のあらゆることに新鮮な驚きを持って接しているようだった。異常に感じられるほどの頭のよさを発揮するかと思えば、誌面を飾るデザインの数々にいちいち感動したり、ひどいときには風景写真を眺めただけで涙を流したりする。正直、さっきもあのアクセサリーを見て号泣しだすのではと気が気ではなかった。うっとり顔で済んでさいわいだった。
あの感受性の高さゆえに、多種多様なことに関心をしめし、じっくりと観察したり記憶に留めたりできるのだろう。わたしには無理だと遥菜は思った。莉子もわたし同様、常にすまし顔でいればクールな外見を保てるのに。どうしてあんなに人目をはばからずに天然ぶりを発揮できるのだろうか。ときどきそのギャップについていけなくなる。
スタイリストが、モデルの首からペンダントを外そうとしている。遥菜は足ばやに近づいた。「それはわたしが預かります」
一瞬たりとも目を離してはならないと城ヶ崎に厳命されている。スタイリストは丁重にペンダントを差しだしてきた。それを受け取ると、ずしりとした重さを感じる。ダイヤよりむしろ鎖のせいだった。これを身につけて自然に振る舞っていたモデルの努力に頭がさがる思いだった。
遥菜はペンダントを手に、莉子とともにスタジオの隅に向かった。課長の雲伊司は、長テーブルの上に置いた段ボール箱に両手を突っこみ、ごそごそと作業をしていた。パーティーで来客に配られるプレゼントの梱包は例年、彼の仕事になっている。
「課長」遥菜は声をかけた。「手提げ金庫は?」
「ああ、そこにある」雲伊はいった。「いまちょっと手が離せないんだ、いつもどおりやってくれ。もし壊れてたら、予備も借りてきてあるからそっちを使えばいい」
例のエアコン騒動以来、機械類については必ずふたつ用意する。それがこの会社の決まりになっていた。
パイプ椅子の上に、馴染みのテンキーロック式の手提げ金庫がある。蓋にはアルファベットが一文字記してあった。きょうの金庫はEだった。
操作には慣れている。これまでにも、高価なアクセサリーを借り受けるたびに使用した。遥菜は携帯電話を取りだし、ブックマークしてある日本統合警備のサイトにアクセスした。地図を画面に表示してから、手提げ金庫の蓋を開け、内部にあるスイッチをいれる。
その直後に、携帯電話の液晶画面にメッセージがでる。『位置情報を受信しました』とあった。地図が切り替わる。三千分の一の縮尺、銀座七丁目界隈。中央にはこのステファニー出版本社ビル、三角形の印が点滅しながら指し示している。Handy cashbox-E と表示されていた。Eの手提げ金庫の現在位置だ。
莉子が感心したようにいった。「すごーい。GPSですね」
「そう」遥菜はペンダントをなかに収めて、蓋を閉じた。「暗証番号はわたしだけが記憶するよう、編集長にいわれてるの。悪いけど......」
「あ、はい」莉子は背を向けた。
遥菜は慎重に辺りを見まわし、誰もこちらを見ていないことを確認してから、テンキーに四桁の数字を打ちこんだ。七二六一。前もって決めてあった番号ではない。たったいま、半ばでたらめに思いついた数列だ。城ヶ崎にすら知らせる義務はない。ペンダントを持ち主に返却するまで、この暗証番号はわたしの記憶のなかだけに留めることになっている。
蓋がしっかりと施錠されていることを確かめ、遥菜は手提げ金庫を取りあげた。「莉子、もうこっちを向いてもいいわよ。じゃあ雲伊課長、あとでまたパーティーのときに」
「そうだな」雲伊は段ボール箱を両手で抱えた。「お客が来るまで、しばらく第一応接室にいるよ。メジャーリーグのドリームシリーズ中継を観たいんで」
第一応接室には、このビル内で唯一BSデジタル放送を観られるテレビがあった。ほかの部屋のテレビは地デジしか映らない。よって海外のスポーツ中継を観たがる男性社員のくつろぎの場になることも多かった。
もっともそれは、城ヶ崎が出社していない時間に限ってのことだ。遥菜はいった。「編集長が来るまでにはでてきてくださいよ。叱られても知りませんから」
「分別はちゃんとわきまえているよ」雲伊は笑って立ち去った。
「どうだか」と遥菜は莉子につぶやいた。莉子は微笑をかえしてきた。
スタジオは機材の撤収もあらかた終わり、閑散とし始めている。遥菜は手提げ金庫を持って、莉子とともに戸口に歩きだした。
廊下にでると、背の低い中年の男性社員と目が合った。
ルックスが重視されるこの会社において、数少ない例外と呼べる存在。だが遥菜は、一般社会ではごく普通のレベルであろう彼の外見について蔑むつもりはなかった。問題は態度だった。
係長の鴨立歩夢は、いつものようにこそこそとした挙動で廊下をうろついていた。黒ぶちの眼鏡をかけた丸顔がこちらを向く。鴨立の視線はなぜか、遥菜の手提げ金庫に釘付けになった。
凝視すること数秒、鴨立は何もいわずに歩き去ろうとした。
遥菜は声をかけた。「鴨立係長」
びくついたようすで立ちどまると、鴨立は愛想笑いにしか見えない表情とともに振りかえった。「あ......はい。なんでしょう」
「パーティーにご出席なら、タキシードに着替えてください。貸衣装はたくさん用意してありますから」
「いえ、僕は......終電があるうちに帰りますから。はは」
鴨立はぎこちない歩みで遠ざかっていった。途中、何度かこちらを振り向いては、また小走りに逃げていく。やがてその姿は、廊下の曲がり角に消えていった。
遥菜はいった。「おかしな人」
莉子も同意をしめしてきた。「いい人だけど、なんだか接しにくいですよね。こっちを避けようとしてるみたいで」
「あなたに対してもそうなの? わたしもよ。ま、自己主張の強い社員ばかりだから、ああいう絵に描いたような中間管理職も必要なんだけどさ。クリスマスイブに終電を気にするなんて」
「世の中じゃごく普通ですよ。わたしも京王線の最終に間に合うように帰らなきゃ」
「パーティーに出席しないの?」
「年末年始は波照間島に帰る予定なので......。ひと足早く仕事納めです。編集長にもお伝えしてあります」
「ドレスを着てるから、てっきり朝までいるつもりかと思ったわ」
「編集長をお出迎えするまではいようと思ったんですけど、遅くなるらしいので」
「そうね。旦那さんと食事をしてからこっちに向かうって話だけど、まだ連絡ないしね。じゃ、よいお年を......ってことかな。メリークリスマス、莉子。また来年会いましょ」
「いろいろお世話になりました。来年もよろしくお願いします。メリークリスマス。よいお年を。遥菜さん」
莉子はにっこりと笑って頭をさげると、廊下を歩き去っていった。
クリスマスイブに早退......。まさか小笠原悠斗とデートでは。いや、まずそれはありえない。小笠原の姿はけさもこの会社前のスタバで見かけたが、彼はいつものように粗末なスーツ姿だった。莉子に限らず、恋人ができたようすはない。
それにしても、小笠原が毎日のように銀座七丁目のスタバにいる理由はなんだろう。わたしを気にかけているのか。それとも莉子か。煮え切らない彼の態度がなんとなく恨めしい。だが、貪欲さをあらわにするこの会社の肉食系男性社員どもよりはずっとましだ。
もやもやした気分で歩きだす。遥菜はフォトスタジオの隣りにある機材部屋に入った。
ここは照明スタンドやレフ板など、撮影に用いる道具類の置き場になっている一方、AV機器も揃っている。ブルーレイの番組録画はここでセットするのが常だった。
スタッフはすでに仕事を終えたらしく、室内には誰もいなかった。通路側のドアを閉めようとして、ふと手がとまる。
廊下にいた鴨立と目が合った。
まだいたのか。そう思ったとき、またしても鴨立は気まずそうな顔で角に身をひっこめた。
わたしを尾けまわしているんじゃ......。まさか。社内ストーカーなんて願い下げだ。
ドアを叩きつけてため息をつく。遥菜は手提げ金庫をテーブルに置くと、ハイビジョンモニターに向かい、リモコンでスイッチをいれた。
城ヶ崎は毎日、NHKのニュースとテレ東の経済番組についてはチェックを欠かさない。すべてを録画するよう指示を受けていた。ブルーレイの録画済みリストを表示してみる。きょうも予約した番組すべてがHDDに記録されている。忘れないうちにディスクにダビングしておかねば。
そう思ったとき、携帯電話の着メロが鳴った。
「はい」と遥菜は電話にでた。
櫻井美咲が緊迫した声で告げてきた。「園部さん......。編集長がおいでになりました」
「な、なんですって?」遥菜は驚きを禁じえなかった。「まさか。一本の連絡も受けてないのに」
「あえてしなかったとおっしゃって......。すでにエレベーターでそちらに向かわれました」
なんてこと。遥菜は電話を切ると、部屋を駆けだした。
例年なら、城ヶ崎からレストランをでたという報せを受けて、社員総出で迎えることになっていた。その流れで打ち上げ兼クリスマス・パーティーに突入するのが慣例だった。どうして何も知らせずにこちらに向かったのだろう。
廊下をエレベーターホールに走る。ちょうど扉が開くところだった。
派手だが気品にあふれたロングドレスをまとい、城ヶ崎七海はひとりでフロアに降り立った。遥菜と目が合ったのは一瞬のことで、すぐに城ヶ崎はフォトスタジオのほうへせかせかと歩きだした。
「編集長」遥菜はあわてて歩調を合わせた。「ご連絡いただけましたら、ただちに全員に声をかけてお待ち申しあげるところでしたのに......」
「いいの。きょうは撮影があったでしょう。邪魔しちゃ悪いから電話しなかったのよ」
「撮影は予定どおりに終わりました。社員はみなパーティー会場に移動してます」
「そう。天王寺さんから借りているペンダントはどこ?」
「ちゃんと保管しております。いまお持ちします」
遥菜は走りだした。たぶんそれが城ヶ崎を急ぎこの会社に向かわせた理由だろう。高価なアクセサリーを無事返却せねばならない。その責任を果たし終えないうちにパーティーでもない、そんな気分なのだろう。
機材部屋のドアを開けて、なかに駆けこんだ。手提げ金庫を置いたテーブルに向かう。
足は自然にとまった。
目に映る光景が信じられない。思い違いをしていないか、さっきまでの記憶をさぐる。
いや。間違いなどあるはずがない。わたしはここに金庫を置いた。
それがいまは存在していない......。遥菜は凍りついた。ペンダントが消えた。
現状報告
小笠原悠斗は、銀座八丁目のドン・キホーテ裏、ひとけのない一方通行の車道にたたずんでいた。両手をコートのポケットに突っこみ、自分の吐く息が白く染まるのを眺める。
クリスマスイヴだ、表通りのほうにはまだ賑わいがある。今年もこんなふうに夜まで残業に終わるとは。長期にわたる独占取材といえば聞こえはいいが、四か月間収穫なしとあっては記事にできるかどうかもあやしくなってきた。いまも凜田莉子を待つ目的でなかったら、さっさと車内に引っこんでいるところだ。
ヒールの音がきこえた。チェック柄のロングコートを着た莉子が足ばやにやってくる。
きた。小笠原はほっとして駆け寄った。「きょうは遅かったね」
「なかなか抜けだせなくて」莉子は寒そうに首をすぼめながら、駐車中の大型ワンボックスカーに小走りに向かった。
小笠原も歩調をあげて先回りし、車体側面をノックした。「凜田さんがきました」
横滑りに扉が開く。嶋、今崎、淀川。いまではもうすっかり顔馴染みになった国税局査察部の面々が身を乗りだし、莉子を引っ張りあげる。小笠原もそれにつづいて乗りこみ、扉を閉めた。
暖かい車内で、莉子はため息をついてシートに着席した。小笠原も近くの空いている席に腰を下ろす。
風峰颯太がきいた。「コーヒーは?」
「いえ」莉子の表情は暗かった。「金曜日のきょうも業務終了で、あとは打ち上げのパーティーだけ。週明けの月曜は仕事納めの日だけど、もう城ヶ崎編集長は出社しないらしいから、実質きょうで年内の営業は終わりです。収穫なしでした......」
「そうですか......」風峰がつぶやくと、一同は重い沈黙に包まれた。
週一回、莉子の退社時間にあわせてマルサのチームはこうして現場近くに出向き、彼女の報告をきくことになっていた。小笠原は知人の週刊誌記者としての特権で、同行取材を許されていた。
もっとも、城ヶ崎七海に金を売ろうとする謎のブローカーの素性を暴くか、最低でも城ヶ崎の脱税の証拠でも握らないかぎり、取材内容が日の目を見ることはない。すべては莉子にかかっている。ただし、彼女とて何の出来事も発生していないうちに会社の裏事情を知ることはできないだろう。
風峰は頭をかいた。「どうして動きをみせないんだろうな。凜田先生の急な昇給ぐあいをみても、城ヶ崎の信頼をかなり勝ち得ているのは明白なのに。まだ心を許しきってないってことか?」
嶋が腕組みをした。「まだブローカーからの接触がないのかも......。第一秘書の園部遥菜に対しては、二重帳簿などの小細工を打ち明けてるんでしょうか」
遥菜は決して悪い人ではない。小笠原はそう告げたい衝動に駆られたが、思いとどまった。事態がややこしくなるし、なによりどうしてそんなに彼女を気にかけるのか、疑惑を持たれるのも好ましくない。
小笠原にとって最も心配なのは、莉子の今後だった。ステファニー出版に身を置く期間が長引くほど、飯田橋の万能鑑定士Qのテナントも、閉めっぱなしのまま維持するのが困難になってくる。いまも家賃を払いつづけていることが城ヶ崎に知れたら、莉子の素行も怪しまれてしまうだろう。
だがそれと同時に......いや、あくまで莉子に次いでではあるが、遥菜のことも気になった。遥菜はどのていど城ヶ崎の脱税に関与しているのだろう。第一秘書として、彼女は仕事に誇りを持っている。将来が闇に閉ざされ、悲しみにくれる遥菜の顔は見たくない。
ふいに風峰がきいてきた。「小笠原君、どうした。なんだか考えあぐねているようだが」
「え?」小笠原はどきっとした。さすがマルサのチームリーダー、優れた観察眼を持っている。
すると今崎が軽い口調でいった。「園部遥菜を心配してるんですよ。彼女と親しくなってるんで」
「な」小笠原は動揺した。「なぜそんなことを......」
淀川が肩をすくめた。「ステファニー出版の向かいのスタバで、何度か顔を合わせてます。いちど仲良さそうに同席してからは、昼休みに角川書店を抜けだして銀座のスタバに通うようになって、物欲しそうな顔で園部遥菜がくるのを待ってます。最近はすれ違いが多くなってますが」
莉子が目を丸くして小笠原を見つめてきた。「ほんと?」
「ご、誤解だよ」小笠原はあわてていった。「見張ってたんですか? やだな。そういってくれればいいのに。僕はあくまで凜田さんの身が心配で、そのう、取材の一環でもあるし、様子見ってことで、ときどきステファニー出版のようすをですね......」
風峰は顔をしかめた。「小笠原君。きみも記者なら、先輩からそれらしい隠密行動を教わったらどうだ。あんな近くのスタバに頻繁に姿を現したんじゃ、監視してると向こうに知らせているのも同然だよ。城ヶ崎に気づかれたらどうする」
「すみません......」
「こちらの動きを悟られるようなことを、園部遥菜に漏らしてはいないだろうね」
「はい......。それはもう、誓って......。以後気をつけます......」
ぐうの音もでない。困惑を覚えながらも笑顔を取り繕って莉子を見たが、莉子はぷいと顔をそむけていた。いや、ただ視線を逸らしているだけかもしれない。小笠原は頭をかいた。自意識過剰かな......。
「しかし」風峰は深刻そうにつぶやいた。「このところ純金が合金に変わっちまう脱税容疑者ってのも、ぱたりと途絶えていてね。やはり次にブローカーが接触するのは城ヶ崎ぐらいしか考えられない。そろそろ、なんらかの徴候があってもよさそうなものだが......」
そのとき、着メロが鳴った。莉子がポケットをまさぐり、携帯電話を取りだして応答する。「はい。凜田です。......ああ、遥菜さん」
気まずい空気が漂う。マルサたちが冷やかな視線を向けてくる。小笠原は身を小さくして座っているしかなかった。
莉子の表情が険しくなった。「......えっ? いつのことですか?......手提げ金庫が開けられたんですか? 金庫ごとなくなった......そうですか。いえ、まだ会社の近くです。すぐ行きます」
通話を切ると、莉子は腰を浮かせた。「ステファニー出版に戻ります。借り受けた五億円のペンダントが紛失したそうです」
「紛失?」風峰が驚きのいろを浮かべた。「警察にはもう通報したんですか?」
「わかりません」莉子は、開けられたドアから外に躍りでた。「でも事態が事態だけに、なにか動きがあるかもしれません。編集長もきているでしょう。みなさんはもう撤収してください」
「いいんですか? 何かあったときのために、われわれも待機していたほうが......」
「だいじょうぶです。盗難騒ぎじゃマルサのみなさんは踏みこめないでしょう。心配ないですよ。明朝にはまた電話でご報告します」
小笠原は心からいった。「気をつけて。凜田さん。僕になにかできることがあれば......」
「じゃあ祈ってて」と莉子は微笑した。「今年最後の勝負に賭けてみるから」
不動産王
莉子はステファニー出版に戻ると、ただちに十二階の社長室にのぼった。
銀座の夜景が見渡せるその広大な部屋には、城ヶ崎七海と園部遥菜だけがいた。
階下からはかすかに歓声や拍手がきこえてくる。クリスマス・パーティーに興じる社員たちは、ふいにこの会社を襲った衝撃的事態について、なんら知らされていないようすだった。状況を把握しているのは、この室内の三人のみだった。
城ヶ崎は革張りの椅子におさまって、デスクに頬杖をついていた。洒落たロングドレスに似つかわしくない仏頂面。ときおり痙攣する頬筋に、怒りがいつ爆発してもおかしくはない緊迫の予兆がのぞいている。
遥菜はすっかり怯えきったようすでデスクの前に立ちつくし、震える手で携帯電話を操作していた。
その液晶画面を、莉子は覗きこんだ。ブックマークしてある日本統合警備のサイトにアクセスしている。地図が画面に表示された。銀座七丁目界隈。Handy cashbox-E と記された三角形が指し示すのは、依然としてこのステファニー出版本社ビルだった。
「あ、あのう」遥菜は緊張の面持ちで告げた。「編集長......。手提げ金庫はこのビルから持ちだされてはいません」
「......ふうん」城ヶ崎は低くつぶやいた。「それで?」
遥菜は困惑のいろを浮かべた。「それで......とおっしゃると......」
「どこにいったのかときいているのよ!」城ヶ崎は憤りをあらわにした。「このままペンダントが見つからなかったら、わが社からもうひとつ何かが消え失せることになるわ。それがなんだかわかる? あなたよ」
まっすぐに睨みつけられ、遥菜はすくみあがった。いまにも泣きだしそうな顔で遥菜はつぶやいた。「も、申しわけありません......」
莉子は遥菜にきいた。「この地図の縮尺は? これ以上は拡大できませんか?」
遥菜は救いを求めるような目を向けてきた。「三千分の一が最大なのよ......。手提げ金庫がビルのなかにあるのはたしかだけど、どの階のどこにあるかまでは......」
城ヶ崎はさも不快そうに告げた。「莉子。遥菜はわたしと話してるんだけど。口を挟む気なら、発言にそれなりの価値はあるんでしょうね」
張り詰めた空気のなか、莉子は城ヶ崎に向き直り、自分の携帯電話を取りだした。
フルブラウザに表示してあるのは、英文のサイトだった。歩いてこのビルに戻るまでのあいだに、検索して見つけだしたページ。画像は、紛失した手提げ金庫と同一のものだった。
莉子はその画面を城ヶ崎に見せた。「日本統合警備からレンタルしたのは、イギリスのセイフ・ファクトリー社製造のポジショナル・パーシュートFT7という手提げ金庫です。カタログの表記が正しければ、暗証番号が一致する以外に開ける方法はないそうです。万が一、力まかせにこじ開けることに成功しても、警報がけたたましく鳴り響く仕組みになってます。暗証番号を知っているのが遥菜さんひとりである以上、金庫を持ち去った人物が誰であれ、まだペンダントを取りだせずにいるはずです」
城ヶ崎は携帯電話を手にとり画面を一瞥したが、すぐにデスクの上に放りだした。「犯人が遥菜じゃなければの話ね」
遥菜は絶句したようすだった。震える声で遥菜はささやいた。「......そんな、わたしは常に......職務に忠実に......」
「わたしが信頼を寄せた第一秘書なら、ただちにペンダントを取り戻してわたしの前に差しだしてくれるはずだけど。それとも何? 五億円余りを弁済してくれるの? いますぐに」
「五億だなんて......。わたしにはとても......。でも、全力を挙げて探します。誓って見つけだしますから......」
ふんと城ヶ崎は鼻を鳴らした。「もはや無職になったも同然の遥菜に、どんな誓いを立てられてもね」
遥菜は打ちのめされたように下を向いた。
いたたまれない思いを抱きながら、莉子は城ヶ崎にいった。「手提げ金庫を奪った犯人は、このビル内にいます。その人物は明朝六時すぎまで居残るつもりです」
「そう断じるからには根拠があるんでしょうね」
「サイトの説明文によれば、手提げ金庫の電池の連続使用時間は八時間だそうです。GPSのスイッチは内部についてますから、開けないかぎり切ることはできません。位置情報は電池の残量があるかぎり送信されつづけるんです。スイッチをいれたのは十時すぎ。電池が切れるのは午前六時すぎです。それ以降なら位置を追跡されることも、こじ開けて警報が鳴ることもありません。犯人はそのときが来るのを待ってるんです」
「ビル内のどこかに手提げ金庫を隠したまま、退社するかもしれないでしょ。後日取りに来ることも考えられるじゃないの」
「いえ。きょうは金曜です。スケジュールによれば、明朝九時には清掃業者のトラックがきて作業に入ります。年越し前の大掃除なので、空調ダクトやエレベーター・シャフト、水まわりまで徹底的にクリーニングされます。手提げ金庫を隠しおおせるのは不可能です。編集長は、社員がデスクや棚に鍵をかけることを禁じておいでですし」
「犯人が清掃業者とグルになっていれば、難なく回収できる算段ね」
莉子は自分の携帯電話を取りあげると、発信記録を表示して城ヶ崎にしめした。「いましがた、エレベーターで上ってくるときに清掃会社の留守電にメッセージを残しておきました。勝手ながら、明朝の清掃はキャンセルいたしました。もし聞く耳を持たずに業者が現れたら、彼らは共犯でしょう。あまりに見え透いた手口なので、その可能性は薄いと思いますが」
城ヶ崎は携帯電話の画面に目を落としてから、じろりと莉子を見つめてきた。「ずいぶん頭が働くのね。まるでマルサみたい」
表情を変えないよう努めながら莉子はいった。「わたしはクリスマス・パーティーに参加するのは初めてですが、例年、明朝六時か七時まで夜通しつづけられるそうですね。なら犯人はそれに乗じて居残るつもりでしょう」
「推理小説はそれなりに好きだけど、探偵が犯人ってパターンほど興ざめなものはないわね。アンフェアの極み。もしそんな筋書きなら願い下げだわ」
遥菜がおずおずと城ヶ崎に告げた。「あの......。莉子は、編集長がおいでになる前にビルをでました。受付にも記録が残っているはずです。わたしが手提げ金庫を置き去りにしてしまったのは、その後です」
「ふん」城ヶ崎はまた鼻を鳴らした。「秘書どうしの美しい友情ね。莉子、手提げ金庫の暗証番号は知ってるの?」
「いえ......。口ック時にも見ていないので」
「結構。そのまま知らずにいて。決して遥菜から聞いてはなりません。遥菜も、暗証番号を誰にも漏らしていないわね?」
「はい」
「なら、知るのは遥菜ひとり。もし開けられた手提げ金庫が見つかったら、犯人は遥菜」城ヶ崎の冷たい視線がまたしても遥菜に向けられる。遥菜はいっそう萎縮したようすだった。
どうやら城ヶ崎は、遥菜の犯行への関与を疑いようのない事実として捉えているようだ、たしかに城ヶ崎の立場からすれば、ひとりきりでいるときに手提げ金庫を紛失したという申し立ては、にわかには受けいれがたいことだろう。
しかし莉子は、遥菜の無実を信じていた。仕事熱心で、がみがみと口うるさいところがあっても、遥菜は心のまっすぐな社員の鑑だった。マルサの主張する城ヶ崎の脱税にも、たぶん遥菜は関わってはいない。共犯でないからこそ、今回の件でも城ヶ崎から疑惑の目を向けられているのだろう。濡れ衣は晴らさればならない。
城ヶ崎が莉子をじっと見つめてきた。「あなたの言葉を信じて、明朝まで待つわ。それまでにかならすペンダントを取り戻すこと。警察に通報することは許さない。くれぐれも捜索は内密に。事情を打ち明けるのは必要最小限の人数にのみ。いいわね。見つけられなかったら、ふたりともクビよ」
莉子は息を呑んだ。遥菜と目が合う。不安げな表情を浮かべる遥菜に、莉子は微笑んでみせた。
デスクの上で内線電話が鳴った。城ヶ崎が受話器を取りあげる。「はい......。すぐ行くわ」立ちあがった城ヶ崎は、硬い表情に憂鬱のいろをのぞかせながらいった。「天王寺会長がお越しよ」
遥菜の顔がたちまち青ざめた。莉子もぞっとするような寒気を覚えた。ペンダントの持ち主だ......。
「ついてきて」と告げて城ヶ崎が歩きだした。莉子と遥菜は歩調をあわせながら、その後につづいた。
階段を下りて十一階に向かう。三人とも無言だった。話せる心境になどあろうはずがない。ヒールの音だけがせわしなくこだまする。
扉を開けて。大広間に入る。一瞬の間を置いて、わあっという歓声が響き渡った。
社員たちがパーティー会場を埋め尽くしていた。煌びやかな飾り付け、まるでイベントホールそのものだ。照明も持ちこまれていた。スピーカーから流れだす音楽が重低音を轟かす。クラッカーを鳴らす社員もいた。誰もが城ヶ崎を笑顔で迎えている。盛大な拍手が包んだ。
城ヶ崎の顔に戸惑いのいろはなかった。威厳と誇りに満ちた余裕の微笑で、女王のごとくゆっくりと歩を進める。社員が左右に列をなし、自然にできあがった花道を、城ヶ崎はにこやかに歩いていった。歓迎の声にいちいちうなずき、社員から差しだされた花束や贈り物をさも嬉しそうに受けとっている。
さすが出版界の女帝、城ヶ崎七海......。莉子は舌を巻いた。一大事の発生を悟られるような不安のいろなど、微塵も覘かせていない。
城ヶ崎の両手はたちまち社員からのプレゼントでいっぱいになった。莉子は遥菜とともに、それらをぬかりなく受け取って城ヶ崎につづいた。だが、その作業にも限度がある。三人とも、これ以上は物を持てない状態になった。
困った。莉子が当惑を覚えたそのとき、城ヶ崎が立ちどまった。
行く手に、白髪の紳士が杖をついて立っていた。年齢は七十を過ぎているだろうが、顎髭も白く染まっているが、浮かべた笑顔はたくさんの皺にまみれていても不思議と若々しかった。
紳士は体格のいい男たちを三人ほど従えていたが、彼らの手を借りる素振りはみせず、力強い足取りで歩み寄ってきた。「メリークリスマス! 城ヶ崎君。今宵はまた、いちだんと綺麗だな」
遥菜が莉子の耳もとにささやいてきた。「天王寺会長よ」
あれが総資産二兆四千億円、本年三月期の連結売上高が一兆五千億円を超す不動産グループの頂点に立つ男、天王寺海翔か......。
城ヶ崎は大仰なほどの笑顔で応じた。「これは天王寺会長。お忙しいところ、ようこそおいでになりました。いつもながらお元気そうで......」
天王寺ほどの資産家なら、五億円のアクセサリーも玩具に等しいかもしれない。願わくば、このまま城ヶ崎にプレゼントしてくれるとか、そんな気前のよさを発揮してくれないものだろうか。
だが莉子の淡い期待は、さも上機嫌そうな天王寺の発言によって打ち砕かれた。
「まずは」と天王寺がいった。「忘れないうちにペンダントを返してもらえんか。値段はたいしたことなかったが、なにしろ世界にひとつだけのしろものなんでな。失くしたりしたら、いくら金を積んでも同じ物は手に入らんときくし」
城ヶ崎の横顔がかすかにこわばったのを、莉子は見た。
その場しのぎ
雲伊司課長は緊張を禁じえなかった。こんな夜中に盗難騒ぎに巻きこまれるなど、金庫を借りた夕方には予想すらしていなかった。
今晩のなによりの息抜きは、メジャーリーグ中継にほかならなかった。よってゲームのつづきを気にかけていたが、いまはビル内で唯一BS放送が受像可能なテレビも電源をオフにしていた。会社を揺るがす緊急事態とあっては、野球観戦どころではない。
三階の最も奥まったところにある第一応接室に、莉子たちが押しかけてきていた。ペンダント紛失事件に対処するための最少人数チームだという。雲伊は強引にそのひとりに加えられてしまっていた。
もちろん、メンバーを増員するにあたっては、莉子による慎重なアリバイのチェックがあった。莉子は真っ先に質問をぶつけてきた。「課長。フォトスタジオの撮影が終わった後、パーティーが始まるまでのあいだはどこにおられましたか?」
その時間内なら、ほとんどリアルタイムで試合経過を追ってきた。雲伊はいった。「アメリカンリーグ対ナショナルリーグの選抜チームによる特別試合で、三回までとりわけレッドソックスとマリナーズ勢の活躍が目立ってたよ。ビル・ホールが出塁して、グレッグ・ハルマンがタイムリーを打った。アメリカンが先制ってことだ」
櫻井美咲が告げた。「課長はずっとここで野球観戦してました。わたし、三階のエレベーターホールの受付だったんです。このフロアのミーティング・ラウンジが来客用の待合室になっていましたから......。雲伊課長はこの部屋に引っこんだまま、パーティー開始までエレベーターも階段も利用なさいませんでした」
遥菜が美咲にたずねた。「あなた自身は? 三階の受付ってのはひとりだけ?」
「工藤君と宇佐美さんが一緒でした。ふたりとも、まだ受付をつづけてます。なんでしたら、きいてみれば......」
「いえ。あのふたりなら、この階に来てすぐに証言を得たわ。怪しむべきところはなかった」
莉子が神妙にいった。「事実も確認済みなの。各階のエレベーターホールは防犯カメラで監視されてるし、映像はセキュリティルームのHDDに常時録画される仕組みでしょう。さっき立ち寄って、犯行時間帯の映像を早送りで観たの。ここにいるみなさんの証言に不備はありません。課長は三階でエレベーターを降りたっきりだったし、美咲さんたちはずっと受付に立って、来客の案内に追われてました」
「結構だね」と雲伊は肩をすくめてみせた。「で、いまは犯人探しも重要だけど、それ以前に当座の問題をどう凌ぐかが重要なわけだ」
遥菜が哀願するような目を向けてきた。「課長、どうにかなりませんか。もうすぐ天王寺会長がここにおいでになります」
「ここにって......ずいぶんな話だね。ま、予備の手提げ金庫を借りておいてよかったよ」
対処法は限られている。というより、ひとつしかない。雲伊はマジックインキを手に取り、床に置いたスポーツバッグのなかに両手を差しいれる。からの手提げ金庫の蓋に記されたアルファベット、その下部に横線を手早く塗り重ねる。
雲伊はその金庫を取りだし、テーブルに置いた。「これでよし」
一同が絶句して、雲伊の手もとを眺めた。
「......課長」莉子がこわばった表情でつぶやいた。「Fの手提げ金庫に、横棒を一本書き加えてEにしたわけですね......」
「もう」遥菜が泣きそうな顔になった。「バレバレですよ、こんなの。妙に線が太くていびつでしょう。どうしてもっと丁寧に書けなかったんですか?」
「そう思って見るからだよ。まかせとけ。空っぽのこの金庫に、適度な重さの物を......ええと、ほら。この灰皿をいれる。GPSのスイッチはオフのまま蓋を閉める。暗証番号は、一一一一でいいな。入力。ロック。できあがりだ」
ちょうどそのとき、部屋のドアが開いた。
硬い顔をした城ヶ崎七海と、何人かの男たちに護衛された天王寺海翔が入室してくる。
遥菜はさっと笑みを浮かべた。「お待ちしておりました、天王寺会長」
天王寺は室内を眺めまわした。「どこに行くのかと思いきや、ただの応接室か。ペンダントはどこかな?」
「それでしたら、位置情報はこちらのパソコンでモニターできます」
テーブルの上のノートパソコンには、日本統合警備のサイトの地図が表示してあった。Handy cashbox-E の在り処をしめす三角形が、ステファニー出版本社ビルを指し示している。
雲伊は、うわずりがちな声を必死で抑えながら説明に入った。「Eの手提げ金庫がビル内にあることが、これでわかります。そして、その手提げ金庫Eは、こちらです」
櫻井美咲が、いびつなE表記の手提げ金庫を、にこやかな顔で持ちあげてみせる、彼女の瞳孔も開ききっていた。
城ヶ崎は、一見して雲伊の雑な加筆に気づいたらしい。目をいからせていたが、天王寺が城ヶ崎を振りかえった瞬間、その表情はごく自然な笑みに変わった。
天王寺は上機嫌そうだった。「こりゃ便利だ! ビルの外に持ちだされたら、すぐに判るわけだ」
「その通りですよ、天王寺会長」城ヶ崎はいった。「パーティーが終わるまで万難を排してお預かりするつもりでしたから」
「で」天王寺は手提げ金庫をじっと見つめた。「暗証番号は?」
「......ええと」さすがの城ヶ崎も言葉に詰まったらしい。咳ばらいをしていった。「第一秘書だけが知っています。明朝、お帰りになるまで誰にも明かさないよう申しつけておきました」
「第一秘書というと」天王寺は遥菜に目を向けた。「ああ、きみか。いつも城ヶ崎君にべったりのナンバーツーだな。結構。きみなら信用できる。じゃ、それは私がもらっておく」
手提げ金庫を受けとろうとする天王寺に、城ヶ崎はあわてたようすで声をかけた。「こちらで預かっておきますよ。お邪魔でしょうし」
「いや。ここまでしてもらって、迷惑はかけられんよ。GPSのおかげで安心だしな。おい」天王寺はボディーガードのひとりに、手提げ金庫を渡した。
屈強そうな男が手提げ金庫を受け取るに至り、城ヶ崎をはじめとする全員の顔に諦めのいろが浮かんだ。雲伊も、いやな汗をかかざるをえなかった。
ひとり陽気な天王寺は踵をかえした。「では会場に戻ろう。今宵はどんな銘柄のワインを御馳走してもらえるのかな、楽しみだよ」
天王寺が護衛の男たちとともに廊下に歩き去ると、莉子が城ヶ崎にささやいた。「あのう、編集長......。じつはですね、あの手提げ金庫の中身は灰皿......」
「しっ」城ヶ崎は険しい顔で告げた。「なんとしても明朝、天王寺会長がお帰りになる前に本物の手提げ金庫を見つけるのよ。それと、会長がお好みのベルーガ・キャビアとアグー豚をいっぱい買ってきて。できるだけ引き留めなきゃ。大急ぎでお願い」
それだけいうと、城ヶ崎は足ばやに退室し、天王寺を追って歩き去っていった。
美咲が戸惑い顔で腕時計を見た。「こんな夜中にキャビアとアグー豚なんて......」
雲伊はコートを取りだして羽織った。「有楽町マリオン西武の食料品売り場にある。今晩は閉店セールで、朝まで営業してるってさ。行ってくるよ。ペンダント探しは任せた」
正直、そちらの責任は負いたくない。雲伊は返事を待たず、そそくさと部屋をでた。
逆三角形
午後十一時半過ぎ。
莉子は遥菜とともに、手提げ金庫が紛失した八階、フォトスタジオ隣りの機材部屋に来ていた。遥菜がテーブルを指さし、憂鬱そうにつぶやいた。「ここに置いたのよ......」
「うーん」莉子は唸って、携帯電話の液晶画面を眺めた。位置表示は、依然としてこのビルから動いていない。「地図の倍率をあげられないのなら、それ以外の方法でもっと細かく位置情報を受け取れないんでしょうか。auのナビウォークでも、もうちょっと精度が高いのに」
「外国製って大雑把で嫌ね。カタログのサイトには何も書いてなかったの?」
「ええ。手提げ金庫の貸出元にきいたほうが早いかも」
「日本統合警備に電話してみれば?」
「それが、いまの時間に営業しているのは警備部門だけらしくて......。雲伊課長なら、どこか問い合わせ先を知ってるかな」
莉子はいったん地図表示を消すと、雲伊の携帯電話にかけた。
閉店セールで賑わうマリオン西武の食料品売り場では、ずらりと並んだレジがせわしなくスキャナの電子音を響かせている。そのせいで雲伊は、携帯電話が鳴っているのになかなか気づけなかった。
ようやく着メロをききつけ、懐から携帯電話を取りだす。雲伊は応答した。「はい」
莉子の声がきこえてきた。「凜田です。課長、買いだし中のところ恐れいります」
「ああ、凜田さん。いまソーセージを渦巻状にして串刺しにした食品の前にいるんだけどね。ソーセージマルメターノって名前なんだよ。素晴らしいネーミングセンスだよな」
「......寄り道してないで、早く高級食材コーナーに行って買い物を済ませてください」
「そうだな、すまない。つい面白くて。ベルーガのキャビアっていくつもの銘柄があるけど、どれでもいいのかい?」
「ええ、たぶん......。課長、手提げ金庫はどこで借りましたか?」
「日本統合警備の墨田区出張所だよ。押上駅前、東京スカイツリーの近くだ。でも、この時間はもう閉まってるな。夜間警備以外はやってないはずだ」
「そうですか......。システムについて業者にたずねたいことがあったんですけど」
「警備員じゃ何も知らないだろうな......。いちおう後で店に留守電をいれておくよ」
「わかりました。どうもありがとうございます」莉子の声がそう告げて、電話は切れた。
あのふたりも大変だな。雲伊は携帯電話をしまいこんだ。早く会社に戻ろう。キャビアとアグー豚を届けるのが遅れたせいで城ヶ崎の逆鱗に触れるなんて願い下げだ。
機材部屋で莉子はつぶやきを漏らした。「望みは薄そうですね」
「ああ......」遥菜は両手で頭を抱えた。「もう駄目。来月にはパリでカットワークを見学するはずが、都内のハローワークで職探し」
「諦めるには早いですよ。状況を振りかえってみましょう。わたしたちがフォトスタジオをでたときには、もう社員はほとんどフロアにいませんでしたよね」
「そう。閑散としてたわ」
「けれども、遥菜さんが手提げ金庫にペンダントをおさめたのは、遠くからでもわかったはず。もし何者かが物陰に隠れて見張っていたのなら、遥菜さんがこの機材部屋に入ったのも確認できたでしょう」
「ペンダントを付け狙う人物がいたとしたら、充分に考えられるわね。あ、それなら......」
「なんですか」
「フォトスタジオをでたとき、鴨立係長がうろついていたでしょう」
「ええ」
「あの人、その後も廊下の角に潜んでいて、わたしがこの部屋に入るのを見守っていたのよ」
「ほんとですか? じゃ係長は少なくとも......手提げ金庫がここに持ちこまれたのを知っていたわけですね」
「そう。廊下に防犯カメラがあればな......。ばっちり映ってただろうに」
「惜しいですね。この階のエレベーターホールの映像を、後でもういちど観てみましょう。階段もエレベーターの隣りですし、鴨立係長が映っていないはずがない」
遥菜は腕組みをした。「手提げ金庫をおさめられる大きさのバッグでも持っていれば、充分に怪しいわね」
莉子は口をつぐんで熟考した。
映像は後で調べるとして、何百人もの社員が勤めるこの会社で、疑惑の対象を絞りこむのは早計だ。憶測に走らず、客観的事象を積み重ねていかねば真実には到達しない。
「遥菜さん」莉子はきいた。「そもそも、この部屋にはどうして立ち寄ったんですか?」
ブルーレイの番組縁画を確認しにきたのよ」遥菜は部屋を歩きまわった。「ええと。テーブルに手提げ金庫を置いてから、こっちを向いて、リモコンを手にとって......」
遥菜はリモコンを片手にハイビジョンモニターに近づいた。ボタンを押して電源をいれる。
とたんに、遥菜の顔が曇った。「へんね......」
「どうかしたんですか?」
画面に映っているのは、ブルーレイのHDDに録画された番組名のリストだった。遥菜はいった。「撮ったはずの番組がなくなってる」
「たしかに録画してあったんですか?」
「もちろん。ちゃんと確かめたのよ。NHKのニュースとテレ東の経済番組......。きのうのぶんは残ってるのに、きょうのだけ消えちゃってる」
鈍い感触が莉子のなかを駆け抜けた。「遥菜さん、リストを確かめた後、ブルーレイの電源を切りましたか?」
「......いいえ。点けっぱなしよ。ディスクにダビングするつもりだったから」
ソニー製ですね。この機種では本体の電源を切らないかぎり、録画内容の最終書きこみが実行されないんです」
「あ......。いつも電源オフの操作をしても、なかなか切れないのはそのせい?」
「そうです。書きこみ作業が終わるまでは電源が落ちないんです。それがおこなわれなかったということは、パソコンと同じできちんとした終了手順を踏まず、いきなり電源が落ちたんでしょう」
「停電なんかなかったのに」遥菜ははっとした顔になった。「もしかして......」
遥菜は身を翻して駆けだした。ハイビジョンモニターを収めてある棚、その裏側にまわりこむ。
莉子も遥菜を追った。壁と棚の狭間、身体を横向きにしてようやく通行できるていどの隙間に入りこんで、奥へと進む。
やがて遥菜が立ちどまり、足もとを指さした。「ブルーレイの電源プラグ、ここにつないであるのよ」
コンセントにプラグが差さっている。莉子は手を伸ばし、プラグを抜いた。
わずかだが金属部分がねじ曲がっている。誰かがこの通路を通りぬけようとして、コードに足をひっかけ、プラグが抜けた。その可能性は極めて高い。
莉子は遥菜にきいた。「この先には何か?」
「きて」遥菜はさらに前方へと歩を進めた。「消防署の指導でいちおう通れるようにしてあるんだけど、ずっと使ってないから......、存在自体、忘れてたわ」
行く手にあったのは、大きな逆三角形のシールを貼ったガラス扉だった。はしご車のバスケットが横付けできる侵入口。遥菜が扉を開けると、冬の風が勢いよく吹きこんできた。
鍵はかかっていなかった。遥菜につづいて、莉子は扉の外にでた。
冷たい夜気の向こう、ネオン街から外れた暗闇が広がっている。築地市場方面、すなわちビルの裏手だった。足場は鉄網。鉄格子の手すりに囲まれたバルコニー状の空間。
そこは非常階段だった。階上から談笑する声が響いてくる。十一階のパーティー会場の喧騒だった。階段はビルの外壁を這いながら、その十一階の非常口にもつながっている。
恨めしそうな顔で頭上に目を向けながら、遥菜がつぶやいた。「もしこの階段をのぼったのだとしたら......」
「......ええ」莉子は失意とともにつぶやいた。「犯人は誰の目にも触れずに手提げ金庫を運べたはず。いまごろは何食わぬ顔でパーティーに紛れていられるでしょう。目撃情報は期待できそうにありませんね......」
タイムリミットまで
莉子は遥菜と手分けをして、ロッカールームや各階のキッチンにある収納庫、掃除具入れなどを片っ端から調べてまわったが、成果はあがらなかった。捜索する範囲が広すぎる。いまのところ調べ終えた範囲はビル全体の一割にも満たなかった。
午前二時をまわっても、GPSの位置表示はあいかわらずこのビルから動いていない。やはり電池切れを狙っているのだろう。莉子は落ち着けと自分にいいきかせた。なんとしても明朝六時までに見つけださねば。
城ヶ崎はパーティーで天王寺の相手をしながら、彼の訪問時間の引き延ばしを計っている。雲伊が買いこんできたキャビアの山が功を奏したらしい。アグー豚の調理が終わるまでは、天王寺は帰るとはいいださないだろう。
それにしても、やはり鴨立係長のことが気になった。時間を追うごとに彼の挙動が怪しく思えてくる。
フォトスタジオのある八階のエレベーターホールの映像を調べてみたが、鴨立は映っていなかった。非常階段を使った以上、当然かもしれない。
エントランスの受付によれば、鴨立はまだ退社していないという。ところがパーティー会場に赴いた櫻井美咲は、彼の姿を確認できないと報告してきた。莉子たちはビルのあちこちを駆けずりまわっていたが、鴨立を見かけることはなかった。
ビル外への出口はエントランスを除くと、地下駐車場から表通りへの上り坂を描くスロープしかない。莉子は遥菜とともに地階に下りた。
警備員はすでに帰宅していて、ひとけはなかった。社用車のセダンが五台停まっているはずが、そのうちの一台が消えている。No.4のクルマがない。
地階の警備小屋の外にはクリップボードが架かっていて、社員がクルマを利用した場合、時刻とメーター表示の走行距離を書きこむことになっていた。
No.4の前日までの走行距離三八五二〇キロ。いまは貸出の表記すらない。鴨立は勝手にクルマを乗りまわしているのだろうか。
午前三時を過ぎ、悠長に待ってもいられなくなった。莉子と遥菜はビルの外にでて辺りのようすを探ることにした。
ところが、消えた社用車はビルのすぐ近くであっけなく見つかった。不二家旧本社ビル付近のパーキングスペースに滑りこませてあったセダンの扉に、No.4の表記があった。ロックはされておらず、ドアは開く。キーは差しっぱなしだった。ダッシュボードのパネル表示が点灯する。走行距離は三八五三八キロ。
莉子がボンネットに触れてみると、まだ温かかった。戻ったばかりらしい。
遥菜は憤りをあらわにした。「鴨立係長、どっかに逃げてから、また戻ってきたんだわ。駐車場に乗りいれるのが怖くて、ここに放置したのよ」
そうかなぁ......。莉子は腑に落ちなかった。手提げ金庫はビルから持ちだされてはいない。このクルマを利用したのが鴨立だとして、どうして外出する必要があったのだろう。
だが遥菜は、そんなささいな疑問にとらわれている場合ではないと主張してきた。すべては鴨立本人にきけばあきらかになる、遥菜はそういった。ビル内に戻るや、遥菜は内線電話の受話器をとり、社内放送の番号にかけた。全館に遥菜の声でアナウンスが響いた。「鴨立係長。ただちに第一応接室にお越しください」
彼がビルに戻っていれば姿を現すはずだ。莉子は遥菜とともに、大急ぎで三階の第一応接室に向かった。
その第一応接室では、雲伊が渋い顔でテーブルに並べたモデルの履歴書に見いっていた。
「やあ」雲伊は眉間に皺を寄せたままきいてきた。「ペンダントは見つかった?」
遥菜がいった。「まだですよ。課長、何してるんですか?」
「編集長の指示でね、天王寺会長を足止めするために、話し相手になりそうな綺麗どころを何人か呼びだせってさ。電話をかけてみたんだがクリスマスの、しかも朝方だろ? まるでつかまらない」
「ああ」遥菜は顔をしかめた。「それで売れてなさそうなモデルの写真ばかり......」
莉子はきいた。「売れてないんですか? みんな美しい人なのに」
「モデルが送ってくるプロフィール写真ってのはね、不動産の物件情報の画像と同じ」
「不動産......?」
「そう」と雲伊はとぼけた顔をした。「現物を撮影してはいるものの、角度やら光加減やらトリミングやらを駆使して、超絶美女に変えてしまう。あれはもう一種の芸術だな。もしくは詐欺」
遥菜が吐き捨てる。「都内の豪邸に見えても、実態は山奥の建て売り十五坪ってしろものってこと。意味ないわよねー。内覧に行ってがっかりするのがオチなのに」
雲伊は頭をかいた。「十五坪ってことはないだろ。この写真の彼女、十八坪はありそうじゃないか?」
たいして変わらない。静寂が漂う。テレビも消えているせいで無音だった。
その消えたテレビ画面を眺めて、莉子はたずねた。「野球中継、終わったんですか」
「ああ。ニック・ジョンソンの逆転ホームランでアメリカンの圧勝」雲伊は履歴書を片づけだした。放りだしてあった手帳、携帯電話、紫いろのカードキーと雑多な物をかき集めて、上着のポケットにおさめる。「そういえば、いまの社内放送は? 鴨立をここに呼びだしたのか。何のために?」
「いまにわかりますよ」遥菜が告げたそのとき、ノックの音がきこえた。
室内の空気がぴんと張り詰めた。莉子は警戒しながらいった。「どうぞ」
ドアが開いた。そろそろと部屋を覗きこんだのは、黒ぶち眼鏡に丸顔の不安げな表情だった。
鴨立は何もいわず、怯えたような顔で一同を見渡した。
「ああ」雲伊はソファから立ちあがった。「まあ座れ。実はな、今晩この社屋から、ある重要な物がひとつ消え失せたんだ。どうやら盗まれたようなんだが......」
それをきいたとたん、鴨立はびくついたように身を退かせた。次の瞬間、ドアを叩きつけると、廊下を駆けていく足音が響いた。
遥菜が驚きの声をあげた。「ちょっと!? どこへ行く気よ」
雲伊もドアに駆け寄り、開け放って廊下に怒鳴った。「鴨立! 待て!」
莉子はあわてて部屋を飛びだした。鴨立は廊下の先に消えていった。ここからは見えないが、エレベーターホールに向かったのは間違いない。
尋常でない空気が漂う。雲伊が廊下を走りだした。莉子と遥菜も追いかけたが、ハイヒールのせいで速度はあがらなかった。
追跡は雲伊にまかせるしかない。息を切らしながら歩を緩めたとき、前方からやってくる城ヶ崎が目に入った。
社内放送を聞きつけて、ようすを見にきたのだろう。城ヶ崎は妙な顔をしてきいてきた。
「いまの何......? 雲伊課長が猛然と駆けていったけど」
遥菜が怒りのいろとともに訴えた。「鴨立係長を追っていったんです。ペンダントを盗んだのは係長です」
城ヶ崎は驚愕のいろを浮かべた。「ほんとに?」
「ええ。社用車で勝手に外にでていたし、なにより、わたしが手提げ金庫を機材部屋に持ちこむのを見ていた唯一の人です」
「......なら、捕まえて締めあげるしかないわね」
「全社員を動員してでも、係長の逃亡を食い止めるべきですよ」
城ヶ崎はじれったそうに唇を噛んだ。「そういうわけにはいかないわ。天王寺会長をほっといて、パーティー会場をがら空きにできると思う? いまでさえ帰りたがっているのに。遥菜、一緒にきて。会長に愛嬌を振りまいて引き留めるのよ」
莉子は城ヶ崎にきいた。「あのう。わたしはどうすれば......」
「ただちに受付に連絡して、誰も外にださないようにいって。地下駐車場のシャッターも閉めるように。それと、花束とお菓子を買ってきて」
「お菓子?」
「プレゼント用の高級なやつよ。贈り物があるといえばしばらく会長を足留めできるでしょ。マリオンの西武ならぜんぶ揃うわ」
「でもわたし、クルマの運転はできないので......」
「タクシーで行けばいいでしょう! さっさと動いて。これ以上時間を無駄にしないで」
城ヶ崎は足ばやに歩き去った。遥菜も困惑の目を向けてきたが、莉子ともども編集長には逆らえない立場だ。小走りに城ヶ崎を追って、廊下の先に消えていった。
莉子は呆然と立ちつくした。
タイムリミットが迫っている。わたしはどちらの道を選ぶべきだろう。城ヶ崎の言いつけを守るべきか。それとも鴨立の行方を追うべきか、いまこの瞬間に必要とされている役割は......。
閉店セール
午前四時七分。この時間になっても有楽町界隈は賑わっていた。弧を描くようなマリオンビルの独特の外観を、クリスマス・バージョンの煌びやかなイルミネーションが彩る。映画館の看板はすべて鮮やかに点灯し、派手な電飾がその周囲をめぐっている。『さやかに星はきらめき』のポップなアレンジと、AKB48の『予約したクリスマス』が織り交ざってきこえてくる。
莉子はタクシーを降りると、すぐさまマリオンの中央通路から西武有楽町店に入り、下りエスカレーターに乗った。
きょう閉店ということもあり、地下一階の食品売り場は昼間のような混雑ぶりだった。どのレジにも長蛇の列ができている。
使い走りの役目はさっさと果たして、一刻も早く本社ビルに戻りペンダントの捜索をつづけたい。莉子は携帯電話の液晶画面を見た、GPSの位置情報によれば、なおも手提げ金庫はビルから動いていない。電池切れまであと二時間余り。とにかく急がねば。
しかし、食品売り場は広々としていて、どこに何があるのか判りにくかった。人ごみのせいで遠くまでは見通せない。高級洋菓子の在り処は把握できたが、花はどこに売っているのだろう。
店員にきこうと思ってレジ付近をうろついたが、誰ひとり手が空いているようすはなかった。案内所も見当たらない。
ふと近くのワゴンが目に入った。渦巻状のソーセージが串に刺さって売られている。一本九十九円。商品名はソーセージマルメターノ。
雲伊課長がいっていたのはこれかぁ......。この売り場が独自につけた商品名かと思いきや、れっきとしたメーカーの命名らしい。製造元は岐阜県羽島のオーケーフーズ。骨なしチキンで定評のある食品会社だと、どこかで読んだことがある。
独特のネーミングにしばし目が釘付けになる。やがて莉子は我にかえった。わたしったら......。いまはよそ見をしている場合ではないのに。
そう思ったとき、莉子の知覚が、敏感に何かをとらえた。
なんだろう。この違和感の正体......、莉子はしばしその場に立ちつくした。
時間の経過とともに、言い知れない不気味な感触が支配していく。背後を振りかえった。店員が客の買い物カゴから商品を取りあげ、レジのスキャナにがわせては、もうひとつのカゴにおさめていく。
ごくありきたりの食品売り場の眺め。しかし......。
じっとしていられなくなり、莉子は歩きだした。ずらりと並んだレジの出口に沿って足ばやに突き進む。
ほどなく、歩は自然に緩んだ。莉子は立ちどまった。
その先にあった物をまのあたりにして、莉子は息を呑んだ。
これは......。
トナカイ
午前五時四十九分。冬場のこの時期、まだ窓の外は暗いままだった。
園部遥菜は携帯電話の画面を見つめた。手提げ金庫はやはりビルのなか......。でも発見するどころか、探す自由さえ与えられない。
遥菜はパーティー会場を振りかえった。閑散としている。帰ることを許されていない社員たちは、各々の客を連れて応接室やラウンジに散ったらしい。きっと誰もがソファにぐったりと身を預けている状態だろう。
散らかり放題の大広間に残っている客はただひとり。いや、正確にはお付きの男たちを含めて四人。天王寺海翔は、なおもボディーガードらとともに丸テーブルを囲んでグラスを傾けている。
テーブルの上はアグー豚をはじめとする豪華料理の数々で埋め尽くされていた。天王寺の掲げたグラスがからになるたび、同席している城ヶ崎がすかさずワインを注ぐ。
「それでな」天王寺は上機嫌にまくしたてていた。「私は土地の売り買いひとすじなんで詳しくはわからんが、孫娘が九月号だったか、グラビアのセンスがいままでとちょっと違ってるというんだ。多様性がなくなって、モデルがどれも同じストレートヘアで、似たような服で......。おっと、この話はさっきもしたか」
城ヶ崎の大仰な笑顔はかすかにひきつっていた。「いいえ、初めておききしますわ」
ところが天王寺の側近の男が、ぼそぼそと耳もとでささやいた。「同じ話を一時間ほど前にも......」
あわてたようすで城ヶ崎はいった。「九月号のご感想は拝聴しましたけど、切り口が違っていて、なんていうんでしょう。料理にたとえれば刺し身と打ち身の違いっていうか」
焦りと疲労のせいか、城ヶ崎の喩えも微妙なものになってきている。遥菜は助け舟をだした。「さきほどのお話は、色彩についてご指摘かと思いましたので、カラーブロッキング撮影のページのことかと......。モデルの趣向に具体例をお挙げいただくことは新鮮でした」
すぐに城ヶ崎は大きくうなずいた。「そうですとも。新春号はデザイナーにワダ・エミやタダシ・ショージを起用した新作をたくさん掲載してますから、ご満足いただけるかと」すると天王寺は笑顔に転じてワインをすすったが、その表情にはどこか翳がさしていた。
「飲み過ぎたようだな」天王寺はいった。「そろそろ行くか」
遥菜は引き留めにかかった。「そんなにお急ぎにならなくても......」
天王寺は懐中時計を取りだし文字盤を見た。「おい。なんだこりゃ。六時近いじゃないか。この歳にして夜ふかしとはな。いや、楽しいパーティーだった」
ゆっくりとした動作で天王寺が立ちあがると、ペースを合わせるようにして三人の男たちも腰を浮かせた。ひとりが手提げ金庫を天王寺に差しだす。
「ああ」天王寺は焦点のさだまらない目でそれを一瞥し、震える手で受け取った。「そうだった。大事なペンダント。忘れるところだった。暗証番号は? まだきいてなかったな」
城ヶ崎は一瞬、言葉に詰まった。「その......よろしければ、いま贈り物を用意させてますので、お待ちになりませんか。おクルマの手配もこちらでさせていただきます」
「それには及ばんよ」天王寺の顔に、ふと疑念のいろが浮かんだ。「なぜ私を帰らせまいとする? 会社に身代金でも要求するつもりか?」
天王寺が豪快な笑い声をあげると、遥菜は思わずびくついた。それを悟られないよう、大げさに身体を揺すって笑ってみせた。城ヶ崎も同様に、さも上機嫌そうに笑っていた。
やがて天王寺の目が手提げ金庫に落ちた。ふいに天王寺の表情が曇る。「おや......?」
嫌な予感がする。遥菜はきいた。「どうかなさいましたか?」
「この金庫......。おかしなことになっとる。蓋のEって字が、なんだかいびつだ」
まずい。遥菜はうわずった自分の声をきいた。「そうでしたか。あくまで警備会社からレンタルした物なので......」
「Eの下の横棒が......書き加えられとる。本当はFじゃないのか?」
「......さあ。それは......。すり減ってきてFに間違いやすくなったので、マジックで修正したんじゃないでしょうか」
「そうか......? まだ新しそうだが」天王寺の視線があがり、城ヶ崎をまっすぐに見つめた。「開けてくれるか」
ボディーガードの男が天王寺にささやく。「ご心配なさらずとも、私は片時も手放しませんでした」
城ヶ崎も同意をしめした。「そうですよ。別の物とすり替わったりとか、そんな可能性はございません。位置情報もモニターしているんですし。遥菜。地図表示をお見せして」
天王寺は時間稼ぎに気づきつつあるようだった。表情が徐々に険しくなる。「いいから開けてくれ。まさか、開けられない理由があるんじゃないだろうな」
広大な広間の、たったひとつのテーブルに寄り添う一同に、沈黙が訪れた。
交錯しあう視線に気まずさが漂う。もはやこうなっては、拒絶するほうが不自然というものだろう。
やがて城ヶ崎が、諦め顔でつぶやいた。「遥菜」
遥菜はためらいがちに手提げ金庫のテンキーに指を這わせた。これは、わたしがロックしたEの金庫ではない。よって暗証番号も違う。一一一一......。
かちりと音がして、蓋が跳ねあがり半開きになった。天王寺はそれを大きく開けてなかを覗きこんだ。
目を剥いて天王寺がたずねてきた。「私のペンダントは? いったいなんだこりゃ」
城ヶ崎は青ざめていた。その横顔を見たとき、遥菜はすべての終焉を悟った。
もうどうにもならない。言い逃れできる境地ではない......。
そのとき、扉を押し開けて大広間に入ってくる人影があった。
雲伊が鴨立の腕をつかみ、引きずってくる。ふたりとも息をきらしていた。
鴨立はよほど抵抗したらしく、服が乱れていたが、結局は観念したらしい。ふてくされた表情ながらも、すなおに連行されてくる。
こちらに近づいてくると、雲伊は足をとめた。なおも鴨立の腕を握ったまま、雲伊は城ヶ崎に報告した。「つかまえました」
城ヶ崎の目が鋭く光った。
天王寺は眉をひそめた。「なんだね。この男たちは誰だ?」
「すぐにおわかりになります」城ヶ崎は厳かにそういうと、鴨立の前に歩を進めた。手を差しだしながら、城ヶ崎は鴨立に告げた。「会長のペンダントを返しなさい」
「......な」鴨立は目をしばたたかせた。「なんのことですか。ペンダントって......?」
雲伊が一喝した。「とぼけるな! おまえが持ち去った手提げ金庫だ。どこに隠した」
変だ、と遥菜は思った。
問い詰められた鴨立は混乱したようすで、おろおろと一同の顔を見まわすばかりだった。泣く子も黙る天王寺海翔の前に引きずりだされて、しらばっくれた態度を貫けるものだろうか。もはや有罪が確定したも同然だというのに。
城ヶ崎も妙と感じたらしい。険しい表情のなかに、かすかに戸惑いのいろが浮かんだ。
するとそのとき、広間の扉が大きく開け放たれた。莉子の能天気な声がこだまする。「お待たせしましたー」
莉子は両手いっぱいに買い物袋をさげていた。色とりどりの花束や、きれいに包装されリボンがつけられた箱が無数におさまっている。サンタがプレゼントを運んできたかのような、歓びに溢れたその表情。いまにもスキップでも始めそうな足取り。場違い以外のなにものでもない、遥菜はそう感じた。
近くまで来て、莉子は重そうに荷物を床に下ろした。ただちに袋をまさぐって、花束といくつかの箱を取りだす。「会長さん。遅くなって申しわけありません。はい、これ贈り物です。洋菓子も適当に見つくろってきたんですけど、お口に合いますかどうか」
天王寺はただ呆気にとられたようすで立ち尽くしていた。両手を差しだす素振りもない。だが莉子はいっこうに気にならないようすで。側近の男の胸もとに贈り物を押しつけた。男は面食らったようすでそれらを受けとった。
莉子は周囲の空気も意に介さず、次々と買い物袋かられ束や箱を取りだしては、男たちに手渡した。「この季節なのに鮮やかな色のバラが揃ってたんですよ。それと動物の顔が描いてあってマカロンみたいな食感の......新スイーツ『動物わたろん』。可愛いんで買ってきちゃいました。それと、忘れちゃいけないこれが......」
取りだされた物体を見て、遥菜は衝撃を受けた。
「おお!」天王寺は目を瞠っていた。
買い物袋の底から現れたのは、手提げ金庫だった。蓋にはEと記されている。
莉子はそれをテーブルに置いた。「遥菜さん。開けてくれませんか」
本物のEの金庫。暗証番号を知るのはわたしだけだ。急いでテンキーに入力する。七二六一。
蓋は跳ねあがった。開いた手提げ金庫のなかに、鮮やかな光の束が渦巻いていた。
天王寺は手提げ金庫に歩み寄り、なかにあった物を取りだした。まぎれもないファンシー・ビビッド・ブルー。五・一八カラットのブルーダイヤモンドを備えた、世界にただひとつのペンダント。それが天王寺の手におさまっていた。
城ヶ崎は唖然とした面持ちだった。雲伊も同様だった。鴨立は、いまひとつ何が起きているのか把握しきれていないようすで、目を白黒させている。
しばしの静寂の後、天王寺は呆然と莉子を見つめた。「いったい何だねこれは......? きみたち流のサプライズか? サンタの贈り物というわけか。なんだか腑に落ちん状況だな。サンタは私のつもりだったのに......。まるでトナカイが私を放りだして、メスと駆け落ちしてしまったかのようだ」
かなりの酒が入っているせいか、天王寺の喩えもしっくりくるものではなかった。どう反応していいものか判然としない。
けれども莉子はひとり、にっこりと微笑んだ。「会長。メス同士が駆け落ちって、同性婚ですか? サンタさんのソリを引くトナカイはメスですよ。ほら、この贈り物の包装紙を見ても、トナカイにはツノがあります。オスは冬季にはツノがなくなっちゃいますから」
友達とまではいえなくとも、まるで会社の直属の上司にでも話しかけるような親しげな口ぶり。国内最大規模の不動産業の大物は目を剥いた。
だがその直後。天王寺は弾けるような笑い声をあげた。「なるほど、同性婚か。こりゃ傑作だ!」
広間に天王寺の笑い声が響く。城ヶ崎は笑みを凍りつかせていた。
天王寺はボディーガードを振りかえってペンダントを手渡した。それから莉子に向き直り、顎髭を撫でながらいった。「きみは、あまり見かけない顔だな」
城ヶ崎が紹介する。「うちの新任の第二秘書でして......」
「そうか。いや、堂々とした態度に頭の回転の速さ。さすが城ヶ崎君の下で働くことはある。ダミーの手提げ金庫を用意したのは、ジョークのためかね。それとも盗難を警戒してのことか?」
莉子はあっさりと答えた。「その両方です」
「結構。きみは私に偽物をつかませた、初めての女性だよ」天王寺はまた高らかに笑うと、杖をついて歩きだした。「今宵の催し、存分に楽しませてもらった。ふたりの男性社員の寸劇はあまり笑えず余分だったかな。そのうちみんな、私の屋敷に招待しよう。では城ヶ崎君。来年もよろしくな」
城ヶ崎は深々とおじぎをした。「こちらこそ......。あ、会長。下までお見送りを......」
「いや、ここでいい。園部遥菜君も、それから、第二秘書のきみも。よいお年を」
天王寺はゆっくりと歩を進め、がらんとしたパーティー会場を横ぎっていった。サンタのトナカイはメスだったか、勉強になった。陽気な声をあとにのこし、天王寺と三人の男の後ろ姿は、扉の向こうに消えていった。
大広間に静寂が漂う。安堵のときは去り、疑心暗鬼な重苦しさを伴う沈黙に変わった。
城ヶ崎は、彼女特有の冷やかな態度を取り戻していた。じろりと莉子をにらみつけて、つぶやくようにだすねる。「まさかとは思うけど、探偵が犯人だったわけじゃないんでしょ? そんなパターンは願い下げといったはずよね」
莉子はすまし顔で城ヶ崎を見かえした。それから買い物袋に手を突っこんで、なかから薬品の瓶を取りだした。
それは社内の衣装部屋の常備品。染み抜き用のベンジンだった。莉子は瓶の蓋を外し、その口にテーブルナプキンをあてがうと、瓶を傾けた。たっぷりとベンジンを含ませた布で、手提げ金庫の蓋をごしごしとこすりだした。
Fに書き加えてEにした、その横棒一本を消そうとしているらしい。
ところが......。横棒は消えなかった。いや、正確には、いびつな太い線はたちまち拭い去られた。その下から本来の細い線が出現していた。なにこれ......? 遥菜は息を呑んだ。これはFではない。もともとEだったにもかかわらず、一番下の横棒にのみマジックインキで上書きをしてあったらしい。
莉子は、もうひとつの金庫の蓋も布でこすりだした。まぎれもなくEと信じていたその表記の横棒が一本、たちどころに消えた。金庫はFだった。
混乱してきた。Eと思っていたのがFで、FだったはずがE。両者は逆だった。
遥菜ははっとして、携帯電話の画面を見た。ステファニー本社ビルを指ししめす Handy cashbox-E の位置表示。
では、この地図が表していたのは......。
すると莉子が、落ち着いた声で城ヶ崎に告げた。「探偵が犯人なんて、そこまでひねった話じゃありませんよ。わりと直球です。最初から怪しそうに思えたキャラが、やっぱり犯人だった」
城ヶ崎の目が鴨立を向いた。「じゃあ......」
ところが、莉子が見据えたのは鴨立ではなかった。「そうでしょう? 雲伊課長」
真相
かつて経験した覚えのないショックが遥菜を襲った。
雲伊は絶句したようすで、唖然とした顔で莉子を見かえしていた。
「な」雲伊はぎこちない微笑を浮かべた。「何をいってる? 僕がペンダントを......盗んだってのか? そんな大それたことを......」
「したんですよ」莉子は穏やかにいった。「自分がいちばんよくわかっているでしょう? 遥菜さんが手提げ金庫を機材部屋に置き去りにしたのを見て、すかさず奪い去った。そして午前二時すぎに社用車No.4を使ってビルの外に持ちだし、渋谷の道玄坂シティホテルのシングルルームに置いてきた」
「馬鹿をいうな」雲伊の顔から笑いが消えた。「僕が外にでたのは、編集長の言いつけでマリオン西武にキャビアとアグー豚の買いだしに行ったときだけだ。社用車なんか使ってないし、午前二時以降にビルをでたりはしていない」
「なら、どこで何をしてたんですか」
「知ってるだろ。三階の第一応接室だよ。メジャーリーグの試合経過も説明したろ」
「試合の経緯なんて、携帯電話でニュースサイトでも見てれば常時わかります」
「僕はテレビで中継を観てたんだ」
「ほんとですか」
「ああ。なにを根拠に僕の言葉を疑っているんだ」
莉子の視線は、雲伊から鴨立に移った。
「係長」莉子は手を差しだした。「盗んだ物を返してください。いますぐに」
盗んだ物......? 遥菜は思わず首を傾げた。
鴨立はうつむいていた。悪戯を見つかった子供のようにばつの悪そうな顔で、上着のポケットに手をいれる。
取りだされたのは一枚のカードだった。
雲伊がぎょっとした顔でそれを見つめた。「まさか......」
「そうです」莉子は受け取ったカードをしめした。「これはB-CASカード。第一応接室のテレビから鴨立係長が抜き取ったものです」
鴨立はいたたまれない表情で床に目を落としていた。耳もとは真っ赤に染まっていた。
半ば呆然としたようすで、雲伊は鴨立の横顔を眺めた。「B-CASカードを......抜き取った?」
「......あのう」鴨立はつぶやいた。「僕も......ドリームシリーズの中継が観たくて......」
莉子がいった。「このビルで唯一BSデジタル放送の受信契約をしているのは第一応接室のテレビです。でもその種の契約は、B-CASカードのID番号を登録することでおこなわれるんです。ビル内のほかのテレビは、アンテナを共用しているので、契約してあるカードを挿しさえすれば視聴できます。鴨立係長は、パーティーに出席するのを嫌って、どこか邪魔の入らない部屋に籠もって野球中継を観ることにしたんです。B-CASカードをこっそり抜いて、持ちだしていたんです。だから第一応接室では地デジもBSも、いっさい観られない状態だったんです」
遥菜は衝撃を受けていた。
鴨立が挙動不審だったのはそのせいか。彼はペンダントを狙っていたのではない。ひとりでテレビを観られる部屋を探しまわっていたのだ。たぶんフォトスタジオの隣りの機材部屋に目をつけたが、遥菜が入っていったために断念したに違いない。
莉子は雲伊を見つめた。「午前三時すぎ、第一応接室で課長はおっしゃいました。メジャーリーグ中継をいま観終わったところだって。テレビは消えてましたよね。野球を観るどころか、いちども点けてなかったんじゃ......」
雲伊は声高にいった。「なにかの間違いだ! ......鴨立がB-CASカードを抜いたのは、野球中継が終わった後だ。そうに違いない。僕は第一応接室で中継を観た、それは事実だ」
「いいえ、それは嘘です。西武に買いだしにいったときもそうです。あなたは電話で、ソーセージマルメターノの売り場の前にいるとおっしゃった。でも本当はそうじゃありません」
「何を憶測でものをいってるんだ。編集長、こんな女性を第二秘書にすべきじゃなかったんです。凜田さんのいっていることは根拠のないでたらめばかりです」
「根拠はあります」莉子は動じなかった。「レジの音の高さが違ったんです」
雲伊が表情をこわばらせた。「......なに? 音の高さだって?」
「全国どこでもそうですが、食品売り場のレジってのは、バーコードをスキャンするときの『ピッ』って電子音の高低が、レジごとに異なってるんです。そうしないと隣りのレジの音に惑わされて、スキャンできていないのにできたと勘違いする可能性があるからです。電話を通して、雲伊課長の声の背景に大きくきこえていたレジの音は、ソーセージマルメターノの売り場付近できこえる音の高さじゃありませんでした。もっと低い音だったんです。わざわざ嘘をついて、事実を隠すからには相応の理由があるんでしょう。わたしはレジの周辺をうろついて、いちばん近い高さの音がきこえる場所に足をとめました。上りエスカレーター寄りの七番のレジ、その出口です。そこには興味深い物が設置してありました。セブンチケットの端末です」
城ヶ崎がつぶやいた。「ああ......、たしかあそこのセブンチケットは......」
「ええ」莉子はうなずいた。「夜中でも即日のホテル予約が可能なことで有名です。さっき、実際に試してみました。さすがにクリスマスイヴなので、都内のホテルは満室だらけです。唯一空き部屋があったのが渋谷の道玄坂シティホテルです」
大広間はしんと静まりかえっていた。差しこむ朝の陽射しが空間をオレンジいろに染めている。明るさに反比例して。温度は下がっていくように感じられた。パーティーが終わって暖房が切られたのか。それとも、体感的なものにすぎないのか。
雲伊にとってはその限りではないようだった。額に無数の汗の粒が噴きだしている。
莉子はテーブルの上の手提げ金庫に目を転じた。
Fの手提げ金庫のなかに手を入れ、底板を外す。電池を取りだして、しげしげと眺めた。
「逆向きですね」と莉子はいった。「プラスとマイナスを反対にしておさめてある。これじゃスイッチをいれてもGPSはオンになりません」
遥菜は莉子を見つめた。「でも......。わたし、ペンダントをいれる前に、自分の手でスイッチをいれたのよ。それで地図サイトにも位置表示が現れた、あなたも見たでしょう」
莉子は真顔で遥菜を見かえした。「ええ。でもそのとき、雲伊課長がどうしていたのか覚えてますか?」
「あ......」遥菜のなかに浮かびあがってくるものがあった。「ひょっとして......」
「そうです。雲伊課長は段ボールに両手をいれてました。『いまは手が離せない』ともおっしゃった。本物のEの手提げ金庫は、あの段ボールのなかにあったんです。そして、Eに見せかけたF金庫のほうは、電池の向きを変えてあった。遥菜さんがその偽E金庫に手を突っこみ、GPSのスイッチをいれるタイミングを見計らって、雲伊課長が段ボールのなかのE金庫のスイッチをオンにしたんです。それで Handy cashbox-E の位置表示が現れたんです」
莉子の説明とともに、氷山の上部が削られて、海面下に没していた部分が浮かびあがってくる。見えなかった範囲があきらかになっていく。面という面が理路整然としていて、一片の曇りもなかった。
がらんとした大広間に莉子のつぶやくような声が響く。「その後、雲伊課長は本物のE金庫にあからさまに書き加えるフリをして、わたしたちにF金庫だと信じさせた。そのGPSスイッチはすでにオンになっているにもかかわらず、オフ状態だといって灰皿をおさめて蓋を閉じ、ロックした。以後、Handy cashbox-E の位置情報がしめしていたのは、その手提げ金庫です。ビルから動かなくて当然ですね。編集長をはじめ、みな天王寺会長に手提げ金庫を開けさせまいとするでしょうし、持ち帰らせまいともするでしょうから、朝までカラクリがばれることはありません。実際にペンダントが入っているF金庫のほうは、GPSの追跡もなく持ちだし放題です」
雲伊は顔面を紅潮させてまくしたてた。「どうかしてるんじゃないのか!? 僕がペンダントを奪ったなんて。なにもかも既成事実であるかのように......。詭弁だよ。こんな侮辱は初めてだ。なんだって、道玄坂シティホテル? どこにあるんだね。渋谷に泊まったことなんか一度もない」
「そうですか? わたしと遥菜さんが三時過ぎに第一応接室に行ったとき、テーブルの上に持ち物を投げだしてたでしょう? そのなかに紫いろのカードキーが混じってました。わたし、さっきタクシーで道玄坂シティホテルまで手提げ金庫を取りにいったんですけど、あのホテルの部屋の鍵にそっくりでした。なんでしたら持ち物を拝見できますか」
「たわごとだ!」雲伊は憤りをあらわにした。「そもそも僕は、三階に下りたままパーティーの開始まで動かなかったんだぞ。櫻井さんも証言してる」
「犯人が非常階段を上り下りしたことが判ったいま、エレベーターホールを通らなかったことはなんの証明にもなりません。第一応接室のドアはエレベーターホールから見えないし、雲伊課長が部屋をでたことは美咲さんにも知るよしはなかった。あなたはすぐさま非常階段をのぼって、フォトスタジオがあった八階に戻ったんです」
「で、その階の入り口は機材部屋に通じていて、園部さんがうまいぐあいに手提げ金庫を忘れていったってのか。偶然がすぎるだろう」
「いえ、そうは思いません。本来のあなたの計画は、ペンダントがおさまった手提げ金庫と、もうひとつの予備の金庫をすり替えることでしかなかった。遥菜さんがどこかに手提げ金庫をしまうと予測し、その場所をまず確かめるために八階に上った。でも遥菜さんを尾けまわす目的であっても、予備の手提げ金庫を携えてうろつきまわるのは人目に触れて危険だし、場所が確定してから予備を持ってきてすり替えるつもりだった」
「ああ」遥菜は思わず声をあげた。「それなのに、わたしが手提げ金庫を機材部屋に置き去りにしちゃったから......。予定が狂ったのね」
「そう。思いがけずペンダントが早々に手に入るチャンスが訪れた。予備の金庫を持参していなかったので、すり替えることはできず、持ち去るに留まった。おかげで大騒ぎになってしまった。夕方、金庫を借りた時点では、課長自身も予期していなかった事態です。そのため計画を修正して、みんなが偽物と承知している金庫を天王寺会長に渡すというやり方に変更したんです。でも今度は、ペンダントの入った手提げ金庫をできるだけ早く外に持ちだす必要に迫られた」
城ヶ崎がつぶやいた。「なるほどね......。手提げ金庫をすり替えるだけの犯行なら、ペンダントの盗難が発覚するのはずっと後。パーティーが終わるいまごろになるはずだった」
莉子はうなずいた。「それが、夜中のうちから盗難騒ぎが発生してペンダント探しが始まったので、ビル内には置いておけなくなったんです。あわててセブンチケットを予約し、社用車で外出したのはそのせいです」
一同の視線が雲伊ひとりに向けられる。にわかに信じがたいと思われた話が、揺るぎない真実にほかならないと思える確信へと変貌していく。雲伊の動揺は、時が経つにつれて顕著になっていき、もはや絶望のいろを漂わせるに至っていた。
「馬鹿いうな」雲伊のうわずった声は、悲痛な響きを帯びていた。「社用車を運転するなんて......。渋谷まで行き来するだけでも至難の業だ」
ふいに暗雲がたちこめだしたように、遥菜には感じられた。
たしかに雲伊が社用車のステアリングを握っている姿は想像しづらい。江の島から電車通勤している彼は、都内の道に詳しくない。不案内で方向音痴。編集部内では誰もが知る雲伊の短所だった。渋谷まで往復するならタクシーを使うところだろう。
だが、ここまで驚異的な聡明さを発揮してきた莉子にとっては、疑念のかけらにすらならないようだった。遥菜の思考を読んだかのように、莉子は平然といった。「タクシーに乗ったら乗車記録が残っちゃうし、そりゃ道に迷う危険を冒してでも自分で運転するでしょう。実際、カーナビのついていない社用車で渋谷を目指すのは大変だったんでしょう。本来は行かない道を通ってますから」
雲伊は眉をひそめた。「行かない道だって?」
「わたしも運転はしないからよくは知らなかったんですけど、さっき道玄坂シティホテルまで往復したとき、タクシーの運転手さんにききました。ここをでてすぐ、新橋駅方面に向かえば渋谷方面への案内板が見えます。それに従って六本木通りを抜けていけば片道六キロ弱。ベテランのドライバーでなくても選ぶ道です。ところが、会社近くに乗り捨ててあったNo.4の社用車は、前日の走行距離に比べて十八キロ伸びてる。片道九キロです。おかしいと思いません? 案内板の通りに走っても六キロの道なのに、三キロもオーバーするなんて」
「なんのことかわからんな。運転したのは僕じゃないんだし」
「そうでしょうか」莉子は雲伊をじっと見つめた。「タクシーの運転手さんの話では、カーナビのルート探索っていうのは、融通がきかないんですってね。メーカーにもよるけど国道、都道府県道の順に優先してルートを割りだしてしまう。結果として、冗談みたいに遠まわりになったりするんです。ここから渋谷まで二〇号線、二四六号線という具合にね」
城ヶ崎は、莉子のいわんとしていることを察したらしい。「課長。携帯電話をだして」
「へ、編集長」雲伊はへらへらと笑った。「そんな......空想じみた話に付き合われなくても......」
「いいから出して!」城ヶ崎は怒鳴った。
びくついた雲伊は、凍りついて固まった。痙攣したように小刻みに震えている。
しばらくして、城ヶ崎が目でうながしてきた。遥菜はうなずいて、雲伊の上着のポケットにそっと手をいれた。
失礼します、そう告げて中身をつかみだす。二つ折りの携帯電話があった。開いてみると、紫いろのカードキーが挟んであった。道玄坂シティホテルと記されていた。
城ヶ崎がいった。「アプリを確認して」
遥菜はその指示の趣旨を理解した。携帯電話を操作して、ダウンロード済みのソフト一覧を表示する。カーナビアプリが購入してあった。
そのソフトを起動して履歴を調べたが、過去のルート探索記録はなかった。
当然だろうと遥菜は思った。見られて困るデータを残しておくはずがない。消去済みなのだろう。
新たに目的地として、道玄坂シティホテルを入力する。往復のルート探索を設定した。
ほどなく音声が告げた。「ルート案内を開始します。目的地までの往復、およそ十八キロメートルです......」
女神
静寂に響くその音声案内こそ、雲伊にとっては地獄への導きに違いなかった。
遥菜はひたすら圧倒されていた。あきらかにされた雲伊の犯行の一部始終、それを暴いた莉子の観察眼と帰納的分析の精度、あらゆるものが驚異にほかならなかった。
城ヶ崎は、獲物を狙う猛獣のような目を取り戻していた。雲伊を冷たく見据える。雲伊はすっかり青ざめ、すくみあがっていた。
「......し」雲伊はひきつった顔で、震える声を絞りだしてきた。「仕方なかったんですよ......。何年働いても、この会社じゃ男性社員は課長職どまりだし......。努力が結果に反映されないんです。昇給につながらないんですよ。組織の構造的欠陥です」
雲伊はしだいに饒舌になりだした。うわずった声で雲伊はまくしたてた。「そもそも経理に問題があるんです。誰もが知ってることですよ。編集長がいちばんよく......。社員の給与所得の総額は、会社の税務上の申告内容と大幅に食い違っているじゃないですか。会社が払っているはずの給料を、社員はもらっていない......。莫大な利益をあげておきながら、社員に還元されてもいないし、国庫に納めてもいない。みんな承知してることです。ただいわないだけだ。園部さん、きみからもいってやれ」
遥菜は視線を逸らした。捨て鉢な態度をとるのは勝手だが、わたしを巻きこ重ないでほしい。莉子を見やると、彼女も困惑顔で見かえしてきた。
城ヶ崎も床に目を落としているが、表情にはなんのいろも浮かんではいなかった。雲伊の言葉にじっと耳を傾けているのか、それとも聞き流しているだけなのか。終始無言を貫いていた。
「横暴だよ!」雲伊は興奮ぎみに、甲高い声を張りあげた。「すべては城ヶ崎編集長の、いや社長のワンマン経営、独裁体制が招いたことだ。浪費しまくっているくせに、社員給与はほかの大手出版社の六割か、せいぜい七割ってとこじゃないか。これじゃ暮らしていけない。社員には自費でブランド物を購入して着ることを強制するくせに......。こんなの詐欺ですよ!」
ふいに城ヶ崎の視線があがった。雲伊をまっすぐににらみつける。
雲伊はいまさらながら萎縮したように、身を小さくしてうつむいた。
「......消えて」城ヶ崎は低くいった。「いますぐ、わたしの視界がら消えてくれる? そして二度と現れないで。その約束が守れるのなら、警察に突きだすことだけは勘弁してあげるわ。少しでもぐずぐずして、遠ざかったはずの足音をもういちど鳴らしでもしたら、窃盗犯として連行される姿を報道陣に晒しものにしてやるから。わかった? ならさっさと消えて!」
城ヶ崎の叫びに似た怒鳴り声がこだまする。雲伊は雷に打たれたように全身をひきつらせると、もつれた脚で駆けだした。
「課長」と城ヶ崎はその背に呼びかけた。
雲伊は怯えたようすで立ちどまった。振り返る勇気はないらしい。
ささやくような声で城ヶ崎は付け加えた。「もしマルサ相手につまらないことを吹きこんだら、あなたの家族ばかりか、親戚までも世間に顔向けできないようにしてやるから。そこんとこ、よく覚えておくことね」
駄目押しのひとことに、雲伊はもはや震えあがる気力すら残していないようだった。前のめりに倒れこみそうになりながら、転がるように扉に駆け寄り、なんとか外に這いだしていった。
城ヶ崎の目は、もうひとりの裏切り者に向けられた。鴨立を見据えて城ヶ崎はいった。
「あなたもよ。係長」
五億円超のペンダントとB-CASカードという被害品目の格差を、城ヶ崎は考慮しないつもりらしい。実際、窃盗は窃盗だ。泥棒であることがあきらかになった係長に、職場にいてほしくはない。遥菜はそう思った。
雲伊に比べると、鴨立の態度は潔かった。申しわけありませんでした、震える声でそう告げるや、たちまち扉に走り開け放つと、廊下に消えていった。
ひっそりとした静けさだけが、大広間に残された。
しばしの沈黙の後、城ヶ崎が莉子にきいた。「手提げ金庫、道玄坂シティホテルのシングルルームにあったといったわね?」
「はい」と莉子は応じた。「雲伊課長が借りていた部屋に......」
フロントのスタッフ、よくあなたにその手提げ金庫を渡してくれたわね?」
「そこは難題でした。でも事情を説明していると時間がかかるので......雲伊課長の連れだといって、忘れ物を取りに来たと伝えました。カードキーは課長が持っているから部屋に入れないといって......。手提げ金庫の特徴を詳細に話したら、スタッフも了承してくれました」
「......そう。ならいいわ」城ヶ崎はため息をついて、髪をかきあげた。「あちこちのラウンジに散ってる社員と来客に、パーティーはお開きだって伝えて。始発電車も動きだしてるし、タクシー券は一枚もださなくていいわ。三十分ほどで全員追いだして」
遥菜はいった。「わかりました。あ、編集長。お帰りでしたら、クルマの手配を......」
「誰が帰るっていった?」
「はい......?」
城ヶ崎は振りかえった。その顔に、穏やかな微笑が浮かぶ。「気のせいかしら。わたしたち三人、まだクリスマス・パーティーを始めてないと思うんだけど」
驚きとともに城ヶ崎を見かえす。やがて、その真意に気づいた。遥菜は心が躍った。
「そうですね。これからです」
「莉子」城ヶ崎はきいた。「あなたはどう? どうせ里帰りの便は逃しちゃったでしょう。アグー豚で故郷の味を満喫したら? キャビアも多く買いすぎて余ってるし」
面食らったようすの莉子の顔に、自然な笑みがひろがった。「ありがとうございます。ではお言葉に甘えまして......」
城ヶ崎は背を向け、扉に歩き去りながらいった。「なるべく早く社長室にあがってきて」
遥菜は頭をさげて、城ヶ崎が退室するのを見送った。やがて扉が閉じると、思わず跳びあがった。「やったぁ......! すごい、莉子。なにもかも解決するなんて夢みたい! 編集長との距離も、一気に縮まったみたいだし」
「そうね」莉子は微笑んだ。「わたしたち、頑張ったかいがありましたね」
その優しげな表情、無邪気な笑顔を眺めるうちに、遥菜はひと晩じゅうつづいた悪夢からついに脱したことを実感した。
凜田莉子。まさしく闇に光明を投げかける女神だ。わたしは、とんでもない同僚と知り合ってしまった。
素性
キッチンに残っていた手つかずの料理とワイン、シャンパンの類いはすべて、キャスター付きワゴンに載せてエレベーターを経由し社長室に運ばれた。
窓の外に見える空は明るくなっている。とうとう夜が明けた。空が見通せる広大なフロアは、三人だけのパーティー会場になっていた。
とはいえ、BGMも歓談のざわめきもなく、しかも会社のトップとふたりの秘書というメンバー構成では、いきなり無礼講というわけにもいかなかった。厳粛な雰囲気のなか乾杯をおこない、静かに酒を酌み交わす。そんな時間がしばらくつづいた。
莉子は、苦手な酒をどれぐらいのペースで飲み進めるべきかわからず、内心困惑を覚えていた。大勢で賑わっているなかであれば、口をつけているふりをしていればいい。だがいまは、城ヶ崎はたびたびこちらに視線を向けてくる。飲酒の進みぐあいを確かめているかのようだ。摂取しないわけにはいかなかった。
遥菜のほうはそんな緊張感とはまるで無縁のようすで、極めて上機嫌そうにワインを飲みほしていた。
「......で、そのとき」遥菜は目を輝かせて喋りつづけていた。「莉子がいったんですよ。ブルーレイで撮った番組が消えちゃったのは、電源が落ちたからだって......。それで棚の裏の扉から、非常階段に出入りする人物に気づいたんです。すごいと思いませんか? 瞬時に見抜いたんですよ」
「ふうん」城ヶ崎はデスクにもたれかかり、シャンパングラスを傾けていた。「ようするに、きのうのニュースと経済番組は撮れていないってことね」
「あ......」遥菜の表情が曇った。「それは......申しわけありません。不慮の事故のようなもので......」
城ヶ崎はしかし、それ以上遥菜を責める態度はしめさなかった。代わりに微笑とともにいった。「ちょうどよかったわ。どうせどの番組も街に中継車を繰りだして、道ゆく幸せそうなカップルを映しだすばかりだもの。観られなくてよかった」
莉子は驚きを禁じえなかった。部下の失敗に対する冗談めかせたフォロー。社会人なら誰でも心得ているはずの言動ではあったが、城ヶ崎の口からきけるとは想像もしていなかった。
厳しいばかりの人ではなかったのか、と莉子は思った。あるいはクリスマスに免じて、きょうかぎりの慈悲と情けをもって寛大に接している、そんな状況だろうか。
なんにせよ、遥菜はほっとしたようすでふたたび笑みを浮かべた。「編集長。わたし、来年もがんばります。『イザベル』はさらに部数を伸ばして躍進するでしょう。なんといっても、有能な新人である莉子が支えてくれるんだし」
「......そうね」城ヶ崎は静かにつぶやいた。
それ以降も、三人のなかで最も高いテンションを維持しつづけたのは遥菜だった。まるで沈黙を忌み嫌っているかのように次々と新しい話題を提供しては、ひとり喋りつづけた。その内容も昨晩のペンダント探しから、最近の業務、ライバル他社への悪口、やがて酒がまわったせいか、中身のない雑談へと転じていった。
かなりの時間が過ぎていた。遥菜はほとんど酩酊状態の赤ら顔で、ソファに身を投げだしていた。
呂律のまわらない言葉づかいで、遥菜はいった。「莉子。象ってさ、ジャンプできない唯一の哺乳類なんだって。知ってた?」
「いえ......。そうなんですか。勉強になりました」
「はん」遥菜は笑った。「よくいうわよ。あなたが知らないはずなくない? わたしさー、去年の夏、市原ぞうの国ってところに行って......。あー、夏っていえば、虫よけバリアとか虫コナーズってさ、刺してくる蚊には効かないんだってね。なんだかなーって思ってさ......」
莉子はミネラルウォーターをグラスに注いだ。「遥菜さん。お水をどうぞ」
「ありがと」遥菜はグラスを受け取ったが、口をつけずに喋りつづけた。「それにしてもさー。世のなか運だよね」
「......はい?」
「才能に恵まれるのも運のうちっていうか......。もっといいところにお参りにいかなきゃ。デザイナーのジャン=ポール・ゴルチェって、どこに初詣に行ってるんだろ」
「......フランス人ですから、教会じゃないですか? ノートルダム大聖堂とか」
「ああ、フランス人だったね。そうよね。成田山新勝寺のわけないか。わたしみたいに......おみくじがいつも小吉ってわけないし......」
莉子はその先をきくべく耳を傾けていたが、遥菜の声は消えいったままになった、ソファに目を向けると、遥菜はソファに身をあずけて両目を閉じ、眠りこんでいた。
城ヶ崎がクローゼットから毛布をだしてきて、遥菜にそっとかけた。遥菜の手から落下しそうになっていたグラスを取り除く。
しばし遥菜の寝顔を見おろしてから、城ヶ崎は莉子を振りかえった。「昨晩からの疲れもあるでしょうね」
「そうですね」莉子は微笑してみせた。「緊張から解放されて、お酒が進んだんでしょう。ほっとひと安心ってところだったし」
「安心? どういう意味?」
「え......? それはもちろん、ペンダントが無事に戻って......」
すると城ヶ崎は、どこか弱々しくみえる笑みを浮かべていった。「浅いわね、莉子。遥菜がお酒を飲まずにはいられなかったのは、安心したからじゃないわ。むしろ不安に掻き立てられたせいよ」
意味がわからず、莉子は城ヶ崎にたずねた。「不安というと、どんな......?」
「あなたよ」城ヶ崎は見つめてきた。「第二秘書の秀でた知性と抜群の行動力を、これでもかとばかりに見せつけられた夜だったのよ。わが身の今後が心配にならない第一秘書はいないわ。そう思わない?」
莉子は黙っていた。
城ヶ崎はシャンパンのボトルを一本、ほぼひとりで空けていたが、酔いが外見に表れにくい体質のようだった。顔が赤らむこともなければ、表情にだらしなさも見られない。
そうはいっても、常に突っ張ってばかりいるふだんの城ヶ崎の態度よりは、その言動にはいくらか柔らかさが感じられた。城ヶ崎はささやくようにいった。「遥菜はね、もとはモデル志望だったのよ」
「へえ......」
「高学歴のモデルはメディアでも持て囃されるし、本人も成功する自信があったみたい。でも、こういっちゃ何だけど、遥菜のルックスはモデルの業界じゃごく平均的なレベルだし......。そのうち夢を諦めたみたいだけど、うちの会社が容姿を採用条件に含めているのが気にいったようね。知性で勝負して、なおかつ見た目も評価されるって最高じゃない? 美人過ぎる秘書って、何度かテレビで特集を組まれたりしてたわ。モデルとしてひと花咲かせられなかった遥菜にしてみれば、最高のリベンジになるはずだった。あなたがくるまでは」
莉子はなおも無言でいるしかなかった。何を話すべきか見当もつかない。城ヶ崎はわたしを責めたがっているのだろうか。遥菜の身を案じているのか、それとも気にかけてもいないのか。いまもって判然としなかった。
城ヶ崎は莉子をじっと見つめてきた。「ご両親に会えなくて不満?」
なぜ急にそんな話を......。ああ、そうだ。わたしはきょう、波照間島の実家に発つ予定だと会社には申しいれてあった。昨晩の騒動でその機を逃した、城ヶ崎はそうとらえている。
現実には、莉子は帰郷するつもりはなかった。里帰りはあくまで、クリスマス・パーティーを早めに抜けだして、マルサに報告をするための方便でしかなかった。いまとなっては無用な欺瞞の名残りでしかない。
それでも城ヶ崎には調子を合わせねばならない。莉子は答えた。「両親にはまた、いつでも会えますから」
「......そう」城ヶ崎はふたたびデスクにもたれかかると、グラスを口に運んだ。「わたしにも家族がいてね」
プライベートな話題。城ヶ崎にしてはめずらしい。彼女の脱税について探るためにここにいる莉子にとって、歓迎すべきことだった。
莉子は緊張を悟られないよう努めながら、相槌を打った。「はい......」
「孫娘は小学生でね。いつも宿題を手伝わされるの。でも迷惑になることもあるみたいね。このあいだ、理科のプリントで......世界一長い川を書きなさいっていう問題があったのよ。ミシシッビ川って答えたんだけど......」
「ああ......」莉子は思わず笑った。「それでは大人に手伝ってもらったのかバレちゃいますね」
「そうなんですってね。いまじゃ正解はナイル川だって?」
「上流に新たな水源が発見されたので......。アマゾン川も同様の理由で長くなっています。ミシシッピ川は現在では、世界第四位です」
「......孫娘はいろいろ手がかかるわ。幼稚園のころからのなかよしの子がいるんだけど、ちっとも同じクラスになれないのよ。おかげで学校に行きたくないっていいだしてね。ピアノ教室ではいつも一緒だから、喜んででかけていくのに」
「それは、ピアノが原因ですよ」
「......ピアノって?」
「どこの小学校であっても、クラス替えの際には、各学級にひとりピアノが弾ける子を割り振ろうとするんです。合唱コンクールだとか、行事の際に役に立つからです。ふたりともピアノを習っているせいで、離ればなれになっちゃうんですね」
「そうだったの」城ヶ崎は手にしたグラスを眺めていた。「学校にも問題があるわね。一学期の終わりごろにも、同級生の何人かが身体の不調を訴えたことがあったわ。給食に問題があったかもしれないってPTAが学校に説明を求めたのに、学校側は知らぬ存ぜぬの一点張り。話し合いがおこなわれたのも一週間も後だったから、当日の食べ物も調べられないし」
「一週間なら調べられたのでは? 問題の日の料理を、給食室から持ってこさせるべきでしたね」
「持ってこさせるって? 前の週の料理なんて......」
「あるんですよ。学校給食衛生管理基準によって、小学校は二週間以上児童が食べた給食を冷凍保存してます」
「本当に? 学校側はなにも説明してくれなかったわ」
「先生がたが知らなかったはずはありませんから......。むしろ怪しむべき状況ですね。調べられては困ると思ったのかもしれません」
ふうん。城ヶ崎はグラスを手のなかでもてあそんでいたが、やがてそれをワゴンに置いた。「どんな疑問にもたちどころに答えてくれるのね。しかも的確。孫娘のこと、もっと早くあなたに相談に乗ってもらえばよかった」
私的な事柄について打ち明けてくれる前触れだろうか。莉子は平然を装っていった。
「お困りのことがあれば、なんなりと」
......そうね。城ヶ崎はつぶやいた。「あなたは興味深い人ね。知識だけじゃなくて知恵も働く。機転もきく。でなきゃ、ホテルのフロントをいいくるめて他人が借りた部屋の物を受け取るなんて芸当、可能にならないもの。それも手提げ金庫なんて高価そうな物を」
これまで四か月のあいだ何度も経験した。城ヶ崎と対面する際の切迫した緊張感が蘇りつつあった。
城ヶ崎はさっきも、ホテルから手提げ金庫を取り戻した経緯について気にかけていた。それについては答えをしめしたのに、またここで持ちだしてくる理由はなんだろう。莉子は考えた。わたしの答えに疑問を持っているのか。それとも、言葉どおり本当に感心しているのだろうか。
実際のところ、わたしは城ヶ崎に嘘をついた。ホテルの客室にあった物を口八丁だけでせしめるなど不可能だ。
マリオン西武の食品売り場でセブンチケットを見て、雲伊のからくりに気づいてすぐ、マルサの風峰に連絡をとった。令状はなくても、ホテル業界に対する国税局査察部の威光は絶大だった。風峰はホテルの支配人の自宅に電話をいれ、協力を申しいれた。それが真実だった。
願わくばわたしについて、困難なことも実現しうるだけの能力の持ち主だと、錯覚してくれるとありがたい。莉子は祈るような気持ちで城ヶ崎を見かえした。
城ヶ崎は黙りこくったまま莉子を見つめていたが、やがてつぶやきを漏らした。「なぜわたしが孫娘の世話をこまごまと焼いているのか、疑問に思わない? 宿題やら、クラス分けやら、給食についてまで......。本来なら親の仕事でしょう」
また返答に困る問いかけだった。実情がわからない以上は、何をいえば失礼にあたらすに済むのか予測できない。
莉子はいった。「お孫さんの面倒をみられる人が......ほかにおられないとか?」
「......ええ」城ヶ崎は硬い顔になった。「わたしの娘と、その夫。ふたりとも無職でね。結婚当初は共働きだったんだけど、いまじゃすっかりやる気を失ってる。わたしのせいでもあるのよ。わたしの財産を食いつぶすだけでも、充分に贅沢ができるんだから......。ずっと育児放棄ぎみで、遊びまわってばかり」
「お察しします......」
「娘に限らないのよ。わたしの兄や妹、その子供たち。いとこまでも同じ体たらく。みんなわたしが忙しいのをいいことに、稼いだお金を浪費するばかりなのよ。おかしなものよね。人一倍、劣等感を持って育ったわたしは、出世して裕福になることで家族と対等になれると思いこんでた。ところがひとたび資産を得ると、誰もが腑抜けに見えてきた。わたしの機嫌だけをうかがって財産をかすめ取ろうとする、そんな軽薄な人間関係ばかりになってた」
莉子は城ヶ崎の言葉のなかに、ただの愚痴に留まらない、奥深い独白の響きがこめられているように感じた。おそらくこんなことは、いままで誰にも打ち明けなかったに違いない。城ヶ崎の思い詰めた表情には、そう思わせるだけの翳がさしていた。
城ヶ崎はささやくようにいった。「でもわたしは働きつづけるのよ。みんなを魅了しているのがわたし自身でなく、わたしの財産にすぎないとわかっていても、遠ざけられない。孤独にさいなまれたくはないから......。だからお金がいるのよ。あればあるほどいいの」
急激に心拍が速まっていく。莉子は固唾を呑んで城ヶ崎を見つめた。
私事情を明かしたりえで、貯蓄が彼女にとっていかに重要かを訴えてきた。脱税について告白してくるつもりではないか。ついに心を許し、秘密を共有する気になったのか。
だが城ヶ崎は、それ以上饒舌にはならなかった。
感情は無表情のなかに消えていった。城ヶ崎はデスクをぶらりと離れながら、いつものようにどこか棘の感じられる声で告げた。「おめでとう。週明けからあなたが第一秘書よ」
えっ?
莉子は驚いて城ヶ崎を見た。城ヶ崎は振り向きもせず歩き去ると、扉をでていった。
しんと静まりかえったフロアに、遥菜のかすかな呻き声が響いた。遥菜は寝がえりをうっていた。
リムジン
週明けの月曜、十二月二十七日。ステファニー出版はきょうが仕事納めだった。
莉子は先週末に里帰りのため、ひと足早く休みに入ると会社に伝えてあったが、結局あのペンダント騒動でその言い訳も通用しなくなった。けれども、それはさいわいだったかもしれない。莉子はそう思った。きょうはもう出社しないはずだった城ヶ崎が、スケジューリングを反故にして、いつもどおり朝九時に社長室に入ったからだった。
通常なら、莉子の居場所は編集部と同じフロアの秘書室だったが、けさは城ヶ崎の指示もあり、地階の駐車場のエレベーター脇にたたずむことになった。ここで城ヶ崎が下りてくるのをひたすら待つ。
なぜこんなところで待機せねばならないのか。理由はあきらかだった。秘書室には遥菜がいる。第一秘書の交替人事について彼女が知る瞬間に、わたしをその場には居合わせないようにした、そういう配慮だろう。
いま地下駐車場には、社長専用のロングリムジンが停車している。都内の下町に迷いこんだら、たちまち路地で身動きがとれなくなりそうな長い車体。エンジンはかかっていてアイドリング中だった。運転席には、城ヶ崎のお抱えの若いドライバーがおさまっている。
警備員がひとり、クリップボードを片手に社用車を見まわって、コンディションをチェックしている。ほかにひとけはなかった。コンクリート壁に囲まれた薄暗い空間に、リムジンの唸るようなエンジン音だけが低く響いている。屋内でも冷え込みが厳しい。排気管から白い煙が立ちのぼってみえる。
着メロが鳴った。莉子は携帯電話を取りだし、リムジンに背を向けるようにして応答した。「はい。凜田です」
国税局査察部の風峰の声が、耳もとに届いた。「おはようございます。城ヶ崎は予定を変えて出社したようですね」
「ええ」莉子は小声で告げた。「いま社長室にいるみたいです」
ため息がノイズになってきこえてくる。「凜田先生。これほどの長期に渡りご協力いただけるとは思いませんでした。本当に感謝しています。しかしおそらく、きょうが正念場だと思います。法人の年度末決算処理は来年三月ですが、城ヶ崎個人の確定申告の対象になるのは......」
「十二月三十一日まで。きょうが会社の仕事納めである以上、明日以降に動くなんてまずありえないでしょう」
「兆候はありそうですか?」
「まだわかりませんが、編集長は朝一番で外出の予定を立てました。わたしも同行するよう命じられました」
「あなたひとりですか? 園部遥菜は?」
「彼女は......来ないと思います。いまはわたしが第一秘書なので......」
「......そうですか。なら、いよいよもって核心に迫るときが近づいている可能性が大ですね。なにか判明したら、すぐに連絡をください」
なぜか憂鬱な気分にとらわれる。莉子はしばし間を置いて応じた。「ええ、わかりました」
風峰は敏感に察知したらしい。即座にたずねてきた。「どうかしましたか?」
「べつに。なんでもありません」
「凜田先生。警視庁の知り合いがよく口にすることですが、潜入捜査も長くなると監視対象に情が移ったりすることが......」
「そんな心配はありません。目的を見失ったりはしません」
「......わかりました。幸運を。凜田先生」
「また連絡します。では」莉子は通話を切ると、携帯電話をハンドバッグに戻した。
スーツの襟を整えながら、思わずため息を漏らす。
目的を見失ったりしない......か。自分の言葉とは思えない。わたしはそこまで強く意志を貫けるだろうか。
エレベーターの到着を告げるチャイムが鳴った。扉が開き、城ヶ崎が姿を現した。ロングコートにブーツ。外出の装いだが荷物はハンドバッグひとつだけだ。遠くにでかけるわけではなさそうだった。
莉子が頭をさげると、城ヶ崎は何もいわずにリムジンへと歩を進めていった。ドライバーが運転席から駆けだしてきて車体を迂回し、後部座席のドアを開けて待つ。城ヶ崎は乗りこもうとした。
そのとき、階段に足音がした。
「莉子!」遥菜の声が響いた。
遥菜はあわてたようすで、残す数段を跳び下り、こちらに走ってきた。その目は莉子の肩ごしに、城ヶ崎にも向けられていた。
しかし、ふいに遥菜の顔が、呆然とした表情に変わった。城ヶ崎が無言のまま、リムジンのなかに消えたからだった。
城ヶ崎が遥菜の姿に気づいていないはずがなかった。足音も、声もきこえただろう。けれども、彼女はかつての第一秘書を無視した。視線ひとつ投げかけなかった。
ドライバーはドアを半開きにしたまま、困惑顔でたたずんでいる。莉子が乗りこまないことには、ドアを閉じられないのだろう。
しかし莉子は、まだリムジンに赴く気にはなれなかった。かといって、心から望んでこの場に立ちつくしているわけではない。
遥菜と向き合うのは気が咎める。それでも、彼女がここに来た以上、会わないわけにはいかなかった。
息を弾ませながら、遥菜は莉子の目の前に立った。
強烈な感情のせいで、表情にはなにも浮かんでいない。そんなようすだった。震える声で、遥菜はつぶやくようにきいてきた。「出かけるの......?」
「......ええ」と莉子は答えた。
「あなたが......あなたひとりが、編集長と一緒に?」
「そう指示されたから」
しばらくのあいだ、遥菜は黙って莉子を見つめた。
やがて、ふっと笑みをこぼし、遥菜は視線を逸らした。「そうね。上できいたわ。莉子は第一秘書だもんね」
「遥菜さん......」顔をそむけているせいで、遥菜の瞳は横を向いていた。涙の粒が膨れあがっていくのがはっきりとわかる。すぐに表面張力の限界に達し、涙が遥菜の頬をこぼれおちた。
「おめでとう、莉子」遥菜は泣きながらいった。「出世したね......。こんな短期間で」
どう応じるべきかわからない。莉子は遥菜を見つめた。「遥菜さん。わたしは......」
「いいのよ」瞬きのたびに大粒の涙を溢れさせながら、遥菜は微笑した。「すごい人だもんね、あなたは......。わたしよりずっと頭がいいし、ずっと綺麗だし......。だけど、だけどさ。パリは......オートクチュール・コレクションは......。行きたかったな。わたしも」
動揺と戸惑いが莉子のなかに広がっていく。思わず何もかもぶちまけてしまいたい衝動に駆られる。
本能と自制心が激しく葛藤した。莉子は口ごもりながら遥菜に告げた。「あの......遥菜さん。違うのよ。違うの......」
「違うって、なにが?」遥菜の顔から笑みが消えた。「もしわたしのことを思ってくれるのなら......。編集長に頼んで。わたしも一緒に行くって。たったいま、この瞬間にも」
「いまはただ近場にでかけるだけで......」
「お願いよ」遥菜はすがりつかんばかりに身を寄せてきた。「編集長には常に同行してきたのよ。どこへ行くにも、いつも一緒だったの。置いていかれるのは嫌なの。お願いだから、編集長を説得して。わたしもクルマに乗せてくれるように頼んで」
莉子は途方に暮れるしかなかった。
捨て身で願いでれは、城ヶ崎に受けいれさせることは可能かもしれない。いや、ことはもっと簡単かもしれなかった。わたしが身を退けば、遥菜は第一秘書に返り咲くだろう。彼女の希望はたちどころに叶う。パリヘも行ける。
けれどもその予定がどんなものであるか、おおよそ見当がつくだけに、なおさら遥菜を行かせるわけにはいかない。
脱税の共犯にはしたくない。
「駄目よ」と莉子は遥菜にいった。「秘書は、どちらかひとりが会社に残っていないと」
その言葉が遥菜を傷つけたかどうか、莉子には判らなかった。
ただ遥菜は、無言のまま両目を閉じた。失意のなか、運命をありのまま受けいれようとするかのように、静かにため息をついた。
やがて遥菜は目を開いた。真っ赤に泣き腫らした瞳がこちらをまっすぐに見つめる。つぶやくように遥菜は告げた。「いってらっしゃい、莉子」
莉子は黙ってうなずいた。そうするよりほかになかった。
遥菜に背を向けてリムジンに歩を進める、後部座席に乗りこむと、ドライバーがドアを閉めた。
なおも遥菜は立ちつくしたまま、こちらを見送っているようだった。表情はわからない。目を合わせるのが怖かった。
リムジンは走りだした。スロープに突入し、前方を上に向けて傾く。ほどなく外にでた。
陽射しはない。曇り空の下、都心には粉雪が舞っていた。降り積もってはいない。陰鬱なグレーの街並みだけが車窓に流れていく。
隣りに座っていた城ヶ崎がぼそりといった。「感心したわ」
「......なにがですか」憂鬱な気分で莉子はきいた。
「情にほだされて、遥菜を第一秘書に復帰させてと泣きついてくるかと思ったのよ。あなたはそんな意志薄弱な人間じゃないようね」
莉子は城ヶ崎の横顔を眺めた。城ヶ崎は前方に目を向けている。表情には、なんのいろも浮かんでいなかった。
城ヶ崎はいった。「泣きだしたりもしない。第一秘書はそうあるべきよ」
......涙を流すことが許されるのなら、とっくにそうしている。莉子は思った。いまは城ヶ崎の信頼を失うわけにはいかない。だから泣けない。それだけのことだ。
しばしの沈黙の後、城ヶ崎はささやいた。「莉子。『プラダを着た悪魔』知ってる? 映画じゃなくて小説のほう。『ヴォーグ』誌のアシスタントだったワイズバーガーが、実体験をもとに書いたって触れこみの」
「読みました。でもあれは、著者の実体験じゃないと思います」
「どうしてそう感じるの?」
「実話だとすれば、主人公が仕えていた相手は有名なカリスマ編集長のアナ・ウィンターってことになります。映画と違って小説では、主人公は編集長と激しく対峙します。でもアナ・ウィンター相手に、あんな口がきけるアシスタントがいるとは思えません」
「いまあなたが置かれた立場でそう実感できるのなら、わたしにとって喜ばしいことだわ。そのまま常識と節度を忘れずにいてほしいわね。わたしに対しては、必要なことだけ進言して。サポートを怠るのは秘書として無能の証しよ。いいわね」
「わかりました。肝に銘じます。でも......」
「......なに?」
「わたしはワイズバーガーとは違います。あなたもアナ・ウィンターではありません」
「そう。どういうところが違うの?」
莉子は何もいわなかった。
だが、無言でいることを気まずいとは感じない。答えはあきらかだった。アナ・ウィンターは脱税者ではない。ワイズバーガーもマルサの依頼を受けた密偵ではない。
ふいにリムジンが減速した。
汐留北の交差点を右折した先、リクルート東新橋ビルと日本テレビの社屋が見える片側一車線の車道で、リムジンは路肩に寄せて停車した。
粉雪の舞う歩道に、まるでタクシーでも待つかのようにたたずんでいた男が、にこやかな顔で近づいてくる。五十歳代、額は禿げあがり眼鏡をかけている。コートの下には地味ないろのネクタイとワイシャツ、スーツの襟がのぞいていた。革のカバンをさげている。一見、生真面目なビジネスマンといった風体に思えた。
男は後部のキャビンではなく、助手席のドアを自分で開けて乗りこんだ。ガラス製の間仕切り越しにこちらを振りかえって、愛想よく手を振る。
城ヶ崎は微笑とともにうなずいて、それに応えた。
「誰ですか」と莉子はきいた。
「高柳匠さん」城ヶ崎はいった。「古くからの知り合いよ。宝石商でね。金の鑑定については第一人者」
「......金ですって?」
「そう」城ヶ崎は腕組みをして、シートの背に深々と身をあずけた。「あなたは遥菜とは違う。第一秘書の本来の職務を委ねてもいいでしょう。社外秘にはいくつかの段階がある。編集部だけが関知していること。役員のみが理解していること。そして、社主だけの秘めごと。どれも会社にとって必要であれば守り通すのが義務。そこのところ誓える?」
「はい」
「結構。ならあなたにも秘密を共有してもらうわ」
編集長以外、不可侵の領域に同行を許された。そのことに期待感を持ち目を輝かせるべきだろう。莉子は努めてそんな表情を心がけた。
胸の奥に秘めた思いは、それとは真逆だった。核心に近づけば近づくほど冷静になっていく。忌むべき税逃れのからくり、隠し財産の行方、関与する人物たち。何もかも、じきに明らかになる。
長かった。でもすぐに終焉の時を迎える。
金の延べ棒
先方が指定してきた住所がどんな環境下にあるのか、城ヶ崎七海は知らなかった。品川区と大田区にまたがる大井埠頭を訪ねたのは、これが初めてのことだった。
窓の外に見えるのは、車道に連なるコンテナ・トラック。荷台に海運会社各社のロゴが入っていた。無機質な倉庫の外壁。それに、広場に山積みの錆びついたコンテナ。民家はなく、通行人はほとんど見当たらない。殺伐とした景色だった。舞い散る雪が一帯の寂寥感をいっそう高めている。運河を挟んで隣りあうお台場の華やかさとは対極的な眺めだった。
異様なほどの広大さを誇る埠頭に、ぽつんと建つ倉庫へとリムジンは向かっていった。その正面のスライド式の扉は、いま大きく開け放たれている。リムジンが乗りいれるのにも支障はなさそうだった。
ドライバーがへッドライトを灯し、リムジンは徐行しながら暗闇のなかに入っていった。
やがて目が慣れてきた。倉庫内は薄明るかった。そこかしこに裸電球がぶらさがっている。人影がいくつか見えた。こちらに歩み寄ろうとはしていない。
エンジン音が消えて、静寂が包む。ドライバーがやってきてドアを開けた。
莉子が先に降り立ち、城ヶ崎はそれにつづいた。
凍てつく寒さだった。屋根の下であっても、あれだけ大きな間口が開いていれば吹きっさらしも同様だった。東京湾からの海風がじかに流れこんでくる。奥に二台のトラックが停まっていた。床はコンクリート。天井は高く、一見して廃工場のようだった。
その印象は、壁ぎわにずらりと並んだ機械類のせいかもしれない。規模は小さいが本格的な機材のようだった。いまのところ用途は不明だ。スーツ姿の男たちが三人、その周りを右往左往している。常設されているものではなく、トラックの荷台から下ろしてセッティングしたらしい。その脇の一帯は、なぜかかなりの広さにわたって床にビニールが敷き詰められている。
三人とは別に、小太りの男がぶらりとこちらに近づいてきた。
チェック柄のセーターの上から白のジャケットを羽織っている。同じく白のエナメル靴は、この暗がりのなかでも光を放ってみえた。年齢は六十近いかもしれない。少しばかり猫背だった。前傾姿勢のまま、斜視で睨みつけてくる。鼻は低いというよりほとんど隆起しておらず、目も小さく顔の肉のなかに埋没していた。
醜悪な外見は本人の性格を卑屈にさせる。城ヶ崎は常々そう思っていた。よって、この男は信用できない。嘘つきの顔だし、いつも誰かを出し抜く機会を虎視眈々とうかがっているに違いない。
それが、須築倫太郎という男に対する城ヶ崎の第一印象だった。
資産家のあいだでは闇のブローカーとして存在が知られている。名前だけはきいていたが、これまで会ったことはない。この男に接触するのは最後の手段だと思っていたからだ。
いまとなっては、須築しか頼りにできない。彼が噂通りの男であれば、わたしの財産を極めて隠しやすい、コンパクトな体積の物体へと変えてくれるはずだ。
「どうも」須築はにやにやしながらいった。「こんなところにご足労いただいて恐縮です、城ヶ崎さん。そちらは......秘書のかたですかな?」
「そう。第一秘書の凜田莉子」城ヶ崎はそう告げてから、莉子に須築を紹介した。「金の取引仲介人の須築さん。出会ったことは記憶しないで。ここにも来なかったことにする。いいわね」
「心得ています」莉子はあっさりとそう答えた。
頼もしい返事だった。心強い。だが、いささか期待に沿いすぎているようにも思えてくる。
驚くべき知性を誇る莉子を味方に引きこめたことは喜ばしい。わたしひとりだけでは難局を乗りきれない。とはいえ、他方で疑問も生じる。あれだけ利口で利発な莉子が、わたしの違法行為に目をつぶり、あまつさえ積極的に力を貸そうとするだろうか。
最強の切り札か、あるいはジョーカーか。危険な賭けなのは承知している。しかし、もう迷っている時間はなかった。ここに同行させた以上、後には退けない。
リムジンのドアの開閉音が響いた。助手席の高柳が革のカバンを携えて、つかつかとこちらに向かってくる。
城ヶ崎は須築にきいた。「彼を知ってるわね?」
「もちろん」須築はいっそうの笑いを浮かべた。「金の純度を調べさせたら、右にでる者はいませんからね。高柳先生、ご高名はかねがね......。さすが城ヶ崎さん、素晴らしい人選ですな。高柳先生なら口も堅そうだ、金塊並みにね」
高柳はにこりともせずに告げた。「モノを拝見できますかな」
「いいとも。こちらですよ、みなさま」
須築は機材の脇に案内した。彼の部下とおぼしきひとりが駆け寄ってくる。辺り一帯に敷いてあったビニールの覆いを外した。
城ヶ崎は思わず息を呑んだ。
細長い床板のような物がびっしりと敷き詰められている。いずれも神々しい光を放っていた。一見しただけで、ただの黄金いろでないことがわかる。
誰もが言葉を失っているようすだった。沈黙を破ったのは高柳だった。「信じられん......すごい量だな。それにこの形状......。延べ棒を変形させたのか?」
「いえ」須築はかがんでいった。「純金を溶かして、この形の鋳型に流しこんだだけです。長さ三十センチ、幅十センチ、厚さ二センチの直方体にね」
そのうちの一本を、須築は重そうに持ちあげた。城ヶ崎に手渡してくる。
受け取ったとたん、外見上の印象をはるかにうわまわる重量がずしりと両手にかかる。莉子と高柳があわてたようすで手を伸ばし、下から支えてくれた。
三人がかりでようやく保持できるほどの重さ。城ヶ崎はその表面を眺めた。自分の顔が映りこんでいる。滑らかで、艶やかな表面。とてつもなく美しかった。いままで数々の芸術を目にしてきたが、造形でなく材質そのものに魅せられたのは、これが初めてだった。
「でも」城ヶ崎は須築にきいた。「どうしてこんな形に?」
ふんと須築は鼻を鳴らした。「それはJIS規格に沿った建築資材のサイズでね。建築に使われる銅板と同じ大きさなんです」
「銅板......」
「だから銅板建材として、工務店の包装紙にでも包んでおけば、純金だなんて誰も思いません。銅板はエコマテリアルとして重宝されてて、数もたくさん出回ってますからね。なんなら、ビルを建てちまえばいいんです。これだけの量があれば、三階建ての建材として使えます。マルサもビルの構造にまでは想像が及ばないでしょう」
......なるほど、秀逸なアイディアだ。奸智の働く者にしか浮かばない発想。須築のような男だからこそ実現しえたのだろう。
城ヶ崎は、莉子と高柳に指示した。「下ろすわよ。ゆっくり」
三人は慎重に、純金の直方体を床に這わせた。ほんの少し浮きあがった状態から手を放しただけでも、マンホールの蓋でも落としたかのような轟音と振動が体感できた。
須築は城ヶ崎にきいてきた。「いかがです?」
たしかに面白い。しかしそれは、これらすべてが本当に純金だった場合の話だ。
すぐさま城ヶ崎は連れに呼びかけた。「高柳さん」
高柳は、たったいま床に置いた純金板には目もくれず、敷き詰められた金の上をずかずかと歩いていって、真ん中のあたりでしゃがんだ。
任意の純金板を調べようとしているらしい。賢明な判断だと城ヶ崎は思った。本物と偽物が混ざりあっている可能性もあるからだ。
革のカバンから取りだされたのは、高柳の仕事道具の数々だった。特殊な秤に巻き尺、薬品の瓶、そしてデジタル回路系のような器具。
寸法や重さを計測してから、液体をかけてルーペで観察、さらに器具から伸びる二本の電極を金の表面に這わせ、数値をメモする。電卓で計算をおこない、その答えを書きこむ。
一か所が終わると、高柳は腰を浮かせて別の場所に移動し、また一枚の純金板を対象に同じ検査をおこなった。無駄口を叩かず、ひたすら作業に従事していた。
かなりの時間をかけて、十枚以上の純金板が検査された。ようやく高柳は立ちあがった。
「いや、素晴らしい」高柳は笑顔とともにいった。「無作為に調べてみたが、どれも純度百パーセントの本物。ここにあるすべてが純金に違いありません。まず疑いの余地がないでしょう」
須築は満足そうにうなずいた。「納得していただけで、なによりです」
「ただし」と高柳は眼鏡を外した。「表層についてのみの話です。固体の金は表面から十マイクロメートルまでしか調べられない」
「そうおっしゃるだろうと思って、用意しておきました。どれでも好きな純金板をひとつお持ちになって、こちらへどうぞ」須築は機材を指さした。
その中央はテーブル状になっていて、アームで支えられた巨大な注射器のようなものが、針を真下に向けて垂直に立てられている。針の先とテーブルの表面は数センチほど離れていた。
高柳が男たちの手を借りながら、一枚の純金板をテーブルに運ぶ。純金板は、針の下に寝かせられた。
須築が城ヶ崎を見つめてきた。「この大袈裟な装置は工業用レーザーでしてね。金を削ることなく、きれいにカットできるんです。どのあたりを切断しましょうか? 端から何センチとご指定くだされば、それに従いますよ」
内部まで純金かどうかを調べるには最適の手段だ。城ヶ崎はいった。「じゃあ左端から十二センチ。いえ。十二・六センチのところをカットしてくれる?」
「おおせのとおりに」須築は男たちに向き直り、指で合図した。
男たちは迅速に行動した。ひとりが定規を片手に、純金板の位置をセッティングする。ほかのひとりはジョイスティックを操作してアームを動かし、注射針のようなレーザー本体を移動させている。最後のひとりはコントロールパネルのスイッチをいれていた。
全員がテーブルから離れる。と同時に、注射針の先に青白い光が一瞬閃いた。
ジッという音。焦げるようなにおいが鼻をついた。たったそれだけで、切断は終了したらしい。男たちがテーブルに駆け寄る。
純金はまっぷたつに分かれていた。それぞれの断片はなおもかなりの重量があるらしい。男がひとり一枚ずつを手にし、機材を迂回してこちらに運んでくる。
城ヶ崎は彼らの手もとから目を離さなかった。この期に及んで、すり替えなどの姑息な方法で欺かれたのではたまらない。
間違いなくいまカットされたばかりの純金板が、その切断面をくっつけるかたちでワゴンに載せられ、城ヶ崎の目の前にしめされた。長さ三十センチの純金板の、真ん中よりも左寄りの位置が切断されている。焦げ跡ひとつない。最初からその形状であったかのように、きれいにふたつの直方体に分かれていた。
須築がいった。「高柳先生、どうぞお改めください。熱くもありませんからご心配なく」
高柳は指先をそっと切断箇所に這わせた。触れてもだいじょうぶだと確信すると、まず巻き尺を取りだして長さを測る。「左から......十二・六センチ。ぴたり指定どおり。たいした精度ですな」
それから切断箇所を左右に引き離し、切断面をルーペで観察する。スポイトで薬品を垂らし、電極をあてがう。
検査は左右いずれの切断面に対してもおこなわれた。鑑定家としての高柳は先入観にとらわれず、いかなるサンプルも徹底的に調べあげることで知られている。いまもやはり手を抜かず、念入りに純金か否かを確かめようとしている。
またかなりの時間が経過した。やっとのことで高柳は顔をあげた。
「間違いない、本物です」高柳は城ヶ崎に告げてきた。「切断面も表層とまるで同じ、完璧な純金です。この形状に精製するのに不純物をまったく混在させなかった技術力の高さに、敬服せざるをえません」
「すると」城ヶ崎は高柳を見た。「重量をそのまま金市場の相場どおりに換算すれば、それが資産価値ってわけね」
「そうです」高柳は床に広がる純金板を指し示した。「ざっと見たところ、城ヶ崎さんが......そのう、お隠しになっている財産と同じだけの価値を誇る、質と量だと思います」
須築がうなずいた。「そりゃそうですよ。お聞きした金額そのままの分量の金を用意しましたからな、取り引きは公明正大かつ公平でなければね」
高柳は唸った。「うーん。ただ、これらを現金に戻すときに、どうすればいいのか......。ふつう金の延べ棒というものは、誰が見てもそうわかる形状をしていて、純度の数値が打刻されています。そうでないと銀行も換金してくれないでしょう」
すると須築が肩をすくめた。「なに、心配ありませんよ。冶金工場で溶かして、金の延べ棒本来の形に戻せばいいんです。どの工場にも鋳型はありますからね、城ヶ崎さんご本人でも発注できます。その際に検定業者による品質保証の打刻を受ければ、立派に市場で通用する品になります。もちろん多少の費用はかかりますが、総資産額からすればたいしたことはないでしょう」
その辺りのことは、須築は面倒をみないつもりらしい。取り引き成立後、アフターケアに乗りだす気はないということだ。
望むところだと城ヶ崎は思った。こんな胡散臭い男と長くつきあいたいとは思わない。
「結構」城ヶ崎は須築にいった。「すべて純金と確認された以上、このまま受け取らせてもらうわ。いっとくけど、搬出作業中も片時も目を離すつもりはないから。すり替えなんてまっぴら」
「もちろんですとも」須築は紙片を取りだした。「ただし、持ちだすのは現金をお振りこみいただいた後ですよ。この場で送金手続きをしてください。着金を確認しだい、取り引き成立です」
「いいわ」城ヶ崎は紙片を受けとった。
そこには、銀行名と口座番号、口座名が記してあった。紙片を莉子に渡しながら、城ヶ崎は告げた。「わたしの個人口座にあるお金をぜんぶ、ここに振りこんで。いまからいう銀行の支店長に電話をかけて、わたしのいうとおりに指示なさい。番号は......」
すると、莉子がふいに遮った。「お待ちください。高柳先生。もういちど切断面の検査をおこなっていただけますか」
一同に沈黙が下りてきた。妙な気配が漂う。探るような視線が交錯しあった。
須築は面食らったようすだった。「なんです? 秘書のかたは何をおっしゃってるんですか? もう城ヶ崎さんも高柳先生も納得済みですよ」
高柳が仏頂面でうなずいた。自分の鑑定にケチをつけられるのは心外だ、そういいたげな表情だった。
だが城ヶ崎は、秘書を説き伏せる気にはなれなかった。
莉子がいうからには何かある。直感的にそう思った。
城ヶ崎はうながした。「高柳先生」
しばしの静寂の後、高柳はため息をつき、ふたたび道具を取りだした。「わかりました。あなたがそうおっしゃるのなら」
高柳は薬品を含んだスポイトの先を、純金板の切断箇所に差し向けた。
そのとき、莉子が厳かにいった。「そこじゃありませんよ」
「なに?」高柳は妙な顔をした。「しかしきみは、切断面を再検査しろと......」
「再検査じゃありません。初めての検査になるはずです」
意味がわからない。城ヶ崎は莉子にきいた。「どういうことなの?」
莉子は須築を見つめた。「さっき、この純金板をレーザーで切断したとき、どうしてその場ですぐに高柳先生に検査させなかったんですか。なぜわざわざ、ワゴンに移したんですか」
須築は口ごもった。「それは......だね、レーザーの下では危険が伴うし......」
「少し手前なり奥なりにずらせばいいじゃありませんか? そこにいる助手の人たちに運ばせたのは、場所の移動が必要だったからでしょう? 置き方を変える必要があったから」
「......あっ」高柳が声をあげた。「ま、まさか。ひょっとして......」
「そうです」莉子の声は落ち着いていた。「編集長の指示どおりに切断されたこの板は、見てのとおり左右ふたつにわかれています。左の物は長さ十二・六センチ。右の物は十七・四センチ。切断箇所はそのふたつのあいだ。そう見えます。でも違うんです。本来の置き方はこうです」
莉子は左右ふたつの板をつかみ、どちらもぐるりと百八十度回転させた。
城ヶ崎は、かつて経験した覚えがないほどの衝撃を受けた。
外見上は、さっきとまるで同じ。左十二・六センチ。右十七・四センチ。真ん中より左寄りを切断しふたつになっている。視界に映るものは、なにひとつ異なっていない。
けれども、切断面の検査という事情からすれば、あまりに大きな違いだった。理屈は単純だが、視覚的には強烈な錯覚だった。
張り詰めた空気に漂う静寂。莉子の声が響いた。「高柳先生がお調べになったのは切断面ではありません。板の両端だったんです」
「なんと」高柳は驚愕のいろを浮かべながら、本当の切断面に薬品を垂らした。ルーペでじっくりと観察する。
城ヶ崎は、須築の表情の変化に気づいていた。彼ばかりではない。助手の三人もひどく気まずそうな顔をしている。
やがて高柳が渋い顔をあげた。「なんてことだ......。純金は外側だけ。中身は合金。鉛に銅、そのほかさまざまな不純物を溶かしこんで、質量だけ金に近づけたしろものだ。おそらくは......」
高柳はワゴンを離れると、敷き詰められた無数の金属板を指さして怒鳴った。「これらすべてがそうだ! 合金の外側だけ純金でくるんでいる。さっき切断面と思って調べたところが純金だったのも当然だ。本来は両端、つまり外側だったんだから......。城ヶ崎さん、これはあなたの資産を奪おうとする罠だ!」
倉庫内にいっそう冷たい風が吹きこんでくる。温度が急激に低下し、全身が冷え切っていく。そんなふうに城ヶ崎は感じた。
「ご」須築は焦燥をあらわにした。「誤解だ! それは不良品で、ほかは本物......いや、もとい。偽物だったとしても、私は騙されただけなんだよ。工場がすり替えたんだ。私の純金を奪って、こんな合金を渡しやがった」
城ヶ崎は覚めきった気分で須築を眺めた。
この狼狽ぶり、饒舌ぶりは前にも見聞きしたことがある。嘘が発覚したときの雲伊そっくりだった。またしても詐欺師だったか。わたしの財産を付け狙う愚鈍な者たちによる、チープきわまりないペテンと策謀の数々......。
「と、とにかく」須築はへらへらと笑った。「城ヶ崎さん、取り引きはなかったことにしよう。お互い引き揚げて、何もかも忘れようじゃないか。私の悪評を振りまいたりはしないでくれ。いままでほかの取り引きでは、なんら問題なく......」
莉子がいきなり須築に早口でまくしたてた。「ほかの取り引き? 須築さん。純金を銅板建材に見せかけるなんて、なんの意味もないですよ。三十センチの銅板建材といえば、普通は屋根材に用いるんです。ビルの構造なんかじゃありません。金の重さを考えれば、屋根に敷き詰めたら家が潰れます。この形状にしたのは財産を隠す手助けのためじゃないでしょう。切断後、端が切断面かわからなくなるかたち、つまり直方体にする理由づけでしかなかったんです」
またしても莉子の説明は立て板に水のごとく、いささかもつけいる隙を与えないものだった。城ヶ崎は圧倒されていた。莉子は最初からこのからくりを見抜いていたのか。
須築は怯えた表情を浮かべていたが、逃げ場がなくなったと悟ったせいか、居直りに転じる態度をのぞかせた。「ああ、そうかい。で、どうしようってんだ? 警察に通報するか? お笑いぐさだな。脱税でマルサに睨まれて八方ふさがり、資産隠しの小細工を弄しようとしたら、詐欺に遭いかけたって? あんたには何もいえやしないよ。訴えることなんかできやしない。会社に戻って頭を抱えりゃいいさ」
城ヶ崎は思わず唇を噛んだ。
腹立たしい男。予想した通りのレベルの低さを露呈している。だが、須築のいったことは否定できない、こちらは手も足もだせない。むしろ脱税の事実を打ち明けてしまった以上、今後は恐喝目的に付きまとってくる可能性がある。
須築はにやついて莉子を見やった。「秘書のお嬢さん。あんたのほうも夜逃げを覚悟しておくことだな。俺たちの儲けをぶちこわしにした報いを受けなよ。社長ともどもな」
ところが、莉子は表情を変えなかった。むしろしらけたような顔で須築を見かえした。
「夜逃げするのはあなたのほうかも」
「......なんだと?」
莉子は携帯電話を取りだした。通話ボタンを押して、どこかの番号にかける。さっき須築から渡された紙片に目を落とした。
やがて莉子は電話に告げた。「判明した銀行口座をお伝えします。東京東和銀行、大井支店。普通口座、四八二六三七五。口座名義キタハラユウタ......架空名義ですね。本名は須築倫太郎さん」
それだけいうと、莉子は通話を切り、携帯電話をしまいこんだ。
須築は唖然とした面持ちで莉子を見つめた。「いまのは......? なにをした?」
「国税局査察部の人に、あなたたちの口座を教えました。金額が莫大でも、あなたたちのやってることはつまるところ一種の振り込め詐欺です。二〇〇八年六月に施行された振り込め詐欺救済法により、詐欺の疑いのある口座はただちに凍結されます」
「と......凍結だって!?」
「その驚きぐあいからすると、大勢の脱税容疑者をだまして得たお金は、ほかの口座に移さず一か所に集めたままのようですね。残念ながら今後、一円たりとも引きだすことはできなくなります。全額が国庫におさまるでしょう」
助手の三人の男たちが、おろおろと須築の周りに寄り集まっていく、ひとりが情けない声をあげた。「叔父貴......。どうすんだよ......」
須築は目を白黒させていたが、やがて決意したように告げた。「差し押さえられる前に引きだすんだ。銀行だ、急げ!」
いきなり男たちが駆けだした。須築はわき目も振らず彼らにつづき、トラックに乗りこんだ。トラックは急発進し、開放された扉のあいだを抜けて外に走り去っていった。
エンジン音が遠ざかっていく。静寂が戻ってくると、莉子は床の偽純金板を眺め渡した。
「あの人たちがどこの銀行に行こうと、手続きをしたとたんに警察が飛んでくるでしょう。逮捕は免れないでしょうね。こうして証拠品も置いていっちゃったし......」
すると高柳がカバンを抱きかかえて後ずさりした。「城ヶ崎さん......。私は何も見てません。何もきいてませんから......。し、失礼します」
高柳は身を翻して駆けていった。リムジンの脇を素通りして、扉へと走っていく。ドライバーが呆然として見送る。高柳の後ろ姿は、たちまち寒空の下に消えていった。
城ヶ崎は、莉子に目を戻した。
莉子はまっすぐに城ヶ崎を見つめかえした。
信じられない状況......。いや、本当にそうだろうか。
こうなることはわかっていた気がする。凜田莉子が、ただのおとなしい秘書であるはずがない。そう、彼女を同行させた時点で、リスクは承知していた。
わたしはそれについてどう思っているのだろう。わからない。衝撃があまりに大きすぎて、何も感じられない。
激震が襲い、何もかも失った。そこにも実感はない。以前と変わらない時間が流れている、そんなふうにも思えてくる。
けれども、その感覚自体、わたしが麻痺している証拠だった。すべては唐突に終焉を迎えていた。予想しえない幕切れだった。
もうわたしを煩わせるものはない。マルサも、会社も、家族も......。
そう思うと、いくぶん気が楽になった。城ヶ崎はつぶやいた。「感謝しなきゃね」
「なにをですか」と莉子がきいた。
「すべてを奪ってくれたことに」城ヶ崎は扉の外に目を向けた。「ここにパトカーでも来るの?」
「......いいえ」莉子は城ヶ崎を見つめてきた。「この場所は誰にもあきらかにしてませんから。それと、お渡しするものがあります」
莉子はハンドバッグから封筒を取りだした。ずいぶん厚みがあってかさばっている。
城ヶ崎はそれを受け取った。「何なの?」
「いままで四か月間にいただいたお給料です。お返ししておきます」
「給料って......」
「今後お支払いになるお金に、少ないですが足しにしてください」
「支払う? 何を?」
「税を逃れていたぶんです。修正申告してください」
城ヶ崎は面食らった。「なんですって?」
「過少申告については税務調査で何度も指摘を受けておられるでしょうから、当然ながら加算金が課せられますけど、それも含めて支払いに応じるんです」
こみあげてきた感情は憤りとは違う。ただひたすら混乱だけがあった。「何をいってるの? とっくにマルサに目をつけられているのよ。修正申告なんかで済むと思う? 認めた瞬間に所得税法違反で逮捕されるわよ。懲役刑のうえに罰金も科せられることに......」
「裁判の行方はなるにまかせるしかありません。すみやかに全額を支払って罪を認めれば執行猶予がつくことも考えられます」
「あなたはわかっていない! 数十億の脱税に対して、そんなに甘い判決がつくと思う? 家族も、社員も、みんな路頭に迷う。これは万引きをした子供の話とは違うのよ!」
「同じです」莉子はきっぱりといった。「万引きした子はお店に謝ったうえで、盗んだ物を返さなきゃいけません。あなたもそうです。不正に得たお金は返すべきです」
「現金じゃ足りなくなるわ。会社を大きくするために私財を投じてきたのよ。家族も、親戚も、幸せに暮らしてきたの。それを捨てろというの......?」
「捨てるんじゃありません。あなたが育ててきたものを絶やさないために、本来あるべき姿に戻るんです。城ヶ崎さん。家や土地を売ることになったら、家族の人はあなたを恨むかもしれません。でもそれは一時的なことです。それまでの暮らし自体、本当は存在しなかった幻想みたいなものだから......。会社だってそうです。あなたは社員に必要な給料を払っていなかった。みんなあなたが始めた雑誌に魅了され、あなたの会社で働きたがっていたのに......。あれは会社じゃなかった。あなたの作りだした幻にすぎなかった。経営が正常に機能して、社員のみんなが幸せになって、初めて会社となりえるんです。みんなはそれを承知で、本物の会社にしようと努力してきたんです。ステファニー出版が倒産し『イザベル』が廃刊になったら、みんなが賭けてきた夢が無駄になります。あなたは、みんなの思いに報いるべきなんです」
城ヶ崎は、莉子の切実なまなざしを無言で見かえした。
莉子はわたしを、編集長でなく城ヶ崎さんと呼んだ。秘書に雇って以来、初めてのことだった。彼女はもう、わたしの秘書ではないのだろう。
漂う静けさのなかで城ヶ崎はいった。「わたしに......身を退けってことね。会社を手放して、返済の義務をひとりで負えというのね」
「本来はあなたが独占すべき富ではなかったのですから......」
深く、長いため息だけが漏れる。城ヶ崎はささやく自分の声をきいた。「二十三歳の新米社員に説教されるなんてね」
「あなたに対して必要なことだけ進言する。サポートを怠るのは秘書として無能の証し。ここに来る前、あなたに誓わされたことです」
......違いない。莉子のいうことは、どうしようもなく正しかった。
けれども、わたしに来るべき運命を受けとめられるだけの勇気があるかどうか、いまだ判然としない。
甘えは承知のうえで、城ヶ崎はつぶやいた。「しばらく考える時間がほしい」
「......わかりました」莉子はそういうと、踵をかえして扉に歩きだした。
城ヶ崎は驚きを禁じえなかった。
「莉子」城ヶ崎は呼びとめた。「わたしを......まだ信用してくれるの?」
「もちろんですよ」莉子は振りかえり、微笑を浮かべた。「さようなら、城ヶ崎さん。ご指導いただいた四か月のご恩は、一生忘れません」
「これからどうするの?」
「本業がありますから......。飯田橋の仕事場に戻ります」
履歴書に前の職業として書いてあった、フリーランスの鑑定業のことか。廃業してはいなかったのだろう。
でもまだ別れには早すぎる。城ヶ崎はそう思った。「莉子。帰るならクルマで送るわ」
「いいんです。ここに来るとき、近くに八潮南のバス停が見えました。あそこから大井町駅にでて、京浜東北線で秋葉原、あとは総武線で飯田橋。都営バスは二百円、JRは二百十円しかかからないんですよ」
屈託のない笑顔を向けてくる莉子を、城ヶ崎は遠い存在のように感じていた。
わたしも、彼女の生きる世界に赴けば、あんなふうに笑えるだろうか。ぼんやりとそう思った。
それっきり、莉子は振りかえることはなかった。扉の外に歩きだした莉子の後ろ姿が、白ばんだ景色のなかに消えていく。寒空に舞う雪は、冬の蛍のようにおぼろに光を放ってみえた。莉子はそれらの光に包まれ、やがて見えなくなっていった。
新天地
年が明けて二月の中旬、穏やかな気候がつづいたせいか、都心の桜は早くも芽吹きの段階にあった。
朝九時。穏やかに晴れ渡る空の下、小笠原悠斗は千代田区富士見二丁目の住宅街に伸びる坂道を上って、いつもの職場を目指していた。
城ヶ崎七海関連の報道も落ち着きをみせ、マスコミの関心は九州新幹線の鹿児島ルート全線開通や、春からの小学五・六年生の英語必須化に移っている。
須築倫太郎が持っていた架空名義の銀行口座が凍結され、預金は全額が被害者らに返済された。脱税目的で須築を頼ったそれらの人々は、合金の外側だけを純金で覆ったしろものを、換金のために延べ棒に変えようと冶金工場に持ちこんでいた。そして精製された物を見て、初めて自分が資産を失ったことに気づいた。あのわずかに金を含んだ合金の延べ棒には、そんな成り立ちがあったのだった。
むろん、税を逃れていた人々には厳しい取り立てが待っている。城ヶ崎七海の裁判も年明け早々に始まり、今月の上旬に結審した。先週でた判決では、懲役二年六か月、執行猶予五年が申し渡されていた。罰金は高額で、億単位にのぼる。
彼女は隠し財産ばかりか、所有していた土地や建物などすべての資産を失った。それでも清算には足らず、自身が株の大半を持っていたステファニー出版を手放した。『イザベル』ブランドは競売にだされた。
小笠原は職場に着いた。坂を上りきるより少し手前、角川書店本社ビルの車両乗り入れ用スロープ沿いの歩道に入り、エントランスをくぐる。けさも出社する社員たちで賑わっていた。一月に角川映画を合併してから、この会社はいっそうの大所帯になっている。小笠原は受付にあいさつすると、エレベーターホールに歩を進めた。大勢の社員たちとともに、開いた扉のなかに乗りこむ。
上昇するエレベーターの内壁に貼りめぐらされたポスターの数々を、小笠原は眺めた。
まるで秋葉原のアニメイトかゲーマーズのようだと来客に評されることが多い、わが社の掲示物。いまも九割がたアニメ絵の宣材で埋め尽くされていた。『週刊角川』および文芸誌はそろって日蔭者扱いを受け、床に近い片隅に追いやられている。
だがそんななかで、視界に入りやすい目の高さという特等席に、イラストではなく本物の女性の顔写真があった。この世のものとは思えないほど洗練された美しいモデルの微笑。キャッチフレーズは簡素なものだった。『イザベル』リボーン。角川書店。その下に小さく Created by Nanami Jogasaki とある。
復刊する『イザベル』誌に、城ヶ崎は関与しない。裁判後、彼女がどこに住み、どんな暮らしをしているかはさだかではない。創始者に対する批判は少なくないが、いまだ多くの読者に支持されていることも、世論の声によって証明されている。わが社の経営陣もそれを認め、この表記をいれたのだろう。
小笠原は思わず微笑した。『イザベル』縦集部はきょう社内に発足するはずだ。あの絢爛豪華な世界がこの会社にどんな革命をもたらすのか、おおいに楽しみだった。
七階でエレベーターを降りる。通路の突き当たり、『週刊角川』のロゴが入ったガラス扉を押し開けた。
編集部に踏みいったとたん、荻野甲陽編集長の怒声が耳をつんざいた。「けしからんぞ! 報道の使命をなんだと思っている!」
唖然とするような光景がひろがっていた。それなりに余裕ある配置だったはずのデスクが、ほぼ限界まで隙間を詰めるかたちで壁ぎわに追いやられている。顔馴染みの編集員たちはみな迷惑顔で荷物を運んだり棚を移動させたりして、まさに引っ越しのようなあわただしさだった。編集長のエグゼクティヴ風の木目デスクも、熱帯魚の水槽ごと窮屈な混雑のなかに押しこめられている。
逆サイドに空いたスペースも、新たに運びこまれたデスクや事務用品によって着々と占拠されつつあった。それらの家具や調度品のデザインは、わが社においては会長室でしかお目にかからないぐらいの質の高さで、室内の殺伐とした内装とは相容れない。
美形で、しかも洒落たスーツを着た見慣れない女性社員たちは、すでにそのインテリアのミスマッチに気づいているらしい。パネルやオブジェなどの装飾品で壁を彩る作業を始めていた。
その手際をもっと眺めていたかったが、だんだん見えなくなりつつある。女性社員らの手によりパーティションが配置中だからだ。こちらと向こう、ふたつの編集部の境界に、しだいに壁が築かれていく。
呆気にとられて見物していると、同僚の宮牧拓海が、いつものごとくぎょろ目を剥きながら話しかけてきた。「おい、小笠原。すげえぜ。綺麗どころばっかし。掃き溜めに鶴とはまさにこのことだな。それも何十羽も飛んできた」
「どうなってる......? いったい何が始まったんだ?」
「俺もよく知らねえが、きちんとした部署ができてフロアが確定するまで、ここは『イザベル』の編集部と同居だとよ」
「マジかよ。あの間仕切り、あきらかに真ん中よりもこっち寄りだよな? 以前の『少年エース』編集部よりずっと遠慮がないな」
「まあな」宮牧は目を輝かせた。「けど俺としちゃ、あんなパーティションは取っ払って、大奥と併合してもらいたいよ。いっそのこと配置換えになってもかまわねえ。あんな美人のなかで仕事できるなら、ただちにこんなむさ苦しい中年男の巣窟からおさらばして......」
荻野の声が飛んだ。「宮牧!」
「あ、はい」宮牧はてのひらを返したように笑顔で向き直った。「ここにいます」
「窓を開けろ! 香水のにおいが臭くてかなわん。俺はマリー・アントワネットじゃねえぞ」
「わかりました、ただちに」宮牧はそういって窓ぎわに駆けていった。
小笠原はカバンを高く掲げて顔を隠しながら、パーティションのほうに歩いた。編集長の目にとまったら、憂さ晴らしに雑用を命じられるのがおちだ。
まだ間仕切りは完全に閉じられてはいなかった。境界に近いデスクに腰かけているのは、スーツ姿の男性だった。なにやら熱心に小瓶の蓋を開けては、中身を覗きこむように顔を近づけている。
風が吹きこんでくる。男性は顔をあげた。「おい、どうして窓を開ける? においが散ってしまうじゃないか。さっさと閉めてくれ」
聞き覚えのある声、そして見覚えのある横顔だった。小笠原は声をかけた。「菊原先生」
香水評論家の菊原琢磨は、眉をひそめてこちらを見た。その顔に笑顔がひろがる。「ああ、小笠原君! ひさしぶりじゃないか」
「単行本の発売元と一緒になって、お仕事がしやすくなりましたね」
「まったくだよ」菊原は立ちあがった。「きみらのところの社長さんや会長さんもたいしたもんだ。ステファニー出版の全従業員を再雇用するなんてな。編集部ばかりじゃなく営業部や販売部の人間についてもひとり残らず迎えて、角川グループ各社に編入してる。『イザベル』以外のステファニー出版の雑誌も、随時刊行予定だってよ」
「そうなんですか。ってことは、ここにいるのはみんな前からの『イザベル』誌のスタッフ......」
「知らなかったのかい? なら紹介するよ。きてくれ」菊原は歩きだした。「編集長は角川書店のほうの人事で、郡司さんって人だけど」
「それは承知してます。部署は違いますがうちの会社の上司なので」
「副編集長はステファニー出版の元社員なんだ」菊原は立ちどまり、奥に呼びかけた。「園部さん!」
女性社員たちが輪になってミーティング中だった。その中心人物とおぼしき存在が、こちらを振りかえる。
以前よりも高級感の漂うパフスリーブジャケットを着こなした園部遥菜は、小笠原に目をとめると、微笑みとともに歩いてきた。
小笠原はたずねた。「パリのオートクチュール・コレクションはどうだった?」
「莉子にきいたのね」遥菜はいった。「有意義だったわ。煌びやかで目を奪うようなショーの連続だったし」
菊原は肩をすくめた。「なんだ、知り合いだったのか。じゃ、ごゆっくり。僕は仕事に戻るよ。単行本の執筆があるなんて言い訳が通用しなくなっちゃったんでね」
そういって菊原が立ち去ると、遥菜が小笠原を見つめてきた。
自信に満ちたまなざし。以前とは輝きが違う。実際、遥菜は変わったのだろう。
去年、スターバックスで出会った園部遥菜はもういない。そのことを実感した。
小笠原はいった。「新天地へようこそ。出世したね。初心を忘れず希望を捨てず、最後まで諦めなかったがゆえの成果か。おめでとう、副編集長」
遥菜は意味深げな微笑をたたえた。「あなたもそうあるべきよ、小笠原さん」
「え? なにが?」
「最初に思い描いた理想を追うのをやめないで。でも、心してかかることね。凜田莉子は、高嶺の花どころじゃないから」
思わず絶句した小笠原に、遥菜は笑みを投げかけてきた。そのまま視線が逸れていき、遥菜は背を向けた。ふたたびミーティングの輪のなかへと遠ざかっていく。
職場は一緒になった。けれどもいまの遥菜の言葉は、別れを告げるひとことでもあったのだろう。遥菜は成長し、すべてをあるがまま正確にとらえていた。彼女自身の今後も、俺の胸のうちも。
アドバイスありがとう。小笠原は心のなかでそうつぶやき、踵をかえした。
境界を越え、スペース不足でひしめきあう『週刊角川』編集部に戻る。その喧騒のなか、すみませんと断りつつ人ごみを掻き分けながら、自分のデスクをめざす。
きょうも長い一日が始まる。彼女も店を開けたころだろう。きょうも彼女は、持ちこまれた鑑定品に慧眼を光らせる。あの笑顔に会いたくて、俺はまた店を訪ねるのだろう。毎日の繰りかえしのなかにも、さまざまなことが起きる。希望を信じて生きよう。運命は一秒ずつそのかたちを変えていくものだから。


万能鑑定士Qの事件簿 Ⅷ
台湾
のぞみにそっくり、というより、まるで同じに思える車両から抜けだすと、夜の高架ホームはこれまた日本の新幹線の駅にうりふたつだった。辺りは真っ暗で何も見えない。市街地の明かりも、遠く離れたところにある。
寂れた田舎というわけではない。エスカレーターを下りていくと、素晴らしく洗練された駅構内が広がっていた。モダンを通り越して未来的とさえ呼べるほどの美しさ。最新の設備が溢れ、デザインセンスも洒落ている。なにもかもが真新しく、光り輝いて見えた。
案内表示は漢字ばかりだが、壁面に大きく掲げられた看板には、馴染みの顔が採用されていた。嵐のメンバー五人がにこやかに冬の日本への観光を呼びかけている。
二月下旬というのに、夏物のスーツでも快適に過ごせる温暖な気候。肌に馴染んだ沖縄、八重山地方の環境と変わらない。距離的にもごく近いせいもあるが、これほど似通っているとは予想していなかった。湿度もたぶん、ほとんど変わらない。
長年にわたって竹富町議会の議員を務め、今年四十八になる嘉陽果煌は、初めて体感するこの土地の情緒を存分に楽しんでいた。国境を越えたというのに、なんだか妙な気分だ。まだ日本にいる錯覚にとらわれる。
連れの女性秘書、レディススーツを着こなした二十八歳の鳥堀彩花が告げたひとことが、その理由を端的に表していた。「知ってるお店ばっかり」
もうひとりの同行者は、石垣島出身にして東大の大学院工学系研究科教授にまで上りつめた三十九歳の男だった。カジュアルルックに身を包んだ添石慶人は頭を掻いていった。
「モスバーガーにヤマザキ、スタバにロイホですか。日本っぽいですね。コンビニシーサーなんてものがあるうちの近所よりずっと」
駅構内に並ぶテナントのひとつ、ロイヤルホストの看板には〝樂雅樂〟の文字がある。読み方は不明だった。簡体字の漢字を用いる中国本土より、もう一段むずかしい繁体字。それでも、どの案内板も英語が併記してあるためわかりやすい。
〝轉運站〟とあるのは Bus Station、つまりバス乗り場だった。その矢印と真逆の方向を指しているのは〝臺鐵〟TRAへの案内。在来線だった。
「いこう」嘉陽果は在来線のホームめざして歩きだした。「台中線は海岸に向かってる。各駅停車でも四十分ほどで海だそうだ」
彩花は歩調を合わせてきた。「さすが嘉陽果先生、頼りになりますね。初めての台湾だなんて思えないぐらい」
「旅行ガイドブックを読みこんできただけさ」嘉陽果は苦笑してみせた。「添石君も、前に来たことはないんだったな?」
「ええ」添石は自動改札の前で立ちどまった。オレンジと白の二色刷りの切符を両手でこねくりまわして、戸惑いがちにつぶやく。「ええと......どうやるんでしたっけ」
嘉陽果はため息をついた。「若くして水質調査の権威でも、台湾新幹線の乗り方はマスターできないのかね? 貸してみるさー」
受け取った切符を裏がえす。矢印が印刷してあった。その方向にスロットに挿入すると、すぐに切符が上部に突きだしてくる。引き抜くと、自動改札のゲートは左右に開いた。
添石はばつの悪そうな笑いを浮かべた。「どうも......」
「気にするな」嘉陽果は添石につづいて改札を抜けた。「本当のことをいえば、私もわからないことだらけだよ。この台中駅まで順調に来れて、ひと安心さ」
人通りの少ない、しかし掃除の行き届いた綺麗な通路に歩を進めながら、嘉陽果は思った。十年以上も前の竹富町議会の面々なら、こんなふうに手間取ったりはしなかったろう。
嘉陽果はいった。「沖縄カーフェリーが石垣島と台湾を結んでいたころは、議員は頻繁に出張してたってな。距離にしてたった二百八十キロなんだし、台湾に渡ったことがある議員が数人しかいない現状のほうがむしろ奇妙かもしれん」
「ええ」彩花がうなずく。「仕方ないですよね。十年以上前にフェリーの運航会社が倒産して、ずっと航路が途絶えてましたから」
「ああ。西端の与那国島からは、台湾島のシルエットがぼんやり見えるほどさ。なのにここ十年は、台湾に飛ぶにはまず逆方向の那覇に四百キロも飛んで、それからまた自分の住む島を眼下に眺めつつ台湾到着だろ。なんだか損した気分になるよな。時間がかかっても、まっすぐフェリーで台湾に向かいたいさー」
添石はにやついた。「あいにく僕は、ニンテンドー3DSで遊ぶのさえ酔い止め薬を必要とする軟弱男なんで。フェリーなんてまっぴらですよ。去年から事情が変わってよかったです。台湾の復興航空って会社も偉いですね。石垣島からのチャーター便を就航させるなんて。毎日、夜七時から一回だけってのが難点ですけど」
きょう、嘉陽果たちも仕事を終えてすぐ石垣島の空港に向かい、その便を利用した。プロペラ機ながら、わずか一時間二十分のフライトで台湾島の東岸、花蓮空港に到着。時差はちょうど一時間、腕時計を遅らせて午後七時二十分。そこから台北国際空港への国内便に乗り継ぎ、八時に台北駅で新幹線に乗った。
現在時刻は九時すぎ。ダイヤにいささかの乱れもなければ、台中駅の設計にも非の打ちどころがない。バリアフリーの通路をまっすぐに進んでいくと、やがて在来線の改札が見えてきた。切符の自販機も含め、これまた本土にあるJRの駅と似通っている。
駅員はひとりしかいない。乗客の往来も少ない改札前で、彩花がいった。「はあ。電車のない沖縄県民には堪えますね」
嘉陽果は肩をすくめた。「私たち石垣島周辺の人間にはな。那覇にはモノレールがある」
「でも開通してすぐのころ子供がドアにはさまれたら、乗客が全員でドアに駆け寄って力ずくでこじ開けたじゃないですか。那覇市民に電車はまだ早いですよ」
「こら、暴言を吐くな。みんなで助けるってのはいい話じゃないか」
あと一本で目的地。ゴールに迫るほど誰もがそわそわする。そんな旅だった。
嘉陽果は手帳を取りだした。行き先は、旅行本にも載っていないような小さな駅だが、旅程は花蓮空港の案内所で台湾人の職員に書いてもらった。『高鐵──台中站下車』とあるのは、ここまで来た道のりだった。高鐵は台湾新幹線のことだ。站という字は、〝ジアン〟と読み、駅を意味する。つづいて『汽車──終點。碼頭站下車』とあった。終點とは終点。いよいよ旅も終わりに近づいた。
添石は、壁の路線図に指を走らせると、その下端をぽんと叩いた。「ありました、ここですよ」
台中駅発の在来線はいくつかの支線に分かれていたが、そのうちのひとつの終着駅に、碼頭站があった。
彩花はこわばった笑みを浮かべた。「到着は十時前後でしょうか。向こうは起きてますかね?」
嘉陽果のなかに、もやもやしたものが漂いだした。意識せずにおこうと心にきめていた苛立ちや不安、焦燥の念が、また渦巻きだしている。
「寝てたとしても起こすさ」嘉陽果はつぶやいた。「自腹切ってお忍びで来てるんだ、誰にも咎められる筋合いはない」
夜の海
嘉陽果たちが乗った碼頭站行きの各駅停車は二両編成で、日本の通勤電車と同様にロングシートを備えていた。始発から車内はがらがらで、高齢者の乗客が何人か点在するだけだった。
終点までは七駅あるが、いずれも無人同然のホームで、乗り降りする客も少ない。辺りは暗く、街の明かりも駅付近に垣間見えるのみだったが、しだいにそれすらもなくなり、窓の外は真の闇に包まれた。
三人は会話もなく電車に揺られていた。
暇だな。嘉陽果はカバンから辞典を取りだして、目的地の駅名、碼頭という言葉を引いてみた。
碼頭......。日本語で埠頭、もしくは船着き場という意味。海岸近くの駅だけにそのまんまだな、と嘉陽果はひとりごちた。
小一時間が経過したころ、電車は減速を始め、終着駅のホームに吸いこまれていった。
ドアが開いた。海沿いゆえ、さすがに気温はやや低く感じられる。嘉陽果は彩花、添石とともにホームに降り立った。
なにもない駅だった。ペンキの剥げかけた木製のベンチと、その頭上を申しわけていどに覆う庇のほかに、ホーム上には何ひとつ存在しない。改札もなかった。駅舎らしき小屋も閉まっている。
階段を下りて駅をでると、彩花がつぶやいた。「わー。綺麗......。石垣の川平湾みたいですね」
椰子の木が風に揺れてざわめき、小さな波止場に係留されたボートが穏やかに上下する。広がる暗闇は台湾海峡だった。月はでていないが、ときおり海原がわずかにきらめいて見える。
外灯におぼろに照らしだされているのは、港を囲むように建ち並んだコンクリ製の平屋から成る集落だった。
台中駅から西南西に四十キロメートル。ここは台湾島の西岸のほぼ真ん中あたり、鹿港よりも南に位置する彰化県のはずれだった。観光地からも離れ、百人ほどがひっそりと暮らすささやかな漁村ときいている。
沖縄同様、台風の直撃を食らうことが多いこの島では、木造の住居をあまり見かけない。ほとんどの窓の明かりは点いていて、テレビの音もきこえてくる。幸い、この地域の住民にとってまだ夜更けは遠いようだ。
舗装されていない起伏の激しい小道を行くと、この集落のメインストリートが現れた。といっても。路地のような狭い道幅にほんの少しの人通りがあるだけだ。家屋の軒先に手を加えて、商店に改装してある。雑貨屋では店主らしき老人と、客の中年男が立ち話をしていた。当然ながら、なにを喋っているかはわからない。
嘉陽果はメモに目を落とした。用があるのは『蒜香小捲』だ。
すると、彩花が指さした。「あれじゃないですか?」
顔をあげると、老婦が中華鍋で炒め物をしている屋台が目に入った。暖簾に『蒜香小捲』とある。
緊張とともに歩み寄る。炎の立ちのぼる中華鍋の中身は、ショウガやニンニク、台湾セロリだった。そこにトウガラシがひとつかみ加えられ、醤油とゴマ油がかけられる。
老婦は手をとめて、こちらを見た。「你好」
嘉陽果は困惑を覚えた。台湾語は基本的に北京語と同じだ。添石を振りかえってきいた。
「話せるかい?」
「いえ」添石は首を横に振った。「中国語はさっぱりで......」
彩花もすかさずいった。「わたしもです。八重山方言を中国語っぽく喋るのは得意なんですけど」
なんの意味もない特技だ。ため息とともに、嘉陽果は老婦に向き直った。「あのう......私たち、日本から来ました。黄春雲って人を探してます。あなたに声をかけるよう、メールで指示をいただいたんですが」
老婦はなにもわからないようすで、眉をひそめてこちらを見かえした。
弱った。台湾では日本語の話せる高齢者も少なくないときくが、彼女はその限りではないようだ。訪ね人、黄春雲の北京語読みもわからない。
仕方なく、メモに書いてあった黄春雲という宇を老婦に指し示した。
とたんに、老婦がはっと息を呑んだ。
驚愕のいろとともに老婦は後ずさり、早口になにか喋った。
「ど」彩花がびくついたようすで告げた。「どうかされましたか?」
なおも老婦は、興奮したかのように現地の言語でまくしたてると、今度は短い笑い声を発した。それから身を翻し、屋台の裏にある平屋の玄関に駆けこんでいった。
取り残された嘉陽果たちは、その場にたたずむしかなかった。
添石が中華鍋を眺めてつぶやいた。「火、かけっぱなしだけど......」
鍋のなかの食材が焦げつきだしたころ、玄関先にひとりの痩せた男が姿を見せた。
開襟シャツに薄汚れたズボン、面長の顔は髭が伸びて、髪とつながってしまっていた。目だし帽をかぶっているかのようにさえ見えてくる。年齢は三十代半ばぐらい。想像していたより、ずいぶん若い。
男はじっとこちらを見つめると、やはり理解不能な台湾語でぼそぼそと話しかけてきた。
じれったく思いながら嘉陽果はいった。「私たちは竹富町議会の者で......」
すると男の声は、流暢な日本語に切り替わった。「ああ。するとあなたは、嘉陽果先生?」
「......黄春雲さんというのは、きみかね」
「そう。ここの呼び方じゃファン・チウンというけどね。どうぞよろしく」
「こちらこそ。日本語が達者だね」
「佐賀大学のほうに留学していたので......」
添石がいった。「佐賀大学? すると海洋エネルギー研究センター? この分野の研究で最先端をいく施設ですよ」
黄春雲は照れくさそうに苦笑いを浮かべると、控えめに告げてきた。「皮肉なもんですよ。提出した理論は大学から完全にシカトされましてね。研究が実を結んだのはこっちに戻ってからです。実験に成功しても、それを大規模に展開する方法がない」
嘉陽果は、高まりつつある期待感を抑えきれなかった。「早速で恐縮だが、拝見できるかね」
「ええ、もちろん」黄春雲はあっさりといって、歩きだした。「ついてきてください」
案内されたのは、すぐ隣りにある中規模の倉庫棟だった。やはりコンクリ製だが、老朽化している。外壁には縦横にひびが走っていた。レンガの屋根はあちこちで剥がれ、鉄骨が剥きだしになっている。
鉄製のスライド式の扉を横滑りに開けて、黄春雲がなかに踏みいっていく。嘉陽果たちも後につづいた。
暗闇のなかですぐに目についたのは、丸テーブルの上の小さなLEDランプだった。携帯電話が充電器に挿してある。こんな辺鄙な場所でも普通に電気がきて、電波が飛んでいるらしい。
辺りが明るくなった。黄が裸電球を点灯したからだった。
雑然とした光景が広がっている。埃まみれの実験器具、床を埋め尽くす無数の紙片。コンピュータのワークステーションはそれなりに組みあげられているが、ケーブルの束にうっすらと蜘蛛の巣が張っていた。
ほどなく、もうひとりの男が姿を見せた、やはり髭面だがこちらはスキンへッドで、つなぎの作業着を身につけている。年齢は黄とさほど変わらないようだ。黄が紹介した。「彼は林馮、私のパートナーです。で、サンプルですけど、ええと......どこへやったかな」
がらくたにしか見えない雑多な物が積みあがった山に、黄は歩み寄っていく。部品や機材、薬品のビンを次々と投げて排除していき、やがてひとつの物体を両手でつかみあげた。
「あった。これだ、これ」
嘉陽果は思わず絶句した。彩花と添石も同様のようだった。
しめされたサンプル品は、ロートあるいはジョウゴを大きくした物体だった。上部の円錐部分の直径は三十センチぐらい、その下に伸びる管は直径二センチ、長さ五十センチほどもある。材質はアクリルらしい。無色透明のスケルトン仕様で、なかがはっきりと見える。
管の途中に、白い繊維質のフィルターが存在していた。網目は非常に細かいようだった。泥水を流しこめば、ろ過されてそれなりに綺麗な水になるかもしれない。しかし......。
添石は管のなかのフィルターを見つめながら、しきりに首をひねった。「うーん......。こんな頼りない繊維を通すだけで。本当に可能でしょうか」
同感だった。疑わしい気分で黄を見やる。
黄春雲はけろりとしていた。「信じられないのも無理ないですね。そういう反応には慣れてます。実験にでましょう。百聞不如一見。お国の言葉では、百聞は一見にしかず。その目でたしかめてくださいよ」
ヨット
嘉陽果は彩花、添石とともにいったん波止場に戻った。黄は五人から十人乗りぐらいのヨットの帆を張り、嘉陽果たちを招いた。林馮が操舵し、一同を乗せたヨットは夜の海上へと出港した。
周囲には黒い海原が広がっている。黄は大きめのビーカーをひとつ、嘉陽果に差しだしてきた。「どうぞ。ここの海水は八重山諸島と同じく澄みきってます。綺麗ですよ」
彩花がまばゆいばかりの光源とともに、HDDカメラのレンズを向けてくる。この暗がりを照らす光のなか、彼女は実験の一部始終を記録する。嘉陽果はヨッ卜から身を乗りだし、ビーカーで海水を汲んだ。わずかに口に含んでみる。
......からい。当然だった。海水はそのままでは飲み水とはなりえない。脱水症状につながる危険もある。
黄がヨットの甲板で、アクリル性の大型ロートを垂直に立てて保持している。管の先には、もうひとつのビーカーが置いてあった。そちらのビーカーは、まだ空っぽだ。
嘉陽果は、自分が手にしたビーカーの中身をロートに注ぎこんだ。
透明なロートの内部、水が円錐から管に達する。フィルターを通って、床に置いたビーカーのなかに流れだす。彩花のカメラがそのようすを捉えている。添石も固唾を呑んで見守っていた。
やがて一滴残らず海水を注ぎ終わると、嘉陽果は早速、フィルター経由後の水が入ったビーカーを手にとった。
見た目は何も変わらない。黄のいうようにここの海水は綺麗だ。高い透明度も本来のものだろう。
不安を覚えながら、ビーカーを傾けて水を口に含む。
とたんに、嘉陽果の全身に衝撃が走った。気管が詰まり、思わずむせそうになる。
添石があわてたように嘉陽果の背中をさすりだした。「だいじょうぶですか!?」
「ば、馬鹿。よせ」嘉陽果は軽く咳こみながらいった。「飲んじまったじゃないか」
「飲んだんですか? 海水を?」
「いや......。これはもう海水じゃないさー」
「え?」添石は目を瞠った。「じゃあ......」
もういちどビーカーの水に口をつけてみた。間違いない。正真正銘の無味無臭。真水だった。
すぐさま添石がカバンを開けて、顕微鏡と屈折計を取りだした。ちょっと失礼、そういってビーカーのなかにスポイトを差しいれる。水を採取し、プレパラートに一滴こぼす。顕微鏡にセットして、甲板に置く。添石はうずくまるようにして顕微鏡を覗きこんだ。
嘉陽果がそれを見守っていると、黄がもうひとつのビーカーを差しだしてきた。「こっちが元のままの海水。比較してみるといいでしょう」
水分を乾燥させるのにしばし時間を要したらしい。やがて顕微鏡に見いっていた添石が顔をあげた。まさしく驚異をまのあたりにしたかのように、目を大きく見開いていた。
「真水です!」添石は興奮ぎみに怒鳴った。「まぎれもなく塩分が完全に除去されてる。......ちょっとお待ちください」
添石は海水のほうもスポイトでプレパラートに移した。成分の比較に入ったようだ。
たっぷりと時間をかけてから、添石は恍惚とした表情で告げてきた。「疑いようがありません。黄氏がお作りになったフィルターは、海水中にある三・五パーセントの塩分濃度を。〇・〇五パーセント以下に落としています。微生物や析出物についても、ほとんどろ過されています。海水淡水化を完璧に実現してるんです!」
高まる熱気のなか、常に冷静でなければと嘉陽果は自分にいいきかせていた。持ち帰るべきは、客観的事実だ。実験をもういちどおこなうことにした。それも、すべてを私自身の手で実施する。
からのビーカーで海水を掬いとり、それをロートに注ぐ。透明なロートの内部には、フイルター以外になんのからくりも存在しない。管から排出された水を、別のビーカーで受ける。その水の成分を添石が調べる......。
添石は笑顔を向けてきた。「何度やっても同じです。飲用に適した水質レベルですよ。このまま生活用水として使えます」
水質調査の権威が太鼓判を押した。もう遠慮する必要はない。嘉陽果はビーカーをジョッキのごとくあおった。ごくごくと飲み下す水は新鮮で、塩の辛味などいっさいない。まるでミネラルウォーターのようにまろやかな口あたりと喉ごしだった。
一気に飲み干すと、嘉陽果はようやくひと息ついた。
感慨とともに、思わずつぶやきが漏れる。「素晴らしい......」
照明が消えて、彩花がカメラを下ろした。彩花の目は潤みだしていた。「先生。ここまで来た甲斐がありましたね」
添石も興奮を禁じえないようすだった。「夢の技術ですよ。これまで海水淡水化には、巨大なプラントの建設が必要でした。東大と東レや日立製作所、三菱重工業、東芝など十七社の共同で、コストを大幅に圧縮した淡水化プラントを開発中ですが......。それでも建設予算だけで三十億円です。しかも、逆浸透膜という特殊なフィルターを用いたうえで、圧力をかけて海水の塩分を濃縮除去するという、大がかりな処理が必要なんです」
嘉陽果は添石にきいた。「福岡にある淡水化施設も、たしかその方法だったな?」
「ええ。とにかく設備が巨大なんですよ。海中の浸透取水施設から取水井取水ポンプ、膜ろ過装置、RO供給ポンプ、保安フィルター、動力回復タービン、高圧逆浸透装置、生産水槽、生産水ポンプ......。四万六千平方メートルもの敷地を持ち、総工費には四百億円強を費やしている。それぐらいの規模じゃないと、福岡市民の生活用水をまかないきれないからです。しかし、この方法なら......」
黄春雲がうなずいた。「施設は不要です。海からの取水管にフィルターを仕こめば、それだけで飲料水が供給できます」
「ききましたか!?」添石は目を輝かせた。プラント建設予算のめどが立たず、敷地も用意できなかった波照間島にとって、これほどの朗報はないでしょう。渇水問題には、これで終止符が打たれます。ずっと水不足に悩んできた島の歴史のターニング・ポイントですよ」
歴史のターニング・ポイント。その言葉が嘉陽果のなかで反響した。私は議員として革命を起こした。私によってあの島は変わる。希望溢れる未来が待っている。
だが......。気になることがある。私たちはまだ、技術の進化を目撃したに過ぎない。権利を入手できたわけではない。
嘉陽果は黄春雲に向き直った。「なあ......。黄さん。この技術を買わないかと持ちかけた相手は、私だけではないんだろ?」
「当然ですよ」黄はすでにロートをしまいこみ、片づけに入っていた。「世界各地で渇水問題の担当者になってる政治家だとか、民間企業の役員にメールを一斉送信したんです」
となると、競合相手は数限りなくいるわけだ。嘉陽果はきいた。「メールによれば、この淡水化フィルターの製造法と使用の権利を売却したいそうだが」
「特許をとっちまうと、フィルターの素材や特殊な多段膜構造を公表しなきゃならないんで、現在のところ門外不出の秘密にしてるんです。模倣が増えるのも困るんで、繊維の製法と化学式などデータをすべて、どこか一か所が独占使用できるよう売ろうと思いまして」
「競売かね......。するとうちに勝ち目はないな、金持ちの国が落札するだろう」
「いえ。公に入札を受け付けると、特許を取得してもいない権利の独占権を売るってのは、たいていの国で法律にひっかかりますからね。もしこの場で契約を決めてくれれば、あなたに譲渡してもいい」
嘉陽果は息を呑んだ。「それは......本当かね?」
「ええ。ここまで足を運んでくれた最初の人だからね。ただし、値は張りますよ、プラント建設ほどじゃないけど、開発にはかなりの金と時間を費やしてきたので」
「ああ......。そこは理解できているよ」
そうはいっても、悩むところだと嘉陽果は思った。私は議会を代表する立場にはない。ここへの出張も独断できめたことだ。
しかしこのまま帰ったら、たちまち別のクライアントとのあいだで契約が成立してしまう恐れがある。
熟考するうちに、ひとつの疑念が頭をかすめた。嘉陽果はそれを口にした。「黄さん。もし私が契約したとして、明日以降に別の誰かがあなたを訪ねたとしたら、どうする」
「そりゃもちろん、相手にしませんよ。独占契約だからね」
「とはいっても......。必死で食い下がってくるかもしれないだろう?」
「心配ないですって」黄春雲は微笑とともに目配せした。「屋台のおばあさんが知らぬ存ぜぬで通すから。明日もタヒチからフランス人が来るとメールを寄越してきたけど、彼は私には接触できません。保証しますよ。台湾人は嘘をつかない」
タヒチ在住のフランス人青年、ジェルヴェーボワールが台湾に派遣されたのは、北京語に精通しているからだった。目指すは鹿港の南、彰化県のはずれにある漁村だった。
午前十一時すぎ。終点の〝碼頭站〟で降車すると、すぐ近くに素朴な漁港を囲む集落が見えていた。
晴れ渡った空の下、台湾海峡の青い海が広がる。水平線の彼方にかすかに虹が浮かんでいた。椰子の木が生い茂る一帯に点在するコンクリ製の平屋建て。路地のような狭い道を抜けて、その中心部へと歩を進める。
いくつかの商店が軒を連ねていた。『蒜香小捲』という暖簾を掲げた屋台は、すぐに見つかった。
中華鍋が火にかけられているが、まだ空っぽだ。食材はその隣りに積みあげられている。ショウガ、台湾セロリ、ニンニク、豆、そしてイカ。
近づいてしばらくたたずんでいると、家の玄関から老婦がでてきた。「いらっしゃい。食べるの?」
「いえ」ジェルヴェは北京語で応じた。「人を探しているんです。黄春雲って人。ご存じですか」
老婦は、ちらと探るような目を向けてから、中華鍋を振りだした。「知らないね」
「へんだな......。この辺りでほかに蒜香小捲をだしてる店は?」
「うちだけだよ」妙に磨れた物言いで老婦はつぶやいた。「あんた、どこから来たの?」
「タヒチです。フランス領ポリネシア。パペーテってところで観光局に勤めてます。そのう......タヒチにはランギロア島という人気のリゾートがあるんですが、そこはいつも雨が少なくて。いえ、晴れの日が多いのは結構なんですけど、水不足が深刻なんです。自然が売りものなので、海水淡水化プラントを建設できるはずもないですしね」
「なんの話してんの?」
「いや、ですから、政府のほうもランギロアの水不足をなんとか解消したいと考えてまして。こちらにお住まいの黄春雲さんって人が、画期的な淡水化フィルターを開発したというメールをいただきまして......。正直、眉つばという意見もあったんですけど、いちおう実情をたしかめたいってことで、私が派遣されたわけでして」
「ふん」と老婦は鼻で笑った。
「ど、どうかしたんですか......?」
「いえね」老婦は中華鍋にゴマ油を注ぎこんだ。「あんたの前にも外国人が来て、同じことをきいてきたりしたけどね」
「ああ、やっぱり世界じゅうに競争相手が......。なんとか会えませんかね。ほかに先を越されるわけにはいかないんです」
「だからいってるでしょ。黄春雲なんて知らないよ。海水どうこうってのも、まるっきりわけわかんない。メール一通でここまで足を運んだのかい? ご苦労さまだけど、あんた担がれたんじゃないのかい?」
担がれた......だまされたということか?
ありえなくはない。いや。こんな田舎の集落で世界を変える大発明など、まさしく夢物語にちがいない。
実地を訪ねた今だからこそ確信を持っていえる。政治家のもとに送りつけられたメールは、ただの悪戯。そう解釈するのが適切だった。
思いがそこに及んだとたん、旅の疲れからへたりこみそうになった。項垂れて深くため息をつく。
ジェルヴェは思わず愚痴った。「十二時間も飛行機に乗ってきて、またとんぼ返りか......」
老婦が真顔でいった。「あんた、ハローキティ知ってる? いとこの雑貨屋でキティいっぱい売ってるよ。お土産に買ってったら? ここまできた甲斐があるでしょ」
「ないですよ。キティなら、隣りの日本に行きや腐るほど売ってるじゃないですか」
「いや。キティは腐らない」
「まあ知ってますけど......。はぁ。それ、ひとつくれますか。腹減ってるんで」
皿を受け取り、慣れない箸を手にとる。風に揺らぐ椰子の木が恨めしかった。いっそのこと、経費で日本にでも寄っていくか。いまの季節はとても寒く、ストーブなしでは暮らせない時期だというが、構わない。心はすでに冷え切っているのだから。
東京の朝
ストーブが壊れた。買ってわずか二日で点火しなくなるとは、やはりディスカウント・ショップの品は信用できない。
身長百七十センチ強にして体重わずか三十八キロ。二十代半ばの男としては異様といわれるほど痩せ細った崎沼隆一にしてみれば、この朝の冷えこみは南極に等しい。これでも笹塚のライブハウスでギタリストを務めているときには滝のような汗をかくが、指先がかじかむような寒さのなかでは楽器を練習する気もおきず、従って身体はまるで温まらない。
セーターにデニムだけでは凍えてしまいそうだ。毛布を取りはらってソファから抜けだすと、ウィンドブレーカーを取りだして羽織った。
そのとき、消えたままのストーブの前で箱座りをしている黒猫が目に入った。
「ヨゾラ」崎沼は穏やかに声をかけた。「けさはそこにいても無駄だよ。あったかくないだろ?」
しかし、ヨゾラはぼんやりとした顔でこちらを見あげるだけだ。冬毛になって身体全体が膨らんでみえるヨゾラは、崎沼よりずっと温かそうだが、そのぶん室内温度の低さに気づきにくいのだろう。
仕方がない。電気代はかかるが、あれをだすか。クローゼットの戸を開けて、古い電気ストーブを引っ張りだす。プラグをコンセントにつないで電源をいれた。ヨゾラはすぐさま気温の変化を察したらしく、電気ストーブの前にすり寄っていった。
「あまりくっつくと危ないよ」そういいながら崎沼はふと、この猫の飼い主のことを思いだした。
そういえば、きょうはまだエントランスを駆けだしていくブーツの音をきいていない。午前八時をまわっているのに、出勤しなくていいのだろうか。
いちど気になりだすと、ほうってはおけなくなる。崎沼はスニーカーを履くと、扉を開けて廊下にでた。
エントランスのすぐ脇にある一〇一号室。親が所有するマンションの管理人を務めるがゆえに与えられた部屋だった。フリーター同然の俺には、もったいないぐらいの環境にちがいない。
住人用の郵便受けを見やる。三〇二号室の札の下に、封筒が挿しっぱなしになっていた。
おかしいな。ゆうべは帰宅していないのだろうか。
そう思って三階に上ろうとしたとたん、エレベーターの扉が開いて、くだんの彼女が飛びだしてきた。かじりかけのトーストを手にしている。「わあ、遅刻じゃん激やば......って、管理人さん。おはようございます」
ダウンコートを羽織っていても着膨れ感のない、ほっそりとした身体つき。腕も脚も長いモデルのようなプロポーション。カラフルなフェルトステッチのマフラーが、ゆるいウェーブのロングヘアに縁取られた小顔に絶妙にマッチしている。大きくつぶらな瞳はヨゾラ以上に猫っぽかった。可愛いというより綺麗という形容が当てはまる美人顔で、すましてさえいればクールで個性的な印象を漂わせる。
ただし、けさの彼女はそんな長所をみずからかなぐり捨てていた。慌てふためくさまは女子大生、いや女子高生のそれに近い。とても二十三歳の社会人とは思えなかった。
「ああ」崎沼はいった。「おはようございます。郵便届いてますよ。知ってた?」
「え? そうなんですか。気づかなかった。きのうは疲れてて、まっすぐ部屋に帰って寝ちゃったから」
凜田莉子はトーストをくわえたまま郵便受けに向かいかけたが、ふと何かを思いついたかのように、静止して振りかえった。
「管理人さん」莉子は黒目がちな瞳でじっと見つめてきた。「二日前に買ったストーブ、もう壊れちゃったんですか?」
「な......なんでわかるの? 故障はついさっきのことだし、ストーブを買い換えたこと自体、話してなかったはずだけど......」
すると、莉子はにっこり微笑んだ。「おとといから表に石油ストーブの粗大ゴミがでてるじゃないですか。このマンションは石油ストーブやファンヒーターを禁止してるから、だしたのは住人じゃないでしょう。可能性があるとすれば管理人さんの部屋だけ」
「あー、なるほど。でも、新しくストーブを買ったとは限らないでしょう?」
「丸二日、ヨゾラが遊びにいったまま帰ってこないんで......、一〇一号室に室外機はないからエアコンでもないし、管理人さんの服に猫の毛がついていないからコタツでもない。またストーブを買ったとしか思えないんです」
「どうしてそれが、けさ壊れたと......」
「このにおいですよ。ニクロム線に積もっていた埃が、赤熱によって焦げる独特のにおい。きのうまでは無臭でした。けさになって、物置きから古い電気ストーブを引っ張りだしたんですね。ヨゾラが甘えたせいですか? ご迷惑おかけして、ほんと申しわけありません」
「いや......。いいんですよ。猫は好きだし。しばらく預かっていたせいで、すっかりなついちゃったみたいでね」
「優しいんですね......管理人さん。そのうちお礼を持ってうかがいます。じゃ、けさは急ぐので」
そういって外に駆けだそうとした莉子の背に、崎沼は呼びかけた。「待った。郵便......」
「あ」莉子は振りかえり、郵便受けまで戻ってくると、ようやく封筒を引き抜いた。笑顔で頭をさげると、莉子は妙に元気な声をエントランスに響かせた。「いってきます!」
「は......はい。いってらっしゃい......」
トーストをぱくつきながら駅方面に走りだした莉子の姿は、すぐに表通りの往来のなかに消えていった。
崎沼は呆然とたたずんだ。
とんでもない鋭さを発揮したかと思えば、どこか天然っぽいところもある。ふしぎな女性だった。大人の余裕を覘かせながら出勤することも多いのに、トーストをくわえて駆けだしてくる朝もある。とらえどころがないぶんだけ、気がかりで仕方なくなる。まさに猫のようだった。
それにしても......寒いな。崎沼は身を震わせた。きょうも管理人室に籠もって一日を過ごすか。ヨゾラとともに。
通勤ラッシュの時間帯で混みあう京王線で新宿にでると、JRに乗り替えて総武線で飯田橋へ。駅前からは川沿いに五分ほど歩く。
もう開店の時刻を過ぎている。凜田莉子は歩を早めて、神田川と外濠が交わるあたりに建つ雑居ビル一階のテナント、万能鑑定士Qの店へと急いだ。
都心の空は晴れていた。ようやく春の兆しが感じられる朝を迎えている。空気も澄んで清々しく、極めて過ごしやすい。身体の隅々まで沁み渡ってくるようなこの寒ささえなければ最高なのに。
店の前まで着くと、閉じたシャッターの前にたたずむ女性の姿が目に入った。年齢は三十代半ば、スーツ姿ではなく、フェイクファーのフード付きモッズコートにデニム、スニーカーというカジュアルな装いだった。荷物は紙袋ひとつだけ。ごく近所に住む専業主婦の可能性が高い、莉子はそう思った。
莉子はシャッターに駆け寄った。「お待たせして申しわけありません。いますぐ開けますので」
「あ」女性はこわばった笑みを浮かべた。「だいじょうぶですよ、そんなに急がなくても......。ちょっと鑑定してもらおうと思っただけなので」
「どんな物をお持ちですか」と莉子は女性を振りかえった。
女性はおずおずと、紙袋のなかに手をいれた。つかみだされたのは、三体の人形だった。リカちゃん人形。それなりに年季も入っている。
「......これなんですけど」女性は遠慮がちにいった。「うちの五歳の娘が、この三つに限ってなぜかすごく毛嫌いするんですよ。ほかにもリカちゃんハウスとか、親戚からたくさんプレゼントされた物があって、どれもたいせつにしてるんですが......。これらは混ぜておいても、娘が選り分けてごみ箱に捨てちゃうんです」
「ごみ箱に?」
「そうなんです。親戚に悪いから、やめるようにいいきかせているんですけどね。ええと......。こんな玩具を持ちこんだりして、ご迷惑でしょうか」
「いいえ」莉子は笑ってみせた。「どんな物でも歓迎ですよ。それに、娘さんがこれらの人形に馴染まない理由もあきらかです。東南アジア製の偽物だからです」
「偽物!?」女性は三体の人形を眺めまわした。「ほんとですか。こんなによく出来てるのに......」
「目をよく見てください。どのリカちゃんも、まっすぐにこちらを見てるでしょう?」
「ええ......」
「本物のリカちゃんは、視線を前に向けてはいないんです」
女性は驚きのいろを浮かべた。「そうなんですか?」
「リカちゃんやキューピーなど女児向けの人形の瞳は、目線を外して描かれています。小さなお子さんは目をじっと見つめられると、敵意や恐怖を感じるらしいです。フィリピンやインドネシアで作られた偽物は、このようにまっすぐ前を見ています。お子さんたちにはきわめて不人気です」
「......そうでしたか。親戚は祭の出店でも買ったりしてたみたいですけど、まさか偽物だったなんて」
「娘さんがごみ箱に捨てたのは直感的な嫌悪を覚えてのことでしょうけど、実際、処分したほうがいいですよ。最近のリカちゃん人形は、ポリ塩化ビニルに含まれる可塑剤が非フタル酸系になっています。揮発による健康被害を防ぐためです。でもこの人形はそうした配慮もなされていないと思います」
女性の表情が和らいだ。「娘のほうが正しかったわけですね。わかりました、親戚に返します。それと、お代のほうですが」
「こんな助言でお金をもらっちゃ申しわけないです。また次の機会にも是非」
「まあ! サービスしていただけるんですか。本当にありがとうございます。なにかあったら、真っ先に持ってきますわね。それでは......」
何度も頭をさげながら、女性は笑顔で遠ざかっていった。
こんな依頼がほとんどよね。莉子は苦笑しながらシャッターに向き直った。把っ手を握って上方に開け放つ。
狭い空間ながら、可能な限り内装をスタイリッシュにまとめるために、デザインにはシンプルモダンを採用していた。艶消しのアルミとガラスを使った無機質でシャープな印象の家具で統一してある。わずかに青みがかった透明なデスクに黒革張りの椅子、客用のソファが数脚。小物を飾ったキャビネット。いずれも安く済ませるためにイケアで買ってきて、自分で組み立てた物だった。かかった費用を考えれば上出来だろう。
手にした封筒を置いてデスクをまわりこんだとき、自動ドアが開いた。
すっかり耳に馴染んだ、男性の控えめな声がする。「おはよう。朝一で済まないけど、僕も鑑定してもらいたい物があって」
莉子は笑った。「氷室さん。きょうはずいぶん早いですね」
年齢はやはり三十代、スマートな体型の持ち主だった。着崩したスーツはブランド物らしい風格が感じられる。物腰はしなやかで、歌舞伎の女形のようでもあるが、くつろいだ態度のせいか愛嬌ものぞかせている。それが氷室拓真という男だった。
氷室は入店するや、瞬間強力接着剤の容器をデスクに投げだした。「買ったばかりなのに、くっつきが悪い。なかで固まっちゃってるし」
手に取るまでもない。莉子はいった。「早稲田大の先進理工学部、応用物理学科の准教授さんに、理由がわからないはずないでしょう? 瞬間接着剤は保管中にもみるみるうちに劣化しちゃうんですよ。未開封のままの常温保存でも一年ていどで固化」
「ご名答」氷室はにやりとした。「買うときに製造年月日をたしかめるべきだったよ。なぜ販売店はこの手の品物を、冷蔵庫で保存しないのかな。常温以下なら接着力の劣化を抑えられるのに」
「研究室の実験用に購入したんですか?」
「いや。友達の結婚式用にね」
「結婚式?」
「スピーチを頼まれたから小道具に使ったんだよ。新郎が接着剤の製造元に勤めてるから、それにちなんでね。新郎新婦のフィギュアを抱き合うかたちに接着してから、こういうんだよ。二度くっついたら離れない」
莉子は笑顔が凍りつくのを感じた。あまり趣味のよい出し物ではないのでは......?
疑問を口にする代わりに、莉子は質問した。「スピーチには、この接着剤を使ったんですか」
「そうだよ。くっついたことをしめそうと、釣り竿に吊ったフィギュアを振りまわしたら、たちまち離れてしまってね。新婦のフィギュアがびゅーんと飛んで、ウェディングケーキに頭から突き刺さった」
「最悪ですね」
「まったく。新婦の父親は激怒するし、母親はパンをひっつかんで投げてくるしで大変だった。それもフランスパンだよ。ありゃ硬くて、当たるとかなり痛いな。知ってたかい?」
「パンを投げられた経験はないので......」
「そうだよな。いまだに額がひりひりするよ。おや、その封筒は?」
氷室がデスクの上を指さした。さっきマンションの郵便受けから引き抜いてきた封筒。まだ差出人をたしかめてもいなかった。
だが氷室が興味をしめしたのは、まさしくその差出人欄のようだった。沖縄県石垣市美崎町十一番地。竹富町議会事務局とある。
「あっ」莉子は封筒を手にとった。「議会からだ、なんだろ」
「きみはたしか、故郷の渇水対策に寄付をしてたな? その御礼状じゃないのか」
たぶんそうだろう。それ以外に議会に関わりはない。格式ばった書面にすぎないにしても、地元からの手紙には心が躍る。
わくわくしながら封筒を開けた。なかには、折りたたまれた一枚の紙が入っているだけだった。
開いてみると、ワープロの文字が整然と並んでいた。
向春の候、皆様におかれましてはますますご健勝のこととお慶び申し上げます。
波照間島渇水対策に際し募金を賜り、誠にありがたく、心よりお礼申し上げます。
この度、同島の生活用水供給につきまして問題解決のめどが立ちました故、ご報告させていただきます。なお、このお手紙をもちまして、渇水対策募金につきましては終了をご案内させていただきたく存じます。
かかる短期間に悲願を実現するに至りましたのも、ひとえに皆様のご支援とご愛顧の賜物と深く感謝しております。
このうえは、竹富町議会議員一同新たな気持ちで、より一層の精進を重ねる決意でございます。何卒倍旧のお引立てを賜りますようお願い致します。皆様が、良き春をお迎えになりますようお祈り申し上げます。
莉子は唖然としてその文面に見いっていた。
「どれ」氷室が手紙を覗きこんできた。「なになに......。問題解決のめどが立った? 募金も終了? すごいじゃないか。きみの努力が実を結んだね」
喜びの感情は湧かなかった。戸惑いと憂いが莉子のなかに広がっていった。「解決って、そんな......。つい先日にも、いままでの募金総額が海水淡水化ブラント建設に必要な額の〇・一パーセント未満って発表してたのに」
「ほかの方法でも見つかったのかな? いちおう淡水化の施設は、波照間島に建設してあったんだろ?」
「ええ。でもあれは海水を真水にできる仕組みじゃなかったし......雨が少なすぎて、湧水をトラックで施設まで運ぶありさまだったんです。あれを改造しても海水の処理はできません」
「竹富島みたいに、海底の送水管を石垣島から引くことになったとか」
「無理ですよ。距離が全然違います。最南端の波照間島だけが突出して離れているんです。送水管を引くにはプラント建設以上のお金がかかっちゃいます」
「ふむ」氷室は顎を撫でまわした。「妙だな。タンカーで生活水を運ぶとか、当座を凌ぐ計画が開始されただけじゃないのか」
「悲願を実現するに至った、って書いてあります。渇水問題が根本的に解決したって意味でしょう。変ですよね......。たとえ巨額の費用が集まっても、海水淡水化プラントは環境破壊になるから建設できなかったはずです。募金はあくまで、小さな一歩であっても前に進むためのものだったはず」
「問題をたちどころに解決する、新しいテクノロジーでも開発されたのかな」氷室の目が輝きだした。「これは興味深い。科学者としちゃ見過ごせないニュースだよ」
莉子の気分は高揚するどころか、胸騒ぎを覚えるばかりだった。
不可能が唐突に可能になった。夢が実現した。事実ならば、これほど喜ばしいことはない。けれども、嫌な予感がする。新聞にも科学雑誌にも、そんな魔法が現実になったという報道はない。もし議会が幻にとらわれているにすぎないとしたら......。
旅立ちの日
『週刊角川』編集部はこのところ妙にあわただしかった。年度末が近いせいもあって、各部署の成績が取り沙汰される昨今、編集長は毎日のように取締役に呼びだされている。
ゴシップを売りにしない、スクープのみを追いかける方針の『週刊角川』は、世間にこれといったニュースがない時期には部数も伸びず、停滞する運命だった。うちの雑誌が売れないのは平和な証拠。喜ぶべきか悲しむべきか。入社四年目、二十六歳の小笠原悠斗はため息をついた。
並びのデスクにおさまっている同期の同僚、宮牧拓海も頬杖をついてため息を漏らしている。
ただし、この男の憂いは雑誌の未来を思ってのことではないはずだ。いつごろからか宮牧のデスクは、小笠原が名前を覚えきれない女性アイドルグループの写真でいっぱいになっていた。宮牧は、彼女たちのグラビア特集を編集会議で提案することさえあったが、編集長の逆鱗に触れて却下された。その後も宮牧の〝病〟の症状は和らがない。
宮牧は虚ろなまなざしを小笠原に向けてきた。ぎょろりと目を剥いて見える、大きすぎる眼球のせいでその顔はいっそう危なく感じられる。
「なあ......。小笠原」と宮牧はつぶやいた。
「なんだ」
「この写真に写ってる子なんだけど」
「またその話かよ......」
「彼女もさ、実際に生きている人間ってことは、今もさ、今この瞬間も、どこかにいて、何かしてるんだよな......。何してるんだろうな、な?」
「知らねえよ。そりゃどっかにいて仕事してるだろうよ」
「ここ数日はレコーディングの合間の時期で、オフが多いそうだぜ......」
「なら男といちゃついているかもな」
「なんだと」宮牧は食いいるような目で小笠原をにらみつけてきた。「冗談でもいっていいことと悪いこととあるぞ」
「スケジュールは俺よりおまえのほうが詳しいだろ。いい歳してファンクラブなんてものに入ってるんだからよ」
「......それがな、小笠原。半年間に六千円も払わされるわりには、会報とかいう印刷物が二回ぐらい送られてくるだけでな。かえって距離を感じるようになっちまった」
「六千円でお近づきになれるとでも思ったかよ。現実に目を向けたらどうだ」
宮牧はむっとした。「そういうおまえはどうなんだ。二十代も後半に差しかかってるってのに、現実の彼女とかできてんのか? まさか凜田莉子さんとつきあってる気でいるんじゃないだろうな」
「な......何いってんだよ。凜田さんとは......そのう。よき友人であり......」
「園部遥菜さんがいってただろが。凜田莉子さんは高嶺の花どころじゃないぜ。おまえにどうにかなる相手じゃねえ」
「きいてたのかよ。欲望が満たされないからって俺に八つ当たりはよせよ」
「はぁ」宮牧はまたため息をついた。「ひとつ年上なだけなのに、園部さんはもう編集長になって、新しいビルのワンフロアで『イザベル』をまわしてやがる。それにくらべて俺たちは何だろうな。金と権力のない男ほど情けねえもんはねえな、日々痛感するだろ? え?」
「俺はべつに......」
「こっちの何倍もの年収を稼ぐアイドルが引退して結婚して、幸せな家庭を築くいっぽうで、俺らみたいなもんはヒラで独身のまま定年を迎えたりするかもな。冗談じゃねえぞ、おい」
「どうして俺とひとくくりにしようとするんだ。そう悲観的になるなよ」
「他人ごとだと思ってるのか? おまえだってわからねえぜ。凜田さんはそもそも、島の渇水問題を解決したくて上京したんだろ? なにか地元で対策が講じられるか、あるいは無理とあきらめるかして帰郷しちまうことも充分考えられるだろ」
一瞬、言葉に詰まる。動揺を覚えながら小笠原はいった。「帰郷だなんて。そんな急に......」
「なにごとも発生するときは急なもんだ。いきなり状況が変わったりするんだぜ。いいほうに転ぶのを期待したいもんだけどな」宮牧はそういって、またアイドルの写真に見いりだした。
本気で取り合ったのでは身が持たない。聞き流すにかぎる。いつもそう思ってきた。ところがいまは、妙に胸にひっかかる。
小笠原は受話器を手にとった。万能鑑定士Qの番号をプッシュする。
呼び出し音は二回。電話はつながった。しかし流れてきたのは、莉子の声の応答メッセージだった。大変申し訳ございません。ただいま実家に帰省中です。
実家に帰省。まさか......。
小笠原は呆然としつつ受話器を戻した。宮牧に視線を向ける。こちらを見た宮牧の顔は死んでいた。
俺もいまはこんな顔をしているんだろうか。小笠原はぼんやりとそう思った。
この季節の石垣島は例年、雨が少ない。きょうの市街地周辺の空もすっきりと晴れ渡っていた。
気温は関東よりずっと高く、二十五度ぐらいか。風が内地より強いせいで体感温度はそれより低いが、やはりこの環境のほうが肌に馴染むと莉子は感じた。本当の春先って感じ、莉子はそう思った。
揺らぐ椰子の木もハイビスカスも、綺麗に区画整理された道沿いの緑地に見られるにすぎない。辺りには鉄筋コンクリートの小ぶりな建物が密集し、大通りをたくさんのクルマが行き交っている。莉子が十八歳のころ、ここはひどくせわしなく感じられるほどの大都会だった。東京を経験したいまとなっては、素朴な地方都市でしかない。
そうはいっても、内地の人々が想像するほどの田舎ではなかった。北部の山間部には大自然が広がっているが、この南部の一帯は隆起サンゴ礁の平地ばかりで、四万五千人もの島民がひしめいている。
辺りを見まわす。ひさしぶりなので道に迷いそうになる。
景観を重視するのはいいが、案内板が少なすぎるのは困りものだった。石垣港にある地図の看板も、地図記号の読めない外国人には不評だときく。
∴は名所を表すが、そのサイズが小さければ茶畑、そんな日本特有の表記を前に、外国船の乗員は途方に暮れるに違いない。
八重山ボウルの裏、ホテルピースランド石垣島のある角を曲がった。かまぼこ型の屋根をいくつも持つコンクリの建物。学校か工場に見えるが、ここが竹富町役場だった。
午後二時をまわっている。職員も昼食の休憩から戻ってきているだろう。ひとけの少ないロビーを横ぎり、カウンターに設けられた窓口に近づいた。「あのう」
ワイシャツの袖をまくった。若い男性職員が事務椅子から立ちあがった。「なんでしょう」
「わたし、波照間島に実家がある者ですけど......渇水対策課のかた、どなたかおられますか」
「どういった御用でしょう」
莉子はハンドパッグから手紙を取りだし、開いてみせた。「これが送られてきたので」
「ああ......。募金をされていたんですね。失礼ですが、お名前は?」
「凜田莉子といいます」
「......凜田さんですか。お名前は存じあげてます」
「ほんとですか?」
「ええ。たしか東京のほうで、なんでも鑑定団Kというお店を経営されているという......」
「違います。なんでも鑑定団は、こっちで放送されてないテレビ番組の題名です。それにKって......。なんなのかこっちが知りたいぐらいです」
「お父様が飼い犬の登録申請にみえたときに、大声でそう話しておられたので」
思わずため息をつきたくなる。波照間島の住民は五百四十人しかいない。役場の人間の記憶に残っていてもふしぎではない。それゆえに、願わくば正確な情報が伝わってほしい。
職員は腰を浮かせた。少々お待ちください、そういって奥にひっこんでいった。
竹富町は波照間島のほか、竹富島や西表島、小浜島、黒島、鳩間島などの離島を含んでいるが、役場はその圏外、ここ石垣島にある。島どうしを行き来する交通が発達していないせいで、島民はみな石垣島を経由する。だから役場もここに置くのが便利。そう決まったことだった。もっとも、各島を結ぶフェリー乗り場からは少し離れていて、徒歩で来るにはそれなりに苦労させられるのだが。
職員が戻ってきた。石垣特有ののんびりとした喋り方で職員はいった。「すみません。いま担当者が不在で」
「そうですか。電話じゃ教えてもらえなくて、直接担当者を訪ねてほしいという話だったので......。渇水問題解決のめどが立ったそうですけど、どんな対策ですか」
「さあ、私ではちょっとわかりかねます。よく問い合わせをいただくんですけど、議会の公示がまだなので、なんとも」
「......公示されていないんですか? でもこういう手紙が送られてくるってことは、ちゃんと議決されたことでしょう?」
「そうなんですけどね。いろいろ事情があるみたいで、詳細を発表するのは来週あたりになるそうです。いまは議会と業者とのあいだで調整中のようでして」
「業者......。渇水対策用のテクノロジーを提供する会社かなにかですか」
「まあ、そんなところだと思います。予算も大きくなるので、慎重になってるんでしょう」
「なら募金で集まったお金だけじゃなくて、来年度の一般会計予算から支出するんですよね? 議決内容は町民に知らせる決まりだと思いますけど」
「私にいわれましても......。この件に関してのみ会議録も公表されてませんし、議会中継もありませんでした。議事日程すらあきらかにされなかったんですよ」
すべては密室において決定された。やや問題のある話だと莉子は思った。「議会って、竹富町内のそれぞれの島から選出された議員で構成されてますよね? 水不足は波照間島一島だけの問題なのに、ほかの島の議員さんたちも歳出に賛成したんでしょうか」
「そりゃ議決されたんだから、過半数を得たわけでしょう。でも、提案したのは当然、波照間島出身の議員さんでしょうね」
「現職の波照間島出身の議員というと......」
「ええと」職員は手もとのファイルを開いた。「波照間島の議員さん......。あった、これだ。嘉陽果煌さんですね」
嘉陽果。聞き覚えのある苗字だ。いや、しっかりと幼き日の記憶に刻みこまれている。たしか......。
そのとき、ロビーにいたひとりの女性が、つかつかと近づいてきた。年齢は莉子と同じぐらいだが、背はわずかに高い。春ものの艶やかなスーツにハイヒールだった。ナチュラルボブのショートヘアをやや明るめに染めている。
女性は職員にいった。「いま、嘉陽果っていったのがきこえたんだけど」
「ああ」職員は知り合いらしく、笑顔を女性に向けた。「こちらのかたが、例の渇水対策の議事についてお尋ねだったので......。おそらくいいだしっぺは嘉陽果議員だろうと」
「いいだしっぺって」女性は笑った。「たしかにうちの父が責任者だけど、いまのところ詳しいことはわたしも......」
そういってこちらを見た女性の顔に、驚きのいろがひろがる。
莉子も絶句していた。丸い小顔にぱっちりと開いた目、二重まぶた、つんとすましたような高い鼻、薄い唇。中学卒業時にはすでに島外にも多くのファンを持っていた、波照間きっての美少女の代表格。
いまも当時と変わっていない。いや、ずっと綺麗になっていた。
「あ」莉子は信じられない気分でつぶやいた。「葵ちゃん......?」
「......莉子」嘉陽果葵の大きな瞳が、さらに見開かれて丸くなった。「凜田莉子? ほんと!?」
「ひさしぶり!」興奮しているせいで言葉がすっかり八重山方言に戻ってしまっている。それでも同郷の葵にならかまわないだろう。莉子は喜びとともにいった。「ごめんなさい、すぐ気づけなくて。でも嘉陽果って、やっぱ葵ん家しかないよね」
「そりゃそうよ、波照間じゃうちしかないでしょ。けど、莉子。ずいぶん変わったね......。可愛いのは昔からだけど、なんていうか、きりっとして。東京に行ってたんでしょ? 戻ってきたの?」
「一時的に帰郷しただけ。こんなところで葵ちゃんに会うなんて! 夢みたい」
職員の咳ばらいがきこえたため、莉子は口をつぐんだ。
苦笑を浮かべながら職員は手紙を返してきた。「同窓会は結構ですけど、いちおう役場なので、ロビーは静粛を保つ決まりでして」
「あー」葵は笑顔のまま声をひそめた。「すみません、うっかりしてて。莉子、いきましょ」
「ええ」莉子は職員から手紙を受けとると、葵と並んで歩きだした。「葵は役場に何の用だったの?」
「新人の募集広告を掲示板に貼りにきたのよ。いま看護師してるから」
「看護師? すごーい。出世頭じゃん」
莉子の口にしたことはジョークではなかった。八重山諸島の住民にとっての憧れの就職先といえば医療と土木建築。いずれも若い世代が重宝がられる。ダントツで高給取りの部類に入る職種だった。当然、倍率も著しく高い。
そんな竹富町で看護師免許を取得するとは、さすが波照間中学の誇るインテリ。良家の娘、葵だけのことはある。
葵がきいてきた。「莉子は東京で何してるんだっけ? たしか、自分でお店を始めたんでしょ」
「なんで知ってるの?」
「莉子ん家のお父さんがいいふらしてるし」
「ああ......」
「お店の名前もきいたよ。〝なんでんかんでん〟だっけ」
「違うって」莉子は思わず立ちどまった。「それ博多ラーメンのお店でしょ。なんでも鑑定団から、さらに十歩ぐらい遠ざかってる」
「本当の店名は? なんていうお店?」
「万能鑑定士Q......」
「へえー」葵はいった。「そこで受付でもしてるわけ?」
「いえ......。いちおうわたしひとりでやってるの」
葵は面食らったような顔つきになった。「冗談でしょ。莉子が鑑定士って。いったい誰の紹介よ」
この地域で就職活動といえば、身内が知り合いのコネを頼ることを意味する。面接の席でも、誰の知り合いかを普通に尋ねられる。
開店までのいきさつを考えれば、あながち事実に反しているというわけでもない、莉子はいった。「いちおうバイト先の店長が薦めてくれたんで......」
「はぁ? いわれたからって、なんでもやる必要ないのよ。わたしから文句をいってあげようか。その店長っての、いまどこにいるの? 連絡つく?」
「無理だと思う。逮捕されちゃったし......」
すっかり悪い方向に解釈されてしまったらしい。葵は同情をこめたまなざしで見つめてきた。「かわいそう。おかしなのとばかり、つきあわざるをえなかったのね。内地に行った人って、みんなそういう目に遭ってるし。奥里さん家の期世志君、覚えてる? 広島にでたけど、いまじゃすっかりチンピラだって」
「はあ......」とうとうヤクザと同じにされてしまった。小中学校でのわたしの学力を知っている葵にしてみれば、それなりに真っ当に働けているとは想像もつかないのだろう。
「けど」葵は微笑を浮かべた。「それ、渇水対策の寄付をした人に送られた手紙よね? 偉いよね、莉子。故郷のことを考えるなんて。たとえ血塗られたお金であっても」
「そうじゃないってば......」
「さっき窓口で話してたことだけど、莉子。うちのお父さんに尋ねたいことでもあるの?」
よくぞきいてくれた。莉子は葵を見つめた。「是非お会いしたいんだけど。無理かなぁ」
「全然平気。いま波照間にいるから、一緒に行く?」
「え? 昼間から波照間に帰ってるの?」
「地元議員として住民との懇談会に出席してるのよ。でも、あんまりいいムードじゃないかも、わたしたちの通った小中学校に関わる問題なんだけどね」
葵の顔にわずかに翳がさした。しかし、そう見えたのは一瞬のことで、すぐに葵は背を向けて歩きだした。
なんだろう......。莉子は足ばやに葵を追った。
この五年間、波照間島にどのような時間が流れていたか、よくは知らない。たびたび帰郷することがあっても、目を向けてはこなかった。わたしに真相が見えてこないのも、そのせいかもしれない。いま、島の実情があきらかになろうとしている。
旧友
竹富町に属する八重山諸島のなかでも、ひとつだけ遠く離れている波照間島への航路は、波が高ければすぐに欠航になってしまう。莉子も石垣島の八重山高等学校に通っていたころ、何度も帰れなくなって友達の家に泊めてもらったりした。きょうの海はさいわいにも穏やかで、午後三時の便は問題なく出航した。
高速フェリーに一時間ほど揺られたが、莉子は葵と昔の話で盛りあがっていたため、あっという間でしかなかった。ほどなく、ちっぽけな島の素朴な港が見えてきた。
桟橋に船が接岸し、ふたりは下船した。静寂に包まれた港にはほとんどひとけもない。顔見知りの農夫が連れた石垣牛が唸りながら、ゆっくりと横ぎっていく。観光シーズンにはフェリーの到着時間に姿をみせる駐在の巡査も、きょうは集落方面から丘を下ってきてはいないらしい。
莉子はいった。「あいかわらずだね」
「まあね」葵は笑った。「最近の事件っていえば高平さん家のヤギが脱走しただけだから」
港町はなく、集落まではそれなりに距離がある。バスはないが、交通には困らない。島民は知り合いばかりだった。サトウキビを運ぶ軽トラの荷台に相乗りさせてもらって、島の中心部に向かう。
フクギ並木と貝や珊瑚の垣根がつづく集落は、幼いころからまったく変わっていなかった。古びた赤瓦が家が軒を連ねている。木々の緑の色調が薄く、ライトグリーンなのがこの島の特徴だった。美しいが、それだけ葉が水分を含んでいないことを意味している。降雨が少ないせいだった。
小中学校の通学路だった小道に入り、波照間農村集落センターの看板を掲げる小屋に着いた。葵に案内されて、莉子は集会所に足を踏みいれた。
なかは教育懇談会を見守る大勢の島民が押しかけ、ひしめきあっていた。やはり馴染みの顔ばかりだったが、誰も莉子に注意を向けてこない。よほど会議に興味を惹かれているらしく、みな真剣な顔でききいっている。
会議テーブルに座った住民代表の中年男性がいった。「小中学校をひとつの学校にまとめてしまったら、今後児童数が増えたときの対処に困るさー」
白髪の婦人も同意をしめす。「先生がたも仕事を失ったりするでしょうし」
住民らと向き合って座るスーツ姿の男性、それが嘉陽果煌だった。実年齢は四十代後半だろう。日焼けした精悍な顔つきは昔と変わっていない。莉子はかつて葵の家に遊びにいったときにあいさつしただけだが、名士である嘉陽果煌を知らない島民はいなかった。
嘉陽果は穏やかにいった。「先生の数は変わりませんよ。もちろん、校長と教頭がひとりずつ、ふつうの教師になるわけですけど、そのぶん児童への指導に熱が入るでしょう。いままで頑張ってもなかなか結果がだせなかった部活動も、この機に発展が見こめます」
初老の男性がへらへらと告げる。「バドミントン部は県大会にでとる。波照間の星さー。まさしく南十字星と並ぶ島の宝さ。しかし今回の事態で私らは。サザンクロスならぬ惨々苦労す、ってな状態で......」
一同はいっせいにブーイングに転じた。
別の男性が渋い顔をした。「茶化したうえに滑るとはなにごとさー」
婦人は嘉陽果に訴えた。「先生、あなたはこの島に生まれ育ったお人でしょう。私たちの気持ちも汲んでもらえませんか」
咳ばらいをして嘉陽果はうなずいた。「もちろん、私は島民のみなさまの幸せを第一に考えております。もともと波照間小中学校は同じ敷地でしたし、一緒にしてもそれほど混乱はないと思います、小学校の児童数も二十四名ですし......。なにより財政難の昨今において、経費削減は急務であります。なにとぞご理解のほどを......」
莉子は葵にささやいた。「合併しちゃうの? 小学校と中学校が?」
「そう」葵も小声でかえしてきた。「もう議会できまったことだし、四月からそうなるんだから、話し合っても無駄なんだけどさ。なんか過疎に拍車がかかるみたいに思えて、反対する人も多いんだよね。徐々に廃校に近づいているみたいでさ。卒業生はみんなそう思ってる。ね、そうでしょ。結愛」
葵は、莉子の背後に目を向けていた。莉子は振りかえった。
すぐ後ろにいた、丸い目をした同世代の女性と視線が合う。驚いているせいで瞳を見開いているのかと思いきや、それが彼女の目もとらしい。福助人形の顔を女の子っぽくアレンジするとこんな風になる、そんなユニークな面持ち。実際のところ愛おしさに溢れているが、非常に個性的だった。
小学生のころとまるで変わらないそのまなざし。莉子のなかに、記憶が鮮明に蘇った。莉子は思わず声をあげた。「わぁー」
祝嶺結愛のほうはすぐに莉子を認識できなかったようだが、それも一瞬のことだった。結愛も大きな口を開けて同じように声を発した。「わぁー!」
周囲の人々の冷たい視線が突き刺さるのを。莉子は敏感に察した。すみません。困惑とともに謝ってから、声をひそめて結愛に告げた。「来てたの? 全然変わってないね」
結愛も笑顔でささやいてきた。「莉子も......。島に帰ってたのなら訪ねてきてくれればいいのに」
「さっき着いたところなの。けど、さすが五つしか集落のない波照間よね。ぱったり会うなんて。懇談会に関心があるの?」
「まあねー。この島唯一の学校のことだし......。朝、先生が校舎にだしてた手書きの看板、覚えてる? 『八時だよ全員登校』って書いてあるやつ。あれも統廃合とともになくなるかもしれないって」
「えー。なんで?」
「なんか、ドリフとか低俗な番組を児童に吹きこむのはよくないって、お年寄りの人がさっき提案して」
「いまの子たち、ドリフ知らないと思うけど......。わたしたちのころだって微妙だったし」
「でしょ? 時代錯誤だよねー。それを耳が遠いせいか、でっかい声で提案するわけよ」
白髪頭の高齢者が揃ってこちらを振りかえり、結愛をじろりとにらみつけた。結愛はあわてたようすで、ばつが悪そうに頭をさげた。
葵がすまし顔でつぶやいた。「耳、遠くなさそうだけどね」
集会所にざわめきが広がりだした。懇談会が終了したらしく、列席者たちが立ちあがりつつある。詰めかけた立ち見の島民たちも、おもむろに散会しはじめていた。
話し合いは平行線のまま終わったらしい。嘉陽果煌は硬い顔で腰を浮かせ、手もとの書類をまとめている。
葵が父親に近づいていく。莉子も結愛とともにその後につづいた。
そのときふと、部屋の隅の空気清浄機が目に入った。わりと新しい物だったが、それを見たとたん莉子の不安は募りだした。あの商品はたしか......。
お父さん、と葵が声をかけると、嘉陽果煌の顔があがった。
「ああ、葵」嘉陽果は結愛に目を向けた。「祝嶺さん、おひさしぶり。それと......」嘉陽果は莉子を見つめて静止した。誰なのかを思いだそうとするように眉間に皺が寄る。
「覚えてない?」葵は紹介した。「莉子。いつも結愛とつるんでた......」
「おお!」嘉陽果は笑顔になった。「凜田さん家の娘さんか。いやぁ、ずっと渇水対策募金に協力してくれて、本当にありがとう。寄付の総額は五十万円以上になるかな? 上京して暮らしも大変だろうに、心から感謝してます」
結愛が面食らったようすで口をはさんだ。「寄付? 五十万も、莉子が? 嘘でしょ。まさかスーパーセレブと結婚したとか?」
葵があきれたような顔で結愛を見た。「五十万円でスーパーセレブって......。結愛にとっては理解を超えた金額はぜんぶ大金なのね」
「そっか」結愛は自嘲ぎみに思える笑いを浮かべた。「ずっと算数も数学も学年ワースト二位だったので」
嘉陽果がいった。「そんなことないだろ。葵、友達に謙遜を強要しちゃ駄目さー」
結愛は明るく否定した。「いいんです。謙遜じゃないし。当時、先生のパソコンを見たんですけど、未記入の順位表でもドベからふたりは最初からテンプレートみたいに名前が決めてあって」
だが嘉陽果議員は、あくまで差別に反対するスタンスを崩さなかった。「きみも、自分のことは笑い話ですむかもしれないが、ワースト二位というなら最下位の人もいるんだろう。その人を巻きこむのはよせ。落ちこぼれであっても、それなりに努力して生きているだろうし」
莉子は無言のまま視線を落とした。結愛より嘉陽果議員の言葉のほうが胸にぐさりとくる。小中学校を通じて最下位だったのは誰か、考えるまでもない。
どうやら当時の莉子の成績について知らないようすの嘉陽果煌は、平然とした面持ちで告げた。「おかげさまで渇水対策募金も終了を迎えたよ。島の未来は明るいさ!」
葵がいった。「お父さん。そのことで、莉子がききたいことがあるって」
莉子は嘉陽果を見つめた。「渇水対策ですけど、どんな方法が採用されたんですか。来週まで公示できないそうですけど......」
「ああ」嘉陽果は淡々と告げてきた。「発明者との協議で、契約が締結されるまでは伏せておくことにしたんだ。世界じゅうから引く手あまたのテクノロジーだからね。これなら、議会の予算でもなんとかまかなえる」
「海水淡水化プラント建設以外の方法で?」
「もちろん。もっと安く、確実な手段だよ。記録映像もある。よければ、うちに見に来るといい」
「え? いいんですか」
嘉陽果はあっさりとうなずいた。「町民にもまだ非公開だけど、すすんで寄付をしてくれた凜田さん家の娘さんだからね。葵、ふたりをうちに連れてきなさい。きょうはもう石垣に戻るフェリーもないし、お父さんもまっすぐ帰るから」
「わかった。ありがとう」葵は莉子に向き直り、はしゃぐようにいった。「またこの三人が揃うなんてね。夜食は一緒にとろうよ」
そうね......。莉子は笑顔で応じたが、心のもやは広がるいっぽうだった。
どうしても空気清浄機に目がいく。莉子は嘉陽果煌にいった。「すみません。あとひとつだけ......。そこにある機械ですけど」
「あん? ああ、これは議会のほうで購入して、各島の集会所に配った物だよ。ひとつ二万円ぐらいかな。作動音がほとんどしない優れ物だ」
「いつごろ買ったんですか」
「三か月ぐらい前か。さあ、家にいこう。自家製のドラゴンフルーツがあるから、是非味わってほしいさー」
上機嫌の嘉陽果に、葵と結愛がつづく。
莉子は空気清浄機を眺めながら、ひとりその場にたたずんでいた。
商品名イオンクリアランスα、中国製、価格は一万九千八百円、通販で売られていたが半年前、公正取引委員会から排除命令を受け市場から姿を消した。静かなのも当然だった。ファンの動力が足りず、フィルターもまるで機能を果たしていないからだ。形ばかりの無用の長物だった。
各島にひとつずつとして、十数万円。議会としてはわずかな出費でも、もとは税金......。
古くから竹富町議会は、高学歴かつ優秀な議員が揃うことで名高い。しかし、いかんせん田舎なだけに通俗的な情報が不足している。この島に育った莉子にはよく判っていた。大人たちは少ない予算でやりくりするのに忙しく、取引に慎重になる文化が育たなかった。誰もが人を信じすぎてしまう。すべては島を思う一途な気持ちに支えられてのことなのだが、その善なる心が仇になる。島民の弱点を知ればこそ、不安にならざるをえない。
「莉子」葵が通用口から声をかけてきた。「早く」
......いまいく。莉子はつぶやいて、踵をかえした。危惧が現実のものになっていく。誰も望んでいないのに、八重山の島々を暗雲が覆いつつある。
実家
日没後、街路灯もほとんどない集落は真っ暗になる。波照間にはハブはいないが、出歩く人はいない。住民はみな家に引きこもる。
莉子は葵、結愛を連れて実家に戻っていた。葵の家で食事をしてもよかったのだが、彼女の父は書類整理の残業を持ち帰っていたらしい。邪魔をしては悪いからと、莉子が葵たちを誘ったのだった。
ちゃぶ台にはお馴染みの八重山そば、黒糖のきいたヤシガニ料理、そしてこの島でつくられる泡盛の銘柄、泡波の瓶が並ぶ。たちまち宴会の様相を呈し、莉子の両親もご機嫌きわまりなかった。
赤ら顔の父、凜田盛昌はいかにもうまそうに泡波をあおった。「いやー、めでたいな! うちの娘を含めて三人も綺麗どころが揃うなんて、旧盆のムシャーマでちゃんとお祈りしておいただけのことはあるさー」
母の凜田優那も笑いながらいった。「結愛ちゃんは特に、莉子とはご無沙汰だったでしょ?」
結愛は、三人のなかでは最もこの宴会に馴染んでいるようだった。何杯めかの泡波を傾けながら、満面の笑みとともにまくしたてた。「そうですねえー、莉子が高校に行ってからは、すれちがいが多くなっちゃって。わたしは民宿ヘルパーに就職しちゃったから、ニシ浜のあたりに泊まりこんでばっかりだったし」
葵も箸をすすめていたが、結愛よりは莉子を気にかけているようすだった。「食べないの?」
「ええ......。おかしな時間にお昼をとったから、まだお腹がすいてなくて」
そうはいったが、実のところ食欲など湧く気分ではない、それが本音だった。
葵の家で、彼女の父親がみせてくれた映像が目に焼きついて離れない。なんとも驚異的、そしてどこか胡散臭い実験の記録だった。台湾の漁村で海上に船をだし、巨大なロートに仕込んだフィルターで塩分を除去、真水になる、その一部始終だった。
嘉陽果煌は上機嫌に説明してくれた。この後、水質調査の権威である添石君が持ち帰った水を研究室で検証してね。現地の海水と、ろ過後の水を比較した結果、塩分のみが完璧に取り除かれているとわかった。こりゃもう、目の玉が飛びでるほどの大発明さー。
莉子は嘉陽果に、早稲田大の准教授である知り合いに映像をみせていいかたずねた。嘉陽果は嫌な顔ひとつせず、東京にいる氷室と電話で話したうえで、映像をほかに公開しないという条件つきで許諾した。莉子は画面を携帯電話のカメラで動画撮影し、添付ファイルにして氷室のもとに送った。
不鮮明な画質になるが、何もみせないよりはましだった。返事を待つ時間がひどくじれったい。いまは米粒ひとつ喉を通りそうにない。
そう思ったとき、携帯電話が鳴った。液晶表示には氷室拓真の名があった。
「ごめん。ちょっと」莉子は葵にそういって立ちあがった。廊下にでてから電話に応じる。凜田です。
氷室の声は憂鬱な響きを帯びていた。「いま映像をみたよ。単刀直入にいうが、こんな技術はありえないと思う」
「やっぱり......」
「海水の塩分ってのは、砂の混じった水とは違う。粒状のままじゃなくて、塩化ナトリウムなどの成分として完全に水のなかに溶けこんでいるんだ。ただフィルターでろ過しただけじゃ取り除けるはずがない」
「ですよね。でも、あの映像はいったい......」
「そこだよな。映像をみるかぎり、実験の記録としては真に迫っている。嘉陽果氏や添石氏のリアクションも芝居とは思えない。たしかに海水が淡水に変わった......というか、彼らにはそう思えたし、映像にもそのように記録されてるってことだ」
「けれども事実ではない。そういうことですね?」
「ああ。物理学ひとすじの僕にいわせれば、こいつは教祖様の手から砂金がでるとか、物体が宙に浮くって話と同じだ。ようするに超常現象の類いだよ。もっともらしくみせてはいるが、疑似科学以外のなにものでもない。しかも原理をいっさい説明せず、金だけむしり取ろうとしてる。詐欺の常套手段だな」
「どんなトリックを使っているんでしょうか」
「......さあね。ロートも透明だったし、小細工が入りこむ余地はないな。魔法そのものだよ。でも絶対に何かある。もしかして、町議会はもう先方に金を払っちまったのかい?」
「いえ。金銭面のやりとりは、まだこれからみたいです」
「出費させちゃ駄目だ。金額はどれぐらいか知らないが、議員さんの政治生命は失われたも同然になる。東大の専門家である添石氏も面目丸潰れだろう。血税の浪費を見過ごす住民はいない。地方ならなおさらだ」
そのとき、背後から葵の声が呼びかけた。「莉子」
莉子は電話の向こうの氷室に告げた。「ありがとうございます。そのうちまた連絡します」
電話を切って振りかえる。どこか不安げな面持ちの葵と向かいあった。
葵はきいてきた。「いまの話は......? トリックがどうとかいってなかった?」
「......あのね、葵。さっき葵のお父さんがみせてくれた映像についてだけど、腑に落ちないところがあるの。契約の締結はしばらく先延ばしにするべきだと思う」
「どうして?」葵は驚いたようすだった。「莉子の知り合いの......准教授だっけ、その人がそういったの? なにか根拠ある?」
「いえ......。ただ怪しいっていうだけ」
「それじゃ議会の決定を覆せないでしょ。多数決できまったことだろうし」
「でも、おかしいのよ。あんな簡易な方法で真水になるわけが......。わたしから葵のお父さんに話すわ」
「話すって、何を? 契約を思い留まるように説得する気?」
「そう」
葵は困り果てた顔になった。「無茶いわないでよ。お父さんはたしかに物理とかの専門家じゃないけど、でもちゃんとした大学でてるのよ。ほかの議員さんもそう。それを、莉子が説得するって? 理科のテストで二酸化マンガンを二酸化ガンマンって書いてた莉子が?」
「それは結愛......。わたしはヒヤシンスをヘアリンスって」
「音楽の筆記テストでffの読みをファイナルファンタジーって書いたのは?」
「わたし......」
「はぁ」葵は大仰にため息をついた。「社会科の授業もよくきいてなかったから、民主制ってのがどんな意味かも知らないわけ? 選挙で選ばれた議員は町民たちの代表、つまり決議は町民の総意よ」
「だけど今回は、海水淡水化の新技術がどんなものであるか明かしてないでしょ? 小中学校の統廃合だけでも、あんなに異論がでるのよ。議論は広く開かれた状態でおこなわれないと......。なにより、小中学校をひとつにまとめなきゃいけないぐらいの財政難なのよ。歳出は慎重におこなわれるべき。そうじゃない?」
「うーん」葵は頭をかきむしった。「なんか、莉子も上京後それなりに勉強したんだね。昔よりは弁が立つようになったみたい。だからって、うちのお父さんや東大の専門家さんの前で、ちゃんと申し立てできる?」
「......必要なことだから、頑張ってみる」
「頑固ね。わかった。莉子がそこまでいうのなら、お父さんにきいてみるから」
お願い。莉子は切実な思いをこめていった。
島民の暮らしは豊かとはいいがたい。福祉も充足にはほど遠い。波照間のみならず、竹富町のすべての島がそうだ。これ以上、予算を一円も失わせたくない。まして、町の財政をひっ迫させるほどの巨額な出費だとしたら......。
議会
翌朝、午前十時。葵は石垣島にある竹富町議会の議場に出向くことになった。
莉子は結愛とともに、先に現地に赴いている。葵はまず勤め先の病院に寄り、きょうの非番を願いでなければならなかった。
父の煌はなにごとにも真剣かつ真面目だった。冗談めかせた葵の報告も一蹴せず、それなら凜田さんに議会での発言権を与えよう、そういいだした。すぐさま父は町長に連絡をとったらしい。たった十四人しかいない議会、それも契約の期日が迫っていることもあったのだろう。たちまち翌日の議会出席がきまった。もっとも、父が莉子の中学時代の成績を知っていれば、判断は違っていたかもしれないが......。
葵が役場に到着し議場に入ったとき、すでに莉子の演説は始まっていた。
それは葵にとって、人生で初めてまのあたりにする異様な光景だった。
教室ほどの広さしかない議場だが、窓のない空間は閉塞感に溢れている。二列になった会議テーブル、肘掛け椅子におさまったほどんどの議員は白髪頭で、年輪のような皺を顔に刻みこんでいた。漂う緊張感は相当なものだ。
国旗と並んで青い町章旗が貼りだされた壇上に、莉子の姿があった。スーツに身を包んだ莉子はきのうよりずっと大人っぽくみえる。
印象の違いは、服装のせいばかりではないようだった。莉子は掲出された図面を棒で差ししめしながら、流暢に説明をつづけていた。「......ので、もうひとつの方法として、熱を加え水分を蒸発させることで塩分と分離し、気化した水分をふたたび冷やして真水にするやり方が考えられます。すなわち蒸留です。これを多段フラッシュと呼び、生成される水に残る塩分濃度も五ppm未満とすぐれていますが、やはりご覧のとおり大規模な設備が必要になります」
葵は呆気にとられな、がら、その場にたたずんだ。
まるで別人......。それがいまの莉子に対する第一印象だった。顔かたちがそっくりの双子でもいたのだろうか、そう疑いたくなる。
猫のような目をした莉子の面持ちは、本来きわめて利発そうに見える。こうして立て板に水のごとく難解な演説を繰り広げていると、いよいよ内面もそのルックスに伴ってきたと感じられる。しかし、本当にそうだろうか。あの莉子が......。
結愛がささやきかける声がした。「葵。こっち」
ふと見ると、ひとけのない傍聴席に、ひとりだけおさまっている結愛の姿があった。
そちらに近づいて結愛の隣りの席に座る。葵は結愛に小声できいた。「どうなってんの、これ?」
「すごいでしょ」結愛は顔を輝かせていた。「始まってからずっとこんな調子なの」
「准教授さんから教わった言葉を丸暗記してきたのかな」
「それだけじゃないみたい。質問にもすらすらと答えてるし」
莉子の落ち着いた声が議場に響く。「多段フラッシュは多量の熱エネルギーを必要とするため、サウジアラビアなど中東の産油国に有効ですが、八重山地方でのプラント建設は困難です」
議員のひとりが発言した。「すると、ろ過で淡水化を実現するのは非現実的ということかね?」
「いえ」莉子はいった。「福岡の淡水化プラントの場合、実質的にフィルターのろ過によって海水から塩分を取り除きます。多段フラッシュよりも水中に残る塩分濃度は若干高いのですが、エネルギー効率に優れています。しかし、これもただろ過するだけでなく、タービンポンプで加圧しスパイラル膜を通じて塩分を濃縮、破棄するのです」
「そのプロセスを、極めて小さくしたものと解釈はできないのかな。今回の嘉陽果議員が契約するフィルターは」
「残念ですが......。塩分三・五パーセントの海水から飲料水レベルの淡水を作りだす場合、五十五気圧以上を加える必要があります。映像の実験では、ロートに注がれた海水は引力のみによってフィルターを通過しています。たとえ少量であっても、あのような方法でろ過は可能になりません」
演壇のわきに座っている、痩せた身体つきの初老の男が咳ばらいをした。議員の娘である葵は当然、彼が何者か知っていた。町長の志伊良章光だった。
志伊良は控えめな口調で告げた。「嘉陽果君。何かおっしゃることはないかね」
葵の父は、前列の一番端に座っていた。立ちあがった嘉陽果煌は微笑を浮かべていた。
「まず、真っ先にひとこと、祝福申しあげたい。私事で恐縮ですが、娘の同級生である凜田莉子さんが、このように該博な知識を身につけておられることを島の誇りとしたい。上京後、自営業に励んでおられるそうですが、どれだけ勉学に勤しんでおられるかが垣間見える演説内容でした。これを機に、島民に教育の重要性に対する理解が浸透していけばと考えます」
議員たちはいっせいに拍手をしだした。莉子は当惑の面持ちで立ちつくしている。
彼女が戸惑うのも無理はないと葵は思った。父の気配りは賞賛に値するが、いまは少しばかりポイントがずれているように思える。
「さて」嘉陽果はいった。「凜田さんご指摘の内容ですが、すでに議員のみなさまはご承知のとおり、この場で議論し尽くしたことでございます。実験に同行していただきました東京大学大学院工学系研究科教授、添石慶人氏にふたたび発言していただきましょう」
町長に近い雛壇に収まっていたひとりの男が、ゆっくりと立ちあがった。きょうはスーツを着ているが、あの映像ではカジュアルルックだった。父と一緒に船上で実験をしていた人物だ、葵はそう気づいた。
添石はにこやかにいった。「凜田さんが信じられないのも無理ありません。私もこの目で見るまでは、科学者として受けいれがたいことと考えていましたから」
莉子がきいた。「添石先生は、今回発明されたフィルターはどんな原理だと思いますか」
「詳細は製法や化学式が伝えられるまでわかりませんが、逆浸透法に用いる中空糸膜を小型化した物だと発明者はいっていました。水分を一定量含むまでは密閉状態を保つ特殊な素材が用いられ、そのせいもあってロート上部の水面に気圧がかかり、海水を下に押すためフィルターを突破するのだそうです。従って、ご指摘のように引力だけで水が落下したわけじゃありません」
「......特殊とおっしゃいましたけど、その素材の見当はついておられるのですか」
「さあ」添石の表情はわずかに硬くなった。「十二億円で製法の秘密を購入するわけですから、想像で思いつける範囲じゃないと思います」
耳を疑うような金額だった。葵は莉子を見やった、莉子も目を瞠ってたずねた。「十二億ですって?」
嘉陽果煌がなだめるようにいった。「失敬。費用だけきけば、驚かれるのも無理はない。それだけに私たちも検討を重ねてきた。最終的に議決に至ったのは、ここにいる議員のみなさんが理解をしめしてくれたからだよ」
莉子はあわてたように添石に向き直った。「あのう、添石先生。疑うわけじゃないんですが、あの船上で顕微鏡を用いて水の成分を調べましたよね? 見間違いとかそのようなことは......」
「いえ」添石はきっぱりといった。「研究者として、天に誓って申しあげます。私の報告内容に、嘘偽り、勘違いなどいっさいございません」
すると嘉陽果が付け加えた。「凜田さん。私も添石君とは別に、あの船上から水のサンプルを持ち帰ったんだ。この手で海水をすくい。ろ過してからビン詰めにした。添石君を疑っているわけじゃないが、私も自己責任で調べたくてね。複数の研究機関にサンプルを配って調査してもらった。結果はすべて同じだったよ。台湾海峡の海水成分から、塩分だけを完全に除去した水。間違いないと結論づけられた」
莉子は不服そうな顔でつぶやいた。「淡水になったとしても、それだけでは飲料水に適さないと思いますけど」
添石がうなずいた。「その通り。いくら綺麗な水とはいえ、加熱かオゾン処理で殺菌しなきゃね。ちょうど波照間島にある既存の淡水化プラントが使える。海水をろ過した後、あのプラントに貯水して処理すれば、安全な生活用水になる。つまり、前に建設したプラントも無駄にならず一石二鳥というわけさー」
嘉陽果は同情するような目を莉子に向けた。「でも凜田さんの気持ちもわかる。議員のみなさんに申しあげます。彼女は東京で生活に困窮しながらも、熱心に働いて、寄付金を捻出してくれていたんです。過去三年間で五十万円ものお金を送金してくれました。純粋に島の将来を危惧してのことです。そんな彼女にしてみれば、心から信用できない技術に対して自分の寄付金が使われるのは納得できない。そう感じるのもやむなきことです」
志伊良町長が苦笑に似た笑いとともにうなずいた。「なるほど。すなわちきょうの会議は、凜田莉子さんが寄付したぶんの返金を認めるかどうか、その議決というわけだね」
一同に笑いが沸き起こる。
莉子は当惑を深めたようすだった。「待ってください。わたし、自分のお金の心配をしてるんじゃないんです。本年度の竹富町の一般会計予算は、総額三十九億円だったはずですよね? 寄付金はさほど集まっていないから、大部分はそのなかから捻出するわけでしょう?」
嘉陽果はいった。「当然そうなるよ。波照間の水不足はわが町の問題だからね、県や国も長いこと援助をためらってるし、自分たちで動くしかないんだ」
「沖縄県庁や政府の支援がなかったのは、たとえ巨額の出資をきめても解決の糸口がつかめないからですよ」
「だから、それが今回の発明で解決したさー」嘉陽果はため息をついた。「申し訳ない。せっかく凜田さんが寄付に協力してくれたのに、ちゃんと説明できない私たちが悪いんだ。でも来週になればきっと納得してもらえると思う。取引の直後に公示するからね」
「取引......、お金を払うってことですよね? 嘉陽果さん。波照間には医療が不足してます。石垣島にでないと出産もできないんです。観光収入もほかの島にくらべていまいちだし、小中学校も統廃合しちゃうし......。福祉の予算は足りないどころか、ずっと石垣に協力を求めて、なんとかやりくりしてきたじゃないですか」
「議会を前に思いきったことをいうね」
「......すみません。わたしがいいたいのは、ただでさえ少ない予算額から十二億も出費したのでは、竹富町の財政が危機的状態に陥るのではと......」
町長の志伊良が厳かに告げた。「凜田さん。その危惧は決して的外れとはいえない。私も、身を削る思いで最終決断を下したことだ。嘉陽果議員は、波照間の水不足が解消したあかつきには、病院の建設もできるし観光施設も充実すると提言している。来年度、つまり今春以降にさっそく企業からの投資を受け付けることになるので、当座は凌げるし、長い目で見れば黒字になる。議会も私もその案に賛成した」
莉子はなおも深刻そうにきいた。「もし十二億を払ったうえで、発明が役に立たなかったとしたら......?」
議会はしんと静まりかえった。咳ばらいひとつきこえない。
志伊良が静かにつぶやいた。「破たんだな。わが町は石垣にでも併合してもらうしかないだろう。向こうの一般会計予算もせいぜい百五十億円ていどだから、大打撃になると思うが」
「なら」莉子はいった。「少なくとも発明者に情報を開示させて、本物かどうか吟味してからでないと......」
嘉陽果は莉子を見つめた。「それは向こうが拒否してる。情報そのものについた値段だからね。不安がないといえば嘘になるが、私もこの目で見た以上、真実だと確信してる。ともかく、きみの不安はよくわかった。私たちも技術の利用にあたっては充分に注意するよ。......ではみなさま。凜田莉子さんの寄付金の返却を認めるというかた、ご起立願います」
半ば冗談のような採決だった。議員たちは笑いながら立ちあがった。起立多数、可決されました。嘉陽果が快活にそういうと、全員がぞろぞろと扉に向かいだした。
壇上には莉子がひとり、伏し目がちにたたずんでいる。
葵は腰を浮かせて、父親に声をかけた。「お父さん......」
だが嘉陽果煌は片手をあげて制してきた。「何もいうな。葵、いい友達を持ったな。お父さんは嬉しいよ」
満足げにそう告げると、嘉陽果は添石や志伊良町長と連れだって議場の外にでていった。
閑散としつつある場内を、莉子が浮かない顔で歩いてくる。
結愛は愛嬌たっぷりの丸い目を見開いて、笑顔で莉子を迎えた。「すごーい、莉子。かつこよく演説きめて、五十万円取り戻すなんて。美味しいもの食べに行けるさー」
葵は咎めた。「結愛」
すると莉子が憂いのいろを漂わせたままいった。「いいのよ。......けど、なんだか悔しい。思いがつたわらなくて」
「莉子」葵は感じたままを口にした。「わたしも看護師やってるから、気持ちはよくわかるの。現状でも島の診療所は疲弊しきってるし......。でもね、お父さんたちだってよく考えたはずよ。たしかにのんびりしてるし、どこか頼りないけど......。それでもわたしは、お父さんが正しいって信じたい」
「......葵」莉子の瞳は潤みだしていた。「ごめんね。こんな機会を与えてもらって、しかも憂鬱な気分にさせちゃって。......だけど、やっぱりわたしは納得できない。十二億円も予算を削った時点で、すべての島が現状を維持できなくなる。インフラの整備は期待できないし、学校や診療所も閉鎖されていくでしょう。しかも数年のうちに波照間島の業績があがらなければ、損失補てんは不可能になる。竹富町の財政が破たんして、石垣市に併合されたら、赤字の集落の住民は石垣島に強制的に移住させられちゃうでしょう。実際、そういう論文を書いた未来学者もいるし......。波照間の集落は真っ先にその対象になる」
葵は思わず声を荒らげた。「莉子は、わたしのお父さんが波照間を滅ぼそうとしてるとでもいうの?」
「そうはいってない。けど......そうならないっていえる? 確信を持って断言できる?」
思わず絶句せざるをえない。葵は黙って莉子を見つめた。
父はきっと正しい。間違ってはいない。でも、莉子の真摯な瞳と向き合ううちに、その信念も揺らぐ。
莉子のいうとおりだとしたら? 議会が誤った道を歩んでいる可能性は、本当に無いのか......。
そのとき、ひとりの女性が声をかけてきた。「あのう」
がらんとした議場に、唯一残る議会の関係者、二十八歳のその女性は、葵の顔馴染みだった。父の議員秘書をしている鳥堀彩花だ。
彩花は戸惑いがちにいった。「こんなこと、いうべきかどうかわからないんだけど......。さっきの凜田さんの話、わたしも一部は同意見なの」
葵は困惑を覚えた。「彩花さん。あなたまでそんなこと......」
「お父様を裏切るわけじゃないわ。わたしもあの旅に同行して、船上で実験のようすを撮影したんだし......。嘉陽果先生も添石先生も嘘をついていないし、わたしも実験の前後の水を飲みくらべたりしたから、すべて本当だって信じてる。でも、やっぱりサンプルひとつ貰わないうちに十二億を払うなんて......。お人よしが過ぎると思うの」
莉子が彩花にきいた。「嘉陽果さんはどんなきっかけで、台湾に行くことに......?」
「向こうから一方的にメールが送られてきたの。正直、信ぴょう性は薄かったけど、島の未来がかかったことだから......。夏場の波照間の取水制限や断水がいかに深刻なものか、嘉陽果先生はよく理解していらっしゃるし。それで議会に出張を願いでたんだけど、却下されてね。結局わたしと添石先生を連れて、嘉陽果先生は自費で台湾入りしたのよ。翌日にも議会があったから、その夜は台北に泊まって、朝には那覇経由で石垣に帰ったけどね」
「で、めざましい実験結果を手土産に議会を説得した。......そういうことですね」
「ええ。映像を観たうえで添石先生の報告をきいて、町長以下全員が態度を変えたわ」
「発明者はどんな人ですか」
彩花は戸口のほうに警戒するような目を向けてから、莉子に向き直り小声でささやいた。「黄春雲って台湾人。けど、連絡方法は嘉陽果先生ひとりが握ってるの。最重要の極秘事項として、メアドを記したメモさえ事務所の金庫に入れてるから、わたしですらコンタクトできないのよ。会うには現地に行くしかない。鹿港の南の小さな漁港。行き方は駅員にきけばわかるけど」
ふいに莉子の表情が真剣さを帯びた。
「ちょ」葵はあわてていった。「ちょっと。まさか......」
莉子はつぶやいた。「わたし、台湾に行くわ」
結愛が目を剥いてきいた。「マジで?」
「事実をたしかめにいくの」と莉子は告げた。「それが一番早いでしょう。五十万円が返金されるんだから、旅費にも不自由しないし」
「やったぁ」結愛は能天気な声をあげた。「本場の小籠包食べれるさー。足つぼマッサージと変身写真館も行きたい」
葵は困惑を深めた。「待ってよ。結愛、遊びにいくんじゃないのよ。莉子も......。台湾に行ったことあるの?」
「ない......。言葉もわかんないし」
結愛が片手をあげた。「わたしもー」
すると彩花が真顔でいった。「そこはなんとかなるわよ。わたしたちだって台湾語はまるで喋れなかったけど、旅に支障はなかったし、黄春雲氏は日本語が達者だったし。本当に行く気なら、早くしたほうがいいわよ。公示は来週だけど、十二億円を送金するのは議会の経理上、あさっての昼過ぎときまっているから」
明後日の昼......。たった二日しか猶予かないなんて。
突拍子もない話ゆえに、なかなか思考がついていかない。
だがいっぽうで、呆れるほどわかりやすい状況でもあった。現地に赴いて、この目で確かめる。真偽を知るのに、これほど有効な手段はほかにない。
莉子の大きくつぶらな瞳は、もはや揺るぎようのない決意の光を放っていた。結愛も同行する気満々らしい。
それならわたしも......行くしかないだろう。葵は思った。父が正しいことを裏付ける旅、そうなるはずだ。すべてが取り越し苦労だったと、みんなで笑える日はきっとくる。きっと。
右往左往
午後七時。風の強い夜だった。
莉子は台湾復興航空のチャーター便で石垣島を発ち、一時間二十分後、花蓮空港に到着した。
同伴者はふたり。結愛と葵だった。冬場のこの時期、暇を持て余している民宿ヘルパーの結愛はあっさりと休暇がとれたようだが、看護師の葵は別だった。師長に頼みこんで、ようやく許可が下りたのが六時すぎだったらしい。それから空港に駆けつけた葵は、出発時刻ぎりぎりになって乗りこんできた。
莉子を含め、三人全員が初めての台湾だった。花蓮空港に着いた直後は緊張したものの、鳥堀彩花がいったように、ほどなく交通機関を利用するのにはさほど支障はないと気づいた。台湾新幹線の切符の自販機は日本と同じくタッチパネル式で、しかも英語に切り替えられたし、漢字の看板も繁体字のわりにはそれなりに読みこなせた。
現地時間の午後十時すぎ、莉子たちは無事〝碼頭站〟で下車し、そのすぐ近くにある小さな漁村を訪れた。
木製の桟橋に立ち、月明かりに照らしだされた台湾海峡を眺める。例の実験はこの海でおこなわれた。
結愛が身をかがめて、海水を両手ですくった。それを口にふくんでから、大仰に顔をしかめる。「からーい」
葵が呆れたようにいった。「当然でしょ」
波照間の海からたった三百キロしか離れていない台湾の西海岸。海流を考慮しても、ほとんど同じ海水の成分と考えて差し支えないだろう。ここの海特有の、際立った違いがあるわけではない。つまり、淡水化には波照間の海水と同じ手間がかかるはずだ。
それなのに、いちどフィルターを通しただけで塩分が完全にろ過される......。絶対に考えられないことだった。
「ねえ」葵が莉子を見つめてきた。「なんだっけ。彩花さんがいってた屋台の名前......」
「ええと」莉子はメモを取りだした。「どこいったかな。あ、これ」
〝蒜香小捲〟と書いてある。読み方はわからない。
「探そっか」と葵は桟橋を引き返し、集落に向かいだした。
三人とも旅行用トランクをひきずっていた。宿泊先はまだ検討すらしていない。とにかくこの漁村をめざす、それしか考えてこなかった。
おぼろに外灯に照らされた集落は、波照間の真っ暗な夜の闇に比べれば歩きやすく、実際にちらほらと人出もあった。集落の中心部に軒を連ねる、粗末なつくりの商店はいずれもまだ営業中だった。
結愛が歩きながらいった。「わたし、海外ってサイパン以来なんだけどさー。なんかここ、外国って感じがしないね」
内地の人ならともかく、わたしたちにとってはそうだと莉子は感じた。コンクリの平屋も椰子の木も、沖縄で見慣れた眺めだからだろう。たしかに看板が漢字という以外、異国情緒はさほどない。居住者の生活感に溢れ、公私が混在し雑然としている店先や、暇そうに外で腰をおろす老人、放し飼いの犬。いずれも八重山諸島でお馴染みの光景だった。
「あった!」葵がだしぬけに声を張りあげた。「ね、あれじゃない?」
指さした先に、老婦が中華鍋で炒め物をこしらえている屋台があった。暖簾に『蒜香小捲』とある。
三人はそれぞれに歓声をあげて、歩を早めた。
屋台に近づくと、老婦はこちらを見た。「你好」
「ニ」莉子は緊張しながら応じた。「ニイハオ......」
しかし、その直後に老婦が喋った言葉は、まったく理解不能だった。
結愛が呆然とした顔でつぶやいた。「ジャッキー・チェンの映画みたい......」
莉子は、炒め物の騒音に掻き消されまいと大声でいった。「あのう、わたしたち、日本人です。わかりますか? 沖縄からきました」
だが、老婦は顔をしかめて、またも現地の言語でまくしたてるばかりだった。
日本統治下に日本語教育が施されたせいもあって、高齢者が話せることも多いときいたが、老婦はその例に当てはまらないようだった。やれやれという顔をして、家の玄関を振りかえり、なにごとか呼びかけた。
やがて、玄関からひとりの老人が姿を現した。ひょろりとした身体つきに白髪頭、かなりの高齢らしいが、ランニングシャツに半ズボンだった。さすがにそこまで暑くはないが、老人はその服装で平気のようだった。
老人は少しばかり変わったイントネーションできいてきた。「なんですかぁー」
莉子たちはほっとして笑みを交わしあった。言葉が通じれば怖いものはない。
葵がたずねた。「黄春雲さんって人いますか?」
だが、老人には聴き取れなかったらしい。眉をひそめてききかえしてきた。「なんですかぁ」
結愛が不安そうにつぶやく。「この人、なんですかしか言わないよ」
「しっ」葵は結愛を咎める素振りをみせると、メモ帳を開いた。黄春雲と漢字で書いたページを老人にしめす。「会いにきたんです、黄春雲さんに」
老人はなおも険しい顔をしていた。老婦になにか台湾語でたずねる、老婦はいっそう不快そうな表情になり、早目に喋りながら中華鍋を振った。
やがて老人が告げてきた。「いない」
莉子は面食らった。「いないって......。黄春雲さんが、ですか?」
「あのね」老人はあまり日本語が得意でないらしく、たどたどしい口調でいった。「その人、みんな訪ねてくる。だけど妻も、私も、いない」
「知らないってことですか」
「そうそう。妻も私も、知らない。その人」
......弱った。たしかにこの屋台のはずなのに。
結愛がじろりと老人を睨んだ。「しらばっくれてんじゃないの?」
老人は表情ひとつ変えなかった。「なんですかぁー」
これでは埓があかない。莉子は辺りを見まわした。
すぐに、隣りにある古びた倉庫が目に入った。こうした集落にありがちな建物だが、立地からして、鳥堀彩花が説明していた場所に違いない。黄春雲と、そのパートナーという林馮なる男のふたりが、あの倉庫に嘉陽果議員一行を招きいれた。そこに、くだんの巨大なロートがあったはずだ。
莉子は老人にきいた。「あの倉庫、なかをみせてもらえないでしょうか?」
「ふん」結愛がつぶやく。「どうせまた、なんですかっていうんじゃないの」
ところが、老人はあっさりと踵をかえした。「いいですよ」
「あれっ」結愛が声をあげる。莉子は思わず笑った。葵も苦笑しながら歩きだした。
スライド式の扉は開け放たれていた。なかに入ると、老人が裸電球を灯してくれた。
もぬけの殻だった。凹凸のある土間はかなり年季が入っていて、埃や砂が積もっている。木製の柱や梁も年代もののようだった。長いこと使われずに放置されているように見える。しかし......。
莉子はつかつかと奥に踏みいった。しゃがみこんで床に指先を走らせる。
堆積物にむらがある。この辺りの床はさほど汚れていない。掃き掃除をしたか、ごく最近までなにか置かれていたか。いずれにしても、ここ数日中に人の手が入っている。
立ちあがって振りかえると、莉子は老人にたずねた。「前にここを使っていた人は?」
「前」老人は、慣れない日本語をひねりだそうと顔をしかめていた。「借りていた人、でていった」
「でていった? どこに?」
老人はしばし間を置いていった。「なんですかぁー」
「もう!」結愛が怒りのいろを浮かべた。「肝心なときには日本語わからなくなるって、どういうこと。まるでおまわりさんの言葉だけ聴き取れない外人の露天商さー」
葵がなだめるようにつぶやいた。「むかついても仕方ないでしょ。お互いさまなんだし」
莉子は長い時間をかけて老人と対話したが、この倉庫の借り手が最近になって退出したという以外に、情報をひきだすことはできなかった。実際、この老人は借り手についてよく知らないのだろう。そんなふうにも思えた。
じれったくなり、莉子はききたいことをすべて老人にぶつけることにした。「あのですね、ここですごい発明品を作ってた人がいたんです。海水淡水化を実現するフィルターです。わかります? 淡水化」
老人は疲れてきたらしく、言葉はしだいに台湾語に切り替わりだした。舌は滑らかになったものの、莉子にはその意味がまるでわからなかった。
葵がメモ帳に〝淡水化〟と書き、それを老人にしめした。
すると老人は、しばしメモ帳を見つめると、書く物をよこすように身ぶりで要求してきた。葵がメモ帳とペンを渡すと、老人はなにかを書きだした。
やがて差しだされたメモ帳を、莉子は受けとった。そこには〝台北車站〟とあった。
台北車站。タイペイ・メインステーション、ようするに台北駅だった。ここに来るまでの道中で利用した、台湾新幹線の始発駅だ。
莉子は辛抱強く食い下がり、どういう意味なのか老人にたずねたが、言葉が通じなくてはどうしようもなかった。老人はどうやら、莉子たちにそこに行くことを勧めているようだった。理由もなにもかも、行ってみればわかる。そう主張しているように思える。
これ以上の意思の疎通は困難だった。泊まる場所も確保していないのに、こんな田舎に取り残されるわけにもいかない。莉子は老人に礼をいって、倉庫をでた。
集落を後にしながら、莉子は腕時計を見た。「午後十時四十七分か。台中駅まで戻れば、まだ新幹線が動いてるね」
葵が不満そうにつぶやいた。「なんか行き当たりばったり......。こんなことでだいじょうぶ?」
結愛も同意をしめしてきた。「台北駅って、さっき新幹線に乗ったところでしょ? 東京駅みたいなでっかい駅さー。ずいぶんざっくりした手がかりだよね。行ってどうにかなるのかな」
莉子は憂鬱な気分でつぶやいた。「わからない......。けど、行ってみるしかない」
心のもやは、いっこうに解消される兆しがない。二十歳のころから三年も勉強して身についたフランス語も、ここではなんの役にも立たない。台湾か中国に憧れを抱いておけばよかった。夢中になりさえすれば、いくらか知識を吸収できていたはずなのに。
インプット
台中駅から新幹線で一時間ほど北に戻る。午前一時近くになって、ようやく台北駅に到着した。
新幹線のホームは地階だったが、そこからエスカレーターに乗って一階にのぼった。駅のメインロビーにでる。広いフロアに高い天井まで吹き抜けたホール風の空間は、さしずめ奈良の東大寺大仏殿のようだったが、この駅舎は木造ではなくコンクリ製だった。むろん、仏像が鎮座しているわけではない。中央には在来線の切符売り場がある。すでに終電の時刻を過ぎているらしく、どの窓口も閉まっている。
辺りは閑散としていて、二階のレストラン街につづくエスカレーターも停止し、売店もほとんどはシャッターを閉じていた。ただし、駅構内のセブン-イレブンはまだ営業中だったし、小さな書店も明かりが点いている。眺めも雰囲気も、結愛が指摘したとおり東京駅に近かった。
莉子はフロアにたたずんで、辺りを見まわした。エントランスの向こうには、ロータリーに連なるタクシーが見えている。夜の市街地が広がっていた。
どうするべきか見当もつかない......。
「ほら」結愛が福助人形のような目をさらに丸くしていった。「いったとおりさー。こんな大都会の駅に来たって、どうすべきかわかるはずないでしょ」
葵は指さした。「あそこに駅員さんが歩いているよ。きいてみれば」
戸惑いとともに莉子はつぶやいた。「だけど......。言葉わからないし」
「そんなの承知できたんでしょ。ためらってる場合じゃないわ」葵は駅員のほうに駆けだしながら声をかけた。「すみませーん。ちょっと」
結愛が旅行用トランクをひきずりながら葵を追う。莉子もその後につづいた。
駅員は立ちどまってこちらを向いた。年齢は若そうだ。日本語はたぶん無理だろう。
それでも葵はかまわないようすで話しかけた。「海水淡水化の研究してる黄春雲さんって人、どこにいるか知りませんか」
反応は予期したとおりだった。駅員はただ戸惑い顔を浮かべて黙りこむばかりだ。
すると結愛が葵に進言した。「さっきのメモみせたら? あの漁村のおじいさんも、メモ見て台北駅に行くよう指示したんだから」
「そうね」葵はメモ帳を取りだして、開いてみせた。
〝淡水化〟と書かれたページを見つめると、駅員は首をひねった。やや自信なさそうに、壁の路線図に歩み寄る。
看板には〝捷運/MRT〟とあった。新聞で読んだことがあると莉子は思った。MRTといえば在来線のなかでも、新しくできた地下鉄を指すはずだ。
駅員はその路線図の北の果てにある駅を指し示した。
葵と結愛、そして莉子は、揃ってその駅名を読みあげた。「淡水......」
「ダンシュェイ」と駅員はいった。それが台湾での読み方らしい。質問には答えた、そういいたげな態度で駅員は歩き去っていった。
呆然とした面持ちの葵が、なおも路線図を見つめてつぶやく。「駅名なの......? っていうか、この路線。名前もずばり、淡水線って書いてある」
莉子は肩を落とした。
たしかに台湾の北端には、淡水という名の観光地があったはずだ。漁港の老人は、葵のメモを見て〝淡水站〟への行き方をきいていると勘違いしたのだろう。
結愛が顔をしかめた。「もう......。葵。化って字が崩れてるさー。だからおじいさんも読み間違えたんでしょ」
葵は心外だというように結愛にいった。「どこが崩れてるのよ。走り書きではあっても、ちゃんと読めるでしょう。これが站って字に見えるなんて老眼よ」
「そりゃ老眼でしょ。おじいさんだったんだし」
ふたりを仲裁しようと莉子は穏やかに告げた。「まあまあ......。こういうこともあるって」
ところが、葵と結愛は揃って不満そうな顔を向けてきた。葵は苛立ちをあらわにした。
「莉子がここに来るべきだっていったんでしょ」
「だって」莉子は情けない自分の声をきいた。「終電まで時間がなかったし......」
「こんなことになるなら、野宿を覚悟であの漁村の住民に質問してまわったほうがよかったわよ。わたしたちは真相を探りにきてるのよ。現地を離れてどうするの」
結愛がいった。「お腹すいたー」
三人は黙りこんだ。沈黙がおりてくる。
たしかに空腹だった。それに疲労感も押し寄せてきている。花蓮空港に着いて以来、緊張のせいで何も感じられなかったのが、ここへきてようやく自分に目が向いた。
葵がたずねてきた。「莉子。宿泊先の当てはあるの?」
「ない。台湾初めてだし」
はぁ、と葵はため息をついた。「賢くなったんじゃなかったの?」
ぐうの音もでない。莉子は黙りこむしかなかった。
パリに同行した喜屋武先生にくらべると、ふたりの友人は早々と莉子の成長を認め、信頼してくれていたようだ。わたしはそれに応えられなかった。期待を裏切ってしまった。
いつものように調子をだせない。この新天地についてインプットが何もなかったせいだ。
「いいわ」葵が微笑とともにiフォーンを取りだした。「気にしないで。だいじょうぶだから。わたしにまかせて」
それを見て結愛がきいた。「ケータイ、通じるの?」
「海外ローミングサービスってやつ」葵はiフォーンを操作した。「ホテル予約のサイトを表示して......と。ああ。あった。記憶の片隅に残ってたんだよね。このサイトって基本的に日本国内用だけど、海外もグアムと台湾だけは含まれてるの」
「まじ?」結愛は目を輝かせた。「きょうの宿泊は?」
「可能みたい。ええと、どこにしようか......」
莉子はいった。「なるべく安いところを選ばなきゃ」
「えー?」葵は異議を唱えてきた。「やだ。絶対汚いしサービスも悪いでしょ」
結愛がむっとした顔で葵を睨みつける。「莉子がお金だしてくれるのに、葵がきめるの?」
「わたしはね、結愛と違って貯蓄があるの。選ぶからにはホテル代も自分でだすわ。高級なところ以外はお断り」葵はiフォーンの画面にタッチした。「これがよさそう。きーめた、ここに二泊ね」
ため息をついて結愛がつぶやいた。「超身勝手。小学生のころからそうだったさー。みんなで自転車で高那崎にでかけたときにも、葵ひとりだけどんどん先にいっちゃって」
葵は悪びれたようすもなくいった。「バスタブもない安宿に泊まりたければ好きにすれば? さ、急ぎましょ。三人部屋が予約できたけど、レイトチェックインも午前二時までだって」
ふたりが歩きだす。莉子はふと、店じまいを始めている書店に目をとめた。
「ごめん」莉子は声をかけると、書店に駆けだした。「ちょっと待ってて」
小規模な店舗だった。雑誌コーナーのほかに書籍が少しあるだけだ。真っ先に目についたのは雑誌〝台北 Walker〟だった。角川グループは台湾にも進出しているらしい。ただし、見出しの文字には漢字が並んでいる。中文版のようだ。買っても読めない。
日本語の本は......。あった。旅行関係の書籍の棚に『地球の歩き方 台湾』が見つかった。
値段は三百元だった。ニュー台湾ドルとも呼ばれるこの土地の通貨、一元はおよそ三円。よって九百円ぐらいだった。物価が日本の半分という噂は本当らしかった。
ほかにも台湾についての解説本を何冊か一緒にレジに持っていく。空港で両替してきた紙幣で支払いを済ませ、本を片手に店をでる。莉子は葵たちにいった。「お待たせー」
葵は莉子の手もとを見た。「買うなら地図だけでよかったんじゃない? 二日間しかないのよ。そんな分厚い本を何冊も読みきれないでしょ」
莉子は無言で笑ってみせた。
だが内心は、強い決意に満ちていた。ひと晩で読めるだけ読んで情報を頭に刻みこむ。いまこそ感受性に併う記憶力を発動すべきときだ。これ以上、ふたりに迷惑はかけられない。
わたしがいいだしたことだ。しっかりしなきゃ......。
台北市街
翌朝、台北の空は青かった。二月下旬にして初夏の陽気に爽やかなそよ風。八重山諸島に似て過ごしやすい。
莉子は、結愛とともにホテルの庭園に立ちつくしていた。ふたりとも、きょうはそれなりにカジュアルルックをファッショナブルにきめていた。莉子はシャギーカーデにニーハイブーツ、結愛のほうはミリタリーコートにニットワンピ。
とはいえ、莉子は結愛のコーディネイトよりも、ホテルのたたずまいに心を奪われてしまっていた。結愛も同様のようだった。ふたりは並んで、巨大なホテルを真正面から見あげた。
すごい......。絶句するしかない眺め。昨晩、タクシーで到着したときには真っ暗だったが、陽が昇ってから外にでてみると、とんでもないところに宿泊していたのだとわかる。
圓山大飯店。台北市内から小高い丘をのぼった先にある、宮廷建築の粋を尽くした絢爛豪華な建造物。十四階建てにして、屋根にはオレンジいろの瓦を敷き詰め、鯱の代わりに龍を左右に据えている。繊細な彫刻は各フロアの外壁をも埋めていた。ほかにも石獅子や梅花がいたるところに刻みこまれ、各階を縦に貫く深紅の円柱とともに通路を彩っていた。左右対称、横長にひろがる全体像は首里城を思い起こさせるが、ずっと規模が大きく圧倒的な存在感を誇る。まさに地上に出現した龍宮城。中華の派手さここに極まれりといった外観だった。
かつては迎賓館だっただけに、そのスケールは半端なものではなかった。出入りしたロビーも内装は真っ赤、清朝の宮廷そのものだったし、いまふたりがたたずんでいるのも、広大なロータリーの真ん中にある階段状の庭園だった。背後には敷地の入り口をしめす三門があって、これにもゴージャスな装飾が施されている。
呆然としたようすで結愛がつぶやいた。「『北京の55日』みたい......」
莉子もホテルを眺めたままささやいた。「渋い映画知ってるのね」
「大飯店って、ご飯食べるだけのところじゃなかったんだね」
「そう。大きなホテルって意味」
「小さなホテルは? 小飯店?」
「いえ。ただの飯店。......だと思う」
エントランスから葵が姿を現した。テーラードジャケットにデニム姿の葵は、まるで王妃のように気取ったしぐさで建物を指し示してから、小走りに駆けてきた。
「どう?」葵は息を弾ませながらいった。「こういうところに泊まってこその台湾旅行でしょ」
結愛は頭をかいた。「部屋は快適だったけど、駅前で買っていった臭豆腐を晩御飯に持ちこんだのは、迷惑だったんじゃないかなぁ」
「そうでもないでしょ。においは強烈だったけど夜中だったし。さすがにここのレストランで食べるわけにはいかないわよ、高すぎるし」
いや......。確実に迷惑だったろうと莉子は思った。けさも部屋に充満したにおいのせいで目が覚めたぐらいだ。昨晩乗せてくれたタクシーのその後が心配だった。
「で」結愛がきいた。「これからどうする?」
葵はいった。「思ったんだけどさ。人探しといえば警察じゃない?」
「賛成」と結愛は片手をあげた。
「じゃあ、また台湾新幹線で台中駅まで行ってから、地元の警察署をあたるわけ」
莉子は告げた。「いえ。台湾警察はとても優秀で、遠く離れた管轄でも相談を受け付けてくれるらしいの。だから台北市の警察署に行けばいいのよ」
「ほんと? じゃあタクシーで......」
「地下鉄でいきましょうよ。善導寺駅を降りてすぐだし。ここから圓山駅へは無料のシャトルバスがでてるし。警察署は、さすがに見ればわかるでしょう」
「だいじょうぶかな。偽警官にだまされちゃったりしない?」
「こっちの警察は、警官と称する人の両手十本指の指紋と、年齢、所轄をファックスで送れば、すぐに照合して確認してくれるんだって、名前は情報保護の観点から省略可。市民からの確認要請を、警官は断れない。そういう規則があるの」
「......どうしてそんなこと知ってるの?」
結愛も驚きのいろを浮かべていた。「ゆうべ遅くまで本を読んでたから? そういえば、読みながら泣いてなかった?」
「あー」莉子は笑うしかなかった。「いつもの癖みたいなもので......。感情に身をまかせないと頭に入らないの」
「本気で心配したんだよ。葵に責められたから精神を病んだんじゃないかって」
葵が困惑したようにいった。「そんなに強くいったつもりは......」
莉子は首を横に振ってみせた。「だから違うって。自分なりの読書のコツなの」
「コツねぇ......。そういえば莉子と結愛って、六年生のころ先生に『漫画でわかる算数』とか、そういう本を押しつけられてなかった? せめてこれを読めって」
そういえばそんなこともあった。莉子は結愛と顔を見合わせ、笑いあった。
結愛は吐き捨てた。「あんなの役に立たないって。漫画っていっても、キャラの横にでっかいフキダシが描いてあって、そのなかに教科書と同じことが並んでるだけさー。意味ないよ。ね、莉子?」
「そ、そうね......」莉子はつきあいで笑ったが、本心では賛同していなかった。
どうしても覚えられない本の記述があった場合、莉子は鉛筆で該当箇所をフキダシ状に囲うことにしている。欄外にケロロ軍曹の顔を描き、記述内容を喋っているかのようにみせる。不充分に思える場合は、文中のすべての語尾を『......であります』に訂正する。
するとどうだろう。ケロロが内容に沿った多様な感情を持って語っているように感じられるではないか。莉子はこの方法でケロロとともに笑い、ケロロとともに泣いて、情動に従いながら文脈を記憶するのだった。実際、昨晩も読んでいた本の複数のページにケロロを登場させた。
それらの勉強の成果が現れるかどうか、きょうのわたしの働きいかんにかかっている。莉子はふたりをエントランス前のバス乗り場にいざなった。いよいよ能力が試されるときだ。
地下鉄MRTの圓山駅は地上にあった。ホームも車両も新しく、揺れも少なくて快適だった。莉子たちの乗った電車は出発してほどなく地面に潜り、何駅かを経て台北駅に着いた。
ここから板南線に乗り換えればひと駅で目的地だが、距離も短いので外にでて歩くことにきめた。
昼間見る台北駅周辺は、都市部でありながら、整理と未整理の両者が混在する印象を受けた。新宿三越アルコットとうりふたつの新光三越、そのすぐ脇には粗末なアーケードがあって、小さな飲食店が猥雑にひしめきあう。ほとんどが看板以外には店がまえらしきものもなく、ただ開放された間口から歩道にまで机と椅子を溢れさせ、カウンターには食材を積みあげてひたすら調理をつづける。臭豆腐のみならず、あらゆる料理のにおいが織り混ざって、なんともいえない臭気を辺り一帯にまき散らす。
市議会選挙が追っているらしく、ビル看板やバスの外側にまで巨大な議員候補の顔写真が掲載されていた。交差点では、どこを向いても候補者の顔だらけだ。選挙広告の規制が厳しい日本とはずいぶん異なる光景だった。
それに、やたらとセブン-イレブンが目につく。ほんの数十メートルごとにセブン-イレブンが存在している。道路という道路に出店しているようだ。ひとつの店舗の規模は日本よりも小さかった。こちらのセブン-イレブンには、OPEN小将という可愛いイメージキャラクターが存在し、看板やポスターに描かれている。きのう読んだ本にも載っていた。デザインしたのは日本人だったはずだ。
老朽化し歪んだ石造りの建築物と、真新しいインテリジェントビルが肩を並べるふしぎな街並みを歩きつづける。クルマはアメリカと同じ右側通行、左ハンドルだったが、トヨタを頻繁に見かける。少し前のモデルのベンツもよく走っている。わりと裕福な人が多いのだろうか。
片側三車線の大通り沿いにしばらく歩くと、すぐに地下鉄の出入り口が見えてきた。善導寺站とある。
そこに面した広い敷地、重厚な門がまえに、堅牢な建物、なぜか電飾の縁取りがついた看板。〝警政署〟と記してあった。
玄関につづく短い階段の左右に立つふたりの制服警官は、まるで衛兵のようにぴくりとも動かない。門は開いているものの、侵入を拒む沈黙のバリアが張り巡らされていた。
「んー」莉子は困惑した。「入っていいかどうか......」
結愛も首をひねっていた。「なかに入れたとしても、言葉がわからなきゃ相談できないさー。ボディランゲージにつきあってくれるほど暇そうじゃないし」
すると葵がいった。「ね、あのホテル。Sマークってことはシェラトンじゃない?」
葵が指さしたほうを見やる。道路をはさんだちょうど向かいに、高級そうなホテルがあった。圓山大飯店とは対照的にこちらは洋風で、世界じゅうのどこの都市でも見かけるようなシックな造りだ。台北喜來登大飯店とあった。英語表記は Sheraton Taipei Hotel。
莉子は胸がはずむ思いだった。「なるほどー。シェラトンなら日本人宿泊客にやさしいから......」
「そう。きっと日本語のできる従業員がいるはず。行ってみましょ」
向こうに渡るには交差点まで戻らねばならなかった。信号機は、赤に変わるまでの残り秒数をデジタル表示している。歩行者通行可をしめす青い人形が、わざわざアニメーションで歩いているように見える仕組みだった。
ところが残り十秒を切ると、その人形の表示はせかせかと走る動作に変わった。結愛が駆けだしながら叫んだ。「走ってー!」
信号機にこうも具体的に急かされるとは。実際、走ったおかげでぎりぎり間にあった。せっかちな台湾人の原付バイクの群れが、洪水のように押し寄せる。恐ろしいほどに詰まった車間距離。よく事故を起こさないものだった。
ほっと胸を撫でおろしてホテルに向かう。シェラトンのエントランスは、圓山大飯店に比べると人を選ばない印象があった。回転式のドアをくぐると、落ち着いた雰囲気の洋風のロビーが広がっていた。フロントの前に群がる客の人種もさまざまだ。
結愛がつぶやいた。「ここに宿泊すりゃよかったさー。圓山大飯店って何もない丘の上でしょ。アクセス最低」
葵はすまし顔でかえした。「愚痴いわないでよ。シェラトンは空いてなかったっての」
すぐに莉子は、自分たちの声以外に日本語の会話がきこえてくるのに気づいた。
夫婦とおぼしき中年の男女が、若い女性従業員と立ち話をしている。女性従業員はスマートなモデル体型を制服に包み、高級ホテルにふさわしい接客態度をとっていた。胸には日本の国旗のバッジをつけている。流暢な日本語でたずねた。「どちらにおいでになりますか?」
首から一眼レフカメラをさげた夫がいう。「ええと、北に投げる駅と書くところ......」
「北投駅ですね。善導寺駅から台北駅にでられまして、淡水線にお乗り換えください」
妻が微笑した。「助かるわ。行きましょ」
ふたりは連れだってエントランスのほうに歩いてくる。
莉子はすれちがいざま、頭に閃くものがあった。すぐさま夫婦に声をかける。「お待ちください。北投駅でなく剣潭駅に行かれたいのでは?」
夫婦は驚いた顔で立ちどまった。妻が目をぱちくりさせてたずねる。「はい?」
「ちょ」葵があわてた顔でささやいてきた。「ちょっと、どういうつもりなの?」
結愛も動揺しているようすだった。「この人たち、莉子の知り合い?」
すると女性従業員も、トラブルを疑ったらしくつかつかと歩み寄ってきた。緊張した笑みを浮かべながらたずねてくる。「どうかなさいましたか?」
莉子はすましていった。「いえ。こちらのご夫婦はLILIちゃんにお会いになりたいのかと」
中年の男女は目を剥いて、顔を見合わせた。妻のほうが莉子に向き直ってたずねる。
「ええ、そうよ。なぜわかるの?」
葵が眉をひそめた。「リリちゃん?」
ふっと笑って莉子は告げた。「台湾で人気の巨大鮫。日本のバラエティー番組でも紹介されたことがあるの。台北市内に水族館は一か所だけだから、現地の地図かガイドブックでそれを見つけて、北投駅前にあると思われたんでしょう」
夫のほうがうなずいた。「ホテルの部屋にあった地図帳を見たら、駅前の建物に水族館と書いてあった」
「違うんです。台湾で水族館という三文字は、熱帯魚売り場のことなんです。日本でいう水族館は海洋館といいます。つまり、おでかけになりたいのは台北新海洋館です」
「ああっ」女性従業員は目を瞠った。「それなら、こちらのかたのおっしゃるとおりです......。台北新海洋館ならたしかに、剣潭駅が最寄り駅です」
莉子は夫婦にいった。「台北駅から淡水方面に五つめの駅です。二〇〇七年に閉館した旧海洋館とは逆方向、圓山側の出口から徒歩三分です。でも、新海洋館も今月いっぱいで営業を終了ですよね」
「そう」夫がうなずいた。「だからぜひ見ておこうと思って......。しかし、驚いたな。どうして水族......いや、海洋館に行くつもりだとわかったんだね?」
「カメラレンズがキャノンのEF二十八ミリF一・八USM、ストロボいらずで水槽のなかを撮影するのに最適です。北に投げる駅とお尋ねだったので、失礼ながら台湾語の漢字表記にはお詳しくないと気づきました。なおかつ北投駅周辺は住宅街ばかりで日中そのレンズが活躍する施設はありません。台北の富裕層居住区にはよく熱帯魚を売るお店があるので、もしやと思ったんです」
夫婦はまた顔を見合わせ、ふたりとも弾けるような笑い声をあげた。
「すごいな」夫はいった。「きみのおかげで無駄足を踏まずに済んだよ」
妻のほうも、夫と立ち去りかけながら告げた。「日本語おじょうずですわね。謝謝」
台湾人と間違われたらしい......。莉子は笑みが凍りつくのを感じた。葵と結愛は盛大に笑った。
女性従業員が夫婦を見送りにエントランスに向かう。結愛ははしやいだ声をあげた。
「莉子、超やばくない!? 頭良すぎさー」
葵も信じられないというように、口を手で覆っていた。「やっぱ別人みたい。ほんとにきのうの読書が役に立ってるの? 予習してきたんじゃなくて?」
「ほんの偶然」と莉子はつぶやいた。なんにせよ、調子が戻ってきたのはいいことだ。莉子は自分に対しほっと胸を撫でおろしたい気分だった。
エントランスから女性従業員が戻ってきて、莉子を見つめた。「素晴らしい勘をしてらっしゃいますね。ツアーコンダクターさんですか?」
「いえ。個人旅行中なんです」莉子は従業員の胸のバッジを見た。日本の国旗のバッジは、あくまで日本語を喋れるという意味らしい。名札には劉美玲とあった。併記された英語名によれば、読み方はリュウ・メイリン。
「そうでしたか」美玲の端整な顔に微笑が浮かんだ。「感謝申しあげます。お客様への観光案内には、常に細心の注意をはらう決まりなので。このホテルへは? お食事ですか?」
「......じつは助けがほしくて。向かいの警察署に一緒にきてくれませんか? 通訳していただきたいんです」
「警察署......。貴重品を失くされたとか?」
「そうじゃないんですけど、相談したいことがあって。ここの泊まり客でないと無理でしょうか?」
美玲は困惑のいろを浮かべた。「それは......。たとえ宿泊のお客様でも、ホテルの外に同行するのは難しいんです。まして署の手続きで通訳するとなると......」
落胆を禁じえない。莉子はつぶやいた。「そうですか......」
「でも」美玲はふと何かを思いついたように微笑した。「うちの祖父なら、いまは仕事も辞めてずっと家にいますから」
「え? 劉さんのおじいさんですか」
「わたしのことは日本語風に美玲って呼んでください。日本語を教えてくれた祖父なので、お役に立てるかと」
結愛が声をあげた。「やったー。ぜひお願いします」
美玲はにっこりと笑った。「じゃ、住所をお書きします。わたしのほうからも、祖父に電話をいれておきますので」
そういって美玲がフロントに歩き去ると、葵がため息をついた。「親切にしてもらって、こんなこというのはなんだけどさ。どんなおじいさんだろ。なんですかぁーとかはもう、まじ勘弁」
......同感だと莉子は思った。しかし、仮に意志の疎通が難しい相手だったとしても、対話を投げだすわけにはいかない。
胃がきりきりと痛みだすほどのプレッシャーだった。それでも、わたしが何とかしなければ。
感受性
祝嶺結愛にとって、初めての台湾は胸躍る旅以外のなにものでもなかった。地下鉄に乗るための切符がプラスチック製のコインだったり、改札の出口ではそれを自販機のような挿入口に投げこんだり、しきたりの違いがとてつもなく新鮮に感じられた。
波照間島はいいところだが、ぶっちゃけ退屈、と結愛は常々思っていた。それに比べて海外のなんと刺激的なことか。淡水線で台北駅からふた駅、読み方不明の〝雙連站〟から歩くこと十分余り。迪化街なる一帯をまのあたりにしたとき、結愛はまたも感嘆の声をあげた。「『プロジェクトA』みたい。ジャッキーが自転車で走ってきそう」
葵が軽蔑のまなざしを向けてきた。「同級生とは思えないって感じ。結愛ぐらいのもんでしょ、中二のころ先生からおもちゃのヌンチャクの振りまわし方を習ってたの」
「男子に功夫映画わかる奴とかいなかったもん。どいつもこいつも米米とかマッキーとか聴いて、ほんわりしちゃってさ。『ストⅡ』でこてんぱんにしてやったさー」
莉子がいった。「清朝末期の街並みが残る商店街だし、バロックの建築様式とかは『プロジェクトA』の時代設定で合ってるんじゃない?」
「ほら」結愛がにやりとしてみせると、葵はあきれたように顔をそむけた。
狭い直線道路の両脇に、石造りの三階建てがずらりと並んでいる。どれも間口は狭く、うなぎの寝床が軒を連ねている感じだった。それだけでもタイムトリップした感覚に包まれるが、いずれも一階部分が店舗になっていて、大小の漢字の看板がいい味をだしている。見あげると、向かいの建物に渡せかけるようにして赤と黄の提灯が交互に掲げられ、祭のようなおめでたさだった。
雑然とした店は漢方薬局にカラスミの専門店、竹製品販売や布地の店などさまざまだが、交差点を越えたあたりに原付バイクの修理を請け負うガレージがあった。店先には特に飾りつけはなく、かなり年季の入った二輪が点在するなかに、工具や部品が散らばっている。油のにおいが漂っていた。
薄汚れたつなぎを着た、痩せた身体つきの若い男が、しゃがみこんで原付の後輪をいじっている。
「ここね」と莉子はメモ用紙を見ながらいった。男に声をかける。「すみません」
男は工具を置いて、振り向きながら立ちあがった。結愛は息を呑んだ。
かっこいい......。第一印象はそのひとことに集約された。髪はやや長め、彫りが深くて鼻が高く、頬のこけたイケメンだった。浅黒く日焼けしていて、切れ長の目は涼しげ、小顔のせいで八頭身はあるだろう。着痩せするタイプのようだが鍛えているらしかった。
しかし、男はどこか戸惑ったような顔で、台湾語でぼそぼそと応じた。
結愛は面食らった。「ありゃ。日本語喋れないさー」
葵はうんざり顔でつぶやいた。「おじいさんに見える? この人じゃないのよ」
すると莉子が男に向かって告げた。「ウォーシツォンリーベンライダヲ。ヂォーリイォウホェイジァンリーユィーダヲレンマ」
すごい。台湾語喋ってる......。莉子の言葉は通じたようすで、男がなにか返事をした。
ところが莉子は、当惑顔で押し黙るばかりだった。
葵が莉子にきいた。「どうしたの? なにを話したわけ?」
「わたしたちは日本人です。日本語を喋れる人いますかって。でも彼の返事がわかんない」
「なにそれ......」
「『地球の歩き方』の基本会話のページに載ってたのを丸暗記しただけだから......。ほかに使えそうな言葉もないし」
それでも男は空気を察したらしい。無言のまま奥の戸口に向かうと、なにごとか声をかけた。
しばらくして、戸口からもうひとりがでてきた。
白髪頭の高齢者だが、漁村で出会った老人とは違い、皺ひとつない開襟シャツとスラックス姿だった。背筋も伸びて足どりも若々しい。髭はなく、老眼鏡もかけていなかった。痩せた身体つきや、やはり頭部が小さいあたりは、つなぎの男との共通点だった。
老紳士は流暢に告げてきた。「いらっしゃい。美玲がいってた日本のみなさんだね」
思わず結愛たちは顔を見合わせた。落ち着き払った言葉づかい。訛りはまったくない。
「あ、あの」葵がいった。「ひょっとして日本のかた?」
「まさか」老紳士は笑った。「劉瑞賢といいます。美玲の祖父でね、瑞賢と呼んでくれればいいよ。日治時期に十歳まで日本語教育を受けていたから、私の言葉は小学三年の水準だけど」
結愛は首を横に振ってみせた。「とんでもない。八重山方言にまみれたわたしたちより、ずっと日本語がおじょうず......」
瑞賢は笑って、つなぎの男を指さした。「彼も私の孫でね。大坤。美玲の弟。彼も大坤と呼べばいい」
大坤は無表情のまま、軽く会釈をしただけだった。
「さて」瑞賢は戸口に向かった。「なかへどうぞ。客間と呼べる部屋はないけど、お茶をおだししよう」
莉子や葵につづいて住居スペースに足を踏みいれる。床は土間で、靴を履いたまま机と椅子の生活を送るらしい。これが台湾の人にとってはごくありふれたライフスタイルなのだろう、そう感じられるくつろいだ空間だった。
家具は中華風のデザインだが、天井も壁も町きだしのコンクリという造りは、沖縄で慣れ親しんだ古い家屋に似ていた。窓が小さいために薄暗い。広さは十畳ほどはありそうだが、所狭しと物が置かれているせいで乱雑な印象だった。円卓に書棚、タンスから、台所や洗濯機、壁ぎわにベッドまでがおさまっている。ソファがある角は大坤の専用空間らしく、ノートパソコンやiポッド、バイク雑誌などが集められていた。畳んだ毛布が置いてあることから察するに、彼はそのソファで寝るらしい。奥の扉は閉じている。向こうは美玲の部屋だろう。
美玲と大坤の両親は同居せず、祖父と三人暮らし。この家族なりの事情があるのだろう。珍しいとは思わなかった。離婚率の高い八重山諸島でも、よくきく話ではある。
テレビが点いていた。台湾ではいつ地デジに切り替わるか知らないが、まだブラウン管だった。こちらの司会者が進行する歌番組、出演しているゲストは馴染みの顔だった。いわゆる歌謡演歌調のイントロが流れる。
円卓についた葵がいった。「菅直人首相......?」
映像の受信状態が悪いからだろう。結愛は否定した。「細川たかしだって。似てるけど違うよ」
瑞賢が茶器に湯を注ぎながらつぶやいた。「台湾でも有名だからね」
テレビのなかの細川たかしが『心のこり』を歌いだす。私バカよね おバカさんよねうしろ指うしろ指さされても......。
海外にいる気分が急速に薄らぐ。波照間で友達の家を訪ねたかのようだ。葵と目が合い、苦笑を交わし合う。
ところが、莉子ひとりだけは違う反応をしめしていた。テレビに釘付けになっている。
秋風が吹く 港の町を 船がでていくように......。
やがて、莉子は肩を震わせ、嗚咽しだした。
葵が驚いたようすできいた。「莉子。だいじょうぶ?」
莉子はむせび泣いていたが、だんだん激しくなり、ついに顔を真っ赤にして号泣しだした。
瑞賢もさすがにあわてたようすで駆け寄ってきた。「どうしたんだ?」
結愛は唖然とした。この光景、見おぼえがある。それも何度も......。
同級生の葵も思い当たるふしがあったらしい。「まさか、莉子。まだ変わってないの?」
大粒の涙をこぼしながら、莉子は泣きじゃくった。「わたし馬鹿だった......。お馬鹿さんだった......」
「な」瑞賢は圧倒されたようすだった。「なんだ? 何が起きたんだ?」
葵は戸惑い顔で瑞賢にいった。「昔からこうなんです。音楽を聴くと無性に感動するらしくて。特にこういう懐かしの旋律には弱くて」
「感動だって?」
「ええ。いつもじゃないんですけどね。むしろ稀なんですけど、とにかく心が動かされやすいんです。溜めこんでいた溢れんばかりの感情が、一気に暴発するって感じで......。音楽の授業でもクラシック鑑賞で、わけもなく泣きだしたりしたんですよ。あとは絵画を見たりとか」
莉子はとめどなく流れ落ちる涙を拭いながら、震える声で告げた。「一方的に葵のお父さんを疑って......。困らせちゃった。間違っているなんて決めつけて、いまだに何もつかめない......」
子供のようなその告白に耳を傾けるうち、結愛の心は穏やかになっていった。
ここにくるまでに莉子が感じていたプレッシャーがいかに苛烈なものだったか。責任感に伴う孤独にどれだけさいなまれていたか。いまの莉子の反応が物語っていた。
そんな莉子を、我儘とは感じない。結愛は思った。むしろ安心した。
賢くなった莉子に、戸惑いを覚えなかったわけではない。急に遠い存在になったように感じていた。しかし、莉子は莉子だった。わたしと一緒に自転車を漕いでニシ浜に行き、学校に遅刻しては叱られて、また夕暮れまで海辺にたたずみ、満天の星を見あげた。あの莉子に違いなかった。
葵も心を同じくしているようだった。莉子の手を握り、静かに語りかける。「気にしないで......。黄春雲が行方をくらましているいまとなっては、莉子の言いぶんが正しく思えてならない。わたし、お父さんを信じたいけど、莉子のことも信じてるの。いつもまっすぐで、正しくあろうとする莉子を......。今日までどれだけ努力してきたか、中学まで一緒だったわたしにはよくわかる。最後まであきらめずにいこうよ、莉子。きっと答えはだせる」
莉子は大粒の涙をとめどなく頬に滴らせていた。テレビからはなおも細川たかしの歌声が響く。秋風のなか 枯れ葉がひとつ 枝を離れるように......。
スナックに居残ったOLが深酒のあまり泣き上戸ぶりを発揮している、そんなふうに見えなくもない。ある意味では滑稽な眺めかもしれない。それでも結愛は、温かみのある光景だと感じていた。
よかった。彼女もわたしと同じ、ひとりの人間だ。島を救おうと大義を背負って旅立っても、自分の弱さと向き合うこともある。わたしたちは支え合うことで、この困難を乗りきれる。きっと不可能も可能になる。
そのとき、莉子に折りたたまれたハンカチが差しだされた。
大坤は無言で、莉子が受け取るのを待っている。
「......ありがとう」莉子はささやくと、大坤の手からハンカチをとった。
瑞賢がほっとしたようすで、莉子にたずねた。「きみはたぶん、とても頭がよい子なんだろう?」
莉子はまだ顔をあげられずにいるようだった。葵が微笑とともにいった。「そうなんです。びっくりするぐらいに」
「私の小学生のころもそうだったよ。台湾人の児童のなかでも、日本語の上達が早かったのはよく笑い、よく泣く子たちばかりだった。私もそこに含まれるかな。天真爛漫に見られがちだが、そういう子は伸びる、幼いころの美玲もそうだったよ。大坤はそうでもなかったが」
大坤は淡々とした面持ちのまま踵をかえし、店先へとでていった。
どうも気になる。結愛は瑞賢にきいた。「彼、ほんとに日本語わからないんですか? 自分に矛先が向いたのを察知したみたいですけど」
「そりゃ、大坤といったのはわかっただろうからな。就職に有利になるだろうと思って、小さいころからふたりに日本語を教えたが、結果をだせたのは美玲のほうだった。大坤はさっぱりだった。おとなしい子だからな、感情を抑えがちなせいかもしれん」
へえ......。わたしも子供っぽいとよくいわれるが、それだけでは駄目なのだろうか。さすがに莉子みたいに大泣きすることは、あまりないのだが。
莉子はようやく落ち着いてきたらしい。ハンカチで涙を拭うと、ゆっくりと立ちあがった。
「ごめんなさい。心配かけて」莉子は冷静にそういうと、瑞賢に頭をさげた。「ご迷惑をおかけしました」
瑞賢が気遣うようにきいた。「署に行くのは明日にしたら?」
「いえ」莉子はつぶやいた。「もうだいじょうぶです。これ以上時間は無駄にできない......。早く一歩を踏みださなきゃ」
知なる宝
嘉陽果葵は、三人のなかでは自分がリーダー格にならざるをえないと感じていた。小学生のころ、葵は学年ワーストツーのふたりの面倒をみるよう担任の先生から仰せつかった。葵自身、トップの成績というわけではなかったが、なぜかふたりを指導できるのはおまえしかいないと世話係を押しつけられてしまった。
あまり会話を交わしたこともなかった莉子と結愛の補習につきあわされたのも、いまとなっては懐かしい思い出だった。二十三にもなってトリオが復活するとは予想してもみなかったが......。
正午すぎに葵たち三人は、劉瑞賢の案内で善導寺駅前の〝警政署〟を訪ねた。
なかに入って感じたのは、日本の警察署よりずっと洗練されていて、どこか洒落ているということだった。台湾の警官の制服は日本のものによく似ているうえに、警備員っぽくもあったが、威圧感がないぶんだけ親しみやすさをかもしだしている。建物は古く、署の内装はモダニズム風で、幾何学模様の装飾が多用されていた。設備は対照的に非常に現代的で、どのデスクにも真新しいコンピュータが導入されている。照明はすべてLED電球だった。
瑞賢が受付で会話を交わすと、一同はフロアの隅にある応接セットに通された。
ソファに腰掛けながら葵はいった。「ずいぶん親切にしてもらえるんですね」
「ほんと」結愛も上機嫌そうだった。「石垣の焼肉店のほうがずっと待たされるさー」
すると瑞賢が笑った。「台湾人はみんな日本人が好きだからね、特に観光客に対しては、嫌な目に遭わせたくないって心情が働くんだな」
莉子もすっかり落ち着いたようすで、微笑とともに署内を眺めている。
そんな莉子のようすが終始気になる。葵は常に莉子ばかり見ている自分を意識した。
昔と同じく、姉貴分のわたしが彼女を引っ張っていかねばならない、そう感じているからか。あれこれ彼女の世話を焼かねばならず、目を離さないことが癖になってしまったのか。
いや......。そうではないと葵は思った。いまのわたしの気持ちはもっと複雑なものだ。
突き詰めて考える前に、近づいてくる人影に気づいた。小太りで頭髪の薄い、しかし愛嬌がある顔をした初老の制服警官だった。筒状に丸めた模造紙を小脇に抱えている。
「どうも」と制服警官は愛想よくいった。「楊栄融警員といいます、どうぞよろしく」
訛りはあるものの、わりと聴き取りやすい日本語だった。結愛もぽかんとしていった。「喋れる人がいたさー」
楊はにこやかに告げてきた。「楊と呼んでください。劉さんとは古くからの知り合いでしてね。商工会議所で劉さんが部長をしていたころにも、よく日本人の相談について私が請け負ったものですよ」
劉瑞賢は楊にいった。「しばらくぶりです。楊さんが勤務中で助かりましたよ。きょうは彼女たちの付き添いで......」
「ええ。受付にききました。彰化県の鹿港の南にある漁村だってね? 管轄は台中州、彰化警察局になりますね。資料室で地図を探してきました。たぶんこの辺りだろうと」
模造紙が広げられる。海沿いの集落が紙面いっぱいに掲載されていた。縮尺はかなり大きく、一軒ずつの家屋がはっきりと判別できる。
漢字の地名にはほとんど馴染みはないが、地形はたしかに昨晩訪れた漁村に違いなかった。ほどなく葵は、徒歩の旅の出発点になった場所を見つけだした。「あった。ここ。〝碼頭站〟って書いてある」
莉子がうなずいた。「ほんとだ、それよね。じゃあ、下車してからこっちの道を通って、西に向かって......」
「そうよ」葵は地図上に指を這わせた。「この道の曲がりぐあい、覚えてる。すぐに波止場に行き着いて......。ここがわたしたちの立ち寄った桟橋」
「じゃあ」結愛が紙面に顔をくっつけんばかりにしていった。「このあたりに屋台があって、ここさー」
葵は固唾を呑んで、結愛の指さした建物を見つめた。〝柱銘倉庫〟とある。
間違いない、これが昨晩もぬけの殻になっていた倉庫だった。黄春雲はここで例の淡水化フィルターを作り、巨大なロートにセットした物を父に見せた。
莉子が楊にいった。「この倉庫を先日まで借りてた人がどうなったか、知りたいんです」
楊は携帯電話を取りだした。「どれ、柱銘倉庫ってところだな。彰化警察局に問い合わせてみますね」
すぐさま楊は電話をかけて、先方に台湾語で喋りだした。
なぜか目が疲れる。葵はそう感じた。地図は見やすく表記されているのに、しばらく凝視しただけで焦点がぼやけてきた。
結愛も同様らしく、左右のこめかみを指で押さえながらいった。「なんだか目がちかちかするね」
「そうだな」と瑞賢も眉間に皺を寄せた。「歳のせいかと思ったが、私だけじゃないのか? けさ新聞を読んだときにはなんともなかったのに」
すると莉子が、ふとなにかを思いついたように携帯電話を取りだした。
葵はきいた。「海外通話の契約、してないんでしょ?」
「電話するんじゃなくて、照明の確認」莉子は携帯をカメラモードに切り替えたらしい。それを頭上のLED電球に向ける。「あー。なるほど。これね」
莉子は腰を浮かせて、ぶら下がったいくつかの電球のうちひとつに手を伸ばした。ソケットについているスイッチを操作すると、その電球一個だけが消えた。
驚いたことに、テーブル上の地図は急に鮮明になった。細かいところまでよく見える。目に感じていた痛みもおさまった。
「なんで?」葵は思わず声をあげた。
微笑した莉子が携帯電話をしめした。「不良品のLEDってのは、肉眼ではわからないでいどにちらつくの。でもデジカメのCCDセンサーを通すと縞模様が浮かびあがるのよ」
結愛は目玉が飛びださんばかりに大きく瞼を見開いた。「ヘー! やっぱ莉子すごーい」
瑞賢も感心したようにうなずいた。「さっき電話で、美玲もずいぶんと褒めてたよ。知性も直観力もずば抜けているって。どうやらきみには、本物の賢さが備わっているようだ」
本物の賢さ......。
憂愁に似た気分が葵のなかにひろがりだした。沈みがちな自分がいる。
電話中の楊が振りかえり〝蒜香小捲〟と書いたメモを見せてきた。「その倉庫ですけど、隣りの家の前にこんな屋台がでてる......」
「そう!」結愛が興奮ぎみに立ちあがった。「それですよ、それ」
「ああ、わかりました」楊は電話に台湾語でなにか告げてから電話を切った。メモ帳にペンを走らせ、紙片を破りとってテーブルに置く。「その柱銘倉庫は、台南の安平にある海運会社が所有してるんですけどね。遠いし、格安で貸しだしているんで、管理も地元の不動産屋まかせだったらしいです。先週まで賃貸契約を結んでいたのは蔡徳有って人ですね。日本風に読むなら蔡徳有」
莉子が眉をひそめた。「蔡徳有? 黄春雲でも林馮でもなくて?」
「蔡徳有。記録にはそうあるらしいです。戸籍を照会してみたんですけどね、該当者はありませんでした」
「じゃあ......」
「受付であなたがたがおっしゃった、黄春雲と林馮って名前も調べさせましたよ。これらも同姓同名は何人かいましたが、いずれも遠方に住んでたり、まだ子供だったりお年寄りだったりでね。早い話、お探しの人間は存在しないってわけです」
「蔡徳有名義で倉庫を借りてた人は、どこに引っ越したことになってるんでしょうか」
「彰化局に資料がありました。解約時に不動産屋に提出された書類によれば、転出先はここ台北市内のようですね。現住所は広州街四九一号」
瑞賢がつぶやいた。「広州街なら遠くないよ。龍山寺の近辺だ」
「ええ」莉子がうなずく。「地下鉄板南線でここから三つめの駅ですね」
結愛は有頂天のようすだった。「さーすが莉子。じゃあさっそくいこうよ、葵」
葵のなかにためらいが生じた。
黄春雲、林馮、蔡徳有。いずれも偽名。素性を把握していただろう屋台の老婦らも、知らぬ存ぜぬを貫いていた。父は、そんな相手を一方的に信じ、十二億もの大金を払おうとしている。
「......ごめん」葵はささやいた。「ちょっと気分が悪くて。わたしだけホテルに戻って休んでていい?」
莉子が心配そうな顔で身を乗りだしてきた。「だいじょうぶ?」
思わず苦笑が漏れる。一時間ほど前に莉子に対し、わたしは同じ言葉を投げかけた。
「平気」葵はゆっくりと立ちあがった。「悪いけど、もう行くね」
瑞賢がきいてきた。「大坤にクルマで送らせようか」
「いいんです。地下鉄の駅はすぐそこだし」
テーブルを離れて歩きだす。肩に重くのしかかるものを感じていた。
つぶやくような莉子の声がきこえてくる。「無理しないで」
本来なら、せめて振りかえって微笑むべきだろう。しかし、それすらもできなかった。とりあえず、早くここをでたい。
リーダー格なんてお笑い草だ。わたしは蚊帳の外に置かれつつある。立場もはっきりしてきた。波照間島に災厄をもたらした議員の娘、それ以外の何ものでもない。
葵は警察署をでると、横断歩道を渡ってシェラトン側に向かった。地下鉄の入り口は両サイドの歩道にあるが、署に近いほうの階段は下りられなかった。莉子たちに追いつかれたら、きっとお互いに気まずくなる。
わたしは逃げだした。父を信じて旅に同行すると宣言したのに、たった一日にして挫折した。情けない限りだと葵は思った。
莉子たちのもとに留まれなかった理由はもうひとつある。絶えず疑念が頭につきまとう。わたしという存在はいったい......。
やわらかい午後の陽射しのなかを、うなだれて歩く。シェラトンの前を通り過ぎて、今度こそ善導寺駅の構内に下りようとした。
そのとき、女性の声が呼びとめた。「すみません」
顔をあげると、制服姿の女性従業員がホテルのロータリーから小走りに駆けだしてきた。
控えめなメイクながら整った目鼻だち、さっきロビーで会った劉美玲だった。こうして見るとハンサムな弟、大坤の面影が重なる。
「あ」葵は困惑を覚えながら立ちどまった。「さっきはどうも......」
美玲はにっこりと微笑んだ。「うちの祖父、お役に立てましたか?」
「もちろんです。本当にお世話になって......。いまも警察署に同行してもらって、いろいろ力になっていただいたところです」
「まあ。それはよかったです。祖父も商工会議所に勤めていたから世話好きな人なので」
「......あのう、美玲さん」
「なんですか?」
「日本語の勉強、たいへんだったですか?」
いきなりの質問に、美玲は少しばかり戸惑ったらしい。それでも笑みを浮かべていった。「小さかったころ、台湾国語と並行して祖父に勉強させられましたから......。苦労したかどうか、あまりよく覚えてません。ただ......」
「なんですか」
美玲は笑った。「日本のかたって水餃子も焼き餃子も総称して〝餃子〟っておっしゃるでしょう。台湾では餃子といえば水餃子だけなんです。焼き餃子は鍋貼っていいますしね。そういうささいな食い違いで失敗したことは、山ほどあります」
常に明るさを絶やさない。営業スマイルなのは承知しているが、救われた気持ちになる。葵の顔は自然にほころんでいた。「シェラトンに就職するのも狭き門だったんでしょうね」
「そこは、たしかに......。台湾は学歴社会ですが、わたしは大学に行かなかったので試験に合格するのはたいへんでした。でもなぜそんな話を?」
理由は自分でもよくわからない。わたしは彼女と何を話したいのだろう。葵はつぶやいた。「美玲さんが子供のころから頭がよかったってきいたので」
「そんなことないですよ」
「......自分に絶対の自信を持つぐらい、勉強したことってありますか?」
「さあ......。どうかなぁ。高卒だし。上司にも怒られてばかりだし」
「美玲さんは優秀ですよ」葵は言葉を切った。とうとう自分の本心があきらかになった。弱音と知りながら葵はつぶやいた。「わたしとは違う」
「どうしてそんなことをおっしゃるんですか」美玲は穏やかにきいてきた。「葵さん。お友達と一緒に、どなたかを探しておられるんでしょう? 力になってあげなくていいんですか」
「ただの人探しじゃないんです。......莉子が正しかったら、わたしのお父さんが間違ってる。失いたくない。友達もお父さんも」
美玲の髪が微風になびいた。その澄んだまなざしが葵をじっと見つめてくる。
「わたしは」美玲がいった。「両親を知りません。幼くして蒸発してしまったので、祖父母が親がわりでした。実の両親を信じたい気持ち、わたしもよくわかります。事情は全然違うかもしれないけど......」
距離が急に縮まったように思えた。美玲がプライバシーを明かしてくれたからだった。
葵はいたたまれない気分になった。他人であるはずの美玲にまで心配をかけてしまっている。
しばし無言でいた美玲が、静かに告げた。「弟には会いましたよね? 大坤も昔、よくわたしに怒りをぶつけてきました。勉強がはかどらないのが面白くないって。大坤も頑張ってたのは知ってるから、どうしてうまくいかないのか、わたしにもよくわからなかった。心を開いて、なんでも受けいれるしかない。弟にはそういうしかありませんでした」
心を開く、何でも受けいれる......。
莉子はたしかにそれを実践している。いや、彼女の生き方自体、それらふたつに集約されるだろう。なにも疑わずに吸収する。変化を恐れない。だから心から笑い、涙する。そして真実を知る。みずからが受けいれたからこそ、知性という宝を得る。
思いがそこに及んで、葵は吹っ切れた気がした。
拒絶していては何も得られない。ふさぎこんでは始まらない。鬱塞は人生の可能性を先細りさせてしまう。
葵は自分でも驚くほどすなおに、そのひとことを美玲に告げた。「ありがとう」
「どういたしまして」美玲は微笑みとともにいった。「お互い、あきらめずに歩みつづけましょう。お友達の莉子さんがそうしているように」
一軒家
午後二時すぎ、莉子は龍山寺駅構内から地上への階段を駆けあがった。
結愛が息を切らしながら、背後から呼びかけてくる。「莉子。おまわりさんについてきてもらったほうがよかったんじゃないかな!」
「まだ刑事事件にもなっていないから無理よ。警察が民事不介入なのは日本と一緒。葵のお父さんがお金をだましとられたら事件成立だけど、それからじゃ遅いし」
「でもさ......。葵はホテルに戻っちゃったし、瑞賢さんも家に帰っちゃったし。わたしたちだけじゃまた勝手が違ったりして、てんやわんやさー」
「ずいぶん古い表現使うのね。いいからまかせて」
「ビーピー泣いてたくせに」
「もう平気だってば......」
ふたりきりで不安を覚えないといえば嘘になる。それでも前に進まなくては。淡水化フイルター発明者の引っ越し先が判明したいま、立ちどまってはいられない。
地上にでてすぐ、公園が広がっていた。高齢者たちがベンチで日向ぼっこをしながら、軍人将棋のような〝中國象棋〟に興じている。噴水の向こう、道路をはさんで龍山寺の門があった。山という字が入ってはいるが、平地の街の賑わいのなかにある寺廟だった。沖縄風の派手な色彩と繊細な装飾を、さらにゴージャスにした印象だ。年代ものの門に広告表示用の電光掲示板を嵌めこんでしまうあたり、やはり日本とは感性が違う。
門をくぐって境内に入ると、結愛が困惑の声をあげた。「すごい混雑。それにこの煙......」
一瞬、火事を疑うほど香の煙が蔓延していた。台湾人の参拝者は、総じて熱心だった。境内を埋めつくす人ごみのなか、七本束ねた線香にいちどに点火し、両手で頭上に掲げてきびきびと三礼する。各自、小さな赤い三日月形の木片をふたつ投げて占いをする。
結愛はしばしそのようすを眺めていたが、やがてとんでもないものを見てしまったかのように耳うちしてきた。「あの人、誰も見てないと思って投げ直してるよ。ずるくない?」
「三回まではやり直していいの。そう本に書いてあったし」莉子は警察でもらった地図帳のコピーを取りだして開いた。「ええと、ここが広州街二一一号だから......こっちね」
本堂の裏手にまわって、境内から歩道にでる。交通量の多い道路沿いをひたすら歩く。
すれちがう現地の女性は、服装はおかしくないものの、なぜか裸足にビーチサンダル姿が多かった。真夏でもなく、海に近くもない市街地だというのに、変わった習慣だった。そのまま原付バイクに乗る女性もいるようだが、危なくないのだろうか。
商店街を抜けると、静けさの漂う住宅地に入った。路上駐車のクルマが多い。古びたコンクリ平屋建てが並んでいる。いずれも塀が高く、門も重厚なつくりで庭先は覗けない。
台北市内の住所は実にわかりやすかった。区画整理が行き届いている。ほどなく莉子は足をとめた。「四九一号。あった。ここね」
その家の門は鉄製で赤く塗られ、縦横に黄の門釘が打ってあった。表札はでていない。呼び鈴の類いもなかった。ノックをしてしばらく待ったが、返事もない。
困ったな。そう思いながら門を手で押してみると、驚いたことにきしみながら開いた。鍵はかかっていなかった。
ためらいがよぎる。しかし、すぐさま莉子は門の向こうに踏みいった。
「ちょっと」結愛が目を剥いていった。「勝手に入っちゃまずいさー」
「そうだろうけど、せめて留守かどうかたしかめたくて」
「なら......『こんにちは』ぐらいいおうよ」
「ニイハオ」と莉子はつぶやきながら歩を進めた。後につづく結愛も不安そうにささやく。ニイハオ。
小庭の隅には古びた井戸があった。その井戸の底を掃除するためか、アルミ製のハシゴが地面に横たえてある。長いこと雨ざらしにされていたらしく薄汚れていた。
一見して無人とわかる。ふたつある母屋のどちらも扉がなく、大きく間口が開いて奥まで覗けるからだった。いずれも十畳ほどの広さのひと部屋しか存在しない。奇妙なことに、左の建物の部屋は土間敷きの台湾風で、右は靴脱ぎ場を有する和室だった。
「へえ」結愛がいった。「さすが日本びいきの台湾さー。畳の部屋があるなんて」
莉子は唸った。「んー。畳は台湾の環境に合わないから、あまり好まれてないはずなのに......。ここ古そうだから、日本統治下に建てられたのかな」
「でも畳は新しそうだよ」
たしかにそうだ。莉子は靴を脱いで和室にあがってみた。畳はおろしたての新品に思える。数えてみると十枚あった。予想どおり十畳だった。
床の間に掛け軸はない。代わりに......なにやら小さな紙片が貼りつけてある。莉子は歩み寄った。
結愛も和室にあがってきた。「それなに?」
「明細書みたい」莉子は紙片を見つめた。「日本語ね。輸出元の欄に、市川畳店ってある。住所は長崎市泉町」
台湾には和室暮らしの習慣がないのだから、日本から畳を輸入するのは理にかなっているだろう。莉子は記載内容に目を向けた。
六二間畳×9 六二間畳(マンションタイプ)×1
「ふうん」結愛も明細書を覗きこんだ。「六二間畳......?」
莉子はいった。「縦六尺二寸、横三尺一寸の大きさの畳ってこと。あまり一般的でないサイズよね。九州地方の一部で使われてたりするけど」
「畳なんてどれも同じと思ってた。このマンションタイプってのは?」
「そう......。そこが妙よね。マンションに使うのは縦五尺六寸、横二尺八寸の小さい畳がポピュラーなんだけど......。六二間のサイズなのにマンションタイプって? 何がどう違うんだろ」
「この部屋の畳のうち、一枚がそれってことだよね」
直感的な閃きがあった。莉子はつぶやいた。「もしかして......」
畳の配置に目を向ける。縁起をかついで四枚の隅が一か所に集まらない敷き方、いわゆる祝儀敷きだった。莉子はその上を歩きまわった。一歩ごとに足の裏の感触をたしかめる。
やがて、異質に思える一枚の畳の上に立ちどまった。
「これね」莉子はしゃがみこんだ。「結愛。定規みたいに薄くてじょうぶな物、何か持ってない?」
「櫛ならあるけど」
「借りるわね」莉子は差しだされた櫛を受け取り、それを隣接する畳との隙間に突っこんだ。
結愛がきいた。「何してるの?」
手を休めずに莉子はつぶやいた。「昔ながらの畳は厚さが五・五センチから六センチぐらい。けど、いまは一・二センチから一・五センチの薄い畳も作られてる。バリアフリーの段差解消や床暖房システムの導入に対応するためよ」
「でも、この部屋の畳はぜんぶ平らになってるよ」
「だからこの畳の下だけ、四センチ強の深さの空間があるはず」ぐいと力をこめると、畳の縁が浮きあがった。「手伝って」
ふたりで力を合わせて、畳を跳ねあげてどかした。
予想どおりだった。ここだけ床があげ底になっている。その一部が刳り抜かれていた。カンペンケースぐらいの大きさの木箱がおさめてある。
「でた!」結愛は歓喜の声をあげた。「やったさー、莉子。でも何が入ってるの?」
箱はまだ新しかった。莉子は蓋を開けた。
真っ先に目に入ったのは、ゴム手袋一式。清掃に用いるごく普通の物に見える。それから封筒。なかには一枚のカードが入っていた。
カードにはなにやらデザイン化されたロゴが印刷されていたが、記されているのは繁体字の漢字ばかりだった。ただ二か所だけ、なんとか意味が把握できるところがある。
莉子はカードの文面を指さした。「この〝請帖〟ってのは、きのう読んだ本に載ってた。招待状って意味よ。それから〝士林夜市〟」
結愛が真顔でいった。「林与一のこと?」
「宇が違うでしょ。なんでそんな渋い役者知ってんの? 士林は地名で、夜市はナイトバザールみたいなもの。けど、変よね。夜市は誰でも入れるし、招待状なんて......」
「このゴム手袋は? その夜市に行くのに嵌めてくのかな」
「まさか」莉子はつぶやきながら、庭先に目をやった。
ゴム手袋。この家のどこに使うのだろう。必要になる場所があるとすれば......。
ヒント
小笠原悠斗は、角川書店本社ビルの上りエレベーターのなかに無言でたたずんでいた。
いつものごとく秋葉原の電気店がゲーマーズのようにアニメ絵のポスターが貼りまくられた、わが社のエレベーター内部。乗りあわせる社員たちは、たいてい三階の会議室フロアで降りていく。残るは七階の『週刊角川』編集部の顔見知りばかりという状況が多いが、稀に七階の人間は自分ひとりで、より階上の重役たちがエレベーター内を埋め尽くすことがある。いまがそのときだった。
グループの再編成がつづいたせいで、年配の重役たちはついていくのに必死らしい。ひとりがつぶやいた。「六月の引っ越しで、角川書店が角川マーケティングを併合するんだっけ?」
「違うよ」別のひとりがいった。「角川マーケティングと角川SSコミュニケーションズが合併だよ」
「角川コンテンツゲートがワーズギアを吸収。角川プロダクションと角川ゲームスのオフィスは移転かな......。角川エンタテインメントってまだあったか?」
「おととし、角川ヘラルド・ピクチャーズ合併後の角川映画に吸収されてる。その角川映画は先月、角川書店に合併して角川書店映像事業局」
「角川博は?」と重役のひとりが真顔でいった。
全員が眉をひそめる。エレベーターのなかはしんと静まりかえった。
小笠原は沈黙のなかでつぶやいた。「キングレコード」
一瞬の間を置いて、重役たちはげらげらと笑った。あー、角川博か! 演歌歌手の。ぴんと来なかったよ、あはは。
......だいじょうぶか、この会社。小笠原はひとり首をひねりながら、開いた扉から七階の通路に降り立った。
『週刊角川』編集部の扉に向かう。そのとき、男性の声が呼びかけた。「小笠原君」
「はい?」立ちどまって振りかえると、馴染みの顔が小走りに追いかけてきた。
細面で色白、着崩したスーツ。早稲田大准教授の氷室拓真はほっとため息をついていた。
「よかった。下の受付の人は通してくれたんだが、編集部のほうじゃ小笠原君は席を外してるの一点張りでね。呼びだしてもくれない」
「ああ......。単に僕の携帯番号を知ってる人間が少ないってだけですよ。あまり重要視されてないんで」
「僕は違うぞ」と氷室は真顔で告げると、脇に抱えていた大判の封筒を差しだしてきた。
なんだろう。小笠原はそれを受け取り、なかに入っていた一枚の書類を取りだした。
読み進めるにつれて事態の深刻さがあきらかになっていく。小笠原は動揺を禁じえなかった。
それは氷室がここ数日のうちに見聞きした事柄の覚書だった。凜田莉子の故郷、波照間島に起きた一連の出来事。動画についての検証も細かく添えられていた。
小笠原は氷室を見つめた。「これは......」
氷室がうなずいた。「嘉陽果議員からは、くれぐれも極秘にと釘を剌されたんだが、放置できなくてね。凜田さんが危惧しているとおり、事態は悪いほうに向かっている。こいつは議会を手玉にとった巨額詐欺だよ」
「詐欺......ですか。すると凜田さんはいま......」
「台湾にいるらしい。真相究明のために駆けずりまわってるみたいだが、すでに議会は発明者と契約を締結、あとは支払いを待つのみって状況だ。彼女が現地に赴いたところで、どうにもならない可能性も高い」
「僕になぜこれを?」
「議会が決議してしまったことだ、差しとめたいところだが、公示されてないから裁判はいまのところ無理でね。だから第四の権力ってやつに頼るしかない。つまりマスコミさ」
小笠原はささやいた。「なるほど......」
離島の財政を破たんさせるほどの税金の無駄遣い、しかもすべてが詐欺師の懐におさまる。そんな疑惑を見過ごしていいはずがない。
すぐさま踵をかえし、編集部への扉を開け放ちながら小笠原はいった。「編集長に提案します。出張が許可されしだい、ただちに出発します!」
午後四時すぎ。陽は傾きだして、空がわずかに赤みを帯びてきている。
嘉陽果葵は龍山寺の近くにひろがる住宅街に来ていた。むろん初めて訪ねる土地だけに不案内だが、心細くはなかった。頼りになるパートナーがいる。チュニックニットの洒落た普段着をまとった劉美玲は、路地の一角で足をとめた。「祖父がいってた住所は広州街四九一号だから......。ここね」
現場まで連れてきてくれた。葵は申しわけない気持ちでいっぱいになった。「美玲さん......。ほんとにありがとう」
「いいってば」と美玲は笑った。「午後から非番だったし」
「せっかくのオフの時間を、わたしが邪魔しちゃって......」
「だから違うって。祖父も、みんないい人ばかりだっていってたし......。友達になれて嬉しい」
屈託のない笑顔に、葵の戸惑いは薄らいだ。「わたしも」
美玲はうなずくと、重厚な門の扉に向かいあった。「莉子さんと結愛さん、先に着いたはずだけど。もう帰っちゃったのかな」
門釘が無数に打たれた、見るからに威圧的な赤い門扉。住所が判明しても、入り口が堅く閉ざされていてはどうにもならず、引き揚げたのかもしれない。
葵は門に手を這わせた。ノックをしたら音はどれくらい響くだろう......。
ところが、少しばかり力を加えると、門は甲高くきしみながら奥へと開いた。
思わず葵は美玲を見た。美玲も面食らった顔で葵を見かえした。
美玲は首をかしげながら、門を大きく開け放った。「莉子さんたち、なかにいるのかな」
葵は絶句した。鍵さえかかっていなければ門を入っても平気なのだろうか。たしかに八重山諸島でも、お年寄りは『ちゃーびら』といいながら遠慮なしに庭に踏みいってくるが......。
小庭には誰もいない。隅になぜか古井戸がある。夕方が近づいているせいもあってか、どことなく陰鬱な雰囲気が漂っていた。薄気味悪く感じられる眺めだった。
井戸を横目に美玲がつぶやいた。「貞子が這いだしてきそう」
「台湾でも『リング』って知られてるの?」
「ええ、有名だしね。いまじゃ日本のお化けっていえばまず貞子」美玲はふたつある母屋をかわるがわる見た。「台湾風の部屋と和室......。建ったのは戦前かな。近頃はこういう家もめっきり減ってる」
「和室にあがったことは?」
「ないの。でもどういう風に暮らすかは知ってる。テレビドラマでよく観るから。靴をぬいであがるんでしょ? 正座は無理だけど。わたしたち台湾人は、やっぱこっちね」
そういいながら美玲は、台湾風の土間に歩を踏みいれた。
中華風のローテーブルひとつと椅子が二脚並んでいる。テーブルの下には、四本の脚にかからないぐらいの小さな布が敷いてあった。あとは壁ぎわに棚とタンスがあるだけだ。迪化街にあった美玲の家とは違い、生活感はまるでなかった。
美玲が眉間に皺を寄せた。「なんか変......。夕方のいま、こっちに影ができてるってことは......。この部屋、南向きよ」
「南向きって、べつにおかしくないでしょう。日当たり良好ってことで」
「台湾じゃ日照がきつすぎるから、南に間口を設けるのは不自然なのよ」
「ああ......。たしかに。波照間島でも真南に向かってこんなに広い間口は造らないし」
「でしょ? 窓もないし夏場はサウナ状態になっちゃう。本来ここは物置きみたいね。家具を並べること自体おかしい。敷き物も変。洋間じゃないんだし」
「けどそれは、住んでる人の自由かも」
「日本の家で玄関の靴脱ぎ場に、座布団が敷いてあったらどう思う?」
「敷いてあるんじゃなくて落ちてるって思うかな。座布団を拾う」
「そうなのよ」美玲はつかつかとテーブルに歩み寄った。「台湾人にとってはまさにそんな状況。卓布はテーブルの下じゃなくて上でなきゃ」
美玲はかがみこんで布を取り払った。とたんにその動きがとまる。
「どうしたの?」葵は歩み寄った。
ぎくりとして、思わず凍りつく。
排除された布の下、床に奇妙な図形が彫りこんであった。いくつもの長方形が組み合わさって、より大きな長方形を構成している。うちひとつだけが、顔料らしきもので褐色に塗ってあった。
「これ何?」美玲はつぶやいた。「一、二、三......。十個の長方形」
ざわっとした感触が葵のなかに生じた。葵はつぶやいた。「祝儀敷き......」
「え?」
「四枚の隅が一か所に集まらない配置。これは和室の畳の敷き方よ」
「じゃあ、あっちの部屋? この茶色になってる一枚は?」
「わからない。でもきっと何かある。行ってみようよ」
「そうね」美玲は部屋をでていった。
図形にしめされている位置の畳をたしかめねば。葵も美玲につづいた。
小庭を突っ切ろりとしたとき、ふいに物音がした。
美玲が立ちどまる。葵もびくついて足をとめた。
「何?」美玲がこわばった顔で振り返った。「いまの......?」
音は井戸からきこえたような気がした。ひそひそと話す女の声も響いてくる。
空耳か。そう思ったとき、白く細い腕がぬっと井戸から突きだされた。髪の長い女の顔がゆっくりと這いだしてくる。
葵は美玲の悲鳴をきいた。このけたたましさはそればかりではないと葵は感じた。葵自身も同じく叫び声をあげていたからだった。
だがその直後に、美玲が驚きの声を発した。「莉子さん!?」
目を凝らすと、たしかにそれは莉子だった。泥にまみれた髪と汗だくの顔、肌の異常なてかりは貞子さながらだった。
莉子はあんぐりと口を開けていた。「葵。美玲さんも......。来てたの?」
まだ鼓動が落ち着かない。葵はため息をつきながら歩み寄った。「来てたの、じゃないでしょ。なんで井戸のなかにいたの?」
「ゴム手袋が見つかったから、てっきりこのなかに何かあるんじゃないかと......。悪いけど引っ張りあげて」
手をつかんだが、莉子の手のぬめりは強烈だった。全身がまさしくドブネズミという体たらくだ。
莉子は、井戸のなかにおろしたアルミ製のハシゴをのぼってきていた。地上に引っ張りあげると、その下につづいていた結愛が泣き顔で訴えてきた。「ふえーん。ひどい目に遭ったよー」
結愛の汚れぐあいも、これまた尋常ではなかった。においも強烈だ。両腕をつかんで助けだす。結愛は、両手にゴム手袋を嵌めていた。
葵はいった。「まじでよくやる......。地下鉄で帰れないでしょ。収穫は?」
「ゼロ」と莉子は、疲れきったように井戸の縁に腰をおろした。「おかしいなあ......。思わせぶりに一枚の畳にヒントがしめしてあったから、絶対何かでると直感したのに。井戸のなかへは誰も下りた痕跡がないし、底に泥が深く堆積してるから、物が隠してあったようにも思えない」
「ヒントって、莉子もあの布の下を見たの?」
「布って?」
美玲がいった。「土間に図面が彫ってあったの。畳の配置が」
「知らない」と莉子は見かえしてきた。「床の間に畳の明細書が貼ってあったから......。それでイレギュラーな畳に気づいたのよ」
床の間に明細書......?
おかしな話だと葵は思った。謎めかせたヒントは和室のほうにもあったのか。どちらの部屋に入ろうとも、一枚の畳の下に隠されていたというゴム手袋を発見することになった。この家のなかでゴム手袋の使用が連想される場所といえば、やはり井戸だろう。しかし、そこには何もなかったという。
どういう意味だろう。......そもそもこれらは、誰に向けられたヒントだったのか。
ネイルアート
夕方五時半すぎ。葵は、迪化街の美玲の家に来ていた。
莉子と結愛があの状態では圓山大飯店に帰れるはずもない。それ以前に、バスにも地下鉄にも乗れない。結局、美玲が弟の大坤に電話して、クルマで迎えにきてもらった。年季の入ったセダンだったが、シートをかなり汚してしまった。それでも大坤は嫌な顔ひとつせず、淡々と運転をこなしていた。内心どう思っていたか不明ではあるが。
泥まみれで家に到着したふたりは、いま風呂に入っている。葵はひとり、バイク修理店の散らかった軒先にでて、夕闇に包まれた古い商店街を眺めていた。
携帯電話を取りだして、国際通話で日本にかける。電話したのは波照間の自宅だった。向こうは午後六時半。父も家に帰っているだろう。
電話にでたのは母だった。父に代わるように頼んでから、深呼吸する。
父、嘉陽果煌の声がきこえてきた。「おう。葵か。どうしたさー。東京はどうだ」
葵は沈黙した。莉子と一緒に東京見物にでかける、父にはそう告げてあった。
「あのね、お父さん。じつはわたし、いま台湾にいるの」
「台湾?」父の声は驚きの響きを帯びた。「なぜいわなかった。......まさか」
「ええ。彰化県の漁村にも行ってきたの」
「なんと......」ため息がノイズになって耳に届く。「葵。これは重要な契約なんだ。非常にデリケートな問題なんだよ」
「知ってる。でもたしかめたかったの。黄春雲さんって人はいなかった。林馮さんって人もよ。警察に調べてもらったわ」
「何をいってるんだ? 先方とはきょうも電話で話したばかりだぞ」
「電話?」葵は耳を疑った。「電話って......。お父さん、黄さんって人と連絡つくの?」
「当たり前だろう。彼の事務所なら台北にある」
「広州街四九一号でしょ。龍山寺の近く」
「......いや。そんなところに学者がオフィスをかまえるはずないだろう」
「え? ならどこよ。本名は蔡徳有でしょ」
「葵。いったいどんな見当違いをしてるんだ? お父さんは取引には細心の注意を払ってる。心配ないさー」
「待ってよ。絶対に違う。お父さんはだまされてる。黄春雲なんて実在しない。蔡徳有が引っ越した先も、なんだか妙な土間と和室があって、おかしなメッセージが......」
「さっぱり意味がわからん。変に勘繰って、ありもしない陰謀論にでもとらわれたか? 冷静になれ。子供にわかる問題じゃないさ」
子供って。わたしはもう二十三だ。葵は語気を強めた。「黄さんの本当の事務所ってどこ?」
「それは明かせない規則だ。契約締結までは、町長にすら詳細を報告しない。世界じゅうの競合相手の横槍を防ぐためにな」
「なにが競合よ。実の娘が信用できないの? 行ってたしかめてみるから、住所を教えてよ!」
しばしの沈黙の後、父の声はぼそりと告げてきた。「いや。明かせない」
「お父さん。お願いよ。絶対に怪しいの。議会に申し立てて明日の振り込みを延期してもらって。いったん、ぜんぶ白紙撤回するの。これには島の未来がかかってるのよ」
耳障りに思えるため息がふたたびきこえた。「葵。議会の決議がどれだけ重いか、おまえにはわからないさー。もう春先だ、来年度の一般会計予算をいまさら再審議できない。町長や、ほかの島出身の議員たちにも申しわけが立たん」
「財政が破たんしたら、それこそ議員どころか島民全員に多大な迷惑が......」
「破たんなんかしない! 何をいってる。父親が信じられないのか。なら勝手にしろ!」
憤りと悲しみが同時にこみあげてきて、思わず泣きそうになる。かっとなって葵は怒鳴った。「馬鹿! なんでわかってくれないの。お父さんのためでもあるのに。島を思ってのことなのに!」
通話ボタンを押して、電話を切った。
涙を堪えながらうつむく。落ち着いてくるまで、しばし時間を要するだろう。そう実感した。
そのとき、背後に莉子の声がした。「葵......」
顔をあげて振りかえる。莉子がたたずんでいた。
風呂からあがったらしい。ここで借りたものだろう、Tシッツとデニムを身につけていた。乾かしたばかりの髪が緩くうねっている。すっぴんの顔に憂いのいろが浮かんでいた。
「......莉子」葵はかすれた自分の声をきいた。「契約の中止は無理だって。お父さん、黄春雲の素性を疑ってない」
「現住所とか学歴とか、周到に偽装してるんでしょう。倉庫の借主の名を確認したってだけじゃ、なかなか真実を受けいれてくれないでしょうね。強い目的意識は詐欺につけこまれやすくなる。葵のお父さんも、水不足の解消ばかりに目が向きすぎて、足もとに注意を払えてない」
はん。葵は諦めの気分とともにいった。「看護師やってると、ぼけてきたお年寄りの世話もよくするの。振り込め詐欺に遭った患者さんがいてね。家族はどうしてとめられなかったんだろうって、いつも疑問に思ってた。いま、その家族の気持ちがよくわかる。本人が信じきってちゃ、何をいっても無駄」
「まだ明日の昼まであるから......。最後まで頑張ろうよ。葵がわたしを励ましてくれた通りに」
胸に沁みいってくる言葉だった。葵はつぶやいた。「莉子......。ありがとう」
莉子の肩ごしに、美玲の顔がのぞいた。「食事ができたわよ」
恐縮しながら、莉子とともに部屋のなかに入る。円卓にはすでに瑞賢と大坤、それに風呂あがりの結愛がついていた。
テーブルの上は贅沢な料理の数々で埋め尽くされていた。台湾パセリの肉みそかけ、ピータンと冷奴、蒸し鶏の紹興酒漬け、中華干し豆腐とニラ炒め。イカのすり身団子や海老のチリソースもある。どれも美味しそうで食欲をそそられる。
美玲は、たたんだ服を莉子たちに差しだした。「これ、わたしのだけど。よかったら洗濯が終わるまでのあいだ......」
「わあ」結愛が受け取りながらいった。「心から感謝します、美玲さん」
いちど知り合った人に礼を尽くし、徹底的に親切にする。八重山地方の風習に似ていた。沖縄以外の地域に育った日本人には度が過ぎる接客に思えるだろうが、葵はすんなりと受けいれられた。本質的に世話好き、天真爛漫。台湾人はわたしたちに瓜ふたつだった。
莉子が小皿に料理をとる。それを隣りの席の大坤に差しだした。「どうぞ」
ところがほぼ同時に、結愛も小皿を大坤に渡そうとしていた。
大坤は戸惑った表情でふたりを見かえした。なぜか顔面が紅潮している。左右の手を伸ばすと、同時に両方の皿を受けとった。
瑞賢が笑った。台湾語でなにか喋ってから、日本語でいう。「大坤は照れ屋だからな。どちらかの皿を先にもらうと、もうひとりを傷つけてしまうと思ったんだろ」
美玲もからかうように笑った。「そんなに気にしなくても相手にされてないのに。こんな美人さんたちに囲まれたんじゃ、その気になるのも無理ないね。日本語勉強しとけばよかったでしょ」
しばし大坤は困惑顔で目をきょろきょろさせていたが、やがて立ちあがると、何かひとこと告げて店先へとでていった。
結愛が目を丸くした。「ひと口も食べてないよ」
だが瑞賢は気にしたようすもなく、箸で料理をつまんだ。「きょうのぶんの整備をすませてくるそうだ。もっとも、本心は同席したくてたまらないんだろうが」
すると美玲がうなずいていった。「わたしもそう思う。莉子さんか結愛さんのどちらかに気があるのよ」
「あるいは、ふたりの皿を戸惑いながら受け取ったようすから察するに、本命は葵さんかもな」
葵は莉子、結愛と視線を交わしあった。しばし絶句した後、三人はほぼ同時に笑い声をあげた。
なかでも結愛はまんざらでもなさそうだった。「こういうときって、女のほうが彼氏の言葉を勉強するべきなのかな。ね、葵?」
「さあ」葵は嘘偽りのない自分の心情を口にした。「かっこいいとは思うけど、遠距離恋愛って大変そうだし」
瑞賢は楽しそうにいった。「ずいぶん具体的な感想だね。莉子さんは?」
莉子はニラ炒めに箸を進めていたが、目を丸くして顔をあげると。ごまかすように笑った。「さあ......」
結愛が莉子を責めた。「ひとりだけずるい。好きか嫌いかちゃんといってよ」
「なんで?」
「なんでって。話の流れさー」
そういえば莉子の好きな男性のタイプはいまだに知らない。中学を卒業するまでは、男子の誰ともつきあっていなかったように思う。上京後、彼氏はできただろうか。
しかし、いまの莉子は別のことに関心があるようだった。莉子は美玲にきいた。「士林夜市に行ったことある?」
「もちろん」と美玲はうなずいた。「学生のころはよく朝まで」
「詳しい?」
「ホテルのお客様がお尋ねになるから、それなりに知識は得てるつもりだけど。なぜ?」
莉子は携帯電話を取りだした。液晶に画像を表示し、美玲に渡す。
美玲はそれを受けとってきいた。「これは?」
「あの家の畳の下にあった物。持って帰りたかったけど窃盗になっちゃうから、ケータイのカメラで撮影してきたの。カードの文字読める? 士林夜市、招待状って意味だけはわかるんだけど」
「ええと......。あ、これは日租套房って個室ね」
「個室?」
「そう。夜市で買った食べ物を持ちこんでくつろげる部屋のこと。招待状っていうより、予約しましたっていう連絡状。二十七番の部屋。日付は......先週から一か月間有効になってる。期限が切れるまで毎晩、個室を使えるのよ。ふつう、裏に利用開始の時刻が書いてあるんだけど」
「午後七時ってあった。じゃあ、今晩も七時に現れるかも。黄春雲を名乗ってる人物が」
「うーん」美玲は唸った。「さっき帰る前に、あの奇妙な家の両隣りの住人に話をきいたでしょ? 家は安く貸しだされてて、最近誰かが借りたようだけど、会ったことないって」
莉子がうなずいた。「たしかにそう。漁村の倉庫と同じよね。慎重になっているから姿を見せるかどうか......」
「けど」葵は思ったままを口にした。「行ってみないことには始まらないでしょ」
瑞賢が渋い顔になった。「故郷の島のためという事情はよくわかったけれども、くれぐれも行動は慎重に。台湾の人はおおらかだから、留守宅にあがって待っていても必ずしも文句をいわれるとは限らないが、それも相手しだいだからな。夜市の個室に誰か入っていたら、踏みこむのはマナー違反だぞ」
はあい。結愛がいかにも条件反射的な返事をすると、一同に笑いが起きた。
美玲はまだ、莉子の携帯電話を手にしていた。「ねえ、この画像の端に写りこんでるのは......」
莉子は液晶出面を覗きこんでいった。「例のゴム手袋」
結愛がピータンをつまみながら告げた。「あれ、一見ふつうのゴム手袋だったんだけどさー。嵌めてみたら、妙に指先がブカブカなんだよね。台湾の手袋ってああなの?」
「え?」莉子は結愛を見つめた。「指先に余裕があったわけ?」
「五本指すべての先っぽだけ太くなってんの」
「それは......日本製よ。去年からでまわってる、ネイルアートの女性用」
「あー、なるほどね。付け爪で洗い物するとき、ゴム手袋って不便なんだよね。アイディア商品さー」
派手なファッションを好むタイプの女性か......。
黄春雲と林馮。それに女性がもうひとり。犯人グループの全容は少しずつ、だが着実にあきらかになってきている。わたしは真実を暴かねばならない、葵は心に誓った。明日の昼までに、父の目を覚まさせるだけの確証を握らねば。
夜市
きょう知り合ったばかりの三人の日本人女性と、ここまで行動を共にするとは思わなかった。しかし彼女たちは、故郷が直面した大きな問題を解決するために台湾に来たといっている。どんな真相が待ちうけているかわからないが、彼女たちの力になってあげたい。劉美玲は心からそう思っていた。それに、友達になれたのもすなおに嬉しい。
士林夜市は、淡水線の士林駅ではなく、その隣りの剣潭駅前にひろがっている。午後六時半、冬場だけに日は完全に没し夜を迎えていた。駅前を走る大通り、文林路を渡った向こう側、美食廣場の周辺は今宵も異常なほどの人出でごったがえしていた。
結愛が真っ先に、はしやいだ声をあげた。「やばい。楽しすぎ! こんなの毎晩やってんの?」
数百軒の屋台がひしめきあって、飲食物や衣料品、生活雑貨を販売している。わずかでも空き地があれば出店する貪欲さのせいで、マーケットのなかは迷路も同然だった。
人の流れに沿ってアーケードの入り口前に赴くと、そこは夜祭り系ゲームが集中するエリアになっていた。射的やアーチェリー、スマートボールなどあらゆる遊戯形態が存在する。中心部ではアンパンマンやドラえもん、キティをデザイン化した小さな列車が子供たちを乗せて周回していた。緑いろの網に囲まれた一角は、マス目を投球で打ち抜くストラックアウトのコーナーだった。
時間に余裕があるため、結愛の提案でしばらく遊ぶことになった。結愛は輪投げに挑戦したいといった。
美玲は通訳を買ってでた。店主の言葉を日本語で結愛に伝える。「百元だって」
「はい」と結愛が紙幣を店主に差しだす。
傍らでは子供たちが輪投げに興じている。誰もがいちどに七本か八本の輪を投げていた
結愛が眉をひそめた。「もったいないやり方してる。一本ずつ慎重に狙うべきでしょ」
しかし、店主に渡されたバケツいっぱいの輪を見て、結愛は面食らったようすだった。
「な」結愛は目をぱちくりさせた。「なにこれ。嘘でしょ。こんなにたくさん......」
美玲は笑った。「早くしないと時間がなくなっちゃうよ」
その指摘によって、結愛はやっと台湾における輪投げのプレイスタイルを把握したらしい。結愛は子供たちと一緒に、ありったけの輪をつかみあげては、標的に向かって放り投げた。
七時までに終わればいいが。美玲は結愛のもとを離れ、葵に近づいた。
葵は缶倒しに挑戦していた。これは積みあげた六つの缶に対し、お手玉を投げて倒すゲームだった。輪投げと違い、こちらは三十元で二投しかできない。缶も重量があるため、すべてを倒すのは至難の業だが......。
彼女の周りにはすでにギャラリーができている。アンダースローのフォームは美しく、また機敏だった。お手玉は一直線に飛び、缶のタワーを打ち崩した。拍手が起きている。
美玲は感心しながらいった。「パワフル......」
「中学までソフトボールやってたから。肩には自信があるの」葵はそういいながら次のお手玉を拾いあげた。ピッチャーのような構えで標的を狙い澄ます。
こうして見ると三者三様、好みのゲームも異なっているようだった。莉子は、若い女性ディーラーが接客するカウンターに座っていた。麻雀賓果実連線。裏になった麻雀牌から十五枚を選んで、一枚ずつ表にしながら盤上に描かれた三十六の牌の絵のうち、一致したところに置いていく。列が揃ったらビンゴとなり、景品がもらえるルールだった。
莉子は、葵の缶倒し以上の見物人を集めていた。牌を表返すたびに、盤上に無駄のない列ができあがっていく。たちまち一列が揃い、観衆がどよめいた。
ディーラーが牌を分配し伏せるまでの過程をよく観察していれば、後は数学的確率を優先して牌を選択することで、わりと勝てる。まことしやかにそういわれてきたゲームだったが、莉子の勝率を見るとあながち噂だけでもなさそうだった。冷静な思考と直感力の持ち主。やはり莉子というのは特別な存在のようだ。
六時五十五分。美玲は三人に集合を呼びかけた。
それぞれのゲームを終えてきた三人は、いずれも景品の山を抱えていた。ぬいぐるみに菓子の詰め合わせ袋、化粧品セット、マグカップ、アクセサリー、フォトフレーム......。
半ば呆れながら美玲はいった。「充分楽しんだ?」
結愛は満面の笑みを浮かべていた。「まだやりたーい」
葵の顔も喜びに溢れている。「もう時間? 後でストラックアウトも挑戦したい」
......彼女ひとりだけは違うだろう、そう思って莉子に目を向ける。
莉子は、三人のなかでも最も無邪気な笑顔で告げた。「夜市最高!」
わずかに苛立ちがこみあげる。美玲は思わず語気を強めた。「三人とも、波照間島を救うんじゃなかったの? おおらかすぎるでしょ」
三人は一様にしゅんとなった。莉子がつぶやく。「すみません、つい......」
ったく。美玲は頭を掻きむしりながら歩きだした。「ついてきて」
人ごみをかきわけながら進む。背後で結愛がひそひそとささやいていた。おおらかすぎるって。台湾の人にいわれちゃったよ。わたしたち、よっぽどだよね。
顔を覆うほどの特大チキン唐揚げをだすと評判の〝豪大大雞排〟に、きょうも長い列ができている。その脇からアーケードのなかに入った。
屋内はいっそう小規模の店舗がひしめきあう、B級グルメの宝庫になっている。山積みにされた揚げ餅が次々と砕かれ、春巻のごとく薄い皮に巻かれて〝大餅包小餅〟がこしらえられる。その奥の店では、職人たちが無心に生煎包を包んでは焼き、上海風焼きまんじゅうを生産中だった。士林名物ともいえるジャンボソーセージが通路沿いに吊るされている。濃厚なにおい、人々の活気、発酵したような熱気。昔からずっと変わらない美食廣場の独特の賑わいが、美玲は大好きだった。
やがて承徳路四段の出口に近づいた。通路を左に折れると、ゲーム機が並ぶエリアに入る。この辺りは少し静かになっていて、その先の壁沿いにずらりと並ぶ扉があった。
「これ?」結愛がきいた。「なんか、ネットカフェみたいだね」
そうね、と美玲はうなずいてみせた。「日租套房は終電を逃した人が仮眠をとるのに使ったりもするから、客層はネットカフェに似てるかも。ええと、二十七番の個室は......」
扉には番号札がついている。左端が一番で、右にいくにつれて数字が増えていく。ほどなく、目的の扉が見つかった。二十七。
その扉は半開きになっていた。覗きこむと、狭い空間は無人だった。
美玲は腕時計に目を落とした。「うーん......。七時をまわってるのに、待ち人来らず」
莉子も個室のなかを眺めわたした。「ほんと、ネットカフェの一人用スペースそっくり。リクライニングチェアと机があるのも似てる。パソコンは置いてないけど......。あれ? なんか物が置きっぱなしになってる。雑誌とか、電動シェーバーとか」
「ひと月借りてるわけだから、いろんな物を持ちこんでたりするのよ。壁にポスターを貼ったり、花瓶を飾ったりして自分の部屋みたいに使う人もいる」
「盗まれない?」
「あまりそういう話は聞かないかな......。雑然としているけど治安は悪くないし、昼間はすべての扉に鍵がかかってるから」
しばし莉子はためらいがちな素振りで扉の前にたたずんでいたが、やがて意を決したようになかに踏みいった。「美玲さん、一緒に入って。わからないことを教えてほしいの」
結愛が戸惑いのいろをしめしながらつぶやいた。「まずいって。ほかの人が借りてる個室でしょ」
「ひととおり調べるだけだから......。結愛は葵と外を見張ってて」
躊躇いている場合ではない。さっさと作業を終えるに限る。美玲は莉子につづいて個室に入った。
きわめて狭い空間だった。ふたりが入室しただけでも、ほとんど身動きがとれない状態だ。あまりに窮屈なため、美玲はリクライニングチェアに座ることにした。莉子は携帯電話を取りだすと、美玲に覆いかぶさるようにして、棚の上をカメラモードで撮影し始めた。
莉子はケータイのほかに、ICメモリーレコーダーを持ちこんでいた。録音ボタンを押して、状況を言葉にして記録する。「棚の上にある雑誌はいずれも中文。一冊は、寺廟についての専門誌みたい。次のは......おじいさんがランニングしてる表紙。美玲さん、この雑誌は何?」
差し向けられたメモリーレコーダーに美玲は告げた。「『按摩』二月号。マッサージとか整体のお店の評判を掲載する雑誌。お年寄りには結構有名」
「んー......。黄春雲って名乗ってる人も、相棒の林馮って人も、どちらも三十代ぐらいって話だったのに。これらの雑誌から推定されるのは高齢者。電動シェーバーがあるからたぶん男性」
「ネイルアートをしてる派手な女の人につづいて、おじいさんの登場かぁ。どんどん仲間が増えてくね」ふと美玲は、かすかに流れてくる音楽に気づいた。「この曲は?」
莉子が沈黙した。耳を澄ましているらしい。すぐに微笑とともにつぶやいた。「ああ、さっき入ったときから聴こえてるね。演歌みたいな曲調だけど台湾語。知ってる曲?」
「いえ。でもとっても古い歌でしょうね。どこから聴こえるの?」
「さあ。個室で音楽が聴こえるのって、変?」
「ミニコンポを持ちこむ人もいるらしいけど、見る限り何もないし......。BGM用の機器なんて設置してないはずよ」
しばらくのあいだ、莉子は聴覚に意識を集中しているようすだった。あちこちに向き直って、聴こえてくる方向を探ろうとしている。
そのうち莉子の目が、ある一点を見つめてとまった。「これは何?」
莉子の視線を追うと、壁ぎわに白いビニールテープが一本、貼りつけてあった。そこにマジックインキで文字列が記してある。
大五 B850+5A670+EB0D0+3B770+EA460十ABCDO+3A570+CBC60+8AC50+0A5F0+A
壁に穴があくほど見つめた後、莉子はきいてきた。「大五ってどういう意味?」
「さあ。意味のある単語じゃないと思う」
「東京メトロ白金高輪駅の近くにある、とんかつ屋さんが大五っていうけど......」
「関係ないでしょ。ここ台湾だし」
「そうね」莉子は口をつぐんだ。ケータイでその文字列のテープを撮影にかかる。
ふたたび訪れた沈黙のなか、美玲は聴き覚えのある男性の甘い歌声を耳にした。
「あー!」美玲は思わず声をあげた。「懐かしい。これ『可愛女人』って曲。周杰倫の。知ってる?」
「『頭文字D』の藤原拓海を演った人でしょ。あと『グリーン・ホーネット』のカトー」
「そう。台湾じゃ昔からすごい人気で」
「美玲さんも好きだったの?」
「わ......わたしはそんなにファンじゃなかったけど、同級生の子たちはみんな騒いでて」
「ふうん」莉子は笑った。「美玲さんも普通の子だったのね。なんだか安心した」
莉子は長いこと個室内を這いずりまわっていたが、やがて正面の高い位置にある箱に目をとめた。キッチンの上部収納棚のように壁に備えつけてある。
その箱は前面が鏡張りになっていた。蓋は閉じてあって、南京錠がかけてある。莉子は箱に耳をくっつけていった。「音楽、この箱からきこえてきてるみたい」
「スピーカーはそのなか? っていうか、なんのために設置された箱だろ」
「美玲さんにもわからないの?」
「ここの個室は何度か見たことあるけど、箱には初めて気づいたのよ」
莉子は黙りこくった。しばらくして、ふいに莉子は扉に向かった。「きて」
なんだろう。美玲はあわてて立ちあがり、莉子につづいた。
外では、葵と結愛が手持ち無沙汰そうにたたずんでいた。ゲームで獲得した景品の山は床に置いてある。個室をでた莉子に、結愛がたずねた。「終わったの?」
その問いに莉子は答えず、つかつかと歩を進めて別の扉の前に立った。その扉も半開きになっている。なかは無人のようだ。
扉を開け放って、莉子は室内を眺めた。
美玲もその肩越しに個室を覗きこんだ。と同時に、驚きを覚えた。「棚がない」
「そうね」莉子はふたたび二十七番の扉に引き返していき、個室に踏みいった。鏡張りの箱に手を伸ばし、しきりに撫でまわす。
のこる三人は外から個室内を見守った。葵がきいた。「どうしたの? 莉子」
「この箱、借り手が勝手に設置したみたい。壁との接合に瞬間強力接着剤を使ってる」
「え?」美玲は不可解に思いながら箱を見つめた。「なんのためにこんな物を?」
「さあ......。でもほかの部屋では、壁のこの辺りには箱の代わりにコンセントがある。たぶんこの個室でも同じ位置にコンセントがあるはず。ラジカセかミニコンポをそこにつないだうえに、箱におさめている。美玲さん、ここの電気はずっと流れっぱなし?」
「いえ。昼間はアーケード全体の電源が落ちてるはずよ」
「それなら、夜の営業時間にのみ通電して、自動的に音楽が流れだすわけね」
どういうことだろう。なぜ音響機器を箱のなかに隠すのか。毎晩、無人状態で音楽を流す必要とはいったい......。
莉子はボールペンを取りだし、その先を箱の鏡面にあてた。
結愛がたずねる。「今度は何?」
「鏡の確認」莉子はいった。「ふつうの鏡なら、物体と鏡のなかの虚像は密着しないの。ガラスの向こう側に銀と銅の膜を噴きつけて反射面を作るから、ガラスの厚み二枚ぶんの隙間ができる。けど、このボールペンの先は......ぴったりくっついてる」
「どういう意味?」
「手前が反射面になってるってこと。つまりガラスにミラータイプのフィルムを貼りつけてあるだけ」
葵がうなずいた。「クルマのウィンドウフィルムと同じね」
「そう」莉子は携帯電話を操作した。「これは手製のマジックミラーよ。なかがどうなっているが、たしかめてみましょう」
美玲は固唾を呑んで見つめた。「そんなことできるの......?」
「ええ。カメラのモードを夜景に切り替えて、フラッシュを発光禁止にして......。これでよし」
莉子は携帯電話のカメラレンズを鏡面に押し付け、周りを手で覆ってシャッターを切った。
すぐさまボタンを操作する。撮った画像を確認しているようだ。
一瞬ののち、莉子の表情がこわばった。
「何?」美玲は緊張に震える自分の声をきいた。
硬い顔のまま、莉子は個室をでてきた。美玲の腕をつかみ、足早に歩を進める。「行きましょう。ここと距離を置かなきゃ」
ゲームの戦利品も床に放置したまま、個室から遠ざかる。葵と結愛も焦燥のいろを浮かべて追ってくる。葵がきいた。「どうしたっての、ねえ、莉子?」
美食廣場の喧騒のなかに戻る。飲食店の客用テーブルにおさまると、莉子は美玲に携帯電話を差しだしてきた。「これ。あの箱のなか」
美玲は画面を見た。
暗視画像だけにモノクロで不鮮明だった。フレームいっぱいに魚眼のような丸い物が写しだされていた。ほどなくそれがレンズだとわかる。上部にロゴも確認できた。YAHN。台湾の電子機器メーカーだった。
莉子がささやいた。「盗撮よ。カメラレンズが斜め上方から見おろすかたちで、まっすぐリクライニングチェアをとらえてた。たぶんピントも合わせてあったんだと思う。座った人の顔を撮影するために仕掛けてあったのよ......」
ぞっとする寒気が美玲の肌を走った。
わたしはあのチェアに身をあずけていた。すなわち、わたしの顔はカメラに映った。個室の借り手は、わたしたちをおびき寄せようとしたのか。そして、唯一わたしだけ面が割れた。何者かに顔を知られてしまった......。
葵があわてたようすでいった。「莉子。ここの運営スタッフにでも声をかけて、箱のことを知らせたほうが......」
莉子は首を横に振った。「個室を借りたのはわたしたちじゃないのよ。スタッフだって信用できない。グルになってる可能性も捨てきれないし......」
沈黙が下りてきた。辺りの賑わいすら、なんの安心材料にもならない。どこに監視の目が光っているが、わかったものではない。
「帰ろ」結愛がおびえた顔でいった。「いますぐに」
「そうね」莉子は立ちあがった。「そうしましょう」
四人は急ぎ足で美食廣場の通路を進んだ。無言のまま、ひたすらアーケードの出口を目指す。
わたしたちは籠のなかの鳥だったのか。いまも泳がされているだけなのか。誰かが見張っている。でもわたしたちには、その何者かの存在は見えない。まさにマジックミラーの前にたたずんでいるかのようだ。
制限時間
翌朝七時過ぎ。莉子は圓山大飯店の客室のバルコニーから、うっすらと靄に包まれた台北市内を眺めていた。
ひときわ高くそびえ立っているのは台北101だった。全面ガラス張りの近代建築ながら、伝統的な宝塔をモチーフにしたアジアンテイスト満載のデザイン。高さはじつに五百八メートル。
いよいよきょうの昼過ぎ、議会は十二億円を送金してしまう......。
葵が長袖シャツにデニム姿で、バルコニーにでてきた。まだ喉にからむ声でつぶやく。「おはよう」
莉子は応じた。「おはよう、葵。もう起きたの?」
「結愛はまだ寝てるけどね」葵は莉子と並んで立ち、台北101に目を向けた。「あの子、ひとりだけ能天気。ゆうべも寝る前にいってた。超高層ビルからのバンジージャンプに絶対挑戦したいって」
「それマカオでしょ。台北101じゃやってないし」
「めんどくさいからいわなかったけどさ。展望台に上ったらがっかりするだろうね。わたしは遠慮したいけど。高いところ苦手だし」
「だいじょうぶよ、風圧に揺れない設計だし。頂上付近に六百六十トンの球体が錘として吊ってあって、反動で揺れを相殺する仕組みなの」
「それも本で読んだ? せっかくだから台湾についてもうちょっと教えておいてくれる? これフロントからもらってきたんだけど」葵はデニムのポケットから、折りたたまれたチラシを取りだした。開くと、台湾島全土の地図が現れた。「広さってどれくらい?」
「九州と同じ」莉子は答えた。「わりとわかりやすいのよ。四つの都市が西寄りに分布してる。北から南へほぼ等間隔に台北、台中、台南とあって、その下に高雄ってもうひとつの都市がある。ぜんぶ台湾新幹線で結ばれてて、高雄までも二時間ぐらい」
「台中までは一時間で行けたしね。つまりその名の通り、中間地点ってわけね、でも、市街地はぜんぶ島の西側のみに広がっているわけ?」
「島ってのは真ん中が隆起してて、山脈になってるから......。その名も中央山脈」
「ほんと、わかりやすい」葵は笑った。「さらにそのど真ん中には、ヘソみたいにぽつんと湖があるし」
「日月潭って有名な観光地。標高八百メートルにあって、周囲を山に囲まれてる。島の東部は、わたしたちが最初に降り立った花蓮を中心に、大自然を売りにした観光地ばかり。峡谷とか、温泉もたくさんあるし」
「黄春雲を名乗ってる人、台北を離れて奥地に潜んでいるのかも。もしそうだったら終わりね。半日じゃどうしようもないし」
葵がため息をついたとき、室内からノックする音が響いてきた。
振りかえって部屋のなかに戻る。三つ並んだべッドのうち端のひとつ、結愛はまだぐっすりと眠りこんでいるようだった。ノックは、廊下に面したドアからきこえてくる。ドアに歩み寄って鍵を外す。そろそろと開けると、ワンピースにカーディガン姿の劉美玲がたたずんでいた。
「美玲さん」莉子はいった。「おはよう。来てくれて嬉しい。けさはお仕事は?」
「休んだの」美玲はこわばった表情を浮かべていた。「あんなことがあったばかりだから......。出勤するのは不安で」
「わかるわ。どうぞ、なかに入って」莉子は美玲を招きいれて、ドアを閉じた。
「いい部屋」と美玲がつぶやいた。「中華風の内装って、かえって新鮮。シェラトンは洋室ばかりだし」
「借りてたお洋服、洗濯して返さなきゃ」
「いつでもいいのよ。......ねえ。署に相談に行ったほうがいいかな」
「うーん」莉子は唸った。「龍山寺近くのあの家、実在しない蔡徳有って人の名義で借りられてたんだし、おまわりさんたちもそれなりに調べてくれるとは思うけど......。まだ事件性が薄いから本腰をいれてはくれないでしょうね。士林夜市の個室も、誰かが偽名で借りてたってだけじゃ......」
「そうね......」美玲の目が机に向いた。「ずいぶん散らかってるね」
莉子は微笑してみせた。「台湾のガイドブックを片っ端から読んでたの。面白すぎて徹夜しちゃった。台湾式足裏マッサージを始めたのは、台湾人じゃなくてスイス人の宣教師だとか。インスタントラーメンが日本の三倍の値段で売られてるとか」
「日式拉麺ね。ドラマの『ロングバケーション』が流行って以来、こっちでも人気商品になったんだけど、いまでも高級食材扱いだし」
「それとね、覚えてる? あの個室にあった、白いビニールテープの文字列」
「意味がわかったの?」
「まあね」莉子は机上のノートパソコンを指さした。「大五ってのは解読のヒントで、Big5 ってこと。繁体字をコンピューター上に表示するために、台湾のメーカー五社が策定した文字コード。それを Big5 というの」
「文字コード......?」
「日本の文字用には ISO-2022-JP あたりが使われてる。同じ漢字圏でも互換性はないの。だから Big5 の文字コードを採用してるパソコンをフロントから借りてきたのよ。ビニールテープに書いてあったアルファベットと数列を文字コードと仮定して、ウィンドウズのメモ帳ファイルに入力、それをバイナリ・エディタで開いたの」
気づいてからは早かった。深夜零時過ぎには答えをだせていた。B850+5 は〝萬〟、A670+E は〝年〟......。
莉子は変換後の文字列をモニターに表示してみせた。美玲が食いいるようにそれを凝視した。声にだして読みあげる。「萬年商業大樓四層星光?」
「文章として成立してる気がするんだけど」
「もちろん」と美玲は目を輝かせた。「萬年商業大樓は、西門町にあるちょっと風変わりなデパートよ。オタクっぽい人がよくいて、アニメグッズとかプラモデルとか売ってる......」
葵がいった。「へえ。やっぱりそういうところ、台湾にもあるんだね」
「四層は」美玲は莉子を見つめてきた。「四階って意味。星光は......なんだろ。お店の名前かな。ここへ行くの?」
「うん......。でも、ちょっとヘンなんだけどね。解読のヒントまで与えて暗号を残すなんて。いかにも誘ってる感じ。また罠だったりしたら......」
美玲の顔に戸惑いのいろが一瞬よぎった。しかし、すぐに毅然たる態度で告げてきた。
「びくびくしながら過ごすなんてうんざり。罠でもなんでも、このふざけた悪戯をしてる張本人に接触できる機会があるなら、こっちから出向いていく価値があるわ」
「......そうね。っていうか、それしかない」
ほかに手はなかった。火中の栗を拾うには、こちらから飛びこんでいくしかない。
午前七時半。一分たりとも無駄にはできない。莉子たちは地下鉄板南線の西門駅出口階段をのぼった。地上は、渋谷と原宿、下北沢を混ぜ合わせたような若者の街だった。
コスメショップやカフェも備える、西武ロフトを彷彿とさせる誠品書店ビルの並びに、奇妙な存在感を放つレトロ風ビルがある。こちらのたたずまいは、何年か前に閉店した上野百貨店に近い。交差点に面した角は斜めに削れていて、そこに巨大な〝萬年商業大樓〟のネオン看板が掲げられている。
内部はといえば、秋葉原に勝るオタクの聖地、中野ブロードウェイそのものだった。
各階のテナントはアニメ系フィギュア、プラモデル、ゲーム、雑誌の販売店に占拠されていた。通路など年季の入った共同スペースの地味さと、展示された商品のけばけぼしさとがまるで相容れず、独特の空気をかもしだしている。これも中野ブロードウェイ同様、階上に行けば行くほど空いているテナントも多い。違っているのは、空き店舗であってもシャッターを閉めていないところが多いことだった。いくつかの備品を残したまま、がらんとしたスペースが人目に晒されている。
五階はゲームセンターになっていた。目指す四階はその下のフロアだった。
星光なるものを探さねば。莉子は強い決心に満ちていたが、四人のなかには緊張感の足りない者もいた。結愛は大声をあげてはしゃぎまわった。「すごーい! 少女時代のブロマイドがいっぱい......。芸能関係はなんか、韓流に押されてるね。でも雑誌は日本のばっかりだよね。もうスイートプリキュアのフィギュアがあるさー! キュアメロディの響よりキュアリズムの奏のほうが可愛いよね」
葵が咳ばらいをして、結愛につかつかと歩み寄り、その腕をつかんだ。「さあ。やんなきゃいけないことがあるでしょ。星光ってのを探さなきゃ」
「えー。もう少し見てからにしようよー」
結愛の抗議を無視して、葵は莉子に告げてきた。「わたしと結愛はこっちを探すわ」
「じゃ、わたしは美玲さんと反対側をまわるから」莉子は歩きだした。
美玲が歩調をあわせてきた。「星光ってのが人の名前だったら、尋ねてみないことにはわからないかも」
「だとすれば厄介ね」そう告げたとき、莉子は視界の端に気になるものをとらえた。「あれ? これは......」
パソコンショップの店頭に近づく。ガラスケースのなかに気になる物が展示してあった。
携帯電話を取りだして、ゆうべ撮った画像を表示する。おぼろに写ったレンズ部分と、ディスプレイされた商品を見比べた。
ずらりと並んだ小型カメラは、いずれもパソコンのUSBポートに接続できるウェブ用で、モニターの脇に取り付けてビデオチャットに使うためのものだった。ほとんどがソニー、もしくはバッファロー製だが、台湾のメーカーによる品も混じっている。
そのうちのひとつ、YAHNというロゴが入ったカメラと、ケータイの画像を比較する。ネックバンドタイプのヘッドセット、レンズとロゴの大きさの比率、その位置......。
間違いなかった。莉子はいった。「個室の箱のなかにあったカメラ、これよ」
「え?」美玲が目を瞠った。「ウェブ用カメラなの?」
「どんな機能なんだろ。日本に輸入されてない製品には詳しくないの......」
美玲は、店舗スペースの奥にいた店主らしき男性に声をかけた。その男性はおにぎりを頬張っていた。開店直後だけに、朝食中だったらしい。
接客するにもかかわらず、男性はおにぎりを手放さなかった。美玲の台湾語の問いかけに、食べながら応じる。
何度か言葉を交わしたのち、美玲が莉子に日本語で告げてきた。「広角レンズじゃないから盗撮になんか向いてないって。主な機能は顔認証」
「顔認証? ああ」莉子はいった。「カメラ前にいるユーザーの顔を認識するわけね」
「わたしの顔を記録しちゃったのかな......?」
「いえ。単純に録画だけしてれば別だけど、それならふつうのビデオカメラを使ったはずだしね。顔認証ってのはいまどきデジカメにも備わってる機能でしょ? せいぜい顔に自動的にピントを合わせるとか、あらかじめ登録してあった顔か否かを判別するとか、それぐらいよ。たとえ座ってじっとしている被写体でも、隠し撮りでその特徴をすべてデータ化するのは無理」
「じゃあ、すでに登録してある誰かの顔と比較してたのかな? その人物が個室に来て着席したら感知できるように、セットしてあったとか」
「ありうるわね。っていうか、可能性があるのはそれぐらいかも。ほかに顔認証を活用したソフトって、いまのところたいした物はないし」
「たとえばどんなソフトがあるの?」
「向かいあった人の顔から、目もとや骨格を分析して性別とおおまかな世代を識別するとか。東京でも、自販機なんかに採用されてる。前に立ちどまった人におすすめの商品を表示するのよ。あとは笑顔認証」
「笑顔認証?」
「文字通り、対象が笑ったかどうかを判断するだけ。舞台演劇を観た人の満足度というか、機嫌のよさを推し測るソフトよ。複数のサンプルから集計してデータを抽出するための材料ね」
「そのへんは考えにくいかな......」美玲の表情が和らいだ。「でも、ほっとしたわ。わたしをどうにかしようって状況じゃないみたいだし」
するとそのとき、どたばたと足音があわただしく迫った。顔をあげると、葵と結愛が駆けつけてきた。
葵がこわばった顔でいった。「莉子。星光っての、見つかったよ」
思わず美玲と見つめ合う。莉子は小走りに通路を突き進んだ。「どこ?」
三人が追いかけてくる。葵は息を弾ませながら告げた。「その先を曲がって、まっすぐ。へんな古い漫画っぽいロボットが飾ってある店の......」
結愛が不満そうにいった「アストロガンガーだよ」
「その二軒先に、ご主人がお弁当食べてるポスター屋さんあるでしょ? そこの向かい」
店主は総じて朝食の時間らしい。葵のいったとおり。映画ポスターをたくさん掲出している店のカウンターで、中年男性が暇そうに箸を進めている。そこに向かいあったテナントはがら空きで、看板も何もでていなかった。
壁紙も剥がされベニヤが剥きだしになっている。天井の蛍光灯も外されていた。スペースの奥に、ぽつんと業務用カラオケセットらしき機械が据えてある。アンプに〝星光〟と金文字のロゴが入っていた。機種名らしい。
美玲がポスター店の主人に話しかけた。返事をきいてから、莉子にいった。「このテナント。ちょっと前から誰かが借りてるらしいけど、姿は見たことがないって」
「またそのパターンかぁ」莉子はテナントのなかに踏みいった。カラオケ機に近づく。
電源が入っている。音量のインジケータらしきLEDランプの列が、ちらつきながら伸び縮みしていた。演奏中だろうか。
音量をあげてみようとしたが、つまみが外してあった。そのほかのスイッチ類も同様だった。状態を固定したまま操作できなくしてある。
「ねえ」結愛がいった。「これ何?」
結愛が指さした壁に、紙片が貼ってある。中文の書きこみがあった。
對麥克風説。石獅寺有四十四隻石獅子、不知是四十四死獅子? 還是四十四隻石獅子?
美玲が妙な顔をしてつぶやいた。「マイクで喋れって書いてある。その後は、有名な早口言葉よ」
マイクを手にとった美玲はテンポよく、息切れすることなくその一節を読みあげた。〝スィ〟という音が多用される、難易度の高そうな早口言葉だが、さすがに一流ホテルに勤める接客業のプロ。つっかえることなく最後まで読みきった。
静寂だけがかえってきた。カラオケ機はなんの反応もしめさない。
「もう」葵が顔をしかめた。「思わせぶりなばっかりで、意味わかんない。少しは何か起きたらどうよ」
莉子は美玲にいった。「綺麗な発音ね。ホテルで早口言葉の研修もあったの?」
「いえ」美玲は笑った。「でも、台湾では南部に近い人ほどスィじゃなくてシって発音するから、だいぶ違うかも。どちらがいいかはわからないけど」
結愛がカラオケ機のインジケータを見つめてつぶやいた。「これって、いまの美玲さんの早口言葉に関係なく、ずっとなにか再生してるみたいなんだけど」
たしかに。インジケータの動きから察するに、同じ録音内容を延々とリピート再生しているようだ。
なんとか音をだせないだろうか。スピーカーを眺めたとき、莉子は愕然とした。「これ......」
「あー!?」結愛も声をあげた。「壊されてる」
スピーカーのウーハーがすべて破られていた。無音なのはそのせいだった。
葵が頭を掻きむしった。「なんなの、いったい......。誰かの妨害工作? これにつなげるスピーカー、どこかに売ってないの?」
美玲はため息をついた。「音響機器のお店、見かけなかったけど......」
仮にどこかでスピーカーを調達しても、音量が絞られていたとすれば、アンプはスピーカーに対し音声信号を出力していないことになる。それでは音は拾えない。
手間がかかるばかりだった。無駄に時間は費やせない。何か方法があるはずだ。
ふと閃くものがあった。莉子は踵をかえし、通路に向かった。
「なに?」と結愛がきいた。
莉子は黙って向かいの店に赴いた。カウンターのなかにいる、食事中の店主と目が合う。店主は粽をぱくついていたが、莉子がじっと見つめると、箸を休めて見かえした。
求めている物は弁当箱のなかにあった。莉子はいった。「ごめんなさい。もらいます」
すかさずタクアンをひときれつまみとり、またカラオケ機のほうへと引き返した。
不意を突かれ、店主はしばし呆気にとられたようすだったが、すぐさま怒鳴り声をあげた。まくしたてるさまは、まさしく早口言葉のようだった。
美玲が面食らったようすで莉子を見た。「ちょっと......」
「謝っておいて」と莉子は美玲に告げた。
店主は弁当箱を手にしたままカウンターからでてきた。美玲が恐縮したようすで歩み寄ったが、店主は小言をいうつもりはないらしい。ほかにも食べ物を分けてくれようとしている。それはそれで迷惑な話であり、美玲は断るのに必死そうだった。
莉子はカラオケ機に歩み寄った。スピーカーの背面にまわり、ケーブルを外す。端子のない、いわゆる先バラのケーブルだった。露出した二本の銅線の先を、タクアンに突き刺した。
その状態でタクアンを両手で覆い、できるだけ暗がりに運ぶ。
結愛が驚きの声をあげた。「嘘でしょ? 光ってる!」
タクアンは、インジケータの伸縮と同調して、ほのかに明滅を繰り返した。
莉子はいった。「タクアンの塩分に含まれる塩化ナトリウムと電子の化学反応で、原子発光が起きるの。電球と同じく光るのよ」
葵は目を丸くしていた。「びっくり......。けど、光るってことは......」
「そう。音声信号がちゃんとスピーカーに出力されてる。聴こえないのはあくまでウーハーの破損のせい」莉子はスピーカーを眺めまわした。「拡張用のスピーカー端子がついてる。ここにつなげば聴けるわ」
「なら、スピーカーを買ってこないと」
「いえ。マイクとスピーカーってのは、基本的に同じ構造なの。だから......」
莉子はマイクのプラグをアンプから引き抜いた。先端は細いステレオミニプラグだった。これならちょうど嵌まりそうだ。
マイクをスピーカー端子に接続する。とたんに、マイクから声が聴こえてきた。
結愛が大はしゃぎで手を叩いた。「莉子、すごすぎ!」
「しっ」葵が片手をあげて結愛を制した。
さすがに本物のスピーカーでないだけに、音は小さく不明瞭だった。小さな子供の声らしい。台湾語で十秒間ほど、なんらかのセンテンスを告げている。それが果てしなく反復されているようだ。
やっとのことで、美玲が店主から解放されてきた。その美玲に莉子はきいた。「何喋ってるかわかる?」
美玲はしばし耳を傾けていたが、やがてため息とともにいった「蓮池潭、龍虎塔の頂上。帝の見つめる洞窟。......だってさ」
「はぁ?」結愛は情けない顔になった。「龍虎塔に洞窟? まるでゲームさー」莉子は美玲にたずねた。「蓮池潭って、たしか......高雄にある観光地よね?」
「そう。新幹線で二時間南下してから、在来線とバスで最短でも三十分ぐらい」
葵が唸った。「んー。なんかさー、無駄に時間ばっかりかかってる気がする」
すると美玲も真顔で告げてきた。「莉子さん。わたしもそう思う。これって、時間稼ぎのための罠じゃないかな......。議会がお金を払う昼過ぎまで、あなたたちを奔走させることだけが目的よ。意味なんかない。こんなことしてたら時間切れになっちゃう」
時間切れ......。
考えまいとしてきた事態だった。しかし現実に、その瞬間は迫りつつある。すでに午前八時近い。日本時間は九時。正午まで三時間しかない。
たんなる陽動にすぎないのだろうか。たしかに黄春雲を名乗る者にしてみれば、素性を暴こうと足跡を追ってくる者に対しては可能な限り迂回させ、到達を遅らせればいい。契約はすでに成立したも同然で、振り込みの日時も決定済みなのだから。
でも、そう考えたとしても、どこかしっくりこない。これらが知のトラップとすれば、ずいぶん稚拙だ。どれも答えはすぐに見つかった。たいした足止めにはなっていない。
決意が揺らぎそうになる。それでも歩んできたこの道を踏みしめて進むしかない。
莉子はきっぱりといった。「たとえ罠でも飛びこんでいって手がかりをつかまなきゃ」
もう引き返せない。持ち時間なら余裕が生じたはずだ。タクアンとマイクのおかげで、あるていどは短縮できたのだから。
破たん
劉美玲は、莉子たち三人の日本人女性と西門駅の構内に下りる前に、弟の大坤に携帯電話で連絡した。
葵は台湾で使えるケータイを持っているが、莉子と結愛には常時連絡できる手段がないようだ。これから高雄まで行くというのに心もとない。そう考えたからだった。
台北駅の地下街の一角、MRTから新幹線の乗り場につづく連絡通路で、大坤は約束どおり待っていてくれた。
美玲は莉子たちに、すぐ戻ると告げてひとり離れた。大坤のもとに駆け寄って、手を差し伸べる。「持ってきた?」
「ああ」大坤は、彼がふだん使っている携帯電話を渡してきた。「充電もちゃんとしてある」
「ふうん」美玲はそれを受け取った。「ありがと。これ、莉子さんが結愛さんのどちらかに貸すから」
「いいけどさ。......なあ、姉貴」
「何?」
「日本のドラマ観ててさ、気になったんだけど」
「どんなことか?」
「そのう......。セリフでさ、日本語で......『我愛你』ってなんていうんだっけ」
「はぁ?」美玲は思わず甲高い声をあげた。「なんで大坤がそんな言葉知りたがるわけ?」
「いや、だからさ」大坤は妙にそわそわした態度でいった。「友達にきかれたからだよ。ドラマの一場面が気になったって」
「ドラマ観てたのは大坤じゃなくて友達? さっきと話違うように思えるけど」
「いいだろ、そんなことは。教えろよ。英語ではアイ・ラブ・ユーだよな。日本語でも、ア......なんとかっていうんだろ、たしか」
美玲は思わす噴きだしそうになった。ちらと後ろを見やると、莉子たち三人が遠くで暇そうに立ちつくしている。
そういえば弟は、なぜかめかしこんでいる。髪もきちんとセットしてきているし、服装もカジュアルに見えて、本人お気に入りのコーディネイトできめていた。
三人のうち誰を好きになったのだろう......。
興味深い問題ではある。しかし、あの三人はいま忙しい。弟の青春の迷いごとに付き合わせることはできない。
ため息をついてみせてから、美玲は大坤を見つめた。「ア......」
「ア......」大坤は発声した。「その先は?」
「アンパンマン」と美玲はいった。
「......どっかできいた言葉だな」
「日本のドラマでよく使われるセリフよ。アンパンマン」
大坤が復唱した。「アンパンマン」
「そう。数字の八に近い発音。わかった?」
大坤はうなずき、なおもアンパンマンとぶつぶつ口にしながら歩き去っていった。
台湾でアンパンマンは〝麺包超人〟日本語の読みを大坤が知るはずもなかった。
美玲は微笑して踵をかえし、莉子たちのもとに駆け戻った。
莉子がきいてくる。「大坤さん、どうしたの? なにか用だったの?」
「いいえ」と美玲は答えた。「わたしが呼びだしたの。はい、これ弟のケータイ」
姉として、弟に恋愛はまだ早いと感じた。大人びて見えるが、十七歳では早熟すぎる。
とりわけ年上の外国人女性に対して恋心を持つなら、もっと勉学に勤しんでそれなりの地位と経済力を獲得しなければ。弟の目当てが、この凜田莉子なる女性ならなおさらだ。
小笠原悠斗は朝早くには石垣島に着いていたが、嘉陽果煌議員と接触できたのは正午近くになってからだった。
初めのうち小笠原は、自分が敬遠されているものだとばかり思っていた。週刊誌記者はどこに行っても煙たがられるものだ。今回も、先方が記者発表をしていない極秘の事例についてアポなし取材を試みている。喜ばれなくて当然だと感じていた。
ところが、事情は小笠原の想像とはずいぶん違っていた。竹富町役場のロビーで長いこと待たされた末、ようやく声をかけてきた女性は満面に笑みを浮かべていた。上へどうぞ。嘉陽果議員がお会いになります。
議場は広くはないが、大勢の人々がひしめきあっていた。それも一様に祝賀ムードだ。ドリンクが配られ、フードコーナーも設けられている。竹富町長の志伊良章光も出席していた。
和やかな歓談。まるで選挙が終わった後の祝勝会のようだった。ただし、いまここにいるのは議員とその関係者だけでしかない。島民、マスコミ関係者など、部外者はいっさいシャットアウトしている。小笠原はただひとりの例外らしかった。
莉子の友人と告げてあったせいか、議員たちへの紹介もスムーズにおこなわれた。嘉陽果煌とその秘書の鳥堀彩花、水質調査のプロである東大教授の添石慶人とは、すぐに知り合いになれた。
嘉陽果は笑った。「気が早いな。しかし、週刊誌ということはどのみち掲載は来週以降だろう? 議会からの公示もそれぐらいになる。きみらがテレビや新聞を差し置いて一番手になれるかどうか知らないが、歓迎すべき取材記者第一号なんだ、どうかじっくり島を見学していってほしい。どんな質問も受け付けるよ」
ずいぶん余裕があるようだ。ききたいことは山ほどあるが、もう時間が許さない。小笠原はずばり核心を突くことにした。「嘉陽果さん。契約金をお振り込みになるのは、しばらく待ったほうがいいんじゃないでしょうか。冷静に考えてみてください。こんな怪しい話はほかにないですよ」
しばらくのあいだ、嘉陽果の顔にはまだ笑いが留まっていた。添石も同様だった。秘書の彩花だけは、戸惑いながらも同意をしめすかのように嘉陽果を見た。
「充分だよ」嘉陽果は真顔でつぶやいた。「もう充分に検討を重ねた。発明者と電話で何度も協議した。彼の言葉に嘘偽りはないと確信している」
添石がうなずいた。「そうですよ。ふとしたきっかけで生まれた最先端テクノロジーというのは、にわかには信じがたいものです。しかしこの目で見てきた以上、真実に揺らぎはありません」
小笠原は焦燥に駆られながらいった。「じゃあ、せめて先に島民に公表して、賛否の意見を募ってください。民意を問うたうえでなければ、町の財政を脅かすほどの巨額の出費は......」
嘉陽果はひときわ甲高い声で遮った。「公表? それこそ問題外さー。私たちが独占購入する技術が他者に奪われることを、発明者も危惧している。八重山諸島の島民らが反対するはずがない。歴史の転換点になる画期的発明だぞ」
「これが本物の発明か、もしくはトリックにすぎないか、大勢の目で検証すれば専門家にも判らないことが浮き彫りになるかもしれません。島民の多数決をとるべきです」
「ええと、記者の......小笠原君だったね。問題はまさしくそこだ。島の公共施設が充実していないがゆえ、島民の教育水準も本土に比べるとまだまだ低い。その島民に、小難しい科学の真偽や是非が問えるかね?」
「議員さんにしては問題発言では?」
「......いや。事実を述べているまでさー。きみの友達の凜田さんも、ずいぶん勉強してきてはいたが、しょせん素人意見の域をでない。島の開発が進み、教有機関が発展すれば、島民の学力も向上するだろう。石垣から東大教授にのぼりつめた添石君のような人材を、竹富町も輩出できるようになるかもしれん」
添石はすました顔でいった。「淡水化フィルターの技術に異論を唱えているのは早稲田の准教授だとか。申しわけないですが、判断を下すには研究不足かと......」
学者のプライドの張りあいに興味はない。小笠原は嘉陽果を見つめた。「とにかく、お振り込みは来週まで待っていただけませんか。それが無理なら一日遅らせるだけでも......」
「不可能だ」嘉陽果は腕時計を見た。「いま議会の経理担当者が銀行に赴いて手続きをおこなっている。午後になりしだい、送金は完了される」
小笠原は絶句した。
貴重な財源から、十二億もの金が支出されようとしている。島民になんの相談もないまま、一般会計予算の三分の一が消えていく。
「......す」小笠原はいった。「すぐにでも電話して送金を中止させてください。絶対に後悔しますよ」
「私は議員だ」嘉陽果はあくまで冷静に告げてきた。「約束は果たす。先方が着金を確認しだい、すべてのデータを送って寄越す手筈になっている。その後は町長の挨拶さー。パーティーを楽しんでいってくれ。失礼を詫びる必要はないよ。きみは記者として職務を果たしているだけだろうし」
それだけいうと、嘉陽果は添石を連れて立ち去った。その力強い足取りからは、不安や戸惑いなど微塵も感じられなかった。
絶対の自信。頑なな拒否よりずっと厄介だった。説得どころか協議のテーブルにつかせることすらできやしない。
ただひとり残った秘書の彩花に、小笠原はきいた。「送金手続きはどこの銀行で?」
彩花はいまにも泣きそうな顔で首を横に振った。「議会の経理です、議員秘書にすぎないわたしには場所すら知らされてません。もう阻止できません」
阻止できない......。
小笠原の頭は真っ白になった。視界に映るすべてが静止して感じられる。
これは史上最も馬鹿げた地方行政のミステイクとして記録に残るだろう。だが当事者は誰もそうなるとは思っていない。竹富町の経済は破たんする。莉子の故郷、波照間島はもはや救われない......。
龍虎塔
台湾島の南部、高雄の空は晴れ渡っていた。気温も台北より高く、陽射しも強く感じられる。風は乾いていて穏やかで、過ごすには快適そのものだった。
午前十一時をまわった。すなわち日本は正午を過ぎた。もはや一刻の猶予もならない。
莉子は、葵と結愛、美玲とともに台湾新幹線の左營駅をでた。前に台中駅まで行き来したときに比べると、ふたつの点で有利だった。ひとつは言葉のわかる美玲が仲間に加わったこと。もうひとつは、美玲が弟の大坤の携帯電話を借りてくれたことだった。莉子はようやく、台湾でケータイを使えるようになった。
地下鉄で生態園區駅に移動する。地上にのぼってバスに揺られ、ほどなく蓮池潭なる広大な池のほとりに着いた。
周りは古い市街地だが、遠方には高層マンションも林立している。印象としては井の頭公園に似ていたが、池の面積はこちらのほうが勝りそうだった。そしてなんといっても、ここには水上に独特の建造物がある。
しきりに蛇行する徒歩用の橋を渡っていくと、行く手に龍と虎の巨大なオブジェが、ぽっかりと口を開けて待っていた。いずれも身体の向こうには七重の八角塔がそびえている。二本並んだ塔はそれだけでずいぶん華やかだが、派手に色を塗りこまれた龍と虎は生き生きとしていて、いまにも飛びかかってきそうだった。
結愛は虎の口に駆けていこうとした。「可愛い! こうして見るとでっかい猫だよね」
美玲がその腕をむんずとつかんだ。「待ってよ。虎の口に入るなんて非常識でしょ」
「そうなの?」
莉子はうなずいて、龍の口を指さした。「こっちから入って虎に抜けるのよ。じゃないと縁起悪いの」
「へえ。『ブルースーリーを探せ!』の英語タイトルとは逆なわけね」
知識がマニアック過ぎて、さすがに莉子にも理解不能だった。しかし、長いつきあいなので、結愛の言葉にたいした意味がないことだけはよくわかっていた。
「行こ」葵が歩きだした。「龍の口を入って虎の目からでれば、いままで自分が犯した罪がぜんぶ無かったことにされるんだって」
「ほんとに?」結愛はいまにもスキップしそうな歩調で葵を追い越した。「小学生のころ、島じゅうの人という人に膝カックンをしまくったのも許されるのかなぁ」
「結愛......」
やたらと積極的な結愛を先頭に、莉子たちは龍の口を入った。
空洞になっている龍の体内、その内壁にはさまざまな絵が描かれていた。孝感動天を筆頭に二十四孝子のエピソードが連なるいっぽうで、閻魔王の裁きを受ける罪人の姿もある。奥には募金箱があり、美玲が二十元硬貨をいれた。係員の男性が絵葉書をくれる。それを受け取ると、龍の尻尾付近から外にでた。
すぐ近くに龍塔の入り口がある。二重になった螺旋階段はフランスのシャンボール城と同じ構造で、のぼる人と下りる人が決して鉢合わせしないようになっている。もっとも、観光客がひとりでも間違ったほうの階段に歩を進めてしまったら、その限りではなくなるのだが。
階段を延々のぼっていったが、六階までで行き止まりだった。七階への階段はあるものの、鎖で塞いである。
メッセージにあった最上階に立ちいるのは不可能だった。しかし、一階低くても眺めはさほど変わらないだろう。そう思ってバルコニーにでる。
「やばい」結愛が声を張りあげた。「超綺麗な眺め」
実際、息を呑むほどの景観がひろがっていた。
水面は穏やかに波立ち、白鳥が行き交う。龍虎塔だけでなく、池の上にはいくつかの建物が存在していた。同じく桟橋で渡れる三層の中国式四阿、五里亭が上下逆さまに水のなかに映りこむ。カラフルな中華芸術と水墨画の風情を併せ持つ、崇高な景色だった。
誰もがうっとりとするなかで、葵だけは美観に背を向けて塔のなかに戻っていった。
「高いところは駄目。莉子、早く用を済ませてよ」
「ええ、わかってる」莉子は風景を見渡した。「美玲さん、帝っていうのは......」
「あれじゃないかしら」美玲は指さした。「ほら。北極玄天上帝」
水上にある建物のうち、ひときわ異彩を放っているのが巨大な武将の像だった。顎髭を蓄えて、色とりどりの衣をまとい腰かけている。
宋の時代には真武と称した。明に入って、世祖永楽帝により王朝の特別な庇護を得たことから、その信仰は隆盛を極めたという。四神のひとつ玄武をその源流とし、北方守護の役割を担う武勇に長けた神。
莉子はつぶやいた。「なるほど。玄天上帝か......」
龍虎塔と同じように、あの玄帝の像も内部に入れる構造のはずだ。像のひざ元までは参拝者が通っていける橋がかかっている。玄帝はその橋のほうを向いている。
見つめる先はどこだろう。莉子は像の視線を追った。
池のほとりには、あらゆる寺廟や土産物屋が軒を連ねている。その向こうは小高い山になっていた。二月下旬でも温暖な気候だけに山肌は緑に包まれている。山道が伸びる中腹、地上からは見えなかった位置に、黒くぽっかりと空いた穴が見えた。
美玲がつぶやいた。「あった......」
謎に満ちたメッセージに導かれてここまできた。何が待ち受けているのだろう。あの穴の奥に答えがあるのか。
日本時間は午後十二時十三分。すでに、タイムリミットに指定された〝昼過ぎ〟に突入している。
いつ送金がおこなわれてもおかしくない。まだだと信じたい。信じて進むしかない。
龍虎塔から見えた山はさほど遠くなく、また高くもなかった。玄帝廟のほぼ正面に位置する、天府宮という寺院の敷地に含まれるようだ。本堂の裏手に伸びる散策路が、山腹への緩やかな上り坂につながっていた。
散歩道であっても、わざわざここに立ち寄る人は皆無らしい。莉子たち四人だけが、階段状に整備された山道をのぼっていった。漂う雰囲気は自然公園そのものだった。常緑低木のゴモジュの葉が風に揺れている。ツバキ科のイジュは、チャノキに似た白い花をつけていた。
やがて行く手に、くだんの穴が見えてきた。
池のほうに目を向けると、玄帝はたしかにこちらを見つめている。
穴はさほど大きくなく、人ひとりが頭を低くして、ようやく入りこめるていどの直径だった。小さな祭壇や線香を立てる壺が置いてある。日本でも洞穴を祀る風習の残る神社があるが、それに酷似していた。
美玲が腕組みをした。「洞窟って呼ぶと語弊があるけど......。これって、年にいちどのお祭りのときに、お供え物を奉納するための穴よ。地方の寺廟ではめずらしくもないわ」
葵は穴を覗きこんだ。「ってことは、この穴の管理者はお寺の人?」
「ええ。だけど、お祭りのシーズン以外はほったらかしだと思う」
ここに出入りする者がいたとしても、誰も気づいていない可能性が高い。内部に何かが持ちこまれていたとしても不思議ではない。
暗闇に包まれた穴の奥を見つめていると、決心が鈍りがちになる。迷いを振り払おうと、莉子は語気を強めていった。「わたし、入ってみる」
「本気?」結愛が目を大きく見開いた。「うっそー。こんな真っ暗なとこに入っていくなんて。よっぽど勇気がなきゃできないよね。わたしだったら絶対無理......」
莉子はため息まじりに結愛を制した。「マイナス要素ばかり連ねないでくれる? 腰がひけてくるでしょう」
葵が心配そうにきいてきた。「莉子。だいじょうぶなの......?」
平気かどうかと聞かれれば、むろん怖い。けれども、迷っている場合ではない。
波照間島の未来がかかっているのだから......。
決意とともに踏みこむ。視界は闇に覆われた。ひんやりとした肌寒さが莉子を包んだ。
だがすぐに、目が慣れてきた。壁や天井はセメントで固めてあるようだ。何歩か先までは、入り口から差しこむ光によって見通せる。
後ろについてきた美玲がささやいた。「こういう穴って、そんなに深くは掘ってないはずよ。十メートルか、せいぜい二十メートル進めば行き止まり。神棚みたいな物、見えない?」
「神棚......」莉子は目を凝らした。
それらしき物は見当たらなかったが、天井から莉子の頭上に向かって、斜めに二本の木製のレールが走っているのがわかった。レールの間隔は二十センチぐらい。梁にしては、手前側の端が固定されておらず宙吊りになっている。
傾斜角度は水平に対し三十度ぐらい。なぜこんなふうに設置してあるのだろう。
前に進もうとしたとき、足首になにかがひっかかった気がした。
その直後、奥のほうで鈍い音が響きだした。莉子ははっとして頭上に目を向けた。
なんと二本のレール上を、直径五十センチぐらいの白い球体が莉子めがけて転がってくるではないか。
球体は落下してきて、莉子の頭を直撃しそうになった。莉子は悲鳴をあげて両手で球体を支えた。
奇妙な感触。柔らかかった。当たったとしても怪我はしなかったかもしれない。しかし、かなりの重量だ。両腕に力をこめて押し戻そうとしたが、球体はのしかかるばかりだった。
美玲が身を乗りだして助けに入ってきた。「莉子さん、しっかり!」
葵と結愛も、狭い洞穴内で身体をねじこませるようにして、助けの手を差し伸べてきた。何本もの腕が球体を支える。美玲がいった。みんな同時に後ろにさがって。いまよ。
身を退かせると、球体はどさりと地面に落ちた。
衝撃のせいで、楕円に変形してしまっている。やはり柔らかい材質だった。手はべとつかないが、乾いた粘土だろうか。
美玲が姿勢を低くして、球体に触れた。「これ......お餅ね」
「餅?」結愛が声をあげた。
「ええ」美玲はうなずいた。「蘿蔔糕っていうの。日本風にいえば大根餅。涼しいところではこんなふうに、少し熱したときの蝋みたいな半固形になる。炒めてから醤油か芥子をつけて食べると美味しいの」
「ってことは......お供え物? なぁんだ」
莉子は腑に落ちなかった。しゃがみこんで足もとを手で探る。
指先が、左右に渡せかけた細い針金に触れた。
葵がたずねた。「どうしたの?」
「仕掛けがあったのよ。足首が針金にひっかかると、お餅が転がってくるようになってた」
結愛は呆れ顔だった。「直径五十センチのお餅が侵入者を襲う恐怖のトラップ。しょぼいインディ・ジョーンズって感じ。いちおう前に進ませまいとしたってこと?」
美玲は浮かない面持ちで首を横に振った。「いえ......。見てよ、この先はもう......」
すでに目は暗闇に慣れきっていた。ほんの数メートルで洞穴は行き止まりになっている。小さな神棚らしき物はあったが、いまは何も祀られていなかった。
袋小路に突き当たった。途方に暮れてたたずむしかない。それが莉子たちの現状だった。
回収不可能
ふた手に分かれるしかない、と莉子は思った。会話ができる美玲は、結愛と一緒に左營駅に戻らせた。ふたりは台湾新幹線で台中駅へ行き、そして碼頭站の例の漁村に向かう。村人を虱潰しにあたって、黄春雲か林馮についての情報をききだす、それしかない。どうあっても事実を知る人間を見つけねばならない。
莉子は葵とともに、蓮池潭の近くにあるホームセンターで懐中電灯を購入し、洞穴の奥を徹底的に調べることにした。
異常なほどの蒸し暑さのなか、暗闇を這いずりまわって手がかりを探したが、何も発見できなかった。頭上のレールは壊れかけた梁にすぎず、そこに餅を載せて転がるようにしてあっただけだ。誰が持ちこんだのかもわからない。美玲がいなくては、周囲の人々に事情をきいてまわることも不可能だった。
時間は飛ぶように過ぎていった、気づいたときには午後一時をまわっていた。日本は午後二時過ぎ......。
葵が額の汗をぬぐいながらつぶやいた。「莉子。銀行って三時に閉まるけど、送金業務は二時までじゃなかったっけ」
認めたくないが、事実だった。きょうの昼過ぎにおこなうはずだった振り込みは、すでに済んだ可能性が高い。
もはやここにいても埓があかない。莉子と葵は漁村に向かうことにした。美玲、結愛と落ち合って、ふたたび四人で黄春雲の足跡を追う。それ以外に辿るべき道はなかった。
ふたりとも服は薄汚れていたが、新幹線に乗るのに支障が生じるほどではなかった。台中駅までの一時間、莉子と葵は車中で言葉を交わさなかった。
悲観的なことは口にしたくない。ききたくもない。けれどもいま、それ以外の言葉は見つからない。
台中駅に到着したとき、現地時間で午後三時近くになっていた。ホームからのエスカレーターを下りながら、葵はしきりに携帯電話をかけていた。
莉子はきいた。「つながった?」
「いいえ」葵は困惑のいろを浮かべていた。「お父さんの携帯、電源が切れてるみたい。役場のほうに電話しても話し中ばかりなの。議場だけじゃなくて、どの受付番号もそうなのよ」
話し中......。悪い予感がする。回線がふさがるだけの混乱が生じているのでは......。
エスカレーターを下りきり、広大なホールを足早に横切る。各地の物産展が開かれていて、数多くの仮設店舗がロビーを埋め尽くしていた。莉子たちはそれらの問を縫いながら改札の出口を目指した。
どうしよう。竹富町役場は石垣島にあるが、石垣市役所に電話してもなんの意味もない。別の行政区だ、公示前の極秘の議題については知らされていないだろう。警察についても同様だった。たとえ地元であっても、議会の内情に首を突っこむ権限などない。波照間にいる莉子の両親も頼りにできなかった。冬のこの時期、フェリーの最終便は三時台だった。もう日本は四時をまわっている。石垣に行かせるのは無理だった。
美玲に借りた大坤の携帯電話を取りだし、思いつく番号を手当たりしだいにプッシュした。石垣にいるはずのおばあの家にかけたが、留守だった。八重山高等学校の喜屋武先生を呼びだしてみたが、いまは宮古の実家に帰省中だという。
事情を知ることさえできない。誰か頼れる人は......。
氷室に電話したが、留守電になっていた。残るはひとり、彼しかいない。雑誌記者としてどのていど顔が利くかわからないが、地方行政へのコネを持つ同僚がいれば現状を探れるかもしれない。
そう思って小笠原の番号にかけた。お願い、電話にでて。
祈ること数秒、小笠原の声が耳に届いてきた。「もしもし」
「小笠原さん」莉子は急ぎ足で改札出口に向かいながらいった。「よかった。じつは......」
だが、小笠原の声はなぜか沈んでいた。「凜田さん。事情ならわかってる。氷室さんからきいたよ」
「そう......なの? じゃあ、悪いけど調べてほしいことがあるの。竹富町議会なんだけど、電話がつながらなくて......」
「凜田さん。......僕はいま、その議会にいるんだよ」
「え?」
「議場は紛糾してる。振り込み後、黄春雲って人からの連絡がまったくないからだ。詐欺の疑いが濃厚だと、ようやく誰もが気づきだしたらしい。町長は一方的に、嘉陽果議員を責めてる」
莉子の足は自然にとまった。
改札を抜けようとしていた葵が、莉子のようすに気づいたらしく立ちどまった。葵は振りかえってきいた。「どうかしたの?」
......答えられない。莉子は無言のまま、小笠原の声に耳を傾けた。
小笠原の声は告げていた。「ほかの議員たちも、責任を追及する人間を探しはじめてる。誰も悪くはないのに......。みんな島の未来を思ってやったことだ。水不足解消の奇跡でも起きない限り、ひっ迫した竹富町の財政が改善することはなかったんだし」
「嘉陽果さんはいま......どうしてるの?」
「きっと返事があるからしばらく待ってくれ、ずっとそういいつづけてる。けど、もう望み薄だよ。町長が知り合いの台北市議員と連絡をとり、黄春雲の事務所の住所を調べさせたらしい。それが日本にもよくある。いわゆる電話秘書ってやつのオフィスでさ。契約している会社名や個人事務所名で応答して転送してくれるサービスだよ。黄春雲なる人物はそこを利用してたにすぎないらしい。もちろん登録には偽名使って、住所もでたらめだろうね」
「......小笠原さん」莉子は言葉に詰まった。「あの......議会が振り込んだお金は......?」
しばし沈黙があった。小笠原の声は静かにいった。「経理の人が何度も銀行に問い合わせたんだけどね。十二億円、丸ごと向こうに送っちゃったらしい。もう取り戻すことは不可能だって......」
一瞬、意識が遠のきそうになった。電気に打たれたように痺れが走る。感覚が麻痺し、気づいたときにはがっくりと両膝をついていた。
「もしもし」小笠原の声が呼びかけてくる。「凜田さん。だいじょうぶ?」
夢遊に似た状態のまま、莉子はつぶやいた。「平気......。あの......あのね、小笠原さん。ほんとにありがとう。......心配かけてごめんなさい。それじゃ」
電話を切ると、視線が床に落ちた。立ちあがることはできない。
葵が歩み寄ってきた。「莉子......」
現実感を伴わない静寂のなか、電話が嗚った。莉子の手のなかにあるケータイだった。
莉子は応じた。「はい......」
「わたしよ」美玲の声だった。小笠原以上に陰鬱な響きを帯びている。「結愛さんと一緒に村をまわったわ。人が少ないから、そんなに時間もかからなかった」
「それで......?」
「残念だけど......収穫なし。黄春雲、林馮、蔡徳有。どの名前もまるで聞き覚えがないそうよ。......あ、ちょっと待って、結愛さんが話したいって」
結愛の声も沈んでいた。「莉子......。頑張ったんだけど......ほんとに悔しいんだけどさ......。誰も知らないって。あの屋台のおばあさんや、なんですかしかいわないおじいさんにも、美玲さんから話してもらったんだけど、やっぱり教えてくれないの。隠れてるかもしれないと思って家のなかを覗いたら、怒られるし散々だった......」
「無茶しないで。結愛。でも、ありがとう。努力してくれて......。美玲さん、まだそこにいる?」
うん。結愛の声は涙ぐんできこえた。わたしだって泣きたい。そう思いながら、莉子は美玲の声を待った。
やがて美玲が電話にでた。「莉子さん」
「ねえ、美玲さん」一縷の望みを託すつもりで莉子はいった。「以前に新聞で読んだけど......。台湾でも日本と同じように、振り込め詐欺が問題になってたはずでしょう?」
「ええ」
「台湾に振り込め詐欺救済法みたいな法律ってないの? 詐欺の疑いのある口座を凍結して、預金を回収してくれるっていう......」
「日本にそういう法律があるのは知ってるけど、台湾には......。刑事法が改正されて、詐欺罪に対しては厳罰化したはずだけど、お金を取り戻すのは無理よ。詐欺に遭って破産して、救われずにいる人たちのニュースが連日でてるの」
回収不可能......。
携帯電話は莉子の手から滑り落ち、床に転がった。拾いあげようとしたが、手を伸ばすことすらできない。力が入らなかった。
項垂れていると、葵がしゃがんで莉子を見つめてきた。
葵の目には涙が溢れていた。莉子の両手を握り、葵は震える声でささやいた。「莉子......駄目だったのね......」
事実は認識できていた。受けいれるのを遅らせていた、それだけだった。しかし、葵のひとことが、莉子に現実を直視させた。
どうにもならなかった。わたしたちは失敗した。詐欺と見抜いていながら、送金を阻止できなかった。
「......葵」視界がぼやけてきた。堪えきれず、莉子は泣きだした。「ごめんなさい」
「どうして謝るの? 莉子は......わたしたちは頑張ったのよ」
「だけど......何もできなかった。犯人の居所もっかめない。どうやってだましたのか、それすらも見抜けなかった。わたしはやっぱり馬鹿だった」
「そんなことないってば。莉子」
「葵のお父さんを......島を救えなかった。悔しいよ。波照間の財政が......福祉が......」
「もういいのよ」葵は莉子を抱き寄せた。「破たんしても、島民の命が奪われたわけじゃないのよ。集落がなくなって、ほかの島に移住することになっても......。わたしたちは、わたしたちなんだし」
そうつぶやきながらも、葵は肩を震わせていた。大粒の涙が滴り落ちるのを、莉子は黙って見守るしかなかった。
何をやっているのだろう、わたしは......。これまで幾つもの詐欺を暴き、秘められた真実を白日のもとに引きだしてきたのに、いまこの瞬間に泣くしかないなんて。友達を助けられず、逆に慰められるなんて。
こんなに情けないことはない。莉子は目をつむった。涙が涸れるにまかせる。いまはそれしかできなかった。
ふと、顔に生暖かい湯気のようなものを感じた。
うっすらと目を開けた。使い捨てのポリ容器に入った、わかめスープらしきものが視界にあった。
視線をあげると、ひとりの中年女性と目が合った。
周りにいたのは、その女性だけではなかった。物産展の店員らしき中高年の男女たちが集まってきている。さまざまな食品を差しだしていた。
人々はいっせいに喋りだした。何を伝えようとしているのかわからないが、とにかく食べろ、まずはスープを飲めといっているらしい。なかには、紙幣を押しつけようとする者もいた。莉子はあわててそれを断るべくゼスチャーをしめした。
親切な台湾人が、床に崩れ落ちて泣きながら抱き合うふたりを、ほうっておくはずもなかった。スープに口をつけるまでは、決して引きさがろうとしない構えのようだ。
莉子は葵を見た。葵の顔は涙でぼろぼろになっていたが、やがて微笑が浮かんだ。両手を伸ばし、スープの容器を受け取る。
好意は無にできない。莉子も葵に倣った。漂り湯気に視界がもやに包まれる。
スープをひと口すすった。ピリ辛の味付けが温かさとともに胸に沁みいる。心が洗われるようだった。
有難い。いまのわたしには勿体ないぐらいの御馳走に思える......。
しかし莉子はそのとき、頭の片隅になんらかの思考が生じたのを感じた。
なんだろう。ふたたびスープに口をつける。異質に思える脳内の架空の物体が、スープを飲んだぶんだけ増大したように思えた。
さらにスープを味わう。やはり、おぼろな考えはひとつにまとまりはじめている。
じれったい。莉子は容器をあおり、スープをごくごくと飲んだ。周囲の人々がどよめいて見守る。
一気に飲みほしたとき、葵が唖然とした面持ちで覗きこんだ。「莉子。どうしたの?」
両手に自然に力がこもり、莉子はからになった容器を握りつぶした。跳ね起きるように立ちあがりながら、莉子は叫んだ。「水! 水! ええと......水!」
人々が戸惑いがちに右往左往し、やがてコップ一杯の水が運ばれてきた。莉子はそれを受け取り、ぐいとあおった。
焼けるような喉と舌の辛味がひいていく。
これは......。
莉子は、スープをくれた中年女性に詰め寄った。「おばさんの売り場はどこ? スープの材料は?」
言葉が通じない。女性も何かまくしたてているが、意味はわからなかった。莉子は駆けだして、物産展に向かった。スープの香りを探して駆けまわる。
すぐさま仮設店舗のひとつが目にとまった。走り寄ると、煮え立つ鍋の脇に詰まれた食材を見つめる。
「......そうだったのか」莉子はつぶやいた。「じゃあ、そのときのそれは......。ここは、ああ、そうだ。そうよ。それしかない!」
莉子はまた駆けだした。物産展からエスカレーター方面へと疾走する。風が耳もとで唸る。息を弾ませながら歩を緩め、そこにあった看板を見あげる。
日本への旅行にいざなう嵐のメンバー五人の笑顔。いや、わたしが目にしたかったのは......。
全身に電気が走ったかのようだった。莉子はのけぞりそうになった。身を翻し、ふたたび物産展へと駆け戻っていく。
叫びのような声がきこえる。自分の声だと莉子は気づいた。叫ばずにはいられない、そんな心境だった。
葵は困り果てた顔で迎えた。「莉子......。どうしちゃったの。だいじょうぶ?」
「ええ、平気」莉子は興奮を抑えきれず、声を張りあげた。「葵。行こ」
「行くって、どこへ? 何をしに?」
「黄春雲に会うのよ」
「なんですって?」葵は目を瞠った。
「急いで」莉子はきっぱりといった。「これが最後のチャンス。わたしたちはまだ負けていない」
魔法使い
台中駅から在来線で一時間近くの旅、終点の碼頭站に着いたときには、すでに辺りは夕暮れだった。
葵は莉子の背を追って、改札すらないその小さな無人駅をでた。波止場を囲むように存在する集落に足を運ぶ。
美玲と結愛のほうは、いまごろ台中駅に戻っているだろう。ここはわたしたちふたりきりだった。
歩きながら莉子が告げてきた。「ねえ、お父さんの秘書の鳥堀彩花さんが、初めてここに来た夜のことを教えてくれたでしょ? 屋台のおばさんに声をかけて、黄春雲と会って、隣りにある倉庫に入って......。最初に見えたのは、暗闇のなかに光る小さなLEDランプだったって」
「ええ」葵はうなずいた。「扉を入ってすぐのところに丸テーブルがあって、携帯電話が充電器に挿してあったのよね」
「そのケータイを先に入手できれば、勝機はあるかも」
なるほどと葵は思った。電話の履歴や、登録してある電話帳リストに、動かぬ証拠が残っている可能性もある。
集落の中心部には、きょうも『蒜香小捲』の屋台がでていた。老婦と目が合ったが、莉子は何もいわず、すぐ近くの倉庫の扉に突き進んだ。この集落にある唯一の倉庫。わきには小型トラックが停まっていた。荷台には段ボール箱がふたつある。ひとつにはキャベツとレタス、トマトにホウレン草の野菜類。もうひとつにはオレンジやリンゴ、梨、プドウなどの果物がおさまっていた。
老婦があわてたように、なにやら声をかけてくる。しかし莉子は立ちどまることもなく、倉庫のスライド式の扉を開け放ち、なかに踏みいった。
葵もその後につづいた。なかは暗かったが、もぬけの殻でないことはすでに感じられる。雑然とした散らかりぐあいが、うっすらと闇に浮かびあがる。
おかしいとは思わなかった。ここに来るまでに莉子が説明してくれたことを考慮すれば、むしろこれが当然の状況だった。
暗がりにLEDランプの光が見える。葵はすぐさまそれに手を伸ばし、携帯電話を充電器から引き抜いた。
ボタンを押してみたが、まるで反応がない。電源は入っているが、通話すらできなかった。
「駄目」葵は落胆とともにつぶやいた。「キー入力がぜんぶ暗証番号でロックされてる。履歴も電話帳も見れない。電話もかけられない」
「貸して」と莉子がそれを受け取った。
「ロックを解除できるの?」
「無理よ」
「はぁ......。せっかく犯人の所持品を入手できたってのに」
するとそのとき、ふいに倉庫内が明るくなった。
裸電球を灯した者がいた。
開襟シャツに薄汚れたズボンを身につけている。面長の顔は髭が伸びて、髪とつながってしまっていた。年齢は三十代半ばぐらい。
葵は息を呑んだ。映像に写っていた男だ。父とともにヨットの上にいた。黄春雲その人に間違いない。
倉庫のなかは、やはり物で溢れかえっていた。埃まみれの実験器具に、床を埋め尽くす無数の紙片、コンピュータ機器。そして、ごろりと転がるロートあるいはジョウゴを大きくした物体。材質はアクリル、無色透明のスケルトン仕様。管に白いフィルターが仕込んであるのがはっきりわかった。これも映像にあった通りだ。
ついに黄春雲と対峙した。父がいっていたとおりの現場に足を踏みいれた......。
黄は、葵たちが来るのをまるで予期していなかったらしい。驚きのいろを浮かべて、台湾語でまくしたてている。つかつかと歩み寄ってくると、莉子の手から携帯電話を奪い取り、さらに早口に喋りまくった。
通訳なしでも、何をいっているのかはわかる。勝手に触るな。何しに来た。おまえらは誰だ。そんなところだろう。
莉子はすました顔でいった。「黄春雲さん。画期的な淡水化フィルターの発明者さんですよね」
だが黄は眉をひそめただけで、また台湾語を途切れなく口にした。両手を開いて、言葉がわからないとゼスチャーでしめしているようだ。
莉子は首を傾げた。「おかしいですね。実験の映像を観ましたけど、嘉陽果議員に対しては日本語をお話しになってませんでしたか? 言葉がわからないのはきわめて不自然に思えますけど」
すると黄は面食らったようすで押し黙り、莉子と葵をかわるがわる見つめてきた。
やがて、流暢な日本語で黄はつぶやいた。「なんだ。嘉陽果議員の知り合いか」
平然とした面持ちで莉子がいった。「言葉、わかるじゃないですか」
「警戒したんだよ。どこの誰ともわからない女性がふたりで......。何の用だ。私は忙しいんだ」
「どんな理由で多忙なんですか。十二億円が振り込まれたかどうかは、ネットで口座を確認すればすぐにわかりますよね。さぞお喜びでしょう」
黄は警戒心をあらわにした。目を怒らせてじっと莉子を凝視する。
葵ははらはらしていた。莉子はなぜこうまで露骨に黄を挑発するのだろう。
だが黄は、でていけと暴言を吐く素振りはしめさなかった。逆に余裕をみせながら告げてきた。「座るか」
指し示されたのは、倉庫の隅にある四人掛けのテーブルだった。莉子はさっさとそちらに歩きだしていた。
鼓動が速くなるのを抑えられない。息が詰まりそうだ。葵はびくつきながら莉子とともにテーブルに近づき、並んで着席した。
黄春雲は向かいの席に座ると、ぞんざいにいった。「で、振り込みが何だって? まるで覚えがないな」
莉子は臆するようすもなく告げた。「そうおっしゃるでしょうね。嘉陽果議員とお会いになったことは、映像に残っているから否定できない。でもお金を要求したこともなければ、発明の権利を売るという話もしていない。それがあなたの主張でしょう。契約書なんて作った覚えもない。だから口座への巨額の振り込みなんか関知しない、竹富町議会が勝手にやったこと。被害者側も、証拠はないのだから手はだせない。すべてあなたの計画どおり」
「なんのことかわからんが、どうにもならないと自覚しているのなら、さっさと尻尾を巻いて退散したらどうだ。私とは無関係のことだが、これだけはいっとく。失った金は戻らんよ」
父をだました男の瓢々とした態度に、葵は腹を立てた。時間の経過とともに憎しみが募る。
こんな男のせいで、波照間島は破たんの危機に直面している。しかもこの期に及んで知らぬ存ぜぬを決めこむ。どこまで愚弄すれば気が済むのだろう。
しかし、葵の憤りとは対照的に、莉子は妙に冷静だった。莉子は黄を見据えた。「佐賀大学の海洋エネルギー研究センターにおられたとか」
「さあ」黄はとぼけた顔で見かえした。「なんの話かな」
怒りで我を忘れそうになる。葵は黄にいった。「いい加減にしたらどうなの、あなたは......」
すかさず莉子が片手をあげて葵を制してきた。葵は口をつぐまざるをえなかった。
莉子は黄に対し、静かにきいた。「ずっとこの村にお住まいですか」
「答える義理はないな」
「台北に家を借りておられたようですけど」
「以前に台北にいたことはあったな。きみのいう家とは無関係と思うが」
「いつごろ台北におられたんですか」
「三年か、四年ぐらい前が」
「ふうん......。蒋介石初代総統の像がある中正紀念堂の近くとか」
黄は、あきらかに口からでまかせとわかる物言いでいった。「そうだったかもしれんな」
「中正紀念堂でしたか」
「なに? 何がだ?」
「あなたがお住まいの場所。近くにあったのは中正紀念堂ですか」
「きみがそういったんだろ。ならそうじゃないのか」
「おかしいですね。三年か四年前といえば、二〇〇七年か〇八年。その二年間だけ、中正紀念堂は台湾民主紀念館に名前を変えてました。知らない台湾人がいるはずないと思いますけど」
沈黙が数秒流れた。すぐさま黄は莉子に噛みついた。「それがどうした。現在は元の名称に戻ってるから、それに合わせただけのことだ。蒋介石の座像があるのは中正紀念堂ってのが、ごく一般的な台湾人の認識だろが。一時的な改名なんか、会話上いちいち考慮するわけがない」
「蒋介石の座像があるのは中正紀念堂ですか」
「ああ。だから、そういってるだろ」
「ご覧になったんですか」
「台北に住んでりゃ、見たことぐらいあるだろが」
「あなたがお住まいの期間、座像は布で覆われてたんですけど。どうやって見たんですか」
「いい加減にしろ!」黄はテーブルを叩いた。「いったい何がいいたいんだ。きみの戯言に、私が本気で答えるとでも思ったか」
莉子の表情は変わらなかった。「日本語おじょうずですね、というより、さっきの台湾語、お見事でした」
「......何?」
「いえ。現在の中正紀念堂しかご存じないようなので、台湾人じゃなく日本人かと。当然、〇九年以降に台湾に来られたんでしょう」
黄春雲は凍りついたように押し黙った。
張り詰めた空気に、葵の心臓は激しく脈打っていた。
詐欺師を相手にちくちくと針で刺し、本性を浮かびあがらせようとしている。そんな莉子の戦法は一定の効果を挙げつつあるものの、真相究明にはほど遠かった。黄が肝心なことを話すはずがない。たとえわずかに疑惑の断片が覘こうとも、わたしたちは敵陣深くに分けいって孤立無援の身だ。無事に帰れるかどうかもわからない。
そう思ったとき、扉を入ってくる足音がした。
振りかえると、スキンヘッドに髭面の屈強そうな男が歩み寄ってきた。葵たちを一瞥すると、興味なさそうに目を逸らし、黄春雲のもとに向かう。
この男の顔も映像で観た。黄の相棒でヨットを操縦していた、林馮を名乗る男だった。黒いシャツにたくましい二の腕が浮かびあがっている。
林馮は肩にかけたカバンを投げだした。どこかにでかけていたらしい。黄春雲と目配せしあい、なにやら笑いあった。
状況は限りなく不利だと葵は思った。二対二、それも向こうは男性だ。重箱の隅を突くような莉子の指摘で、風穴があけられるとは思えない。
黄春雲の心にもゆとりが生じたらしい。態度を大きくしていった。「お嬢さんたち。勝手にあがりこんで言いがかりをつけてきたからには、それ相応の覚悟があるんだろうな」
きた。反撃だ。葵は恐怖にすくみあがった。
ところが、莉子はなおも平然とした面持ちだった。「あなたたちはすぐに、わたしのいうことをきくようになる」
倉庫内はしんと静まりかえった。黄は目を丸くした。それから林馮と顔を見合わせ、弾けるような笑い声をあげた。
「面白いな」黄は凄んできた。「いったいどうして俺らがきみのいいなりに......」
ふいに着信音が鳴った。黄の携帯電話だった。眉間に皺を寄せた黄が電話に応じる。台湾語でなにか喋った。
その直後、黄春雲の表情に、あきらかな変化が生じた。
ぼそぼそと告げる言葉は、葵にとって意味不明ではあったが、しかしずいぶん慇懃丁寧な物言いに思われた。耳をそばだてる林馮の顔にも、緊張のいろが浮かんでいた。ふたりとも、電話の相手を極度に恐れているようだった。
しだいに怯えのいろが濃くなっていく。黄が電話を切ると、ふたりはいずれも恐縮したようすで莉子と葵を見つめてきた。
まだ立ったままの林馮に、莉子は厳かに告げた。「あなたも座ってください」
林馮は飼いならされた犬のように、すごすごと黄の隣りに着席した。
なんだ......? 葵は呆気にとられていた。いったい何が起きたのだろう。
ふだんは猫のような莉子の瞳が、豹のごとき鋭さを帯びる。すわった目つきでふたりをにらんだ。「提案があるんですけど」
「な」黄がうわずった声できいた。「なんですか」
「ただちに荷物をまとめて石垣島に飛んでください。竹富町役場に出頭するのが、あなたたちにとって最良の道」
黄春雲と林馮は困惑の視線を交わしあった。まるで教師に叱られる生徒のようだった。
なおも莉子は強気な態度を崩さなかった。「身分証は? だして」
すると、黄がおずおずと告げた。「あのう......。パスポートはここにないんです。近くの隠れ家に置きっぱなしで......」
莉子はいきなり机を叩いた。ふたりの男は椅子から飛びあがらんばかりにびくついた。
静寂のなか、莉子は低い声で告げた。「日本人でしょ。運転免許証あるでしょ」
「私たちは......国際ライセンス持ってないんで、海外で運転できるわけが......」
「〇七年九月以降、日本の運転免許証を所持している者は台湾でも運転できる。自動車連盟が発行した翻訳文を添えていればね。この倉庫の脇に小型トラックが停まってる」
「運転していたのは、そのう、私たちではなくてですね......」
「荷台に野菜と果物が分けて積んであるけど、台湾では果物のはずのトマトが野菜の箱に入ってた。つまり運転してたのは日本人。わたしが何をいいたいかわかるでしょう?」
黄は戸惑いの表情を浮かべたが、すぐに観念したようすで財布を取りだし、運転免許証を引き抜いた。相棒の林馮もそれに倣った。
テーブルに置かれた二枚の免許証を見て、葵は衝撃を受けた。
たしかにふたりの顔写真が入っている。両者ともに日本人だった。黄春雲を名乗っていたのは白士鶏欧。林馮のほうは今鹿照二治。住所はいずれも鹿児島県阿久根市。
莉子は白士の免許証を取りあげていった。「更新は二年前ですね。この当時、お仕事は何をされてたんですか」
さっきまで黄春雲を自称していた白士が、日本人特有のへらへらした愛想笑いを浮かべた。「あのう、研究員をしていたというのは本当なんです。平日は朝から晩まで働き詰めで......」
「そういうの、もうやめません? 交付日の〇九年二月十八日は水曜日。その右の欄、五桁の数字が14327。免許更新センターの十四番のカメラで、三百二十七人目に受け付けたってことでしょう。朝早くでかけたわけでもなく、昼過ぎぐらいにのんびり手続きしてる。勤め人じゃなかったことぐらいわかります」
これには白士もぐうの音もでないらしかった。たちまち萎縮したようすで、ささやくように告げる。「は......はい。おっしゃるとおりです......」
莉子が威嚇するようにふたりを見ると、男たちは心底怯えたようすでうつむいた。
二枚の免許証を重ねて持ち、莉子は腰を浮かせた。「これらは預かっておきます。それと、ケータイもね。石垣島に着き次第、返却します」
「ど、どうぞ」白士は携帯電話を差しだしてきた。「なんなら、暗証番号のロックを解除しましょうか」
「いいえ。それには及びません。じゃ、すぐに旅じたくを始めてください。くれぐれも逃げようなんて思わないように」莉子は葵を見た。「行きましょ」
「え......ええ」葵はあわてて莉子を追った。
扉をでると、外はもう黄昏どきから闇夜に変わりつつあった。
足早に歩く莉子に並んで、葵はきいた。「あの人たちと一緒に帰りの便に乗るの?」
「いいえ。別の飛行機に乗っても心配ないし。ふたりとも、ちゃんと石垣島に向かうわよ」
「どうしてそういいきれるの? 逃げないって保証はないでしょ」葵は、莉子の手にした携帯電話に目を落とした。「そのケータイも、ロックを解除させればよかったじゃない」
すると莉子は歩を緩めないまま、携帯電話をかざすようにして通話ボタンを押した。なんと、回線使用可能の状態をしめす〝ツー〟という音が響いてきた。
「な」葵は驚きを禁じえなかった。「なんて? 暗証番号がわかったの? いったいどうやって?」
ピッと携帯電話を切ってから、莉子はさらに足を速めた。「急いで駅に戻ろうよ。わたしたちも帰らなきゃ」
葵は唖然としながら、莉子の横顔を眺めていた。
莉子は魔法使いだ。そう信じるほうが理にかなっている。ここで起きたことのすべてが、現実のものとは思えない。まるで彼女の夢のなかにいるようだ。
難局
小笠原悠斗はひとり壁ぎわに立ち、通夜のように静まりかえった竹富町議会の議場を眺めていた。
夜九時をまわっても、十四人の議員は帰宅を許されていなかった。のみならず、すべての議員秘書と、この件に関わる全職員が雛壇席および左右通路に設けられた補助席に集められている。
夕方以降、この議場は紛糾し、怒声や罵声が飛び交った。ひところには掴み合いの喧嘩すら始まる体たらくだった。いま沈黙に包まれているのは、問題が解決をみたからではない。日没後に石垣島の議員ら数人が議場に加わり、さらに七時すぎには沖縄県議会の代表者らが町長の救いを求める声を聞きつけやってきた。部外者の目があったのでは、さすがに内紛劇の醜態を晒すわけにもいかない。
そしていま、県警に提出した被害届が正式に受理されたうえ、事態を重く見た警察庁の判断から、国際詐欺犯罪専門の警視庁捜査員を派遣すると通知があった。すでに石垣空港に到着し、八重山警察署の覆面パトカーによりこちらに向かっている最中だという。
誰もがネクタイを緩め、髪を振り乱し、疲労困憊のすえ喋る気力も失っている。それが現状を物語る的確な表現だった。
議員席の前列、一番端に座る嘉陽果煌は、項垂れたまま身じろぎひとつしない。そこは実質的な被告席だった。
とはいえ、議会全体も町長も、その責をまぬがれない。全員が被害者であると同時に、竹富町の財政を破たんさせたA級戦犯、島の将来を思ってのことであっても、世間はそうみなすだろう。
これが詐欺事件である以上、本当の加害者はほかにいる。せめて警察の捜査が迅速におこなわれることを祈るのみだった。台湾に捜査員が派遣されるのは、早くても来週以降になりそうだが......。
廊下にざわめきがきこえた。複数の靴音が響く。あわただしく扉が開き、いかめしい顔つきのスーツの集団がぞろぞろと入場してきた。東京は寒かったせいだろう、脱いだコートを脇に抱えた者が多い。
警視庁の上層部肝いりの捜査員たちというものは、いかついだけでなく威厳と知性が備わっていて、なんとも近寄りがたい存在感を放つ。以前にも何度かこの大名行列を目にしたが、あいかわらず周りをひれ伏させんばかりの高圧的な態度だ。
おや、と小笠原は思った。警視庁捜査員の群れに対する既視感は、その印象のせいばかりではないようだ。
猪首で大柄の男たちが大半を占めるなか、先頭に立つのはスマートで長身、品よくスーツを着こなした中年だった。その男が、役場の職員にたずねている。「マスコミにはまだ漏れてませんね?」
「ええ」職員は当惑顔をこちらに向けた。「ただおひとり......。そのう、噂を耳にして飛んでこられたかたがおられまして。東京の雑誌社のかたで」
「雑誌社?」
小笠原は、その顔見知りの警部に頭をさげてみせた。
「ああ」警視庁捜査二課、宇賀神博樹はにこりともせずにいった。「あなたでしたか。コカ・コーラの件で印象に残ってます」
「どうも......」小笠原は恐縮するしかなかった。あの大恥をかいた失敗のせいで記憶に刻まれるとは、すなおに喜べない。
宇賀神はしかし、それなりに小笠原に信頼を寄せているらしかった。「彼ならだいじょうぶです。こっちを出し抜いたり、了解もなく記事をでっちあげたりはしない」
町長の志伊良章光が立ちあがり、宇賀神と捜査員一同に深々と頭をさげた。「このたびは遠路はるばるご苦労さまです......」
議員たちもいっせいに腰を浮かせ、おじぎをした。なかでも、几帳面に首を垂れる嘉陽果の姿が印象的だった。
捜査員たちは演壇をはさんだ逆側の前方、用意された席におさまった。その一角はいかにも検察サイド、いよいよもって裁判の様相を呈してきた。
着席した宇賀神が、ボールペンを取りだしながらいった。「あらましはうかがっております。海水淡水化の技術を売ると台湾人に持ちかけられ、一般会計予算のうち十二億円を振り込んでしまったとか。で、先方とは音信不通。そういうことですね。この件のそもそもの担当者は?」
嘉陽果がおもむろに立ちあがった。憔悴しきったようすの嘉陽果がつぶやくように告げた。「私です......」
宇賀神がきいた。「技術なるものを、その目で検証したのはあなたひとり。そうですね?」
「はい」
すると、補助席のなかにいた東大教授の添石が声をあげた。「待ってください。たしかに現地で確認したのは嘉陽果議員と議員秘書の鳥堀さん、それに私ですが、歳出は議会で決めたことです。全員一致で賛成でした」
議員のひとりが不満げにいった。「われわれはあくまで、きみらが持ち帰ったデータを評価しただけだ」
別のひとりも声を荒らげた。「あの記録映像と報告内容なら、誰だって画期的発明と納得する。だいたい、きみらが本物だと主張したじゃないか。議会の連帯責任というのはわかるが、過失割合はすべての議員について同等というわけではないだろう。現地に赴いた嘉陽果議員にこそ最大の......」
いっせいに手があがり、ほぼ全員が同時に発言した。議会はまた喧騒に包まれだした。誰もが興奮ぎみで、他人の声には耳を貸さない。
嘉陽果は辛そうにうつむくばかりだった。彼の秘書の鳥堀彩花も、両手で顔を覆っている。
またしてもこの状況か。不毛な議論だと小笠原は思った。善意に始まったことだというのに、いまはただ憤りをぶつけあうだけでしかない。
「お静かに!」宇賀神が怒鳴った。「とにかく、事情は各自からおききします。今後、八重山署に捜査本部を設置、台湾刑事警察局と連携しながら捜査を進めていくことになるでしょう。どうか積極的にご協力ください。いま申しあげることはそれだけです」
志伊良町長がかすれた声でいった。「警視庁の皆様のご要望には、もちろんできる限り応えさせていただきます。しかし私どもは、いっぽうで大きな問題に直面しております。......犯人が見つからず。十二億円も戻らないならば、石垣市および沖縄県にご協力いただき、わが町の財政を支援していただかねば」
石垣市議員が咳ばらいした。「わが市を頼られても......。県のほうでなんとかなりませんか」
県議員のひとりは厳かに告げた。「石垣市に併合することも含め、慎重に議論していきたいと考えます。大幅な歳出カットのため、離島に散っている町民の多くに石垣への移住をお願いすることになるとは思います。なぜなら、残った予算でそれぞれの島の公共機関を維持するのは困難だからです。災害でもないし、国の特別支援にも期待できませんのでね」
議員たちは静まりかえった。それぞれの島に栄えた営みの終焉。その事実を突きつけられては、何もいいかえせるはずがない。
竹富町議員のなかで、とりわけ年配に見える人物が発言した。「よろしいですか。警視庁のかたにおたずねします。現実問題として、犯人が捕まる可能性はどれくらいでしょう」
宇賀神は渋い顔で首を横に振った。「まだわかりませんが、厳しいと思います。詐欺師は、目的を果たしたからには行方をくらますものです。日本と台湾には政府間の正式な国交がないため、捜査協力についてもイチから交渉せねばなりません」
「しかし映像があるわけだから、ニュースとして世界じゅうに配信してしまえば......」
「ふたりとも髭面です。逃亡時に剃ってしまえば別人になります。スキンへッドのほうは髪を伸ばし、頭髪があったほうは頭を丸めてしまえばいい。中国に高飛びすれば十三億人に紛れこめます。言葉も通じるし、一生安泰でしょう」
沈黙が議場を包んだ。もはや一縷の望みすらかけられない、そんな重苦しい空気が支配した。
そのとき、廊下が妙にあわただしさを増した。扉が開き、まず飛びこんできたのは警備員の後ろ姿だった。彼は何者かを押しとどめようとしていた。待ってください。まだ入っちゃいけません。
しかし、その制止を振り切ってふたりの男が乱入してきた。議場の人々はどよめき、立ちあがった。
ふたりはよれよれのシャツにジーパン姿、着のみ着のままという風体だった。ひとりはぼさぼさに伸ばした髪に髭面、もうひとりはスキンへッドだった。
嘉陽果煌は目を疑った。
黄春雲に林馮。まぎれもない本人たちが、いま竹富町議会に姿を現した。
「き」嘉陽果は顔がひきつるのを感じた。「きみらは......」
黄は目を剥いて辺りを見まわしていたが、やがてぼそりといった。「出頭したぞ。これでいいのか」
宇賀神は驚きのいろを浮かべながらも、厳しい口調でたずねた。「黄春雲か」
「ああ。そう名乗っていた」黄は宇賀神の前に駆け寄った。「ほんとは日本人だ。俺は白士、こいつは今鹿。あんた警察か? すぐ逮捕してくれ」
「しかし......」
「いいから手錠かけてくれよ」白士は切実にいった。「そこの嘉陽果議員にききゃわかる。俺はあの人をだました。この議会を手玉にとった。詐欺罪だ。さあ逮捕しろ」
当惑したようすの宇賀神が押し黙っていると、戸口にまた足音が響いた。
まず入ってきたのは、嘉陽果にとって顔見知りの若い女性だった。娘の同級生、祝嶺結愛だった。
結愛は満面の笑みとともにいった。「いやー、やっぱ石垣はいいさー、台湾もいいけど、八重山最高」
つづいて議場に姿を見せたのは、やはり若い女性だった。こちらは見覚えがない。礼儀をわきまえているらしく、深々とおじぎをした。
その彼女を結愛が紹介した。「この人、劉美玲さん。向こうで友達になっちゃった」
......なんだろう、この状況は。呆然と見守っていると、さらにまたひとり入場してきた。
嘉陽果は思わず声をあげた。「あ、葵!?」
娘の葵が、結愛と並んで立った。こちらを見つめる表情には憂いのいろが浮かんでいた。
目を合わせるには忍びない。迷惑をかけたのは私だ。娘の言い分が正しかった。いまとなっては、そのことを痛感せざるをえない。
飛び入りは三人だけではなかった。最後にもうひとり、同世代の女性が姿を見せた。彼女は結愛よりもさらに上機嫌なようすで、入るなり陽気な声を響かせた。「那覇経由って遠いねー。時間かかっちゃったけど、間に合ってよかった」
宇賀神が身を乗りだした。「り......凜田先生!?」
ざわっとした驚きが議場に広がる。嘉陽果も意外に思った。警視庁の捜査員が、娘の同級生と知り合いとは......。
「あー」莉子はいくつもの買い物袋を提げていた。「宇賀神さん、おひさしぶりです。来てたんですか。ちょうどよかった。はい、これ。お口に合うかどうかわからないけど、台湾名物のパイナップルケーキ」
記者の小笠原がおずおずと歩み寄る。「凜田さん......」
「こんばんは、小笠原さん」莉子はにっこりと微笑んだ。「石垣にようこそ。これどうぞ。台湾式の算盤とレトロなコイン。あ、議員のみなさんも台湾茶の茶葉、よかったらどうぞ、梅のウーロン茶漬けが美味しいらしいんですよ」
町長の志伊良が神妙にいった。「凜田さん。いったいこれはどういうことです。この男たちは。どうしてここに......」
「出頭してきたんですよ。本人たちもそういったでしょう? 詐欺を認めたんです」
宇賀神が莉子にきいた。「いったい彼らは何者ですか」
「二年前に台湾に渡った日本人です。定職にもついてなかったようですけど、南投県の小さな集落に住んでるうちに、今回の計画を思い立ったみたいで」
嘉陽果は不可解に思った。「あ、あのう......。失礼。南投県というのは? 彼らがいたのは、彰化県だったはずだが」
すると葵が静かに告げた。「違うのよ、お父さん」
「違う? ......何が?」
葵が歩み寄ってきた。「お父さんたちはメールを受信して、彰化県の鹿港の南にある小さな漁村を目指した。そうでしょう?」
「ああ」
「でも、お父さんたちは目的地にたどり着けなかった。違う場所に行っていたのよ」
「......何いってるんだ。私は間違いなく......」
「お父さんが降りた駅、碼頭站ってところでしょ」
「そうだ」
「どうやってそこまで行ったの?」
「電車だよ」嘉陽果は懐から手帳を取りだして開いた。「空港の職員に教えてもらったとおりに乗り継いだんだ」
葵は手帳を覗きこんだ。「『高鐵──台中站下車』って書いてある」
「台湾新幹線さー。台中駅で降りるって意味だ」
「次は......。『汽車──終點、碼頭站下車』ってあるけど」
「台中線は海岸に向かってるから、各駅停車でも四十分ほどで海だ。だから終点の碼頭站へ......」
「違うってば」葵はじれったそうにいった。「気づかないの? 台湾で汽車っていえばバスのことよ」
一瞬、ときが止まったかのように思えた。
嘉陽果は思わずつぶやいた。「バ......バス?」
葵の目は潤みだしていた。「電車は火車。たしかに台中線は海に向かって伸びてるけど、お父さんたちの目的地には通じてない」
「だが......〝站〟という字は駅っていう意味だろう」
そのとき、劉美玲が厳かに告げた。「站は電車の駅だけでなく、バス停の意味もあるんです」
「そうよ」葵はいった。「お父さんも知る機会はあったはずよ、台中駅にバスステーションヘの案内板があるもの。〝轉運站〟って書いてあった」
「......勘違いだったってのか? 電車の駅とバス停で、まるっきり名前が同じ終点があったと」
美玲がうなずいた。「碼頭站というのは、埠頭もしくは波止場の駅という意味ですから、ごくありふれた名です。彰化県や南投県のみならず、台湾全土に複数存在します。水辺にまで走る路線の終着点によくみられます」
「私が行ったのは、別の海沿いの村だったっていうのか」
すると莉子が告げた。「海じゃないんです、嘉陽果さん。あなたが足を運んだのは湖です。台湾島のど真ん中に、ヘソのように存在する島最大の淡水湖。日月潭のほとりです」
「に......日月潭だって!?」
頭を殴られるような衝撃とは、まさにこのことだ。嘉陽果は思った。
宇賀神が莉子を見た。「待ってください、凜田先生。日月潭ですか? 標高八百メートル、山中奥深くにある......」
莉子は平然といった。「並行して走る集集線に乗るか、ハイウェイをタクシーで行ってもわかりますけど、高架線は緩やかな上り坂を描くだけです。常に上昇を体感できるほどではありません。窓の外には椰子の木が生い茂ってますけど、夜なら真っ暗で何も見えません」
「しかし、嘉陽果議員は漁港に降り立ったんでしょう?」
「日月潭は大きな湖なので、箱根の芦ノ湖あたりと同様、いくつもの港や船着き場が点在します」
「でも、いかに台湾最大の湖とはいえ、琵琶湖みたいには広くない。水平線は見えず、対岸の山が確認できるでしょう」
「昼ならね。夜は真っ暗で無理です。秘書の鳥堀彩花さんによれば、当日は月もでていなかった。石垣の川平湾に似た景色ともおっしゃった。山に囲まれているせいでそう思ったんでしょう。鹿港の南なら山はありません」
「湖のほとりに月下老人の像が建ってるはずでは? 見えなかったんでしょうか」
「一九九九年の台湾大地震で倒壊し消滅しました。日月潭の北西に位置する碼頭站前の集落からは、夜間に眺める景色は海とうりふたつです。風があれば波も立つし、実際に漁業もおこなわれています」
「まるで方角が違うでしょう?」
「ええ」莉子はいった。「でも距離はほとんど同じです。台中駅から西南西に四十キロ行けば、本来の目的地である鹿港南の漁村。東南東に四十キロ行くと日月潭の碼頭站なんです。観光地でもないのでガイドブックに記載はなく、また台中駅の在来線の案内板は、日本と同じく路線図だけです。方角や場所は読みとれないんです」
彩花が目を瞠ってつぶやいた。「じゃあ、海水が淡水になったってのも......」
莉子はうなずいた。「当然です。最初から淡水だったんですから」
嘉陽果は納得できなかった。「私はちゃんと確かめたんだぞ。あれは海水だった。口にふくんだが、辛かった」
「そこなんですけどね」莉子は買い物袋をあさると、透明なチューブを取りだした。「これ、例のロートの簡易的なやつです。白士さんたちが実験用に作ってました。なかにフィルターが入ってます。で、ええと、これが......」
袋をまさぐり、莉子が水筒を取りだす。それを町長の志伊良に差しだした。「恐縮ですが、試飲していただけませんか」
志伊良は面食らった顔になったが、断る素振りはしめさなかった。蓋を取り、水筒を傾ける。
飲んだとたん、志伊良は顔をしかめた。「辛いな」
「そうです」莉子は水筒を受け取った。「で、これをフィルターに通します。ててきた水は、このコップで受ける」
グラスを取りだしてテーブルに置く。チューブに水を注ぎこみ、通過したぶんはグラスに溜まっていった。
そのグラスを志伊良に手渡しながら、莉子はいった。「もういちどご賞味ください」
不審な顔でグラスをあおった志伊良が、驚きのいろを浮かべた。「な......? これは、どうしたことだ。なんの味もしない。真水だ!」
小笠原が莉子にきいた。「水に塩でも入れてあったの?」
「いいえ。それじゃ溶けこんじゃうからフィルターでは除去できない。使われたのは塩以外の物よ。ヨットの上で白士さんがビーカーに水を汲んだでしょう。ビーカーの底にはすでに、粉末がまぶしてあったの。トウガラシをすり潰したものか」
「トウガラシ?」
莉子は議場全体に響く声で告げた。「カプサイシンは冷たい水に溶けにくい性質があります。このため粉末から溶けだすことも混ざりあうこともありません。そもそもカプサイシンに感じる辛味というのは、じつは人間の錯覚にすぎません。カプサイシンそのものは無味無臭なんです。しかし痛覚を刺激する特性があるため、これが舌には辛味として認識されるんです。粉末だから、ろ過によって綺麗に取り除けます」
「けど」小笠原が首をひねった。「専門家が分析したって......。添石さんや、それ以外の研究機関でろ過の前後の水を入念に比較したんだろう?」
嘉陽果は同意した。「そうさー。フィルターを通していない水を添石さんが調べたし、私も持ち帰った。あれは海水だった」
莉子はあっさりといった。「たしかにそうです。海水です。けど、その海水は本当に、水面から汲んだものだったでしょうか」
体内に衝撃が走る。嘉陽果は思わず声をあげた。「あ......。そうだ、あれは......」
「映像を観ればわかりますが、白士さんが汲んだ水をフィルターでろ過する実験をおこなった後、ふたたび海水の入ったビーカーを添石さんに差しだしたのは白士さんです。みんな添石さんの顕微鏡ばかり注視し、白士さんが水を汲むところを見てもいなかった。あれは事前に用意してあった正真正銘の海水です。鹿港南で汲んで、魔法瓶にでもいれて運んできたんでしょう」
「しかし......。専門家は比較検証の結果、たしかに海水から塩分が除去され淡水化していると......」
添石がおずおずと告げた。「嘉陽果さん......。凜田さんのいう通りかもしれません。いや、おそらくそうでしょう。あの淡水は日月潭の成分です」
「な......なんだって? いまさらそんな......」
「きいてください。雨が地中に浸みこみ、ふたたび地表に湧出して湖になります。同時に、地下水のまま海岸線を潜り抜け沿岸の海底に湧きでて海水に混じります。同じ地層の浸透能によって地下水がつくられますから、ひとつの島にある湖と周辺の海の水は成分的に似通ったものになります。サンプルの比較でも、石灰岩の地層を通過していることから、どちらもCa-HCO3を多く含む水質になっていました。違いは塩分があるかないが、それだけなんです」
「海と湖では住む生物も違うだろう? 水分に含まれていた有機体はどうなんだ」
「日月潭はダムと発電所を建造するために、水を大幅に増量する工事をおこなっています。湖面も本来の二倍近くに拡大しているんです。このため湖に特有の植物の枯死も少なく、堆積層があまり形成されていません。植物の分解による、弱酸性の環境の形成もほとんどない。ミズゴケが地表を覆うこともないんです。海に見まごう湖面の美しさはそのせいなんです」
なんと......。嘉陽果は開いた口がふさがらなかった。
ヨットの上で繰り返しおこなった実験が、道化の振る舞いに思えてくる。私が〝海水〟を飲んで辛さを確認したのは最初の一度だけ。あとはひたすら、みずからの手で何度も水を汲み、フィルターでろ過しては、サンプル用の瓶に注いだ。あれらが淡水だったのも当然だ。淡水湖にいたのだから......。
莉子がつぶやいた。「トウガラシの調達には困らなかったでしょう。白士さんたちが間借りしていた倉庫の隣りに住む老婦が、蒜香小捲の屋台をだしていましたからね。あの老婦とは仲がよかったみたいですから」
衝撃が去り、怒りの感情がこみあげてくる。嘉陽果は、台湾人を装っていたふたりの男を睨みつけた。「なぜだ。私がうっかり汽車の意味を取り違えると予想してターゲットにしたのか? 私ならだませると踏んで、これだけの芝居を打ったのか」
黄春雲と林馮、いや白士と今鹿は、ばつの悪そうな顔でうつむくばかりだった。
すると莉子がいった。「そうじゃありません、嘉陽果さん。ふたりは世界じゅうの水不足に悩む地域の担当者宛に、手当たりしだいにメールを送ったんです。もともと日月潭の碼頭站付近に住んでいた白士さんたちは、鹿港南にも同じ名前のバス停があると知り、場合によっては勘違いする旅人がいるかもしれないと気づきました。それで今回の悪戯を考えたんです」
「悪戯だっていうのか? こんな大それたことが......」
「実現する確率は低いと感じてたでしょうから、きっかけはあくまでほんの出来心だったと思います。ふたつの碼頭站はいずれも英語で Wharf Station になりますから、日本人に限らずどの国の人でもひっかかる可能性があった。とはいえ、メールに乗り継ぎ方を書いて日月潭の碼頭站へ誘導したのでは、犯行の意図が文面に証拠として残ってしまう。だから偶然の勘違いに賭けたんです」
その勘違いをやらかした人間が、たまたま私だった......、そういうことか。
初めて現地を訪ねた夜、屋台の老婦がなぜあんな反応をしめしたのか、いまとなっては納得がいく。彼女は黄春雲の存在をきかれ、まず驚き、取り乱した。そして笑いながら家のなかに駆けていった。
見事にひっかかった馬鹿が来た。あの笑いには、そんな意味があったのだろう。
莉子は告げた。「間違わずにバスに乗り鹿港南の漁村に着いた人は、黄春雲なんて名前は知らないと村民にいわれて途方に暮れるだけです。実際、わたしたちもそうでした。蒜香小捲は台湾で最もポピュラーな料理ですから、屋台もあちこちにでています。調理も簡単なので年配のご婦人が働いていることが多い。鹿港南で蒜香小捲の屋台を見つけたとき、そこに違いないと確信しちゃいました。すぐ近くに建っている倉庫こそ、黄春雲が淡水化フィルターを作っていた場所に違いないとね。もっとも、白士さんたちはそんなふうに思いこむ人間が、さらに真実を暴こうと動きだすこともありうると想定してた」
ふんと白士が鼻を鳴らした。「鬼の首をとったようにいいやがる。最初は気づいてなかったくせによ」
「悪戯から始まったことのせいで、計画が杜撰すぎたからです。あまりに稚拙だったので、意図を推し量れるまでずいぶん時間がかかりました」
白士の相棒、今鹿が眉をひそめた。「可愛い顔して傷つくことをいってくれる」
「あなたの発案だったんですか? 追跡者が危険人物かどうかを探るために仕掛けた罠にしては、行き当たりばったりで運に左右されすぎると思いません?」
葵が莉子にきいた。「追跡者って......わたしたちのこと?」
「そう。鹿港南に着いて、もぬけの殻の倉庫を見たら、たいていの人はあきらめてすごすごと帰路につく。でもそうでなかった人に対し、白士さんたちはこっそりと身元調査をおこなえないかと考えた。台湾の警察に追われることを、ふたりは恐れていたのよ。ただし、追跡者を一名だと勝手に決めてかかっていたせいで、白士さんたちの調査はほとんど意味をなさなかったけど」
「じゃあ......あのおかしな罠の数々が......」
莉子はうなずいた。「まず、追跡者の国籍を知ろうとした。追跡者が倉庫の借り手を調べれば、警察に提出されてる不動産記録によって、龍山寺近くの家が浮かびあがる。あれは台湾人か日本人かを判別するための試金石だったの」
結愛が声をあげた。「あー! すぐに畳を調べるか、それとももうひとつの部屋にあったヒントで気づくかってことね」
「その通り」と莉子は微笑した。「日本人ならまず和室の明細書に目をとめる。そして畳の下の隠し場所に気づく。台湾人なら、床のヒントを見るまで気づかない。だから家具と敷き物がどけてあったら台湾人と識別できる......って考えたんでしょう」
「浅知恵」と結愛が顔をしかめた。
白士は不本意のようだった。「どこか浅知恵だってんだ」
莉子が告げた。「追跡者がひとりでなく、日本人と台湾人の混合チームだったら無意味ってこと。実際、わたしたちがそうだったんだし。士林夜市の個室も、手間をかけたわりにはずいぶんと不確定要素が多かったでしょう? あれ、追跡者の年齢を知るためのものだったのね。リクライニングチェアに座らせれば、顔認証でおおよその世代がわかる。そのうえで懐メロを流す」
美玲が首を傾げた。「懐メロ?」
「あのときICメモリーレコーダーで録音した内容をきょうの夕方、台湾人の駅員さんにきいてもらったの。判明した曲名をネッ卜で調べたら、一九七〇年代以降の台湾のヒットソングが次々に流れてたことがわかった。美玲さんって十九歳?」
「ええ......。ご名答」美玲は目を丸くした。「よくわかったね」
結愛は面食らったようすだった。「美玲さん年下だったの? それも未成年」
白士までが真顔でつぶやいた。「意外だな。ずいぶん若いな」
莉子は肩をすくめた。「オリコン発行の情報誌で読んだことあるけど、流行歌を聞いて、懐かしさに笑みがこぼれるとしたら十歳前後に聴いた曲なんですって。一概にそうともいいきれないと思うけど、笑顔認証を仕掛けて年齢を割りだそうとしたんでしょ。稚拙な思いつきだけど」
今鹿が苦い顔をした。「いちいち稚拙っていうな」
「事実だから仕方ないでしょう。美玲さんがそこまで若いとは分析できてなかったみたいだし、ほかの罠もぜんぶそう。〝スィ〟の音が頻出する早口言葉をどう喋るか気にかけてたのは、方言で出身地がわかると考えたからね」
美玲がいった。「なるほど......。たしかに台湾語には、漳州音と泉州音、厦門音の方言があります。北部は厦門音と泉州音が混ざった台北訛りだし、宜蘭訛りは漳州音が強い。西部は泉州音の海口訛り。南部は厦門音と漳州音が混ざった台湾訛り」
「あちこち行かせたのは時間稼ぎの意図もあっただろうけど、なにより重要だったのは十本指の指紋の採取」
「指紋......? ああ、あの蘿蔔糕?」
「洞穴のあの状況で、直径五十センチのお餅が頭上めがけて転がってきたら、両手で支えるしかない。涼しいところで蝋のように半固形になる餅で、みごとに指紋の型がとれる。工作用のシリコンでも流しこめば指先の複製が作れるでしょう」
「ってことは......」
「ええ。年齢と所轄、十指の指紋。台湾警察にファククスで問い合わせれば、警察官がどうか確認してもらえる。すべては警察に追われているかどうかを知ろうとする白士さんたちなりのトラップだったのよ。安直そのものだけど」
白士は歯ぎしりしながらいった。「安直っていうな。実際、きみの正体はそれであきらかになったんじゃないか」
「正体って?」
「......なに? きみは......台湾刑事警察局の人間じゃないのか」
「いったでしょう。あなたたちは追跡者をひとりと仮定してたし、どれも不確定要素が多すぎる。お餅にしたって、わたし以外の指紋もべたべたついてたはずなのに、いちおう十指が揃ってるものを優先して採用した。年齢も所轄もほとんど当て推量で書かざるをえなかった。それなのに、該当する警官がいたなんて、おかしいと思いません?」
「だが......署から電話がかかってきたぞ」
「林馮を名乗っていた今鹿さんは、わたしとあなたが対面した直後に帰ってきました。夜市の個室からデータを回収し、カラオケ機から録音を取りだして、高雄でお餅から指紋の型をとって、警察にファックスを送信したばかりだったはず。もう夕方だったし、その日のうちに返事をもらうのは難しいでしょう」
「電話はあった。きみも目の前にいただろう。女性警察官からの連絡だった」
「たしかに、あなたが電話を受けるのは見ました。でもかけてきたのは女性警察官じゃありません。そこにいる美玲さんです」
「何? どうして俺のケータイに......」
「美玲さんは弟さんの番号にかけたんです」莉子は携帯電話を取りだした。その側面の蓋を開けて、小指に載るほどの小さなICチップをつまみだした。「台湾の田舎で二年しか暮らしてないと、知らないこともたくさんあるでしょうね。これ、なんだかわかります?」
「それは......」
「SIMカードです。台湾の携帯電話はSIMフリーが常識だから、SIMカードを自分のケータイから取りだして別のケータイにいれれば、たちまち自分のケータイに化けます。これはもうあなたの携帯電話じゃありません。大坤さんの携帯電話になってたんです」
葵が驚きのいろを浮かべた。「あのとき、倉庫に入った直後に......。莉子が携帯電話を手にしたのは、SIMカードを入れ替えるためだったのね? ロックが外れていたのも、暗証番号がわかったからじゃなくて......」
莉子は微笑した。「単に別の人のケータイになってたから、SIMカードの暗証番号が無効になったのよ。おわかりですか。白士さん、今鹿さん、台湾でも振り込め詐欺は深刻化してたけど、〇六年に改正された刑事法により、最悪の場合は終身刑が科せられるようになった。振り込め詐欺グループのほとんどが台湾を逃れ、中国福建省の厦門あたりに拠点を移すほどだった。あなたたちも台湾警察による逮捕を恐れた。目をつけられてしまった以上は逃げても国際指名手配になる。現地で捕まるより、日本に帰国して出頭したほうが罪が軽くなる。そう思ったんですね」
今鹿の顔は血の気がひいて真っ青になっていた。「か、彼女、警官じゃなかったんだ! 台湾人でもない。どうすんだよ、白士! 俺たち、むざむざ捕まりに来ちまったじゃねえか」
白士は逆に顔面を紅潮させていた。「だ、黙ってろ。こうなった以上はもう、余計なことは喋るな」
莉子はふたりを見つめた。「振り込まれたお金はどこ? 銀行名と口座は?」
「へっ」白士は吐き捨てた。「知るかよ。ふたりだけの犯行と思うなよ」
「思ってないわよ」莉子は冷やかにいった。「あなたたちはことあるごとに、共犯者の存在をほのめかした。組織だった犯行に思わせたかったんでしょう。ただし人物像についてはかく乱を計った。ゴム手袋は若い女性、夜市の個室にあった電動シェーバーは男性、雑誌『按摩』と併せて考えるとおじいさん、カラオケ機に録音した声は未成年者。でも、それならば共犯者は逆にいずれにも当てはまらないタイプってことになる。おばあさんでしょう? ようするに嘉陽果さんが最初に声をかけた、蒜香小捲の屋台の老婦よね。出頭に際し、詐取した十二億円はあの人に預けてきたんでしょう」
「と......取引しないか。ばあさんには俺から連絡する。金は返させるから、俺たちの身柄も釈放ってことで......」
「必要ないです」莉子はきっぱりと告げた。「終身刑を逃れるために帰国したからには、逮捕されても刑期を終えた後、お金を取り戻す算段でしょう。つまり、おばあさんがお金を持ってくるよう手配済みでしょ? それもおばあさんが元気なうちに、一両日中に運ばせようとしたはず。ほっといても、お金は早々に日本に戻ってくる」
「じゅ、十二億もの金を、ばあさんがひとりで持ちこめるかよ」
「いいえ。どんな手を使うのか、もう見当はついてるし」
莉子の落ち着き払った態度に、ふたりの男は揃ってすくみあがった。白士は宇賀神に、泣きつくように告げた。「誤解だ。詐欺を働くつもりなんかなかった。そのう、彼女もいったようにこれは悪戯にすぎなくて、金を奪おうなんて意図は......」
宇賀神は声高に遮った。「おまえらはみずから駆けこんできて、町長以下全議員の面前で罪を認めた。捜査員に対し手錠をかけろとまでいった。世間ではこれを自首という」
「そんな......。違うんです。逮捕だけは......」
「連れてけ。取り調べは八重山署でおこなう」宇賀神が指示すると、私服警官たちがいっせいに動きだした。
白士と今鹿が扉へと引き立てられていく。宇賀神は莉子に頭をさげた。「またしてもお力添え、感謝します。凜田先生の慧眼には感服せざるをえません。十二億についてですが......」
莉子はいった。「のちほどご連絡します。網を張れば簡単にかかるはずです」
ふたりの詐欺師は戸口から連れだされながら叫んでいた。おい、あの刑事、彼女に指示を仰いでるぞ。彼女、やっぱり大物じゃねえか。ぞんざいな口きかなきゃよかった......。
宇賀神は扉をでる前に振りかえり、議会に一礼をした。そして背を向け、静かに退場していった。
沈黙のなか、嘉陽果は娘の葵を見つめた。
葵は目に涙を溜めながら見かえした。「お父さん......」
胸にこみあげてくるものがある。嘉陽果は震える自分の声をきいた。「葵......。すまなかった。そして、本当にありがとう」
町長の志伊良はゆっくりと席を離れ、前に進みでた。「凜田莉子さん。あなたは波照間島を、わが竹富町をお救いになった。全町民にかわり、深く感謝申しあげます」
議場は拍手に沸いた。議員の誰もが、ひとりの女性に対する祝福を惜しまなかった。
喝采のなか、莉子は照れたように控えめな笑みを浮かべていた。その光景を眺めながら、嘉陽果は確信した。
島の未来はもう、若い世代に委ねられている。娘の葵を含め、彼女たちのような若者がいる限り、八重山諸島は発展しつづける。どんな難局だろうと、きっと乗り越えられる。
南投県、日月潭のほとりの漁村に住む六十八歳の老婦、李春梅は貨物船のキャビンで十八時間を過ごし、ようやく晴れた日の昼下がりの石垣港に降り立った。
積載量を一千斤と申請してある貨物の大半は茶葉だが、うち段ボール六箱は春梅が船長を買収し紛れこませたものだった。それらを載せた台車を押して、桟橋に歩を進める。ここまで来ると検査もなくフリーパスだった。
初めて訪ねた石垣港は平日のせいもあって閑散としている。言葉も判らず不案内だが、港にあった看板に地図が記載してあった。字は読めなくとも、銀行をあらわす記号はすぐに見つかった。ほんの二百メートルほどの距離にある。
この歳にして重労働を強いられるとは思わなかったが、あのふたりの日本人から報酬を受け取った身だ。いま手もとにあるすべての金をネコババしても悪くないが、台湾警察に睨まれたら厄介だった。金はさっさと預けてしまうに限る。
歩道をしばらく進むと、銀行らしき建物が見えてきた。ATMコーナーもあるし、玄関のなかにカウンターも見えている。ここに間違いない。
台車を押しながらスロープをあがり、ロビーに入る。さてどうするか。必要な書類は白士たちが用意してくれていたが、まずはどう声をかけるべきかわからない。
そのとき、傍らのカウンターから女性の声がした。女性は台湾語で告げてきた。「こんにちは。こちらへどうぞ」
春梅は面食らいながらも、台車とともにそちらに歩み寄った。「あなた、日本人じゃないわね。振り込み、ここでできるの?」
その一画には、制服を着た若い女性が四人ほどいる。応対した女性は台湾人に違いなかった。プロの接客を思わせる丁重さ、紛れもなく本物の銀行員だろう。
「劉美玲と申します」女性はにっこり微笑んで頭をさげた。「業者のかたですか?」
「ふん」春梅は鼻で笑って、でまかせを口にした。「日本とはよく貿易で行き来してるけど、この銀行を利用するのは初めてよ。だから大口の客だって見抜けなかったことは許してあげるわ」
「いえ。うかがっております。日本円で十二億円ですね」
「......え?」ぎくりとして、春梅は思わずうわずった声をあげた。「な、なんでそれを」
「凜田莉子さん、ご存じですか」
「なに......? 凜田? 誰よ」
「彼女の話では、十二億円ものお金を台湾から送金すると怪しまれるので、きっと現金を直接持ちこんでくるだろうと。石垣港行き定期船貨物に紛れこませるのが最も簡単だし、台湾でなく中国の運輸会社で書類申請すれば、重さの単位である一斤が台湾では六百グラム、中国では五百グラムなので、差分の検査を受けずに済みます。十二億円は百二十キログラム。つまり総積載量を一千斤前後と申告しているはずです。すべてに該当する船舶は一隻のみ。この時間にご到着になると予想済みでした」
春梅は息を呑んだ。
いったいこれはどういう......何もかも見抜いていたというのか。
「な、なによ」春梅はあわてていった。「あんた誰よ。行員のくせになめた口を......」
「行員?」美玲の笑みはどこか冷やかだった。「お客様。ここは銀行じゃないですよ」
衝撃が襲った。春梅はたずねかえした。「銀行じゃないって......? ここが?」
「日本人が汽車と火車を間違えるのと同様に、港の看板の地図記号を見てこちらにおいでになると思ってました。このカウンターは、年末年始以外は使われてない年賀はがき受付窓口です。船の到着予定時刻、つまり現在のみこの一画をお借りしてるんです」
「はがきって......」春梅は動揺を禁じえなかった。「じゃあ......」
美玲はカウンターの脇を指さした、そこに貼られたポスターに〝〒〟のマークがあった。
「この記号」美玲はいった。「台湾の地図では銀行を表してますけど、日本の場合は郵便局です。日本と貿易をされているかたなら常識と思いますけど、ご存じなかったですか?」
ぐうの音もでない。わたしは術中に嵌まった。白士たちが仕掛けた悪戯と同種の罠にひっかかった。
気づけば、周囲に私服姿の屈強そうな男たちがたたずみ、包囲網を狭めてきている。
「相談ですけど」美玲は落ち着いた声で告げてきた。「台湾じゃ詐欺は重罪になっちゃいます。いまお持ちの十二億円全額の返金に応じたうえで、すすんで供述していただければ、日本の警察はあなたの所業については不問に付す用意があるようです。莉子さんがそのように掛け合ってくれたので」
さっきから美玲が口にする、莉子という人物はいったい......。
そのとき、カウンターにいるほかの女性たちの素顔に気づき、春梅は飛びあがらんばかりに驚いた。
美玲を除く三人のうち、ふたりは見覚えがあった。おととい村を訪ねてきた女性たちだ。
どちらが凜田莉子がはすぐにわかった。目の輝きが違う。大きくつぶらな瞳がこちらを見つめてきた。
その余裕に溢れた微笑みを見かえすうち、春梅の反抗心は潰えていった。
まるでかなわない。文字どおり手も足もでない。ここまで悪事を看破できる人間がいるとは思えなかった。凜田莉子は媽祖だ。道教の女神だ。あるいは観音菩薩。逆らうなどとんでもない。
春梅は両膝をついた。段ボール箱に詰めた十二億円を供え物として差しだしつつ、その場にひれ伏した。もはや許しを乞うため懇願し、祈るしかない。悔い改めます。どうかお慈悲を。
汽笛
晴れ渡った空の下、凜田莉子は波照間小中学校の校門の前で自転車を停めた。
嘉陽果葵と祝嶺結愛、三人でサイクリングをするのも中学以来だった。ふたりとも莉子と自転車を並べて静止した。涼しげな横顔は、かつての通学の朝を思い起こさせる。
時刻はまだ早い、児童も生徒も登校していない。それでも教師は気が早いらしく、校舎には見慣れた木製看板が掛けてある。八時だよ全員登校。
結愛がつぶやく。「結局、統廃合されちゃうんだね」
「ええ」葵はうなずいた。「財政も厳しいままだし。水不足の解消も夢のまた夢だし」
莉子は微笑してみせた。「そんなことない。思いがあれば実現する。この学校もきっと子供たちでいっぱいになる」
そうね、と葵も笑った。「わたしたちの子も、いずれここに通うのかなぁ」
考えてみたこともない。親になるのは、ずっと遠い未来の話だと思っていた。二十三になったいまでもそう感じられる。とりわけ、こんなふうに三人でいるときには。
しばらく時間が過ぎた。結愛がいった。「港に行かないと......。フェリーが来るよ」
三人はそれぞれに自転車を漕ぎだした。集落の細い道、そこを抜けたとたん視野いっぱいに広がるサトウキビ畑。潮風を全身に受けながら丘を下る。なにもかも昔のままだった。
悩みなどいっさいなかった青春のころを思いだす。永遠につづくと信じていた日々。いつしか過去になっていた。でもいまだけは、十代のわたしが蘇っている。
静寂が漂う素朴な港に着くと、すでに高速フェリーが桟橋に着いていた。待合小屋の前に人待ち顔でたたずんでいるのは、小笠原悠斗と劉美玲だった。
ふたりは莉子に気づいたようすで、笑顔とともにこちらに歩み寄ってきた。小笠原は、莉子のトランクをひきずっている。親切にも家から運んできてくれたらしい。
美玲がいった。「おはよう、莉子さん。小笠原さんにきいたけど、もう東京に帰るんだって?」
「ええ......。向こうで仕事もあるし」
「そう。残念......。せっかくあのふたりが来たところなのに」美玲は桟橋に目を向けた。
劉瑞賢と大坤が、大きな手荷物を提げながら近づいてくる。瑞賢は笑って手を振った。大坤のほうは、あいかわらず無表情に見える。
瑞賢が目を細めて辺りを見まわした。「いいところだね。ここが凜田さんたちの故郷か」
大坤は妙にぎこちない振る舞いで頭をさげてきた。「お......おはよう」
すると美玲がささやいた。「さよならでしょ」
「え?」大坤は驚きのいろを浮かべた。初めて感情を率直に表した、莉子はそう感じた。
「なんだ」瑞賢は微笑しながらも残念そうにつぶやいた。「せっかく来たのに、凜田さんとはすれちがいになるわけか」
自然に笑みがこぼれる。莉子はいった。「またお会いできます。うちの両親が食事を用意して待ってますから、ぜひ立ち寄ってください。泡波は二杯までにしてくださいね」
葵がふたりの来客に歓迎の意を示した。「わたしと結愛は一日お付き合いできますから。楽しんでいってください」
それにしても、大坤が複雑な表情のままなのが気になる。莉子は困惑を覚えた。せっかくの家族旅行なのに、なにか心配ごとでもあるのだろうか。
出発の時間だ。莉子は小笠原とともに桟橋を渡り、フェリーに乗りこんだ。島民にとってはバスに等しい交通手段だけに、港を離れるのにいちいち特別なセレモニーがあるわけでもない。フェリーはほどなく汽笛を響かせ、動きだした。
小笠原の髪が潮風になびいていた。「あわただしかったなぁ。ニシ浜の民宿は快適だったけどね。ゆっくりしたかったけど、編集長から催促のメールが入ったから」
「記事に期待してくれてるのよ。よかったね。スクープをモノにできて」
「いつも凜田さんの活躍あればこそだよ」小笠原は港に目を向けた。
莉子もそれに倣った。港で手を振る葵、結愛、そして劉一家が見える。莉子も手を振りかえした。すがすがしさに溢れた爽やかな光景がそこにあった。
とそのとき、いきなり大坤が駆けだした。フェリーを追うようにして大坤は埠頭を走ってくる。どうしたのだろう。莉子は固唾を呑んで見守った。
必死の形相。思い詰めている表情にも見える。なにかを伝えたがっているようだ。
大坤は莉子に向けて大声で叫んできた。「あんぱんまーん」
「......え?」と莉子はつぶやいた。「いまなんて?」
「さあ」小笠原も眉をひそめた。「アンパンマンってきこえたけど......」
戸惑いとともに港に目を向ける。美玲は笑い転げているようだが......?
フェリーは珊瑚の広がる海原へと繰りだしていく。遠ざかっていく波照間島、港から突だした埠頭の先で、大坤はなおも繰りかえし叫んでいた。しかしその声は、ひときわ甲高い汽笛の響きのなかに消えていった。


万能鑑定士Qの事件簿 Ⅸ
忘れ物
今年六十二歳になるコヴェントリー生まれのイギリス人、ケネス・アリンガムにとって、日本の新幹線の乗り心地は快適だった。
静かで揺れもほとんどないグリーン車のシートに身を預け、オレンジがかった空を眺めていると、ふと眠気に襲われる。一日の仕事を終えたいまとなっては寝てしまいたくもなる。しかし、そうはいかない。東京駅を出発したのぞみ五三号、乗っていられるのはわずか二十分足らすだ。新横浜に到着しだい降りねばならない。
関内の自宅マンションに帰るのに、わざわざ新幹線に乗るには理由がある。私は品川駅の近辺に住んでいることになっている。尾けまわされているとは思いたくないが、いちおう人の目を警戒する義務があった。
かつて二十年にわたりルーブル美術館の学芸員を務めあげたイギリス人という、風変わりな職歴も伏せておかねばならない。
とはいえ、日本での仮の姿においても、まるで畑違いの仕事に手を染めているわけではなかった。いまも丸の内の三菱一号美術館で日本の鑑定家たちの仕事ぶりを見学し、交流を深めてきたところだった。
休館日のきょう、美術館側は日本じゅうの鑑定家の協会や組合に呼びかけて、絵画や彫刻などあらゆるジャンルの目利きたちを集めていた。震災の影響もあって、所蔵する美術品のコンディション・チェックが大々的に実施された。アリンガムはそこに潜りこんだのだった。
日本人の鑑定家の大部分は高齢者だったが、若い世代もいくらか混じっていた。アリンガムの印象に残ったのは、ひとりの美しい女性だった。
年齢は二十三だと後できかされた。見た目はそれよりも若い。ほっそりと痩せた身体、腕も脚も長く、頭部は小さく、モデルのようなプロポーションを質のいいスーツに包んでいた。ほかの若手がそうであるように、彼女もベテランの鑑定家たちの助手を務めていた。クリップボードを片手に館内をまわり、鑑定家たちの求めに応じてメモをとったり、デジカメで写真を撮ったりしている。
ゆるいウェーブのロングヘアに縁取られた小顔には、猫のように大きくつぶらな瞳と高い鼻、薄い唇がそつなくおさまっていた。女子大生の面影を残す年齢相応の若さや瑞々しさは備えていても、可愛いというより綺麗という形容が当てはまる美人顔で、総じてクールで個性的だった。なにより眼力の強烈な女性に思えた。まさしく猫そのものだとアリンガムは感じた。
アリンガムが絵画の展示ホールに歩を進めたとき、女性はこちらに視線を向けてきた。上品な微笑とともに頭をさげてくる。
おじぎをかえしながらアリンガムは日本語で告げた。「邪魔して悪いね。尾形光琳と円山応挙について専門家の意見をうかがいに来たんだが」
女性は館内を見渡した。「ほかの者が担当助手になってますので......。呼んできましょうか」
「いや。急いではいないので。ラウンジで待たせてもらうよ。コーヒーのいれ方さえわかれば、何時間でも粘れるんだが」
「わたしがおいれします。ええと、お名前は......」
「ブラウン」アリンガムは偽名を口にした。「ボストン出身のアメリカ人でね。美術商をしてる。きみは......」
「凜田莉子といいます。どうぞよろしく」莉子という名の女性はそういってラウンジに向かいだした。
歩調をあわせながらアリンガムはきいた。「誰のもとで働いているのかな?」
「ひとりなんです。フリーランスの鑑定業者なので」
「ほう。独立しているのか。その若さで、感心だね」
「まだ駆けだしにすぎません。勉強すべきことは山ほどあります」莉子は、苦笑に似た微笑を浮かべた。ややひきつったようなぎこちない笑み。少女のようなあからさまな破顔ではない、大人びた表情だった。
日本の鑑定業界も年功序列なのだろう、自分の店を持っていてもここではほかの若手と同様、雑務に甘んじている。
とはいえ、莉子が接客という仕事を嫌がっているようすはなかった。ひとけのないラウンジでカウンターに立ちいると、上部に回転式のハンドルがついた器具を取りだす。手挽きミルだった。
アリンガムは面食らった。「私は三十年このかた缶コーヒー専門でね。インスタントで結構だよ」
「いえ。それじゃ失礼にあたりますから」莉子はシンクで念いりに手を洗うと、袋からコーヒー豆をすくいとった。指先で素早く豆を選り分けては、何粒かを手挽きミルに落としこむ。
カウンターの席に腰かけながら、アリンガムは莉子の手もとを覗きこんだ。「豆を選別してるのかね?」
「はい」と莉子はうなずいた。「焙煎したての新鮮な豆は乾燥しきっているので、水分を含むとたちまち膨張するんです。ピーベリーも焼きムラになるので排除しないと」
「美術品だけじゃなくて、コーヒー豆まで鑑定するのかね。オールマイティな鑑定家さんだな」
莉子は無言のまま微笑みを浮かべ、ハンドルをまわして豆を挽きはじめた。
後で判明したことだが、彼女は飯田橋で万能鑑定士Qなる店舗を経営しているらしい。看板のとおり、芸術品や骨とう品に限らず玩具から生活用品まであらゆる物を受けつけるという。
実際、彼女はコーヒー豆の良し悪しについて、ほぼ完璧に見分けていた。たっぷり時間をかけて莉子のいれたコーヒーには、いやな苦味や渋味はなかった。酸味もない。まとまった味わいで、深みがある。これだけ上等なコーヒーを飲んだのはいつ以来だろう。
凜田莉子は美術においても造詣の深さをのぞかせていた。アリンガムが写楽や北斎についての鑑定法をたずねると、莉子は的確な答えをかえしてきた。彼女はとりわけ、写楽の落款について詳しいようだった。それだけ多くの文献を読みこなしてきたに違いない。
さらに莉子は日本の芸術史について、狩野永徳や雪舟などを例に挙げて独自の見解を語ってくれた。彼女の美術へのアプローチはユニークで、どうやら鑑賞時に覚える純粋な感動にこそ重きを置いているらしい。勉強熱心だし、見どころがあるとアリンガムは思った。鑑定家としてはまだこれから場数を踏まねばならないだろうが、将来が楽しみな逸材だった。
ふと窓の外を見やると、新幹線はちょうど新横浜駅のホームに滑りこむところだった。アリンガムは席を立ち、通路に歩を進めた。
降車すると、夕闇の迫る空の下、厳しい寒さを痛感する。イギリス育ちの私を凍えさせるとは尋常ではない。三月下旬であっても、春を実感できる日はまだ遠いようだ。白い息を弾ませながら階段を下り、改札を抜ける。
賑わう駅前のロータリーでタクシーに乗り。自宅マンションを目指した。環状線から望むランドマークタワーやインターコンチ。紅いろにたなびく雲のなかに浮かびあがる未来都市のシルエットを、しばし眺めた。
莉子なる女性との出会いは興味深い出来事ではあったが、本来の目的である人材探しはいっこうに進展しない。日本のベテラン鑑定家はみな優秀だったが、西洋絵画については知識豊富なものの、自分の意見を持っていないように感じられる。画家同様、鑑定家にとっても感性こそが最大の武器というのに。
タクシーはJR関内駅の東側、閑静な住宅街にそびえたつ超高層マンション、横濱プレジデンシャル・タワー本館のスロープをのぼった。エントランス前に横付けされるのを待って、支払いを済ませ車外に降り立つ。
玄関に向かう。アリンガムがキーをセンサーに這わせると、大きな自動ドアが左右に開いた。ロビーに足を踏みいれる。
エレベーターに近づこうとして、ふと足がとまった。
カバンのなかに目をやる。それから懐をまさぐり、上着のポケットをはたいた。
ない。......あの黒革張りの木製小箱がどこにもない。
たちまち焦燥がこみあげてくる。箱のなかには、世界にふたつとない貴重な品がおさまっていた。私の持ち物ではない。ルーヴルから借り受けた物だ。
必死で記憶を呼び覚まそうと思考をめぐらす。そうだ、三菱一号美術館だ。上着の膨らみが気になって、ポケットから取りだした。凜田莉子にコーヒーを御馳走になったあのカウンターで、隣りの席に置いた......。
あわてて携帯電話を取りだし、美術館の代表番号にかける。だが、呼び出し音が反復するばかりで、いっこうに応答する気配はない。
きょうは休館日だった。鑑定家たちも午後四時までに撤収するときいた。現在は全館が施錠されているに違いない。誰か私の忘れ物に気づいただろうか。警察に届けただろうか。高階層に住む私は余震を避け、けさまで帝国ホテルに連泊したが、フロントに警察から問い合わせの電話が入っている可能性も......。
厄介だとアリンガムは思った、私は偽名で宿泊していた。記載した住所も、実際にはまるで縁のない品川のマンションだ。
ホテルの宿泊者名簿は軽んじられる傾向にあるが、厳密には旅館業法第十二条により、嘘を書くのは禁じられている。素性を疑われ、事情をきかれることになるかもしれない。
まごついた気分でたたずむしかないアリンガムの耳に、なにやら甲高い音が届いた。
エントランスを振りかえる。ロングコート姿の女性がひとり、自動ドアの向こうに立ってノックしていた。
なんだ? 妙に思いながら歩み寄る。自動ドアに近づくと、こちらを覗きこむその顔に見覚えがあると気づいた。
「凜田......莉子さん!?」アリンガムは驚きとともに駆け寄った。
内側から接近すると、自動ドアはスムーズに左右に開いた。莉子は寒そうに肩をすくめながら、小走りにロビーに立ちいってきた。「こんばんは、ブラウンさん。本日はどうも」
「いったいどうしてここに......」アリンガムは思わず言葉を切った。
莉子が手にした小箱に気づいたからだった。それを差しだしながら莉子は微笑した。「お届け物です」
全身に電流が走るような衝撃とは、まさにこのことだ。アリンガムは叫び声をあげて小箱を受け取った。
間違いない。置き忘れた小箱に違いない。しかし、まるで夢でも見ているかのようだ。きょう顔を合わせたばかりの凜田莉子が、遺失物を携えて現れるなんて。
ひょっとして、私を尾けていたのか。いや、美術館をでて東京駅のホームに向かう際、私は常に警戒の目を怠らなかった。新幹線に莉子が乗っていたはずがない。
思わずアリンガムはつぶやいた。「なぜここが......」
すると莉子はにっこりと笑った。「お帰りになってすぐ、美術館の職員のかたが忘れ物に気づいたんです。警察に届けようかって声もあったんですけど、勝手ながらわたしの一存で、ブラウンさんがご宿泊されていたホテルに問い合わせました」
「帝国ホテルに? どうして私が泊まっていたとわかったんだね? 警察の助けもなしに」
「その上着の第二ボタンですよ。サヴィル・ロウのオーダーメイドなのに、一個だけボタンのいろが違います。本来の材質は水牛の角ですが、色と形状の近いプラスチックで代用しているようです。ご自宅ならボタンが見つかるまで着ないでしょうし、宿泊先で臨時に処置してもらったんでしょう。とはいえ、これだけ高級な衣服に代わりのボタンを縫いつける大胆なホテルは、都内広しといえどひとつだけです」
「ああ......。帝国ホテルのクリーニング部門は、ありとあらゆる予備のボタンを用意してることで有名だからね」
「裁縫も丁寧です。いずれサヴィル・ロウから本物を取り寄せたらまた交換する、そんなふうに確約できる業者がいるとすれば、帝国ホテルをおいてほかにありません」
「しかし......。なら私がホテルに残した記帳内容がでたらめだったことも知ってるんだろう? 品川のマンションに住むブラウン氏という以外、手がかりはなかったはずだが」
「そうでもないんです。お部屋のゴミ箱にチラシ広告が溢れかえってました。おでかけになった朝、こちらの郵便受けから取りだして持っていった物でしょう。ホテルに落ち着かれてから目を通そうと思われたに違いありません」
「ゴミ箱だって? 私はけさ早く、美術館に行く前にホテルをチェックアウトしたんだよ。部屋のゴミが残っているわけがない」
「いいえ。帝国ホテルはどの部屋であっても、チェックアウト後二十四時間、ゴミ箱の中身をビニール袋にいれて保管するきまりです。それによって貴重品だとか重要なメモが回収できたと喜ばれることが、年に数回あるそうです」
「私はチラシを捨てるのにも細心の注意を払った。ゴミ箱にいれたのは、関東全域を対象にした広告ビラばかりだった。この辺りだと特定できる内容はなかったはずだよ」
「チラシの傾向で見当がついたんです。調査会社のビラは高級住宅街を中心に投げこまれます。ハウスクリーニングの広告は、外国人が多く住む場所に撒かれます。日本人はあまり清掃業者を家に入れたがりませんが、とりわけ西欧ではハウスキーピングを外部に委託することに抵抗が少ないからです。それと、避難用パラシュートのチラシもありました」
あれか。アリンガムは絶句した。9・11事件以来、アメリカの業者が世界じゅうの代理店を通じて販売しているしろものだ。高層階に住む人間には消火器と同じく必需品という触れこみだった。
莉子はいった。「すべて考慮すると、お金持ちの西欧人が多くお住まいの、二百メートル以上の高さを持つ高級マンションってことになります」
「こんなに早く私に追いついたということは......。私が記帳した住所には立ち寄らなかったのかね?」
「はい。品川駅周辺は羽田の空域内なので百五十メートル以上の建物は建てられません。外国人富裕層向けのタワーマンションをネット検索したところ、品川区および横浜市内にいくつも見つかりましたが、いずれも羽田から九キロ圏内なので航空法に基づき高さが制限されてます。都内近郊で唯一の例外がここ、横濱プレジデンシャル・タワーです」
アリンガムは衝撃とともにたたずむしかなかった。
警察への届け出を警戒していたことが、いまとなっては冗談のように思えてくる。それよりずっと鋭い観察眼が私に向けられていた。ひとたび彼女と出会ったが最後、私が工夫を凝らしたと自負してきた偽装の数々は、拙さばかりが目立つ児戯に成りさがった。
ため息とともにアリンガムはいった。「住所も名前も偽っていた老人のもとを訪ねるのは、不安じゃなかったかね?」
「全然」莉子はごく自然な笑みを浮かべていった。「事情は人それぞれです」
なんと。アリンガムは驚きを禁じえなかった。彼女はここまで追いかけてきながら、私の素性をたしかめようともしない。
むしろ、彼女は私が抱えている複雑な事情に半ば気づきかけている。だからこそ警察を頼ったりせず、自分の手で忘れ物を届けてくれたのだろう。
「ありがとう」アリンガムは心から告げた。「せめてものお礼に、この小箱の中身をお目にかけたい」
箱にはダイヤル式のロックがついていた。三けたの数字を合わせて解錠する。蓋を開けると、まばゆいばかりの七色に輝く宝飾品が姿を現した。
「わあ」莉子は目を瞠った。「綺麗......」
「フランス人の技師の手で仕上げられているが、きみの国でよく用いられていた装身具だよ。カンザシだ」
「ロシア皇帝ニコライ二世妃のアレクサンドラに献呈するために、桂太郎内閣が作らせた物ですね。ルーヴル美術館に展示してある......」
ほう。さすがによく勉強している。アリンガムは感心しながら問いかけた。「本物を見たことはあるかな?」
「......いま見てますけど。これ、イミテーションじゃないですよね」
「どうしてそう思う?」
「さあ。なんていうか、風格が......。あ、詳しいことはわかりません。わたし、ルーヴルでは大混雑のなかで『モナ・リザ』と『ミロのヴィーナス』を観ただけですし」
「『モナ・リザ』ね。いつのことかな?」
「去年の夏です。でも有名すぎる絵画のせいか、なんか本物じゃない気がしちゃったりして」
「......ふうん。ルーブルが贋作を展示してると?」
莉子は笑った。「あてにならないですよね、わたしの目って。もっと学ばなきゃ。じゃ、これで失礼します。東京駅へのバスがでますから」
踵をかえそうとした莉子に、アリンガムは声をかけた。「ああ、ちょっと......。私が何者か、気にならないかね?」
「ルーヴルに深く関わりのあるイギリスのお方という以外、なにもわかりませんけど......。きっと重要なお仕事を抱えておられるんでしょう。お会いできただけでも光栄でした。ここの住所は、誰にも明かしませんので」
屈託のない笑顔。私を怪しむべき人間でないと心に決めているようだ。こんな女性が日本にいるとは。
アリンガムはいった。「最後にひとつだけ教えてほしい。イギリス人と気づいたのは、洋服の仕立てのせいかね?」
「ホテルの記帳です。二〇一一年三月二十六日を、26・3・11と書いておられました。アメリカ人なら3・26・11ですから」
唖然として立ちつくすアリンガムに、莉子はもういちど微笑みかけた。それから身を翻し、自動ドアを駆けだしていった。
彼女にとって、私は謎のブラウン氏のままか。
ささやかな寂寥感と空虚さは、歓びへと変わっていった。探し求めていた人材が見つかった。彼女だ。
このカンザシを本物と明言した、初めての日本人鑑定家。どうして即決できなかったのだろう。若さなど、対象外の判定を下す理由になりはしない。熱練の私を翻弄した女性だ、その鑑定眼は老練の専門家に匹敵する。
なにより彼女は、看破していた。夏の『モナ・リザ』が贋作だったことを。
宣材課の星
勤め先の社名がどんどん変わる。
以前、堰代延男が勤めていたのは大映株式会社だった。それが角川大映となり、角川映画に変わって、今度は会社ごと角川書店に吸収合併された。かつての映画会社は、気づけば出版社の映像事業局になっていた。
もっとも、五十を過ぎて万年課長職の堰代には名刺を刷り直す以外、さして重要な問題ではなかった。宣伝部宣材課というセクションで一年のほとんどを占める仕事、それはおびただしい数の街頭看板の管理だった。
チラシやロビーカードなどはコレクターズアイテムとして、上映後も市場に流通し重宝がられるが、看板は別だった。屋外に晒され直射日光で退色し、薄汚れ、傷だらけになった看板は収集家に見向きもされない。
本来は税務調査に備えて、数年間は保管の義務があるとされていた看板の類いだったが、そのせいで溜めこむことが習慣化し、捨てる機会を失って早や十余年。調布の角川大映撮影所の倉庫をひとつ丸ごと占拠するほどの使用済み看板を抱えるに至った。
処分にかかる費用をどうするか。頭の痛い問題だったが、そこは課長の堰代のアイディアひとつで乗り切る見こみが立った。
看板をリスト化して、まとめて海外のネットオークションに出品したところ、なんとブルガリア在住のウラジミール・ツェネヴァなる個人収集家が、それなりの高額で落札してくれた。送料込みで代金はすでに支払われている。後はまとめて船便で発送するだけだ。
すべての看板はトラックで千代田区富士見の角川書店本社に運ばれてきた。新館一階、ふだんは配本前の梱包された書籍類が山積みになる土間のフロアで、堰代は三百枚もの看板を緩衝材に包み、箱詰めする作業に追われていた。
宣材課に属する社員は堰代ひとり。すなわち、課長といえど単独で仕事をこなさればならない。期日は三か月も先とはいえ、先が思いやられる。ただし、きょうは助っ人がいる。手の空いている社員はいないかと各部署に呼びかけたところ『週刊角川』編集部から入社四年目の若者が派遣されてきた。
ひょろりと痩せた長身、髪も今風に長くしていて、わずかに褐色に染めている。細面で鼻が高く、下あごは女のように小さいが、れっきとした男だった。パンクファッションに着替えれば、ロックバンドのボーカルが務まりそうなルックスだった。
記者にしてはおとなしすぎるかもしれないが、控え目なその態度はここではむしろ好ましかった。小笠原悠斗はきいてきた。「堰代さん。『シュレック』は洋画の箱に詰めるんでしたっけ。それともアニメのほうですか?」
「あー、そうだな」堰代は雑然としたフロアを見渡した。「あっちの空箱にまとめていれよう。『シュレック』シリーズだけでも三十枚はあるはずだから」
「ですね。じゃ大きさが一緒の三部作を重ねて、と」小笠原は、床に並べられた看板のうち何枚かを拾いあげた。
大型看板は別途梱包せねばならないが、ほとんどはB2ポスターよりひとまわり大きいか小さいかの手ごろなサイズだった。印刷時にポスター用の版下がそのまま使えるうえに、駅前や商店街に掲出するときにも支障にならないことから、自然に数が増える。
材質はベニヤの合板だった。厚さは数ミリから一センチていど、かつては専門の画家が一枚ずつ描いていたりしたものだが、いまは印刷で仕上げられる。色彩はアルミ板のほうが綺麗なのだが、丸ごと燃えるゴミにだせる利便性は捨てがたい。
長期に渡り雨ざらしにしたせいで、傷んでしまっている物も少なくなかった。コンディションが劣悪な場合は除外せねばならない。『時をかける少女』のアニメ版も『トランスポーター』も、色落ちが進んで木目が浮きだしている。逆に興行的に苦戦した作品は、掲出期間が短かったせいで新品同様だった。
小笠原は緩衝材をロールから数メートルぶん引っ張りだし、看板をくるみだした。「それにしても『サマーウォーズ』が多いですね」
「拡大公開した作品はそれだけ看板が追加発注されるんだよ。角川で配給しなくても、原作本が角川書店からでてる映画は宣伝に協力したりする。この『シン・レッド・ライン』なんかそうだな。配給は松竹富士だけど、看板はうちで作った」
「あー、それで原作本についての表記が、公開情報より大きく記載してあるんですね」
「そのとおり。いやしかし、きみが来てくれて大助かりだよ。なんなら映像事業局に移らないか。こういう仕事はきみに向いていると思う」
すると小笠原は困惑ぎみに笑った。「まだ記者活動にも未練がありますので......」
「そうかい? 適任だと思うけどなぁ。出世して宣伝部長になれるかもしれないよ?」
戸口に足音がした。小笠原の同期とおぼしき男性社員が姿を現した。痩せ細った体型や背の高さは小笠原に似通っている。頬はこけて鼻すじも通っているが、ぎょろりと剥いた目が異様に大きい。
小笠原はその彼に視線を向けた。「宮牧。何か用か?」
宮牧と呼ばれた青年は、一枚の紙片を差しだした。「編集長がおまえに渡せって」
「あん?」小笠原はそれを受け取った。「なんだこれ」
「よくわからねえがイタリアの『デルフィーナ』誌から、日本じゅうの提携誌宛のアンケートだってさ」
「英文だな......。辞書が要るよ」
堰代は歩み寄った。「どれ。仕事柄、英語の手紙は読み慣れているよ。見せてくれ」
渡された紙片に目を落とす。わりと判りやすい単語が並んでいた。Dear Chief Editor in Shukan Kadokawa......。
「ええと」堰代は翻訳しながら読みあげた。「親愛なる『週刊角川』編集長様。日ごろから取材や執筆などを依頼している美術鑑定家がおられましたら、是非このアンケートにお答え願います......」
宮牧が鼻を鳴らした。「おまえ、すっかり凜田莉子さんのマネージャー扱いだな」
小笠原はむっとしながら紙片を手に取った。「鑑定家の知り合いがいれば。誰だろうとこれを渡されただろ」
「押しつけられたというべきかもな」
「これ、編集長は急ぎだって?」
「可及的速やかに返事をだせとはいってたな」
「わかった」小笠原は戸口に向かいだした。「堰代さん、申しわけありません。急用ができましたので、これで」
「おいおい、困るよ。まだ途中だし......」堰代は追いかけようとした。
宮牧が立ちふさがって押しとどめてきた。「堰代課長! いつも素晴らしい整理っぷり、尊敬してます。近々エヴァンゲリオン賞を貰われるとか」
「エヴァ賞?」堰代は息を呑んだ。社員に対しさまざまな賞が与えられるのは知っているが、角川の代表作のタイトルを冠した賞となれば、かなりの名誉かもしれない。
堰代はきいた。「どんな賞なんだ、それ」
「ええとですね。手が空いている社員たちが『おめでとう』といってくれます」
「おめでとう......?」堰代は小笠原の姿が消えているのに気づいた。「エヴァの最終回じゃないか! おい! 同僚を逃がすために俺をからかったな」
宮牧は笑いながら扉の向こうに逃げていった。
堰代はため息をついた。つくづく小笠原という人材が惜しい。彼ならわが宣材課の星になれるかもしれないのに。
彼氏
その日の正午過ぎ、小笠原は中央線快速を武蔵小金井駅で下車した。
ぶらりと万能鑑定士Qの店を訪ねるはずが、こんなところまで足を運んでしまった。閉じたシャッターに貼り紙がしてあったからだった。本日は臨時休業します。お急ぎのかたは下記の住所へどうぞ。東京都小金井市本町西四-二-二。久保田農場。
自動改札を抜ける。駅前こそロータリーが広がっているが、そこから少し外れると道沿いに畑が見えてきた。古い家屋も多い。クルマの往来は激しいが、混みあう車道とは対照的に辺りには閑散とした風景が広がっている。
携帯電話の液晶画面に地図を表示しながら歩を進めた。農道からさらに一本入ったあぜ道の脇、ビニールハウスの前に人だかりしている。ほとんどが高齢者で、農作業服を身につけていた。
輪の中心にいたのは、アスリートのように洒落たデザインのジャージを着た凜田莉子だった。
莉子は足もとに並んだ鉢を指さして告げた。「右からセンリョウ、マンリョウ、センリョウ、センリョウ、マンリョウです」
へえー。どよめきに似た声が高齢者たちから沸き起こる。老婦が感嘆とともにいった。
「どれも同じに見えるけどね」
「たしかによく似てますね」と莉子は笑った。「けど、センリョウとマンリョウは植物としてはまったく別の種類です。ほら、ここを見てください。葉の上に実をつけています。これがセンリョウです。マンリョウなら実は葉の下です」
なごやかな雰囲気とは逆に、小笠原は複雑な気分になった。携えてきた手紙は美術鑑定家に宛てたものだった。凜田莉子の日常とはずいぶんギャップがある。
「あのう」と小笠原は声をかけた。
莉子が振りかえる。その顔に驚きのいろが浮かんだ。「小笠原さん? どうしてここに?」
「用があって店に寄ったんだよ」
「そう......、ちょっと待って」莉子は高齢者たちに向き直った。「ほかに見分け方がはっきりしない植物がありましたら、遠慮なくお声をかけてください。では、少しのあいだ失礼します」
老人のひとりが莉子にきいた。「彼氏かね?」
一同はふいに、しんと静まりかえった。
視線が交錯しあう。高齢者たちは興味深そうに、小笠原をじろじろと見つめてきた。
小笠原は絶句したが、同時に聞き耳を立てることを忘れなかった。莉子の次のひとことが気になる。
莉子は微笑した。「はい。よくおわかりで」
おおっという高齢者たちの反応、小笠原も固唾を呑んで莉子を見つめた。
だが、莉子はあっさりした口調でつづけた。「たしかにこちらの木は、枯れ死の状態です。冬場の乾燥が原因ですね。ご覧のとおり幹と枝の境目が......」
老齢の男女がいっせいにため息をつき、それから苦笑ぎみの笑いがひろがる。莉子は妙な顔をして口をつぐんだ。
とぼけているわけではないのだろう。彼女特有の天然ボケだ。小笠原は咳ばらいをして、莉子にささやきかけた。「海外の雑誌社のアンケートに答えてほしいんだけど」
「ええ......」莉子はまだ高齢者たちの反応の意味を理解できないらしく、大きくつぶらな瞳をぱちくりさせながら、小笠原に歩み寄ってきた。
小笠原はきいた。「わざわざ店を閉めて、畑仕事の手伝いかい?」
「いちおう出張鑑定よ」
「センリョウとマンリョウを見分けるのが?」
「さっきはカブと辛味大根を選別したの。泥にまみれてると結構難しいのよ。あと、あっちにいるおじいさんのお孫さんのグローブが、軟式か硬式かで揉めてたから、識別したりとか」
「そりゃ見分けにくそうだ......。万能鑑定士って、どこまでが仕事の範躊なんだい?」
「さあ。別に細かく決めてないし」
「出張料はいくらなの?」
「朝から晩までで七千円ぐらいかな。交通費込みで」
「まるでバイトだな。それも、そんなに割りがいいわけでもなさそうな......」
「お声がかかったらどこへでも行くの。で、アンケートって?」
「ああ。ええと、これだよ」小笠原は紙片を取りだして、莉子に渡した。
莉子はそれを広げた。「〝Have you ever seen la Gioconda in the Louvre?〟 ......あなたはルーブル美術館で『モナ・リザ』を観たことがありますか。そのときの所感をお聞かせください......」
「去年のお盆休みにパリ旅行したとき、ルーヴルの前から電話をくれただろ? たしかあの後『モナ・リザ』を観たんだったよね?」
「んー」莉子は顔をしかめた。「観たといえば観たんだけど......。でもこの質問の答えはノーかなぁ......」
「ノー? どうして?」
「わたしの所感をきいてるわけでしょう? なら、まだ『モナ・リザ』に出会った気がしてないんだよね」
「出会ってないって......。いったい何のこと......」
そのとき、老婦が両手にいっぱいのトマトを抱えて歩み寄ってきた。「凜田先生、ちょっといいですか。美味しいトマトだけ選り分けたいんだけど、なにか方法ある?」
莉子は踵をかえしながらいった。「バケツに水を汲んで沈めてみましょう。水面に浮かぶトマトは不味い物ばかりです。グルタミン酸の濃度の高さは、見た目にはわからないので......」
小笠原は半ば呆気にとられて、老婦とともに遠ざかる莉子の背を見送った。
美術鑑定家......といえるだろうか、彼女は。少しばかり自信がなくなってきた。
半月後
小金井の農場への出張鑑定を終えて二週間後の朝、東京の空は快晴だった。凜田莉子はけさも明大前のワンルームマンションから飯田橋の店へと出勤していた。
今月は複数の絵画をまとめて処分したいという法人からの依頼が入ったせいで、収益も堅調だった。テナントとマンションの家賃の支払い、波照間島の実家への仕送りも予定どおりおこなえそうだ。これまでと同様、生活費はそれなりに切り詰めねばならないが......。
照明を灯してデスクに向かう。さて、まずはきのうの書類整理から。
そう思って椅子に腰かけようとしたとき、ガラス越しに表に乗りつけるタクシーを見た。
後部ドアが開いて、スーツ姿の若い男が降り立った。こちらに駆けてくるその姿を見て。知り合いだと気づく。
小笠原は血相を変えて店内に飛びこんできた。つかつかと歩み寄ってくると、真顔でたずねた。「凜田さん、いま時間ある?」
「ええ......。午前中の予約は入ってないし......」
とたんに小笠原は莉子の腕をつかみ、店から連れだそうとした。「来てほしいんだ」
「な......何?」莉子は面食らった。草食系の小笠原が強引さをみせるのは珍しい。「どこへ行くの?」
「クルマのなかで話すよ。ハンドバッグとか持った?」
「ここにあるけど、でも......」
「でよう。急がないと。時間が迫ってるし」
時間。いったい何のことだろう。
店の自動ドアに施錠をするや、タクシーの後部座席にほとんど押しこまれるようにして乗車する。小笠原が並んでシートにおさまると、ドアが閉まり発進した。
タクシーは飯田橋界隈の路地を抜けだし、霞が関方面に向かい走りだした。小笠原から急ぐように託かっているらしく、右に左に車線変更して猛進していく。
小笠原はちらと莉子を見た。「その服、スーツだよね?」
「いちおうスーツといえばスーツだけど......分類としてはカジュアルに属するスタイルだし。どんな場所に行くの?」
「霞が関三丁目って、何があるか知ってる?」
「中央合同庁舎? 内閣府とか金融庁とか、あとは文部科学省」
「ご名答。目的地はその文科省の外局。文化庁ってところだよ」
「文化庁って......」莉子は顔面が紅潮するのを感じた。「待って。戻ってよ。もっとちゃんとした服に着替えないと」
「それでいいよ。よく似合ってるし」
莉子は焦燥に駆られた。「そういう問題じゃなくて......。フォーマルじゃなきゃヘンでしょ」
「っていうと思って、そのまま連れだしたんだよ。女性の支度には時間がかかるだろうし」
「ひどい! こんな恰好で省庁を訪ねるなんて、非常識と思われるでしょ。ジャケットはそれなりだけど、あとはイオンとユニクロをなんとか組み合わせてるだけで......」
「細かく解説しなくてもいいよ、夢が壊れる。着こなしはとてもいいじゃないか。そのう、うまく工夫してる。とても安物には見えないよ」
「はぁ」思わずため息が漏れる。莉子はつぶやいた。「やっぱ衣類にはもう少しお金をかけないと駄目かな......偉い人の依頼なんてめったにないから油断してた。一張羅のスーツに袖を通すなんて、年にいちどあるかないかだし」
「きょう以降にはどんな予約が入ってる? 何を鑑定するの?」
「ええと......。たしか花瓶と、民家の庭先で見つかった壷と、中古ゲームの業務用基板」
「ほら。庶民派の凜田先生には『モア』系の可愛い服こそ似合ってるよ」
「庶民派って......」
早くも国会前から外務省上の信号を折れて、霞が関一丁目交差点に差しかかろうとしている。外務省や経済産業省の重厚かつ壮麗な建物の谷間、桜田通りを南下する。行く手にはベージュいろのレトロな六階建て建造物が、角地に沿ってL字形に広がっていた。
旧文部省庁舎、現在は文化庁。ホテルのようなエントランスにタクシーがぴたりとつける。
ここを訪ねるのは初めてだった。芸術創作活動の振興や文化財の保護を受け持つ行政機関だけに、鑑定家には無縁ではないはずだが、そこはしがない個人経営。しかも店を開けて三年では、国から声がかかるはずもなかった。
薄暗いロビーは職員の往来も多くあわただしかったが、小笠原に案内されて奥にある観音開きの扉に近づくと、その脇にたたずんでいた白髪の紳士がこちらを見た。
外国人だった。それもいちど顔を合わせている。あいかわらずサヴィル・ロウのオーダーメイド姿、前に会ったときとは別のスーツだった。
老齢にみえるイギリス人男性はにっこりと笑った。「やあ、凜田莉子さん。その節はどうも。よかった。おいで願えないんじゃないかと内心はらはらしたよ」
莉子は驚きを禁じえなかった。「ブラウンさん......」
「いや。アメリカ人美術商のブラウン氏はあの日でお役御免でね。素性を偽ったことをお詫びしたい。本当の名はケネス・アリンガム。ルーブルの元学芸員だよ。いまでも美術館職員ではあるんだが、海外向け代理人兼調査員のひとりに任命されて久しい」
「代理人兼調査員......ですか」
「そう。英語を喋れるせいで、外国での展覧会に美術品を貸しだす際の交渉を引き受けている。以前のフランスでは、日本を英語圏と捉えてたふしがあったんだが、実際きてみるとまるで通じなかった。結局、日本語をイチから勉強する羽目になったよ」
「二十年以上もお住まいだと、さすがに流暢ですね」
アリンガムは眉をひそめた。「はて。こっちで長く生活していることは打ち明けてなかったと思うが。どうして知ってるのかね?」
「初めてお会いしたとき、缶コーヒー専門だなんておっしゃってました。日本ではあまり知られていませんが、海外で缶コーヒーが売られるようになったのは一九九〇年代以降のことですから」
小笠原が目を丸くした。「そうなの?」
「あぁ」アリンガムは満面に笑いを浮かべた。「なるほど、たしかに......。一般的なヨーロッパ人にとっては、缶コーヒーは馴染みのない飲み物だよ。いまでも母国ではあまり見かけないね。いやしかし、さすがに広範な知識をお持ちだね。私が推薦した上位五人のなかに入っているだけのことはある」
莉子はアリンガムを見つめた。「推薦......?」
「ひそかに調査を進めていたことをご容赦願いたい。私は今回の件に適任の日本人鑑定家を探すために奔走していたんだよ。ほかにも大勢の調査員がいて、それぞれにふさわしいと思う人材を掻き集めてきているが......。きょうここにおいで願った鑑定家はみな、もうひとつの条件もクリアしていてね。ルーヴルがイタリアの『デルフィーナ』誌に協力を求めて調査したことなんだが」
「例のアンケートですか?」
「そう。雑誌の記事にするためじゃなく、情報収集が目的でアンケート用紙を日本じゅうにばらまいてもらったんだ。フランスのメディアを使わなかったのも、真意を見抜かれないようにするためでね。きみは回答した、展示してあった『モナ・リザ』は本物ではなかったと」
「あ、あのう......。個人的にそう感じたってだけのことで......」
「結構、おおいに結構。それでこそ探し求めている人材にふさわしい」
扉から職員らしき男性が顔をのぞかせた。「そろそろ説明会が始まりますか」
アリンガムは職員にうなずくと、莉子に向き直った。「恐縮だが、ぜひ話だけでもきいてもらえないかな。鑑定家のきみにとって大きな飛躍のチャンスになるはずだ」
莉子は当惑とともに、扉に向かって歩きだした。いったい何が待っているのだろう。
小笠原がついてきて小声でささやいた。「ごめんね。けさ文化庁からうちの編集部に連絡が入って、どうしても連れてきてくれっていわれて」
「ええ。それは構わないけど......。でもどんな話かな」
職員が扉を開けて待っている。莉子は頭をさげながら、なかに入った。
アリンガムと小笠原は、立ちいらないつもりらしい。小規模のホールの座席はすでに、百人近い聴衆でほぼ埋まっていた。この全員が、わたしと同じようにルーヴルの関係者に招待された鑑定家だろうか。
空席を目で探していると、何人かの顔見知りと視線が合った。いずれもベテランの鑑定業者だった。先輩たちに軽くおじぎをする。会釈かかえってきた。不意に呼び集められたらしく、みな服装はばらばらだった。莉子は内心ほっとした。
客席には二十代とおぼしき若い男女も何人かいたが、こちらは莉子の知り合いではなかった。やがて空いている席が見つかった。莉子は腰をおろした。
ほどなく場内が薄暗くなった。照らしだされた演壇にひとりの男が立った。「文化庁長官官房国際課、国際文化交流室員の長澤と申します。本日はお忙しいところお集まりいただき、心から感謝申しあげます。それではまず、現在のところマスコミ発表がなされていない、極めて重要な文化事業についてご報告させていただきます」
静まりかえった客席を、長澤はしばし無言で眺め渡した。これから告げることの重大さを前もって認識してもらいたい、そんなふうに訴えかけているようでもある。
「本年六月」長澤は語気を強めていった。「『モナ・リザ』が日本にやってきます」
ざわっとした驚きが客席に広がった。莉子も思わず息を呑んだ。
長澤の声が厳かに響く。「日本における『モナ・リザ』展の開催は、一九七四年の東京国立博物館での展示以来、じつに三十七年ぶりのことです。未曾有の大災害にみまわれたわが国に対し、フランス政府から芸術および経済の両面における最大の支援策として、世界で最も有名な絵画の貸出をご提案いただきました。ルーヴル美術館との話し合いも、すでに大詰めを迎えています。では、詳しいことはルーブルの学芸員であられます、オディロン・ボワイエ氏からご説明いただきます」
緊張感に満ちた沈黙のなか、長澤がひきさがる。代わって登壇したのは、三十代半ばぐらいのすらりとした長身を誇る白人だった。目鼻立ちがはっきりした小顔、短く清潔にまとめた髪と口髭は栗色で印象は高貴そのものに思える。貴族と紹介されたら信じてしまう、そんな風格に満ちている。
オディロン・ボワイエ。莉子は彼の著書『ダ・ヴィンチの聖書学的研究』を読んだことがあった。若くして『モナ・リザ』研究で名を馳せたエリート街道ひと筋の学芸員だったはずだ。
ボワイエはマイクの前に立つと、微笑とともにいった。「ボンジュール。メダム・ゼ・メシュウ」
ごく自然に語りかける口調だったせいか、客席はぼそぼそとあいさつをかえした。ポンジュール。皆の発音の正確さに莉子は舌を巻いた。
そういえば、アンケートには『フランス語を話せますか?』という質問も含まれていた。ルーヴルの学芸員が通訳なしに、母国語で喋ることが前提になっていたのだろう。聞き逃さないように集中せねば。
ボワイエのほうも日本人相手の演説であることを少しは意識してくれているらしく、わりとゆっくりとした物言いで告げた。「レオナルド・ダ・ヴィンチ作の油彩画、世界じゅうの誰もが知る名画『モナ・リザ』を日本で展示するにあたり、ルーヴルは百五十人からなる専門スタッフを同行させます。
私を含めた学芸員のほか、文化遺産の保護や修復を担う国立機関〝INP〟の研修を受けた鑑定家、修復家、それに警備員などです。あらかじめ申しあげておきますが『モナ・リザ』が日本にあるあいだ、そのすべての取り扱いはフランス人スタッフが受け持ちます。輸送、搬入、壁に掲げる作業と取り外しに至るまで、絵に触れるいっさいの作業はわれわれにお任せください。ほかの国における展示でもそうしてきたように、現地のスタッフのかたのお手を煩わせることはございません」
慇懃丁寧な言いまわしに思えるが、実際には『モナ・リザ』をフランス人以外には触らせないという頑なな主張でしかなかった。たしか彼の著書にも同じことが書いてあったと思う。
「ただし」とボワイエはいった。「手には触れなくとも、目では触れていただきます。すなわち展示中、われわれとともに働いていただける日本人スタッフを若干名、お迎えしたいと考えております。異国の地でもありますし、われわれだけではなにかと不都合が生じます。スタッフのかたには連絡業務や各種手配のほか『モナ・リザ』のコンディション・チェックにも参加していただきます、触ることはできませんが、観察により『モナ・リザ』の状態に変化がないかどうか......というより、なによりも本物であることを随時、視覚によって確認していただきます」
客席の日本人鑑定家らがざわついた。
ひとりが挙手し、フランス語で発言した。「失礼。私は先日のアンケートで、ルーヴルの展示している『モナ・リザ』は偽物という所感を綴ったのですが......」
「ええ」とボワイエはうなずいた。「こちらにおいでの皆様は、ある一定の期間においてルーヴルを訪れ、なおかつ『モナ・リザ』が本物ではないとお感じになった方々ばかりです。美術鑑定を生業にされていて、そのように回答された勇気に心から敬服いたします。皆様にのみ、以下の真実をお伝えします。......皆様のお見立ては正解でした。ご覧になった『モナ・リザ』は本物ではありません」
どよめきに近いざわめきが広がる。莉子も衝撃を禁じえなかった。
『モナ・リザ』が偽物。ルーヴルの学芸員が、贋作の掲出を認めた。まさに前代未聞の事態だった。
老齢の日本人鑑定家が手を挙げた。「あ、あのう......。たしかにアンケートには『本物に思えない』と書いたが、いまでも半信半疑だよ。ルーヴルがフェイクを飾っていたとは......」
ボワイエは咳ばらいをした。「あくまで必要な処置です。非公式ながらフランス政府の許可も得ています。贋作が展示されるのは観光客が詰めかける夏のホリデー・シーズン、および盗難やテロの予告が入った場合に限られます」
「その贋作を手掛けた画家はルーヴルの人間かね?」
「いえ。人ではありません。ご存じと思いますが、三次元ビジョンとロボットアームが組み合わさった複製絵画の作成装置を用いています。千分の一ミリの油絵の具の厚みの変化までを読みとり、筆で正確に再現するのです。キャンバスも絵の具も現代のものを使っているため、表層に光沢や艶があるのが特徴です。もっともそれらは、絵を覆う防弾ガラスが均一な反射面を持っため、かなり目立たなくなります。ルーヴルでは『モナ・リザ』の前にあるていどの距離を置いてロープを張っていますが、あの距離からなら本物との違いはわかりません。ごく一般の鑑賞者なら、の話ですか」
莉子はしだいに空恐ろしい気分になった。全身に鳥肌が立つのを感じる。
わたしはいったいどこまで本気で、あれが偽物にすぎないと信じていただろうか。本物に感じられなかったのは、単にあまりにも有名な絵画のせいで客観視できなかったからかもしれない、そんなふうにも思えてくる。
偶然にもルーヴルの意に沿う回答をしてしまったというだけで、本当はこの場で求められているような鑑定眼を持ってはいないかもしれない。いや、きっとそうだ。わたしのような駆けだしがルーヴルの必要とする才覚の持ち主であるはずがない。
周りの日本人鑑定家らも一様に戸惑いが生じたかのように、目を泳がせたりうつむいたりしている。だが、なかには別の疑念を持つ者もいるらしかった。
ひとりの男性が険しい顔で挙手し、ボワイエに告げた。「まさか、日本でも偽物を展示しようとおっしゃるのではないでしょうな。大衆を欺くことにひと役買えというのなら、協力できませんよ」
「とんでもない」ボワイエは真顔で首を横に振った。「友好国どうしの親善を深める絶好の機会に、こちらから無礼を働くつもりなど毛頭ございません。日本では正真正銘、本物の『モナ・リザ』を展示します。ただし、この歴史的名画がルーヴルを離れるのはひさしぶりのことです。よって盗難、あるいは偽物にすり替わるような事態は絶対に回避せねばなりません」
「わが国において、そういう事態の発生が想定されると?」
「日本のみならず、どの国であってもついてまわる問題です。『モナ・リザ』が描かれた当時と同じ画材は、デンマークあたりのコレクターから一万ユーロで揃えられます。いまならネットでも発注できる。『モナ・リザ』を本物そっくりに描ける画家、これも世界じゅうにいて、やはり一万ユーロほどのギャラで理由もきかずに手掛けてくれる。さらに炭素14などの科学鑑定を誤魔化すための人工腐食や退色などの処理にもう一万。合計三万ユーロ、三百三十万円ほどで、専門家の目をそれなりに欺けるレベルの贋作が作れます。もっとも、われわれが本腰をいれたとたんに偽物だと発覚するでしょうが、すり替えられた直後には気づけない可能性もあります」
「たしかに」老婦人の鑑定家が発言した。「絵そのものを模写し複製をこしらえるだけなら、『モナ・リザ』という手本はさほど難易度が高い部類ではないでしょう。しかし、あれほど有名な絵画になると、贋作家はまず手をださないはずです。なにしろ本物はルーヴルにあると誰もが知っているのですから」
「そのとおりです。けれども『モナ・リザ』がルーヴルを離れ、外国に貸しだされたときは?......もうお判りでしょう。普段は絶対にチャンスのない『モナ・リザ』の贋作へのすり替えが可能になるとすれば、今回のような状況以外に考えられないのです。もちろん警備には万全を尽くしますし、日本の警察も全面的に協力してくれます。でも、関わる人数が増えれば増えるほど、絵はやはり危険に晒されることになります。内部の犯行は疑いたくありませんが、贋作家もしくはその仲間が運営側に潜りこまないとも限らないんです。ゆえに、われわれは『モナ・リザ』が日本にあるあいだ、頻繁に鑑定をおこないます。のみならず。一見して『モナ・リザ』の真贋を看破できるだけの鑑定眼を持ったスタッフを周囲に常駐させます。日本側の若干名のスタッフにも、われわれと同じだけの技能を備えていてほしいのです」
ホールはもうざわついてはいなかった。
しんと静まりかえった場内に、ボワイエの落ち着いた声が響いた。「現在のルーヴルで『モナ・リザ』の真贋鑑定の権威といえば、私の同期のリシャール・ブレという学芸員ですが......。彼は私にいいました。鑑定の基本中の基本は、その絵画の持つ抗いがたい魅力を理解し、心に感じることだと。感受性の強さが真贋を見極める。どんな知識も、そこに生じる直感にはかなわない。それが彼の意見です。正直、私はどちらかといえば印象よりも分析とデータを重んじるほうです。しかし、展示期間中に大がかりな科学鑑定を繰り返すことは難しい。だから一見して真贋を見抜ける才能が必要なのです。皆様のように」
沈黙はなおもつづいていた。咳ひとつきこえない。莉子も固唾を呑んでいた。
おずおずと手が挙がる。頭髪の薄くなった中年男性がボワイエに告げた。「おっしゃることは、よくわかりました。私も美術鑑定家を長年務めて、西洋絵画にも数多く触れてきましたが......。ダ・ヴィンチについては詳しくありません。『モナ・リザ』を鑑賞した際も、贋作ではないかと疑いを持ったものの、具体的な根拠はありませんでした。学芸員の方々と同じ技能を求められても......」
「そこは承知しております。失礼ながら、皆様はダ・ヴィンチの専門家ではないのですから、知識が充分でないのは仕方がないことです。しかしながら、それは学習によって補えます。まず真っ先に必要とされるのは才能なのです。二週間後の火曜、皆様にはパリにおいでいただき、休館日のルーヴルで『モナ・リザ』真贋鑑定の能力テストを受けていただきたいと思っております」
場内はまたにわかにざわめきだした。
ボワイエは静粛を促すかのように手でしめしてきた。「旅行にかかる費用はすべてこちらで負担いたします。パリに一泊していただきますが、そのホテルの宿泊代や食事代も用意させていただきます。最終的な目的として、こちらの条件に合致する日本人の〝臨時学芸員〟数名を選びだすための、日仏政府公認の催しです。テストで選抜された数名の方々には、帰国後に『モナ・リザ』鑑定のための特別カリキュラムに参加していただきます。リシャール・ブレが来日し、直接その極意を伝授します。『モナ・リザ』展の直前までたっぷりと学習していただき、晴れて開催日を迎えるわけです」
しばし静寂の時間があった。沈黙を破ったのは老齢の日本人鑑定家だった。「その臨時学芸員なるものに選ばれたら、どのような......」
「わたしたち運営側の一員として、世界にその名が報道されます。鑑定業を営まれる皆様におきましては、非常にプラスになるのではと思います。期間中、日数に応じた規定のギャランティも支払われます。もちろん、パリでのテスト実施日にご都合が合うことが現時点での絶対条件になりますが」
ひとりが席を立った。つづいて何人かが腰を浮かせ、退場していった。
だが、ほとんどの鑑定家たちはその場に居座りつづけた。すでに誰もが迷いを振りきり、決意に至ったかのように感じられる。
莉子は激しく動揺していた。わたしはどうすればいいだろう。むろん。自身の能力が要求されるレベルに達しているとは思えない。それでも、この場に引き留めようとするもうひとりの自分の存在に気づかされる。
わたしも鑑定家の端くれだ。この百人弱のひとりに選ばれたからには挑戦したい......。
試金石
二週間後、現地の日付で火曜。莉子は約半年ぶりにパリ、シャルル・ド・ゴール空港に降り立った。午前十時五十五分発のエールフランス275便、到着は現地時間で午後二時十五分。東京とパリの時差は七時間。
じつに十二時間以上におよぶフライトも、今回は快適そのものだった。ビジネスクラスのシートはリクライニング時に百八十度フラッ卜になり、ベッドも同然の寝心地だった。前の旅では、いつまで経っても抜けだせないと感じたロシア上空も、今回は寝ているあいだに難なく通過。機内が明るくなったと思ったら、もうイベリア半島上空という具合だった。
旅人は美術関係者ばかりではない。記者も同行していた。
『デルフィーナ』誌がアンケートを送付した出版社や新聞各社、テレビ局はいずれも、紹介した鑑定家に密着取材することを前提に、一名ずつルーヴルから招待を受けていた。彼らの目を通じ、今回の〝臨時学芸員〟選出を大々的に報道させることが、ルーブルの狙いらしかった。むろん、日本での『モナ・リザ』展の前宣伝になると踏んでだろう。
莉子の担当記者は半ば当然のごとく選定されていた。『週刊角川』の小笠原悠斗は入国審査の列に並びながら、さも嬉しそうにいった。「エコノミーじゃない旅って、やっぱいいね。出張もビジネスクラスは部長以上なんだよ」
子供のようにはしゃぐ小笠原を見て、莉子は思わず微笑んだ。「フランスは初めて?」
「先輩記者についてきたことはあるよ。宿泊はホテルどころかユースですらなくてね。キャンプ場だったけど」
日本人鑑定家の集団とその同伴記者ら一行は、ぞろぞろと到着ゲートへと歩を進めた。面積が広大なのと、看板がフランス語なのを除けば、成田と変わらない印象の空港内。玄関をでるとロータリーには、黒塗りの大型セダンがずらりと列をなしていた。鑑定家と記者のコンビひと組ごとに一台ずつあてがわれているという。
さすがルーヴル、金のかけ方が違う。莉子と小笠原も後部座席に乗りこんだ。運転手が無言でセダンを発進させる。空港の敷地を抜けだし、高速道路の流れに加わる。
午後四時。パリの太陽はまだ真昼のような高さに位置している。セダンは数珠つなぎに高速から一般道に下りていった。
パリの市街地に入ったとたん、風景が一変した。
あいかわらず、街並みそれ自体が芸術だった。一世紀を経てなお気品に満ちた石造りの建物の数々。きょうは旅の疲れがあまりないせいか、彫刻の細かいところまで目が届く。上げ下げ式の窓、バルコニーに並ぶ鮮やかな花の鉢植え、三階まで届く街路樹、微風に揺らぐマロニエの葉。馬車の時代を継承する石畳の道路。歩道に張りだすカフェテラスに男女が集い、色彩艶やかな店舗の前を多様なファッションが行き交う。セーヌ川の向こうにはエッフェル塔が見えていた。
お洒落で小可愛く、遊び心に満ちた花の都。やはり心を奪われずにはいられない。こんなに早くまた訪れることになるとは、夢にも思わなかった。
絢爛豪華なオペラ座前を通過し、激しく混みあう車道を、列車のように連なるセダンの群れが駆け抜けていく。以前に同級生の楚辺瑛翔がシトロエン2CVで案内してくれたルートと、まったく同じだった。左手に中世の城館そのものといった感じの外壁が、延々と連なっている。
ルーヴル美術館。戻ってきた、莉子はそう感じた。喜屋武先生と見学したのはわずか一時間弱。不完全燃焼もいいところだった。今度は悔いを残さないようにしたい。
このままリヴォリ通りをまっすぐ進めば楚辺の働くレストランが見えてくる。しかしセダンはそちらに向かわず、交差点を左折してルーヴルの正面に乗りいれた。
石畳の広場を散策するパリジェンヌにパリジャンたち。三方を囲むようにして、風格と優美さに満ちた広大な宮殿がある。一見ミスマッチにも思えるガラスづくりのピラミッドのエントランスも、いまやルーヴルの顔だった。
セダンの行列は、広場のなかに設けられたロータリー状の車寄せに連なって停車した。前後のクルマから降り立つ人々が見える。運転手が後部ドアを開けてきた。小笠原がまず車外に這いだしていく。
小笠原の吐息は白く染まっていた。「寒いなぁ。やっぱヨーロッパの気温は低めだね」
莉子もつづいて降り立つと、小笠原の言葉を実感して肩をすくめた。「もっと重ね着してくればよかったかな」
「すぐなかに入るみたいだよ。ホテルに寄らずに美術館に直行なんて意外だね」
日本人の通訳が大声で告げている。大きな荷物はクルマのトランクに積んだままにしてください。身のまわりの品だけ持って、こちらへどうぞ。
まるで観光ツアーそのものだった。莉子は小笠原とともに建物に向かって歩いた。
行き先はガラスのピラミッドではなさそうだった。日本人一行は列をなして、北側のリシュリュー翼の入り口に吸いこまれていく。
莉子も後につづいた。フランス彫刻を展示するホールだった。中央の開けた場所に全員が集められている。休館日ゆえに一般客の姿はない。彼方までつづく展示通路も無人だった。
もとは贅を尽くした国王の居城だけに、内装も秀麗そのものだった。ガラス天井を見あげたとき、莉子は背後の壁にある巨大なパネルに気づいた。
オレンジいろに黒い文字が印字されたそのパネルは、以前ここを訪ねたときには見た覚えがない。幅は二メートルほどだが、高さは天井にまで達する。実物よりひとまわり小さな『モナ・リザ』の写真が、斜めに傾いて掲載されている。写真のそれぞれの辺に平行した線が、広く間隔をおいて引かれ、四角形に縁取られていた。その下にはフランス語で大書してある。La Joconde est sur le mur gauche,ce passage 100 metres.
『モナ・リザ』はこの通路の百メートル先、左側の壁......。妙だと莉子は思った。〝モナリザの間〟はドノン翼のはずだ。
最も有名な絵画だけに、こういう道しるべは半年前にも館内のそこかしこで見かけた。しかし、当時のパネルは同じぐらいのサイズだったものの、白地に黒の文字だったと記憶している。掲載された『モナ・リザ』の写真もモノクロだったように思う。新たに設置された物だろうか。
疑問に思っていると、ホールに連結する階段の踊り場に、何人かのフランス人が姿を現した。うちひとりは文化庁のホールで登壇した男だった。
オディロン・ボワイエはフランス語で声を張った。「皆様、ルーヴルヘようこそ。遠路はるばる御苦労さまでした。お疲れのところ大変恐縮でございますが、早速、能力テストに入らせていただきます」
鑑定家たちは騒然となった。小笠原も眉をひそめて莉子にささやいてきた。「言葉はわからないけど、みんなの反応を見る限り、テスト開始らしいね」
「ええ。そうみたい」
「ずいぶんせっかちだな。このままやれそう?」
「まあ......ね」莉子は戸惑いがちにうなずいた。「機内でよく寝たから」
きょうが休館日である以上、テストが明朝になることはありえないと覚悟してはいたが、やはりスケジューリングに容赦はなかった。
ポワイエが真顔でつづける。「テストは全員同時におこないます。担当記者のかたも同伴されて結構ですが、写真撮影はご遠慮ください。さて『モナ・リザ』についてですが、きょうに限り展示場所を変更しております。どこにあるのかは申しあげられません。皆様には館内を巡っていただき『モナ・リザ』の在り処を探していただきます」
ざわめきがいっそう大きくなった。鑑定家のひとりが、オレンジいろのパネルを指さしていった。「ここに案内がありますけど」
「たしかに」ボワイエは平然とうなずいた。「ただし、そのパネルが本物の『モナ・リザ』の所在を表すものとは限りません」
「......偽物かもしれないと?」
「いかにも。館内には本物と偽物を織り交ぜて七箇所に『モナ・リザ』の展示があります。いずれも、見つけやすいように付近にはそのような道案内のパネルを掲出しております。七枚すべてをご覧いただいた後、シュリー翼三階の面接会場においでいただき、本物がどこにあったかをご回答ください」
きょうのために美術館全体を惜しみなく活用する。ルーヴルは本気だった。テストの条件も極めてフェアといえる。運営側は展示の環境を変えることで、本物を観たことがある鑑定家が記憶を頼りに比較するのを防ごうとしている。
わたしにとっては惑わされる要因にはなりはしない。莉子はそう思った。本物はいちどたりとも拝んでいないのだから。
ボワイエはいった。「七枚の『モナ・リザ』はいずれも通常展示と同じく、防弾ガラスで覆ってあります。絵画の前にロープが張ってありますが、そこを踏み越えたら失格になります。規定の距離を保ったうえで、鑑賞のみによって真贋を鑑定してください、制限時間は二時間。館内のどこへ移動されようともご自由ですが、鑑定家どうしの相談、情報交換はご遠慮ください。では、五時きっかりにテスト開始です。もう少々お待ちください」
運営側のフランス人たちが階上に消えていく。念のためか、日本人の通訳がボワイエの説明を翻訳し反復している。
だが、周りの鑑定家たちは傾聴してはいなかった。フランス語の説明で充分だったらしい。誰もがこわばった面持ちで黙りこくっている。集中するかのように目を閉じる者もいた。
莉子は深呼吸した。緊張とともに心が躍る。これほど興味深い鑑定ゲームは二度と経験できまい。相応の心構えで臨まねば。鑑定家を名乗る以上、きょうが今後の人生の試金石になる。
テスト
小笠原にとっては、これがルーヴル美術館への初訪問だった。噂にはきいていたが広大で、とても一日で鑑賞しきれる物量ではない。素晴らしい美術品ばかりで目を惹かれるが、いまは『モナ・リザ』探しに従事する莉子についてまわることが、自分の仕事だった。
五時を過ぎ、鑑定家たちはすでに館内のあちこちに散っている。莉子はパネルの道案内に従いリシュリュー翼の半地階の回廊を歩きだしていた。
このフロアは閉鎖中らしい。展示用キャビネットはいずれも空だった。解説用の写真はいたるところに残されている。以前はイスラム関係の美術品が飾られていたようだ。
やがて、回廊と連結した大部屋に、日本人鑑定家たちが何人かたたずんでいるのが見えた。揃って壁を凝視している。
視線の先に、繊細な装飾を施した金の額縁が掲げてあった。
第一印象は、小さい、そのひとことに尽きた。人だかりがなければうっかり通り過ぎてしまいそうだ。深緑の衣装をまとった黒髪の女性が微笑する、あの半身の肖像がおさまっている。世界じゅうの誰もが知る油彩画。ごく当たり前のようにそこに存在していた。
通常は、ほかの絵画が掛かっている壁なのだろう。それを『モナ・リザ』に交換し、手前に防弾ガラスを設置している。ガラスは移動可能な衝立式で、下辺にはキャスター付きの脚部を備えていた。もちろん、傍らに警備員が立っている以上、ロープを踏み越えてガラスをどかす愚行には及べない。
莉子はほかの鑑定家らとともに、ロープのすぐ手前まで近づいて絵に見いった。
小笠原は歩み寄ってささやきかけた。「どう? 本物かどうかわかる?」
「さあ」莉子がつぶやいた。「小笠原さんは?」
「僕には何も......。有名すぎるせいで既視感が強いよね。初めて観た気がしない。正直、『モナ・リザ』の印刷物を眺めたときと変わらない気分だ」
「そうね。でも、この距離からでも凹凸はわかるでしょ? 印刷じゃだせないわよ。細かいひびが表面にびっしりと入ってるし」
「あー、たしかに。ひびだらけだ。古い絵だから?」
「油彩ってのは顔料に乾性油を混ぜて描くの。でも、当時はまだ卵黄だとか膠をミックスするテンペラが主流で、キャンバスじゃなく木板が使われることが多かったのよ。油彩はキャンバスに描けば長持ちするけど『モナ・リザ』はポプラの板に描いてる」
「ふうん。それでこんなにぼろぼろに?」
「油彩はまだ新しい技術だったから、絵の具の調合についても試行錯誤の段階だったみたい。ダ・ヴィンチが絵の具の水分を多くし過ぎたって説もあるの。板も薄かったから、絵の具を塗っては乾かすうちに、板が反っちゃって顔料の層が引き伸ばされて......。無数の亀裂が入ったってこと」
「天才レオナルド・ダ・ヴィンチにも計算違いがあったんだな」
「乾燥後の板の収縮や伸長を予期できなかったのはたしかね。けど、亀裂は本物の証しでもあるの。人間の皺や木の年輪と同じ」
「なるほど。絵なら模写できるけど、自然に入ったひびは真似できないわけか。......ってことは、これが本物かい?」
莉子は苦笑を浮かべた。「そんなに簡単じゃないと思うけど......。わたしが前に観た『モナ・リザ』にも、こんなふうに亀裂が入ってたし」
ひび割れも本物同様に再現しているのか。さすがルーヴル、ぬかりはない。しかしこれが偽物だとすると、もはや本物など必要ない域に達しているのではないか......?
周りの鑑定家たちはしばしの鑑賞の後、無言で立ち去りだした、前後して、ほかの鑑定家がやってきて絵を眺める。人は途絶えることはなかった。
やがて莉子は『モナ・リザ』の前を離れた。「時間がなくなっちゃう。ほかも観ないと」
回廊を引き返す。階段をのぼってシュリー翼の一階に入った、行く手に巨大な女像柱が四体並んで出迎える。
莉子が歩きながらいった。「ここはたしか、ルーヴルの展示室のなかで最も古くに整備されたはず。アンリ二世の時代には現在の姿になってて......あ、また道しるべがあった」
さっきと同じオレンジいろのパネルが設置してある。『モナ・リザ』の縮小写真、そしてフランス語の案内。
それを見て、莉子はふたたび歩きだした。「こっちね。五十メートル先だって」
展示品はギリシャ彫刻のローマ時代の摸作らしかった。発掘されたパーツを組み合わせて、みごとに元の姿を取り戻した彫像もあれば、頭部や脚だけの物もある。
また日本人鑑定家が集まっている場所があった。視線の先には当然のごとく『モナ・リザ』がある。さっきと同じデザインの額縁に飾られ、ガラスで覆われていた。
小笠原は呆然と眺めるしかなかった。まるで変わらない......。亀裂もしっかりと入っている。違いなどいっさい見当たらない。駅構内で見た同じ広告ポスターを別の駅でも目にした、そんな感覚に似ていた。
二度目のせいか、絵の構図や細部にも関心が向く。モナ・リザの手の下に肘掛けがあることに、小笠原はようやく気づいた。それに背景。川が流れ、森の木々も描かれている。
「これって」小笠原は莉子にきいた。「屋外なの?」
「いえ。窓の前にいるのよ。柱の基台がわずかに見えるでしょう。絵のフレーミングがもっと大きければ、左右に立つ柱も描かれたはず」
「あー。そういえば『モナ・リザ』の左右は断ち切られているって説もあったね。どこかで読んだよ」
「ええ。でも噂は噂でしかないみたい。ルーヴルの発表によれば、木板の側面にも絵の具がはみだしているし、切断した痕跡はないそうよ」
いずれにせよ、額縁に嵌まっている以上はそこを検証するのは不可能だった。小笠原はつぶやいた。「色合いもまったく同じだね」
「そうね。でもこのセピアっぽい色は、おもに絵の具の黄変のせいよ。描かれてから五百年も経ってるし、後世の人々が保護用ニスを何度も塗り重ねたのも影響してる」
「偽物の場合は、変色後の色を絵の具で再現してるのかな」
「あるいは当時と同じように描いてから、人為的に化学反応を引き起こして黄変を生じさせたのかも」
ルーブルなら可能だろう。複製づくりにも予算をたっぷりかけられるだろうし、なにより本物が手もとにあって、いつでも参照できるのだから。
しばし絵に見いってから、莉子は立ち去りだした。小笠原は後につづいた。シュリー翼から、セーヌ川沿いに伸びるドノン翼に入る。
何人かの鑑定家たちとすれちがう。莉子は無言で頭をさげた。向こうも会釈を返してきたが、目は笑っていなかった。警戒するように一瞥をくれると、さっさと遠ざかっていった。
言葉を交わすのはルール違反だが、もし会話を制限されていなかったとしても、鑑定家どうしが語りあうことはないだろう。小笠原はそう思った。誰もがライバルという状況下においては、粛々と館内をめぐるしかない。
階段をのぼって二階にあがる。長い回廊の左右に展示された絵画はいずれも素晴らしく、数点だけでも大規模な展覧会が開けそうな有名な作品が揃っていた。
莉子がふと足をとめた。壁面のアーチを抜けて部屋に入っていく。小笠原もそれにつづいた。
この室内にも無数の絵画が掲げられているが、なぜか正面の壁にはガラスだけが取り付けられていて、そのなかには何も存在しない。
莉子が指さした。「本来はここに展示してあるの」
「あー......。するとこの部屋が〝モナ・リザの間〟か」
「前に来たとき、すごい人だかりでね。喜屋武先生が強引に掻き分けて前に連れてってくれたの」
「でもそれは贋作だったわけだね......」
「みんな撮影禁止の札を無視してフラッシュを焚き放題だったし、ルーブル側の気持ちもわからなくはないけど......。こうしてガラスのなかに何もないのを見ると、なんだか不思議な気分」
「ルパンにでも盗まれたみたいだね」
「ちょうど百年前にいちど盗みだされているのよ。二年ほどで発見されて戻ったけど」
「泥棒もこんなテストが実施されてる日に来たら、迷っちゃっただろうね」
そうね、と莉子は笑いながら踵をかえし、回廊に戻っていった。小笠原も歩調を合わせた。しばらく行くと、またオレンジいろのパネルにぶつかった。最寄りの『モナ・リザ』は階段をのぼって三階らしい。
その後も莉子は館内をめぐり歩きながら、パネルの案内に従って『モナ・リザ』に行き着いては、しばしの鑑賞にふけった。小笠原はひたすらついてまわった。莉子は腕時計に目を落とさず、特に時間を気にしているようにも見えない。だが九十分を経過した時点で五枚を消化したことを考えると、ペース配分は理想的といえた。小笠原がそのことを指摘すると、莉子は笑ってつぶやいた。窓の外に見える陽の傾きぐあいなら、少しは気にかけているから。
またシュリー翼に戻り、二階のギリシャ陶器のコーナーにあったオレンジのパネルを見て、六枚目の『モナ・リザ』の所在を知る。案内のフランス語の意味が判りにくいのか、莉子はしばらくその前にたたずんでいたが、やがて歩きだした。
古代ガラス展示室のなかに、六枚目の『モナ・リザ』があった。その鑑賞を終えたとき、残り時間は十五分を切っていた。最後の『モナ・リザ』を求めて先を急ぐ。パネルによれば、七枚目はふたたびドノン翼方面に戻らねばならないらしい。
頭部のない女神〝サモトラケのニケ〟像がたたずむ階段の踊り場付近に、最後の『モナ・リザ』が展示してあった。
小笠原は、ルーヴル側の底意地の悪さを感じていた。七枚はいずれも展示環境が大きく異なる。自然光が射しこんでいるところもあれば、照明を浴びている状況も、ただの暗がりという場合もあった。いずれも見え方が違うため単純な比較はできない。それぞれの距離が離れているのも、対象を見比べるのを困難にしている。なんにせよ、小笠原の目には七枚の絵はすべて同一としか思えなかった。
それでも、これだけ『モナ・リザ』ばかり繰りかえし観察すると、以前には見えていなかったものが見えてくる。小笠原は莉子にいった。「モナ・リザってニキビがあるんだね」
「成人だから吹き出物っていうべきかも」と莉子は笑った。「たしかに目頭と顎にそれらしきものがあるけど......。たぶん保護用ニスを塗るときに失敗したか、あるいは水が跳ねた痕よ」
「水が跳ねるって? こんな世界的名画に?」
「持ち主が転々と変わっているから......。フランソワ一世の浴室に飾られていたこともあったんだって」
「風呂に? 言語道断だね」
「ほんと。油彩画に湿気は大敵なのにね」莉子は絵に背を向けた。「さ、そろそろ時間。面接に行かなきゃ」
「どれか本物かわかったの?」
「さあ......ね」莉子は妙に軽い口調で告げた。「感じたままを伝えるだけ。アンケートへの回答も主観以外のなにものでもなかったんだし。いまも自分の直感に従うしかない」
面接
シュリー翼の三階は近代のフランス絵画で彩られていた。ブーシェやラ・トゥール、フラゴナールという画家の名前をきいても、小笠原は正直ぴんとこなかったが、莉子のようすは違っていた。ときおり絵の前に立ちどまりかけては、よほど後ろ髪をひかれるのか、苦悶の表情を浮かべてその場を歩き去る。じっくり鑑賞させてやりたいという親心も湧くが、小笠原にはそんな権限などありはしなかった。ただ黙ってついていくしかない。
面接会場の前室にあたる部屋には長い行列ができていた。小笠原も莉子とともに最後尾に加わった。列の消化は早く、どんどん進む。背後にも新たに並ぶ人々がいた。みな制限時間をフルに使いきってから、ここに足を運んだようだ。
鑑定家と、同伴記者のコンビが一緒に呼びこまれるらしい。小笠原たちの番がきた。莉子を先に行かせ、その後につづいて部屋に入る。
そこは展示室ではなく、高い天井を備えた八角形の部屋だった。ステンドグラス風の明かりとりの窓から、赤く染まった夕陽が射しこんでいる。年代ものの長テーブルには十人以上の男女が並んで着席し、揃ってこちらを見つめていた。全員が白人だった。オディロン・ボワイエは一番端にいて、書類に目を落としている。
ひとりの男性がなにかを告げた。ぼそぼそと厳かに喋るさまは、まさしくフランス映画のダイアローグのようだった。
莉子がそれに応じる。彼女のフランス語は、意味はわからないものの非常に流暢に思えた。リンダ・リコ、オガサワラ・ユウト、シュウカン・カドカワという単語がききとれた。自己紹介をしているらしい。
ボワイエは無言のまま書類を眺めていた。別の男性が莉子に語りかけた。質問をしたらしい。莉子はフランス語で答えた。
彼女が喋っていたのは、二十秒か三十秒ぐらいだろうか。言葉を切った後、室内はしんと静まりかえった。フランス人たちは無反応だった。表情ひとつ変わらない。
やがて男性がペンを走らせながら、短くなにか告げた。その最後の単語だけは小笠原にも理解できた。オールボワール。〝ごきげんよう〟だった。
手ごたえのなさを感じたのか、莉子の表情が一瞬だけ曇った。しかし、別れを告げられた以上、もうこの場に留まれる雰囲気ではない。莉子もそれを察したらしく、深々と頭をさげた。入ってきた方向とは逆の通用口に歩きだす。
部屋をでた。そこはひとけのない長い回廊だった。
彼女が落ちこんでいるのなら、勇気づけてやりたい、莉子を追いかけながら、小笠原はあえて冗談めかせた口調で話しかけた。「『週刊角川』です。凜田先生、インタビューをお願いしたいんですが」
莉子は歩を緩めなかったが、苦笑いとともに応じてきた。「なんなりとどうぞ」
「本物の『モナ・リザ』はどこにあるとお答えになったんですか?」
「ここの下」と莉子は答えた。「シュリー翼の二階、ギリシャ陶器が飾ってあった部屋よ」
「ギリシャ陶器......?」小笠原は首を傾げた。「へんだな。あの辺りに『モナ・リザ』はなかっただろ? シュリー翼なら古代ガラス展示室と、一階の〝カリアティードの間〟だけだし......」
「違うのよ。七枚の『モナ・リザ』はぜんぶ偽物」
「えっ」小笠原は驚きを禁じえなかった。「じゃあどこに......。あ、まさか......」
「そう」莉子は足をとめた。「ギリシャ陶器の展示室にはパネルがあったでしょ」
「あの道案内のパネルかい? 『モナ・リザ』の縮小写真が斜めに掲載されてた」
「それが写真じゃなかったとしたら?」
「待ってよ。本物の絵画がパネルに嵌めこんであったとでもいうのかい? そんな乱暴な取り扱いをルーヴルが......」
「ふだんも絵を額縁におさめて飾るんだから同じことよ。パネルの上のほうに、絵のサイズにぴたりと合う開口部をこしらえて、慎重に嵌めるだけ」
「パネルの写真はひとまわり小さかったじゃないか」小笠原は両手を広げてみせた。「本物の『モナ・リザ』の大きさは、だいたいこれぐらい......」
「縦七十七センチ、横五十三センチよ」
「パネルの写真はどう見てもせいぜい縦五十センチ、横三十センチぐらいだったろ」
「いいえ」莉子はきっぱりといった。「最初から変だと思っていたのよ。あのパネル、写真のそれぞれの辺に平行した線が、広く間隔をおいて引かれて、四角形に縁取られてた。あれは錯覚を生む図形、いわゆるデルブーフ錯視の応用よ。オレンジと黒の組み合わせも、絵を小さく見せるための配色。高い位置に掲げてあるから手も届かないし、距離があるからより縮小して感じられる」
「錯覚だったってのか? そんな馬鹿な。見間違いなんかじゃないよ。あれは縮小写真だ」
「小笠原さん、日本の街なかにある信号機がどれくらいの大きさに見えてる? 赤黄青の三色のランプはいずれも直径三十センチ、信号機そのものの横幅は一メートル二十五センチもあるのよ。対象のサイズを測るのに、人間の目ほどあてにならないものはないわ」
「......だとしても、どうしてそれが本物だったと断言できる?」
「さあ、そこは......。あの一枚だけ違っていると感じただけよ。胸の奥にまで沁みいってくるような情動っていうか、自発的に昂ぶる激情と呼ぶべきか。口もとのかすかな笑みも神秘的だったし。ほかのは微笑っていうより嘲笑を浮かべているように見えたんだけど。そう思わない?」
「さっぱりわからないな。要するに勘だけを頼りに回答したのかい? あの学芸員たちの反応は、正解にしちゃずいぶん冷やかに見えたけど」
「んー」莉子は顔をしかめた。「そこは否定できないね......。なんか、やっちゃった感に溢れてたかも。合ってると思ったんだけどなー」
小笠原は笑った。「なんにしても、お疲れさま。百人ぐらいの候補者に選ばれただけでも名誉なことだよ。おかげで僕も貴重な体験をさせてもらったし」
そうね、と莉子は諦めに似た微笑を浮かべた。「正解は教えてもらえるのかな。もしそうなら、楽しみ」
歩きだした莉子の後ろ姿を眺めて、小笠原は思った。彼女の物怖じしない振る舞いは、それだけで尊敬に値する。記事にも充分に反映させよう。帰国後の編集会議で、なんとしても見開きページの特集を成立させよう。百人のなかのひとりといえど、ルーヴルが彼女の鑑定眼に期待しパリにまで招いたのは、紛れもない事実なのだから。
結果発表
テストが終わり、莉子はほかの鑑定家らとともにルーヴルの外へ送りだされた。
すでに日が沈み、彼方に見えるエッフェル塔は黄金いろにライトアップされていた。リヴォリ通りを渡ってすぐ、馬にまたがったジャンヌ・ダルクの像がある。ベル・エポックの時代そのままの、ヨーロピアンスタイルの建造物のエントランスに、鑑定家たちは誘われていった。
レジーナ。パリの名門ホテルだった。ロビーは一見して豪華で、アール・ヌーヴォー調の家具とクラシカルな内装が絶妙にマッチし、独特の風格を漂わせている。
レストランで全員が揃っての食事会が催され、莉子は小笠原と並んで座った。丸テーブルに同席したほかの鑑定家令記者らと歓談したが、本物の『モナ・リザ』がどこにあったかについては意見が分かれた。写真を装ってパネルに嵌まっていたという莉子の発言は、冗談に受け取られたらしい。大笑いの末、誰もがたずねてきた。で、本当はどこにあると答えたんだね?
莉子は沈みがちな気分で部屋に向かった。記者の宿泊先はこのホテルではないらしく、小笠原はバスでほかの場所に連れていかれたが、鑑定家の待遇はそれよりずっと良かった。ひとりにつきひと部屋ずつあてがわれ、荷物も運びこんであった。
ルイ十六世スタイルの壮麗な内装を誇る部屋は快適で、バルコニーからの眺めも素晴らしかったが、莉子は夢中になれなかった。ひとり眠れない夜を過ごした。
チャンスを棒に振った......のだろうか、でも、わたしは純粋に感じたままを答えただけだ。恥じることはない。これがいまのわたしの実力なのだろう。
パリの日没は遅くとも、夜明けは日本とほぼ変わらなかった。七時過ぎ、眠い目をこすりながら下りのエレベーターに乗った。
鑑定家たちが朝食をとるためにレストランに集まっていた。記者たちも戻ってきている。ロビーで莉子は小笠原と再会した。
おはよう、と小笠原はいった。「よく眠れた?」
「どうかな......。小笠原さんは?」
「それが、僕らが泊まったのはこことは比べものにならない安宿だったし、三人ずつの合部屋でね。しかも日がのぼる前にチェックアウトさせられたよ」
「わたしたちはまだこれからだけど......。昼過ぎには空港かぁ。なんだか、悔いを残す旅ってことになりそう」
そのとき、きのうもルーヴルにいた日本人通訳が声をかけてきた。「凜田莉子先生。それに『週刊角川』の小笠原さん。少しお時間をいただけますか」
小笠原がきいた。「なんですか」
「こちらへどうぞ」通訳はそういって、エントランスから外にでていった。
なんだろう。莉子は首をひねりながら、小笠原とともに通訳の後を追った。
パリの中心街は朝のラッシュ時を迎えていた。おびただしい数のクルマがほとんど間隔もあけずに交差点を駆け抜けていく。その急流が信号によって遮られる。通訳は横断歩道を渡りだした。ルーブルに向かっているらしい。
広場を横切ろうとしたとき、一匹のチワワが駆けてきた。リード線をひきずっている。飼い主から逃げだしてきたようだ。
小笠原が素早くその小さな身体をつかまえて、抱きあげた。「よーしよし。どこから来たんだ? 日本語わかる?」
すると、ナイトドレスに毛皮を羽織った白人の老婦が、小走りに駆けてきた。
「センキュー」と老婦は英語で告げてきた。「フォー・キャッチング・マイ・ドッグ」
イギリス風の発音だと莉子は思った。小笠原は愛想よく笑いながら、チワワを老婦に引き渡した。
老婦は何度も礼を口にしながら歩き去っていった。その行く手で、全身黒ずくめのいかつい男たちが老婦を迎えていた。リムジンの後部ドアを開け、老婦は車中に消えていった。
「誰だろ」小笠原はつぶやいた。「高貴な人かな」
「さあね」と莉子はいった。「イギリスのご婦人がパリで犬の散歩。めずらしいことなのかな。よくわからないけど」
開館を待つ団体客らがすでにピラミッド前に列をなしている。莉子たちはその脇を抜けて歩きつづけた。通訳は正面のシュリー翼へと先導していく。
警備員が立つゲートから館内に入った。大階段をのぼってブロンズと装飾工芸品の展示室を通り過ぎる。清掃員の姿をちらほら見かける以外、無人の部屋がつづいた。
しかし、ギリシャ陶器の展示室が近づいたとき、行く手がにわかに騒がしくなった。ずいぶんにぎやかだ。妙に思いながら部屋に足を踏みいれる。
莉子は面食らわざるをえなかった。この一室だけ、大勢の人間がひしめきあいながら忙しく立ち働いている。
「そっとだ」ひとりのフランス人が頭上に目を向けていた。「時間はかかっても構わん。決して無駄に力をこめるな」
「ああっ!?」小笠原が驚きの声をあげた。
例のオレンジ色のパネルに、いくつもの脚立が這わせてある。作業員はビニール製のつなぎで全身を覆い、脚立にのぼっていた。まるで遭難者の救出劇のごとく慎重に両手を差しのべて、絵画を取り外しにかかる。
パネルから抜き取られたとたん、『モナ・リザ』は本来の大きさに戻ったように見えた。保持している作業員の背丈と視覚的に対比できるせいだろう。
作業員は世界的名画を抱えて、ゆっくりと脚立を下りてきた。学芸員たちがそれを受け取り、テーブルの上にそっと寝かせる。ルーペで細部のチェックに入った。損傷の有無を調べているようだ。
莉子はテーブルに歩み寄った。
木板の厚みは一センチほどあった。噂とは違い、絵の具は側面まではみだしてはいなかった。むしろ縁までは描かれず、額に隠れる部分はほとんど塗ってもいない。しかしそのおかげで、左右が断ち切られていないことは一見してわかるのだから、やはり俗説は間違っている。一時は下部の腐食がひどかったときくが、充分な修復がなされ綺麗になっていた。
持ちあげられたとき、裏がちらと見えた。上部に入った亀裂に、ふたつの蝶型の金具を打ちこみ直してあった。上のほうの金具は紛失してしまったらしい。うっすらと赤いスタンプは王立美術館、316という数字も読みとれる。王室コレクションとしての番号のようだ。ほかに左上に、ジョコンドという筆記体の走り書き。その隣りにはフランス語の文章、さらに中央付近にH29なる手書き文字があった。何を表しているかは不明だった。
モナ・リザ......。その微笑みがいま目の前にある。
これぞ間違いなく真作、本物だと莉子は思った。時代を経た質感のせいばかりではない。眺めるうちに本来の色が思い浮かぶ。描かれた当時の艶やかな色彩が蘇ってくる。一般に知られているよりふくよかで若々しく、健康的な婦人の姿がある。いまにも絵から抜けだしてきそうだ。
すっかり心を奪われて見いっていると、視界にひとりの男が入ってきた。
「失 礼」オディロン・ボワイエはフランス語で告げてきた。「凜田莉子先生。おめでとうございます。学芸員一同を代表して祝福させていただきます」
「じゃあ......」
「そう。見てのとおりです。あなたのご指摘のままでした。合格者はたったふたり。凜田先生は、そのうちのひとりです」
喜びを伴う衝撃はめったにない。いまがその瞬間だと莉子は悟った。
「ほ、ほんとに?」莉子はうわずった自分の声をきいた。「嘘......。まだ信じられない。わたし、ゆうべさんざん馬鹿にされたんですよ。パネルに嵌まってるわけがないって」
するとそのとき、ひとりの若い女性の声がした。「同じですね。わたしもディナーの席で笑われましたよ」
訛りのあるフランス語、日本人だとわかる。ボワイエの肩ごしに、すらりとした長身の女性が立っていた。年齢は二十代後半から三十歳ぐらいか。高価そうなスーツをまとい、長い黒髪をファーつきのコームで美しくまとめあげている。ペンダントはブルガリ、ハンドバッグはエルメス。いずれも本物だったが、成金にありがちな嫌味はかけらもなかった。知性溢れる端整な顔つきのせいかもしれない。大きく見開かれた瞳は自信に溢れていた。
ボワイエがいった。「紹介しましょう、こちらがもうひとりの合格者です。マドモアゼル・リサ」
「流泉寺里桜です。はじめまして。よろしくね、凜田先生」
「あ、はい......」莉子は戸惑いがちに応じた。「こちらこそ」
通訳が割って入り、書類をめくりながら日本語で告げてきた。「流泉寺先生は東京芸術大学の非常勤講師兼、特別研究員で、国立民族学博物館の共同研究員でもあります。流泉寺先生、こちらの凜田莉子先生はですね、ええと......飯田橋で万能......」
略歴のあまりの格差に、莉子は顔面が紅潮するのを感じた。あわてながらフランス語で遮る。「光栄です。ボワイエさん、流泉寺先生。そのう、先生はどのようにして、このパネルの『モナ・リザ』が本物とお気づぎになったんですか?」
里桜は目を丸くしてから、くすりと笑った。「正解したあなたが尋ねるなんて......。確証はなかったけど、おおむねリシャール・ブレ氏の定義どおりです。その絵画の持つ抗いがたい魅力を理解し、心に感じる。『モナ・リザ』はいまではこんな姿ですけど、ダ・ヴィンチが描いた当時はもっと明るく鮮やかな色彩でした。しかし贋作のほうは、最初から現在の色合いを再現することが目的になっているので......」
「本来の絵にあったはずのグラデーションの計算が見えてこない。自然にこめられるはずの、作者の魂が感じられない」
「そう! 共感してくれる人がいて嬉しい。なにしろボワイエさんですら、肉眼による鑑定に比重を置くべきでないとお考えだし」
ボワイエは苦笑いを浮かべた。「私はブレのような才能に恵まれなかったのでね。感受性を頼りに真贋を推し量るなんて、まるっきり理解不能です。あなたたちがうらやましいですよ」
「それ、ラファエッロのときにもいってませんでした?」
「ああ。そうでしたね」ボワイエは莉子を見つめてきた。「おととし日本でラファエッロ展が開かれたでしょう? あのときも事前に能力テストをおこないましてね。合格者三名のうち一名が流泉寺先生だったんです」
里桜はすました顔を莉子に向けてきた。「『美しき女庭師』の本物と偽物を見分けるって課題でした。今回みたいに、パネルに嵌めるなんて意地悪がなかったぶん、スムーズでしたけど」
にやりとしてボワイエがいった。「三名にはラファエッロの専門家のレクチャーを受けていただきました。つまりマドモアゼル・リサが臨時学芸員となるのはこれで二度目です」
二度目......。里桜は疑う余地のないインテリだった。そんな彼女と肩を並べられるなんて。
ボワイエは告げた。「よろしいですか。おふたりは日本に帰国後、リシャール・ブレの講義を二か月にわたって受けていただき、名実ともに『モナ・リザ』の専門家になっていただきます」
莉子はきいた。「ブレ氏は来日後、どちらにご滞在になるんでしょうか」
「ええと」ボワイエは懐をまさぐり、二枚の名刺大のカードを取りだした。「これらが正式な案内状です」
里桜が受け取り、一枚を莉子に渡してきた。莉子はカードを見た。フランス語でメッセージが印刷してある。
合格おめでとうございます。一緒に『モナ・リザ』をめぐる知性の旅にでましょう。ご帰国後、下記にご連絡ください。ルーヴル美術館学芸員リシャール・ブレ。最後の行には〇三の市外局番で始まる電話番号と、メールアドレスがあった。
「ああ」里桜がカードに目を落としながらつぶやいた。「ラファエッロの講義のときと同じ連絡先ですね」
「そうです」とボワイエはうなずいた。「東京都港区六本木七丁目。ルーヴルが所有する研究施設なので」
里桜は莉子を見つめてきた。「閑静な一軒家です。国立新美術館のそば。東京メトロ千代田線の乃木坂駅がいちばん近いかな」
「へえ」莉子は思わず笑った。「通いやすい場所にありますね」
ボワイエがいった。「ブレは来週の月曜に日本に行くそうです。電話とメール、どちらでもいいので、ご都合のよいときにおふたりから連絡をいれてください。ブレは私と同期のきさくな男で、スケジューリングにも柔軟に対応してくれますよ」
別の学芸員がボワイエに声をかけた。ボワイエはうなずくと、莉子と里桜に微笑みかけた。「では『モナ・リザ』を元の場所に戻さねばなりませんので、これにて失礼します。おふたりともご好運を」
そういってボワイエが立ち去ると、里桜がほっとしたようすで日本語に切り替えた。
「フランス語って大変」
「ほんとですね」莉子は里桜と笑みを交わし合った。
小笠原が歩み寄ってきた。「いやぁ、まさか凜田さんのいったとおりだったなんて......。驚きだよ。合格したんだね、凜田さん。すごいよ。おめでとう」
その言葉でようやく莉子は、自分が快挙を成し遂げたと実感した。
胸が熱くなる。なにもかも夢のようだった。わたしは偉大な一歩を踏みだした。人生が大きく変わりつつある。輝ける未来が両手を広げて待ってくれている。
真作のために
流泉寺里桜は美術大の講師を勤める父と、ピアノ教師の母のもとで育った。厳格な両親の教育もあって、早いうちから芸術の道を歩むと心にきめていた。
芸術作品にまやかしがあってはならない。それが里桜のモットーだった。日本で『モナ・リザ』展が開催されるのなら、すべての来場者に本物の『モナ・リザ』を観てもらう。十六世紀にレオナルド・ダ・ヴィンチが描いた真作のみを人の目に触れさせる。贋作、偽物の類いはいっさい排除。臨時学芸員のひとりに選出されたからには、断固としてその使命を貫いてみせる。
固い決意とは裏腹に、里桜がたたずむ都心の歩道上は冷たい風が吹きすさんでいた。思わずロングコートの襟をたぐり寄せる。暦のうえでは初夏も近いというのに、この寒さは尋常ではない。パリのほうがいくらかましに思えた。空は厚い雲に覆われ、いっこうに陽の差す気配はない。
それでも並木の桜はとうに散り、緑葉をつけて久しい。美術館の外壁に見える時計は午前八時五十三分、少しばかり早く来過ぎただろうか。
すると、いまや耳に馴染みつつある凜田莉子の声がきこえてきた。「あー、里桜さん。もう来てたんですか。ごめんなさい、お待たせしちゃって」
里桜は振りかえった。乃木坂駅の出口階段から駆けだしてくるふたりの姿がある。ファーつきのツイードジャケットにムートンブーツの莉子と、スーツ姿の小笠原悠斗だった。
「いいのよ」と里桜は返事した。「まだ待ち合わせ時間の前だし。でも来てくれて助かったわ。凍りつきそうだったから」
帰国して数日間、ふたりで一緒にいることが多かったせいか、距離はぐっと縮まっていた。とりわけ文化庁での記者会見を終えてからは、里桜は莉子を妹のように感じていた。東京芸大出身の友達は大勢いるが、莉子のようなタイプは出会ったことがない。飯田橋に店を持つフリーランスで、美術鑑定についても独学で勉強してきたと知ってからは、いっそう愛おしく思えてきた。ときおりみせる女子大生のような素人っぽさも新鮮だった。いつも明るくて、人なつっこい猫のようでもある。全身に魅力が溢れているにもかかわらず飾りっ気がない。誰からも好かれる性格というのは、まさしく莉子のことをいうのだろう。
三人のなかでは最も薄着の小笠原は、いかにも寒そうに身を縮こまらせていた。「おふたりとも、もう有名人なんだからタクシーで移動したら? 電車通勤は僕らのようなサラリーマンの移動手段ですよ」
莉子は微笑した。「新聞に小さく写真が載ったくらいじゃ有名にはならないわよ。けさも車内で誰も気づかなかったでしょ?」
「わたしも」と里桜もうなずいてみせた。「身内の反応とか薄すぎて案外拍子抜け。それはそうと、小笠原さん。コートは?」
「一着しかないのにクリーニングにだしちゃったんで」小笠原は鼻をすすった。
里桜はスーツを眺め渡して、直感したことを口にした。「毎朝、駅まで二十分以上は歩くでしょ? コートを新調したら?」
小笠原はぽかんとした顔で見かえしてきた。「どうしてわかるんです? どこに住んでるか話しましたっけ?」
莉子は、里桜の視線がどのあたりをさまよったか観察していたらしい。「上着の右ポケットの蓋よ。小さく空いてる穴はiポッドのコードを通すための仕様でしょ。二年ぐらい前から発売になったスーツよね」
さすが莉子。里桜はうなずいてみせた。「穴が開ききってるでしょう。使いこまれているだけじゃなくて、縫い口がほつれてきてる。さっき電車通勤してるっていってたけど、二年間、車内でじっとして音楽を聴くだけならそこまでにはならない。徒歩の移動距離が長いってことね」
すると莉子が後をひきとった。「飯田橋駅から角川書店までは十分足らずでしかないから、自宅をでてからしばらく歩くと判断できるの」
小笠原は莉子と里桜の顔をかわるがわる見て、感嘆の声をあげた。「怖い人がふたりに増えたか。なにもかも見透かされちゃいそうだね」
里桜は笑った。「偶然よ。弟が同じようなスーツを持ってただけ」
「それでも抜群の観察力と思考力ですよ。鑑定家に必須の素質なのかな」
すなおな青年だと里桜は小笠原について思った。記者にありがちなずうずうしい態度をとらないし、終始礼儀をわきまえている。莉子のように頭の回転の速い女性が信頼を寄せているのもわかる。小笠原は莉子のよきサポート役といえた。ふたりの仲がどれだけ深まるかは、いまのところ未知数であるが......。
公園の時計に目を向けた。午前九時まであと三分。
里桜は莉子にいった。「そろそろ行きましょう。すぐ近くだし、ちょうど九時に着きそう」
「はい」莉子はハンドバッグから紙片を取りだした。「場所は知ってます。ブレさんが地図をメールしてくれましたから」
「じゃあ、もう連絡済みね?」
「電話でもごあいさつしました。ボワイエさんがいってたとおり、親しみやすい感じの人みたいですね」
「ラファエッロ展のときには別の学芸員だったから、わたしもきょう初めて会うの。楽しみね」
そういって歩きだすと、小笠原もついてこようとした。
莉子が困惑ぎみに押しとどめる。「小笠原さん。ここからはわたしたちふたりきりで」
「え?」小笠原は面食らったようすだった。「そうなの?」
「メールに書いてあったのよ。講義をおこなう場所の詳しい所在は、部外者には秘密って」
里桜も小笠原に告げた。「ルーヴルの方針なんです。ごめんなさい」
小笠原は肩をすくめた。「そういうことなら仕方ないな。凜田さん、頑張ってね。流泉寺さんも。そのうち、許される範囲でいいからお話をきかせてください。じゃ、また」
莉子が手を振る。「ありがとう、小笠原さん。あとでメールするね」
暖かい地下に逃れられるのは、小笠原にとってそれなりに悪いことではなさそうだった。笑顔でおじぎをして、小走りに階段に駆けこんでいった。
思わず莉子と目が合う。莉子が笑うと、里桜もつられて笑った。
「じゃあ」里桜はいった。「行きましょうか」
「はい」莉子は明るく応じた。「二か月間よろしくお願いします。『モナ・リザ』に日本一詳しい鑑定家になりましょう。無事に真作をお披露目するために」
そうね、里桜は心から同意した。
莉子と一緒なら、どんな重責だろうと全うできる気がする。本物の『モナ・リザ』を公開するために万難を排し正義を貫く鑑定家の使命に、彼女は共感してくれるに違いない。きっと成功する。二か月後には、展覧会に来たすべての日本人が本物の感動に触れることだろう。
講義
莉子は国立新美術館と東京ミッドタウンのサントリー美術館を訪ねたことはあったが、その中間、外苑東通り沿いの住宅地は初めてだった。
住所は港区六本木七丁目三十三番八号。グーグル・アースでも調べておいたし、ブレがメールに添付してくれた地図も同一の場所を指していた。なにより、前にもそこで講義を受けた里桜が一緒にいる以上、道に迷うはずもなかった。
閑静な住宅街。緑豊かな庭を持つ豪邸が連なっている。表通りから一本入った四軒目、屋敷はすぐに見つかった。ネットの航空写真でも見たとおりのエンジいろの屋根を備えた洋館風の三階建て。瀟洒な門柱に嵌めこまれた住所表記も33-8。表札はでていなかった。
里桜が手袋をはずす。コーディネートのセンスも抜群に感じられる里桜は、手袋ひとつにもこだわりをみせていた。艶消しの黒だが指先のみグレーのツートンカラー。彼女の着るコートとマフラーも同じ配色になっている。
手袋をポケットにしまいこむと、里桜はチャイムのボタンを押した。一拍置いて、厳かな鐘の音が屋敷から響いてくる。インターホンの返事はなく、門扉が自動的に開いた。リモコン式らしい。
ふっと笑って里桜がつぶやいた。「フランスの人って、初対面のお客さんでも平気で招きいれるの。前の講義でも、期間中に訪問販売が何度もあがりこんだけど、それでも懲りないのよ」
莉子は苦笑した。「せっかくルーヴルが秘密にしてる住所なのに、警戒心薄過ぎですね」
「ほんとにね」里桜は門を入っていった。「美術研究家って専門分野以外のことにはずぼらだから。ここも半ば公になっているようなものよ」
里桜につづいて庭を歩きだす。都心の戸建てだけに、西洋の邸宅に比べれば手狭だろうが、小規模ながら平面幾何学式のフランス風庭園が忠実に再現してある。とりわけ歩道を軸とし左右対称にひろがる花壇にその特徴が強く見られる。シュノンソー城の庭園をミニチュア化したかのようでもあった。歩道の交差位置に申し訳ていどの芝生地帯が設けられているのも微笑ましい。
洋館の扉の前に着いた。石造り風の外壁だが、タイルを貼っているだけで木造のようだった。日本に建てるのならそれが正解だろう。
ノックするより早く、扉が開いた。姿を現したのは、さほど背の高くない、しかし痩せ細った男性だった。
額は禿げあがり、もみあげは妙に長い。くぼんだ目と異常に高い鷲鼻、突きだした下唇、いちど会ったら忘れられない顔だった。スーツで登場するかと思いきや、ワイシャツとネクタイが覘くVネックのセーターを身につけている。ボワイエと同期なのだから三十代だろうか、その服装のせいで十歳ほど老けて見える。
気難しそうに思えたが、それも一瞬のことだった。すぐさま満面に笑いが浮かび、電話でも耳にした陽気なフランス語で話しかけてくる。「おはよう、わが才覚溢れる生徒たち! 歓迎するよ、マドモワゼル・リサにリコ。ええと、どちらがどちらかな」
莉子は里桜と顔を見合わせた。思わず互いに笑みがこぼれる。なるほど、気さくな先生だった。
里桜がいった。「はじめまして。流泉寺里桜です。こちらが凜田......」
「あー!」大仰なほどの反応がかえってきた。「ラファエッロのときにも臨時学芸員を務めたんだってね。講師だったエリックが誉めてたよ、里桜ほど優秀な人材には会ったことがないって。それと、きみが莉子か。まさに彗星のごとく登場だね。独学でここまで来るとはすごいな。きみの感受性こそ本物かもしれん。学芸員のリシャール・ブレだよ。どうぞよろしく」
ようやく差し仲べられた手を握り、莉子は恐縮しながらいった。「どうも......お会いできて光栄です。ブレ先生」
ブレはつづけて里桜とも握手を交わすと、踵をかえしながら手招きした。「早速入ってくれ。前からオディロンとも話してたんだが、あの『モナ・リザ』の真贋を直感しうる人間とはすなわち、天使のように純粋な心の持ち主で、女神のごとき美の理解者に違いない。きみらにはその素質があるってことだ」
そのいいまわしはボワイエの著書で読んだ。彼は同僚のブレがよく口にする言葉を引用していた。莉子だけでなく多くの鑑定家にとって、学芸員リシャール・ブレの人物像とはそのボワイエの記述で窺い知るのみだった。マスコミに頻繁に顔をだすボワイエと違い、ブレは若くして隠遁者の印象があった。いま、わたしはそのブレと出会い、少なくとも毛嫌いされることなく迎えられた。ひとまずはほっと胸を撫でおろしたい心境だった。
里桜とともに屋敷のなかに入る。外観のみならず、内部も本格的な洋館だった。玄関はそのまま吹き抜けのホールにつながっていて、庭と同様に二極一対のスロープと螺旋階段が階上へといざなっている。高窓のステンドグラスからほのかな自然光が射しこみ、チーク材をふんだんに用いたクラシカルな内装を照らしだす。ロココ調のマントルピースに大理石の焚口。壁や天井の漆喰装飾と彫刻の数々。ホールの眺めひとつをとっても芸術と呼ぶにふさわしかった。
莉子はきいた。「ブレ先生は日本に滞在中、こちらにお住まいなんですか」
「そうだよ」ブレは愛嬌たっぷりに首を横に振った。「一階のその扉の向こうが僕の居住空間でね。キッチンの食器を扱うときにはくれぐれも慎重にといわれてる。高価な物じゃないが、ルーヴルの備品なんでね」
里桜が莉子にささやいてきた。「使用人とかは特にいないの。前の講師は買いだしも自分で行ってたし、独り暮らしの家主を訪ねる感覚だったわ」
ブレは声をあげて笑った。「エリックらしいな。僕も同様だよ。きみらに使い走りをさせたりするもんか。ふたりの部屋は二階。それぞれひと部屋ずつの個室で、浴室と洗面室も自分用のがある。ホテルのように快適に暮らせるよ。きょうはまだ本格的な講義には入らないから、各自いったん家に帰って、着替えや生活に必要な品をとってくるといい」
「え?」里桜は驚きのいろを浮かべた。「あのう、ブレ先生......。ラファエッロの講義期間も、たしかに住みこみも同然に朝から晩までここにいることもありましたし、徹夜がてら泊まったりもしましたが......。着替えまでは必要ないのでは?」
「ふむ」ブレはすました顔で里桜を見た。「ラファエッロは何歳まで生きたかね?」
「三十七歳......」
「ではダ・ヴィンチは?」
「六十七歳。文献によれば、ですが」
「そのとおり。絵画を理解するには描き手のすべてを知る必要がある。ふたりの画家は、この世に生きた歳月だけでもそれだけの差がある。長生きしたレオナルドについて学ぶほうが当然、時間を要する。さらに、優雅で調和のとれた画風のラファエッロに対し、ダ・ヴィンチは非常に個性的で、思想的にも深く、謎に包まれた部分が多い。僕は、これまでの研究で知りえたあらゆることを教授したいと思っているが、二か月という期間はあまりに短い、だから寝る間も惜しんで学ばねばならない」
里桜は沈黙していた。莉子も同様だった。生温かい社交辞令は終わり、覚悟を突きつけられた。その瞬間だった。
ブレは真顔で里桜と莉子をかわるがわる見つめたが、やがて微笑を浮かべた。「なにも幽閉しようというんじゃないよ。出入りは好きにおこなっていいし、一日の課題をこなしたら帰っていい。でも、ノルマはきちんと果たしてもらおう。一週間ごとに知識と技能の両面において試験をする。こちらの求める水準に達しなかったら、悪いがルーヴルに連絡をいれさせてもらう。ルーブルは研修期問中もきみらに報酬を支払う約束をしているし、投資したぶんの見返りを求めるのは当然だ。最悪の場合は解任もありうる。そこのところ、肝に銘じてもらいたい。僕も全力で教えるからね、ついてきてほしいんだよ」
「は」里桜はあわてたようすで声を張った。「はい。頑張ります」
「......莉子は?」とブレがこちらに目を向けできた。
莉子はびくっとして返事をした。「わたしも......。そのう、努力します」
今年に入ってからすでに、波照間島への帰郷と台湾行きで一週間ほど店を留守にした。その前はステファニー出版への勤務で四か月も休業した。
そしてこれから二か月、またも店を閉めざるをえない。本業を疎かにしてばかりだ。ロスタイムを挽回するには、ここで成果を挙げるしかない。『モナ・リザ』展の臨時学芸員として最大限の責務を果たすこと。次に職場復帰するときには、その気高い誇りを胸に抱いていたい。
独占取材
小笠原は寒空のなかを角川書店本社ビルに駆けこんだ。
ロビーは午前中から大混雑だった。大勢の社員がデスクや椅子などの備品を次々に運びだしている。
本社を富士見一丁目に移転する六月が迫るにつれて、社内はあわただしさを増していた。業務に支障のない部署から早々に倉庫への搬出を始めている。じきに、うちの編集部も引っ越しの喧騒に巻きこまれるのだろう。移転後のフロアはずいぶん狭くなるときいている。荻野編集長は木製のエグゼクティヴ風デスクと熱帯魚の水槽は手放さないと力説しているが、果たしてどうなることやら。
エレベーターで七階にのぼり、通路の突きあたりの扉を押し開けて『週刊角川』編集部に入る。いつものようにデスクを埋め尽くす先輩記者たちは、こちらに目もくれずそれぞれの仕事に従事し......。
いや、きょうは様相が異なる。小笠原は面食らった。フロアに足を踏みいれたとたん、編集部内は静まりかえった。誰もがいっせいに視線を向けてくる。
なんだ? どうして俺は注目されている。また何かやらかしてしまっただろうか。
ぎょろ目の同僚、宮牧が駆け寄ってきた。「おい、小笠原。おまえ、とんでもないことになったな」
「な......なんだよ。まさか映像事業局の宣材課に飛ばされるって話か? 課長に気にいられたのは知ってるけど、看板の管理だけで一生を終わりたくないよ」
「あん? そんな話じゃねえよ。うらやんでる俺をからかうつもりか」
......意味不明だ。宮牧は何がいいたいのだろう。
そう思ったとき、編集長の怒鳴り声が飛んだ。「小笠原! ちょっとこい」
は、はい。周囲のデスクの注目を一身に浴びつつ、小笠原はそそくさと荻野のもとに走った。
黒革張りの椅子に身をうずめた、細身ながら目つきのすわった白髪頭の男。それが編集長の荻野甲陽だった。荻野は一枚の便せんを投げて寄越した。「おまえ、パリで何をしてきた」
小笠原は便せんを手にとった。光沢のある紙に、びっしりと英文が印字してある。浮き彫りになった金のロゴは獅子のマークと、デザイン化された British Royal Family の文字から構成されていた。
「なんですか。これ」小笠原はつぶやいた。
「イギリスにおける広義の王族のひとつ。エインズワース公爵オーガスト王子の子供とその一族と、つながりがあるのか。おまえ」
「......西池袋三丁目のワンルームマンション暮らしの僕がですか。あるわけないでしょ?」
「向こうは知り合いだといっとる。公爵夫妻の長女で、現在六十七歳のカサンドラ・メイスフィールド女史が、ルーブル美術館を散歩中におまえとばったり会ったそうだ」
カサンドラ......。立教大をでていても学識に自信のない小笠原の頭に浮かんだのは、北斗神拳伝承者が殴りこみをかけた牢獄と、迎えうつウイグル獄長の姿だけだった。
やがて、ぼんやりと記憶のなかに想起されるものがあった。足もとに駆け寄ってきたチワワ。それを追いかけてきた、高貴な装いの老婦人......。
「あ」小笠原は思わず声をあげた。「あの人ですか」
「メイスフィールド一家は女王エリザベス二世と親交が厚く、王位継承や王族の結婚問題に関しても意見を求められることが多い。ゆえに世界じゅうのマスコミが取材を申しこんでいるが、めったにインタビューを受けないことで有名だ。その一家が、お忍びで来日中だと知らせてきた」
「へえ......。日本にきてるんですか」
「手紙によれば『週刊角川』の小笠原という記者の同行取材のみ受け付けるそうだ」
「え?」小笠原は驚きを禁じえなかった。「な、なんです。それ。どうして僕に」
「こっちがききたいぐらいだ。おまえ、パリでは凜田先生に付きっきりで取材してたんじゃなかったのか。どこをほっつき歩いてた」
小笠原は絶句せざるをえなかった。逃げたチワワを捕まえてあげた、たったそれだけの親切で、俺に信頼を寄せたのか。だとすれば、王族とは奇特な人種に違いない。
首をひねりながら小笠原はつぶやいた。「どうして僕の勤務先が......」
「おまえと出会った直後にルーブルに問い合わせたらしい。通行証をさげてたから記者だとわかったし、日本に行く予定があるから、取材攻勢を避けるためにも一社だけ抜かせたいと思案していたところらしくてな。そこで偶然おまえと出会った。おまえには今後しばらく、メイスフィールド一家の日本国内旅行に付き添ってもらうからな」
「僕ひとりでですか? 無理ですよ。英語なんて喋れないし」
「通訳の同伴は向こうが禁止してる。それなりに教育を受けてるんだから、なんとか頑張れ」
「出張費は? 立てかえたくても、貯金は底をついてるんですけど」
「それがな。向こうはさすが王室ゆかりの一家だけに、宿泊や食事、移動にかかるいっさいの費用を負担してくれるらしい。おまえ、よほど気にいられたんだな。お抱えの記者なんて、そうなれるもんじゃねえぞ。取材成功のあかつきには、俺と一緒に会長や社長と食事だ」
いつの間にか背後にきていた宮牧が、恨めしそうにいった。「いいなー......。王族の衣食住ってどんだけすごいんだろうな。小笠原君、俺たち友達だよな。出世しても俺のことを忘れないでくれよな」
「先走るなよ」小笠原は当惑とともに告げた。「まだどのていどの取材になるか、まるでわからないんだし......」
途方に暮れるしかない事態だった。責任の規模が大きすぎて把握しきれない。俺なんかに務まるのだろうか。入社四年目にしてなお一人前と見なされていない俺に......。
トレーニング
莉子は六本木七丁目の洋館二階にあてがわれた自室で、スポーツバッグから取りだした着替えをすべてクローゼットにおさめたところだった。
これでよし。莉子は壁ごしに里桜に声をかけた。「こっちはもう終わったけど」
「待って」里桜の返事が応じる。「わたし、ちょっと荷物が多いから」
隣りの部屋から物音が響きつづけている。莉子はいったん自室から廊下にでた。
里桜の部屋のドアは半開きになっていて、まだ廊下には手荷物が溢れかえっている。辞典や参考書の類いも多かった。
ふと莉子の目をひく物があった。それら書籍の山の上に置かれたクリアファイルだった。なかにひどく古びた新聞の切り抜きが収めてある。
紙名は〝Notizie Quotidiane〟。イタリア語らしい。唯一、日付欄だけはなんとか読みとれた。一九一〇年八月七日。なんと百年以上前の印刷物だった。トップの記事には、古い板碑らしき物の写真が写っていた。
そこかしこに染みや色ムラがあるが、中央に大きく1503と数字が彫りこんである。その下には、火蜥蜴をモチーフにしたヴァロフ朝ゆかりの紋章が刻印してあった。黒ずんでいるところを見ると、熱した金型を押しつけたものらしい。〝Nutrico et extinguo〟とも記してある。フランソワ一世の言葉だった。我は育み、我は滅ぼす。
クリアファイルのなかにはもう一枚、真新しい紙片が切り抜きに添えてあった。こちらは英文で〝EAA──Certificate of authenticity〟と印字してある。六桁の番号のスタンプと、外国人による直筆の署名もあった。
ドアを押し開けて里桜がでてきた。「莉子。もう片付いたの? 早いね」
「着替え以外にはほとんど何も持ちこんでないから......。ねえ、この新聞って」
「大昔のイタリアの芸術専門紙なの。時代に即した資料って貴重よね」
「欧州鑑定連盟に鑑定依頼をだしたの? 結果、本物だったみたいだけど」
「そう。当時の記事を参照するのが目的なのに、偽物じゃ意味ないし」
EAAは信頼がおける機関だが、依頼は非常に高くつく。ぽんと払えるとは羨ましい。エリートひとすじの里桜は実家も裕福なのだろう。わたしとは、生きざまからして違う。
階下からリシャール・ブレの声が飛んだ。「お嬢さんたち。そろそろ時間だぞ」
はい。莉子は応じた。里桜もため息まじりにつぶやいた。先に講義を受けようか。片づけは当分、終わりそうにないし。
ブレ流『モナ・リザ』真贋鑑定の講義は、一階のホールでおこなわれた。初日のきょうは、三つの学習ポイントについての説明から始まった。
ひとつめは『モナ・リザ』が描かれた経緯。
絵のモデルとされる女性は、ごく普通の一般人だった。リザ・ゲラルディーニ。フランチェスコ・デル・ジョコンドという織物商人の妻。
一五〇三年に『モナ・リザ』は描かれ始める。その後十年以上にわたり、ダ・ヴィンチは旅の供に常にこの絵を携え、ときおり手を加えていった。
そこでふたつめのポイントが重要になってくる。『モナ・リザ』そのものについて。
絵がダ・ヴィンチの物になって以降、彼は理想の女性像を加筆に反映させ、とりわけ母親の面影を色濃く残したといわれる。したがって厳密には、現在の絵はジョコンド夫人の肖像画とは呼べない可能性もある。
自然界に輪郭線など存在しないという観点から、彼はすべてを色のグラデーションで表現するぼかし技法を用いていた。絵の具を薄くといて透明に近づけ、絵の上に塗り重ねることによりヴェールを表現するなど、グラッシの技法も随所にみられる。遠方にあるものは空気中に含まれた水分のせいで青く見えることから、背景の山をラピスラズリで美しく仕上げた。だがそれらも、黄変やニスのせいで陰鬱なセピア色に落ちこんでしまった。
肘掛け椅子におさまったリシャール・ブレは、屋敷のホールに声を響かせた。「黄変のせいで微笑がさらに微妙なものになっているが、本来はもう少し唇の陰影がつき、はっきりとした笑みに描かれている。現状の『モナ・リザ』をコピーした贋作と明確な違いが生じるのは、この口もとだ。黄変後の微笑を真似て描くと表情がわずかながらこわばって見える。きみらが感じ取った真贋の差は、この唇によるところが大きいはずだ」
向かいの長椅子に莉子は里桜とともに座り、ノートにペンを走らせていた。里桜がブレにたずねる。「そうすると、唇を意識しながら鑑賞することが鑑定の第一歩でしょうか」
「そうともいいきれないな」とブレはいった。「きみらは鑑定という行為上、きわめて重要かつ、デリケートな才覚を試されている。じつはルーヴルが制作した贋作の唇も、光学分析では真作と弾きだされたりするんだよ。すなわちきみらは、ダ・ヴィンチが絵の表現にこめたごくわずかな情感に触れて、本能的に真贋を区別できているんだ。これは世界の画商や鑑定家が是非とも獲得したいと考えている才能だよ。音楽家でいう絶対音感に限りなく近い。きみらが磨かねばならない第三のポイントはそこだ。観察による直感の精度を高めるんだ」
莉子はつぶやいた。「直感の精度......ですか」
「そうだ。さっそく試そう。ついてきてくれ」ブレはおもむろに立ちあがった。
惹きつけられるように莉子は腰を浮かせた。里桜も同様のようだった。ブレにつづいて隣りの部屋の扉を入る。
そこには布で覆われた大きなテーブルがあった。ブレがたずねる。「ダ・ヴィンチの手稿とは何だね?」
「ええと」莉子はいった。「発明や発見のアイディアを記したメモです。いずれも精巧なスケッチを含んでいて、文章は左手で書かれた鏡文字です」
里桜が付け加えてきた。「ぜんぶで四千枚以上存在します。内容は絵画論のほかに医学、天文学、工学、地質学、数学、文学など多岐にわたります。極めて科学的で先進的、ダ・ヴィンチが天才といわれるゆえんです」
「ご名答」ブレはテーブルの布を取り払った。「では、これを見てもらおう」
莉子は思わず息を呑んだ。
テーブルに並んでいるのは、はがき大の絵をおさめたコンパクトな額縁だった。いずれも同一のサイズで、縦に三列、横に四列並んでいる。それら十二の額すべてに一枚ずつ、まったく同じ線画がおさまっていた。
褐色に染まった古い紙に描きこまれたのは、まさしくレオナルド・ダ・ヴィンチの筆致に違いなかった。それは眼球の断面図と構造の解説であり、彼が数多く遺している人体の解剖図のうちのひとつだった。視神経が画像をとらえる仕組みを描いた図解の周りを、例によって鏡文字がびっしりと埋め尽くしている。眺めるだけでも美しく圧倒される。記述内容のみならず、この手稿一枚それ自体が掛け値なしの美術的価値を含んでいた。
ブレがいった。「ルーヴルが所蔵する手稿のひとつ。一五一〇年から一五一二年あたりに描かれたとされる。ピンホールカメラの理論から肉眼の仕組みを解説した手稿よりも後に記されたもので、より詳しい内容になっている」
里桜が戸惑いのいろを浮かべた。「あのう......。どれも本物っぽく見えますけど、十二枚も同一の手稿があるわけないですよね?」
「そのとおり。これらのうち十一枚は、ルーヴルが制作した精巧な贋作だよ」
「十一枚ってことは......」
「ああ。一枚は本物ってことだ。これだ」ブレは左上の隅の額を取りあげた。その裏板を外す。うっすらと赤いスタンプがあった。「この手稿も王立美術館からルーブルに移された経緯を持つ。裏のスタンプこそが本物の証しだ。贋作にはそれがない」
そういいながらブレはほかの額を手にとり、次々と裏板を外してみせた。偽物の裏は艶やかな紙面で、ごく最近に作成されたものとわかる。
ブレは裏板を元通り嵌めると、十二枚の額を無造作に入れ替えていった。たちまち、どれが本物かわからなくなった。
「さて」ブレは顔をあげた。「よくきいてほしい。きみらふたりは助け合いながら直感の精度を養っていく。そのために私が編みだしたトレーニングを試みてもらおう。まず莉子。このなかから、偽物と思う二枚を取りだしてもらいたい」
いきなり難しい注文だ。莉子は目を凝らして手稿を丹念に眺めていった。
「待った」ブレは片手をあげた。「それじゃ駄目なんだ。もっと直感に頼って選択するんだよ。本能の赴くままに拾いあげればいい。これとこれは偽物、そう感じた二枚をピックアップするんだ」
莉子のなかに戸惑いがひろがった。「でも......」
「きみはルーブルでのテストにパスした。自分の才能に自信を持っていい。それに、まだ訓練の初期段階なんだ。間違うことを恐れてちゃ前には進めないよ。さあ、やってみたまえ」
そうはいわれても、本物についての知識が乏しい以上、どう判別すればいいのかまるでわからない。
ブレに告げられたとおり、勘に頼ることにした。わずかに線が印刷っぽく思える二枚を選び、手に取った。「これと、これです」
「よし」ブレが咳ばらいをした。「里桜、それらを受け取れ」
莉子は二枚を里桜に手渡した。里桜も困惑のいろを浮かべている。
「里桜」ブレがいった。「二枚を見比べて、あきらかに偽物と感じるほうを壁ぎわの棚に仕舞いこめ。残る一枚はまたテーブルに戻せ」
いっそうの当惑顔になった里桜だったが、思いきりは莉子より上のようだった。さっさと一枚を棚に置き、もう一枚をテーブルに返す。
テーブルの上の手稿は十一枚になった。ブレが指示する。「今度は里桜の番だ。きみが偽物と感じる二枚を選びだせ。そして莉子は二枚のうち一枚を除外して棚に置き、一枚をテーブルに戻すんだ」
里桜は真剣な表情でテーブルを眺め渡し、二枚を手に取った。それらが莉子に渡される。
排除する一枚をきめるのは、最初に二枚を選ぶよりも重責だった。しかし、迷ってばかりもいられない。本物の輝きが感じられないのはどっちだ、自問自答して心に浮かびあがった考えに従う。線がにじんでいるように思えた一枚を棚におさめて、一枚をテーブルに戻した。
以後、ふたりは交替でその作業をつづけた。ひとりが二枚を選んでは、もうひとりが一枚だけ戻して、もう一枚を除外する。テーブルの上の手稿は一枚ずつ数を減らしていった。
残り三枚。里桜が二枚を手に取った。すなわち彼女は、テーブルに残った一枚を本物と判断したことになる。
莉子はそれら二枚のうち一枚を棚におさめ、もう一枚をテーブルに戻した。もはや直感というよりただのくじ引きだった。絵や文字にどんな違いがあるのか、さっぱりわからない。いや、もう本物を除外してしまったかもしれない。
テーブルには二枚が残った。莉子はそれらを取りあげて里桜に渡した。里桜が見比べて、うち一枚を棚に仕舞う。
一枚だけが残った。莉子の番。もうその一枚を手に取るしかなかった。
ブレが指さした。「きみらふたりが本物と結論づけた一枚だ。裏板を外してみたまえ」
莉子はいわれたとおりにした。裏をたしかめる寸前には胸が高鳴った。しかし......。
里桜が莉子の手もとを覗きこみ、嘆きの声をあげた。「外れかぁ」
手稿の裏にはスタンプもなく、紙質は真新しかった。どう見ても偽物だった。
ブレはにこりと笑い。棚に歩み寄った。「私はどこに本物があるか記憶してたんだがね。四度目に里桜が選んだ二枚のうち一枚が本物だったんだよ。そして莉子は、その本物を排除してしまった。ええと、どこかな。ああ。これだ」
棚からひとつの額が取りあげられる。ブレが裏板を外した。古びて褐色に染まった紙面に赤いスタンプがあった。
莉子は落胆とともにつぶやいた。「全然わかりませんでした......」
「いまは仕方ないな。でもルーヴルの学芸員となれば、これぐらいの贋作なら一瞬で見抜けないと仕事にならん。きみらは『モナ・リザ』に触れることは許されないんだから、すべてを視覚で判断する必要がある」
「本物にはどんな特徴があるんでしょうか? 偽物との違いは......」
「理論については、これから日々の講義でダ・ヴィンチについて学ぶうち、いろいろわかってくるだろう。知識を得るのに並行して、この訓練を続けてもらいたい。互いに補いあいながら直感を養うんだ。時間が空いたら、とにかくやってみること。そのうち、知識と観察力の両者が結びついていくのを実感できるだろう。コツはとにかく、自分を信じる、それに尽きるよ」
ブレはそう告げると、肩をすくめて退室していった。
部屋に残った莉子は、里桜と顔を見合わせた。
里桜がきいてきた。「もう一回やってみる?」
「うーん」莉子は唸った。「直感に頼るといっても超能力じゃないんだから、手稿を観察する目を育てないとね......。まずは本物をじっくり見ましょう」
「賛成」里桜が本物の額をテーブルに置いた。
ふたりでそれを穴が空くほど見つめる。ひとことも言葉を交わさないまま、しばし時間が過ぎた。やがて、里桜が顔をあげた。莉子も里桜に目を向けた。
莉子はきいた。「やってみようか」
里桜がうなずいた。「うん」
ふたりで十二の額を混ぜ合わせ、ふたたびゲームが始まった。
成長につながるかどうかはわからない。でもいまは、信じて歩むしかない。もとより、わたしの才能などふたしかなものだ。最後まで頑張ろう。失うものは何もないのだから。
王族
その日の正午すぎ、小笠原悠斗は新宿パークタワーのエントランス前に乗りつけたタクシーから降車した。
スーツはクリーニングしてきたが、手荷物はいつもの事務カバンに、編集長から無理やり持たされた日本酒の一升瓶だった。地鎮祭や上棟式に行くんじゃないですよと小笠原は抵抗したが、結局、ギフト用化粧箱におさめて携えることになった。
エレベーターで四十一階に向かう。素晴らしい眺望を誇るラウンジを突っきると、パークハイアット東京のフロントに着く。落ち着いた薄明かりのなか、受付の従業員に事情を説明したところ、専用のエレベーターで階上に案内された。
そこは通路の先に観音開きの扉がひとつ存在するだけのフロアだった。SPらしき屈強そうな身体つきの男たちがふたり立っていて、無言のうちに小笠原のボディチェックに入った。化粧箱も開けられた。一升瓶は没収を食らった。ほらみろと小笠原は内心毒づいた。
やがて扉が開けられ、小笠原は室内に案内された。
プレジデンシャルスイートなるその部屋は、ホテルの客室とは思えない広大な空間だった。世帯が優に住めるほどの部屋数を誇り、リビングだけでも面積において『週刊角川』編集部に勝っている。中央にはソファのセット、窓ぎわにはグランドピアノ。そして、カジュアルな装いながらどこか上品さを漂わせる白人の一家が、そこかしこに散って楽しげに暮らしていた。
パリで会った老婦人とは、すぐに目が合った。カサンドラ・メイスフィールド女史はにこやかに歩み寄ってきて手を差し伸べてきた。
ど、どうしたらいいのだろう。小笠原は焦った。手をとって指先にキスするのだろうか。いや、TPOをわきまえた振る舞いかどうかさだかではない。やむをえず、その手を軽く握りながら頭をさげた。
カサンドラの顔にはまだ笑みがとどまっていた。気品あふれるクイーンズ・イングリッシュの響きでなにかを告げてくる。意味がわからず、小笠原はまたおじぎするしかなかった。なんとか英語でのあいさつを絞りだそうとして、ハロー、やっとそのひとことが口をついてでた。
向こうはそれなりに気を遣ってゆっくり喋ってくれているらしく、ところどころ聴き取れる箇所がでてきた。カサンドラは家族を紹介しているようだ。彼女の息子はベネディクトといって、三十代半ばぐらいのすらりと痩せた男性だった。その妻のアンジェリカはモデル顔負けの金髪の美人でありながら、奥深い知性を漂わせているように感じられる。ベネディクトとアンジェリカ夫婦の息子はアランといって、まだ九歳だった。こちらも栗色のさらさらした髪を持つ人形のような少年だった。
ほかにも老若男女織り交ぜて六、七人ほどいたが、小笠原はとても覚えきれなかった。カサンドラは家族の紹介がてら、家系についても補足説明をしてくれているようだが、こちらもよくわからない。ゆくゆくは個別に話を伺うしかない。無能と気づかれて叩きだされなければの話だが。
〝もういちど仰っていただけますか?〟ばかり繰りかえしていた小笠原だったが、エインズワース公爵オーガスト王子の子供とその一族は決して苛立ったりせず、何度もていねいに英語での説明を反復してくれた。小笠原は恐縮するしかなかった。ヒアリングだけでも勉強しておくべきだった......。
どうやら一家はこの部屋で昼食をとるところらしい。小笠原も同席を勧められた。本格的なキッチンを擁するこのスイートには、専用のコックたちがいて調理に腕を振るっていた。ダイニングテーブルで小笠原は一家とともにテーブルを囲んだ。
豪華な料理が食卓を埋め尽くす。ナイフとフォークを手に、高貴な一族とともに食したその料理は......。
まずい。小笠原は思わず絶句した。
これが噂にきく、イギリス料理のまずさというやつか。野菜はもともとどんな味だったかを忘れさせるほど茄でてあるし、肉はほとんど炭と化すまで黒々と焼き尽くしてある。酢や塩による味付けは各自でおこなうことが前提で、料理そのものの味はまるで考慮されていない。
しかし、カサンドラをはじめとする一家は嬉々として食事を進めている。やがてカサンドラが小笠原を指し示しながら、なにかを喋った。
こちらを紹介してくれているらしい。日本人記者として家族旅行に同行すると説明している。
そこまではよかった。しかし、語尾に付け足された〝フォー・セヴラル・マンスス〟という言葉が小笠原を不安にさせた。
数か月間? そんな馬鹿な。頼むから聴き違いであってほしい......。
瞳のなかの文字
六本木七丁目の洋館で莉子はひとりホールに居残り、ここ数日の講義の内容をノートにまとめていた。
ダ・ヴィンチの手稿並みにびっしりと書きこんだページに目を通し、気づいた点を赤のボールペンで追記する。記入の隙間がなくなったら新しいページに移り、それまでの情報と自分なりの意見を総括した記述をまたイチから始める。
疑問を感じるたび、莉子は椅子から立ちあがって暖炉の前に歩み寄る。そこには、大きく引き伸ばされた『モナ・リザ』の写真がタペストリーに印刷され、壁に掲げられていた。
絵を眺めまわす。『モナ・リザ』の手を見つめた。肘掛けの上に寝かせた左手に右手を添えている。ポージングがやや不自然に感じられるが、その理由はモデルの婦人がじつは毛布を腹にかけていて、ずり落ちないように手で支えていたからと考えられる。
なぜ改変されたかはわからないが、左手の人差し指と中指についても描く途中で位置を変えた痕跡がある。左手の陰影は乏しく、指先の質感も欠けていることから、そのあたりはまだ描きかけだったと推察された。
拡大写真はむろん本物とは異なるが、それでも肉眼では気づきにくいポイントを教えてくれる。一九五六年に酸をかけられて損壊した部分の修復痕や、右下の投石の痕も見てとれる。次に真作を目にする機会を得たら、真っ先にこれらの場所をたしかめよう。視覚にどう映るか、頭に刻みこまねばならない。
椅子に引きかえして腰を下ろし、ふたたびノートに所感を記入する。顔をあげて、さっきよりは距離をおいてタペストリーを眺めた。
講義を通じてレオナルド・ダ・ヴィンチについて知るうちに『モナ・リザ』の見方も変わってきた。当初感じていた神秘性や幻想性は薄れ、いまでは極めて緻密な計算のもとに描かれた科学解析図のように思える。その意味では彼の手稿と同じ趣があった。
ダ・ヴィンチは大自然と人体の構造に共通性をみいだすことに夢中になっていたふしがある。流れる川とヒトの血管、植物の葉脈はいずれも酷似していると記したメモも見つかっている。『モナ・リザ』の背景にも大気と地面のあいだを循環する水というテーマが見てとれた。川は『モナ・リザ』の心臓を通過する位置に描かれているのがわかる。
莉子はため息ととともにノートを閉じた、なんと奥深いのだろう。とらえどころがなく印象も曖昧に思えていた『モナ・リザ』の真の姿を求めて歩む毎日。ゴールははるか彼方だ。いや、永遠にたどり着けないのかもしれない。ダ・ヴィンチも格言を遺している。芸術に完成はない。ただ諦めるだけだ、と。
デスクの上にノートを置こうとしたとき、点灯したパソコンのモニターがふと目に入った。
講師専用ではなく、莉子や里桜も常時使用を許されているインターネットの端末。いまブラウザは、ヤフーのトップページを表示していた。最新ニュースを集めたトピックスのなかの一行に注意を奪われる。〝モナ・リザの瞳の文字で脳機能低下!?〟とあった。
マウスを滑らせてその見出しにカーソルを合わせ、クリックして開く。
環境・歴史・文化財再評価委員会(Comitato Nazionale per la Valorizzazione dei Beni storici, culturali e ambientali)が『モナ・リザ』の目のなかに、非常に小さな文字を発見したことは記憶に新しい。
右の瞳の奥には、レオナルドのイニシャルらしき〝L〟と〝V〟。左にもやはりふた文字あることが肉眼でも確認できるが、こちらは何と書いてあるかについて諸説がある。〝C〟と〝E〟、もしくは〝B〟と〝S〟、あるいは数字ではないかと考えられている。
ところが最近、これらの文字についての観察を専門におこなってきた研究者に限って、脳の後頭葉に著しい機能の低下が表れていることがわかった。後頭葉は視覚や色彩の認識をつかさどるが、それらの識別能力に深刻な問題が発生しているというのだ。
後頭葉後部の皮質の神経細胞は、網膜に映る視空間が再現される配列になっている。網膜が強いパターン刺激に晒された場合、それと同一のパターンが皮質上に応答することが、脳機能イメージングで明らかにされている。ゆえに、なんらかの特定の図形が脳細胞に影響を与えうる可能性について否定はできない、と脳医学の専門家はいう。
解剖学についても深い造詣があったレオナルド・ダ・ヴィンチだけに、脳の神経細胞をも変異させる仕掛けを絵のなかに遺した......。『モナ・リザ』を所蔵するルーヴル美術館はこの報道に対し沈黙を守っているが、果たして真相は?
ぞっとするような寒気が全身を襲う。この手のオカルトっぽい話は苦手だった。
莉子はタペストリーを振りかえった。焦点を合わせるのを恐れる自分がいる。そんな馬鹿なことが......と一笑に付したいところだが、なんとなく怖い。
そのとき、玄関の扉が開いた。買いだしに行っていたブレと里桜が、白いポリ袋に詰まった食料品をさげて入ってくる。ふたりは談笑していたが、里桜が声をかけてきた。「あ、莉子。ちょうどよかった。ねえ、毎日パスタばっかりで飽きてるでしょ? 莉子からもブレ先生にそういってよ」
ブレは苦笑した。「二対一で優位に立とうってのかい? まいったな。......おや、どうかしたのか、莉子。深刻な顔をして」
「あ、あのう」莉子は戸惑いがちにパソコンのモニターを指さした。「これ......」
「何?」里桜が眉をひそめて歩み寄ってきた。しばし記事を読みふけったが、すぐさま笑い声をあげた。「こんなの真に受けてるの? 莉子らしくもない」
するとブレも近づいてきて里桜にたずねた。「なんだね? どんなことが書いてある?」
その日本語の記事を、里桜はかいつまんでフランス語に訳しブレに伝えた。それから莉子に向き直ると、里桜は穏やかにきいてきた。「もしかして、心霊写真とか怖がる人?」
「んー」莉子はため息とともにいった。「そうかもしれない。子供のころも雑誌とかで未確認動物の噂とか読んで、そんなのでてきたらどうしようって......。里桜さん、知ってる? UMAってやつ」
「ウマ?」里桜は妙な顔をした。「たしかに動物だけど、未確認でもなんでもないでしょ」
「違うってば。UMAは馬じゃなくて......」
ブレが笑った。「莉子の博識ぶりには普段から感心させられっぱなしなのに、案外無邪気なところもあるんだな。どれ。瞳のなかの文字だって?」
「見るんですか?」と莉子はきいた。
「僕は学芸員だよ? 絵を見なくてどうする」ブレは恐れるようすもなく、堂々とタペストリーと向き合った。拡大された瞳を凝視する。「うーん。この印刷ではよくわからないな。ルーヴルとしてはまだ、目のなかのアルファベットなんて公認しちゃいないからね」
里桜が呆れたように首を横に振った。「莉子。ひび割れについても勉強したでしょ? 偶然、文字に見える箇所なんて目のなかに限らずいっぱいあるわよ」
「でも」莉子は里桜を見つめた。「この記事にある研究グループって、カラヴァッジョ作『バッカス』のデキャンタに映りこむ作者の顔を発見した人たちですよね?」
「だからって信ぴょう性があると思う? 莉子。わたしたちは『モナ・リザ』研究の第一人者のもとにいるのよ。だいたい、絵を観察したら脳機能が低下なんて......。貞子の〝呪いのビデオ〟みたいな物?」
ブレもにやつきながらいった。「ダ・ヴィンチがどうして現代のわれわれに嫌がらせをするんだね? 彼は天才だったが、人智を超えた能力の持ち主ではないよ。見ただけで脳神経に異常をきたす文字や図形の実在を信じるかね? 手稿を見ればわかるだろ、レオナルドはもっと現実主義者のはずだ」
「......ですよね」莉子は微笑まざるをえなかった。「申しわけありません。根拠もないのに、びくついちゃって」
「わかるよ。僕らも仕事がてらロワールの古城を訪ねたりするが、夜間に暗がりで見る肖像画は迫力満点でね。飾ってある甲冑にも何度びっくりしたかわからない。人ってのはただでさえ怖がりなのに、いっそうの不安を煽ろうとするこの手の記事は感心しないな。商業主義の悪しき側面だよ」
里桜がいった。「わたし、おおいに不安ですよ。きょうもパスタじゃないかって」
ブレは笑いながら隣りの扉に向かった。「食事の前にやるべき課題があるだろ。来たまえ」
莉子は里桜とともにブレを追った。部屋に入ると、自然にテーブルに目がいく。きょうはその上には何もない。代わりに、壁に圧倒されるような眺めがあった。
A4サイズの油彩画が額におさまり、ずらりと並んでいる。今回もすべて同じ絵、同じ額縁で、ぜんぶで十二枚あった。いずれも前傾しているところをみると、壁に打ち付けた釘に紐で掛けてあるらしい。
初めて見る絵だった。教会の前にたたずむ三人の宣教師が描かれている。構図や色彩から、ダ・ヴィンチと同年代の画家の手によるものと推察された。実際、タッチはダ・ヴィンチによく似ている。
里桜がブレにささやいた。「ダ・ヴィンチの未発表作品......じゃないですよね。スフマート技法は見事ですけど奥行きがあまりない。どちらかといえばボッティチェリの影響が強いかも」
「そのとおり」ブレは首を横に振った。「アリゴ・バルトリという、さほど有名でない画家が一五一〇年に描いたものだ。アリゴはレオナルドやボッティチェリと同じヴェロッキオ工房の弟子だったから、技術を一部受け継いでいる。きみたちには先入観にとらわれず、作者不明であっても当時の絵ならその古さを感じとってもらいたい。例によって一枚が本物、十一枚は複製だ。いつものように直感で贋作を排除していってほしい。では莉子、まずは二枚を壁から外したまえ」
莉子は躊躇した。「ブレ先生......。わたし、ちょっと自信がなくて。里桜さんから先に選んでもらっていいですか」
ブレはうなずきながらも、異論を口にした。「私の考えだが、きみから始めたほうがいいように思う。ふたりはそれぞれに能力を補いあいながら向上していくが、直感的な感受性は莉子のほうが若干、上のようだ。だから先に選んでほしいんだよ」
「......わかりました。やってみます」莉子は絵を眺め渡した。
ここ数日、ダ・ヴィンチの手稿はテストのたびに新しいセットに入れ替えられ、その都度初めて見る図解や文字についてこのゲームをおこなってきた。一枚が真作、十一枚が贋作。今度は油彩画だが、作者についても何もわからない。先入観のなさは強みでもある。とはいえ、漠然と鑑賞すればいいものでもない。
絵の具の黄変やひび割れに着目する。ルーヴルの三次元ビジョンとロボットアームがいかに優秀であろうと、はるか昔に画家が腰を据えて描いた絵とは異なる点があるはずだ。そしてなにより、計算された配色。時代を経てくすんでいるとはいえ、そこには画家の魂が籠もる。
人工的な臭みが感じられた二枚の絵をみいだした。それらの額を壁から外し、里桜に手渡す。里桜はいつもどおり二枚を見比べて、一枚を棚に排除し、もう一枚を壁に戻した。
今度は里桜が二枚を選び、莉子がそのうち一枚を除外する番だった。
手順そのものには慣れてきて、ふたりの動作もスムーズになったが、自信となるとまるで湧かなかった。選択のたびに、なんの根拠もなく決定を下している自分に気づき、情けない気分になる。
一枚だけが残った。ブレは裏板を外してみせた。木板は真新しかった。莉子は里桜ともども、またしても肩を落とさざるをえなかった。
ブレは棚に積んだすべての絵の裏板を外してくれた。うち一枚の裏のみが古びていて、鷲の紋章が入ったスタンプがあった。説明をきくまでもなく、それが本物だった。中盤に除外してしまったらしい。
里桜が唸った。「ブレ先生。わたしたち、これまでに先生が提供してくれた手稿のすべてを使って、繰りかえしトレーニングに励んでます。十二枚から交互に二枚ずつ取りだして、もうひとりが一枚を排除して一枚を戻す。空き時間にはひたすらふたりで試みてます。けど、結果は芳しくないし、観察力が向上したという実感も湧きません」
莉子もうなずいてみせた。「わたしも同感です。なんというか、コツがまるでつかめなくて......。才能ないんでしょうか?」
「焦っては駄目だよ」ブレは微笑をたたえながらいった。「ダ・ヴィンチもいってる。大いなる苦悩なくしては、どんな完成せる才能もありえない、とね、信じて歩みつづけることだよ。きっと行く手に光は見えてくる」
漫遊の旅
取材開始から早や二週間が過ぎた。
小笠原は浴衣を着て、石川県の和倉温泉加賀屋の一階ホールをめぐっていた。古い日本の街並みを再現した空間はさしずめ屋内テーマパークの様相を呈している。高齢者の団体客らが土産物屋を散策していて、辺りは祭りのような賑わいだった。
売店には変わった物が売っている。扇子を模した、コント用のハリセンが並んでいた。日本人ならジョークグッズだと解釈できるだろうが、メイスフィールド一家はその限りではない。また何なのか説明を求められたら厄介だ。どういうべきだろう。ヒッティング・ヘッド・フォー・ギャグ......。なんだか違う。
考えあぐねながら、くらぶ〈鈴虫〉のエントランス前で待っていると、エレベーターの扉が開いた。エインズワース公爵オーガスト王子の子供とその一族は、全員がくつろいだ浴衣姿で現れた。SPまでもが風呂あがりの血色のよさそうな顔を晒している。ほぼ全員が赤ら顔だった。すでに一杯やってきているらしい。
あわてて小笠原は押しとどめた。「みなさん、ちょっと待って。プリーズ、ウェイト。大勢の一般客がいるんですよ。無防備にでかけちゃまずいでしょう」
ところが、カサンドラ・メイスフィールド女史は上機嫌にデジカメを差しだしてくると、はしやいだ声でいった。「ユウト! テイク・ア・ピクチャー!」
「いや、でも......。ここで撮影なんて......」
こちらの心配をよそに、一家は割烹料亭のコーナーの前で集まり、家族写真のポーズをとった。
全国津々浦々を旅したせいか、すっかり大衆に溶けこんでみえる。ただし、一家がお忍びの旅を希望している以上は、好ましい変化といえなくもない。
カサンドラ女史以下、ファミリー全員はごくふつうの外国人旅行者を装い、公共交通機関で移動するのを常としていた。特別な計らいはかえって人目に触れる。むろんSPも同行したが、彼らも外では私服に着替えていた。現状のように浴衣姿にまでなると、本来の任務に支障はないのかと疑いたくなるほどだった。
駅で切符を買うことさえままならない彼らに代わって、小笠原はあらゆる手配のために奔走してきた。いまも取材以外の目的でカメラのシャッターを切るよう求められている。頼られるのはいいが、これでは独占密着というより体のいい雑務だった。
「いきますよ」小笠原は声をかけた。「はい、チーズ」
カメラマンが同行していないので、写真を撮るのは小笠原の役目だった。許される限りの撮影をし、数日ごとにまとめてパソコンに保管する。記事は、やがて一家を訪ねてくる英国大使館の職員によってチェックを受ける。ゆえに、まだ編集部に送信することは許されていなかった。
シャッターボタンを押して撮影を終えると、一家は笑顔をかわしあいながら散りはじめた。カサンドラの息子、三十代の紳士ベネディクトが、SPのふたりを連れてぶらりと奥の暖簾に向かいだす。
その看板を見たとき、小笠原は衝撃を受けた。婦人浴場〈花神の湯〉と書いてある。
「ストップ!」小笠原は追いかけながら呼びかけた。「そんなとこ入っちゃいけませんよ」
だがベネディクトは静止するようすもなく、暖簾をめざして歩きつづける。「コンヨク! コンヨク!」
「混浴じゃないんだって。ベネディクトさん、止まってよ!」
彼の妻であるアンジェリカが、ハリセンを片手につかつかとやってきた。アンジェリカはハリセンを水平に振ると、ベネディクトの後頭部を勢いよくはたいた。
派手な衝撃音が鳴り響く。周囲の人々の目がいっせいに降り注いだ。小笠原はあわててアンジェリカの手からハリセンをもぎ取り、笑顔でごまかしつつそれを店頭に戻した。
夫婦喧嘩勃発かと思いきや、ベネディクトとアンジェリカはSPをまじえ爆笑している。母のカサンドラはあきれたようすで肩をすくめていた。
もはや、どこに行っても立派に酒乱として通用する振る舞い。小笠原は戸惑った。俺のせいで、誇り高き英国の一族の生活習慣に悪影響が及んでしまったのだろうか。
旅の始まり、京都の祇園ではまだ誰もがおとなしくしていた。だが、普段よほどお堅い生活を強いられてきたせいだろう、反動も大きかった。カサンドラが伊勢志摩の旅館で羽目を外し無礼講に至ったかと思えば、ベネディクト夫妻は鳥取砂丘で砂の上に落書きをしまくるという愚行に及び、一家の悪戯心は徐々にヒートアップしていった。奈良に赴いては鹿を追いまわし、日光のいろは坂ではレンタカーで無茶なドライブに興じた。つきあっている小笠原も命がけだった。
週末が近づくごとに、一家はパークハイアット東京のプレジデンシャルスイートに戻った。驚いたことに、国内を漫遊中もずっと借りっぱなしにしているらしい。土曜と日曜は、小笠原も解放されてワンルームマンションに帰ることが許された。生活の落差は感じられるがそこは自分の部屋、充分にくつろいで、また月曜の夢のような出勤を待ちわびていればよかった。
いま、カサンドラ女史に率いられたメイスフィールド一家は、加賀屋のホールを堂々と横切り、ラウンジ〈飛天〉に入ろうとしている。
小笠原は困惑しながらきいた。「飲むならお部屋に帰られたほうが......。バック・トウ・ユア・ルーム。オーケー?」
ノー。一家は揃って拒絶の意志をしめすと、小笠原の手をひいて仲間に加えようとした。カム・ウィズ・アス。レッツ・シング・カラオケ。
ふと見ると、九歳の栗色の髪の少年、アランも戸惑ったようすで立ちつくしていた。小さな身体にぴたりと合うサイズの浴衣を着たアランは、さすがに両親ほどにはテンションがあがっていないらしい。憂鬱な目で見あげてくる。
「ほら」小笠原はいった。「アラン君を見てくださいよ。当惑してますよ。ユア・サン・ウォーリーズ」
すると、ベネディクトとアンジェリカのふたりは、アランに早口でなにか告げた。クイーンズ・イングリッシュの響きがまるで似合わない純和風の風景。やがて、アランは失望の表情を浮かべながら、小笠原にまとわりついてきた。
記者のお兄さんに遊んでもらってなさい......そう言付かったらしい。これまでにも何度かあったことだ。
両親はラウンジのなかに消えていった。アランは土産物屋が見たいらしく、小笠原を引っ張って歩きだした。
やれやれ、仕方がない。ひととおり見物したら、俺の部屋に連れていくか。
一家は小笠原専用の和室をとってくれていた。京都のホテルでもジュニアスイー卜一室がまるごと与えられた。ひとたび建物のなかに入ってしまえば、小笠原はファミリーと同じVIP待遇で、ルームサービスも頼み放題だった。一日の仕事が終わるとマッサージを受けられる。料理も極上の味が保証されていた。至高なる日々には違いない。
とはいえ、なんだか遊んでばかりのように感じられて気がひける。そろそろ本格的に仕事を始動させたいところだが、一家がラウンジに入ってしまった以上、きょうもインタビューはできそうになかった。
カタコトの英語とボディランゲージでの対話は不安だらけだったが、一家が辛抱強く接してくれることもあり、コミュニケーションにあまり不安はない。まだ当たり障りのないことしかきけないが、そのうち王位継承や王族の結婚問題に踏みこんだ質問をせねばならない。あらかじめパソコンで質問内容を翻訳しておけば可能だろう。
アランの青い瞳に憂いのいろが浮かんでいる。遠くにきこえる母親の歌声。どこか寂しそうだった。
小笠原は勇気づけるように、先に立って歩きだした。「よし、何か買おうか。ホワット・ドゥー・ユー・ウォント? アラン」
やがてアランの顔に笑みが戻ってきた。縁日を模したお面の売り場に駆け寄ると、ゴーカイレッドの面を指さした。
「それ?」小笠原は自分の勤め先の稼ぎ頭、社内では神とも崇められるキャラの面を勧めた。「こっちはどう? ケロロ軍曹。ハウ・ディス・ワン?」
「ノー」アランは激しく首を横に振った。「ネバー」
「ネバーって......。そこまで頑なに否定しなくても」
するとそのとき、従業員らしき男性が駆けてきた。「お客さん。ラウンジの外国人家族のお友達ですか」
「は、はい。そうですけど」
「なんとかしてくれませんか。あの人たち、畳の上でサンダルのまま踊るんですよ」
「ああ、またですか......。わかりました。おいで、アラン」
少年の手をひきラウンジに走る。俺は何をやっているのだろう、ぼんやりとその思いが頭をかすめた。たしか本業は記者だったか。いいかげん失念しそうになる。
成長
莉子は里桜とともに、ひと月ものあいだほとんど外出しない日々を過ごした。厳密には数日、それぞれに自宅やマンションに帰ることもあったのだが、その目的は残る着替えや生活必需品をすべて六本木七丁目の洋館に運ぶためだった。
二階の莉子の部屋は、もはや引っ越したも同然の様相を呈していた。冷蔵庫のみならず全自動洗濯乾燥機までが莉子と里桜の部屋にひとつずつ完備されているおかげで、居心地は明大前のマンションよりずっと上だった。
ただし、部屋に戻るのは寝るときだけだった。朝早く起床し、ブレを含め三人で朝食をとると、すぐに講義が始まる。レオナルド・ダ・ヴィンチの人生と哲学、そして『モナ・リザ』の物理的特徴と芸術性の両面について毎回掘りさげた解説がなされる。
たった一枚の絵に対するブレの研究の奥深さは、まさしく執念の賜物と呼ぶにふさわしかった。もはや莉子は、目を閉じれば瞼の裏に『モナ・リザ』の細部までがくっきりと浮かんで見えるほどだった。
知識を得るのは楽しい。だが洋館での生活には苦行もある。それは当然ながら、あの十二枚の同一の絵を用いた真贋鑑定のトレーニングだった。
ルーヴルから信頼を受けているブレは、ダ・ヴィンチの手稿や同時代の無名画家の絵を山ほど用意していた。それらの本物一枚につき、精巧な複製が十一枚作成されていた。同じ額縁におさまった、まったく見分けのつかない十二枚。莉子が二枚を手にとり、里桜が一枚を排除、もう一枚を戻す。次は里桜が二枚を選び、莉子が一枚を除外、一枚を戻す......。
直感の精度を補いあいながら本物を見つけだすという趣旨はわかるが、あまりに難題だった。莉子は目を凝らし、なんとか真贋の手がかりを瞬時にみいだそうと躍起になった。
二週間ほどが過ぎて、変化が訪れた。莉子と里桜はブレがいないときにも、ふたりで自主的にこのゲームをおこなっていたのだが、終わってみると最後の四枚の時点まで本物が残っていたことがわかった。
偶然だろうと莉子は思ったが、その日に繰りかえし実施したところ、残り三枚に本物が混じることさえあった。五枚が残った状況で本物を除外してしまうこともあったが、成果はそのあたりを推移していた。中盤までに本物を排除していたころに比べると、進歩のきざしが見えはじめていた。
そういえば、講義により広範な知識を伝授されていることもあって、油彩画の表層のわずかな特徴に気づくことが増えたように思う。光沢の違いも、おぼろに感じるだけだったのが、しだいにはっきりと見極められるようになった。
何がどのように察知できるようになったか、言葉で説明するのは難しかった。自分でも理屈としてはよくわかっていない。しかし莉子は、自転車に乗れたり泳げるようになったりするのと同じく、身体ごと勘どころを掴みはじめていると実感していた。トレーニングを積めば積むほど、迷うことなく、かつ思考を無駄に働かせることもなく、直感を頼りに判断を下せるようになっていた。
やがて、本物がほぼ確実に最後の二枚に残るようになった。最終判断は里桜の手に委ねられるが、しばらくは彼女の決めの一手は五分五分の確率だった。すなわち、二枚のうち本物のほうを棚に排除してしまうことも少なくなかった。
とはいえ、本物を終盤まで残せるようになった以上、ゴールは目前だった。ふたりはブレが就寝した後もホールに居残り、ひたすらトレーニングをつづけた。
一か月が過ぎたある朝、莉子はすこぶる調子がいい自分を悟った。よく眠れたせいか頭がすっきりしている。里桜と顔を合わせると、彼女も目の輝きが違っていた。
互いのコンディションが良好、この機を逃すのは勿体ない。
莉子と里桜はブレに申しでて、彼の前でトレーニングの成果を披露することにした。
それなら、とブレは、莉子たちが見たことがないダ・ヴィンチの手稿を新たに取りだしてきた。それはダ・ヴィンチが得意としていた城塞建築のスケッチの一部だった。むろん今回も、見る限りまったく同じ贋作が十一枚用意されている。
テーブルにずらりと並んだ十二枚。ほとんど本能に従い、莉子は二枚を取りあげた。里桜がそれら二枚のうち一枚を排除し、残る一枚を戻す、ゲームは始まった。
けさは、これまでとは何かが違う。莉子はそう実感していた。迷いが生じることもなくスムーズだ。里桜も同様らしかった。動作がつっかえることはほとんどない。ふたりとも自信を育ててきたせいだろう。莉子は理屈で考えるよりも。瞬時の観察で判断を下し、決してその結果を疑うことはなかった。前を向いて進むだけだ。振りかえるぐらいなら、はじめから歩きだしてはならない。
最後の二枚が残った。それらを手に取り、里桜に渡す。里桜が一枚を棚に、もう一枚をテーブルに戻した。
莉子はその裏板を外した。
とたんに、全身に衝撃が走った。
褐色に染まった年代ものの紙面。王立美術館のスタンプがくっきりと浮かびあがっていた。
棚に排除したほかの額の裏板も外す。それら十一枚はすべて新しい紙に表面だけ加工した贋作だった。
しばし莉子は絶句して里桜を見つめた。里桜も息を呑んで莉子を見かえした。
沈黙を破ったのはブレだった。おめでとう、とブレは告げてきた。「早かったな。すさまじい上達ぶりだ。僕の若いころに匹敵するよ」
視界が揺らいだ。目に涙が溢れていると莉子は感じた。里桜も涙を流していた。ふたりは抱きあい、喜びあった。歓声をあげることもない、静かな到達だった。
だが莉子は、かけがえのない宝物をふたつ得たと思った。ひとつは里桜との友情。そしてもうひとつは技能。わたしはついに、ふたしかだった感受性なるものを鑑定に生かすすべを身につけた。
それからの毎日、トレーニングはほぼ完璧な成果を挙げるようになっていた。十二枚のうち、一枚しかない本物を最後に残す。九割以上の確率で成功するのが常だった。
人間とはふしぎなものだと莉子は実感した。不可能に思えたことが、いまや出来て当たり前になりつつある。ダ・ヴィンチのいっていたとおりだった。知るだけでは不充分である。活用せねばならない。意思のみでは不充分である。実行せねばならない。
里桜が莉子に告げてきた。「冷静に考えてみると、とんでもないことを成し得ているのね、わたしたち......。こんな方法で一枚の本物を残すなんて、まるで魔法だもの。なのに、特別な感情は湧かない。なにも感じない」
同感だと莉子は思った。「そうね。極めて冷静って感じ。でも、だからこそ自分を信じられる気がする」
いまやルーヴルがその英知を結集して作りだした複製も、莉子と里桜が一致協力すれば脅威とはなりえなかった。十二枚のうち、本物の一枚。それを見つけだすふたりのコンビネーションは、もはや無敵といえた。
ふむ、とブレが真顔でいった。「どうやらきみらは至高の存在に王手をかけたようだな。王手詰みとなるか千日手となるか、お手並み拝見といこうじゃないか。きょうはゆっくり休むといい。明朝、きみらには人生でも最大の試練に挑んでもらおう。きっと永遠に忘れ得ぬ一日になるよ......」
最終問題
六本木の洋館に泊まりこむようになって四十二回目の朝、莉子は妙な物音のせいで眠りを浅くし、やがて目覚めた。
階下がなぜか騒々しい。マンションに引っ越しの業者が入ってきたときに似ている。複数の靴音、話し声、台車を転がすごろごろという音に、梱包を解く際の耳障りな音。ノイズはひっきりなしにつづいている。
莉子はベッドから起きだした。ジャージのままで扉を開けて廊下にでる。吹き抜けのホールに張りだしたバルコニーから一階を見おろした。
スーツ姿の白人たち、全員で四人ほど確認できる。いずれも厳めしい顔つきをして、大きな木箱を載せた台車を押し、ブレの部屋に入っていく。表にトラックが停まっているらしい、アイドリング中のエンジン音がきこえる。
隣りの扉が開いた。やはりジャージ姿の里桜が、ぼさぼさ頭のすっぴん顔を覘かせる。眠そうな目をこすりながら里桜は歩み寄ってきた。「何?」
「さあ」莉子はぼんやりと応じた。
白人のうちひとりはこちらを見あげたが、なんの表情も浮かべず作業を続行した。見られて困る行動ではないらしい。
莉子は階段を下りていき、ブレの部屋の扉に近づいた。
半開きになった扉の向こうでは、木箱が開けられていた。緩衝材を解き、取りだされた板状の物体。ふたりの男によってそっと持ちあげられる。
「慎重に」ブレの声が響いていた。「そっちのスタンドにゆっくり運んでくれ」
そのとき、莉子の背後で息をひそめていた里桜が、思わず声をあげた。「ひっ」
ほぼ同時に、莉子も腰が抜けそうなほどの衝撃を受けた。
ふたりの男が運んでいるのは『モナ・リザ』だった。行く手には十を超える数のキャンバススタンドがあった。すでに室内には、五枚か六枚の『モナ・リザ』がある。
気配を察したのか、ブレがこちらを振り向いた。「こらこら、お嬢さんたち。覗き見はよくないな。まだ準備ができてないんだよ」
莉子はきいた。「あのう、ブレ先生......。これはいったい......?」
「ゆうべもいっただろ。きょうは忘れ得ぬ一日になるって。ふたりとも、部屋に戻って支度しておいで。ジョコンド夫人に失礼のないようにね」
はっとして莉子は里桜と顔を見合わせた。
それからふたりはほぼ同時に駆けだし、階段を一気にのぼると、各々の部屋に飛びこんだ。着替えに入りながら、莉子の胸は激しく波打っていた。
『モナ・リザ』の真作はこの世に一枚しかない。複数枚が持ちこまれた時点で贋作だとわかる。しかし、偽物の教材だけでは講義にならない。事実、これまでのダ・ヴィンチの手稿や別の画家の絵を使ったトレーニングでも、かならず一枚の本物が存在した。
永遠に忘れ得ぬ一日になるとブレは告げた。人生でも最大の試練に挑んでもらおう、そうもいった。その意味するところは、すなわち......。
焦燥に駆られながらスーツに着替え、髪を整えて手早くメイクを済ませた。〝来客〟を迎えるのに最低限の身だしなみをクリアしたと確認するや、扉を開けて部屋を飛びだす。
ちょうど里桜も支度を終えたところらしく、廊下に駆けだしてきた。彼女の髪は若干乱れていた。わたしもきっと人のことはいえないだろうと莉子は思った。でも、もう鏡の前に戻る気にはなれない。一刻も早く〝彼女〟に会いたい。もし来ていればの話だが。
里桜とともに階段を下りた。すでに一階は静けさを取り戻していたが、ホールのいたるところに空の木箱や緩衝材が散らばっていた。ブツの搬入が完了した後、余分な物はすべて部屋の外にだされたようだ。
沈黙のなか、そっと扉の向こうを覗きこむ。
「やあ」ブレの声が厳かに響いた。「ちょうど用意ができたところだよ。入ってくれ」
莉子と里桜は室内に歩を進めた。
異様ともいえる空間だった。壁ぎわに等間隔に並ぶキャンバススタンド、一台につき一枚ずつ、あの幻想的な婦人の絵が掲げられていた。
モナ・リザ。その数、じつに十二枚。額には入っていなかった。あのときルーヴルで見たのと同じく、厚さ一センチほどの木板に描かれている。縁まで塗り潰されることはなく、わずかに板の表面が残っているが、その部分の質感も十二枚すべて同一に見えた。
斜に構えた『モナ・リザ』は、その構図とあいまってどの角度から絵を観ようとも、視線をこちらに向けているように感じられる。いま十二人の『モナ・リザ』は、いっせいに莉子を注視していた。
微笑は歓迎の意にも、また不敵な挑発にも思えてくる。莉子は身じろぎひとつできなかった。
白人たちは、部屋の四隅に散って警備員のようにたたずんでいる。彼らの存在こそが状況の重大さを物語っていた。十二枚すべてが贋作なら、この場に彼らは不要だろう。
「さて」ブレがいった。「何が起きているかは、もう理解できたと思う。いつもと同じことだ。十一枚は偽物。そして一枚は、本物だ」
「あ」里桜が震える声で告げた。「あのう、ブレ先生......。『モナ・リザ』はまだ日本に来てないはずじゃ......?」
「報道ではそうなってる。現にルーヴルの〝モナ・リザの間〟には、まだ絵が飾られているしね。来週、盛大なセレモニーとともに絵は美術館から送りだされ、空輸される予定だ。羽田では大勢の報道陣が出迎え、厳重な警備のもと都内の某美術館に運ばれる。展示がどこでおこなわれるかはぎりぎりまで秘密......。そんな手筈だ。ところが、ジョコンド夫人は気が早いお人でね。ひと足早く。お忍びで来日したいとおっしゃった」
莉子は息を呑んだ。「じゃあ......」
「ああ。ルーヴルおよび、日仏の最少人数の関係者にしか知らされていないことだ。ここに運ぶのも、目立たないように彼ら四人だけでおこなった。全員、私の研究チームのメンバーだよ。もっとも、ジョコンド夫人は忙しい身でもある。ここに滞在できるのはわずか一時間でしかない。以後は私にも知らされていない保管場所に仕舞いこまれる予定でね」
なんてこと......。莉子は言葉を失っていた。昨夜までは予想もしなかった事態だ。わたしはいま、本物の『モナ・リザ』と向き合っている。どれなのかはまだ不明だが......。
ブレはいった。「予定よりも前に日本に運ばれたのは、あくまで警備にとって都合がいいからであって、きみらの教材に使うためではない。しかし、いまこうして夫人がこの場に立ち寄ってくださったのは、ほかならぬきみらと対面するためだ。彼女の好意を無にしないためにも、覚えてきたことのすべてを生かしてテストにクリアしてほしい」
冗談めかせた物言いだが、つまるところブレ自身が責任を負うかたちで『モナ・リザ』をここに運んだ。ゆえに、莉子たちもことの重大さを認識したうえで、最大限にこのチャンスを生かしてほしいというのだろう。
里桜がきいた。「テストにクリア......ですか?」
「そう」ブレはまっすぐに里桜を見つめた。「チャンスは一度きりだ。いつもの方法で、このなかから本物の一枚を見つけてもらう」
「もし不合格だったら、わたしたちは......」
「スタッフとしてクビにはならんよ。ただし臨時学芸員にはなれない。絵に近づくこともできず、運営事務局で電話番をするとか、雑務を請け負ってもらうだけになる。充分に人選を試みたうえで、誰ひとり該当者がいなかったのなら、それはそれで仕方がない。日本側の臨時学芸員がいない状況で『モナ・リザ』展は開幕となる。きみらはコンビだ。ひとりだけ合格することはありえない。揃って合格か、あるいは不合格か。ふたつにひとつだ」
莉子は里桜に目を向けた。里桜が不安げな視線をかえしてくる。
ルーヴルにおけるいちどきりのテストで臨時学芸員になれるほど、甘い道のりではなかった。でもわたしたちは、共にその険しい道を歩んできた。あと少しでゴールに到達する。リタイアなどできようはずがない。
やろう、莉子は目で訴えかけた。強い決意のこもったまなざしが莉子を見かえした。里桜は黙ってうなずいた。
ブレが腕組みした。「ふたりとも、いま立っている場所から動かないでくれ。それ以上、絵に近づいちゃいけない。臨時学芸員は絵に触れられないのだからね。一定の距離を保ったまま真贋を区別してもらわねばならない。絵を動かすのは、彼らの役目だよ」
四人の白人がゆっくりと近づいてきた。誰もが白い手袋を嵌めている。
「では」ブレが告げた。「ゲーム開始だ。まずは莉子。贋作と思う二枚を選びたまえ」
緊張で胸が押し潰されそうだった。それでも莉子はみずからを奮い立たせた、このプレッシャーに打ち勝たねば。
学んできたとおり。瞬時の観察と直感にまかせる。莉子はいった。「左から三番目、右から六番目です」
白人たちはふた組に分かれた。ふたりがかりで絵をそっとスタンドから持ちあげて、わずかに前に進みでる。
里桜が二枚の絵を見比べる。苦悩のいろが浮かんでいた。どちらとも判断しがたい、そう感じているに違いない。
頑張って。莉子は心のなかで励ました。
やがて里桜はうわずった声で告げた。「ひ......左です。左を排除してください」
ブレが首を横に振った。「左は偽物ってことだな。よろしい。これはトレーニングではないから、すぐに結果をしめそう」
左の絵を保持するふたりに対し、ブレが手で合図した。絵はひっくり返され、裏側がしめされた。
古びた木板に見えていたのは表面だけだった。裏面は真新しく、材質もポプラではなくベニヤだった。亀裂を修復した痕も、スタンプも、手書きの記入箇所もなかった。
里桜が安堵のため息を漏らした。莉子もほっと胸を撫でおろした。
ふたりの白人は、贋作と判明したその絵を部屋の隅に運び、無造作に床に放りだした。
「よし」ブレは微笑を浮かべた。「第一ラウンドはきみたちの勝利だ。残り十一枚。今度は里桜が二枚を選ぶ番だ」
「え......ええと......。右から二枚目。それに左から......四枚目の絵」
また白人たちがふたりずつに分かれて、それぞれに絵をスタンドから持ちあげる。
莉子は思った。もはや緊張どころではない。恐怖に全身が震える。失敗したら敗北を味わうのはわたしひとりではない。里桜の夢もこの場に潰えることになる。
落ち着け。莉子は自分にいいきかせた。習ったことを正確に想起し、本能の直感に委ねろ。
わずかに光沢を感じたほうを、莉子は指さした。「左が偽物です。除外してください」
白人たちは、勿体をつけたりはしなかった。すぐさま絵はひっくり返された。
今度も裏側はまっさらだった。亀裂もスタンプもない。贋作だった。さっきと同様、乱暴に床に投げだされる。
ため息をついて、はじめて自分が息をとめていたことに気づく。そんな体たらくだった。
これまでの努力が実を結ぶか否か、ロシアン・ルーレットはなおもつづいた。莉子が二枚を選ぶ。里桜が排除する一枚を決める。絵が裏返される。やはり偽物だった。
次のターンで里桜が選んだ二枚のうち、莉子は不自然な色合いと直感した一枚を選択した。裏面を見せられる。またも贋作だった。床に積みあげられる偽物の山が、しだいに高さを増していく。
コツが掴めてきた気がする。要はいつもと同じだ。わたしたちはダ・ヴィンチの手稿や、同じ時代の画家たちの絵を、初見ながら真贋について識別してきた。絵が『モナ・リザ』だからといって違いはない。
七枚目の偽物を選り分けたとき、莉子はみずからが育ててきた直感の威力を自覚した。残り五枚。中盤を越えた。すでに偶然とは呼べない領域に突入している。莉子は自分を励ました。これまでのトレーニングと何も変わりはしない。
つづいて八枚目、里桜が選んだ二枚のうち、一枚に莉子が贋作の判断を下した。絵の裏側がしめされる。真新しい材質、偽物だった。九枚目。莉子が二枚を選びだし、里桜が一枚を除外する。またもや贋作が床に投げだされた。
残り三枚。莉子は自分を信じることを放棄しなかった。里桜の選んだ二枚を見比べて、即座に判断を下す。指し示した一枚が裏返される。偽物だった。
ついに二枚が残った。莉子が二枚をピックアップする番だが、ここはそのまま選択するしかない。白人たちがそれら二枚をキャンバススタンドから浮かせて持った。
莉子は、右が本物だと思った。絵の放つ存在感がまるで違う。取り除くべきは、左だ。
里桜がじっと二枚を見比べる。
お願い。莉子は祈るような気持ちで見守った。よく観察すればわかるはず......。
ブレがいった。「さあ、最後だ。里桜。どっちを除外する?」
「......右」と里桜はつぶやいた。
え? 莉子はどきっとした。まさか......。
すると里桜はつづけた。「右が本物。だから排除するのは、左」
室内はしんと静まりかえっていた。
沈黙のなかでブレがきいた。「それでいいんだな? よし。左をひっくり返そう」
白人たちがその絵を裏返した。真新しいベニヤ。無印かつ、亀裂の修復箇所もない。
ということは......。
最後に残った一枚の裏面がしめされる。そこには、ルーヴルで目にしたとおりの焼きムラや染みの痕があった。二箇所を蝶型の金具でとめた修復痕、うちひとつの金具は紛失。王立美術館の赤いスタンプ、316という王室コレクションの番号。〝H〟の走り書きの意味はあいかわらず不明だが、〝29〟が何なのかは講義で教わった。ヴェルサイユからルーヴルに移された際の管理番号らしい。フランス語の文章は〝ヴェルサイユ宮殿の絵画担当護衛官へ 管理事務所〟と訳せる。フォンテーヌブロー宮殿からヴェルサイユに移された際の注意書きとみられる。
ふたたび表面が前に向けられる。本物の『モナ・リザ』は丁重に運ばれ、そっとキャンバススタンドに戻された。
「合格!」ブレは笑顔で声を張りあげた。「きみらはたった一か月半ですべてをモノにした。臨時どころか、正規の学芸員にも採用したいぐらいだ!」
喜びの感情はじわりと湧きあがり、そこから一気に噴出した。次の瞬間には、莉子は里桜ともども黄色い歓声をあげて抱きあっていた。
十二のキャンバススタンドに、ただ一枚だけ残された真作の『モナ・リザ』。そのまなざしはこちらに向けられていた。あたかも祝福の笑みを浮かべているかのようだ。心はひとつになった、莉子はそう実感した。里桜とも、絵のなかにいる世界一有名な婦人とも。
永遠の喜び
洋館の吹き抜けホールにぽつんと置かれたキャンバススタンド、莉子はその前にたたずんで、正真正銘のレオナルド・ダ・ヴィンチ作『モナ・リザ』を眺めていた。
窓から差しこむ朝の陽射しが床に長い光の帯を敷く。『モナ・リザ』は直射を避けて置かれていたが、室内の明暗の落差に絵が溶けこんで、あたかも自然の風景の一部と化したかのように思えた。
ガラスのカバーも額縁もなく鑑賞すると、ダ・ヴィンチが十年以上にわたって手を加えた痕跡が、幾重もの油彩の層となって浮きあがっているのがわかる。ひび割れているのに肌艶のよさを感じる。絵のなかの婦人が生命を宿し、いまにも語りかけてきそうだった。
画家がモデルを前にして筆をとる、そんな当たり前のプロセスがあったことを、いまさらながら思い起こさせてくれる。ジョコンド夫人はある窓辺に腰かけている。ダ・ヴィンチが向き合う場所にポプラの板を据えた。この微笑をひきだすために、ダ・ヴィンチはどんなことを語りかけたのだろう。
すべてを頭に焼き付けるべく、莉子は詳細にわたって観察をつづけた。投石の痕もニスが固まった箇所も確認できた。退色していても、婦人の服の袖が金色だったことはこの真作を観ればわかる。眺めるうちに元の色合いのすべてが浮かびあがってくるかのようだ。
この絵の背景の左右はつながっているとか、ジョコンド夫人の肖像画はほかにもう一枚あるとか、『モナ・リザ』をめぐる諸説は尽きない。しかし、ブレは常々忠告していた。ルーヴルが公式に認めている学説以外は頭から締めだすべきだ、と。
そうはいっても、どうしてもたしかめておきたいことがある。莉子はルーペを手にとった。『モナ・リザ』の目を拡大してみる。
複数のレンズを組み合わせたルーペは、倍率は高くても視野が狭くなる。周辺部の像が激しく流れて見えるなか、婦人の虹彩のなかに絞って観察する。
......あった。右の瞳のなかに「L」と「V」。予想に反し、たしかに意図的に記された文字という印象を受ける。後世に加筆されたようにも思えない。レオナルドの手によるものだとしたら、いったいどんな意味なのだろう。
複数の足音がきこえ、莉子は顔をあげた。里桜が近づきながら残念そうにいった。「ご婦人、もうお帰りになる時間だって」
ブレが笑った。「返却が一分でも遅れたら国際問題になりかねないよ。展覧会が始まったら、毎日嫌でも目にするさ」
四人の白人たちが絵を慎重に持ちあげて、床に敷いた布の上に載せる。包装には決まりがあるらしい。絵の四方にそれぞれうずくまって、順に布を折っていく。緩衝材を挟んでから、さらにその上に布をかぶせる。
莉子は里桜にきいた。「眉毛の痕がうっすら残ってたね。見た?」
「ええ、さっきね」里桜はうなずいた。「ガラスを通さずに顔をくっつけんばかりにして見れば、光学分析にかけずとも肉眼で確認できるのね。眉は描かれなかったんじゃなくて、色が落ちて消えちゃったのよ」
「しっかりと眉が引かれたままなら、かなり顔の印象が違ってたでしょうね」
厳重に梱包された『モナ・リザ』が、さらに木箱におさめられ、台車に載せられる。四人の白人はいくらか表情を和らげて、莉子たちに会釈した。振動を最小限に抑えるためだろう、ゆっくりと台車を押して玄関に向かう。
それを見送りながら里桜がつぶやいた。「大変そうですね」
ブレが里桜を見た。「きみらもきょうは、運送に手間取りそうだ。なにしろ衣服やら化粧品やら、あらゆる物をこの館に持ちこんでいるだろう? 部屋を引き払うのは、これまた転居と同じぐらいの作業になりそうだね」
「え?」莉子は目を瞠った。いつもながらブレの唐突な物言いには驚かされる。「引き払うって......」
「きみらは合格したんだよ。家に帰れる。講義はこれにて終了だ」
莉子は里桜と顔を見合わせた。ふたりはほぼ同時に歓喜の声をあげていた。
ブレも笑いながらいった。「驚きだよ。じつはテストの結果が芳しくなかったとしても、今後の日々を補習にあてようかと考えていたんだがね。きみらの才能はもう充分に開花している。『モナ・リザ』展の開幕まで二週間を残して、ふたりとも卒業」
「で、でも」里桜が興奮ぎみに告げた。「二週間も空いたら、また勘が鈍っちゃうかも」
「そうは思えんよ。やるべきことはたくさんあるだろう? より丁寧なフランス語の言葉づかいを学習するとか、着ていく服を買いそろえるとか。女性はメイクも何もかもばっちり決まってこそ、一日を頑張れるそうじゃないか。準備を怠ったんじゃ本腰をいれられないよ」
いかにもフランス人らしい発想だと莉子は思った。思わず笑みがこぼれる。
「では」ブレが明るく告げた。「運営事務局に報告の電話をいれるとしよう。ふたりのもとには、臨時学芸員証や期間内の通行証が送られてくるはずだ。詳細は追って知らされるだろう。里桜。莉子。ふたりは最高の生徒だったよ。そしてこれからは、きみらはよきパートナーだ。さあ、握手をして。力を合わせて責務を果たしてくれ」
莉子は天にも昇る気持ちとともに手を差し仲べた。「里桜さん。いままで本当にありがとう。これからもよろしく」
「こちらこそ」里桜は満面の笑みとともに莉子の手を握った。「あなたと会えてよかった。
莉子。本物の『モナ・リザ』を人々にお披露目しましょう」
もちろん。莉子は笑いかえした。
喜びが永遠につづくのではと感じられる瞬間がある。いまがそのときだと莉子は思った。
スラング
晴天の昼下がり、箱根の芦ノ湖畔のフェリー乗り場で、小笠原は王室ゆかりのメイスフィールド一家と過ごしていた。
ファミリーはそこかしこを散策しながら、写真を撮ったり土産を物色したりしている。エコノミークラスの国内移動がひと月以上にわたってつづいたせいか、すっかり庶民っぽくなった。最初のうちは人目を惹いていた優雅な身のこなしも鳴りをひそめ、いまや単に旅行中の外国人家族にしか見えない。
そんな一家のようすを微笑ましく見守る小笠原に、九歳のアランがまとわりついてきた。アランは、おねだりをするときには天使のごとき笑みを浮かべる。いまもその表情とともに見あげていた。
小笠原はしゃがんでアランと同じ目線で見つめかえしながら、冗談めかせて問いかけた。
「なにを御所望ですか?」
アランは近くの売店を指さした。ソフトクリーム売り場がある。
「あー」小笠原は立ちあがった。「わかった。買ってくるから、ちょっと待ってて。あまり走りまわっちゃ駄目だよ」
そういって小笠原は売店に向かった。エントランスを入り、売り場のカウンターに向かう。
どれにしようかな。メニューを眺めていると、だしぬけにふたりの大柄な男が左右に割りこんできた。
男たちは日本人だった。揃ってグレーのスーツ姿だった。野太い声が耳もとにささやきかける。「『週刊角川』の小笠原悠斗記者ですね」
「え......?」小笠原はびくついた。「な。なんです。あなたたちは......」
すると、窓の外からは見えない低い位置に、警察手帳が差しだされた。表紙を開いて身分証がしめされる。男の低い声が告げた。「神奈川県警警備部公安課の磯部です。警視庁公安部からの要請に基づきマークしていました」
公安警察。冗談だろう。国家を危機に陥れるような重大犯罪を扱う部署が、どうして俺なんかを。
すぐに理由は思い当たった。小笠原は安堵のため息をついた。「護衛なら心配いりませんよ。一家はみんな周囲に溶けこんでますからね。素性がばれたりしません」
磯部が硬い顔できいてきた。「あなたも一味の共犯ってわけですか」
「きょ、共犯? いったい何のことで?」
「エインズワース公爵オーガスト王子の子供とその一族を騙る、あやしげな英国人たちの仲間ってことですよ。もしそうならこの場で逮捕です」
小笠原は衝撃を受けずにはいられなかった。
一家が本物の王族ではない......? いや、待て。公安警察は誤解しているのかもしれない。あくまでお忍びの旅だ、イギリス王室に問い合わせても来日中という返事はもらえないはず......。
そう思って窓の外を見たとき、小笠原はぎょっとした。
王族と信じたメイスフィールド一家は、制服警官の群れに追いまわされて湖のほとりを逃げまわっていた。追跡に慣れているのか、身のこなしは軽く、足は異常に思えるほど速かった。SPのふたりも、ファミリーと手をとりあって逃走していく。
まさか。あの高貴なカサンドラ・メイスフィールド女史の家族が......。
そのカサンドラは売店のすぐ近くまで駆けてきた。ワゴンに積まれた売り物のダルマを両手で掴みあげると、追手の警官たちにぶん投げた。「ファック・ユー! サノバビッチ!」
信じがたい発声。小笠原はすべての幻影が崩れさるのを見た。
磯部たちは売店の外に駆けだした。小笠原よりもカサンドラの身柄の確保を優先したらしい。カサンドラを挟みうちにしようと試みたようだが、あと一歩のところで包囲網をすり抜けられてしまった。
汽笛が鳴り響く。一家は桟橋の上を駆けていく。出港直前のフェリーに次々と乗りこんでいくのが見える。
小笠原も外にでた。港の周りは人だかりがしている。そこに向けて全力で走った。
人垣を掻き分けて前にでたとき、小笠原ははっと息を呑んだ。
桟橋のわき、湖面に子供の頭部だけ突きだしている。栗色の髪、アランだった。
群衆は指さして笑い声をあげている。この寒いのに泳ぐ外人の子がいる、そんなふうにみなしているのだろう。
だが、小笠原は異変に気づいていた。以前に雑誌の記事にも書いた。水しぶきをあげながら助けを求めるしぐさは、本当に溺れている人には見られない。声など発することはできず、手を振ることもかなわない。静かに沈んでいくしかない。よって、周りは誰も水難事故と気づかないケースが多い。
アランは溺れている。足を踏みはずしたに違いない。だが、野次馬どころか警官たちですら、その動きは緩慢だった。詐欺師一家の子供とみなしているせいかもしれない。投げた浮輪もずいぶん離れたところに着水している。
見過ごせない、と小笠原は思った。ひとり群衆から抜けだし、冷たい湖面へと頭から飛びこんだ。
驚嘆の声が一瞬だけ耳に入ったが、あとは水中の籠もった音しかきこえなくなった。クロールでアランのもとを目指す。水温の冷たさは想像以上だった。体力には自信があったが、水を含んだ服は予想以上の重荷になっていた。それでも姿勢を崩さないよう歯を食いしばった。
やがて、水中で手足をばたつかせているアランが目に入った、近づくとアランは小笠原に抱きついてきた。
もうだいじょうぶ。背泳ぎしながら両手でアランをしっかりと仰向けに抱える。小笠原は桟橋に泳ぎついた。
ふと見あげると、両手を差し伸べて叫んでいる男がいた。カサンドラ女史の長男、ベネディクトだった。
ベネディクトは必死の形相でアランを抱きあげると、ちらと小笠原を見おろした。礼すら口にせず、すぐさま身を翻し、フェリーのほうに駆けていった。
一家......いや、一味はひとり残らずフェリーに乗りこんだらしい。警官たちが追いかけるが、出港に間に合ったかどうか微妙なところだった。
遠ざかるフェリー、桟橋に取り残され歩を緩める警官たち、埠頭に詰めかけた野次馬。そして、ひとりだけ湖で立ち泳ぎしている奇特な男がいる。それが俺だと小笠原は思った。
うますぎる話には裏がある。失意と落胆が同時に襲った。公安警察の刑事たちがどんな態度をとるか、あるていど予想はつく。いままでにも経験してきたことだ。彼らは皮肉たっぷりにいうはずだ。記者さんでしょう、どうして気づけなかったんですか。
フェードアウト
翌朝、都内は豪雨に見舞われていた。莉子は飯田橋駅の改札をでると、傘を片手に万能鑑定士Qの店に向かった。
ゆうべはひさしぶりに店のブログを更新し、きょうから営業しますと告知しておいたが、お客さんはきてくれるだろうか。不定休にもほどがある、そんなふうにすでに愛想を尽かされてしまったかもしれない。
銀行で通帳を記帳したところ GRAND LOUVRE の名義で運営事務局から報酬が入っていた。講習期間に対しても支払いがあることを申しわけなく思いながらも、実のところこれがなければ生活が行き詰まるところだった。『モナ・リザ』展が始まったらまた店は休業になる。本格的な営業再開はその後になるのだし、当面は臨時学芸員としての報酬で凌がねばならない。
店の前に着くと、赤い傘を片手にロングコート姿の中年女性が、人待ち顔でたたずんでいた。
近づいてすぐ、知り合いだと気づいた。莉子は声をかけた。「江来さん!」
水道橋で古銭商を営んでいる江来佳織は、丸眼鏡をずらして上目づかいにこちらを見た。その顔に笑みがひろがる。「莉子ちゃん。しばらくぶり」
「おいでになってたんですか。いま開けますから」莉子はシャッターに駆け寄り、鍵を外しにかかった。
江来がいった。「ちっとも店が開かないから、どうしたのかなと思って。やっぱ忙しい? 『モナ・リザ』展の......なんだっけ、臨時学級委員だっけ。そういうのやるんでしょ」
「臨時学芸員ですよ」
「新聞で読んだわよ。すごいなあって思って。もう遠いところに行っちゃったのかなってね。うちの古銭鑑定をちまちま手伝ってくれた莉子ちゃんはもういないのかって、寂しがってたところよ」
莉子は苦笑しながらシャッターを上方に開け放った。「臨時学芸員は期間限定の仕事ですよ。ほら、店はあいかわらずです。どうぞなかへ」
自動ドアを開けて江来を招きいれる。江来は傘をたたみながら店内に入った。
明かりを灯す。二か月の休業にもかかわらず店はまるで元のままだった。デスクをまわりこんで革張りの椅子におさまる。莉子は江来にきいた。「本日はどのような物を?」
「いつもと同じよ」江来は向かいのソファに腰をおろし、カバンを開けた。「うちの主人ときたらめんどくさがり屋でしょ。新しく入荷した古銭の鑑定をずっと莉子ちゃんに頼ってたから、このところ溜まっちゃってて。きのうブログ見たら営業再開するってんで、飛んできたわけよ」
「お待たせして申しわけありません。じゃ、物を拝見します」
江来がカバンのなかからポケットアルバムを取りだし、デスクの上で開いた。透明なポケットには一枚ずつ古銭がおさまっている。江来は指さした。「まずはそのあたりだけど」
アルバムのなかの古銭はすべて同じだった。莉子はいった。「五銭硬貨ですか。これとこれは状態がいいですね。三千円ぐらいつくんじゃないでしょうか」
すると江来の手がぴたりととまった。
「三千円?」と江来がきいた。
「はい......。大型白銅貨ですから、それぐらいは。ええと、年号は......。あれ? 昭和十三年?」
しばし江来は凍りついていたが、すぐに大仰なほどの笑い声をあげた。「やだよ、莉子ちゃん。それアルミ青銅貨でしょ。大正時代の白銅貨と間違えるなんて、ほんと、どうかしてるわ」
ダジャレにも、ひきつった笑いしか返せない。半ば呆然としながら莉子はつぶやいた。
「そう......ですね。ごめんなさい、見間違えてしまって」
「ひさしぶりだからしょうがないか。あ、これ見てほしかったんだけどね。お客さんが丸ごと買い取ってほしいって持ちこんできたのよ」
冷や汗をかきながら、新たに差しだされた古銭アルバムを手に取る。今度はポケットごとに異なるコインがおさまっていた。個人のコレクションだけに時代もまちまちで、海外の通貨も含まれている。
めぼしい物はあまりなさそうだが......。やがてページを繰る手が自然にとまった。莉子は江来にいった。「これ、すごくないですか。旧二十円金貨、それも明治三年発行ですよ。掘りだしものですね」
江来の見つめてくる目が冷やかなものになった。
莉子は不安を覚えた。「あのう......どうかしましたか」
はぁ、と江来はため息をつくと、カバンをまさぐって小型の電子秤を取りだした。デスクに置いてスイッチをいれる。アルバムのポケットから、くだんの古銭を引き抜いて秤の上に載せた。
デジタル表示を見て、莉子は目を疑った。重量は二十四・一二グラム。
低い声で江来がたずねる。「旧二十円金貨の重さは?」
「三十三・三三グラムです......」
「そう。ビル・ゲイツにパソコンの使い方きくみたいで気がひけるけどさ、質問に答えてくれない? 旧五円金貨の相場は?」
「......明治三年と四年で二十九万円、五年で二十一万です」
「ふうん。知識のほうはあいかわらず問題ないようね。けど、どうしちゃったの? まるで見る目がないじゃないの。これ、たぶんシリコンで型どりしてハンダを流しこんで作った偽物よ。年に何回かは見つかる粗悪な素人細工でしょ。高価な物ほど気をつけなきゃいけないって、教えてくれたのは莉子ちゃんだったじゃないの」
「は......はい。おっしゃるとおりです......。すみません、うっかりしてて」
しばし江来は探るような目で莉子を見つめていたが、やがてふっきれたようにアルバムや電子秤をかき集めると、カバンにしまいこんだ。「いいわ。忙しいところ、押しかけちゃってごめんなさい。また暇なときにお願いするから」
「あ、お待ちください。もっと慎重に見ますから」
江来は腰を浮かせながら、笑顔を向けてきた。「無理しないで、いまは『モナ・リザ』のことで頭がいっぱいでしょう? わかるわ。普段なら、こんなミスをする莉子ちゃんじゃないものね。身体が空いたら電話してね。じゃ」
莉子は呼びとめようと立ちあがったが、江来はさっさと戸口に向かい、自動ドアをでていってしまった。
強い雨足のなかに、傘をさした江来の背が消えていく。降りしきる雨の音は、吹きこむ冷たい風とともに大きくなり、自動ドアが閉じるにつれてフェードアウトしていった。
喪失
二か月ものブランクのせいで、溜まったメールや留守電の数も半端なものではなかった。莉子は午前中をそれらの返事に費やし、正午すぎから先方に出向いて鑑定をおこなうことにした。またも店を閉めるのは心苦しいが、長期間待たせてしまった以上はお詫びを兼ねて訪問したかった。
なにより、じっとしてはいられない気分だった。妙に不安ばかりがこみあげてくる。古銭鑑定で失いかけた自信を回復して安堵を得たい、そんな思いが募っていた。
最初に赴いたのは神田の骨董品店だった。在庫が増えるたびに定期的に鑑定を依頼してくれる、莉子にとっては有難い取引先のひとつだった。
商品が所狭しと並ぶ店内を巡りながら、高価商品をチェックしていく。莉子は棚の向こうに垣間見えた掛け軸に興味を惹かれた。もっとよく見ようと、手前の棚に載っていた壷を取り除く。
するとそのとき、店の主人が悲鳴に似た声をあげた。「凜ちゃん、何やってる?」
「この掛け軸、印刷じゃなさそうですし、狩野常信に画風が似ている気がしたので」
店主は足早に近づいてくると、莉子が片手にぶらさげていた壷をあわてたようすでひったくった。
莉子は面食らった。店主が気にかけていたのは掛け軸ではなく、壷のほうだったらしい。
眉をひそめて店主がきいた。「印刷じゃないって?」
「ええ。染みもあるし、破れた痕が......」莉子は言葉を切った。妙に思って、掛け軸にそっと手を伸ばす。
指先の感触は、予想とは大きく食い違っていた。古びているように見えた部分もすべて、丸ごと写真製版で複製したレプリカだった。商品としてはごく新しい物だ。
店主は困惑顔でいった。「たしかによく出来た複製だけど、こんな物なら凜ちゃんは見慣れてるはずだろ? それより、壷をぞんざいに扱ってもらっちゃ困るね」
壷......? それこそアンティークっぽく仕上げた工芸品にすぎないのでは......。かたちも崩れているし、表層のてかりぐあいも安っぽく思えた。どこかの土産物ではないのか。
ぴんとこないようすの莉子に店主は業を煮やしたのか、じれったそうに告げた。「美濃焼だよ」
莉子は思わず笑った。「まさか......」
だが、店主の真剣な面持ちのせいで、ふたたび目が壷に向いた。眺めるうちに、とんでもない勘違いに気づく。
「こ」莉子はうわずった自分の声をきいた。「これ、荒川豊蔵ですか?」
「そうだよ。北大路魯山人と親交のあった人間国宝の作品。凜ちゃんに見てもらおうと思って、わざわざ倉庫からだしてきたのに......。まさか価値に気づかなかったのかい?」
血の気がひいていくのがわかる。莉子はショックで卒倒しそうだった。
やがてこの骨董商の店主も、古銭商の江来と同じ反応をしめしてきた。『モナ・リザ』で舞いあがっているのはわかるけど、働きすぎじゃないのかね。こんな凡ミスをする凜ちゃんじゃないだろう。きょうはもういいから、帰って休みなよ。
衝撃が大きすぎて、次に訪ねる予定だった神保町の中古CDショップに着いたときには、莉子は半ば放心状態だった。
ここでの仕事は、在庫のCDのうち海賊版の疑いがある数百枚の鑑定だった。しかし、いまは集中力が働かない。一時間を経ても、店長控室のデスクに山積みになったCDケースはほとんど消化できていなかった。
ぼんやりとしたまま、一枚のアルバムを足もとの段ボール箱に放りこんだ。
店長が驚きのいろを浮かべて、そのアルバムを拾いあげる。「なぜ捨てるんですか?」
「え? ......あのう、海賊版だと思ったので」
「海賊版って、これがですか? 根拠は?」
「コンパクトディスクのロゴが入っていないので、見本チラシからの複写かと」
すると店長は呆れたようにいった。「これ、二〇〇三年発売のコピーコントロールCDですよ」
「コピーコントロール......」
「CCCDってやつです。厳密にはCDとは違う規格になるためロゴが入ってないんです。以前に凜田先生が教えてくれたことですよ。だいじょうぶですか? 風邪でもひいておられるとか?」
意識が遠のきそうだと莉子は思った、悪い夢なら覚めてほしい、真剣にそう願った。
結局、なんの役にも立てないままCDショップをあとにした。外の雨は激しさを増していた。身に沁みる寒さのなか、莉子は駅のホームにたたずみ、吐息が白く染まるのを眺めていた。
チープグッズを辞めて店を開いた二十歳のころはともかく、以後はここまでの失敗をしでかしたことはない。誰もがわたしを信頼して声をかけてくれたのに、期待を裏切ってばかりだ。
調子が悪すぎる。できることなら店じまいをしてマンションに引き籠もりたいが、そうもいかなかった。旧知の警部補から協力を求める連絡が入っている。
東西線の神楽坂駅をでて、雨のなかをひたすら歩く。牛込警察署に着くと、三階にのぼり刑事課を訪ねた。
やや面長の馬面だが、私服警官のなかではハンサムの部類に入るかもしれない三十代、知能犯捜査係の葉山翔太警部補。めずらしく真顔で莉子を迎えた。いつものような瓢々とした態度もなければ、ネクタイも曲がっていない。どうやら本庁の人間がきているらしい。署内も緊迫した空気に包まれている。
葉山は莉子を小会議室に案内すると、椅子をすすめてきた。「お呼びだてしてすみません。もうじき捜査会議なんですが、その前にご意見をうかがいたくて」
「なんですか」と莉子はきいた。
一枚の写真が机の上を滑り、莉子の前に差しだされた。
登山家たちの集合写真だった。四人の男が寄り添ってポーズを撮っている。重厚な装備からして、高い山に登るグループのようだ。服の汚れ具合を見ても、かなりの高所まで達しているらしい。
「それ」葉山がいった。「富士の山頂近くで撮ったものだそうです」
「缶ビールで乾杯してますね。酔いがまわったら危ないですよね」
ふんと葉山は鼻を鳴らした。「問題はその装備ですよ。写っている登山用具に不自然な点はないか、凜田さんの鑑定眼を頼りたくて」
悪しき連鎖を断ち切りたい。莉子は真剣に写真を観察した。
腰ベルトのついたザックに、軍手、トレッキングシューズ。サングラスも専用のずり落ちないゴーグル仕様だった。ザックには携帯酸素や防寒具がおさめてあるのがわかる。
莉子はつぶやいた。「問題ないですね......。日焼け止めクリームもこってり塗ってるみたいですが、南側の富士宮口から登ったんでしょうか。直射日光が強烈ですから」
「......で?」
「なんですか?」莉子はたずねかえした。
「いや、だから......。装備の不自然なところを指摘してくださいよ」
「不自然なところって? 別にないですよ。軍手も金剛杖の先も汚れているから、相当きつい思いをしてここまで登ったんでしょう。これだけの装備なら、下山にも支障ないでしょうね」
葉山は顔をしかめた。「凜田さん......、冗談はよしてくださいよ」
「はい?」
「まさか、こいつらが本当に富士山頂まで登ってると思っちゃいないでしょう?」
「......違うんですか?」
しばし葉山は唖然とした顔で莉子を見つめていたが、やがて眉間に皺を寄せた。「缶ビールを見てくださいよ。普通に飲んでるでしょう」
「一杯ぐらいにとどめてほしいですね」
「そういう話じゃなくて......。富士山頂近くといえば三千メートルを超えてますよ。気圧が低いから、普通に飲めるわけないでしょう」
莉子はようやく自分の見落としに気づいた。「ああっ......。たしかにそうですね。泡が一気に噴きだすはず......」
「なのにこいつらは、ある特定の日時に山頂付近にいたというアリバイ証明のために、この写真を提出しているんです。ほんとは高いところまで登ってないから、装備に手抜かりがあるんじゃないかと思いまして。......まいったな。凜田さん。いつもなら頼みもしないうちから、何もかも見抜いてくださるのに」
「ごめんなさい......。そのう、なんていうか、きょうは調子が悪くて......」
「まあ、わかりますよ。そういうときもありますよね」葉山は立ちあがると、湯沸かしポットに歩み寄った。「お茶でも飲みますか。みかん食べます?」
しめされた果実を眺めて、莉子は苦笑した。「夏みかんですか? 酸っぱいのは苦手で」
葉山は渋い顔をして、その果実を投げて寄越した。「ハッサクですよ。夏みかんじゃまだ季節的に早いでしょう。凜田さん。だいじょうぶですか?」
莉子は受け取ったハッサクを眺めて慄然とした。小ぶりで皮の凸凹もあまりない。これを夏みかんと見誤るなんて......。
わたしはどうなってしまったのだろう。どうして簡単に識別できたはずの物を間違ってばかりいるのだろうか。
ふいに莉子の背を悪寒が走った。おぼろな考えがひとつにまとまりだしたからだった。
『モナ・リザ』か。あの瞳のなかの文字が......。
終焉
その日の夕方、莉子は六本木七丁目の洋館に舞い戻っていた。
リシャール・ブレに電話したところ、彼は快く迎えてくれた。パートナーの流泉寺里桜も駆けつけた。
激しい雨音が、静寂に包まれた館内にまで響いてくる。莉子は一階のブレの部屋にいた。以前と同じようにテーブルに並んだ十二枚の小さな額縁を眺めまわす。いずれも同一のダ・ヴィンチの手稿が入っていた。本物は一枚のみ、十一枚は偽物。
まずはわたしからだ。莉子は直感を頼りに、贋作と思える二枚を手にとった。
ブレが面食らったようすでいった。「待った。莉子......。何してる?」
「何って......」
「私が思うに、きみの手のなかにある二枚のうち一枚は、まぎれもない真作だよ」
「え......?」
いきなり本物を選んでしまったのか。でも、どっちだろう。莉子は両者を見比べた。
わからない。真剣に観察しようとすればするほど、根拠となるものがひとつもないことに気づかされる。わたしはいったい、どのように鑑定していたのだろう。
困惑顔のブレがきいた。「本物はどっちかな?」
「ええと......。そのう、たぶん......。こっちです。右のほうが複製っぽいし......」
ブレはため息をついた。うながすような目を里桜に向ける。
里桜は、莉子が偽物と指摘した右の手稿を指さした。「ねえ、莉子。二枚のうち一枚が本物って前提なら、わたしはこっちを真作と考えるけど」
まさか......。莉子は息を呑んで、その額縁の裏板を外した。
手稿の裏。セピアに変色した紙に、王立美術館のスタンプが押してあった。
息を呑んで表面を見つめる。
そうだ。たしかにこのインクの滲みぐあい、ペンの引っかき傷、平滑性に欠ける当時の紙......。なにより、ダ・ヴィンチによる独特のタッチの絵と鏡文字。本物はこれに違いない。
莉子の手から額縁が滑り落ちそうになった。里桜があわてたようすでそれを受け取る。
「どうしたの?」里桜は目を瞠っていた。「莉子らしくないわ。何があったの?」
「わたし......」莉子は悲鳴に似た自分の声をきいた。「もう駄目。できない」
「できないって......何を?」
「鑑定よ。『モナ・リザ』を観たせいで......。あの瞳のなかの文字を観察したからよ」
「文字?」ブレは険しい顔になった。「莉子。まさか、いつぞやのゴシップ記事を気にかけてるんじゃないだろうな」
里桜もなだめるようにいった。「落ち着いて。ねえ、莉子。あんなのは科学的根拠のないでまかせよ。『モナ・リザ』を所蔵するルーヴルが公式見解として発表してないのよ。事実なわけないでしょう」
ブレがうなずいた。「私は『モナ・リザ』なら隅々までつぶさに観察してる。当然、目のなかもだ。その気になれば、記憶を頼りに目の部分の千倍の拡大図を描くこともできる。記事が指摘していた文字なるものが何を意味しているのかわからんが、少なくとも私は視覚において識別能力を失ってなどいないよ」
莉子は思わず声を張りあげた。「文字はあったんです! たしかにありました。Lと、それからV......。見るべきじゃなかった。きっと何らかの条件のもとで観察すると、脳に影響が及ぶんです。医学的なことはわからないけど、わたしは実感してます。鑑定なんかもう無理」
悔しさに涙がにじんでくる。理不尽な出来事に違いないが、事実を疑ってみたところでどうしようもない。すべてはわたしのなかに起きたことだ。ブレや里桜が共感できないのも無理はない。したがって、心からの同情は期待できない。
里桜が穏やかに語りかけてきた。「莉子。きっと疲れてるのよ。眠れない日が何日もつづいたんだし......。いまはゆっくり休めばいいわ」
悠長なことはいっていられない。莉子は泣きだしそうになるのを堪えていった。「わたし、このままじゃ何もできない。臨時学芸員として働けない。真贋の鑑定がまるでできないんだもの」
「莉子......」
「ごめんなさい。ブレ先生、里桜さん。辞退させてください」
「辞退!?」ブレは驚きのいろとともにきいた。「なにを辞めるというんだ。まさか、臨時学芸員をか?」
里桜は怒ったように告げてきた。「莉子。なんでそんな急に......。勝手なことばかりいわないでよ。あなたと一緒にトレーニングを積んできたわたしはどうなるの? もういちどやり直せば、きっとそのうち勘も戻るはずよ」
莉子の目はテーブルの上に落ちていた。手稿をおさめた額縁。本物と偽物。区別がつくだろうか。
いや。判別できない。わたしには不可能だ。
「無理っていってるでしょう」莉子の視界が揺らいだ。涙が頬をつたうのを感じながら、莉子は声を張りあげた。「本当にごめんなさい。せっかく鍛えてもらって、成果も出始めたところだったのに、こんなことになるなんて......。でもきっと、里桜さんはひとりでも充分に臨時学芸員の務めを果たせます。わたしがいなくても、里桜さんなら......。ああ、でも気をつけてください。絶対に『モナ・リザ』の瞳のなかを見ないで」
「莉子。そんな馬鹿なこと......」
「お願い。ブレ先生も。ほかの学芸員のみなさんにも伝えてください。いつ異常が発生するかわからないんです。瞳を拡大しなくても真贋鑑定は可能なはずです」
ブレは硬い顔でいった。「絵を見ることを恐れていては学芸員は務まらん。冷静になれ、莉子。事実を客観的に受け止めろ」
「事実ははっきりしているんです! 里桜さん、信じて。瞳の文字に注意するよう呼びかけて。わたしの声にはきっと誰も耳を傾けてくれない。だから里桜さんから......」
里桜は信じられないという顔で見かえした。まるで理解しがたいものを見るまなざし。きょう、わたしに対し多くの人が注いだ視線。いまも同じだった。
もうここにはいられない。わたしは居場所を失った。
「失礼します」莉子はそういって身を翻し、玄関に駆けだした。
莉子! 呼びとめようとする声が響く。扉を開け放ち、莉子は雨の降りしきる暗がりに飛びだした。傘を手にする余裕はない。庭から門へと全力で走った。
涙がとめどなく流れる。しだいに、顔に降りかかる雨と区別がつかなくなる。わたしには何も見分けられない。これからどうすべきかさえわからない。
管理人
しきりに雨の降りしきる午後八時過ぎ。小笠原は傘をさして神田川沿いを歩いた。万能鑑定士Qの店を訪ねるのはひさしぶりのことだ。
やれやれ......。ため息しかでない。俺にとってこのひと月以上はいったい何だったのだろう。
よくよく資料写真を見れば、カサンドラ女史にしろメイスフィールド一家にしろ、まるっきり別人だとわかる。会った直後に気づくべきだった。荻野は当然のごとく激怒していた。恥の上塗りになるだけだから、この件に関するいっさいのことは掲載しない。すべて無かったことにするとわめき散らしていた。うちの雑誌に載らなくても、他誌がこぞって面白おかしく取りあげることは目に見えているのだが。
あの芦ノ湖畔での混乱において、公安警察は一家を簡単に捕まえられると思っていたらしい。充分な追跡態勢を整えていなかったせいで、フェリーへの無線連絡が遅れて出航を許してしまった。湖の対岸にあるもうひとつの港にパトカーが集結したが、到着したフェリーの船内に一家の姿はなかった。乗客によれば、全員が途中で湖面に飛びこみ泳いで逃げたという。アランも今度は泳げたのだろうか。ベネディクトあたりが抱きかかえて背泳ぎしたのだろう。俺がやったのと同じように。
ほどなく緊急配備網にひっかかると思いきや、一家の足取りは途絶えた。現在も警察が行方を追っている。容疑は詐欺。王室から支払いがあると約束された旅館が不審に思って英国大使館に連絡し、嘘が発覚したという。
栄えある独占取材記者から、また元通りの使い走りに格下げ。きょうも印刷所に、地図帳のゲラを届けにいくところだった。もはや雑誌の仕事すらさせてもらえない。
莉子はどうしているだろう。雨のなか歩を進めるうち、雑居ビル一階のテナントが見えてきた。
ところが、シャッターは閉まっていた。
ああ......。やはり留守か。『モナ・リザ』展は間もなく開幕だ。多忙な日々を送っているのだろう。
小笠原は携帯電話を取りだした。いまの莉子の仕事場なら、電話番号は登録してある。
その番号を選択してかけた。数回の呼び出し音で男性の声が応じた。「『モナ・リザ』展運営事務局です」
「『週刊角川』の小笠原と申します。臨時学芸員の凜田莉子さんをお願いしたいんですか」
......少々お待ちください。戸惑いがちの返事の後、しばらくして男性の声はいった。「凜田さんはお辞めになりました」
え? 小笠原は凍りついた。
「まさか」小笠原はきいた。「辞めたって、どういうことですか」
「本人の都合により臨時学芸員を辞退されたとのことです。詳しいことは伺ってませんが」
実際、男性は事情について何も知らないようだった。ほどなく会話は終わり、電話は切れた。
臨時学芸員の椅子を蹴った? 莉子みずから......。考えにくいことだった。彼女の身に何か起きたのだろう。
ぼんやりとたたずんでいると、シャッターに歩み寄るもうひとつの人影を視界の端にとらえた。
若い男だった。長髪に痩せ細った身体、パンクファッション。高円寺あたりのライブハウスでギターでも弾いていそうな装いだが。傘はいたってふつうのビニール製だった。一枚の紙を取りだし、シャッターに貼りつけようとしている。
小笠原はそれを覗きこんだ。紙には『閉店のお知らせ』とある。
「ちょ、ちょっと」小笠原はあわてて声をあげた。「あんた何者?」
男は振りかえった。「......崎沼隆一といいます。ここの店主が住んでるマンションの管理人で」
俺とさほど年の差もなさそうな男が管理人とは。しかも、それなりのイケメンではある。疑心暗鬼に小笠原はたずねた。「店主って凜田さんのことですか?」
「......あなたはどちら様ですか。お客さん?」
「いや......。小笠原といいます。凜田さんの友達というか、知人というか」
「お知り合いですか」崎沼は真顔で見つめてきた。「ちょうどよかった。凜田さん、いったいどうしちゃったんですか」
「なにが?」
「よほど衝撃的なことがあったみたいで、取り乱して帰ってきて......。飼い猫も僕にあずけたまま部屋に引き籠っちゃったんです」
「ヨゾラをですか?」
「ああ、知ってるんですね。そうです。しかもマンションのエントランスを入る寸前、凜田さんはうろついていた野良の黒猫を抱きあげようとしたんですよ。ヨゾラって呼びながら」
「そりゃありえないでしょう。たしかに黒猫はどれも似通って見えますけど、凜田さんの識別能力はすごいんですよ。ポテチ一枚を見てカルビーかコイケヤか瞬時に見分けるんですよ。それも遠くから」
「僕もそう思ってましたけど、いまは違うみたいで......。後ろ足の指の数を確認して、ようやく別の猫だと気づいたようです。それがさらに本人のショックを助長しちゃったらしくて」
にわかには信じがたい話だった。あの凜田莉子に飼い猫の区別がつかないなんて。
崎沼はいった。「店も何もかも辞めるといいだして、このビラを貼ってきてと僕に頼むんですよ。仕方なく来てはみたけど、やっぱりどうも......」
「腑に落ちないですね。凜田さんに事情をきいてみないと」
「ええ。小笠原さん、といいましたね。凜田さんの友人なら、一緒にきていただけませんか」
......断る理由などない。こんな事態を知り得ていたのなら、自分がどんな状況にあろうと放りだして駆けつけるところだ。たとえ本物の王族を取材中だったとしても。
拒絶
雨の降りつづく夜、小笠原は崎沼の案内で、明大前駅から少し離れた場所にあるマンションを訪ねた。
傘をずらしてその外観を見あげた。暗がりのなかでも瀟洒なつくりとわかる七階建て、莉子のマンションを訪ねるのは、これが初めてだった。
崎沼は蛍光灯に照らされたエントランスを入りながら、小笠原に告げてきた。「何があったかしらないけど、小笠原さんからも励ましてあげてくださいよ」
「もちろん」小笠原は傘をたたんで崎沼につづいた。「でも、まずは事情をきかないと......」
管理人室らしき一〇一号のドアが見える。その向かいにエレベーターがあった、崎沼がボタンを抑そうとしたとき、だしぬけにエレベーターの扉が開いた。
姿を現したのは莉子だった。旅行用トランクをひきずっている。目も合わせようとせず、そそくさと外にでようとした。
崎沼が手で遮った。「凜田さん。待って」
はっとしたようすで莉子は足をとめた。こちらが誰だが判っていなかったらしい。視線が泳ぎ、やがて崎沼を、そして小笠原を見つめてきた。
動揺したようなそのまなざし。瞳孔が開ききっている。やはりどこか変だと小笠原は思った。
「あ......ああ」莉子はつぶやいた。「小笠原さん」
小笠原はきいた。「どこへ行く気?」
「......波照間に帰るの」
「いまから? 羽田発の最終に間にあわないかも」
「なら近くのホテルに泊まって朝の便に乗るから。さよなら」
「待ってよ」小笠原は莉子を押しとどめた。「東京にはいつ戻るの?」
「戻らない」
「え?」莉子は苛立ちをあらわにした。「もう帰るんだってば。実家で暮らすの」
「このマンションは? どうする気だ?」
崎沼が困惑ぎみにいった。「敷金はもらってあるから......。さっき解約の書類も受け取ったし」
すると莉子が物憂げにつぶやいた。「管理人さん。あの書類、凜田の凜の字が違ってる。大家さんに漢字の変換間違ってるって伝えといて。わたしが直しておいたから、解約申込書としては成立してるはずだけど」
なんてことだ。本気で引き払うつもりか。小笠原は努めて穏やかな口調を心がけた。
「凜田さん、冷静になってよ。さしたる理由もないのに、何もかも放りだすきみじゃないだろ?」
「理由ならあるわよ」莉子の目が潤みだした。「もうできなくなった」
「できないって、なにが?」
「鑑定よ」莉子は震える声でまくしたてた。「見分けがつかない。ささいなことに気づけない。わたし、おかしくなっちゃったのよ。『モナ・リザ』の瞳のなかの文字を見たせいで」
「......瞳の文字? なんの話?」
しばしの沈黙の後、莉子はまた強引に外にでていこうとした。小笠原は莉子を制止して、根気強くきいた。ちゃんと説明してよ。
ため息をついてから、莉子はささやくような声で成り行きを語りだした。
リシャール・ブレのもとで『モナ・リザ』の講習を受けた。流泉寺里桜とともに実践的なトレーニングもおこなった。いっぽうが二枚を選び、もういっぽうが一枚を戻し一枚を捨てる。精度は日増しに高まり、鑑定眼も磨きあげられた。ふたり交互に手順を踏んで最後に一枚の本物を残すという、傍目から見れば奇跡に違いない所業を毎回、成功させるまでになった。自分でも魔法に思えるほどの能力だ。本物の『モナ・リザ』を用いた最終テストもクリアした。
それなのに......。すべてを失ってしまった。あの文字を観察してしまったせいで。
莉子の瞳から大粒の涙がこぼれおちた。両手で顔を覆って莉子は泣きだした。
小笠原は困惑を深めた。「モナ・リザの目のなかの文字ってのは、以前にどこかで読んだけど......。それで脳神経に影響が生じるなんて、初めてきいたよ。たしかな話なの?」
「ヤフーのトピックスで読んだだけよ。でも実際、わたしの身に起きたことなのよ」
「思いこみのせいでそうなったのかも」小笠原はふと一計を案じた。「ちょっと、これを見てくれないか。いま印刷所に届けようと思っていた版下だ。江東区の同じ場所の地図が二枚ある。どっちが角川の地図帳のコピーだと思う?」
莉子が顔をあげた。小笠原の差しだした二枚を見つめる。眉間に皺が寄った。
......やはりおかしい。鑑定の瞬間、莉子の瞳は猫のように大きく見開くはずだ。いま、彼女の目は戸惑いがちにさまようばかりだった。
やがて莉子がいっぽうを指し示した。「こっち......」
「こっち? これが、角川書店版の地図?」
「そう」
「凜田さん......。あのう、よく見てくれないか。小名木川に橋がかかってるだろ。或砂橋って書いてある。これ、日本地図社がよく仕込むダミーだよ。きみが以前、うちの編集長に教えてくれたことじゃないか」
莉子はしばし無言で地図を見つめていた。その顔が紅潮しはじめる。やがて莉子は泣きながら大声で怒鳴った。「だからいったでしょう! もうわからないんだってば。どいてよ」
小笠原の脇をすり抜けて、莉子は外に駆けだした。雨のなか、傘もささずにトランクをひきずる。
「凜田さん!」小笠原はあわててその後を追った。
莉子は足早に遠ざかると、通りかかったタクシーに片手をあげた。トランクを後部座席に押しこみ、彼女自身も乗りこんだ。
駆け寄れば発進を阻止できるかもしれない。しかし、小笠原の脚は動かなかった。
あれほど強い拒絶の意志をしめす彼女を初めて見た......。気休めの言葉を投げかけたところで、どうなるものでもない。
タクシーは走りだした。冷たい雨のなか、赤いテールランプが遠ざかっていく。小笠原の弾む息が目の前で白く染まる。この季節なのに肌寒い。すべてが過去となり消え去っていくのを、ただぼんやりと眺めるしかなかった。
異常事態
翌日の昼下がり、小笠原は北の丸公園内にある東京国立近代美術館に赴き、流泉寺里桜と再会した。
この美術館が『モナ・リザ』展の会場になることは、まだ報道関係各社にすら知らされていない。小笠原もきのうまでは知らなかったが、里桜に電話したところ、特別に打ち明けられたのだった。里桜は臨時学芸員としてずっと館内に缶詰めになっているため、小笠原と会って話をするためにはここに迎えざるをえなかったらしい。
美術館の地下三階は職員専用のエリアで、打ちっぱなしコンクリートの壁に囲まれた無機的な空間が広がっていた。真ん中に据えられたテーブルを囲むルーヴルの学芸員たちは、さしずめ手術室の医師団のようだった。患者は『モナ・リザ』。その世界一有名な絵画はいまテーブルに寝かされ、詳細にわたるコンディション・チェックを受けている。
小笠原はそこからかなり離れた場所、このフロアの唯一の出入り口になる階段付近にたたずんでいた。足もとには赤いラインが引いてある。ここから先は、一部の関係者しか入れない。近くに制服姿の警備員が立って、監視の目を光らせている。
コンディション・チェックを抜けだしてきた里桜は、小笠原に対し申しわけなさそうにいった。「こんなことになるなんて......。ブレ先生も困惑してます」
「本当に凜田さんのほうから辞退の申し出が?」
「ええ。それも急にです。臨時学芸貝証や通行証も、運営側に送りかえしてきました。ほら。これですよ。いまじゃ運営側によって、無効の証しに穴を開けられちゃってます。もう使えないんですけど、でも機会があったら彼女に渡したくて」
里桜が取りだしたカードは、フランス語表記の証明書だった。莉子の顔写真が入っている。名前だけはローマ字と並行して漢字の表記があった。凜田莉子。
ため息とともに里桜はいった。「それが送られてきたとき、彼女は大はしゃぎで電話してきたんですよ。あんなに喜んでたのに」
小笠原はきいた。「僕が預かってもいいでしょうか」
「ええ、もちろん。莉子に会ったら差しあげてください。......彼女の気持ちが落ち着いていれば、ですけど」
「凜田さんが取り乱した原因はなんでしょう? 本人は、鑑定能力を失ったみたいに話してましたけど」
「わたしたちの前でもね。意味はまったくわからないんです。わたしは『モナ・リザ』の目のなかの文字は確認してないし......。いまもご覧のように、絵に手が届くほど接近できるのは正規の学芸員だけです。それもコンディション・チェックは詳細な手順が決められています。わたしの個人的な理由で、変則的な調査はできません」
小笠原はテーブルを見やった。「でも、あの学芸員さんたちは、ルーペで隅々まで見てますよね。手順のなかには目のなかの観察も含まれてるんでしょうか?」
「当然、見ますよ。それも毎日。来日中の学芸員全員が。けど。視覚になんらかの異常が生じたなんて話、まったくきいてません」
そのとき、テーブルのほうで動きがあった。『モナ・リザ』が台車に移されている。学芸員たちはそれを押して、ぞろぞろと奥へ向かいだした。
里桜がいった。「行かなきゃ......。『モナ・リザ』を金庫におさめる時間です」
「わかりました。お忙しいところをわざわざすみません。またお会いできましたら......」
「ええ。かならず」里桜は微笑とともに踵をかえした。「失礼します、小笠原さん。お気をつけて」
歩き去っていく里桜を、小笠原は黙って見送った。学芸員の集団は、すでにフロアの奥の扉に達している。そこが金庫室らしい。
テンキー式のロックのようだった。金庫に近づけるのは一名に限られているのか、白髪頭の白人ひとりが台車を押して扉の前に進んでいく。里桜を含め、残りの学芸員たちはかなり手前で待機していた。
台車を押す初老の男は、テンキーの前に立った。おもむろにポケットからリモコンのような物を取りだす。
いや。あれはリモコンではない。小笠原は近くの警備員にたずねた。「すみません......。あの人が持っているのって、電卓ですよね?」
警備員はちらと金庫室のほうを眺めてから、にこりともせずにいった。「そう。電卓。バシュレ氏はいつも使うんですよ」
「何に用いるんですか」
「暗証番号を決めるのに思い浮かんだ数列を使ってばかりじゃ、心理的な癖がでるとかでね。でたらめに足したり引いたりして、答えを入力するんだと」
「ふうん。暗証番号は毎回、バシュレさんが決めるわけか。当然、知ってるのもバシュレさんひとりってことですね」
「そうですよ。......失礼ですが、どちら様で? 警察のかた?」
「あー、いえ。流泉寺さんの紹介でたずねただけです。いま消えますから」
頭を掻きながら階段に向かう。最後にもういちど、フロアを振りかえった。里桜は学芸員らとともに『モナ・リザ』の搬入を見守っていたが、やがてこちらを気遣うような目を向けてきた。神妙に会釈をする。小笠原もおじぎをかえした。
地上階にのぼり、職員専用のゲートをでる。一般客が往来するロビーに足を踏みいれた。
出口に向かおうとしたとき、携帯電話が鳴った。小笠原は歩を速めて美術館からでると、北の丸公園の遊歩道で通話ボタンを押した。「はい。小笠原です」
「嵯峨だけど」落ち着いた男性の声が耳に届く。「いま、いいかい?」
臨床心理士の嵯峨敏也だった。小笠原は緊張とともに告げた。「ええ。どうぞ」
「きのう、きみが送ってくれたメールを見たよ。率直にいって、きみの推測は間違っている。人間は思いこみによって能力を制限されたりはしない。当人にとって消極的にならざるをえない情報を吹きこまれた場合、理性との葛藤によって本来の能力が最大限発揮されないことはありうるだろうが、きみが書いたような凜田さんの症状には当てはまらない」
「そうですか......」
「いったい凜田さんの身に何が起きた? メールの内容のみから解釈するなら、異常が生じた原因はヤフーのトピックスを見たせいではなく、本当に『モナ・リザ』の目のなかの文字による影響ってことになる」
「ありうるんですか?」
「いや。ないね。精神疾患から催眠まであらゆる可能性を疑っても、百パーセントありえないといえる。だから心配しているんだよ。凜田さんはどうなってしまったんだ?」
鳥肌が立つような寒気が全身を駆け抜ける。小笠原は言葉を失っていた。
心理学の専門家までが原因に思い当たるふしがないという。莉子の観察力はなぜ失われたのだろう。どうして彼女ひとりだけが識別能力を欠いたというのか。
お人よし
二日が過ぎた。凜田莉子のいない世界は、まさに胸にぼっかりあいた空虚さそのものだった。明かりの灯っていないランプ。火のない暖炉と同じく、暗く陰気で寒々としていた。
大勢の社員がひしめきあい活気に満ちた『週刊角川』編集部で、小笠原はひとりデスクにおさまり、凜田莉子の無効化された臨時学芸員証を眺めていた。
パンチャーによって等間隔に穴がいくつか開けられてしまっている。莉子の顔写真に被害が及ばなくてさいわいだった。本人に渡す機会がなければ、記念品としてもらっておこう。
写真のなかの莉子はいつものようにすました猫のような顔で、まっすぐにこちらを眺めている。初めて万能鑑定士Qの店を訪ね、彼女と出会った瞬間を思いだす。あのときも莉子はこんなふうに無表情で、どこかぶっきらぼうな態度ながら親しみやすさが滲む、ふしぎな魅力を放っていた。
何度か莉子の携帯電話にかけてみたが応答はなかった。以前に波照間島に行ったときに、実家の電話番号もきいてあったが、そちらにかけるには勇気がいる。彼女の親が取りついでくれなかったらショックだし、もし莉子本人がでたとしても、それが最後の会話になってしまうかもしれない。
ため息だけが漏れる。小笠原は証明書に目を落とすしかなかった。
すると、ふと妙な感触が小笠原の胸をかすめた。おや。この名義は......。
デスクの上の電話が鳴った。反射的に受話器をとる。「『週刊角川』編集部、小笠原です」
女性社員の声が事務的にいった。「外線からお電話です。おつなぎします」
ほどなく、妙なイントネーションで男性の声がたずねてきた。「オガサワラ......サン?」
聞き覚えがある声だ、小笠原はそう感じた。「はい。どちらさまですか」
「あのですね」やはり外国人らしい。おかしな抑揚とともに男の声は告げた。「私、ベネディクトといいます。本名はそのう、違うんですけど」
ベネディクト......。
ぼんやりしていた頭に一気に血がのぼる、あいつか。カサンドラ・メイスフィールド女史の長男。いや、長男役といったほうが正解だろう。カタコトながら日本語が喋れたのか。
憤りを抑えながら小笠原はきいた。「なにか御用ですか」
「そのう......。小笠原さん。ほんとごめんなさい。申しわけないと思ってます。私も、私の母も、妻も、それに息子も」
小笠原は苦笑した。「メィスフィールド一家ってことですか。揃って反省してるって?」
「本当は王族じゃないです。けど、家族ってのは本当なんです。私たち、俳優一家です。就労ビザで日本に来ました」
「いまはどこにいるんですが、警察に出頭する気は?」
「......すみませんけど、それはできません。どこにいるかも明かせません。ただし、あのう」
「なんです?」
「本当にごめんなさい」ボキャブラリーが足りないらしく、同じいいまわしがつづく。ベネディクトの声は沈んでいた。「小笠原さんには、本当にお世話になりました。心から感謝してます。なにより。息子に......アランって名乗ってましたけど、彼にとても優しくしていただいて......。あなたは、私たちが王族でないと知ってからも、息子を助けてくれた。湖で溺れかけていた息子を」
「桟橋のすぐ近くだったし、僕が飛びこまなくても数秒後には誰かが助けに入ってたでしょう」
「とにかく感謝してます。ありがとう。......出頭はできませんけど、わけを話しますね。私たち。依頼されたんです。エインズワース公爵オーガスト王子の子供の家族を演じてくれって」
緊張が小笠原のなかを駆け抜けた。ボールペンを手にして小笠原はいった。「つづけてください」
「私の母......カサンドラ役ですけど、彼女は劇団の窓口になってます。その母のもとにメールがあったんです。母と、私の兄弟たちはパリに行かされて、あなたと接触しました。リムジンは、依頼人が用意してくれました」
あのチワワが駆け寄ってきた一件か。SPを演じていたのはベネディクトの兄弟だったわけだ。小笠原はたずねた。「依頼人って誰ですか?」
「わかりません。スミスと自称してましたけど、偽名でしょう。その後、母と兄弟たちは日本に帰ってきました。スミスからの第二の依頼は、あなたが取材に来るあいだ、ずっとメイスフィールド一家を演じつづけるというものでした。衣装だとか当面の費用はぜんぶ、スミスが用立ててくれました」
「......ひとりの日本人をだますべく一家が団結したわけですか。まともじゃないですね」
「すみません......。私たち、借金もたくさんあって、ほかに仕事も見つからなかったし、どうしようもなかったんです。今後も逃げきれるかどうかわかりません。でもあなたには、真実を伝えたかったんです」
「スミスと連絡はとれますか?」
「無理です。音信不通になっちゃいました。直接会ったこともないし、顔もわかりません。メールの依頼はいつも英文でした。あなたを二か月間だましつづけて、国内をあちこち連れまわしさえすれば、報酬が振りこまれる約束でした」
「ちょっと待った。二か月? するとまだ......」
「はい。きょうの時点で、ひと月半ぐらいしか経ってないですよね。途中でおまわりさんに見つかっちゃいましたから、そこで中断です。ギャラもパアです」
報酬なんか、最後まで仕事を果たしたところで貰える保証などなかったろう。小笠原は質問をつづけた。「僕をターゲットにした理由は? なぜなのかきいてますか」
「さあ......。ただ、私の母がパリに行ったときには、スミスからメールで随時指示を受けてました。ある朝、母はリムジンでルーブルの前に待機させられました。しばらくして、ケータイにスミスからのメールが届きました。『車外を見ろ』と書いてありました。レジーナ・ホテルからルーヴル美術館に三人の日本人が向かう。それぞれ違う二種類の通行証をさげている。通訳と、鑑定家と、記者。三人を見つけたら、リムジンをでて記者に接触すること。それが母の仕事でした」
小笠原は思わず唸った。あの朝、通訳・鑑定家・記者のトリオで美術館に入っていくとなれば......。テストの合格者だ。臨時学芸員に選ばれた鑑定家の同行記者に、スミスは狙いを定めていたのだろうか。
「なら」小笠原はきいた。「鑑定家に対しても何か指示を受けましたか。凜田莉子さんという名に聞き覚えは? 『モナ・リザ』については?」
「......さあ」ベネディクトの声は戸惑いの響きを帯びていた。「なんですか、凜田......さん? モナ・リザ? よくわかりません」
とぼけているのか。もしくは本当に知らないのか。この期に及んで疑いたくはないが......。
電話の向こうでざわめきがあった。ベネディクトの声はふいにあわてだした。「場所を移らないと。小笠原さん、ほんと感謝してます。あなたは息子の命の恩人です」
早口になった。電話を切ろうとしている。小笠原は咄嗟に呼びかけた。「ベネディクトさん!」
「......はい」
「アラン君を......というより、その役を演じてた息子さん、いい子ですよ。まっとうな道を歩ませてください。決して犯罪者にしちゃいけません。いいですね」
しばしの沈黙の後、ベネディクトの声は震えながらつぶやいた。「ありがとう......。きっとそうします。さよなら、小笠原さん。一か月楽しかったです」
電話は切れた。
受話器を戻しながら、深いため息をつく。俺はなんてお人よしなんだろう。ほかにもっと、たずねるべきことがあったはずなのに。
デスクの上、凜田莉子の臨時学芸員証に目が落ちる。
スミスなる人物は......俺と彼女を引き離そうとしたのか、帰国後、講義を受ける莉子を俺は取材できなかった。莉子のもとに戻ったとき、彼女は帰郷の意志を固めてしまっていた。
カードを見つめるうち、小笠原のなかで少しずつかたちになっていくものがあった。
知略に満ちた悪意が潜んでいる、そんなふうに思える。ただし......事実だろうか。
これまで俺は、何度となく先輩記者たちの真似ごとを演じたり、あるいは莉子に影響されて探偵を気取ってみたりして、その都度赤っ恥を掻いてきた。
今度も、断片的に見えてきた真実と感じられるものは、妄想にすぎないのではないか。
コカ・コーラの件で目もあてられない失敗をしでかしたとき、警視庁捜査二課の宇賀神警部に告げられたひとことが頭をかすめる。ドンマイ。彼はそういった。
不器用なのは重々承知している。それでも、一歩ずつでも前に進み、成長していきたかった。
世間に笑われるのにも慣れた。上司や同僚の軽蔑も日常茶飯事だった。でも人は力をつけていくものだ。波照間島で知ったことだが、莉子もかつては落ちこぼれの生徒だったではないか。
莉子と出会って。俺は変わりだした。彼女の店を訪ね、彼女の知恵と才能に驚きながら過ごす。永遠につづいてほしいと心から願う日々だった。学ぶことによって人は活路をみいだす、そんな希望の光を与えてくれたのが彼女だった。
いま彼女はひとりきりだ。俺以外の誰に彼女を助けられるというんだ。
また嘲笑される結果になってもかまわない。思考力も行動力も、すべて莉子のために費やしたい。
時とともに確信が深まっていく。嗅ぎ取った陰謀の香りは本物に違いない。故意にそんなことが可能になる人間がいるとすれば......。
あらましはわかった。だが、どうやったのだろう。何が莉子の知覚をくるわせたのか。
考えあぐねたが、やはり悪事について知恵など浮かばない。詐欺師を志したことはないからだ。
でも、本物の詐欺師なら、あるいは......。
じっとしてはいられない気分だった。小笠原は席を立った。
隣りの宮牧が見あげる。「どこへ行く? 午後からバーチャルアイドル柏田ユミ握手会の取材に同行するんだろ?」
「ああ......。行けないかも」
「何? マジかよ。バーチャルアイドルがどうやって握手するのか知りたがってたくせに」
「もっと気になることがあるんだよ。先輩にそう伝えておいてくれないか」
「冗談はよせよ。おまえ、いまずいぶんやらかしてんだぜ。ここでバックレたら本気で飛ばされるぞ」
ためらいは一瞬よぎった。しかし、迷うまでには至らなかった。もはや決心が揺らぐ段階ではない。凜田莉子をこのままにはしておけない。
小笠原はカバンを片手にデスクを離れた。「映画の看板を磨くのも悪い仕事じゃないしな。じゃ、編集長によろしく」
伝言
女子刑務所は全国に七つしかない。そのうち、最も新しくできた福島刑務支所は、塀に囲まれた広大な敷地の西側にある。通称、福島女子刑務所。二千人の受刑者のうち、女性のみ五百人がこの建物に収監されているらしい。
午後二時過ぎ、小笠原は牛込署の葉山警部補とともに、場違いに思えるほど明るい色彩に包まれた通路を歩いていた。窓に鉄格子が見えなければ、私立のデザイン専門学校かと錯覚するほどの陽気な内装だった。
葉山は浮かない顔でいった。「平成十八年に監獄法から受刑者処遇法に変わったんで、親族以外も面会可能になったのは事実ですけどね。あくまで建て前みたいなもんですよ。施設長の許可なんて、めったに下りるもんじゃありません。特に週刊誌の記者さんにはね」
「よくわかってますよ」小笠原は並んで歩いた。「だから葉山さんに声をかけさせてもらったんです。ここまでお付き合いいただいて、本当に感謝してます」
ふんと葉山は鼻を鳴らした。「凜田さんがおかしなことになってるのは知ってます。いつもの冴えがまるで見られませんでしたからね。でも、それとこの面接と関係あるんですか」
「意見をきいてみたいだけです。話ができそうなのは彼女ぐらいしかいませんから」
廊下の行く手に、制服姿の刑務官が立っていた。無言で壁の扉を指し示す。
葉山はため息とともに立ちどまった。「私はここで待ってます。なるべく手短に済ませてくださいよ」
心得てます。小笠原はそう応じて、扉のなかに進んだ。
狭い部屋だった。意外にも、ドラマで見かけるような仕切りガラスはない。中央にテーブルが置いてあって、向かいあわせの椅子がひと組ある。それだけだった。刑務官は、部屋の片隅に立った。さすがに受刑者とふたりきりにはさせないらしい。
やがて奥の扉が開いた。別の刑務官に案内されて、グレーの開襟シャツにスラックスを身につけた女性が入ってきた。すらりと痩せた身体つき、かつて明るく染めていたストレートのショートヘアも、いまは黒髪だった。
すっぴんだが、以前に会ったときと印象はあまり変わらない。透き通るような色白の肌に大きな瞳。やつれているかと思いきや、案外健康そうだった。
態度はずいぶんおとなしく思える。彼女に特有の尊大さも、いまは鳴りを潜めて見えた。おじぎをして椅子に座ると、背筋を伸ばしてこちらを直視してくる。
まっすぐ向き合うと、彼女しか持ちえない独特の個性が蘇ってきた。
髑髏の刺繍が入ったレザー、ゴスなミニプリーツに網タイツ、華奢な脚に異様に太く見えるブーツ。それらをいっさい身につけていなくても、彼女はパンクファッションの化身に思える。存在自体がパンクだった。
しばらく時間が過ぎた。沈黙を破ったのは、彼女のほうだった。
雨森華蓮は静かに告げてきた。「おひさしぶり。小笠原さんだっけ」
「......急にお呼び立てして悪いね。さっき、ファックスを送らせてもらったんだけど」
「ええ。受け取った。利口よね。受刑者との手紙の授受に際しては許可が必要になる。どうせ検閲を受けるんだから事前に送って読ませたほうが時間の無駄にならない。所轄警察署から送信すればまずもって却下されない」
小笠原と同い歳とは思えないほどの冷静沈着な態度。つんとすましてみえる高い鼻は小生意気にも思えるが、見下すことを許さない強烈なプライドが存在感につながっている。性格は受刑後もそう変わっていないようだった。
「ききたいことがあるんだけど」と小笠原はいった。
「答える義理はないわ」
「そう? じゃ質問を変えよう。ゴッホの『ひまわり』が偽物だったとき、ムンクの『叫び』は本物。では『叫び』が偽物だったとき、『ひまわり』のほうは?」
「......そりゃ、本物でしょ」
「どうして? 『叫び』が偽物だったとしても、『ひまわり』が本物とは限らないんじゃないか?」
「ふん」華蓮は小馬鹿にしたように鼻で笑った。「それって知能犯捜査課の刑事あたりが好む論理問題ってやつでしょ。たぶん付き添いで来てるのね。詐欺師はプライドがあるから、だんまりを決めこむわけにいかない。うまい誘導ね」
この質問の答えには、小笠原はいまだに釈然としなかった。葉山がいったとおり、華蓮は『本物』と回答した。それで正解らしいのだが、いまひとつ理解できない。
しかし、華蓮との会話の糸口をつかむのには役立った。小笠原は穏やかにいった。「ヨゾラは元気にしてるよ。凜田さんとワンルームマンションで仲良く同居してる。お店に連れてきてることもある」
華蓮の硬い顔が、かすかに和らいだようにみえた。
「そう」華蓮はつぶやいた。「ファックスの内容によると、Qちゃんはいま実家に帰ってるんでしょ。ヨゾラも連れていったの?」
「......いや。野良の黒猫と見間違えるような状況なんでね。管理人さんが預かってる」
はん。華蓮は天井を見あげた。「なにもかも放りだして逃げるなんて。Qちゃんらしくもない」
「その件だけどね。凜田さんの身に何が起きたんだろ」
「どうしてわたしにきくの?」
「雨森さんは......。凜田さんと知恵比べして、いい線いったわけだし、なにより......」
「詐欺師だから」華蓮はため息をついた。「小笠原さんはどう思ってるの?」
「わからない......。手段についてはね。でもこれは罠だよ。凜田さんを臨時学芸員にさせないように、初めから仕組まれてたんだ」
「誰の仕業? 具体を伴わない想像は妄想ともいうわよ」
小笠原は、凜田莉子の臨時学芸員証を取りだした。「凜田さんを蹴落としたのは、もうひとりの臨時学芸員。流泉寺里桜さんだ」
「ふうん。その根拠は?」
「この証明書が送られてきて、凜田さんは大はしゃぎだったと里桜さんはいってた。でもそんなはずがない。この名前を見てよ。日本語表記のほう」
華蓮はちらと証明書を見た。「凜田の凜の字が違ってるわね」
カードに記載されている名は〝凛田〟だった。小笠原はうなずいた。「世間一般にはよくある間違いだけど、自分の名の誤字を見過ごすはずがない」
「どうして? ヨゾラを別の猫と見間違えるなら、漢字のミスにも気づかないかもよ」
「彼女は大家さんが作った解約申込書の誤字を指摘してた。同じ凜の字違いでね。そのときの態度から考えても、名前の違う臨時学芸員証が届いて大喜びなんて考えられない」
「ならどんな可能性があるって?」
「この証明書は凜田さんのもとには届けられていなかった。彼女はそれ以前に辞職扱いになってたんだ」
しばしの沈黙の後、華蓮の冷やかな目がこちらを向いた。「出版社勤めなだけに文字校正に慣れてるのね。キヤノンってのもあなたが気づいたんだって?」
「いちおう記者だけど、デスクワークばかりやらされてるからね」
「そこまで判っているのなら、なにを悩むことがあるの?」
......華蓮は小笠原の推測を否定しなかった。ここまでは正解なのか。小笠原は緊張とともに華蓮を見つめた。「なぜ凜田さんが観察眼を失ったのか、それがわからなくて」
「で、どんな方法が考えられるか、わたしに聞きにきたわけ」
「雨森さんならあるいは、何か思いつくんじゃないかって......」
華蓮の瞳がじっと小笠原を見据える。虹彩のいろが、わずかに変わって見えた。華蓮は落ち着き払った声で告げてきた。「Qちゃんに伝えておいてくれる?」
手は届く
波照間島の夜はやや蒸し暑い。莉子はノースリーブのワンピースを着て、自室のベッドの上にうずくまり、ただ壁を眺めていた。電灯は点けていない。窓から差しこむ月明かりだけが唯一の光源だった。
十八歳で上京したころに流行っていたアーティストのポスターが、壁に貼られたままになっている。昼間、強烈な陽射しに晒されるせいもあって色褪せが著しい。
結局、ここに帰ってきた。半ば唐突な里帰りだったが、両親はわけもきかず、温かく迎えてくれた。わたしに対しては、何があっても受けいれようと心にきめているのかもしれない。
迷惑をかけてばかり......。莉子は泣きそうになって、膝の上に顔を伏せた。
きょうの昼過ぎ、同級生の嘉陽果葵の紹介で石垣島の病院に行った。看護師の葵は、島で唯一の脳神径外科医のスケジュールを無理やり開けさせて、わたしを診させた。
MRIで検査したが、なんの異常もみとめられないという話だった。少なくとも、目に見えるかたちで障害は発生していない。医師は、心の問題だろうといった。極度のプレッシャーのせいで精神面がぐらついている可能性もある、そう告げた。
違う......。わたしはずっと前向きだった。不安はあっても着実に自信を育ててきた。ブレによるトレーニングで鑑定眼を向上させた、その矢先の出来事だった。
すべてを失うときがくるなんて。それも、こんなに唐突に。
ふいに起きた事故のようなものかもしれなかった。理不尽に思えても、現実を受けいれざるをえない。あの『モナ・リザ』の瞳のなかの文字以外、原因なんか考えられない......。
上京してからの五年間、のぼりつづけた階段は消滅し、わたしは地面に叩きつけられた、衝撃から立ち直ろうとしても、かなうものではなかった。
勉強を積み重ねて頑張ってきたのに、何ひとつ残らなかった。信頼を寄せてくれた人たちの期待を、ことごとく裏切ってしまった。
もう誰もわたしを頼ってはくれないだろう。以前と同じような閃きを求められても、わたしに真実は見えない。行動を起こしたところで、失意と落胆だけが待っている。これ以上、誰にも迷惑はかけたくない。
チープグッズ店長の瀬戸内陸に約束した言葉を思いだす。人のために尽くしたい、わたしはそういった。
みずからに課した誓いさえ果たせなかった。どれだけ無力な存在なのだろう。
思いがそこに及んだとき、涙をこらえきれなくなった。莉子は声を震わせて泣いた。
自分の身に起きたことの理由すらわからず、ただ泣くしかないなんて。情けなさすぎる
いくらか時間が過ぎた。妙に玄関のほうがあわただしくなった。
母の声がする。あらあ、遠いところをわざわざ......。ちょっと、お待ちになって。
ずかずかと廊下を進む足音がする。それから父の声がきこえた。ああ、あんたかね。どうしたのさー、そんな怖い顔をして。
足音が近づいてくる。やがて部屋のドアをノックする音が響いた。聞き覚えのある男性の声が告げてくる。「凜田さん?」
......小笠原さん? 莉子はびくっとした。なぜこんなところにまで......。
ノックは何度かつづいた。莉子が困惑したまま凍りついていると、ふいにドアが開いた。小笠原の顔が覘きこむ。「失礼します」
母の優那かあわてたようすで制止にかかった。「そんな強引に......。莉子は体調を崩して休んでるさー」
「ええ」小笠原はうなずいた。「知ってます。だから健全な状態に戻すために来たんです。悪いけど、明かりつけるよ」
パチンとスイッチの入る音がした。まばゆいばかりの光が目に飛びこんでくる。莉子は思わず顔をそむけた。
小笠原は歩み寄ってくると、莉子に手を差し伸べてきた。「問題を放りだして逃げちゃ駄目だよ。さあ、東京に戻ろう」
莉子は戸惑いを覚えるしかなかった。
少しずつ状況が飲みこめてくる。小笠原はわたしを連れ戻しにきた。励まそうとする意思もあるのだろう。しかし、そのおこないはやや的外れだった。わたしは元気づけてほしいのではない。
喉にからむ声で莉子はつぶやいた。「いいから。もうほっといて」
「そうはいかないよ。このままふさぎこんでるつもりか? 将来にかかわることだよ」
「わたしの個人的な問題なんだから、構わないで」
「きみひとりじゃなくて、ほかにも大勢の人が困り果てる事態になるといったら? 助けなくてもいいの? さあ、旅の支度をして」小笠原は莉子の手を握って引っ張った。
「やだってば!」莉子は身をよじって抵抗した。「わたしにはもう何も見えないの。何もできない。ただの田舎の馬鹿娘でしかないんだから、干渉しないで」
「がっかりさせんなよ!」
莉子はびくついて息を呑んだ。
「あ」小笠原はふいに当惑ぎみにいった。「あのう、ごめん......。これは僕のセリフじゃなくて......。伝えてほしいっていわれたんだ。雨森華蓮さんに」
......華蓮に? 彼女のわたしに対するひとこと。それがいまの......。
ふたしかな感情が渦巻く。莉子は黙って小笠原を見つめるしかなかった。
小笠原は、優那を廊下に追いやりながらいった。「ふたりきりで話をさせてください」
「え?」優那は面食らったようすだった。「ちょっと。莉子、あんたはいいの? 男の人を部屋に招くなんて初めてでしょ。前もって教えてくれてれば掃除しといたのに......」
母の愚痴っぽいつぶやきが、閉まるドアの向こうに消えていく。
室内は静寂に包まれた。小笠原はカバンを開けてまさぐっている。やがてハガキ大のカードをひと束取りだした。
それは『モナ・リザ』が印刷されたポストカードだった。同じ物が複数枚ある。
莉子は意気消沈しながらささやいた。「勘弁してよ」
「そういわないで」小笠原はポストカードを床に並べだした。「これ、ぜんぶで十二枚ある」
「何をするつもり?」
「僕だけじゃなくて。きみと一緒にやるんだよ。見て。どれも同じ『モナ・リザ』。このなかの一枚が本物で、残り十一枚が偽物だと仮定しよう」
小笠原はポストカードを次々に裏返していった。どのカードの裏にも×印が書いてある。ただ一枚だけ、〇印がつけてあった。「×は偽物。〇は本物。この本物の一枚を見つけだしてこそ鑑定家」
「だから、なんの話? ポストカードはぜんぶ同じ印刷でしょ? 『モナ・リザ』の写真にはなんの違いもないでしょ」
「いいから。あくまで仮定だって」小笠原は『モナ・リザ』面を上にしてポストカードをかき集めると、ふたたびそれらを床に並べた。
十二枚の『モナ・リザ』。どのカードの裏に〇印がついているかはわからない。
「さあ」小笠原はいった。「まずはきみからだよ。贋作と思う二枚を選んで」
「こんなことをして、いったい何に......」
「頼むよ。凜田さん。もしすべてを終えても意味がないと思うんなら、僕が現れるのもこれっきりになる。最後のお願いだと思ってきいてくれないか」
真摯な目がじっと莉子を見据える。莉子は当惑するしかなかった。小笠原から別れを告げられた。二度と会えなくなるかもしれない。
わたしはいま、どう思っているのだろう。わからない。でも、意地を張って突っぱねてばかりはいられない。彼は、わたしのために来てくれたのだから......。
ため息とともに莉子はベッドから下りて、床に座った。『モナ・リザ』を眺め渡す。
贋作の二枚を選ぶといっても、あくまでシミュレーションだ。観察したところで違いが見つかるわけでもない。莉子はでたらめに二枚を指さした。「これと、これ」
小笠原はそれら二枚を手にとった。「よし。じゃ、僕が一枚を排除して、一枚を元に戻すよ。次は僕の番だ。二枚を選ぶ。これとこれだ。凜田さん、よろしく」
一枚を除外、一枚を戻す。どちらでも同じことだ。今度も莉子はてきとうにやってのけた。
作業はつづいた。莉子が二枚を選択。小笠原が一枚を捨て一枚を戻す。交互に同じ手順を踏んでいき、カードは一枚ずつ減っていった。
でたらめな作業だ。本物と仮定した〝〇印〟付きの一枚は、途中で排除されてしまうだろう。その確率が高い。ふたりとも無作為に一枚ずつ除外している以上、十二分の一の確率の〝当たり〟が残るはずもなかった。
最後の一枚。小笠原が目でうながしてくる。莉子はそれを裏返した。
とたんに、全身に電気が走るような衝撃を覚える。
ポストカードの裏に書かれていたのは〇印だった。残った一枚は〝本物〟だった。
「......ど」莉子は思わずつぶやいた。「どうして......?」
小笠原は排除した十一枚の〝偽物〟を取りあげて、ふたたび〝本物〟と混ぜ合わせた。
「もう一回やってみようか」
莉子は息を呑んだ。小笠原が何か仕掛けたのだろうか。しかし、カードを排除するチャンスは彼とわたし、ふたりに半々に与えられている。わたしの番では自由にカードを選択している。彼ひとりの作為によって、たった一枚の本物が残せるとは思えない。
実験は再度試みられた。そして、結果はまるで同じだった。最後に残った一枚、その裏は〇印だった。
呆然としながら莉子はきいた。「華蓮が教えてくれたの?」
「いや。雨森さんはヒントしかくれなかった。さっききみに伝えたメッセージとともにね......。『モナ・リザ』の絵葉書を十二枚買って、飽きるまでやってみることねって、そんなふうにいってた。だから僕は都内の雑貨店を探しまわって、馬鹿正直にこれらを買い集めたよ。でも『モナ・リザ』のポストカードである必要はなかったな。同じカードが十二枚あれば、なんでもよかったんだ」
ようやく莉子は、鈍い思考の感触を覚えつつあった。
深く、長いため息が漏れる。莉子は肩を落としてつぶやいた。「なんてこと......」
「からくりがわかった?」
「......ええ。小笠原さんは最初の時点で、〇印のカードがどこに置いてあるか把握してた。たったそれだけで、この奇跡を毎回成功させられる」
わたしが選んだ二枚のうち、もし一枚が〝本物〟なら、彼がそれを戻せばいい。彼が二枚を選ぶときには、かならず〝本物〟を避ける。その繰り返しだけで、最後の一枚に〝本物〟が残る。
こちらが勘を頼りに一枚ずつ除外するため、たとえ相手が〝本物〟の位置を知っていたとしても、故意に特定の一枚を残すことは不可能に思える。まさに奇跡と信じるに足る現象だった。しかし、実際には、そんなことはなかった。これは心理の盲点を突いた巧みなトリックだった。
小笠原は穏やかな顔でうなずいた。「さすが、早いね。僕は空港のロビーでポストカードを並べて、ずっと考えあぐねてた。機内でようやく真相に気づいたぐらいでね。それも、雨森さんのヒントなしには無理だったよ」
「......ねえ。もし、わたしが最初に二枚を取るんじゃなくて、小笠原さんから始まっていたとしたら......」
「成立しないね。最後に二枚残った段階で、一枚を排除し一枚を戻すのが凜田さんの番になっちまう。すると凜田さんが本物を除外しちゃう可能性があるからね。絶対に凜田さんから始めないと」
......そうだったのか。
わたしはブレに対し、里桜から始めてほしいと頼んだことがあった。だがブレは、莉子からやるべきだといって譲らなかった。
十二枚の額縁を並べたのはブレ。彼と里桜はグルだった......。
「凜田さん」小笠原が見つめてきた。「もうわかると思うけど、この実験には鑑定の技能は必要なかった。十二枚の表面の絵はすべて同じで、本物なんか一枚もない。このポストカードと同じように、一枚だけ裏側が本物らしく細工してあっただけだ。けど、流泉寺さんたちは最初のうちはわざと失敗に導いて、徐々に成功するように持っていき、あたかも観察力が向上したかのような錯覚をきみに与えたんだ」
「そうよね。あれだけ熱心にトレーニングしたんだもの。正しい訓練が能力を伸ばすのと同様に、誤った訓練は間違いを助長させる。なんの違いもない十二枚なのに、直感で見分けられると信じちゃったから......。視覚で正確な情報をとらえられなくなって観察に誤解が生じてる。対象をよく見ていないのに、見たと錯覚しちゃってる」
「嵯峨先生にきいたんだけどね。反復学習は心理的なものだけじゃなくて、実際に脳の回路に影響を与えるそうだよ。シナプス結合ってやつで、ええと......」
莉子はうなずいた。「細胞間に神経伝達物質が放出されて、受容体と結合することで情報伝達の道筋になる。誤った観念を正しいと学習したら、そのような水路づけがなされてしまうから、以降は間違ったかたちでしか知覚が働かない。......わたしはいまそうなってるのね。脳の回路が改変されちゃってる」
「でも正確な情報を得て、それに基づいた行動をとっていればほどなく元に戻る。スランプに陥った野球選手が勘を取り戻すのと同じだ、って嵯峨先生がいってた」
「あの『モナ・リザ』の目のなかの文字は......? 脳に影響が及ぶって記事は?」
「それなんだけどね。ヤフーの記事を検索したけど、そんなものは見つからなかったよ」
「あったのよ。トピックスに。モナ・リザの瞳の文字で脳機能低下」
「『低下の可能性も』とかそういう表現じゃなくて? 低下っていいきってあった?」
「ええと......『低下!?』だった。感嘆符に疑問符」
「それはヘンだよ。凜田さん。ヤフーのトピックスには疑問符はつくけど、感嘆符はつかない決まりだ。ニュースの重大性が伝わりにくくなるからって」
「あー、いわれてみれば、たしかに。じゃあ......」
「サイトってのは丸ごとコピーして別のURLにアップできる。ブラウザのアドレス欄が非表示にしてあれば気づけない。ヤフーのトップページを見れば、誰でも本物と信じるだろう。一部がいじられていることにも気づかずに」
そうだったのか......。あのとき読んだのは、里桜たちがでっちあげた偽のニュースサイトだ。脳機能の低下など、世間には噂すら存在していなかった。
安堵とともに、憤りが沸きあがってくる。莉子はつぶやいた。「洋館で観た『モナ・リザ』......。十二枚とも偽物だったのね。本物と信じた一枚に魅了されてたわたしが馬鹿だったわ」
「その時点ではもう、きみの識別能力は狂わされていたんだ。やむをえないことさ」
「ダ・ヴィンチの手稿や、ほかの画家もぜんぶそう。十二枚とも偽物。ブレはただのぺてん師だわ。......いえ。あれはブレじゃなかったのかも」
「どういうこと? ルーブルが別人を紹介してきたのかい?」
......いや。ルーヴルは間違ったことはしていない。思わぬところに罠が仕掛けられていた。わたしを臨時学芸員から外させることが最終目的とは思えない。里桜たちは何を狙っているのだろう。
莉子は居ずまいを正した。「東京に戻らなきゃ。真実を暴かないと」
「よしきた」小笠原はポストカードをかき集めてカバンに押しこんだ。
その小笠原の笑顔を眺めるうちに、莉子は胸が締めつけられるような思いを抱いた。
彼はわたしのために、ここまで来てくれた。真実に目を向ける機会を与え、絶望の淵からわたしを救いだしてくれた......。
小笠原が上目づかいにこちらを見た。「どうかした?」
「......いえ」莉子はあわてて目を伏せた。「なんでもない」
顔面が紅潮するのを覚える。室内の温度がなぜか急上昇したように思えた、早くここをでたい、そんな欲求だけが募った。
カバンを手に小笠原が腰を浮かせた。「漁師さんに交渉してあるんだよ。石垣島まで船をだしてくれるってさ」
「さすが」自然に笑みがこぼれる。莉子は立ちあがった。「行きましょう。羽田に飛ぶ便があるうちに」
わたしは欺かれた。ということは、わたしに知られては困る真実があるはずだ。莉子は唇を噛んだ。手は届く。隠れた陰謀を白日のもとに晒さねば。
論理的思考
石垣島発羽田行、JTA078便のシートにおさまった莉子は、夜の暗闇に瞬く空港施設のランプを眺めていた。
間もなく離陸だった。隣りの席に座る小笠原が、機内情報誌を開いて差しだしてきた。「サハラ砂漠って綺麗だよね。旅行したくなるだろ?」
見開きのグラビアページに、壮大な砂丘の写真が掲載されている。逆光のなかに、列をなして進むラクダの群れが見える、ただし......。
莉子はいった。「これサハラ砂漠じゃないでしょ。ラクダのコブがふたつあるし。中央アジアのゴビ砂漠よ」
「当たり」といって小笠原は指で隠していた部分をしめしてきた。ゴビ砂漠、としっかり記してある。「もう勘が戻ったんじゃないか?」
「いえ......。まだ細かい観察には問題があるみたい。空港に来るまでの道端に見かけた植物も、ハマゴウかミツバハマゴウか区別できなかったし」
「いつもそんなこと考えながら生きてるのかい? 目が疲れるだろ」
「頭の回転も鈍ってるかも......。だまされっぱなしで混乱してるし」
「だいじょうぶだよ。試してみる? 葉山さんが教えてくれた問題だけど」
「ぜひ」
「ええとね。ゴッホの『ひまわり』が偽物だったとき、ムンクの『叫び』は本物。では『叫び』が偽物だったとき、『ひまわり』は?」
思考にはさほど時間を要さなかった。莉子は答えた。「本物。それがどうかした?」
小笠原は面食らったようすだった。「雨森華蓮もそう答えたんだよな」
「なにか疑問がある?」
「ああ。『叫び』の真贋がどちらであっても『ひまわり』が本物とは限らないはずだろ?」
「そうでもないのよ。可能性は四つに絞りこめるし」
「四つ?」
「『ひまわり』『叫び』ともに本物。『ひまわり』は偽物で『叫び』が本物。『ひまわり』が本物で『叫び』が偽物。『ひまわり』も『叫び』も偽物。でもこの四番目は除外される。『ひまわり』が偽物だったとき『叫び』は本物って前提があるから」
「ふうん......。それで?」
「残る三つのうち『叫び』が偽物なのはひとつだけ。そこでは『ひまわり』は本物ってことになってる。だから『叫び』が偽物だったとき『ひまわり』は本物になる」
小笠原は目を白黒させていたが、やがて頭を掻いていった。「生半可な心構えじゃきみの思考にはついていけないな。そのことだけはよくわかった」
莉子は苦笑した。「葉山さんが好みそうな問題よね」
「当たり。あの警部補さん、見かけによらず小難しく考えるのが得意なんだね」
「そりゃ、知能犯捜査係だから......。初めて会ったときもそうだったし」
「へえ......。いつの話?」
「三年前かな。店をだしたばかりのころ」莉子のなかに、ふと閃くものがあった。「ねえ。葉山さんにもうひとつ頼みごとできないかな?」
「どんなことを?」
「所轄違いなんだけどね」莉子はシートの背に身をうずめた。「刑事さんが一緒にいてくれれば話が早そうだし」
1+1=0
翌朝、九時をまわっていた。澄んだ青空がひろがっている。莉子は北の丸公園にほど近い、閑静な住宅街にいた。
港区六本木七丁目三十三番八号の洋館、その玄関の扉を、管理会社の職員である中年男性が解錠にかかっている。
もうひとり、小笠原が呼び寄せてくれた助っ人は、手持ち無沙汰そうに庭をうろついていた。「所轄違いですよ。私は願いごとを叶える神様じゃないですし」
小笠原がにやりとした。「そんなこといって、凜田さんのために尽力してくれるんだから、やっぱ頼れる人ですね。葉山さんは」
「ふん。強制捜査の令状をとれというのなら無理ですけど、不動産屋につきあう程度ならね」
「おかげでこの屋敷が借家だってことも判明したし、話も通りやすくなりました。感謝してます」
職員が振りかえった。「こっちとしても声かけてもらって助かりましたよ。借主が家賃を滞納しっぱなしなんでね。しかもこのところ留守にしてるみたいだし、夜逃げを疑ってたところですよ」
莉子は職員にきいた。「契約者は外国人ですか?」
「いえ。日本人の若いお嬢さんでしたよ。名前は契約書を見ないとわからないけどね」
流泉寺里桜に違いない。莉子は辺りを見まわした。「この近所で、ルーヴル美術館が施設として所有する戸建てはありませんか?」
「ええと......。ルーヴルかどうか知らないけど、フランスからたまに人がやってくる家なら、この裏手にあるよ。七丁目五十三番六号だな、少し前まで夜間は窓に明かりが見えたから、誰か来てたんじゃないかな」
「そうでしょうね」莉子はため息をついた。「里桜が講習を受けてたんでしょう。本物のリシャール・ブレ氏から」
小笠原が眉をひそめた。「なんだって? 本物のブレって......」
「ルーブルで合格の知らせを受けたとき、オディロン・ボワイエ氏がブレ氏の連絡先のカードをくれたでしょう。里桜が二枚を受け取って、一枚をわたしにくれた。でもその一枚は、里桜があらかじめ用意した物だったのよ。彼女は以前にもラファエッロ展で臨時学芸員に採用されてるから、合格後に渡されるカードがどんな物か知っていた。電話番号とメアドだけ差し換えて複製したんだわ」
「その偽の連絡先に待ちかまえていたのは、リシャール・ブレを装う別人だったわけか」
「同じ六本木七丁目にあるこの屋敷を借りて、わたしをこっちへ誘導した。里桜はたびたび抜けだしては、本当のルーヴルの施設に行き来していた。近所だから移動しやすいし」
「流泉寺里桜はひとりで講習を受けて、まんまと臨時学芸員になったわけだ。いっぽうの凜田さんはずっと欠席扱いで......」
「たぶん、里桜を通じて辞職を願いでたことになってたんでしょう。講習期間中にもわたしの口座には報酬の振り込みがあったけど、振り込み依頼人の名義なんてどうにでもなるから、あれもきっと里桜による偽装ね。候補からすでに外されていることにわたしが気づかないよう、偽の報酬を送金したのよ」
「なにごともフェイクか。僕の一か月間と同じだな。イギリス王室ゆかりの家族の取材って触れこみで、全国を連れまわされたよ。毎週土日だけは家に帰れたけど、平日はずっと国内旅行」
「そんなことがあったの?」
「ああ。覚えてる? ルーヴルの前で会った、チワワを連れた婦人。あの一家だよ」
「......あのご婦人なら、高貴な人のわけないでしょう」
「どうして?」
「SPがいるにもかかわらず、リムジンの後部ドアを自分で開けてたし」
小笠原は心外だという顔になった。「気づいてたなら、教えてくれればいいのに」
「その後の展開なんて知るよしもなかったから......。でもどうして小笠原さんをそんな目に遭わせたの?」
「僕をきみから遠ざけるため......じゃないかな。取材できないようにしたんだと思う」
少しばかり腑に落ちない。講習の場所は部外者には秘密という前提だった。小笠原の身体があいていても、わたしへの取材は当面できなかったはずだ。連れまわされたのが平日のみというのも不可解だった。
がちゃりと音がした。職員が扉をそろそろと開ける。「どうぞ」
莉子は率先して踏みこんでいった。薄暗いホールは、先日までとなんら変わるようすもなく、厳かな雰囲気を保っていた。壁の『モナ・リザ』のタペストリーもそのまま放置してある。テーブルの上には、ダ・ヴィンチ関連の書籍が山積みになっていた。
ドアを開けて隣りの部屋に入る。いっそう憂鬱にさせる眺めがあった。
床に放りだされた無数の額縁。ダ・ヴィンチの手稿、同時代の画家、そしてなにより『モナ・リザ』。
葉山が覗きこんでいった。「贋作の山か。犯罪のにおいがぷんぷんするな」
いや。これらの贋作はもう使用済みだ。テスト後に回収されたはずの『モナ・リザ』のうち六枚が残されていた。あのとき目にした十二枚のなかに、本物など含まれていなかった。ひと足早く極秘に日本に来ていたというのも嘘だろう。何もかもが偽装だった。わたしはこの屋敷で、茶番にひと月以上もつきあわされた。
部屋をでてホールの階段をのぼる。里桜はわたしを脱落させ、自分ひとりだけ臨時学芸員になった。いったいその目的は何だろう。
里桜の寝室に踏みこんだ。デスクの上が散らかっている。莉子はそこに歩み寄った。
ハンダゴテが横たわっている。ねじ回しやペンチなどの工具もあった。
小笠原が入室してきて、莉子と並んでデスクを見おろした。「ラジオでも直してたのかな? おや。ケータイがあるよ」
小笠原はデスクから携帯電話を取りあげ、莉子に差しだしてきた。
ドコモのL-01Cだった。受け取って液晶表示を眺める。電池は底を突きそうだった。電話帳データを検索してみたが、莉子の番号のほか無難な連絡先しか登録していない。メールの履歴も調べたが、里桜と初めて会って以降ごく最近までの、莉子とのやりとりが残されているだけだった。
画面を覗きこんでいた小笠原が首をかしげる。「怪しむべきところはなさそうだな」
「いいえ」莉子は直感を口にした。「これはあくまで副次的に契約してたケータイにすぎないわ。だからほったらかしにしてあるのよ。もうひとつ、スマートフォンを持ってるはず。共犯者である偽のブレ氏との連絡用に」
「どうしてそういえる?」
「乃木坂駅前で里桜と待ち合わせたでしょう。あのときの彼女の手袋、覚えてない? 艶消しの黒だけど、指先だけグレーのツートンカラー。嵌めたままタッチパネルが操作できる手袋よ。親指と人差し指の先に導電性の糸が縫いこんであるの」
小笠原がふっと笑った。
莉子はきいた。「どうかした?」
「いや。なんだか嬉しくて。いつもの凜田さんが戻ってきた気がして」
しばし小笠原の横顔を見つめるうちに、莉子も自然に笑みがこぼれた。「そうかな。でも、たしかに調子がでてきたかも」
引き出しを開けてみる。そこにはなぜか、電卓がいくつも詰めこんであった。いずれも裏蓋を外してある。プリント基板に銅線が這わせてあるうえに、ハンダがあてられた痕もあった。ごく簡単な改造が施してあるようだ。
「なんだろ」莉子は電卓のキーを叩いてみた。「1足す1は......。あれ。0になっちゃった。2かける6......。やっぱり0」
すると小笠原がいった。「『モナ・リザ』の金庫だ......。暗証番号の数列を決めるために、バシュレって人が電卓を使うんだよ。心理的な癖を避けるために、でたらめに足したり引いたりした答えを入力するって」
さまざまな機種の電卓を用意し、片っ端からいじってある。どんな細工をおこなったかはいまだ判然としない。だが、そういうことなら『モナ・リザ』の保管と無関係ではあるまい。
莉子はデスクの前を離れた。「狙いが読めてきた。ぐずぐずしていられないわ。行きましょ」
「あ、凜田さん。ちょっと待って」
足をとめて振りかえった莉子に、小笠原は一枚のカードを差しだしてきた。
「これ」小笠原が穏やかにいった。「渡しそびれてた......。きみの臨時学芸員証だよ。もう無効になってるけど」
「......初めて見た」
「やっぱりね。きみのもとに送る前に、流泉寺さん経由で辞退の申し出があったんだろう。それで穴が開けられちゃったんだ」
莉子はそれを見つめた。紛れもない、ルーヴル発行の本物の臨時学芸員証。苗字が凛田になっているのが難点だが、よくある間違いだ。辞退する前なら訂正し再発行してくれただろう。それよりも......。
無残に穴の開いたカードを眺めるうち、莉子は思わず泣きそうになった。
本物のブレ氏のほうの講義には、あの妙なトレーニングなどない。ルーヴルにおけるテストに合格した時点で、わたしは臨時学芸員に登録されていたのだろう。帰国後、講義への取材が禁止されていたために、わたしが辞退したことは報道されなかった。ゆえにわたしも真実に気づけなかった。
失われたものは戻らない。栄光の日々は去った。短い夢だった。涙をかろうじて堪え、踵をかえす。
どんなに傷つけられても、悪事は見過ごせない。『モナ・リザ』はこの手で守る。
百年
本物の『モナ・リザ』を展示する。それが流泉寺里桜の信念だった。本物と称する偽物を人々の目に触れさせてはならない。
午後十時をまわった。すでに職員も引き払ったはずだ。地下一階の廊下は消灯している。ほかのフロアも同様だろう。
里桜は潜んでいたロッカールームを抜けだした。靴は脱いで裸足になっている。音を響かせないためだった。縦七十七センチ、横五十三センチの木板を携えている。それも、ごく慎重に扱わねばならない。走って振動や風圧を与えるわけにはいかなかった。
服装はスーツのままだったが、静寂のなかの衣擦れがやけに耳障りに思える。焦る気持ちを抑えながら、ゆっくりと階段を下りて地下三階に向かう。
東京国立近代美術館、職員専用のフロア。絵画のコンディション・チェックがおこなわれるその広大な空間も、いまはひっそりと静まりかえっている。非常灯におぼろに照らしだされる視界にひとけはない。
奥にある金庫の扉にまっすぐに向かう。日本の美術館は防犯よりも防災に比重を置いているせいで、ルーブルのような厳重なセキュリティを施す習慣がない。タイムロック式でもなければ解錠の記録を残すメモリーもない。監視カメラも備わっていない。確認済みだった。
この電子ロックを施錠するとき、バシュレ氏は任意の暗証番号を決め入力した。番号を知るのは彼ひとりだけ。少なくとも本人はそう思いこんでいる。だが、それは事実に反する。
テンキーに指を這わせると、里桜は入力した。19840516。
ピッと音がして、内部で閂が滑る鈍い音が響く。里桜はハンドルを握り手前に引いた。扉はスムーズに開いた。
暗がりを懐中電灯で照らす。やや肌寒い。油彩画の保存に適した環境に調整してあるからだった。
棚の上には、すでに何もなかった。予定どおりだと里桜は思った。彼には、事前にiフォーンでメールを送信しておいた。暗証番号は彼にも伝わっている。すでにここに立ち入り、持ち去ったのだろう。ルーヴルが一世紀に渡り、本物と称しつづけた『モナ・リザ』を。
贋作を排除するのが彼の役目。そして真作を置くのがわたしの務め。里桜は棚に歩み寄った。本物の『モナ・リザ』はここにある。水平にして、そっと棚に横たえる......。
計画どおりに進行できたのは、そこまでだった。
視界がふいに、まばゆいばかりの光に包まれた。
金庫室の照明が点灯した。いや、扉の外も明るくなっている。フロア全体が照らしだされていた。
突然の出来事に思考がついていかない。目に映るすべてのものがスローモーションのごとく見えていた。制服の警備員が群れをなして金庫室に踏みこんでくる。いや、警備員ではない。警官だとわかった。
ルーヴルの学芸員も姿を現した。オディロン・ボワイエは血相を変えてつかつかと歩み寄ってくると、棚に伸ばした里桜の腕をつかんだ。力ずくで里桜を『モナ・リザ』から引き離そうとしている。しびれるような激痛が襲った。ボワイエは手加減なく握力をこめてくる。
と同時に、警官のひとりが『モナ・リザ』を無造作に取りあげた。それを小脇に抱え、金庫室の外にでていく。
待って。里桜はあわてて呼びかけようとしたが、声にならなかった。訴えようとする思いだけが募る。乱暴に扱わないでよ。その絵は本物なのよ......。
警官たちはボワイエに代わって里桜に群がり。金庫室から連れだそうとした。
身をよじって抵抗することもできた。けれども里桜はそうしなかった。
抵抗など無意味だ。それより真実を伝えねば。このわからず屋たちの耳がいかに遠くとも、説得しなければ......。
里桜は乱暴に金庫室から引きずりだされた。フロアには、ぎょっとする眺めがあった。
埋め尽くす制服警官の数はざっと三十人以上。厳めしい顔をしたスーツの一団は私服警官だろう。彼らも十人以上はいる。そして、顔見知りのフランス人たち。ボワイエのほかに、金庫を施錠したバシュレ、さらには来日中の学芸員のほとんどが勢ぞろいしていた。
学芸員とは、すなわち浮世離れした厳粛さに満ちた人々。これまで里桜はそう感じていた。知性と芸術性のみを支えに生きる貴族のような存在、そのように信じて疑わなかった。
だがいま、彼らの印象はまるで異なってみえる。感情が渦巻いていた。ときに人形のごとく思える端整な顔たちのフランス人たちは、いま誰よりも本能を剥きだしにしていた。
こちらに向けられたまなざしは、きょうの夕方までのものとはまるで異なる。反感、侮蔑、敵愾心。およそ好ましくない感情ばかりが籠もった視線。その矢面に立つのはわたしだった。
......すべて見抜かれていたのか。だが、それならなぜわたしがこんな行為に及んだか関心を持つ者もいるはずだ。
里桜はフランス語で告げた。「きいてください。金庫室にある『モナ・リザ』は贋作です。この百年間ずっとそうだったんです。本物はわたしが持ちこんだほうの......」
すると、ふいに女性の声が遮った。「違います。そっちこそ偽物です」
警官たちの人垣がふたつに割れる。スーツを着た、すらりとした体型の日本人女性がそこにいた。猫のような瞳は豹の鋭さを帯び、まっすぐにこちらを見つめている。
凜田莉子。記者の小笠原もいた。ふたりの視線もやはり前とは違い冷やかだった。状況を鑑みれば、それも当然だろう。
しかし、わたしのおこないを表層のみで捉えてほしくはない。
沈黙が漂うなか、莉子は歩み寄ってきた。「間に合わなかったみたいね......。『モナ・リザ』はもう盗まれちゃってる。網を張るのが遅かった。ひっかかったのは、生贄にされたあなただけ」
莉子......。いまの言葉はどういう意味?
「なんの話よ」と里桜はつぶやいた。「生贅ですって......?」
小笠原がスーツのポケットから小物を取りだした。電卓だった。
それを指さして莉子がいった。「たくさん買いこんで細工の練習をしてたのね。金庫を開閉する人がどんなふうに暗証番号を決めるかによって、あなたの対応も違ってくる。バシュレ氏が電卓を使うと知って、このやり方を選んだんでしょう。臨時学芸員は絵に近づけないけど、備品の管理は任されている。バシュレ氏の電卓にも手を加えられる」
「......どんな細工を施したかも承知してるようね」
「当然」莉子は電卓のキーを叩いた。「試作品の電卓は、屋敷のあなたの部屋に山ほど残ってた。どれも〝=〟を押すとなぜか0になる。それで気づいたのよ〝=〟と〝MR〟のキーの配線が入れ替えてある。メモリーを表す〝M〟の表示もでないようにしてある。ハンダを使えれば子供でも出来ることよ。でもたったそれだけで、あなたは自分の決めた数列を暗証番号にできた」
説明をきくまでもない。すべては彼が思いつき、わたしが実行したことだ。
決めておいた数列を入力してから〝M+〟、〝0〟の順に押す。そうすれば表示は0になるが、メモリーは数列を記憶したままになっている。〝C〟や〝AC〟を押してクリアしようとも、あるいは電源を切ろうとも、メモリーは消去されない。それで準備完了だった。
どれだけ数字を足そうが引こうが、掛けようが割ろうが、最後にここを押せばわたしの数列が表示される。バシュレはそれを電子ロックの暗証番号として入力する。
いつ犯行に及ぶべきか、それが難題だった。実行が遅れるほど計画を看破される確率も高くなる。莉子が故郷に帰ったという情報を伝えきいて、今夜こそが実行のときだと思った。だが、運は味方してくれなかった。
もっと早くおこなうべきだったか。いや。『モナ・リザ』が日本に来たばかりのころは警備も厳重で身動きがとれなかった。最近になってようやく、状況に慣れた運営側が隙をみせはじめていた。いまに至らなければ勝負は賭けられなかった。
ボワイエが小笠原を押しのけて進みでてきた。憤りもあらわにフランス語でまくしたててくる。「見損なったぞ。きみは臨時学芸員制度を悪用した。あまつさえ、同僚となるはずだった凜田さんをだまし失職に追いこんだ」
......違う。わたしは彼女を苦しめようとしたのではない。むしろ逆だ。彼女を共犯者にしたくなかった。社会的制裁を受けるのはわたしひとりで充分、そう思ったからだ。
里桜は震える声を絞りだした。「わたしは......正しいと信じればこそ、今回の行為に及んだんです。間違っていたのはあなたがたです」
「きみはルーヴルにおけるテストで、本物の『モナ・リザ』の在り処について正解したじゃないか。なのにあれは、本物じゃなかったというのか」
「ルーヴルに真作として展示されていた『モナ・リザ』は、事前にしっかりと観察しておきました。おかげでテストに合格できたんです。でもあれは本物じゃありません。どうかおききください。にわかには受けいれがたいことかもしれませんが、事実を知ればかならず......」
莉子が静かに告げた。「里桜さん。その事実ってのは、百年前の『モナ・リザ』盗難事件にまつわること? あれ以降、ルーヴルが飾っていた『モナ・リザ』はずっと偽物だったって?」
「......そうよ。返却されたのは贋作、ルーヴルはそのことを知っていながら、真実をひた隠しにしてきた。だから元に戻そうとしたの。本物はそこにある。わたしが持ちこんだ『モナ・リザ』こそが真作なのよ」
一九一一年八月、ルーヴルから『モナ・リザ』が盗みだされた。犯人はこの美術館で保護ガラスの取り付けを請け負っていた職人ヴィンチェンツォ・ペルッジャだった。
ペルッジャはのちに『モナ・リザ』をイタリアに取り戻すために犯行に及んだと主張し、祖国の英雄と称えられたが、じつはそれは詭弁にすぎなかった。彼は純粋に金のために盗みを請け負った。アルゼンチンの詐欺師マルケスの依頼を受けてのことだった。
犯行後、ペルッジャは『モナ・リザ』をアパートの自室に隠した。彼はひたすらマルケスが絵を受け取りにくるのを待ったが、なぜかいっこうに現れなかった。
その理由は、マルケスが本物の『モナ・リザ』を入手したがっていたわけではなく、贋作の『モナ・リザ』を大量生産して売りさばくことを目的としていたからだった。美術館から本物が消失していれば、贋作を真作と偽り、闇ルートで販売できる。事実、マルケスは六枚の贋作を世界各国の富豪に売り、莫大な収入を得ていた。
いつまで経ってもマルケスが来ないことに業を煮やしたペルッジャは、みずからの手で『モナ・リザ』を金に換えようとしてフィレンツェの画商に持ちこみ、そこで逮捕された。絵は無事にルーヴルに戻った。公の歴史ではそうなっている。しかし......。
里桜はいった。「戻されたのは本物ではなかったのよ。本物の『モナ・リザ』はペルッジャのもとにあった。そして末裔に受け継がれていたの」
「末裔?」莉子はすました顔のままだった。「ああ......なるほどね。あの偽のリシャール・ブレ氏が、ペルッジャの末裔だったわけ」
「ごめんなさい、莉子。あなたを欺いたことは本当に申し訳なく思ってる。けど、必要なことだったのよ。ルーヴルが認めない以上、実力行使に打ってでるしかない。『モナ・リザ』を本物に戻したかったの」
「里桜さん。ペルッジャの末裔ってのがそもそも騙りだとしたら? ルーヴルにある『モナ・リザ』が偽物だとするなら、本物の証しとなるデータはこの世に存在しない。だから贋作を真作と信じちゃう可能性もあるでしょう。あなたはその泥沼に嵌まったのよ」
「違うわ! わたしは臨時学芸員のテストに合格した日、確信したの。あなたもその場にいたでしょう。パネルから外された『モナ・リザ』の裏側を見た?」
「王立美術館のスタンプに〝ジョコンド〟の走り書き、H29という文字。ぜんぶ本物の『モナ・リザ』の裏にあるものでしょう」
「だから、それが間違いなんだってば! 本物の裏側はそうじゃないのよ」
フロアはしんと静まりかえった。誰もがわたしを注視している。退いてはならない、里桜はそう自分にいいきかせた。真実はわたしにこそある。
ところが、莉子は首を横に振った。一枚の紙片を取りだして広げる。「これ、見覚えあるでしょう?」
コピー紙だった。複写されているのは、古いイタリアの新聞記事だ。片時もその存在を忘れたことがない、一九一〇年八月七日の Notizie Quotidiane 紙。
里桜は息を呑んだ。「これ......」
「そう」莉子はうなずいた。「あなたはこの日の新聞を、ペルッジャの末裔さんから譲り受けたんでしょう? 本物という触れこみの『モナ・リザ』と一緒にね。わたし、紙名と日付は記憶していたから、フィレンツェ国立中央図書館に問い合わせてファックスしてもらったのよ。わたしにはイタリア語は読めないけど、専門家が翻訳してくれたから内容はわかってる。見出しには〝『モナ・リザ』の裏側を初公開〟とある。この写真がそうよね。1503と彫りこんであって、サラマンダーをモチーフにしたヴァロワ朝ゆかりの紋章が刻印されてる。フランソワ一世の言葉も記してある」
「一五〇三年は『モナ・リザ』が描かれた年よ。この新聞記事は、盗難事件の一年以上も前のもの。だから信ぴょう性が高いのよ。見てよ、わたしの持ってきた『モナ・リザ』の裏を。この記事の写真とまったく同じ。数字も彫ってあるし紋章の刻印も寸分たがわない。EAAが鑑定して、当時の新聞であることを証明してくれたのよ。間違いないでしょう」
「ちょっと待って」莉子の声は冷静だった。「盗難事件より前の記事だから信じるに足るって? それどういう意味?」
「......だから、マルケスの贋作騒動よりも前なんだってば。その時点では本物はルーヴルにあったんだし、盗難に遭うなんて誰にも予想できないことだったんだから、嘘の記事を書いたところで何のメリットもないし」
「そうかしら。その時点でマルケスがすでに『モナ・リザ』を盗むつもりでいて、贋作販売も計画済みだったとしたら?」
里桜は、視界のすべてが凍りついたかのように感じた。時が止まったようだった。
考えつかなかった思考の領域に、初めて踏みこんだ。そんな実感があった。ごく単純ながら気づきえなかった可能性、それを示唆され、目をそむけられなくなった。
「で」里桜は口ごもった。「でも、それって......」
「マルケスがどんな贋作者に依頼していたにせよ、六枚もの『モナ・リザ』を本物そっくりに仕上げさせるには、それなりに日数がかかる。一年前には計画を立てていてもふしぎではないでしょう。彼も『モナ・リザ』の裏がどうなっているか、盗むまではわからなかった。だから事前に、裏側はこうだと偽の情報をでっちあげた。誰も見ていないのだから否定のしようがない」
「だけど......ルーヴルは嘘に気づくでしょう」
するとボワイエがうなずいた。「無論だ。けれども当時、ルーヴルは『モナ・リザ』の裏側について、いっさい公表しない方針だった。偽物が作られるのを防ぐために秘密にしてきたんだ。ゆえに、このイタリアの新聞記事についても無視を決めこんだ」
莉子が後をひきとった。「ところがその一年後、盗難事件が起きてしまった。マルケスは記事の写真同様、裏に1503と彫ってある贋作を販売したのよ。誰もがこの記事に基づいて、偽物を本物と信じてしまった。逆にペルッジャが保管していた本物のほうは、裏の様相が異なるために偽物扱いになる。フィレンツェの画商が本物と気づかなかったら処分されるところだった。マルケスはむしろそれを望んだのよ。本物が闇に葬られ、自分の作りだす贋作だけが真作として永遠に売れつづけることを」
里桜のなかで衝撃はなおも反響しつづけていた。
「そんな......」里桜はつぶやいた。「記事が偽りだったっていうの......?」
ボワイエが別の紙片を取りだした。「盗難事件から半年後に掲載された訂正記事だ。ルーヴルの抗議を受け、新聞社はねつ造を認め謝罪している。マルケスの手下が写真と記事を持ちこむと同時に、社に対し多額の寄付をおこなって強引に掲載を認めさせた。その経緯が記されている。寄付など名ばかり、事実上の賄賂ってことだな」
差しだされたコピー紙を、里桜は受け取った。手が震える。文面に目を落とすのが怖かった。
だが、里桜の心境がどうあろうと、記事の見出しはそこにあった。〝Una scusa〟。お詫び。一九一〇年八月七日付の当紙において『モナ・リザ』の裏面とされた写真は事実に反し......。
膝の力が抜ける。立っていられなくなった。里桜は前のめりにうずくまるようにして床に突っ伏した。
わたしは......なんて愚かだったのだろう。歴史は点ではない、線だ。新聞記事がある時点の情報を伝えていても、そこには続きがある。すべてをたしかめるなら、その後、今日までのすべての記事に目を通す必要があった。史実を読み解くとは、すなわちそういうことだ。なのに、この記事の切り抜きと『モナ・リザ』を目にしただけで、わたしは何もかもすっかり鵜呑みにしてしまった。
事実はシンプルだった。それゆえに目に入らなかった。悪意ある人間が世に跋扈している。そのことを忘れていた。
悔しさがこみあげてきて、涙が滲みだす。里桜は両手で顔を覆った。
「......莉子」里桜は震える自分の声をきいた。「わたしはあなたに、とんでもないことを......。あなたの将来を閉ざしてしまった。ぜんぶわたしのせい」
泣いたところで贖罪になりはしない。それでも、ほかにどうしようもなかった。
すると莉子は身をかがめて、里桜をそっと抱き寄せた。「もう泣かないで」
優しくされるといっそう辛くなる。莉子をどれほど過酷な目に遭わせたか。その罪の重さに押し潰されそうだった。
彼女の鑑定能力を一時的にも失わせるための、あの悪魔の儀式。十二枚の贋作を用いて知覚を混乱に至らしめる。莉子は臨時学芸員への道を断念せざるをえなかった。
わたしが目を向けるべきは、手段と目的のあいだに介在したほかの事実だった。あんな精巧な贋作を十二枚ずつ大量に作りだせる彼が、果たして真実を語っていたかどうか。疑念を働かせねばならない対象はそこだった。
「ごめんなさい」里桜は泣きじゃくるしかなかった。「本当にごめんなさい、莉子」
莉子のてのひらを髪に感じる。子供をあやす母親のように、莉子は無言で里桜の頭を撫でていた。
実際、いまの彼女はわたしにとって母なのだろう。里桜はそう思った。唯一すがるべき、心を許せる存在なのだから。
厳格な父母のもとに育ったのに、大事なものが見えていなかった。わたしに必要なのは学識ではなかった。この優しさこそ学ばねばならなかった。
ボワイエがつぶやいた。「連絡を受けて警察にも動いてもらったが......。一歩遅かったな。本物は持ち去られた後か」
胸を締めつけられるような苦しみ。里桜はいまになってようやく理解した。すべてはわたしのしでかしたことだ。切実な思いとともに莉子の顔を見あげる。
だが。莉子の表情はあくまで穏やかだった。
遠くを見るような目で莉子はささやいた。「日本から持ちだすのは難しいでしょう」
「あん?」ボワイエは浮かない顔のままだった。「たしかにそうだが、相手は用意周到な詐欺師だよ。国外に運びだすためにどんな手を使うつもりか、わかったもんじゃないさ」
ふいに莉子の目が光った。背後を振りかえる。莉子は日本語で呼びかけた。「ねえ、小笠原さん」
「何?」と小笠原が応じた。
莉子は真顔できいた。「パリに行く前、小笠原さんは会社で何してたんだっけ?」
感受性
午前九時。きょうも一日の仕事が始まる。
課長の堰代延男は作業着に着替えて、仕事場に足を踏みいれた。角川書店の新館一階、荷造り用の土間のフロア、ずいぶん長いことかかったが、ようやく終わりが見えてきた。箱詰め作業はきのうまでにあらかた完了した。伝票も貼りつけてある。あとは蓋をガムテープで厳重に閉じるだけだ。
ひとりでよくここまでやった。自分を褒めてやりたい。満足に浸りながら仕事の成果を見渡していると、半開きになったシャッターから人の顔が覘いた。外国人特有の訛りのある声が呼びかけてくる。「おはようございます」
三十代とおぼしき白人男性だった。ほっそりとした身体をスーツに包んでいる。額は禿げあがり、もみあげは妙に長かった。くぼんだ目と異常に高い鷲鼻、突きだした下唇、極めて個性的な面構えだった。
男はさらに四人ほど仲間を引き連れていた。全員が栗いろの髪、青い目をしているが、ハンサムとは程遠い。白人にもブサイクはいるもんだな、と堰代は内心思った。
日本語を話せるのは、いましがたあいさつしてきた男だけらしい。「こんにちは。ええと、角川書店の堰代さん......?」
「はい。そうですよ。あなたは......」
「ウラジミール・ツェネヴァといいます」
「あー」堰代は笑った。「ブルガリアの......。日本に来られてたんですか?」
「そう。仕事の関係でね。待ちきれないんで、ようすを見に来ちゃいました」
「ご心配なさらずとも、見ての通り発送の準備はほぼ完了してますよ。船便はまだ来週ですけど、もう倉庫に運んじゃおうかと思っていたところです」
「素晴らしい」ツェネヴァは満足げにいった。「ちょっと看板を拝見してもいいですか」
「どうぞ」堰代は手近な箱に歩み寄った。
緩衝材を取りはらうと、ポスターサイズの看板が現れる。困ったことに、あまり状態のよくない『シュレック』だった。ボードに印刷されたインクが日射で退色し、木目が浮きだしてしまっている。
「ええと」堰代は頭を掻きながら、ほかの緩衝材を開けにかかった。「もっと綺麗な看板もあるんですよ。ほら、こっちの『最後の忠臣蔵』なんか特に。時代劇はお好きですか?」
「ええ。まあ、それなりにね。堰代さん、これらを倉庫に搬入するとのことだが......。せっかく私も立ち寄ったことだし、早々におこなってもらえませんか。代金は払ってあるのだから、まずはせめて安心を得たい。箱詰めにされてトラックで運送されるところを、ぜひこの目で見届けたいのでね」
ずいぶん急かしてくる。会社が無価値も同然と判断し、半ばゴミのように扱っていた中古看板に、そこまで夢中になれるものだろうか。コレクターの世界というのは理解しがたい。
それでも、この上得意に逃げられるわけにはいかなかった。堰代は努めて愛想よく応じた。「わかりました。では運送業者に電話して、午前中に空いている車両があるかどうか確認します」
「頼むよ」とツェネヴァは両手をポケットに突っこんで立った。「じゃ、待たせてもらうか」
そのとき、シャッターの外が妙にあわただしくなった。
黒塗りのセダンが数台連なって徐行してくる。このビルの周辺の道は狭く、路上駐車できるほどのゆとりはないが、それらの車両はかまうようすもなく停車した。開いたドアから次々とスーツが降り立つ、その足もとが見えている。
すると、ふいにツェネヴァがそわそわしだした。「申しわけないが、急用を思いだしたよ。ええと、玄関に向かうにはそっちのドアでいいのかな?」
「はい」妙なことをきくと堰代は思った。入ってきたときと同様、シャッターをくぐって外にでたほうが早いだろうに。
ツェネヴァにつづいて、四人の白人たちも足早にドアに向かっていく。まるで逃げだすような歩調だと堰代は感じた。
と同時に、おびただしい数の侵入者がシャッターをくぐり抜け、続々と姿を現した、日本人と外国人、ほぼ半々に入り乱れている。誰もがなぜか白い手袋を嵌めていた。
先陣をきった角刈りの日本人が、退出しようとするツェネヴァたちに気づいたらしく怒鳴り声をあげた。「おい、待て!」
ツェネヴァはびくつきながらも、振り向きもせず歩を速めドアに達した。ノブをひねって開け放つ。
ところが、その戸口からはより威圧的な装いの男たちがなだれこんできた。制服警官の群れだった。ツェネヴァは仲間の四人ともども、観念したように両手をあげて後ずさった。
なんだ......? 堰代は呆気にとられていた。まるで映画のシーンそのものだ。きょう、社屋を使った予算節約型のロケでも入っていたのだろうか。事前には何の連絡もなかったが......。
そう思ったとき、戸口に知り合いの青年が現れた。『週刊角川』編集部勤務、ぜひとも引き抜きたいと願っていた逸材、小笠原悠斗だった。
堰代は歓迎した。「おお、宣材課の未来の星。戻ったか!」
しかし、小笠原はにこりともしなかった。真顔で駆け寄ってくると、堰代の腕をつかんでフロアの隅に引っ張っていった。「なるべく端に寄っていてください。捜査員たちの邪魔になりますから」
「何? それはいったいどういう......」
「しっ」小笠原は堰代を制してきた。その顔を戸口に向ける。
最後に戸口を入ってきたのは、モデル体型の美人だった。年齢は二十代前半。ゆるくうねったロングヘア、猫のように大きくつぶらな瞳。女性はフロアにたたずみ、警官らが確保した白人グループをじっと見据えた。
やはり揃って現れたが、と莉子は思った。五人の白人グループは、全員見た顔だった。うち四人は六本木の洋館に十二枚の『モナ・リザ』を搬入した男たちだった。そして、リーダー格のひとりは......。
莉子はその男に告げた。「おはようございます、リシャール・ブレ先生。ここでは違う名前ですか。これらの映画看板をオークションで落札したブルガリア人って、あなたでしょ。里桜さんの身柄が確保されたときいて、心配になったんですね。出荷されるのをその目で見るまで、心ここにあらずという気分だったんでしょう」
男は下唇を突きだし、苦々しげな表情で莉子を見かえしてきた。ルーヴルの学芸員を装っていたときには表出しなかった卑屈のいろが、そのまなざしに克明に浮かんでいた。
ブロークンぎみのフランス語がかえってきた。「看板だと。なんのことかわからんな」
「いまさらしらばっくれても意味ないと思いますけど。それとも、六本木七丁目のお屋敷での講義が本業だとおっしゃるんですか」
すると男は首を縦に振った。「意味不明だ。講義だのブルガリア人だの......」
「そう」莉子は思わず笑った。「その反応ですよ」
「......なんだと?」
「講義を受けてるときから不思議だったんです。あなたは同意をしめしながらも首を横に振る。言葉では否定しつつもうなずく、イエスの意思表示には首を横に振り、ノーを表すときには縦に振るんですね。ブルガリア人特有の習慣です」
「なっ......。なにを馬鹿な。夢でも見てるんじゃないか。俺はルーヴルの命を受けて、きみに指導する立場の......」
「学芸員」男性の声がネイティヴなフランス語で割りこんだ。「名はリシャール・ブレ。そうおっしゃるのかな。はて。だとすると、私はいったい誰だね」
ルーブルの関係者のなかから、ひとりの男が進みでた。
スマートな長身を誇るその男は、鷲鼻ながら端整な面がまえをしていた。彼の隣りに立つオディロン・ボワイエと同様、髪は短く清潔にまとめているが、髭はなかった。知性に溢れ品位に満ちたそのルックスは印象的で、彼の名を騙っていたブルガリア人とは雲泥の差だった。
ボワイエはかつて、同僚の彼を気さくな人物と評した。礼儀をわきまえ紳士然とした学芸員のあいだでは、高貴を絵に描いたような本物のリシャール・ブレも、親しみやすい人物に区分されるのだろう。
ただし、いまのブレはいかに耽美な振る舞いをよしとするフランス人であっても、怒りに駆られればごくふつうの人間に戻るのだという事実を体現していた。
本物のブレの顔は真っ赤に染まり、頬はひきつっていた。侮蔑と敵意に満ちたまなざしが、偽者にまっすぐに向けられている。
ブレは険しく糾弾した。「茶番はよしてもらおう。きみが学芸員だというのなら身分証を提示すればいい。それですべてがあきらかになる」
ブルガリア人はいっそう下賤な態度をしめしながら、頭を掻きむしった。「日本は路上駐車に厳しいんだぜ。クルマ買うにも車庫証明が要るしな。パリと同じ感覚で道端に停めるんじゃねえよ。さっさとコインパーキングを探しな」
露骨な挑発。だがブレに動じるようすはなかった。「特殊な状況下において、警察車両に駐車許可が与えられるのはパリと同じようだ。国際詐欺犯罪専門の捜査員、警視庁捜査二課の宇賀神博樹警部を紹介しておこうか。彼に対しては無理してフランス語を話す必要はないよ。署に連行後はブルガリア語の通訳を呼んでくれるそうだ」
日本人の集団は、猪首で大柄の男たちが大半を占めている。そのなかでは異質な存在、スマートで長身の中年に目を向けたとき、ブルガリア人の顔から血の気がひいた。
宇賀神は無言でブルガリア人を見つめかえしていた。どんなに強気な男だろうと不安にさせるだろう鋭い眼光。ブルガリア人は完全に及び腰になっていた。
ブレが偽者にきいた。「絵を盗んでどうするつもりだった? 浴室にでも飾るか?」
莉子は映画看板が収まった箱に歩み寄り、伝票に記載された名前を読みあげた。「ウラジミール・ツェネヴァさん......。受取人としてはそう名乗ってるんですか。本名はあいかわらず謎ですけど」
「ふん」ツェネヴァが顔をそむけた。「なんとでも呼べ」
「一枚につき三万ユーロもの制作費がかかる『モナ・リザ』の贋作が十二枚。それ以外にもダ・ヴィンチの手稿や同時期の画家など、たくさんの複製を作りましたよね。わたしに対しては偽の報奨金も振りこんでくださってる。つまり大金を手にできると踏んでたんでしょう。『モナ・リザ』を手にいれたあかつきには、ルーヴルに身代金を要求するつもりだったんですね?」
「......マドモワゼル・リコ」ツェネヴァは大仰にため息をついた。「最後に見たのは、狼狽し憔悴して、取り乱したきみの姿だった。なんていうか、まともなことを口にしているようには思えなかったね。きみ自身がいちばんよくわかっているはずだ」
「精神疾患か脳障害でも生じたかのように錯覚させるやり方はあなたの発案ですか。だとしたら、わたしがどれだけ怒っているか想像もつくと思うんですけど。多少なりとも認知心理学を勉強した人間が考えつくトリックだって、臨床心理士の嵯峨先生がいってましたから」
「せいぜい憶測を楽しんでいればいい。きみが何をいおうと、妄想のひとことで片づけられる。私は中古の映画看板を発注しただけだ」
「映画看板、ね」莉子はふたたび伝票を見やった。「配送先はブルガリアのヴェリコ・タルノヴォ州リャスコヴェツ......。バルカン半島の中心部、小さな村落があるだけの一帯ですね。そんなところで三百枚の看板を何に使うんです?」
「答える義務などない」
ツェネヴァは顔をそむけた。開ききった瞳孔と突きだした下唇、その小馬鹿にしたような態度に、莉子のなかで憤りが一気にこみあげた。
これまで怒りに我を忘れたことなどなかった。短気とは無縁の自分だと思っていた。けれども、もう限界だった。人を愚弄する存在に自制心など無用だ、莉子は初めてそう確信した。
「いいえ」気づいたときには、莉子は声を張りあげていた。「あなたは罪を認めなきゃならないんです!」
びくついたツェネヴァが見かえす。周囲の視線がいっせいに降り注ぐのを、莉子は全身に感じた。
張り詰めた空気も、莉子の衝動を抑制することはできなかった。かまわず勢いにまかせ、早口にまくしたてる。「あなたは芸術を心から愛する里桜さんを欺き、私利私欲のために操った。嘘の限りを尽くして関係者全員を手玉にとろうとした、国どうし、人どうしが助け合い、支え合っているこの時期に、混乱に乗じて火事場泥棒のような真似を働くなんて! 断じて許されることじゃありません」
間髪をいれず宇賀神が冷やかな口調で付け加えた。「日本の刑務所では週にいちど、明治ブルガリアヨーグルトがでるらしい。じっくり味わいながら故郷に思いを馳せるんだな」
ふたりに押し切られ、ツェネヴァはすっかり萎縮したようすで仲間たちの陰に隠れだした。五人の白人たちは、こそこそと位置を譲り合いながら矢面に立つのを嫌がる素振りをしめした。
宇賀神が厳めしい顔で莉子に告げた。「容疑者は確保後、すみやかに署に連行せねばなりません。実況見分に立ち会わせるのは後日ということになります。では、失礼して」
屈強そうな日本人一行が歩みでて、ツェネヴァらを取り囲む。捜査員に対し、ブルガリアの詐欺師たちは抵抗の意思をしめさなかった。かといって、ふてくされた態度をしめす余裕もなさそうだった。ツェネヴァは青い顔をしてすくみあがったまま、外に連れだされていった。
パトカーのサイレンが沸いて、それが遠のいていく。犯罪者が一掃され、フロアはまた静かになった。
本物のブレが莉子を見つめてきた。「きみが凜田莉子さんが」
「......はい」
「私の講習をずっと欠席した挙句、臨時学芸員を辞退したんだったな」
ボワイエが口をはさんだ。「リシャール。それは警察からも説明があったように......」
ブレは片手をあげてボワイエを制した。鋭い視線を莉子に向けてくる。「不運には心から同情する。ただ、私たちがここに出向いたのは、全世界の人々にとってかけがえのない財産を回収するためでね。愛すべきジョコンド夫人の肖像画が戻らないことには、日仏関係も深刻な状況に陥らざるをえない」
莉子はブレをじっと見かえした。フロアに沈黙の時間が流れる。緊迫した空気が漂っていた。
ふっと莉子は笑ってみせた。「ご心配なく。ここしか考えられませんから」
「......というと?」ブレはきいた。
「パリから帰国後、わたしの担当記者だった小笠原さんは偽の取材を持ちかけられ、全国を連れまわされたそうです。それも平日のみで、土日は都内に帰れた。もともと、わたしは講義期間内の取材を断っていたし、詐欺師の狙いはわたしと小笠原さんを引き離すことではありませんでした。目的はほかにあったんです」
莉子はフロアをうろついて、箱に貼られた伝票を眺めてまわった。中身の看板の作品名が英語で表記してある。
やがて、目当てのタイトルが見つかった。莉子はその箱を開けた。一枚ずつ緩衝材にくるまれて、十枚近くが収めてある。いずれもポスターサイズのようだった。
うち一枚を取りだしながら莉子はいった。「これらの映画看板を落札した詐欺師は、ひそかに来日し、発送の準備段階からここを見張っていました。一階土間スペースは荷卸し用にシャッターが常時半開きになっていて、受付ロビーを通る必要がありません。課長さんが席を外していれば立ち入ることさえできる。彼らは箱詰め作業をおこなっている社員が誰なのかも把握していました。小笠原さんが記者だと知り、発送が完了するまでのあいだは、二度とこの仕事に戻れないようにしたんです。なぜなら、小笠原さんはいちど目にしているからです。本物の『モナ・リザ』を」
緩衝材の下から現れた看板を、全員が食いいるように見つめた。
映画『ダ・ヴィンチ・コード』。モナ・リザの顔を中心に、タイトル・ロゴと出演者名、スタッフ名。公開日や原作本情報などが印刷してある。......少なくとも、そう見える。
板の裏側に目を向けた。ステッカーが貼りまくってある。裏面の特徴を覆い隠すためだろう。そして、表面のほうも......。
莉子はタイトル・ロゴの一文字目、〝ダ〟の字に指を這わせた。思ったとおり、文字は印刷ではなかった。板の表層とは質感が違う。
爪を立てて縁を引っ掻くと、文字シールは剥がれだした。莉子はシールを引っ張った。
一同にどよめきがあがった。
「なんと!」ボワイエが悲鳴に似た声をあげた。「これは映画の看板じゃないぞ。『モナ・リザ』だ!」
世界一有名な絵画を盗みだしたはいいが、いかに海を越えるか。詐欺師たちが導きだした答えがこれだった。
『ダ・ヴィンチ・コード』国内版先行DXタイプのポスターは『モナ・リザ』の写真をフルサイズで掲載し、その上にタイトルとクレジット、キャッチコピーを載せている。木製看板は厚さ一センチ、サイズはB2よりわずかに小ぶりで『モナ・リザ』の原寸大とほぼ同じ。すなわち、文字のレイアウトを除けば木製看板は『モナ・リザ』そのものだった。元来、中古看板はどれも古びて退色や腐敗が進んでいるため、いっそう紛らわしくなる。
ブルガリアの詐欺グループは中古看板を落札後、角川での梱包の進みぐあいを逐一監視していた。そして、ここが無人になるのを見計らって侵入し『ダ・ヴィンチ・コード』の看板を、彼らが持参した物と入れ替えたのだった。
学芸員たちは血相を変えて駆け寄ってきた。看板、いや『モナ・リザ』の周りに群がり、顔をくっつけんばかりにして眺める。
ブレはフランス紳士としての振る舞いをかなぐり捨て、人間味溢れる反応をしめしていた。目を白黒させながら、うわずった声でブレはいった。「き、きみ......。これを見つけだした手際は見事だが、シールをむやみに剥がすのはいかがなものかと思う。作業は専門家にまかせたまえ。五百年前の油彩画がどれだけデリケートなものか想像はつくだろう?」
莉子は動じなかった。「これは本物じゃありません。船便として税関の検査を受ける際に一枚だけ不自然に見えないよう、ほかの『ダ・ヴィンチ・コード』の看板も同じ製法で揃えたはずです。わたしが目にした贋作は十二枚。うち六枚はお屋敷に残されてました。ということは......」
緩衝材で包装された看板を、次々に取りだしていく。学芸員たちも手伝いだした。それらは順に床に寝かされ、一枚ずつ緩衝材を解かれた。
床にずらりと並んだ『ダ・ヴィンチ・コード』の看板。ぜんぶで七枚、デザインのみならず。質感や仕上がりぐあいもすべて同じに見える。つまり、いずれも油彩画に文字シールを貼って作られていた。
やがて莉子の目は、七枚のなかの一枚に自然に釘付けになった。
引力を感じる。本物の絵画のみが持つ抗いがたい魅力を理解し、心に感じること。本物は、向こうから語りかけてくる。
端から数えて四枚目の『モナ・リザ』に、莉子は歩み寄った。
無言で見おろしていると、学芸員たちは莉子の視線の先に注目したらしい。たちまちその『モナ・リザ』の周りに群がり、腹這いになって観察を姶めた。誰もがルーペを取りだして覗きこみ、絵を隅々まで眺めまわす。
その中心にいたふたり、ブレとボワイエが顔を見合わせる。それから莉子を見あげた。
「見事!」ブレは顔面を紅潮させて怒鳴った。「きみの感受性のなせるわざか。これこそ正真正銘、本物の『モナ・リザ』だ。真作に間違いない!」
一瞬の静寂ののち、ホール内に拍手と歓声が響いた。フランス語が理解できないようすの日本人たちも事情を察したらしく、どよめきとともに拍手に加わった。
小笠原が駆け寄ってきて、笑顔で祝福した。「本物を見つけたんだね? やった。さすがだよ、凜田さん」
莉子はどきっとした。急に顔が近づいて、心拍が速まった自分がいる。
わたしは......いまどう思っているのだろう。わからない。感情ほど分析が難しいものはない。
はっきりしていることはひとつだけ。彼がいたから、わたしは立ち直れた。『モナ・リザ』は救われた。
跳ね起きるように立ちあがったブレが、ボワイエと抱きあって喜んでいる。ブレは興奮ぎみにまくしたてた。「最も腕のたつ修復家にシールを剥がさせよう。ボドワンがいいか、ブレースがいいか......。誰でもいい、人類の宝が戻った。これほど嬉しいことがほかにあるか!」
はしゃぎまわる学芸員たちを眺めるうちに、自然に笑みがこぼれる。莉子は小笠原を見た。小笠原も微笑とともに莉子を見かえした。
朝食
どこの刑務所でも同じだが、夜は九時に消灯、就寝。朝は六時半頃に起床となる。雨森華蓮にいわせれば、これは寝すぎもいいところだった。ほかの受刑者たちも同様らしい。フトンからでることは許されていないため、誰もが暇を持て余しているときく。
日が昇り、学校と同じチャイムが鳴ると、待ってましたとばかりに受刑者たちはいっせいに起きだす。立ちあがったらすぐさまフトンをたたみに入る。和室なので重ねて物置に仕舞う。セルフサービスではあるが、やっていることは旅館と変わらない。
正座して刑務官の点呼を待つだけの、かったるい時間が過ぎると、掃除が始まる。窓のサッシを磨いたところで、鉄格子の嵌まった外側を拭くことはできないから、部屋に差しこむ光のぐあいはさして変わりはしない。それが終わるとようやく、朝食の時間になる。
グレーの刑務服を身につけた華蓮は、同じ服装の受刑者らに混じってぞろぞろと廊下を歩いていった。全員が女性だった。迷路のようなつくりの刑務所ときいて、入所前はひそかに期待していたが、多少は入り組んでいるもののごく単純な設計だった。女が方向感覚に疎いという前提か。だとするなら、見くびられたものだ。
食堂に入ると。いつものふたりと落ち合う。げっそりと痩せ細って前歯がでている綾音。いまだに肥満しきった身体に丸い顔、丸い眼鏡の比乃香。ふたりとも華蓮と同じ二十代後半というのに、見た目は中年のようだった。化粧の許されない塀のなかの暮らしでは、いっそう老けてみえる。
絢音と比乃香は揃っておはようございますと声をかけてきた。華蓮はぶっきらぼうにかえした。おはよう。
食事を受け取る列に加わり、ゆっくりと歩を進める。刑務官に注意されないよう、小声で喋るのが常だった。華蓮はつぶやいた。「何か変わったことは?」
「特に何も」絢音が応じた。「強いていえば、このところシャブ中の受刑者が急増して、うちの小部屋も六人から八人に増員されたことぐらいですか。窮屈ですよ」
比乃香が浮かない顔をした。「うちもですよ。敷きブトンを折って面積を減らせとか無理ばっかりいうし」
間髪をいれず絢音が突っこんだ。「あんたはフトンを取りはらって肉ブトンで寝たらどうよ」
沈黙がおりてきた。比乃香がやり返さないぶんだけ刑務所のなかは平和だった。入所直後のふたりは際限なく言い合っては、厳重注意を受けてばかりいたが、ようやく学習の効果が表れてきたらしい。
配食係の受刑者が割烹着姿で食事を用意する。これも学校と変わらない。義務教育というのは刑務所暮らしに備えるためにあったのか。そう思えるぐらい似通っていた。
受刑者でひしめきあう食堂に、NHKラジオ第一の音声が流れていた。興味が持てる放送ではない。引き籠もりの生活に、外の出来事に関する情報はさして意味がなかった。
麦入り御飯に昆布の佃煮、味噌汁の三点セットを載せたトレーを手にして、いつもの席に向かう。華蓮の左右に絢音と比乃香が座った。
黙々と箸を進める。いつものように味気ない食事だった。
ぼんやりと聞き流していたニュースが、しだいに華蓮の注意を奪いだした。『モナ・リザ』展。そう告げるのがきこえたからだった。
男性アナウンサーの声が厳かに響く。「......で、一時は中止も危ぶまれていた『モナ・リザ』展ですが、さきごろ発見された『モナ・リザ』が、その前日に盗難に遭った本物であると確認されたことを受け、来週から予定どおり開催されることに決まりました」
華蓮の箸がぴたりと止まった。意識せずともそうなっていた。
ニュースはつづいていた。「なお『モナ・リザ』窃盗の疑いで逮捕されたのは、ブルガリア人の自称ウラジミール・ツェネヴァ容疑者ほか四名で......」
ふん。思わず鼻を鳴らしたが、笑みを浮かべるまでには至らない。にやついたおかげで刑務官に飯を取りあげられる、そんな事態はまっぴらだった。
臨時学芸員になるのを辞退して、民間の自営業者に戻ったQちゃんの名は、ニュースでは報じられないらしい。だが、何が起きたかはおおよそ見当がつく。迅速なる解決。彼女はすっかり勘を取り戻したのだろう。
比乃香が大仰に顔をしかめた。「まずいですね。あいかわらず味噌汁を薄めすぎですよ」
「......そう?」華蓮は小声でいった。「けさは、そんなに悪くないと思う」
笑顔の記憶
夕陽に赤く染まる飯田橋界隈、神田川沿いを、今年六十二歳になるイギリス人、ケネス・アジンガムはひとり歩きつづけていた。
都内のそこかしこに『モナ・リザ』展の広告を見かける。電柱にまで巻きつけてある。この催しは日本の芸術史において一大イベントに違いない。開催を明日に控え、前売りチケットも完売に近いときいている。
にもかかわらず、心にはもやもやしたものが残っている。ルーヴルの元学芸員にして、現調査員のアリンガムにしてみれば、今回の運営側の決定には納得がいかなかった。
修復家の仕事ぶりは、たしかに尊敬に値する。本国から飛んできたその日に作業に入り、一マイクロメートルの損傷も生じさせずにすべてのシールを剥がし終えた。万人が認めるであろう偉業だ。しかしながら、彼を唯一の貢献者のように称える姿勢は受けいれがたい。
凜田莉子、彼女の功績こそ認められるべきではないのか。莉子の活躍なくして『モナ・リザ』が戻ることはなかった。いまごろはブルガリアの片田舎の港にでも放置され、多湿な地中海性気候によって劣化が進み、ゆくゆくは朽ち果てて闇に葬り去られていただろう。
それなのにルーヴルの『モナ・リザ』展運営委員会は、莉子を臨時学芸員に復帰させる手続きを怠った。わけをきくと、特に彼女のほうからそういう申し出がなかったからだという。
これだから異国の習慣に疎い者たちに舵取りはまかせられない。日本人というのは本質的に遠慮を美徳とする人種だ。フランス人のように個としての権利を主張しない。莉子に復帰の意思がないなどと決めつけるのは早計だった。
栄えある役職に返り咲くのを望まないはずがない。臨時学芸員は莉子であるべきだ。その肩書が彼女の将来の展望を明るくするだろう。彼女はそれだけの褒美を受け取る権利がある。
メモしてきた住所を探して、周りを見まわす。たしかこの辺りのはずだが。
商店街の片隅、雑居ビル一階のテナントが目についた。七、八人ほど群がっている。小さな店舗だが、ガラス張りのエントランスは洒落ていて、美容室かカフェのようだった。
その店が気になり歩み寄る。ほどなく〝万能鑑定士Q〟なる看板が目に入った。
ここか。少人数ながら行列ができるとはたいしたものだ。客層は主婦や子供、サラリーマン風の男性など幅広い。美術に関心がありそうには思えないが......。
順番待ちの客たちが店の前に立っているせいか、自動ドアは開きっぱなしだった。シンプルモダンの内装のなか、接客中の莉子の姿があった。
ひとりの青年が立ち働いて、莉子の助手をつとめている。いや、雇用されている身ではなさそうだ。見覚えのある顔だった。『週刊角川』の記者、たしか小笠原といった。友人として客さばきに手を貸しているらしい。
どんな物が持ちこまれているのだろう。アリンガムは目を凝らした。客の中年男性が莉子に差しだしたのは、ビニールの小袋に入った黒い粉末だった。
「あー」莉子は微笑を浮かべた。「トルマリンですね。畑の土壌改良が目的でお買いになったんですね」
男性客が驚きのいろとともにたずねる。「どうしてわかるんです? うちの家内は入浴のために買ったと思いこんで、ほとんど浴槽に入れちまったんですか」
「お客さんの爪の先に土が入りこんでますから。効果はありましたか」
「いやそれが......、どうにも納得しかねるんです。畑に撒いたんですが土もよくならないし、家内もトルマリン風呂に満足できていないみたいで」
「でしょうね。これは市販されているトルマリンのなかでも最低ランクです。亜鉛などの不純物を多く含むので効果には期待できません」
なんと......。アリンガムは開いた口がふさがらなかった。
宝飾品に用いられる高品質なトルマリンならともかく、ほとんどジャンク品として売りにだされているような粉末の、五十歩百歩の差まで鑑定するとは。商店街の客層のニーズには合致しているかもしれないが、このような依頼は聡明なる凜田莉子に対し失礼ではないか。
ところが莉子は気分を害したようすもなく、むしろ愛想よく男性客を送りだすと、次の客を迎えいれた。「いらっしゃいませ」
主婦らしきその女性は、買い物袋から牛肉のパックを取りだした。
小笠原がそれを覗きこんでつぶやく。「国産牛ですか。美味しそうですね」
「ええ」主婦はうなずいた。「でも、隣りのスーパーで売ってた黒毛和牛の十分の一の値段なのよ。だから心配になっちゃって。国産ってほんとかしら」
莉子はにっこり笑った。「表示は問題ありませんよ。ただしこの値段からすると、外国生まれの牛でしょう」
「えっ?」小笠原が眉をひそめた。「でも表示は間違ってないんだろ?」
「外国よりも日本での飼育期間が長ければ、法律上は国産牛として表示できるの」
「まあ」主婦が目を丸くした。「そうなの?」
アリンガムは呆気にとられていた。もはや鑑定と呼ぶべき仕事かどうかも疑わしい。
だが......それはあくまで私の常識の範躊においてだ。これが彼女の日常なのだろう。そして、そんな彼女を頼って店を訪れた人々はみな満足そうだった。
初めて莉子に会った日のことを思いだした。彼女は熱心にコーヒー豆を選別していた。たった一杯のコーヒーを私に差しだすためだけに。
莉子は鑑定の対象を分け隔てしない。芸術にはほど遠い依頼品であっても、膨大な知識と類い稀なる観察力をもって最大限に貢献しようとする。そのひたむきさはルーヴルの学芸員に勝るとも劣らない。自然体でいるようにみえて、徹底したプロ根性の持ち主だった。
そして......。彼女自身、気づいているかどうかわからないが、重要なサポート役を担っている小笠原との絶妙な距離感。文化庁で会ったときにも感じたことだが、ふたりの関係は友達同士などというよそよそしいものではない。
小笠原は、主婦が取りだした物を指さした。「こっちにもシュガーオフって書いてあるよ」
莉子は首を横に振った。「シュガーオフはシュガーレスとは違うの。糖類含有量が食品百グラムあたり五グラム以下、飲料の場合は百ミリリットルあたり二・五グラム以下ってこと」
ふたりの対話は、その見事なコンビネーションによって問題を解決に導いていく。秘訣は、相手に対する気遣いと思慮深さにあるのだろう。パートナーをいち早く思索の迷宮から救いだそうと互いに手を差し伸べあう。無自覚かもしれないが、心が通じあっている。
思いがそこに及んで、アリンガムはふと気づいた。莉子の幸せそうな笑顔の理由は......。そうか、そのせいだったか。
莉子による庶民派鑑定はなおもつづいている。新品の石けんを手に莉子は告げていた。包装を見てください。純石けん分九十九パーセントとあります。残りの一パーセントは、天然保湿成分、グリセリンです。肌に潤いを与えてくれるんですよ。
小笠原が驚き、客が納得する。店内は歓喜の声に溢れていた。
アリンガムは思わず微笑した。莉子が臨時学芸員への復帰を申しでなかった理由が、これではっきりした。
彼女はここで人々に愛され、必要とされている。息もぴったり合うパートナーもいる。庶民感覚からずれた美術品の世界の肩書など、彼女には取るに足らないものだったろう。
ルーヴルが彼女をクビにしたのではない。彼女がルーヴルを見限った。それが真実だった。
私たちは、彼女にフラれたのだろう。そして、彼女が選んだのは......。
喜びに満ちた莉子の姿を目に焼き付けて、アリンガムは踵をかえした。
美しい笑顔の記憶。生涯の宝物になる。アリンガムは心からそう思った。想起するたびに魅了されることだろう。あの『モナ・リザ』の微笑と同じように。


万能鑑定士Qの事件簿 Ⅹ
終焉
夜間に駐車中のバンのなか、明かりはごくわずかであっても、ほんの片手間の作業に支障はない。
国立印刷局工芸官、今年で四十七歳になる藤堂俊一は、三列になったシートの最後列におさまり、スケッチブックに鉛筆を走らせていた。
さらさらと描く線画は、福澤諭吉の肖像だった。現在でまわっている一万円札と寸分たがわないその顔が、白紙に浮かびあがっていく。
前の座席から振りかえった若いスーツの男が、身を乗りだしていった。「すごい。お札そのものですね」
ふん。藤堂は鼻を鳴らすにとどめた。人前でこの特技を披露したことなどない。永遠に描くことを禁じられた絵だからだ。
しかし、いまはかまわないだろう。同乗者は警視庁公安部に配属されたばかりの警部補ひとりだけだった。彼は事情を知るごく少数の人員に含まれている。二十代ながら出世街道の入り口に立つキャリアか。自分とは違うと藤堂は思った。
紙幣の絵を描く工芸官というのは、採用されてから仕事を命ぜられると思われがちだが、私はそうではなかった。
版画で文部大臣賞を受賞した十代のころ、鹿児島の実家を大蔵省の役人たちが訪ねてきた。彼らは母親を通じ、私に福澤諭吉のほか何人かの著名人の絵を描いてほしいと依頼した。
絵ができあがると、今度はそれを銅板に彫れるかときいてきた。私は可能だといった。彼らは、出来あがった作品を東京に持ち帰った。
しばらくは音沙汰なしだったが、やがてまた連絡があった。国家公務員Ⅰ種試験を受験してほしいという依頼だった。彼らは、私の学力がそれなりのレベルに達していると知っていたし、合格のためにはサポートを惜しまないとまでいった。
後になってそれは、私の描いた福澤諭吉が一万円札に採用されたからだと知った。当時の工芸官が私の原画をもとに銅板を起こしたらしい。新一万円札が発行された一九八四年、私はまだ地方の国立大に通う学生でしかなかった。
突拍子もない話ではない。明治政府が初めて印刷紙幣を発行するためイタリアから招いたエドアルド・キヨッソーネも、パリ万国博覧会で銀賞を受賞した版画家であり、画家だった。人材発掘は民間からおこなわれるのが常だった。
聖徳太子が載った旧一万円札の偽札が数多くでまわっていたせいで、最高額紙幣のリニューアルが急がれた、そんな裏事情もあった。新一万円札は暫定的なものであり、近いうちにさらなる新札に切り替える計画が進行していた。私は大蔵省印刷局勤務となり、国立印刷局工芸官になった、周りの誰にも、紙幣の絵を描いたのが自分だとは打ち明けなかった。秘密厳守を約束させられていたからだった。
いわゆるD券が発行されていた十九年のあいだ、一万円札の精巧な偽物は発見されなかった。私の描いた福澤諭吉は一見普遍的だが、実のところ個性的なタッチを含んでいて、容易に真似できないというのも理由のひとつらしかった。よって次のE券も同じ原画が用いられた。今度は銅板への彫りこみも、私の手でおこなった。
藤堂は、スケッチブックに描き終えた福澤諭吉のラフ画を眺めた。紙幣、か。
電子マネーなら偽札騒動の影響を受けないと考えた人々もいたようだが、そうではなかった。そもそも電子マネーは、企業の提供する決済サービスに過ぎず、法的な通貨ではない。通貨価値に基づいたデジタルマネーである以上、インフレの影響からは逃れられない。
絶大な威力を持つ紙幣。私の独創性の結晶。やはり複製など不可能だった。
爆音が響き、サーチライトの青白い光が窓の外に走った。風圧が車体を揺らす。
若い警部補は舌打ちした。「ヘリですね。報道関係がもう嗅ぎつけたみたいです」
「そうか」藤堂は静かに告げた。「人の口に戸はたてられんな。しかし、情報を統制するのはきみらの得意分野だろう。せいぜい本領を発揮すればいい」
警部補は眉をひそめたが、直後に車体側面のスライド式のドアが開け放たれた。
彼の同僚とおぼしき男が怒鳴っている。「科警研と科捜研、両方で確認がとれた。本庁が身柄の確保に入るぞ」
すぐさま警部補は車外に飛びだした。「店内の状況は?」
「通報を受けて駆けつけた巡査が店長のもとにいるだけだ。突拍子もない話だし、容疑者とみなすべきかどうかも判然としなかったからな」
「いまじゃ重要参考人だ。逃走の意志はなさそうか? 確保を急がないと」
「それは本庁の仕事だ。こっちは本部の指示どおり女性鑑定家を真っ先に連れだして......」
開放されたドアの向こう、井の頭公園にほど近い都道七号沿いは、まさしく戒厳令のようなありさまだった。チープグッズなるディスカウントショップの前に、無数の赤いパトランプが波打っている。一帯を埋め尽くす警察車両の隙間を縫うように走る制服、私服の警官たち。このハイパーインフレ騒動でも職務を放棄しなかった周辺の人員すべてが、ここに集結したのだろう。
どの省庁のいかなる部署かもはっきりしない男が、トランシーバーに声を張りあげている。「ええ。番号部分にわずかな筆圧、インク成分の違いが確認されたそうです。前回はファンデルワールス結合により層の違いが検出されなかったんです」
藤堂はシートに身をうずめ、ため息をついた。
ファンデルワールス結合か......。盲点だった。たしかにインクのなかで唯一、黒スミの成分だけは公表されている。紙幣の色落ちを防ぐ化学的工夫を逆手にとられた。
外がいっそうあわただしくなった。さっきの警部補が、ひとりの若い女性の手をひきながら駆けてくる。
彼女は二十三歳になったばかりときいた。ほっそりと痩せた身体、腕も脚も長く、頭部は小さくモデルのようなプロポーションの持ち主だった。ワンピースにフードつきのコートを羽織った軽装は、彼女がここの店長と親しかったことを物語る。
警部補は、バンのなかに女性を押しこんできた。そしてみずからも乗りこむと、外にいた同僚に告げる。「財務省に直行する。大臣官房秘書課への連絡をよろしく頼む」
「了解」車外の同僚かドアに手をかける。「警察庁の警備局からの連絡が入りしだい、俺もそっちに行く」
ドアが横滑りに閉じられると、騒音はシャットアウトされ、車内に静寂が戻った。
警部補が前のシートを回転させて。藤堂と向かい合うようにした。どうぞ、と女性に告げる。
凜田莉子は、おとなしく藤堂の前に座った。
ゆるいウェーブのロングヘアに縁取られた小顔には、猫のように大きくつぶらな瞳と高い鼻、薄い唇があった。可愛いというより綺麗という形容が当てはまる美人顔で、総じてクールで個性的に見える。
だがいまは、そんな彼女の目にも不安のいろが浮かんでいた。沈黙のなか、車外からかすかに響いてくる怒号にも似たどよめき。彼女の視線は窓に向けられた。
藤堂もそちらを見た。店の正面、半開きになったシャッターに動きがあった。大勢の私服警官に囲まれてひとりの男が連れだされてくる。
作業服姿の中年、いや初老に近い男性だった。体型はスマートで長身、白いものがまじった頭髪はウェーブがかかっていて、きちんと七三に分けてある。見た目から推察できる歳のわりに、背筋はまっすぐに伸びて、足どりも力強い。作業服の下に着たワイシャツの襟もとには皺ひとつなく、ネクタイにも歪みはない。身だしなみに気をつかう性格であることが、ひと目でわかる。
渋い顔つきに穏やかで涼しい目。失意と落胆は感じられるが、決して視線をさげたり顔を覆ったりはしなかった。来るべきときが来ただけだ、そんなふうに覚悟を含めていたようでもある。
重要参考人、すなわち事実上の容疑者。名前はさっき警部補からきかされた。たしか瀬戸内陸といった。
彼を追うようにして姿を現した若い女性は、ひどく取り乱した態度をしめしていた。金髪のワンレンボブに大きな星型のイヤリングをした、一見派手なその女性。瀬戸内陸の娘、楓に違いなかった。化粧は薄く、目鼻立ちも整っていて、父の面影が垣間見える。娘は泣き叫んで、父親に駆け寄ろうとしていた。制服警官たちがあわてたようすで制止し、別の警察車両へと誘導していく。
莉子は息を呑んでそのようすを見守っていた。身を乗りだし窓に手を這わせる。
だが、すぐにバンは動きだした。ひしめきあう警察車両から抜けだそうと、けたたましいクラクションとともにしきりに蛇行する。
運転席でカーラジオの音量があがった。アナウンサーの声が告げている。「緊急速報です。偽札大量流通の噂に端を発する異常な物価高騰問題につき、日本政府は午後十一時、国民のみなさまに重大な事実をお伝えするとのことです。午後十一時より、首相官邸における記者会見を、NHKと民放各局のテレビ・ラジオ全チャンネルにて放送いたします」
バンの速度はしだいにあがった。路上に何重にも敷かれた包囲網の外に走りでると、警察とは異なる集団が歩道に詰めかけているのが見えた。黒い群れはいっせいにフラッシュの光を閃かせた。
莉子がびくついたようすで、窓から顔を浮かす。
藤堂はいった。「心配ないよ。報道陣はやみくもにシャッターを切っているだけだ。このクルマのウィンドウにはフィルムが貼ってあるし、なかは見えない。彼らは間もなく真相を知る。ほどなく全国民に伝わることになる」
荒い運転だった。激しい振動のなか、莉子は無言のままシートに戻った。黒目がちな瞳は潤んで。いまにも涙がこぼれおちそうだった。
喉にからむ声で、莉子はささやくようにきいた。「これからどうなるんですか......?」
前方のシートで警部補が振りかえった。「政府による緊急記者会見まであと二十七分です。明朝から公取委が機能して、市場の常識に合わない高値の禁止を呼びかけます。国内のいかなる業者も値段を抑制せねばなりません。偽札の異常発生などなかったのですからね。国民が真実を知れば、パニックも収束することが期待されます」
藤堂は後をひきとった。「経済に異変が生じていないとなれば、誰もがいちはやく仕事に戻り給与を得ねばと感じる。暴れているだけの者はただの無法者となり、秩序を取り戻した司法により裁かれる。戦後復興と同じで単一国家の意思の統合は早い。政府の国際社会への説明責任は免れないだろうが、国民の暮らしは復旧する」
聡明な莉子は、そのあたりのことはすでに承知していたらしい。気にかけているのは別の事柄らしかった。
「警察は」莉子は警部補に背を向けたままたずねた。「実名を公表するんですか」
「......さてね」警部補は首をかしげた。「まだわかりません。記者会見では難しい説明は抜きにして、まず真っ先に、偽札騒動は錯覚にすぎなかったという事実が伝えられるはずです。すべての騒動は個人による悪戯レベルの行為に端を発したことにすぎない、とね。現段階では、瀬戸内陸はあくまで参考人です。逮捕には至ってません、詐欺罪になるのか、それとも内乱罪が適用されるのか、捜査担当者の判断にゆだねられます。容疑者として名が取り沙汰されることがあるなら、その後でしょう」
「内乱罪だなんて......」
「彼がどこまで混乱を意図していたかが焦点になります。専門家のあいだには、タンス預金の流出により国がマネーサプライ統計を誤算することなど予測できなかったはずだ、という見方もあります」
藤堂は首を横に振った。「私はそうは思わんね。ひとたび騒動が起きれば買い占めが横行したちまち品不足に陥る、これはそんな現象によく似ている。オイルショックを経験した世代で、なおかつ大手リサイクルショップの経営者なら、消費者心理を熟知していたはずだ」
沈黙があった。バンは、交差点に差しかかるたびにクラクションを鳴らしている。ほとんどの街灯が消えているうえに、場所によっては信号すら機能していないからだった。もっとも、それらのインフラも明日以降、徐々に先進国にふさわしい様相を取り戻すだろう。
やがて莉子の目がサイドテーブルに向いた。スケッチブックのほか、財布や写真など藤堂の私物が投げだしてあった。
福澤論吉のラフ画を眺めて、莉子は憂鬱そうにつぶやいた。「知ってたんですね」
「何を?」と藤堂はきいた。
「偽札など存在しないってこと......ご自身が描いただけによくわかっていたんでしょう。国立印刷局以外のいかなる団体にも、本物そっくりに作るのなんか無理だって」
いい勘をしている。藤堂は居ずまいを正し神妙にいった。「まあ、そうだな......。根拠があったわけではないが、おおかたこんなことだろうと思っていたよ」
「なら、おっしゃってくださればよかったのに」
「いったさ」藤堂はため息をついてみせた。この女性になら本当のことを知らせてもかまわないだろう、そう思いながら穏やかに告げる。「工芸官にすぎない私の意見になど耳を貸さない輩が多くてね。いや、実際にはきこえていたんだろう。ただ耳をふさいだほうが好都合な連中がいたってことだ」
「......なんの話ですか」
「瀬戸内陸のほかにもハイパーインフレを歓迎する勢力がいた。それも為政者側に」
「為政者側って......?」
「たとえばある議員だ。会見で、偽札は疑惑でなく事実だといちはやく主張した。警視庁に対しても偽札があるという前提で捜査を進めるよう強く要請した。と同時に、公取委が機能しなくなったタイミングを見計らうように、議員の肝いりで誕生した銀行に公的資金を導入させた。極端な円暴落、そして明日以降の復興。数字のマジックを利用して強引に黒字化する見込みを立たせた」
「その議員さんは真相に気づいてたとおっしゃるんですか」
「ああ、そう思うね。ハイパーインフレが錯覚だと知っていればこそ、運営わずか三年で一千億円もの累積赤字を抱えた悪政の象徴を消し去れるんだ。国民の税金が注ぎこまれた事実に変わりはないがね。利口だよ。ほかにも気づいていながら気づかぬふりをして、まんまと私腹を肥やした輩どもがいる。パニックを助長させたのは彼らだよ。知らぬは愚鈍な政府閣僚のみだ」
「藤堂さんも国家公務員なのに......。政府を批判するんですか」
「長年、霞が関で働いている私にいわせれば、自公連立政権なら各省庁への理解も深く、官僚との結びつきも密接にしていたから、私の忠告にも耳を傾けたろう。リーダーシップを持たない、しろうとの寄り合い所帯が率先して騒いでしまったおかげで国民にパニックが広がった。のみならず、ずさんな調査と間違った数値の公表によって混乱に拍車をかけた。現政権なればこその失態だな。もし今後も与党のまま存続するようなら悲劇だ。大災害でも起きたら絶対に対応しきれんよ」
莉子はなんの反応もしめさなかった。黙りこんだままサイドテーブルを見やる。
視線の先には一枚の写真があった。莉子はささやくようにきいた。「奥様ですか」
「ん?......ああ。だいぶ前の写真だな。殺風景だがコンビニの駐車場で撮った。単身赴任中の唯一の心の支えだ」
「六年前の秋。鹿児島市のご実家の近くですね」
「......どうしてわかる? 牛込署でもいったように、出身地がばれる写真は持ち歩けない決まりでね。写っている範囲には、場所を特定できるものは......」
「ローソンの看板が青でなく茶色です。観光地として景観を守るために桜島の周辺でおこなわれていることです」
「六年前の秋というのは?」
「奥様のヴィトンは〇四年春の新作ですけど、ローソンの脇に宅急便の看板が見えます。ヤマト運輸との提携が廃止されて、ゆうパックに切り替わったのは〇四年の十一月。服装からみて秋です」
藤堂はしばし呆然とした思いで莉子を見かえしたが、やがて自然に笑みがこぼれた。
「まいったな。これも所持禁止か。どんどん思い出が失われていくよ」
「デジカメの撮影のようですから、フォトショップで看板の色を変えてしまえばいいんですよ」
「いい考えだ」藤堂はスケッチブックを手にとり、福澤諭吉を描いた一枚を破り取って、莉子に差しだした。「よければ、もらってくれないか」
戸惑いがちに手を伸ばした莉子が、紙を受け取る。「いいんですか?」
藤堂はうなずいてみせた。「私も本来は画家だ。きみのような鋭い鑑定眼を持つ若き才人が、鑑賞の対象としてくれればなによりの喜びだよ。通貨ではなく、作品としてね」
「......ありがとうございます」莉子は頭をさげたが、笑みを浮かべるには至らなかった。
それでも藤堂はかまわずにいった。「天は人の上に人を造らず。世間はこの言葉の意味を誤解してるな。福澤諭吉は、みんなが平等だとはいってない。本来、人に違いはないはずなのに、貧富の格差がつくのはなぜか。答えはすなわち、学ぶか学ばざるかの差。『学間のすゝめ』はそう主張してる。きみを見てると、つくづくこの言葉が正しかったと感じるよ。勤勉で聡明であるがゆえに真実をみいだしたのだから。どこの大学をでたんだね?」
莉子の顔を、困惑のいろがかすめた。
「わたしは」莉子はつぶやいた。「大学には行ってません」
意外な答えだった。藤堂は莉子を見つめた。「ほう......。そうかね?」
「八重山高校をやっと卒業しただけです。必要なことはぜんぶ、バイト先の店長から教わりました」
「店長......。というと、さっきの......?」
......はい。莉子はうなずいた。真摯で切実なまなざしが藤堂から逸れ、床に落ちる。ささやく声だけが車内に響いた。「わたしがいまあるのは、瀬戸内店長のおかげです」
三年前
朝の穏やかな陽射しが降り注ぐ。二十歳の春、凜田莉子は仕立てたばかりの一張羅のレディススーツを着て、舞い落ちる桜の花びらのなかに立っていた。
お濠と交わるあたりの神田川沿い、住所は新宿区神楽坂西4-3-12。実際には神楽坂からみて東だというのに住所は西。おかげで、最初に物件を見にきたときにはすいぶん迷った。不動産屋の主人は、東神奈川駅前の住所も西神奈川だと笑っていたが、一人前の大人はその説明で納得するのだろうか。
艶やかなピンクのダウンジャケットにデニム姿の女性、莉子にとって姉のような存在の楓は、雑居ビル一階のテナントの正面に立ち、目を丸くしていった。「すげえじゃん。ここ、前にきたことあるよ。レティシアっていう有名な美容室の飯田橋店。潰れたなんて知らなかった」
全面ガラス張りのエントランスと自動ドアに、その洒落た店舗の名残りがある。内装業者に施工してもらって設備を取り払い、ごくふつうの室内に改造してあった。費用はずいぶんかかったはずだが、正確な金額を莉子は知らなかった。つい先日まで勤めていたバイト先の店長が、肩代わりしてくれたからだった。
楓の父、作業着姿の瀬戸内陸は、小さな看板の取り付けにかかっていた。「このあたりでいいよな? じゃ、接着するぞ」
しばし力をこめて壁面に押しつけると、瀬戸内は脇にどいた。
アクリルにステンレス板を嵌めこんだ看板。粋なデザインの書体で万能鑑定士Qとある。
莉子は思わず指先を口もとにやった。胸が躍る。こんなに早く自分の店が持てるなんて。
瀬戸内が上機嫌にいった。「完成。万能鑑定士クイーンの誕生だ」
とたんに笑顔が凍りつく。
クイーンって......。語呂も悪いしそのセンスだけは受けいれがたいが......。
楓が近寄ってきて、苦笑いとともに耳うちした。「心配ないって。クイーンじゃなくてキューっていえばいいのよ。店長は莉子なんだし」
「でもなんだか悪くて。それに、あのスタンド花......」
店の前に立てかけられた唯一の開店祝いを指さす。送り主のチープグッズの名と並んで、万能鑑定士クイーンと書いてあった。
「痛たたた」楓は額に手をあてた。「まるでパチンコ屋さんみたい。人気のない新台のタイトルね。いかにもでなさそう」
だが瀬戸内陸は、そんなふたりの困惑をまるで意に介さないようすで、ガラス越しに店内を指し示した。「デスクと接客用ソファ、キャビネットの配置もこれでいいよな? 苦労したよ。チープグッズの在庫のなかから、わりとかっこいい家具を選びだした。いいだろ」
また楓が莉子にささやいてきた。「まさかの自画自賛......。あのインテリアのセンスで」
「しっ」莉子は笑いをこらえながら小声でかえした。「お父さんを悪くいっちゃ駄目ですよ」
「だってさ、美容室然としたエントランスに、あの事務デスクでしょ。合わないって、ソファも会議室みたいな黒革張りだしさ......。キャビネットって、あれ食器棚だと思うけど」
「いいんですって、無料で揃えてくれたんだし」
「少しずつでいいからデザイナーズ家具に変えていきなよ? ロフトとかイケアで安いの見つかるって」
瀬戸内が口をはさんできた。「何をごちゃごちゃいってる? さあ、凜田さん。店のなかへどうぞ、きみはここのオーナーなんだから」
オーナー......。その言葉に吸い寄せられるように、莉子はエントランスに歩を進めた。
自動ドアをくぐる。地価の高い都心部、かつて人気の美容室だった店内の広さもさほどではない。そぐわないデスクとソファだけでも床面積の大半を占拠してしまっている。
それでもここは、わたしの店だった。波照間島から上京して二年。就職をあきらめていたわたしは、ようやくいっぱしの社会人になれた。改装直後のニスのにおいさえ心地よく感じられる。
戸口にたたずむ楓が笑顔でいった。「よかったね。莉子」
瀬戸内陸は腕時計を見やった。「おや、もうこんな時間か。私も店を開けないと。じゃ、楓と私はチープグッズに戻るよ。お互い営業開始だ。心から応援してるよ」
「ありがとうございます。全力で頑張ります」莉子は頭をさげた。
明るく別れを告げて、瀬戸内親子は立ち去っていった。自動ドアは音もなく閉じた。
しんと静まりかえった店内。わたしはもうひとりきりだ、そう実感した。
「やるぞー」と声を張ってみた。だが、具体的に何をやるのかわからない。デスクにうっすらと積もった埃が気になり、とりあえずそれをふき取ることにした。
そのとき、自動ドアが開いた。ワイシャツにスラックス姿、痩せ細った白髪頭の男性が、大きな箱を抱えて入ってきた。かなりの高齢者らしく、足もとがおぼつかない。
莉子はあわてて姿勢を正した。「い、いらっしゃいませ」
老人は上目づかいにこちらを見ると、にこりともせずに箱をデスクに置いた。黙りこくったまま箱を開ける。なかから現れたのは木彫りの仏像、それも年代ものの座像だった。
沈黙が流れる。男性はデスクの前に立ったまま、無言で仏像に視線を落としていた。
「あ」莉子は戸惑いがちにきいた。「あのう......これが何か?」
「......何かって?」男性は眉をひそめた。「ここ、鑑定のお店じゃないのかね」
「は、はい。そうです」
もうお客さんがきた。先週から飯田橋駅前でひとりチラシ配りに勤しんだ効果が、早くも現れたらしい。喜ばしいことだった。
「拝見します」莉子はいった。「......きょうはそのう、お仕事はお休みですか」
「とっくに定年しとる。見てわからんか」
「そ......そうですか。失礼しました」
見てわかるわけがない。莉子は内心思った。外見からその人の諸事情を見抜くなんて不可能だ。わたしは魔法使いではない。
落ち着けと莉子は自分にいいきかせた。チープグッズでの二年間、わたしは瀬戸内店長から暗記や計算の要領を学んだ。おびただしい数のカタログや参考書を読破した。感情に身をまかせて読むことで、それらの知識は頭に刻みこまれている。
「ええと」莉子は思いついたことを口にした。「如来じゃなくて菩薩ですね」
「あん? 菩薩?」
「そうですよ。如来は修行した直後、菩薩は出家前の姿をそれぞれモデルにしてます。着衣の立派なのが菩薩で、みすぼらしいのが如来です。これは装飾品を身につけてますから菩薩です」
「......だから?」
「あの......だから、とは?」
「如来じゃなく菩薩。そんな豆知識を披露されても困るんだがね。鑑定してもらわないと」
「あー、なるほど。たしかに」莉子は冷や汗をかきながら仏像を眺めまわした。「あれ? やっぱり菩薩じゃないのかな。これって大日如来......」
老人は呆れたようにため息をついた。「鑑定家の先生は? 留守かね」
「いえ......。ここはわたしひとりのお店でして」
しばしのあいだ、老人は黙って莉子を見つめていた。やがて、そそくさと仏像を箱にしまいこみ、それを取りあげた。「邪魔したね」
「あ、ちょっと待ってください。もっとよく見れば少しはわかることが......」
だが、老人は振り向きもせず、自動ドアをでていった。
空虚さとともに立ちつくすしかない。莉子は心が沈んでいくのを感じた。
初めてのお客さんの期待には応えられなかった。不運にも、わたしのまったく知らない物が持ちこまれてしまった。チープグッズの買い取りコーナーでは百戦錬磨だったのに。
勉強するしかない。莉子は奥の扉を開けて、クローゼットのなかにある書棚に向かった。仏像に関する未読の本が何冊か残っているはずだ。
そのまま読書にふけるうち、いくらか時間が過ぎた。ふいに店頭のほうから声がした。
「すみません」
「あ、はい」莉子はクローゼットから駆けだし、店に戻った。「いらっしゃいませ」
今度の客はふたり、いずれも三十代ぐらいの男性で、揃いのパーカーを着ている。兄弟かもしれない。ひとりは太って大柄、もうひとりは痩せて背が低かった。
背の低いほうの男が、携えていた箱を差しだしてきた。「これ、買ったばかりなんだけど、鑑定してもらいたくて」
莉子は受け取ろうと両手を伸ばした。ところが、莉子が箱を保持するより一瞬だけ早く、男は手を放した。箱は落下し、床に叩きつけられた。内部で割れるような音が響いた。
「あー!」太ったほうの男が声を張りあげた。「壊したぁ!」
「ど」痩せた男も目を瞠っていた。「どうしてくれるんです。これ、病床の父に頼まれて買った、たったひとつしかない壷ですよ。そんなに高くはないけど、父の心からのお気にいりで」
わたしひとりの過失だろうか。彼のほうも不注意だったのでは......?
しかし、客の持ちこんだ品が店内で壊れたという事実は否めない。疑念はすぐさま頭から消し飛んだ。莉子はあわてて頭をさげた。「申しわけございません」
太った男がいった。「謝られてもね......。いちおうさっき、そこの古物商で買った物だから、レシートはあるけど」
「あ、それなら......。弁償します」
「いや」痩せた男は顔をしかめた。「いいよ。お金が戻ったところで。壷は返ってこない」
「ごめんなさい。でも、どうか受け取ってください。すべてはわたしの責任ですし」
「......どうする?」と痩せた男は太った男を見た。
すると太った男は肩をすくめた。「そこまでいうなら」
結局、レシートに記されていた金額、六万八千円を取りだし、ふたりの男性に渡した。
男性たちは渋い顔をしながらも、壊れ物の入った箱を手に立ち去っていった。
はぁ......。思わずため息が漏れる。莉子は椅子に身を投げだした。
光熱費や電話代の支払いのために用意してあったお金なのに......。これでは今月の家賃すら捻出できない。
落ちこんだ気分でデスクの表面に目を落とす。早くも心が折れそうだった。
またしばらく時間が経過した。自動ドアが開く音がして、莉子は反射的に笑顔を取り繕い立ちあがった。「いらっしゃいませ」
今度はスーツをきちんと着こんだ、業者風の男性だった。「こんにちは。いや、僕は客じゃないんだ。商店街の関係でちょっと話があって」
「商店街......」莉子はおじぎをした。「凜田莉子です。きょうからお世話になります」
男性は笑った。「そんなに堅苦しくしなくていいよ。べつに商店街の者じゃないし。この辺りのお店はすべて、美化協定に加盟しててね。知らなかった?」
「はい......。美化協定って?」
「店がお金をだしあって、清掃業者を雇っているんだよ。僕はそこの社員でね。通り沿いの美観を守るために、お店の前を掃いたり、閉店時にシャッターを磨かせてもらったりしてる。でも、いちおうあなたのお店だから、掃除のためにそのようなことをおこなっていいという了承をもらわないといけなくて」
「ああ、そういうことでしたら、ぜひお願いします」
男性はカバンから書類を二通、取りだした。「これ、契約書だよ。よければ署名捺印してくれないか。乙のほうの欄がきみだ」
書類は数枚綴りだった。最後の紙は上半分が大きくあいていて、その下は甲と乙の署名捺印欄になっていた。いずれもまだ空欄だった。
瀬戸内陸に鍛えられたせいで、速読だけはそれなりに得意になっていた。契約書の文面に目を通す、たしかに男性がいった内容のとおりだった。
莉子は印鑑を取りだして所定の場所に捺した。それからボールペンで署名をする。
「結構」男性は二通を揃えてカバンにしまいこんだ。「うちの会社の署名捺印をしてから、一通をきみの控え用として送付するよ」
「ありがとうございます。どうもわざわざご親切に」
「こちらこそ。じゃ、失礼するよ」男性はそういって自動ドアをでていった。
世の中捨てたものではない。莉子はそう思い直した。商店街は助け合い精神で生きている。必要な契約を向こうから知らせてくれる人もいる。
ふとガラスの向こうを見たとき、莉子のなかを不安がかすめた。
歩き去っていく男性の横顔、口もとが歪んだように見えたが......。
不完全
夜七時をまわっていた。
瀬戸内陸は、日没後の神田川沿いを凜田莉子の店めざして歩いていた。チープグッズの営業時間は午後九時までだが、どうしても気がかりなことがあってひと足早く切りあげてきた。胸騒ぎがする。とにかく、一刻も早く彼女のもとを訪ねたい。
雑居ビル一階のテナント、万能鑑定士Qの店が見えてきた。まだシャッターは閉じられていない。店内の明かりも点いている。
ひとけはなく、寄りつこうとする客の姿もない。営業十日目にして閑古鳥か。鑑定業という特殊な営業形態ゆヘ客の賑わいで繁盛の度合いは測れない。ただし、いまはその閑散とした状況のみならず、たとえようのない重苦しい空気が充満しているように感じられる。
店の前に立ち、なかを覗きこんだ。
莉子はいた。デスクに顔を突っ伏している。
やはり......。瀬戸内はエントランスに近づいた。自動ドアが横滑りに開く。
「凜田さん」と瀬戸内は声をかけた。
はっとしたようすで、莉子は顔をあげた。驚きに目を丸くしている。「瀬戸内さん」
ずいぶんやつれているな。瀬戸内は莉子についてそう思った。憔悴しきった表情、泣き腫らして赤くなった目。この十日間の彼女の苦悩を集約したような顔が、瀬戸内に向けられていた。
思わずため息が漏れる。瀬戸内はいった。「だいぶ落ちこんでるみたいだな」
「いえ......。あ、あのう、そんなことないです」
「隠さなくてもいいよ。理由もわかってる。初日早々、お客さんが持ちこんだ壷を割っちゃって、なけなしのお金で弁償したからだろ。じきに電気代の請求がくるけど払えそうにない。当面の悩みはそのあたりだな」
「ど、どうしてそれを......」
「商売柄『ヤフー知恵袋』の〝ビジネス、経済とお金〟のカテゴリーはよくチェックしてるんだよ。九日前の夜、こんな書きこみがあった。飯田橋で鑑定業を始めたんですが、初日からお客さんの壷を壊してしまいました、ってね。どう考えてもきみだろ」
莉子は泣きそうな顔になった。「厳しい回答ばっかりなんです。辞めちまえとか、プロ意識が欠如しすぎだとか......」
「匿名の意見なんか気にするな。っていうより、店で起きたトラブルの解決策について不特定多数に質問しても無駄だよ。それも『ヤフー知恵袋』で」
「やはりそうですか。『教えてグー』にしておくべきでした」
「どっちも駄目だって。おや、それは何だ?」
デスクの上に一枚の紙があった。瀬戸内は取りあげて文面を見た。
単体のペラ紙、サイズはA4だが、なぜか横幅は少し狭い。縁をカットしたに違いない。清掃業務依頼契約書とある。その下の文面に目を通したとき、瀬戸内は衝撃を受けた。
「なんだこりゃ」瀬戸内は思わずうわずった声をあげた。「毎月、最終週の日曜に店内に清掃が入るのか? 三年契約で二百六十万円、しかも先払い。もし店側の都合で作業できなくても、支払いの義務は発生すると書いてある。どうしてこんな契約を交わした?」
莉子は目を潤ませていった。「契約してません。でも、したことになっちゃったんです。それを持ってきた人の説明では、お店の外を綺麗にするだけって話でした。出費もごくわずかのはずだったんです。その紙の前に何ページかあって、そこに記してあったんですよ。最後のページは署名捺印欄だけだったはずなのに......」
「ああ、そういうことか。上半分の文面は後から印刷されたわけだ。紙の縁がカットされてるのは、本来は複数枚がホッチキスで綴じてあって、そこを裁断したからだな」
「さっきテナントのオーナーさんが来て、わたしにきいてきたんです。『こんな紙が郵便受けに入ってたけど、あなた契約したの?』って。お話をうかがったら、商店街の誰も清掃の契約なんかしてないそうです」
「だろうな。凜田さん、複数枚の契約書ってのは、こういうことが起きないようにページにまたがって割り印をするんだ。その指示がないのに捺印しちゃいけない」
「知りませんでした......。ひどいです。どうしてこんなことをするんでしょう。わたし、二百六十万円も払えません」
「まずは落ち着きなさい、この清掃業者とやらは、いつ店を訪ねた?」
「初日です。例の壷を持ちこんできたお客さんたちの後に、すぐおいでになって」
「なら」瀬戸内はため息とともに莉子を見つめた。「その両者はグルだな。開店したばかりの自営業者をカモにしようと群がるハイエナの類いだ」
「グルって......。なんのことですか? 壷はわたしの不注意で割っちゃったんですよ」
「おいおい! 凜田さん。まさかそれが本当に不慮の事故だったと信じてるんじゃないだろう?」
しばし莉子は唖然とした面持ちのまま固まっていたが、ようやく真相に気づいたらしく目を見開いた。「じゃあ、あのふたりは最初からわたしに弁償させるつもりで......」
「当然だろ。典型的かつ古典的な詐欺の手口じゃないか。きみ、箱の中身を見たか? 壊れたという壷を目にして、払うだけの金額に見合った物だと確認したか?」
「いえ......。動揺しちゃっていたので......」
「うーん。きみは思ったよりもだまされやすいな。たぶん、目の前に詐欺師がいたとしても気づけないんじゃないかと思う」
「そんなことないですよ。さすがにそこまで鈍感じゃありません」
「いや。少なくとも敏感ではないね」瀬戸内はそう断じた。この私と向き合っている現状が、なによりの証しだった。
莉子は暗い面持ちでつぶやいた。「わたし、この仕事向いてないかも......」
「わずか十日で何をいいだすんだよ。きみはかなりの物知りになったはずだろう。チープグッズでも活躍していたじゃないか」
「買い取り査定ならともかく、鑑定業の看板を掲げるなんて身のほど知らずでした。持ちこまれた品物のどこを見て何を考えればいいか、自分でもわからないんです」
「それは慣れだよ。接客は緊張するものさ。きみの店なんだから、マイペースでやっていけばいい」
「でも」莉子は契約書を指さした。「悪意を持って接してくる人には、どう対処したらいいんですか。チープグッズにいたころには瀬戸内さんがいたし、楓さんも頼ることができた。けど、わたしひとりじゃどうにもなりません」
「そう悲観的になるなよ。よく考えてみたまえ。きみは、どうしてだまされたと思う?」
「さあ。単純だから......じゃないでしょうか」
「凜田さん。好むと好まざるとにかかわらず、いったん店を開けたからには、今後ずっとひとりで切り盛りしていかねばならない。経営は人づきあいだ。世間には信用できる人間もいれば、そうでない人間もいる。ペテンを見抜くことも自営業者の裁量のうちだよ。ある意味では、いちばん大切な能力だ」
「いちばん大切?......でも瀬戸内さんは、そんなこと教えてくださらなかったし」
瀬戸内は思わず絶句した。
海千山千と渡りあう器用さ。身ひとつで起業し成功するためには絶対に必要な才能だった。だが私は莉子に、そのことについて教えなかった。気づくきっかけすら与えなかった。
理由ははっきりしている。彼女にその技能を身につけてほしくなかったからだ。詐欺を看破する目を育てたら、その視線は私に向けられる可能性がある。ゆえに、詐欺という概念の説明すら故意に避けてきた。
戸惑いを覚えながらも瀬戸内はいった。「私はね、きみに薄汚い世界を歩ませたくないんだ。すれた人間になってほしくはないんだよ」
莉子はしょんぼりとした顔でうつむいた。両手で顔を覆い、涙声でささやく。「これじゃやっていく自信がないです」
やれやれ、弱ったな......。瀬戸内は頭をかいた。「凜田さん。ひとつたずねていいか。きみは、甘い物が好きか?」
「......いえ」莉子は顔をあげた。不思議そうな表情を浮かべてじっと見かえす。「それほどでも」
「よかろう。きみは甘い物好きではない。それならば、以下のことは論理的に正しいかな。きみが甘い物好きなら、すなわちきみはミツバチである」
「は? ええと、あのう......。なんでわたしがミツバチって話になるんでしょうか?」
......ごく当たり前の反応だ。というより、何を問いかけられているかわかっていないらしい。これでは詐欺は見抜けない。
どうすればいいだろう。莉子のつぶらな瞳を見つめるうちに信念がぐらつく。私は彼女を、不完全なまま世に送りだしていいものだろうか。
解決法
翌朝九時過ぎ。瀬戸内陸は凜田莉子を連れて、飯田橋界隈の所轄警察署である牛込署に向かった。
本音では、あまり警察に関わりたくはない。印象に残りたくないし、顔を覚えられるのもまずい。それでも莉子が詐欺の被害に遭っている以上は、どう対処すべきかを彼女に教えねばならない。
署内に足を踏みいれる。ロビーは二階までの吹き抜けだった。カウンターに声をかけて相談内容を手短に伝える。直接、刑事課に赴くよう指示された。
いっそう気が進まないが、やむをえなかった。莉子とともにエレベーターに乗り三階にあがる。
そこはいわゆる刑事部屋だった。フロアにずらりと並んだ事務デスク、厳めしい顔つきの男が多かった。書類仕事に追われている者もいれば、電話をかけている者もいる。
近くのデスクの男が顔をあげた。「なにかご用でしょうか」
瀬戸内は莉子を指し示した。「彼女が詐欺の被害に遭いまして」
男は部屋を振りかえって、声を張りあげた。「知能犯捜査係。葉山翔太警部補」
はい、と返事が響き、ひとりの男が立ちあがった。
やりとりは体育会系だ。しかしながら、葉山という男はほかの刑事たちとは異なる印象だった。身体つきは痩せていて、七三に分けた髪も長めにしている。年齢はまだ三十代だろう。やや面長の馬面だが、この刑事部屋ではハンサムの部類に入るかもしれない。とはいえ、目に覇気がなく、無精ひげが生えていて、ネクタイも歪んでいた。
葉山は近くまでくると、どことなく瓢々とした雰囲気をまといながら頭をさげた。瀬戸内たちに椅子をすすめ、葉山も向かい合わせに腰を下ろした。「で、何かありましたか」
瀬戸内は莉子にいった。「きみから説明して」
「は、はい......」莉子は緊張の面持ちで、清掃業者にだまされた件を語りだした。
しばらくのあいだ、葉山は莉子の話に耳を傾けていたが、やがてどこか投げやりな口調で告げた。「ま、よくある話ですな。ずいぶんお若いみたいですけど、お店を始めるならもうちょっと慎重になさるべきと思いますけど」
「で?」と瀬戸内はきいた。
葉山は見かえしてきた。「『で?』とは?」
「被害届をだすべきですか。先方の清掃業者について調べていただけるんでしょうか」
「いやあ、そこまでのことは......。お話によれば、契約の日付も書きこんじゃったんですよね? 十日前ですか。もうちょっと早ければクーリングオフも可能だったんですけどね」
瀬戸内はかすかな苛立ちを覚えた。「わざと十日間、契約書を返還しなかったんですよ。クーリングオフ期間を消化させるためです」
「けど、書いてあった契約内容は、店主さんが受けた説明や事前に見せられた文面とは違っていたわけでしょ? ええと、お名前はなんだっけ、凜田......莉子さん」
莉子はあわてたようすで応じた。「あ......。は、はい」
「無視すればいいんじゃないですかね。話が違うんだから、相手にしなきゃいい」
「そんな......。わたし、お店にひとりでいるんですよ。押しかけられたら何もできそうになくて」
ふうん。葉由は顎をさすった。「契約書の甲の欄に、業者の所在地や電話番号が書いてあるでしょう。先方に連絡してきっぱりと断ったら?」
瀬戸内はため息まじりにいった。「葉山さん。当事者どうしがやりあったら、トラブルのもとでしょう。警察は未然に防ぐ義務があると思いますか」
「民事不介入も原則でしてね」
「相手が詐欺師でも?」
「まだ被害に遭われてはいないんでしょう? 向こうから何もいってこない可能性もあるし。しつこく迫ってくるようならそのときはまた......。あ、ここに来るんじゃなくて、法律無料相談を利用されたほうがいいですよ。チラシを差しあげます」
弁護士会のチラシで訴えを退ける。事なかれ主義の刑事によくみられる対応だった。
瀬戸内はうんざりした気分になった。チープグッズを所轄に含む武蔵野署の知能犯捜査係は、是非ともいい加減な男であってほしいが、莉子の相談相手がこの体たらくなのは許しがたい。我ながら勝手な話だと思うが、それが本音だった。
まさか捜査員としての能力まで欠如してはいまい。瀬戸内は葉山にきいた。「刑事さんは、足は速いほうですか?」
葉山は妙な顔をした。「まあ......ね。子供のころから駆けっこは得意でしたけどね。それが何か?」
「論理的かどうか答えてくれませんか。あなたは足が速い。よって、あなたの足が遅ければ、あなたは象である」
ふんと葉山は鼻を鳴らした。「論理的ではありますね。その通りでしょう。変わったことをおたずねになりますね。あなたは凜田さんとは、どういうご関係......」
「お忙しいところ失礼しました」瀬戸内は頭をさげると、莉子を目でうながしてさっさと立ち去りだした。
呼びとめられることはまずない。ついいましがた、民事不介入を口にしたばかりの刑事だ。多少、不審に思ったとしても、深く追及してはこないだろう。
廊下にでてエレベーターに向かう。莉子はふしぎそうな顔でたずねてきた。「なぜあんな質問をしたんですか。それに、論理的って......」
「知能犯捜査係としての才覚を試したんだよ」扉が開いた。エレベーターに乗りこみながら瀬戸内はいった。「そこそこかな。知性はそれなりにあるようだ」
莉子は一階のボタンを押した。扉が閉じ、エレベーターが下りだすと、莉子は瀬戸内を見つめてきた。「意味がわからないんですけど。足の速い遅いで、どうして象ってことになるんですか」
「論理として成り立っているか否かなんだよ」エレベーターは一階に着いた。瀬戸内は莉子とともにロビーにでた。「もう少しわかりやすくいおうか、きみは男性ではない。ゆえにきみが男性ならば、きみはジョニー・デップ。どう思う?」
「そりゃ、ジョニー・デップがどうかというより、まずわたしは男性じゃないし」
「そのとおりだ。きみが〝Xでない〟という前提があるからには、その逆説、きみが〝Xである〟というのは仮定にすぎない。現実とは異なる前提についてYという結論が導きだされていても、きみに否定する材料はない。条件としては食い違いや矛盾は生じておらず論理的に正しいといえる。わかるかい?」
「はぁ......。わかったようなわからないような......。けど、さっきの警部補さんはなんの疑いもなく答えてましたね」
「普通の人とはちょっと違ったものの見方をしているからだよ」瀬戸内はロビーから外にでた。春のやわらかい陽射しのなかを歩道に向かう。「論理として成立しているかどうかを見極め、そこから真実を導きだす。警察官とか詐欺師とか、嘘をめぐって駆け引きするのが常だと、この手の質問には強くなる。論理を意識しているうちは、まだ論理的とはいえない」
「へえ。瀬戸内さんは警察官になれるかもしれないですね」
「......私は、商いをするうえでいろんな目に遭ってきたからね。二段階の論理的思考によって真実をみいだせるものだよ。自分なりのやり方で〝有機的自問自答〟および〝無機的検証〟と呼んでる」
「有機と無機......ですか。詳しく教えてください!」
ふと瀬戸内は困惑を覚え、口をつぐんだ。
純粋を絵に描いたような性格、人を疑うことを知らない清らかな心の持ち主。高い感受性とそれに伴う記憶力を有していても、いまのままでは自営業者として通用しない二十歳の女性。それが凜田莉子だった。
そんな彼女を、私は世に送りだしてしまった。独立を急がせた理由は、経営状態がおもわしくないチープグッズの人件費を減らすため、それだけではない。瀬戸内自身、巨額の借金解消を目指し偽札騒動を引き起こそうとひそかに計画を進めている以上、無関係の彼女を遠ざけたいという思いがあった。
無垢なままであれば、莉子は私にとって脅威にならない。けれども、変わらなければ莉子は都会の狡猾な詐欺師たちの餌食になるだけだ。
娘の楓にも授けなかった知恵......というより奸智を、莉子には与えねばならない。彼女が生きていくために必要なことだ。
人としての責任は果たそう、瀬戸内はそう思った。
「教えるよ」と瀬戸内はいった。「あらゆる問題の解決法を」
「ほんとに?」莉子は目を輝かせ、満面の笑みとともに跳ねあがった。「やったぁ!」
その喜びの表情を見るうちに、瀬戸内はふっきれた気分になった。ためらいなど不要だ。この歳にして、ひとりの若者の成長に貢献できるのだから。
葉山は刑事部屋の自分のデスクで伸びをした。
春先はあんな相談ばかりだ。警察は便利屋ではない。清掃業者との契約上のトラブルぐらい、自分たちで何とかしてもらわないと困る。
飯にでもでかけるか。そう思って腰を浮かそうとしたとき、また上司の声が響いた。「知能犯捜査係、葉山翔太警部補」
またか。葉山は内心うんざりしながらも立ちあがった。「はい」
さっきの相談者はまるで父親と娘のようだったが、今度は母親と息子だった。似通った面立ち、実の親子だろう。ふたりとも場違いなことに、それぞれの年齢において最大限にファッショナブルな装いをしていた。
母親のほうは四十代半ば、ダブルの襟飾りに銀のベルトのレディススーツはオーダーメイドらしく、痩せた身体にぴったりと合っている。髪は長く、毛先をカールさせたセットは美容室からでてきたばかりのようだった。メイクは薄めだが、肌艶もよく整った目鼻だちをしている。どこかのクラブのママだろうか。
息子は二十歳そこそこの若さで、服飾専門学校の生徒とギタリストの中間といった感じだった。母親よりさらに痩せていて、背も低く、うっかりすると女の子に見える。ヴィジュアル系っぽくモードブランドを着こなしているせいもあるだろう。髪は明るく染めて長く伸ばしたうえに、ラビットファーらしきソフトハットを斜めにかぶっている。
親子モデルのような派手な外見とは対照的に、ふたりの表情は暗く沈んでいた。神妙な顔つきだけはこの場にふさわしい。葉山はそう思った。
ふたりに椅子をすすめてから、葉山は向かい合わせに座った。「どのようなご相談で?」
女性は深刻そうにつぶやいた。「印鑑の偽造がありまして......。調べていただきたくて」
「偽造......? あなたの印と偽って、誰かほかの人間が別の印をこしらえたとか?」
「わたし個人ではなくて会社の社印です。チェーンで複数の店舗を経営してまして」
「ふうん、で、その他者による偽造ですが、その行為によって、あなたはなんらかの被害なり迷惑なりをこうむりましたか」
「ええ」女性は語気を強めた。「不当な契約によって、会社と資産を奪われようとしてます」
ふと疑念が葉山のなかをかすめた。
葉山は女性を見た。「おたずねしますが、その店舗というのはどこにありますか。牛込署の管轄内ですか」
「一号店は飯田橋駅の近くにありました。いまはもう閉めてしまいましたけど......。神田川沿いです。お濠と交わるあたりで、新宿区神楽坂西4-3-12」
「西四丁目......。ひょっとして美容室チェーンのレティシアの?」
そうです、とふたりはほぼ同時にうなずいた。女性は表情をかすかに和らがせた。「わたしは笹宮麻莉亜、レティシア社の代表取締役です。彼はわたしの息子で、美容師の朋李」
自己紹介されても困る。葉山は率直にそう思った。この親子に安心を与えられる立場にはないからだった。
戸惑いがちに葉山はいった。「その件でしたら新聞で読みました。もう何年も裁判で係争中でしょう? たしか近いうちに最高裁の判決が......」
麻莉亜は頭をさげてきた。「非常識なのは承知してます。でも、ほかに頼るところがないんです」
「すでに警察にも相談されたんでしょう?」
「はい。本社の所在地が銀座なので、築地署に......。けれども捜査が必要な状況とは認められないとかおっしゃって」
「それでいまになって、一号店が飯田橋にあったからといって牛込署においでになったんですか? 無理がありますよ。判決を待つしかないのでは?」
「最高裁といっても民事訴訟なんです。刑事事件としての捜査はいまだおこなわれていません。どうかお願いします」
そうはいわれても、どうにもならない。これほど答えがはっきりしている相談もめずらしい。強いていえば、無碍に断るのか、それとも遠まわしにやんわりと説得するのか、対応はふたつにひとつだった。
レティシアの抱える問題は全国に知れ渡っている。ひところワイドショーや週刊誌がこぞってネタにしたからだ。
亡き夫の後を継いで社長に就任した笹宮麻莉亜、数年間は業績も堅調だった。ところがある日、ダルメという大阪の会社が、レティシア・チェーンの経営権のすべてを譲り受けたと主張してきた。
麻莉亜によればこれは寝耳に水の話であり、当然のごとく弁護士を立てて先方と話し合ったが、なんとダルメ側にはレティシアの社印が捺印された契約書が存在していた。内容は、レティシアの全店舗をダルメに無償で譲るという一方的なものだった。
署名は故人となった夫ではなく笹宮麻莉亜本人。契約書の日付はごく最近だった。
ダルメ側の弁護士によれば、レティシアは麻莉亜が継いで以降、深刻な経営難に陥っており、負債も込みでダルメが引き取ることになったという。
一方、麻莉亜は事実無根だと反論した。ダルメなどという会社はきいたこともないうえに、そもそもレティシアは黒字つづきでオーナーの権利を放棄する気などあるはずもない。
笹宮麻莉亜はダルメを訴え、裁判が始まった。東京地裁の口頭弁論にグルメの社長は姿を見せず、代理人の弁護士だけが出席した。ダルメなる会社自体、この不審な契約のために急きよ法人登記された名目のみの組織であり、どこの資本によって設立されたかすらあきらかでなかった。
誰が見ても不自然な契約に違いなかったが、地裁は麻莉亜の訴えを退けた。契約は成立しており、レティシア・チェーンはダルメに譲られたと地裁は判断を下した。
判決の理由は契約書における社印だった。署名の筆跡のほうはやや崩れており、麻莉亜本人によるサインがどうか微妙だったが、社印のほうは間違いなく本物と鑑定された。印鑑登録された印影と比較しても寸分の違いもなく、電子顕微鏡による検査で千倍に拡大しても違いがみられなかったという。
葉山はじれったく思いながらいった。「笹宮さん......。裁判でもさんざんいわれたでしょうが、日本ってのは印鑑を絶対視する国ですからね。過去の判例でも、本人の申し立てや状況証拠にかかわらず、実印が捺してあればそれがすべてに優先するって判断ばかりです」
麻莉亜は切実に告げてきた。「だから、鑑定自体が間違っているんです。契約書にあった捺印が、うちの社印であるはずがありません。そっくりですけど違います」
「誰かに持ちだされた可能性は?」
「ありません。印鑑は事務所の金庫にたいせつに保管してます。金庫を開けられるのはわたしだけです。必要な際に取りだし、すぐに仕舞います。外に持ちだしたことも、デスクに置いたまま席を外したことも、一度もないんです」
「白紙にうっかり捺印してしまって、その後に契約事項が印刷されたとか」
「警部補さん。わたしも経営についてはしっかり学んできました。社長業の責任の重さはわきまえているつもりです。関係のない紙に社印を捺すなんて考えられません」
「うーん」葉山は思わず唸った。「マスコミの論調はふたつに分かれてますよね。亡くなられたご主人が生前に捺印したものに誰かがあなたの名を書き加えたか、もしくはあなた自身がなんらかの理由で印鑑を捺したか......」
「どちらも違います! 主人はわたし以上に厳格な経営者でしたし、わたしのほうもこんな契約書に捺印するはずがありません。どうか力になっていただけませんか」
「所轄違いですし......」
「一号店は裁判が長引いたせいで経済的負担が大きくなり、やむなく閉めたんです。つまりダルメなる会社が契約書を持ちだしてきたときには、まだこちらの管轄内に一号店があったんですよ。わたしの申し立てが駄目なら、息子が被害届をだします。朋李は一号店で働いてたし、ゆくゆくは店長になる予定でした。いまは職場を失ったので、他店の応援にまわるだけですけど。非番も多くて......」
「母さん」朋李が初めて口をきいた。母親の暴走に苛立ちを覚えたのはあきらかだったが、穏やかな物言いで諭すようにいった。「もうやめようよ。いまさらどうにもならない」
麻莉亜は昂る感情を抑えきれなくなったらしい。涙声で興奮ぎみに告げた。「どうして......。朋李までそんなこというの? わたしが捺印したとでも......」
「そんなことはいってないよ。でも裁判で争っているんだから判決を待つしかない」
息子のほうはいくらか冷静のようだった。ここにつきあったのも、母親を引き留めたかったが叶わなかったのでやむをえず同行した、そんなところだろう。
葉山は麻莉亜をなだめにかかった。「とにかく落ち着いてください。いまはお帰りになって、顧問弁護士の先生に相談なさるのがいちばんでしょう」
かっとなったようすで麻莉亜がまくしたててきた。「何よ! 追いかえそうとする気? わたしは詐欺に遭ったっていってるでしょう。あの契約書の印は偽物なんだってば。どうして調べてくれないの!?」
朋李が制止にかかる。「やめなって。母さん......。たとえ警察が調べても判決には間に合わないよ」
もめる母と息子を前に、葉山は頭を抱えた。同僚たちの視線が痛い。さっきの凜田という若い女性のほうがいくらかましだ。長く引き留めておけばよかった。この美容師親子の相談を受けずに済んだかもしれないのに。
記号
昼下がり、莉子は瀬戸内陸とともに中央線快速下り電車に乗っていた。
新宿駅をでてほどなく、車中で瀬戸内がきいてきた。「詐欺に遭いそうになったこと、過去にあるかね?」
莉子は答えた。「高校三年の卒業間際に......。へんな通信教育を契約しちゃいました。でも担任の喜屋武先生の機転で助かったんです。契約したのは〝学生コース〟だったけど、学校教育法の学生の定義に高校生は含まれないって」
「なるほど。教師ならではの知識を生かした、スマートなやり方だね。きみも学ぶべきだ。ふだんから情報を得ると同時に、真実をみいだす癖をつけなきゃ」
「真実をみいだす癖......ですか」
「そう。たとえば」瀬戸内は腕時計に目を落とした。「あと十二秒で対向の電車とすれちがう。いいかな。残り十秒。......五秒。四、三、二、一」
窓ガラスに叩きつけるような風圧。上りの快速電車が猛スピードで逆方向に駆け抜けていった。
莉子は驚きを禁じえなかった。「すごい。ぴったり。どうして......?」
「この下り電車はついさっき、新宿駅を一時四十二分にでた。ホームの上りの電光掲示板には、一時四十八分の表示があった。新宿と中野間の所要時間は四分だから、上り電車は四十四分に中野をでている。ふたつの電車がそれぞれ出発した時刻の平均は四十三分。そこに所要時間の半分を加えて、一時四十五分にすれちがうとわかる」
「へえ......。なんだか思考がついていかない......」
「考え方がわかっていないだけだよ。前にもいったように〝有機的自問自答〟と〝無機的検証〟の二段階で論理をひも解くんだ。物事の真実にしろ、あらゆる問題の解決法にしろ、それであきらかにできる」
「難しそうですね」
「なに、簡単だよ。まず有機的自問自答とは『理由をひとつに絞れ』。無機的検証は『それが終わればすべて終わりか否か』。これだけだ」
「ちょ、ちょっと待ってください。ええと」莉子はハンドバッグから手帳を取りだした。
ペンを走らせようとしたとき、瀬戸内がいった。「きいてすぐ書こうとしちゃ駄目だ。まず要点をつかめ。それから、図式化して書くんだよ」
「図式化?」
「文章はできるだけ短いセンテンスに留めて、それぞれを=、VS、→で結ぶ。それが表記のルールだ。=は同列、等しいという意味。VSは対立するふたつの関係を表す。→は、たんなる順序ではない。AだからBという具合に、前を受けて順当に導きだされる結論を表す。この三つですべてを表現できるはずだ。この規則に慣れておけば、問題を素早く把握できるんだよ」
「はあ......。では、一行目はどう書けば......」
「有機的自問自答と無機的検証は、その名がしめす通り相反する性質をもつ。だから〝有機的自問自答VS無機的検証〟だ」
「戦うんですか? 亀田VS内藤みたいに」
「まだ全然わかっていないな......。白と黒とか、女性と男性とか、二極化の概念をVSという記号で結ぶだけだよ。文章における〝だが〟とか〝しかし〟、〝けれども〟にあたる部分もVSにしてしまえばいい。逆説の接続詞を使うと、後にきたものを正しいと強調する意味に思えてしまう。VSの記号にしておけばノートを見なおしたとき、そこにふたつの対峙する考えがあって、いずれも同程度に大切だとすぐにわかる」
電車は中野駅のホームに滑りこんでいった。停車しドアが開く。車外にでながら、瀬戸内は説明をつづけてきた。それぞれの名称と説明文は、同列なのだから=で結ぶ。有機的自問自答=理由をひとつに絞れ。無機的検証=それが終わったらすべて終わりか否か。
莉子は階段を下りながらつぶやいた。「すべて終わり......。おじゃんってことですか」
「じゃなくて、問題解決って意味だよ」と瀬戸内はいった。「やってみよう。きみがいま抱えている一番の問題は?」
「......詐欺にだまされやすいことです」
「まずは有機的自問自答。なぜだまされやすい?」
「世間知らずで常識が備わってないし」
「理由をひとつに絞るんだよ」
「ひとつですか......。あえていうなら経験不足です」
「次に無機的検証。経験不足でなくなれば、すべて解決かい?」
「そりゃ......そうだと思います」
「真実が導きだされたじゃないか。きみにとっての最良の問題解決法は、経験を積むことだ」
莉子は腑に落ちなかった。「なんだか、当たり前のことをいってるだけのような気がするんですけど」
「論理ってものを身につけるにはね、当たり前から始めるんだよ。でも、すでに変化はある。覚えてるかい? ゆうべ飯田橋の店で、私はきみに同じ質問をした。なぜだまされるのかときいたら、きみは『単純だから』と答えてた。性格の問題だと片づけてしまっていたわけだ。これでは解決策は見えてこない。けれども二段階の論理的思考なら、何をすべきかわかったじゃないか」
通路を南口に進む。自動改札は混みあっていた。
歩を緩めながら莉子はいった。「人が多いですね。バスのほうが早かったかも」
「ストップ」瀬戸内は立ちどまった。「電車に乗らなきゃよかったというのは論理的か? 違うだろう。困難をまのあたりにしたとき、その状況を単純に打ち消すことが抜本的な解決法だと錯覚しがちになる。ここでも〝そもそも〟という接続詞が勘違いを助長する。花粉症でくしゃみがでて困る。そもそも外になんかでなきゃいい、とね。一見もっともらしいけど、じつは正しい答えにたどり着いていない。二段階の論理的思考を忘れずに」
「んー」莉子は煩わしそうに頭をかいた。「わたし、考えるのが苦手で......。就活のときも。フリーディスカッションで幼稚な発言しかできなくて」
「いいんだよ。むしろフリーディスカッションのような思考の働かせ方は、この際きっぱりと忘れることだ。なんでもいいから思いついたことを発言するとか、可能な限りたくさん例を挙げるというのは、筋道の立った論理と対極に位置するものだよ。有機的自問自答で、ひとつだけ考える。ほかにないか、と探ってもいけない。最重要の課題はまっさきに思いつくはずだ」
「はあ......。なんとなく見えてきた気がします。まだぼんやりと、ですけど」
「結構」瀬戸内は見つめてきた。「いますぐに解決すべき問題はあるかい?」
「......お腹が減ってきました」
「有機的自問自答、お腹が減った理由をひとつに絞れ」
「お昼を食べてないから」と莉子は答えた。
「無機的検証。お昼を食べたら問題は解決するか?」
「はい」
「よろしい。じゃあ食べよう」瀬戸内はさっさと改札に向けて歩きだした。
その背を追いながら、莉子は首を傾げた。本当にこれで賢くなれるのかしら。
最高裁
最高裁判所といっても、第三小法廷なる空間の規模はこれまでの地裁や高裁と変わりなかった。正面の法壇、三尊の仏像のように並んで座る裁判官が五人に増えた、それぐらいの違いでしかない。一段下に書記官、奥に廷吏という配置も同じだった。
笹宮朋李は傍聴席におさまり、いつものごとく口頭弁論の行方を見守っていた。母の麻莉亜は法壇の手前、向かって右側に弁護士と並んで着席している。
顧問弁護士の神条康仁は、黒ぶちの眼鏡に白髪頭、禿げあがった額が特徴的な六十代だった。襟もとの金バッジは若手のように光り輝いてはいないが、それは長年の使用によって表層のメッキが摩耗してしまったからであり、すなわちベテランの証しだった。厳格な経営者だった父が創業当初からコンビを組んでいただけあって、神条も無駄口を嫌う生真面目な人物だった。いまも落ち着き払った態度で書類に目を通している。
裁判長が告げた。「被告側が提出した契約書の捺印に関する鑑定結果ですが、新たに三千倍に拡大して検証したところ、やはり原告側の社印と寸分たがわず真正とのことでした。このあたり原告側はいかがですか」
神条が立ちあがって応じた。「たしかに鑑定結果は信用に足るものと思います。しかしながら、それは原告の持つ社印にうりふたつの、複製された印鑑の精度の高さを認めるだけのものでしかないと考えます。何千倍、何万倍に拡大されて検証されようとも、原告の主張は訴状と変わりありません」
「被告側の証拠能力を無視しているようにもきこえますが」
そのとき、麻莉亜が神条になにやら耳うちをした。神条は真顔でうなずき、ふたたび法廷に響く声で発言した。「原告は社印につきまして、現在までのところ公表していない新たな情報を証拠として提出するとのことです」
かすかに張り詰めた空気が法廷のなかに漂った。神条も事前にきかされてはいなかったらしく、困惑のいろを浮かべている。
椅子に腰を下ろした神条に代わり、麻莉亜が立ちあがった。「夫の古い帳簿を整理したところ、会社を設立する前に印鑑を購入した際の領収書がでてまいりました。当時、まだ貧しかった夫は、実印となる印鑑を作らせるにもさほど経費がかけられず、象牙や黒水牛は無理で、本柘で作らせています。それも、安価な機械彫りでした。発注先は埼玉県秩父市にある株式会社葛西印章。昭和五十六年三月十二日に、夫はできあがった印鑑二本を受け取っています」
「二本?」裁判長がきいた。「社印と銀行印という意味ですか」
「いえ。社印のみです。当時、葛西印章では、機械彫りで篆書体の印を発注した客に対し、同じ印をふたつ仕上げて提供するサービスをおこなっていました。機械彫りの技術にまだ絶対の自信がなかったせいだといいます。客は出来がいいと思うほうを印鑑登録し、もう一本については焼却、または削るか割るなどして使用不能にしたうえ、廃棄します。けれども夫の日記によれば、二本の印鑑はいずれも上出来で甲乙つけがたかったとのことです。機械彫りですから、夫の言葉から解釈するに、二本は完全に同一の印影だったと思われます」
傍聴席がざわついた。朋李も息を呑んだ。
印鑑が二本......。契約書の社印こそが争点になっている現在、極めて重大な情報に違いなかった。
裁判長は麻莉亜を見つめた。「もう一本あるはずの印鑑は処分されなかったわけですか」
「それは......」麻莉亜の表情が曇った。「わかりません。夫の日記には、購入後一本をただちに破棄したとあります。でももしかしたら夫がそう思いこんでいただけで、ほかの誰かが印鑑を入手したのかも......」
歯切れはしだいに悪くなっていった。朋李も失望を禁じ得なかった。可能性を提示するだけでは証拠としては認められない。いままでの裁判でも繰りかえし指摘されてきたことだった。
静寂のなか、裁判長の声が響く。「被告側はどう思われますか」
麻莉亜と向かい合う逆サイドの席に、ふたりの男が着席している。ダルメなる会社の役員、佐伯なる男は、過去にも被告の代表として出席したことがあった。髪は七三に分けられ一見ビジネスマン風だが、凄みのある顔つきはヤクザそのものだった。隣りに座る弁護士はずっと若く三十代半ばぐらいで、嘉手納という苗字だった。
嘉手納弁護士は大きな厚紙製のボードを取りだし、それを携えて立ちあがった。「いましがた原告側からもありましたように、レティシア社の社印は三十年も前に作られた機械彫りで、材質は本柘です。すなわちツゲ科の国内産木材ですが、象牙や黒水牛に比べると摩耗しやすく、やわな素材だといえます。経年劣化もありますし、使用する人の癖によってごくわずかなひずみ、曲がり、ひび割れなどが発生します」
ボードに貼りつけられた写真がしめされる。白地の大半をいびつな黒い影が占めた、前衛絵画のごとき画像が数枚。印影の局所を極端に拡大したものらしい。嘉手納はいった。
「電子顕微鏡で千倍に拡大した時点でも、印鑑登録証の印影と一致しておりましたが、倍率を三千倍にあげたところさらに詳細が判明しました。ご覧の通り、枠線の左上と右中央、篆書体の社名の一部が歪んで斜め下に引っ張られています。株式会社の式という字のハネは潰れています。これらは使用者が繰りかえし捺印するうちに、力のいれぐあいにより、長期的に固有の変化が生じたものです。社印は当初、創業者である笹宮社長がおひとりのみで取り扱い、故人となられてから現在までの三年間は、社長職を継いだ笹宮麻莉亜さんだけが使用。そうおききしましたが」
麻莉亜はこわばった顔でうなずいた。「そのとおりです......」
「ここに」と嘉手納はもう一枚のボードを掲げてみせた。「原告側から提出されたごく最近の社印の印影について、同じく三千倍に拡大した画像があります」
ざわっとした驚きの反応が法廷内に広がった。
朋李は衝撃を受けていた。部分拡大された画像。ひずみ、歪曲、潰れぐあい、いずれもまったく同一の箇所について、同程度の変形が認められる。いや、完全に重なるものだった。契約書の印影は、本物の社印に違いなかった。それも最近の......。
「嘘よ!」麻莉亜は身を乗りだした。「そんなことあるわけない」
「お疑いなら」嘉手納は裁判長および原告側に紙片を配り歩きながらいった。「ご自身の手で三千倍もしくはそれ以上に拡大し、比較検証されるがいいでしょう。お手もとの書類は、専門家による評価です。材料力学の見地から、三十年間にたったふたりのみが使用してきた社印の変形について詳しく解析しています。グラフはたわみ曲線であり、SFDはせん断力図、BMDは曲げモーメント図......」
神条が肩を落としてうつむいた。麻莉亜はしばし呆然としていたが、やがてその表情は暗く沈んでいった。
母の顔を眺めながら、朋李は絶望を感じていた。
印鑑がふたつあるかもしれない、そんな淡い期待はダルメ側の強力な物証の前に粉砕された。使用者の癖による固有の変形がみとめられたとあっては、もう打つ手はない。
なにもかもが終わった。朋李は法廷に漂う空虚さのなかで思った。希望の光は潰えた。
出戻り
日が傾きかけてきたころ、莉子は瀬戸内陸に連れられて、吉祥寺駅から都道七号沿いを歩いた。
モスグリーンの雑居ビル、チープグッズ本店のわきに、新しく小さな店舗がオープンしていた。もっとも、従業員の姿は見当たらない。消費者金融の自動契約機だった。利用の方法はよく知らない。莉子はキャッシングに手をだしたことはなかった。今後もそうあれるだろうか。
チープグッズのエントランスに向かう。大型ディスカウントショップならではの眺めがあった。雑多な商品が堆く積みあげられ通路を形成している。つい先日までバイトしていただけあってお馴染みの光景だった。こんなに早く舞い戻るとは思ってもいなかったが...
エプロンを身につけた楓も同感のようだった。楓は陽気に声をかけてきた。「おかえり。もう出戻ってきたの?」
瀬戸内陸は代わって答えた。「独立をあきらめたわけじゃないよ。一時的な研修とか、そんなもんだ。さてと、凜子さん。二段階の論理的思考について概要はわかったね? 常に考える習慣を身につけること」
「はい......。けれど、現実問題として、答えがないってこともありえますよね。解決策が見つからない場合。どうするんですか」
「解決策はかならずあるよ。絶対に。正解のあるクイズだと思って考えることだ」
楓があきれたように口をはさんだ。「ならうちの借金は? 返しきれないぐらい膨れあがってるんですけど。その二段階の思考とやらで解決してくれる?」
莉子は楓にささやいた。「そんなこと......」
「いや」瀬戸内陸は片手をあげて莉子を制してきた。「いいんだよ。楓、そこはちゃんと考えてあるから、心配するな」
「どうだか」と楓はため息をついた。
そんな娘の態度にも、瀬戸内は機嫌を損ねたようすはなかった。莉子を見つめて告げてくる。「答えがないと感じたとき、それは袋小路に突きあたったようなものだよ。つまり。その場に留まって壁を叩いたところでどうにもならない。袋小路に入る前の十字路で道を誤ってる。だからそこまで戻って考え直すことだ。決して袋小路で悩んでちゃいけない。引き返すこと。いいね」
「わかりました」と莉子はうなずいてみせた。
「さて。仮に研修が長引くとしたら、凜田さんにまた給料を払わないとな。楓への支払い額も見直さなきゃいけない。こうしよう、ふたりとも、年間二百万円からのスタート。それ以降は年に三十万円ずつ昇給か、半年ごとに十万円ずつ昇給かのいずれかを選べる。どっちにするかね? まずは凜田さんから」
「え? それはもちろん、年に三十万の昇給のほうで......」
楓は微笑して首を横に振った。「わたし、半年ごとに十万ずつの昇給にする」
莉子は面食らって楓を見つめた。「どうして? それじゃ一年に二十万円もらえるだけ......」
「よくきいてなかったの? 半年ごとに十万ずつの〝昇給〟よ。わたしのほうは一年目の上半期が百万円、下半期は百十万円で年に二百十万円になる。その翌年の上半期は百二十万、下半期は百三十万で合計二百五十万。次の年は二百九十万」
「あ......。そうか、わたしの場合はただ一年ごとに三十万円増えるだけだから......」
「四年目でも二百九十万円にしかならない。わたしは三百三十万。だいじょうぶ、莉子? こんなのに引っ掛かるなんて自営業者としちゃ不安ね。数字に弱すぎでしょ」
網戸内陸はにやりとした。「そうでもないよ。凜田さん、76かける74は?」
「5624」と莉子は即答した。
ふた桁どうしの掛け算において、十の位が同じ数字で、一の位が足して十になる場合は、まず十の位に一多い数をかける。この場合は7かける8で56。それから一の位をかけあわせて24ふたつを並べれば答えになる。
「ふーん」と楓は感心したようにいった。「計算のテクニック、ちゃんと覚えてるじゃん」
莉子は当惑を禁じえなかった。「けど、さっきみたいな引っ掛け問題への対処は習ってないし」
「ほんと? お父さん、どうして莉子に教えてあげなかったの?」
「それは、だな」瀬戸内陸は咳ばらいをした。「悪知恵はあまり身につけてほしくなかったからだ。いまでも本当は、そのう......。あまり学んでほしくないと思っている」
「お父さん。そんな中途半端じゃ莉子は成長できないって」
「店では社長と呼べ。しかし、楓のいうとおりだな。凜田さん、心までずる賢さに染まらないでくれよ。それと......」瀬戸内は商品棚をあさって、デジタル式のキッチンタイマーをひとつ取りだした。「これをあげよう。三分にセットして」
莉子は受け取って、いわれたとおりにした。「スタートボタンを押しますか?」
「ああ」瀬戸内はうなずいた。「今後はこれを頻繁に使うといい。あらゆる課題に対し、みずから時間制限を設けること。時間の制約は思考を効率化させる。頭の回転というのは自発的にはあがらないものだが、制限時間があれば自然に速くなるものだよ」
「でも......。時間をかけてじっくり考えれば、もっといい答えがだせるかもしれませんよね?」
「ひとまずその考えは捨てるべきだ。常にタイムリミットのなかで決定することが最善と考えるようにしてくれ。楓が小さかったころ、ディズニーランドに連れていったことがあった。終日仕事を休みにしたんだが、時間に余裕があったせいか漫然とした気分で園内をめぐってしまってね。どんなアトラクションがあるのか、それぞれのエントランスを見てもわからなくて、どの列に並ぶべきか判断がつかなかった。結局はダンボとコーヒーカップだけ乗って帰る羽目になった」
楓が顔をしかめた。「覚えてないけど最低のチョイス」
瀬戸内はいった。「弁解するわけじゃないが、もし仕事を丸一日休まず数時間だけの入園だったら、予習も含めてきちんとアトラクションを吟味し、効率よくまわることに心血を注いだろう。時間制限は思考の活性化のためにも重要なんだよ」
「なるほど」莉子はつぶやいた。「いいかも......。わたし、ぼんやりしているってよくいわれるし」
「なら適格だ」瀬戸内はまた商品棚に手を伸ばすと、三つのぬいぐるみを取りだした。それらを並べてレジ台に置く。「トム、ジェリー、ウッドペッカー。この三匹のうち、本当のことを喋るのは一匹だけ。トムは『ジェリーが嘘つきだ』といってる。以上の条件から、どんなことが断定できる? 制限時間内に考えてくれ」
「ええっと......。楓さん、わかる?」
「わたし、こういうのはちょっと」と楓は苦笑いを浮かべた。
莉子はぬいぐるみを眺めて熟考した。発言したのはトム一匹のみ。そのトムが真実を口にしているかどうかはさだかではない。判断材料はほかにないのでは......?
頭のなかで堂々巡りを繰り返すうちに、ふいにキッチンタイマーが甲高い音を奏でた。
場違いにも思えるその音に、莉子は思わず笑った。楓も呆れたように肩をすくめた。
その夜、莉子はチープグッズ本店の六階に泊まった。フトンの在庫は大量にあったし、倉庫になっているフロアに中古品のベッドが並べてあったうえ、そこで寝ていいと瀬戸内にいわれたからだった。
明大前のマンションに帰るよりずっと効率がいいと莉子は思った。閉店時間後に片づけを手伝いながら、瀬戸内親子が帰宅するまで話をきけるし、翌朝も真っ先に会える。
陽が昇り、ブラインドから長く細い光の帯が差しこんでくる。莉子はうとうとしていたが、ほどなく浅い眠りから覚めた。ジャージ姿のままノートを携え、階下へと向かった。
瀬戸内陸はすでに出勤していて、開店前の一階レジにいた。かねてから店長は暇さえあれば中古商品のメンテナンスをしている。いまはパーティーグッズのビンゴゲームマシンを磨いて、動作チェックをおこなっていた。
莉子は喉にからむ声でいった。「ウッドベッカーが嘘つきです」
すると瀬戸内は手を休め、莉子を見つめてきた。「おはよう。......ひと晩じゅう考えてたのか?」
「はい」莉子はノートを開いて瀬戸内に示した。「制限時間は、だいぶ甘くしちゃいましたけど」
「ほう......。=、VS、→をまじえて簡潔に書きこんであるな。ジェリー=嘘つき→正直者=トム、とある。トムの発言が本当だと仮定した場合、正直者はトムになるって意味だな。もう記号の使い方に慣れたらしい」
「有機的自問自答と無機的検証って、こういう問題を解くのにも役立つんですね。トムが嘘つきだったらジェリーは正直者。どっちにしても嘘つきが二匹いるわけだから、ウッドペッカーは嘘つき」
「早くも二段階の思考が身についてきているようだな。感心だね。ケータイは持ってるかい?」
「ええ」莉子はジャージのポケットから携帯電話を取りだした。
瀬戸内はそれを受け取ると、ボタンに指を走らせた。「メアドは以前と変わってないね? 暗証番号を設定するよ」
「......暗証番号を? なぜ?」
「これから毎朝、私からメールを一通ずつ送る。文面を見るためには、かならず暗証番号を入力しなきゃならない。ええと、0845でいいかな? おはようございます、の語呂合わせで」
「いいですけど......。前もって暗証番号を教えてくれるのなら意味ないんじゃ......」
「そうじゃないよ。起きてすぐ指先を動かすことが重要なんだ。メールには毎朝、一問ずつ問題を書く。キッチンタイマーを五分にセットして、時間内に解いて返信してくれ」
「わかりました。でもなぜ?」
「よく世間では、起きてから四時間後にいちばん頭が冴えてるなんていうだろう? けれども、単にだらだらと四時間過ごして自然にそうなるわけじゃないんだ。柔軟体操と同じく、脳にもウォーミンダアップが必要なんだよ。朝やっておけば頭の回転が速くなる。それと、問題文は音読すること」
「声をだして読むんですか?」
「そう。ただぼうっと目が文章を追うだけで思考が働いていない、そんな状況を避けるためだ。音読に必要となる情報処理を脳に強制するんだよ」
「へえ」莉子は瀬戸内の手もとを見た。「そのビンゴゲーム、動きそうですか」
「ああ。問題ないよ」瀬戸内はスイッチをいれた。LEDのデジタル表示が明滅して、ふた桁の数字を表示する。「次に何番がでるか、あてずっぽうでいいから挙げてみてくれ」
「ええと......。じゃあわたしの年齢で20」
「よし。ではこれからつづけて五十回、マシンのスイッチをいれる。数字はランダムにでる。うち一回でも、きみの選んだ20という番号がでるかでないか。どっちだと思う?」
莉子は考えた。数字は00から99までの百通り。20がでる確率は百分の一。マシンを五十回作動させるのなら、うち一回だけでも20のでる確率は二分の一になる。「でるかでないが、ちょうど半々だと思いますけど」
「違うな......。七対五で、でない確率のほうが高い」
「えー? 嘘......」
「あとでノートに書いて、論理的に思考してごらん。特定の数字がでる確率が五十パーセント以上になるには、マシンを六十九回作動させなきゃならない」
「そうなんですか。......瀬戸内さん、引っ掛けるの巧いですね」
瀬戸内の頬筋がわずかにひきつったが、すぐに表情が和み、穏やかな口調で告げてきた。「商売をやってると、帳簿の改ざんやら水増し請求やら、数字のトリックに敏感になる。きみも詐欺師にだまされないよう、論理的思考を鍛えないとね」
違いない。わたしの修行はまだ始まったばかりだ。
それにしても、瀬戸内店長はなんてすごい人なのだろう。莉子は思った。善意溢れる経営者の鑑のような人格者でありながら、詐欺師たちの知恵を凌駕する思考を身につけている。この人についていくしかない、と莉子は思った。きっと行く手には希望の光が待っている。
事務室
笹宮朋李にとっての昼食は、冷えきった食パンひと切れだった。
銀座四丁目のレティシア本店、その二階にある事務室では、誰もが同じ境遇だった。顧問弁護士の神条康仁は事務デスクにおさまり、どこかの弁当屋で買ってきたらしいおにぎりの包装を剥がしていた。
朋李の母。笹宮麻莉亜も浮かない顔でサンドウィッチを口に運んでいた。エグゼクティヴ風のデスクの上に書類はない。売り上げを計算する必要すら生じない。業務は何週間も前に中断したままであり、チェーン店はすべて休業状態だからだ。階下の店舗のシャッターも閉ざされたままだった。
いつも生真面目な神条は、陰鬱な空気をわずかでも和ませようとしたのか、めずらしく冗談っぽい口調でいった。「どうして包装フィルムにつまようじを一緒にいれるんでしょう。危ないと思いますけどね。怪我したって訴えられたら勝てないかもしれませんよ」
そういいながら神条は、つまようじを引き出しのなかに投げこんだ。
麻莉亜が頬杖をつきながら、憂鬱そうにつぶやいた。「神条さん......。わたしたち以外の社員を休ませたうえに、食費まで切り詰めなきゃいけなくなったのは、裁判の費用以外にも臨時の調査費をださざるをえなかったからですけど」
それが催促だと神条は気づいたらしい。硬い顔のままカバンからファイルを取りだし。麻莉亜のデスクにそっと置いた。「社長がお望みになったとおりの専門家に会って交渉し、印影を鑑定してもらいました。三千倍および五千倍に拡大し比較した結果の、詳細なデータです。しかし......」
ファイルを開いて、麻莉亜は書類をめくった。目を通すこと数秒、麻莉亜は椅子の背に身をあずけ天井を仰いだ。
朋李は静かに声をかけた。「母さん......」
「駄目ね」麻莉亜はささやくようにいった。「ダルメの嘉手納弁護士のいったとおりよ。契約書の印影は間違いなく本物の社印。そう断定してる」
「そんなわけないよ」朋李は思わず吐き捨てた。「父さんも母さんも社印をほかの人に預けたことはなかった。いまも厳重に保管してる。一致するなんてありえないよ。そうでしょう、神条さん?」
神条は戸惑いのいろを浮かべて、壁のカレンダーを見やった。「五月二十三日か......。口頭弁論も終わってじきに証人尋問、そして判決です。契約書の印影が本物であることが、こうまで執拗に証明されてしまったのでは、もうひっくり返すことは難しいでしょう」
麻莉亜の表情が険しくなった。「ちょっと。それどういう意味? 神条先生は印影が本物だとでも......」
「そうはいってません」神条はかすかに苛立ちを漂わせた。「私は笹宮さんを、創業者のご主人ともども信じたい。でも、だからこそおききしたい。なぜこんなことが起きるんですか。新たに発見された印鑑のひずみや歪みは、まぎれもなく本物と同一です。自然に生じた変形ゆえ、偽造できるものではないと専門家もいってます。それもここ半年以内の印鑑による捺印です」
「夫でなくわたしのせいだといいたいのね。わたしが印鑑の管理を怠ってるとでも? あなたも知ってるでしょう。社印はずっと金庫のなかよ」
「開けられるのは社長、あなただけです。でもその印鑑で契約書に捺印した。これは事実です」
「だから、そんなことはありえないっていうのよ!」麻莉亜は立ちあがった。長い髪が乱れて顔にかかる。「もっと優秀な鑑定家はいないの? たとえ借金してでも、判決の前日まであきらめずに粘るべきでしょう」
「社長......。うちに融資してくれる金融機関はもうありません。それに、今回ご指名になった鑑定家は、国内の最高権威ですよ。ほかに誰をあたればいいというんですか?」
麻莉亜は髪をかきあげた。憤りに顔を紅潮させている。そのうち目が潤みだして、涙が頬をこぼれ落ちた。すぐさま麻莉亜はハンドバッグをひったくると、つかつかと戸口に向かい事務室をでていった。
「母さん?」朋李はあわててその後を追った。
階段を駆けおりていく母の背が見える。ヒールの音に混じって嗚咽がこだましていた。朋李は、引き離されまいと全力で追いかけた。
レティシア社はもう失われたも同然だった。美容師としての将来も消えたかもしれない。不本意でも運命を受けいれるしかない。しかし、ただひとつだけ抵抗したいことがある。母を路頭に迷わせたくない。非力な息子であることは百も承知だ、それでも母だけは救ってあげたい。
温泉宿
瀬戸内陸は雲ひとつない青空の下、砂利道の行く手に目を向けた。城下町の面影を残し、古い日本家屋が建ち並ぶその一画は、硫黄泉で知られる由緒正しき名所だった。平日にもかかわらず、高齢者を中心に多くの人出で賑わっている。
娘の楓はチェックのシャツにデニム、スニーカーという軽装ながら、脚を重そうにひきずっていた。「まだぁ? そろそろ着いてもいいころだと思うんだけど」
同じくカジュアルな服に身を包んだ莉子は、さして疲れたようすもなくパンフの地図を眺めた。「この道で合ってるはずですけど」
「ほんとに? 方角間違ってるかもしれないじゃん」
すぐさま瀬戸内は腕時計に目を走らせてから。莉子の手にした地図を覗きこんだ。「合ってるよ。時計の短針を太陽に向ければいい。十二時と短針の中間が南だ」
楓はふんと鼻で笑った。「あいにくわたしの腕時計、デジタルだし。お父さんも莉子も本の虫よね。口を開けばどっかで読みかじった知識のオンパレード。道に迷ってぼやくのが普通の人間よ」
「一理あるな」と瀬戸内は笑ってみせた。「凜田さん。本やパソコンのモニター、あるいは映像にばかり目を向けていると、とっさに焦点を合わせるのが苦手になってくる。それらはすべて平面で奥行きがないからだ。この機会に遠くを見るといい。動体視力が向上するし、脳にもいい刺激になる」
楓は、また始まったというように顔をしかめていたが、ふいにその表情が笑みに転じた。
「ちょっと! あの看板、掬離屋って書いてある。泊まるのあそこでしょ!?」
次の瞬間、楓は歓声をあげて駆けだした。瀬戸内陸は莉子を見た。莉子も見かえしてきた。互いに笑いあいながら楓を追う。なるほど、遠くを見たとたん娘の脳も刺激されたらしい。
そこは竹藪に囲まれた総欅造りの温泉宿だった。母屋のエントランスには多くの人だかりがある。暖簾をくぐると、近代風にリフォームされたロビーは活気に溢れていた。通りがかった浴衣姿の老婦人が、連れに笑顔で告げている。「先月も、先々月もここに泊まったでしょ。正直お湯はそれほどでもないけど、お食事が美味しくて......」
チェックインの時間帯を迎えて忙しいせいか、従業員はあわただしく駆けずりまわるばかりで瀬戸内たちを出迎えもしない。無人のカウンターの上にクリップボードが投げだされている。エンジニア向けの経費の算出表らしい。商売人の瀬戸内は¥のマークのついた数式に注意を惹かれた。
\18,250,000= (300+200) ×0.05t×1000×365 とある。瀬戸内のなかを疑念がかすめた。おや、この数値は......。
自然に莉子に目が向く。莉子はカウンターをぶらりと離れて。壁に展示されたパネルを眺めていた。
それらは鉄筋コンクリートのホテルの外観で、看板の字はハングルだが、♨のマークだけは日本人にもわかる。説明書きには〝韓国にも広がる掬離屋グループ〟とあった。
莉子はノートを開くと、ペンでなにやら書きだした。まるで取材記者のような素振りだった。
どんなことに関心を奪われているのだろう。ひょっとして猜疑心を抱きつつあるのか。私が感じたのと同じように......。
やがて、暖簾を割って宅配便業者が何人か立ちいってきた。業者はいずれも大きな段ボール箱を抱えていた。
するとほぼ同時に、頭の禿げあがった小太りの男が奥から駆けだしてきた。経営者か番頭か、綿貫というネームプレートを胸につけたその男は、カウンターからクリップポードをひったくるや業者の前に立ちふさがった。「待ってくれ。きょうは困る。よりによってこんなときに......」
ふいに野太い声がロビーに響いた。「こんなときって、どんなときですか。綿貫さん。私たちが監視してたことにお気づきのようですが」
宅配便業者を押しのけるようにして、異質なスーツ姿の集団が入館してきた。五人の厳めしい顔つきの男たちは、全員が白い手袋を嵌めている。横一列にずらりと並び、揃って綿貫を睨みつけた。
中央に立つ角刈りの男が懐から紙片を取りだした。「籠邊署の近衛知久警部補です。これは捜索差押令状。関東各地の小売店やスーパーから、賞味期限切れの卵ばかり、無料同然に買い取って送らせてますね。食品衛生法違反の疑いで家宅捜索します。いましがた送られてきたばかりの段ボール箱についても没収し、この場で調べます」
悲鳴に似た声が辺りに響く。それから沈黙。水をうったような静寂がロビーにひろがった。温泉客は一様にこわばった表情で綿貫と近衛をかわるがわる見ていた。
捜査員たちが段ボール箱に歩み寄り、カッターナイフで開けだした。取りだされたのは緩衝材。そして、そのなかに包まったパックいりの卵だった。密度からして、ひと箱あたり百個はおさまっているらしい。
綿貫は血の気のひいた顔で、おろおろと辺りを見まわすばかりだった。従業員たちも怯えきった表情とともに凍りついている。
近衛警部補が声を張る。「みなさま、どうかそのまま動かないでください。これから保健所が厨房の検査に入ります。同時に、ここで食事をおとりになられたかどうかにかかわらず、お客さん全員の健康診断もおこないます。ご協力をお願いします」
辺りがざわつきだした。楓が低い声でささやく。「なんなの、この宿......。わたしたちも調べられるの? まだチェックインしてないのに」
いや、と瀬戸内陸は思った。とんだ茶番だ、長居は無用だった。「さっさとでよう」
ところが、捜査員のひとりが行く手に立ちふさがった。「申しわけありませんが、いまは退出できません」
楓が抗議した。「わたしたち、いま来たばかりなんですけど」
「どなただろうと捜査にご協力願います」
厄介だな......瀬戸内陸は内心ひとりごちた。この刑事たちは見当違いをしている。たしかに賞味期限切れの卵を買い集めてはいるが、客に健康被害など広がっていない。なぜなら......。
そのとき、莉子が捜査員に対し穏やかにたずねた。「すみません。健康診断って、食中毒の検査ですか」
「ええ。順番にお受けいただきます」
「必要ないと思いますけど......。送られてきた卵が厨房に運びこまれたことはありません。もちろん食事にだされたことも」
ロビーはまた静まりかえった。捜査員が妙な顔をして莉子を見かえす。
会話をききつけたらしく、近衛警部補が歩み寄ってきた。「なんのお話ですか。お嬢さんはここの従業員とか?」
「いいえ。きょう初めてきました」
楓が戸惑いぎみにつぶやいた。「ちょっと。莉子......」
だが莉子はかまうようすもなく、近衛と向かいあった。顔を近づけて小声でささやく。「卵は食事の経費を浮かすためのものじゃありません。目的は温泉偽装です」
近衛が眉間に皺を寄せた。「なんですって? 偽装?」
「しっ。どうかお客さんのことを考えて、お静かに」莉子は声をひそめた。「綿貫さんが大事そうに抱えているクリップボードをみればわかります。千八百二十五万円という経費の内訳。上下各水道の一トンあたりの使用料金、三百円と二百円を足し合わせて、大人ひとりあたりのオーバーフロー排水量を五十リットル、それが二回で千人。最後に三百六十五がかけてあるので、一年間にいくらかかるかを算出してます。温泉にしては水道代がかかりすぎです。むしろスーパー銭湯です」
しばらくのあいだ近衛はじっと莉子を見つめていたが、やがてその視線が綿貫に移った。近衛は渋い顔のまま綿貫に対し手招きした。綿貫はそそくさと駆け寄ってきた。
その綿貫の手からクリップボードをひったくり、近衛は書類に見いった。綿貫の額には、無数の汗の粒がわきだしている。
近衛はぶつぶつと数式を断片的に読みあげた。「六十かける〇・〇五......。四十二ひく十七。八十八パーセント......?」
莉子がいった。「六十円はA重油一リットルあたりの燃料単価です。ろ過器熱交換昇温温度が四十二度、そこから井水温度の十七度をひいています。八十八パーセントはボイラーの燃焼効率です。すなわち燃料費の算出です」
じろりとした目つきで近衛は綿貫を睨みつけた。「どういうことですか、これは」
綿貫はしどろもどろだった。「それは、ですね。あのう......。温泉であっても、多少水を足したり、露天で一定の温度を保っために沸かしたりすることが......」
「水道水をたっぷり必要とし、湯沸かしにもかなりの予算を割いてる。少なくとも天然温泉とは思えませんな。しかし妙だ。卵をいったい何に使っていたんですか。湯にいれたところで、温泉っぽく見えるわけでもないでしょう」
沈黙がおりてきた。綿貫はひたすら目を泳がせるばかりだった。
莉子は落ち着いた声で近衛に告げた。「硫黄泉のにおいを演出するためです」
「硫黄泉?」近衛は鼻をひくつかせた。「すると、卵のくさったにおい......」
「そうです。厳密には硫化水素のにおいですけどね。卵の蛋白質はメチオニンやシスチンといった含硫アミノ酸を豊富に内包しています。これが分解すると硫黄分が硫化水素として放出されます。文字どおり、大量の卵をくさらせることで、それらしい臭気を発生させてるんです」
「ご」綿貫はあわてたようすでいった。「誤解だ。卵はそのう、建物の裏側にただ溜めこんであるだけです。においとかそんな......。食事にもだしてません。生ゴミとして処分する予定で......」
近衛は目をいからせた。「生ゴミですって? わざわざ賞味期限切れの卵ばかり次々に用意して、何にも使わず処分するのみ? 通る話じゃないでしょう」
綿貫は汗だくになって、うわずった声をあげた。「知りません。私は何も......」
すると莉子がなだめるような口調で告げた。「綿貫さん。温泉法に違反しているだけなら、ここは現状のままでもスーパー銭湯旅館として再出発できます。けれど、食品衛生法違反となれば第六十三条の規定に基づいて、お名前が公表されてしまいます。いまのうちに正しくあるべき姿に戻られるべきです」
なおも綿貫は目を白黒させていたが、刑事たちに囲まれていたのではどうにもならないと踏んだのか、意を決したように客たちに向き直った。
「みなさん」綿貫は緊張に表情をこわばらせながらいった。「そのう......。誠に申しわけありません。こちらの不手際で、説明不足があったようでして。じつはですね......。一年ほど前に源泉が枯渇してしまいまして、掘削するにも予算が足りないので、あのう、露天風呂は温泉でなく大浴場となっておりまして......」
もう退出しても文句はでないだろう。瀬戸内は莉子と楓に小声でうながした。「おいとまするか。ほかの宿を探そう」
ふたりは黙って外にでていった。綿貫の演説はつづき、警察も客も硬い顔で聞きいっている。瀬戸内は暖簾をくぐって抜けだした。
午後の陽射しの下、人の賑わいのなかに戻った。三人は無言で顔を見合わせた。
そのとき、近衛警部補が旅館から姿を現した。つかつかと莉子のもとに向かうと、ふいに手を差し仲べた。
莉子の手を握りしめながら、近衛は興奮ぎみに告げた。「慧眼に感服しました。心からお礼申しあげます。では仕事がありますので、これで」
それだけいうと近衛は身を翻し、また暖簾の向こうに消えていった。
楓が圧倒されたような顔で莉子を見た。「びっくり......。刑事さんに感謝されるなんて」
瀬戸内も同じ思いだった。温泉偽装には気づいていたが、莉子の説明はじつに論理的で明快だった。生来の読書好きのせいか、知識の面ではすでに瀬戸内を凌駕しているようでもあった。
莉子はにっこりと微笑んで、携えていたノートを開いてみせた。「教わったとおりに考えただけです」
「ほう」瀬戸内は、三つの記号を多用しつつ整理された文面を眺めた。「食品衛生法違反容疑VS利用客の感想=食事が評判、とあるな」
「リピーターらしきお客さんがいってました。お湯はそうでもないけどお食事は美味しかったって。お巡りさんたちが疑っている通りならありえないことです。相反するのでVSで結びました」
「韓国のホテル=非温泉→旅館も同様の可能性、ともあるが......」
「パネルの写真にあった提携ホテルは温泉じゃありませんでした。♨のマークは韓国では温泉を表すものではなく、単に各部屋にバスタブの設備があるという意味です。しかしあの展示は、それらのホテルが温泉施設であるとほのめかすものです。故意に誤解を生じさせることを意図してます。温泉でないのに温泉と思わせたがっているからには、ここもそうかもしれない。無機的検証ですべてが見えてきました。卵も温泉偽装の材料だとすれば。何もかも説明がつきます」
楓は目を瞠った。「莉子、まじで凄すぎ。ここんとこ頭がよくなってるのは知ってたけど、まるで名探偵」
「ほんとに?」莉子は無邪気な笑顔を浮かべた。「わたし、高三のときに担任の喜屋武先生にそういったんですよ。名探偵みたいって。先生のレベルに少しは近づけたかも......」
瀬戸内陸も笑ってみせたが、その表情がわずかにひきつるのを感じていた。
吸収してきた知識の奥深さ、幅広さが、ここへきて活用法を知り開花に向かった。教え子の成長をたしかめられることは素直に喜ばしい。実の親になったかのような満足感がある。
だが問題は、私の立場が一元的でないことだ。
最も警戒を必要とする存在が、いつしか身近にいる。瀬戸内の手で生じさせた脅威だった。
ブロー
初夏の陽気が漂う神田川沿いを、笹宮麻莉亜はひとり歩いていた。
すっかり緑に染まった桜並木には、もう見物の人だかりもない。さざ波の立つ川面を、カルガモがヒナを引き連れ横ぎっていく。
わたしの息子にとって職場に向かうお馴染みの光景、そうなるはずだった。いまはそうではない。レティシア飯田橋店はもうない。近いうちチェーン店のすべても......。
落ちこんだ気分で歩を進めていると、前をいく若者の背が目に入った。
美容師そのものといった感じの、よくいえばファッショナブル、悪く解釈すれば軽薄な装い。痩せた身体つきも足どりも、息子によく似ている。
ふと麻莉亜は現実に気づいた。人違いではないようだ。その背に声をかける。「朋李」
朋李は立ちどまり、振りかえった。「あ、母さん」
「ここへ来てたの?」
「うん......。証人尋問につきあわされてばっかりで、なんだか気が滅いっちゃって」
「わたしもよ。ひさしぶりに飯田橋店のテナントがどうなったか、見ておこうかと思って」
「母さんも? 奇遇だね。知ったところでどうなるものでもないんだけど、なんとなくね」
「ええ」麻莉亜は微笑してみせたものの、胸が痛む思いだった。「ごめんね。裁判が長引いちゃって。せめてさっさと判決が下りてくれればいいんだけど」
「そんなこと......いい結果を期待しようよ。どんなに不利でも」
息子なりに励ましてくれているのだろう。もう運命は定まっていても、希望を持つべきと諭してくれる。見た目はまだ少年のあどけなさをそのまま残しているが、朋李は知らないうちに大人になっていた。
朋李は歩きだした。「飯田橋店、次にどんな業種が入ったかな」
麻莉亜も並んで商店街を進んだ。「さあ。どうなってるかしら」
「次も美容室か理髪店じゃないかな。あれだけ配管とか、内装の工事に手をかけてあったんだから、設備はぜんぶそのまま再利用できるし」
やがてお濠と交わる辺りが近づき、雑居ビル一階のテナントが見えてきた。朋李が足をとめた。
「あれ?」朋李は驚きの声をあげた。「全然変わっちゃってる......」
新たに入ったのは理容業ではなかった。自動ドアのエントランスは残っているが、店内は意外なほどこざっぱりしている。デスクやキャビネトのほか接客用のソファが見えるだけだ。それも内装にそぐわない、ありあわせの家具で揃えた感が拭えない。
店の看板を目にしたとき、麻莉亜は衝撃を受けた。「万能鑑定士Q......?」
「マジで?」朋李がつぶやいた。「鑑定......屋さんなのかな」
麻莉亜のなかに鈍い感触があった。自然にエントランスに足が向かう。朋李が呼びとめた。「ちょっと。母さん。入る気なの?」
無言のまま、麻莉亜は開いた自動ドアのなかに踏みいった。
万能鑑定士という大げさな触れこみを鵜呑みにするつもりは毛頭ないが、あらゆる物の真贋を見分けることを生業としているのなら、あの社印の印影について意見をききたい。
国内の最高権威のだした結論が、町なかで店舗を営む鑑定家によって覆されるとは考えにくい。それでも、万が一の可能性に賭けたい。判決までの残り少ない日々、誰の見解であろうと耳を傾けたい。
店内は無人だった。美容室を営業するための法令ぎりぎりの十三平方メートル。照明と換気扇は以前のままだが、鏡や椅子、シャンプー器などは姿を消し、排水口は蓋で密閉され床のなかに溶けこんでいた。
デスクの上にノートが置いてある。丁寧な字で〝ベルトなしVSあり=壊〟とあった。次の行には〝裏蓋パッキンはみだし→電池セルフ交換=壊〟とも書いてある。
そのとき、奥からひとりの若い女性がでてきた。二十歳そこそこの、一流店のヘアカットモデルにいそうな美人。ただし毛先にゆるいパーマをかけた長い髪は、プロの麻莉亜から見るとあと一歩だった。たぶん自前でセットしているのだろう。ブローのやり方を間違っている可能性もあった。ここに設備が残っていれば、ただちに直してあげられるものを。
女性は愛想よくおじぎをした。「いらっしゃいませ。凜田莉子と申します。本日は、どのようなご用件でしょうか」
麻莉亜は困惑とともにいった。「いえ......。ちょっと立ち寄ってみただけで。看板に鑑定とあったけど、具体的にどんな物を......。あのう、こちらのノートに書いてあるのは?」
「あー。これはジャンク品の腕時計についてなんです」
「腕時計......。ジャンク?」
「はい。お客様が売却を希望される腕時計って、たいてい動いてませんから、故障か電池切れかを手早く判断しなきゃいけなくて。ベルトがついていないほうが壊れていない可能性が高いんです。お客様が自分でベルトの取り外しをできたわけですから、ふだんから腕時計のメンテもおこなっていたりするんですね。ただし裏蓋のパッキンがはみだしている場合は、慣れない手で電池交換を試みたものの動かなかったと推察されます」
「......ってことは、買い取りをおこなっているお店なの?」
「いえ。知り合いのディスカウントショップに持ちこまれた物の査定を手伝ってるんですよ。わたし、元はそこのバイトだったので」
「バイトね。ほかに鑑定家の先生は?」
「いないんです。あのう、わたしひとりです」
麻莉亜は落胆を禁じえなかった。ため息が漏れそうになったが、さすがにそれは失礼と思い笑顔を取り繕う。
息子はどんなふうに思っているだろう。朋李に目を向けると、彼は店の隅にしゃがんで、ぶつぶつと陰気につぶやいていた。「ここにオートシャンプー器があったんだよな......。タカラベルモント社製のすげえいいやつ......」
莉子はふしぎそうな顔をした。「どうかされましたか?」
「いえ」麻莉亜は愛想笑いとともにいった。「気にしないで。お邪魔しちゃったわね」
「あ。何か鑑定を希望される物がございましたら、なんなりと」
「うーん。社印の真贋を鑑定してほしかったんだけど......」
「印鑑ですか!」莉子はふいに目を輝かせた。「何冊か本を読んだことがあります。ぜひ拝見させてください」
「......いまは持ってないの。銀座の事務所に保管してあるし」
「でしたら、出張鑑定もお引き受けします。いますぐにでも」
麻莉亜は呆気にとられた。
なんと天真爛漫な、いや熱心な女の子だろう。元気とやる気が取り柄、まるでサークル活動一年目の大学生という印象だった。プロっぽさは微塵も感じられないが、ひさしぶりに頑張る若い世代に遭遇したように思う。彼女に社印を見せたところで時間の無駄にしかならないだろうが......。
それもいい、と麻莉亜は思った。どうせ次の出廷までは退廃的な日々を過ごすだけだ。じっとして破滅のときがくるのをひたすら待つより、どんなことでもいいから行動を起こしたい。
「なら」麻莉亜はいった。「お願いしようかしら」
「ほんとですか!」莉子は飛びあがらんばかりの勢いだった。「ありがとうございます。全力を尽くします」
「ええと......。わたしは笹宮麻莉亜。彼は息子の朋李。朋李、こちら鑑定家の凜田莉子さん」
朋李はぼんやりと顔をあげてこちらを見た。「え?......ああ。よろしく。それ、自分でセットしたの? ブローの仕方、間違ってない?」
面食らったようすの莉子を見て、麻莉亜は思わず笑いそうになった。
ひさしぶりに愉快な気分になれた。それだけでもここに来た価値がある、麻莉亜はそう感じていた。息苦しくなるばかりの毎日に、一服の清涼剤を得られたのだから。
打ち上げ
閉店中のレティシア銀座店、その二階にある本社事務所に、笹宮麻莉亜は朋李と莉子を連れて戻った。
がらんとした室内で、唯一デスクについて書類仕事をおこなっていた白髪頭の紳士、顧問弁護士の神条が顔をあげた。「お帰りなさい。......おや、その人は?」
麻莉亜は答えた。「鑑定家の凜田莉子さん。社印を見てもらうことにしたの」
「鑑定家? こんなにお若いのに......?」
待ってて、と麻莉亜は莉子に告げると、事務所の隅に赴いた。
金庫は、夫が社長だった二十七年間に四度、わたしが継いでからは一度買い換えている。その都度、社長職にある者が自分の責任で購入し、管理してきた。時代の最先端をいくロック技術を採用し、自分以外の誰にも開けられない厳重さこそが採用基準だった。
いまも麻莉亜は、複製不可能なゴール製グランV、美和製PRという二本の鍵をそれぞれ挿してひねり、暗記した手順通りにダイヤルを左右に回して、最後に指紋錠のセンサーに指先を押しつけることで、ようやく解錠に至った。開け方は自分以外の誰にも教えてはいない。扉の開閉自体も社長がひとりでおこなうきまりだった。
なかから桐の小箱を取りだし、金庫の扉を閉じる。麻莉亜は小箱を手にして莉子たちのもとに引き返した。
蓋を開けると、くだんの物体が現れた。本柘製、直径十八ミリの社印。天丸タイプの持ち手がうっすらと白ばんでいるのは、ときどき麻莉亜が自分の手でシアノガスを軽く噴きつけて指紋を検出しているからだった。万が一にもほかの誰かが使用したなら、その人間の指紋が残る。亡き夫から勧められた方法だったが、当然ながらいちども他人の指紋が見つかったことはなかった。
麻莉亜は印鑑を朱肉に押しつけると、不要な書類の裏に捺印した。その紙を莉子に手渡してから、印鑑をふたたび小箱におさめて金庫に向かい、なかに収めて扉を閉じる。すべてのロックを施錠し、またデスクに戻った。
「へえ」莉子が感心したようにいった。「終始おひとりで管理されてるんですね」
朋李がうなずいた。「僕も、母さんが社印を捺すところを初めて見たよ。従業員を帰らせてからしか金庫を開けないから」
「そうなのよ」麻莉亜は莉子を見た。「署名捺印は社員がひとりも残っていないときに、わたしの手でおこなうの。いま見てもらったような手順でね」
神条も同意をしめしてきた。「ご主人の代からずっとそうですよ。あの人も印鑑は誰にも触らせませんでした。むろん私にもね。使うときだけ取りだして、すぐに金庫に戻していました」
麻莉亜自身、夫が社長をしていたころには、社印に触れるどころか見たことさえなかった。その徹底ぶりをわたしは継承した。こうしてあらためて振りかえってみると、あの忌々しいダルメ社との契約書に忽然と現れた印影が、まったくもって不可解に思えてくる。
デスクの引き出しを開けて、契約書の鮮明なコピーを取りだした。「ふたつの社印が同一かどうか、これまで複数の鑑定家に見てもらったのよ」
しばし莉子は大きな瞳を見開いて、二枚を交互に穴があくほど凝視した。
突如として、妙に莉子の存在感が増したように思えた。全身からオーラがほとばしっている。麻莉亜は固唾を呑んで見守った。これはひょっとして......。
ところが次の瞬間、莉子は笑顔になり、あっさりと告げてきた。「おんなじですねー。どこにも違いはありません」
時間が静止したようだった。朋李と神条も唖然とした面持ちで凍りついている。
「あ」麻莉亜は震える声でいった。「あのね、ふたつがよく似てることはわかるのよ。だけど、絶対に違う物なの」
「えー?」事情を知らないせいだろう、莉子は遠慮なく繰りかえした。「同じですよ。重ねて透かしても、ほら、ぴったり」
ふいに憤りがこみあげてきた。麻莉亜は思わず怒鳴った。「あなたね、仮にも鑑定家というのなら、もうちょっと言葉を選んだらどうなの? いままでこれを鑑定した専門家はみんな、電子顕微鏡で三千倍とか五千倍に拡大して詳細に検討してきたのよ。それをなによ、ぱっと見て同じだなんて。そのていどの意見なら誰でも一緒よ」
莉子は目を丸くして麻莉亜を見かえしていたが、やがてその瞳に涙が膨れあがった。
麻莉亜が困惑を覚える暇もなく、莉子は声をあげて泣きだした。「ごめんなさい......。電子顕微鏡なんて使ったことないし。ルーペもアマゾンに注文したけどまだ届いてないし」
朋李が穏やかに仲裁に入ってきた。「母さん、責めちゃ可哀想だよ。もともと彼女がそこまでの専門家じゃないことは、僕らも知ってたじゃないか」
神条も戸惑いがちにいった。「私たちは裁判の件が報道により、広く一般に知れ渡っていると思いがちですが、彼女の反応を見る限り全然知らなかったようです。だから気遣いを強いるのは少々、エゴが過ぎる行為ではないでしょうか」
息子ばかりか顧問弁護士も味方してくれない事態。けれども、麻莉亜にとって心外というわけではなかった。ついかっとなってしまったが、莉子は思いのままを口にしただけだった。叱られるのは不本意なことだったろう。鑑定家としての力量はともかく、彼女は即座にここまで出向いてくれた。その善意にこそ感謝すべきだ。
麻莉亜は莉子をなだめた。「もう泣かないで......。ごめんね、八つ当たりしちゃって。あなたの鑑定を、わたしは尊重するわ、ふたつは同一、それがあなたの見解よね」
「......いえ」莉子は涙を拭うと、赤く泣き腫らした目で紙片を見つめた。「もっとじっくり観察させてください。そのうち何かわかってくるかも」
思わずため息とともに朋李を見る。朋李も複雑な表情を浮かべていた。
莉子を追いかえすのはなんとなく気がひける。かといって、社印を捺した紙を持ち帰らせるわけにはいかない。ゆえに彼女の申し出を甘受するなら、麻莉亜たちもしばらくここに留まって、彼女の〝鑑定〟につきあわねばならない。
「......いいわ」麻莉亜のなかで何かが吹っきれた。「神条さん。書類の整理が終わっているのなら、先に帰っていいですよ」
「よろしいんですか」神条は恐縮しながらいった。「では帰宅の時間でもありますので、お言葉に甘えまして」
神条が書類をまとめてデスクにおさめ、カバンを片手に退出していく。それを見送ってから、朋李に向き直った。「隣りのコンビニに行って、お食事とかお菓子とか飲み物とか、持てるだけ買ってきてくれる? ほら、前にも下のお店でパーティーやったでしょ。あんな感じで」
朋李は面食らったようすで見かえした。「いいけど......。夜ふかしする気? お祝いでもないのに」
「かまわないのよ」麻莉亜は、いまだ熱心に紙片を見つめる莉子を眺めて、思わず笑みをこぼした。「いい機会よ。家で暗く塞ぎこんでいるよりずっとまし。お店にいられるのもあとわずかなんだから、わたしたちだけで打ち上げをしましょう」
銀座店
笹宮朋李は、閉店中のレティシア銀座店で三人きりのホームパーティーにつきあうことになった。奇妙な成り行きだが、母の気持ちもわかる。孤独を紛らわせたいのだろう。賛成だと朋李は思った。今宵はいい気分転換になりそうだった。
客用の待合ソファに並んで座り、テーブルの上には買ってきた食材をずらりと並べる。チキンにサラダ、ケーキもあった。皿もコップも紙製で少し安っぽいが、洗いものに手がかからなくていい。
乾杯の直後から母の麻莉亜はワインをぐいと飲みほし、すでに赤ら顔だった。上機嫌そうに莉子に酒をすすめる。「二十歳なの? うちの息子のひとつ下ね。なら、もっと飲まなきゃ」
莉子は困惑ぎみにいった。「いえ......、あのう、わたしアルコールが苦手で......」
朋李は助け舟をだした。「母さん。飲めない人に無理強いしちゃ駄目だよ。僕がつきあうからさ」
そうはいったものの、朋李もあまり酒好きではなかった。麻莉亜が嬉々として注ぐワインに口をつけるふりをする。さいわい、母はあまりこちらを注視してはいなかった。ひとり飲み進めることに夢中になっている。
麻莉亜はソファにふんぞりかえって、手を天井にかざした。「小指にお洒落なリングを嵌めたいんだけどねー。朋李がプレゼントしてくれるんじゃないかと期待して、はや一年。いっこうに気配なし」
戸惑いながら朋李は母を見つめた。「それはさ、母さんがサイズを教えてくれないからだよ」
「お店に測りにいくのがめんどくさくて......」
すると、莉子が身を乗りだして麻莉亜の手もとを凝視した。「七号......ぐらいだと思いますけど。あ、ちょっとこれ、お借りしますね」
莉子が関心をしめしたのは、店内BGM用に置いてあったミニコンポだった。ラックからCDを一枚取りだすと、真ん中の穴に麻莉亜の小指を通そうとする。
麻莉亜が笑った。「ちょっと。指輪の代わりにしちゃ不便すぎない?」
「いえ、そういうわけではなくて......。やはりぴったり。七号ですよ。CDの穴は七号とまったく同じサイズなんです」
「ほんとに? へえー。やっぱ鑑定家さんだけによく勉強してるのね」
「お役には立てませんでしたけど......」
「いいのよ、そんなことは」麻莉亜は紙コップを口に運んだ。「このところ世のなかも大変だけど、夫の遺してくれた会社は頑張って維持していこうって心に決めてたの。ゆくゆくは朋李に継いでほしくてね。でも、そういうわけにもいかなくなって」
「母さん」朋李は穏やかにいった。「話が暗いほうに向かってるよ」
「うん......。ごめんね、こんなことにつきあわせて。朋李も、凜田さんも......。でも、いいお店でしょう? わがままかもしれないけど、いまこうしていられるのは最高に幸せな気分」
母の言葉が本心からのものでないことは、朋李にはよくわかっていた。
急に見知らぬ母子のパーティーに同席を求められた莉子も、事情をきかされたいまとなっては無邪気に笑ってばかりもいられなくなったらしい。同情心に溢れたまなざしで麻莉亜を見守っている。
沈黙はしばらくつづいた。やがて、静寂のなかに母の安らかな寝息がきこえてきた。
朋李は立ちあがって、客用の膝かけ毛布を取りだすと、麻莉亜に羽織らせた。
それから莉子に向き直り、朋李は頭をさげて小声でささやいた。「悪かったね。無理に来てもらったうえに......」
「いいんです」莉子は微笑とともにつぶやいた。大きな瞳が朋李を見つめてくる。「優しいんですね。お母さん思いだし。もっとチャラい人かと思ったのに」
苦笑が漏れる。朋李はいった。「服装と髪型のせいだろうね。先輩を見習って一所懸命にコーディネートしたんだけど、美容師として働いてなきゃただの軽薄な男だよね」
「よく似合ってますよ。かっこいいし。指名もよく貰えたでしょう?」
「髪切らせてもらえるようになったのはつい最近なんだよ。まだアシスタントあがりのジュニアスタイリストって扱いだし。でも、うちの店は見習い期間も短めで、僕も二年ぐらいだったかな」
「それだけ腕を見こまれたんでしょう」
「どうかなぁ......。きみ、ずっとその髪型?」
「変ですか? そういえばさっきもブローの仕方が間違ってるとか......」
「いや。きみは小顔で目鼻立ちも整ってるから、そんなにボリュームをださなくてもいいと思うよ。ショートも似合うと思うけど切るのはもったいないから......。ちょっとそっちに座ってくれる?」
鏡に面した座席を指さすと、莉子は苦笑しながらも腰を浮かせ、歩み寄ってきた。
座席におさまった莉子の姿を、鏡のなかにまっすぐに見つめる。すぐさま仕事モードに切り替わる自分を感じた。斜め後方に立ち、ブラシを手にとる。莉子の髪の絡まりをほぐしながら、少しずつブラッシングしていった。
「ほら」と朋李はつぶやいた。「これぐらい髪が寝ていたほうがいいよ」
「わぁー、ほんと」莉子は顔を輝かせた。「試したこともなかったけど、いい感じ」
「ね? 髪質もさらさらしてるし、余計な手を加えないほうが自然だと思う。逆にいうと、キューティクルの層がちょっと薄いから寝やすい髪だよね。子供のころから紫外線をよく浴びてたとか?」
「さすがプロ......。十八まで沖縄の離島育ちなので」
「そっか。潮風に太陽。ヘアケアには気を配らないとね」
「キューティクル一枚の厚みって〇・五から一ミクロンですよね? わたしの場合、〇・五ぐらいってことでしょうか」
「......さあ。そんなふうにきかれたのは初めてだよ。待ってて」朋李はレジカウンターのなかに向かい、テキスト本を引き抜いた。ページを繰りながら莉子のもとに戻る。
莉子がきいた。「それ、専門書?」
「免許とる前にはいろいろ勉強したけど、正直役に立たないことも多くてね。あ、これだ。ほんと、〇・五から一ミクロン......。細胞の隙間は〇・〇四ミクロン以下か。ここからトリートメント剤が浸みこむんだよね。ほかに自分の髪について知ってることは?」
「キューティクルの下は毛皮質、毛髄質と三層構造になってて、毛皮質には角化繊維細胞が......」
ため息とともに朋李はきいた。「バストラインのローレイヤーの軽さをだすセットの仕方は?」
「......ええと。読書量はすごく増えたんですけど、女性雑誌は読まなくなって」
「女性誌ってのは栄養分と同じでね。たくさん読みすぎてもいけないし、まったく読まないのもいけないよ。すごく頭がいいのは尊敬するけど、きみは綺麗なんだから、自分をよりよく見せるための知識も得なきゃ」
「は、はい......。ショートのほうが似合うなら、ばっさり切っちゃったほうがいいかな」
「そこまで思いきらなくてもいいよ。もったいないし。もし切ったら売れるぐらいの価値があるロングだと思う」
「売れるかな? いくらぐらいで?」
朋李は笑った。「ウィッグ用に長く伸ばした髪を買い取る店も昔はあったみたいだけど。いまはどうかな......。よっぽど高くても三万円ぐらいだろうし、次に伸ばすまで日数もかかるし。商売としては割りに合わないと思うよ」
「切った髪をまとめてどこかに売ったりしないの?」
「床に落ちた髪を? そりゃ無理だね。ばらばらになってるし、普通に不燃ごみとしてだすだけだよ。資源にでもなればいいんだろうけど。ごくありふれた成分なんだよね」
「ええ。ケラチンって硫黄を含む蛋白質がほとんど。無価値で有意義な用途もないって」
「クイズ王みたいな人だね」朋李はまたテキスト本を開いた。「ええと、ケラチン。あった。きみのいったとおりだね。思いだしてきたよ。この成分が水に溶けにくいから、髪の毛ってやつは処分しづらいんだ。でも最近、PPTの分子構造に作用して、水溶化できる分子細分化液が売りだされたって書いてある。ケラチンを無害で無臭、透明の液体に溶かせるってさ。ふつうに下水に流しちゃっていいって」
「へえ。便利ね。不燃ごみにだす手間も省けるんじゃない?」
「うちみたいな小さな店で? わざわざ液体にするなんて大げさすぎるよ」
莉子は、どんなに無駄と思える知識にも食いつくタイプらしかった。身を乗りだしてテキストの文面を読みこむ。「透明といっても、屈折率一・五八かぁ。水は一・三三だから。それよりはギトギトした、少し油っぽい感じのする液体ってことね」
変わった女の子だと朋李は思った。テキスト本を閉じながら朋李はいった。「はい、お勉強の時間はこれまで。ほうっておくと、難しい知識の話ばかりになるんだね。賢いのも素敵だけど、それなら内面にふさわしい見た目にならなきゃ」
「あとはどんなふうにセッ卜すれば......」
「そうだな」朋李はソファで寝ている母を気遣いながらささやいた。「ドライヤーは音がでるから、ブラッシングでどこまでできるか、やってみよう」
莉子にとって、レティシア銀座店で笹宮親子と過ごした一夜は、まさしく夢のように楽しい時間に違いなかった。
初対面のわたしに、こんなに親切にしてくれるなんて、笹宮麻莉亜という社長の寛大さがうかがい知れる。それに。朋李君......。ルックスも完璧なら、二十一歳らしからぬ思慮深さを秘めた、穏やかで奥ゆかしい性格の持ち主。わたしも店を経営するからにはこんな人たちになりたい、莉子は心からそう思った。
ヘアセットについての講義が終わった後、莉子は朋李とともにソファに戻り、小声でひそひそと談笑していたが、やがて夜が更けてくるにつれて睡魔が襲い、いつしか眠ってしまった。
目が覚めたのは、莉子のハンドバッグから漏れ聞こえてくるケータイのバイブ音のせいだった。莉子はぼんやりと起きあがった。麻莉亜と朋李はまだ寝ている。
壁の時計は午前七時過ぎだった。シャッターが下りているせいで店内は暗く、朝がきた気がしない。
そっとハンドバッグに手を伸ばし、携帯電話を取りだす。メールが一通、着信していた。0845を押して液晶画面に表示する。
瀬戸内陸からのメールだった。〝トムとジェリーの所持金は三対二。毎日、トムは六十円ずつ、ジェリーは五十円ずつ使っていったら、ジェリーが使いきったところでトムは九十円残っていた。トムとジェリーの当初の所持金は?〟
起きがけで頭が鈍い。比率でしか判明していない所持金を導きだすのも困難に思える。
それでも、おぼろでふたしかに感じる思考のなかに、もはやメモを取らずとも記号と数字が浮かんでは消えていく。トムの所持金VSジェリーの所持金=3割VS2割=......。
莉子は指先を動かし答えを入力した。トム四百五十円、ジェリー三百円。送信。
しばしの静寂の後、またケータイが震えた。受信画面を見ると、いつものメッセージがそこにあった。正解。きょうも一日頑張ろう。
ほっとため息をつく。かつては難題だったに違いないが、有機的自問自答と無機的検証、二段階の論理思考を身につけたいまとなっては、情報さえ出揃えばそれなりに真実を導きだせる。
ふと、自分の思いついた言葉が気にかかる。情報さえ出揃えば......。
テーブルの隅に放置されている紙片を手にとった。レティシア社の社印、その印影。
わたしはこの印影について鑑定依頼を受けながら、期待に添えなかった。社印の背景について何も知らなかったからだ。だが、適切な情報さえ収集できたら、あるいは......。
社印
その日の午前中、莉子は西武線で池袋から秩父駅に向かった。さらにバスを乗り継いで、国道二九九号線沿いにある店舗つきの工場を訪ねた。
株式会社葛西印章。規模としてはそれなりに大きく、印鑑の機械彫りだけでなく葉書などの印刷や裁断も手掛けているらしい。広い工場棟ではずらりと並んだ業務用プリンターが稼働し、つなぎ姿の従業員たちが忙しく立ち働いていた。
現在の社長である樋川は莉子のアポなし面会に応じてはくれたものの、時間がないからと工場のなかをしきりに歩きまわっていた。莉子は樋川についてまわりながら、周りの騒音に掻き消されまいと大声を張りあげて質問をしていた。
でっぷりと太った腹を作業着のなかにしまいこんだ樋川は、足早に移動しながら渋い顔で見かえしてきた。「昭和五十六年だって? 先々代の社長のころの話だよ。工場も建て直してるし、当時の設備なんか残っちゃいないよ」
莉子は追いかけながら食いさがった。「話だけでも伝えきいてませんか。昔、篆書体の機械彫りの印鑑だけは二本仕上げていたとか」
「ああ......。印影のデータを読みこんで自動的に仕上げるシステムの、まだ黎明期だったな。うちとしちゃ、ハンコを売るだけだからね。それを印鑑登録したり、一本を処分したりはお客さんの責任でやってもらうことだよ」
「機械彫りの印を、印鑑登録することってよくあるんですか」
「やらないように忠告はするけど、それもお客さんの勝手だよ。特に一般家庭の場合は、機械彫りか手彫りかなんて意識しちゃいないのが普通だ。中学校で卒業祝いに貰ったハンコを印鑑登録して、ずっと使ってる人もいる」
「わたしもそうです......」
「だろ? お客さんには〝手仕上げ〟ってのを勧めてる。機械彫りにちょっとだけ職人の手が入るんだよ。手彫りより安価で、しかもふたつとない印鑑が出来あがる」
「美容室チェーンのレティシア社は、手仕上げでは発注しなかったらしいんです。ほとんど機械彫りも同然なのに高すぎるって」
樋川はむっとした。「そう思うなら、それでいいだろ。悪いが、忙しいからこれで」
そういって樋川は、工場内に間仕切りされた一画に入っていった。社長室らしい。莉子はあきらめずにその後につづき、室内に踏みいった。「同じ昭和五十六年に機械彫り篆書体の印鑑を発注して、いまも存続している会社、ほかにないですか。業績がレティシアと肩を並べるぐらいの」
「あん?」樋川はデスクにまわりこんだ。「何をいってるんだ?」
「だから、レティシアと同じころに同じような印鑑を買って、以後、同じぐらいの頻度でその印鑑を使用した会社です。昭和五十六年の受注記録、残ってないですか」
「帳簿はあるかもしれんが、そんなの教えられるわけがないだろ」樋川はデスクに積まれた新品の葉書の山を見た。「サンプルが仕上がったな。機械を入れ替えたばかりだから、裁断が正確だったか調べないとな。横幅が微妙にずれることがあるんだ。ええと、定規は......」
「お願いします。帳簿を見せてくださるだけでいいんです」
「無理だといってるだろうが」樋川は吐き捨てながら、デスクの引き出しを開け閉めした。あちこちをまさぐりながら、不満そうにこぼす。「おかしいな。定規はどこに......」
莉子はすかさず財布を取りだし、千円札を二枚取りだした。それらを横に並べる。
樋川が眉をひそめた。「何をしてる?」
「葉書を三枚お借りしますね」と莉子はいった。受け取ったそれら三枚についても、端がぴたりとあうように横に並べた。「見てください。千円札二枚と、葉書三枚の横幅。一致してるでしょう? 〇・一ミリの違いもない」
「ああ。それが何か?」
「葉書の裁断に問題がないってことです。横幅は〇・一ミリの誤差もなく正確なサイズになってます」
「馬鹿いうな。うちはプロなんだぞ。こんな乱暴な調べ方でオーケーがだせるか」
「乱暴もなにも、正しいものは正しいですから」
「よし。ほんとに誤差が〇・一ミリ以下なら、きみのいうことをきいてやる。帳簿も好きなだけ見せてやる。だが違ってるなら、二度と私の前に現れるな」樋川はデスクの上の受話器をとり、内線電話のボタンを押した。「定規を持ってこい」
一分と経たないうちに、従業員のひとりがアルミ製の定規を持って現れた。その彼が立ち去ろうとすると、樋川が呼びとめた。「待て。きみも証人になってくれ。この若い女の子を黙らせたいんでな。ええと、横幅。十センチぴったり。......あれ?」
莉子は冷やかな気分でいった。「郵便はがきは横十センチ、千円札は十五センチと定められてます。三対二で並べればぴたり一致して当然です」
樋川はあんぐりと口をあけて莉子を見かえした。
沈黙のなか、従業員が樋川の手もとを覗きこんでつぶやいた。「十センチちょうどですね。〇・一ミリの狂いもない。証人になればいいんですか?」
次に莉子が訪ねたのは、東京都中野にある焼き肉店だった。
厨房では四十代半ばぐらいの男性が午後の準備に追われている。鈴本という名の店主は段ボール箱を開けて、額の汗をぬぐった。「まいったな、またこの業者の炭か。玉石混交で燃えたり燃えなかったりするんだよな」
莉子は話しかけた。「さっきもいいましたけど、昭和五十六年に埼玉の葛西印章って会社に......」
「ああ」鈴本は煩わしそうに応じた。「親父が社長をしてたころに発注したってきいた」
「社印はずっと使ってますか?」
「使ってる。それがどうした」
「よければ見せてもらえませんか」
「馬鹿いえ。会社の印鑑を見ず知らずの女の子に......。ああ、畜生。こんな炭じゃ客にだせん。高くつくが発注しなおすか」
「......いい炭だけ仕分けたらどうですか」
「おい。簡単にいってくれるじゃねえか。ちょっと燃やせばわかるって? こうみえても繁盛店なんだ、そんな手間かけてられるか」
「火は使わなくていいんですよ」莉子はしゃがみこんで、炭を手にとった。「角ばっていて重い。これは良い炭でしょう。次は......タールが付着してるから駄目ですね。悪い炭です。次、見た目は悪くないですけど......」
手にした炭で流し台を軽く叩く。木のように重たい音がする。よくない炭の証しだった。
崩れやすかったり、赤みがかっている炭も上質ではない。
ほんの数分で、バケツ一杯ぶんほどの炭をふたつの山に分けた。莉子はいった。「良い炭と悪い炭です」
「はん」鈴本は鼻で笑った。「本気かよ。いいだろう、試してやる」
鈴本は〝良い炭〟の山からひとつかみ取りだすと、七輪のなかにおさめた。バーナーで炙って火をおこす。
莉子は覚めきった気分でそのようすを眺めていた。彼がどんな反応をしめすか、おおかた予想がつく。
やがて鈴本は、目を丸くして炭火を凝視した。「マジかよ! ゆっくりと火がついて煙もでない。上質な炭ばかりだ! あんた、炭の専門家か何かか?」
「いちおう鑑定業をしてます」莉子は微笑んでみせた。「社印、見せてもらえるとありがたいんですけど」
夕方近くに莉子が訪問したのは、千葉県銚子市にある割烹料亭の店だった。
ここも法人登記しているが、初老の店長兼社長、木多良は愛想よく迎えてはくれなかった。社印について尋ねても、ろくに返事すらしてくれない。
木多良は、アサリがたくさん入ったボウルに水を流しこみながら、ぞんざいに応じた。
「砂抜きで忙しいんだ、帰ってくれ」
莉子は動じなかった。ボウルを覗きこんで、思いついたままをアドバイスした。「真水じゃ貝が弱りますよ。かき混ぜる必要もありません。食塩を三パーセント混ぜて数時間浸け置きにすれば、自然に砂が抜けます」
「何を? 素人がわかったような口を......」
するとそのとき、木多良の妻らしき女将が厨房に入ってきた。女将は木多良の手もとを見るなり、悲鳴に似た声をあげた。「あんた、何度いったらわかるの! 真水で貝を洗っちゃ駄目ってあれほどいったでしょ。それにこの貝......。全然選り分けてないじゃないの」
木多良はふいに弱腰になった。「よさそうなのを拾ったんだよ。新鮮そうじゃないか」
「もう......。あんたは何もわかってない」
莉子は袖をまくって、蛇口の水で手を洗った。「ちょっといいですか。殻の模様を見るといいですよ。たとえばこれと、これ。鮮明ですよね。ぬめりがある物も鮮度が高いです。どちらかわかりにくいこれは......塩水につけてみましょう」
手早く茶碗に水を汲んで、食塩をふりかけ、アサリを浸す。しばし観察してから莉子はいった。「水管がよく伸びてるし、水が噴きだしてますね。新鮮な証拠です」
ボウルのなかのアサリすべてをふたつに分けるのに数分を要した。新鮮な貝とそうでない貝。莉子の独断による鑑定だったが......。
女将は衝撃を受けたようすだった。「やるじゃないの! うちに何年も勤めてる女の子でも、こんなに要領よく区別できないわよ。どこから来たの? うちで働く? あ、それよりうちの息子、三十過ぎてもぶらぶらしてて、後を継いでくれそうにないのよ。あなたみたいなできた子と結婚すれば考え方が変わるかも。ほら、あんたからもお願いして」
木多良はまごつきながら頭をさげた。「ぜひよろしく......」
莉子は笑ってごまかした。「その話はまたの機会にうかがいますので......。それより、社印を拝見できませんか?」
准教授
朝の陽射しのなか、西早稲田キャンパスの正門に学生たちが吸いこまれていく。早稲田大学准教授の氷室拓真も、ネクタイが曲がっていないことを指で確認しながら、足早に歩を進めた。
門の脇にいる女子大生たちが声をかけてくる。「すみませーん。氷室准教授......。サインをいただけませんか?」
彼女たちが手にしているのは、氷室の著書『理工学術院の先進技術』だった。三千部しか刷ってないが生協で即日完売したらしい。ところが、ゼミを受講している学生たちには行きわたっていないときく。
男子学生がほとんどの先進理工学部にあって、氷室の著書の購買層が女性ばかりという事実に、教授会は首を傾げているようだ。だが、当人の氷室にとってはなんら不思議ではなかった。彼女たちは、近くの学習院女子大学の学生だった。
まるで映画スターにでも会ったかのように目を輝かせ、顔を赤らめた女子大生たちが、次々に本を差しだしてくる。本文はいちども開いた形跡がない。
氷室はペンを走らせながらきいた。「科学に興味あるの?」
「......いえ」きょうの女子大生はまた積極的だった。「カバーに氷室准教授の写真が載ってるんで、買っちゃいました!」
「僕の写真なんか、何千円もだして買うもんじゃないよ」
別の女子大生が恍惚とした表情でいった。「そんなことないです! かっこいいし......クールで、涼しい目をしてて、ブランドもののスーツを着崩してるのがまた素敵で。しなやかな物腰ってのがまたよくて」
女子大生たちは口々に同意をしめした。だよねー。ほっそりしてて、神経質そうなところがまた......。生真面目そうな顔つきもとても......。
彼女たちは誉めているつもりなのだろう。だが氷室は覚めた気分で聞き流していた。准教授として評価されるのでない限り、こんなうわべだけの人気は無意味だ。
サインを終えると、一緒に写真を撮ってくださいとせがまれる。氷室はできるだけ応じた。そうしておかないと、彼女たちは講義に潜りこんでくる。部外者をキャンパスにいれるなと、教授会からもきつく申し渡されていた。
ようやく解放されてキャンパス内を歩く。ここでも数少ない女子大生がわざわざ足をとめてこちらを注視する。男子学生や同僚の嫉妬のこもった視線も感じる。あいつは外見だけだというそしりも、ネット上でよく目にする。
若くして天才と持て囃された時期も今や昔。三十二歳になった氷室としては、人にちやほやされたいという欲求などまるでなかった。彼女たちは、己れの勝手な妄想を追い求めているだけだ。僕の内面など誰にも共感できない。努力も向上心も、この国のつまらない現実に阻まれてしまう。
きょうも講義の時間以外は、研究室に引き籠もって実験に明け暮れよう。誰がなんといおうと、科学者としての道を歩むだけだ。
そう思って58号館の研究棟に立ち入ろうとしたとき、エントランスのスロープで声をかけてくる女の子がいた。「氷室さーん。准教授ぅー」
またか......。氷室さんと馴れ馴れしく呼びかけるとは、一段と手ごわい相手のようだ。
満面の笑みとともに駆け寄ってくるその女の子は、モデルのように華奢な体型の美人顔だった。前日に美容室にでも行ったのか、長い髪はボリュームを抑えて綺麗にまとまっている。すでに顔は赤かった。よほど熱心なファンらしい。
「ここにおいでになるとききまして」女の子はいった。「初めまして。凜田莉子といいます」
「凜田さん......ね」氷室はあえて無愛想に告げた。「よろしい。正の定数γがあるとする。xy座標平面において、曲線√x+√y=√γと、直線x+y=γで囲まれた領域の面積は?」
キャンパス内にまで侵入してくる外部の女子大生に対し、いつも吹っかける難題だった。これは今年の入試問題のアレンジだ。まごついた相手にひとこと、うちの学生でないならどうしてここにいる? そう冷たく言い放つ。
ところが、莉子はにっこりと微笑んだまま、ハンドバッグから取りだしたノートに走り書きをした。ときおり考えるように目線が上を向いたが、口もとの笑みが消えることはなかった。
やがて莉子はノートをこちらに向けて、あっけらかんといった。「できましたー」
氷室はうんざりした気分で一瞥した。目を逸らしてから、はっとして二度見する。
途中の計算式はずいぶん奇妙だった。VSとか→を用いた、オリジナリティ溢れる数式もどきが並んでいる。ふざけているかと思いきや、答えはでていた。γ2/3。
「......な」氷室は呆気にとられた。「なんだ? きみ、ほんとにうちの学生だったのか?」
「いえ。大学には行ってませんから。でも事務局で通行証は貰ってきましたよ。用件を話したら、氷室准教授にきいてみるよう勧められて」
「僕に? どんなことを?」
「あのですね。印鑑を捺すときの力学的作用と変形......」ふいに莉子はふらついた。よろめきかけて、なおも笑いながら近くのベンチに腰をおろす。「すみません。座ってもいいですか」
「ああ......」
「どこへやったかな」莉子はハンドバッグをまさぐった。「ああ、これです」
数枚の紙片が取りだされた。氷室はそれを受け取った。いずれも一枚につき、ひとつの印鑑が捺されている。篆書体の社印のコレクションらしかった。
莉子がいった。「いちばん上のは美容室チェーンのレティシア社のものです。昭和五十六年に登録された印鑑の、ごく最近の印影です。そのほかの会社の印鑑も、同じ年に作られました。ぜんぶきのう捺してもらったんです。どの会社もレティシア同様に忙しくて、印鑑を使う頻度も同程度だったと思われます。でも、目で見た限りですけど、ほかの会社の印鑑のほうがレティシアよりも劣化しているような......。そう思いません?」
氷室は顔をくっつけんばかりにして、印影を丹念に観察した。
「......なんともいえないな」氷室はため息まじりにいった。「たしかに使いこんだことで、微細なひずみや曲がりが生じているとは思うが、電子顕微鏡でたしかめないとね。それに、どの会社の印鑑も同程度の頻度で使われたと決めつけるのは科学的ではないよ。さっきの問題を解いたきみならわかるだろうが、比較対象以外の条件はすべて数理的に同等にして......」
ベンチに目を向けたとき、氷室は息を呑んだ。
莉子はぐったりとして目を閉じている。眠っているのか。近づいて額に手をあててみる。
なんてことだ。すごい熱だ。昏睡状態に近いのかもしれない。
「きみ! だいじょうぶか」声をかけたが返事はなかった。
氷室は弱り果てて辺りを見まわした。いきなり押しかけできて倒れるとは、なんと迷惑な......、しかし、ほうってはおけない。
ええい。じれったくなって、氷室は莉子を両手で抱きあげ、医務室のほうへ駆けだした。
教授や男子学生の軽蔑に似た視線が突き剌さる。勝手に妄想してろと氷室は思った。どうせ、もてない奴らに僕の苦悩はわからない。
力学
最高裁第三小法廷に、廷吏の声が響く。「起立」
傍聴席の笹宮朋李も、ほかの全員とともに立ちあがった。
被告であるダルメ側が招いた証人は、五十代後半から六十歳ぐらいの男性だった。椎名というその男は、元科捜研の職員で化学分析の専門家であるらしい。椎名は裁判に慣れているらしく、宣誓も紙に目を落とさずすらすらと暗唱した。「良心に従って真実を述べ、何事も隠さず、何事も付け加えないことを誓います」
朋李は、原告席の母の姿を見つめていた。麻莉亜は背筋をまっすぐに伸ばし、ただ虚空を見つめている。
先週の銀座店におけるホームパーティーは、母にとって好ましいものだったらしい。肩の力が抜けたように感じられる。自分も同様だと朋李は思った。不本意ではあるが、絶望に等しい出来事も災害も同然のこととみなして、今後に目を向けていこう......そんなふうに運命を受けいれつつある。
凜田莉子、彼女に感謝せねばならない。莉子のすなおで天真爛漫な性格に触れて、僕ら親子は落ち着きを取り戻せだのだから。
椎名は、契約書に捺印された印影のインク成分を分析し、その結果を公表していた。モニターに映しだされたグラフを指さしながら椎名はいった。「ご覧のように、植物油と合成樹脂、顔料が朱油というインク状に精製されています。これは一般事務用品としてでまわっている朱肉そのものです。レティシア社が事務室で用いている物とも成分は一致しましたが、それだけではこの捺印が笹宮社長の手でおこなわれたかどうか決め手に欠けると思います。しかしながら、ごく微量ではありますが動かぬ証拠を発見しました」
やや気取ったしぐさで、椎名は指先で合図した。画面が切り替わる。複雑な化学式が現れた。分子量と書かれた欄には C2CaN2 とある。
「これはですね」椎名が告げた。「朱肉のインク成分以外にわずかに検出された物質です。シアン化カルシウムに似た構造です。カルシウムジシアニドが排除された残り成分、すなわちシアノガス」
麻莉亜の表情が硬くなったのを、朋李は見逃さなかった。
朋李も動揺していた。シアノガスといえば......。
ダルメ側の嘉手納弁護士が告げた。「笹宮社長。以前の口頭弁論で、社印をほかの人が使っていないことをたしかめるため、定期的に指紋の検出を試みていたそうですね」
「......はい」と麻莉亜はつぶやいた。
「その検出のために用いた薬品なり、物質は何だったかお教え願えますか」
これには神条弁護士も困惑を深めたらしい。麻莉亜にしきりに耳うちするが、有意義な助言には至っていないらしい。朋李の母はため息とともにうつむくばかりだった。
やがて麻莉亜は、ぼそりといった。「シアノガスを噴きつけていました......」
法廷内の空気が微妙なものになった。神条が苦い顔で黙りこむ。麻莉亜は身を小さくして座っていた。
椎名は勝ち誇ったように声を響かせていた。「原告側が提出なさった社印の印影につきまして、非破壊検査によりインク成分を調べました。それがこの画面です。......シアノガスの付着している分布図といい、分量といい、契約書の社印とほとんど一致しています。ここから弾きだされる結論として、契約書の印影はレティシア社の正規の社印で捺印されたと明言できます」
裁判長はあくまで機械的に応じた。「ご苦労さまでした」
沈黙だけが法廷に漂った。
朋李はてのひらに汗をかいていた。どんなことでもいいから反証してほしい。けれども、どうにもならなかった。すべての証拠は。本物の社印が使われたことを裏付けている。
偽造だとか、印鑑が二本あったという線はもはや消えた。けれども、納得がいかない。
絶対にありえないのに......。厳重に管理されていた社印を、母以外に持ちだせる人間はいないのに。
やがて裁判長がきいた。「原告側の証人は?」
麻莉亜は面食らったようすで裁判長を見かえし、それから隣りの神条に目を向けた。神条も当惑したようすで麻莉亜を見た。
「あのう」神条は眉間に皺を寄せて裁判長に告げた。「私どもは、特に証人の用意は......」
「おや」裁判長は無表情のままだった。「変ですね。原告のほうも独自に鑑定を専門家に依頼したときいておりますか」
鑑定......? 朋李は呆然とした。まさか......。
裁判長はじれったそうに唸ると、手もとの書類に目を落とした。「原告は、ええと......万能鑑定士Q店主の凜田莉子さんに......」
朋李と同様に、麻莉亜も衝撃を受けたようすだった。麻莉亜はおずおずといった。「すみません、その......凜田さんというかたはですね、たしかに印影を見てはもらいましたが、裁判における証人というわけでは......」
「代理で早稲田大学准教授の氷室氏なる方がおいでだそうですが。原告は証人を招いたのですか、招いていないのですか?」
麻莉亜はあきらかに困惑していた。神条にとっても寝耳に水の話だったようだ。あきらかに途方に暮れている。
しかし、麻莉亜はこわばった顔のまま、裁判長に対しうなずいた。
裁判長は麻莉亜の返事を尊重する姿勢をみせた。「氷室准教授はどちらに?」
しばしの静寂ののち、低く落ち着き払った声が応じた。「私です」
いつしか姿を見せていたその痩せた男性は、くつろいだ態度ながらどこか厳粛にみえる立ち振る舞いで前に進みでた。
氷室は一礼をしてから、モニターを指さした。新たな画像が現れる。朋李にとって見慣れない印影が三つほど並んでいた。
淡々とした口調で氷室はいった。「これらはレティシア社と同じく昭和五十六年に、葛西印章により機械彫りの篆書体で作られた社印の数々です。三十年間ずっと使用されつづけたために、レティシア社印と同じく経年劣化および、使用者の力の入れぐあいによる変形、摩耗などがごくわずかながら生じています。印鑑登録証と違いが生じるほど大きな変質ではありませんが、電子顕微鏡による拡大にて観察が可能です」
ダルメ側の嘉手納弁護士は不服そうに発言した。「裁判長。原告の証人の発言は、以前に私どもの証人が提出した鑑定と重なるものです。三千倍に拡大した結果、レティシア社印の変形ぐあいが、契約書の社印にも認められた。すでに確認していただいたとおりです」
ふんと氷室は鼻を鳴らした。「問題はどう変形したかより、その度合いでね」
「......度合い?」
「画面の丸印がついているところは、いずれも捺印の際に最も力が加わったと思われる箇所で、どの社印も線が潰れてしまい太さを増しています。製造後三十年を経過した社印はどれもこうなる。ところが、レティシア社印の線はそこまで太くなっていません。ひずみ、曲がり、ひび割れについても控えめです。早い話、昭和五十六年に作られた社印のなかで、レティシア社印だけは、ほかの半分ていどの劣化ぐあいなのです」
「それは」嘉手納弁護士が食いついた。「使用頻度が少なかったり、捺印する際の力が弱かったりしたんでしょう。会社が違えば使用者も使用回数も異なる。比較するには条件が違いすぎます」
氷室は表情を変えなかった。「私も、当初この場に立つはずだった鑑定家の女性に対し、同じことを指摘したよ。私はただ、彼女が伝えたがっていたことを代弁したのみでね」
法廷内に漂う唖然とした空気。それをいっこうに意に介さないようすで、氷室はおじぎをしてひきさがっていった。
何だったのだろう......。朋李は呆気にとられた。裁判官たちも顔を突き合わせて議論を始めている。彼らも証人の発言の意図がよくわからず、困惑を深めているようだ。
そのとき、麻莉亜のささやく声が朋李の耳に届いた。「神条さん?」
原告側の席に目を戻すと、弁護士の神条が立ちあがり、退廷しようとしている。麻莉亜はその背にふたたび呼びかけた。「神条さん。どこへ行くの?」
「いえ」神条はややうわずった声でいった。「すぐ......戻ります」
裁判中に弁護士が中座するとは前代未聞だった。しかし裁判官たちはなおも話し合いにふけっているうえ、法廷内はざわめきだしていて、審議は中断の様相を呈していた。一時的にではあるが、神条が席を外したことを訝しがる空気ではなくなっていた。
朋李は、妙な胸騒ぎを覚えた。いつも盤石のごとき態度で裁判にのぞんでいる神条が、どこかあわてたようすで立ち去った。いままで見せたことのない不審な挙動だった。
朋李も腰を浮かせた。さいわい、傍聴席の人間の退出は咎められることもない。後方の扉に足早に向かい、押し開けて通路にでた。
がらんとしたロビーを、異常なほどの速い歩調で横切る神条の姿があった。朋李は呼びかけた。「神条さん、どうかしたんですか」
神条は振り向かなかった。ただ歩幅を広くし速度をあげただけだった。追いつかれまいと躍起になっているようだ。朋李が駆けだして距離を縮めようとすると、神条も走りだした。
白髪頭の六十代ながら、若者のような身体能力を発揮し階段を駆け下りていく。神条は必死のようだった。もはや懐疑的というレベルではない。疑惑の存在を朋李は全力で追った。
外に飛びだした神条は、庭園の木々のなかを突っ切ってなおも逃走をつづけた。柵を乗り越えて内堀通り沿いの歩道にでると、通りがかったタクシーに手をあげた。停車したタクシーに乗りこもうとしている。朋李は駆け寄ろうとしたが、わずかの差で間に合わなかった。タクシーは急発進し、三車線の道路を蛇行して車両をごぼう抜きにしながら、半蔵門方面に消えていった。
朋李は息を切らしつつ、その場にたたずむしかなかった。
裁判を放棄して法廷を去った。弁護士にあるまじき振る舞い。いやそれとも......。
彼には僕の母を弁護する気などなかったのか。神条の真意はいったい......。
朋李が第三小法廷に戻ると、すでにきょうの審議は終わっていた。
閉廷した直後のようだが、裁判官たちは退廷している。ダルメ側も嘉手納弁護士ともども、早々と姿を消していた。
なんだかあわただしく、混沌とした空気が渦巻いている。よくわからないが、さっきの氷室准教授の発言をきっかけに事態が大きく動きだした。それはあきらかだった。
深刻な顔で腰を浮かせた麻莉亜のもとに、朋李は駆け寄った。「母さん」
「朋李」麻莉亜はきいてきた。「神条さんは?」
「それが......逃げちゃったよ。文字通り尻尾を巻いて退散って感じで」
「いったいどうして?」
「さあね」朋李は辺りを見まわした。「裁判のほうは? どうなったの?」
「証人尋問はきょうまで。判決言い渡しの期日をきいたわ。間もなくだって」
いよいよ判決......。その矢先に弁護士が姿を消すなんて。
朋李は提案した。「電話してみたら?」
傍聴人も退席し、法廷内は閑散としつつある。いつまでも居残っていても仕方がない。朋李が目でうながすと、麻莉亜は憂鬱な面持ちのまま扉に歩きだした。
ロビーにでてすぐ、麻莉亜がケータイを取りだした。静寂のなか、麻莉亜のかけた電話の呼び出し音が朋李の耳にも届いた。
先方が電話にでる気配はなかった。麻莉亜はあきらめたようすで電話を切り、疲れた顔でうつむいた。「どういうことよ......。なんで神条さんが」
「まさか、社印を盗みだしていたとか」
「いえ。考えられないわ。金庫の開け方は神条さんも知らないのよ。社印を預けたこともいちどもない」
「けど......。あのようすはどう見ても変だよ」朋李はふと、階段に向かおうとする氷室の姿に気づいた。すかさず声をかける。「氷室さん」
氷室は足をとめて振りかえった。にこりともせずに氷室はきいてきた。「何か?」
「......そのう」朋李は戸惑いながらだずねた。「凜田莉子さんはどんな意図で、さっきの証拠を提出したんでしょう?」
「さあね。僕も理由を知りたいところだけど、熱をだして寝こんでいるのでね」
麻莉亜が血相を変えてきいた。「凜田さんが熱を? だいじょうぶなんですか」
「一時はどうなるかと思いましたけどね。寝不足と過労が原因だったようです。大学の医務室に寝かせてばかりもいられないので、病院に搬送しました。ノートを忘れていったけど、矢印やらイコールやらを駆使する独特のメモの取り方でして、何が書いてあるのかよくわからない」
「なら氷室さんはどうしてここに......」
「彼女が持ちこんできた印影の会社、レティシアについてネットで検索してみて、係争中だと知りました。裁判所の事務官に問い合わせたところ、凜田さんが法廷に証人として立ちたいと何度も電話をいれていることがわかった」
「証人って」麻莉亜は目を丸くした。「それなら裁判所じゃなくて、わたしに相談してくれればよかったのに」
「彼女はおそらく、あなたに話したのでは出廷が叶わなくなると予測したんでしょう。あなたを警戒してのことでなく、弁護士を危険人物とみなしていたんでしょうね。実際、あなたの弁護士は一目散に逃げだしたじゃありませんか」
麻莉亜はいまにも泣きだしそうな顔で朋李を見つめてきた。朋李も母親を見かえした。
何を信じればいいのかわからない。そんな心境だった。真実はいったいどこにあるのだろう......。
ノート
判決は下った。
主文、原告の請求を棄却する、訴訟費用は原告の負担とする。
地裁と高裁でも耳にした言葉、まるっきりその再現でしかなかった。裁判長の声の抑揚すらうりふたつに思えた。
レティシア社およびすべての美容室チェーンは笹宮麻莉亜のもとを離れ、株式会社ダルメの所有になった。麻莉亜にとってはやはりショックだったらしく、唯一残された自宅の部屋に引き籠もったまま、息子の朋李とすら口をきかなくなった。
朋李は母の身を案じていたが、打ちひしがれてばかりもいられなかった。判決間際の異常な事態について解明せねばならない。
牛込警察署の三階、刑事課を訪ねる。できれば違う人間にしてほしかったが、担当はまたしても知能犯捜査係の葉山という警部補だった。
刑事部屋の片隅で向かい合わせに座り、葉山は指先で首筋を掻きながらきいた。「で、きょうは何のご用でしょうか」
やる気のない態度にいちいち苛立っていても仕方がない。朋李は努めて冷静にいった。
「うちの顧問弁護士だった神条康仁という人を探してほしいんです。失踪したので」
「弁護士? いろいろ複雑な事情がおありでしょうけど、行方不明者届なら生活安全課や地域課......」
「これには何か裏があるんです。だから刑事課に来たんです。それも状況からみて知的犯罪です」
「ふうん......。そうおっしゃるからには、何か根拠があるんでしょうな」
「僕は法律に詳しくはないので、よくわかりませんが」朋李は、氷室から借りた凜田莉子のノートを開いてみせた。「だいたいこんな疑いがあるみたいです」
葉山はノートを受け取り、眉をひそめた。「ええと......刑法二三五条。窃取=他人が占有する財物を占有者の意思に反し、自己または第三者に移転させる行為......。これは窃盗罪の詳細ですな。ほかにも第一〇四条についてずいぶん掘り下げて研究してる」
「第一〇四条?」
「証拠隠滅罪、証拠偽造罪、証拠変造罪、偽造証拠使用罪、変造証拠使用罪。そんなとこですかね」葉山はぱらぱらとページを繰った。「法律の勉強をしてる学生さんのノートか何かですか」
「それ、凜田莉子さんという人のメモなんです」
「凜田......? どっかできいたな」葉山の手がとまった。「おや? これは......」
「記述が独特で、ちょっと意味がわからないんですけどね。あちこち記号だらけで」
「......いや。ちょっと待った。なるほど......ふうん」葉山は顔をあげた。「このメモをとった人は、神条弁護士が笹宮麻莉亜さんを裏切ったと解釈しているようですな。というより、ずっと昔......会社の設立当初から、外部に会社の権利を売却するための準備を進めていた。長期に渡る詐欺計画だと推察しているわけだ」
朋李は驚きを禁じえなかった。「ほんとに? いったいどこにそんなことが......」
「このページですよ。購入当時は二本あった印鑑のうち、正式に登録された社印をA、もう一本をBと定義づけてます。以下、三十年後にA=Bになる条件の数々を、論理的な解析によって割りだそうとしてる......。ああ、VSってのは対立を意味する記号なわけだ。矢印は結果を表すのか。うまく整頓されてるな......、稚拙なところも多々あるけど、私たちの捜査メモによく似てる」
「凜田さんは、いったいどんな犯行だと?」
葉山はちらと上目づかいに朋李を見た。「お母様は社印を金庫に保管し、ひとりで管理してた。誰にも触らせない。そうでしたよね?」
「ええ」朋李はうなずいた。「社印を使う機会は、数日に一度以上は確実にあったと思いますけど、従業員を全員帰らせてから母だけが居残って捺印してたようです」
「ひとりだけじゃないでしょう。社印を捺すという行為は、契約とか債務とか、法的に重要な決定を下す最終段階です。弁護士も立ち会っていたんじゃないですか」
「ああ......。それは、そうだと思います。顧問弁護士はそれが仕事ですから。けど、神条さんにも印鑑を預けたことはなかったし、指一本触れさせていない......」
「ほかの全社員を帰らせて、事務所にあなたのお母さんと弁護士のふたりきりでしょう。捺印したあと、お母さんが文面をたしかめようと読みかえすあいだ、印鑑はどうなってるんです? 一瞬の隙も与えずにただちに金庫に仕舞いましたか? あるいはお母さんが手にしたまま放さなかったとか?」
朋李ははっと息を呑んだ。
先日、莉子が訪ねてきたとき、事務室で母が金庫から社印を取りだすのを見た。紙に捺印し、それを莉子にしめすあいだ......わずか数秒のことではあったが、印鑑は傍らに置いたままになっていた。僕らがいたから何も起きなかったが、もし母と神条、ふたりきりだったら......。
葉山は真顔でいった。「ほかに誰の監視もない状況なら、神条弁護士は笹宮麻莉亜さんの目を盗んで社印に手を伸ばす機会があったでしょう」
「で、でも、母はその後すぐに印鑑を金庫に戻したんですよ。それに、いかに母の注意が逸れていたとしても、神条さんがこっそり別の紙に捺印するのは不可能でしょう。さすがに気づきますよ」
「神条はそんな危ない橋を渡ってはいません。三十年前、あなたの亡きお父さんは社印を二本入手した。うち一本を処分したと日記で回想しているが、それは自分でおこなったのではなく、顧問弁護士に委ねたのかもしれない。なんにせよ神条は印鑑を破棄しなかった。新品の時点で、本物の社印とまるで同じ印鑑を入手した。やがて悪事に利用できるよう、業務の初日から欠かさず工作をおこなうことにした。印鑑のすり替えをね」
朋李は耳を疑った。「すり替えですって?」
「このノートにもあります。社長さんが金庫から印鑑をだし、捺印するたびに、こっそりともう一本の印鑑とすりかえる......。むろん指紋がつかないようにです。社印はいちど使うごとに入れ替わる。すなわち、二本の印鑑は社長さんの捺印時の癖により、同じように変形していく。笹宮麻莉亜さんの代になってからは、シアノガスをときどき噴きつけていたけれども、それも両方の印鑑に同等に付着する。神条はこうして、まんまと社印の複製を手にいれた。社長さんが社印をひとりで管理していたと主張すればするほど、その社印の効力はあがり、契約も揺るぎないものになる。うまく考えましたな」
気が遠くなるような衝撃が襲う。朋李は愕然とせざるをえなかった。
昭和五十六年に作られたほかの会社の社印と比較し、レティシア社印の劣化ぐあいは半分以下......。莉子が主張したがっていたのはこの事実だ。図星を突かれ、神条は動揺して逃げだした。まだ法廷の誰もがその意味に気づいていなかったにもかかわらず......。
葉山はしきりにうなずきながらノートを読みふけっていた。「こりゃよくできてる。思考を二段階に分けているんだな。いちど想定した事象に対し、別角度から検証をいれることで是非の判断を下している。なになに、有機的自問自答と無機的検証? なるほど、言い得て妙だな。参考にしたくなる。これ、コピーとっちゃまずいですか?」
「持ち主にきいてくださいよ。万能鑑定士Qの凜田莉子さんに」
「万能鑑定......」葉山は目を瞠った。「あー! 凜田って、あの女の子? まさか。何か月か前、詐欺に遭ったとかいって泣きついてきたのに」
「刑事さん。すべてが神条弁護士の企みだとしたら、知能犯捜査係としてもほうってはおけないでしょう? 行方を追ってくださいよ」
「うーん」葉山は唸って、しばし考える素振りをしていたが、やがてノートを閉じると朋李に差しだしてきた。「申しわけありませんが、私にできることは何も」
朋李はノートをひったくった。「どうしてですか?」
「最高裁の判決によって、あなたのお母さんはレティシア社の代表ではなくなっている。会社はもう、あなたの一族のものではないんです。かつては神条弁護士を雇用していたかもしれないが、いまはその関係にない。赤の他人が行方不明者届をだすことはできません」
「だから、その判決自体が、神条の仕組んだことで......」
「なんにせよ無理です。行方不明者届はふつう、親族が提出するんです。神条弁護士の身内に相談したら?」
困惑とともに言葉を失う。朋李は呆然とした。
そういえば神条の家族構成について、僕は何も知らない。母も同様だろう。神条は何も語りたがらなかった。独身という噂もあったが、詳細はわからない。履歴書に何が書いてあろうと、鵜呑みにはできないだろう。三十年にもわたって父と母を手玉にとってきた男なのだから......。
葉山はため息をついた。「気の毒ですが、どうしようもないですな。仮に凜田さんが法廷を欠席しなかったとしても、判決は変わらなかったでしょう。二本の印鑑が交互に使われていた......そんな主張をしたところで、推論にすぎません。たしかな物証が必要です。もうひとつの印鑑でもでてくれば別ですけど」
「......それを探してくれる気は、警察にはないんでしょうね」
「最高裁の......」
「判決がでているから。ええ、理解してます。お手数をおかけしました」
朋李は立ちあがると、黙って葉山に一礼をした。それから踵をかえし退室した。
もとより、司法なんか頼りにできない。真実を見抜いた唯一の女性、会うべき人物がいるとすれば彼女しかいない。
依頼
その朝、莉子は明大前のワンルームマンションで目覚めた。
病院を退院して数日、ようやく熱もさがったようだった。起きがけで食欲がない。このまま出勤したほうがよさそうだった。
ひさしぶりにケータイを見る。瀬戸内陸からのメールは一通だけだった。こちらから答を返信していない以上は、翌朝に新たな問題を送って寄越すことはなかったらしい、莉子は内心ほっとした。受信フォルダに山ほど問題が溜まっていたらどうしようと気が気でなかった。
メールにはこうあった。〝四枚の封筒にそれぞれ千円、二千円、五千円、一万円札が入っている。外側には以下のように記してある。①この中に千円札は入っていない ②五千円札は①の封筒の中 ③この封筒は新宿で買った ④二千円札は③の中 ちなみに一万円札の封筒にだけ嘘が書いてある。どの封筒にどのお札が入っている?」
ええと、ノートは......。莉子は室内を見まわした。いつもメモに使っているノートがない。どこかに置き忘れただろうか。
いまのところは筆記の必要はない。莉子は頭のなかで論理的思考を組み立てていった。まず③は嘘か本当かわからない文章だ。②に一万円札が入っていて、その記述が嘘だとすれば、④には本当のことが書いてあるのだから③は二千円札。でも①にも真実が記載してあるのだから五千円が入っていて、②の文章は嘘でなくなってしまう、ならば②を本当と仮定しよう。①は五千円札。④が一万円札で嘘が書いてあるとすれば、③が千円札で②は二千円......。さほど難しくもなかった。回答を返信し、莉子は着替えて外にでた。
満員電車は心配だったが、あまり疲れは感じなかった。体力が戻ってきているらしい。神田川沿いを歩いて、万能鑑定士Qの店を目指した。開店後数か月で不定休とは情けない。今後は頑張らねば。
雑居ビル一階のテナント、閉じたシャッターの前に、見覚えのある若い男性が立っていた。洒落たモード系のファッション、斜めに被った帽子も彼のトレードマークのようだった。
莉子は明るく声をかけた。「朋李さん」
「あ、凜田さん」笹宮朋李は控えめに微笑した。「だいじょうぶだった? なんか、熱をだしてたとか」
「知ってたんですか? ご心配をおかけしました。もう平気です」莉子は、朋李が手にしている物に目をとめた。「そのノート......」
「これ、早稲田大学の氷室准教授から預ってたんだよ。本人に返してくれって」
「そうか。西早稲田キャンパスに忘れてきたんだ......。わざわざ持ってきてくれたの?」
「用件はほかにもあるんだよ」朋李は深々と頭をさげた。「母がきみに頼んだことだけど、引き続き力を貸してもらえないか」
「頼んだことって......?」
朋李は顔をあげた。ささやくような声ながら、切実なまなざしで莉子に訴えてくる。
「神条の尻尾をつかみたいんだ。最高裁の判決が下っているから、印鑑のトリックを立証しても覆すのは無理かもしれない。それでも、一緒に神条の行方を追ってほしい。真実をあきらかにしたいんだよ」
笹宮親子は敗訴してしまったのか......。
莉子は困惑とともにいった。「わたしなんかに......」
「頼むよ。もう僕と母には何も残されてない。自宅ももうすぐ引き払わなきゃいけない。レティシア・チェーンはいま全店が休業状態だけど、経営が変わったら従業員も総入れ替えになって、僕もクビだろう。働けるサロンを探さなきゃ......。でもなんとか収入を得て、場合によっては借金をしてでも報酬を払うよ。だから......」
莉子は、そっと片手をあげて朋李を制した。
「朋李さん。いまおっしゃったように、今後どこかの美容室に勤務するんでしょう?」
「......美容師だし、ほかにできることもないからね」
「なら」莉子は微笑んでみせた。「すべてが終わったら、いちどわたしの髪を切ってくれませんか。お礼はそれで充分」
しばし朋李は無言のまま見かえした。やがて、穏やかな表情で朋李はうなずいた。「もちろん、喜んで......。約束する。きみを最高に綺麗にしてみせるよ」
莉子は朋李と見つめあい、笑いあった。
言葉とは裏腹に、内心は恐怖に震えていた。
最高裁すら看破できなかった真相か。わたしなんかに解き明かせるだろうか。神条が確たる物証、ふたつめの印鑑をまだ持っていれば可能性もある、でも、もし処分してしまっていたら......。
証拠隠滅
深夜二時過ぎ。利根川流域の川原に、弁護士の神条はうずくまっていた。
懐中電灯を手にして、石の上に置いた物を照らしだす。レティシア社の社印。その複製。いや、本物かもしれない。ほぼ毎日のように交換しつづけて、いまやどちらが最初に印鑑登録した物か、さだかではなくなった。
構わないと神条は思った。最高裁の判決は下っている。二本の印鑑はどちらも本物と見なされた。うち一本を始末してしまえば、完全犯罪の成立となる。
この日が来るのをどれだけ待ち望んだことか。神条は天にも昇る気持ちとともに、金づちを振りあげた。
満身の力をこめて、印鑑めがけて一撃を加える。本柘の印鑑は弾けるような音とともにふたつに割れた。
さらに何度も、容赦なく金づちを振り下ろす。打撃のたびに、印鑑の残骸は粉砕されていった。数秒後には、すでに小さな木片の集まりでしかなくなっていた。それでも神条は手を休めなかった。かけらすらも地上に残してなるものか。どんなに執念深い捜査だろうと、物証がなくなればそれで終わりだ。消せ。潰せ。この世から葬り去れ。
もはや粉末に等しくなったそれらを、神条は新聞紙に包みこんだ。すぐさまライターで点火する。
目の前で燃える赤い炎が、神条にとっての勝利の狼煙だった。もう誰も私に手出しできない。時間は戻せない。
背後に近づいてくる足音がした。低い声が呼びかける。「神条先生。気は済みましたか」
振りかえると、痩せた身体を妙にゆったりしたダブルのスーツで包んだ、エナメル靴の男が近づいてきた。足場の悪い川原であっても、肩で風を切りつつガニ股で歩くチンピラに特有の歩行法は崩さない。ヤクザの世界には、掟でもあるのだろうか。ひとけのない場所でも周囲を威嚇する態度を崩すなという。
「充分だとも」神条は内心、男を軽蔑しながらつぶやいた。「祝おうじゃないか。これであんたたちのエメラルドも未来永劫、輝きを失うことはない。報酬は充分に弾んでもらうよ。なにせ、三十年来の地道な努力が実を結んだ成果だからな」
ユニクロ
レティシア銀座店の事務室は、無人のうえに電気も通ってはいないが、以前に莉子が訪ねたときとさほど変わらない状態にあった。事務用品は運びだされてはいない。朋李が窓のブラインドを上げると、陽の光が差しこんできた。照明が点かなくても昼間はそれで充分だった。
朋李がいった。「僕と母さんを含めて、前の従業員が出入りできるのもきょう限りなんだよ。持ちだせるのは私物に限られてる。明日以降はどの店も鍵を替えるってさ」
莉子は言葉に詰まった。朋李の心中は察するに余りある。
だが、朋李は静かに微笑んだ。「気にしないで。いまは手がかりを探せる場所は、ここぐらいしかないんだし」
「......そうね。神条弁護士のデスクは?」
「そっちの端。ロッカーの前だよ」
歩み寄ってみると。事務デスクの上には何もなかった。半開きになった引き出しも空になっている。莉子は面食らった。「ぜんぶ持ち去られているようだけど」
「ああ。最高裁から逃げだした後、ここに立ち寄って大急ぎで荷物をまとめたらしいね。帳簿も書類も残っていない。筆記具さえも根こそぎ持っていったようだ」
莉子は椅子に座って引き出しを開け閉めした。どれも空っぽで、埃のほかには古びた輪ゴムやクリップ、ホッチキスの玉が点在しているだけだった。
やがて、やや気になる小物をつまみだした。莉子はつぶやいた。「これって......」
朋李は眉をひそめた。「つまようじだろ? 会社のデスクって、どうでもいい物が溜まるよね」
「ええ......。三本、いえ四本あるわね。ほかには......」
莉子は椅子から腰を浮かせ、床にしゃがみこんだ。引き出しをデスク本体から取り外し、奥になにか落ちていないか確かめる。
小さく丸められた紙片があった。それを開いてみると、走り書きのメモが現れた。
5/23 ユニクロ wear 注文の品受取日
「ねえ」莉子は立ちあがった。「これ、なんだと思う?」
歩み寄ってきた朋李が紙片をじっと見つめた。「神条の筆跡だよ。何度も書面で見たから間違いない。でも、ユニクロのウェアって......意外だね。いつもスーツ着てる男だったから。注文の品受取ってのはなんだろ。ユニクロって、オーダーメイドを受け付けてたかな。それとも簡単な寸法直しとか」
「なら注文の品とは書かないでしょう。取り寄せのサービスでも利用したのかしら。五月二十三日って、もうひと月以上も前ね......。何があったか覚えてる?」
「待って」朋李はポケットから手帳を取りだして開いた。「ええと。最後の口頭弁論の翌日だね。......思いだした。ここで母さんと僕と、神条とで相談をしたんだよ。ダルメ側が印影を三千倍に拡大した検証結果をしめしてきたから、こっちは五千倍の鑑定を専門家に依頼して、その報告書にみんなで目を通した。母さんが泣きながら外に駆けだしちゃって」
「何時ごろ?」
「あれは......昼過ぎだよ。三人とも、粗末な食事をとってたからね。僕は食パンひと切れ、母さんはサンドウィッチだった。神条もおにぎりを食べてたけど、あれは芝居にすぎなかったんだな。ダルメのほうから多額の報酬を受けていたに違いないよ」
「神条弁護士はその日どうしてたかわかる?」
「いちおう朝のミーティングで行動予定を互いに教え合うからね。ほら、メモしてあるよ。午前中は千代田区の東京法務局、午後はずっとこの事務所に詰めてた」
「ふうん。なにか変わったそぶりは?」
「特には......。あ、おにぎりの包装につまようじをいれるのは間違ってるとか、めずらしくぼやいてた。引き出しに投げこんでたよ。たぶんさっきの......」
「これね」莉子はつまようじを指先に保持した。「黄緑いろね。木じゃなくてプラスチック製。......いえ、そうじゃないわ」
「どうかした?」と朋李がきいた。
「水、どこかにある?」
「うーん、水道も止められちゃってるけど......。ミネラルウォーターなら」朋李は部屋の片隅に向かい、冷蔵庫を開けた。「あった。まだ残ってたよ」
莉子はそのペットポトルを受け取ると、蓋を外した。なかにつまようじをいれて、もういちど蓋をする。シェイカーのように激しく振ってから静止し、しばし観察した。
莉子のなかでひとつの可能性が〝有機的〟に浮かびあがった。すぐさま〝無機的〟な検証に入る。この可能性が正しければすべて成り立つか否か。答えは......。
イエス。ならば行動を起こすしかない。
すぐさま莉子は戸口に歩を進めた。「いきましょう」
朋李が戸惑ったようすでついてきた。「どこへ向かう気?」
「新大久保」と莉子はいった。「急いだほうがいいかも。足跡をたどるには時間が経ち過ぎてる。消えてしまっていたら取り返しがつかない」
朋李は莉子とともに山手線に揺られ、新大久保に向かった。新宿からひと駅、都内のわりには素朴な駅の改札をでると、そこはハングルの看板が立ち並ぶコリアン・タウンだった。
韓国系の住民の多いこの地域は、韓流ドラマやK-POPファンの女性でごったがえしていた。店先に並ぶ物はCDから韓国のりまで、飛ぶように売れている印象がある。
正午前だけにテイクアウトの弁当屋が軒並み賑わいをみせていた。莉子はその狭間にある雑貨店の前で足をとめた。「ほら。見て。引き出しの中にあった物と同じ」
黄緑いろのつまようじ。山ほど袋詰めにされ棚に並んでいた。
「ほんとだ」朋李は驚いた。「でも、ここにしか売ってないってわけじゃ......」
「いえ。これは本来、韓国で販売されてるつまようじで、トウモロコシのでんぷんでできているのよ」
「でんぷん......?」
「一九九二年の末に、資源の節約および資源再活用促進に関する法律が施行されて、割り箸や紙コップのような使い捨て商品を飲食店で使うことが禁止されたの。それを反映して作られたのが、このつまようじ、水に長時間浸けておくと溶けるのよ」
「へえ」朋李は手にとって容器のラベルを見た。「商品名は安国寺......。一体さんのお寺と同じ名前だね」
「アングクサって読むの。全羅北道茂朱郡の地名でもあるけど、でんぷんのつまようじのほとんどがベトナム製なのに対して、安国寺は数少ない韓国の国内製。早く溶けるのが特徴で、一分もすればもう尖った先端が丸くなる。日本で売ってるのはこのお店だけ」
朋李は辺りを見まわした。「おにぎりの包装に入っていたってことは......」
「韓国では日本と同じようにおにぎりを食べるから、この界隈でもよく売ってるの。ここで仕入れたつまようじを業務用に使っているお店も多いはず」
「神条はあの日の午前中、近辺に来てたってことか? でも偶然通りがかっただけかも......」
「お昼に神条弁護士はいくつのおにぎりを食べてた?」
「ええと、一個だけだよ」
「でしょう? 引き出しには四本もつまようじが入ってた。ってことは、以前にも何度かここに来てる」
「単なる私用じゃないことを祈りたいね」
「だいじょうぶ。朋李さんと社長さんに対しては、千代田区に行ってると嘘をついてたんでしょ? 隠さざるをえない理由があったのよ」
朋李はすなおに感心した。「なるほど......」
莉子はくしゃくしゃになった紙片を取りだした。「この界隈でユニクロといえば......。明治通り沿いの新宿ステパ店かな。ちょっと距離があるけど」
歩きだした莉子を眺めながら、朋李はひそかに圧倒されていた。
最初に会ったときの印象とはまるで違う。驚くべき聡明さを秘めた女の子だった。今年、二十歳ということだが、大学には行ってないのだろうか。どうすればこんなに頭の回転が速くなるのだろう。
だが、目覚ましい快進撃はそこまでだった。
ユニクロの店員は非常に親切で、当日の帳簿を取りだして丹念に調べてくれたが、神条らしき客が訪ねた痕跡はなかった。取り寄せ注文についても同様で、神条がメモしていた〝注文の品受取〟に当てはまりそうな商取引の形態は、ユニクロにはなかった。
オンラインストアの注文じゃないですか、と店員はいった。しかし、ネットでの購入なら自宅に配送してもらえる。神条が住んでいたのはこの辺りではないし、わざわざ新大久保を訪れる理由にならない。
少し足を伸ばして大ガードの手前にある西武新宿ペペ店や、新宿西口店にも赴いたが、結果は同じだった。もはやここまで来ると新宿駅のほうが近く、新大久保駅で下車する意味もない。
結局、収穫のないまま引きかえすしかなかった。出発点になった雑貨店の前。コリアン・タウンの中心部にたたずみ、朋李は莉子ともども途方に暮れた。
「んー」莉子は頭を掻いた。「おにぎりの包装やレシート、残ってないよね?」
「残念ながら......。神条は食費を経費で落としていなかったし」
莉子は歩きだした。大久保通りから路地を入って、古いアパートが建ち並ぶ住宅地を進んでいく。「ユニクロの......ウェアかぁ。なんでわざわざ wear って英語で表記したんだろ」
「さあね、かっこつけたんじゃない?」
「ユニクロといえば服でしょ。ジャケットとかパーカーとか書くならともかく、ウェアって......。メモしておく必要なんかあるのかな」
しばらく路地をさまよい歩いた。おにぎりを売っている店は裏通りにも数限りなくあった。絞りこむのは事実上、不可能に思える。
住宅地のなかに流れる小川沿いの歩道で、莉子は立ちどまった。無言のまま、憂いのいろを浮かべて辺りを見渡す。
やがて、その目がある一点に釘付けになった。「あれ? もしかして......」
莉子はふたたび歩きだした。行く手には古びた町工場がある。錆びついたトタンの外壁には、大久保鍍金工場と看板がでていた。
開放された間口の前に、莉子は立った。朋李もなかを覗きこんだ。猥雑な印象が漂う薄暗い土間のフロア。鉄パイプが数十本ずつの束になり積みあげられている。作業着姿の男性は巨大なバレルの前で作業をしていた。バレルは振動し、金属の部品をけたたましい音とともに吐きだす。男性がそれをプラスチック製のケースに落としこみ、台車に載せて運びだした。別の生産ラインでも、どんな用途かわからない加工部品が無数にぶらさがって、順繰りにプールに浸けられてはまた引き揚げられる。
通りがかった年配の作業員に、莉子が声をかけた。「すみませーん」
作業員は足をとめた。「はい。なんでしょう」
「五月二十三日に引き取った部品の件なんですけど」
「ん? 五月二十三日......? 失礼ですが、どちらさんで?」
莉子はその質問について、きこえなかったふりをするつもりらしい。相手と意思の疎通をはかろうとするように、大げさな身ぶり手ぶりで表現しだした。「覚えてませんか。頭は白髪で、ひょろっと痩せてて、几帳面にスーツを着てて......。すり減ってメッキが落ちちゃったからユニクロをお願いしたんですけど」
「ああ!」作業員は笑顔になった。「田中さんね。はい、ちょっとお待ちください。担当を呼んできますんで」
作業員が駆けていくのを、朋李はぽかんと見送るしかなかった。
朋李は莉子にきいた。「ユニクロって......?」
「店名じゃなかったのよ」と莉子はいった。「光沢クロメートをユニクロと呼ぶの。ネジとかによくある、青みがかった銀いろのメッキのこと。亜鉛メッキの後に、フッ化物を含んだ溶液で化成被膜処理を施すのよ」
「マジで? メッキの工程だったのか......。けど、すり減った部品が持ちこまれたってのは? どうしてわかった?」
「wear って単語、摩耗って意味もあるでしょう。そういう状態の部品を表してたのよ」
もはや開いた口がふさがらない......。呆れるほど幅広い知識を有し、そつなく活用する知恵も機転もある。勘も冴えている。美容室で働いていたころには多くのインテリっぽい客と出会ったが、こんな女性は見たこともない。
やがてひとりの男がやってきた。やはり作業着姿だが、ずっと若く三十代前半ぐらいに見える。やや神経質そうで、こちらに対し警戒するような目を向けていた。クリップボードも表を見せたがらないように胸もとに押しつけている。厄介そうな相手だな、と朋李は思った。
男性は朋李と莉子をかわるがわる見た。「あのう......。納品はすでに終わっていますが。どういった御用でしょうか。田中さんとはどんなご関係で?」
莉子は、ふだんみせない高飛車な態度でいった。「いちどユニクロでお願いしたんですけど、耐食性に劣るから有色クロメートでやり直そうと思って」
すると男性は目を丸くした。「もういちどメッキし直すんですか? それには前のを剥がさないと......」
「ええ。田中さんが是非にって」
「でも」男性はクリップボードに目を落とした。「最初のお話では、今月の二十二日が最終期限でしたよね? 早ければ早いほどいいとおっしゃるから、うんと前倒しにして仕上げたんですけど......。それでも、いまから有色クロメートなんて、とても間にあいませんよ」
「そうですか? やってもらわないと困るんですけど」
「配送した部品、またここに戻すんですか?」
「はい。運送費はあなたがたの負担とのことです」
「冗談じゃないですよ!」男性は血相を変えて、クリップボードの表面を莉子の眼前に突きつけた。「田中さんがお受け取りになって、ご自身で配送手続きをされたんですよ。たしかに私どもで梱包して業者に引き渡しましたけど、本来請け負った仕事はメッキ加工のみです。欠陥がなかった以上は引き取りなんかできません」
莉子はまるで見る必要がないとでもいいたげな目つきで、クリップボードを一瞥しながらきいた。「どうしてもおやりいただけませんか」
「ええ。お支払いもいただいているし、部品も納入しました。取引は完了してます。田中さんにもそうお伝えください」
はあ、とため息をついて莉子は朋李に告げてきた。「しょうがないわね。行きましょ」
どうやら部下という設定らしい。朋李は神妙に頭をさげた。「はい」
男性がむっとして見送る。その視線を背に感じながら、朋李は莉子とともに外にでた。
路地の角を曲がったとたん、莉子は素早くノートを取りだし、ペンで書きなぐった。いましがた目にしたばかりのクリップボードの文面、記憶したかぎりをメモする気らしい。
「巧いね」朋李は心からいった。「商売人の怒らせ方をよくわきまえてるよ。無理な注文を吹っかけたり、お金のことを持ちだしたり。お陰で向こうは慎重さを失って、すすんで情報を開示した」
莉子はペンを走らせながらつぶやいた。「神経質そうな人だったから、強気にでたほうがいいと思って」
「うまくひっかけたよね。まるで詐欺師の手ほどきでも受けたかのようだよ」
「まさか」と莉子は苦笑に似た笑いを浮かべた。ペンを持つ手がとまる。「これぐらいかなぁ......。ほかにもたくさん記載があったけど、専門用語や略字が多すぎて覚えきれなかった」
朋李はノートを覗きこんだ。「配送先......。横浜市中区海岸通一の一?」
「横浜大桟橋よね。受取人は雁堵建設の絹尾って人、電話番号は〇九〇で始まる携帯電話。たぶん桟橋の駐車場にクルマで来てた受取人に引き渡したのよ」
「期日になってた二十二日まではあと二週間足らずか......。早めに配送されたからには、受取人はもうそこにはいないだろうね」
「ええ。だけど、近くには潜伏してると思う。二十二日に大桟橋に持ってこさせる、それが納期の最終ラインだったわけだから......」
莉子は言葉を切った。その先はいう必要がないと考えたからだろう。
朋李も同感だった。二十二日、横浜大桟橋。どんな船が接岸し、出港するのだろうか。田中を名乗っていた神条は、そこになんらかの部品を配送した。彼がメッキ加工を施したうえで海上に送りだそうと画策する、その部品とはいったい......?
エメラルド
その夜、朋李はもう二度と来たくないと思っていた場所に舞い戻った。牛込警察署。莉子がどうしても行く必要があるといいだしたからだった。
三階の刑事課は、以前よりは緊張した空気に包まれていた。とはいえ、重大事件の発生にはほど遠いようだった。事務デスクで葉山が取り調べているのは、開襟シャツ姿の小柄で貧相な老人だった。老人はしゅんとした顔で肩を落としている。葉山と、もうひとりの若い刑事が老人を問い詰める、そんな構図のようだった。
ほかの刑事たちは全員が電話にでたり、書類仕事をしたりで忙しそうだった。残念ながら今回も、相手にしてくれそうなのは葉山ぐらいしかいない。
葉山は面倒くさそうに首筋を掻きながら、若い刑事にいった。「雲津。このおじいさんによくいってきかせろ。神社や寺では賽銭箱だけじゃなく、ほかの場所からも金をとっちゃいけないってな」
雲津と呼ばれた刑事は老人に告げた。「おじいさん。きいたとおりです。あなたはよく自販機の釣り銭返却口に指を突っこんで歩いていたそうですね。たとえ忘れ物でも、持ち去ったら犯罪ですよ」
朋李は歩み寄って、穏やかに声をかけた。「葉山さん。あのう......」
すかさず片手をあげて制しながら葉山はいった。「取り調べ中。あとで」
困惑とともに朋李は立ちつくした。莉子も隣りで戸惑い顔にたたずんでいる。
老人が葉山に申し開きをした。「私ゃ、小銭を拾い集めるのが趣味でして......」
「ふん」葉山は鼻を鳴らし。ビニール袋いっぱいに詰まった硬貨を老人の前に乱暴に投げだした。「単に拾った金だって? 交番に届けなきゃ横領罪だよ。なにより、わざわざ水のなかに手をいれて取りだしたんだ、盗んだという自覚はあっただろ」
しばし沈黙があった。朋李はじれったく感じた。こんなところで時間を無駄に費やしている場合ではない。
「刑事さん」朋李は遠慮からにささやきかけた。「どうしてもご相談したいことが」
「待ってくださいって」葉山はうざそうに吐き捨てると、老人を睨みつけた。「寺とか神社から金を盗むなんて最低だろ。バチがあたると思わないのか」
老人は当惑を深めたようすだった。「寺や神社って......。そんなところからお金を盗るわけないでしょう」
「とぼけんなよ」と葉山は語気を荒らげた。「あんたが持ってた、これらの十円玉を見ろ。ぜんぶ濡れてたばかりか、真っ黒に錆びてる。ずっと水に浸かってたからだ。神社ってのは手水舎とか池とか、水のあるところに小銭を投げこまれる。飯田橋界隈は寺や神社だらけだ。知らぬ存ぜぬでは通用しないぞ」
「だから私は......そんなことしませんって」
葉山はため息をついて、雲津に目を向けた。「このおじいさんが確保された場所は?」
「白銀町近辺ときいてます」
「なら筑土八幡神社か赤城神社、本光山清隆寺、安養寺あたりだ。電話をかけて確認してもらえ」
莉子が口をはさんだ。「すみません。警部補さん」
「なんですか、取り調べ中だといってるでしょう。勝手に近づかないでください。公務執行妨害になりますよ。また常識知らずな若者がふたり揃って来るとはね。与太話はまた暇なときにじっくりうかがうので、きょうはお引き取りを......」
表情を険しくした莉子が、ひときわ甲高い声で遮った。「常識知らずはそっちでしょう! 話をきかなきゃ職務不履行になりますよ」
フロアの空気がぴんと張り詰める。周囲の全員がこちらを注視した。
葉山も雲津も凍りついている。老人までもがすくみあがっていた。
朋李も動揺を禁じえなかった。「凜田さん......」
だが莉子はいっこうに動じないようすで、葉山に向かって告げた。「なぜ神社やお寺から盗んだと決めつけるんですか。おかげで、このおじいさんは自白したくてもできない状況に追いこまれているでしょう。わからないんですか、知能犯捜査係のくせに」
「くせに......だって?」葉山の顔面は紅潮しだした。「きみね、状況も把握せずに大人を侮辱するもんじゃないよ、こっちは仕事をしているんだ。いいから下の受付に行って、相談でもなんでもしていれば......」
「神社の手水舎や池から拾ったなら、どうして十円硬貨ばかりなんですか」
葉山は一瞬、言葉に詰まった。
「そ、それは」葉山はいった。「一円や五円は拾ってもたいして得にならないから......」
「硬貨を盗むために人目を避けて水のなかをさらうのなら、選別している場合じゃないでしょう。それに、五十円や百円硬貨は一枚も落ちてなかったんですか? 論理的に考えてください。おじいさんがこれらを拾った場所には十円玉しかなかったんですよ。銅貨だけがずっと水に浸けてあったのなら、それはボウフラの発生を防ぐための対策です」
「ボウフラ......だって?」
「狭く入り組んだ路地の排水溝だとか。水のたまりやすい場所に見られる地域住民の工夫です。白銀町周辺なら、りそな銀行神楽坂支店裏のアパート梓荘、東京都教育庁神楽坂庁舎隣りの井伊山ハイツ前の路地で見ました。場合によっては本当に水たまりのなかに落ちているだけに見えるから、おじいさんは窃盗の自覚なく拾っただけと考えている可能性もあります、取り調べは市民の声に耳を傾けるべきです。決めつけて断罪してばかりでは公務員失格です」
葉山は顔を真っ赤にして、跳ね起きるようにして立ちあがった。「侮辱もいい加減にしろ! きみこそ何もかもわかったような口ぶりで......」
そのとき、いつしか電話にでていた雲津が、受話器を手で押さえながらいった。「葉山さん......。井伊山ハイツの管理人さんから通報が入ってます。水たまりに入れておいた十円玉が根こそぎ消えたとか」
時間が静止したかのようだった。朋李には、目に映るすべてがスチル写真のごとく思えた。
周囲の刑事たちの目つきが冷やかさを増し、視線がいっせいに葉山に突き剌さる。
葉山は顔をこわばらせ、ロボットのようにぎくしゃくとした足どりで雲津のもとに赴いた。受話器を受け取り、ぼそぼそと応じる。「はい......。わかりました。ええ......。それは、そちらで......。どうも。では......」
受話器が戻された後も、フロアはまだ静寂に包まれていた。それでも葉山が困惑顔でたたずむうちに、ざわめきが戻りだした。刑事たちは各々の仕事に従事しはじめている。
どこかほっとしたようすの葉山だったが、なおも硬い顔で莉子を一瞥し、ため息まじりにいった。「凜田......莉子さん、ね。ノートは拝見しましたよ。有機、無機の二段階思考。セオリーどおりですが、よくできた勉強法だと思います」
朋李は莉子にささやいた。「ノート、前に見せたから」
莉子はその件については、さして関心がなさそうだった。「論理を好まれるのでしたら、話をきくべきと判断されると思いますけど」
すっかりやりこめられてしまったせいか、葉山は苦りきった顔で吐き捨てた。「まわりくどい言い方はよしてください。ご用件は?」
「こちらの笹宮朋李さんが前に相談したことのつづきです。失踪した神条弁護士は雁堵建設の絹尾という人とつながりがあります」
またしても刑事部屋は、水をうったように静まりかえった。
葉山は真顔できいてきた。「雁堵建設......絹尾ですって?」
「はい」莉子はプリントアウトした紙片を取りだしていった。「ネットで検索してすぐ、何者かわかりました。警察では有名人なんですね。雁堵建設は指定暴力団、璽北会が隠れ蓑にしてる会社のひとつ。そして絹尾甚慈。過去に二度服役している璽北会の幹部です」
刑事課のつづきのドアの向こう、小会議室に案内された朋李は、莉子と並んで椅子に腰かけた。不相応に大きな円卓の向こう側、葉山のほかにもうひとり、パンチパーマ頭に口髭という、見るからにヤクザっぽい男が同席した。稲賀と名乗るその人物は組織犯罪対策係、階級は葉山と同じ警部補だという。
暴力団担当はどこもコワモテ揃いで、警視庁になるとまさしく幹部クラスの風格だと稲賀は笑ったが、朋李の関心は別のところにあった。これがパンチパーマか......。やはりアイロンパーマとは全然違う。いちど自分の手で試してみたかったが、レティシアの客層にはまるで相容れない人種の髪型だった。
莉子のほうは当然ながら、出会った人物の頭髪を気にかける習慣はないらしい。すでに熱心に話しこんでいる。「これもネットで検索して得た情報ですけど......。今月の二十二日、横浜大桟橋を出航するのはフランス船籍の豪華客船アレクサンドリーヌ号です。世界半周クルーズを終えて、新たに日本人向けに横浜から香港までのクルージングがおこなわれます。神条弁護士がユニクロ加工を発注した金属部品は、その航海に間に合うよう発送された可能性が高いんです」
稲賀は、苦い顔のまま黙りこむ葉山に比べて、ずっと捜査には前向きのようだった。
「その金属部品ですが、どんな物かわかりますか?」
「さあ......。配送資料をちらっと見ただけなので。梱包のサイズが幅六十センチ、奥行三十センチ、高さ四十センチということしかわかりません。警察のほうで大久保鍍金工場を調べてもらえれば、すぐに判明すると思いますけど」
ふたりの警部補は互いに探るような目を向けあった。
やがて葉山が咳ばらいとともにいった。「問い合わせることはできます。ただし強制ではないので、向こうが情報の提供を拒んだらそれまでです」
朋李は心外だと感じた。「どうしてですか? 裁判所から逃亡した神条が暴力団とつるんでるんですよ」
「うーん」稲賀は唸ると、ためらいがちに告げてきた。「申しわけないが所轄も違うし......あなたの母親の会社で雇っていた、その神条という弁護士の行方を中心に捜査することは、現時点では難しいでしょう。民事裁判の最高裁判決を警察のほうで覆そうと動きだすほどの、有力な物証があるわけではないし」
苛立ちと落胆が同時に襲う。朋李は黙りこんだ。有力な物証だなんて......。そんなものがあれば、惨めな判決など受け取るはずもなかった。
莉子が硬い顔で稲賀にきいた。「なら、この件は野放しのままですか」
「そういうわけじゃありません」と稲賀はいった。「広域指定暴力団であるところの璽北会に対しては、警視庁組織犯罪対策部も常に目を光らせてます。いわゆるマル暴ってやつですが、うかがった話はすべてそこに伝えます」
「以後のことはマル暴の人たちしだい......ってことですか」
葉山が真顔で身を乗りだした。「凜田さん。璽北会がでてきたとなると、もう私たちの手に負える規模ではないんです。組織の正式名称は七代目璽北会、組長ひとりに九人の弟分、三十三人の子分、絹尾という男もこの子分に含まれます。弟分と子分は直参、つまり直系組長というやつで、それぞれが数百人規模の構成員を抱える璽北会傘下の組の頭です。璽北会のおもな資金源はコロンビア産エメラルドの不正ルートにおける販売、すなわち国際犯罪なんです」
「エメラルド......?」
稲賀は手もとの資料をめくった。「コロンビアの首都ボゴタの東百キロ地点、そこから北西にエメラルド鉱脈が延びてます。ここで採れるエメラルドは含有物が少なく、サイズも大きくて綺麗だそうで、非常に高値がつきます」
「璽北会がそれを買いつけてるんですか?」
「昔からね。コロンビアのムソー地区の鉱山には、鉱夫にまぎれて大量の盗掘者が存在します。彼らがかすめ取った原石のうち、質の悪い物はボゴタのヒメ・ネス通りの闇市に流れますが、良い物はほとんど璽北会が買い占めてるんです」
「わかっているのなら逮捕すればいいと思いますけど」
「ことはそう簡単じゃないんですよ。日本はほかの国と違い、原石やルーズの輸入関税はかかりません。だから他国なら密輸して税逃れするところを、日本では堂々と合法的に輸入できる。もっともその後は、市場のルールに従って販売しなきゃいけません。しかし璽北会はエメラルドを欲しがる世界じゅうの富豪の求めに応じ、パナマ、スイス、ベルギー、香港、イスラエルなどのタックス・ヘイヴンに裏ルートで流し、莫大な富を得ているんです」
「......香港も含まれているわけですか。今回のアレクサンドリーヌ号の目的地ですね」
「ええ」と稲賀はうなずいた。「豪華客船というのは、宝石の闇取引に絶好の舞台です。璽北会はなんらかの方法で大量のエメラルドを船内に持ちこみ、クルージング中にクライアントたちと取り引きする可能性があります」
「神条弁護士が提供した金属部品というのは......」
「エメラルドの密輸出と関係があるかもしれません。出航前には当然、積み荷の税関検査がありますから、それを逃れて持ちこむための策略が着々と進行しているとも考えられます。もうおわかりでしょう? 神条という男ひとりの問題ではない。むしろ、神条は璽北会のメンバーにすぎなかったのかもしれない。ここから先はマル暴の領域です。私たち所轄や、あなたがた一般市民のでる幕ではない」
朋李は不服に感じた。「でも......」
稲賀は片手をあげて制してきた。「いいですか。くれぐれもいっておきます。これ以上、神条を追わないでください。危険です。どんな目に遭うかわかりませんよ」
莉子は東西線の神楽坂駅までの夜道を、陰鬱な気分で歩いた。わざわざ署まで相談に出向いたのに、なんの成果もあがらなかった。
並んで歩く朋李が、浮かない顔できいてきた。「凜田さん。エメラルドについて詳しい?」
「ええと」莉子は思いつくままを口にした。「緑いろの結晶で、紀元前一六五〇年にエジプトの砂のなかから発見されたのが最初で......。クレオパトラが愛した石で、古代ギリシャやローマではヴィーナスに捧げる石として重宝されて、中世ヨーロッパでは夫婦愛の象徴」
「......ほかには?」
「五月の誕生石。それぐらいかな」
はぁ、と朋李がため息をついた。
その横顔を眺めながら、莉子はおずおずといった。「ごめんなさい......」
「いいんだよ。僕には全然知識がないし。けど、悔しいね。神条が根っからの悪党だと判明したのに、何もできないなんて」
「そうね......」
「神条はアレクサンドリーヌ号に乗りこむつもりかな?」
莉子はうなずいてみせた。「可能性は否定できないと思う。出国のチャンスだしね。パスポートが必要になるから偽名は使えないけど、指名手配されてもいないし令状で強制捜査されるわけでもないから、難なく乗りこめるし。璽北会の人たちが大勢乗るだろうから、身も守ってもらえるし」
「豪華客船か......」
ふたりは無言のまま歩きつづけた。
朋李が何を考えているが、手にとるようにわかる、わたしも同じ思いだからだ。もしその客船に乗りこむことができたら。けれども、自営業を始めたばかりの二十歳には敷居が高そうだった。二十一歳の美容師にとっても同様だろう。
神楽坂駅に下る階段が見えてきたとき、朋李が足をとめた。
彼の視線の先には、明るい光に包まれた美容室があった。レティシア神楽坂店。営業中のようだった。女性客がふたりいるのがわかる、美容師は談笑しながらヘアドライヤーでセットを試みていた。
やがて朋李が、ぼそりとつぶやいた。「知らない人たちだ......。従業員もお客さんも」
「新しい経営体制に変わったのね......」
「結局、神条はレティシアをどこかに売り飛ばして、その金を独占したんだな。利益もヤクザの上納金に消えたかもしれないけど......。璽北会にせっせと貢ぐハイエナでしかなかったんだ」
神条が三十年もの歳月をかけて、当初は成長株かどうかわからなかったはずのレティシアのみを標的にしていたとは思えない。おそらく神条は、あちこちの会社の顧問弁護士を掛け持ちして、随時同じ手口で会社を他者に乗っ取らせて報酬を得ているのだろう。
忌まわしい詐欺ばかりが横行する歪んだ社会......。わたしはこんな世界に生きていたのか。
朋李がつぶやくようにいった。「凜田さん。きょうはいろいろありがとう」
「わたし......なんの役にも立ててない」
「そんなことないよ」朋李は力なく微笑した。「気にしないで。凜田さんの頭の良さに触れて、僕も頑張ろうって意欲が湧いてきたから。それと、サロンで働きだしたら連絡するよ。約束どおり無料でサービスさせてもらうからね。じゃ、そのときまた」
あ......。莉子は呼びとめようとしたが、声がでなかった。
制止したところでどうにもならない、そう感じていたからかもしれない。朋李はいちども振り向かず、地下への階段に消えていった。
寂しさとせつなさが胸を締めつける。莉子はかろうじて涙を堪えた。泣きたい気持ちは、彼のほうがずっと大きいに違いない。それでも彼は涙をみせなかった。わたしひとりが悲しみの感情を甘受するわけにはいかない。
莉子は歩きだした。きっと何か方法がある。負けてばかりはいられない。運命は自分の手で切り開かねば。
チケット代
夜九時すぎ、莉子は吉祥寺駅から都道七号沿いに歩き、チープグッズ本店の前まで来た。
まだ明かりは点いているが、エントランスは閉まっている。営業時間を過ぎていることは承知していた。わたしはきょう、チープグッズに来たのではない。
その隣りにある、真新しい小さな店舗。消費者金融の自動契約機を眺めた。
似たような機械は飯田橋界隈でも見かけたが、人通りが多くて入るのに勇気がいる、ここなら、チープグッズの閉店後はひとけがなくなるのを知っていた。
わざわざ足を運んだはいいが、いざ入店となるとやはり抵抗がある。
何十万円かお金を借りられる......はずだ。操作方法はまだ知らない。それより、わたしに貸してくれるだろうか。運転免許証もパスポートも持っていないし、会社員ではないから社会保険証もない。いちおう国民健康保険証と印鑑、通帳あたりを揃えてきたが、だいじょうぶだろうか。
いくら借りればいいだろう......。莉子は手にしたパンフレットに目を落とした。
旅行会社の予約センター前にあったラックから引き抜いてきたものだった。豪華客船アレクサンドリーヌ号でいく横浜から香港の旅。ツアー申し込みの欄には終了の印が捺してあって、残るは個人でチケットをとる道しかない。でも、さすがにフランス船籍。三等客室でもずいぶん高い......。
戸惑いながらたたずんでいると、ふいに耳慣れた男性の声が呼びかけてきた。「凜田さん?」
びくっとして顔をあげる。まだ従業員用のエプロンを身につけたままの瀬戸内陸が、あんぐりと口を開けながら近づいてきた。
「どうしたんだ?」と瀬戸内はたずねた。「店のほう、ずっと閉めっぱなしにしてたろ? メールもけさになってようやく返事をくれたし」
「あ......。すみませんでした。ちょっと体調を崩してたので」
「体調? 出歩いても平気なのかい?」
「ええ、もうだいじょうぶです。きょうはいろいろと......人につきあって動いていただけです」
「ほう。きみのことだから、誰かの力になってあげていたのかな。どんな鑑定依頼だった?」
「いえ、それが......。お客さんというわけではなくて......」
瀬戸内の視線が莉子の手もとに向いた。
莉子は呆然としていたが、次の瞬間、はっとしてパンフを後ろにまわした。「こ、これはなんでもなくて」
だが瀬戸内は、妙な気配を感じとったらしい。莉子がなぜチープグッズのエントランスから、わずかに外れた場所に立っているのか、うすうす気づきだしているようだった。
自動契約機を眺めてから、瀬戸内は神妙な顔で莉子に向き直った。「凜田さん。まさか金を......」
「し......失礼します」莉子は身を翻して駆けだした。
凜田さん。背に瀬戸内の声をきく。だが、立ちどまるわけにはいかなかった。莉子は全力でその場から走って逃げた。
事情を知ったら、瀬戸内店長はきっと金を工面してくれようとするに違いない。でも、そんな厚意に甘んじるわけにはいかない。楓がいつも愚痴をこぼしているように、チープグッズの経営状態は芳しくない。わたしを独立させるだけでも、かなり無理をしたはずだ。このうえ店長の親切心を頼りにするなんて......。絶対に無理。
息を弾ませながら、莉子は途方に暮れていた。エメラルド、広域指定暴力団、豪華客船。あまりに常軌を逸している。わたしはこのまま手も足もだせずに、笹宮親子が不幸に堕ちるのを見るしかないのか。無力すぎる。
決意
笹宮親子の住む家は、世田谷の閑静な住宅街にある4LDKだった。母子家庭には贅沢すぎるほどの豪邸だったが、いまは一階のひと部屋とリビングしか使用を許されていない。そのほかの部屋は家財とともに差し押さえの対象になっているからだった。ゆくゆくは家全体が借金のカタにとられる。裁判に負けた結果、失ったものは会社と店だけではない。
夜遅くに帰宅した朋李は、まだ明かりが点いているリビングに向かった。
手にしているのは、アレクサンドリーヌ号の香港クルーズのパンフだった。日々の生活に貯金を使い果たしてしまったいま、母親に相談するしかない......。
半開きになったドアからリビングを覗く。母の麻莉亜はソファではなく、ダイニングテーブルに向かっていた。
ずいぶんやつれたな、と朋李は母の横顔について思った。麻莉亜が目を落としているのは、ずっとリビングに飾ってあった額入りの写真だった。父も含め三人で撮った、朋李が幼かったころの写真......。
朋李は困惑を深めた。いまは声をかけるべきではないだろう。
そう思ってドアを離れたそのとき、リビングから麻莉亜の呼ぶ声がした。「朋李」
いっそう辛い気分になる。見つかりたくはなかった。朋李はリビングにとって返した。「母さん」
「おかえり」麻莉亜は微笑を浮かべた。「遅かったのね」
「......ああ」朋李は母にゆっくりと歩み寄った。「まだ起きてたの?」
「寝つけなくてね。......それ、何?」
母の目はパンフに向けられていた。朋李は戸惑ったが、いまさら誤魔化すようなことでもない。「香港行きの豪華客船。神条が乗るかもしれない」
「え?」麻莉亜は驚きのいろを浮かべた。「なぜわかるの? そんなこと」
「きょう一日、凜田莉子さんについてまわってね」
「凜田さん......。そうなの」麻莉亜はため息まじりにつぶやいた。「彼女が推測したのなら、当たってる可能性もあるわね。裁判でもいいところまでいったんだし。もうちょっと早く知り合えていれば、結果も違っていたかも......」
「やめようよ」朋李は静かにいった。「過去を振り返るのは、もうよそう。今後に目を向けようよ。牛込署に行って、例の葉山って刑事さんとまた会ってきたんだけど......。神条が乗船する確率がそれなりに高いとわかっても、やっぱり動いてくれないみたいだった」
朋李は、神条が璽北会と絡んでいたことについて明かさなかった。エメラルドの密輸出に関しても同様だった。母を動揺させたくはない。
麻莉亜はきいてきた。「で、朋李はその船に乗りこむ気?」
「......できればね。神条と話をつけたくて」
「見せて」麻莉亜は手を差し伸べてきた。朋李が渡したパンフを開くと、麻莉亜はしばし読みふけった。「三等客室でも十八万円......。超高級クラスなのね」
「やっぱり......無理だよね。いまは暮らしていくのがやっとだし」
しばらくのあいだ麻莉亜は、ぼんやりとした目でパンフを眺めていたが、やがてそれを閉じてテーブルの上に押しやった。「どうしてあきらめるの?」
「え?」
「わたしたちからすべてを奪った男を追いかけるんでしょ。なんとかしてお金を工面するだけの価値はあるわ」
「母さん......。でも......」
麻莉亜は、ふうとため息をついた。「わたしも一緒に行きたいけど、ふたりぶんはさすがに難しいから......。朋李、ひとりでだいじょうぶ? 危ない目に遭ったりしない?」
パンチパーマの稲賀の顔が脳裏をかすめる。彼も凄味があったが、本物のヤクザはあんなものではないだろう。
それでも朋李は努めて、緊張を表情にだすまいとした。「平気だよ。男どうし、面と向かって交渉してくるだけだから」
「......男どうし、か。成長したのね」麻莉亜は微笑すると、その長い髪を撫でた。「ねえ、よければ毛先を揃えてくれない?」
「いま? かまわないけど......」
「美容師としても大人になったところを見せてくれなきゃね。それが船のチケット代をだしてあげる唯一の条件」
朋李は面食らったが、母の意図を察して思わず微笑みかえした。
母は僕に自信をつけさせようとしているのだろう。家では何度も母をモデルにしてカッティングやスタイリングの練習をした。道具もある。姿見を母の前に置くだけでいい。
「わかった」朋李は静かに告げた。「全力を尽くすよ」
「お願いね」と麻莉亜はささやくようにいった。「そして、無事に帰ってきて。わたしの髪をいじれるのは、朋李しかいないんだから」
莉子は明大前のワンルームマンションでベッドに潜り、浅い眠りについていた。
ふいにゴトッと物音がして、莉子は目覚めた。まだ室内は暗い、カーテンの隙間に覘く空は、わずかに青みがかってきたていどだ。
早朝か。いまの音は、玄関の扉から響いてきたように思う。新聞はとっていないし、こんな時間にビラ撒きは変だ。なんだろう。
ベッドから起きだして、扉に歩み寄る。覗き穴から外のようすをうかがったが、広角レンズの範囲には人影はなかった。
郵便受けに目を落とす。封筒らしきものが垣間見えた。
アルミ製のフラップを開けて取りだす。少しばかりかさばる封筒だった。宛名書きはない。開けたとたん、莉子は思わずあっと声をあげた。
一万円札の束がおさまっている。その数、およそ三十枚。そして、薄手の便せんが添えてあった。
開いてみると、几帳面で丁寧な字が並んでいた。バイト時代に何度も帳簿で目にしたからわかる。瀬戸内陸の筆跡だった。
凜田莉子様
まだ若いのに、キャッシングに手をだしちゃいけないよ。
きみのことだから、いまも誰かのために役立とうとしているんだろう。遊びでクルージングに出かけたがるきみではないからね。
最低ランクの客室ぶんしか用意できなかったけれども、ぜひ役立ててほしい。帰ったら是非、道中の楽しい話をきかせてください。
追伸 香港まで行くならパスポートが必要だよ。すぐ手配してもぎりぎり間にあうかどうかだ。急いだほうがいい。
莉子はあわてて錠を外し、扉を開けた。「瀬戸内さん!」
だが、廊下は無人だった。莉子はエレベーターに走った。一階に下りてしまっている。
すぐさま莉子は階段に向かい、無我夢中で駆け下りていった。
こんな優しさを置き去りにするなんて......。ずるい。
外に飛びだすと、薄明るい空の下、往来する人の姿もない道路だけがあった。辺りを見まわしたが、瀬戸内はいなかった。
堪えていたものが一気にこみあげてくる。莉子は視界が揺らぐのを見た。ほんの数秒ののち、涙が頬をつたうのを感じる。
わたしは......なんて恵まれているのだろう。親のもとを離れ、成人したのにもかかわらず、まだ慈愛なるものが身近にある。
莉子は決意を固めた。支えてくれる人の恩義に報い、頼ってくれる人のために全力を尽くそう。立ち向かう障壁がいかに巨大かつ強固であっても、恐れずに挑もう。悩んだり、途方にくれたり、退いたりする日々を過去のものにしよう。わたしはもう、後ろ向きにはならない。前だけを見て歩く。でなければ、いま幸せに生きていられるこの瞬間に申しわけが立たない。
莉子は踵をかえし、マンションのエントランスをくぐった。
陽が昇ったら客船のチケットを申しこんで、その足でパスポートの申請に行こう。それから書店に立ち寄る。エメラルドに関する専門書をありったけ買いこもう。あと、フランス語の入門書もほしい。将来。ルーヴル美術館に見学に行くのが夢だった。いい機会だからこの際、語学の勉強も始めよう。
アレクサンドリーヌ号に神条弁護士を見つけたら、しがみついてでも逃がさない。笹宮親子の手にレティシア・チェーンを取り戻させる。最高裁判決? そんなものは知らない。小中学校の社会科の授業をまじめに受けた記憶など、これっぽっちもないのだから。
コンテナ
パスポートが発行されたのは、それから十一日後のことだった。出航まで数日の余裕を残し準備が整い、莉子はほっと胸を撫でおろした。
だがその翌朝、莉子は買ったばかりの一張羅のスーツを着て、万能鑑定士Qの店のデスクにつかねばならなかった。姿勢を正して、約束の相手が訪ねてくるのを待つ。
緊張はしていない。むしろ日が迫るにつれて、覚悟がより揺るぎないものになりつつある。莉子はいたって冷静だった。すまし顔で着席しているのは、初対面の相手に無礼がないようにと心がけてのことでしかない。
自動ドアが開いた。けれども、店に入ってきたのは約束の相手ではなかった。
清掃業者を名乗っていたその男は、いかにもうわべだけという笑顔を取り繕って告げてきた。「おひさしぶりです。覚えてますか? 開店の日にお掃除の契約をさせていただいた者です。いやー、ずっとお店を閉めておられたので、音信不通でしたよ」
莉子は立ちあがらなかった。返事もしなければ愛想笑いもしない。数か月ぶりにまともに店を開ければ、この手合いが姿をみせることは予測できていた。
椅子をすすめられてもいないのに、男は向かいのソファに腰をおろした。「さて、凜田莉子さん、でしたね。そろそろいままでのぶん、まとめてお支払いいただきたいんですけど」
「......支払いって?」と莉子はつぶやいた。
「とぼけちゃ困りますね。契約書に書いてあったでしょう? あなたがお店を開けなかったから清掃に入れなかったけれども、月々のお支払い義務は発生するんですよ」
「ああ......。あなたが後で書き加えたやつですか」
男は莉子の言葉を無視してカバンをまさぐった。「書面、私のほうも一通持ってますよ。あなたの実印が捺してあるんだから、どうにもなりませんからね。お支払いいただくまで帰りませんよ」
そのとき、自動ドアからさらなる来客が現れた。今度も見た顔だった。揃いのパーカーを着た三十代ぐらいの男たち。ひとりは太って大柄、もうひとりは痩せて背が低かった。
太ったほうは、以前にも持ちこんできた箱を抱えてきた。「おひさしぶり。あのさ、このあいだ弁償してもらった壷なんだけど」
もうひとりの痩せた男がにやつきながらいった。「俺たち、値段を間違えててさ。六万八千円っていったけど、ほんとは十万円だったんだ。粉々に砕けてて、修理も不可能っていわれたしさ。で、不足分をもらおうかと思って」
ふたりはずうずうしくも、清掃業者の男の隣りに揃って腰を下ろした。
莉子はただ無言で三人を眺めていた。
なるほど、瀬戸内店長が指摘したように両者はグルなのだろう。いちどカモにできたら何度でもつきまとう。それが詐欺師の習性らしかった。
莉子は静かに告げた。「申しわけないですけど、けさは先約がありますので」
「......先約?」清掃業者はじろりと睨んできた。「馬鹿いっちゃ困るな。こっちはそれ以前の契約について来てるんだよ」
壷を持ちこんだ男たちも身を乗りだした。太った男が口を尖らせる。「俺らも、だいぶ前にあんたが壊した壺の弁償を求めてるんだけど。なんか、こっちの人ともモメているのかい? どっちからでもいいから払ってくれねえと困るな」
知り合いでないとほのめかしている。芝居がまだ通じていると思っているのだろう。莉子はいった。「三人とも仲がいいみたいですね。揃って現れて他人を装うのは無理があると思うんですけど」
男たちは一様に表情を凍りつかせた。
「なんだって?」清掃業者が声高にきいてきた。「私らが知り合いだってのか」
「ええ」と莉子はあっさりとうなずいてみせた。「江東区を生活の拠点にしてて、けさも一緒に森下駅からお越しでしょう」
二人は衝撃を受けたらしく、驚きのいろが表情にはっきりと浮かびあがった。
「な」太った男が唇をわなわなと震わせながらきいた。「なんでそんな話......」
「そのパーカーと清掃業者さんのカバンと靴、いずれもダイエー大島店一階のタイムセールで同時期に販売してた中国製です。大江戸線の飯田橋方面出口改札はけさ床下の水道管が破断して修復作業中。三人ともズボンの裾が泥水に浸かった痕があります」
愕然とした面持ちの三人は互いに顔を見合わせ、足もとに目をやり、それからまた莉子を見つめた。
清掃業者は食ってかかってきた。「ば、馬鹿いうな。口からでまかせを......。誰に入れ知恵されたか知らねえが、そんな言いがかりで俺らを遠ざけれるとでも......」
表にクルマが停車する音がした。ガラス越しに、黒塗りのセダンが店に横付けしたのがわかる。
降り立った男たちが自動ドアからぞろぞろと入ってくる。莉子は立ちあがった。
先頭は貫禄のある体格で、中年というより初老に近いが恐ろしく威厳のある、まさに極道を絵に描いたような人物だった。帽子をとるとスキンヘッドだとわかる。薄いいろのサングラスを外して胸ポケットにいれた。目はやや垂れ気味だが口が鰐のように大きく、顎が割れている。どう見てもヤクザの大親分だった。スーツがやけに上質なのもカタギっぽくない。
彼に舎弟のようにつづくのは、剃り込みをいれたリーゼント頭の中年男だった。眉毛が薄く、頬はこけてやはり凄味のある顔つきをしている。この男も高そうなスーツ姿だった。
あとのふたりは、莉子にとってすでに顔馴染みだった。牛込署の稲賀のパンチパーマは、さきのふたりに比べればおとなしく見える。たしかに彼のいったように、警視庁のマル暴は幹部クラスの風格だ。
なんにせよ最後のひとり、葉山がずいぶんまともな人間に思えた。もっとも、葉山はあきらかにふてくされている。付き添いに格下げになったうえに、莉子の店まで出向くという屈辱を背負ったからだろう。
葉山は不満を隠そうともせず、愚痴っぽくつぶやいた。「万能鑑定ねぇ。このお店か。ふうん......。多種多様な専門家が何十人も詰めてるのかと思って足を運びましたが......。見たところ、彼女の個人経営ですか。うちの鑑識要員のほうがはるかにましですよ。わざわざ出向くこともなかったですな」
だが同行したほかの男たちは無反応のままだった。とりわけスキンヘッドがたしなめるように咳払いをすると、葉山は表情を凍りつかせて押し黙った。
ソファに座った三人の詐欺師のほうも、強烈なコワモテたちに囲まれてすくみあがっていた。何が始まったのかと目を自黒させている。
その背後に立ったスキンヘッドが、しわがれた声でいった。「警視庁組織犯罪対策第二課、第三捜査係の祇園奨悟警部です。彼は第十四捜査係の橘警部補」
リーゼントがにこりともせず頭をさげた。「橘です」
祇園は莉子を見つめてきた。「牛込署の稲賀君から事情はおききしてます。凜田莉子先生。朝早くからお時間をいただいて感謝してますよ」
「いえ......。こちらこそ」
大親分のごとき祇園の視線がソファに向けられた。「接客中だったかな」
「そうでもありません」と莉子はいった。「いまお帰りになるところです」
「は」清掃業者が真っ先に跳ね起きた。「はい、その通りです! なんでここに来たのかな......ちょっと立ち寄っただけだったと思います。なんにせよ、失礼しました」
脱兎のごとく逃げだした清掃業者を追うように、パーカー姿のふたりもあわてたようすで腰を浮かせた。太った男がこわばった笑いを浮かべていう。「つ、壷のほうですけど。思いだしました。そんなに高くなかったです。あのう、いただいた六万八千円もお返ししますから。封筒にいれて自動ドアにはさんでおきます。俺らのことは忘れてください。じゃ、これで......」
三人は外に駆けだしていき、あっという間に遠ざかって見えなくなった。
祇園は表情ひとつ変えずに、橘とともにソファに腰をおろした。稲賀と葉山はその後ろに立った。
「凜田先生」祇園は脚を組んだ。「まずおたずねしたいことがありましてね。アレクサンドリーヌ号の三等客室のチケットをおとりになった理由は?」
「......ご存じだったんですか」
「うちの天敵、璽北会の連中が大勢乗りこむと判明してる船ですからね。チケット代理店の販売状況も欠かさず内偵してます」
「わかってることはぜんぶ、稲賀さんにお伝えしましたけど」
「うかがっております。おかげで、璽北会の絹尾が雁堵建設の名義で業務用コンテナを一個、船底の貨物室に運びこむ手筈なのも突き止めまして」
「コンテナ......」
「トレーラーの背に載せて運んでタンカーに積むあれですよ。申請によれば重量も二トン。しかも船舶会社に賄賂を送って、航行中も貨物室に出入りできるように準備してる。これが何を意味してるのかわかりますか」
「密輸出するエメラルドはそのなかに......」
「そうです。カット済みか原石か知らないが、大量のエメラルドの在庫を持ちこんで、クルージングの最中に取りだしてはクライアントに販売する気でしょう。乗客名簿には、国内外の胡散臭い買い手の名前がこれまたずらりと並んでる。私らから見れば。宝石密輸に絡むオールスター勢ぞろいって感じでね」
「どうやって税関検査を逃れるつもりでしょう?」
「璽北会はその道のプロですから、監視および法の網をかいくぐってコンテナひとつ積ませるぐらいわけないでしょう。弁護士さんを仲間に引きこんでるぐらいですからね。その神条が調達した金属部品ってのも、コンテナの中身の偽装に使われるんだと思います。横浜での出航時さえ切り抜ければ、香港に着くころにはエメラルドはぜんぶ買い手たちに売却された後だし、それぞれ乗客の手荷物として陸にあがるだけです。その時点では問題視されんでしょう」
「なら、阻止できるのは出航前だけですね」
橘が咳ばらいをした。「そこなんですけどね。われわれとしては、コンテナの積みこみを妨害したりせずに、奴らの目論見どおりに出航させようと」
祇園はうなずきながら脚を組みかえた。「泳がせて売買の現場を押さえ、璽北会の連中を一網打尽にする寸法です。船の上なんで逃げ場もないし、捕り物には好都合ですよ」
莉子は祇園を見つめた。「ということは、警察の人たちも乗りこむわけですか」
「私や橘、それに組織犯罪対策部の二課から五課までの全捜査係、特別捜査隊の各班など百名以上がチケットを押さえてましてね。璽北会のほうも、買い手どもと合わせてそれぐらい乗るから、こっちも頭数で負けちゃいられねえってことで。本当は三百人でも四百人でも乗せたいんだが、あいにく直前の駆けこみなのでチケットがなかなかとれす、いろんなところに声をかけて譲ってもらってるわけです」
アレクサンドリーヌ号の乗客員数は七百人とパンフにあった。うち二百人が見るからにヤクザっぽい男たちになるわけか......。事情を知らない一般乗客にとっては気の毒な船旅になりそうだった。
祇園はスキンヘッドのてっぺんを掻きながらいった。「相談なんですけどね。凜田先生のチケットも、こっちに譲っちゃくれませんか。うちとしちゃ捜査員をひとりでも多く乗せたいし、民間人はひとりでも少ないほうがありがたいんでね」
莉子は応じる気はなかった。「香港へのクルージングを楽しもうとしてるだけです。ただの個人旅行ですけど」
葉山がうんざりした顔で告げてきた。「凜田さん。あなたね、そんな見え透いた嘘を......」
すると祇園が遮った。「凜田先生どんなに危険なシチュエーションか、まだご理解いただけてないみたいですな。璽北会は最近、資金繰りに行き詰っていて、エメラルドの新たな販売方法を模索していた矢先なんです。そこへきてこのクルージングでしょう。奴らにとって成功となれば、今後もさかんに活用できるドル箱ツアーになるに違いないんです。私らが乗りこめば、奴らは必死で妨害してくるでしょう。むろん表だって暴力行為に及んだりはしないでしょうが、こっちも令状はないから自由に捜査できるってわけじゃねえんです。マル暴と広域指定暴力団が火花を散らし合う最前線なんでね。乱暴な言葉で申しわけないが、素人さんは引っこんでてくれたほうが私らとしても有難いんですがね。ぶっちゃけ、なんのために乗ろうとしてるんですか」
「香港の女人街で肌に合うスキンケア用品を探したくて」
「飛行機で行けばいいでしょう。早いし安いですよ」
「潮風にあたりたかったんです。フランスの豪華客船って素敵だし」
じれったそうに葉山がいった。「しらばっくれないでください。凜田......先生。お友達になった美容師親子のためとはいえ、どうしてそこまで無茶をする必要があるんです」
「わたしは」と莉子はつぶやいた。「船に乗るだけです」
室内は静寂に包まれた。沈黙のなか、互いの視線が交錯しあった。
祇園の声のトーンが低くなった。「凜田先生。会話のはぐらかし方が詐欺師っぽいですな。その種の人間の手ほどきを受けてるんじゃないでしょうな」
「まさか。そんな知り合いはいません」
ふうん、と祇園は煮え切らない態度をみせたが、やがてさばさばとした口調に転じた。
「じゃ、仕方ないですな。残念ながら、旅行の自由を奪う権限は私らにもないんでね。ただ、もうひとつだけ勧告させてください。アレクサンドリーヌ号にお乗りになるご予定は、できるだけ伏せておいたほうがいいでしょう。ご友人やご家族にも内緒にしてください。どこから情報が漏れるかわかりません。璽北会に睨まれないためにも。事前に宣伝しないことです」
「......心得ました。ご親切にどうも」
「では」祇園はゆっくりと腰を浮かせた。「お邪魔しました、凜田先生。気をつけてくださいよ。璽北会相手に、はぐらかしたりしらばっくれたりの児戯は通じませんから」
自動ドアに最も近い葉山が先に外にでた。それから稲賀、橘が店を去る。最後に祇園が戸口に向かおうとして、その足がとまった。
祇園は莉子を振りかえった。「ああそうだ、ご友人の美容師さん......笹宮朋李君ね。彼もあなたと同じく、三等客室のシングルをとってる。おふたりともご旅行の意図がなんであれ、捜査を妨げないよう願いますよ。璽北会にちょっかいをだすのは自殺行為だと申しあげておきます」
スキンヘッドの頭に帽子をかぶり、軽く一礼をすると、祇園も店の外にでていった。
莉子はおじぎをかえしながら、心拍が速まるのを感じていた。
彼も乗船するのか、危険に身を晒すのはわたしひとりでいいのに......。
無謀なる航海
二十二日、午後三時すぎ。莉子は横浜みなとみらいでバスに乗った。〝大さん橋〟のバス停で降りて山下公園とは逆方向に歩いてすぐ、十字路の先に、半ば唐突にその巨大な船体が出現した。
横浜港大桟橋、国際客船ターミナルは一階に駐車場、屋上に芝生の広場を備えたプラットフォームで、クイーン・エリザペスⅡ級の大型客船が左右に着岸できる規模を持つ。その向かって左側、赤レンガ倉庫とのあいだに、アレクサンドリーヌ号は停泊していた。
見あげんばかりのそのフォルムは、側面から見るとマンションのようだった。サイズは日本の飛鳥Ⅱとほぼ同じ、五万トンで全長二百四十メートル。全幅三十二メートル、喫水七・五メートル。客室数は五百にのぼるという。
水に浮いているとは信じがたいほどのスケール、間近に見ても建築物にしか思えない。高速フェリーに乗ったことがあるだけの莉子にしてみれば、想像を絶する船だった。
驚いてばかりもいられない。莉子はターミナルに向かい自動ドアを入った。グレーのカーペットを踏みしめながら、妙に幅の広いスロープをのぼっていくと、広大なロビーフロアにでる。
アーチ形の天井を備えた、柱が一本もないその空間には、板張りの床の上に待合の椅子がずらりと並んでいる。壁ぎわに受付カウンターが軒を連ねているあたりも、空港の出発ロビーにうりふたつだった。ここが海外への玄関口であると思えば当然だろう。辺りは乗船を待つ客たちでごったがえしている。
問題は、その客層だった。なるほど......。たしかにガラが悪い。
旅行用トランクをひきずる乗客たちの三分の一ほどは、五分刈りか剃り込み、パンチパーマのオンパレードだった。浅黒い年齢不詳のいかつい顔が、いたるところで周囲の一般客を威嚇する。すでに小競り合いにも似たいざこざが生じているらしい。男たちの群れがぶつかりあっては大声で喚き散らす。なんじゃこら。
少なくとも、怒鳴っているほうは警察ではないのだろう。しかし、マル暴はこの殺伐とした光景に溶けこんでいるのか、彼らの不倶戴天の敵であるところの暴力団員とさっぱり区別がつかない。
ヤクザと呼ばれる人々のもうひとつの特徴は、やたらと見つめてくることだった。莉子がトランクを転がしながら歩を進めると、前方に群がっていたコワモテの集団がいっせいにこちらを凝視する。向こうから視線を逸らすことは絶対にない。かといって、話しかけてくるわけでも、ちょっかいをだしてくる素振りもない。ただひたすらにこちらを見やる。しかも厄介なことに、その数はどんどん増えてくる。チンピラっぽい若い衆がほとんどだった。眉のない、げっそりと痩せこげた頬の男たちが、口を半開きにしながらガン見する。
莉子は居心地の悪さと恐怖を覚えつつ歩いていたが、男たちはこちらを睨むだけでなく、立ちどまって動かなくなる。やがて行く手はチンピラの群れに遮られ、進めなくなった。
なおも視線による攻撃はつづく。莉子は困惑してたたずんだ。「あ、あのう......。どいてくれませんか。カウンターに行きたいんで」
男たちはじろじろ見つめてくるばかりだった。莉子が弱り果ててうつむくと、チンピラのひとりが近づいてきて、下から顔を見あげてきた。
わざわざ目線を合わせてこなくてもいいのに......。びくつきながら戸惑いを覚えたそのとき、いきなり誰かが腕をつかんで引っ張った。
ヤクザ服ではなくモード系ファッション。助けに入ったのは朋李だった。朋李は莉子をかばうようにして、チンピラたちと向かい合った。「やめろよ。女の子ひとりにみっともない」
「なんだぁ?」剃りこみをいれた、ぎょろ目の男が朋李に顔を近づけた。「言いかがりつけようってのか。兄ちゃん、なよっとしているわりには度胸あんな」
朋李のほうも退くようすはなく、男を睨みかえした。ふたりのあいだに対立の火花が散る。息苦しくなるような緊張がつづくこと数秒、ふいに人垣が割れた。猛獣の接近を予感した動物たちが逃げ惑うがごとく、チンピラたちはそそくさと左右に避けて何者かに道を譲った。
現れたのは、マル暴の祇園と橘だった。とりわけ、スキンヘッドに帽子をかぶり、両手をポケットに突っこんだ祇園の姿は迫力満点で、警部というより組長の肩書がしっくりくるほどの存在感を放っていた。
さすがの貫禄......。素行の悪い男たちも苦々しい顔で身を小さくするばかりだ。
祇園は歩み寄ってくると、笑顔ひとつ見せずにしわがれた低い声でいった。「やれやれ。いってもきかない人ですね。凜田先生。それと、あなたが笹宮朋李さんですか。おふたりとも、後悔する前に乗船を断念したほうがいいですよ」
莉子はまだ高鳴る胸を押さえながらいった。「ここまで来て帰れません」
「なら、奴らの縄張り意識を逆なでしないことです。群れているなかを突っ切ろうとしないでください。船のなかでもひとりで出歩かず、なるべく私らに声をかけてください」
「は、はい。でも、どなたがおまわりさんなのか......」
橘警部補が告げた。「小指があって金ピカの時計をしてなくて、胸もとを開けていなければコワモテでも警官です。警察手帳の提示は忘れず求めてください。ヤクザでも敬語で喋るのは直系組長以上ですから関わらないでください。口をきいただけでも職務質問の対象になります。警察側の全員が凜田先生を知ってるわけじゃないので」
「わかりました......。ところで、例のコンテナはどうなりましたか?」
「もう船に積まれたようです」
「え? すでに船内に?」
「驚いたことに、書類に不備もなく税関の検査でも問題なしと報告されてます。奴らの賄賂が功を奏したんじゃなく、実際に海を越えるのに支障ない貨物と見なされたようなんです。令状があれば調べられるのに、歯がゆいですよ。どんな偽装を働いているのか......」
そのとき、チンピラ以上にガラが悪く見える男が駆け寄ってきた。ただし、ネクタイを締めているからには私服警官らしい。男は祇園に告げた。「絹尾がいました」
祇園は踵をかえしながら、莉子にいった。「気をつけてくださいよ。乗るからには自己責任だってことをお忘れなく」
ふたりのマル暴が立ち去っていく。朋李が莉子の手をひいた。「行こう」
莉子は周囲の視線に怯えながら縄張りから脱した。ほかの群れからも次々にガンをつけられる。早く乗船してしまいたい......。
ようやく周りに人のいない場所まで来て、ほっとひと息ついた。
「凜田さん、だいじょうぶ?」そう問いかける朋李の姿は、まさしく掃き溜めに鶴と呼ぶにふさわしかった。
光り輝いて見える存在に、莉子はつぶやきを漏らした。「朋李さん......、よかった」
朋李は心配そうなまなざしを向けてきた。「どうしたの、こんなところに。まさか船に乗るつもり?」
「そのまさか」と莉子はチケットをかざしてみせた。「朋李さんと同じ三等客室」
「どうして僕の客室のことを......。危険だよ。そこまでしてくれなくても......」
「まだ依頼に応えてないもの。神条弁護士が見つかれば乗る必要もないんだけどね。姿を見かけた?」
「いや......。本当に乗るかどうかもわからないし。でもここに賭けるしかない」
ロビーにアナウンスが響いた。「大変長らくお待たせしました。アレクサンドリーヌ号就航十周年記念香港クルーズ、ただいまより乗船手続きを開始いたします」
莉子は朋李を見つめた。朋李の涼しい目が莉子を見かえす。「......行こうか」と朋李がきいた。
「うん」莉子はうなずいた。
ふたりは歩きだした、莉子が子供のころに読んだ児童書に記してあった、海賊船の船長のセリフが脳裏をよぎる。この無謀なる航海に幸あれ。
豪華客船
アレクサンドリーヌ号の船内は、まるでショッピングモールか百貨店のようだった。五デッキと六デッキは吹き抜けになっていて、格式高いアールヌーヴォー調の装飾に彩られている。通路を船尾方向に歩けば売店やバー、映画館、それにダンスホールが連なっていた。ここでもまた、ロマンティックなはずの環境がヤクザの跋扈する無法地帯に変貌しつつある。ドレスを着た白人の客や従業員はどことなく迷惑顔だった。
七から十二デッキはホテルそのものといった感じの客室フロアで、莉子の部屋はその最下層、海に面していないうえに窓もないシングルルームだった。朋李の部屋はその三つ隣りだときいた。
外のようすがわからないので、莉子は朋李と一緒にエレベーターをのぼり、屋上の展望デッキにでた。夕方の出航時刻、茜いろに染まる空の下、汽笛とともに巨大な船体がゆっくりと動きだす。大桟橋には見送りの客が詰めかけていた。『蛍の光』の演奏が流れるなか、各デッキでワイングラスを掲げている客たちの姿が見おろせる。みなとみらいの美しいネオンが黄昏空に映えていた。ランドマークタワー、インターコンチネンタルホテル、大観覧車。幻想的な近未来都市の風景がいつしか遠ざかっていく。
ベイブリッジの下をくぐり抜けるのを見届けたのち、莉子は朋李とともにエレベーターに向かい、ふたたび五デッキに下りた。
通路をぶらつくうち、朋李がいった。「カジノがあるよ」
大きく開いた間口の向こうはルーレットやブラックジャックのテーブル、スロットマシンが並ぶきらびやかな一帯だった。まだ日本の領海内である以上、現金を賭けることは不可能のはずだが、ヤクザたちはこういう場所こそ水が合っているのか、すでに大勢ひしめきあっている。ディーラーのフランス人たちも表情をこわばらせていた。
そんな状況に臆せず、一般客が混じってブラックジャックに興じている。白髪の痩せた男性はネクタイにスーツ姿だった。まさか私服警官ではないだろう。
そう思いながら目を凝らしたとき、莉子はその男性が顔見知りだと気づいた。「あの人......」
以前にも会ったことがある、レティシア銀座店の事務室で。あまりに突然の対面ゆえに、思考が鈍かった。ことの重大さを理解するまで数秒を要した。
神条の顔があがった。向こうも同様らしい、こちらに視線を向けたものの、しばしぽかんとして見かえすに留まっていた。
「あ」朋李が大声をあげた。「あいつだ! 神条だよ」
びくついたようすの神条はバランスを崩し、椅子から転げ落ちた。しかし次の瞬間には体勢を立て直し、起きあがって走りだした。逆側の出口から通路に飛びだし、一目散に逃げていく。
朋李は猛然と追跡を開始した。莉子はあわてて駆けだし、その後につづいた。
通路にもヤクザがごったがえしていたが、朋李は気後れするようすもなく、彼らの隙間をかいくぐり、神条を追いあげていく。
しかし、いちど朋李を振り切った経験がある神条の逃げ足は、やはり年齢に似合わず速かった。しだいに間隔が開きつつある。
吹き抜けのプロムナードに達した。混雑しているせいで、朋李は行く手を阻まれている。莉子は息をきらしながら追いついた。
人を掻き分けてでも進もうとする朋李の前に、ふいにひとりの男が立ちふさがった。
「待った」
莉子は面食らった。「葉山さん!?」
葉山警部補は頬筋をひきつらせながらいった。「走りまわらないでください。人目をひきますよ」
朋李は不満そうな顔で憤りをぶつけた。「あいつがいたんですよ、神条が。どうして邪魔するんです」
「落ち着いてください」葉山は声をひそめた。「ここは璽北会の巣窟も同然ですよ。本庁の捜査員も大勢いますが、令状はないのであくまでふつうの乗客扱いです。もめごとを起こしたときに、彼らが天下御免で救済の手を差し伸べてくれるとは限らない。船内の出来事については、船長に最大の権限が与えられてることをお忘れなく」
「あいつを捕まえるためにこの船に乗ったんです。それなのに姿を見かけてもほうっておけって?」
「神条弁護士は指名手配犯ではないでしょう。怪我を負わせでもしたら、逮捕されるのはあなたのほうですよ」
理不尽な話だと莉子は思った。「葉山さんも刑事でしょう? なのに傍観者みたいな口ぶりで......」
「凜田......先生。私はね、本来ならこの件に関わる立場にないんです。でもうちの上司が、大桟橋に張りこめといってきた。凜田先生と笹宮朋李さんが船に乗ったら、私も乗るよう命令を受けてたんです。相談にきた市民の身の安全を守るのも警察の役割ですからね」
「へえ......。じゃあ葉山さんは、わたしたちのボディガードですか」
葉山は顔をしかめた。「凜田先生が無茶をしないよう、お目付け役を一任されたといったほうが的確でしょう。私の上司も署長からの、そして署長も本庁からの命令を受けてのことでしょうから」
莉子は微笑してみせた。「葉山さん。思ったよりもいい人ですね。命令だからって、ほかの刑事さんに代わってもらうこともできたでしょう?」
「な、なにを......。凜田先生。ひとこといっておきます。あなたに関わるのはこれっきりですからね、今回みたいに本庁を刺激して捜査本部が立ちあがると、私たち所轄は実働要員として走りまわらされるばかり......」
ふいに葉山は言葉を切った、無言のまま片耳に指先をあてた。
彼はイヤホンを装着していた。プロムナードにいるコワモテの約半数が、いっせいに同じ姿勢をとっている。彼らはマル暴なのだろう。なにか連絡が入ったらしい。
葉山が莉子を見つめてきた。「捜査員のひとりが、エメラルドの取引現場を押さえたらしいです」
私服警官たちがぞろぞろと動きだす。ヤクザの群れは阻もうと立ちふさがるが、手をだすまでには至らない。マル暴たちはヤクザを一瞥し、さっさと脇をすり抜けて通路に向かった。
莉子は朋李を誘った。「行きましょう」
歩きだすと、葉山の声が追いかけてきた。「もう。いまいったばかりでしょう。事件に首を突っこまないでください」
説得に耳を貸す気にはなれない。神条が乗っていることがわかった以上、遠慮したところで何になる。莉子はそう思った。あの弁護士も船上からはどこへも逃げられない。璽北会の事件を追っていけば、きっと尻尾をつかめる。
六デッキにあるバー〈クレマンス〉の前には、水兵に似た制服姿の警備員が立っていた。屈強そうな身体つきの白人だったが、葉山が警察手帳をしめすと莉子や朋李ともども、なかに入るのを許可してくれた。
どうやらマル暴は、船を運航する側とそれなりに話をつけたらしい。事件性があるから捜査したいという申し出には、受容する姿勢をしめしているようだった。
ブラックライトで照らされた小粋な空間は、マル暴たちがうろつきまわる物騒な実況見分へと様変わりしていた。ただし、やはり警察の独壇場というわけにはいかないらしい。ヤクザがそこかしこにいて、ことあるごとに刑事たちの動きを阻もうとしている。テーブル席にはまだ呑気にグラスを傾ける一般客の姿もある。船長も店の営業停止までには踏みきらなかったのだろう。
祇園警部と橘警部補は、カウンターのなかにいる日本人バーテンダーに脅しをかけていた。祇園は凄味に満ちた顔でバーテンを睨みつけた。「ここが取引窓口ってわけか。従業員に成りすましても、チンピラはにおいでわかるぞ。つまらねえ小細工しやがって」
カウンターの上にあったメロンソーダのグラスを、祇園は取りあげた。その中身をカウンターにぶちまける。
緑いろの液体がひろがる。投げだされたのはストロー、サクランボ、それに氷......。
いや、それは氷ではなかった。祇園が指先につまみあげて光にかざす。立方体は透明ではなく、鮮やかな緑いろの光を放っていた。エメラルドに違いなかった。
なるほど......莉子はひそかに感心した。物体を隠しきれないのなら、不自然に思えないところにおさめればいい。緑の液体のなかなら透明な氷に見える。宝石の買い手はメロンソーダを注文し、エメラルドに見合うだけの金を払う。取引は目立たずにおこなわれる。じつに巧妙だった。
橘も濡れたエメラルドを一個つまみとった。「連中も馬鹿ですね。成金っぽい外人が似合わないメロンソーダを頼んだせいで、捜査員の目をひいた。せめてカクテルにしとくべきでしょう」
ふんと祇園は鼻を鳴らした。「そこのメニューを見てみな。水の入った緑いろのカクテルでいちばんポピュラーなのは、その名もエメラルド・シティってやつでな。思いっきりネタバレする危険をはらんでいるから、使えなかったんだろうよ」
そのとき、バーのなかにヤクザが数人、群れをなして現れた。先頭に立つのは小柄ながら凶器のような殺気を放つ、角刈り頭の男だった。
祇園がにやつきながら男に歩み寄った。「よお絹尾。残念だったな。出航早々、おまえの支店のひとつが店じまいの憂き目に遭ってる。感想はどうだい」
絹尾はじろりとカウンターのなかのバーテンを見やった。バーテンはすくみあがっている。
それから絹尾は祇園に目を戻した。「知らねえな。なんのことやら」
「とぼけてられると思うか? うちの捜査員がな、このバーテンをいたく気にいってな。尾行したところ、こいつが船底に下りていくのを見た。おまえが持ちこんだ怪しげなコンテナに出入りしたってよ。要するにバーテンは、客から注文を受けたぶんだけエメラルドを取りに行って、メロンソーダの水として差しだしたわけだ。五百ユーロの札束を受け取ったとあっちゃ言い逃れはできねえぜ」
「へえ。怪しけりゃバーテンまで尾けまわすのかい。そりゃ御苦労さんなこった」
「船長ともいま話をつけようってところでな。コンテナの中身を調べさせてくれるよう頼んでる。その前に自白するか? 何を持ちこんだ?」
「ただの御影石だぜ。知ってるか、御影石。墓石にするやつだ」
店内にたむろするヤクザたちが、いっせいに下品な笑い声をあげた。
だが祇園は挑発に乗るようすもなく、にやついたまま絹尾との距離を詰めた。「戒名が決まってんならいまきこうか。なんて刻んでほしい? え?」
マル暴は外見のみならず、実際にガラの悪さも暴力団員といい勝負だった。だが莉子は小競り合いよりも、カウンターの動きが気になって仕方なかった。
バーテンはすでに私服警官たちに身柄を拘束され、カウンターから連れだされている。代わって気難しそうな高齢の男性が白手袋を嵌めルーペでしきりにエメラルドを覗きこんでいる。
莉子はその男性に近づいた。「こんにちは」
男性は皺だらけの顔を向けてきた。「こんにちは......、いまここに近づけるってことは。一般客じゃないな。マル暴に、あんたみたいな綺麗な女性警察官がいたかな」
付き添いのようにすり寄ってきた葉山が、男性に対し遠慮がちにいった。「彼女は鑑定家さんでして......」
「鑑定?」男性は莉子を見た。「その若さで、私の同僚かね。宝石鑑定士の関根です。どうぞよろしく。あんたの専門は?」
返事に困った莉子が口ごもっていると、朋李が関根に告げた。「万能鑑定士Qって店の凜田莉子さんです」
「ちょ、ちょっと......」莉子はあわてて朋李を制した。
関根は眉をひそめた。「万能鑑定......。これはまた大きくでたな」
「はぁ」莉子は恐縮した。「すみません」
だが関根は、莉子を見下すような大人げない態度はしめさなかった。ルーペを寄越しながらきいた。「見るかね?」
「拝見します」莉子はそれを受け取り、関根の指先にあるエメラルドを観察した。
濁りのない結晶、たしかに圧倒されるほどの美しさだった。癒しと妖艶の織り混ざった不思議な緑の輝き。思わず目が釘付けになる。
やがて関根が告げてきた。「綺麗だろ。エメラルドは水滴やら気泡やら、ほかの鉱物結晶やらを含んだり、結晶成長の際に転移したりして亀裂が入りがちだ。だから安物のエメラルドは、オイリングかオプティコン処理で傷を隠すのが常だ」
「シダー油やバルサム油などの植物油か、硬化材を混ぜた樹脂を傷のなかに浸潤させて、目立たなくさせるんですね」
「ほう、それなりに勉強してるな。十一世紀からおこなわれている古式ゆかしい方法だが、いまも世界じゅうの宝石商で使われてる。ところがこれらは、そんな小細工の痕跡などまるでない、見事なカットだ。カラットあたり一万ドルを確実に超える逸品だよ」
我を忘れて見いってしまうほどの、繊細にして耽美な結晶の数々。もっと長く観察していたかったが、祇園の怒鳴り声によって莉子は現実に引き戻された。
「全捜査係、耳を貸せ」祇園は周囲にいった。「いま船長のもとにやってる捜査員から連絡が入った。貨物室のコンテナを調べる許可が下りた。そっちへ向かうぞ」
橘が近くの捜査員に細かい指示を送る。「この店は閉鎖できんそうだ。だがメロンソーダはもうださせるな。厨房にあるビンの在庫も取りだせないようにしとけ。もちろん、ほかの緑いろの飲み物もだぞ。水は常時、抜き打ちで調べろ」
はい、とうなずいた捜査員たちが動きだす。店内はにわかにあわただしさを増した。
祇園が声を張った。「船は台湾海峡をまわって中国大陸に向かう。三日後には日本の領海をでる。俺たちの捜査権はそこまでだ。なんとしてもそれまでに全容を解明するぞ」
マル暴たちがぞろぞろと店からでていく。絹尾は唇を噛んで苦い顔をしていた。ほかのヤクザたちもむっつりと黙りこくっている。
莉子は祇園に駆け寄った。「警部さん。わたしもコンテナのなかを見たいんですけど」
葉山が泡を食ったようすで追いかけてくる。「よしてください、凜田先生。一般客の入れるところじゃないんですよ」
だが祇園は顔色ひとつ変えずにいった。「警官の数が減る客用デッキに残しておいちゃ危険だな。一緒にどうぞ」
絶句したようすの葉山を横目に、莉子は朋李とともに歩きだした。決戦のときは近い。エメラルド密輸出の根源が断たれるとなれば、神条弁護士も雲隠れしてはいられないはずだ。
金庫
一般乗客が出入りできる五デッキよりも下の階層へは、エレベーターではなく非常階段でしか行き着けなかった。
巨大な豪華客船の最下層。そこは、同じ船内とは思えないほどの環境の落差があった。
白熱灯に照らされた一帯は、ひどく蒸し暑かった。剥き出しの鉄骨に囲まれた味気ない灰色の空間、まさしくタンカー内部の様相を呈している。広大な倉庫に堆く積みあげられたコンテナ群は、バラストの役割も果たしているらしい。重量を均衡にするよう計算された配置になっているようだ。
それでも、絹尾が持ちこんだコンテナだけは例外的な扱いを受けていた。フォークリフトで倉庫の中央にある開けた場所に運ばれてから、捜査員たちによってバーナーで外壁を切断される。やがてコンテナの四方の壁はいっせいに倒れ、積み荷の全貌があきらかになった。
遠巻きにコンテナを囲んで作業を見守っていた捜査員の群れ、そのなかに莉子はいた。莉子は固唾を呑んで立ちつくした。
それは、棺をふたつ重ねたぐらいのサイズの、直方体の石だった。表面はごつごつとしている。採石場から切りだしたばかり、まだ研磨されていない御影石の塊。少なくともそう見える。
祇園は眉間に皺を寄せて、ゆっくりと近づいた。直方体の岩の周囲をぐるりと回りながら、鋭い視線で眺め渡す。
やがて石の向こう側で足をとめると、祇園はこちらを見た。「凜田先生」
莉子はびくっとした。こんなに大勢の捜査員がいるなかで、真っ先に自分の名が呼ばれるとは思っていなかった。
「は、はい」莉子は走って祇園のもとに向かった。
すると祇園が、直方体の側面を指さした。「どう思いますか、これ」
異様な眺めがそこにあった。御影石の側面に、直径十センチぐらいの金属製の物体が嵌めこんである。
物体は回転式とおぼしきつまみと、その周囲に目盛を刻んだダイヤル部分から成り、全体として青みがかった銀の光沢を放っていた。
呆然としながら莉子はつぶやいた。「ユニクロ加工......ですね。たぶん神条弁護士が大久保鍍金工場に作らせたのはこれでしょう」
「配送を受け取った絹尾が、仲間と一緒に組み立てたわけか。部品が揃うのが出航の直前だったとしても、駐車場に停めたトレーラーにコンテナを積んでおけば、ぎりぎりまで作業できますからね。それにしても......」
祇園が沈黙した。無理もないと莉子は感じた。こんな不可解な物体は見たことがない。
ダイヤルの形状からすれば、これは間違いなく金庫だ。しかし、御影石の塊には扉らしきものもなければ、蝶番や把っ手といった部品すらない。開口部がどこにあるのかさっぱりわからない。ダイヤル部品を埋めこんだ単なる岩、それ以外のなにものでもなかった。
税関をあっさり通過できたのもうなずける。輸出を差しとめるだけの理由がみとめられないからだ。ついさっき絹尾はバーで、コンテナの中身は御影石だといっていた。そのように申請してあれば嘘偽りはない。
白手袋を嵌めたスーツ姿の男たちが、石の周囲にわらわらと群がり、写真を撮りだした、作業服は着ていないが、科捜研と記された腕章をつけている。船底に下りてから装着したらしい。マル暴に同行し乗客として潜りこんでいたのだろう。
しかしその科捜研も、未知ともいえる物体を前に動きが鈍い。ひとりがダイヤルにそっと手をのばし、つまみを回した。カチカチと音がして、目盛が回転するのが見える。
ベテランらしき年配の科捜研職員が、祇園を振りかえっていった。「いちおう超音波測定機とか、金属探知機などはひと揃い持ってきてますが......。こんなでかい物とは知らなかったんで、全容の解明には時間がかかります」
祇園は容赦なく告げた。「三日しかねえんだ。それ以上かかるとか寝言はこぼすな」
職員たちは緊張の面持ちで検査を開始した。手早く電極を石のあちこちに貼りつけて、機械による測定に入る。各種のセンサーを至るところに当てては、メーターの数値を記録していく。
てきぱきとおこなわれた作業でも、実際にあるていどのデータが収集されるまでは三十分ほどを要した。
別の職員が祇園に報告する。「超音波で調べたところ、石の目に沿って亀裂が存在するとわかりました。割れ目がぐるりと上部に円を描いています。外見上はまるでわかりませんが、蓋のようです」
「で」祇園はたずねた。「その蓋とダイヤル部品に因果関係はありそうか」
「ええ」職員はポータブルの液晶モニターをしめした。「X線写真によれば、ダイヤルから支柱らしきものがまっすぐ深さ三十センチぐらいの位置まで刺さっていて、その先に電池入りの機械部品があります。これは電磁石のようで、内部で蓋と四本のアームで結ばれています、詳しい機構は不明ですが、蓋の開閉装置でしょう」
「エメラルドはどのあたりにおさまってる?」
「それが......」と職員はモニターの画像をスクロールさせた。「見てください、石の下半分、ちょうど棺ひとつぶんぐらいの直方体の領域が、真っ黒に染まってます。これは遮蔽材による容器と思われます。たぶん高純度の鉛です」
「鉛だって?」
「はい。X線は波長の短い電磁波なので、鉛に吸収されてしまい中身を透視できません」
「バーナーで切断して開けられないか」
「持ってきたのは薄めの金属切断用でして......。鉛までたどり着けばなんとかなるかもしれませんが、石を切るにはダイヤモンドカッターが必要です。残念ながら持ってきていません」
橘が祇園にいった。「警部。現時点では、これは雁堵建設の正当な所有物です。コンテナは開けられても、石を傷つけるのは法的に許される行為ではありません」
さすがの祇園も、珍しく苛立ちをあらわにした。帽子をむしるように取ると、スキンヘッドを掻きながら吐き捨てた。「橘。絹尾に張りついて開け方をききだせ。任意とはいえ厳しくな。科捜研の諸氏はなんとしてもこれを開けるよう、全力を尽くしてもらいたい。最低でもエメラルドがなかにあると証明してくれ。でなければ日本の領海をでたとたん、璽北会の奴らは全員野放しだ。俺たちは指をくわえて、奴らがのさばるのを見るだけになる」
莉子はこめかみに汗が滴るのを感じた。
暑さのせいばかりではない。デッドラインがあと三日に迫っている。神条弁護士が犯罪に関わっていたことを裏付ける唯一の物証。すべては、この奇妙な金庫を開けられるか否かにかかっている。
御影石
朋李は深夜過ぎに船底からシングルルームに戻り、早朝に起きだしてパンや飲み物をいくつか買って、また船底に向かうという日課を繰りかえした。
御影石の前まで赴くと、科捜研の人間は二十四時間、何人かのグループごとに交替で作業をつづけていた。そして、そこから少し離れた場所に莉子がいた。莉子は床に座りこんで黙々とノートをとっている。彼女自身は御影石に触れることを許されていないため、科捜研の会話のみを頼りに分析を試みているらしい。いつも夜更けには部屋に帰るといいながら、この場で寝そべって仮眠をとり、朝を迎えているようだった。朋李が毛布を差しいれると、莉子は微笑を浮かべていった。ありがとう。
終日航海がずっとつづいている。一日めに船は太平洋から瀬戸内海に達した。二日めは東シナ海へ。そしていま、三日めの朝を迎えた。
ずっと船底に籠もって、外のようすを見ていない莉子は航行スケジュールも曖昧になってきているらしい。莉子は床に腰をおろしたまま朋李にたずねてきた。「いま、船ってどのあたり?」
「きみの故郷だよ」朋李は隣りに座って、並んで御影石を眺めた。「沖縄、それも八重山諸島の脇を通過してる。もうすぐ国内航路を離れて台湾の領海」
「そう......」
タイムリミットが迫っているせいか、科捜研の職員たちの顔にも焦燥のいろが浮かんでいる。だが、動きのほうは緩慢だった。もうすべきことがあまりないのか、御影石の表層をひたすら撫でまわし、特殊な形状の聴診器をあてるぐらいの作業しかおこなわれていない。
船長が協力的な姿勢をみせたこともあり、警察は船内のすべてのエリアに立ち入り捜索することが許された。璽北会の幹部クラスの個室にも、緊張の火花を散らせながら踏みこんだという。しかし、エメラルドはひと粒すら見つからなかった。やはりこの御影石のなか以外に考えられない。
朋李は、莉子の手もとを覘きこんだ。ノートはびっしりとメモで埋め尽くされている。矢印や等号、VSなる記号がいたるところに書きこまれていた。
「どう?」と朋李はだずねた。「なにか進展あった?」
「......全然」莉子はボールペンをノートの上に置くと、脚を投げだした。「ほんと難しい。二日めに科捜研の人がダイヤルを回しながら聴診器で内部の音を聴いたんだけど......。左に十七、右に四十一に合わせたときに、かすかな音の反応があるって」
「音の反応?」
「ダイヤル式金庫の錠はいくつかの円盤形シリンダーが重なって成り立ってる。少なくともふたつのシリンダーはクリアしてるわけだけど、その先がなんの反応もないって」
科捜研職員が脚立を運びこんできた。それを御影石の横に据えて、ひとりがホースを手にのぼる。ホースの先から水が噴射された。職員は御影石の上部に水を浴びせている。
朋李はつぶやいた。「乱暴なやり方だね。令状がないとか、まだ絹尾って人の所有物とかいってたわりには容赦ない」
莉子がため息まじりにいった。「水をかけるのはこれで四度目よ。ゆうべ遅くにも試してたし」
ホースが遠ざけられ、職員が御影石の上部を拡大鏡で眺めまわす。やがて落胆のいろを浮かべながら、脚立を下りた。
その脚立をたたんで歩きだした職員が、朋李たちの前を通りかかる。莉子が声をかけた。
「どうでしたか?」
もうすっかり顔見知りになっているのか、職員はあっさりと答えた。「やっぱり駄目だね。石の上部には亀裂があるはずなのに、一滴もなかに吸いこまれるようすがない」
「そうですか......。開閉可能な蓋なら、わずかでも隙間があるはずですよね?」
「ああ。それがまるっきり密閉状態、というより文字通り一枚岩だな。超音波測定機のデータを疑いたくなるよ」
「割れ目は存在しないって?」
「いや......。あるにはあるんだろうけどさ、奥のほうまで割れてはいないんじゃないかな。ようするに蓋として分離する仕組みとは思えないんだよ。もしかして開けられるのは一回きりで、内部のアームが押しあげて蓋を壊す仕組みじゃないのかな」
「けど、バーテンダーがここからエメラルドを取りだしたわけでしょう?」
「そこなんだよな。開閉できなきゃ意味がない。けど、もうお手上げだ。ひょっとしてダイヤル式金庫につきものの破壊時再施錠装置が作動しちまったとか?」
「ならダイヤルをまわしてもシリンダーは動かないはずですから、左に十七、右に四十一の反応音もなくならなきゃおかしいですよ」
「だな。さっきの補聴器の検査じゃ内部の音は拾えてるし......。どうにもならないよ。こんなのは初めてだ」職員は首を横に振りながら、脚立を掲げて歩き去っていった。
朋李は莉子にいった。「けさもバーで祇園警部たちが絹尾を問い詰めてたよ。絹尾は余裕綽々だったけど」
「神条弁護士は?」
「ずっと姿を見せてない。日本の領海をでるまで部屋に籠もってるんじゃないかな」
「はぁ」莉子はまたため息をついて、仰向けに寝そべった。「おかしいなぁ。まるで解決方法が見えてこない」
「金庫のダイヤルって、鍵屋さんなら開け方を知ってるんじゃないかな」
「ダイヤルごと外す方法があるらしいのよ。ネットにでてた。でも科捜研の人もそれには詳しいみたいで、脱着を試みたんだけど......。無理だって」
「そっちも行き止まりか。困ったね」
「......いまなんて?」
「え?」朋李は莉子を見た。「行き止まり。そういったんだけど。ものの喩えで」
「行き止まり......袋小路か」莉子は仰向けのままノートを広げた。「袋小路で壁を叩いても無駄。その前の十字路で道を間違っているんだから戻らないと。進路を選んだ痕跡は、矢印ってことかぁ。前の矢印のところまで。......いえ、そこからも前に進める道はない。じゃあもうひとつ前の矢印。いえ、もうひとつ前の......」
しばらくのあいだ、莉子はぶつぶつとつぶやいていた。だが、ふいに跳ね起きると、目を丸くして甲高い声をあげた。「あー! なんてこと。まさか」
科捜研の職員がいっせいに振りかえる。誰もが妙な顔をしていた。莉子は立ちあがり、階段に向かって駆けだした。
朋李もあわてて腰を浮かせ、莉子を追いかけた。「凜田さん、どうかしたの?」
「急がなきゃ」莉子は走りながら、悲鳴に似た声でいった。「もうすぐ海上警察権が失われる。領海をでる前に警部さんに知らせないと」
成長
朋李は莉子を追って、六デッキのバー〈クレマンス〉に駆けこんだ。
バーにいた人々は、なにごとかと目を向けてくる。祇園警部と橘警部補は、あいかわらずテーブル席で絹尾と向かい合っていた。彼らのまわりには両陣営、マル暴とヤクザが数人ずったむろしている。それから牛込署の葉山。莉子がずっと船底にいたせいでお目付け役すらさぼりがちだった彼は、ここでトーストをぱくついていた。
だが朋李は警察関係者に興味を持っていなかった。葉山の肩ごしに見える男に目が釘付けになる。
壁ぎわのテーブルでひとりグラスを傾けていた白髪頭の男が、ぎょっとしてこちらを見かえした。
神条......。朋李は息を呑んだ。今度こそ逃がさない。朋李は駆け寄ろうとした。
ところが、莉子が素早く手で遮った。「待って」
「どうして止める? また逃げられたら......」
「だいじょうぶよ。むしろあの人がここにいることで確信が深まったわ」
確信? いったい何のことだろう。
バーのなかにいる全員が注視するなか、莉子はつかつかとカウンターに向かった。
カウンターでは、宝石鑑定士の関根が朝酒にウィスキーを呷っていた。莉子は関根に声をかけた。「おはようございます」
「ああ、きみか」関根は赤ら顔で応じた。「下はどうだった? 石は開きそうか?」
「いえ......。それよりも、お教え願えませんか。バーテンダーはここでメロンソーダの氷に見せかけて、エメラルドを密売してました。なぜそんな偽装を思いついたんでしょう?」
「ん? それはあきらかだろ。見えないところに隠そうとすれば暴かれる。だからあえて見えるところに隠したんだ」
「ですよね。たしかに、わたしもそう思いました。けど、それ自体が勘違いを誘うトリックだとしたら? 隠す手段がないと思わせるために、わざと見破らせたのだとしたらどうでしょう」
「......何? よくわからんな。どういう意味かね?」
莉子の目が鋭く光った。その視線がカウンターのなかに向けられる。
次の瞬間、莉子は椅子に足をかけてカウンターを乗りこえ。その向こう側に入りこんだ。
「凜田先生」祇園が驚いたようすで立ちあがった。「何をなさるんです」
保護責任があるはずの葉山が最も取り乱していた。あわてたようにカウンターに駆け寄りながら、葉山は怒鳴った。「ただちにでてください、凜田先生。勝手になかに入るなんて」
だが、莉子は振りかえることもなく、厨房につづく戸口に消えていった。
葉山が舌打ちしながらカウンターのフラップを跳ねあげ、通用路を作った。祇園、橘がカウンターに入り莉子を追う。バーのなかの全員がそれにつづきだした。
絹尾は硬い顔をしているものの、立ちあがる素振りはしめさなかった。だが神条は、そそくさとカウンター内に駆けこんだ。
あいつまでが赴いたからには、もはや捨て置けない。朋李も最後にカウンターに立ちいった。
厨房を抜けると、その奥は酒蔵になっていた。豪邸の地下ワイン貯蔵庫に酷似した光景が広がっている。土間スペースの四方に、あらゆる種類の飲料ボトルがケースにおさまり積みあがっていた。
その一画に黄色いテープが張りめぐらしてあった。メロンソーダのビンが詰まったケースばかり、数十ほどが集められている。
莉子はその前に立ち、テープを引きはがすと、ケースからビンを一本引き抜いた。未開封のビン、むろん中身はメロンソーダのみ。固形物は入っていなかった。
「栓抜きは?」と莉子がきいた。
ふいに神条が取り乱したようすで声高に告げた。「警察の人たち、何をしてる! 彼女は許可も得ずに船の所蔵品に手をつけようとしてる。窃盗だ。あるいは器物損壊罪だ。すぐやめさせろ」
だがその狼狽ぶりは、祇園の目にも不自然に映ったらしい。祇園はポケットをまさぐると、千円札を取りだして床に投げ捨てた。「俺が買いますよ。ならいいでしょう」
神条は表情筋をひきつらせて黙りこくった。異様な緊張感が酒蔵に漂う。
おい、と祇園が合図する。橘が辺りを見まわして、サイドテーブルから栓抜きを取りあげた。それを莉子に手渡す。
莉子はビンの栓を抜いた。ビンを傾けて、中身を床にこぼす。
ビンのなかで緑いろの液体が、みるみるうちに減少していく。数秒と経たないうちに空っぽになるはずだ。ところが......。
「おおっ!?」真っ先に声をあげたのは橘だった。次いで祇園が感嘆の声を発し、さらにどよめきが全員に広がった。
朋李も衝撃を受けていた。目を疑うような信じられない光景だった。
液体が除去されたビンのなかに、大粒の緑いろの宝石がいくつも煌めいていた。
「な」橘は愕然としていた。「なぜ......? 何も入ってなかったはずなのに」
すると宝石鑑定士の関根が唸った。「なるほど。屈折率だな。この液体はメロンソーダじゃなかった。緑いろに染めてあるが、まったくの別ものだ、液体の屈折率がエメラルドと一致してたために見えなかったんだ」
「そうです」莉子はうなずいた。「耐熱ガラスをサラダ油にいれると見えなくなるのと同じです。それらの屈折率がいずれも一・四七だからです。振ればかすかに音はしますけど、こうしてケースにいれて運搬していれば、ビンどうしがぶつかりあうノイズに紛れてきこえなくなります」
「......しかし」関根は眉をひそめた。「妙だ。この種の宝石密輸の手口なら文献を読んだことがある。世の密輸業者たちは古くから、オリーブ油やら椿油やら精製油やら、あらゆる液体を混ぜて宝石と同じ屈折率をだそうと画策してきた。けれどもエメラルドの最高品質、一・五八三にぴたりと同じ屈折率をだせる調合は、どんな比率をもってしても不可能のはずだ。たとえ実現できても、透過率が下がって濁ってしまいどうにもならん」
「それが、同じ屈折率で無色透明の液体成分が見つかったとしたら? ここにあるメロンソーダのビンの中身を調べれば、含硫ケラチンが検出されるでしょう」
朋李は驚きを禁じえなかった。「ケラチンだって? じゃあ......」
「ええ。璽北会はエメラルドの隠匿方法を思案した。そして屈折率一・五八の無色の液体が存在することを知った。髪を処分するために水溶化したケラチン。客船を使った密輸出を今後も定期的におこなうために、含硫ケラチン水溶液を随時、調達できるラインを必要とした」
なんてことだ......。朋李は頭がくらくらするのを感じた。
なぜ莉子が美容室にとって不燃ごみでしかない、カット済みの毛髪の行方を気にかけていたのか、いまになってようやくその理由がわかった。髪の成分や用途について詳しく知ろうとしていたのもそのせいだ。彼女は最初から、美容室チェーンを奪取したがっている者の真意を分析していたのだろう。
「そうか」朋李は神条を見つめた。「それでレティシア社を......」
神条はおびえきった表情で身を縮こまらせ、すごすごと大柄の男たちの陰に隠れた。
莉子はいった。「神条弁護士も三十年前のレティシア社設立時には、そこまで意図してはいなかったでしょう。あくまで社印を複製しておいて、のちに何らかの詐欺的行為に利用する、そのていどの心積もりだったはずです。しかし数年前に璽北会と利害が一致し、手を握ったんです。神条弁護士は偽の契約書を作成して、レティシア・チェーンの全経営権をダルメなる会社に移した。ダルメは当然、璽北会の傘下でしょう」
関根が莉子に指を突きつけた。「なるほど。それできみはさっき、あんなことをいったんだ、バーテンがエメラルドをメロンソーダの氷に見せかけたのは、本当のトリックから目を逸らさせるためだったんだな」
「はい。あのときバーテンダーがだしたのは本物のメロンソーダです。エメラルドは緑の液体に入れても隠しきれないので、やむなく氷に見せかけたと捜査側に印象づけたんです。実際には、液体内で見えなくする方法があるのに、そこから思考を遠ざけるためにあえて見破らせた」
祇園はしきりに顎を撫でまわした。「ようやく理解できた。俺たちゃ嵌められたわけだ。密売現場を押さえたと思いこんで、残りのメロンソーダのビンに黄色いテープを張りめぐらして隔離し、温存しちまった。璽北会の連中はそこまで読んでたんだな。船内捜索の選択肢からも外されるから、調べられることもない。いずれ日本の領海をでれば璽北会の自由にできる。もともと璽北会がらみの業者が持ちこんだ物だろうからな」
橘が莉子を見つめた。「あの御影石は......?」
莉子はため息まじりにいった。「金庫のダイヤル部品というのは、鍵屋さん以外は入手できません。古い金庫を分解して取り外すしかありませんが、ただ壊そうとすればリロッキングが機能するため、あれこれ試行錯誤せねばなりません。外したときには部品は傷だらけです。神条弁護士が部品をユニクロ加工したのはそのせいでしょう。とってつけた中古品に見えないよう、ダイヤルも新品っぽく装ったんです」
「じゃあ......ダイヤルはただの後付けか」
「大久保鍍金工場の人がいうには、横浜大桟橋宛に二十二日必着というのが発送の最終期限だったようです。出航ぎりぎりでも間に合うということは、複雑な組み立てを必要としなかったわけです。あの御影石が税関を通過できたのも当然でしょう。本当にただの石の塊でしかないんですから。上部の亀裂は蓋ではなくて、いちど切開して内部を刳り抜き、鉛の容器や思わせぶりな機械類を封じこめただけの痕跡です。接着してあるでしょうから、水一滴すら浸入できる隙間はありません」
「つまり、御影石は餌にすぎなかったわけですね。わざと目立つように運びこんで、われわれの注意を惹きつけた。バーテンもエメラルドを御影石から取りだしたわけじゃなかった。初めから持ってたんだ」
莉子がうなずいた。「エメラルドが船内のどこかにあるとの前提で捜索が始まったら、さすがにこれらのビンも再調査される可能性があります。けれども、御影石のなかにエメラルドがあると警察に信じさせれば、その危険も小さくなります」
祇園はしかめっ面をして、メロンソーダのケースに両手を伸ばした。左右の手でビンを一本ずつつかんで取りだすと、マラカスのように振った。
小石が入っているかのような、かすかな音がする。祇園はそれらを頭上高く放り投げた。
放物線を描いて飛んだ二木のビンは床に落下し、けたたましい音とともに砕けた。散らばるガラスの破片、広がる緑いろの水たまり、そのなかに、鮮やかな光を放つエメラルドがいくつも転がっていた。
ハンカチを取りだし、祇園はエメラルドを何個か包んだ。それを橘に渡しながら指示を送る。「船長に見せに行け。すぐに停船か、那覇に引きかえすか、なんにしてもしばらく日本の領海に留まるよう頼め。清畑、本庁にブツを発見したと連絡しろ。峰岡、船底にいる科捜研の全員をこっちに連れてこい。それから長沼、部下を全員連れて絹尾の身柄を確保しろ。邪魔する奴はしょっぴけ」
はい。野太い声がいっせいに応じ、男たちが酒蔵の外へ駆けだしていく。
途方に暮れてたたずむ神条に、祇園は低くつぶやいた。「あんたも年貢の納めどきだな。エメラルドと同じ屈折率の、なんとかって液体成分を作る大量の髪の毛がどこから来たか。そこを抜きにした捜査なんか考えられねえからな」
朋李は神条を睨みつけた、母を、そしてレティシアの全社員を路頭に迷わせた張本人。ついにその報いを受けるときがきた。
神条の顔面は、血の気がひいて真っ青になっていた。震える声で神条はつぶやいた。
「なぜだ。凜田......莉子さんだったな。どうしてここまでする。きみ、無関係だろう。レティシアの従業員でもなければ、笹宮親子と以前からの知り合いでもない。なのにどうして......」
「わたしは」莉子はきっぱりといった。「依頼に応えただけです。偽造された社印がどこかにある、笹宮さんはそういってました」
「......社印? いまさら、社印かね?」神条はひきつった笑いを浮かべた。「偽造印なんて、この世から失われた時点で依頼は帳消しだろう。それをこんなところにまで来てちょっかいをだして......」
「どうして偽造印が失われたと決めつけるんですか? あなたの手で破棄したからですか?」
「と、とにかく......。きみが依頼されたのは印影の鑑定のみだろう。それをなんだね、ダイヤル部品やら、御影石やら、挙句の果てにエメラルドまで......。節操無さ過ぎじゃないのか。いったい何の専門だというんだ」
すると宝石鑑定士の関根が、あっさりとした口調で告げた。「彼女はな、万能鑑定士なんだ」
神条は押し黙り、呆然とした面持ちで立ちつくした。
連れてけ、と祇園がいうと、私服警官たちが神条の左右に立って両腕をつかんだ。神条は全身を硬直させていた。そのまま刑事たちは、マネキンを搬出するかのように神条を戸口に運び去っていった。
祇園は彼らにつづき歩きだしたが、ふいに足をとめて振りかえった。「凜田先生。外にはまだ、ガラの悪いのがうろついてますから気をつけて。葉山君」
いまだ酒蔵に残る数少ない人間のひとり、葉山が緊張の面持ちで応じた。「は、はい」
「きみは署長から、凜田先生と笹宮朋李さんの身辺警護を命ぜられているはずだな」
「はい......。仰せつかっております」
「なら職務を全うすることだ。ふたりに何かあったらきみの責任だからな」祇園は踵をかえし、酒蔵の外に消えていった。
葉山は恐縮しきったようすで頭を深々とさげていたが、やがて靴音が遠のくと顔をあげた。苦い表情を莉子に向けながら、葉山はつぶやいた。「都内に帰ったら、もう二度と現れないでくださいよ。あなたと関わるとろくなことがなさそうだ」
莉子は気にしたようすもなく笑顔を浮かべた。その大きくつぶらな瞳が朋李に向いた。朋李も笑いながら莉子を見かえした。
「ありがとう」朋李は心からいった。
「どういたしまして」控えめにささやく莉子の顔に、いままで見せたことがない大人びた微笑があった。
成長したのだろう、と朋李は思った。少女のときは去り、彼女はひとりの女性になった。その変化に立ち会えたとは、なんて幸運なのだろう。
運命
瀬戸内陸はチープグッズ本店の事務室で、ラジオに耳を傾けていた。
NHK朝のニュース、アナウンサーの声は告げていた。「二十二日に横浜を出航し、香港に向かう予定だったフランスの豪華客船アレクサンドリーヌ号が、警視庁の要請に従い予定の航海を中断して、那覇に寄港していたことがわかりました」
アレクサンドリーヌ号......。莉子が乗りたがっていた船。その理由がこれか。
アナウンサーの声がつづけた。「警視庁の発表によりますと、広域指定暴力団璽北会がエメラルドの密輸出および、船上における密売を画策していた疑いがあるとして、複数の捜査員を乗船させたとのことです。その結果、時価にして総額およそ四億円相当のエメラルドを発見し押収したため、船長に那覇への寄港と停泊を申しいれました。アレクサンドリーヌ号を運航するフランスの船舶会社は、警察からの要請に対し、船長は的確な判断を下したとしており......」
瀬戸内はラジオのスイッチを切った。
思わず苦笑が漏れる。璽北会。そんな大物が相手だったとは。呆れるほどの成長ぶりだった。
室内にいたふたりの青年のうち、年長のほうがぼそりとつぶやいた。「妙に嬉しそうですね」
痩せ細った草食系、実際に肉料理をほとんど食べないふたり。髪を長く伸ばした色白の面長で、イラストレイターというよりミュージシャンの印象に近い。双子に見まがうほどではないが、顔はよく似通っている。実の兄弟だからだった。
兄の謝花和希は独特なタッチの肥満顔、ファットマン・キャラのペン入れに忙しい。弟の玲のほうは、兄ほど描くのが速くはないようだった。まだ鉛筆で下描きの段階に留まっている。
瀬戸内はきいた。「私が嬉しそうだって?」
「ええ」和希は手を休めず、無表情につぶやいた。「娘さんがバイクの免許とったときと同じですね」
玲も同意をしめしてきた。「妙にそわそわした態度になるんですよ、瀬戸内さんは」
そわそわ......。無意識のうちにそんな反応をしめしていたのか。行動から感情を読まれるようなへまはすまいと思っていたが、仲間内とはいえ見透かされることがあるとは。
「そうか」瀬戸内は咳ばらいをした。「気をつけないとな」
和希は鼻を鳴らした。「その調子じゃ、首尾よくいったところで馬脚を露しますね」
「いや。私は計画を看破されるような失態は演じない。きみらのほうはどうなんだ。家族にばれたりはしてないか」
「平気ですよ。もうすぐ弟と西表島に帰りますから」
「ほう......船浮集落のアパートに?」
「ええ。あそこなら邪魔も入らずに作業できます」和希はペンを置いて、用紙を瀬戸内に向けてきた。「できた、こんなもんでどうでしょうか」
「......いい出来だ、インパクトもあって人目も惹きやすい」
「弟とはずいぶんタッチが違いますけどね」
「それも計算のうちさ」瀬戸内は扉に向かった。「楓が出勤してくるころだ。店を開けてくる」
事務室をでて、陳列棚の谷間に歩を進める。たしかにいまの心境は、娘の成長をまのあたりにした瞬間に近いかもしれない。莉子はもうひとりの娘のようなものだ。
とはいえ、莉子に学ばせたことは楓とは大きく異なる。成果について手放しには喜べない。
莉子に見識が備わっていくにつれて、私の未来は暗く閉ざされていく気がする。当然だった。愚かしいほどの自明の理だ。みずからの手で対抗勢力を育んでいるのだから。
私は決して、風まかせに運命の道行きをきめるつもりはなかった。しかし、それでもおそらく、私の行き着く先は......。
別れのとき
秋の日の夕暮れは、どこか寂しさを漂わせる。ひときわ高く見える雲が赤く染まり、藍いろの空に星が煌めきだす。頬を撫でていく微風の肌触り、舞い落ちる枯れ葉、何もかもが愛おしく感じられてならない。
孤独やせつなさとは無縁でいたい、莉子は常々そう考えてきた。故郷を離れるときでさえ、ノスタルジーに浸るのを拒否してきたと記憶している。いつも元気に、前向きに生きていたい。そんな信念を胸に抱いてきた。
でもいまだけは、心は限りなく虚無に近づいてしまう。別れのときが迫っていると気づいたからだった。
神田川沿いを並んで歩く朋李のほうは、まだそんな素振りすら見せない。Tシャツにブルゾンを羽織り、ニットマフラーを巻いた朋李は、いつものように穏やかな口調できいてきた。「けさの新聞、見た?」
「ええ」莉子はうなずいてみせた。「璽北会が事実上の解散だって。エメラルドの密売ルートが絶たれたからよね。運営本部は残るらしいけど......」
「そうじゃなきゃ困るよ。裁判の相手がいなくなっちゃうからね」
ダルメという会社が璽北会の資本により設立されていたことが裏付けられたため、笹宮麻莉亜はレティシア社の返還請求訴訟を起こしていた。判決がでればすぐ仮執行も下されるだろう。ただし、すべてを取り戻せるのは当分先のことだ。当面、朋李の母は裁判費用を捻出するため資金繰りに奔走しているときく。
また係争とはお気の毒。莉子は同情を禁じえなかったが、朋李の感想は違うようだった。
朋李は微笑とともにいった。「ああでなきゃ母じゃないよ。いつも精力的に動きまわる母をみて育ったからね。少しずつ元に戻りだしているよ、いろんなことが」
「でも」莉子はじれったくなり、真実を引き寄せようとした。「朋李さんは外国に行っちゃうんでしょう?」
「......どうしてそう思うの?」
「これから冬だってのに、街を歩いていても季節外れの夏物ばかりに目を向けてる。腕時計もダイバーズウォッチに買い替えたし、きのう運転免許センターに行ってきたといいながらカバンのポケットからパスポートが覘いていた。国際免許を取得したんでしょう。行き先はハワイとか?」
「鋭いね」朋李は静かな口調のままだった。「裁判のために借りたお金を、母はいずれ返さなきゃいけない。僕にできるのは美容師だけだし、働かなきゃね」
「都内の美容室に勤めればいいのに」
「あいにく、笹宮って苗字じゃレティシアの創始者一家だってばれちゃうから......。暴力団と裁判沙汰になってる美容室チェーンとは、同業者も関わりたがらない」
「そんなの誤解でしょう? 朋李さんにはなんの落ち度もないんだし」
「雇ってくれるところがなきゃ仕方がないよ。また国内で働くことがあるとしたら、母か僕のどちらかが店を再建したときだろうね。さいわい、外国じゃ日本語のできる美容師のニーズがすごく高いんだよ。お客さんのいってることがわからないと務まらない仕事だから。現地資格もとらなきゃいけないけど......」
「朋李さんなら、きっとだいじょうぶ。......だけど」
「何?」
「約束は果たしてほしかったかも」
「ああ......。ごめんね、髪を切ってあげられなくて」朋李は莉子を見つめてきた。「ハワイに来る予定、ない? きみもせっかくパスポートとったのに、船が那覇に引きかえしちゃったおかげで初海外のチャンスを逃したろ?」
莉子は苦笑した。「波照間島で育ったから、海とか砂浜とか、あんまり興味なくて......」
「そっか」朋李は歩きつづけた。「順調にいけば、数年後には帰ってくるよ」
「んー......。数年のハワイ暮らしかぁ......。朋李さんが変わっちゃったら少しやだな」
「どんなふうに?」
「なんていうか、たぶん日焼けして、エグザイルみたいになるんじゃないかって」
「エグザイルは嫌い?」
「そうじゃないけど......」
いまみたいに少年のあどけなさを残す、チャラい服装もどこか無理している感じのする朋李さんのほうがいい。それが莉子の本音だったが、伝えるのは気がひける。
わたしたちは恋人どうしではない。友達と呼べるかどうかも疑わしい。成り行きで知り合っただけなのだから......
歩くうち、万能鑑定士Qの店が見えてきた。
莉子はいった。「裁判が終わったら、すぐにこのお店、別の場所に移すから」
「いいよ、そんなこと......飯田橋店はここじゃなきゃ駄目ってわけじゃないんだし」
「元通りになったほうが落ち着くでしょう? わたし、不動産屋さんに頼んであるの。飯田橋から神楽坂周辺にテナントがあったら、連絡してくださいって。だけど、さっさと転居しちゃったら、ここに別の事業者が入っちゃうかもしれない。だからレティシア復興の日までは、わたしが間借りしてる」
「間借りだなんて。きみのお店だよ。大事にしなきゃ」
会話はつづかなかった。ふたりに沈黙が下りてきた。枯れ葉が風に舞りかさかさという音。耳に届くのはそれだけだった。
静寂だけ聴きいっていたい、そんな気分だった。
辺りが薄暗くなってきた。時間の経過が速い。もっとも、そう感じているのはわたしだけかもしれない。感傷に浸るだけの我儘に、彼をつきあわせては悪い。
「お元気で」莉子はささやいた。「頑張ってね、朋李さん」
朋李は無言で莉子を見つめていたが、やがてため息をつくと、マフラーを外した。
そのマフラーを莉子の首に巻きながら、朋李はいった。「本当にありがとう。感謝してもしきれないぐらいだよ。きみは最高の人だ」
胸が高鳴る。接近した朋李の顔を、そのまなざしをじっと見かえす。
微笑を浮かべ、朋李はつぶやいた。「じゃ、またね」
そう告げて朋李は背を向けた。黄昏のなかをゆっくりと遠ざかっていく。
マフラーに残る温もりを感じながら、莉子は朋李を見送った。ひとつの出来事がまた思い出に変わっていく。舞い散る木の葉のなかに過去が溶けて消えつつある。
瞬きすると、涙のしずくが頬をつたうのを感じた。きょうと違う明日が待っている。わたしは前向きに生きる。その決心は揺らがない。でもいまは、彼との記憶で胸を満たそう。わたしはまた独りになる。そんな明日から目を逸らそう。
三年後
瀬戸内陸の身柄が拘束された翌朝、空は限りなく青かった。
二十三歳の凜田莉子は、世田谷区松原にあるワンルームマンションをでると、明大前駅に向かって歩いた。
電車の走行音がきこえる。人の動きもどこかゆっくりしていた。窓が割れたままのコンビニも、営業を再開している。まだ空いている棚が目立つものの、レジには普通に客の列ができていた。サンドウィッチとペットボトル、いくつかのパンを買った客に店員が告げる。四百二十七円です。
耳慣れない金額に思える。万円とつくのが当たり前になっていたからだった。しかし、きのうまでの数日間と現在、どちらが異常かはすぐにわかる。雑誌コーナーには〝『週刊少年ジャンプ』は通常価格です〟の貼り紙があった。
駅前のパチンコ店はまだ閉まっていたが、レインボービルの各店舗は営業していた。ここにも〝日本円使えます〟の手書き看板がでている。売店に並ぶ新聞六紙の見出しは、過去に例がないほどの面積をとり、黒帯に白抜きで大書してあった。ハイパーインフレ終焉。偽札存在せず。一億総錯視が生んだ超物価高。
売店のなかで老婦人が小型テレビを視聴している。その映像は、けさから何度も繰りかえし放送されている官邸の記者会見のもようだった。官房長官が語気を強めている。「警視庁の特別対策捜査本部は昨晩、都内の某ディスカウントショップ経営者を詐欺罪の疑いで逮捕しました。この経営者は自身の借金を帳消しにするため、ハイパーインフレの発生を画策し、あたかも偽札がつくりだされたがごとくマスコミ各社に印象づけたとされています」
記者のひとりの質問が飛んだ。「政府の調査委員会が、マネタリーベースを二十兆円うわまわる偽札の流通があると発表していましたが?」
官房長官の顔は汗びっしょりだった。「調査委員会は証券アナリストなどの有識者によって構成されており......そのう、第三者によるチェックこそ信頼に足るという総理の意向でして。結果的には、それがですね、ある意味民間の調査だったわけで、財務省の官僚の見解とはまた食い違っておりまして......」
アナウンサーの声は、きのうより落ち着いたトーンになっていた。「お伝えしておりますように、偽札は存在しないという政府の発表を受けて公正取引委員会はけさ早く、国内の全事業者に対し価格を正常に戻すよう公示をおこないました。本日中に値上げぶんを撤回しなかった事業者については罰則も検討されているとのことです。では、数日にわたってつづいたハイパーインフレ騒動について、今中解説委員にききます。今中さん。昨夜の政府による会見は衝撃的なものだったわけですが」
「そうですね。しかし全銀協や各地の企業連合を中心に、偽札騒動に対し疑問視する声があがっていたことは事実です。騒動に拍車がかかったのは、政府の調査委員会による発表をきっかけとしていますから、この件をめぐる内閣の閣議決定がパニックを助長させたといっても差し支えないでしょう。政権交代を掲げて発足したばかりの内閣ではありますが、総理は退陣に追いこまれる可能性もみえてきました」
「首相の交替により、事態は変わるでしょうか」
「新たな総理に誰がなっても、各省庁との結びつきが浅く信頼も得られていない現政権では、たとえば未曾有の大災害が発生した場合、対応が後手にまわり要らぬ混乱を助長することも充分に考えられます。たとえば今回の偽札騒動でも首都圏の各都市で、電力節約のため計画停電が実施されようとしましたが、小規模かつ実験的なものに留まりました。管轄変電所は自治体ごとに分かれているわけでなく、複雑に入り組んでいるため、細部においてどこが停電になるのか電力会社ですら把握できていないと発覚したためです。仮に災害時に電力供給が不足した際、現行のシステムでは国民の生活に混乱をきたす可能性を、はからずも露呈したと考えられます」
「いま災害とおっしゃいましたが、日本国民は震災においても秩序を乱さない点が特徴とされてきました。今回の騒動では暴動や破壊行為も見受けられたわけですが、これについてはどのように考えられますか」
「やはり資本主義の根幹を揺るがす事態、貨幣経済そのものの崩壊という過去に経験のない状況に直面し、国民の不安が一気に高まったことがあげられると思います、よく海外のメディアが、日本人は被災地においても店のレジに列をつくり、お金を払って物品を購入すると評しますが、それは貨幣という絶対的な価値の尺度があればこそです。今回の騒動で、紙幣なるものは国が発行した印刷物にすぎず、通貨として成立するだけの安定した国力が維持されなければ、それらは紙きれにすぎなくなるという認識が、あらためて国民のなかに広まったと思います。私たちは今後、選挙において投票する際、どのような候補者を選ぶかを、より慎重に検討する必要に迫られそうです」
道行く人は、すでにテレビの音声を聞き流すか、あるいはまるで意識していないかのごとく振る舞っている。わずか数百円を払って週刊誌を、新聞を手にとる。それがごくふつうのライフスタイルだといいたげな態度だった。きのうまでのパニックが嘘だったかのように、元通りの生活に順応していく。この適応力も国民性かもしれなかった。
駅は混みあい、ホームにも人が溢れていたが、朝のラッシュ時には以前からみられる光景だった。人々の顔にときおり笑いが浮かぶことに、莉子は気づいた。明るい表情をひさしぶりに見た気がする。
通常なら新宿まででて、JRに乗り換えて飯田橋に向かう。しかしこの日の莉子は別の場所を目指していた。井の頭線で渋谷を目指す。満員状態の車両に押しこまれると、車内吊り広告が目にとまった。『週刊角川』もある。まだ偽札騒動の真相は見出しに反映されていないが、復刊がきまったのだろう。
渋谷は、より以前と変わらない日常の風景と化していた。ビル壁面の大型ビジョンが賃貸住宅のCMを流している。ツタヤ二階のスターバックスのカウンター席も、すべて埋まっているのがスクランブル交差点から見てとれる。
時間が経過するにつれて、分単位、いや秒単位で元の世界が修復されるのを感じる。社会はやはり人の群れで構成されていると思い知らされる。
ひとしきり渋谷を散策してから、半蔵門線で永田町駅に移動した。そこでまた有楽町線に乗り換えてひと駅、桜田門駅で下車する。四番出口をでてすぐ、皇居前広場の向かいに、鋭角状に突きだす建物があった。警視庁。
門の前には報道陣が押し寄せている。莉子は警備の制服警官に事情を説明した。すぐに別の通用口からなかに通された。
案内してくれたのは、田名部という見知らぬ警部補だった。組織は巨大で、細部にわたって分業制が徹底している。きのうチープグッズから莉子を連れだした警察関係者とは、いちども顔を合わせなかった。
留置施設は二階以上の南側にあります、と田名部は説明してくれた。エレベーターに乗り、三階に降り立つ。
通路の行く手には鉄格子の扉があって、その向こうに警官が待機していた。莉子が近づくと、電動式の扉は横滑りに開いた。ここから先は留置場区域らしい。
受付のカウンターにハンドバッグを預けて、さらにもうひとつ鉄格子の扉をくぐる。窓のない、延々とつづく薄暗い廊下は病院の地階のようでもあった。
角を折れたとき、たたずむひとりの若い女性と出会った。
カジュアルな服装には見覚えがある。一瞬、誰なのかわからなかったのは、いつもなら綺麗にセッ卜してある金髪が、きょうはひどく乱れているせいだった。
莉子は思わずつぶやいた。「楓さん......」
瀬戸内陸の娘、楓は真っ赤に泣き腫らした目で、莉子を睨みつけた。
いたたまれない気分になり、莉子は立ちつくした。
楓はゆっくりと歩み寄ってきた。唇を固く結び、声を押し殺して泣いている。大粒の涙が頬を滴りおちた。
無言のまま向かい合う。わたしを許せない気分でいっぱいだろう。莉子はそう思った。
「あ、あのう」莉子は萎縮しながらつぶやいた。「楓さん......本当にごめんなさい」
「......なによ」楓は震える声でささやいた。「ごめんなさいって、どうして謝るの?」
「だって......。わたしは、楓さんのお父さんを......」
「やめてよ。そんなの。心にもないことを」
「楓さん......」
「わたし、馬鹿じゃないから。お父さんが間違ってて、莉子が正しかった。それくらいわかってる。けどね......」
莉子は楓を直視できなかった。思わず視線が落ちる。「楓さん。わたしのことはもう......嫌いですよね」
すると楓は、幼児のように泣きじゃくりながらいった。「誰がよ......馬鹿にしないでよ。莉子を......嫌いになるはずがないでしょ」
思わず絶句する。莉子は楓を見かえした。
「だけど」楓はしきりに指先で涙をぬぐった。「お父さんも好きなの。嫌いになれないのよ。馬鹿だけどさ。どうしようもない馬鹿親だけど......。あのままならよかったとも思えるの。何日か経てば、偽札なんて誰かの悪戯だったってニュースが流れて......。うちの借金もいつの間にかなくなってて、お父さんと幸せに暮らせる。何も知らずに過ごしたかった。事実なんか、知ってどうなるっていうの」
楓は両手で顔を覆い、肩を震わせて泣いた。
莉子は何もいえなかった。昨夜以来、いつかこの瞬間が訪れると覚悟していた。でも、そのときにはどんな態度で臨めばいいのか。心構えなどできてはいなかった。
やがて、楓は顔を伏せたまま小声でいった。「こんなことなら、元のままでよかったのに......。どうにかしようなんて、お父さんも思わなきゃよかったのに。わたしが責めたから。借金生活なんか嫌だって、そればっかりいってたから......」
「そうじゃないですよ。楓さんのせいだなんて......」
声が詰まる。莉子は涙がにじみだすのをかろうじて堪えた。
泣いたところでどうにかなるものではない。むしろ、社会的には問題のすべては解決している。なにもかもが唐突に終わりを迎え、空虚さだけが残った。気づいてみれば泣くしかなかった、きっとそんな心境に違いない。
でもわたしは、まだ涙を流せない。大事な面接が待っているのだから。
田名部が声をかけてきた。凜田さん、なかにお入りください。
まだうつむいたままの楓を気遣いながら、莉子はゆっくりと扉に向かった。
通されたのは、窓がひとつしかない殺風景な部屋だった。アルミ製のテーブルがひとつ、それをはさんで二脚の椅子が置いてある。うち一脚に、見慣れた顔が座っていた。
ワイシャツ姿、ネクタイは締めていなかった。瀬戸内陸は莉子を見て、力なく笑った。「やあ。早かったね」
背後で扉が閉まる。室内でふたりきりになった。ゆうべのチープグッズの事務室、その再現だった。
莉子は、瀬戸内の向かいの椅子に腰かけた。
楓のときと同様、視線をあわせるのか辛い。莉子はテーブルに目を落とした。
だが瀬戸内のほうは、ためらうようすもなくこちらをじっと見つめてくる。
瀬戸内はきいた。「どうしてこっちを見ない?」
「......え?」莉子は顔をあげた。
「ちゃんと視線を向けなきゃ、観察したことにならない。その人が誰なのか、どんな表情を浮かべているか。思いこみを優先させちゃいけない」
しばし莉子は言葉を失っていたが、やがてうなずいてみせた。「そうですね......。心得てます」
「ゆうべはあの後、どうした? 家には帰れたか?」
「ええ。深夜というより早朝でしたけど......。官邸で記者会見がおこなわれている最中は、近くの建物で待機させられました。ききたいことがあるかもしれないって。けど、何の質問も受けませんでした」
「事実がはっきりしているから、だろうね。報道はどうなってる? まだ誰も新聞を見せてくれないんでね」
「瀬戸内さんの名前はでてません。ディスカウントショップ経営者としか」
ふっと瀬戸内は笑った。ごく自然な微笑だった。「それじゃ、近所の人にはばれてるだろうな。なにしろすごい数のパトカーが集まってたからな」
「事情のすべてを把握しているのは、ごくわずかな人たちだけです。財務省の絹笠さんと、警視庁の緋崎さん。工芸官の藤堂さん。わたしの名前も伏せる意向だそうです。角川の小笠原さんたちにも、わたしについて記事にしないよう通達があったらしくて」
「すると、警察でも所轄の人間までは詳細を知らされてないんだな」
「はい。牛込署の葉山さん、覚えてます? 葉山さんにも昨夜のことは伝えられてません」
「きみがハイパーインフレ騒動を解決した功労者だと、彼は知らないわけだ」
莉子は押し黙った。またテーブルの表面を眺める。
功労者だなんて......。いまのわたしは楓と同じ心境だ。こんな事実なら知らないほうがよかった。
ところがそのとき、瀬戸内は心を見透かしたようにいった。「悩むのはおかしいよ、凜田さん」
「え......?」莉子は顔をあげて瀬戸内を見つめた。
「きみは論理的に正解を導きだしたんだ。有機的自問自答、無機的検証の二段階の思考を経て得た結論だ。道義的にも間違っているはずがない。正しいのはきみだよ」
「でも......。瀬戸内さん......」
瀬戸内は片手をあげて、莉子を制してきた。「ひとつだけ、気がかりなことがあるんだよ。きみについて」
「何ですか」
「ゆうべ、きみは教えてくれたろ。竹富島での出来事を」
「......あー、例のウチカビの話ですか」
「そう。偽札工場だと思いこんでしまって、さんざん怖がってたって話だな」
「だって......。島の人たちはのんびりしすぎてたし、一緒にいた駐在さんも頼りなさそうだったし」
「豪華客船で大勢のヤクザを敵にまわしたのに?」
「あのときはマル暴の人たちがいてくれたから。それも百人ぐらい......」
「凜田さん。恐怖を覚えること自体はおかしくはない。問題は、それによってきみが観察を怠ったことだよ」
莉子は戸惑いを覚えた。「観察......」
「ウチカビに打刻する機械と印刷機は違う。なのにきみは見間違えた。正しく観察できなかったせいで、間違った答にたどり着いてしまったんだ」
「おっしゃる通りです......。よく見ている余裕なんて、わたしにはなかった」
「どうやら、きみの弱点はその辺りだな。度胸が据わっているようでも案外、怖がりなところがあるから、そんな状況に置かれると調子がくるってしまう。今後ひとりで店をやっていく以上は、克服すべき課題だよ」
「克服......できるでしょうか。わたし、小さいころから臆病だし」
「危険に飛びこめといってるんじゃないんだよ。いかなるときにも、よく見て、よく考えることを忘れないでほしいんだ。私自身、けさまで眠れない夜を明かして、そのことに気づいたんだよ」
「瀬戸内さんが?」
「ああ。どんなに追い詰められても、思考停止だけは避けねばならなかった。私は誤った道を歩んでしまった。ある時点で考えるのをやめてしまったからだ。熟考していれば、計画を実行に移そうとは思わなかった。多くの人を不幸に陥れながら、自分だけ借金苦から逃れる......。そんな利己的な行動に走らすに済んだはずだ」
題戸内の言葉は、莉子に告げるというよりむしろ、彼自身にいってきかせているかのようだった。しばらくのあいだ、瀬戸内は虚空を見つめて黙りこくっていた。みずからが発した言葉に耳を傾けている、そんな表情に思えた。
ふいに瀬戸内は、吹っ切れたような微笑を浮かべた。「詐欺罪だけなら十年以下の懲役だな。私が社会復帰したとき、万能鑑定士Qはどれくらいの規模になってるかな」
Qをクイーンでなくキューと呼んだ。ゆうべの約束を覚えてくれている。莉子は思わず笑った。「そんな。きっと神田川沿いのお店のままですよ」
「でも、引っ越す先を探していたんだろう?」
「ええ......。不動産屋さんからはたまに連絡がきます。レティシア飯田橋店を復興してあげたくて。でも......その必要はもうなさそうなので」
ふうん。瀬戸内は穏やかにいった。「どんなかたちにせよ、つづけることを忘れないでくれ。人のために全力を尽くすといった、ゆうべのきみの決意を守り通してくれ。きみが正しく生きてくれるだけで、私は安心して休める。それに......」
「何ですか」
「楓のことだよ。今後も、仲良くしてくれないか」
「......もちろんです。友達ですから」
瀬戸内は満足そうに笑った。過去に何度となく、莉子の成長を見届けるたびにみせた優しいまなざし。いまその視線が莉子に向けられていた。
扉が開き、田名部警部補が入ってきた。「瀬戸内。時間だ」
打ち解けた時間は去り、現実がとってかわっていく。瀬戸内は立ちあがった。
「頼んだよ」と瀬戸内は微笑とともにつぶやいた。「怖くても躊躇しないでくれ。考えるのをやめるな」
「はい」莉子は瀬戸内を見あげてうなずいた。「約束します」
田名部が瀬戸内の肩を軽く叩いた。瀬戸内は頭をさげて、田名部に従い戸口に向かった。
閉じる扉の向こうに瀬戸内の背が消えていく。莉子は部屋にひとり残された。
堪えてきた涙が溢れる。静寂のなかに響く自分の嗚咽だけが耳に届いていた。
また独りになる。真実が見えるようになってからはいつもそうだ。孤独は辛い。それでも、約束は果たさなければ。たとえ恐怖のなかにあっても怯えず、いつも冷静でいなければ。
信念
ハイパーインフレ騒動の終焉から三か月。その夜、莉子はスマトラ島最北端の州、アチェにいた。
メダン署の警察車両に乗せられて、ナガン・ラヤ県の海岸沿いを目指す。同乗者は『週刊角川』記者の小笠原悠斗。それに有名音楽プロデューサーの妻、かつて歌手として名を馳せた如月彩乃だった。
アレクサンドリーヌ号に乗船する前に、マル暴の祇園から受けた教訓に従い、今回も旅行については部外者の誰にも話していない。身内にすらも打ち明けていなかった。両親はわたしのことを、海外への渡航経験のない井のなかの蛙と信じているだろう。それでかまわないと莉子は思った。家族に要らぬ心配をかけたくはない。
窓の外に目を向ける。莉子は思わず息を呑んだ。
凄惨な光景が広がっていた。月明かりに照らしだされた家屋のほとんどは、原形を留めていない。イスラム建築のドーム屋根も泥のなかに沈んでいる。モスクらしき塔が道路に横倒しになっていて、車両は大きく迂回して進んだ。レンガの建物は軒並み全壊または半壊状態で、家具が道端にまで溢れだしていた。
波の音がきこえてくる。海岸はすぐ近くだった。一帯は丸ごと津波に呑まれてしまったのだろう。闇以外にはなにも存在しない。猫一匹見当たらない。まさにこの世のものとは思えない眺めだった。
スマトラ沖地震からもう何年も経つというのに、復興は進んでいなかった。半壊状態の空き家に、大麻の密売人などが住みついているという噂もある。本来なら警察が取り締まるべきだが、州都のバンダ・アチェにあった警察署も倒壊してしまったため、警察組織がうまく機能していないらしい。
全身の震えがとまらない。譬えようのない恐怖を莉子は感じていた。
偽札騒動が終結した翌朝、ニュースの声が告げていた。たとえば未曾有の大災害が発生した場合、対応が後手にまわり要らぬ混乱を助長することも考えられます。
貨幣の流通量を見誤った稚拙なミスが、現在の日本政府の危機管理能力をしめすバロメーターであってほしくない。いくら現政権が頼りなくとも、そこまで馬鹿な政府は存在しない、そういう声が事実であってほしい。でなければ、このインドネシア北部の廃墟のような眺めが、遠い外国の話ではなくなってしまう。
いくらか時間が過ぎた。運転席の警官が前方を指さし、なにか声を発した。
講堂のような大きな建物が見える。窓から明かりが漏れていた。電気が通っているとは思えないが、松明や蝋燭の光とも考えられない。揺らぎのない白色灯の光線が天窓から溢れ、空に向かって伸びている。
廃墟のなか、かろうじて走行可能とおぼしき脇道にパトカーが乗りいれていく。凹凸の激しい、無数の亀裂が走ったアスファルトを徐行して、建造物に接近していった。
建物の側面には大きな金属製のスライド式扉があって、ここからも光が漏れだしている。その前に二台のクルマが駐車していた。いずれも真新しい4WDだった。車内に人はいないようだ。
警察車両が静かに停車する。莉子は窓から4WDの車体後部を眺めた。「レンタカーだわ。ナンバーは北スマトラ州」
小笠原が驚きのいろを浮かべた。「ってことは......」
「ええ。現地の人じゃないわ。わたしたちと同じく空港からきてる」
廃墟に唯一存在する人の営み。そして来訪者。彩乃の夫、西園寺響としか考えられない。
そのとき、彩乃がふいにドアを開け放ち、車外に飛びだした。
「あ」小笠原が声をあげた。「如月さん!?」
彩乃は振りかえったが、その顔には悲痛のいろが浮かんでいた。じっとしてはいられない、真摯なまなざしがそう訴えている。
警官も制止を呼びかけたが、彩乃は身を翻して駆けだした。半開きになったスライド式の扉に向かい走っていく。
やむをえないと判断したらしい、警官たちも外に降り立ち、彩乃を追った。
そんな状況にも、莉子は我を忘れることはなかった。むしろ、こういうときこそ冷静でいなければ。そう自分にいいきかせた。
三か月前のわたしとは違う。怖くても躊躇しない、わたしは、考えるのをやめない。
安全地帯で震えていては、観察の機会を逃すだけだ。莉子はドアを開け、地面を踏みしめて立った。潮風をじかに頬に感じる。
小笠原が車内から呼びかけてきた。「凜田さん。駄目だよ。危ないってよ
「ほうってはおけない」莉子は走りだした。「小笠原さんも、早く」
暗闇に何度も足をとられそうになる。それでも莉子は、息を弾ませながら全力で駆けつづけた。歩を緩めてなどいられない。いつも真実はすぐそこにある。
万能贋作者
雨森華蓮は。駐車中のセダンのなかで助手席のシートを大きく倒し、サンルーフから見える夜空を仰いでいた。
まだ日の出まで時間がある。藍いろに輝きだした空にも無数の星が留まっている。じきに朝焼けに取って代わられるのだろう。この眺めも、また夜までお預けか。
カーラジオから聴こえてくるユーロビート調の曲は、西園寺響の往年のヒットソングだった。皮肉なものだ。逮捕をきっかけにリクエストが急増したらしい。FM局はどこも朝から晩まで、西園寺サウンドをヘビーローテーションしつづけている。
ほんの三か月前のハイパーインフレ騒動、世間ではさほど語られていないが、あれは闇の実業家の運命を大きく二分する出来事だった。
偽札騒ぎが国民の集団的錯覚にすぎないと気づいた者は、これを好機ととらえ、まんまと私腹を肥やした。だが、詐欺師のくせに馬鹿正直な西園寺のような男は、日本円の価値の失墜を信じ、手持ちの金を外貨に替えることばかりに専念した。結局、負債額は以前のままだったという。それゆえに、騒動の収束後もペテンで日銭を稼がざるをえなかった。
愚かな話だ。ドルではなく、誰もが見放した円を拾い集めておけば、それだけでひと財産つくれた。彼の莫大な借金も帳消しにできたろう。
華蓮は抜け目がなかった。騒動を利用し、貯金を三倍に増やした。政府の調査委員会の発表? 一万円札の流通量が二十兆円ぶん増加している? 華蓮は鼻で笑ったものだった。国民のタンス預金にすら想像が及ばないほど間抜けな政府とは思わなかった。馬鹿な政治家は大歓迎だ。たまにはこんな、棚から牡丹餅というべき恩恵に与るのも悪くない。
ただひとつ気がかりなのは、行政もしくは司法の側において、あの偽札騒ぎを見破ったのは誰かということだ。報道でも名は明かされなかったが、今後のためにも知っておきたい。
サイドウィンドウをノックする者がいた。セダンの脇にひとりの男が立ち、なかを覘きこんでいる。
華蓮はシートに寝そべったまま、ボタンを押してウィンドウを下ろした。
早朝の汐留ジオサイト、ひとけのないオフィス街のパーキングスペース。警視庁の田名部警部補は、乗ってきたクルマをはるか彼方に停め、徒歩で近づいてきていた。
小さくぽつんと見える田名部のクルマを眺めて、華蓮はふんと鼻を鳴らした。警察車両で来なかったのは、この男にしては利口といえる。カーロケシステムで密会場所が本部に発覚するなど願いさげだ。
「遅い」と華蓮はささやいた。
「どうもすみません」田名部は頭をさげた。「このところセキュリティのチェックが厳しくて、資料のコピーを持ちだすのも午前三時過ぎでないと」
「弁解はいいわ。で、誰だかわかった?」
「ええ」田名部は大判の封筒を差しいれてきた。「以前に瀬戸内容疑者の面会に来てましたからね。凜田莉子という二十三歳の女性です」
二十三......。年下か。華蓮は封筒から取りだしたファイルを開いた。「面会に来たってことは本庁じゃなくて所轄の人間?」
「いえ......。女性警察官じゃありません。鑑定家ですよ。飯田橋で万能鑑定士Qって店を経営してます」
華蓮は絶句した。と同時に、運転席の痩せ細った出っ歯の女が噴きだした。
絢音はにやつきながらいった。「万能鑑定士って......。万能贋作者って呼ばれてる誰かさんの向こうを張ってるんでしょうか」
「黙ってて」華蓮は文面に目を走らせた。「田名部。この資料によると〝西園寺響逮捕時、車両に同乗〟ってあるけど」
「実質的に彼女の説得により、西園寺が出頭をきめたようです」
「面白い」華蓮はファイルに挟んであった写真を見た。
猫のように瞳の大きな小顔の女性。美人だがどこか個性的で印象深い。実年齢よりかなり若く見える。
この女の子が鑑定家ねぇ......。ふうん。
田名部はしきりに手もみしながら餌を待っている。
華蓮はダッシュボードからブツを取りだした。百万円の札束を三つ新聞紙にくるんで、輪ゴムでとめてある。それを窓の外に放り投げた。
すぐさま田名部がそれを受け取り、ちらと包装のなかを確認する。たしかに、そういって田名部は自分のクルマに走り去った。
金を受け取った以上は、もう一秒もここに留まりたくない、そういいたげなせわしない挙動だった。田名部はクルマを急発進させた。赤いテールランプが朝もやのなかに消えていく。
絢音がステアリングに手をかけた。「帰りますか」
「きくまでもないでしょ」華蓮はシートを元に戻した。携帯電話を取りだし、絢音の相棒の比乃香にかける。
「はい」と比乃香の声が応じた。電話だけならそれなりに可愛い声にきこえる。丸々と太った体型は想像もつかない。
「比乃香」華蓮はたずねた。「凜田莉子って鑑定家、知ってる?」
「凜田......ですか。さあ。メディアでは見かけませんわ」
「売れてきたら教えて」華蓮はサイドウィンドウを閉じながらつぶやいた。「しばらく退屈せずに済みそうだから」
現在
悪夢のような東日本大震災から三か月が経った。危惧していたあらゆる事象が現実となり、一時は希望も潰えたかに見えた。けれども、未来は閉ざされてはいない。復興への努力も、徐々に実を結びはじめている。
夜の飯田橋駅前は、節電の影響もあってライトアップも控えめだった。それでも駅ビルの外壁を飾る、巨大な〝モナ・リザ展〟の看板は煌々と照らしだされている。災害復興チャリティーとしては大成功で、開催三日めにして入場者数は十万人を突破したときいた。アジア近隣国からの観光客もこれを機に戻りつつあるというから、やはり『モナ・リザ』の来日効果は絶大なものだった。
莉子はその看板の前を離れ、歩きだした。アーチ形の天井を備えたホールに入る。ステンドグラスの下に設けられたイベントスペースで、バイオリンの演奏会が厳かに催されていた。
人の流れは駅の改札へと向かっているが、莉子は逆側のショッピンクモールを目指していた。
閉店時刻を迎えてシャッターを下ろす店舗が多い。そのなかで、瀟洒に光り輝く美容室サロンの看板が目を惹く。レティシア飯田橋店。シックなフランス語のロゴが横たわる。
莉子は開いた自動ドアを抜けて店内に入った。
グレインウッドとベージュを基調としたスタイリッシュな内装。いらっしゃいませ。従業員の声がこだまする。あいかわらずの盛況ぶり、女性客によってほぼ満席状態だった。
従業員がきいてきた。「ご予約は?」
「凜田といいます」莉子はおじぎをした。「笹宮さんをお願いします」
どうぞおかけください、と席を勧められる、従業員は振りかえって呼びかけた。店長。
鏡の前に座ってしばらく待っていると、背後にスマートな体型の男性が立った。
以前と変わらないモード系ファッション、二十四になってもどこか子供っぽさの残る色白の顔。鏡の反射を通じ、視線が合った。
「こんばんは」朋李は微笑とともに控えめな口調でいった。「遅い時間になっちゃってごめんね」
「いいえ」莉子は笑ってみせた。「忙しいことはわかってたから......。わたしのほうも仕事があったし」
「ずっとつづけてるんだよね、お店。偉いね」
「日本に帰ってきたら立ち退いてあげるっていったのに。こんな立派なお店をだすなんて」
朋李はふっと顔をほころばせた。「新宿区神楽坂西4-3-12は、万能鑑定士Qでなきゃ。いい立地なんだし、ずっと凜田さんにいてほしい」
「......朋李さんがそういうなら」
「きょうはどうする? いつもみたいにおまかせでいい?」
「ええと......。ストレートロングのままでいいんだけど、黒髪にしたいし、下ろしたときにあまり広がらないぐらいに......」
「彼氏ができた?」
莉子は思わず言葉に詰まった。「ちょ、ちょっと......。なんで?」
「いや。めずらしく具体的にオーダーしてくるから、そう思っただけ。違った?」
「違......。さあ。わかんない」
「いわなくてもいいよ。お客様のプライバシーには踏みこまない主義なんで」
「もう踏みこんでると思うんですけど」
「きみほど何もかも正確に見透かしてはいないよ」朋李は鏡のなかで莉子と顔を並べて、こちらを見つめてきた。「どう? 僕の顔。幸せそうに思える?」
「......ええ」と莉子は笑った。「とっても」
「そう。きみがいうなら正解かも」朋李はヘアブラシを手にとった。「じゃ、きょうも綺麗にさせてね」
わたしの心はずいぶん落ち着いている。莉子はそう思った。自分の顔を真正面から見つめても、嫌にならないなんて珍しい。
鏡のなかに理想どおりの光景があるからだろう、朋李が優しく丁寧に莉子の髪を整えてくれている。しかもそれは、いまここにある現実だった。
静かな到達点。ささやかな夢は叶った。希望が潰えそうになっても、きっと道は開ける。無明の闇もいつかは終わる。まばゆいばかりの陽射しが差しこむときがくる。


万能鑑定士Qの事件簿 11
翁、四つの數を教へてくれしが、小作居眠りをしたりてよく聞きたらざりき。床屋の家をとぶらひてから、指示を仰ぎたるほどに翁の言ひしことも判らむと思ひたりき。
庄屋、早口にうちいでき。大より小へ並べ、小より大へ並べ、その差が出づれば、また同じ。やがて右手を寅の顔に、二度と放さず歩きてゆかばよし。
翁教へてくれしを知らざらば庄屋の指示は心得られず。小作、居眠りするべきにあらざりきと思ふ。
五年前
金閣寺からの帰り道、都立四ッ谷女子高の修学旅行バスの車内は、にわかに沸いた。
きっかけは、窓際に座っているひとりの生徒の声だった。ねー、ちょっと。あの人かっこよくない?
なにげないひとことに対する生徒たちの反応は、当初は鈍かった。しかしざわめきのトーンはすぐさま急激に跳ねあがり、うそー、マジじゃんという驚嘆に移行、次の瞬間には黄色い歓声に変わっていた。生徒たちはいっせいに片側の窓に押し寄せた。その勢いたるや、横転の不安がよぎるほどだった。
またか。担任の女性教師、奥由香里はうんざりした気分で振りかえった。壮麗な庭園にも金閣の輝きにも無関心、そのくせ道行く男性のルックスに大仰な反応をしめすとは。
たしなめようとしたとき、背後の生徒が先んじて声をかけてきた。「先生、見てよ。超かっこいいって。ほら、あの歩いてる人」
「静かになさい」由香里は叱責しながら窓に目を向けた。「じろじろ見られたら不快に思うでしょ。地元の人に迷惑をかけちゃいけないってあれほど......」
由香里は絶句した。思わず胸が高鳴り、恍惚として我を忘れそうになる。
徐行するバスの斜め前方、鏡石通沿いの歩道を、こちらに向かってゆっくり歩いてくる男性の姿があった。
年齢は二十代前半、ほっそりと痩せた長身、ワイルドなアメカジ・ファッションながら清潔にまとめている印象がある。長い髪はやわらかい猫毛調で、細面とあいまって中性的に見えた。襟足がベージュのカットソーに映えている。おとなしそうな顔つきではあるが鼻はつんと高く、目もとは涼しくて、高貴さと優しさ、少しばかり神経質そうな生真面目さが適度に入り混じっていた。肌は透き通るほど白く、ここから眺めるかぎり人形のように艶やかで滑らかだった。
ポール・スミスの洒落たバッグを肩にかけ、両手をデニムのポケットにいれて歩くさまは、どこか豹を連想させる。動作が軽やかで優雅だった。すらりと長い脚のせいかもしれない。それでいて、決してなよなよしさを漂わせず、芯の強さを感じさせる。育ちのよさそうな気品もまとって見えた。こんな男性は初めてだ......。
やがてバスの速度があがり、一気にすれちがった。男性の背が後方に飛び去るように消えていった。
水無施瞬は背後を振りかえり、女子高の修学旅行バスが遠くに走り去るのを見送った。
あのバスも金閣寺をでて、すぐ近くの龍安寺、もしくは仁和寺に向かうところだろう。
全国の中高生が京都を訪ねた際のルートは固定化されている。小泉純一郎が総理大臣としての任期を終えても、この国に劇的な変化はない。不況はなおもつづくし、観光バスは鏡石通から木辻通へと素通りしていく。わき道の先に埋もれる貧乏寺になど誰も関心を持たない。
瞬は、その狭い路地に足を向けた。高校を卒業するまではさかんに行き来した道。頭上高くまで伸びきった雑草のアーチをくぐり、緩やかな起伏を越えて小さな山の麓にたどり着く。瞬の実家兼寺は、かつてとまるで変わらない姿のまま、そこに存在していた。
ひっそりと小さな門が迎える。音隠寺という表札の字も消えかかっていた、境内に入っても、見るべきものは何もない。雑木林のなかにたたずむ本堂はちっぽけで、開祖である祖父が建てたころから大幅な改修もなく、老朽化の一途をたどっていた。傍らには申しわけていどに石仏群があるが、これも祖父が一体ずつ彫った物ときいている。
僧侶でもなかったひとりの男が、半ば唐突に思い立って草創した寺。それも年号は昭和、戦後の建造物だった。たぶん、金閣寺の近くに持っていた土地を有効活用しようと考えたのだろう。祖父のアイディアが実を結ばなかったことは、このひとけのない荒れ放題の境内を見ればあきらかだった。
子供のころは何も気にせずに本堂の周りを駆けまわっていたものだが、さすがに二十四にもなると両親の暮らしが心配になる。水無施瞬は本堂を迂回して、その向こうにある平屋建ての一軒家に歩を進めた。
瓦屋根の木造、窓枠だけはサッシに改められている。質素な暮らしぶり、農家のようなたたずまい。十八で飛びだしたときと何も変わらない。
ついきのうまでここにいたかのような、妙な錯覚にとらわれる。裏手にまわると、縁側で雑巾をかけている母親の姿があった。
小柄で、やや太っていて、いつも地味な服を着ている。やはり六年前と同じだった。ただ、頭には白いものが増えた。動作もいくらか緩慢になっていた。
瞬はゆっくりと歩み寄った。「母さん」
母、水無施玲菜の顔があがった。驚きとともに笑みがひろがる。「あらあ。ひさしぶりやね。いきなり帰ってきはって」
「ちょっと......驚かせたくて」
控えめにつぶやきながら瞬は思った。皺の数が増えている。当然かもしれなかった。家をでてからずっと、ろくに連絡も寄越さなかった。母に気苦労をかけた、そう実感した。
玲菜はしかし、再会の喜びをあからさまにしめすことはなく、庭先に両手を突きだし雑巾を絞った。「なんか、東京のほうじゃそれなりにうまくいったんやって? お父さんも嬉しがってたわ」
ふうん。あの父がそんな感情を表すことがあるのだろうか。
いや。たぶんわが子の成し遂げてきたことを伝えきいて、両親も認めざるをえなくなったのだろう。
代官山と神楽坂で飲食店を成功させた。年商は両店あわせて十億、経常利益は三億。親に具体的な金額を教えてはいないが、薄々勘付いているはずだ。都心の一等地のマンションに移り住んだことは、住所を連絡した際に両親の知るところになっているのだから。
かつては勉強もできず、友達もいない内気な子供だった。世にでてからも集団生活からつまはじきにされがちだったが、ある人物との出会いが運命を変えた。
ディスカウントショップ〝チープグッズ〟店長、瀬戸内陸。彼は僕のなかに秘められた商才を開化させた。無駄のない論理的思考を獲得できたのも、彼に師事したおかげだ。
高卒までドン底の成績ながら、ひと財産築いた息子をどう思っているのだろう。父は僕のことを、単なる落ちこぼれだと揶揄した。その後の心境の変化を知りたい。
「父さんは?」と瞬はきいた。
少しばかり間があった。玲菜は目を逸らしながらいった。「接客中」
なら、庭先で立ち話をしているのだろう。寺とはいえ、檀家信者はほとんどいない。来客といえば近所の知り合いぐらいだ。
玄関が見える場所にまで赴く。音隠寺の住職にして瞬の父、水無施直輝の姿がそこにあった。一張羅の袈裟ではなく、ワイシャツにスラックスをまとった父は、母以上に小さく見えた。
坊主頭に洋服は似合わない。幼いころから父を見るたびそう思ってきた。いまもそんな父の姿がひどく哀れに感じる。何度も頭を垂れるせいで、余計にそう思えるのだろう。来客の初老の男は軽蔑のこもったまなざしで直輝を見おろしている。両者の力関係はあきらかだった。
ふたりとも、まだ瞬の存在には気づいていないようすだった。瞬は踵をかえし、縁側に戻った。
瞬は母にきいた。「あれ、誰?」
玲菜は憂鬱そうにつぶやいた。「集金の人でしょ」
「......借金してんの?」
「しようがないでしょ。儲からへんねんし」
軒下の雨どいから水が滴りおちている。瞬はそれを眺めた。
雨が降ったのは何日か前のはずだ。なのに雨どいにはまだ水が溜まっている。ごみが詰まっているか、雨どい自体が逆方向に傾いて勾配が甘くなっているかのどちらかだった。
修繕の費用もないのだろう。瓦も一部が崩れている。柱と梁の交わりは、どう見ても直角とは思えない。歪んだ在来工法の家屋。いずれ倒壊に至ってもふしぎではない。
庭先に足音がした。父の直輝がゆっくりと歩いてきた。
「おう」直輝は静かにいった。「なんや。帰ってきたんか」
「ただいま」
直輝は立ちどまり、瞬を眺めまわした。「えらいチャラチャラしてんな」
玲菜が咎めるようにささやいた。「お父さん。こういうのがいまの流行りやって」
ふうん。直輝は靴を脱ぐと縁側にあがった。「ま、立派になった。飯屋はごっつ成功してるらしいな」
「イタリアンレストランだよ」
「急に帰って来はったんは、あれか。女にでもフラれたんか」
......つまらない軽口は昔のままだ。
とはいえ、帰郷の理由は当たらずといえども遠からずだった。瞬は、地元に住む少女と親しくなっていた。上京した際に代官山店に客として来て、瞬のファンになったらしい。
もっとも、彼女は瞬よりもずっと年下、それもまだ中学生だ。最近の娘はませているとはいえ、相手が未成年では深い関係は望むべくもない。瞬はただ四条大宮のカフェで談笑するに留めた。ピアノと書道の得意な女の子だった。
ついでに実家に寄り道しただけのはずが、いまは父母の家計が気になって仕方がない。瞬はいった。「父さん。いままでは家にお金をいれてこなかったけど、これからは......」
「ええって」直輝は穏やかな表情で、片手をあげて制してきた。「そんなん、気にせんでもええ。瞬は東京で元気でやれてんのやろ。それで問題あらへん。寺のことは、父さんにまかせときゃええ」
瞬のなかに、ここに来るまで予想もしていなかった感情がひろがった。
父が僕を認めた。あれだけ必死に寺を継がせようとしていた父が、独立について受けいれた。しかも、家業に戻ることも、両親の生活を支えることも強制しない。
かつては是が非でも実現させたかった父との会話。それは唐突に訪れ、もはや既成事実になっていた。父はもう僕を拘束しようとはしない。そして寺についても......。
ささやかずにはいられない。瞬は小声で疑問を口にした。「寺、うまくまわってないんだろ?」
「......おまえが心配することやない」
借金についてはいいださないつもりだろう。息子の手を借りる気も毛頭ないらしい。祖父の代に始まった寺を、父が潰す。こちらに火の粉が飛ばないよう、みずから距離を置こうとしている。
息子を僧侶に育てようとしてきた厳格な父の面影は、いまはない。疲れきった熟年の顔がそこにあるだけだった。
直輝が瞬にきいてきた。「飯は?」
「まだ食べてない」
「なら一緒にどうぞ。あがれ」
瞬は黙ってその言葉に従った。靴を脱ぎ、六年ぶりに我が家の畳を踏みしめる。
いちおう住職ではあるものの、どの宗派にも属さない〝単立〟の寺の主である直輝は、息子の瞬をどこか名の知れた寺院に入門させたがっていた。瞬をきっかけとして、音隠寺もその宗派に属することを夢見ていたようだった。
じいさんは、本堂らしきものを建てて寺だと自称し、怪気炎をあげているだけの変わり者だった。俺は違う。うちを本物の寺にする。それがかつての父の口癖だった。
貧乏ながら負けん気に溢れた日々は、いつしか過去になっていた。諦めの感情に満ちた空虚さだけが、実家に蔓延していた。
瞬は居間を見まわした。地デジチューナーを付けたブラウン管式のテレビが目に入った。
「何も変わってないね」
直輝はちゃぶ台の傍らに腰を下ろしていた。「箪笥の横を見てみい。新しく買うたった。業者が、仏具の注文はファックスでしてくれいうんでな」
ファクシミリ......。たしかに周りの家具とは不釣り合いだった。どこの家庭にもある、しかし我が家にとってはめずらしい部類に入る文明の利器を眺める。瞬はいつしか物思いにふけっていた。
貧困という逆境は、商売人の脳を活性化させる最良の刺激にほかならない。瀬戸内店長の至言だった。彼の教えは僕のなかに生きている。意識せずともあらゆる可能性が顕現する。脈のありそうな方策をひとつに絞りこむ。有機的自問自答。でた回答を別角度から検閲する。無機的検証。実行に移せば儲けにつながるか否か。いかなる障害が予想されるか。順次、二段階の複眼的かつ論理的な分析によりシミュレーションしていく。
ふいに閃くものがあった。瞬は父親を振りかえった。
「父さん」瞬はいった。「僕、寺を継ぐよ」
直輝は静止した。硬い顔が、瞬をじっと見据える。
「おまえ」直輝は低くきいてきた。「何いってんのや」
「僧侶になれって、子供のころからいってたろ。そうするんだよ」
声をききつけたらしく、玲菜が血相を変えて台所から飛びだしてきた。「瞬。それ本気なん?」
「当然」
「そんな立派な髪をばっさり切って......。頭丸めんのかい」
「......必要とあればね。たしかに、スキンへッドじゃなきゃ坊主っぽくないよな」
だが、直輝は吐き捨てた。「あほ抜かせ。おまえに住職は務まらん」
瞬は退かなかった。「務まるも何も、単立なんだから仕来たりもあって無きがごとしだろ。うちは自営業そのものじゃないか。寺と主張しているから寺。住職だといえば住職」
「そない言うても......。貧乏寺を維持したとこで、金がでてくだけやで」
「よその寺と何が違うと思う? 人は御釈迦様に会いにくるんだろ。うちには釈迦がいそうに見えない。だから、いるように見せるんだよ」
「いるように見せるって......。あのな、瞬。御釈迦様ゆうのは......」
「建て前の宗教論なんか要らないって。周りを見てみなよ。金閣寺の拝観料は四百円、清水寺は三百円。札やお守りみたいなグッズを売って、おみくじというアトラクションで稼ぐ。人は目新しい楽しみや歓び、風変わりなイベントを求めて足を運ぶんだよ。いいから、まかせてみなって」
「瞬......京の都には名だたる神社仏閣がひしめいてんのや。いまさらこんなちっぽけな寺で、いったい何ができるっちゅうねん」
胸に秘めたる自信とともに、瞬は荒れ果てた境内に目を向けた。
飲食業界の激戦区、右も左もわからぬ東京で、地域ナンバーワンの店舗をふたつ育てあげた。競合相手の寺社がどんなに密集していようが関係ない。期間は......五年だ。五年でこの寺を、京都で最も集客力のある人気スポットにしてみせる。
祈願文
テレビ番組をつくるのは局ではなく、下請けの制作会社の仕事だった。その規模もピンからキリまである。大手は丸ごと番組の制作を依頼されるが、井村奈央をリポーターとして雇うこの会社は弱小にすぎず、番組のなかのワンコーナーを任されているだけだった。
それも、京都のローカル局夕方のニュース、わずか数分間のロケVTRの受注にすぎない。かつてはこうしたロケも新人の局アナが駆りだされたものだときくが、経費節減の折、契約社員の奈央が受け持つのが常だった。
北区といえば金閣寺だが、きょう訊ねるのはその近所にある音隠寺。京都育ちの奈央にとっても、見たことも聞いたこともない寺だった。鏡石通から外れた路地の奥。たしかにその寺は存在した。
奈央にとっての音隠寺の第一印象は、ちっぽけだがわりと小綺麗というものだった。本堂は最近になって修復がなされたらしい。真っ赤にペイントされ、金の装飾があちこちに施してある。ロケに同行したカメラマンも唸っていた。紫外線でたちまち退色するはずなのに、思いきった色を使うね。しょっちゅう塗り重ねてるのかな。だとしたら、案外儲かってるのかもね。
番組スタッフがここを訪ねた理由はただひとつ、『情報をお寄せ下さい』のお便りコーナーにメールがあったからだった。知る人ぞ知る伝統的な寺との噂だが、僧侶の自作自演かもしれない。ディレクターも半信半疑のようすだったが、若き住職に対面した瞬間、奈央にとってそんなことはささいな問題でしかなくなった。
ふいに奈央の胸はときめきだした。思わず仕事を忘れそうになる。
彼の袈裟は紫というよりパープルと呼ぶほうがしっくりくる、どこか異国情緒に溢れた派手な装いだった。スキンへッドの小顔はデパートのマネキンのように端整で、美形ここにありといわんばかりのオーラをまとっている。中性的でありながら髪が一本もないその姿はまるでほかの星から飛んできたようでもあり、わずかに褐色がかった真摯な瞳とともに、乙女心をとらえて離さない究極の美青年の様相を呈していた。
態度も控えめで、品があって、物腰も柔らか。仏門に入っているという禁欲的な情緒がまたそそる。顔を眺めているだけで幸せ。こんな心境は初めてだった。
本堂をバックに境内に立ちながら、奈央はぼうっと水無施瞬の顔に見いっていた。
「おい」ささやくようなディレクターの声がした。「奈央。どうした。次の質問は?」
「あ......はい」奈央は我にかえった。瞬に突きだしたままになっていたマイクを、自分の口もとに引き寄せる。「わ、若くしてお寺をお継ぎになったわけですけど、まずはそのう、この音隠寺の成り立ちについて説明していただけますか」
水無施瞬は、アルカイク・スマイル調の神秘的な笑みを浮かべ、穏やかに告げた。「単立ということになっていますが、実際には南北朝以前からつづく由緒正しい宗派のひとつだったと考えられています。私の祖父がその所在をしめす石碑を発見しまして、かつての寺を再現し、復興したのです」
「へえ......。長い歴史のうえに成り立っているんですね。ところで、水無施住職。こちらのお寺に、よく黒塗りのリムジンが乗りつけられているとの情報が視聴者から寄せられているんですが......。なんでも裕福そうな人が、護衛つきで本堂に出入りしているとか」
「ああ、そのことですか。政治家のかたがお忍びで祈願においでになることは、めずらしくありません」
「政治家......ですか? すると京都市議とか......」
「のみならず、国会議員のかたもよくおみえになります。第二次吉田内閣のころ、民主自由党の閣僚候補のかたがおひとり、この寺に伝わる儀式に興味を持たれたようで。以来、入閣をめざす議員の方々が自主的にお越しになられています。もっとも、政教分離の原則もあり、あくまで個人的な拝観としておられまして、公にはなさっていないようですが」
「へえ。意外ですね。失礼ですけど、ほかの有名なお寺を差し置いてこちらに祈願するってことは、さぞ有難みがあるんでしょうね。一風変わった祈願の儀式との噂もありますけど」
「変わっているかどうか......。うちの寺では代々おこなわれてきたことですので、私にとってはいたって普通です。ご覧にいれましょう。こちらです」
瞬が歩きだした。その歩調もまた優雅、あたかもシェイクスピア俳優のようだった。うっとりと見とれながら後につづく。スタッフたちも移動を開始した。カメラは、奈央と瞬のツーショットを撮りつづけている。
九月下旬だけに紅葉にはまだ程遠いが、境内にひろがる鮮やかな緑が青空のもとに映えていた。正直、いたるところに庭師職人の手が入っている京都の景観のなかでは、特筆に値するほどではない。整えたのもつい最近らしく、枝ぶりも充分に足りていないところが見受けられる。
だが、奈央にとってはどうでもよかった。木立ちなど彼の背景にすぎない。
本堂の回廊には、やはり袈裟を着た初老の男女が坐していた。瞬の両親だという。奈央が会釈をすると、ふたりはどこかぎこちなくおじぎをした。瞬と違い、両親のほうはあきらかにカメラ慣れしていない。取材に対してもどこか臆病そうな姿勢を垣間見せる。たぶん、さっき撮った両親へのインタビューは使いものにならないだろう。
本堂から少し離れたところに石仏群があり、真ん中に四本の柱が立っていた。それぞれの頂点から細い鎖が伸びていて、中央にひとつの木箱を吊りさげている。周りにはロープが張りめぐらされ、木箱には近づけないようになっていた。
箱のサイズは高さ十五センチ、幅三十センチ、奥行き二十センチほど。正面の下部に小さな引き出しがついていて、南京錠がぶらさがっている。もともと古そうな箱だったが、雨風に晒されているせいもあって、もはや朽ち果てる一歩手前というありさまだった。
奈央は瞬にきいた。「これはどういった物で......?」
「室町時代には仏教信仰が庶民のあいだにも広まりました。願いごとを書いた祈願文を寺に奉納するようになったのは、そのころだといわれています。音隠寺では、石仏たちに守られたこの一画に祈願書を収めた箱を掲げています。非常にご利益があるんですよ」
「ご利益というと、具体的にはどのような......」
「平安の世では、大学寮で式部省試という試験がおこなわれていたそうです。合格祈願のために、箱をどこかの寺に奉納していました。その寺は焼失してしまったようですが、箱だけは音隠寺が引き継ぎました」
「すると、この箱は平安時代から受け継がれている物ですか」
「そうきいております」瞬は箱を手で指し示した。「ここ一年ほどのあいだに、入閣をお望みの国会議員の方々のご要望に従い、お名前を祈願文にしたためさせていただいております」
奈央は思わず笑った。「安倍内閣の組閣はきょう発表ですね。まだ公になっていませんが」
「こちらとしましても、祈願文を事前に公表すると社会的影響力が生じてしまいますので......。本日ならお見せできると思いますが」
するとディレクターが声をあげた。「面白い! カメラ、いったん止めよう」
音声のマイクが遠のいて、カメラのレンズがさがる。ディレクターはADにきいた。
「組閣発表はまだか?」
ADは携帯電話を操作しながらいった。「報道局の政治部には情報が入っていないそうです。新聞各社のサイトもチェックしてみます......。まだ掲載はありませんね。あ、ちょっと待ってください」
「あったか?」
「各紙のモバイル用サイトがいっせいに第一報を載せました。たったいまアップされたばかりの記事です」
「よし」ディレクターは携帯電話を受け取り、それを奈央に差しだしてきた。「これを持って。回すぞ」
「はい」奈央は携帯電話を片手に、瞬に向き直った。「水無施住職。マスコミから発表がありましたが」
瞬は微笑を浮かべたま、ロープを踏みこえた。「祈願文をお見せしましょう」
カメラマンが食いいるように身を乗りだし、その一挙手一投足を画におさめる。瞬の動作には、どこにも誤魔化しめいたところはなかった。公明正大にゆっくりと鍵を開け、引き出しの把っ手に指をかけてから、手前に引っぱりだす。
なかには巻いた紙筒が一本だけおさまっていた。幅は二十センチぐらい、直径は二、三センチ。瞬のピアニストのように細い指が、それを取りあげる。
材質は和紙のようだった。西洋の書簡のようにシーリングワックスで封をしてある。すなわち赤い蝋が垂らされ、寺紋を刻印してあった。封蝋は乾ききって古くなっている。
マイクを突きだして、奈央は瞬にたずねた。「これはいつごろ奉納されたんですか」
「ふた月前です」瞬は封蝋をはがした。「私が願いをこめて書かせていただきました」
巻いた紙が開かれた。達筆ながら読みやすい毛筆で記してあった。
カメラがズームアップする。レンズを通して文面を見たカメラマンが、まず真っ先に驚きの声をあげた。
ほぼ同時に、奈央もかつてないほどの衝撃を受けた。血管が凍りつくような寒気が走る。思わず、手にした携帯電話の液晶画面と見比べる。
撮影中だというのに、ディレクターのうわずった声が響いた。「な、なんてこった! こりゃいったい......」
──以下の皆様の入閣をご誓願申し上げます。安倍晋三様、菅義偉様、長勢甚遠様、麻生太郎様、尾身幸次様、伊吹文明様、柳澤伯夫様、冬柴鐵三様、塩崎恭久様......。
わが目を疑うとは、まさにこのことだった。
報道にある通りの、全閣僚の名義が網羅されている。発表まで国民の誰にも知るよしはなかったはず......。
境内では朝からロケの準備が進められていた。この箱には住職を含め、誰も近づいてはいない。
二か月前、組閣の詳細を知る人物が祈願に訪れ、閣僚候補の名を挙げ連ねたのか。あるいは、個別に祈願を希望した議員たちが揃いも揃って入閣した......すなわち驚異的なご利益に授かったのか。いずれにせよ、噂は本当だった。
奈央は瞬にきいた。「み、水無施住職......。こちらのお寺では、そのう、わたしたちの個人的な祈願も受け付けてもらえるんでしょうか」
「ええ、もちろんですとも」瞬は涼しい顔でさらりといった。「受験の合格祈願や、縁結びを願ってご依頼なさるかたもおいでになります」
縁結び......。奈央は神仏以上の輝きを放って見える水無施瞬の微笑を見つめた。そのずば抜けた美青年ぶりに、いまは絶大なカリスマ性も加わり、もはや人間とは思えないほどの威光に包まれている。
もし次に良縁のための祈願文をしたためることがあるなら、ぜひわたしと住職の名を並列して書いてほしい。ふだんから交際相手に恵まれない奈央は、心からそう思った。
新聞記事
音隠寺の祈願閣僚関係者は「関知していない」(二〇〇六年十月二日 読売新聞)
先月二十六日に発表された安倍内閣の閣僚名簿が、その二か月前に京都の寺に奉納された祈願文に記されていたと地元ローカルテレビ局が報じた問題について、複数の議員秘書が「事前に組閣の詳細を知る人物がいた事実はなく、また議員および関係者が寺を拝観したこともない」と証言していることが、一日の参議院予算委員会を前にあきらかになった。
これを受けて塩崎内閣官房長官も「閣僚名簿が発表前に外部に漏れていたとすれば由々しきことだが、二か月前といえばまだ組閣の枠組みすら決定していないころであり、情報の漏えいのしようがない」と発言している。
「議員が個別にお忍びで拝観し、祈願したのでは」との記者の質問には「個人的な参拝や拝観についてまでは、議員のプライベートでもあり、内閣は干渉する立場にない」と答えるにとどまった。
神仏習合に関する研究で知られる生田和夫筑波大名誉教授の話──寺が理由もなく入閣希望者の祈願書を奉納する意味はなく、極めて個人的かつ秘密裏に依頼があったと考えるべきだろう。議員本人による依頼でないのなら、支持者によるものかもしれない。政教分離の原則に抵触するか否かは微妙なところであるが、個人の感情に基づく祈願とすれば、初詣などと同じく、ごく一般的な拝観の延長と考えて差し支えない。今回は祈願書にしたためられた名簿が、偶然にも入閣者のリストと一致していたため注目されただけのことで、祈願そのものが政治を左右しているわけではなく、問題はないと思う。
音隠寺祈願「ご利益ありそう」77・8% (二〇〇六年十一月十七日 毎日新聞)
安倍内閣の全閣僚の氏名が事前に記載されていたとして話題になった、京都・音隠寺の祈願文について、八割近くの人々が「ご利益を期待できそう」と考えていることがあきらかになった。
一部週刊誌およびテレビ局は音隠寺に取材をおこない、その日実際に祈願箱から取りだされ掲示された祈願書を借り受け、専門家により鑑定したが、紛れもなく和紙に筆で書かれた物であることが確認された。祈願書には、ごく最近になって結婚が発表された著名人らの名が記してあり、成婚が祈願されていたことから、さらなる注目を集めた。
実際に著名人もしくはその関係者が寺を訪ねて祈願を申しこんだか否かは不明であるが、家族や親族、もしくはファンがそのように願いでた可能性もある。情報番組による取材では寺の外に定点カメラを設置し、一か月前から境内に吊るされた祈願箱を逐一監視、公表まで誰も箱に近づかなかったことが証明された。
だが、このような一部マスコミによる扇情的な取り上げ方に、国民の大多数は冷めた反応をしめしている。「ちゃんとしたお寺のようだし、胡散臭い予言者を面白がる風潮とは違う。祈願したことが二度も当たったのは驚きだが、偶然にせよ寺を拝観してご利益に授かりたい気持になる(四十代・男性)」などの意見が大多数である。
メディア論に詳しい篠崎到東京大学大学院情報学環教授の話──風変わりな事象に注目が集まるのはいつの世も同じだが、音隠寺の祈願文の件については奇跡と呼ぶには地味であるし、一部メディアが好奇心を煽ろうとしても無理がある。れっきとした仏教寺院の伝統的な祈願の儀式に、偶然ありがたいご利益と受け取れる結果がつづいたというだけであろう。むしろ、検証と称し監視用カメラを設置したり、祈願書を鑑定するなどの取材姿勢は的外れであり、信心深い人々に対し失礼きわまりない。サイババやノストラダムスとは違うのだから、檀家信者にも配慮し日本古来の儀式として温かく見守るべきだ。
正月三が日 京都・音隠寺に初詣客殺到(二〇〇七年一月四日 朝日新聞)
「ご利益がある」とされる祈願文で知られる音隠寺(京都市北区)に、元旦から三日間でのべ七万人もの拝観客が訪れたことが、京都府警の調べでわかった。
水無施瞬住職(25)が祈願書に記名した国会議員が揃って入閣を果たしたり、著名人が成婚したりといった出来事が話題になり、音隠寺は「合格祈願」と「縁結び祈願」を望む人々で賑わった。境内が狭く駐車場もないため、近隣の金閣寺の駐車場が満杯になり苦情が寄せられるハプニングもあった。
音隠寺は「今後は敷地の拡大と駐車場の整備で対応していく」としている。
福田内閣にも祈願のご利益あり(二〇〇七年九月三十日 産経新聞)
二十六日に発足した福田康夫内閣について、京都・音隠寺では閣僚発表当日に大勢のマスコミが詰めかけ、祈願書の公開を待った。
箱は半年間、境内に吊るされていて、誰も近づかなかったことが確認されている。僧侶によって箱から取りだされた祈願書は本堂の脇に掲示されたが、今回も数人を除いてほとんどの名が閣僚名簿と一致しており、拝観者らはおおいに沸いた。
与党側の関係者によれば、今回の組閣に際しては何人かの議員が秘書を通じ、音隠寺に祈願の申しこみをした事実を明かしているという。その一方で、申しこんだにもかかわらず祈願書に名が記載されず、結果として入閣もできなかった議員もいると噂になっており、音隠寺の話題が議員のあいだでも広く取り沙汰されている事象が窺える。
いまや社会現象と化した音隠寺の祈願文の儀式だが、ブームの一角を支えるのは水無施瞬住職(26)の人気という見方もある。檀家信者とは別に、水無施住職の甘いルックスに魅せられた女性ファンが連日境内に押し寄せている。本堂から姿をみせた住職に対する黄色い声援は、さしずめ男性アイドルのコンサート会場さながらだ。
清川誠二大正大学綜合仏教研究所所長・大正大学教授の話──音隠寺の祈願は流行にもなっているが、仏教寺院としての本質を忘れないでいただきたいと思う。
現在
初めて京都のローカル局の取材を受けてから五年。水無施瞬は、本堂の南東に建つ高桜堂二階の回廊に立ち、拝観者でにぎわう音隠寺の境内を眺めていた。
面積は当初の六倍に拡大していた。北区の市街化調整区域だった山林を丸ごと買い取り、寺院建設の許可を得て文字通り〝開山〟した。鏡石通からの脇道も私道にして広げたことで、いまも駐車場には大型の観光バスが数十台も連なっている。
本堂は改築せず、定期的に赤ペンキを塗り重ねるに留めているが、その手前にふたつの建築物を設けた。金堂と講堂。鐘つき堂も新築し、西塔も建てた。ただし、北西の納骨堂はまだ予定の段階にある。宗教法人化は認められたが、墓地埋葬法の手続きについてはいまだ認可がおりていない。
父の代まで音隠寺は墓を持たず、檀家に対しても葬儀はほかの寺と合同でおこなっていた。インディペンデントが業界に加わるには、さまざまな問題を乗り越えねばならない。墓もそのひとつだと瞬は思った。いずれ墓地が整備できればさらに収益はあがるだろう。
境内を埋め尽くす群衆の半分ほどは修学旅行の児童や生徒だった。本堂への参拝は途絶えることはなく、売店も賑わっている。しかし、なんといっても石仏群のなかに立つ四本の柱、そこにぶらさがる祈願箱の人気にはかなわない。
五年間、テレビや雑誌がさかんに取りあげたアイテムは、いまやこの寺のみならず京都の名物と化していた。祈願箱を模したミニチュアおよびキーホルダーの売り上げも好調だった。あの箱があるかぎり客足は途絶えないだろう。
いまや寺での雇用者......社会の通念上は僧侶と呼ぶ、頭を丸めさせている従業員の数も、五十一人に増えた。そのうちひとりが厳かに呼びかけてくる。「住職。神社仏閣、代表の方々がお集まりになりました」
「わかった。行こう」瞬は十二単のように裾が長く伸びた法衣をひきずって歩きだした。
畳を敷き詰めた大広間には、京都じゅうの名だたる寺の住職たちと、神社の神主ら数十人が、きれいな輪を描いて坐していた。僧侶はそれぞれに絢爛豪華たる袈裟をまとい、神職のほうは衣冠を身につけている。壮観な眺めだと瞬は思った。仏教と神道の、あるいは宗旨宗派の垣根を越えて、すべての団体のトップクラスが集結している。
瞬が歩を進めていくと、住職や神主たちの何割かは深々と頭をさげた。音隠寺と業務提携の関係にあるかどうかで、こういうときの反応も違ってくる。
座るべき場所はきちんと空けてあった。瞬は一礼し腰をおろした。
年配の僧侶のひとりが挨拶した。「しばらくぶりでございます」
おじぎを返しながらも、瞬はその人物が誰なのか思いだせなかった。ここには複数の寺の代表が来ている。北区だけでも金閣寺こと鹿苑寺、大徳寺、高雲寺、光悦寺、常照寺、遣迎院や源光庵。しかし、どの宗派がどのような袈裟を着るものか、いまだに瞬には識別できなかった。僧位についてもよくわからない。勉強しない理由は、単立の経営に必要ないからだった。ライバルの顔など覚えなくとも経営はできる。ただし、知っているふりだけはしておかねばならない。京の神社仏閣に無関心と気づかれたのでは、存在を軽んじられてしまうだろう。
僧侶になるには普通、仏教系大学に入るなどして基礎から学習するものだが、瞬はそうしたステップをいっさい踏んでこなかった。スキンへッドと袈裟でそれらしく見せていても、仏教界の仕来たりには疎い。その弱点を見抜かれないよう注意せねばならない。
厳粛な空気の漂うなか、瞬は一同に告げた。「お集まりいただきまして、誠にありがとうございます。本日は、どのような件で......」
老眼鏡をかけた僧侶のひとりが片手をあげた。「まずは、おめでとうというのも変だが......。これほどの規模に躍進されたことを、すなおにお喜び申しあげる。単立のお寺でありながら、じつによくやっておられる」
棘のある言葉だと瞬は思った。巨大な宗派に属している立場からすれば、単立など弱小勢力と侮っているに違いない。
坊主丸儲けとそしりを受けることも多いが、かつての音隠寺のような貧乏寺は、ろくな稼ぎもなく潰れる運命を待つばかりだった。後継ぎが育たず、住職不在の空寺になっているところも多い。昨今では葬儀ビジネスも専門の業者が独占しているため、寺は副次的な扱いに甘んじている。幼稚園だとか駐車場、墓地経営、教師などの副業でなんとか食いつないでいるケースがほとんどだ。
別の僧侶がつぶやいた。「定期的に祈願書で.........パフォーマンスというと変だが、うまくマスコミに取りあげさせることで知名度を向上させましたな。大衆の関心がどこにあるかをよく心得ておられる。有料パブリシティも巧く利用なさった。いまやどのガイドブックにも音隠寺の名が掲載されておりますし、修学旅行のコースにも入っている」
「おかげで」神主のひとりが無表情に告げた。「私どもの神社は団体客が減る傾向にありましてな。東山区はこちらのお寺から距離があるので、敬遠されがちのようで」
さらにほかの神主が咳ばらいをする。「東山区でそうおっしゃるなら、私どもの伏見区はどうなりますかな」
控えめな笑いが沸き起こる。さしておかしくもなさそうな笑い声はしばしつづき、すぐにフェードアウトした。大広間はまた、静寂に包まれた。
最初の取材が放送されて以降、音隠寺にはマスコミ各社から問い合わせが殺到した。政治家がどんなに否定しようと、彼らがひそかに祈願を申しこんでいたと信じる大衆は増加しつづけた。瞬の読みどおりだった。誰も政治家の言葉は信用しない。真実はほかにあるといえば、容易に操れる。
取材陣は例年、箱が開けられる儀式の何か月も前から境内に陣取るのが半ば習慣化しているため、誰も事前に箱に触れていないことを、彼ら自身が証明してくれた。よって、いまではもう箱それ自体に疑いの目が向けられることもなくなった。ここでも瞬の読みは当たった。奇跡は控えめに演出してこそ信ぴょう性を増す。センセーショナリズムに訴えすぎると、真実を暴こうとする勢力が出現してしまう。自然さこそが成功の鍵だった。おかげで、いまや清水寺の〝今年の漢字〟と並んで、定番の風物詩とみなされている。
拝観者からは、自分の名を祈願文に書いて箱にいれてほしいとの要請が殺到したが、瞬は申し込みが多すぎて対処しきれないといって断りつづけた。受験合格および縁結び祈願のためには、お札などのグッズを買ってもらうことになっていた。客寄せのためのパフォーマンスは、崇高なる儀式としてひとつ格上の扱いにし、一般の人々にはごく普遍的なご利益を分け与えることにした。
芸能プロダクションや成功を願う企業の経営者、果ては本当に政治家までもが祈願文への記載を頼みこんできた。瞬はそれらについても退けた。不公平があっては困ります。すべては仏の導くままです。
水無施瞬住職はおそらく勘が鋭く、政治に詳しく、常に世の動向に探りをいれて、分析を怠らない人物に違いない。祈願文には希望が叶いそうな名だけを書いているのだろう。そのように邪推する声が圧倒的になった。
それでも客足は減るどころか、右肩上がりに増えつづけた。理由はどうあれ、祈願文の通りに結果がでているとあっては、ご利益は信じるに足る。せっかく京都に行くのならそこで参拝したいと考える人が増えるのも当然だった。
ふうん、とひとりの僧侶が浮かない顔をした。「しかし正直、こちらのお寺には歴史的な深みはないでしょう。本堂の釈迦如来像も金はかけているらしく、それなりの出来ではありますが、あれは古く見せているだけでごく最近作られたものですな? 以前は、水無施住職のおじいさんの手彫りによる木像があっただけとききましたが」
やっと本題に入ったか、と瞬は覚めた気分で思った。古参が揃い踏みで新参の勢力に圧力を加える。これまでも度々あったことだった。
歴史的な深み......。宗教としての純度を推しはかる目安にはならない。そのことは、彼らがいちばんよく判っている。神社仏閣の経営はビジネスにすぎないと割り切ったからこそ、ここにいる神主や住職たちは成功者の部類に入っているのだろう。どの寺社にも縁結び祈願のコーナーがあり、おみくじの自販機を置き、茶屋がある。パワースポットめぐりのスタンプラリーには、有名どころの寺社のほとんどが参加している。参拝料もしくは拝観料という名の入場料もとる。グッズも多種多様に作る。本堂のなかでも物販がおこなわれるのが京都だ。来客に夢を売る。テーマパークとどう違う?
誤解を恐れずにいうなら、これは一種のエンターテインメント・ビジネスに相違ない。観光を拠りどころとして大規模経営が成り立っている以上、誰にも否定できない事実のはずだった。
瞬は黙っていたが、僧侶のなかには無言の抗議を感じ取った者がいたらしい。ひとりが穏やかな口調でいった。「たしかに私たちも、拝観者が落としていってくれるお金で大きく稼がせてもらっている。一方で、宗教法人は非課税とはいえ、それは賽銭だとかお布施に関してのみだ。事業については税金も払っていかねばならん。経営の知恵は必要だ。しかし、なんというのかな、世のなかには節度というものがあってね」
初老に近い神主がうなずいた。「さよう。節度。なにより大事なことだ」
神主が取りだしたのは一枚の写真だった。その写真は、輪を描いて座る僧侶・神職たちの手から手に渡され、やがて瞬のもとにまわってきた。
写真を見たとたん、ため息が漏れそうになる。だが瞬は無表情を装った。
そこに写っていたのは江戸時代の書物だった。筆で描かれた絵は正方形の板で、幾何学的な模様が彫りこまれている。中央に正円があり、さらにそのなかには北斗七星があった。
古来中国から伝わった式盤。占術に用いる道具だった。なかでもこれは六壬神課といって、時刻を基に天文と干支術を組み合わせて占う。デザインは一般的な六壬式盤よりも複雑で、随所で異なっていた。特徴的な五芒星が目を惹く。
しばしの沈黙ののち、神主がきいた。「何なのかご存じかな」
瞬はしらばっくれた。「さあ」
「安倍晴明が愛用した純金の式盤。江戸末期に商人が京都のどこかの寺社に売却したことは、文献であきらかになっている。だが、いまのところ所在は不明だ。発見できれば国宝級だろう」
「そうですね。発見できれば」
別の神主が硬い顔をした。「とぼけておられるのかな」
「......何をですか」と瞬はきいた。
「かの有名な陰陽師、安倍晴明の式盤となれば、所有する寺社には大勢の見学客が押し寄せる。京都の観光においても、まさに目玉になるはず」
「でしょうね」
「どこの誰とは申しあげないが、この式盤をご自身の寺の所有物にしようと企んでいる住職がおいでのようでして。もしそのお寺の歴史が浅く、どこの宗派にも属していないとなれば、晴明の式盤を入手することに伴う恩恵は計り知れないでしょう。平安の御所とつながっていたと吹聴できますし、なにより拝観者が激増するでしょうからな。本堂のなかの仏像に見るべきものが何ひとつなくても、晴明の式盤ひとつあれば名実ともに京都一の寺院の誕生でしょう。奈良の東大寺をも凌ぐ人気と知名度を獲得してもふしぎではない」
僧侶たちは一様に苦い表情を浮かべた。しかし、異論の声はあがらなかった。水無施瞬と式盤の因果関係は、ここにいる誰もがすでに知っていたことらしい。
神主はいった。「陰陽寮は天皇の律令制における一機関でしたから、神道に属するものであり、仏教とは無縁です。式盤が見つかったら寺ではなく、神社に置くのか適切かと」
その隣りの神主がうなずいた。「晴明神社に奉納するべきでしょう」
すると住職のひとりが噛みついた。「現在の晴明神社は昭和三年に再建されたものだ。平安京の時代からの建造物が残る寺院こそふさわしい」
全員がいっせいに発言し、ふいに喧騒が大きくなった。無言を貫いているのは瞬ひとりだけだった。
「みなさん」中年の僧侶が声を張りあげた。「仲間割れしている場合ではない。きょう私たちが集まったのは、水無施住職に注意を喚起するためだ」
大広間はまた静かになった。その僧侶は瞬をじっと見つめてきた。「水無施住職。多大な経費を使い、京都じゅうの調査会社に依頼して、安倍晴明の式盤を探させていることは承知しております。しかし、申しあげておきますよ。あなたの土地で発見された物でない限り、それを入手しようとすることは窃盗になります。というより、どこで発見しようと式盤は国に帰属することになるでしょう」
瞬は平然としていた。「おっしゃることはわかります。しかし、もし私がその式盤を、祖父の代から受け継いでいると申しあげたら?」
「......どこに保管されているかわからない式盤を、人知れず発見し懐におさめてしまえば、後は自分の物と主張しても覆される謂われはない。そうおっしゃるわけですかな」
「私は式盤を持っているかもしれないし、そうでないかもしれない。答えはいずれわかります。所有していれば、この寺で展示することもあるかもしれません」
神主が声を荒らげた。「挑戦的ですな。そのような態度でよろしいのですか?」
「平気です」瞬はそっけなくいった。「単立ですから」
すると神主はむっとして瞬を睨みかえし、やがて立ちあがった。一礼をするや、苦りきった顔のまま歩き去った。
住職たちもその後につづいた。ほとんどの神社仏閣の代表者たちが、黙りこくったまま大広間をでていく。
何割かの住職と神主が残った。彼らは一様にうやうやしくおじぎをした。僧侶のひとりがいった。「私どもは、水無施住職のお言葉を信じております。ご健勝のほどお祈り申しあげております」
音隠寺と業務上、提携関係にある寺社。彼らとて、この寺に安倍晴明の式盤があるとは考えていないだろう。だが今後、無難に入手し、寺の目玉にしてくれることを願っている。むろんビジネス・パートナーとして収益拡大につながる、そう期待してのことだろう。
瞬と同盟を結んでいる僧侶と神職らが、深々と頭をさげて立ち去る。大広間はしんと静まりかえった。
近づいてくる足音がある。振りかえると、母親の玲菜が法衣をひきずり歩いてきた。
「瞬」と玲菜は声をかけてきた。
「ああ、母さん」瞬は立ちあがった。
玲菜は不安そうな表情できいた。「だいじょうぶなん? なんや揉めてたようやけど」
「心配ないって。僕にまかせときなよ。いままでもうまくいったろ?」
「そりゃ、もうびっくりすることばかりやけど......。お父さんも心配してはるんよ。こないに大きな寺になってしもうて、今後どうなるか」
「母さんたちは大船に乗った気でいればいいんだよ」瞬は笑ってみせた。「不安をのぞかせちゃいけないよ。ファミリー・ビジネスとしての寺院経営だよ? 御釈迦様がいないと判ってても、信じてるふりぐらいしなきゃね」
ヘチマ水
音隠寺の祈願文開示の日を迎えた。いつものごとく、世間は朝からその話題で持ちきりだった。
だが京都ミレイユ化粧品株式会社の専務取締役、今年五十一歳になる鷹山大智にとっては、きょうという日はそれどころではなかった。滋賀県の国道一号沿い、出雲製氷なる工場のプレハブ平屋建てオフィス棟にまで足を運んで、創立以来最も困難な事態を解決しようと躍起になっていた。
出雲製氷の社長室は和洋折衷の内装で、洋間ながら床の間に二本の掛け軸がかかっている。いかにも地方の中小企業の経営者らしい、中途半端なゴージャス志向。鷹山はそんなインテリアに脇目もふらず、部屋に入るなり二本のビンをテーブルに叩きつけた。
「いいですか」鷹山は憤りとともに声を響かせた。「こっちがわがミレイユ化粧品販売、ヘチマ水百パーセントの化粧水。そしてこっちが、静岡のスガタ製薬が販売を始めた類似品。容器の形状もラベルもそっくりです。コピー以外のなにものでもありません」
室内にいた三人の男たちが、それぞれ無言でテーブルに目を向ける。
最も若いスーツ姿の青年は、窓ぎわに立って手帳にペンを走らせていた。年齢は二十代半ば、髪は今風に長くしていて、わずかに褐色に染まっている。細面で鼻が高く、下あごは女性のように小さいが、れっきとした男だった。ヴィジュアル系バンドのボーカルが務まりそうなルックス、それでいて最近の若者に多く見かける草食系男子の典型。
青年の名は小笠原悠斗。東京から出張取材に来た『週刊角川』の記者だった。
あとのふたりは当事者なだけに、そこまで涼しい表情は浮かべていられないようだった。富山の農場の経営者、白髪頭にポロシャツ姿の宇喜多匠は、浅黒く日焼けした顔をしかめながらソファに身をうずめている。
デスクにはこの工場の経営者がおさまっていた。四十代半ば、作業着姿の出雲颯介は神経質そうに目をしばたたかせている。
鷹山はいった。「宇喜多さん。あなたの農場で採れてるヘチマ水は、それはもう素晴らしい品質で、全国のどの業者をみても右にでる者はいないと考えておりました。でもどうです。スガタ製薬が売りだした類似品は、ミレイユのヘチマ水と同じだけの効果があると評判になってるんですよ。それも三分の一以下の値段でね」
宇喜多の表情が険しさを増した。「だから、そんなことはありえんといっとる。立山連峰の雪解け水に恵まれた環境で、農薬を使わず手間暇をかけて育てて、やっとあれだけのヘチマになりうるんだ。安く真似できるはずはない」
「そうです。弊社も宇喜多さんのヘチマ水はたいせつに扱ってます。腐らないようにこの製氷工場で凍らせてから、京都にあるうちの社内工場に運び、解凍してビン詰めにする。製氷の過程で不純物はいっさい混ざらない。そうですね、出雲社長?」
「ええ」出雲は硬い顔でうなずいた。「そこは徹底しております。成分が薄まっていないことも、ミレイユ化粧品さんで確認しておられると思いますが」
「もちろんです。いつも入荷のたびに検査しています。つまり一滴残らずうちが引き取っている。宇喜多農場のヘチマ水を独占できる契約を交わしている以上、ほかで販売されるはずがない。しかし、あまりにスガタ製薬のヘチマ水の評判がいいので、取り寄せてうちの化学部門で調べてみました。するとどうでしょう。成分が完全に一致したんです」
「馬鹿な」宇喜多は身を乗りだした。「うちが横流ししとるとでもいうのか」
「......違うんですか」
心外だというように宇喜多は声を張りあげた。「あんたの指導どおり、ヘチマ水の管理については心血を注いどる。できたヘチマ水はしっかり計量し、一CCたりとも残さずこの製氷工場に納入しとる。できあがった氷もいちいち確認しとるんだ」
出雲が立ちあがり、書類の束を差しだしてきた。「これらか宇喜多さんの署名入りの確認書です。出荷のたびに氷の大きさまで計測してもらっています。氷はすべてそのままトラックに積み、京都に陸送しています。ミレイユ化粧品さんもお受け取りの際、氷のサイズが出荷時の伝票と一致していることを、ちゃんと確かめておいででしょう」
書類に不備はなかった。鷹山は苛立ちを覚え、室内をうろつきまわった。
ふと、棚のなかにDVD‐Rのケースが並んでいるのを見た。どの背にも『出荷記録』とある。一枚ごとに異なる日付が記してあった。
「これは?」と鷹山がきいた。
「ええと」出雲が歩み寄ってきた。「ああ。出荷当日に録画している物です。トラックの助手席の人間にカメラを渡して、撮影を義務付けています。ちゃんと出荷されましたよという記録を残すために」
「ラベルに八月二十日とある。最新の出荷日だ。観せてもらえますか」
「......はい」出雲はケースを一枚引き抜き、DVD‐Rを取りだした。部屋の片隅にあるテレビに向かい、ディスクをDVDプレイヤーに挿入する。「これは夕方の出荷のようすですが」
ほどなく映像は再生された。薄明かりのなか、冷凍トラックの荷台に氷の入ったケースが積まれる。カメラマンが助手席に乗りこんだ。そこで映像が切り替わり、一号線らしき国道を夕陽に向かって走っていく。周りは田畑ばかり、道端に白い酔芙蓉の花が咲き誇っているが、どの辺りかは不明だった。
映像はすぐに途絶えた。鷹山は面食らった。「これだけか?」
出雲は戸惑いのいろを浮かべた。「あくまで出荷の記録なので......」
そのとき『週刊角川』記者の小笠原が、控えめに咳ばらいをした。
「鷹山さん」と小笠原は落ち着いた声でいった。「関係者の方々のおっしゃることがすべて正しければ、ヘチマ水はたしかに作られたぶんだけ氷にされ、一滴残らずあなたの会社に届いていることになります。もしスガタ製薬の類似品の成分が、偶然に一致しているのでないのなら、ここにいる誰かが嘘をついているんでしょう」
「その通りですよ、記者さん」鷹山は大きくうなずいてみせた。「市場にでまわっているスガタ製薬のヘチマ水は、わがミレイユ化粧品の十分の一ていどの流通量だから、まだこちらの牙城を崩すには至らない。しかしこのまま増えつづければ大問題です。うちにだけ卸すと約束しながら、こっそり同業他社に提供するなど......」
「おい」宇喜多は立ちあがった。「聞き捨てならん台詞だ。私があんたのところを裏切っているとでもいうのか」
「すべての成分はミクロン単位で一致してるんです。あなたと同郷のほかの農家が無関係であることも調査済みです。このヘチマ水を精製できるのは宇喜多さん、あなた以外にはない」
「侮辱だ!」宇喜多は顔面を紅潮させて怒鳴った。「それで雑誌記者まで呼んで圧力を加えようってのか。でっちあげのねつ造記事を書かせて俺を追いこむのか」
鷹山も退かなかった。「ねつ造ではありません。事実です。マスコミに取材を依頼したのは、あなたがお認めにならないからです」
宇喜多はすがるように小笠原を見た。「なあ。東京の大手出版社の人が、こんなたわごとに耳を貸すはずはないよな? 鷹山専務の主張を鵜呑みにしたんじゃ記者の名折れだぞ。独自にきちんと調査してくれ」
小笠原はうなずいた。「ええ。こちらとしても第三者に鑑定を依頼していますが......」
「その結果は? いつ届くんだ?」
「ええと」小笠原は戸惑い顔で腕時計に目を落とした。「午後二時過ぎか......。もう来てもいいころだと思うんですけど」
ふいにノックの音がした。出雲が外に面したドアに駆け寄り、解錠して開け放った。
若い女性の陽気な声が響く。「どうもすみません。遅れちゃいまして」
鷹山は呆気にとられた。宇喜多や出雲も同様らしく、揃って絶句している。
女性はほっそりと痩せた身体を、シンプルなデザインのギンガムドレスに包んでいた。腕も脚も長く、モデルのようなプロポーションの持ち主だった。ゆるいウェーブのロングヘアに縁取られた小顔には、猫そのものといった感じの大きくつぶらな瞳と、つんとすました高い鼻、薄い唇がそつなくおさまっている。年齢相応の若さや瑞々しさは備えていても、可愛いというより綺麗と呼ぶべき美人顔で、総じてクールで個性的だった。
ドアが閉まり、室内はしんと静まりかえった。女性は覚めた空気を察したかのように、みずからも皮肉っぽい微笑を浮かべた。ややひきっったようなぎこちない笑み。少女のようなあからさまな破顔ではない、大人びた表情だった。
出雲が眉をひそめながらきいた。「どちらさまですか」
すると小笠原が紹介に入った。「彼女は私の知り合いでして。凜田莉子さんといいます。東京の飯田橋で、万能鑑定士Qという店を開いてまして......」
「鑑定?」宇喜多がうわずった声をあげた。「失礼だが、あんた何歳だね」
凜田莉子はにこやかに答えた。「二十三歳です」
「二十三......」宇喜多は足もとをふらつかせ、尻もちをつくようにソファに身体を投げだした。
頼りにならないと感じたのだろう。鷹山も同じ思いだった。『週刊角川』が取材に乗りだしてくれたのはいいが、やってきた小笠原という記者は見るからに現場に不慣れな新人だった。その彼が連れてくる鑑定家も、やはり推して知るべしという人選。
鷹山は苦言を呈した。「小笠原さん。私は社運のかかった大事な問題に直面しているんですけどね」
しかし、小笠原は悪びれたよりすもなくいった。「ええ。だから東京からわざわざ凜田さんに来てもらったんです。凜田さん、どう? 渡した二本のヘチマ水だけど、比較した結果は?」
莉子は満面の笑みとともに、自分の両頬を軽く手で叩いた。「どう思いますか」
どうって......。鷹山は唖然として莉子を見つめた。まさか......。
すぐさま莉子が上機嫌そうに告げてきた。「使ってみたんですよ。右の頬がミレイユ化粧品さん、左の頬がスガタ製薬さんのヘチマ水。塗りこんでひと晩寝てみたら、びっくり。ほんと調子いいんですよ。当分ノーメイクでも全然いけそう」
呆れた人だ。鷹山は唸った。「凜田莉子先生、でしたよね? それがあなたの鑑定方法なんですか? スキンローションを使ってみるってのが」
「そうですよ。使用感ほど確実なものはないでしょう」
「まあ、間違ってはいませんが......。で、どうお思いになったんですか。両者の差は?」
「ありませんね」莉子はさらりといった。「まったく同じです。っていうか、寸分たがわぬ同一のヘチマ水です」
あっけらかんとした発言に鷹山は面食らったが、莉子の返答だけは尊重したい気分だった。鷹山は宇喜多に向かっていった。「ききましたが。彼女も同じだといってる」
宇喜多はまた立ちあがった。「個人の感想なんか信用できるか」
「化学分析の結果を受けいれず、一般女性による使用感にも納得できないと? 客観と主観の両面においてクロとでているんですよ。往生際が悪すぎるでしょう」
「うちは横流しなんかしていない!」
すると、莉子が唐突に同意をしめした。「ですよね。宇喜多さんは嘘をついていません」
......なんだって? 鷹山は耳を疑った。「どういうことですか。それじゃまるで、私のほうに落ち度があるみたいじゃないですか。弊社が氷の入荷量を見誤っているとでも?」
「いいえ。それもありません。八月二十日の出荷分に関しても、ミレイユ化粧品さんはきちんと確認されています。この出雲製氷でトラックに積まれた氷は百五十リットル。ミレイユ化粧品さんの社内工場に運びこまれた氷も百五十リットル。ぴたり一致してます」
ふいに室内の空気が微妙に変化した。
莉子なる女性は、最新の出荷データについてその分量を知っていた。ここにいる関係者が何者であるかも承知しているらしい。すでに独自に調査を進めていたのか。滋賀に来てから、ただヘチマ水を顔に塗って寝ていたわけではないようだ。
疑問はいっそう深まる。鷹山は莉子を見つめた。「宇喜多さんは本当のことをいっていて、私たちもミスしていない。そうおっしゃるんですか。でも現に、ヘチマ水は横流しされているんですよ」
「そうですね」莉子は宇喜多に視線を移した。「この製氷工場に運んだヘチマ水は、たしかに百五十リットルありましたか?」
「無論だ」宇喜多は語気を強めた。「しっかり計量しとる。一リットルあたりの体積は十立方センチだ。縦、横、高さがいずれも十センチ。それが百五十杯ぶん。合ってるだろ?」
「はい。間違いありません」
「それらが氷になる工程もちゃんと見学した。できあがった氷はすべて、定規で計らせてもらった。出雲社長がそうするよう勧めてくれたんでな」
「一滴残らず氷になっていましたか」
「ああ。縦、横、高さが十センチの氷が百五十個。発泡スチロールの容器におさめられてトラックに搬入されるところも見た。夕方にトラックが出発して京都方面へ向かったのもな。あとはミレイユ化粧品さんにきけばわかる。一個一リットルの氷が百五十個、ちゃんと積んであったはずだ」
鷹山はうなずいて同意をしめした。「たしかです。八月二十日は、その分量の氷が届いています」
すると莉子が、どこか冷やかに見える微笑とともに告げた。「変ですね。水って、凍らすと体積が一割増えるはずですけど」
それをきいたとたん、鷹山は保冷室にでも放りこまれたかのような寒気を覚えた。
体積が一割......。たしかにそうだ。だが、さっきの宇喜多の説明によれば、彼はそこに生じる差分をまったく考慮していなかった。
事実、宇喜多は目をぱちくりさせて莉子を見つめていた。「一割増すだって? ほんとか?」
莉子が穏やかにいった。「より正確を期せば、九パーセント弱の増加です。部分モル体積を考慮すれば理解できます。一モルの溶質を溶媒に溶かしたときの溶液の体積変化......」
「モルだって? やめてくれ。高校の化学でもモルとやらがでてきた辺りから、ついていけなくなった。ややこしすぎるんだよ。ヘチマの栽培以外には詳しくない」
なんてことだ。鷹山は思わず額に手をやった。「そこを判っていなかったとは......。宇喜多さん。私の会社はあなたの確認書に従い、届いた氷こそすべての出荷分だと信じて受けいれてきました。農作物の出荷量は一定ではないから、あらかじめ決めておくわけにもいかなかった。でもそこが......」
盲点だった。宇喜多が農場でヘチマ水を採取した時点で、その総量をわが社に報告してくれていれば、入荷した分量が少ないことに気づいただろう。だがこの取引において、わが社が責任を持つのはヘチマ水が会社に運びこまれてからだ。よって製氷および氷の出荷までの管理は、農家と工場による相互確認にまかせていた。
莉子がいった。「ミレイユ化粧品さんの製造部に電話した時点で、おおよその見当はついてました。出荷後の分量に変化がないのだから、それ以前の確認に問題がある。宇喜多さんのお宅にも電話をして奥様と話しましたが、いまだに回線がトーンではなくパルスだし、背後に古い東芝二槽式洗濯機のブザー音がきこえてました。取引先を手玉にとってまで儲けを追求する人物とすれば生活が質素すぎます。ゆえに疑わしきは両者の中間、製氷の工程以外に考えられなかったんです」
鷹山は開いた口がふさがらない思いだった。
彼女はごく常識的な電話連絡だけで真相を把握していた。なんと推知の能力に長けた女性だろう。ここに来る前にすべてを看破していたようだ。
それにしても......。卑劣なスガタ製薬に対する憤りがこみあげてくる。鷹山は莉子を見つめた。「スガタ製薬のヘチマ水が、弊社の商品の一割ていどしか流通してないのも......。これが原因だったんですね」
「ええ」莉子はうなずいた。「ミレイユ化粧品さんが十本のヘチマ水を作るごとに、向こうは一本ぶんのヘチマ水をかすめとっていたわけですから」
罪人はスガタ製薬だけではない。製氷工場の協力なしにはおこなえない行為だった。
だが宇喜多は勘が鈍いらしく、いまだ納得がいかないという顔をしてつぶやいた。「なぜだ。氷にすると体積が増えるなんて......。誰も教えてくれなかったじゃないか。確認には出雲社長、いつもあんたが立ち会っていたのに」
出雲の顔は、いつしか血の気がひいて真っ青になっていた。震える声で出雲はいった。「知りませんよ、そんなこと......。確認書のサインは宇喜多さんが勝手になさったことでしょう。私は関知してません」
「馬鹿いうな!」宇喜多が目を瞠って怒鳴った。「あんたの工場だぞ。あんたの許可なしに氷に触ったり、計測したりできるものか。一個が十立方センチだから問題ないって、そそのかしたのはあんたじゃないか」
「ご、誤解です。なんなら、さっきの映像記録を観てください。DVD‐Rを一枚まるごと観ればわかるはずです。すべてのトラックは京都に向けて出荷してます。スガタ製薬は静岡、逆方向ですよ。一台たりともその方面に陸送したトラックはありません」
莉子はDVDプレイヤーに歩み寄り、再生ボタンを押した。チャプターを前に戻す。画面に現れたのは、さきほどの国道一号線らしき映像だった。
出雲がおずおずといった。「それは夕方の出荷のもようで......」
「いいえ」莉子は首を横に振った。「早朝ですよ」
「な......。なにを根拠に......」
「とっさについた嘘は整合性に欠けるものです。道端の酔芙蓉の花が白いでしょう。夕方なら赤く変色します。つまり太陽の向きは逆。目指しているのも西でなく東。国道一号を中部方面に走ってますね」
小笠原がつぶやいた。「行き先は静岡か。一割ずつ横取りして溜めこんだヘチマ水を、人目につきにくい時間帯に出荷したんだな」
重苦しい沈黙が室内を支配した。張り詰めた空気のなか、出雲は気まずい顔で立ちつくしていた。
やがて出雲は、いきなりドアに向かいだした。「ちょっと用事がありまして。つづきは明日にでも......」
だがドアを開けたとたん、出雲は全身を凍りつかせた。彼の肩ごしに外のようすが見える。いつしかパトランプの赤い波が駐車場に広がっていた。警察車両が集結している。そして、私服警官とおぼしき厳めしい顔つきの男たちが、戸口に立っていた。
刑事たちと目が合ったにもかかわらず、出雲はドアを叩きっけてまた施錠した。それから室内に向き直ると、絶望のいろとともに懇願した。「どうかお許しを......」
「許さん!」宇喜多が血相を変えて詰め寄った。「あんた、スガタ製薬とグルだったのか。よくもだましてくれたな。馬鹿にしおって」
「わ、私の発案じゃないんです。そのう、見知らぬ外国人に持ちかけられたんですよ」
「外国人だと? 何者だ」
「ええと、名前はわかりません。イニシャルしか......。J・Kといって、イタリア人です」
莉子はどこか気の毒そうな口調でいった。「出雲さん......。イタリアのアルファベットにはJもKもありません」
宇喜多の怒りはいよいよ頂点に達したようだった。「どこまで愚弄すれば気が済むんだ」
出雲は泣きそうな顔で訴えた。「待ってください。損害もたいした額ではないでしょう?」
「賠償だけだと思うなよ。慰謝料も請求させてもらうからな!」
すると出雲は情けない声で弁明しだした。「慰謝料だなんて......。訴訟沙汰は勘弁してください。迷惑料なら、あれを差しあげますから、お売りになって換金していただければ......」
出雲が指さしたのは、床の間の掛け軸だった。一本は中国の古い時代の書のようで、筆で漢詩が書き連ねてある。〝男人越峠走......〟と読めた。もうひとつは平安時代あたりの書画だった。寺院らしき水墨画か描かれている。
しばしの静寂の後、小笠原が唸った。「うーん。中国のほうは、僕の目にも本物とは思えませんけど」
「ど」出雲が泡を食ったようすできいた。「どうしてですか」
「仕事柄、文字の校正には慣れてるんですけど......。峠ってのは和製漢字ですよ。中国にはなかったと思いますけど」
「な......。で、では宇喜多さん。もう一本のほうだけでもお持ちください。これは正真正銘、買ったときには三百万円の値がついていた物です。平安時代の有名な歌人が祇園精舎を訪ねたときに描いた水墨画で......」
莉子が首を横に振った。「そっちも偽物です。あるはずのない鐘が描かれているのは変です」
出雲はひきつった顔でたずねた。「変? あるはずないだって? まさか。祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり......」
「その『平家物語』の冒頭を鵜呑みにして想像で描いたものでしょう。祇園精舎は、雨季に釈迦やその弟子たちが集まって修行した場所のひとつです。けれども最近の発掘調査で、大きな鐘はなかったとされています。御家流の書風が使われていますから江戸時代以降の作品です。高くても三万円ってとこでしょう」
しばらくのあいだ、出雲はおろおろと周りを見まわしていたが、やがて膝から崩れ落ち、頭を抱えてうずくまった。
「お終いだ」出雲は悲嘆に満ちた声をあげた。「もう駄目だ。何もかも終わった。私は詐欺の共犯に......」
だが、莉子はゆっくりと歩み寄り、しゃがんで出雲の手をとった。「心配いりません。いまのうちにすべてを打ち明けて、捜査に協力なさってください。甲賀署の警部補さんには、すでにあらましを伝えてあります」
すでにあらましを......。私たちの誰とも顔を合わせないうちに、警察を説き伏せ出動までさせるとは。
鷹山は感服せざるをえなかった。万能鑑定士Qなる店のオーナー、彼女はそう紹介された。万能、まさしく言い得て妙だ。それ以外にどんな形容があるだろう。凜田莉子はありとあらゆる真実を浮かびあがらせた。人の心さえも。
無料券
小笠原は社長室のプレハブ棟をでた。灼熱の太陽に目がくらむ。西日本はいまだ夏が猛威をふるっている。蝉の声が辺り一帯に鳴り響くなか、駐車場を埋め尽くすパトカーの隙間を縫いながら、国道に面したゲートをめざし歩いた。
莉子も歩調を合わせてきた。「陽射しが強いね」
「東京は秋めいてきたところなのにな」小笠原は莉子を見た。「ごめんね。こんなに遠くまで呼びだして」
「いいってば。楽しかったし。でも、もう帰らなきゃ。琵琶湖ぐらいは見物したかったけど」
......それは、ふたりでという話だろうか。小笠原はたずねるべきかどうか迷ったが、結局いいだすタイミングを失い、黙って歩きつづけるしかなかった。
並んで歩く莉子も無言のままだった。騒音と呼ぶには細やかな蝉の合唱だけがふたりを包む。
このところ距離が近づいたのではと感じていたが、デートするほど仲が深まっていないのもあきらかだった。俺のほうから誘わないと駄目か。けれども、断られたら傷つくし、以後の関係も気まずくなるし......。
そわそわした気分で歩いていると、背後に駆けてくる足音がした。
振りかえると、鷹山専務が息を切らしながら走ってきた。「お待ちを! おふたりとも、本当に感謝しています。わが社はあなたがたのおかげで危機を回避できました」
莉子が微笑した。「そんな大げさな......」
「いや。凜田先生、あなたの慧眼には感服しましたよ」鷹山は懐をまさぐると、一枚の封筒を取りだした。それを小笠原に押しつけ、鷹山は頭をさげた。「もっときちんとお礼したいのですが、また後日ということで。いまはこんな物しかありませんが、どうかお納めください。では、おおきに」
感激のあまりか、イントネーションが京言葉の響きを帯びていた。鷹山は背を向け、プレハブ棟に駆け戻っていった。
きょとんとして莉子がつぶやいた。「おおきにって......ありがとうって意味でいいんだよね?」
「そりゃそうだろ? ほかに何か解釈があったっけ?」
「ノーの意味にも、おおきにって言葉を使うってきいたから」
「ああ。それは遠慮するときの物言いじゃなかった? 結構です、みたいな」
「じゃ、いまはすなおに感謝されたと思っていいのかな」
「当然だよ」小笠原は封筒を開けにかかった。「どれ。何が入ってるんだろ。もしかして金一封とか」
中身は現金ではなかった。ミレイユ化粧品のクーポン券が三万円ぶんと、よーじやカフェのコーヒー無料券が二枚。それだけだった。
莉子がいった。「よーじやって、あぶらとり紙で有名な......」
「見てよ、この無料券に載ってる写真......。コーヒーの表層に顔が描いてある。よーじやのロゴマークと同じ絵だよ」
「可愛い! でもその券って、どこで使えるの?」
裏に記載された店舗リストを見る。小笠原は読みあげた。「三条店と銀閣寺店、それに嵯峨嵐山店か。嵯峨嵐山なら、ミレイユ化粧品の直営店もあるね」
ふたりに沈黙がおりてきた。
ここから京都に足を伸ばすのはさほど大変ではない。ただし、東京に戻るのとは逆方向になる。カフェとお土産のためにわざわざ観光地に立ち寄る。カップルならためらいなく可能になる話だろう。しかし、莉子が相手では会話もぎこちなくならざるをえない。
「さ」小笠原は緊張を笑いでごまかしながらいった。「嵯峨嵐山か。遠いね」
馬鹿。自分から遠いとかいうやつがあるか。希望を閉ざしてどうする。
莉子もなぜかうわずった声をあげた。「そうね。......あのさ」
「何?」と小笠原はきいた。
「嵯峨先生って......嵯峨嵐山の出身かな」
「......違うんじゃないかな。京都誂りもなかったし。でも地名とそこに住む人の苗字って共通してることも多いよね」
「祇園警部って人も知り合いにいたのよ。警視庁のマル暴だけど」
「マル暴って......。そんなところと関わりがあったの?」
「いえ。ただ顔見知りになっただけで......」
また静寂が訪れた。ふたりは顔を見合わせ、ふとおかしくなって笑いあった。
空虚な会話。たぶん彼女の気持ちも、俺と同じに違いない。小笠原はそう思った。
小笠原は穏やかにきいた。「行ってみる? 嵯峨嵐山」
「ええ」莉子は屈託のない目を細くして笑みを浮かべた。
よかった。安堵とともに高揚した気分になる。落ち着いた足どりを保つことさえ困難だった。ゲートをでてすぐバスの停留所がある。そこから京都方面に行けるはずだ。
ところがバス停に近づいてみると、さっきここに来たときとは様相が違っていた。長蛇の列ができている。制服姿のバス会社の職員が列の整理に追われていた。
「すみません」小笠原は声をかけた。「嵯峨嵐山に行きたいんですけど」
すると職員は困惑ぎみにいった。「時間がかかりますよ。きょうは京都駅直通のほかは、臨時運行のダイヤになってるんです」
「臨時運行? 五山の送り火は先週じゃなかったっけ。ほかに何か催しが......」
「バスはすべて音隠寺行きになります。右京区の太秦や嵯峨嵐山に行かれるのでしたら、音隠寺でいったん下りてそっち方面のバスに乗り替えになります」
「へえ。祈願文開示の日の影響が、こんな遠くにまで」
莉子がつぶやいた。「音隠寺の祈願文って......。とんでもなく大きなご利益があるっていう......」
「そう。きょうは夏の開示ってやつだから、有名人の結婚とか吉報とかそのあたりじゃないかな。観光客が全国から押し寄せるし、マスコミも取材に殺到してる。うちの編集部でも宮牧が担当になってるよ」
「あー。それで宮牧さん、こっちに来る新幹線が一緒だったの?」
「ひと足早く現地に着いて舞妓さんと遊びたいなんていってたな。いちげんさんお断りの祇園で相手にされたかどうか怪しいけど。どうする? 音隠寺行きに乗ってみる?」
「ええ。そうするしかなさそうだし......」
ふたりは列の最後尾に加わった。行き先がどこであれ、小笠原の胸は高鳴りつづけた。仕事と関係なく莉子と一緒にいられる。彼女も喜んでいるようだ。デートと呼べるのでは? 思いあがりが過ぎるかな......。
京都
音隠寺に立ち寄るか、それとも嵯峨嵐山を目指すか、行き先は着いてから決めよう。小笠原は気楽に考えていた。
ところが音隠寺に到着してみると、そんな浮かれた気分も吹き飛ぶぐらいの異常な光景が待ち受けていた。
バス停は寺の敷地内、広大な駐車場の一角だった。なるほど、たしかにバスステーションのごとく複数の停留所があって、各方面への乗り換えが可能になっている。だが、莉子とともに下車すると、ほかの大勢の乗客たちと一緒にロープづたいに進むことを強制され、しかもその順路は一本道、音隠寺の正門に向かっていた。
嵯峨嵐山行きのバスに乗るにはどうしたらいい、そうたずねる隙も与えない混雑ぶり。花火大会でごったがえす隅田川沿いの交通整理を彷彿とさせる。やはりロープによって左右をブロックされた簡易型の通路のなかで、人の列の流れは滞り、立ちどまらざるをえなくなった。小笠原たちもそのなかに埋もれることになった。
「まいったな」小笠原は嘆息を漏らした。「右も左も列になってて、抜けだすのはたいへんそうだ」
「このまま進んだほうがいいかもね」莉子も諦め顔だった。「境内を見物してから出口に抜けたほうが早いかも」
とはいえ、興味のあるなしにかかわらず寺のなかに立ちいるには、一律に拝観料の支払いが必要になる。列の先にあった窓口でひとり八百円の出費を強いられた。
ようやく門をくぐったのは午後四時半。夏場なだけにまだ太陽は高いところにある。境内は初詣の様相を呈していた。身動きができないほどの大混雑ぶり。足もとは砂利とわかるが、周囲は人の頭部ばかりで何も見えない。
伸びあがって確かめたところ、京都の寺院らしく低い山のふもとに境内が広がっていた。左手に木造二階建てのお堂が見える。正面にも建物がふたつあった。軒下の看板に大書された字によると左が金堂、右が講堂らしい。それらの奥に真っ赤な平屋建てが確認できる。本堂に違いなかった。
小笠原は人混みのなか、莉子の手をひきながら前方に身体をねじこみ、じりじりと進んだ。周囲は会話もできないほどの賑やかさで、ひとたび手を放してしまったら、もう二度とめぐり会うことは難しそうだった。まったくもって異常な過密状態といえた。
そんななかでも、少しずつ金堂と講堂が視界のなかで大きくなっていき、やがてふたつの建物の谷間を抜けて本堂に迫った。
ここまでくると人の流れはかえって円滑になっていて、本堂の前にはむしろ秩序だって整然と参拝する列ができあがっていた。人々はなぜか本堂にはあまり関心をしめさず、側面へと流れていく。携帯電話やデジカメを突きあげて、行く手に向けて撮影を試みていた。
何があるのだろう。つま先立ちをしたところ、四本の柱が見えた。その中央に吊るされる箱も目に入った。
「あった」小笠原は莉子に大声で告げた。「祈願箱だよ。テレビでよく観たやつだ」
莉子も怒鳴りかえしてきた。「それはいいけど、どうするの? 抜けだせそうにないけど」
そうだな。小笠原は考えをめぐらせた。あの箱が取材陣のお目当てなら、同僚も近くにいるはずだ。
なおも人垣を掻き分けて、果敢に前進をつづける。やがて、まだ祈願箱は遠いものの、立ちどまらざるをえない場所にまで達した。ロープが張ってある。ここが一般の最前列らしい。その向こうには、おびただしい数のカメラと三脚がセッティングされたエリアがあった。テレビカメラは一段高い櫓に陣取っている。腕章をつけた報道関係者は大勢いたが、それでも彼らの聖域には余裕があって、誰もがのんびりと歩きまわっている。マスコミへの優遇もここまで露骨だと嘆かわしい。
小笠原は報道陣を眺め渡した。やがて、自分と同期の男を視界にとらえた。「宮牧!」
体型も背恰好も、スーツの値段さえも小笠原と同等、ただその魚のようなぎょろ目だけが大きく特徴的な宮牧拓海が、驚きのいろとともに振りかえった。両目をいっそう剥いて、悠然とこちらに歩み寄ってくる。
「おう」宮牧は声を張りあげた。「小笠原じゃないか。どうした。縁結び祈願にでもきたか」
「関係者用パス余ってないか?」と小笠原はきいた。「なかにいれてくれよ」
「あん? 馬鹿いうなよ。嵐のコンサートチケットはメンバーの家族でも貰えないんだぜ。身内だから招待されると思ったら大間違いだ」
するとそのとき、莉子が人の隙間からようやく顔を覘かせた。「宮牧さん。お願い」
宮牧はふいに真顔になった。ロープをぐいと持ちあげると、さあ入って、そういった。警備員に向き直り、宮牧は呼びかけた。「『週刊角川』の同僚二名です。パスを貰えませんか」
やっとのことで混雑から逃れた。報道エリアはまさに天国だった。莉子も呆然とした面持ちで、くしゃくしゃになった髪を撫でつけている。
その莉子に宮牧は愛想よくいった。「凜田さん、音隠寺にようこそ。まさかおいでになるとは......。ヘチマ水のほうは? 小笠原の取材に同行してたんでしょう?」
小笠原は宮牧に告げた。「さっき終わったんだよ。祈願文はどうなった。まだ取りだされてないのか」
「水無施住職の読経が終わってからだってよ。朝からずっとやってる。こっちだ」
宮牧は報道エリアの奥に歩きだした。カメラの砲列の向こう、記者たちが鈴なりになっている先には、マスコミすら立ち入りを許可されていないらしい区画があった。地面に十畳ほど畳が敷き詰められ、仏具一式が並んでいる。中央に坐している僧侶の後ろ姿があった。派手な紫いろの袈裟。テレビや雑誌を通じて誰もが知る有名人、二十九歳にして京都でも最大級の注目度を誇る寺の代表。水無施瞬住職だった。
喧騒のなかで読経はかすかにきこえるのみだが、拝観者は目ざとく水無施瞬の姿を発見し、誰もがロープから身を乗りださんばかりにして撮影を試みている。
やがて読経が、ぴたりとやんだ。
本堂から石仏群のあいだにも二本のロープが平行して張られ、寺の関係者専用の通路が花道のごとく設けられている。そのなかを、別の僧侶が祈願箱に向かって歩いていく。
住職よりもずっと地味な袈裟をまとったその僧侶は、鍵を手にしていた。いよいよか。小笠原は固唾を呑んで見守った。
報道陣もにわかにうごめきだした。カメラマンたちが所定の位置につく。フラッシュの閃きがあわただしさを増した。騒然とするなかを僧侶は四本の柱に近づいていった。
祈願箱に手を伸ばす。鍵を南京錠に差しこんで解錠した。それを取り外してから、ゆっくりと箱の前面下部の引き出しを開ける。
以前にもテレビのニュースで観たことがある。僧侶の動きに怪しげなところはなく、手に何かを隠し持っているようすもない。いまも、巻いた紙はたしかに引き出しのなかにあった。
その紙筒が僧侶の手により、すり替えられることもない。僧侶はすぐさま赤い封蝋を剥がし、紙を開いて報道陣に向けた。
と同時に、おおっというどよめきが記者たちからあがった。カメラのフラッシュがしきりに焚かれ、テレビ局のリポーターの声が興奮ぎみに告げる。たったいま祈願書が開かれました。記載された内容は......。
宮牧が感嘆の声をあげた。「こりゃすげえ......。相も変わらずびっくりだ」
小笠原も慄然として立ちすくんだ。
祈願文はいつものように筆でしたためてあった。読みやすく大きな字で書いてあり、この距離でもはっきりと判読できる。『以下の方々の将来における婚姻を祈願申し上げます』の叙文につづき、著名人ばかり七組のカップルの名が挙げてあるが、うち五組はごく最近、婚約が発表されたばかりだった。ついさっき電撃結婚が報じられた、スポーツ選手と歌手のペアも含まれている。
現在も未婚のままの人名についても、今後において成婚となるかもしれない。そんな未来予測めいた記述も、大衆の興味を惹きつけるのだろう。事実、拝観者たちはおおいに沸いていた。
水無施瞬は坐したまま沈黙していた。祈願文をしめした僧侶のほうは、紙を手にしたまま通路を横切り、本堂の脇にある掲示板にその紙を貼りつけた。拝観者たちが群がり、しきりにデジカメのシャッターを切る。
掲示板に近づいたリポーターがマイク片手にまくしたてる。「いま貼りだされました祈願文、手を触れることも許可されております。拝観者が続々と手を伸ばしております。私も触ってみます......。たしかに和紙に筆で書かれております。箱に奉納されてから数か月が経っておりますので、墨は乾ききっておりますが、印刷でないことははっきりわかります。鋲で上部がとめてあるだけなので、めくって裏側も確かめられます......。墨の濃淡が浮かびあがっております。いまや疑惑がささやかれることすらありませんが、いちおう確認させていただきました。ずっと以前にも報道番組で、祈願書をお借りして鑑定がなされたことがありましたが、間違いなく水無施住職の筆による書と証明されております」
たしかにトリックが入りこむ余地はない。祈願文は事前に書かれたのだろう。驚異的には違いない。だが......。
小笠原のなかに懐疑的な感情が芽生えた。「宮牧。あの箱、本当に今朝から誰も触っていないのか?」
「当然だよ」宮牧は大きくうなずいた。「今朝どころか、三か月前からずっとだ。民放各局の定点カメラが二十四時間、望遠で撮影しててな。夜間は赤外線撮影に切り替わるし、箱に近づく者があれば確実にわかる。なにより、きょうの電撃結婚のニュースは俺たちがここに陣取って以降に飛びこんできたんだぜ? これが書いてあったらすごいなって、新聞社の記者とも話してたところだ」
とはいえ、祈りの力ですべてが成就したとは考えにくい。やはり巷でよくいわれているように、水無施住職は彼なりに情報を収集したうえで、持ち前の勘を働かせて予想を立てているのだろう。すごいといえばたしかにすごいことではあるが。
莉子はどう思っているのだろうか。小笠原は傍らに目を向けた。「凜田さ......」
ところがそこに、莉子の姿はなかった。
どこに行ったのだろう。あわてて辺りを見まわしたとき、水無施瞬の周辺で、わあっと群衆の声があがった。
水無施住職は立ちあがり、本堂に退こうとしている。厳かに歩を進める住職に拝観者の歓声が響く。
ふいに住職が足をとめた。報道エリアから大きく身を乗りだし、手を差し伸べている女性がいる。凜田莉子その人だった。
「おい!」宮牧が仰天したようすで駆けだした。「やばいって。水無施住職への単独取材は禁止なんだ。マスコミ各社のあいだで協定が結ばれてるのに」
それはまずいな。小笠原も後を追った。莉子が記者のひとりとして入場している以上、責任問題になる。
報道陣も一様に面食らったようすで莉子を眺めていた。莉子はいっこうに意に介さない態度で、水無施瞬に対しにこやかに告げていた。「だから、一筆書いていただきたいんです。特に意味はないです。お会いできた記念に」
禿げ頭に端整な顔、仏教界の若きカリスマとして知られる水無施住職は、表情ひとつ変えずに応じた。「ほう。記念にね」
「お願いします」莉子はいささかも悪びれたようすもなくいった。「なんなら、後でおうかがいしましょうか。筆と墨汁を買ってきますんで」
「いや。それには及びませんが」
住職はそういって畳の上に引きかえすと、仏具のなかから漆塗りの箱を取りあげた。なかから取りだされたのは筆、墨汁の入った容器、そして俳句や短歌をしたためるのに使う厚紙の短冊だった。その短冊よりひとまわり大きな封筒の上に重ねて持ち、白紙に筆を這わせる。
夜明けにて 遠く霞に浮かびうる......。五七五七七、五句体の短歌だった。
本堂からでてきた別の僧侶が、四本の柱に吊るされた祈願箱を外し、持ち帰ろうとしている。儀式が終わったからだろう。
莉子が水無施住職にいった。「もうひとつお願いがあるんです。あの箱を見せてもらうわけにはまいりませんか」
住職は返事をしなかった。黙々と筆を運びつづけている。そのあいだに、僧侶のほうは祈願箱を手に本堂のなかに引っこんでしまった。本堂には電気が通っているらしく、開いた扉のなかには明かりが灯っていた。
短冊には、さらに二首が書き足された。最後に水無施瞬と署名が入る。
書き終えた面を上に向けたまま、住職は短冊を封筒のなかに滑りこませた。それを莉子に差しだす。「どうぞ」
拝観者たちはもう大騒ぎだった。いいなー。ずるいー。嫉妬をはらんだ声がしきりに飛んでいた。
「ありがとうございます!」莉子は満面の笑みでそういった。
「箱もご覧になりたいそうですが」水無施住職は本堂を振りかえると、指先で合図した。僧侶がふたたび、祈願箱を持って現れた。
ところが莉子は手を振って、断るしぐさをした。「もういいんです。どうもすみませんでした」
住職は無表情のまま莉子を見つめると、なにもいわずに立ち去っていった。僧侶も箱を携えて、住職につづいて本堂に消えていった。
報道陣はぽかんとしていたが、住職の姿が本堂に消えると、不信感をあらわにして詰め寄ってきた。なんだ、いまのは。どうして住職と会話できた? なんの権限がある。俺たちを出し抜くとはなにごとだ。
彼らの矛先は莉子ではなく、腕章をつけている宮牧に殺到した。宮牧はたちまち記者に囲まれ、しどろもどろに弁解を始めた。「いえ、あのですね。別にちゃんとした取材ってわけじゃないんです。インタビューでもないですし。協定を破った覚えはまったくありませんで......」
小笠原は莉子の手を引っ張った。「さっさと退散しよう」
「でも」莉子は不安そうにきいた。「宮牧さんに悪いことしちゃったかな」
「あいつはクレーム処理には慣れてるよ。それより、どういうつもりだったの? なぜ住職にあんなことを......」
「筆跡を確かめたかったのよ」莉子は真顔で告げた。「ロープの外にでたら、掲示板を見ておかなきゃ。それですべてはっきりする。祈願文のからくりが」
からくり箱
四条河原町交差点よりわずかに西、阪急河原町駅出口付近に位置する古風なレンガ造りのテナントビル。その二階、南西の角部屋が『週刊角川』京都オフィスだった。
夜七時をまわっている。現地の社員は全員帰宅しているが、無人ではない。東京の本社からやってきた記者ふたりに、同行の女性ひとりの計三人が居残っているからだった。
小笠原は、莉子と宮牧のどちらにも話しかけられない状態にあった。莉子は奥の応接セットでソファに浅く座り、短冊に見いっている。宮牧のほうは戸口の前でうろつきながら携帯電話を片手に、しきりに弁明に追われていた。
「いえ」宮牧はケータイに喋りつづけている。「ですから、あれは突発事故みたいなものなんです。ええ、記者席にいるからにはルール厳守が原則ですけど、うっかりといいますか、あのう、あれですよ。道路に動物注意の標識があるでしょう。鹿が軽やかにジャンプしているやつ。注意したからって、飛びだしてきたんじゃぶつかるときはぶつかりますし......。はい? 小笠原ですか? いますけど」
宮牧はこちらに歩み寄ってきて、携帯電話を差しだした。「おまえに代われって」
全身に緊張が走る。小笠原は宮牧のケータイを受け取り、通話に応じた。「は、はい。小笠原です......」
編集長の荻野甲陽の低い声がきいてきた。「おまえ、ヘチマ水の取材は?」
「あれは、ですね......。警察が捜査に着手したので、取材は切りあげてほしいといわれまして」
「なんだと? それで手が空いたからって、宮牧の仕事を冷やかしにいったのか」
「すみません。成り行き上、そうなってしまったわけで」
「乗りかかった船は二度と下りるな。いいか。今度こそ記事になるまで東京に帰ってくるなよ」
「わかりました。......あのう、今度って?」
「だから、音隠寺の祈願の件だ」
「祈願......」
「音隠寺はいまや京都を代表する寺にのしあがりつつある。仏教界における影響力も相当なもんだ。だからうっかり手だしもできんし、マスコミはどこも疑惑すら報じるのをためらってきた。世間が面白がっているうちは同調しとけみたいなムードが漂って、みんなで好意的な報道をつづけているうちに、あの寺のさらなる宣伝にひと役もふた役も買っちまったわけだ。でもみんな、ありゃどうもおかしいって薄々感じてた。じっくり予想してるにせよ、当たりすぎだろ。どんな裏があるのか暴くには絶好の機会だ」
「し、しかしですね、きょうも各方面から厳重な抗議が......」
「んなもの、いわせとけ。だいたい寺の住職をスーパースター扱いせにゃならん状況自体が異常なんだ。うちの社長もいってた。真実の究明こそが報道に課せられた使命だと」
「社長がそうおっしゃったんですか?」
「ああ。なんといったかな、報道はA・Tフィールドに守られた不可侵の聖域だそうだ。意味はよくわからんが」
漫画嫌いの堅物編集長にエヴァ用語を受けいれさせるとは、井上イズムの社内浸透度は凄まじいものがある。
小笠原はいった。「編集長が社長に意見を仰いでおられるとは初めて知りました」
「俺は無頼漢か何かか? 社員であるからにはちゃんと上の命令には従ってる。引っ越し後の立派な社屋でもわが編集部は健在だからな」
「はあ、そうですね......。では、僕も音隠寺の取材に加わるわけですか」
「宮牧とふたりで京都に留まって続行しろ。いいか、油断するな。この手の胡散臭いパフォーマンスは新興宗教団体の十八番と相場がきまってたが、今回は仏教寺院ってのが巧妙な隠れ蓑になってる。世間は単立かどうかなんて気にしちゃいない、袈裟を着た坊さんに仏像、本堂と揃えばまともな寺だと信じちまう。水無施瞬ってのはそれだけ知恵が働くんだ。大衆の心をつかむのがうまいんだな。おまえも取りこまれないように気をつけろ」
「わかりました。注意します」
「凜田先生もいまのところは、そっちにいるんだろ? くれぐれもよろしく伝えておいてくれ。じゃ健闘を祈る」
返事をする間もなく通話は切れた。小笠原は宮牧に携帯電話を返した。
宮牧がきいてきた。「なんていってた?」
「祈願が成就しまくっているのは怪しいから、真相を暴けってさ」
「ふうん」宮牧は平然と告げた。「だろうな。追及しないほうがおかしい」
「おかしいって? でも、どこも手をこまねいていた取材対象だろ?」
「そう、京都の寺ってだけでな。なにかとてつもない歴史的な裏付けがあるかもしれないとか、大勢の檀家信者がいるかもしれないとか、とにかくクレームが怖いから否定的な表現はやめようって方向で、偶然各社の足並みが揃ってただけでな」
「ああ......。いま編集長もそんなこといってた」
「俺も少し調べただけだが、音隠寺ってのは文字通りの単立、新手の一匹狼で、地元の神社仏閣からはかなり浮いた存在らしいぜ? 同調しているところも単純に金のための提携ってだけのようだし」
「横のつながりは薄いわけか。でも水無施住職は音隠寺の正式な後継ぎなんだろ?」
「だから、たんなる貧乏寺なんだって。水無施瞬も僧侶として修行を積んだわけじゃなさそうでな。もとは若くして飲食店を成功させたカリスマ経営者だったらしい。うちの編集部でも田丸先輩が店を取材したことあるってさ」
「田丸先輩? 去年『少年エース』に異動になった......」
「漫画編集者として担当してた連載が早々に打ち切られちまって暇だっていうから、水無施瞬について知っていることを教えてくれってメールしといた。返事はじきに届くけど、音隠寺の成り立ちに関しては、俺のほうでも調べがついてる。五年前に店を売却して、得た金で本堂を真っ赤に塗ったりして境内を整備した。その後は知っての通り祈願が話題になって、たちまち寺社の代表格にのぼりつめたわけだ。右肩あがりの収益で敷地を拡大して、金堂やら講堂やら建てまくった。あの立派な高桜堂も、ここ数年のうちに完成したものにすぎねえってさ」
そのとき、ソファの莉子がiパッドの画面を眺めながら声をあげた。「あーもう......。やっぱりそうなの?」
小笠原はテーブルに歩み寄りながらきいた。「どうかした?」
莉子が画面を小笠原に向けてきた。「このメール、知り合いの筆跡鑑定業者さんからの返信」
「筆跡鑑定......」
「掲示板に貼ってあった祈願書をデジカメで撮影してきたでしょ? 高桜堂のなかに展示されてる住職の写経も撮ってきたし。それとこの短冊。三枚の画像をメールで送って鑑定をお願いしたんだけど......」
宮牧がいった。「俺の見たところじゃ、三つとも同じ人間が書いた字に思えるけど」
「ええ」莉子は憂鬱そうにうなずいた。「プロもそういってるのよ。ペン字より毛筆のほうが誤魔化しが利かないから、まず間違いないって。撥ねの有無や払いの長さ、筆の強弱、すべてのポイントが共通してるそうよ。他人が似せようと思って似せられるレベルではない、よって百パーセント同一人物だって......。まいったなぁ」
小笠原はきいた。「住職本人が書いたかどうかが、そんなに重要なの?」
「だって、あの祈願文はほんの数時間以内に書かれたんだし」
「数時間以内?」
「そうよ。住職は朝からずっと外でお経を唱えてたのに、午後になって結婚が発表されたカップルについて祈願文に記してあった。つまり書いたのは住職じゃなくて別の人よ。問題は祈願書をどうやって箱のなかに入れこむか。そこ一点だけじゃない?」
「まあ......そうだな。巻いた紙をこっそり箱に入れることが可能なら、すべて成立するわけだ」
宮牧が首を横に振った。「箱を開けに来た坊主がどんな動作をしたか、見てただろ? あれだけの数のカメラが監視してるのに、小細工は不可能だよ」
小笠原は首をひねった。「うーん。僧侶が入れたんじゃなくて、別の方法かも。あそこはいわば水無施住職の私有地だ、舞台装置は好きなだけいじれるだろ」
「細い鎖で宙にぶらさがってる箱に、どうやって紙筒を入れこむってんだ。待ってろ、いま写真を見せてやる」宮牧はカバンを運んでくると、開けて中身を取りだした。手帳に通帳入れ、名刺入れ......。やっとアルバムがでてきた。それを開いてテーブルに置く。
ふいに莉子がいった。「あのう、宮牧さん......。もしキャッシュカードの暗証番号が1098なら、バレやすいから変えたほうがいいと思うけど」
宮牧は、眼球が飛びだしそうなほどに目を大きく瞠った。「な、なんで? どうしてわかるんだよ?」
莉子は微笑して通帳入れを指さした。「それを見たから」
小笠原には、なんら変わったところのない普通の通帳入れに思えた。数字が書いてあるわけでもない。ただ、右下に洒落た英語のロゴが入っている。Far Bee とあった。
世のあらゆる物にはブランドやメーカーのロゴが記載してあるから、こんなものはいちいち気にかけないのが普通だ。小笠原はそう感じたが、莉子は違うようだった。
通帳入れを片手に莉子がいった。「既存のロゴに見せかけてあるけど、じつはプリンターで印字したものでしょう? Far Bee なんて、会社やお店の名前でもきいたことがないし」
宮牧は苦笑いを浮かべた。「バレたか。凜田さんの目はごまかせないね。暗証番号を度忘れしちゃ困るから、どこかにメモっておきたかったんだけど、書いた紙を失くしちゃまずいし......。だからいっそのこと、ロゴにでも見せかけて堂々とヒントを記しておけばいいって思ったんだけど」
「アイディアは悪くないけど、英文として成立してないから不自然かも。泥棒は日本人だけじゃないしね。英語圏の人から見ればあきらかにおかしいし、日本語の語呂合わせにも詳しければ、たちどころに見破っちゃうだろうし」
語呂合わせ。小笠原は熟考した。「待てよ。Far は『遠くに』だから......。1092とか?」
「惜しい」と莉子が告げた。「それだとFarだけで四桁が揃っちゃうでしょう。Bee って単語は?」
「蜂......。ああ、8ってことか。そうするとFarは『遠く』って意味だな。それで1098か。単純すぎるよ」
宮牧はむっとした。「おまえは凜田さんに教えてもらったから気づけたんだ。あまり複雑にしちゃ、自分でもわからなくなったりするしな。普通ならバレねえよ」
莉子は宮牧に通帳入れを返した。「そうでもないの。同じことをしてる人は大勢いるのよ。先月お店に来たお客さんは、サイフにレタリング文字を WHITE PAWNSHOP と貼りつけてた。白の質屋、つまり暗証番号は4678ってこと。PAWNSHOP ってのはあまり日本人に馴染みのない単語だけど、本人にとってわかりやすければそれでいいわけだから......。とにかく、案外ポピュラーな方法なのよ」
「ポピュラー?」宮牧は戸惑いのいろとともに通帳入れを眺めた。「そりゃ困ったな。どうすれば......」
「会社名に見せかけて Farbee co.ltd とでも表記しておけば、それっぽいロゴになるでしょう。でも、わたしたちは暗証番号を知っちゃったし、変更したほうがいいと思うけど」
「カモフラージュの方法も新しく考えないとな。まいったな......」宮牧はアルバムから一枚の写真を引き抜いた。「水無施住職なら凜田さんにも見抜けない悪知恵を発揮するかもな。この箱にどんなからくりがある? 仕掛けが入りこむ余地なんかなさそうだぜ」
テーブルに置かれた写真。小笠原がきょう境内で見たままの光景だった。吊るされた箱はいかにも古そうで、機械的な仕掛けが内蔵されているようには思えない。だが、それは外見上の印象にすぎないのかもしれなかった。
小笠原はいった。「これ、何か月も雨ざらしだったわけだろ? メカが入ってたら壊れちゃうかな」
宮牧が眉をひそめた。「メカって? 内部を防水にするのはそんなに難しくないだろ。でも、いったいどんな仕組みなんだよ。遠隔操作で作動して、住職とまったく同じ筆跡で文字を書いて、墨を乾かして、丸めて筒にして、封蝋するのか? それも電源なしに作動するのかよ。高さ十五センチ、幅三十センチ、奥行き二十センチの箱のなかで可能になる芸当とは思えねえな」
莉子が身を乗りだした。「そうでもないと思うけど......。引き出しの位置を見て。下のほうについているでしょう。ようするに引き出しの上十センチぐらいは、なんらかのからくりを内蔵できるスペースがある」
「機械仕掛けだっての? まさか......」
「いえ」莉子は立ちあがった。「仕組みはだいたい想像できてるの。白紙ある?」
「ああ」小笠原は、コピー機からA4サイズの紙を一枚取りだした。「これでいい?」
「ありがとう」莉子は紙を受け取った。「祈願書には封蝋がしてあったけど、あれは紙を巻いてから蝋を垂らしたんじゃなくて、あらかじめそういう形のシールを作っておいたと思うの。固まった蝋の裏に、粘着性が長持ちするシール用の糊をつけておくのよ。いまはこれで代用するね」
デスクの上にあった事務用品のなかから、ポスト・イットのラベル・シールを一枚はがした。直径五センチほどの円形のシールだった。紙の一辺の中央に、シールを半分ほど突きださせた状態で貼りつけた。
「いま紙の端から、シールが二・五センチほど突きだしているでしょう。これを内側に丸めこんで紙筒にするの。シールの糊は、筒の真ん中で内側にくるから、紙には接することもないし、くっつかない。しっかりと細く巻くのよ。......できた」
莉子は紙筒を手にしたままホワイトボードに歩み寄った。「いまの状態を断面図に書くと、こんな感じ」

小笠原はうなずいてみせた。「わかるよ。それで?」
「次に」莉子はまたデスクの上に手を伸ばした。「このファックスを使うの」
パナソニック製の〝おたっくす〟、どこの家庭にもある小ぶりなペーパーレスのファクシミリ。受信データをメモリーに溜めこむタイプで、印字するには一枚ずつ紙をセットする。莉子は給紙用フィーダーを取り外した状態で、丸まった紙筒の外側の辺を用紙挿入口に二センチほど差しこんだ。
「これでよし。小笠原さん、宮牧さん。ファックスの両端を持って、ひっくり返して。差しこんである紙が外れて落ちないように、そっと。デスクの表面から五センチほど浮かせて」
ふたりで指示に従う。紙は強く巻かれたせいで、まだ筒の状態を保ったまま、逆さになったファックスからぶら下がっている。
莉子はコピー機に向かい、もう一枚の紙を取りだした。ペンを手にして首をひねる。
「何を書こうかな。わたしたちにとって判明したばかりの最新のニュース。『Far Bee は1098』と」
宮牧は面食らったようすだった。「おいおい......。書いちゃったよ。俺の暗証番号を」
小笠原は宮牧を制した。「いいんだよ。この場限りのことだし」
「ねえ」莉子がきいてきた。「このコピー機、ファックスと一体型のタイプ?」
「そうだよ」と小笠原は応じた。
「そっちの〝おたっくす〟の番号はわかる?」
「ええと」小笠原はデスク上のメモ書きを見た。「○七五一二五六......」
莉子はコピー・ファックスー体型機に『Far Bee は1098』と書いた紙をセットし、番号をプッシュした。
ほどなく、小笠原と宮牧が逆さに保持する〝おたっくす〟が作動した。給紙ローラーが回転し、印字を開始する。
「おおっ!?」宮牧が驚きの声をあげた。
逆さになった〝おたっくす〟から下方へとゆっくり排出される紙は、デスクの表面で自然に丸まり、紙筒ができあがっていく。
そして最後には、シールが紙筒の外側に貼りついた。まるで人の手で封蝋がなされたかのように......。
小笠原は〝おたっくす〟を元の場所に戻しながら、デスクの上を見つめた。音隠寺で箱の引き出しにおさまっていた祈願書と、寸分たがわぬ紙筒が横たわっていた。
莉子ははしゃいだ声をあげた。「やったー、成功! 給紙ローラーはゴムだから糊がくっつかないの。いまの一連の出来事を絵で表すと、こう」

ホワイトボードを指さしながら莉子はいった。「ローラーによって引き伸ばされるから、紙筒の巻き具合は緩んで直径が元の状態よりも大きくなる。外側に膨脹しようとする力のおかげで、排出後は封蝋の裏面の糊に紙が密着するのよ」
なるほど......。小笠原は感嘆を禁じえなかった。あの境内の喧騒なら、作動音もきこえない。箱の振動も、風で揺れているだけと感じるだろう。
デスクに歩み寄ってきた莉子が紙筒を取りあげる。シールを剥がして開いた。『Far Bee は1098』とある。一見しただけでは直筆か印刷かは区別できない。莉子はその紙をかざした。「僧侶が引き出しを開けて祈願書を取りだし、その場で開く。見てのとおり、なんら怪しい動作もなく文面をお披露目できる」
ふたたび紙を丸めて、莉子はホワイトボードに向かった。また紙を広げてマグネットで四隅をとめて、ホワイトボードに掲示した。「これで完了。祈願文開示の日、一部始終をご覧いただきました」
宮牧が声を張りあげた。「異議あり!」
小笠原はきいた。「なんだよ」
「問題が残ってる」宮牧はつかつかとホワイトボードに歩み寄った。「掲示板に貼りだされた祈願書は、拝観者も自由に触れられる。裏も確かめられるんだよ。間違いなく墨で書かれてた。過去に祈願書を借りて検証をおこなった番組もあったし、きょうもリポーターが確認してたろ」
莉子は微笑した。「なら、宮牧さんもそうしてみれば?」
怪訝な表情を浮かべた宮牧が、ホワイトボードから紙を外した。透かしたり裏返したりして眺めまわしたが、やがて甲高い声をあげた。「なんだこりゃ!? 直筆じゃないか!」
もはや驚くには値しなかった。さっきは気づかなかったが、可能性はひとつしかない。小笠原は笑っていった。「凜田さん。紙筒をすり替えたね」
「そう」莉子はギンガムドレスの胸もとから、もう一本の紙筒を取りだした。「さっきファックスから排出されたのはこっち。おふたりがデスクの上に気をとられているあいだに、送信が終わった原稿を丸めて、もう一枚のシールでとめて、服のなかにしのばせておいたのよ。最初に見せた文面は印刷だけど、その段階では誰にも触らせない。ふたたび丸めて、ホワイトボードに向かうために背を向けたとき、こっそり胸もとですり替える」
宮牧は頭をかきむしった。「なんてこった! ぜんぶつじつまが合うじゃないか。たしかに、あの僧侶は本堂からでてきた。書いたばかりの原稿はドライヤーか何かで乾かしたんだろう。それを丸めて封蝋をして、袈裟の懐に隠してたんだ」
小笠原は思いついたことを口にした。「通信は無線だとして、まだ電源の疑問が残ってるけど......」
莉子が神妙にうなずいた。「そうよね。待機電力だけでも何か月ももたせられるバッテリーがあるとは思えない。けど、ワイヤレス共振エネルギー・リンクの開発が進んで、電気を電波で送りこむユニットが入手可能になってる」
また宮牧がぎょろ目を剥いた。「ワイヤレス電源? 何年か前にインテルが実験に成功した......。売りにだされてるのか? 見たことないよ」
「日本ではね。ワイヤレス電力供給にはいくつか種類があって、電流を通したコイルから発生する磁力によって電力を生む電磁誘導型は、もうかなり前に商品化されてる。でも距離が数センチ以内でしか成功しないし、金属を近づけると発熱するのが短所だった。電波を電力に変換する電波受信型は、空気中でほとんどの電力が逃げてしまうから効率が悪い。けど、インテルはマサチューセッツ工科大の実験をもとに、新たに共鳴型の開発を進めて、二メートルの距離で六十ワットの電球を灯すことに成功した。コードレスでね」
「でもさ」小笠原は肺に落もなかった。「水無施住職が祈願文のパフォーマンスを始めたのは、五年も前だよ」
莉子はiパッドを手にとり、ブラウザのなかに英語の記事を表示した。「さっき調べたんだけど、共鳴型ユニットは研究用として、インテルの実験以前から専門家向けに販売されてたの。個々に改良して実用化をめざす自由はあったのよ。日本では総務省がワイヤレス電源の実用化に積極的な反面、人体への健康被害を懸念してユニットの販売を制限してきたから、あまり公にならなかった。手をだすなら海外の通販を利用しなきゃならない。
非常に高価だけど、水無施住職なら買えるでしょう。ユニットを改良したのは住職本人かもしれないし、お金で専門家を雇ったのかもしれない」
電源の送信元は箱の真下、石仏群のなかあたりか。それなら距離は二メートル以内だ。本堂から地中にケーブルを這わせれば充分に可能だった。
なんと抜け目のない坊主だろう。日本古来の箱に海外の最新技術を詰めこむなんて。常人では思いつかない発想だ。
宮牧は莉子を見つめた。「あの箱の中身をたしかめればよかったのに......。住職も箱を差しだしてたじゃないか。きっと観念したんだろうよ」
莉子は苦笑ぎみにうつむいた。「そんなわけないでしょう。箱を見せてって頼んだのに、住職はきこえないふりして短歌を書きつづけてた。あれは僧侶を本堂のなかに逃がすための時間稼ぎよ。後で僧侶を呼んで箱を持ってこさせたけど、外にぶらさがってた箱と同じ物とは思えない」
「箱がふたつあったってことかい?」
「当然。ときどきマスコミの取材に貸しだしてるんだし、仕掛けのない箱が用意してあるんでしょう。でもわたし、逆に確信したの。住職は箱をすり替えざるをえなかった。やっぱり物理的なトリックなのよ」
「なるほどなぁ......。それにしても、よく気づいたね」
莉子は〝おたっくす〟を指さした。「その家庭用ファクシミリを見たとたん、ぴんと来たの。祈願箱に収まりそうなサイズだし」
宮牧は興奮ぎみにまくしたてた。「小笠原! こいつはスクープだ。絶対に記事にするべきだよ。物証がなくても、同じ実験をこっちでもやってみせればいい。なんならマスコミ連中を集めて盛大に......」
小笠原は首を横に振ってみせた。「宮牧......。問題がひとつ残ってるよ。凜田さんはそれで悩んでたんじゃないか」
「問題......?」宮牧はきょとんとした。「なんだっけ?」
莉子が深刻そうな面持ちで、テーブルから短冊を取りあげた。両面白の短冊、その片面に三つの短歌が書いてある。署名は水無施瞬。
短冊を眺めながら莉子はつぶやいた。「五年前、初めて京都のローカル局が音隠寺を取材したときの映像がユー・チューブにあがってる。水無施住職がずっと境内にいたにもかかわらず、祈願文にはほんの数分前に発表になったばかりの、安倍内閣の閣僚リストが書いてあった......。以後きょうに至るまで、祈願文開示の日にはかならず住職が人目に触れる場所にいたのに、そのあいだに報じられた最新のニュースが文面に反映されてきた」
宮牧が唸った。「そうか......。裏で別の僧侶が書いたのなら、筆跡が異なるはず......」
「ええ。高桜堂に展示されている書も含めて、水無施住職の筆跡とされているすべてが別人の手によるものかと思ったんだけど......」
小笠原はうなずいてみせた。「住職に無理やりにでも目の前で字を書かせたのは、それを確かめたかったんだね」
「はあ」莉子は弱りきった顔で、深くため息をついた。「きっと筆跡が異なると予想してたんだけどなー。百パーセント同一人物って鑑定されたからには、いままでの推論は崩さざるをえない。どこから間違ってるんだろ。何を見落としてるんだろう......」
しばし会話が途絶えた。森閑とした室内に、ふいに着うたが鳴り響いた。宮牧がポケットをまさぐりだした。
思わず苦笑が漏れる。小笠原は冷やかした。「『フライングゲット』かよ」
「黙ってろ」宮牧が携帯電話を取りだし操作した。「田丸先輩からメールが届いたぞ。へえ。水無施住職、高卒だってさ。バイト先を転々としたのち、ディスカウントショで〝チープグッズ〟本店に勤め......」
「え!?」莉子が目を丸くした。「いまなんて?」
小笠原も鳥肌が立つ思いだった。「それ、いつごろの話だ?」
「ええと」宮牧は液晶画面に見いった。「雇われたのが十年前。以後三年で支店長にまで出世。独立後、資金を集めてイタリアンレストランを開業......って書いてある」
七年前にチープグッズ・チェーンを離れたのか。莉子は十八歳のころ、つまり五年前に本店でバイトを始めた。彼女が瀬戸内陸店長に出会ったのとほぼ時を同じくして、水無施瞬は音隠寺の住職となった......。
瀬戸内陸という人物の素性も現状も知らない宮牧は、眉をひそめてきいてきた。「チープグッズって店が、どうかしたか?」
事情を把握している数少ない人間にとっては、とてつもない衝撃に違いなかった。小笠原は莉子を見つめた。「凜田さん。水無施住職がとんでもなく商才に恵まれているのも、こんなトリックを思いついたのも、おそらくは......」
「そうね」莉子は物憂げにつぶやいた。「道理で考え方が似通っているわけね......」
禅問答
今年から京都市内では条例により、七月と八月、拝観料をとる寺も早朝のみ境内を無料開放している。売店は閉まっているし建物のなかも見学できないが、ふだん観光客で超満員の境内を静かなうちに散策できる自由は、周辺住民に歓迎されているときく。
午前五時すぎ、夏の空はすでに明るい。音隠寺の本堂周辺もひっそりとしていた。若い僧侶が竹ぼうきで石畳を掃除するほかは、散歩がてらに立ち寄る高齢者をまばらに見かけるていどだった。
莉子はそんな境内の奥深く、本堂の脇にある石仏群と四本の柱の前に立ち、きのうまで祈願箱がぶらさがっていた辺りに目を向けていた。
いまも立ち入り禁止のロープが石仏群を囲んでいる。分け入って地面を掘り、ワイヤレス電源送信機の有無を確かめたくなるが、それは許される行為ではない。ここから合法的な観察によって真相を究明するしかなかった。
ふと、背後で砂利を踏みしめる音がした。聞き覚えのある男性の声が穏やかに告げる。
「またお目にかかったね」
振りかえると、すらりとした体型の男性が歩いてきた。褐色に染めた髪は長くうねっている。無地のサーマルカットソーに、流行の民族調ベストを羽織ったカジュアルスタイルだった。両手はデニムのポケットに突っこんでいる。
男性向けファッション誌に載っているような美形の青年には違いないが、誰だろう。以前に会ったような気もするし、向こうも親しげな態度をとっているが......。
戸惑うこと数秒、莉子は男性の正体に気づいた。「ああ! もしかして、水無施住職!?」
アイリッシュバーで流暢な英語を喋っていそうな、いかにも日本人離れした目鼻立ち。水無施瞬はそのルックス同様にくだけだ口調でいった。「きのうはどうも。印象に残る出会いだったよ」
莉子はおじぎをした。「おはようございます。ご無理をいってすみませんでした」
「いや。あれぐらいかまわないよ。......っていうより、また来るだろうなと思ってた。こんなに早く会えるとは予想していなかったけど」
愛想のよさと、大人の落ち着きぐあいを兼ね備えた独特の語り口。嫌味がなく、誰もが好感を持つであろう理想的な人格者。少なくとも、現時点ではそう思える。
とはいえ、彼の言葉にはひっかかるものを感じる。莉子はきいた。「また来るって、どうして......?」
「いや、深い意味はないよ。そんな気がしただけでね」
「ふうん」どうしても違和感があるほうに目がいく。「住職。その髪の毛ですけど......」
瞬は控えめに笑った。「ウィッグは便利だよ。服に合わせて気軽に変えられるから」
「お坊さんって、普段はみんなかつらをつけてるんですか?」
「みんなじゃないな。京都では駅やコンビニで同業者をよく見かけるけど、たいてい坊主頭のままだよ。僕は仕事とプライベートをきっちり分けるほうだから」
「住職は仕事にすぎないわけですか」
「......記者さんだけに質問が多いね。これは取材なのかな?」
「いえ。あのう、わたしは報道関係者じゃないんです」
「そうなの?」
「はい。凜田莉子といいます。東京で鑑定業をしてまして」
「鑑定......」瞬の言葉づかいは、世間話のようなトーンのままだった。「きみが雑誌記者に同行を求められた理由はなんだろう。祈願箱が本当に昔の物か否かを見極めるとか?」
警戒心をのぞかせてきた......といえるだろうか。焦っているようには見えない。むしろ余裕の極みにさえ感じられる。
莉子も穏やかにいった。「古い物には違いないと思いますが......。祈願のための箱じゃないですね。階段箪笥の一部でしょう。もとは、ああいう箱がたくさんあって階段状に積んであったんです。平安時代でなく江戸時代です」
「ほう。階段箪笥ね」
「つまり現在も二個以上、同じ物が残っていてもふしぎではないわけです」
瞬はすました顔のままだった。「この寺には、ひとつしか伝わってないけどね」
「そうなんですか。てっきりふたつあるかと思ってました」
「記者さんでもないのに内部事情に関心があるみたいだね。憶測でものをいうのは感心しないけど」
「憶測じゃないです。有機的自問自答です」
枝葉の影が瞬の顔におちていた。その表情がこわばったのを、莉子は見逃さなかった。
陽射しがつくる明暗の落差のなかで、瞬はきいた。「無機的検証も済んでるのかな?」
「はい。仮説が正しければすべて成立するか否か。答えはあきらかです」
しばし瞬は黙って莉子を見つめてきたが、すぐに微笑を浮かべた。「瀬戸内店長のもとで働いたのは、鑑定家になる前かい?」
「そうです。あなたと同じく、チープグッズから独立する前に」
「すると、きみにとって僕は兄弟子なわけか。面白い。きみの鑑定業もさぞ儲かってるんだろうね」
「いえ......。閑古鳥です」
「おかしいな。瀬戸内店長の教育を受けたのなら、等しく商才に恵まれるはずなのに」
「考え方の違いです。祈願箱のからくりは判っても、同じことをしようとは思いません」
「確実な収入につながるとしても? どうして否定するのか、理由をききたいね」
「人と異なる思考法を身につけたからといって、世間を欺くのに用いるべきではありません。まして私腹を肥やすのは言語道断です。たとえ宗教の衣を被っても、許されることじゃないはずです」
「なるほど。きみはさしずめ観音菩薩だね。慈愛に生きる人なわけだ」
茶化しているような口調ではなかったが、真面目にそう思っているわけでもなさそうだった。莉子のほうもさらりと応じた。「自分がそういう目に遭いたくないってだけです」
「心配は無用だよ。私は開示の日の何か月も前に、祈願文をしたためる。きみは箱にからくりがあると疑っているようだけど、それは間違ってるよ。不正などいっさいしていない」
「なら、一部のマスコミにだけでも事前に祈願文を見せていただけないでしょうか。絶対に報道しないと確約させておけばいいと思いますけど」
「申しわけないけど、それは難しいな。寺としても依頼人に対し守秘義務があるし」
「そうですか。では祈願文の写しを銀行の貸金庫に預けるというのはどうですか? 開示の日以降に、あなた以外の誰かが引き取りに行くということで」
「祈願書は一通しか作れないんだよ。古い伝統に基づく儀式なのでね。箱におさめて、この場所に吊るさなきゃならない」
「じゃあ、祈願書を巻くのではなくて、四つ折りにして箱におさめることはできませんか」
「折り目筋目はご利益が逃げると言い伝えがあるので、あのようなかたちに奉納させてもらっているんだよ」
莉子は思わず苦笑した。
瞬は余裕たっぷりにきいてきた。「なにかおかしいところがあったかな?」
「いえ......」
こちらが考えつくあらゆる問いかけに即答してくる。宗教人という隠れ蓑を利用した、有効な逃げ口上の見本市だった。やはり同じ人物に師事しているせいで、思考も共通しているのだろう。裏をかけない。どこから攻め入っても防がれてしまう。
「でも」瞬は静かにいった。「きみのいうことにも一理あるね。祈願の儀式は、あまりに世間で話題になりすぎた。そればかりに関心を持たれたのでは、御仏の教えについて曲解される恐れもある。だからそろそろ潮時かもしれない。祈願文の開示はもうおこなわないかもね」
「......ずるいですね」
「なにが?」
「祈願文は伝説となり、よりいっそう神秘性も高まる......。いまさら拝観者数も落ちないだろうし、いい戦術ですね。少しでも追及の手が伸びてきたら、即座に中止する算段だったわけですか」
棘がある物言いにも、瞬は依然として落ち着いた態度をしめしてきた。「きみひとりが疑いの目を持ったからって、寺の方針を変えたりしないよ。祈願文開示の終了については、前から検討していたことだし」
莉子は黙りこんだ。
これまで会ってきた詐欺師とは雰囲気がまるで違う。ポーカーフェイスの使い手というより、自分の行いを気にかけていないようだった。ぺてんが発覚するかもという危機感を抱いていない。だから揺さぶりにも動じるところがない。
「あのう」莉子は自分のハンドバッグに手を伸ばしてみせた。「よろしければ、もうひと筆いただきたいんですけど」
「......書く物を持っているのかな」
「筆と墨なら用意してきました。あと、きのうの短冊も......」
「いま持ってるの?」
「はい」
「なら」瞬の声のトーンは、いままでとは違っていた。わずかにうわずっている。「きちんと腰を据えて書いた掛け軸があるから、取り替えてあげよう」
莉子は瞬を見つめた。瞬はハンドバッグを覗きこむように前のめりになっていたが、すぐに莉子の視線に気づいたようすで、また身体を退かせた。
それは、瞬に初めて垣間見えた焦燥の反応だった。
瞬の表情はこわばっていたが、すぐに微笑した。莉子も笑いかえした。
「巧いね」瞬はいった。「短冊は持ってきてないんだろ?」
「ええ」莉子もとぼけてみせた。「どうやらホテルに忘れてきちゃったみたいです」
駆け引きの均衡は破られた。瞬は短冊を気にかけている。しかも掛け軸との交換を求めてきた。すなわち、短冊を回収したがっている。
何を警戒しているのだろう。プロの筆跡鑑定ではシロとでた。そこまでは彼の目論見どおりだったはずだ。でもその一方で、彼の筆でないことをしめす証拠が、あの短冊に残っているのだろうか。
莉子は瞬を見つめた。「短冊はありませんけど、ほかの紙に書いていただくことはできますよね?」
すると、瞬はふっと笑い、デニムのポケットにいれていた手をだした。
その手を見て、莉子は衝撃を禁じえなかった。瞬の右手に包帯が巻かれていたからだった。
瞬はつぶやいた。「突き指しちゃってね」
突き指って......。莉子は唖然とした。
呆気にとられながら瞬の顔を見つめる。瞬の顔には、ずっと笑いが留まっていた。
その表情を眺めるうち、莉子のなかにおかしさがこみあげてきた。莉子は笑った。瞬と顔を見合わせながら、互いに笑いあった。
本当に指を怪我しているとは思えない。ふたたび筆を走らせるのはまずいと考えているのか。理由はなんだろう。あるいは、書きたがらないという態度はフェイクにすぎないのか。別のところにある真実から、わたしの目を逸らさせようとしているのかもしれない。
たしかに彼は、わたしが再び現れるのを予期していたのだろう。いや、境内にわたしの姿を見つけて、包帯を巻いてきたのかも......。いずれにせよ、朝っぱらから準備を怠っていない。油断ならない、ひと筋縄ではいかない相手だった。
莉子はきいた。「バレなければ犯罪は犯罪ではない。そうお考えですか」
「犯罪ではないよ」瞬は涼しい目をしていった。「御仏に仕える身だからね」
「このお寺が本当に信仰心によって成り立っていればいいんですけど」
「きみは、ほかの寺が純粋な信仰心に支えられていると思っているのかい?」
「論理のすり替えです。いま問題にしているのはあなたのお寺のことです」
瞬はため息をついてから、穏やかに告げてきた。「きみみたいな人は初めてだ。まず、このことだけははっきりさせておこう。僕がもしきみに秘密を打ち明けることがあるとすれば、それは互いに結ばれたときだ。一生を添い遂げる運命の関係とでもいおうかな」
「......結婚のことをおっしゃってるんですか」
「そう」瞬は咳ばらいをした。「ところできみは、まだ京都に滞在するのかい」
「ええ。しばらくは」
「よかった。......祇園にいいお店があるんだけどね。お付き合い願えないかな」
「は?」莉子は思わず声をあげた。「な、なんですかそれ」
「まずはお近づきのしるしに、神戸牛のおいしい店にご招待しようかと思って」
「神戸牛って......。お坊さんなのに」
「坊主が山菜しか食べないなんて、信じてるわけじゃないだろ? これは仏教の腐敗や堕落をあらわすものではないよ。明治五年の布告で、僧侶は肉や魚を食べることも、結婚することも許されてる」
「で、でも、そのう......」
莉子は動揺を隠しきれずにいる自分がふしぎでならなかった。どうしてわたしはこんなにあわてているのだろう。
無言のままたたずんでいると、瞬が返事をうながしてきた。「どう? チープグッズの先輩後輩の間柄なんだし、食事しながら話そうよ。知りたい真実があるんだろう?」
「......お」莉子はささやくような自分の声をきいた。「おおきに、と申しあげておきます......」
その返答に、瞬が眉をひそめたとき、歩み寄ってくる足音をきいた。
女性の声が呼びかけた。「すみません。水無施住職......」
背丈も体型も莉子とほぼ同じ、年齢も近いように思える。前髪が長めのミディアムボブで、やや童顔ぎみの可愛い目鼻立ちをした女性だった。シフォンブラウスにプリーツスカートは洒落た組み合わせではあるが普段着っぽい。ハンドバッグも持っておらず手ぶらだった。
「あのう」女性は京都訛りの言葉で、おずおずと瞬に話しかけた。「相談がありまして......アパート経営のことで」
しかし瞬は、さっきまでの莉子に対する態度とはうって変わって、冷やかな口調で告げた。「法要と悩み相談は拝観時間内のみです。九時以降に高桜堂で窓口にいる僧侶に申しでてください」
女性は困惑ぎみに押し黙り、視線を落とした。「そ、そうですか......。わかりました、そうします」
立ち去りかけた女性に、莉子は声をかけた。「待ってください。アパート経営って?」
瞬の表情が険しくなった。さっさと追い払いたいと思っているのだろう。
かまわず莉子は女性にきいた。「どんなことをご相談に来られたんですか?」
「ええと......」女性は瞬をちらと見ながら、戸惑い顔でいった。「うちの実家は右京区の常盤仲之町にありまして、アパートを経営してるんです。でも空き室ばかりで、なんとか入居者を呼びこまないと、両親の借金が......」
すると瞬が口をはさんできた。「その人の相談は初めてじゃないんだよ。丸太町通から太秦映画村方面に入って、さらに路地を折れた先。徒歩数分の圏内にセブンイレブンとスーパーのマツモト、ファミレスのガストがある。好条件の立地なのにひとりも契約できないのは、ずばりボロ家だからだよ」
女性は傷ついたようすだった。「たしかにちょっと古くなってますけど、耐震診断もしましたし、住むぶんには問題もないし......」
「問題ない? いいですか、築三十五年の二階建て木造アパート、外観は塗装がはげ落ちて、内装のほうも壁紙があちこちで破れている。大幅にリフォームでもしないかぎり、借り手のニーズには応えられませんよ」
「リフォームなんて......。お金がないので無理です。なんとか現状のままで、定期的な家賃収入が得られるようにしないと......。どうかお願いします」
「お願いって、何をですか? 寺でできることではないですし、ボランティアの人手を求めているのなら市役所に相談されたほうが」
莉子は瞬にきいた。「人助けに興味ないんですか? 仏教寺院なのに」
「正しい人の道をお教えするのが仏教だよ」瞬は真顔で合掌した。「地主というだけでお金を得られるという甘い幻想を捨て去ることこそ、苦悩から脱する唯一の方法だと思う」
事なかれ主義。どことなく、牛込署の葉山警部補と初めて対面したときと重なる。
そう思うと、苛立ちがこみあげてきた。弱者が救済を求めるとき、思いは必死だ。でも手を差し伸べるか否かは強者の自由に委ねられる。その倫理の曖昧さが嫌だった。
むっとして莉子はいった。「絶対に助けられないとお思いですか。二段階の論理的思考を経ても?」
「無機的検証によって結論はでた。取り壊して駐車場にでもするのがいちばんだ。きみの考えは?」
「今後は入居者が殺到して、常に満室がつづきます」
瞬は静かに笑った。「面白いことをいう人だね。不可能の実現はすなわち奇跡だよ。奇跡を起こせたとしたら、もはや人ではないね」
「祈願文は? 奇跡じゃないんですか」
「僕は祈願してるだけさ。奇跡が御仏の思し召しならば、僧侶としては従うのみだね」
「よくわかりました。そのお言葉、覚えておいてくださいね」
「......どういう意味かな?」
莉子は答えなかった。禅問答に興じるつもりはない。実証あるのみだった。
「行きましょ」莉子は踵をかえし、女性の腕にそっと触れてうながした。「わたしが力になります」
「え......?」女性は困惑ぎみに莉子を見かえし、次いで瞬を振りかえった。だが、瞬が呼びとめるようすがないことに気づいたのか、憂いのいろとともに莉子に歩調を合わせてきた。
女性はきいてきた。「失礼ですけど......」
「凜田莉子といいます。東京からきた鑑定家です。あなたは?」
「うちですか......? 櫂麻耶といいます。大学生で」
「そう。よろしく」莉子は歩きながら、もういちど後方に目を向けた。
水無施瞬はまだ石仏群の前にたたずみ、こちらを見送っていた。
莉子は行く手に向き直った。祈願箱のトリックで世を欺くよりも、いまの彼の態度こそ許しがたい。瀬戸内店長から小手先のトリックばかりを学び、哲学や信念を受け継ぐのは怠ったようだ。人への支援にためらいがあってはならない。彼は以前に相談を受け、櫂麻耶のアパートを知っていたらしい。ならばわたしの手で、麻耶の家族を苦境から救いだそう。そのさまを見れば、名ばかり住職の目もいくらか覚めることだろう。
アパート再生
あらためて見ると、やはり自宅兼貸しアパートの木造二階建てはひどいボロ屋に違いなかった。
建った当時の流行の名残りで、門柱やドアにほんのわずかに洋風のデザインが残っているのが唯一の救いだが、それとて朽ち果てたような外装の劣化ぐあいのなかに埋もれてしまっていた。掃除はしているから蜘蛛の巣は張っていないが、これほどみすぼらしい建物は京都じゅう探してもそうあるものではない。
京都女子大短期大学二年の櫂麻耶は、協力を申しでてくれた凜田莉子なる女性をアパートに連れてきたものの、自分が不相応な願いを抱いているのではと気恥ずかしさを覚えていた。
だが莉子は拍子抜けしたようすもなく、一階の2DKに住む麻耶の両親と会ってくれた。父・煌生と母・瑠花。人見知りな両親は莉子に対してもぼそぼそとあいさつを口にしただけだった。暗く沈んだ面持ちに積極性は感じられない。多重債務のあげく、毎晩のように借金取りが押しかけているとあっては、内向的になるのも無理なかった。わたしも同じ顔をしているのだろう、麻耶はそう思った。
すでに諦めの境地だった。家賃収入を得るなど甘い幻想、水無施住職にそう切り捨てられたことが、胸に深い傷となって疼いていた。
ところが莉子は、住職の言葉を特に気にかけてもいないようだった。「お坊さんがいったからって、事実だっていう確証はないでしょう」
「でも」麻耶は戸惑いながら訴えた。「あの音隠寺の水無施住職やし」
「ご利益抜群の祈願で知られるお寺の人だから? もし祈願文の奇跡そのものがいんちきだったとしたら?」
麻耶は肝を潰した。「いんちきって......。そんなこという人、初めて。京都ではみんな、水無施住職のいうことなら絶対って信じてはるし。うちも短大受験のときに拝観に行ったし」
「合格したのはあなたの努力のおかげよ。いまもそう。自分で前に進まなきゃ解決策は見えてこない」
莉子はアパートのなかを見てまわった。八部屋すべてが空室、壁紙も床もぼろぼろだった。それでも莉子は顔いろひとつ変えなかった。視察を終えたとたん、莉子はきっぱりといった。「来月にはすべての部屋が埋まるでしょう。スリッパをたくさん用意しとかなきゃ。入居者が殺到して困るぐらいになるから」
まさか......。麻耶は半信半疑だったが、莉子は自信たっぷりのようすだった。さっそく携帯電話で知人に連絡を取り、レンタカー店で軽トラックを借りてくれるよう頼んでいる。電話の相手は、雑誌記者の小笠原という人らしい。
それから莉子がネットカフェに行きたいといいだしたので、麻耶は一緒にバスに乗り、西院駅前の快活CLUBに赴いた。
インターネットの二人用ブースに入ると、莉子は不動産情報のサイトを開いて、人気物件の部屋の画像をいくつか見せてくれた。
莉子はきいた。「なぜ入居希望者が殺到するかわかる?」
「ええと」麻耶はそれらの画像について、思ったままを告げた。「家具つきやから......」
「そのとおり。入居者にとっては重要なのよ。カーテンひとつあるだけでも嬉しがったりするの。いちいち窓枠に合わせたサイズのカーテンを買うのも手痛い出費だしね、まして、冷蔵庫から洗濯機、テレビや収納棚まで揃っていればいうことなし。誰でも初期費用は抑えたいだろうから、似たような物件が複数あったら、家具の揃っている部屋を契約したがるはず」
「じゃあ、うちもこんなふうにせなあかんってこと? そんな無茶ぶりされても......」
「どうして?」
「お金ないし。リサイクルショップで中古品を買うてくるにしても、冷蔵庫ひとつだけで何万円もしよるし」
「そこも心配ないの」莉子はいささかも動じるようすもなく、マウスを滑らせクリックした。
ブラウザに表示されたのはヤフー・オークションの卜ップページだった。〝住まい、インテリア〟のカテゴリをクリックして、出品されている商品の一覧を表示する。さらに
『価格の安い順』に並べ直した。
すると、一番上に表示されたのは『激安! 電子レンジ一円スタート』の文字だった。
麻耶は唖然とした。「一円って......?」
「これだけじゃないのよ」莉子は家具のカテゴリを選択し画面を切り替えた。今度のリストも、先頭の数件の開始価格は一円になっている。冷蔵庫、ダイニングテーブル、ベッドの三点セットまであった。
そのページを開いてみると、出品者のコメントが載っていた。当方引っ越しにつき処分品です。直接、取りに来てくれる人のみ入札願います。そうあった。
莉子がいった。「引っ越し先で家具が必要なくなるケースは多いの。でも粗大ごみとして引き取ってもらうにもお金がかかるし、捨てるにはもったいないから使ってくれる人がいればあげたいって出品者もいるのよ。ただし、配送可になっている場合でも送料がかかったんじゃ高くつくでしょう。こっちから取りにいくから即決してくれませんかって交渉するのよ」
「なるほど、それで軽トラ借りたんやね。たしかにこれなら安く揃うかも......」
「じゃあ」莉子が指示した。「オークションに登録して、早速入札を開始して」
「え? もう購入するん?」
「価格か一円で、よさそうな物を見つけたら片っぱしから狙わなきゃ。でも気をつけて。出品者のほかのオークションもチェックするのよ。複数の商品の画像が同じ場所で撮影されていたら、それだけ豊富な在庫を抱えているわけだから、業者の可能性が高いの。取引は個人に限ったほうがいいわよ。お金目当てで出品していない人」
麻耶は莉子の助言に従い、まずは一円出品の洗濯機に入札しようとした。
すると莉子が制止してきた。「待って。それは駄目」
「......なんで? 古い機種みたいやけど、綺麗やし」
「画像をよく見て。タイマーのつまみがひねってあるでしょう。残り七分の目盛りを指した状態でプラグが抜いてある。作動中に壊れたんでしょう。水を使う家電は、不具合が生じてたら洒落にならないし」
たしかに......。麻耶はひそかに感心した。そういえば、莉子の仕事は鑑定家だという。画像だけで品定めできる自信があったからこそ、この方法を勧めてきたのだろう。
いろいろ物色するうちに、ソファベッドの画像がよさげに思えたので、麻耶は『入札』のアイコンにカーソルをあわせた。けれども莉子は首を横に振った。「遠すぎて取りに行けないから無理」
「......遠いって? 商品発送元地域に大阪って書いてはるよ」
「引っ越してもヤフーIDに登録した住所情報を変更し忘れてる人は多いの。京都から山口まで軽トラじゃ、時間もガソリン代もかかりすぎるでしょう」
「山口?」
「画像の背景を見て。網戸の外に道路が写ってる。ガードレールが黄色いでしょう。山口県内の国道と県道だけはそうなってるの」
「へえ! こんなん、よう気づきはったなあ。でも大阪に引っ越して来はる前の画像かも......」
「ソファの上にあるゲームソフトを見て。『モンスターハンターポータブル3rd』のPS3版。きのう発売になった物よ。出品者に問い合わせれば判っただろうけど、無駄な時間は費やせない。判断できるものはしていかなきゃ」
麻耶はたまげるしかなかった。なんて明敏な。しかも判断を下すまでが猛烈に早い。こんな人がいたなんて。
どきどきしながら検索をつづける。麻耶は十円出品の洗濯機を探しあてた。家の裏手で撮影された画像がある。雨ざらしのせいで薄汚れているものの、コメント欄に『今月作動確認済み』と書いてあった。場所も京都、祇園だった。通りすがりの舞妓が写りこんでいるから間違いない。
しかし、莉子はまたも入札に賛成しなかった。「舞妓さんのかんざしがキキョウだし。これ、去年の九月の画像よ。今月ならすすきかアサガオでしょう。古い写真を使いまわしているからには、コメントも同様でしょうね。ようするに、今月作動確認済みってのは去年の話」
もはや開いた口がふさがらない。舞妓のかんざしが毎月変わるのは京都人なら知っていることだが、麻耶はさっぱり気づけなかった。
検索を続行し、また新たな品物を見つけた。麻耶は提案した。「この猫脚テーブルと椅子のセット、どやろ? 高級っぽいし、一円スタートでしかも京都市内。コメントに『東京の楽天シティホテルでも使われている一級品です』って書いたるし」
「出品者が個人を名乗っているけど、中国人業者のなりすましだから入札しちゃ駄目」
「なんでそんなことが......」
「楽天シティホテルって、錦糸町のロッテシティホテルの間違いよ。中国のロッテ・チャイナフーズ・コーポ・リミテッドって会社の現地名は、楽天食品有限公司。つまり中国人がロッテを漢字表記するときには楽天になるの。日本の楽天が別の会社ってことを知らないのね」
「すごすぎ......」麻耶は圧倒されながらも、別の出品を探し求めた。「あ、じゃあこれはどやろ? バーベキューのセットやって。うちのアパート、いちおう二階にはバルコニーあるから、サービスで置いてもええかも。出品者も桂川沿いに住んではるって」
「嵐山付近ならいいけど、それ上桂川だから遠いよ。画像の河川敷をよく観察して。石が角ばってる。下流域なら石は丸くなってるはずだし」
「うーん。ちっとも入札できひん......。この薄型液晶テレビは? 出品者は山梨在住やけど、特別に無料で配送を手配できるって。なんや、画像に証拠書類が写っとるよ。東日本旅客鉄道、無料配送券......」
「でっちあげよ」と莉子はいった。「東日本旅客鉄道の正式表記は『鉄』の字のつくりが『失』じゃなくて『矢』になってるはずなの。無料配送券なんてのもきいたことがないし」
「怖。詐欺にも気いつけなあかんってことや」
「一円スタートだから、それなりに苦労とリスクは負うものよ。あ、その扇風機と空気清浄機のセットはよさそうじゃない? 京都在住って書いてある」
「これ?」麻耶は思わず首を傾げた。「でも店先で撮りよった画像やし」
「個人商店でしょう。それもたぶん八百屋だから、オークション業者じゃないと思う。手前のサッシ窓に、向かいの自動販売機がうっすら映りこんでる......。ちょっとマウスを貸して」
莉子は画像をデスクトップに移し、コントラストを調整してから反転、拡大した。すると、自販機の前面に貼ってあるステッカーの文字が、おぼろげながら判読可能になった。
麻耶は驚きとともに読みあげた。「右京区太秦安井小山町......。びっくり。かなり近所」
「平成十七年以降、自販機には住所入りステッカーが貼られるようになったの。すぐに見に行けそうだし、これは入札するべきでしょう。『出品者への質問』欄に書きこんで。近くに住んでいるのでお伺いしたく存じます。ほかに余っている家電や家具はないでしょうか、って」
指示に従って作業を進めてから、麻耶はさらに別の出品を表示した。「奈良県、東大寺付近在住......。エアコンやね。まだ取り外してはらへん。画像は二枚か。室内と、それから室外機」
莉子が口を開きかけたのを、麻耶は視界の端にとらえた。
だが、莉子が苦言を呈するより早く、麻耶はいった。「これ注意せなあかんよね。サッシに反射した風景にツノのない鹿がおりよる。最近撮りはったんならツノも伸びてるはずやし」
「やるじゃん」莉子は頬をゆるめた。「春先の画像だから少なくとも四か月前でしょう」
「それと、こっちのダイニングテーブル。室内画像は三月三日以前やけど、出品者の家はここから遠くないんちゃう? 後ろにおひなさまが飾ってあって、しかも......」
「ええ」と莉子はうなずいた。「お内裏様とお雛様の左右の位置が、全国のほかの地域と逆になってる。京都に間違いないわね」
思わず笑みがこぼれる。こんなに心が躍るのはひさしぶりだった。
麻耶はつぶやきを漏らした。「いけるかも」
莉子も微笑していった。「その調子」
晴明の式盤
昼過ぎ、照りつける陽射しのなか、小笠原は丸太町通に軽トラックを走らせていた。
莉子とは別のホテルに泊まっているので、彼女が午前中からでかけていたとは知らなかった。水無施住職に関する身辺調査は宮牧にまかせて、葛野大路通沿いのココレンタカーで軽トラを借りてきた。
しかしそれにしても、なぜ莉子はアパートの家具購入の手伝いなんか始めているのだろう。音隠寺の取材に手を貸してくれる約束だったのに、彼女の行動力にはときどきついていけなくなる。
助手席に広げた地図帳をちらと見やる。京都の住所表記にはまだ慣れない。北へ行くのか〝上ル〟で南が〝下ル〟......。〝入ル〟は西と東のどちらだっけ。両方か?
スーパーマツモトの角を映画村方面に曲がる。道路の拡張工事はおこなわれているようだが、現状はまだ道幅が狭いうえにあちこちで電柱が張りだしていた。大型バスとすれちがうには苦労する。さらに路地に乗りいれると、一方通行でもないのにクルマがぎりぎり通れるぐらいの幅になった。悪い予感がして数秒、向こうからクルマがきてしまった。ただ、京都のドライバーは東京に比べて短気ではなく、運転も上手に思える。わずかに空いている道端のスペースにうまくクルマを滑りこませ、やりすごしてくれた。こちらの〝わ〟ナンバーに気づいていたせいかもしれない。
常盤仲之町三番の櫂荘というアパート......。地図で見るかぎりこの辺りのようだ。住宅街の狭い道を徐行していくと、大型セダンの後部が進路を塞いでいた。
銀の車体のベントレー・コンチネンタル。二千万円を超えるクルマ。乗っているのはひとりだけ、運転席にスキンヘッドの後頭部が見える。
裕福な寺の僧侶かな、まだ若そうだが......。小笠原がそう思ったとき、坊主の顔が横を向いた。
小笠原ははっとした。運転席の男は、かの水無施瞬に間違いなかった。開いたサイドウィンドウから仕立てのよさそうなスーツの袖が覘いている。
水無施はしきりに建物の庭先を気にしている。誰かを迎えにきたのか。いや、クルマを停めて待つ気なら、こんな狭い道に乗りいれたりはしないだろう。ようすを見に来た、あるいは通りすがりにふと気になり停車した、そんな態度に思える。
やがて、水無施の目がバックミラーに向いた。こちらに気づいたらしく、水無施はベントレーを発進させた。路地のなかでしだいに速度をあげて、ベントレーは走り去った。
なんだろう。小笠原は軽トラのギアを入れ替えて徐行を開始したが、その直後、はっとしてブレーキペダルを踏みこんだ。
さっき水無施が眺めていた軒先、錆びついた小さな門に、櫂荘の看板がでていた。
ここか。ひどく古びた木造二階建てアパートだった。なかなか借り手がつかないという現況もうなずける。買い物には便利でも、公共交通機関へのアクセスに乏しい。最寄りのJR花園駅までは徒歩十五分ぐらいはある。外観に洋風建築の趣味が一部見受けられるものの、こんなに老朽化していたのでは魅力は無きに等しかった。
そのとき、雑草が伸び放題の庭から駆けだしてくるふたりの姿があった。莉子と、もうひとりは同じぐらいの背恰好の女性だった。年齢も近そうだ。
前後に接近するクルマがないことを確認して、小笠原は軽トラの外にでた。「こんにちは」
莉子が笑顔で迎えた。「小笠原さん、無理いってごめんなさい。こちらが櫂麻耶さん」
「よろしく」と小笠原は頭をさげた。
「は、初めまして......」麻耶は戸惑いがちにおじぎをかえしてきた。
「さてと」莉子はいった。「さっそくでかけましょう。まずは西大路三条近くのおうち。テレビとソファとローボード。この荷台なら余裕で積めそう」
「え?」小笠原は驚いた。「もう落札したの?」
「交渉の結果、きょうじゅうに引き取ってくれるなら無料でもいいっていうから......。急がなきゃ。ほかにもきまっているところが何軒もあるし」
「すごいバイタリティだね。ほんの数時間で......」
小笠原は運転席に乗りこみながら、なぜか口にだす気になれない事実について考えた。
水無施瞬はここで何を見ていたのだろう。莉子は彼の視線に気づいていたのだろうか。
ベントレーを三条通に乗りいれさせて、さらに御池通に向かう。水無施瞬は気ままにステアリングを切りつづけていた。
苛立ちを禁じえない。当初の心配は短冊だけだった。筆跡鑑定が終わったら速やかに回収したい、そう願っていた短冊が、いまも凜田莉子のもとにある。不測の事態に備えて準備しておいた物とはいえ、返却を求めるプロセスについては詰めが甘かった。無理強いしたら彼女は不信感を強めるだろう。いずれどうにかせねば。
しかしながら、いまこうして日中の法事を放棄してクルマを乗りだしている理由が、短冊を気にかけてのことかといえば、そうばかりでもない。
両親は、瞬が早めに結婚してくれることを望んでいた。とりわけ母は露骨にきいてくる。あんた、そろそろ相手探さな。なんなら見つけてきたろか。
妻にしたい女性なら見つかった。初めて会った瞬間にピンときだ。若く、知性に溢れている。ほかの誰よりも群を抜いて魅力的だ。結婚するなら彼女しかいない。
だが、ついさっき寺で会ったばかりだというのに、彼女の居場所をこっそり覗きに行くとは、我ながら愚かしい。ストーカー以外のなにものでもない。
それにしても彼女は、あのぼろアパートをどうするつもりなのだろう。絶対に改善の見込みがないのに、予算もかけずに入居者を獲得できると本気で信じているのだろうか。
貧乏くさいやりくりなど、僕の妻になれば永遠に必要なくなる。あれだけの美人を世の男性がほうっておくはずもないが、僕なら彼女を幸せにできる。ほかの誰よりも。
たしかな自信とともにそう思ったとき、携帯電話が短く鳴った。
ブルートゥースで無線接続中のカーナビ画面に、着信したメールの文面が表示された。
お伝えしたいことがございます。二条城にてお待ちしております。呉羽。メッセージはそれだけだった。
やっときたか。大政奉還ゆかりの城を待ち合わせ場所に選ぶとは皮肉がきいている。瞬はアクセルを踏みこみ、信号が赤に変わる寸前に交差点を左折し堀川通を上った。まっすぐ北に向かうと、ほどなく二条城の外堀と石垣が見えてくる。さらに左折して押小路通沿いの駐車場のゲートを入った。普通車はほぼ満車状態、大型バスも多く駐車している。空きスペースを見つけてベントレーを滑りこませた。
助手席のアタッシュケースを開けて黒髪のウィッグを選びだした。スーツにはくせ毛でないほうが似合う。正体もばれにくい。それを被って外に降り立った。
広大な敷地のなか、修学旅行生の列が二の丸御殿の入り口に歩を進めていく。瞬はひとり流れに逆らい、本丸御殿の庭園をめざした。
春には桜の花が咲き誇る風光明媚な回遊式の庭園は、いまは鮮やかな緑に包まれていた。そこかしこに観光客の散策する姿がある。呉羽なる男はどこだろう。
すると周りの優雅さから浮いて見える、貧相で痩せ細ったワイシャツ姿の男が、そそくさと近づいてきた。「水無施住職? 呉羽です」
この男か。さんざん金をばら撒いて京都じゅうの調査会社を動かしたにもかかわらず、成果はさっぱりあがっていない。その膠着状態を破ったからには見るからに頼りがいのある人物を想像していたが、少なくとも外見上はまるで異なっていた。
呉羽は及び腰な態度をしめしながら、大判の封筒を差しだしてきた。「苦労しました。どの自治体の史料保存部署も商人の記録についちゃ、さほど重視していないようでして。展示もないし、閲覧しようにもそういう扱いになっていないと断られてばかりで」
「ふん」瞬は封筒を受け取った。「苦労話に興味はない。安倍晴明の式盤が見つかりさえすればそれでいい」
「......わかりました。じつは、江戸末期に式盤を取り扱った商人が判明しまして。枝褐屋掬右衛門という、日本橋の骨董商の大手です。店主みずから関東と関西を往来して、行商に明け暮れていたとか」
「枝褐屋か。有名どころだな」瞬は封筒を開けた。古文書のコピーらしき紙片が一枚、中身はそれだけだった。「で、京のどこの寺社に売り渡したんだ?」
「それが......。文書としては記録が残ってないんです。枝褐屋はほかの商人と同様、幕末にはあちこちの大名に巨額の金を貸し与えていました。でもそれらの金は返ってこず、明治新政府の肩がわりも充分な金額ではなかったようで、枝褐屋は裏で非公式な商取引をおこなって稼がざるをえなかったらしく......。晴明の式盤を売却してしまったのも、その一環のようです。現金で支払いを受けたらしく、手形も残ってません」
瞬はいらいらした。「噂話の報告のために、わざわざ呼びだしたのか」
「いえ」呉羽はあわてたようにいった。「枝褐屋は取引を秘密裏に処理しましたが、商いの相手がどこだったのか、その気になれば調べられるようにしたそうです。後継者が買い戻す可能性もゼロではないと考えたからのようで」
「どこかにこっそり記録を遺したってのか」
「はい。そのコピーは二代目枝褐屋掬右衛門の日記でして、赤線が引いてあるところが該当箇所です。文政十三年当時、枝褐屋は建物や仏像の修復も手掛けていました。その職人のひとりが、晴明六壬式盤の商取引の記録を、ある特定の場所に彫りこんだらしくて......」
古文書の文面に目を走らせる。とたんに、瞬は高揚した気分になった。
たしかにこれは捨て置けない情報だ。枝褐屋は同じく江戸末期、漆器を加賀の領主に売ったことを、江戸城の瓦の一枚に彫っている。その瓦はすでに発見されていた。式盤についても、そうしていてもふしぎではない。身内による日記の記述だけに信ぴょう性は充分にあった。
呉羽は困惑ぎみにいった。「ただ、そのう......。日記に書かれた場所を調べるのは、私どもにはちょっと難しくて。水無施住職にとってもご同様とは思いますが」
......ふん、そう思うのも無理はない。呉羽はここまで調べて壁に突きあたったのだろう。しかし僕なら、難なくその壁を乗り越えられる。
「よくわかった」瞬は紙片を封筒におさめ、立ち去りかげた。
「あ」呉羽は呼びとめてきた。「あのう。報酬の件ですが......」
「みずから確認困難と認めた情報など、無価値も同然だ。現時点では支払いには値しない」
びくついたようすの呉羽が、卑屈なまなざしで瞬を見つめてきた。瞬は取り合わず、呉羽をその場に残し歩きだした。
不本意であっても抗議はできないだろう。この日記のコピーから式盤に辿り着くのは無理、呉羽はそう思いこんでいるのだから。
けれどもそれは、事実に反する。瞬は思わず微笑した。伝説への道は開けた。あとは行動を起こすのみだ。
復興
櫂麻耶にとってこの一週間は、めくるめく夢のような毎日だった。
早朝から小笠原の運転する軽トラに莉子と同乗し、周辺のヤフー・オークション出品者のもとを訪ねては、家電や家具を荷台に積んだ。
やっていることは、まさしく粗大ゴミ回収業そのものだった。分解できる物はパーツ単位にばらし、アパートに運びこんでから組み立てる。部屋ごとにそれなりに統一感がある色彩とデザインに割り振り、視覚的にマッチする色の中古カーテンを加える......。莉子はコーディネートにもセンスを発揮してくれた。
その莉子と小笠原は、午後になると仕事のために『週刊角川』京都オフィスに引き揚げていった。夜もホテルに帰っているらしいが、いつも陽が昇るころにはアパートの前に現れた。そつのない行動に麻耶は圧倒されっぱなしだった。
コストカットも徹底的に実施された。洗濯機の側面のくぼみは修理せず、ネットから取扱説明書をダウンロードしてスーパーファイン紙に印刷、両面テープでステッカー風に加工して、くぼみの上に貼りつけた。本来は損傷を隠すための苦肉の策だったが、怪我の功名、見やすい位置に説明書が加わり使いやすくなった。
部屋のリフォームについても同様で、あちこち破れたり穴が開いたりしている壁紙を、莉子は取り替えようとはしなかった。代わりに古本屋から英語版の『TIME』誌を山ほど買ってきて、一ページごとに断裁し、壁の見苦しい箇所を覆い隠すべく次々と貼りつけていった。
するとどうだろう。通路は小綺麗にまとまったばかりか、ずいぶんアバンギャルドで都会的な空間に生まれ変わった。
さらに莉子は、潰れた飲食店から貰った英字のブリキ看板の数々を、外装においても損傷箇所を隠すためにおおいに活用した。それらはあたかも芸術性とカジュアルさを演出するための、意図的な装飾に見えた。
もともとこのアパートには、外観に洋館風のたたずまいが残っていた。それをベースにして、見える範囲に英語がちりばめられたことで、異国情緒漂うレトロな木造二階建てという味わいになった。
莉子はいった。「英語の雑誌やブリキ看板なら無造作に貼ってあってもかっこよく見えるでしょう。アルファベットの配列の美しさを利用するの。雑然と整然は紙一重だったりするし」
丸太町通沿いにホームセンターのケーヨーデイツーがあり、ここで調達してきた消耗品も存分に活用した。
洋室の傷んだフローリングは修復せず、安価で薄手のカーペットを用いて床全体を覆った。きしむ箇所の上にはベッドかソファを配置して踏めないようにした。家具の脚はたいてい木製で、接地面が朽ちていることが多かったが、そこもケーヨーで買ってきたゴムを履かせば問題なかった。
和室の畳も可能な限りダメージを回復させた。家具の重みで凹んでしまっているところに霧吹きをして、濡れタオルをあてたうえでアイロンをかけて膨らませた。さらに陽に干したり裏から叩いて埃をとったりして、細部にわたって掃除をした。
申しわけていどに存在する床の間には、百円ショップのダイソーで買ってきた和風の壷と、掛け軸を飾ることになった。莉子によれば、それらを配置することで室内が格調高く見えるのだという。
掛け軸はまだ表装をしていない、いわば素材商品にすぎなかったが、莉子はその白紙部分も自分で書けばいいといった。
太字の筆ペンを用意して掛け軸を床に置き、手前に座布団を敷く。莉子は麻耶にその座布団を勧めてきた。「どうぞ。ここは麻耶さんが書くべきでしょう」
「え?」麻耶は面食らった。「なにを?」
「それらしい書体ならなんでもいいの」
「ちょっとそれは......。うち、書道にはまるっきり自信がないんよ」
莉子は座布団に正座した。「じゃ、わたしが代わりに書くね」
堂々と清書された文字は、古い時代の屏風のようにまったく判読不能なものだった。麻耶はきいた。「なんて書いてあるん?」
「さあ」と莉子は肩をすくめた。「雰囲気だけだから......。最後に赤い筆で落款印みたいなのを描いて......」
小笠原がそれを覗きこんでつぶやいた。「こうやって後世に偽物が増えていくんだね」
「かもね」莉子は苦笑しながら筆を置いた。「できた! さっそく飾らなきゃ」
麻耶は掛け軸を受け取った。「ほんまにええ出来。知らんかったら高く売れそう。床の間の壁に這わせて、と......。もうちょい上のほうがええかな」
つま先立ちをして両腕を伸ばしても、充分な高さに達しない。
そのとき、小笠原が身体を寄せてきた。「貸してみて。僕がやってあげるよ」
「え......?」麻耶はふいにどきっとした。息がかかるぐらいの距離に男性の顔がある。
そういえば、小笠原は草食系っぽくはあるが、間違いなくハンサムの部類に入る。清潔感があって嫌味ではない。ようするに、接近することに悪い気はしなかった。
小笠原はいった。「この辺りがちょうどいいんじゃないかな。釘とってくれる?」
「は、はい」思わず顔面が紅潮するのを覚えながら、麻耶はしゃがんで道具箱のなかをあさった。
手ごろな釘が見つかり、つまみあげて莉子にたずねる。「凜田先生。釘はこれでええかな......?」
ところが莉子は、ゴムシートを抱えて部屋からでていくところだった。莉子は振り向きもせず、ぶっきらぼうにいった。「廊下の床に貼ってくるから」
......なんだろ。麻耶はきょとんとして見送った。急に機嫌が悪くなったようにも見えるけど......。
連日の作業には両親も加わり、効率よく進行していった。
二階の鉄格子状のフェンスは錆びついて、あちこち棒が抜け落ちたりしていたが、これもダイソーでラティスを購入して貼り付け、造花と英字ブリキ看板をあしらって修復費用を浮かせた。
さらに、莉子の提案でダミーの防犯カメラをいくつか購入した。
ケーヨーで一個あたり千円以下で買える商品だが、これがあるとないのとでは、入居希望者の熱意に確実な差がでると莉子はいった。それら見せかけだけのカメラを、廊下や玄関にまんべんなく設置した。
〝防犯カメラ作動中〟のステッカーも日本語だと周りのデザインが台無しになるので、ネットから英字ステッカーのデザイン・テンプレートをダウンロードして印刷し、随所に貼った。防犯カメラの絵が描いてあるから、英語が読めない泥棒にも意味は理解できるだろ
玄関のガラスにはひびが入っていたが、やはり交換せずにデザインシートを貼り、英字ブリキ看板で亀裂を覆い隠した。
エントランスの脇にフラワーボックスを設けて造花を飾り、内覧に来た人のために、キャンディーを皿に盛ってサイドテーブルに据えた。
莉子が両手を高々とあげて、はしやいだ声をあげた。「これで完成! なんということでしょう。ブランニュー櫂荘へようこそ」
麻耶は生まれ育った自宅兼貸しアパートの外観を見あげ、しばし呆然と立ち尽くした。
まるでちがって見える......。西欧っぽい風情に満ちた上品なたたずまいがそこにあった。徹底的に清掃したおかげもあって、あえてレトロな情緒をコンセプトとして建てた新築といわれれば、信じてしまいそうになるぐらいの変わりようだった。
誰よりも喜んでいるのは両親だった。父の煌生はデジカメで部屋ごとに写真を撮りまくっている。母の瑠花は涙を浮かべ、麻耶に抱きついてきた。
「おおきに」瑠花は震える声でいった。「ほんまに感謝してます。これならきっとみんな入居する。麻耶がここまでしてくれるなんて」
わたしの力ではない......。麻耶は泣きたくなるほどの嬉しさを噛みしめながら、庭先にたたずむ莉子を見つめた。莉子は一片の曇りもない笑顔で見かえした。
入居希望
莉子はその日のうちに櫂荘専用ブログを作り、麻耶の父が撮影した画像のほか、立地など詳細な情報を掲載した。ブログはすぐにグーグルの検索に引っかかるようになり、物件を探している人の目にとまる可能性もでてきた。しかし......。
翌朝、莉子はアパートの裏庭にいた。リフォームに伴ってできたゴミの山の解消、それがきょうの三人の仕事だった。小笠原がゴミを分別し、麻耶がビニール袋におさめる。
莉子は若干の心もとなさを感じながらいった。「できるだけ多くの人に内覧に来てもらわなきゃ......。ブログを見てくれる人の数は限られるしね。本格的な告知が必要だけど、不動産屋さんへの登録にもお金がかかるのね」
麻耶が物憂げにうなずいた。「つきあいのあるところに安くお願いするって、お父さんが言うてたけど......。どうなるんやろ。やっぱり賃貸物件の情報サイトに掲載されへんと」
小笠原は不燃ごみのひとつ、空き瓶のラベルを剥がそうとしていた。「ヤフーの不動産情報も掲載まで日数がかかるよ。どこかの業者を通さないと難しいし。......うーん、このラベル、なかなか剥がれないな」
莉子は手を差しだした。「貸してみて」
ところがほぼ同時に、麻耶も小笠原に手を差し伸べていた。「うちがやってみる」
ふたりの発声はほぼ同時だった。莉子は凍りついて麻耶を見た。麻耶も固まったまま莉子を見かえしてきた。
しばし見つめあった後、ふたりは力士が土俵際で仕切り直しするように、無言でそれぞれの作業に戻った。
小笠原は瓶を手にしたままぽかんとしていた。「どっちもやってくれないの?......いいや。僕がやるよ」
黙りこんでいるうちに、頭に血がのぼるのを感じる。莉子は自分にいらいらした。妙に落ち着かない。わたしはいま何を考えているのだろう。
作業にふけっていると、やがて麻耶がいった。「なんやろ。表が妙にやかましいけど」
たしかに複数の人の声がする。どうかしたのだろうか。莉子がそう思ったとき、麻耶の母が小走りに駆けてきた。
「麻耶」瑠花があわてたようすでいった。「内覧のお客さんたちが来てはんねんけど」
「ええっ!?」麻耶が驚きをあらわにした。「なんで?」
「なんでって......。お母さんにもわからへんよ。なかにお通ししてええの?」
「ちょっと待って」麻耶が莉子に目でたずねてくる。
莉子も不思議に思った。こんなに早く人が集まるものだろうか。
とにかく、状況を把握しなければ。三人は足ばやにアパートの玄関に向かった。
そこには驚くべき光景があった。すでに十数人もの列ができている。男女の比率は半々ぐらいで、若い世代が多かった。誰もが興味深そうにアパートの外観を眺めている。麻耶の両親に対しても、しきりに質問が飛んでいた。敷金と礼金はいくらですか。いつから入居できるんでしょうか。自転車を置くのは庭でかまいませんか。
麻耶は一同に声をかけた。「あ、あのう、みなさん......。内覧にお越しいただきありがとうございます。ブログをご覧いただいたんでしょうか」
すると内覧希望者たちは無表情に顔を見合わせた。
ひとりの青年がチラシをしめしていった。「けさ、これが郵便受けに入っていたから、飛んできたんですよ。埋まらないうちにと思って」
若い女性もハンドバッグから同じチラシを取りだした。「海老江からこっちの大学に通うのがえっらい大変なんで、ええ部屋を探しとったんです。純和風の古民家みたいなのも素敵なんやけど、このアパートは京都なのに神戸っぽくておもろいし、かっこええし」
海老江といえば大阪だった。ずいぶん遠くまでチラシか撒かれているらしい。
莉子はたずねた。「拝見できますか」
差しだされたチラシを受け取って眺める。コピーではなく印刷だった。驚いたことに、アパートの外観および室内の写真がフルカラーで掲載してある。莉子の狙いどおり、家具や家電つきの部屋は、入居への欲求を喚起させる魅力に満ちていた。
ただ問題は、わたしがこの広告の存在を関知していないことだ。
麻耶が莉子にきいてきた。「どうなってんの、これ? このチラシは誰が......」
「さあ」莉子は困惑を深めるしかなかった。「でも、せっかくお越しになった人たちをお待たせしちゃ悪いし」
「そやね」麻耶は客捌きを開始した。「おひとりずつ順番にお入りください。キャンディーはご自由にどうぞ」
小笠原が神妙につぶやいた。「印刷ってことは、それなりのロット数で作成したんだろうね。お金がかかってるよ。これらの写真はどこから......」
ブログの画像を無断転載したのよ。けど、誰のしわざかな」莉子の目がチラシの最下段にとまった。そこに記載された一文を見て、思わず息を呑む。
「どうかした?」と小笠原がきいた。
「ええ......」莉子はうなずいてみせた。「なぜ急に入居希望が殺到したか、理由がわかったわ」
音隠寺・水無施瞬住職推薦。チラシの末尾にはそうあった。
京サイコロ
その日の午後、焼き尽くすような夏の陽射しの下でも、音隠寺の拝観は盛況だった。
いつものように人でにぎわう境内で、莉子は水無施瞬と再会していた。寺の職員に声をかけただけで、住職が表にでてきてくれるとは珍しい。きっとそれだけ気がかりなことがあるのだろうと莉子は思った。
しかし瞬の態度からは、そわそわした気分は微塵も感じられなかった。例によって紫いろの袈裟を着た瞬は、初めて見たときと同じく浮世離れした存在感を放っていた。むろん、きょうはウィッグも被っていない。ただし、あいかわらず右手には包帯を巻いたままなのがこざかしい。
瞬が歩いていくと、周りの拝観者らがいっせいに反応した。手を差し仲べたりデジカメで撮影を試みたり、さしずめスターをまのあたりにしたかのようだった。
そんな群衆の興奮ぶりにも顔いろひとつ変えず、瞬はゆっくりと歩いた。「ブログによると内覧が始まってから、たった三時間で全室の契約が決まったそうだね。おめでとう。きみの勝ちだよ」
莉子は並んで歩きながらいった。「広告をお願いしたつもりはありませんけど」
「おや。喜んでもらえると思ったのに」
「住職の推薦文入りチラシはたしかに即効性がありましたけど、わたしたちだけでも結果はだせたはずです」
「一か月先に、だろ? あのアパートの大家は借金の返済に追われている。一日も早く救済してあげるべきだった。もともと、私が相談を受けたんだしね」
「ずいぶん広い範囲にチラシを配布したんですね。大勢の人をお雇いになって、人件費もかけたでしょう。それにしても、ブログに画像を載せたのはきのうの夕方ですよ。よくひと晩で印刷できましたね」
「問題ないよ」と瞬はいった。「うちが出資してる印刷所が下京区にあったので。僕からの好意だと思って受け取ってもらいたいね」
思わず足が止まる。瞬のほうは何歩か進んでから、莉子の静止に気づいたらしく立ちどまった。おかげで少しは距離ができた。莉子にとっては歓迎すべきことだった。
瞬は振りかえって、莉子を見つめてきた。「鑑定というのはきみにとって大きな武器だな。僕もチープグッズで働いていたから、中古品の査定にもそれなりに自信があるけどね。まさかチャリティーバザーみたいなやり方でアパートを復興させるとは、思いもよらなかったよ」
「住職の場合、有機的自問自答で可能性を絞りこむ前に、視野を狭めてしまっていたんです」
「ふうん。まあ、そうかもね。僕の場合、そこまで経費節減を迫られていないから」
「自由にできるお金が充分にあるのは、このお寺に集まっている大勢の人々のおかげでしょう」
すると瞬はゆっくりと歩み寄ってきて、莉子にささやきかけた。「信者の二文字を横に並べてごらん。儲かるって字になる」
「本心ですか」
「そんな怖い顔をしなくてもいいよ」瞬はまた歩きだした。「あくまで冗談だから」
莉子も歩調を合わせながらいった。「奇跡が御仏の思し召しならば、僧侶としては従うのみ」
「......何の話かな?」
「あなたの発言です。アパートを満室にするのは奇跡ともおっしゃった」
「その奇跡の実現に一部、貢献できてうれしいよ」
「僧侶としては従うのみ、それを実現していただきたいんですけど。いまのうちに自粛されるなら表沙汰にはしないと約束します」
「なぜ? 週刊誌記者の友人のためか? それとも義憤に駆られてのことかな? 大勢の人々からお金をだまし取るのは許せない、だからきみが天誅を下すと」
「瀬戸内さんはわたしに、正しい道を歩むよう教えてくださいました」
「だから兄弟子の過ちをほうっておけないわけか。がっかりさせて気の毒だが、きみが人生の師として慕う瀬戸内店長はね、いまは......」
「塀の中」莉子は告げた。「よく知っています」
「ほう......。わかっていたうえでの話か」
「貯蓄を増やすためには手段を選ばないという発想は誤りだったと、瀬戸内さんも認めてます。あなたもそうあるべきです」
ふんと瞬は鼻を鳴らした。「きみは思い違いをしているよ。刑法第二四六条第一項には、〝人を欺いて財物を交付させた者は十年以下の懲役に処する〟とある。詐欺罪が成立するためには、だます行為と金銭授受とのあいだに明確な因果関係が必要だ。ここに拝観に来ている人たちは、みずからの幸福を願っているにすぎない。あの祈願文の展示のみに限って見物料をとっているのなら別だが、賽銭から拝観料に至るまで、そんな名目の収入ではないのでね」
莉子は覚めた気分になった。「さすが、飲食店を成功させたカリスマ経営者のいうことは違いますね」
「きみみたいな美人に皮肉は似合わないよ。五年前まで東京で稼いでいたことが、そんなに嘆かわしいかな? たったそれだけで僧侶失格なら、レストランの元従業員はみんな僕の過去を知っているわけだし、いっせいにタカりにくるだろう」
「いえ。それ以前にあなたのほうから元従業員に対し、悪い噂を立てないよう緘口令を敷いていると思います。もちろん充分な報酬つきで」
「論理的だね。僕はお金に困ってないから」瞬は足をとめた。近くの行列を指さして、瞬は莉子に告げた。「あれを試してみるかい?」
列の先頭では、女性の拝観者が三段重ねの正方形の石板を重そうに持ちあげている。それを台の上に戻してから、傍らの僧侶の指導に従って賽銭を投げ、合掌して拝む。次に三枚の石板のうち、いちばん上の一枚だけを持ちあげる。女性ははしゃぎ声をあげていた。
莉子は奇異に思いながらきいた。「なんですか」
「見てのとおりだよ。合掌後、一枚の石板が予想より重ければ苦難が、軽ければ吉報が待っている」
「伏見稲荷大社のパクリっぽいですけど」
「違うよ。あれは一個の石の重さを想像してから、それを持ちあげて重い軽いで占うだけだろう。うちはもっと公正だよ。最初に三枚を持って重さを確かめられるのだから」
次に試した男性の拝観者も、三段重ねの石板を持ちあげ、台に戻した後、投げ銭と合掌を経て一枚の石板を持ちあげた。結果、満面の笑いを浮かべた。
莉子は思わず苦笑して視線を落とした。
瞬がきいた。「どうかしたかな?」
「いえ......。あまりにみんな幸せそうなので。うまいこと考えたなって」
「うまいこと?」
「三段重ねの石板はすべて同じ大きさだから、一枚だけ持ちあげるときには、三枚のときの三分の一の重さ......。誰でも無意識のうちにそう思っちゃいますよね。けど、事実は違うでしょう。いちばん上の石板は内部が刳り抜かれて軽くなってます」
「きみの推測にすぎないね」
「なんなら二枚目と三枚目も持たせてくれませんか。それぞれ一枚ずつ」
「断っておくけど、三枚の石板が同じ重さだなんて主張は、僧侶も口にしていないし境内のどこかに書いてあるわけでもない」
「ええ。拝観者が勝手にそう思っているだけだから詐欺罪は成立しない。綱渡りな人生ですね。住職なのにスリリングな毎日」
「やけに挑発してくるけど、きみがいかに粘っても、僕がその気にならない限り真実は闇のなかでね」
莉子は口をつぐんで瞬を見つめた。
いまだ真実を明かそうとしない。すなわち、今後も詐欺をつづける意思表示でもある。祈願文についても新たなトリックを考えつくかもしれない。これではいたちごっこに終止符が打てない。
仕方がない。どんな根拠があるかわからないが、このアイテムで揺さぶりをかける。莉子はハンドバッグから短冊を取りだした。
瞬の顔つきが変わった。わずかにこわばった表情で莉子を見つめてくる。
莉子はいった。「お寺の裏側をすべて拝見できるなら、この短冊はお返しします」
しばし無言のまま短冊を眺めていた瞬が、やがて肩をすくめた。
「いい鍵をお持ちだ」瞬はさらりと告げてきた。「きみにとっては、バックステージにつづく唯一の鍵というわけだ。ご案内しよう。こちらへどうぞ」
やけにあっさりと了承してくれた。本当に舞台裏を見せてくれるのだろうか......。
本堂の裏手にまわると、瓦葺方形造りの大きな平屋建てがあった。鉄柵の囲みの一角、関係者以外立ち入り禁止と大書されたゲートをくぐって、瞬はなかに踏みいった。「ここには以前、僕の両親の家があった。祖父の代から自宅兼寺だったのでね。いまは建てなおして、業務のセクションを集中させてる。いってみれば事務棟だな」
建物のエントランスには警備員が立っていた。瞬に同行しているせいか、莉子も声をかけられることはなかった。
内部は木製の柱や梁に寺の趣が残っているものの、そんな情緒にはまるでそぐわない事務机やパソコンがひしめくオフィス空間でもあった。職員のほとんどが坊主頭というのは異様だが、これが二十一世紀の寺のあるべき姿なのかもしれない。HP製のワークステーションに向かいあった僧侶が器用にキーボードを叩きつづける。莉子は素早く眺め渡したが、祈願文の送信に使われていそうなシステムは、ここにはなかった。やはり本堂のなかだろう。
奥のテーブルでは複数の職員が、紙幣や小銭を仕分けしていた。賽銭の管理らしい。瞬が帳簿に見いっているあいだ、莉子はテーブルに歩み寄って観察した。同一の硬貨だというのに、複数の山に分けている。識別の基準は......。
しかし、そのことを問いかけるより早く、瞬のほうから声がかかった。「凜田さん。これは業者から買ってくれと持ちこまれた物だけどね。どう評価する?」
瞬は、骨とう品や調度品が集められたデスクから、一体の仏像を取りあげた。黒ずんだ金属製の如来像だった。
「拝見します」莉子はそういって像を受け取り、眺めまわした。「カナダ人がシリコンで型どりして、黄銅を流しこんで作った複製ですね。素人細工です」
「ほう......。どうしてそういいきれる?」
「本来、如来の手足には水かきがついているけど、この作者はシリコンの型から黄銅がはみだしたミスと勘違いして、ヤスリで削っちゃってます。原型をよく見ていないし宗教的意義に無頓着。プロの仕事ではないしアジア人とも思えません。含有する亜鉛の比率に問題はなく質もよさそうですが、金管楽器に使われる真鍮に近いです。カナダ産の黄銅の特徴です」
「お見事」瞬の口もとに微笑が浮かんだ。「京都市内の専門家に鑑定を依頼したけど、いまきみが発言したのと同じ内容の報告を受けるまでに三週間もかかった。初めからきみに依頼するべきだったよ」
「あのう、水無施住職。このオフィスは興味深くはありますが、裏側といってもずいぶん無難な眺めだと思いますけど。以前は家が建っていたそうですが、ご自宅はいまどちらに?」
「下鴨の北山通に二世帯住宅を建ててね。親と一緒にそっちに引っ越している。僕のプライベート空間ならここにもあるよ。お見せしようか」
そういって瞬は奥のドアを開けた。薄暗い廊下が伸びている。莉子はそれにつづいた。
「贅を尽くしてますね」
「いや。こっちの土地が余っていたから有効に活用しているだけでね。無駄は嫌いだよ」
「お賽銭についてもそうですね。実際に投げこまれた金額以上の収益を得ようとしてる」
瞬は立ちどまって振り向いた。「どういう意味かな」
「古銭を選り分けてますね。古銭商に売って儲けたお金は商売の収入ですから、宗教法人の免税対象にならないと思いますけど」
「ギザ十を集める趣味なんかないよ。そんな手間なんかかけない」
「でしょうね。縁にギザギザがある十円なんて十八億枚も流通してますし、未使用でない限り価値はないも同然です。けど、さっきのテーブルで〝フデ五〟は選別してました。昭和二十四年から三十三年に発行された、文字がゴシック体でなく楷書体になってる五円玉です。昭和三十二年なら一枚五百円ぐらいの価値がつきます。それに昭和六十二年の五十円玉」
「一般には流通してないだろ?」
「やっぱり詳しいんですね。でも造幣局販売の貨幣セットに入っているのを、取りだして使う人が稀にいます。見つかれば一枚八千円。さっきのテーブルにも二枚ありました。それと昭和六十二年の五百円玉も山積みになってました。あれは一枚で千円になります」
「二百七十七万五千枚しか発行されてないからな、それぐらいの価値にはなるね」瞬は悪びれたようすもなくいった。「平成十三年と十四年の百円玉も見逃さないようにいってあるよ」
ふたたび歩きだした瞬が、突きあたりの扉を開けて莉子を迎えいれる。
「わあ」と莉子は思わず声をあげた。
本堂からみて反対側、日本庭園の眺められる一面ガラス張りの広大な洋間は、さしずめホテルのラウンジのようだった。床は強化されたタイル張りで、輸入物のスポーツカーが三台、LEDの照明の下で光沢を放っていた。オレンジいろのランボルギーニ・アヴェンタドールに白のフェラーリ599、赤のTVRグリフィス。壁に車両が出入りできるサイズの電動式ゲートが設けられ、そこから外ヘアスファルト敷きの私道が伸びている。
クルマのほかには、ソファのセットが備わっていた。さらには業務用ピンボールマシンやビリヤード台、カードテーブル、全自動麻雀卓、チェスやバックギャモンなどの娯楽用品がずらりと並んでいる。
洋服棚にも、オーダーメイドらしきトラッドからカジュアルまで、あらゆるファッションが揃っていた。入手困難なスニーカーも置いてあった。贅沢なことにナイキのニュー・モデル、ゲンナディー・ボンダレフが、すでに履き潰される寸前まで使いこまれている。
最も目を惹くのは、壁の埋め込み式の棚にずらりと並んだ白い胸像だった。いずれも禿げ頭の男性で、多種多様な色とかたちをしたウィッグを被せられている。それらがひとつずつLEDランプに鮮やかに照らされているようすは、どこか滑稽にみえる。莉子は思わず笑った。
瞬はそのなかから赤毛の長髪を取りあげると、姿見の前で被った。「でかけるときには服とともに髪も選べる。合理的だろう? 同伴者の趣味にも合わせられるし」
「同伴者って......」
「一緒に食事する件、考えてくれたかな。クルマと髪はきみに選ばせてあげてもいい」
ナルシストの極みみたいな物言いだった。しらけた気分で莉子はいった。「その件でしたら『おおきに』と申しあげたはずですけど」
「ノーってことかな」瞬は冷静な口調のままだった。「残念だよ、いろんな話ができただろうに。寺のバックステージはこれでぜんぶでね」
「本堂のなかをまだお見せいただいてませんか」
瞬は手を差し伸べてきた。「鍵をいただこうか。ご希望のとおりプライベート空間までお連れしたんだから、約束どおり短冊をご返却いただきたいね」
莉子は黙って瞬を見かえした。
すると、瞬はふっと笑って手をひっこめた。「おとなしく返してくれるはずもないか。凜田さん。ここに招いたのも、僕という人間を知ってほしかったからでね。よりいっそう親睦を深めるためにも、ゲームでもしていかないか。ブラックジャックのルールは知ってるかい? ビリヤードのほうがいいかな」
「賭けごとには興味ないんですけど」
「そうでもないだろ? 金銭を賭けずとも、きみはのるかそるかの生き方を好むようだ。せっかく京都に来たんだし、これなら楽しめるんじゃないかな」
瞬はひとつの遊戯卓を指ししめした。純和風の盤には川が描いてあって、一方の川岸に赤と白の駒がたくさん置いてある。それから、漢数字の入った立方体が三つ。こちらは和菓子のような薄いピンクいろ、レモンいろ、黄緑いろに塗り分けられている。
莉子はいった。「京サイコロですか」
「そう。京サイコロだよ。賭けないか。きみが勝ったら祈願文のからくりについて打ち明けてもいい」
思わずどきっとする。祈願文のからくり。そこまで露骨な表現を口にした。
警戒心を抱きつつ莉子はきいた。「御仏の業とか、予想的中とか、あやふやな返事で煙に巻くおつもりですか。それともコードレスプリンターやワイヤレス電源を駆使した物理的なトリックについて、告白する用意がおありでしょうか」
瞬は笑った。「きみにはかなわないな。むろん後者だよ。僕が負けたらの話だけどね」
「......わたしが負けた場合には?」
「高級料亭にお連れするよ。ディナーをご一緒していただく。もしくは短冊を返すのでもいい」
思わず言葉に詰まる。莉子はサイコロのひとつに手を伸ばした。
ふつうのサイコロと同じく六面体だが、京サイコロの場合は彫りこまれた数字がランダムだった。同じ数字がいくつかの面に存在したりもする。このピンクいろのサイコロの目は二、四、三、六、三、三になっていた。
ルールは単純だった。以前に本で読んだことがある。ふたりでそれぞれサイコロを選んで振り、数字が大きかったほうが駒をひとつ川の対岸に動かす。二十六個の駒を早く渡らせたほう、すなわち先に二十六勝したほうの勝ちになる。
信用できるだろうか。巧妙なトリックを考えつく水無施瞬が、フェアな勝負を挑むものだろうか......。
瞬は穏やかに告げてきた。「疑ってるね。事前に三つのサイコロを好きなだけ振って、たしかめるといい。盤が信用できないなら、ほかのテーブルか床で振ってもいいよ。そうだ、サイコロはきみが先に選ぶってことでどうだろう。僕は残り物でいいよ」
莉子は頭のなかでひとつずつ可能性を吟味していった。実際に三個のサイコロを振ってみる。錘は入っていない。耳たぶからマグネットイヤリングを外し、サイコロに近づけた。反応はなかった。鉄や磁石も内蔵されていないようだった。
リスクは低そうに思える。万が一、負けたとしても短冊をとられるとは限らない。ディナーという選択肢もあるのだから。
ディナー......。莉子は落ち着かない気分になった。でも......。
瞬が急かしてきた。「どうする? 無理にとはいわないけど、寺の秘密を知りたいだろう?」
いやに煽ってくる。どういうつもりかはわからないが、恐れていては真実にたどり着けない。莉子はうなずいた。「やります」
「そうこなきゃ。じゃ、サイコロを選んで」
「これにします」莉子は三つのなかでただひとつ、六という数字が入っているピンクのサイコロを選んだ。駒は赤だった。
「じゃ、僕はこれにするか」瞬は包帯をしていないほうの手で、黄緑いろのサイコロを選んだ。駒は白。
ゲームは始まった。一回め、莉子の振ったサイコロは四だった。瞬のほうは一。幸先のよさを感じながら、莉子は駒をひとつ川の対岸に移動させた。
ところが何度かサイコロを振るうち、莉子は不利を感じだした。瞬の駒が次々と川を越えていく。莉子が二十個以上を残しているのに、すでに瞬の駒は半分ほど動いていた。
結果、瞬がすべての駒を渡らせた時点で、莉子のほうは四個を残してしまった。
瞬は微笑した。「いきなり一回きりの勝負じゃ納得もいかないだろうな。いまのは練習ってことにして、もういちどやろう。今度もきみが先にサイコロを選んでいい」
......それだけでは公平かどうかわからない。莉子は瞬の左手をじっと見つめた。
視線に気づいたらしく、瞬はため息をついた。「わかったよ。僕の振り方にコツがあるかも、そう思っているんだろ。なら、僕のサイコロもきみが振っていい」
第二ラウンド。莉子は、さっき瞬が勝利した黄緑いろのサイコロを選択した。五、四、一、三、四、四の目だった。莉子は自分のサイコロだけでなく、瞬のぶんも振った。
しかし、展開はさっきとほとんど同じだった。序盤は枯抗していたが、やがて瞬のほうが何歩かリードし、莉子が追いあげるも届かず、五個の駒を残してゲーム終了になった。
やれやれという顔で瞬がつぶやいた。「僕はきみに真相を打ち明ける気はなかったし、きみも短冊を返すつもりはなかったろう。ということは、残るひとつの選択肢のみを賭けた戦いだったわけだ。きみとの夜のデートが楽しみだよ」
デートって......?
そうだった。ふたりきりのディナーの誘いとは、すなわちデートにほかならない。
「嫌です」莉子はうわずった声をあげた。「そんなおつきあいは......」
「約束を破るのかい? 公正さに欠けるのはきみのほうじゃないか。それとも、いままでをチャラにするかい。もう一回やってみる?」
応じるほかにない。呪縛から早く逃れたい。
莉子はレモンいろのサイコロを選んだ。二と五が三面ずつあるサイコロだった。半々の確率で二か五がでるサイコロ......。さっきは瞬がこれを使って勝利した。これが最強のサイコロなのか。
今度も莉子は、自分と瞬、両方のサイコロを振った。それも盤から遠く離れた床、バーカウンター、挙句には瞬の許可を得てクルマのボンネットの上でサイコロを転がした。
絶対にトリックの入りこむ余地はない。それでもゲームは終始、瞬に有利に傾いた。中盤以降についた差が埋まらない。またしても五駒を残し、莉子は敗北した。
瞬はすました顔で告げてきた。「すぐにとはいわないが、僕はきみとのひと晩のデート権を獲得したよ。それでいいね? ゲームは終わりにしよう」
莉子の胸に突き刺さるものがあった。
短冊を瞬に返すという選択肢は、すでに無いものとして扱われている。たしかに、唯一の証拠を手放したくはない。
でも......。わたしにとって男性とのつきあいは、それよりも軽いことなのか。ふたしかな謎解きの手がかりにしがみつく、その犠牲にしていいことなのか。
好きでもない人と一緒にデートだなんて......。
瞬の涼しげな顔を見るうち、莉子は侮辱された気分になった。憤りとともに悔しさがこみあげる。
莉子は短冊を取りだし、テーブルに叩きつけた。
「......凜田さん?」瞬が驚いたようすで声をかけてきた。
だが莉子は黙って瞬に背を向け、駆けだした。涙がこぼれないうちに廊下を抜けて、事務棟にでる。職員の何人かが怪訝な面持ちでこちらを見た。莉子は視線を合わせないようにして、外にでた。
微風に髪が泳ぐ。莉子は泣きそうになった。あんな馬鹿なゲーム、やめておけばよかった。いまもまた詐欺師がどんな手を使ったのかわからない。自信過剰が裏目にでてばかりだった。わたしは賢くなんかない。知恵や知識を得ても、人間として未熟すぎる。
三すくみ
夜七時すぎ。小笠原は宮牧とともに、京都駅近くの新・都ホテルのラウンジで、情報を売りこんできた呉羽という男と会った。
痩せ細った貧弱そうな人物だったが、京都でもそれなりに名のある調査会社の社員だという。宮牧があちこちの寺社に取材したおかげで『週刊角川』が音隠寺の疑惑を追っていると噂になっていたらしい。呉羽に対しては、記事になる内容であれば謝礼を払うと約束した結果、この面会と相成った。
呉羽は水無施瞬を快く思っていないという。八方手を尽くし、死に物狂いで得た情報も、彼は鼻であしらったうえに報酬もくれなかった。だから怒りとともにすべてぶちまけることにした......というのが呉羽の心情のようだった。むろん情報を少しでも金に替えたい、そんな本音も見え隠れしている。
人目をはばかるがごとく辺りに視線を配りながら、呉羽はぼそぼそといった。「安倍晴明の式盤ですけどね、二代目枝褐屋掬右衛門の日記にはこうあります。文政十三年に初代枝褐屋は京都のある神社に式盤を売却。その記録は、奈良の大仏の右肩に彫りこんだ、と」
「奈良の大仏?」小笠原は驚いた。「なんでまたそんなところに」
「枝褐屋は全国に仏像修復のための職人を派遣していたそうです。うちの調査員に水無施住職を尾行させたんですが、ここ数日、住職は奈良の東大寺に足を運んでいるようです」
「ああ」宮牧がうなずいた。「スポーツカーで何度かでかけたのはそれですか」
呉羽はうなずいた。「調べてみたんですが、東大寺では一九〇三年と一九七三年に大仏の修理がおこなわれています。けれどもそれらの記録には、右肩に文字が刻まれていたという報告はなかった。もっとも大仏の右肩に該当する箇所は幅四メートル、奥行き二・五メートルほどもあります。江戸城の瓦にあった枝褐屋の別の商取引の記録は、ごく狭い範囲にうっすらと彫ってあっただけです。大仏の肩も同様ならば、いまのところ発見されていないだけかもしれません」
大仏の肩。どうやって確認すればいいのだろう。呉羽にもその方法は判らないようだった。
ホテルをでて呉羽と別れてから、小笠原は宮牧としきりに話し合った。今後は奈良まで取材の範囲を広げねばならない。宮牧は愚痴をこぼした。「舞妓さんの〝をどり〟を観たかったんだけどな。知ってるか、祇園とか先斗町には歌舞練場っていう舞妓さん専用シアターがあってな、NMBみたいに連日公演してんだよ。この時期には上七軒でビアガーデンが......」
小笠原は半ば呆れた気分で同僚を見やった。いちげんさんが座敷遊びを断られたがゆえに劇場鑑賞か。それもビアガーデン......。泣かせる。
夜九時過ぎ、四条河原町の『週刊角川』京都オフィスに戻る。例によって社員は全員帰宅していたが、莉子ひとりが居残っていた。
莉子はきょう水無施住職のもとに赴き、やりこめられて帰ってきたという。その理由を分析中のようだ。テーブルの上で三つの立方体を転がしては電卓で計算をし、ノートに走り書きをする。立方体は表面に数字が書きこんであった。手製のサイコロだった。
京サイコロの勝負で惨敗した、莉子はそう説明してくれた。住職の使ったサイコロを選んで再戦したのに勝てなかった......。事実ならば不可解な現象だった。
やがて莉子の手がとまった。落ちこんだ表情で、ため息とともにつぶやく。「そっかぁ......。いちばん強いサイコロを選ぶのなんて無理だったのね」
「どういうこと?」小笠原はきいた。
「最強のサイコロなんてなかったのよ。問題は組み合わせなの。わたしがピンクのサイコロを選んだら、住職は黄緑を選ぶ。わたしが黄緑なら住職はレモン。レモンに対してはピンク。そうすれば住職のほうは、かならず十八勝十五敗三分けになる」
宮牧が目をいっそう丸くした。「そんなことありうるのか? 大きな数字がでやすい特定のサイコロが勝つんじゃないのか。凜田さんが先にサイコロを選んでも、後に選んだ住職のほうが強くなる? んな馬鹿な」
「本当よ」莉子はメモ書きを宮牧にしめした。「三個のサイコロは、ジャンケンのグーチョキパーみたいに三すくみの関係にあるの。わたしのサイコロには勝てるサイコロが決まっていて、それを選べば住職の勝率は常に五十四・五パーセント。二十六個の駒で競い合ったら、平均して四個か五個の差がつく。ああ、まさかこんな巧妙な数学的思考を京サイコロに利用するなんて」
小笠原は唸った。「さすが瀬戸内陸のもとで支店長になっただけのことはあるね。元カリスマ経営者でもあるし、数字に強いわけだ」
「わたしも暗算のコツは教わったけど数学はいまだに苦手。はぁ。事前にわかっていれば短冊を賭けたりしなかったのに」
「......ちょっと待って」小笠原は胸にひっかかるものを感じた。「短冊を賭けた? 水無施住職の尻尾をつかめるかもしれない重要な証拠を? まさか取られたわけじゃないんだろ?」
すると莉子は気まずそうに目を泳がせた。「それは、そのう......。わたしが勝ったらすべて告白してくれるっていうから......。負けたら短冊を返すか、住職と一緒にディナーのどちらかっていわれたけど、そこはやっぱり......」
「なぜ? 向こうが一方的に持ちかけてきたゲームじゃないか。結果がどうあれ無視すりゃよかっただろ。律儀に短冊を置いてくる必要なんかない」
宮牧がにやりとした。「小笠原、心配すんな。凜田さんはおまえと違って愚鈍じゃねえんだよ。本物の短冊を置いてくるわけねえだろ」
小笠原は莉子を見つめた。「偽物を作っておいたの?」
莉子はしかし、戸惑いと憂いのいりまじったまなざしで見かえしてきた。「そんなの無理よ......。筆跡も違っちゃうし、短冊の材質も異なってくるし。新しすぎたり古すぎたりで、一見してわかっちゃうし」
どう考えても合点がいかない。小笠原はいった。「向こうはそっくりの別の短冊を用意してたかもよ? いつすり替えられてもおかしくない。持っていくこと自体が危険だったんだよ」
「そこは印をつけておいたから心配なかったわ。短冊の下辺、右端から一センチの位置に鉛筆で点をつけたの。すり替えられたらすぐにわかる。でも住職のほうも同じように、こちらには判らないようにマーキングしているでしょう。だからやっぱり複製なんかじゃ誤魔化せない」
「とはいっても、短冊を置いてくるなんて......。せっかくの手がかりを返しちまうなんておかしいよ。いったいどうしちゃったんだ、凜田さんらしくもない」
莉子は目を瞠ってつぶやいた。「らしくないって......」
「だってそうだろ? 筆跡の専門家には見分けられなかったけど、たとえば早稲田の氷室准教授に頼めば何か気づくことがあったかもしれない。東京に持ち帰ればよかったんだよ。住職とゲームをする前に念書を書かされたわけでもないんだろ? 口約束でしかないなら守る義理なんかないよ。とにかく短冊を返すべきじゃなかっ......」
宮牧があわてたように声をかけてきた。「お、おい。小笠原」
小笠原は口をつぐんだ。やや興奮していたせいか、莉子の反応に気づくのが遅れた。
莉子は泣きそうな顔になっていた。涙が膨れあがった瞳を、まっすぐに小笠原に向けていた。
やがて怒ったように立ちあがると、莉子はハンドバッグをつかんで戸口に駆けだした。
「凜田さん」小笠原は呼びかけた。
だが、莉子は立ちどまらなかった。無言のまま、振り向きもせずにオフィスをでていった。
「ったく」宮牧が吐き捨てた。「馬鹿だな。おまえは。どうしようもなく鈍感な奴だ」
「な、なにが......。どういう意味だよ」
「気づかなかったか? 凜田さんはな、たぶん彼氏ができたんだよ」
度肝を抜かれて小笠原はきいた。「なんだって?」
「両思いか片思いかは知らないが、とにかく意中の彼氏がいるから、住職に言い寄られて動揺したんだろ」
「言い寄られたって......ディナーに誘われただけだろ。前にも西園寺響と一緒に飯ぐらい食ってるじゃないか」
「はぁ!?」宮牧はぎょろ目を剥いた。「おまえって奴はどこまでおめでたいんだ。西園寺のときとは事情が違う。金満坊主が女性を夜の食事に誘うってことはだ、モノにしようって動き以外のなにものでもないだろ」
文字通り、頭のなかか真っ白になった気がした。
櫂荘の前に停車したベントレーがちらついて見える。小笠原は絶句した。そうだったのか。あのとき水無施瞬は、莉子を気にかけてあそこにいた......。
宮牧はまくしたてた。「凜田さんも可哀想だよ。心にきめた人がいるのに、短冊を返すかつきあうかの二択を迫られたんだもんな。そりゃ短冊を手放したくはなかったろうよ。けど坊主の好きにされるなんて我慢ならなかったんだろうぜ」
「そ、そんなに住職に腹を立ててたんなら......。なおさら短冊を返さずにおけばよかったろ」
「だからおまえは馬鹿だってんだ。ゲームに負けたのに短冊を返すのを突っぱねたら、住職とはもう二度と顔を合わせられなくなるだろ。取材も真相迫及も何もかもそこで終わりだ」
「ああ、そうか......」
「俺らのために凜田さんはみずから傷つく道を選んだんだよ。でも彼氏への愛が勝ったのか、自分を売り渡すなんてことはしなかった。俺は心底ほっとしたよ。短冊なんかくれてやりゃいい。俺は凜田さんの気持ちがわかるからな。それをなんだ、おまえみたいなポンコツが、空気も読まずに凜田さんを責めるなんてよ。誰か知らないが凜田さんの彼氏に比べりゃ雲泥の差だろうよ」
まだ衝撃がおさまらない。頭のなかで反響しつづけているようにさえ思える。小笠原は呆然とたたずむしかなかった。
なんてことだ。そうだったのか。俺は彼女の気持ちを......。
じっとしてはいられない。小笠原は走りだした。ドアを開け放ってオフィスを飛びだし、階段を駆け下りた。
「小笠原!」宮牧の声が追いかけてくる。「待てよ。俺も一緒に行く」
茫漠とつかみどころのない悲哀が胸にくすぶる。小笠原は歯を食いしばって駆けつづけた。宮牧のいうとおりだ、俺はなんて馬鹿だったのだろう。彼女の思いに気づかなかった。誰よりも早く理解してあげるべきだったのに。
四条大橋
小笠原はビルの外に駆けだし、歩道を見まわした。
観光地だけに京都の夜は早い。商店街は軒並みシャッターが下りているし、もう人通りが少なくなっている。それでもデパートが建ち並ぶ河原町方面は街路灯も明るく見通しがいい。莉子の後ろ姿を探したが、そちらでは目に入らなかった。彼女が全力で走ったとしても、視界から消えられる距離ではない。
ということは逆方向、祇園方面か。八坂神社に向けてまっすぐに伸びるメインストリート沿いを、小笠原は走りつづけた。
四条大橋に差しかかった。街なかを流れる川にしては幅広く、澄んで透き通っていた。暗闇のなかにきらめく水面の奥に川底がおぼろに浮かぶ。ふたつの橋脚を有する橋を越えた対岸には一転して古風な光景、祇園が広がっている。
ところが、橋の中央付近までくるといっそうひとけがなくなり、片側二車線の道路を往来するクルマもごくわずかになった。
「小笠原」宮牧が息を切らしながら追いかけてきた。「本当にこっちかよ。夜の白川にたたずむ凜田さんは絵になるだろうけど、現実はホテルに引き揚げるのを選ぶだろうぜ。常識で考えて、京阪の祇園四条駅か阪急の河原町駅に下りたんじゃねえのか」
歩を緩めて、途方に暮れて立ちつくす。橋から周囲に目を凝らしたが、やはり莉子は見つからなかった。
そのとき、F1カーのような重低音が轟いた。まばゆいキセノンライトが視界に広がり、直後に異常なほど車高が低く見える流線型のボディが、地を這うように滑りこんできた。
オレンジいろのランボルギーニ・アヴェンタドール、京都ナンバーだった。小笠原のすぐ近く、道端に寄って停まると、車体の側面からシザー・ドアが跳ねあがる。
降り立ったのは、スーツと茶髪のウィッグを身につけた水無施瞬だった。
右手に包帯は巻かれていない。治ったばかりという演技を披露する気もないようだった。水無施はその手をガードレールについて、ひょいと横跳びに乗り越えると、歩道で小笠原たちと向かい合った。「この時間にマラソンか。そんなに急いで、祇園の店に予約でもあるのかな」
宮牧は露骨にへりくだった姿勢をしめした。「水無施住職。いや、こんなところでお会いできるとは思いませんでした。すごいおクルマですねえ。住職も祇園にお越しで?」
ふんと水無施は鼻を鳴らした。「きみらのオフィスを訪ねるつもりだったんだよ。クルマを乗りつけようとしたら、見覚えのある顔が駆けだしてきたんでね。ふたりとも、このあいだの祈願文開示の日に記者席にいたな。ええと......」
「私は宮牧といいます。彼は小笠原」
だが来訪者は、友好をしめしに来たわけではなさそうだった。水無施は硬い顔でいった。
「僕の悪い噂を求めて京都じゅうを嗅ぎまわってる『週刊角川』の記者だな」
急に宮牧はしどろもどろになった。「いえ、それはですね。国民には知る権利が......」
「社員でもない凜田莉子さんに対し、つまらない仕事を強要しているのは、きみらふたりか。それとも上の人間の判断か?」
「凜田さんにつきましては......」宮牧は小笠原を指さしてきた。「彼が担当で」
不意のバトンタッチに小笠原は面食らったが、動揺するほどではなかった。水無施をまっすぐに見つめて質問をぶつける。「あなたのほうこそゲームでいかさまを働いて、凜田さんにつきあいを迫ったってのは本当ですか」
水無施は口をつぐみ、小笠原を見かえした。
宮牧が怯えたようすで声をかけてくる。「小笠原......」
やがて水無施が小笠原にたずねかえしてきた。「つきあいを迫ったって?」
「事実でしょう。いまも彼女を追いまわしているんじゃないですか?」
しばし沈黙があった。鴨川沿いに建ち並ぶ飲食店から突きだした納涼床で、酒を酌み交わす人々が談笑する。その賑わいが遠くきこえるだけだった。
なぜか不敵にみえる微笑を浮かべ、水無施はつぶやいた。「ああ、なるほど。きみは......」
「なんですか?」と小笠原はきいた。
「いや」水無施はため息まじりに告げてきた。「私がスポーツカーででかけたのは女性の気を惹くためではないよ。これから福岡まで夜通しドライブなんでね」
宮牧が驚いたようすでたずねた。「福岡? クルマで行かれるんですか?」
「V12気筒で深夜の高速道路を飛ばす快感はきみらには判らないかもな。九州自動車道の福岡インターを下りて現地に着くのは明朝になるだろうが、それでも日本は狭いと感じるもんだよ」
「向こうでは何を......」
「観世音寺を訪ねるつもりだ。すぐに帰るけどね」
「へえ」宮牧は目を光らせた。「観世音寺ですか。太宰府市にある天台宗の有名なお寺ですね。どんな目的でご訪問になるので?」
「気になるなら向こうで取材すればいいだろ」
「いいんですか?」
「断ったところで張りついてくるのが記者じゃなかったかな。ところで、宮牧君といったな」
「は、はい」
「ちょっと席を外してくれないか。私は彼と話があるので」水無施は小笠原を指さしてきた。
「わかりました......」宮牧は怪訝な面持ちで小笠原を見てから、橋の上を遠ざかった。
小笠原は水無施の右手を眺めて、覚めた気分でいった。「手、治りましたね」
すると水無施は懐に手をいれ、長細い板状の物体を取りだした。
思わず小笠原は息を呑んだ。水無施がかざしているのは、例の短冊だった。
水無施がさらりといった。「これが無事に戻ったのでね」
「......どういうからくりか判りませんけど、その筆跡はあなたのものじゃないですね」
「なぜ? 僕がこれを書くのを見ただろう」
「たしかにそうですけど......。水無施住職。『週刊角川』が疑惑の記事を掲載したらどうしますか。祈願文も寺にある写経も、あなたの手によるものでないと報じたら? ほかのマスコミもこぞって調査に乗りだしますよ。まずは飲食店の店長時代に毛筆で書いた文書がないか調べるでしょう。それが見つからなければ、次はあなたに一筆書かせようとするはずです。また手を怪我したことにするんですか?」
「応じないだけだね。根拠のないゴシップに対し、いちいち弁明してまわる必要はないよ。それより、きみは認識できているのかな。この短冊を僕が持っている意味を」
「何のことですか」
「僕がきみらのオフィスを訪ねようとしたのは、凜田さんの真意を知りたかったからだ。正直、僕の誘いを断る女性はめずらしいんでね。そんな彼女の思いに応えられるだけの男性なのかな、きみは」
心拍が速まるのを感じる。小笠原はきいた。「おっしゃる意味が判り兼ねますか」
「とぼけるのか? それじゃ彼女が気の毒だろ」水無施はランボルギーニに顎をしゃくった。「こういうのに乗っている男と、レンタカーの軽トラのハンドルを握る男。結婚するならどっちかな」
ずいぶん露骨な嫌味を口にする。小笠原は表情を変えまいとつとめた。「男はクルマではないと思いますけどね」
水無施は笑った。「それは女性がいうべき言葉だろう。夫の社会的地位や裕福さが、妻を幸せな日々に導く。どんな綺麗ごとで粉飾しても事実は変わらない。貧しさは人の可能性を狭める。妻に年間五千万円使い放題の生活を与えられる夫を差し置いて、ほかと結婚する奇特な女性がいるかね。はっきりいえば、きみみたいなヒラのサラリーマンと」
挑発に乗るべきではない。小笠原は水無施の手もとを注視していた。短冊の下部、莉子がつけたはずのペンシルドットを確認しようと、ひそかに焦燥に駆られていた。
だが、この暗がりでは厳しい。水無施もさかんに手を動かすせいで判然としない。
小笠原は水無施に告げた。「とんでもない住職がいたもんですね」
水無施の顔から笑いが消えた。「僧侶にふさわしいスピーチを望んでるのか? 愛情は物質的な豊かさに勝るという話でもききたいかな。だが、美談に酔いしれたがる人はひとつの可能性を忘れてるよ。ある特定の女性を愛する気持ちについて、貧しき男が豊かな男より常に勝っているという保証はない。裕福なほうの男性も、その女性をより強く愛していたら?」
「あなたと僕のことをいってるんですか?」
「......いや。一般論だ」
ふいに水無施は、短冊を川へと放り投げた。
小笠原の全身に電流が走った。とっさに手を伸ばそうとしたが、届くものではなかった。短冊は風に吹かれて舞い落ちていき、暗い川のなかに落下した。
水無施の視線がこちらを向いているのを感じる。しかし小笠原は見かえさなかった。彼がどんな表情を浮かべているか、知りたいとも思わない。それより、いまは目を離すわけにはいかなかった。川面に点のように浮かんでみえる短冊。流れは案外速い。いたるところに濁流がある。その白い飛沫が紛らわしく、短冊の行方を見失いかける。
本物かどうかは未確認だった。回収されてもかまわないよう、水無施が偽物を捨てた可能性もある。
でも、もし本物だったらどうする。物証はこれで永遠に失われる。莉子が絶対に手放したくないと望んだはずの証拠。彼女がそれを守りきれなかったのは、水無施に心を追いつめられたからだ。
取り戻すしかない。そう思ったとき、小笠原は駆けだしていた。
「おい?」宮牧の驚いた声が耳に入った。「小笠原。どこへ行くんだ!」
かまわず河原町方面に全速力で引きかえし、川辺に伸びる石段を駆け下りる。まずいことに、その途中には交番があった。立っていた警官と目が合う。脇をすり抜けたとき、警官が呼びとめようとした。ちょっと。どうされましたか。
不審者も同然の行動に違いない、小笠原はそう思った。それでも立ちどまれない。もう短冊は見えなくなっていたが、流されたおおよその位置の見当をつけて追うしかなかった。
重低音が響き、それが遠ざかっていく。水無施がランボルギーニを発進させたらしい。貧乏人の無謀な行為を見届けるほど暇ではないのだろう。
石畳の河川敷に降り立つと、今度は納涼床から川面を眺める人々と目が合った。短冊の行方をたずねたい衝動に駆られたが、意味はないと悟った。酔っ払いの彼らが一枚の紙きれがどこに落ちたか、把握しているはずもない。
迷っている場合ではなかった。小笠原は川のなかに膝まで浸かり、下流へと向かいだした。
納涼床からは悲鳴に似た叫びが響いた。警官の声も追いかけてくる。そして橋の上からは宮牧の声が呼びかける。
「小笠原!」
名前を呼ぶんじゃねえよと小笠原は内心毒づいた。警官までが同調して「とまりなさい、小笠原さん」と声を張りあげてくる。入水自殺の心配でもしているのか。お門違いだ。
ふいに、どぶんと腰まで浸かった。その先は足がつかないほどの深みだった。小笠原はあわてて立ち泳ぎに転じた。
思わぬ急流、広い川幅、しかも行く手は果てしない。暗闇のなかでもはや短冊は見えない。しかし、ほんの一分ほど前にどのあたりに浮いていたかはわかっている。流れの速さと向きから察するに......。
あった。思ったよりも遠いが、街灯に照らされ水面に浮かぶ紙らしきものが、ぽつんと小さく見えている。短冊かもしれない。いや、そうに違いない。
服が水を吸って重くなる。着衣のままの水泳は箱根の芦ノ湖以来だ。小笠原はがむしゃらに泳ぎつづけた。無欲なはずの僧侶が高級車に乗る世のなかだ、記者が行水するのも悪くない。
短冊
ひっそりと静まりかえった夜の四条通を、小笠原はひとり歩いていた。
川の水をたっぷりと吸った服は、鉛のように重い。そして、ドブのようにくさい。鴨川はたしかに市街地を流れる河川としては綺麗な部類に入るが、それでも水泳には向いていなかった。水質は良くても、いたるところにゴミが浮いていたし、急流に砂利が混じって痛かった。いまも服の下にざらざらしたものが入りこんでいるのを感じる。
携帯電話が壊れていたので、宮牧が持っていた物を借りた。莉子の泊まっているホテルに連絡したが、外出しているという。いちど帰ってきたが部屋には戻らず、フロントに立ち寄ってすぐにまたでていった。深夜でもコピー機やプリンターを使える施設が近くにあるかどうか、それをたずねたらしい。
交差点を越えてみずほ銀行の隣り、高島屋の向かいにあるビル。この時間でも営業中の看板が灯っている。小笠原はエレベーターに乗り、五階にのぼった。
瀟洒なネットカフェのフロアが広がっている。受付にバイトらしき若い従業員が立っていたが、いらっしゃいませとはいわなかった。ただ奇異な目を向けてくるだけだった。
よほどの悪臭をはなっているのだろう、従業員は顔をしかめている。小笠原はきいた。凜田さんという女性が来たはずですけど、どこにいますか。
手続きをしなければ店内に入れない、従業員はそんな堅いことはいわなかった。関わるのはやばそうだと思ったのかもしれない。
「二十七番です」と店員はあっさりと告げた。
「どうも......」小笠原はつぶやいて、店の奥へと歩きだした。
漫画の棚の谷間を抜けて、二十七のブースを探す。あった。間仕切りも低く、申しわけていどに付いている扉の上からなかを覗きこめる。
莉子がいた。パソコンの電源は入っているが操作はしていない。リクライニングチェアにおさまり、じっとしている。眠っているようだ。
ネットで調べものをしていたのだろう。デスクに置かれたノートはびっしりとメモ書きで埋め尽くしてあった。
起こすのは悪い。小笠原は扉を引いてみた。鍵はかかっていなかった。
川から拾いあげた物を、デスクの上にそっと置いた。強烈な悪臭に彼女が目を覚ましてしまう可能性もある。さっさと退散しよう。小笠原はブースをでようとした。
ところがそのとき、蚊の鳴くような莉子の声がした。「小笠原さん......?」
眠りから覚めた莉子は、近くにいた男性の後ろ姿に声をかけた。
背恰好から小笠原だとすぐにわかった。どこかばつが悪そうに静止し、それから振りかえる。小笠原の顔は、擦り傷だらけだった。
「ど」莉子はネットカフェの静寂のなか、声をひそめながらいった。「どうしたの? 怪我してる......」
前髪がわかめのようにべっとりと額に貼りついていた。スーツもずぶ濡れだった。ズボンは縮んで、裾がずいぶん短くなってしまっている。においもきつい。
小笠原は力なく笑った。「ちょっとね、鴨川で泳いじゃって」
「泳いだって......? こんな夜に? しかも鴨川で......」
「四条大橋から二キロぐらい先まで行ったよ。流されるばかりだから遠泳ってほどでもなかった。水面に浮いている物にはなかなか追いつけないんだね。初めて知ったよ」
「浮いている物?」
無言のまま、小笠原はデスクの上を指さした。莉子は振りかえった。
ぼろぼろになった厚紙細工の筒、初めはそう見えた。表面には墨で書いた字があったようだが、ほとんどぼやけて判読不能になっていた。
直後にそれが、例の短冊だったと気づいた。水を含んだのちに乾いたせいで反りかえり、筒状になってしまったようだ。
「こ」莉子は衝撃とともにつぶやいた。「これ......」
「くそ坊主......いや、水無施住職が投げ捨てたんで拾ってきた」
半ば呆然として小笠原の顔を眺める。
胸を締めつけられるような思いがあった。これを拾うために川に飛びこむなんて......。
「お、小笠原さん」莉子はこみあげる切なさに似た感情のなかで、声を絞りだした。「どうしてこんなことを」
「そりゃ、大事な証拠だから......。あ、墨は流れちゃったけど、下辺の鉛筆の点はちゃんと確認できたよ。本物に間違いないと思う。表は読めなくなっちゃったし、裏も真っ黒だけどね」
もはや短冊という原形を留めない、ぼろぼろの厚紙細工。それを眺めるうちに、視界が涙で揺らぎだした。
「ごめんなさい」莉子は泣きながらいった。「わたしのせいで......」
「違うよ」小笠原は穏やかに告げてきた。「僕のほうこそ、悪かったよ。凜田さんの辛い気持ちを判ってあげられなくて」
わたしのことなんか......。莉子は小笠原を見つめた。「それより、傷の手当てをしないと」
「いいって。ホテルに帰って顔を洗って、バンドエイドを貼りつけりゃそれで終わりだよ。フロントで入館拒否されなきゃの話だけどね。短冊、今度こそ失くさないように気をつけて。もう役に立たないかもしれないけど」
そんなことはない。莉子は短冊を手に取った。もう濡れてはいなかった。乾ききるまでの長い時間、川辺を徒歩で引き返してきたのだろう。
筒状に丸まった内側、すなわち字が書かれていない裏側を見た。ふと、莉子は妙に思った。「さっき、裏は真っ黒っていってなかった?」
「ああ、そうだよ。どうして黒くなったのかはわからないけどね。墨が溶けだしたのかなって」
「いえ......。表ならありうるけど、厚紙だから裏にまで浸透するはずないし。っていうより、いまはこれ、真っ白なんだけど」
「ほんとに?」小笠原は莉子の手もとを覗きこんできた。「あれ? おかしいな。たしかに拾った直後は黒かったのに」
拾った直後。もしかして......。
莉子は目もとににじむ涙を指先にとり、それを短冊の裏にこすりつけた。なんと、厚紙はあたかも墨を塗りつけたかのように、そこだけ黒く染まった。
愕然とした莉子は、思わず声を張りあげた。「あぁ! こんなことだったのかー」
近くのブースから咳ばらいがきこえた。小笠原が静かにするようゼスチャーでしめしてくる。莉子も恐縮しながらうなずいた。
小笠原は声をひそめてきいてきた。「こんなことって?」
「この短冊、両面とも白いけど、こっちの面だけは習字練習紙が貼りつけてある」
「習字練習紙? っていうと......。昔、書道の授業で先生が使ってた教材か」
「そう。白い繊維の下地に黒紙が仕込んであるから、無色透明の水で書けばそこだけ透けて、あたかも墨で書いたみたいになる。乾いたら自然に消えて、また何度でも書ける」
「すると、あのとき住職が書いた筆は......」
「墨汁じゃなくて水をつけていただけよ。筆の先端が黒く染めてあったのね。覚えてる? 住職は短冊がすっぽりおさまる大きさの封筒の上に短冊を置いて、筆を走らせてた」
「裏面が見えないようにしてたわけだ。でもその裏面には、あらかじめ別人の書があったんだな」
「そう。住職はその裏の文字にあるていど似せて、同じ文章をわたしたちの目の前で書いてみせた。そして短冊を決して裏返すことなく、表を上にしたまま封筒に滑りこませた。数分のうちに習字練習紙面の文字は乾いて消えて......」
「オフィスに帰って封筒から取りだしたときには、裏を表と錯覚したわけだ。字が書いてあるほうが表、なにも書いてないほうが裏。当然そう思う。なんてことだ。住職が回収したがってたわけだ」
「報道関係者から筆で字を書くよう求められた場合、それは筆跡鑑定に用いられる可能性ありとして、こんな非常手段を準備してたのね。鑑定が終わったら掛け軸と交換することで返却を求めるつもりだった。けどわたしは断った」
「だから泥沼の駆け引きになったんだな」
莉子は腑に落ちない気分になった。「でも......。どうして小笠原さんの目の前で、川に捨てたんだろ。どこかで処分してしまったほうが確実なのに」
「さあ」小笠原は首を横に振った。「まさか拾えるとは思ってなかったのかも」
そのとき、若い従業員とともに、年配の責任者らしき男が通路に姿を現した。男はブースを覗きこむと、莉子と小笠原をかわるがわる見ていった。「困りますね、お客さん」
小笠原はため息をついて莉子を見た。「オフィスに戻るよ。宮牧が待ってるし、カバンも置きっぱなしだし。京都タワーの銭湯が開くまで、外をぶらつくかな」
そういって小笠原はブースを離れた。従業員たちは悪臭に顔をしかめている。
莉子は無残に変形した短冊を眺めていた。
もう物証としては成り立たない。筆で書いた字がほとんど流れおちてしまった以上、なんの証拠にもならない。
でもこれは、わたしにとっていままで見えていなかったことの、何よりの裏づけだった。彼の気持ちの発露。これ以上の証明はない。
じっとしてはいられなかった。すぐに立ちあがり、小笠原を追って駆けだした。
ロビーに小笠原の後ろ姿を見つけると、莉子は走り寄って、その背に抱きついた。
「......凜田さん?」
「小笠原さん......。本当にありがとう」
すると、小笠原は困惑ぎみにいった。「離れたほうがいいよ。においがうつっちゃうし」
「いいの」莉子は顔が紅潮するのを感じながら、思わず微笑した。「一緒に行こ。オフィスまで送るから」
梵鐘
翌朝九時、小笠原は奈良東大寺の大仏殿のなかにいた。
観光客や修学旅行生でごったがえすさまは、まるで朝のラッシュ時を迎えた駅構内のようだった。大仏の正面に立ちつづけるのもままならない。写真撮影が許可されているせいで、次から次へと人が押し寄せては、群れをなしてカメラに笑顔を向ける。フレームに入らないように気を遣って逃げまわっているうちに、莉子が歩み寄ってきた。
小笠原は莉子にきいた。「どうだった? 売店の人の話、きけた?」
「ええ」莉子は戸惑いのいろを浮かべていた。「たしかに何日か前、水無施住職が来たそうよ。目立つ人だし、そのときはウィッグをつけていなかったから印象に残っているって。でも、ここの僧侶に声をかけることもなかったし、一般のお客さんに混じって入堂料を払って、大仏を見学してからはすぐに立ち去ったらしくて」
「見学......っていうと、こうやって見あげただけ?」
「そうみたい。天井近くにバルコニーか渡り廊下でもあれば、そこから見おろせるんだろうけどね」
大仏殿は一階しかない。ここからでは肩の上になにか刻まれていたとしても、覗き見るのは不可能だった。
小笠原は唸った。「上のほうに登る方法はないのかな。ここのお坊さんたちも、大仏の肩や頭の上に積もった埃は掃除しなきゃいけないんだろ?」
「前にテレビで観たんだけど、十メートルほどもあるホウキみたいな掃除道具があって、脚立からそれを伸ばして埃を落としてた」
「同じ長さの竹棒の先にCCDカメラをセットすれば、肩の上が見えるかな」
「それで映るかなぁ? 東大寺の許可も下りなさそうだし、難しいね。ビルの窓ガラスを掃除するゴンドラの設備でもあれば別なんだけど......」
大仏の背には、後光をあらわす金いろの放射状の板があった。観覧車のごとく円を描いて配置されたベランダ型の台座に、一体ずつ小さな仏像がおさまっている。小笠原は指さした。「あれが電動式で回ってくれるのなら、乗りこんで肩の上から眺めるのも余裕そうだけど」
莉子は笑った。「あれは化仏といって十六体あるの。でも人が登れる足場に使えそうもないしね」
貰ったパンフの記載によれば座像の高さはおよそ十五メートル。頭部の縦の長さは六メートルだから、肩は九メートルの位置にある。ただし、それも台座からの計測だ。小笠原たちが立っている床はさらに低いところにあった。
莉子がオペラグラスを取りだして大仏に向けた。「んー。『肩に刻んだ』って解釈からすれば、手前や側面と考えられなくもないけど......。それならもう発見されているはずだしね。ここで働いている人も、枝褐屋の商取引の記録が刻まれたなんて、きいたこともないって」
大仏は首から上は真っ黒で、わずかに白ばんでみえる胴体とはあきらかに質感が異なって見える。
小笠原はいった。「たしか何度か焼けおちて、再建されてるんだよね? そのときには足場を組んだんじゃないかな」
「二回目の焼失後にまた作り直して完成したのが一六九二年だから、枝褐屋よりも二百年も前だし、一九〇三年と七三年の修復については、ここに来たところで詳細がわかるわけでもないし......」
「水無施住職も足を運んではみたものの、収穫なしに引き揚げたんじゃないかな」
そのとき、携帯電話が鳴った。莉子がハンドバッグからケータイを取りだし応じる。
「はい、凜田です。......あ、宮牧さん。ちょっと待ってください」
川に飛びこんだときに小笠原の携帯は壊れていた。よって、けさ早くから福岡に向かった宮牧には、莉子の携帯番号を伝えてあった。
小笠原はケータイを受け取った。「もしもし。小笠原だけど」
「おう」宮牧の声の響きはずいぶん快活だった。「朝一の飛行機で福岡に飛んで、タクシーで観世音寺に向かったんだけどよ。派手なオレンジのランボルギーニが並走しやがるんだよ。京都ナンバーだったし、びっくりしてさ。運転席から水無施住職が手を振ってた」
「もう着いたのか。ほんとにひと晩じゅう飛ばしたんだな」
「それどころか、寺の境内をちょっと覗いて、すぐに引き返していったよ。不眠不休のまま、もう帰路についてやがる」
「マジで? いったい観世音寺に何の用があったんだ?」
「鐘を見ていったんだよ」
小笠原は面食らった。「鐘だって?」
「ああ。大みそかにゴーンと鳴らすあれだ。観世音寺の鐘は日本最古なんだってな。水無施住職、俺が話しかけても無視をきめこんで、ずっと鐘を眺めてた。きっと安倍晴明の式盤に関係があるに違いないぜ」
福岡の太宰府市にある、日本で最も古い鐘と晴明の式盤......? 因果関係はまったくなさそうだが......。
小笠原はきいた。「呉羽さんがいってた、大仏の話はどうなるんだよ」
「......さあな。でも住職はたぶん大仏で得たヒントに従って、この鐘を見に来たんだろうよ。俺はもうちょっとこの寺を取材しとく。こりゃスクープの可能性あるぜ。角川ピューリツア賞は俺が貰った」
「そんな社内賞あったっけ?」
「これを機に発足するだろうよ。撮影した鐘の画像をメールで送るから、凜田さんの意見もきいておいてくれ。じゃあな」
電話は切れた。小笠原は莉子にケータイを返しながらいった。「観世音寺の鐘について、何か知ってる?」
「鐘?」莉子は目を丸くした。「六八一年に鋳造された梵鐘で国宝に指定されてる......。それぐらいかな。観世音寺は天智天皇が母の冥福を祈って建立した勅願寺」
「勅願寺ってことは、時の天皇や上皇の発願でできた寺だね?」
「そう。国家鎮護や皇室繁栄を祈願するためのお寺。だから神社との結びつきも深いだろうし、晴明や陰陽寮と無縁とはいいきれないけど......。でもどうして鐘なの?」
携帯電話が短く鳴った。莉子がボタンを操作し、液晶画面を眺めてしばし黙りこむ。その画面を小笠原に向けながらきいた。「どう思う?」
表示されているのは、寺でよく見かける釣鐘、それ以外のなにものでもなかった。
思考が停頓しはじめる。小笠原は途方に暮れた。
いったい何だろう。水無施瞬はクルマを飛ばしてまでこの鐘を見たいと願った。大仏からどんな情報を読みとったのだろう。
鴨川
九州自動車道から関門橋を経て中国、山陰自動車道。京都南で下りるまでには、高速道路だけでもノンストップで最低七時間半はかかる。
小笠原は鏡石通から音隠寺につづく参道の脇にひとり立ち、腕時計を見やった。午後五時すぎ。まだランボルギーニは現れない。やはりそれなりに時間を要しているらしい。あるいはどこかに立ち寄ってくるつもりだろうか。
そう思ったとき、聞き覚えのある重低音が辺りに轟いた。小笠原が顔をあげると、あのオレンジいろのランボルギーニ・アヴェンタドールが滑りこんできた。
ランボルギーニは小笠原の前で徐行した。運転席の水無施瞬がウィンドウごしにこちらを一瞥する。何か話しかけてくるのではと思ったが、水無施は無表情のままギアを入れ替え、ふたたび速度をあげて寺の車両乗り入れ口に消えていった。
私道の先は、本堂の裏の事務棟につづいている。ランボルギーニを迎えいれた警備員がゲートを閉めにかかった。
声をかけたところで通してくれるとは思えない。小笠原は寺に背を向け遠ざかった。
昼過ぎに寺の受付に問い合わせたところ、水無施住職は夕方の法事には出席する予定だときいた。彼はそれに間にあうように戻ってきた。帰路もほとんど休まずにクルマを飛ばしてきたのだろう。厳しいスケジュールの合間を縫って、観世音寺の鐘を見に行った理由はどこにあるのだろうか。
小笠原はバスを乗り継いで四条河原町の『週刊角川』京都オフィスに向かった。到着したのは午後六時近く、やはり空きのデスクが増えていて、居残り組はごくわずかだった。
宮牧は応接セットのソファに腰をおろし、テーブルにずらりと並べた写真に熱心に見いっていた。向かいには莉子が座っていたが、こちらはさほど写真に興味をしめしていないようだ。虚ろな目をぼんやりとテーブルに落としているだけだった。
歩み寄って見おろすと、釣鐘の写真ばかりだった。小笠原はきいた。「観世音寺の鐘か?」
「おお!」宮牧は興奮ぎみに告げてきた。「やっと帰ってきたか。見ろ。これらの写真のなかに、安倍晴明の式盤にかかわる秘密が隠されてるんだぜ」
小笠原は莉子を見た。莉子は思い悩むような視線を投げかけてきた。
ため息をついて小笠原は宮牧にいった。「なんの根拠もないんだろ?」
「馬鹿いえ」宮牧はぎょろ目を剥いた。「水無施住職がなにより重視してるポイントだぞ。ほら、この写真集に載ってる大仏を見ろよ。ふたつを結びつける何かが存在するはずだ。凜田さん、そうだろ?」
莉子は首を縦には振らなかった。「んー......。大仏の肩に彫ってあるのは江戸末期の商取引の記録でしょう? 晴明の式盤を売った先も京都の寺社だっていうし」
「その情報が間違ってたんだよ。あるいは暗号化されてて、観世音寺の鐘にそれを解くヒントがあったとか」
「考えられなくはないけど、そもそも大仏の肩って観察できないし......。水無施住職は何を見たんだろ」
小笠原は宮牧に肩をすくめてみせた。「学研の『ムー』にでも転職する気かよ」
宮牧は眉間に皺を寄せた。「おまえ、もういっぺん鴨川で頭を冷やしてこいよ」
「鴨川?」小笠原は冗談めかせていった。「そりゃいい。イルカのショーを観て温泉に浸かってくるよ」
「誰が鴨川シーワールドの話をしてんだ。千葉じゃねえ、京都だよ。おめえがきのうの晩飛びこんだ、すぐそこを流れてる鴨川......」
するとそのとき、莉子が宮牧に匹敵するほど目を大きく見開いた。「ああ!? まさか!」
「な」宮牧が面食らったようすできいた。「なんだ? 凜田さん、いきなりどうした」
「千葉!」莉子は声を張りあげた。「そうだわ。〝奈良の大仏〟は市原市にもある」
小笠原は雷に打たれたようなショックを受けた。「市原? 『ぞうの国』とかがある......」
「そう。市原市奈良って地名なの。大仏といっても小さくて、人間より少し背が高いぐらいの立像よ。屋外だし、周りには誰もいないし、あれなら台座に登れば肩の上を見れるかも」
「本当に? その......千葉県にある〝奈良の大仏〟って、幕末にもあったの?」
「枝褐屋掬右衛門が式盤を売ったのは文政十三年、西暦でいえば一八三〇年。市原の〝奈良の大仏〟は一八〇四年にはいまのかたちになっているのよ」
宮牧は納得がいかないようすで、ノートパソコンのキーボードに手を這わせた。検索サイトのキーワード入力欄に『奈良の大仏』と打ちこむ。
検索結果がでた。一番上に表示されたのは、ウィキペディアの項目だった。〝奈良の大仏(市原市)〟とある。
「おい!」宮牧は情けない顔になった。「なんだよこりゃ。トップにでてきやがる。ガンプラ買いに行ってガルダン薦められるみたいなもんだぜ。本家本元の大仏のほうは?」
莉子がいった。「そっちは〝東大寺盧舎那仏像〟の項目になってるはず。奈良の大仏ってのは通称にすぎないわけだしね。一方で、市原市の〝奈良の大仏〟は正式名称だから、枝褐屋が日記にそう書いたのもうなずける」
小笠原はパソコンに手を伸ばし、ウィキペディアのページを開いた。
〝奈良の大仏(市原市)〟の記事をざっと見る。すぐに気になる一文が目にとまった。小笠原はそこを読みあげた。「棒のように細長い立像ゆえに横揺れに弱く、文政十一年の地震でも倒壊、破損したものの、江戸の職人により修理され翌十二年には元の姿に戻った......。枝褐屋が肩に文字を刻んだのはこのタイミングか。まいったな、大正解だよ」
宮牧はひとり納得がいかないようすだった。「ありえねえ。水無施住職は東大寺の大仏を見て、そこから何かヒントを得て観世音寺に行ったんだぜ?」
「いいえ」と莉子が冷静な面持ちで告げた。「おかしいと思ったのよ。住職は東大寺に現れたときだけウィッグをつけていなかった。だから売店の人にすら記憶されてた。水無施住職は真相に気づいてる。わたしたちをかく乱するために、わざと東大寺に行ったのよ」
「陽動......だっての?」宮牧はいっそう目を丸くした。「でも凜田さん。それならどうして住職はわざわざ福岡に......」
「アリバイ工作。福岡に行ったとみせかけて、じつは昨晩のうちに千葉県の〝奈良の大仏〟を確認してる」
「まさか。どうやって? まるで正反対の方角じゃないか。住職は夜に出発して、翌朝九時前には福岡に......」
「宮牧さん。水無施住職のランボルギーニ・アヴェンタドールのナンバーは?」
「ナンバー......? ええと、京都ナンバーだったのは覚えてるけど、番号までは......」
「水無施住職は高級車を何台もコレクションしてるし、下鴨に家を持ってるほどのお金持ちでしょう。福岡にもう一台のランボルギーニ・アヴェンタドールを持ってないと断言できる?」
「も、もう一台!? まさか。同じ車種を二台だなんて」
「富裕層の趣味ならありうるのよ。スポーツカーはファッションみたいなものだから、お気に入りのクルマを複数買いして、全国各地の別荘に置いていたりする」
小笠原は莉子を見つめた。「じゃあ、水無施住職はクルマで移動しなかったんだね?」
莉子がうなずいた。「京都発東京行きの新幹線の最終は午後九時三十四分。午前零時前に東京駅着。タクシーで市原市に向かって〝奈良の大仏〟を確認する。夏場のこの時期はANAの成田発福岡行き臨時便が朝七時五分にでてるから。それで福岡に飛ぶ。別荘からランボルギーニを乗りだして観世音寺に向かったのよ」
「なるほど」と小笠原はいった。「帰りもクルマを別荘に戻してから、飛行機か新幹線で帰ってきたんだな。京都駅付近に停めてあったほうのクルマに乗って寺に着いたわけだ」
宮牧は愕然とした表情で、写真を取りあげた。「じゃあこの鐘は......なんの意味もないのか? たんなる囮......」
莉子はソファから立ちあがった。「小笠原さん。まだ新幹線は動いてる。いまのうちに情報を得ないと、水無施住職に差をつけられちゃう」
違いないと小笠原は思った。「住職はもう式盤の売却先を知った可能性があるんだし」
早速出発しよう。小笠原は宮牧を振りかえった。
だが宮牧はソファから起きあがろうとせず、手にした写真の束を宙に放りなげた。木の葉のごとく舞い落ちる数十枚の写真。そのなかで無言のまま天井を見あげていた。
社内賞の夢が破れ、ふてくされる同僚。市原市で挽回しようという意気込みは感じられない。小笠原は宮牧を放っておくことにした。「行こう。凜田さん」
「ええ」莉子はハンドバッグ片手にドアに向かいだした。「ひと晩出遅れたけど、きっとまだ追いつける」
大仏
深夜一時過ぎ、小笠原はタクシーの後部座席におさまり、真っ暗で何も見えない窓の外に目を向けていた。田舎だけに市街地の明かりはない。等間隔に配置された街路灯が、数秒おきに車内をおぼろに照らしだすのみだった。
隣りに座っている莉子も、無言でiパッドを操作して調べものにふけっている。
東京駅をでて一時間以上が過ぎていた。すでにアクアラインを渡り終え、房総半島に入っている。道端の案内板には県道一四号、茂原街道とある。タクシーは交差点を折れて、さらにもの寂しい暗がりの道へと乗りいれていった。
小笠原は沈黙を破って莉子にきいた。「水無施住職が福岡行きを偽装してまで、ここに来たのを隠蔽したのは......。僕らの目を気にしてのことかな」
「でしょうね」と莉子はうなずいた。「調査会社の呉羽さんは、技褐屋の日記の内容を知ってるわけだし、現にその情報は『週刊角川』に売りこまれたわけだし......。ほかの寺社の人たちも監視を強化してる。水無施住職が式盤の手がかりを独占するにはそれしかなかったんでしょう」
「発見したことを誰にも悟られまいとしてるんだから、当然の所業ってわけか」
「人知れず自分の物にしちゃうつもりよね。入手後は、式盤が昔から音隠寺にあったと主張するでしょう。どんなに怪しげな言いぶんでも、覆す証拠がなければ通っちゃうし」
「住職が盗みを働くのを阻止しないと、真相は藪のなかだな」
ふいにタクシーが減速した。車体が路肩に寄る。運転手が辺りを見まわしながらつぶやいた。「この辺りじゃないですかね......」
周囲は依然として闇だった。目を凝らすと、雑木林だとわかる。ドアが開いたとたん、風が勢いよく吹きこんできた。木々が枝葉をすりあわせ、騒々しい音を立てている。楡の梢も大きくしなっていた。
運転手が懐中電灯を貸してくれた。その場にタクシーを待たせたまま、莉子とともに車外に降り立つ。道路沿いの案内板には〝大仏通り〟とあった。自治体もその名を認めているらしい。
樹齢百年は過ぎているとおぼしき古木が天を衝くなか、狭い参道に歩を進める。莉子が身を寄せてきた。
「なんだか」莉子はささやいた。「妖怪とかでてきそう」
小笠原は夜道に怯えるほうではなかった。「鬼太郎が角川文庫から出てるんだよ。社内で暇な時間によく読んでたから......。愛嬌のある奴らって印象しかないな」
「へえ......。読んでおけば怖くならないかな、こういう場所」
参道は二百メートルほどもつづき、やがて林のなかの少しばかり開けた空間にでた。公園のような広場の中央には、なぜか墓を思わせる石碑がぽつんと建っている。一辺一メートルほどの立方体の石垣の上に、さらに高さ一メートルの階段状の塔があった。
「んー?」莉子はiパッドの画面と見比べて、首を傾げた。「へんね。これ、仏像の台座のはず」
「台座......。だけど、上には何もないよ」
周囲にはなぜか、工事現場のように黄と黒のまだらのロープが張りめぐらしてある。小笠原はまわりこんで向こう側を照らした。地面に人型の物体が横たわっているのに気づき、思わずぎょっとした。「まさかと思うけど、ひょっとしてこれだとか?」
莉子が駆け寄ってきた。「ああ! 足の付け根がぽっきり折れてる」
小笠原はロープから下がっていた注意書きを照らした。「修復中だって。たぶん、このあいだの地震で落下したんだよ」
「不幸中の幸いかも......。おかげで肩を見るのも楽だし」莉子はそういってロープを乗り越え、仏像の脇にしゃがみこんだ。
身長は二メートルぐらいか。小笠原が思っていたよりもずっとスマートで、柔和な顔だちの石仏だった。いまは合掌したまま地面に寝そべっている。
しかし、どうしても疑問がよぎる。小笠原はつぶやいた。「これが大仏......?」
莉子は仏像を眺めまわしながらいった。「平将門が奈良を模した都を関東に築いて、地名も奈良にしたといわれてるの。で、奈良には大仏がなきゃってことで、これを建てたとか」
「ビッグネームを背負うと、会う人会う人が露骨にがっかりして大変だろうな」
「横になりたくもなるでしょうね。ちょっと待って。......あった! 小笠原さん、ここを照らして」
莉子が指さしたのは仏像の右肩だった。懐中電灯を向けると、文字が刻んであるのがわかる。意外にもくっきりと深く彫りこんであった。
亥趙塚神社 晴明六壬式盤 一金 七千両也 枝褐屋掬右衛門
小笠原はいった。「亥趙塚神社......? 山科区のはずれに亥趙塚古墳ってのがあるけど......」
「その古墳の入り口付近にある神社よ。古墳全体の管理も請け負ってるはず」莉子は仏像の肩をしきりに指先で撫でた。「年季の入った彫りぐあい......。苔も入りこんでいるし、たしかに昔刻まれた文字でしょうね。仏像が台座に立っている状態なら下からは見えないし、地元の人でも気づいてないかも」
「枝褐屋が遺した本物のメッセージに違いないわけか。けど、嫌な予感がするよ。亥趙塚古墳といえば......」
「そうよね」莉子はため息まじりにつぶやいた。「東京ドーム二個ぶんの広さといわれる迷路みたいな地下通路が有名。もし式盤が古墳に隠されているのだとしたら......」
鎖
東京ドーム二個ぶんの面積を誇る地下迷路も、攻略法さえわかってしまえばゲームと同じだった。
水無施瞬は携帯式のLEDライトを床に置いた。暗がりのなかで、周囲だけがぼんやりと照らしだされる。
この蒸し暑さは、風が吹きこまないせいだった。午前七時半から午後六時まで、見学者がさかんに出入りする時間帯は、古墳内のいたるところに設置されたエアコンが稼働している。むろん、通路も現在のように真っ暗ではない。壁づたいに無数の照明が設置してあった。六世紀前半に建造された遺跡にも文明の手が入っている。決して未開、未踏のフロンティアではない。
とはいえ、広大な迷宮の隅々まで調べ尽くされてはいない。とりわけ後世の人間によって改変が加えられた場合は、古墳の構造や刻まれた碑文からは推察できないために、未発見のまま放置されることが多い。床下にいくつもの隠し部屋があることはあきらかになっていても、そこにいつの時代、誰が何を放置したかまでは判っていない。
午前二時をまわっている。屋外の気温はおそらく一日で最も低下する時間だろうが、古墳の内部は逆だった。額から滴る汗をぬぐいながら、床を埋め尽くす石板のうち一枚に手を伸ばす。わずかに空いた隙間にバールを差しこみ、てこの要領でぐいと持ちあげた。
宝は取りだしにくい場所に隠されているなどと、まことしやかにいわれる。だがそれは事実に反する。現にこの石板もあっさりと持ちあがった。亥趙塚の神主は、祭政一致の方針を掲げた明治新政府が晴明の式盤を奪い去るのを恐れ、一時的に隠したにすぎない。子孫への伝承のためではなく、自分がいつでも取りだせるように仕舞っておいたと考えるのが正しい。金庫は当然、開けたいときに開けられるようになっている。
石板の下に、細い鎖が連結された短い鉄の棒があった。棒が穴の底に落下しないよう、鎖は内部の壁面に埋めこんであるようだ。照明を当ててみると、石板の裏面にはその棒をあてがうための窪みがあった。それと、地面の開口部分の縁にも同じ窪みがある。棒の両端をそれぞれの穴に差しこむことにより、ちょうどいい角度に石板の蓋が開いたままになった。
江戸末期の神主の手製金庫か。よくできている。瞬はにやりとした。
地下を覗きこむ。においはしないが、籠もった空気を感じる。開けたのは幕末以来のことだ、無理もない。
明かりを差しいれてみたところ、深さはさほどでもなかった。ちょうど瞬の身長ぐらいだった。四方の壁はいずれも幅が一・五メートルぐらい、石垣になっていたが、底は意外にも枯れ草だらけだった。床板はなく、剥きだしの土らしい。太陽光や水の恩恵は受けられない環境だが、雑草もあるていどまでは育ったのだろうか。百八十年前のタイムカプセル。自然の変移も想像がつかない。
道具一式をおさめたバッグをなかに投げ落としてから、自分も穴底へと身を躍らせた。枯れ草は腰にまで達していた。
切り開くには鎌が要るな。そう思いながら乾燥しきった草を掻き分けていると、足もとに小さな石棺を見つけた。
しゃがみこんで、その蓋を押してずらす。うっすらと光を帯びてみえる、板状の物体がおさまっていた。
思わず息を呑んで、LEDライトをかざす。まばゆいばかりの黄金いろの輝きが、板に反射して辺りを照らしだした。
錆びてはいない。いっさい空気に浸食されていないその艶やかさは、材質が純金であることのなによりの証明だった。
形状は、信頼が置けるとされていた江戸時代の書物の挿絵とうりふたつだ。一辺三十センチほどの正方形、幾何学的な模様が彫りこまれている。中央に北斗七星をおさめた正円。間違いない、これこそ安倍晴明の六壬式盤にほかならない。
湧き立つような歓びの感情が、瞬のなかにこみあげてきた。
やった。ついに見つけた。誰にも悟られることなく入手に至った。晴明の式盤は音隠寺の物になった。いや、古からそうだ。わか寺に受け継がれてきた宝。その主張を覆せる者はどこにもいない。
陳腐な祈願文のパフォーマンスと決別するときがきた。未来永劫、音隠寺は京都一の名物寺になる。両親にも安泰が約束された。僕の婚姻のときを彩るにもふさわしい。
両手で式盤の左右をつかみ、ゆっくりと石棺の底から浮かす。純金だけに重量がある。力をこめて持ちあげた。
すると、式盤の裏の突起部分に結わえてあった細い鎖が、ぴんと張り詰めた。盗難防止用の鎖か。こざかしい真似を。ペンチで切断してしまえば終わりだ。
そう思ってぐいと引っ張ったとき、鎖の先が壁に埋めこんであることに気づいた。さっき上で見たのと同じ鎖。まさか......。
直後、危惧したことが現実になった。鎖は入り口のつっかい棒に直結していた。瞬が引っ張ったせいで、棒は外れた。頭上でけたたましい音が響いた。砂埃が降りそそぐ。石板が落ち、開口部分がふさがった。
閉じこめられた。だが、瞬には苦笑する余裕があった。安易なトラップ。備えあれば憂いなし。照明も道具もすべて穴底に下ろしてある。
石板を両手で持ちあげようとしてみたが、びくともしなかった。やはり道具がいる。バールをどう使うべきか......。
バッグに手を伸ばしたとき、目がかすむのを感じた。
どうした? 酸欠か。バッグには酸素ボンベも入れてあるが、まだ二酸化炭素が充満するには早いはずだ。
ところが、意識は朦朧とするばかりだった。浅い眠りのように、ときおり自分が何をしているのかわからなくなる。式盤を取りに来た。ここから脱出する手段を考えねば。その思考をつなぎとめるべくバッグをまさぐる。覚醒状態を保とうと躍起になった。
ほどなく、すべては無駄な努力と化した。筋肉に力が入らない。瞬は膝から崩れ落ち、枯れ草のなかに突っ伏した。アンズか梅か、甘酸っぱいにおいがかすかに漂っていた。
ボート
翌朝十時過ぎ、京都の空は厚い雲に覆われていた。
山科盆地から栗栖野の台地にかけて横たわる亥趙塚古墳は、周囲を取り巻く堀の外から眺めると、広大な池のなかに浮かぶ緑生い茂る島にしか見えない。古墳全体を管理する亥趙塚神社の鳥居から、社殿のある小島を経て古墳への桟橋がかかっている。そこが古墳に歩いて渡る唯一の道だった。有名な地下通路の見学時間を迎えたいま、桟橋を大勢の観光客が往来するのが見えている。
莉子はその桟橋からかなり離れた堀のほとりに立っていた。ここには小さな船着き場があって、手漕ぎボートがいくつも係留してある。それらのボートは雨天でも漕ぎだせるように木製の屋根を備えていた。一般に開放されたものではなく、あくまで業務用だった。従って船着き場の周辺には観光客も寄りつかず、ひっそりと静まりかえっている。
古墳は石垣に囲まれているため、ボートで堀を渡っても容易に上陸できない。左まわりに漕いでいけば、その先には低くなった水辺がある。そこならボートを寄せられるかもしれない。しかし......。
船着き場に立つ年配の警備員は、莉子の質問に答えてきた。「無理やて。あれ見てみ」
警備員が指さした先には、近年建設されたとおぼしきコンクリート製の水門があった。
莉子はいった。「水門ですか。いまは開いているようですけど」
「夜も閉じるわけやないけど、問題は高さなんや。この堀の水位は常に一定になるよう調整されとるんで、ボートを差し向けても屋根がつっかえてまう。ほんの数センチやけど、どうしようもないんや」
「じゃあ、逆方向にまわれば......」
「桟橋の手前が浅くなっとって、ボートが座礁してまう。いまはこのボートも業者が水門のチェックに使うとるだけやからね。そこまでしか行かへんのや」
ふと莉子は、船着き場に連なるボートのうち一隻のみ、ロープにつながれていないことに気づいた。「そこの船だけ係留されずに漂ってますね」
「あん?」警備員はボートに目を向けた。「ああ、そやな。なんでロープが外れたんやろ。風がこっちに吹いてんのはさいわいやったな。おかげで遠くに流されずに済んどる」
......別の可能性もある。船は古墳方面に漕ぎだされて、無人のまま風に吹かれて戻ったのかもしれない。
莉子はたずねた。「そのボート、拝見できませんか」
「ちょっと待ってくれ」警備員は長い竹竿を取りあげて、漂うそのボートの舳先にあて、たぐりよせた。「何や? 変やな。バケツが乗せてある。清掃業者でも入ったかな」
見ると、たしかにボートのなかにはたくさんのバケツがあった。しかも水がくんである。
「乗ってもいいですか」と莉子はきいた。
「ああ。気をつけて」警備員が手を差し伸べてきた。
その手をとりながら、莉子はボートに乗り移った。
バケツのなかの水はそれほど濁ってはおらず、ボウフラも湧いていなければカビも生えていない。おそらく汲んだばかりだろう。こんなにたくさんの水を何に使ったのか。
ひとりの人間が座りこめるぐらいのスペースが空いていた。船底を見たとたん、莉子ははっとした。
走る足音がしだいに近づいてくる。小笠原が船着き場に駆けてきた。「凜田さん。......どうしたの? 舟遊びでもする気か?」
「靴底の痕があるの」莉子はいった。「スニーカー、つま先は鰐皮調で土踏まずに波形、踵に直径五ミリのドット模様。ナイキのニュー・モデル、ゲンナディー・ボンダレフね」
「ゲンナディー・ボンダレフ? 売り切れ続出の人気商品じゃないか。もう使っている人がいるの?」
「ええ。スニーカーにしては高価でも、スポーツカーを買い揃えるのに比べればたいした出費じゃないだろうし」莉子は小笠原の手を借りて船着き場に移った。「水無施住職はきのうの夜、このボートで古墳に渡ったのよ」
警備員が口をはさんできた。「さっきも言うたやないか。ボートに屋根があるさかい水門の向こうへは行けへんて」
「だからバケツをいくつも持ちこんで、堀の水を汲んだんです。ボートが重くなって沈めば、喫水線も下がって水門をくぐれるでしょう」
「......ああ」警備員は感心したように目を丸くした。「なるほど。賢いな」
小笠原が莉子に告げてきた。「神社の人の話をきいてきたよ。きのうの昼過ぎ、水無施住職が来たって。ウィッグはつけてたけど、派手なオレンジのランボルギーニで駐車場に入ったから人目を惹いてたってさ」
「昼過ぎ......。本来ならまだ福岡から戻っていなかったはずの時間ね。やっぱり京都に着いてたんだわ」
「ここの宮司は水無施住職と会ったことがあるらしくて、一見してわかったみたいだ。住職もばれる心配をしていなかったらしい。観光客に混じって堂々と移動してたって。宝物殿のなかに展示してある屏風を見学してから、古墳に渡って地下通路を小一時間うろついたとか。途中、何度か立ち入り禁止区画に入ろうとして止められたって」
「立ち入り禁止区画?」
警備員がいった。「通路は崩れかかって危険なところもあるんや。いずれ補強工事がなされるまでは入れへんよ」
莉子は堀の向こうの古墳を眺めた。すると住職は、その区画に踏みいるつもりで深夜に侵入を......。
小笠原は腕組みをした。「目立つ振る舞いをしたってことは、これも陽動かな」
「いえ。福岡行きのアリバイ工作中だから、それはないと思うの。住職は急いでいたのよ。本来なら慎重に行動すべきところを、人目を避ける手間すら惜しんで古墳を見に行った」
「住職は突きとめたのかな? 式盤が古墳のどこに隠されているか」
「おそらく。でも......」莉子は口をつぐんだ。
気になることがある。水無施住職が式盤を見つけた後、ボートを漕いでこの船着き場に戻ったのなら、バケツをそのままにしておくはずがない。ロープも結わえておくはずだ。無人のボートが風に吹かれて、ここに帰ってきただけだとしたら......。
本堂
その日の午後、莉子は小笠原とともに音隠寺に向かった。
ところが、きょうの音隠寺の様相は一変していた。門は塞がれ、警備員ならぬ制服警官が立っている。『本日臨時休業』の貼り紙もあった。
訪れたクルマやバスは駐車場に入ることさえできず、退去を余儀なくされていた。観光客たちも貼り紙に眉をひそめていたが、警官が相手では詰め寄ることもできないようすだった。年配の女性たちが遠巻きに門を眺めて、何かあったのかしらとささやきあっている。
莉子も途方に暮れてたたずむしかなかったが、小笠原は諦めていないらしく警官に近づき、交渉を開始した。宮牧にもらった境内の記者席のパスを見せて、なにやら話しこんでいる。あれは祈願文開示の日の取材許可にすぎず、いま境内に立ちいれる確証は何もないが......。
しかし警官は脇にどいて、莉子たちを受けいれる姿勢をしめした。
莉子は驚きを覚えながら小笠原にささやいた。「びっくり。なかに入れるなんて」
門をくぐってから、小笠原は小声でかえしてきた。「住職に取材の約束があったって嘘をついたんだよ。ばれる前にさっさと用件を済ませなきゃ」
ここに来た目的は、水無施瞬の居場所の確認だった。ところが、それについて尋ねられそうな人間が見つからない。本堂を出入りする僧侶たちはみな血相を変えて、そわそわしたようすで動きまわっている。小笠原が声をかけても振り向きもしない。
境内にはパトカーが一台、乗りいれられていた。このせわしなさは、警察がきているせいか。半ば混乱に乗じて、莉子たちは本堂のなかに踏みいった。
拝観用に開放された仏壇を除いて、本堂の内部を目にするのは初めてだった。事務棟とは違い、ここは内装に特異性はなく、丸柱が連なる質素な板張りの空間が広がっている。とはいえ、照明は白色灯だし、壁には警備用のテレビモニターやHDDなどの最新機器がずらりと並んでいた。本堂の消費電力だけでもかなりのものだろう。
制服警官とともに立っている中年男は、刑事とみて間違いなかった。刑事は声を張りあげていた。「ですからね、その場合は一一〇番ではなく、最寄りの署に行方不明者届をだしていただければ、警察は対処できますよ。私どもを呼びだされても、できることはありません」
刑事と向き合っている初老の男女も私服姿だったが、おそらく水無施瞬の両親だろうと莉子は思った。ふたりとも瞬の面影がある。とりわけ父親は坊主頭のせいか、顔つきがよく似ていた。
瞬の父は刑事にいった。「行方不明者届だなんて。息子はいなくなるはずがないんです。法事をすっぽかすなんてありえません。何かあったんですよ、調べてください」
「落ち着いてください」刑事は顔をしかめた。「姿をみせなくなったといっても、きのうの晩からまだ半日でしょう? 未成年じゃないんだし、ご両親に連絡をいれないこともありますよ」
すると瞬の母が不安げに訴えた。「寺の業務はぜんぶ息子が取り仕切っとったんです。わたしたちじゃ、何もできることはありません。どうかお願いします。早く保護してやってください」
「保護?」
「息子は成功の代償に、いろいろと恨みを買っとります。ほかの寺社からの嫉妬もすごいんですよ」
刑事は苦笑した。「お坊さんや神主さんが、息子さんに危害を加えたりはせんでしょう。とにかく冷静になってください」
小笠原が莉子にささやいてきた。「過保護な両親だね」
「んー。このお寺の中心人物と急に連絡がとれなくなったんだから、関係者全員が取り乱すのも仕方ないかも」
「やましいところがある住職だって、誰もが普段から思ってたんだろうね。でなきゃ失踪したからって即、事件に巻きこまれたって発想にならないよ。......おや? 凜田さん。これって......」
棚を覆う厚手の布を捲って小笠原は真顔になった。莉子はその視線を追って、ぎょっとした。
祈願箱がふたつ。まったく同じ物が並んでいる。
ちらと周りのようすをうかがう。水無施瞬の両親は、まだ刑事と話しこんでいた。
莉子は箱に手を伸ばした。ひとつの両端をつかんで、ぐいと持ちあげてみる。軽い。もうひとつの箱に対しても同じようにしてみる。こちらは重かった。仕掛けがあるのはこちらか。
引き出しを抜いてなかを覗きこむ。姿勢を低くして内側の上部を見やると、古風な箱とは不釣り合いな機材が垣間見えた。
Canonのロゴが目に入った。逆さになったワイヤレスプリンター。発想のきっかけは莉子と同じくファックスの仕組みだったかもしれないが、実際のツールにはやはり、より高性能かつ使用目的に合致した物を採用している。専用プリンターなら印字のムラもでにくいし、ハイビジョンカメラによる撮影でも印刷とはばれにくい。むろん通信においても、電話回線の都合に左右されない......。
ふと莉子は、箱の傍らにあった領収書の束に目をとめた。いちばん上のレシートの日付は、きのうになっている。店名はケーヨーデイツー。商品名はマンポケイとなっていた。
そのとき、若い僧侶が飛びこむようにして遮ってきた。「何をしているんですか!」
本堂のなかにいる全員がこちらを振り向いた。
僧侶は憤りをあらわにして怒鳴った。「勝手に侵入して、どういうおつもりです。ただちに退去してください」
莉子は穏やかにいった。「そう興奮なさらないで。わたしたちは水無施住職の居場所について確認にきただけです」
瞬の両親の顔いろが変わった。ふたりとも足ばやに歩み寄ってくる。父親がたずねた。
「息子がどこにおるんかご存じなんか」
だが僧侶は、なおも警戒心を解く気になれないようだった。「赤木警部補。このふたりを逮捕したらどうなんですか。不法侵入ですよ」
思わずむっとして莉子は告げた。「わたしたちをどうしようと勝手ですけど、その前に事務棟奥にある住職専用のラウンジを調べたらどうですか。洋服棚に収めてあった使い古しのゲンナディー・ボンダレフがなくなっているはずです。理由は住職が昨晩、それを履いて亥趙塚古墳に忍びこんだまま、帰ってこないからです」
僧侶の表情がこわばった。「亥趙塚古墳......?」
瞬の父が近づいてきた。下がりなさい、と僧侶に告げて、莉子と向き合う。「初めまして。私は水無施直輝といいます。こちらは家内の玲菜」
莉子はおじぎをした。「押しかけてしまって申しわけありません。でもお察しのとおり、急を要する事態なので」
赤木という名の警部補も歩み寄ってきた。「急を要するとおっしゃると......」
「水無施住職は安倍晴明の式盤を探して古墳に侵入しました。でも捜索の途中でなんらかのトラブルが発生し、戻れなくなった可能性が高いんです」
瞬の両親が顔を見合わせた。
怪訝な面持ちで赤木がきいた。「どういうことですか。安倍晴明の式盤とは......?」
しばし沈黙があった。瞬の両親はふたりとも気まずそうな顔をしていたが、やがて玲菜がぼそぼそと告げた。「そのう......。どうかわかってください。息子は、この寺のことを思って......。いや、むしろわたしたちのためにやったことなんです」
「やったって、何を......」
瞬の父、直輝は警部補に対するよりも、むしろ莉子に心情を伝えたがっているようだった。「瞬が小さかったころから、貧乏寺を継がせようと躍起になりまして......。その結果、息子は家を飛びだしてしまいました。でも五年ぐらい前だったか、息子は帰郷したんです。あれはあれなりに寺を立て直そうと、いろんな手を講じてくれまして。いわば経営の工夫です」
小笠原がいった。「長い歴史があるように装ったり、祈願文のようなトリックを演じたりして拝観者をだますことが、工夫といえるでしょうか」
直輝はため息をついた。「そういわれると身も蓋もない。けれども、よくわからんのですわ。瞬は物ごころついてから、よく質問してきたもんです。仏様ってのはどこにいるのかとね。私は極楽浄土だとか、雲の上とかいいました。でも瞬は、雲の上なら飛行機で飛べば見えるはずというんです。もっと高いところといえば宇宙だし、無重力空間だから胡坐をかいて座れるはずもない、空気もないのにどうやって息をしているのか、ってぐあいでね」
莉子はうなずいてみせた。「男の子なら当然抱くであろう疑問かもしれませんね」
「瞬は、仏教というのはすなわち事実とは異なる作り話を教義とするもので、僧侶も檀家信者も互いにそれを納得したうえで、役割演技のように戯れる一種の儀式にすぎないんだと......。何年か前にそういってました。うちの寺は御釈迦様がいるように見えない、だから見えるようにしなきゃってのも口癖でした。そんなふうに割りきるのも、無理からぬことでしょう。貧乏寺の裏表を見て育ってきてますから。実際、私も自分の仕事をどうとらえていいのか、ようわからんようになってきました。僧侶を演じて檀家を安心させりゃそれでいいのか、御仏の存在を絶対視していない時点で僧侶失格なのか、でもそんな坊さんがいまの世のなかに果たして何人いるのか......とね」
「それで、人をだますことを容認するに至った......ってことですか」
「容認とはちゃいます......。けど、否定するもんでもない。そう思えてきました。名のある寺の本山には歴史的背景と、大きな宗派と、広い境内があります。それらによってご利益があると感じさせることで、拝観者らに願いがかなうかもと希望を与え、その対価として収入を得ている。かつてのうちのような貧乏寺との違いは、商売がうまくまわっているかいないか、そこだけです。だから息手は考えたんやと思います。向こうに拝観者がありがたがる呼び物があるなら、こっちもそれをつくりゃいい。文化財に指定されるような宝があるなら、うちもそういう物を持てばいい、とね」
赤木が複雑な表情を浮かべた。「お坊さんがおっしゃるべき言葉ではないですな。私たちとしちゃ、なるべくききたくない話ですよ。あらゆる宗派の教えも商いにすぎないってんですか? どこも算盤ばかり弾いて、宗教法人としての本来の務めを果たしてないと?」
すると水無施玲菜が赤木をじっと見つめた。「本来の務め? それはどんなものでしょうか」
「ですから......。正しい教えを広めるとか、貧しい人たちの救済だとか......」
玲菜は棚に向かい、一冊のノートを引き抜いてきた。それを開いて赤木にしめす。
「この帳簿はね」玲菜が真顔でいった。「三年間で瞬が寄付をした記録です。いんちきやありまへん。日本赤十字社に問い合わせれば、事実やとわかってもらえると思います。見てのとおり、年間五億から七億円を慈善事業のために費やしてるんです」
莉子は胸を抉られる思いだった。五億から七億......。
玲菜は涙ぐんでいた。「瞬のやったことは、たしかに突拍子もないことかもしれません。晴明の式盤とかようわかりませんけど、よその寺社にある物を盗ろうとしたなら、それは犯罪でしょう。けど、瞬はほかの寺の住職と同じように、仏様が本当におるかおらんのか確証はなくとも、僧侶の役割として仏様はおるとの教えを広め、説得力を増すために境内を整備して拡大して、ご本尊を作り、拝観者に希望を与え、収益の何割かを人助けに費やしてきてるんですよ。いったいほかの大きなお寺と何がちゃいますの。瞬はむしろ、お寺を完成させたんです。これが京のお寺やないですか」
本堂のなかはしんと静まりかえった。
莉子は当惑せざるをえなかった。ほかの寺社がどうであるか、実状はわからない。しかし瞬およびその両親は、僧侶とはすなわち僧侶を演じる者という解釈のようだった。信心を集め、実際に救済をおこなっているのだから間違ってはいない、そう主張している。たとえ教義の根幹に嘘があったとしても......。
直輝は静かにいった。「瞬は、例の祈願についてマスコミから注目される現状を卒業して、安定した毎日が送れるようになることを望んどったんです。人気の寺となったいま、私たちに家を買い与えてくれて......。これから奥さんを娶って、以後は堅実に生きていくと約束してくれとりました」
ふいに小笠原があわてたように声をあげた。「お、奥さんって......。それは住職の一方的な願いですよね? 両思いではないし、まして婚約したわけでも......」
ところがそのとき、若い女性の声が京都訛りで告げた。「いえ。本人ばかりか、両家とも認めあってることです。すでに結納も済ませてますし」
真相
小笠原は驚きとともに振りかえった。
ヘアバンドと揃いの柄、チェックのシフォンドレスを着た櫂麻耶が戸口に立っていた。
「ま」小笠原は呆然としながらつぶやいた。「麻耶さん......?」
麻耶は落ち着いた声で告げてきた。「ごめんなさい、黙ってて......。瞬さんと知り合ったんは中学生のころ。その後ずっと付き合って、一年前に婚約したの。彼が忙しいから結婚式の予定がなかなか立たへんけど」
これには莉子もショックを受けたようすだった。「瞬さんって......。ほんとに? でもあの朝は、水無施住職って呼んでなかった?」
すると麻耶の表情は和らいだものになった。
「彼が凜田さんと話してたから、とりあえず礼儀をわきまえなきゃと思ったんよ。凜田さんとも初対面やったし、場所も境内やったし。彼がわたしによそよそしい態度をとらはったのも、凜田さんの前やったから」
「アパート経営の相談に来たんじゃなかったの?」
「いえ、その通りやけど......。でもあれは、将来の夫と解決策を探るための話し合いやったの。うちの親に多額の借金があったことを、彼は知っとったから」
「じゃあ」莉子は目を丸くした。「住職があなたに、土地を売ったほうがいいって進言してたのは、結婚の条件......」
「そうやないのよ。櫂荘の抱える負債については瞬さんも協力してくれるっていわはった。うちの両親の将来もちゃんと面倒をみるさかい心配いらへんって。でもあのアパートをつづけることには、瞬さんは反対してたんよ。うちがお寺に入って一緒に働いてくれるのを望んどったみたい。うちの両親も迎えいれたいって」
「......そう」莉子はため息まじりにいった。「わたしがやったことに、水無施住職は反対してたのね」
麻耶は首を横に振り、微笑とともにつぶやいた。「凜田さんにはほんま感心しとったよ。あんなやり方があるんかって......。結婚後も櫂荘の経営はつづけていこうって、彼のほうから言うてくれたの」
「......なるほど、そっか」と莉子も笑みを浮かべた。「住職が広告チラシを作ってくれたわけね。あなたは最初から気づいてたんでしょう? 住職のしわざだってことを」
「ごめんなさい。いいだせへんかって......。でも、うちもすっきりしたんよ。未来の旦那さんにお世話になるばっかやないって証明できたから」
「住職にもいい薬になったかも。あの人、わたしをディナーに誘おうとしてたし」
「ほんと? ったく、悪い癖治っとらんのやね。けど、変な意味やないんよ。祇園に彼の出資してはるレストランがあって、そこに連れてって自慢したかったんやと思う。男でも女でも、会う人会う人誘ってはるし」
「あー。お寺のバックステージも誇らしげに披露してたしね。それと同じかも」
莉子と麻耶は顔を見合わせ、笑いあった。
小笠原はまだそこまで心にゆとりを覚えていなかった。衝撃が冷めやらない。
水無施瞬が櫂荘の前にクルマを停めていたのは、それが理由か。彼は莉子を気にかけていたのではない。麻耶のようすを見にきていたのだろう。
四条大橋の上で、小笠原は水無施に対し敵愾心をあらわにしてみせた。水無施が莉子に惚れていると考えたからだった。水無施のほうは、不敵な笑いを浮かべた。こちらの思い違いを見透かしていたからに違いない。
そう思うと、ふいに頭に血がのぼる。同時に顔がほてってくる。どう解消すべきかわからない動揺が小笠原のなかにひろがった。あの坊主め。内心、俺の勇み足を鼻で笑っていたのだろう。
瞬の母、玲菓がいった。「ほんの数日前に、麻耶さんと一緒になるつもりやって瞬からきかされてね。嬉しかったよ。麻耶さんはこの寺によくお手伝いにきてくれてはったし、気がきく子と思っとったから」
小笠原は納得がいかなかった。麻耶を見つめていった。「婚約してることぐらい、教えてくれてもよかったのに」
麻耶はまごつきだした。「それは......そのう......」
莉子が小笠原に告げてきた。「無理よ。秘密だったんだもの。麻耶さんは水無施住職や音隠寺との関わりを、公には伏せているのよ。結婚するまでは」
「え?」小笠原は妙に思った。「でも、寺によく手伝いにきてたって、いま住職のお母さんが......」
「秘密の手伝いだったのよ」莉子は麻耶を見た。「住職に代わって祈願文を書いていたのは、あなたね?」
血管が凍るとは、まさにこのことだった。小笠原は驚嘆した。「な、なんだって!?」
「......はい」と麻耶はうなずいた。「凜田さん、知ってはったの?」
「いえ」莉子は落ち着いた口調でいった。「いまわかったの。住職の広告チラシについて、あなたは知らないふりをした。つまり関係を知られてはいけない理由があった。アパートの和室に掛け軸を飾ろうとしたとき、どんな字でもかまわないといったのに筆をとるのを拒否した」
麻耶はしばし黙っていたが、やがて穏やかに告げた。「中学のころから書道とピアノは得意なんよ。貧しかったけど、両親が習い事だけはさせてくれたし。写経とか短冊にしたためる短歌とか、瞬さんが書いたことになってるすべてをうちが引き受けとった。祈願文の筆跡と一致せんと困るし」
なんてことだ......。小笠原は唖然とするしかなかった。祈願文開示の日、彼女はこの本堂のなかに潜んでいたのか。そして最新のニュースを反映させた祈願文を書いた。祈願文の原稿を、箱が開けられる寸前にデータ送信したのも彼女だろう。
思わずぼやきたくなる。小笠原は思ったままを口にした。「住職の両親ばかりか、未来の奥さんまでトリックに加担してたとはね。檀家信者が知ったらショックだろうね」
瞬の両親は沈痛な面持ちで押し黙り、視線を落とした。
麻耶も同様だったが、やがて切実な表情を浮かべて莉子に訴えた。「お願い。瞬さんを助けてあげて。彼、決して悪気があったわけやないんよ。これが彼なりの、お寺の経営学やったの。うちらは瞬さんに協力してきたけど、でもその一方で、いつかは終わらせなあかんって思っとったの。いずれ、すべての顛末を記者さんに告白します。だから手を差し伸べてください。うちにそうしてくれたように......」
小笠原は麻耶を見つめた。「僕に打ち明けるってことは、記事になって世に知れ渡るって意味になるけど......」
「ええです」麻耶は瞳を潤ませていた。「瞬さんは正しくあるべき道と思って歩んできたんやし、協力したうちらにも言いぶんはあるし。それはそう主張すれば......。けど、式盤を盗むために亥趙塚古墳に侵入したんなら、もう瞬さんは泥棒でしかないんやし。越えたらあかん一線を越えた彼を、救いだしてほしいんです」
本堂のなかに沈黙がおりてきた。京の都の賑わいとはまるで別世界のような、隔離された静寂だけがあった。
莉子はひとりごとのようにつぶやいた。「人助けとお金儲けの両立のために、欺瞞に頼らざるをえなかった......か。瀬戸内さんの精神を受け継いでいないわけじゃなかったのね。むしろまるで同じ道筋をたどってる」
小笠原はきいた。「凜田さん。どうする......? 警察に古墳のなかを捜索してもらうなら、それ相応の根拠をしめさないと」
「いえ。そんな悠長なことはいってられない」莉子の瞳は、長いこと空を見つめていた。その虹彩がいろを変えてみえたとき、莉子はきっぱりと告げた。「わたしたちの手で助けだすしかない」
古墳
小笠原は莉子と麻耶に連れ添って、ふたたびバスで亥趙塚古墳を目指した。
途中、莉子はホームセンターに立ち寄ると、懐中電灯と万歩計、それにいくつかの工具を購入してスポーツバッグに詰めこんだ。小笠原は莉子に代わり、その重量のある荷物一式を持ち運んだ。何に使うのと小笠原はきいたが、莉子は言葉を濁してきた。まだ確証はないから、莉子はそうつぶやいた。
亥趙塚神社に到着後、小笠原たちの案内役を買ってでてくれたのは、宮司の榊正宗という白髪頭の男性だった。衣冠に老眼鏡を身につけた榊は、取り急ぎ小笠原たちを宝物殿にいざなった。水無施瞬が興味をしめしたという屏風を拝見したい、莉子がそう希望したからだった。
午後三時過ぎ、まだ観光客の出入りはあったが、その展示品に人だかりはなかった。屏風に絵は描かれておらず、さして達筆とはいえない書のみというのも、不人気の理由かもしれない。
榊が告げてきた。「私がいうのもなんですが、これはうちの神社に伝わる物としては価値の低い部類に入ります。名のある書家によるものではないうえに、時代も新しいし、神道とも無関係なので」
莉子が榊にきいた。「時代が新しいというと、どれくらい......」
「幕末ですよ。当時の神主と取引があった商人の心得を、書き留めたものときいてます」
小笠原は、莉子の目が鋭く光ったのに気づいた。江戸末期、商人。この神社に晴明の式盤が売られた経緯に当てはまる。
丁寧さに欠ける字体、随筆のような文章だった。小笠原は榊の許可を得て、それをデジカメで撮影した。句読点の位置は榊が音読した際におおよそ判った。
翁、四つの數を教へてくれしが、小作居眠りをしたりてよく聞きたらざりき。床屋の家をとぶらひてから、指示を仰ぎたるほどに翁の言ひしことも判らむと思ひたりき。
庄屋、早口にうちいでき。大より小へ並べ、小より大へ並べ、その差が出づれば、また同じ。やがて右手を寅の顔に、二度と放さず歩きてゆかばよし。
翁教へてくれしを知らざらば庄屋の指示は心得られず。小作、居眠りするべきにあらざりきと思ふ。
榊が現代語に訳して説明してくれた。
翁は四つの数を教えてくれたが、小作は居眠りをしていてよく聞いていなかった。
小作は庄屋の家を訪ねた後でも、指示を仰いでいるうちに翁の言ったことも判るだろうと思っていた。
庄屋は早口にしゃべった。「大から小へ並べ、小から大へ並べ、その差が出たら、また同じ(ことをする)。その後で右手を虎の顔に(這わせ)、二度と放さず歩いていけばよい」
翁が教えてくれたことを知らなければ庄屋の指示は理解できない。小作は、居眠りするべきではなかったと思う。
榊は苦笑ぎみにいった。「読んで字のごとくです。商人に仕えるからには、主人のいうことをしっかり拝聴せねば仕事にならないし、なにより主人のことをよく知らねばならない、そういう意味です」
莉子はたずねた。「『大から小へ並べ......』のくだりには、やや具体めいた指示がありますけど、どんな意味なんですか」
「そこが小作にわからなかったからこそ教訓なんでしょう。冒頭で『四つの数』なるものが教えられているんですが、小作はきいてなかったんです」
麻耶が隣りの屏風を指さした。「こっちにも書がありますけど」
小笠原は目を向けた。〝小作、今度こそ言ひつけを守らむとせちなる心ばせになりき......〟とある。全文はさっきの屏風の書よりもさらに短かった。念のため、そっちもデジカメにおさめておく。
榊がその屏風の冒頭を指さした。「小作は今度こそ言いつけを守ろうと熱心な気持ちになって......で始まる、教訓のつづきです。やはり雇い主のことを熟知しておくべきという心得でしょう。正直、これらふたつの屏風は文化財の指定もないし、仕舞いこんでおいてもかまわなかったんですがね。宝物殿に展示する物が足りなくて、この辺りに何か大きな物があったほうがいいと禰宜が判断しまして。がっかりなさったでしょう?」
莉子は微笑した。「いえ。おおいに参考になりましたよ。では古墳のほうにまいりましょう」
亥趙塚古墳は前方後円墳だったが、構造上顕著な特徴があった。前方部から後円部に登るための隆起斜道という歩道の途中に、後円部のなかに入るための通用口が開いている。そこから地下におりると、途方もない迷路が広がっていた。
小笠原はこの遺跡を訪ねるのは初めてだったが、地階に入ったとたん、そのスケール感に圧倒された。
見学時間帯なだけに大勢の観光客が行き来している。懐中電灯は必要なかった。隅々まで明るく照らしだされている。東西南北、見る限り果てしなく通路がつづいていた。地下商店街を彷彿とさせる眺めだが、むろんここには店舗など存在しない。四角く切りだした大小の岩を隙間なく敷き詰めた、堅牢そうな石垣の壁が伸びるばかりだった。
宮司の榊が壁を指さした。「大昔は、かがり火があちこちに設置してあったそうです。いまはご覧のとおり照明が入ってます。空調も稼働してます」
麻耶がうなずいた。「えらい涼しいのはそのせいやね。ちょっと冷えすぎかもわからん。ジャケット着てこんかったの失敗やった」
莉子は温度を気にかけてはいないらしい。壁の低い位置に、さらに小さな通用口があるのを見てつぶやいた。「ここから下におりていけるんですか?」
「いかにも」榊がうなずいた。「それは降口といって、この地下通路に八十九か所もあります。いずれもそれぞれ、地下二階の円形をした部屋に通じてます。ただ、そっちには見るべき物もないし、照明も入ってなければ安全確認もされてないので、いまは一般客の立ち入りを禁止してます」
たしかにその〝降口〟にはロープが張ってあった。ほかにも通路の行く手に同じくロープで封印された区画がある。小笠原は榊にきいた。「あれも進入禁止ってことでしょうか」
「そうですよ。崩れかかってますから、修復が終わるまではね。さっき連絡をいただいてから、うちの警備員であのなかを調べたんですけど......。壁にも床の石板にも、異状はみられませんでしたね」
麻耶が不服そうにいった。「でも、瞬さんはきのうの午後も、あのなかに入ろうとして警備員に引き留められたんでしょ? 床下に隠し部屋でも見つけたんかも......」
榊は笑った。「ナンセンスですよ。あの区画はむしろ工事のために業者がしっかり調べてますから、そんな仕掛けがあれば判明してます。まず真っ先に床の強度検査から入りますからね。超音波で空間の有無も確かめます。何もありませんでしたよ」
莉子は辺りを見まわした。「どの方角もおんなじ眺めばかりで、方向感覚がおかしくなりそう。墓壙はどこに......?」
「それが」と榊はいった。「墓壙となる石室はこの通路とは別に、後円部の丘陵の頂上付近にありましてね。ここはおそらく祭祀用土器をおさめるための空間だったといわれてます」
「土器はぜんぶ取り除かれてしまってるんですね」
「ええ。けれども、壁の彫刻は外せずにそのままになってます。案内しましょう。こちらですよ」
榊につづいて歩きだす。通路は平安京の道に似て等間隔に十字路もしくはT字路が存在し、方角さえ判明していれば迷いこむこともなさそうだった。ただし面積は相当なもので、奥まで達するにもそこから戻るにも、かなりの時間を要すると思われた。
「ここですよ」と榊が足をとめた。
壁ぎわに小さな動物の顔が横並びに彫りこまれている。肩の高さの位置、ひとつの顔のサイズは直径十センチほど。鼠、牛、虎、兎......。十二支が揃っていた。
莉子は神妙につぶやいた。「精巧ですね。どんな動物なのかもはっきりわかるし。埴輪の時代の物とは思えませんね」
「ええ」と榊が同意をしめしてきた。「この辺りは四宮や髭茶屋追分に通じる東海道の街道筋だったので、江戸時代にも飛脚や参勤交代で大勢の人が訪れたようです。そのころには地下通路も神社の一部として活用していたらしく、これら干支はその名残りでしょう」
「江戸の人たちは遺跡に手を加えることに躊躇しなかったみたいですね」莉子は虎の顔に右手を這わせた。
小笠原はデジカメの液晶画面に、さっき撮影した屏風の画像を表示した。「『やがて右手を虎の顔に』とあるね」
「そう」莉子は虎に右手をあてたまま、身体を左に向かせた。「二度と放さず歩きてゆかばよし......。壁のこの高さに右手を這わせたまま歩くという意味なら、当然、方向はこっちになる」
「......待ってよ。屏風の書が式盤の隠し場所をしめす暗号かい? そんなクイズみたいな手がかりを遺すかな」
「クイズじゃないのよ。後世に伝えるためのヒントでもない。これは宮牧さんの通帳入れの工夫と同じよ。暗証番号を忘れないためのメモがわり」
「あの Far Bee ってやつ?」
「ええ。江戸末期に式盤を入手したここの神主さんは、たぶん時代から考えても祭政一致の新政府に取りあげられないよう、一時的に隠しただけと思うの。つまり後日、自分で取りだせるようにしておいたのね。でもその隠し場所をどう記録しておくかか悩みのタネだった。メモ書きは紛失するかもしれない。他人に見つけられても困る。かといって複雑に暗号化しすぎたら、自分でも判らなくなるかも。だから逆に、人目につくところに堂々と掲げることにしたの。一見しただけなら別の物に思えるかたちでね」
「それがあの屏風の随筆ってことか」
「現代に至っても式盤は発見されていないんだから、当時の神主さんが隠し場所に仕舞いこんだままの可能性が高い。水無施住職はそこに目をつけたのよ」
莉子は万歩計を取りだし、リセットして腰のベルトに装着した。
それを見て、小笠原はふと思いついた。「歩数か。この虎の顔をスタート位置にして、右手を壁に這わせたまま歩けばいいってことだな」
「そう。水無施住職もそのことに気づいたからこそ万歩計を買ったのよ。歩数こそが当時の神主さんにとっての暗証番号だったわけ」
「だけど」小笠原は液晶画面を見つめた。「小作が翁にきいた、四つの数ってのが不明だよ」
「問題はそこよ」莉子はため息をついた。「後半には『大より小へ並べ、小より大へ並べ、その差が出づれば』とあるでしょう。そのくだりは計算式だと思うの。でも、元の数字がわからないかぎり計算しようがない」
小笠原は困惑とともに辺りを見まわした。「まいったな。どこかに四つの数は......。榊さん、それらしきものは何か伝わってませんか?」
榊は首を横に振った。「数なんて曖昧なものは、把握しきれていませんし......。社殿の柱の数とか、門扉の鋲の数も対象になりますか? 数えてまわるだけでも大変ですよ」
麻耶がじれったそうにいった。「それじゃ時間がかかりすぎるでしょう。瞬さんを助けなあかんのに」
なんの根拠もなく、漠然と四つの数字を探し求めたところで見つかるはずもない。答えの照合のためにもいちいち歩いてみなければならず、現実的ではなかった。いったいどうすれば......。
莉子は右手を虎の顔にあてたまま、そこから何か感じ取るかのように目を閉じた。
往来する観光客の賑わいのなかでも、莉子の集中力はかき乱されることはないようだった。表情は眠ったように穏やかだった。瞑想にふけっているようにさえ見えてくる。
やがて、莉子の目が開いた。すぐさま足早に歩きだす。
あわてて小笠原は歩調を合わせた。「どうしたの? 数がわかったとか?」
「六千百七十四歩。それが答えよ」
「なんだって!? どうしてそういいきれる?」
「あの屏風の書は暗証番号を忘れないためのメモなのよ。見たら思いだせるようになっている。代入する数字が別途必要なわけがない」
「けど、四つの数は不明なんだし......」
「いいえ。そこが当時の神主さんの知恵よ。前提となる数がわからないから、誰もが思考停止に至る。けれどもそうじゃなかったの。どんな数字でもいいから代入してみればいい。小笠原さん。なんでもいいから四つの数をいって」
「ええと......。じゃあ8219」
「『大より小へ並べ』だから、大きい数から順に並べ直すの」
「9821だな」
「次に『小より大へ並べ』」
「1289か」
「『その差が出づれば』だから、大きいほうから小さいほうを引くのよ」
「......8532」
「『また同じ』とあるから、同じことを繰り返すのよ。大きい数から並べて、その逆に小さい数から並べて、差を求める」
「8532から2358を引いて......。6174! ま、マジで?」
後ろをついてきた麻耶も別の数字で試していたらしい。指折り数えながら計算にふけっているようすだったが、やがて目を丸くしていった。「ほんまや! 六千百七十四になった」
莉子は歩を緩めなかった。角にさしかかるたび、右手を壁に這わせた状態、すなわち右に折れて突き進んだ。「四つとも同じ数なら計算しようがないけど、それ以外ならどんな四桁だろうと、書に指定された計算式を何度か繰り返していけば六千百七十四にたどり着くの。当時の神主さんは歩数を忘れても、書に従って簡単に算出できるようにしておいたのよ」
小笠原は遅れまいと必死に莉子に並んで歩きながら、デジカメの液晶画面を見つめた。
翁、四つの數を教へてくれしが、小作居眠りをしたりてよく聞きたらざりき。床屋の家をとぶらひてから、指示を仰ぎたるほどに翁の言ひしことも判らむと思ひたりき。
庄屋、早口にうちいでき。大より小へ並べ、小より大へ並べ、その差が出づれば、また同じ。やがて右手を寅の顔に、二度と放さず歩きてゆかばよし。
翁教へてくれしを知らざらば庄屋の指示は心得られず。小作、居眠りするべきにあらざりきと思ふ。
この文章から6174という数字を導きだしたのか......。なんという思考回路だろう。
京サイコロにいかさまを仕込んだ水無施瞬は、間違いなく数字に強い。莉子はそうではないと彼女自身が嘆いていた。しかし莉子は、いまこの瞬間に弱点を克服した。加えて、洞察力にも磨きがかかっている。あきらかに進歩し、成長し、発達していた。
やがて行く手に、ロープによって遮られた立ち入り禁止区画が出現した。
莉子は懇願するような面持ちで榊を振りかえった。
榊は戸惑ったように立ちつくしていたが、やがて吹っ切れたように前方に躍りでると、ロープを外した。「あなたに賭けてみます。ひょっとしたら世紀の大発見かもしれませんからね」
「ありがとうございます、榊さん」莉子はほっとしたように微笑を浮かべ、ふたたび歩きだした。
「気をつけてくださいよ。崩落の危険があります。なるべく早く通り抜けてください」
水無施瞬はこの制限された場所に立ち入ろうとして制止されたというが、式盤がそこに隠されているわけではなかった。彼も莉子と同じように、右手を壁に這わせ六千百七十四歩を踏破しようと試みていただけだった。
立ち入り禁止区画を抜けて、T字路にさしかかる。健康に必要な歩数は一日一万歩というが、速いペースで突き進むうちに息切れがしてきた。涼しかったはずの通路もいまや蒸し暑い。額に汗がにじむ。莉子は一定の歩幅を維持しようと努力しているらしく、そのせいで疲労も多く蓄積しているようだった。
かつての神主は、万が一にも式盤を隠した位置を忘れたときの非常手段として、あの屏風の書を作成したにすぎない。すなわち彼が場所を覚えている限りは、こんな努力は必要ない。あるいは、やはりこの〝暗証番号〟による位置の想起は面倒すぎて、それが式盤を放置する理由だったかもしれない。そう信じられるほどに大変な道のりだった。
時間に余裕さえあれば、途中で歩数をマーキングして休憩に行き、また戻って歩きだすこともできる。でも、それは不可能だった。水無施瞬が帰還しない、何が起きたかわからない。一刻も早く発見せねば。
莉子はもう、右手を壁に這わせてはいなかった。それがルートをしめす指示とわかった以上は、手を放していてもかまわないだろう。地下二階への〝降口〟も無視して歩いた。虎の顔の高さに右手を這わすという前提に従えば、それより低い位置にある開口部分は道筋の対象外になる。莉子はそう判断したらしい。
一時間ほどが経過した。莉子は肩で息をしながら万歩計を見た。「ちょうど六千歩。あと百七十四歩」
ペースがさらにあがった。すれちがう観光客たちが、なにごとかと眉をひそめる。宮司をひとり含む競歩のような集団は異様に違いない。小笠原は体力に自信があるほうだったが、それでも脚が棒になりつつあった。工具を詰めたバッグもいっそう重く感じられる。
ここでへこたれるわけにはいかなかった。ふらつく麻耶に手を貸しながら前進をつづける。ゴールはもう目前だった。
莉子が歩きながらいった。「あと十歩......。五歩。四、三、二、一......。着いたぁ!」
立ちどまったその場所には、降口がひとつぽっかりと開いていた。
榊がロープを外しにかかった。「南西の角から数えて三十一番目の降口ですな。なかには何もないはずですが」
小笠原は姿勢を低くして、最初に降口をくぐった。真っ暗だった。バッグから懐中電灯を取りだしてスイッチをいれる。
通路のエアコンがいかに高性能だったかわかる。そこから外れたとたん、濁った空気を吸いこんだ。じめじめした湿気、異常とも思える高温。清掃もなされていない。壁面の石垣は苔で埋め尽くされていた。
ぬかるんだ足場はすぐ下り階段につながっていて、それも十数段で地下二階に達している。直径二十メートルほどの円形の部屋が見下ろせた。石畳のようだが、何も置かれてはいない。
だいぶ絞りこまれたが、まだ面積としてはかなりのものだ。ここからどうするか......。
背後で麻耶がいった。「もうひとつの屏風の書が関係あるんやない?」
そうだ。隣りに展示されていた書。小笠原はデジカメの液晶表示を切り替えた。
小作、今度こそ言ひつけを守らむとせちなる心ばせになりき。
されど、翁の歳の数のみ段を下り右に、そこよりなほ翁の歳の数のみ左に沿はねばならざるとのことなりき。
歳すら判らざる有様に、小作うたて思ふ。
榊が疲れきった顔でいった。「さっきの書のつづきですよ。やはり単純明快な教訓話にすぎないと思ってたんですが......」
これまでの解釈による現代語訳を、榊はきかせてくれた。
(庄屋から散々怒られた後)小作は今度こそ言いつけを守ろうと熱心な気持ちになった。
しかし(庄屋が言うには)翁の歳の数だけ階段を下り右の壁に沿って歩き、そこからやはり翁の歳の数だけ左の壁に沿って歩かねばならないとのことだった。
(翁の指示を聞いていなかったばかりか)翁の歳すら判らない有様で、小作は自分を情けなく思う。
小笠原はつぶやいた。「翁の歳の数だけ......か。これまた元の数がわからないな」
莉子は先に立って階段を下りだした。「さっきと同じ。思いついた数を代入すればいいのよ。みなさんもそうして」
翁というからにはそれなりに歳をとっているのだろう。小笠原は六十一と考えた。歩数を数えながら階段を一段ずつ下りて、そこから書の指示に従い、壁沿いに右回りに歩いていく。
六十一に達した時点で向きを変え、今度は左回りに歩いた。周りを見ると、莉子や麻耶もそれぞれ別の場所で進路を変えて逆方向に歩きだしている。
ふたたび円形の部屋をぐるぐると回りつづけた。やがて歩数が六十一に達した。小笠原は立ちどまった。
すると、莉子と麻耶、榊がそれぞれに追いついてきて、同じ場所で静止した。全員が驚いた顔を見合わせる。
榊が首を傾げた。「私は、翁は七十八歳と考えたが......。みなさんもそうですか」
「いいえ」と麻耶がいった。「五十五歳と思ったんやけど」
莉子はひとりすました顔で告げた。「いまわかった。どんな数字を代入しようと、終着点はここになるのよ。あの階段は十七段ある。部屋に降り立った時点で十七歩を消化してる。そこから右へ残りの歩数をまわり、次に左に同じだけまわれば、翁の年齢が何歳だろうがかならずここに着く。階段から左に十七歩のこの位置に」
なるほど。これも具体的な歩数を書かずにおくための、当時の神主の工夫だったわけだ。
小笠原は床を照らした。莉子が石板をひとつずつ踏みしめていく。
やがて莉子は顔をあげた。「この一枚だけぐらついてる」
「よし」小笠原はバッグを投げだし、バールを取りだした。
石板の縁に、いかにもここに道具を差しこんでくれといわんばかりの隙間がある。これが幕末の神主のこしらえた金庫か。小笠原はぐいと力をこめて、てこの要領で石板を持ちあげた。
開口部分のすぐ下に鎖が垂れさがっているのがみえた。人の手が入っている。間違いない、ここが隠し場所だ。
ところが、喜びを味わうよりも前に、異様なにおいが鼻をついた。甘酸っぱい梅、もしくはアンズの香り......。
とたんに麻耶がむせだした。榊も咳きこんだ。
どうしたのだろう。妙に思った瞬間、小笠原も呼吸器系に異常を覚えた。胸が苦しくなり、息が詰まる。
なんだ? いったい何が起きたんだ。
莉子が怒鳴った。「青酸ガス! 早く上にあがって」
なぜだ。どうしてこんなところに毒性を帯びた気体が発生する。
小笠原は穴のなかを懐中電灯で照らした。と同時に、朦朧としかけた意識が一瞬にして覚醒するほどの戦慄が走った。
穴底を埋め尽くす枯れ草。そこに仰向けに横たわるひとりの男......。
迷ってなどいられなかった。小笠原は懐中電灯を口にくわえ、穴のなかに身を躍らせた。
莉子の叫びが耳に届いた。「小笠原さん!」
だが、その莉子は麻耶と榊に手を引かれ、階段に連れ去られていく。穴底に下りる寸前、小笠原は視界の端にとらえた。
ふたりとも、莉子を放すな。小笠原は強く念じながら未知の暗がりに飛びこんだ。
咳がとまらない。莉子はげほげほとむせながら、降口から地下通路に連れだされた。
麻耶とともに壁ぎわにぐったりと座りこむ。息を吸うことにさえためらいを覚えるが、ここの空気は澄んでいた。刺激臭もない。エアコンが充分に機能しているせいだった。
榊は血相を変えて壁の消火栓に飛びつき、非常ベルのボタンを押した。けたたましい鐘の音が鳴り響き、観光客たちが怯えた表情で辺りを見まわす。駆けつけた警備員に、榊が怒鳴った。避難誘導しろ。それから、降口を塞ぐ板を持ってこい。
かすれた声で麻耶がささやいた。「何なん? 毒ガス発生器が仕込んであるなんてきいてへんし」
莉子はいった。「機械じゃないのよ。牧草が発酵して青酸ガスが発生したの。青酸化合物は自然界にもあるの。サトウキビの葉とか、イネ科のモロコシにも」
警備員が何枚も木板を運んできた。それを降口にあてがい、ガムテープを張りめぐらそうとしている。
「待って」莉子はあわてて跳ね起きた。「まだ小笠原さんがでてきてない」
榊が怒鳴りかえした。「このままにしておいたら、通路じゅうにガスが充満するでしょう」
「狭い穴底のなかに蓄積されてたぶんが噴出しただけです。シアン化水素は空気より軽いから少量なら天井にのぼって、空調の働きによって排出されるはず。それより地下室を密閉しないで。お願い」
そのとき、降口から人影が転げだしてきた。
小笠原がひとりの男の腕を肩にまわし、担ぎあげながら這いだしてくる。
「瞬さん!」麻耶の悲鳴に似た声が響いた。
意識を失っているようすの水無施をごろりと仰向けに寝かせてから、小笠原はそこから離れた場所に突っ伏した。
血の気がひく思いだった。莉子は駆け寄った。「小笠原さん」
すると小笠原は、咳きこみながら四つん這いに起きあがった。
「だいじょうぶ」小笠原はなおもむせていたが、莉子を見かえしていった。「それより、お土産があるんだけどさ。鍋敷にでもどうかな」
小笠原はそういって、腹の下にあった金属板を差しだしてきた。
黄金いろに輝く正方形、幾何学模様の繊細な装飾が施されている。莉子は震える手でそれを受け取った。
ずしりと重い純金製だった。特徴的な五芒星が目を惹く。文献にある通りのデザイン。安倍晴明の六壬式盤、本物に間違いなかった。
寝そべったまま小笠原は笑いを浮かべた。「晴明の道具なだけに、占いも当たりそうだね。明日はいいことあるかな」
「......さあね」莉子はにじみだした涙をこらえながら、笑いかえした。「使い方わかんないし」
観音菩薩
ひどい震動のせいで、水無施瞬の意識は戻りつつあった。ぼんやりと目が開く。まず見えてきたのは、夕闇せまる空だった。それ以外には何もない。
あの世か、とふと思った。仏教の教義はあるていど正しかったのか。
しかしすぐに、視界に麻耶の顔が入った。麻耶は不安そうな顔で覗きこみながら、ささやきかけた。「だいじょうぶ? 瞬さん」
その顔を見つめかえすうちに、少しずつ現状が判明してきた。僕はまだ生きている。仰向けに寝ている。この揺れは担架か、いやキャスター付きのストレッチャーだ。
黄昏どきを迎えた亥趙塚神社前、鳥居の外に広がる駐車場に人だかりができていた。
野次馬が取り巻くなかに一台の救急車が停まっている。後部ドアを跳ねあげて、瞬を迎えいれようとしていた。
瞬はつぶやいた。「いったい、ここで何を......」
麻耶はにっこりと微笑んだ。「心配せんでええよ。ぜんぶわかってるけど......。うち、瞬さんと一緒にいるから」
思考はまだ鈍かった。それでもおぼろにひとつのかたちをとりはじめる。
「......麻耶」瞬はいった。「僕は晴明の式盤を......この手に握ったんだよ」
すると、麻耶の顔から笑みが消えた。麻耶は静かに告げてきた。「この神社の物やて。盗みだしたらあかんよ」
ああ、そうか......。すべては公の知ることになってしまったんだ。音隠寺に代々伝わる寺宝などと偽ることはできない。発見は無意味だった。
「瞬さん」麻耶は険しい表情で告げてきた。「あんたはアホや」
「な......なんだって?」
「どうしようもないアホで、世間知らずで、卑怯な盗人で、詐欺師で......。けど、うちにはよくわかってんの」麻耶は涙声になった。「あんたがどれだけ両親と、うちのことを想っててくれたか......。だから最初からやり直したい。ふたりで、世間に通じるまっとうな生き方で歩んでいきたい」
麻耶......。
なにも言葉にできない。麻耶の頬に涙が流れ落ちるのを、黙って見ているしかなかった。
将来の裕福な暮らしを約束した。だから苦労をかけることはいっさいないと確信していた。でもそれは思い違いだった。慢心が、将来の妻への負担になっていた。
僕は、間違っていたのか。ようやくその疑問が胸をかすめる。
同時に、そんな自分を見放さずにいた麻耶、そして両親の存在が愛おしく思えてくる。どうして誰もが健気に僕の行いを容認してくれていたのだろう。尊敬を集めていたわけではなかった。経営の手腕を買ってくれていたわけでもないのだろう。だとするなら、なぜ。
救急車の近くまできて、ストレッチャーは停まった。麻耶の隣りに、もうひとりの女性が姿を現した。
「り」瞬はつぶやいた。「凜田さん......」
莉子は微風のごとく涼しげな、安らぎに満ちた顔でいった。「仏様はどこにいると思う?」
「......ほ、仏様?」
「雲の上なら飛行機から見えるはず。もっと高いところといえば宇宙だし、無重力空間だから胡坐をかいて座れるはずもない。空気もないのにどうやって息をしているのか長年の疑問だったんでしょう。水無施さんの」
住職ではなく水無施さんといった。もはや住職とはみなしていないのだろう。それも仕方がないことだ。けれども、いま莉子が挙げ連ねた事柄の数々には、妙な懐かしさを覚える。
きいたことのある問答だ。いや、幼いころから貧乏寺を営むに父に対し、瞬が何度となく投げかけた問いだった。
「きみは」と瞬はきいた。「それらについて、疑念はないのか」
「ええ、ちっとも」莉子は静かにいった。「わたしまだ小さかったころ、おばあが答えをだしてくれたから」
「へえ......。きみのおばあさんは、どんなことを......?」
「仏様は、わたしたちひとりひとりの心のなかにいるって。願いや希望が理外の理によって叶うと信じるときが、わずか数秒でもあるなら、そのとき人は仏様の存在を受けいれている。教義を虚構の潤色にすぎないと断じて演技に徹することが、僧侶の仕事ではないでしょう。心のなかの仏様と対話できる人こそ、真の僧侶じゃないんですか」
「迷いがないね......。きみは現実主義者だと思ってたけど、じつは信心深いんだな」
「あなただってそうですよ。水無施さん」
「......何が?」
「市原市の〝奈良の大仏〟の肩にあった文字、削り取ろうと思えばできたでしょう? 式盤をどうあっても自分の物にすると決意したなら、当然そうすべきだったはず。でもあなたは、そんなことはしなかった。仏様が尊い存在だと、心の奥底で感じていたから......。傷つけられなかった」
「穿ち過ぎだよ。いまさらバチあたりかどうかなんて、気にかけちゃいなかった」
「そう?」莉子はじっと見つめてきた。「水無施さん。わたしにはずっと不思議だったんです。瀬戸内さんがどうしてあなたのような人を雇用して、なにもかも教えたのかって」
「彼のような人格者じゃなくて、さぞがっかりしたろうな」
「初めはね。でもいまは違います。あなたは瀬戸内さんにそっくりです。自分と、家族と、社会の三者すべてに理想を実現させたいと願う人だった。そのために生じる歪みは、詐術によって埋め合わせできると考えた」
「詐術......か。きみにしてみればそうかもしれない。でも僕にとっては、目標に近づくための知恵と工夫だったんだよ」
「瀬戸内さんも自分の行いについてそう考えていたでしょう。けど、結局は過ちに気づかされた。まやかしは現実にはならない。人々を欺いて世が一時その色に染まったとしても、それはあなたがそう見せているだけのこと。無理が生じ、幻影はやがて雲散する。真相が知れ渡ったら、あなたのみならず、家族をも苦しめることになる」
瞬は視線を麻耶に移した。いまにも涙が零れ落ちそうな麻耶の瞳は、無限の情を湛えてみえた。
莉子は静かにいった。「まだ理想に生きていたころの瀬戸内さんは、あなたに同じ信念と可能性をみいだして、未来に導こうとした。その指南には、瀬戸内さん自身が内包していた矛盾も含まれていた」
「きみはその矛盾についてのみ、受容しなかったのか」そうつぶやいたとき、瞬の脳裏にひとつの考えが浮かんだ。「ひょっとして、瀬戸内店長が自首したってのは......」
沈黙が返答のようだった。莉子は無言で見かえすのみだった。
そうだったか。瞬はため息とともに虚空を眺めた。
師と仰いだ人物のトリックを看破したのは、ほかならぬこの女性だった。彼女とめぐり会ったとき、僕の運命はきまっていたのかもしれない。
しかし......。どちらが正しいのかはまだわからない。真っ当に生きようとすれば世に翻弄され、身も心も擦り減らし、ゆくゆくは社会の犠牲になる。そんな虚無こそ、むしろ瞬は信念の支えとしてきた。
瞬はきいた。「まっすぐでいられるのは、きみのおばあさんや、ご家族の影響かな」
莉子はその問いには答えなかった。「水無施さん。欺瞞をひとかけらも残さない域に達してこそ、理想の実現でしょう。長い道のりですけど、歩んでいかなければ......。わたしはそう思います」
瞬は言葉を失っていた。
黄昏の空を背にして優しく語りかける莉子の姿は、古い仏画で見た観音菩薩そのものに思えた。彼女は、何もかも見透かしている。僕のこれまでの行いも、そこに生じてきた迷いも。
そしていま、莉子はひとつの回答に僕を導こうとしている。その行き着く先にあるものは、どうしようもない正しさに溢れた真理に相違なかった。
僕は生命をつなぎとめた。いまもなお生かされている。この女性によって......。
「感謝するよ」瞬は自分のささやきを耳にした。「助けてくれて」
莉子の顔に微笑が浮かんだ。「お礼をいうべきはあの人ですよ」
瞬はわずかに頭を起こし、莉子が指さしたほうを見つめた。
救急隊員の向こうにたたずむひとりの男。小笠原がこちらを見かえしていた。
ふたたび空を仰いで、瞬はまたため息をついた。
「だいじょうぶかな」と瞬はつぶやいた。
「なにが?」莉子がきいてきた。
「いや......。きみは立派な人だ。彼はそんなきみに、どのていど......」
その先はいわずにおこうと決めた。答えを知りたいような知りたくないような、複雑な気持ち。みずからの心情に折り合いがついていない、そう思ったからだった。
ところが莉子は、わずかに悪戯っぽくみえる笑みを浮かべた。「水無施さん。小笠原さんを試したでしょう?」
「......何の話だ?」
莉子は黙って、薄汚れた厚紙の筒を取りだした。
すぐにそれが筒ではないと気づいた。変形して反っているだけだ。例の、鴨川に投げ捨てた短冊だった。
確実なる物証......か。瞬は思わず笑った。たしかにそうだ。小笠原悠斗の莉子への想いの強さをしめす、なによりの証拠に違いない。
案外、頼りになるんだな。小笠原という男は。瞬はそう思った。
ストレッチャーが救急車のなかに搬入された。オレンジいろに染まった空は、味気ない車内の天井にすげ替わった。
麻耶が乗りこんできて瞬に寄り添う。救急隊員たちがせわしなく動きまわる。
瞬は、車外で見送りに立つ莉子を見つめた。宮司や小笠原を伴ってたたずむその姿は、まさしく三尊の仏像に似ていた。
閉じていく後部ドアの向こうに、過去が溶けて消え去る。意識が停滞し、眠気を覚えた。抵抗をやめて思考を休め、すなおに目を閉じる。まぶたの裏の静謐に横たわる闇に身をゆだねるのは、いつ以来のことだろう。かねてから求めつづけてやまなかった、人並みの安息がここにはある。
免罪試験
退院した翌日、水無施瞬は音隠寺本堂の南東、高桜堂二階の広間にいた。
袈裟は着用せず私服姿だった。もっともきょうは、訪ねてきた僧侶や神主の全員がそうだった。京都神社仏閣の代表、主要な宗派の責任者ばかり九人がずらりと座っている。彼らはみな、ワイシャツにジャケットを羽織っていた。ネクタイはしていない者が多い。それだけ訪問先に対する敬意が失われていると考えるべきだろう。
瞬は苦言を呈さなかった。やむをえないことと甘んじて受けいれるしかない。黙って畳を見つめるばかりの時間が過ぎた。
九人の代表に絞りこまれても、いまだに瞬は彼らがどの寺社に属する人物なのか、それぞれどんな役職なのかを把握していなかった。袈裟や衣冠を身につけていないとあっては、寺か神社かの判別も難しい。坊主頭か否かで見極めたいところだが、高齢者が多いせいもあってみな頭髪が薄く、根拠にはならない。
彼らは無言を貫く瞬を無視するかのように、自分たちだけで協議を進めていた。ひとりが野太い声で告げる。「警察のほうは水無施住職を厳重注意処分にしたとか」
別の男性が不満そうに唸った。「不起訴とは生ぬるい。亥趙塚古墳に盗みに入ったのは明白なのに」
「まあそこは、こちらにおられる凜田先生のご尽力により、寺社間の対立や紛糾を避けられたことの副作用みたいなものですからな。致し方ないことでしょう。晴明の式盤をめぐって泥沼の争いに突入したら、マスコミのいい餌食ですよ」
「そこにおられる記者の小笠原君は、スキャンダル記事を書くつもりはないと確約してくれたがね」
凜田莉子と小笠原悠斗は恐縮した面持ちで、九人の寺社代表から少し離れた場所に座っていた。ふたりはきょうの会合の予定をきき、みずからすすんでこの場に来てくれた。瞬にとっては数少ない味方、この場におけるたったふたりの弁護人だった。
「さて」どこかの住職らしき男性がいった。「式盤は晴明神社に奉納されることがきまり、この音隠寺の土地と建物を買い取る寺も決定して、京の都は平穏を取り戻しつつあるわけだが......。どうにも気になることがあってね。水無施住職、というより廃業されるわけだから元住職というべきだが、過去に僧侶として修行を積まれたのか? それとも単に僧侶を演じていたにすぎなかったのか? そこんところが疑問でね」
ほかの八人は一様にうなずいた。うちひとりが告げる。「本来は僧侶だったというのなら、行き過ぎた面があったとしても、教義を広めたい野心に裏打ちされたものとして、まあ大目に見ることもできましょう。けれども本物の僧侶でないというのなら......」
「たんなる詐欺師だな」別のひとりがつぶやいた。「単立なのだから僧侶と名乗れば僧侶、実態はそんなに甘くない。一時的にせよ、京の寺社のなかで勢力を拡大できたのは、それなりのバックグラウンドがあると誰もが信じたからだ。われわれを振りまわしたからには、元住職のお立場にも相応の裏付けがあったと考えたいところだが」
最年長らしき男性がじっと瞬を見つめてきた。「お聞きしたい。あなたはひとりの僧侶として、京都の寺社に対し尊厳を持って接してきたのですかな」
「......はい」瞬は小声で応じた。いまさらこの状況で、違うといえるはずもない。
「なら、われわれがどの寺社のいかなる宗派の人間か、よくご存じでしょうな」
瞬は絶句せざるをえなかった。
九人は見くだすような視線を投げかけてきている。すでにこちらの正体に気づいているようだった。
ひとりが低い声でいった。「もし知らぬのに知っているふりをしているだけと判明したら、あきらかな詐欺師として告発も辞さない。私はそう考えますが」
全員が首を縦に振り、同意をしめしてきた。
まずい......。いよいよ年貢の納め時か。大衆を欺くのに必要とされる知識以外の学習には徹底的に無頓着だった、そのツケがまわってきた。
寺社の代表たちは、瞬が詐欺師だという証拠を欲しがっている。音隠寺なる目の上のたんこぶが消え去ったいま、その元住職も社会的に葬り去ってしまいたい、そんな残酷な思惑が見え隠れしている。
逃れられない運命。瞬は喉元に刃を突きつけられた気がした。
するとそのとき、莉子がいった。「お待ちください。みなさんのお役職やお名前がひとつでも思いだせなかったら、水無施さんは断罪に値する......。そうおっしゃっているようにも思えますが」
年配の男性が苦い顔をした。「そうはいってないよ。度忘れも多少はあるかもしれないし、ひとりぐらいは覚えきれていない顔もあるかもしれん。しかし私なら、本日どんな寺社がご出席か一覧をいただけたら、ここにいる全員がそれぞれどこにお勤めなのか、すべて申しあげられる」
莉子はうなずいた。「水無施さんにも、それぐらいのヒントは与えられてしかるべきでしょう。違いますか? それとも一字一句間違いなく寺社や宗派、役職について挙げられるのが当然でしょうか」
九人は黙りこんだ。視線が交錯し合う。誰もがそこまでの自信はないらしい。
やがて莉子は、広間の片隅にあった仏壇に赴き、引き出しから一枚の紙と筆ペンを取りだした。「水無施さん。これ使ってもいいですか」
「え......。ああ」
莉子は紙を折った。縦方向と横方向、それぞれ等間隔に二本ずつ折り目をいれた。紙は縦横に三つずつ、九つの同じ面積に区分された。
その紙と筆ペンを、莉子は一番端の男性に渡した。「ご自身のお名前と寺社をお書きください」
「なるほど」男性は笑いながらそれを受け取った。「名称一覧を作って、水無施元住職に見てもらうわけか。それならさすがに、われわれがどんな立場か判らなければおかしい」
男性は紙に筆を走らせた。筆記具は隣りの人物に渡される。そこでも同じことがおこなわれた。九つあるマスのどこに書いているのかは、瞬の目にもあきらかだったが、記している文字までは読めない。さらに全員が書き終わったとき、最後の男性が折り目に沿って紙を裂き、九枚を混ぜ合わせてしまった。
九枚の紙片が瞬のもとに届けられる。一枚にひとつずつ寺社名や役職名が書いてある。瞬は、どの名が誰を表しているのかまったく知らなかった。
「さあ」男性が高飛車に告げてきた。「われわれについて答えていただこう。まずは私からだ。そこにある寺社の名称のうち、私はどこの人間かな」
瞬は莉子を見た。莉子はすまし顔をしていたが、口もとはかすかに歪んでいた。
それから瞬は九人を見渡した。思わず笑いがこぼれる。不敵かつ不遜な態度に見えたのだろう、誰もが一様に表情を凍りつかせた。
メッセージ
雲ひとつない青空のひろがる朝、京都駅八条口前のロータリーで、タクシーは歩道に寄せて停車した。
降り立った小笠原は車体の後ろにまわり、トランクから荷物を取りだしては地面に下ろした。滞在が長引いたせいで、河原町で衣料品をたくさん買いこんでしまった。どこまで経費が認められるか怪しいが、とりあえず領収書の束は失くさずに会社まで届けねばならない。
荷物が増えたのは小笠原だけではなかった。莉子も大きなスポーツバッグや手提げ袋を山ほど抱えて、後部座席から這いだしてくる。
小笠原はいった。「新幹線の網棚に積みきれないよ。郵送したら?」
莉子は笑顔で応じた。「脚の下に置けばなんとかなるって。小豆豆腐が崩れるのもやだし」
「寺や神社の人たちがくれたお土産、ぜんぶ持ってこなくても......」
「せっかく貰ったのに捨てられないでしょう。賞味期限までに食べきれるかな。金閣寺銘菓の金鹿ってのが美味しいの」
荷物のなかから仕事に関する物を選り分ける。封筒におさまった数枚のメモリーカードを確認して、小笠原はため息をついた。「画像と原稿、結局これっぽっちか。記事に採用されるかな」
「あれだけ頑張ったんだから巻頭特集でしょう」
「どうかな。根拠になる物が何もないんだよ。短冊はぼろぼろになっちゃったし、水無施さんはインタビューに応じてくれないし」
「でも事実についてはむしろ公表してほしいって、水無施さんはいってたでしょう」
たしかにそうきいた。けれども、彼はどこまで本気だったのだろう。小笠原は首をかしげざるをえなかった。
寺を廃業して一家で幸せに暮らすのは結構だが、世間への説明責任をどうとらえているのだろうか。事実をあきらかにすることを『週刊角川』に委ねるのなら、あのワイヤレスプリンターを仕込んだ祈願箱ぐらい提供してくれればいいのに。現状では憶測記事と揶揄されても仕方がない。
小笠原はタクシーに支払いを済ませると、荷物をまとめながらつぶやいた。「水無施さんも命拾いしたよな。九人の寺社の代表について顔と名前が一致したおかげで、それ以上の糾弾を受けずに済んだ。ああみえて業界のことはそれなりに勉強してたんだな」
すると莉子が意味深げな笑みを浮かべた。「さあ......。どうかしら」
「え? でも水無施さんはあのテストに全問正解して......」
「紙を縦横三つずつ、計九つに切断したら、それぞれの紙片の切れ目はどうなると思う?」
紙片の切れ目だって?
「......あ」小笠原は息を呑んだ。「ま、まさか......」
「そう。九枚とも切れ目の位置はすべて異なってくる。元の紙で上段の一番左だった紙片は、右端と下端が切れ目になる。上段真ん中の紙片は、上端を除く三辺すべてが切れ目。上段右の紙片は左端と下端が切れ目。中段左の紙片は左端を除く三辺がぜんぶ切れ目......」
「なるほどなぁ。九人がそれぞれどのマス目に書きこんだかは、水無施さんも見て把握してた。だから九枚が切り離されて混ぜられても、切れ目の位置で識別できたんだ。どの紙片が誰に渡っていたかを......。凜田さん。水無施瞬のいんちきに手を貸したのかい?」
莉子はとぼけたような態度をしめした。「わたしは何も......。ただ紙を折って渡しただけだし」
いや......。莉子は確信していたのだろう。あのように折り目をつけて九人にまわせば、最終的に九枚の紙片に切断し、シャッフルすることが最も適切な行為になる。むしろ、莉子がそう仕向けたも同然だった。
さすが数々のペテンで世間を煙に巻いた水無施瞬、事前の打ち合わせはなくとも、莉子の持ちかけたテストにどんな意味があるか即座に理解したらしい。彼は九人が書きこむマス目をしっかりチェックしていた。莉子とは暗黙のうちに心が通じ合っていた。
軽い嫉妬に似た感情を覚えながら、小笠原はあえて愚痴っぽくいった。「寺社の人たちを欺くなんて。そうまでして水無施さんを助けなくても」
「麻耶さんとご両親のため」莉子は微笑した。「それに、水無施さん自身の今後のためでもあるの。目的は正しかった。やり方を間違っただけの人だから......。宗教から離れても、きっとこれから先、世に貢献する仕事を始めるでしょう」
「だといいんだけどね」
「さあ、行きましょう。新幹線の自由席、空いてるかな」莉子は荷物を肩に掲げて、駅のエントランスへと歩きだした。
小笠原もそれにつづこうとしたとき、制服姿の男性に声をかけられた。「小笠原様?」
「はい?」小笠原は男性を見た。見知らぬ顔だった。タクシーの列を整理する職員らしい。
職員は大きな段ボール箱を差しだしてきた。「これ、あなたへの贈り物だそうですよ」
「......誰から?」
「さあ。お名前はおききしませんでしたけど。ついさっきのことです」
妙に思いながら、そのずしりと重い箱を地面に置く。また荷物が増えたか。ガムテープを剥がして蓋を開けた。
とたんに小笠原は凍りついた。
祈願箱。音隠寺で見かけたあのいわくつきの代物が、段ボール箱のなかにおさまっていた。
小刻みに振動している。手を這わせてみると、内部で機械が作動している感触があった。バッテリーを内蔵しているらしい。
やがて箱の震えは消えた。引き出しに指をかけて、ゆっくりと手前に引く。すると......。
巻いた和紙がおさまっていた。封蝋、いや、そう見せかけたシールにより封印されている。取りだして開いてみた。丁寧な字が筆で綴られていた。
以下の両名の将来における婚姻を祈願申し上げます
小笠原悠斗 凜田莉子
はっとして身体を起こす。ロータリーの向こう、八条通に重低音が轟いている。オレンジいろのランボルギーニの車体が、滑るように走り去っていくのが見えた。
唖然としながら、しばしその行方を見守る。小笠原は我を忘れて立ちつくしていた。
莉子の声が耳に飛びこんできた。「小笠原さん。どうしたの。早く」
「あ」小笠原はとっさに手もとの紙を丸めた。「ああ。すぐに行くよ」
両手いっぱいの荷物に段ボール箱まで携えて、小笠原は駆けだした。
思わず苦笑が漏れる。最後まで悪戯好きな男だ。
京都の夏は限りなく暑く、人の動きもせわしない。それでも吹きつける風は常に爽やかで、忘れかけていた素朴な感慨を想起させる。少年のころ、こんな夏の日がたしかにあった。きっとまたふたりで戻ってこよう。祈願文が成就したときに。


万能鑑定士Qの事件簿 12
一九七八年の出来事(関東通信社まとめ)
三月九日───フランスのファッションブランド、ルイ・ヴィトンが日本に進出。高島屋や西武百貨店内に支店を設ける。三年後には銀座に初めての独立した直営店舗を築く。
四月六日───池袋にサンシャイン60がオープン。当時、アジア一の高さを誇り、エレベーターも世界最速だった。六階から六十階までの窓ガラスの総数は三千百九十枚、一枚あたり百五十万円と非常に高価だった。
八月十二日──福田赳夫政権の下で日中平和友好条約が締結された。
八月十八日──アメリカ商務省の輸送機がイギリス南西部上空を通過中にトラブル。貨物室のハッチが破損、積んであった段ボール箱が破れて中身が空中に散乱したと報告するも、後日商務省はこれを否定。危険物だったのではないかと憶測が飛び交う。
十月二日───歌手の浜崎あゆみさんが福岡県福岡市にて生誕。一九九八年前後に社会現象といえるブームを巻き起こして以来、現在に至るまで絶大な人気を誇る。
十月七日───『太陽の塔』作者の芸術家、岡本太郎さんがスペインのマヨルカ島で、ショパンが愛用したピアノを弾く。
またこの年、『太陽の塔』がある万国博覧会跡地に、万博記念公園に隣接して千里住宅公園がオープン。ランドマークといえる『太陽の塔』を囲んで、公園周辺が閑静な高級住宅街として栄える。
現在
大阪の千里ニュータウンに住んで宝塚に通う身には、東京都心部はひどく勝手が違う。早くもエスカレーターで右に寄って顰蹙を買ってしまった。
朝の通勤ラッシュの時間帯を過ぎていたが、飯田橋駅周辺は異常とも思えるほどの混雑がつづいていた。道という道に人が行き交っている。
それでも立ちどまっているわけにはいかなかった。アパレルメーカーに就職して六年目、二十八歳になる蓬莱浩志は、電柱の住所表記のみを頼りにお濠沿いを駆けていった。
やがて神田川と交わるあたりの商店街のなかに、雑居ビル一階のテナントを見つけた。小ぶりながら美容サロンを思わせる洒落た店構え。壁に嵌めこまれた看板には〝万能鑑定士Q〟の文字があった。
あれか。蓬莱は乱れた息を整えながら歩を緩めた。辺りを見まわし、追手がいないことを確認してから、店の真向かいになにげなくたたずむ。
ガラス張りの店に映りこむ自分の姿を確認する。
会社の指導に従って清潔にまとめた髪、痩せ細った身体に一張羅のスーツ。就職活動のころを思い起こさせる、頼りなさそうではかなげな自分がそこにいた。
視点をガラスの向こうに移すと、対照的に華やかな世界が目に入る。シンプルモダンでまとめあげたスタイリッシュな内装だった。
艶消しのアルミとガラスを使った、無機質でシャープな印象の家具類。わずかに青みがかった透明なデスク、黒革張りの椅子に彼女の姿があった。ついいましがた訪ねてきたばかりの女性客と挨拶を交わしている。
万能鑑定士Q店主、凜田莉子。年齢は二十三ときいている。見た目はずっと若く十代のようですらあった。スマートで、腕も脚も長いモデル体型。ゆったりとしたポンチョ風ブラウスも自然な装いに感じられる。
顔は驚くほど小さく、猫のように大きくつぶらな瞳が特徴的だった。ゆるいウェーブのロングヘアに絶妙にマッチしている。少女のようなかわいらしさと、妙に大人びた美人の横顔が入り混じった、どこか個性に満ちた面立ちをしていた。
店内には莉子の助手のような若い男性もいた。
こちらは会社員っぽいスーツ姿で、長身で痩せている。年齢は蓬莱よりいくつか下ぐらいだろう。髪は今風に長くしていて、わずかに褐色に染めてあった。細面で鼻が高く、あごは女のように小さいが、れっきとした男だった。ジュノンボーイ風のルックスながら、性格はおとなしい草食系という印象でもある。
微風が蓬莱の頬を撫でていく。関東はすっかり秋めいて涼しくなっていた。店舗としても節電のためには外の風を吹きこませたほうがいいのだろう、自動ドアは開放されている。そのおかげで店内の会話がきこえてきた。
男性が来客の若い女性を指し示しながら、莉子に紹介している。「こちらは山崎優香さん。うちの女性誌の編集者だよ」
うちの......。というと、男性も出版関係の人間なのだろうか。
優香と呼ばれた女性が、いかにも高そうなハンドバッグを差しだした。「あのう、見ていただきたいのはこれなんです」
光沢を放つ黒革、エルメスのケリーにも似た形状だが、シャネルのロゴ入りだった。
莉子はそれを受けとった。「シャネルの新しい人気商品、アメデですね。早くも使いこんだらしく底がたわんでいる。それも左のほうに偏ってますね。なかは空っぽですか。......おや、同じくシャネルの金いろのピアスが入ってますね。ふたつ揃ってる」
「そうですか。気づきませんでした。そっちもまだピカピカの新品ですね」
「ええ。でもこのバッグ、どうしたんでしょう。あちこちに折り曲げた痕がありますよ。裏地にボールペンで小さく落書きもあります。『43』って」
「じつはですね、ゴミ箱に捨ててあったんです」
「ゴミ箱......?」
「ええ。うちのファッションモデル十八人が、いま近くのフォトスタジオで撮影中なんです。その彼女たちの共同の控室で見つけました。非常に高価なものだし、いじめかトラブルでもあったのかと思い、心配になりまして。誰の物か、まだわからないんですが」
すぐさま莉子は引き出しから定規を取りだして、ハンドバッグのあちこちにあてがった。
「8センチ、14センチ、7センチか......。合計に3を掛けて87。本物ですね」
優香が微笑した。「ゆうベテレビで観ました。本物のアメデは全種類、鎖とロゴと持ち手の縦の長さを足し合わせてタグの幅を掛けると、かならず87になるそうですね」
「その通りです。ご安心ください、モデルさん同士のトラブルじゃありませんよ。ただ、持ち主だったモデルさんが自分で捨てたんです。iフォーンを使ってて、自前のメイク用品を多めに持ってて、左利きの人。モデルさんのなかにいます?」
「え」優香は目を丸くした。「たしかにいますけど、でもどうして......?」
「そのモデルさんはきのうの番組の情報に基づいてバッグを測り、偽物だと思いこんで、怒って捨てちゃったんです。8+14+7、×3。普通の電卓を使えばちゃんと87になるのに、iフォーンの電卓アプリでは違った答えになるんです。43に」
男性が驚いたようすで、上着のポケットからiフォーンを取りだした。「ほんとに?」
莉子はうなずいた。「iフォーンでは計算式上と同様、足し算より掛け算が優先されるの。頭にきて、ほとんど衝動的に合計数をバッグに殴り書きして、ゴミ箱にねじこんだ。常時かなり重い物をいれていたようですけど、右腕にかけていたから、本人からみて左に傾きがちなのでそっちに底がたわんだ。左利きです」
iフォーンをいじっていた男性が感嘆の声をあげた。「ほんとだ。43になった」
優香はあわてたように、自分のカバンからプロフィール写真の束を取りだした。「おっしゃる条件に該当するのは......このふたりだと思います。リカコとサヤカ」
「なら答えは歴然としてます。リカコさんです。そのお写真、ピアスやネックレスなど十八金のアクセサリーしか身につけてませんね。サヤカさんのほうはそうではないから、金属アレルギーとすればリカコさんでしょう」
「金属アレルギーって......?」
「シャネルのピアスはゴールドに見えても十八金じゃありません。バッグと同時に購入したけど肌に合わず、一緒に捨てたんでしょう。本人にきけばわかりますよ。それに、なるべく早く知らせてあげるべきです。このアメデは本物だって」
優香は目を輝かせて立ちあがった。「わかりました、ただちにそうします。本当にありがとうございます、凜田先生」
しきりに頭をさげながら、優香は外に飛びだしてきた。蓬莱のわきを駆け抜けて、商店街を走り去っていく。
蓬莱は呆然としていた。なんという広範な知識、そして分析力......。やはり噂は本当だった。頼るべきは彼女をおいてほかにない。
店内では、ふいに莉子が自分のブレスレットに目を向けた。
男性がきいた。「どうしたの?」
「ケータイにメールが着信したみたい。これ、ブルートゥース・ブレスレットなの。振動して知らせてくれるのよ」
「へえ。便利だね」
「着信以外にも、携帯電話から十メートル離れると震えるの。置き忘れ防止に最適。ええと、ケータイどこに仕舞ったかな」
ぐずぐずしてはいられなかった。先約が入る前に話をせねば。蓬莱は意を決して戸口に踏みいった。「お、おはようございます」
「いらっしゃいませ......」莉子は面食らった顔をして立ちあがった。黒目がちな瞳に驚きのいろがひろがっている。「どうされたんですか?」
「え? なにが?」
「汗びっしょりだし、息を切らしておいでなので」
ああ......。蓬莱は額に手をやった。まだ呼吸を整えきれていなかったようだ。走ったせいばかりではない、気持ちが急いているからだろう。
莉子がキャビネットに向き直った。「お水を......」
「いえ」蓬莱はあわてていった。「それより、どうか話をきいてくれませんか。初めは日本橋の調査会社を訪ねたんですが、まだ開いてなくて。で、雨森華蓮の贋作事件を解決したって記事を思いだして、凜田先生なら耳を傾けてくださるんじゃないかと」
「......とにかく、おかけください。関西方面からおいでになるなんて、よほど重要な用件なんでしょう」
「え!? 標準語のアクセントには自信があったんですが......」
「日本橋を〝にっぽんばし〟とおっしゃったから」
「そっか、なるほど......。自覚してなかったな」
「けさ到着されたんですか? 何を鑑定しましょうか」
「順を追ってお話しします」蓬莱は、男性の存在が気になった。「こちらのかたは......?」
莉子は微笑とともに紹介してきた。「記者の小笠原さんです」
小笠原は愛想よくおじぎをした。「『週刊角川』の小笠原悠斗といいます」
「あー、凜田先生に関する記事をお書きになった......。若い人だとは思わなかった」
「内密なご相談なら席を外しますけど」小笠原は自動ドアに向かいかけた。
「いや、そこにいてください。公平な目で見ていただき、なんなら記事に活かしてください。僕としては、ひとりでも多くの味方がほしいところでして」
莉子が心配そうにいった。「ずいぶん切実なごようすですけど......」
「ええ、とても」蓬莱は額の汗をぬぐった。ふたりとも年下のようだが、依頼する立場であるからにはもちろん敬語で話すべきだろう。「凜田先生。『太陽の塔』はご存じですか」
「岡本太郎作の......」
「そう。それです」
「一九七〇年の万博終了後、会場のあらゆる施設が取り壊されたなか、地域住民の強い希望で現在も万博公園に残されているそうですね。見たことはないんですけど」
小笠原はしばしiフォーンを操作していたが、やがて液晶画面をこちらに向けた。「これですね」
ネットで検索したらしい。目に馴染んだ独特のフォルムを真正面からとらえた画像が映しだされていた。
高さは七十メートルもある。形状は徳利に近く、基底部の直径は二十メートルだが、上にいくほど細くなっている。
ボトルネックは手前方向に直角に折れて、その先に金色の〝顔〟が嵌めてある。
この顔は仮面に似た前衛的かつ抽象的なデザインだが、胴体腹部の正面に存在するもうひとつの顔のほうは、わりと具体的な目鼻立ちを備えていた。それでも岡本太郎が心酔していたピカソの影響がみられ、どちらかというとしかめっ面に見える。
顔の左右から斜め上方に向けて両腕らしきものが伸びていた。この腕の長さは二十五メートル。オバケのQ太郎のように腕の先は尖っていて、手や指はない。
異様で異質、いちど見たら忘れられない、強烈な印象を残す巨大像。それが『太陽の塔』だった。
万博当時、塔の周辺広場は、銀色のトラスで構築された〝大屋根〟で覆われていた。この塔は大屋根にぽっかり空いた穴から、上半分を突きだすかたちで建っていたという。
むろん蓬莱は、写真でしかそのようすを知らない。
半年前に結婚し、妻とともに万博公園の近所に住むことになった蓬莱にしてみれば、『太陽の塔』は広大な芝生にたたずむシュールな建造物にほかならなかった。
蓬莱はいった。「妻と一緒に公園を散歩して、初めて近くで見たときにはそのでかさに圧倒されました。写真の印象よりずっと大きいんです。エヴァにでてくる使徒、あるいは怪獣って感じで、いまにも動きだしそうな迫力で......。けれども、そのときはなかには入れなかったので、万博ではパビリオンのひとつとして出入りできたとは知りませんでした」
莉子がうなずいた。「このあいだテレビのニュースで観ました。ずっと閉鎖されていたけど、最近になって改装や耐震工事がおこなわれて、招待客向けに内部の公開が始まったとか。なかに万博当時の展示物が残っているんですね。近いうち一般の見学も可能になるといってました」
「そうなんですよ」蓬莱は思わず身を乗りだした。「きいてください。異常な事態が発生したのは、そのニュースを観た翌朝のことなんです」
ニュース番組
その日の夜九時過ぎ、NHKのニュースが全国に放送したのは、万博当時を彷彿とさせる鮮やかで艶やかな『太陽の塔』内部の映像だった。
一九七〇年代のサイケな色彩がそのまま蘇えり、視界を覆い尽くす。塔のなかは最上部まで吹き抜けになっていた。
内壁は真っ赤な鱗模様。空間の中心部には芯のように、ひょろりとした〝生命の樹〟なるモニュメントが頭上高くそびえている。黒い幹から青、黄、緑の原色をした枝が、蛇のごとくうねりながら放射状に伸びていた。〝生命の樹〟には、生物の進化をかたどったエキゾチックなオブジェの数々がまとわりつくように飾られ、上に行くにつれて現代へと近づいていく。それらのオブジェは機械仕掛けで動き、光り、音を発する。
NHKのキャスターの声が、塔内部の映像に重なった。「ご覧のように構造自体は、高層ホテルやデパートの中央にあるエスカレーター・ホールに、きわめて近いものです」

〝生命の樹〟に並行して、壁ぎわをエスカレーターが何度も折り返しながらのぼっていく。
一基のエスカレーターの長さも通常の規格通りだが、踊り場で回れ右をして、次のエスカレーターに乗り継ぐことになる。
吹き抜けであるがゆえにフロアは存在しない。踊り場はすべて、わずかな柱と梁のみに支えられた狭いバルコニーでしかない。見学者はこのエスカレーターをのぼりながら、〝生命の樹〟に展示された進化の歴史を目にしていくことになる。
ふたたびNHKのキャスターの声が説明した。「最下層は海ユリや太陽虫やクラゲなどの原始生物。実物よりずっと巨大化して作られています。そこから少しあがって三葉虫やアンモナイト。魚類、両生類。第三エスカレーターの高さからは恐竜、第四エスカレーター以降はマンモスやゴリラ、そしてネアンデルタール人に遭遇します」
五つの踊り場を経て、見学者は空中廊下に至る。
そこから水平方向に移動し、塔の〝右腕〟のなかに伸びる最後のエスカレーターで、腕の先にある出口から大屋根の通路へとはきだされる。
ここでキャスターの声は過去に触れた。「万博終了後、希望者にのみ内部を見学させることはありましたが、照明は灯っておらずエスカレーターやオブジェも稼働していませんでした。上にのぼることも禁止されていました。大屋根がなくなった以上、腕の先の出口も閉鎖されました。階上に非常口が設けられないため、消防署の指導に基づき一階以外に立ちいることは禁止されていたのです」

けれども、今回は様相が異なる。大阪府は巨額の予算をかけ、この偉大なる〝遺跡〟の本格的なリニューアルオープンに踏みきった。
まず、塔の〝右腕〟の先から地上まで、下り専用の螺旋階段を設けることによって出口を復活させた。
この螺旋階段は、ビルの外壁にある非常階段と同じく剥きだしの鉄骨で組まれているが、そのぶん公園周辺の展望も楽しみながら下りられる。
同時に、塔の内部において、太陽光を模して真上から降り注ぐ白熱灯を含む、すべての照明をキセノンからLEDへと新調した。エスカレーターの電動機やオブジェの油圧装置を取り替え、テクノロジーを許されるかぎり最新のものに改めた。
壁面および〝生命の樹〟も塗装しなおした結果、四十一年前の万博当時の光景が色鮮やかに再現されるに至った。
とはいえ、展示物が〝生命の樹〟だけではいささか寂しいため、今回の公開については新たな展示スペースが設置された。
一階のエスカレーター前には一九七〇年代の、アメリカとソビエトの宇宙開発や航空技術競争で生みだされた、さまざまなデバイスが展示されている。
大きい物でも三十センチ四方ぐらい、ほとんどは小型部品ばかりで、ひどく錆びついているうえに用途もはっきりしない。それでも、NASAやUSSRの表記が往年の面影をしのばせる。
NHKニュースはこの日、アメリカ大使館を通じて外交官グループに混じり見学に訪れたオーガスティン・ハリス工学教授(56)を映しだしていた。
ハリス教授はマサチューセッツ工科大卒、博士号を取得し、長年NASAの技術顧問を務めた人物だった。かつてのスぺース・シャトル計画において、宇宙空間で作業可能なロボット・アームの設計に、多大な貢献をしたことで知られる。
ふだんからあまりユーモアを口にしない、生真面目な性格で知られるというハリスは、この日も『太陽の塔』内部に足を踏みいれてもにこりともしなかった。一階の展示コーナーも、眉間に皺を寄せて険しい顔で見いっていた。
ハリスは大阪府職員の案内でエスカレーターをのぼったが、五層目の踊り場の新しい展示物には、強い興味を惹かれたようだった。
それは今回の『太陽の塔』復興にも尽力した永友エンジニアリングによる、新開発の産業用ロボット〝PD1プロトタイプ〟だった。
映像に重ねて、キャスターの声が解説した。「かつて万博は、科学と未来技術の見本市でした。今回もそれに倣い、最新のテクノロジーが展示されることになりました」
永友エンジニアリングといえば、水平多関節ロボットの設計と開発で有名だが、このPD1なるマシンは形状も大きさも自動販売機然としていて、ロボットらしさは皆無だった。
高さ二メートル、幅と奥行きはいずれも一メートルの直方体。装飾らしきものはいっさいない。
技術者はハリス教授の求めに応じ、マシンの内部構造を見せた。
前面はやはり自動販売機のように扉になっていて、右に百八十度大きく開け放たれる。そのなかは蛇腹の横滑り式の扉になっていて、いくつかの鍵を解錠し、ようやく開けられた。
なかはほとんど空洞だった。奥も観音開きの扉になっていて、それを向こう側に押し開けることにより、筒抜けになる。がらんどうの内部には、鼠一匹潜めるスペースもない。
けれども、このマシンの重要な機構は内壁左側に集中していた。無数の超小型アームがびっしり埋め尽くし、それぞれの先端には蜘蛛の巣もしくは帆船模型のマストのように、数千本の糸が縦横に張りめぐらしてあった。
ハリスはそれらを丹念に観察し、しきりにうなずいた。日本語に堪能なハリスは、NHKのインタビュアーに対しつぶやいた。「なるほど、よくできています。下部の噴出口から空気を吹きだし、空中で繊維を躍らせながら損傷箇所をセンサーが検知、これらのアームが飛びだし裁縫をおこなう。かさばる布をほぐして作業する、画期的なアイディアです。構造もじつによく考え抜かれている。こんな切り口があったか......」
技術者の勧めで、ハリスは自分のハンカチをその場で裂き、内部の底に置いた。
すべての扉が閉じられ、マシンが稼働すること数分。ふたたび扉が開けられると、元の場所にはきちんと折りたたまれたハンカチがあった。
広げてみたところ、破った箇所は一見してそれとわからないほど丁寧に縫い合わされ、修繕されていた。本来の材質に近い糸が自動選択され、布の目に沿って縫うため、非常に美しい仕上がりとなる。
技術大国日本の誇りともいえる最先端工学。永友エンジニアリングは一般公開までに、さらに画期的な展示用マシンをいくつか追加する方針だという。
見学を終えたハリス教授は、外の螺旋階段を降りきったころには、すこぶる上機嫌のようすだった。
インタビューに応じ、ハリスはいった。「万博のシンボルを復興させた大阪府、そして展示品を手がけた技術者のみなさんに敬意を表したい。偉大な芸術家、岡本太郎氏の歴史に残る建造物で、来訪者は一九七〇年と同様に、現在の視点から未来を目にすることでしょう。さらなる展示が充実する一般公開が楽しみです」
万博公園から歩いて五分、3LDKの一戸建てに住む蓬莱浩志は、リビングで夜食をとりながらこのニュースを観ていた。
「へえ」と浩志は声をあげた。「塔のなか、あないなふうになっとったんか。知らんかったな。万博公園って前に行ったときには閑散としとったけど、いまじゃ賑わっとんのか」
エプロンをつけた妻の蓬莱瑞希も、対面式キッチンから顔をのぞかせてテレビを眺めていた。二十六歳、まだ少女のあどけなさの残る童顔に微笑を浮かべた瑞希がいった。「昼間は、塔の周辺は立ち入り禁止みたいよ。いまのところ招待客にだけ公開してるって」
ふと浩志は、鼻につくにおいを感じた。「なんか、焦げくさないか」
「え、そう?」瑞希は妙な顔をしてキッチンを眺めまわしたが、その目がIHヒーターに向いたとたん、丸く見開かれた。「ああ! やばい」
浩志は立ちあがって、キッチンに駆けていった。フライパンにかけっぱなしの目玉焼きは真っ黒に焼け焦げて、ほとんど炭と化していた。
ヒーターのスイッチを切りながら、浩志はぼやいた。「またかて......。ええ加減、堪忍してほしいわ。食材、無駄にしてばっかりや」
「ごめんなさい」瑞希は情けない顔になった。「やっぱ、料理は浩志さんが受け持ってくれたほうが」
「俺は一日じゅう、会社で頑張ってきとるんやで。家に帰って女房の飯が食えるってのが新婚の楽しみやないか。でもまあ、ええか。明日の晩飯は俺がつくったる」
「やったぁ」と瑞希は能天気にはしやいだ。「じゃあついでにお洗濯も」
「おいおい。調子に乗んなて。......っていいたいところやけど、こないだみたいに瑞希の赤いブラウスと一緒にワイシャツ洗われて、ショッキングピンクに染まっちまう事態もご免こうむりたいしな」
「おおげさよ。パステルピンクだってば。白より顔いろがよく見えるし」
「だからって色合わせにエンジいろのネクタイを買うてくんなて」
「エンジやなくてワインレッド。お洒落」
「冠婚葬祭に着ていけるか。ったくしゃあない、今度だけやぞ。ちょっとずつでええから洗濯のコツとかネットで調べとき」
「そうする。あ、それとデニムのすそ上げも......」
「俺は住みこみのバイトか? まだ子供がおらへんからええけど、そのうち大変なことになるやろ」
「だって昔から家庭科とか苦手やったし。ミシンの使い方もよくわからへんし」
「アイロンのかけ方と服のたたみ方から始めへんとな。まあええ、今度の日曜に一緒にやろう。わかれへんことがあったらなんでもきくように。教えるから」
瑞希はほっとしたように笑みを浮かべた。「さすが浩志さん。頼りになる。大好き」
「おだてんなて」浩志は頭をかきながら食卓に戻った。「『太陽の塔』っていつ一般公開なんやろ。近所なんだし行ってみたいよな。チケット売りが始まったらさっそく買いに行かな」
「あ、それなら」瑞希がキッチンの引き出しから、一枚のチラシを取りだしてきた。「ほら。これ見て」
「なんや?」浩志は受け取ったチラシに目を落とした。「クイズ正解者のかたをもれなく『太陽の塔』内部見学ツアーにご招待......」
「よさそうでしょ? 一般公開は十一月からって話やけど、それ応募しておけば節約にもなるし」
「瑞希が家事をちゃんとこなしてくれれば、そのほうがよっぽど出費を抑えられるよ」
浩志はチラシの問題文を見た。○のなかに適切な一文字をいれてください。ただし、すべての○には同じ文字が入ります。○○×1000=○。
すると瑞希がにんまりして、メモを差しだしてきた。「わたしねー、答えわかっちゃった」
「マジで?」浩志はメモに目を落とした。
10×1000=万。手書きのメモにはそうあった。
げんなりした気分で浩志はいった。「すべての○に同じ字が入るんやて。だいたい、数字と漢字を混ぜるって、そんなわけあるか」
「あー、そうか......。気づかんかった。チケット買わへんで済むと思ったのに」
「こりゃ頑張って働いて、貯金増やしておいたほうがええな。風呂は俺が先に入ってええか?」
「ええけど、入る前に湯船の掃除もしといてくれる?」
浩志はため息まじりにつぶやいた。「まだやってないんか......」
蓬莱浩志は凜田莉子を見つめた。「ここだけ伝えると、妻がなにもできないわがまま娘に思えるでしょうけど、そんなことはないんです。僕の少ない給料をおぎなうために、吹田市立の保育園でパートタイマーをしてるんですよ」
莉子は感心したようにいなずいた。「へえ。たいへんですね。保育士さんってわけじゃないんですか」
「違います。あくまでパートですし、勤務内容は保育補助ってやつで......。朝の七時半から九時半と、夕方の四時半から六時半、それぞれ二時間ずつの出勤になります」
「忙しいでしょうね」
「もう想像以上にハードですよ。最初のころ、僕の会社が休みの日に見に行ったことがあるんですけど、短時間でも充分すぎるぐらいの激務でした。妻も家に帰るやぐったりして、夜食までのあいだ仮眠をとったりしてましたね」
小笠原が微笑した。「旦那さんが晩飯を作ってくれれば、そりゃ嬉しいでしょう」
蓬莱も思わず笑った。「こっちも宝塚から阪急で帰って、くたくたなんですけどね。ただ、問題はそこじゃないんです。事件は、NHKのニュースを観た翌朝に起きたんです......」
事件
午前七時すぎ。いつものように朝食を済ませると、瑞希は先に保育園にでかけていった。
浩志のほうは、一時間ほどのんびりと新聞を読んで過ごす余裕があった。北千里駅に向かうのは八時でいい。始発駅だし、かならず座れるのもありがたい。
しかしこの日、浩志は新聞を遠くに押しやり、昨晩のチラシのクイズに取り組むことにした。できれば無料で見学したい。解けるものなら解きたい。
ひと晩ぐっすり眠ったせいか、思考が冴えていた。ふとひとつの可能性が浩志の脳裏に浮かんだ。○のなかのひと文字。アルファベットならどうだろう。
そこから先は、答えに達するまで数秒とかからなかった。mだ。mm×1000=m。
浩志は有頂天になり、さっそく葉書を取りだしてきて、必要事項とともに答えを記入した。
駅の西口改札前にはたしか郵便ポストがあったはずだが、いますぐにだしたい気分だった。浩志は葉書を手に家をでて、近くのポストに投函にいった。
葉書をだし終えても、まだ電車に乗るまでいくらか時間がある。自然に万博公園に足が向いた。招待客向けに公開が始まった『太陽の塔』のようすを、遠目にでも眺めておきたい。そう感じたからだった。
文字通り万博の跡地を整備した公園はじつに広大で、見渡す限りの芝生の広場のみならず、グラウンドやスポーツ施設、文化施設などを敷地に含んでいる。入園料は大人二百五十円だが、開園時刻は午前九時半だった。当然、なかにはまだ入れない。『太陽の塔』を間近に見るのは無理だった。
巨大な塔だけに遠くからでも望めるが、できるだけ近く、それも正面からとなると、大阪モノレールの万博記念公園駅方面だろう。
そう思って浩志は公園を囲む歩道をぐるりと巡り、陸橋をのぼると、ひとけのない駅前にやってきた。正面ゲートは閉じているし、切符販売の窓口もオープンしていないが、鉄格子の向こうに園内のようすを眺められた。
芝生の茂る緩やかな丘陵の向こう、『太陽の塔』はそびえていた。あいかわらずの異形の姿ながら、クイズに正解したであろう浩志に対し、両手を広げて歓迎しているようでもあった。右腕の先から真下にまっすぐ螺旋階段がおろされている。このところの通勤でも、塔をたびたび視界の端にとらえていたが、あんなものが設置されていたとは気づかなかった。
しばしその光景に見いっていた、そのときだった。浩志は、遠くに女性の悲鳴に似た叫びをきいた。
空耳か、そう思えるほどの小さな声。かなりの距離があった。公園のなか、芝生の丘の脇に伸びる散策路で、争うように揉みあうふたりが見えていた。
目を向けたとたん、はっと息を呑んだ。手を引かれながらも、身をよじって抵抗している女性。服装にも見覚えがある。でかけるときに着ていたカーディガン姿そのままだった。瑞希に違いない。
「放してよ、どこへ連れてく気?」妻の怒鳴り声が浩志の耳に届いた。
彼女を連れ去ろうとしているのは、警官に似た制服を着た男だった。大柄で屈強そうな体格、年齢は判然としない。男は無言のまま、瑞希をひきずって丘を越えようとしている。
「瑞希!」浩志は呼びかけたが、ふたりの状態に変化はなかった。風は浩志のほうに吹きつけていた。瑞希の声はきこえても、こちらの声は届きにくいのかもしれない。
ふたりの姿が見えなくなっていく。浩志は陸橋から階段を駆け下り、歩道を鉄格子に沿って走った。だが外周の長いこの公園では、どこへ行こうと広場の中心部に近づくことは不可能だった。むしろ芝生の丘陵地帯はどんどん遠ざかり、木立によって視界が遮られた。敷地内のようすはうかがえなくなった。
やがて、来園者用のゲートとは別に、関係者専用とおぼしき小さな通用口にたどり着いた。
そこに立っていた初老の男性が身につけていた制服は、さっき瑞希を連れ去ろうとしていた男のものと同一だった。胸ポケットには、日本統合警備と刺繍してある。あの男は警備員だったのか。
浩志は息を切らしながら警備員に訴えた。「なかに妻が」
「は?」警備員は眉をひそめた。「まだ開園してませんけど」
「わかっとるて。でもおったんや。あんたの仲間に連行されとる」
「連行って......。奥様、公園のなかにお入りになったんですか? どうやって? なぜ入ったんです?」
「知るはずないやろ。なあ、不法侵入なら謝る。けど、こんなことをする妻やないんや。見逃してくれへんか。警察に通報とかせんといてくれ。僕がちゃんと理由をきいて、二度としないようにいってきかすから」
「落ち着いてくださいよ。誰か入りこんだなんて連絡はまだ......。待ってください。確認してみます」
警備員はトランシーバーに呼びかけた。本部どうぞ。こちらに、お連れさんが公園内に侵入したってかたかおいでなんですが。警備に取り押さえられているのを見たそうで。
雑音にまみれてはいたが、応答の声は浩志の耳にも明瞭に届いた。こちらでは、そのような事態は確認しておりません。どうぞ。
困惑顔を向けてきた警備員に、浩志は詰め寄った。「そんなはずない! この目で見た。図体のでかい、太い二の腕の男で......。あんたと同じ制服を着ていた」
すると警備員の表情はいっそう渋いものになった。「誰の話ですか? そんな大男、うちにはいませんよ」
「いない? でもたしかに......」
「ここに採用されるにはね、お客さんに威圧感を与えない風貌でなきゃいけないんです。うちの会社にもプロレスラーみたいなのはいるけど、そういうのはほかの現場にまわされてますよ。万博公園の警備は、私みたいな者ばかりです」
浩志は血管が凍りつくほどの寒気を覚えた。
妻は得体の知れない人物に誘拐された。それも公園内に連れこまれている。
手をこまねいてはいられなかった。浩志は公園の外周を駆けだした。警備員は白い目で見送ったが、かまわない。俺を不審者として通報したければ、そうすればいい。犯人が偽警備員である以上、警戒が強化されるほうがむしろ好ましいとさえ思えた。
まだ歩道には人通りがない。鉄格子の向こうにもひとけはなかった。
ためらいなど生じない。浩志は鉄格子に突進し、跳躍して可能な限り上方にしがみついた。アスレチックは中学校以来だが、まだ腕力と脚力は衰えていなかった。鉄格子を乗り越え、浩志は公園の敷地内に身を躍らせた。
広々とした公園であっても、ほんの数か月前に妻と遊びにきている。迷うはずなかった。
森のなかに伸びる散策路をひたすら駆ける。枝葉の隙間から、斜に構える『太陽の塔』が覘いている。瑞希が連れていかれたのはあの方角だ。塔を目指し走りつづけた。
ときおり足音をききつけるたびに、浩志は立ちどまって物陰に身を隠した。制服の警備員は至るところを巡回している。さっきの警備員がいったように、みな年配かつ小柄だった。大男がいれば目立つはずだ。
妻はどこにいるのだろう。浩志は焦る気持ちを抑えながら、少しずつ『太陽の塔』に接近していった。
以前に公園に来たときの記憶を想起する。『太陽の塔』の前方に広がる芝生地帯は立ち入り禁止であり、来園者が歩けるのは散策路に限られている。
塔の根元は、ぐるりと濠に囲まれていて、手すりが設置されていた。濠のなかには水が張ってあるわけではないが、それなりに深かったことを覚えている。
ただし、肝心の塔の入り口がどこにあったのかは、意識していなかったせいもあり、確認を怠っていた。これから自分の目で探すしかない。
浩志は塔の背後に近づき、木陰に身を潜めてようすをうかがった。
軽トラックが二台停まっている。きょうも招待客向けの公開のために、清掃や点検などの業務がおこなわれているのだろう。塔の周囲の濠には、木製の階段と桟橋が仮設してあった。手すりを越えて濠のなかに下りられるようになっている。側面に横断幕が飾ってあり『一般公開 十一月上旬より』と記してあった。どうやらあれが正規の入り口につづく道のようだ。
開園時間前のせいか、塔周辺の警備は無きに等しかった。ひとりの警備員がうろついていたが、やがて散策路へと歩き去った。業者の姿もいまはない。
なかを確かめるなら、この機は逃せない。浩志は駆けだすと、仮設桟橋の階段を上り下りして濠のなかに侵入した。
入り口は塔の真後ろにあった。意外にも、納戸に用いられるような白木の横板が連なる観音開きの扉だった。塔の外壁にまるでそぐわない、やわな扉。万博終了後に設置されたのかもしれない。
いまは半開きになっていた。浩志はそろそろとなかに踏みいった。
塔の内部は、ゆうベテレビで観たものと寸分たがわなかった。照明も点灯している。深紅に染まった鱗模様の内壁、手前に〝生命の樹〟がそびえ、向かいの壁沿いにエスカレーターがジグザグを描きながら上方へと伸びている。エスカレーターは稼働していた。その物音だけが静寂に響く。
内装のどぎついカラーリングにめまいを覚えながらも、浩志は周囲に視線を走らせた。
誰もいない。足音もなければ話し声ひとつきこえない。思いのほか開けた空間だった。内部の隅々まで見渡せる。人が隠れられるような場所はない......。
そう思ったとき、頭上から悲鳴がきこえた。
驚いて視線をあげると、下から数えて四段目の踊り場、瑞希が手すりから身を乗りだしながら、こちらを見おろしていた。恐怖にひきつった表情で、助けを求め両手を激しく振っている。
大男が一緒にいるかどうか、そこまではたしかめなかった。浩志はすぐさま走りだした。
「瑞希! いま行く」
浩志はエスカレーターを駆けのぼった。テレビを観ていたときには意識しなかったが、エスカレーターは上りのみで、下りは存在しなかった。一方通行のルートだった。
二番目の踊り場をまわり、さらに上へと急ぐ。
〝生命の樹〟と枝の上のオブジェの体積はさほどではない。エスカレーターも宙空に浮くように設置されていた。踊り場も同様だった。すなわち空洞内にはいっさい壁と呼べるものは存在せず、視線が遮られることはない。エスカレーターに乗っているあいだは、頭上のようすは把握できないが、踊り場では斜め上方に目を向けることで確認できる。
上で誰かが動きまわっていればすぐに認知できる。いまのところそんなようすはない。瑞希はまだ四番目の踊り場に留まっているのだろう。そうであってほしい。
エスカレーターはかなりの速さで動いていたが、のんびりと身をまかせてなどいられない。全力で走って、三番目の踊り場を折りかえし、またのぼりだす。やっとのことで、くだんの四番目の踊り場に着いた。
瑞希の姿はなかった。
その限られた面積のバルコニーには、高さ一・五メートルほどの古風な壷と、休憩用の三人掛けソファがあるだけだった。
壷の開口部は広く、屈めば人ひとりがすっぽりおさまりそうなサイズだったが、浩志はなかを覗いて空であることを確認した。
ソファのほうは剥きだしの四本脚で支えられていて、寝そべれば下にひとり隠れられそうだが、そこにも誰もいなかった。クッションや背もたれは薄く、なかに人が潜めるものではない。
瑞希は上に向かったのか。思うが早いか、浩志は第五エスカレーターを駆けあがり、五番目の踊り場に着いた。そこにも瑞希はいなかった。隅に置いてある展示品の陰、手すりとの隙間にまわりこんでみたが、裏側にも誰ひとり潜んではいない。
そこから上は第六エスカレーター、空中廊下に至るのみだった。浩志はのぼった。
塔の両腕内部を水平に結ぶ、幅五メートルほどの渡り廊下。ここにはもう展示物もなければ、柱一本すら存在しない。ただし、ひとりの男がいた。やはり初老で痩せた警備員が、ぽかんとこちらを眺めている。
警備員は怪訝そうにきいてきた。「どちら様でしょうか?」
浩志は注意を怠らなかった。常に手すりから下方に目を配り、誰も一階に降り立っていないことを確かめていた。
顔をあげないまま、浩志は警備員にたずねた。「妻があがってきませんでしたか」
「はあ? いいえ。私はずっとここにいましたけど、誰も......。まだこの先の出口も閉鎖されてますし」
「たしかにいたんですよ。四番目の踊り場に。上昇するしかないんだから、絶対にあがってきているはずです」
スーツを着ていたのがさいわいしたのだろう。どうやら警備員は、浩志を内部関係者と思ったらしい。協力する姿勢をみせてきた。「第四層の踊り場ですか? 確認に下りてみます?」
「うーん」莉子は硬い顔をして、浩志をじっと見つめてきた。「その警備員の提案に従ったんですか? 腕のなかに伸びる出口への通路を確認せずに?」
「そうなんです」浩志はこめかみに滴る汗を拭いながら、ありのままを伝えた。「いまにして思えば、うかつでした。二本の腕の内部をしっかり見ておくべきだった。それに強調しておきたいことがあります。エスカレーターの速度は早く、逆走するのは簡単ではありません。かなりの時間を要するし、なにより足音が盛大に響きます。僕自身が試してみてわかったことです。警備員は呆れたように『お待ちください。エスカレーターを停めますから』といいました」
「停止させたわけですか。すべてのエスカレーターをいちどに?」
「いえ。そんな操作はできないようです。エスカレーターの降り口付近にある、非常停止ボタンを押してくれました。これで第六エスカレーターが停まり、僕は警備員とともに五番目......彼のいう第五層の踊り場に下りました」
「踊り場から外にぶらさがったり、〝生命の樹〟に飛び移ったりすることは......」
「とんでもない! 絶対に無理ですよ。手すりの外側には、つかめる梁とか足場になる支柱とか、いっさいないんです。〝生命の樹〟ともかなり距離がありますし、そのモニュメント自体、人は隠れられません。幹も枝も細いですし」
小笠原が神妙にいった。「でも、恐竜やマンモスのオブジェとか飾ってあるんでしょう? その向こう側にしがみついている可能性もゼロじゃないかも」
「記者さん。実際に『太陽の塔』に入ってみればわかります。第四層の踊り場まで上れば、もう目もくらむ高さです。狭くて助走もつけられないし、手すりもある。トランポリンを持ってきてもジャンプできるとは思えません。だいいち、そんな派手な動きをしていれば目にとまります。僕は移動しながらも絶えず上下左右、隅々にまで注意を向けてたんですから」
莉子がきいてきた。「第五層の踊り場に下りてから、どうされましたか」
「隅に非常用縄梯子のスチール製ボックスがあるのに気づきました。一辺が五十センチほどの立方体です。警備員の許可を得て開けてみると、ロープで金属棒をつないだ縄梯子が入ってました」
「最近取りだされたようすは?」
「わかりません......。雑然と納めてあったので、未使用ではなかったと思います。フックをバルコニーの手すりに掛けて、外に垂らして使うんでしょうが、誰かが下りたのなら別の人間が縄梯子をふたたび箱に戻さなきゃなりません。さっきからいっているように無人でしたから、そんなことは不可能です。なにより、僕が駆けあがっている最中に縄梯子が垂れさがっていれば、絶対に気づきますし」
「たしかにそうですね」
「警備員は展示物も開けてくれました。例のPD1とかいう、自動的に縫製する機械です。テレビで観たように、なかは空洞も同然でした。奥の扉も開けてくれて、筒抜けになってました。文字どおり、鼠一匹潜めません。それからもうひとつ下の踊り場へ下りるために、第五エスカレーターも停止してくれました。そこを下って第四層の踊り場に戻ったんです」
「あなたが奥様を目撃された踊り場ですね」
「ええ。警備員は、僕がついさっき空だとたしかめた壷も、床に寝かせて丹念に調べてくれました。なかを懐中電灯で照らしてみると、外観の印象よりも容積があることかわかりました。中央部分が膨れているからです。でも、そこに瑞希が隠れているわけではありませんでした。実際に私も壷のなかに這って潜りこんで、内壁を撫でまわして確認したんです」
「ソファのほうは......」
「そっちも調べました。警備員がクッションを外して、骨組だけにしてくれました。そこまでしなくても妻がいないことはわかるのですが、警備員は子供が居残ったときや客のペットが逃げだしたときに備えて、確認の手順が決められているといってました」
「床下はどうですか? 隠し扉みたいなものは......」
「歩きまわってみましたが、異状は感じられませんでした。エスカレーターで移動しながら踊り場の床を横から眺めたんですが、頑丈な鉄板一枚が鋼鉄の梁で支えられているだけで、厚みはないも同然でした」
「となると、奥様が向かった場所はひとつだけですね。すでに空中廊下から〝腕〟の内部に入り、出口を目指していたんです」
「当然、そうなります。第一から第四エスカレーターは依然として動きつづけていましたが、そこを警備の責任者があがってきました。制服ではなくスーツ姿、五十歳ぐらいの温和そうな人です。ネームプレートに門井眞とありました。日本統合警備の取締役だそうで」
「捜索はそこで中断させられたとか?」
「いいえ。門井さんは話がわかる人で、警備員が『空中廊下には誰もあがってきていない』と主張しても、念のため調べようといってくれました。停止した第五、第六エスカレーターを歩いてのぼって、ふたたび塔内部の最上段に向かったわけです」
浩志は、空中廊下を塔の〝右腕〟内部へといざなわれた。
円形のトンネルが斜め上方に向かって伸び、しかも奥にいくほど細くなっている。そのなかを上りエスカレーターが稼働していた。内壁は、ジャンボ旅客機の圧力隔壁のごとく縦横に補強用の鉄筋が走らせてある。やはり人が身を隠せそうな空間はない。
エスカレーターをのぼりきると、狭くなったトンネルの先にほんの数メートルの通路があった。
突きあたりには正面から床にかけて弧を描きながら、これも航空機の搭乗ハッチを思わせる頑強な扉がついていた。警備員がハンドルをぐるぐると回し、手前に引いてから横にスライドさせ、開け放った。
その直後、浩志はこの扉がけさ初めて開けられたと確信した。
強風が吹きこんできて、トンネル全体に轟音が響く。気圧も変化したようだ。ドアが開いていたのに、あの静寂が維持できたとは考えにくい。
門井がいった。「外にでてみますか」
浩志はうなずき、門井に従って開口部を抜けた。
まばゆい陽射しに目がくらむ。螺旋階段の最上部はまさに展望台だった。公園ばかりか千里ニュータウン全域を眺め渡せる。浩志はすぐさま、眼下に気を配った。螺旋の中心から垂直に真下を見おろせる。階段は無人だった。そして周辺にも、瑞希らしき人影はなかった。敷地内を巡回する警備員はちらほらと目につくが、例の大男らしき体格は見当たらなかった。
やがて門井が、穏やかに告げてきた。「ドアは内側からしか開きませんし、エスカレーターは常に上り方向に動きつづけています。ここには誰もいなかったし、奥様が外にでてからドアを閉めた者がいるとも思えません」
ふと浩志は気になったことを口にした。「もういっぽうの腕のほうは、どうなってるんですか?」
「空中廊下の逆側ですか? 〝左腕〟も構造はここと同じですが、エスカレーターではなく階段になってます。万博当時、そっちは万一のための非常出口だったんです。でも、いまは大屋根もないですし、こっちのように螺旋階段も設置してませんから、でられませんよ」
「いちおう見せてもらえませんか」浩志は心からいった。瑞希が内部におらず、この〝右腕〟から抜けでた形跡もない。残る可能性は〝左腕〟しかない。
同行した警備員がまた非常停止ボタンを押して、〝右腕〟内のエスカレーターを停めてくれた。徒歩で引き返して、空中廊下を渡る。眼下では依然として第一から第四エスカレーターが動いていた。誰も一階に下りられはしない。
反対側のトンネルへと到達する。門井の説明どおり、黒と赤のツートンカラーの非常階段がトンネルのなかに伸びていた。それをのぼっていくと、さっきよりは簡易的な構造のスチール製ドアに行き着く。
ただし、そのドアは溶接されていた。錆びつき埃が堆積したその一帯には、外気が吹きこんだようすはない。ここにも人の隠れられるスペースはなかった。
浩志は愕然とせざるをえなかった。悪夢でも観ているような現実感のなさを覚えながら、ふらふらと階段を引きかえした。
また空中廊下の手すりから下を見おろすと、警備員とは若干異なる制服が続々と一階に踏みこんできていた。
警官だった。浩志が塔の内部を調べまわっているあいだに、警備本部が通報したのだろう。
すでに第一から第四エスカレーターも停止していた。警官たちを引き連れてずかずかとのぼってくるのは、五十代後半とおぼしき白髪頭の男だった。くたびれたスーツ姿ながら、浅黒い顔には凄味のある皺が年輪のごとく刻みこまれている。刑事に違いなかった。
その刑事は空中廊下に着くと、まっすぐに浩志を睨みつけてきた。「吹田署の柳瀬光彦警部補といいます。あなたが、勝手に公園に入りこんだ人ですか」
浩志が戸惑いを覚えたとき、門井が助け舟をだしてきた。「奥様を追いかけてこられたんですよ。この塔のなかにいるのを目撃されたらしくて」
「ええ」柳瀬は本気にしていないようだった。「連れ去りが発生した可能性ありと連絡を受けたんで、それなりの頭数で駆けつけたんですけどね。外で警備の人にきいたら、まずありえないとかいわれてね」
むっとして浩志は食ってかかった。「誰がいったんですか」
門井が仲裁に入った。「どうか冷静に......。警部補さん。こちらのかたが意味もなく侵入したとは、私には思えません。大阪府主催の催しですし、きょうも招待客向けの公開があります。しっかり調べていただきたいんですけど」
トップが府であると強調されたからだろう、公務員の柳瀬の顔つきが変わった。「むろん、そうさせてもらいますよ。ただ、私たちがあちこち動きまわったり、設備に触ったりしてもいいんですか」
「ええ。私の責任で許可させていただきます。クライアントである府のほうからは、いかなるトラブルも全力で解決しろといわれております。うちの人間も協力しますよ。徹底的に調べましょう」
端から狂言ときめてかかるような柳瀬の態度が気に食わなかったものの、制服警官たちはさすがにプロだった。塔の内部を隈なく動き、人の隠れようのないわずかな物陰であっても見過ごさず、懐中電灯で丹念に調べまわった。
永友エンジニアリングの技術者も、警官たちの求めに応じ説明に奔走していた。〝生命の樹〟のオブジェの電源をいれて作動させたり、展示品を片っぱしから改めたりするのを手伝っている。
万博のパビリオンであったからには、バックステージと呼ぶべき関係者専用区域が存在するのではと浩志は考えたが、この『太陽の塔』に限ってはそうではないようだった。
門井が説明してくれた。かつては存在した来賓用のエレベーターもシャフトごと解体撤去され、監視用の小屋も無くなっている。いまや電源スイッチをまとめたコントロールパネルが壁面に残るのみで、裏方用のスペースはどこにもない。
それが疑いの余地のない事実であることを、浩志は見てとった。一階の床は正円であり、空洞はその頂点まで徳利型の塔の内側だ。隠し部屋があろうはずがない。
地下の展示スペースも閉鎖されていた。
万博当時、『太陽の塔』は地階から一階にあがる順路になっていたらしい。つまり、さっき蓬莱が入ってきた一階の通用口は本来のエントランスではなく、万博の見学客は塔から少し離れた場所で地階に潜り、階段をのぼって塔に入るルートを辿っていた。
いま、その階段の降り口は鉄格子でふさがれている。地下空間はセメントで埋められているというが、暗いためここからは確認できない。ただし、鉄格子の扉には鎖が厳重に巻かれ、南京錠をかけてあるから、なかに侵入できるものではなかった。
ひとしきり捜索がおこなわれたが、結果は芳しくなかった。柳瀬警部補はいっそう渋い顔になり、浩志にたずねてきた。「奥さんの携帯電話は? 連絡してみましたか」
忘れていた。浩志はあわててケータイを取りだし、瑞希の番号にかけた。
だが、応答はなかった。電波の届かないところにおられるか、電源が入っていないためかかりません。空虚なメッセージがかえってくるのみだった。
柳瀬はため息をつき、浩志と門井についてくるようにいって、塔の外へとでた。
開園直前の公園内を、万博記念公園駅方面のゲートに向かって歩く。この遊歩道で瑞希は制服姿の大男に捕まった。あれは断じて幻ではなかった......。
ゲートをでて陸橋を渡り、駅構内に入る。柳瀬がいった。「お若いあなたは知らんでしょうが、万博の開催中に過激派がひとり『太陽の塔』のてっぺんに登りましてね。あの金色の顔の、目のなかで籠城したんですよ。以後は公安の指導もあり、塔を正面からとらえる監視カメラの設置が義務付けられました」
門井がつぶやいた。「噂にはきいてましたが......。この駅にあったんですか」
「吹田署が大阪モノレールに依頼し、間借りしているんです。警察の管理ですからね、信用が置けますよ」
案内されたのは、プラットフォームの端にある警備室だった。ほとんどのモニターは駅構内の監視用だったが、ひとつだけ『太陽の塔』が映しだされた画面があった。
柳瀬が指さした。「うちが自由に操作できるのはこのモニターだけです。HDDの録画を観てみましょう」
日付と時刻表示がスーパーインポーズされた画面。早朝の時間帯まで巻き戻され、そこから早送りで再生される。瑞希が公園内で連れ去られるのを見たのは、まだ七時台だったはずだ。残念ながら、この監視画面は塔だけをとらえていて、地上は映りこんでいない。芝生の丘の出来事も記録されてはいない。
映像はまるで静止画のように変化がないが、流れる雲や陽射しの角度の変化から、時間の推移がかろうじて感じられる。時刻の表示が八時をまわったころ、螺旋階段の最上部に人の動きが見えた。
それは浩志自身だった。門井の姿も見える。さっき〝右腕〟の先まであがって外を確認した、そのときのようすだった。すぐにふたりはなかにひっこんだ。
また変化のない映像がつづいた。螺旋階段を昇降する人間は皆無だった。じきに時刻は現在に達した。再生は終わった。
しんと静まりかえった警備室に、浩志の声だけが響いた。「こんなはずないですよ」
柳瀬はやれやれといいたげに、うつむいて額に手をやっていた。「門井さん。『太陽の塔』内部の防犯カメラの記録は?」
門井は当惑したようすで応じた。「うちの会社としては当然、カメラの設置を要請したんですが、府が難色をしめしたんです。文化的遺産に必要以上に手を加えるなと」
「ないんですか? 一台のカメラも?」
「いえ。見学者を迎える時間帯には、無線CCDカメラをいくつか設置して状況を監視します。ただし、それは防犯というより防災用で、時間外の録画は考慮してませんで......」
浩志の頭のなかは真っ白になった。直後、黒い霧が脳裏を覆い尽くし、果てしない闇が広がっていくように感じた。
妻の身に起きたことを証明するものは何もない。彼女の存在もろとも、忽然と消えうせてしまった。公園内のあちこちにいた警備員の誰ひとり、瑞希の姿を見てもいなければ、声すらもきいていなかった。
この日の午前中にあきらかになったことは、瑞希と連絡がとれなくなったという事実だけだった。
勤め先の保育園にたずねたところ、彼女は何か月も前に辞めたという。パートタイマーとして採用されてからほんの数日で、もうつづけられないと電話があったらしい。
妻に逃げられた夫が公共施設に不法侵入し、騒ぎを起こした。柳瀬はそう考えざるをえないとこぼした。供述に不審なところがあるので任意で取り調べたい。蓬莱浩志が申し渡されたのは、そのひとことだった。
最大の依頼品
莉子は無言で蓬莱浩志の顔を見つめていた。
なんとも不可解な事態ではある。けれども、わたしにできそうなことは何も......。
ふいに蓬莱は真顔で声を張りあげた。「お願いします、凜田先生。どうか力をお貸しください!」
「あ、あのう」莉子は当惑を覚えながらいった。「お気の毒とは思いますけど、人探しはわたしの専門じゃないし......。やはり調査会社に依頼されたほうが」
小笠原がうなずいて同意をしめした。「蓬莱さん。看板にもある通り、凜田さんは鑑定家です。基本どんな物でも受け付けますけど、鑑定家の本業ってのは普通、芸術品の真贋を識別したり......」
「『太陽の塔』は岡本太郎作の芸術品じゃないですか。僕が依頼したいのは『太陽の塔』それ自体の鑑定です!」
莉子は息を呑まざるをえなかった。「と......塔の鑑定、ですか」
「妻はいなくなるはずのない状況で消えたんです。でもそんなはずはありません。構造的に何か見落としているところがあるんです。鑑定でそれを浮き彫りにしてください」
「あのう、蓬莱さん。鑑定というのは普通、持ち主からの依頼でなければ......」
「お願いです。大阪にも風変わりな鑑定家はいますけど、たいてい日用品の善し悪しをアドバイスしてくれるとか、そんな業者ばかりなんです。破れにくいゴミ袋とか、正確な体脂肪率を計れる体重計とか、主婦層にはニーズが高いらしくて。けれども、凜田先生は過去にも刑事事件の解決に貢献したそうじゃないですか。どうか、このとおりです。警察から逃げてきた以上、もはや凜田先生だけが頼りなんです」
逃げてきたって......?
そのとき、店の外でけたたましくブレーキ音がきしんだ。ガラス越しに停車したセダンが見える。黒塗りの車体に赤いパトランプが閃いていた。
そのクルマから誰かが降り立つかと思いきや、近くの電柱の陰からひとりの男が現れて、こちらに近づいてきた。見慣れない白髪頭、いかめしい顔つきをしている。覆面パトカーに対し片手をあげてあいさつをした。どうやら私服警官らしい。
蓬莱がすくみあがった。「来た」
反応から察するに、この人物がさっきの話にでてきた柳瀬なる警部補なのだろう。柳瀬は外にたたずみ、じっとようすをうかがうように鋭い視線を向けてきている。
覆面パトカーからはもうひとり、こちらは馴染みの顔が現れた。年齢は三十代、身体つきは痩せていて、七三に分けた髪も長めにしている。やや面長の馬面だが、もうひとりの刑事と比較すればハンサムと呼べなくもない。とはいえ、目に覇気がなく、無精ひげが生えていて、ネクタイも歪んでいる。服装のだらしなさはいまに始まったことではない。
牛込署の葉山翔太警部補は、先に店内に入ってきた。「お邪魔しますよ。ああ、記者さんもご同席ですか」
莉子は立ちあがった。「おはようございます、葉山さん。何かご用でしょうか」
「ちょっと署のほうに連絡がありましてね。遠方からおみえになった警部補が、所轄の応援を要請してこられたんです。私も初対面なんですが、マークしているのがこの店だというんで、行くように上から命ぜられまして」
小笠原がからかうようにたずねた。「どうして葉山さんが派遣されたんでしょうか」
葉山は硬い顔になった。「いまさらそんなこといいます? 私も好きこのんで来てるわけじゃないんだが、こちらの柳瀬警部補が、店のお客さんに事情聴取したいというんでね」
柳瀬が戸口をくぐって入店した。刺すような視線を蓬莱に投げかける。「おはよう。けさ任意の取り調べに応じるって約束やったのに、なんで出向いてくれへんのですか。どうして私たちを振りきって新幹線に乗ったんです?」
蓬莱も柳瀬を睨みかえした。「あなたのほうこそ、東京まで僕を追いかけてくる暇があったら、瑞希を探してくれたらどうなんです」
「そのつもりですよ。奥さんの失踪についちゃ、あなたがいちばんよく知ってるんじゃないかと思ってね」
「どういう意味ですか?」
「さあね。わからないからお尋ねしたいんです。本当のことを話してもらえませんかね」
「いまのききましたか、凜田先生」蓬莱はすがるようにいった。「説明したとおりでしょう。この刑事さんは僕を疑ってる。瑞希がいなくなったという訴えに耳を貸さないばかりか、僕を容疑者扱いしてるんです」
柳瀬はじれったそうにつぶやいた。「容疑者だなんていってませんよ。強いていえば参考人です。なぜ公園に立ちいってまで、あんなでたらめを並べたてたのか。その理由が知りたいですな」
「でたらめじゃありませんよ。ぜんぶ本当のことです」
「逮捕して事情をきくこともできるんですよ」
莉子は柳瀬を見つめた。「待ってください。容疑者でないとおっしゃったのに、どうして逮捕するんですか?」
「奥さんの行方うんぬん以前に、あきらかに法に抵触してます。営業時間前の万博公園および『太陽の塔』に立ちいっているんでね。住居侵入罪ですよ」
「そうでしょうか。奥様がさらわれそうになっているのを見たというのが事実なら、刑法三十七条一項に該当して、違法性が阻却されるんじゃないですか? やむを得ずに生じさせてしまった損害よりも、防ごうとした損害のほうが大きい場合には犯罪とはならない」
「緊急避難ですか。まあ、蓬莱さんのおっしゃることが事実ならね。でもそれを裏付ける根拠は何もない」
「根拠をしめせば逮捕は諦めてくれますか」
「......何をなさるおつもりですか?」
もう迷ってはいなかった。莉子はきっぱりと告げた。「わたしは蓬莱さんから『太陽の塔』の鑑定依頼を受けました。それが済むまで待っていただけますか」
柳瀬は眉間に皺を寄せた。「あなたが蓬莱さんからどんな依頼を受けたにせよ、私どもの捜査とは無関係です。それに、あなたが『太陽の塔』に立ちいれるかどうかは、私が判断できることじゃないですな」
小笠原がいった。「そこは現地に取材を申しこんで、凜田さんは記者に同行する専門家とすれば問題ありません。きっと受けいれてくれるでしょう。『太陽の塔』の内覧を主催しているのは大阪府なんだし」
「取材......?」
葉山が柳瀬に耳うちした。「彼は『週刊角川』の記者でして......」
莉子は微笑んでみせた。「柳瀬さん。『太陽の塔』の出口はひとつしかない、そこからでた形跡がないから蓬莱さんの供述は信用できない。そう思ってますよね。でも、もし仮に、秘密の出入り口があるとしたら? 塔の〝鑑定〟をお待ちいただいたほうがいいかもしれませんよ」
なおも柳瀬は不服そうな表情を浮かべていたが、葉山が諭すようにひそひそと小声で告げた。「彼女は本庁にも知り合いが多くいまして......。やらせときゃいいんじゃないですか。結果的に柳瀬警部補の読みどおりだと立証される可能性もあるでしょうし」
小笠原が莉子にささやいてきた。「あれで調整役でも務めているつもりかな」
「さあ」莉子はつぶやきかえした。「やらせときゃいいんじゃない」
葉山の放任主義、あるいは事なかれ主義に柳瀬は業を煮やしたようすだったが、それでも強情を張ってばかりもいられないと観念したらしい。柳瀬は莉子にいった。「お好きにどうぞ。でも、蓬莱さんにはただちに地元に戻ってもらいますよ」
「ええ。わたしたちと一緒に行きますから問題ありません」
柳瀬はふんと鼻を鳴らし、戸口に向かいだした。「葉山警部補、ご協力に感謝します。私は大阪に帰らなきゃなりませんので」
すると葉山はさばさばした表情で後につづいた。「たいしてお役に立てず申し訳ありませんな。また東京にいらしたときにスカイツリーでもご案内しますよ。まあ通天閣ほど立派じゃありませんけどね。何百メートルでしたっけ、通天閣の高さは?」
「葉山警部補。あんたまさか、大阪を馬鹿にしとるんやないでしょうね」
ふたりの刑事が外にでると、小笠原も携帯電話を片手に笑顔で駆けだした。「編集長の了解を得てくるよ。凜田さんが同行してくれると急な出張も許可が下りやすいんだ」
店内にはふたりだけが残された。蓬莱は状況の変化についていけないようすで、困惑ぎみにガラスの向こうを見やり、それからまた莉子に向き直った。「こちらからお願いしておいて恐縮ですけど......。そのう、だいじょうぶなんでしょうか」
「心配いりません」莉子は穏やかにいった。「でも、心してかからなきゃ。サイズでいえば過去最大の鑑定依頼品ですしね」
秘密の抜け穴
東海道新幹線で新大阪に向かい、そこからは吹田署の銀いろの覆面パトカー二台に分乗して、万博公園を目指した。莉子は、小笠原とともに先行する車両の後部座席におさまっていた。蓬莱浩志は気の毒なことに、後続車両で若手の刑事ふたりに挟まれているようだ。さすがに手錠はかけられていないが、容疑者も同然の扱いだった。
莉子は助手席に座る柳瀬警部補の後頭部に抗議した。「あの人が犯罪に関与した疑いが濃厚だと、本気で思っておいでですか」
柳瀬は振りかえりもせずに応じた。「なに、軽くプレッシャーを与えているだけですよ。任意の出頭に応じない不審者には、それなりに厳しくすることで素行を改めさせられるんでね。効果的ですよ」
「不審者......。被害者かもしれないのに」
「これからあきらかになります」柳瀬は運転する私服警官に告げた。「ああ、そこを入ってくれ」
高速道路を下りた後、広大な公園の外周をしばし巡ってから、日本庭園入り口と看板のかかった細い道を入った。ほどなく視界が開け、駐車場に行き着く。
小笠原が声をあげた。「あった。あれだよ」
窓の外、駐車場から見える木立の向こうに、異形の『太陽の塔』の後ろ姿があった。やや猫背ぎみのその背中には、もうひとつの黒い太陽の顔が描かれていた。
徐行するクルマのなかで柳瀬がいった。「あの塔を管理するのは独立行政法人・日本万国博覧会記念機構ですが、今回の催しに際して場所を提供しているだけです。スポンサーは大阪府といくつかの企業でしてね。警備を請け負っているのは日本統合警備という半官半民の企業ですが、関西支社には元警察官が多数在籍していて、信頼がおけます」
「ええ、有名な会社ですね」莉子にとっても馴染みの社名だった。ステファニー出版が『イサベル』誌のグラビア撮影用に五億円のペンダントを借りうけたとき、GPS付き手提げ金庫をレンタルしたのは、東京スカイツリー近くの日本統合警備関東支社・墨田区出張所だった。
クルマが停車すると、柳瀬はシートベルトを外しながら告げた。「塔のなかの整備から外の螺旋階段の建設まで、すべて府の主導によるものでしてね。技術的なことはすべて、これも府が研究開発費を助成している永友エンジニアリングか受注しています。いわば組織的な管理のもとですべての事業がおこなわれているんです。不祥事なんか起きようがないんですよ」
時刻は正午を過ぎていた。一行はクルマから降り立ち、入園ゲートを抜けて『太陽の塔』方面にぞろぞろと歩いた。
やがて、アスファルトで舗装されたグラウンドが現れた。見渡す限りの広大さ、その果てには競技場のようなひな壇の観覧席がある。さらに奥には森林、そして『太陽の塔』の背面がそびえている。グラウンドの隅には、大屋根の一部がモニュメント風に遺されていた。
莉子は歩きながらいった。「〝お祭り広場〟ね。万博のときのメインイベント会場」
小笠原が遠方を指さした。「あの池にあるオブジェも、昔の万博の写真で見たことがあるよ。案外、当時の名残りがあるんだね」
観覧席をのぼり、遊歩道を横ぎって木立に入る。その先には、巨大な『太陽の塔』の根元があった。蓬莱が教えてくれたように、濠に下りるための仮設階段がある。
通用口から内部に足を踏みいれる。
真っ赤に塗りたくられた空洞の内壁にペンキのにおいが残っている。初めて訪ねた気がしない。何もかも蓮莱の説明どおりだからだった。
強いていうなら、塔の内部は彼が表現した以上にがらんとしていて、閑散とした印象だった。なるほど、これでは失踪した人間がいたとしてもあまり探しようはない。
柳瀬が声をあげた。「おや。きょうは招待客がおいでにならない?」
制服の警官や警備員はいたるところにいるが、内覧の催しが実施されているようには見えない。
小走りに駆けてきたのは、五十代のスーツ姿の男だった。白いものが混じった髪に丁寧に櫛を通し七三に分けてある。誠実そうなまなざしが温厚な性格を物語る。ネームプレートには門井眞とあった。
日本統合警備の取締役、門井は莉子に対し、深々とおじぎをしてから柳瀬に向き直った。
「通報があった以上は捜索に一日を費やせと、府のほうから申し渡されまして」
蓬莱が苛立ちをあらわにしていった。「ほら。府のほうはちゃんとわかっとるやないか。道頓堀のドブさらいばっかやなしに、こういうことにも人員が割かれてしかるべきやろ」
柳瀬は苦い顔でつぶやいた。「後になって税金の無駄遣いのそしりを受けなきゃええんですけどね。門井さん。こちらは鑑定家の凜田先生。それに『週刊角川』の小笠原さんです」
「初めまして」門井はまた頭をさげた。「さきほど警部補さんから電話で連絡を受けました。歓迎しますよ。ただし、記事のほうは事前に府のほうがチェックするといってます。蓬莱さんの奥様の失踪に関し、憶測などでものを書かれますと......」
小笠原は肩をすくめた。「でしょうね。こっちとしても、ふたしかなことを記事にする気はありません。取材はあくまで『太陽の塔』の内部公開に関してですから」
蓬莱が心外だというように小笠原を見たが、莉子は目配せをした。こちらの真の目的はほかにある。
門井は納得したようにうなずいた。「では技術者を紹介しておきましょう。福寿さん、ちょっとこっちへ来てくれませんか」
呼びかけられたのは、作業着を身につけた生真面目そうな四十代半ばの男だった。眼鏡の眉間を指で押して、福寿は門井にたずねた。「なんでしょうか」
「彼は」と門井が紹介した。「永友エンジニアリングの技術部長、福寿義治さんです。ご不明な点があれば、なんなりと質問してください」
莉子はおじぎをした。「ありがとうございます。でもまずは、自由に見てまわっていいですか」
「どうぞ」門井が塔内を指し示した。「お好きなだけご堪能ください」
蓬莱は柳瀬警部補と議論をつづけている。莉子は、小笠原とともに散策を始めた。
まずは閉鎖された地下への階段を調べたかったが、そこには大勢の鑑識課員が群がっていた。見たところ鉄格子の扉は固く閉ざされていて、侵入は不可能のようだった。
その近くにはロープで囲まれた展示区画があった。エンジいろの布が敷き詰められ、錆びついた部品の数々が並んでいる。
数は三十から四十といったところか。通信機などの固体もあれば、何かから脱落したような破片に等しい物もあった。
焼け焦げて黒く染まった物も多いが、それ以外はNASA、USA、USSRなどの表記も読みとれる。
小笠原がいった。「いかにも一九七〇年代風のデザインだね。レトロフューチャーってやつだな」
莉子は腑に落ちず首を傾げた。「時代はたしかにその辺りの物だけど、なんだかごちゃまぜって感じ......。この手前の丸いのは、アポロ計画当時のメーターで、表示から推測すると重力波を検出するための干渉計。あっちにあるのも電波中継用のトランスポンダ。だけど、こっちのL字ハンドルはタンカーか何か大型船のスロットルでしょう。この歪曲したチューブは一見、宇宙船っぽいけど、ワーゲンのダクトのような気が......」
「へえ。さすが、あらゆる分野に精通してるね」
「この種のジャンク品はネットオークションにもよく出品されるから......。何なのか不明のまま売りにだされていることも多いのよ。商品名も〝宇宙部品?〟とかクエスチョンマーク付きで。十点セットで一円スタートってのも多くて、二千円の値がつけばいいほう」
「そんなに安いの? さすがに、ここに並んでるパーツは違うだろ?」
「いいえ。たとえばほら、あのUSSRの刻印があるシートベルトのバックル。宇宙船ソユーズ19号の部品って触れこみでネット販売されてるのを見たことがあるけど、実はツポレフ134って航空機の客席用よ。よくベトナム航空に払い下げになってる機体」
「いわれてみれば、刻印も後からつけたっぽいな。まいったね。ガラクタばかりか?」
するとそのとき、近くにいたスーツの男が目を剥いてすり寄ってきた。手にしたクリップボードにボールペンの先を這わせながら、男はきいてきた。「す、すみません。いまの説明をもういちど」
小笠原は眉をひそめた。「あなたは?」
「大阪府庁府民文化部の柴野といいます。あのう、一段目の左から順に、何のパーツかおっしゃっていただけませんか」
莉子は戸惑いを覚えてたずねかえした。「本日は、展示品の調査にでもおいでになったんですか」
「いえ......。調査じゃなくて、管理です」柴野は声をひそめた。「これらを調達したのは、私どもの部署でして」
「え? でも、いったいどういう基準でこれらを......」
「基準とか、そういうものは特にありませんで......。いうなればこの一画に、万博当時の宇宙開発関連部品をずらりと並べる、そのコンセプトこそ最優先だったので」
「半分以上は宇宙に無関係だと思いますけど」
「ですから、そこもはっきりさせたいんです。いまおっしゃっていたように、オークションの出品者さえも何なのか知らないことが多くて」
驚きとともに莉子はたずねた。「まさか、ほんとにネットで買い集めたんですか?」
「しっ」柴野は声をひそめてささやいてきた。「府の財政は厳しくて、一階の展示をなんとかでっちあげ......いえ、成立させるにも、さほどお金はかけられなかったんです。塔のリニューアルや永友エンジニアリングさんの展示に予算を奪われちゃいまして、私たちに許された経費は雀の涙で。このコーナーの予算、いくらだと思いますか? 五万円ですよ。たった五万で、それなりに見ごたえのある展示にしろってんです。無理難題だと思いませんか? 結婚式のご祝儀袋やないんやし」
「はあ......。たしかに」
「日数もあまりかけられないので、ネットオークションでそれっぽい品目を片っぱしから落札したんですよ。でも先日、元NASAのオーガスティン・ハリス教授が見学に訪れたんですが、これらについては特にコメントもなく、厳しい表情を浮かべたのみで」
「それはそうでしょうね......」
「だから、一般公開までのあいだにきちんと仕分けして、価値はあまりなくとも展示して恥ずかしくない物に絞りこもうと思ってるんです。けれども専門家を呼ぶにもギャラが払えませんで......。あなたは見識をお持ちのようですから、どうかひとつお教えください。これ、何ですか。アルミの食器皿みたいな円盤。レーダーの部品ですか?」
「......見たままです。アルミのお皿です。昔のアメリカの学校給食用」
「ああ......。そうなんですか。給食」
「すみません、柴野さん。わたしもすべてがわかるわけじゃないですし、展示に関わることならしっかり調べなきゃなりません。後日、写真をお送りいただければ、わかる範囲で鑑定させていただきますけど」
柴野は目を輝かせた。「それはぜひ! いやあ、助かります。名刺交換させてください。私はこういうもので」
莉子は仕方なく、自分の名刺を取りだして柴野に渡した。
「ほう」柴野は名刺を見て、いっそう上機嫌にいった。「万能鑑定とはこれまた頼りになる」
「あのう、それはあくまで店名でして」
「とにかく、よろしくお願いしましたよ、凜田先生。それではまた」
いかにも救われたといいたげな顔で歩き去る柴野を、莉子は途方に暮れながら見送るしかなかった。
小笠原が呆れたように告げてきた。「鑑定料の相談、しておいたほうがよかったんじゃない?」
「予算がひっ迫してるって話だったから......。空いてる時間を見つけてこつこつとやってみる」莉子はため息まじりにつぶやいて、エスカレーターに向かって歩きだした。
ふたりはエスカレーターに乗り、最初の踊り場に上がった。莉子はすぐに振りかえり、いま乗ってきたエスカレーターを逆走しようと試みた。
エスカレーターの速度はふつう、毎分三十メートルとされているが、これはそれよりも速い。四十メートル、いやそれ以上の特殊な調整かもしれない。
蓬莱の説明どおり、足音は耳障りなほどの騒音となって空洞じゅうに響く。周りの警官や警備員たちの視線がいっせいに降り注いだのを感じた。
やはり、音を殺して逆走するのは無理のようだ。のみならず、下にたどり着くまではかなりの時間を要した。
一階に戻ると、技術者の福寿が苦笑とともに歩み寄ってきた。「この速さに逆らうのは、たいへんだったでしょう?」
「そうですね」莉子は息を切らしながら応じた。「いい運動になりました」
「万博のころ、パビリオンは炎天下で四、五時間待ちが当たり前だったらしいんです。なるべく早く列を消化させるために、減速歯車の直径が通常よりかなり小さくなってます」
「あー。それでこのスピードですか」
「でも」福寿の表情が曇った。「気をつけてくださいよ。激しい振動を与え過ぎると故障しちゃいますから。本来、エスカレーターの上で走るものではないし。まして逆走なんて」
「ごめんなさい......。もうしませんから」莉子は頭をさげると、またエスカレーターに乗って踊り場まで上昇した。
エスカレーターの降り口付近にしゃがみこみ、ポケットから巻き尺を取りだして幅を測った。
小笠原が話しかけてきた。「このエスカレーターって当時の物? いまと変わらないね」
「ええ。駆動機は新調されたらしいけど、外観はステップの踏板もコームプレートも昔のまま。ステップ幅が一〇九五ミリで全体は一五五〇ミリかぁ。標準より少し大きいね。このサイズを手掛けている国内メーカーは日立だけ」
「緊急停止ボタンの位置も、最近のエスカレーターと同じだな」
莉子はうなずいてみせた。「蓬莱さんの訴えをきいた警備員さんは、これを押してエスカレーターを停止させたわけね」
「このボタン、エスカレーターの上端にしかなかったっけ」
「いえ。上端と下端の両方にあるの」
「じゃあ、ボタンを押して停止させて、歩いて下りてからまた起動させれば......」
「それはできないのよ。あくまで停止させるボタンだから、ふたたび動かすには専用の鍵が要るの」
「ふうん」小笠原は腕組みをした。「やっぱり現実的に、上りの一方通行しか不可能なわけか。最近のエスカレーターは人が乗らずにいると、流れがゆっくりになったりするけど、これは一定速度で動きつづけてるね」
「四十一年前のエスカレーターだから、人感センサーはまだついてないのよ」
「......でも、新しいエスカレーターってどうしてゆっくりになるのかな。乗らないと停止するタイプもあるのに。じわじわ動いてたほうが再起動が速いとか?」
莉子は笑った。「少しずつでも動いてくれれば、上に行くか下に行くか一見してわかるでしょう?」
「ああ、そうか。なるほどね......」
ふたりはエスカレーターをのぼり、踊り場をひとつずつチェックしていったが、それは蓬莱の説明がいかに正確だったかを確認する作業でしかなかった。
第四層の踊り場の壷は、染谷焼の高価な物で、たしかに人がひとりおさまるぐらいの容積があった。しかしそれもいまは床に寝かされ、誰もが覗きこめるようにしてある。実際のところ空っぽだった。ソファも分解されたまま放置してある。
第五層のスチールボックスの蓋も開けてあった。避難用縄梯子はわりと使いこまれていて、手すりに掛けられるフック式だったが、長さは四メートルしかない。せいぜい第四層の踊り場に逃れられるのが精いっぱいで、とても一階には到達できそうになかった。PD1なるマシンも前後すべての扉が開けられ、中空も同然の内部が晒されていた。踊り場の床は薄い鉄板で、潜りこめる場所などない。
踊り場から〝生命の樹〟までは、やはり飛び移れないほどに距離があった。
枝や幹を彩る生物のオブジェは、ウルトラマンの怪獣造形で有名な成田亨によるデザインだけに見ごたえがある。しかし、電動の仕組みは東京ディズニーランドやユニバーサル・スタジオ・ジャパンのアトラクションで目が肥えた現代人には、驚異と呼べるほどではなかった。大阪府や永友エンジニアリングがほかの展示品を必要と考えたのもうなずける。
上に行くにつれて耳鳴りのような轟音が大きくなる。風が吹き抜けているせいだった。蓬莱は妻を探しに来たとき、エスカレーターの駆動音以外、ずっと静寂が保たれていたといった。現在の環境とは異なる。やはりそのとき、出口は閉まっていたのだろう。
やがて最上部、空中廊下に着いた。先に〝左腕〟の非常階段をのぼり、突き当たりの溶接されたスチール製ドアを確認してから、ふたたび空中廊下に戻って逆側に赴いた。〝右腕〟の上りエスカレーターに乗る。
出口が近づくにつれて明るくなり、轟音も激しくなった。しかし螺旋階段にでたとたん、ノイズはやんで、爽やかな風が吹きつけるなかに立った。
莉子は弱り果てて小笠原を見た。見かえす小笠原の顔にも困惑のいろが浮かんでいた。
現場に来てみればきっと何かわかる。そう思って飛んできたが、新しい発見は得られなかった。
浮かない気分で階段を手りて、また塔の真後ろにある入り口から一階に戻る。
蓬莱と柳瀬警部補、警備会社の門井はいっせいにこちらを見た。真っ先に蓬莱がたずねてきた。「どうでしたか?」
「それが......」莉子はつぶやくしかなかった。「申しわけありません。いまのところは......」
柳瀬が鼻息を荒くした。「ほら。言うたとおりでしょう。警察が隈なく調べたんです。虫一匹、這いでる隙間もありはしません」
だが蓬莱はあきらめきれないようすで、柳瀬に食いさがった。「いちど見ただけじゃわからないこともあるでしょう。地階はセメントで埋められたという話ですが、綿密に調べれば秘密の抜け穴が見つかるかもしれない。建設当時の図面を検証すれば......」
「鑑識課員がさっき南京錠を外して、なかを調べました。地階は数メートル先で完全に埋まっているとの報告です。だいたい、凜田先生が何も見つけられなかったのに、まだ駄々をこねるんですか。あなたが依頼した専門家でしょう?」
蓬莱は反論の素振りをみせたが、何もいえないと気づいたのか、沈痛な面持ちで黙りこくった。
莉子は蓬莱が不憫でならなかった。彼が無意味な狂言を口にするとは思えない。ここで起きたことはきっと事実だ。でもわたしは、それを証明できなかった。
「さて」柳瀬はいった。「当初はなんとも不審な供述に思えたんで事件性を疑いましたが、お話をきくうちに、どうやらそうでもない気がしてきましたな。少なくとも現場はここではない。蓬莱さん、お帰りになって結構ですよ」
「なんですって」蓬莱は目を瞠った。「事件性がない? 妻とはいまだに連絡がとれないんですよ」
「だから、それはあなたのご家庭の問題なわけです。ご自身の足で署に行かれて、家出人捜索願をだしてください。私ども刑事課が受けもつことではない」
府が主催するイベントの会場、それも『太陽の塔』で起きた事件ゆえ、大勢の警官を動員した。ここと無関係の事案なら自分たちは動かない。柳瀬はそういいたいのだろう。
むろん、蓬莱浩志の妻が消えたこと自体、さして重大な事態とは考えていないに違いない。夫婦喧嘩の延長、家庭内のトラブル。それぐらいのものと推定している。
蓬莱は憤りをあらわにし、柳瀬を怒鳴りつけた。「あほ抜かせ! 人を嘘つき呼ばわりすんのか」
莉子は蓬莱を制した。「待ってください。奥様のためにも、まずは行方不明者届をだすべきです」
「凜田先生。あなたまでそんな......」
「わたしは蓬莱さんの言葉を信じます。けど、もうここに奥様はいません。どうやって抜けだしたかは不明だし、痕跡すら残っていない。だから警察も動かない。届出をすれば、とりあえず警察本部のコンピューターに情報が登録されます。重要性を訴えれば手配を強化してくれるかも......」
柳瀬が咳ばらいをした。「ひとことアドバイスを。家出人捜索願をだされる際には、ここに奥様が駆けこんだなんてナンセンスな申し立てはやめておくことです。蓬莱さんが起こした騒ぎには、私たちも目をつむりましょう。署の受付でまっとうな話をしてください。それが奥さんを見つける最短の道です」
蓬莱はなおも不服そうにしていたが、小笠原が穏やかにうながした。「でましょう。ここにいても時間の無駄です」
緊張が漂う。蓬莱は苛立ちを抑えるように目を閉じ、ため息をついた。それから肩を落とし、外に向かって歩きだした。
莉子も歩調をあわせながら、胸が凍るのを感じた。頼りにされていたのに、期待に応えられなかった。でも、このまま虚無の味を噛みしめてばかりもいられない。塔の知られざる出入り口を発見し、何が起きたかを解明せねば。
無記名
小笠原は、蓬莱が警察署で行方不明者届を提出するのにつきあったのち、莉子とともに蓬莱の自宅に同行することになった。
陽が傾いてきている。静けさの漂う千里ニュータウンの住宅街が紅いろに染まっていく。
歩を進めながら莉子がいった。「奥様が失踪した理由について、蓬莱さんの家に手がかりが残されているかもしれません」
蓬莱もうなずいた。「ぜひお立ち寄りください。必要なら床下や屋根裏までお見せします。でも、あれは突発的な連れ去りでは?」
「何か月も前にパートを辞めていたのに、夫のあなたにも打ち明けず秘密にしていたんでしょう? 背景をあきらかにするべきです」
蓬莱夫婦の家は、緩やかな坂道の途中にあった。辺りの一戸建てと調和のとれた庭先、緑の手入れも行き届いている。瀟洒なカーキいろのタイル張りの外壁。こぢんまりとしているが、夫婦ふたりで住むには充分に思われた。
蓬莱は一階のリビングとダイニングのつづき部屋に、小笠原たちを招きいれた。
やっぱり瑞希は帰っていないか。ぶつぶつとつぶやきながら、照明を灯して対面式キッチンに向かう。「コーヒーしかないけど、いいですか?」
「あ」莉子が蓬莱を追ってキッチンに入った。「わたしも手伝います」
「だいじょうぶですよ」と蓬莱は苦笑を浮かべた。「ここは瑞希じゃなく僕の聖域になっていたから」
「へえ......。すごく綺麗にしてありますね。配置も使いやすそう。お玉にトング、ターナー。計量カップもありとあらゆるサイズが揃ってる」
「でしょう? 僕が買い揃えたんですよ」
「奥様は夕食づくりは......」
「たまにやってたけど、ちっとも上達しませんでしたね。結婚前は家事が大の得意なんていってたのに、いざ家庭に入ったら、急に深刻な顔をしていうんですよ。『じつは打ち明けたいことがあるの』って。何なのかきいたら、箱入り娘に育てられたから家事はいっさい手をつけたことがないって」
「それは困りましたね」
「おかげでこういう作業も手慣れたもんですよ」蓬莱はコーヒーカップを三つ盆に載せて、キッチンを抜けだしてきた。
小笠原はリビングの隅にあるデスクに歩み寄った。「ノートパソコン、富士通をお使いなんですね」
蓬莱はテーブルにコーヒーカップを並べながらいった。「それは妻のですよ。僕のは自分の部屋にあります」
「ふうん。奥様はここでネットを?」
「引っ越してしばらく経ってからも、ハローワークのサイトを頻繁にチェックしてました。技術の要らない仕事を探すのはたいへんだったようです。保育園に勤めだしたはずなのに、まだハローワークにアクセスしてるから、変だなどは思ったんですけどね。たぶんあのときにはもう、パートを辞めてしまっていたんでしょう」
莉子は蓬莱にきいた。「奥様は保育補助の仕事では、なにか問題でも......」
「ないと思いますね。瑞希は子供が好きでしたから。マメでよく気がつくって勤め先の園長さんが誉めてたぐらいです。もっとも、勤務期間が短かったからメッキが剥がれなかっただけかもしれませんね。性格はいいけど、なにしろ不器用だから......。僕は彼女がカミングアウトする前に、薄々勘付いてましたけど」
「そうなんですか?」
「ええ」蓬莱は小笠原を見つめてきた。「記者さんは、彼女とかいます?」
小笠原はふいの質問にあわてた。「え? いえ、そのう......」
思わず莉子から視線を逸らしてしまい、彼女がどんな表情を浮かべているのかわからない。彼女もこちらを見ていないようだ。
京都での一件以来、ふたりの距離が縮まったのは疑いようのない事実だった。けれども、運はいまひとつ味方してくれない。富士見一丁目の角川書店新社屋において、社員の出勤がタイムカードではなくパソコンによるオンラインで管理されるようになった。おかげで、職場を抜けだして莉子と会う機会は激減してしまった。
きょうは同僚の女性誌編集者から緊急の相談を受けて、莉子を紹介するために万能鑑定士Qに立ち寄ったのだが、それもつかの間、蓬莱が飛びこんできてまた事件に駆りだされた。出張が認められて莉子に同行できたことは何より喜ばしいが、謎解きが進まなければデートはおあずけだった。
いつも彼女が迅速に真相に到達できるよう助力を惜しまないつもりでいるが、莉子のほうもタイムリミットぎりぎりになって手がかりに気づくことが多く、余暇はほとんど与えられない。もっと俺が頑張らないと駄目か? 恋愛マニュアル本から少女漫画まで読みあさったが、いまひとつ参考にならない。捨て猫の世話をしているところに偶然、莉子が通りかかる可能性なんて低いだろうし......。
蓬莱が声をかけてきた。「記者さん。どうかしましたか」
「あ、いえ......。なんでもないです」
「僕が思うに、女性が器用かどうかは最初のデートでほぼわかりますよ。ディナーを共にして、彼女が平気で食べ物を残したとしたら、きっと料理のできない人なんでしょう。つくる大変さをわかっていたら、残すにしても申しわけなさそうにするものです」
「はあ。なるほど。そういうものですかね」
「それと、好き嫌いが多い女性は、たとえ料理ができたとしてもレパートリーが豊富ではないでしょう。物の価値を知らないのも、ふだん買い物をしないせいだと思います。瑞希は裁縫セットが一個いくらなのかも知らなかったんです。とれたボタンをつけることさえ、まかせられませんよ」
「そ、そうですか。はは」小笠原は乾いた自分の笑い声をきいた。ようやく莉子に目を向けたが、彼女は黙ってソファに浅く腰かけ、コーヒーをすすっているだけだった。
職業が鑑定家である以上、物の価値を知っているかどうかで家庭的か否かは判断できない。蓬莱が明かしてくれた秘訣も、凜田莉子には応用できそうになかった。
ふいに莉子がこちらを見つめて、コーヒーカップをテーブルに置いた。立ちあがってゆっくりと近づいてくる。
どうしたのだろう。胸が高鳴ったのも数秒、莉子は小笠原を素通りしてデスクに向かった。
莉子はいった。「このメモ、奥様の字ですか?」
小笠原はため息をついた。もやもやした気分だけが胸の奥に残る。
蓬莱が莉子のもとに歩み寄った。「ええ、そうですね。瑞希の字ですよ」
そのメモ用紙はデスクの端にマグネットでとめてあった。四桁の数字が四つ連なっている。
6114 6111 6108 6105
しばしそれを見つめていた莉子が、蓬莱にきいた。「何なのかわかりますか?」
「さあ」蓬莱も首を傾げた。「見慣れない数字ですね」
そのとき、庭先のほうからガタンと物音がした。
「ん?」蓬莱は眉をひそめて、玄関のほうを振りかえった。「郵便受けだな。変ですね。こんな時間に配達はないはずですけど」
近所のチラシ配りかもしれない。小笠原はそう思ったが、莉子はすでに歩きだしていた。
「確認してみましょう」と莉子は告げて、すたすたと玄関に向かった。
あわてて蓬莱とともに後を追う。靴を履いて庭にでた。赤みを増した夕焼け空の下、近くの学校のチャイムが響いている。
蓬莱は郵便受けを開けた。一枚の封筒がおさまっていた。取りだしたとたん、蓬莱はぎょっとした顔になった。「これは......」
小笠原も絶句した。莉子も同じようすだった。
封筒の表には一行だけ、ワープロで〝凜田莉子様〟と印字してある。
すぐに小笠原は道路に駆けだし、辺りを見まわした。しかし付近に人影はなかった。
投函後、人が逃走して視界から消えられるほどの時間があったかどうか。バイクやクルマを使えば造作もないだろうが、エンジン音はきこえなかった。自転車なら可能かもしれない。
莉子は封筒を眺めまわしていた。「切手も貼ってないし住所も書いてない。もちろん差出人の名前もない......。わたしがここにいることは誰も知らないはずなのに」
蓬莱の表情が硬くなった。「妻の失踪と何か関係が......」
「ありえますね」莉子は封筒を開封した。「中身は......カード一枚だけかぁ」
そのカードを小笠原も見つめた。やはりワープロの印字で〝千里高校正門前 午後七時〟とある。記してあるのはそれだけだった。
「んー」莉子はカードを眺めまわした。「この字体は、たぶんMS明朝。ウィンドウズを使ってるのかな。プリンターの給紙ローラーによる反りがまだわずかに残ってる。時間が経てば湿気で伸びきるはず。ついさっき印刷したものでしょう」
小笠原は蓬莱にきいた。「千里高校って?」
「ここからそう遠くありません。大阪モノレールの山田駅から、南に徒歩で十分ぐらいでしょうか。一緒に行きましょう」
「いえ」莉子はいった。「あなたは家にいてください。奥様が帰ってこないとも限らないし、そうでなくとも何か連絡が入るかも......。ここへはわたしたちだけで行ってみます」
「......わかりました。どうかお気をつけて」
庭をでて道路を歩きだした莉子を追って、小笠原も蓬莱邸を後にした。
高まる緊張感とともに、小笠原はつぶやいた。「警察に通報する気はないんだろ?」
「当然」莉子はあっさりとうなずいた。「頼りにできるわけない。わたしたちだけで真実を追求しなきゃ」
万能の終わり
黄昏をわずかに残した藍いろの空の下、吹田市高野台二丁目にある千里高校の正門前に、莉子はやってきた。
同行した小笠原が、暗い校庭に目を向ける。「部活も何もやってないな。誰も居残っていないみたいだ」
門も堅く閉ざされている。本校に用のない方の立ち入りをお断り申し上げます。看板のメッセージが闇のなかでかろうじて読みとれる。
莉子はため息をつき、辺りを見渡した。ひっそりと静まりかえっている。住宅街はまだ帰宅した人も少ないのか、明かりもまばらだった。緑地が多く、鈴虫の声が厳かに響いてくる。近くをモノレールが通りすぎていった。駅は遠いため、通勤客の往来もない。
区画整理は近年おこなわれたらしく、歩道の幅は広めにとってある。都内ではあまり見かけない、昔ながらの電話ボックスがあった。ガラス張りの箱の内部を照らす蛍光灯が、周囲をおぼろに浮かびあがらせている。
その明かりを頼りに、腕時計の文字盤を眺める。七時をいくらか過ぎていた。
突然、電話ボックスでベルが鳴りだした。莉子はびくついて後ずさった。
公衆電話に着信している......。呼びだしのベルはけたたましく反復しつづける。
小笠原がいった。「でたほうがいいんじゃないかな」
「......ええ」莉子は電話ボックスの扉を開けて、小笠原とともになかに入った。受話器を取りあげて応答する。「もしもし......」
ニュースでよく耳にするボイスチェンジャーによる音声変換、甲高い声がたずねてきた。
「凜田莉子さん?」
受話器に耳を寄せている小笠原にも、その声ははっきりきこえたらしい。小笠原は緊張のまなざしで莉子を見つめてきた。莉子も小笠原を見かえした。
答えるしかない。莉子は受話器に告げた。「そうですけど」
声の高低だけで判断すれば女性だが、喋り方は中年以上の男性に感じられる。「電話の下にある箱を開けてください」
莉子は視線をさげた。そこには電話帳の束がおさまったラックがあった。アタッシュケースを薄くしたような、木製の手提げ式の箱が挟んである。
小笠原がそれを引っ張りだし、蓋を開けた。なかにはB5サイズの白紙が十枚近く束ねてあった。それと小型のツールボックス。中身はライター、スプーン、三つの小ビン、スポイト、筆、それにルーペだった。
電話の声はたずねてきた。「1と2のどちらか再生紙か」
ずいぶんぶしつけで、ぶっきらぼうな鑑定依頼だった。莉子は箱に目をやった。「1と2って?」
すると小笠原が紙の束を広げた。「一枚ずつ隅に番号が振ってあるよ。1から8まである。ええと、これが1の紙。それと、こっちが2の紙」
莉子は受話器を顎ではさみ、左右の手でそれぞれの紙を受け取った。なるほど、肉眼では識別は難しい。しかし......。
ルーペを取りだして、二枚の紙面を順に見比べる。莉子は即座に判定を下した。「2の紙には、薄くインキの跡が見えますね。古紙のほとんどは新聞紙や段ボールだから、印刷用に付着させた物質が残ります。だから再生紙は2」
正解か否かを告げようともせず、声は次の質問に移った。「3と4のどちらか上級紙か」
また小笠原から二枚の紙を受け取る。今度も見ただけでは区別がつかない。ルーペで観察したが、表層を拡大してもさして違いはなかった。
莉子は受話器にきいた。「箱のなかの消耗品を使っても?」
「どうぞ」
これが鑑定能力を試すテストだとしたら、必要な物は揃えてあるに違いない。莉子は小ビンの蓋を次々に開けてにおいを嗅いでいった。
あった。フロログルシンの塩酸溶液。スポイトで液体を吸い取り、二枚の紙にそれぞれ滴下した。4の紙は変化なし。だが3のほうは、溶液を垂らした部分だけ赤く染まった。
答えはでた。莉子は告げた。「3は機械パルプが原料の下級紙。4が化学パルプでつくられた上級紙」
「5、6、7のうち塗工紙はどれか?」
少しずつ難しくなっている。本格的に調べる気なら工業試験所へ行って、走査型顕微鏡で観察するところだが......。
ここにある物で答えをだせというのなら、やるべきことはひとつしかない。ツールボックスの残りの小ビンに赤と青の液体がある。赤はセルロース繊維に染着しやすい直接染料、青のほうはウールやシルクによく染まる酸性染料だろう。
受話器をいったん電話機の上に投げだし、両手を使って作業を始める。「小笠原さん、スプーンを水平に持ってくれる?」
「こう?」と小笠原が指示に従った。
「動かさないで」莉子は赤と青の液体をスプーンに垂らし、筆でかき混ぜてから、ライターで熱した。少し温まったと見るや、スプーンを小笠原の手から受け取って、三枚の紙にそれぞれ垂らした。
小笠原がつぶやいた。「6だけ青く染まった......。5と7は赤くなってる」
「塗工紙には酸性染料が染着するの。逆に非塗工紙なら直接染料に染まる」莉子は受話器を手にとって答えを伝えた。「塗工紙は6」
相手の声は驚いたようすもなく、平然といった。「あとふたつ質問したい。8の紙は何か」
最後の一枚が小笠原から手渡される。これまでの紙とは異なり、厚くて腰があり、手触りもいい。滑らかで、光を放っているかのような純白だった。しかも、裏も表も同等に輝いてみえる。
莉子はいった。「これフランク紙ですよね? スイスのシュピッテラー社が製造している最高級紙」
「その裏と表を見分ける方法は?」
当惑を覚える。莉子は一円玉を取りだし、紙にこすりつけた。裏返して、そちらの面にも同じことを試みる。
普通の紙であれば、表は裏よりも不透明度を高める充填剤の量が多いため、アルミで摩擦を加えた跡が濃く見えるはずだった。けれども、フランク紙の場合は......。
思わずため息が漏れる。莉子は受話器にいった。「わかりません。フランク紙って、裏表の違いを無くすべく研究に研究を重ねて完成した究極の紙ですし」
「区別できないと?」
「......ええ。電子顕微鏡でも不可能のはず」
しばしの沈黙の後、声はぼそりと告げた。「千里市民センターにおいでください。いますぐに」
それっきり電話は切れた。プー、プーという耳障りな音だけが反復する。
釈然としない思いとともに莉子は受話器を戻し、電話ボックスをでた。
小笠原も外にでてきた。「フランク紙なら知ってるよ。出版業界でも注目されてるからね。ページの裏と表でインクの乗りぐあいや色彩に違いがでるのは本来、好ましくない。だから裏表のない紙ってのは本づくりに理想的なんだよ。印刷所もフランク紙についちゃ、裏と表の違いを考慮しないし」
「でもそれは使用する側の認識で、実際には製紙の工程は普通の紙と同じはずだから、裏表はあるはずでしょう。見分けはつかないけど、それを可能にしてこそ鑑定......。じゃなかったのかな、いまのテストは」
「わからないって答えは不正解ってこと?」
「うん......。不合格だった気がする」
「まさか。誰がどんな意図で凜田さんを試してきたか、はっきりしないんだよ? 向こうが決めたルールを気にする必要なんかないよ。挑戦を受ける側なんだから、堂々としてなきゃ」
「そうかなぁ」
「そうだって」小笠原はiフォーンを取りだした。「千里市民センターだっけ。ここから近いのかな。住所を検索してみるよ」
莉子のなかに物憂げな気分がひろがっていった。
いままで何度か感じたことだが、万能鑑定士という屋号はやはり荷が重い。額面のまま受け取られてしまううえに、そういう肩書と信じられてしまうため、プレッシャーは半端なものではない。
店の名を変えてみようかしら、莉子はぼんやりと思った。いいネーミングさえ思いつけば、万能鑑定士Qの看板を下ろせる。瀬戸内店長には悪いけど......。
貸会議室
すっかり日が暮れた。小笠原は吹田市津雲台一丁目、千里市民センターの前まで来た。
音楽ホール風の門構えにドーム屋根を備えた建物には、まだ明かりが灯っている。
莉子が立ちどまって看板を見やった。「へえ。貸会議室がいくつもある。それにホール、プラネタリウムまで......。さすが高級住宅街」
小笠原は自動ドアに向けて歩きだした。「なかに入っていいのかな? ここには電話ボックスはなさそうだし」
エントランスをくぐると、ひとけのないロビーにはホワイトボードが据えてあって、各種施設の利用状況が書きこんであった。貸会議室はひと部屋を除いて、本日の予定を終了したらしく空欄になっている。
その一か所の記載が気になった。〝午後七時半~八時 フォーンボイス〟とある。
「フォーンボイス?」小笠原は思わず首を傾げた。「どこの会社かな」
莉子がつぶやいた。「〝電話の声〟ってことでしょう」
「ああ......。そうか。さっきの電話をかけてきた人物が、それとわかる名義で部屋を予約したんだな。三階のD会議室か。行ってみるしかないよ」
歩を進めようとしたとき、壁ぎわのエレベーターの扉が開いた。ひとりの男がフロアに降り立つ。模型メーカーのタミヤのロゴが入ったTシャツにデニム、スニーカーといういでたちで、リュックを背負っていた。年齢は三十代、中肉中背の体格。眼鏡をかけ、無精ひげが生えている。
男は何もいわずに小笠原の脇を通り抜けて、自動ドアをでていった。帰宅するところかもしれない。
莉子が小笠原にささやいてきた。「ねえ、いまの人の膝を見た?」
「膝って?」
「色とりどりの塗料が細かく、たくさん付着してた。プラモデルを着色してたのかも」
「あー、ありうるね。模型マニアって感じだったし。ああいう人って色塗りにもこだわって、本物そっくりに仕上げたりするんだよね。取材したことがあるよ。まさに職人芸」
「でも、そこまで凄腕ならあんなに服を汚さないんじゃなくて?」
「そうだな。あまり器用じゃないとか?」
「あるいは、なりふり構っていられないぐらい急いで作業をしたとか」莉子はエレベーターの扉が閉まる前に乗りこんだ。「いまの人が作った模型でも鑑定させられるのかな」
「凜田さんに対して目的不明の能力テストか。雨森華蓮みたいだな」
「華蓮は服役中だし......。観客もいないから、あのときと同じトリックとも思えないし」
ふたりが乗ったエレベーターが上昇を開始する。わずかな時間に沈黙が下りてきた。
ふいに莉子がきいてきた。「小笠原さん。出版社勤めだから、言葉には強いでしょう?」
「え? さあ。それほどでもないかも......。どうして?」
「百パーセントには及ばないけど、かなりできるっていうか、ええと、少しはできないこともあるって意味の短い単語。何かない?」
「......難しい注文だね。百パーセントできる......。マルチとか、それこそ万能とか......」
莉子は間髪をいれずにいった。「百パーセントには及ばないんだってば。不可能もあるってニュアンスを含んでほしいのよ」
小笠原は妙に思った。「何をそんなにムキになってるの?」
「いえ......。もういい。忘れて」
エレベーターの扉が開いて、莉子は先にフロアにでていった。
その背を追いながら小笠原ははっとした。
ひょっとして、告白の言葉を探しているのか。そうに違いない。俺も同じ気持ちだ、共感できる。想いは百パーセントなのに、あと少しの勇気が足りない。このもどかしさを、どう表現していいのかわからない。
彼女もそんな心境だったのか。小笠原の胸は躍った。通路を莉子と並んで歩きながら、高揚した気分で告げた。「不安にならなくてもいいよ。お互いの心はひとつなんだから、少しずつ歩み寄っていけば、ね」
「はあ?」莉子は眉をひそめた。「なんの話?」
とぼけるところがまた可愛い。ひさびさに進展のきざしがある。小笠原は弾む思いとともに、行く手の扉を指さした。「ああ、あったよ。D会議室」
莉子は気を取り直したように真顔になり、扉をノックした。返事も待たずに開けて踏みこんでいく。「失礼します」
そこは殺風景ながら広々とした会議室で、長テーブルがふたつ平行に据えてあった。
奥に位置するテーブルでは、二十代半ばぐらいの男が暇そうな顔で椅子にふんぞりかえっている。長髪で、痩せ細った身体にストリート系ファッション、鼻と耳に金のピアスが光っていた。なんとも近寄りがたい雰囲気をかもしだしている。
テーブルの上には何もない。塗料のにおいもしない。プラモデルの完成品を鑑定するわけではなさそうだった。
ピアスの男に対し、莉子は愛想よくおじぎをした。「はじめまして。凜田といいます」
男は無表情に見かえしてから、ぼそりとつぶやいた。「丹内」
「丹内さん......ですか」
「いちおうそういう名前になってるから」
「わたしを呼んだのは、どんな用件で......」
「あん? 呼んでないよ」
莉子は戸惑い顔で黙りこんだ。
小笠原も面食らわざるをえなかった。たしかに電話の主とは言葉づかいがまるで異なる。いったいこの男は何者だろう。
そう思ったとき、小笠原たちが入ってきた扉の向かい、もうひとつの扉が開いた。
キャスター付きのワゴンを押して、別の人物が現れた。目を向けたとたん、小笠原はぞっとするような寒気を覚えた。全身の肌に粟を生じるとは、まさにこのことだった。
おそらく男性だろう。スーツの上に白衣をまとい、頭部にはすっぽりとダースベイダーのラバーマスクを被っている。スー、ハーという呼吸音は物真似をしているのかどうかさだかではないが、SF映画史上でも有名なその悪役の顔は、無言のまま室内を見渡した。
ふざけているのだろうか。小笠原はきいた。「あなたは誰です? アナキンとか?」
するとダースベイダーはくぐもった声でたずねかえしてきた。「ハナ金?」
小笠原は驚き呆れながら莉子を見やった。莉子も冷めた顔で見かえしながらつぶやいた。
「スターウォーズのファンってわけじゃなさそう。被り物ならなんでもよくて、顔を隠すことだけが目的。あと、花金なんて死語を知ってるからには四十代後半から五十代。サラリーマン経験あり」
丹内ひとりだけがげらげらと笑った。ベイダーはしばしその場に立ちつくしていた。
やがて、ベイダーがなんの面白みもない口調で告げた。「私のことは的場と呼んでくだされば結構です。どうぞおかけください」
莉子が着席する。小笠原はその背後に立った。どんな駆け引きが待っているにせよ、不利なスタートだった。三者のうち莉子だけが本名を明かしてしまっている。
もっとも、この的場なる人物が招待者だとすれば、いまさら莉子の名を秘密にしたところで意味はない。封筒に宛名を記していた以上、彼女の素性にも詳しいだろう。
ワゴンテーブルの上にあったB5サイズの白紙の束を、ベイダーの的場が取りあげた。ふたつに分けて、莉子と丹内のテーブルにそれぞれ置いた。
「五枚ずつです」的場は落ち着いた声で告げた。「後でそれらの紙を名刺大に裁断します。裏表を区別してください」
莉子は的場にきいた。「あなたは、さっきの電話の人ですか」
「さあね。重要なことではないでしょう。質問は鑑定に関することのみに絞らせていただきたいんですが」
「......なら、さっきも申しあげたとおりです。これはフランク紙です。名前の由来からして〝裏表のない〟という英語の洒落です。裏表の見分けがつかないからこそフランク紙なんです」
「しかし、こちらの丹内さんは、いままで一回たりとも識別を誤ったことがないので」
「裏表が区別できるんですか? まさか......」
「論より証拠、先にお試しいただきましょう。丹内さん」
丹内は、手元にある五枚のフランク紙に目を落とした。手をだすこともなくしばし眺めると、顔をあげて的場にうなずいた。
ベイダーの的場はそれら五枚を重ねて回収し、ワゴンテーブルに載せてあった大型裁断機で、サクサクと切りだした。
フランク紙は名刺大ではなく、それよりひとまわり大きな正八角形に切りだされた。五枚重ねのまま、ふたたび丹内の前に置かれる。
小笠原は的場に問いただした。「名刺サイズに切るんじゃないんですか」
「これはその前段階ですよ。八角形で色艶を見ておくことが識別のコツらしくてね。丹内さんなりのやり方です」
丹内は五枚重ねの八角形をそっと取りあげて、しばし見つめた後、すぐにまたテーブルに戻した。的場が紙をワゴンに運び、裁断機で刻む。
今度こそ、五枚のフランク紙はきれいな長方形の名刺大に切り抜かれた。的場はそれらを手のなかで混ぜ合わせてから、丹内に差しだした。「一枚だけひっくりかえしました」
すると丹内は、受け取った五枚を横一列に配り、表層をざっと見渡した。「これ。四枚目だけ裏返ってる」
「ご名答」的場は満足そうにうなずき、その四枚目をひっくり返して元に戻してから、五枚を揃えて回収した。小笠原のもとに歩み寄ってきて、差しだしてくる。「週刊誌記者のお立場からも、公正な実験であることをご確認ください」
俺の素性も知っているのか......。だがいまはそんなことより、莉子が不可能だと断じた鑑定を可能にする男がいた、その事実のほうが驚きだった。五枚の名刺サイズのフランク紙。小笠原は裏表を見比べたが、さっぱり区別がつかなかった。
ベイダーマスクの的場が莉子にきいた。「凜田さんのほうは、いかがでしょうか。お考えに変わりはないですか」
「......はい」莉子は真顔で告げた。「わたしには、フランク紙の裏表の識別は不可能です」
小笠原は衝撃を受けた。莉子があっさりと兜を脱ぐなんて......。
丹内は余裕をのぞかせた。彼の態度から察するに、これは鑑定対決だったのか。
的場も莉子を見つめた。「丹内さんと同じことが可能にならない以上は、こちらから申しあげることは何もありません。お引き取りになって結構です」
ところが莉子は、妙に冷静な声を室内に響かせた。「同じことができないとはいってません」
「はて」ベイダーマスクが首を傾げた。「どういう意味ですか?」
「小笠原さん」と莉子はいった。「いったん後ろを向いて、その五枚のうち何枚かを裏返して」
困惑を覚えながらも、小笠原はいわれたとおりにした。「一枚だけじゃなくて、何枚でもいいの?......はい。できたよ」
五枚の名刺サイズのフランク紙を受け取った莉子は、それらをテーブルに配った。
ほとんど眺めることもなく、莉子はつぶやいた。「二枚目と五枚目をひっくり返したでしょう」
室内の空気が一変した。的場はぎょっとしたように押し黙った。丹内のほうも落ちつかなさそうに視線を泳がせている。
小笠原は魂消ざるをえなかった。「なんでわかるんだ......? フランク紙なのに」
莉子は冷やかに丹内を見つめた。「どうして事前に八角形に切らせたのか、その本当の理由をお教えいただけませんか」
丹内はばつが悪そうな顔で口ごもった。「そ......それは、そのう......。さっきもいったように、あのさ、色艶が......」
「形状と発光ぐあいに因果関係はありません。あなたは裏表が区別できるよう、こっそり印を残した。正八角形に切らせたのはそのためです」
的場のマスクは頬筋がひきつっているようにみえた。「ありえないでしょう。マーキングを避けるためにこそ、私は紙の任意の位置を名刺大に切りだしたんです。だいいち、丹内さんは紙にほとんど触れていないんですよ。印をつけるなんて無理でしょう」
莉子の言葉は揺るぎない自信に溢れていた。「印をつけたわけじゃないんです。これらの紙にあるのは、自然発生した目に見えない印です。配ってみればわかります」
「配る?」的場は近づいてきて、五枚の名刺大の紙を手に取り、一枚ずつテーブルに置いていった。
すると、的場の声が驚愕の響きを帯びた。「なっ......。これは!?」
「カードを配ってテーブルに置くという動作は、おのずから角をつまむことになります。その角の硬さが違うんです」
「たしかに......。裏返した二枚目と五枚目のみ、妙に柔らかい。ほかは同じ硬さなのに」
「正確にいえば、長方形の二本の対角線の張力に差があるんです。フランク紙に限らず、たんなる厚紙や画用紙でも同じことができます。紙というのは、製紙時の進行方向に〝目〟が入ります。〝目〟は常に縦または横に走っています。けれども、紙に対し斜め四十五度に傾けて四角形を切りだせば、そこには〝目〟が斜めに入っていることになります。結果、左上から右下にかけての対角線の張力は、右上から左下への対角線と異なります。裏返った紙だけ角の硬さが左右逆になるんです。角をつまんで配れば、触覚でわかります」
「じゃあ......あらかじめ正八角形に裁断させるというのは......」
「あなたが名刺大に切りだす前に、丹内さんはひそかに紙全体を四十五度傾けています。それを悟られないようにするためです」
的場はなおもフランク紙のカードをいじっていたが、やがて暗黒面の怒りのオーラを全身から放ちながら、もうひとつのテーブルを睨みつけた。
小笠原もその視線を追った。
ところが、そこにはもう丹内の姿はなかった。廊下に面した扉を開け放ち、丹内は逃げだしていた。走り去る足音が、閉じていく扉の向こうに甲高くこだまする。
思わずため息が漏れる。小笠原は吐き捨てた。「なんだよ。ペテン師だったのか」
莉子も呆れたようにつぶやいた。「ずいぶん慣れてたわね。たぶん、わたしの前に何人もの専門家が招かれて、丹内さんと鑑定対決をさせられたんでしょう。みんな正直に取り組むあまり、単純なトリックに気づかなかったのね」
不正がないよう目を光らせるのは審判の仕事だろう。小笠原は苦言を呈した。「的場さん。理力で見破れなかったんですか。もとはといえばあなたが注意すべきこと......」
ところがベイダーマスクのほうも、散らばったフランク紙をそそくさと回収すると、丹内に負けず劣らずの逃げ足の速さを発揮し、もうひとつの扉に飛びこんでいった。
小笠原は追いかけたが、寸前に扉は閉じてしまった。ドアのノブをつかんだものの、回らなかった。「オートロックか。こっちからは開けられない」
「でも」莉子は立ちあがった。「建物の出入り口はひとつしかないでしょう」
違いない。あの男も貸会議室の利用者にすぎないのだから、正面のエントランスから退出するだろう。
莉子とともに廊下へでた。エレベーターに走ったが、すでに降下中だった。ほかのエレベーターは稼働していない。悠長に待ってはいられなかった。小笠原は下り階段に身を躍らせた。莉子も追いかけてくる。
三階から二階、一階。ロビーにでた。エレベーターはとっくに到着し、扉は開ききっていた。そのなかにも、フロアにも人影はない。
急いでエントランスの自動ドアから外に駆けだしたが、鈴虫の厳かな合唱のなか、暗がりがひろがるばかりだった。
呆然とたたずんでいると、足音がした。あわてて振り向くと、懐中電灯を手にした守衛が近づいてきた。
老齢の警備員はしわがれた声でたずねてきた。「あなたがた、D会議室の人? もう終わったかね? 施錠するから」
莉子が息を切らしながらきいた。「あ......あのう。ほかにでてきた人を見かけませんでしたか」
「さあねぇ。居残っている人がいちゃ困るよ。ええと、会社名はなんだっけ。フォーンボイス......さんだったね。全員揃って退出していただきたいんですか」
「こっちもそうしたかったんですけど、ふたりほど先にでちゃったので」
「ふうん。そうなのか。私は裏を見まわってたんで気づかなかったよ」
莉子はたずねた。「フォーンボイス......うちの会社ですけど、前にもお世話になりましたっけ」
「いや。貸会議室の利用は今回が初めてだね。耳慣れない社名だなと思ったよ」
小笠原は守衛を見つめた。「会議室を予約した者の名前、きいてませんか」
「ちゃんと把握してますよ。申し込みはネットだったけど、会社名だけじゃなく代表者の名前もいれてもらうことになってるから」
莉子が色めきたったようすできいた。「何ていう人ですか?」
「女の名前だったな。たしか凜田......そうだ。フォーンボイスの凜田莉子さんだよ」
たちまち莉子の顔に失望のいろがひろがった。
小笠原も肩を落とすしかなかった。
奔走し、能力テストまで受けさせられて、先方が何者だったかまるでわからない。蓬莱瑞希の行方を知っているかどうか、質疑するチャンスすらなかった。運命を弄ばれているかのようだ。
サイレン
翌朝、時計は五時をまわっていた。
凜田莉子はホテル阪急エキスポパーク七階、シングルルームのバルコニーに立っていた。朝焼けの空の下、万博公園の森のなかにたたずむ『太陽の塔』を、長いこと眺めていた。
オレンジいろの陽射しに映える異形の塔は、いまにも木立をなぎ倒して動きだしそうだった。せわしない鳥のさえずりも、優雅というよりどこか不安を掻きたてる。
家屋が密集する住宅街と、非日常の塊のような『太陽の塔』の落差。視界全体がデ・キリコの形而上絵画に重なる。自分もその奇怪で面妖な世界に取りこまれてしまった感覚すらある。
隣りのサッシが開く音がした。小笠原がバルコニーにでてきて、こちらを見たとたん目を丸くした。「あ、凜田さん。おはよう」
「おはよ。やっぱ外を眺めたくなった?」
莉子はすでにパジャマから服に着替えていたが、小笠原も同じくワイシャツ姿だった。その小笠原は眠そうに欠伸をしながらうなずいた。「寝つけないまま朝を迎えたよ」
「わたしも......。なんだか落ち着かなくて。ゆうべのチェックインのときも、ホテルのフロントがほかの惑星っぽく思えちゃったりして」
「わかるよ。何が起きても不思議じゃない気がしてくる。わけのわからないことばかりで感覚が麻痺しそうだよ。記事を書こうにも、どこから手をつけてよいのやら」
「そうよね。あの的場さんって人もわけわかんないし。マスクまで被って正体を隠しながら、他人の鑑定能力を気にかけるなんて。どういうつもりかしら」
「......あのさ。凜田さん。きのういってた『ほぼ完璧』って意味の表現だけど」
「なにか単語を思いついた?」
「日本語ではちょっと難しいかな。英語なら almost ってのがあるけど」
「オルモスト、かぁ......。うーん。日本人相手には伝わりにくいかな」
「わかるよ」なぜか小笠原は大仰にうなずいた。「お互い日本人なのに、英語に頼らなきゃいけないなんて歯がゆいよね。でもこれから、僕たちの合言葉は almost だよ」
「合言葉?」莉子は妙に思いながら小笠原の横顔を見つめた。ずいぶん上機嫌のようだが、どういう心境なのだろ......。
着メロが鳴った。莉子はポケットから携帯電話を取りだして応じた。「はい。凜田です」
低い男性の声が告げてきた。「凜田先生。おはようございます」
「あ、蓬莱さん......。おはようございます。その後どうですか。奥様から連絡か何か」
「いえ」蓬莱の声は疲弊しきっていた。「独身のころに戻ってしまったかのようです。妻がいたこと自体、幻に思えてきます」
「きっと帰ってきますよ。無事を信じましょう」
「ありがとうございます。しかし、警察も頼れないとなると......。ご相談なんですが、小笠原さんにこの件を記事にしていただくわけにはいきませんか?」
「記事......ですか」
「憶測でものを書くなと釘を剌されていることは承知してますが、報道によって広く情報の提供を呼びかけたいんです。できればほかのマスコミ各社にも知らせて......」
「蓬莱さん」莉子はつとめて穏やかにいった。「報道関係者から問い合わせが殺到したら、府の運営担当部署は態度を硬化させるでしょう。警察は府に対し『太陽の塔』のなかでは何も起きていないと太鼓判を押しているでしょうし、自分たちに落ち度はないと確信しているはずです。いわれなきゴシップと判断して、いっさいの取材を拒否する可能性があります。そうなったらもう、小笠原さんもわたしも『太陽の塔』には立ちいれません。手がかりを探すのは困難になります」
「......ですよね。すみません。わかってはいたんですが、じっと待っているだけなのはあまりに辛くて」
「お察しします......。でもいまは堪えなきゃいけないときです。希望を忘れずに頑張りましょう。きょうは家におられるんですか?」
「いや、そういうわけにもいかないので......。会社を休んでばかりじゃクビになってしまいます。出勤しますよ」
「そうですか。おでかけの際は、どうか充分にお気をつけて。何か判ったらすぐにお知らせします」
「是非そうしてください。ではまた」
通話は切れた。莉子は憂鬱さを噛みしめながら、携帯電話を仕舞いこんだ。
小笠原がきいてきた。「蓬莱さん?」
「ええ。だいぶ落ちこんでるみたい」
「だろうね。......それにしても、的場ってのは何者だろうね。どんな目的で凜田さんに接触してきたんだろ。柳瀬警部補に話したら、少しは真剣になってくれるかな」
「どうかなぁ。そもそも蓬莱瑞希さんの失踪自体、まともに取り合ってくれていないんだから......。千里市民センターで奇妙なことがありましたって話したところで、ああそうですかで終わりじゃないかな。こっちはなんの被害にも遭ってないんだし」
貸会議室の予約者の名義は凜田莉子になっていたが、レンタル料は別の何者かによって事前に支払われていた。むしろ、請求をわたしにまわしてくれたほうが、詐欺に遭ったと主張して警察に被害届をだせるのに。莉子はじれったく思った。
そのとき、風に吹かれて、遠方に湧いたサイレンの音が耳もとに運ばれてきた。
たちまち音量は増大し、住宅街の朝の静寂を破っていく。複数のサイレンの合奏だった。
路上に赤色灯を明滅させた覆面パトが二台、さらに通常のパトカーと機動隊の大型輸送車が連なって出現した。サーキットよろしくホテル前を駆け抜け、うねりながら公園を縁取っていく。
莉子はいった。「日本庭園入り口に向かってる......。きのう乗りいれた道よ」
「すると」小笠原の声が緊張の響きを帯びた。「行き先はもしかして『太陽の塔』?」
ふたりは互いを見つめあった。次の瞬間、それぞれに踵をかえして部屋に飛びこんだ。
莉子はハンドバッグを手にとった。不可解な事象ばかりが多発する。でも、どんなにシュールに思えても、すべては現実だった。論理的思考を放棄してはならない。
侵入盗
万博記念公園駅に面した入園ゲートは、早朝のこの時間帯には閉まっている。従業員専用の出入り口は開いていたが、制服警官が立っていた。莉子が柳瀬光彦警部補の名を口にすると、意外にもあっさりとなかに通してくれた。
芝生の丘の向こうに『太陽の塔』が両腕を広げ待ちかまえる。散策路を足ばやに進みながら、莉子は思った。現場の陣頭指揮をとっている人間を知っているからには関係者。いまの警官はわたしたちについて、そう判断したのだろう。
並んで歩く小笠原も同じ考えのようだった。「柳瀬警部補が来てるんだな」
蓬莱瑞希のことで何か進展があったのだろうか。最悪の事態は考えたくもないが......。
予想どおり『太陽の塔』の周辺では、大勢の人員が駆けずりまわっていた。私服と制服の警官のみならず、警備員の動きもせわしない。
柳瀬は、日本統合警備取締役の門井と立ち話をしていた。ふたりとも真剣な面持ちながら、揃ってスーツの着こなしが甘い。まだ寝ていたところを、急いで飛びだしてきたのだろう。特に柳瀬のほうはまだ眠たげに見える。
癇癪を起こされたのでは退去を命ぜられてしまうだろう。莉子はおずおずと話しかけた。
「あ、あのう......」
ふたりの男がこちらに目を向ける。先に反応をしめしたのは門井だった。「ああ。凜田先生。それに記者の小笠原さん。おはようございます」
おはようございます。莉子は小笠原とともに会釈をしたが、柳瀬は無愛想にきいてきた。
「誰かあなたがたを呼びましたか?」
莉子は弱腰にいった。「いえ......。サイレンがきこえたもんですから」
「朝早くから好奇心旺盛ですね。もっとも今度はれっきとした事件だから、遅かれ早かれマスコミに対して発表せざるをえないわけですが」
事件......。莉子は息を呑んだ。
小笠原が柳瀬に問いかけた。「蓬莱さんの奥様に何か......」
「いや。そんなのは無関係ですよ。旦那さんのほうはそうともいいきれないが」
どういう意味だろう。莉子が疑問に思ったとき、制服警官が駆けてきて呼びかけた。
「警部補」
柳瀬は厳めしい表情のまま警官とともに塔に向かった。木製階段を上り下りして、濠のなかに消えていく。
門井が莉子を見つめてきた。「お近くに宿泊されてるんですか?」
「はい」と莉子は応じた。「バルコニーから『太陽の塔』を眺めてたら、目の前をパトカーが走り抜けていったので。何が起きたんですか?」
「窃盗ですよ。まったくもって信じがたいことです。うちも朝から夕方までは二十人の警備員を動員してますが、夜間は盲点でした。けさ出勤した第一班が異常に気づいて通報したんです」
小笠原がきいた。「盗まれた物はなんですか」
「展示品ですよ。一階に置いてあった宇宙船やら何やらの部品の類い。ごっそり持っていかれました」
莉子は驚きを禁じえなかった。「泥棒にぜんぶ奪われちゃったんですか」
「いえ、半分以上は残ってます。品定めしたんですかね。なかをご覧になりますか?」
「それはもう......。ぜひ」
どうぞ、と門井は告げて、先に塔に歩きだした。
恐縮しながら後につづく。濠のなかや通用口の周辺では、すでに鑑識課の制服が動きまわっている。黄色いテープが張られた区画には手を触れないよう、注意しながら歩いた。
塔の内部に入ると、きのうよりもずっと大勢の人員が駆りだされているとわかった。サイケな色づかいの前衛的な空間に捜査員が散っている。足跡や指紋の採取はいたるところでおこなわれていた。鑑識課員は踊り場の上層部にまでのぼり、丹念に調べあげている。
セメントで埋められたという地階への階段は、鉄格子の扉が閉ざされてはいるものの、周辺にテープを張り巡らすこともなく放置されていた。あそこから出入りした可能性は皆無と判断しているのだろう。本当に奥が塞がれているのか、機会さえあればたしかめてみたいところだが......。
床に帯状に敷かれたビニールシートを踏みしめて、一階エスカレーター上り口付近の展示スペースに近づく。異常はすぐにわかった。ほぼ隙間なく並んでいたはずの展示品はあちこち欠落し、まばらに残るのみになっていた。
柳瀬警部補が鑑識課員に命じている。「こっちからも写真を撮ってくれ」
小笠原は唸った。「ずいぶん持っていったね。価値はあまり無いんじゃなかった?」
莉子は戸惑いがちにうなずいた。「ええ。そのはずなんだけど......」
近くに顔見知りの男性がいた。大阪府庁府民文化部の柴野は、ひきつった表情でクリップボードにペンを走らせている。
その柴野に、莉子は声をかけた。「きのうはどうも......」
柴野ははっとしてこちらを見た。とたんに、すがるような目を向けてくる。「凜田先生! ああ、こんなことが起きるなんて予想もしてませんでした。上司からは叱責を食らうし、最悪ですよ」
「どうか落ち着いてください。昨晩、ここを閉めるまでは異常なかったんでしょうか?」
「もちろんですよ。私が警備員のかたがたと退去するまで、すべての品物が揃ってました。消灯して外にでて、扉に鍵がかかるのもこの目で見ました」
「終日ここにおられたんですか?」
「ええ。これら展示品をデジカメで一個ずつ撮影していましたから。時間はかかりましたけど、凜田先生に鑑定を約束していただけたので」
「すべての画像が残ってるんですか。ってことは、何か盗まれたかもはっきりしているわけですね」
「ええ、そうですよ。いまも計算してたところです」
「計算って?」
「オークションの落札価格表を見ながら、盗まれた品物の被害額を算出しまして。五万円のうち、二万三千七百五十七円です。送料と税込みで」
小笠原が微笑した。「経費を抑えておいて正解でしたね」
柴野は苦笑を浮かべたが、すぐにまた真顔に戻った。「それが、上司の話では今回のことでうちの部署の経費が大幅に削減されるっていうんですよ。そりゃないよって頭を抱えるしかない状況なんです。ただでさえ給与も減額されてる府だってのに......」
「でもいろんな面で保護されてるでしょう? 公務員なんだし」
「いや! 東京で大手出版社にお勤めの人にはわからんのでしょう。大阪の公務員への締めつけはもう、えげつないんですよ。私の部署も、昼食なんか二百円以下です。昔は見栄を張って値引きシールを剥がしてましたけど、いまやすっかり貼ったままで」
「はあ、そうなんですか......」
「最近はもっぱら、ざるそばですね。スーパーでキロ二百円台の特売の乾麺、売ってるでしょう? あれを家で茹でて、コンビニのざるそばの容器にいれて持っていくんです。塊になってますから、二本の箸を駆使してほぐしながら食べるのがコツです」
莉子は静かにいった。「盗まれた物が回収できれば平穏に済みますよ。まずは考えてみましょう。泥棒は旧ソ連製以外の、小さな部品にばかり興味をしめしているようです。人物として心当たりは?」
「はて......。知り合いにはいそうにもないですが。でもどうしてそんな犯人像だと?」
「残された物を見てください。〝USSR〟の文字が目につきます」
「ああ、たしかにそうですね。これも、それからあれも......。〝USSR〟ばかりだ」
「その一方で〝USA〟や〝NASA〟の記載があっても、大きめの物は盗まれていません。フットボールのサイズはもちろん、水筒ほどの体積の部品であっても対象外のようです。ほぼ電気シェーバー以下、ポケットにおさまりそうな小物ばかりを奪い取っています」
「なるほど。でもなぜわざわざ侵入して盗む必要があるんでしょう。錆びついたガラクタばかりなのに」
柳瀬警部補が歩み寄ってきた。「異常なコレクターがいたんでしょう。これらの展示品はテレビのニュースにも映りましたからな。興味を持った人間が盗みの衝動に駆られたとしてもふしぎではない」
「でも」柴野は眉をひそめた。「ネットで二束三文に投げ売りされてる物ですよ。そっちで買ったほうが安全でしょう」
「店で万引きする輩にしても、お金がなくて買えないからという犯行動機はごくわずかでね。盗みたいから盗む。そういう短絡的な思考だからこそ反社会的行動にでるんです」
年配の鑑識課員が近づいてきて、柳瀬に報告した。「二階以上には侵入した形跡はないですね。被害もありません」
「指紋はどうですか」
「残念ながら......。一階の床から靴の跡が部分的に採取できたに留まってます」
柳瀬は苛立ちをあらわにした。「犯人は防犯カメラがないことを知ってた。事前に下見した可能性が高い。となれば、ここに侵入したことがある者の関与が疑われる。自明の理ですな」
小笠原が憂いのいろとともにつぶやいた。「侵入したことがある者って? まさか......」
そのとき、通用口付近がにわかに騒がしくなった。制服警官の群れがぞろぞろとこちらに向かってくる。彼らに囲まれているスーツ姿の男は、なんと蓬莱浩志だった。
半ば強制連行されたも同然の蓬莱は、柳瀬の前で解放されると、眉間に皺を寄せて一同を見渡した。「いったい何ですか。出勤の準備をしてたら家にいきなり警官が......」
柳瀬は咳ばらいをした。「あくまで任意同行を求めたまでです。いまのところはね。蓬莱さん、昨晩はどちらにおいででしたか」
「家におりましたよ。夕方に凜田先生と小笠原さんが立ち寄った後、いつ妻から連絡があるかわからないので......」
「朝までひとりで引き籠もってたわけですか。誰かそのことを証明できる人はいますか」
莉子は柳瀬に抗議した。「待ってください。蓬莱さんは奥様の行方が判らず気を落としているんですよ。少しは配慮してください」
「アリバイを確認するだけです。通常の捜査手順ですよ」柳瀬は蓬莱をまっすぐに見つめると、厳かに告げた。「詳しく話をうかがいます。外にでましょう」
蓬莱は不本意そうな表情を浮かべたが、抵抗の素振りはしめさなかった。警官たちにうながされ、ゆっくりと通用口に引き返していった。
柳瀬も立ち去りかけたが、足をとめて門井を振りかえった。「現場検証が充分に済むまで、招待客への公開は中止すべきでしょうな」
門井が残念そうな面持ちでうなずいた。「府のほうも当然、そう判断するでしょう」
「しばらくこの現場は、捜査員の自由にさせていただいてかまいませんか」
「ええ。うちのほうは全面的に協力させていただきます」
「結構。それでは」柳瀬はぶっきらぼうに告げて歩きだした。
密集していた人だかりか解消していくと、門井はため息をついて莉子を見つめた。「お聞きの通りです。当面、ここへの立ち入りは制限されるでしょう」
小笠原が門井にいった。「記者としては油を売ってるわけにいかないので、何らかの取材を続行したいんですが......。警備の人たちに話をうかがうことはできませんか」
「いいですよ。とはいえ、招待客向けの公開が中止になる以上は、いったん全員が引き揚げざるをえません。取材なら、うちの会社においでになったほうがいいでしょう。総務のほうに連絡をいれておきますから、いつでもお立ち寄りください」
「ご親切にどうも」小笠原は頭をさげた。
門井が去り、柴野も自分の仕事に戻ると、莉子と小笠原はふたりきりでたたずむことになった。周囲は忙しく立ち働いている。捜査に関係のない人間は一刻も早く退去すべき、そんな無言の圧力がある。
莉子は歩きだしながら小笠原に微笑みかけた。「ナイス判断。失踪にしろ盗難にしろ、そのときの警備状況をつぶさに調べれば何かわかってくるかもしれないし」
小笠原は胸ポケットからペンタイプの小型機材を取りだした。「ほかにどうしようもないからね」
「それ、ICメモリーレコーダー? 会話を録音したの?」
「取材には欠かせないツールだよ。現状では情報が少なすぎて、とても記事にならないけどね。凜田さんとしてはどう? 手ごたえとか......」
「まだ全然」莉子は困却とともにいった。「一刻も早く真相を究明しないと。このままじゃ蓬莱さんが気の毒すぎる。奥様の身の安全も心配だし......」
四つの鍵
一九六八年に設立された日本統合警備は、国内の警備会社のなかでは老舗に入り、信頼度調査では十年連続でトップを記録している。ほぼすべてのメインバンクと契約し、現金輸送からATMの営業管理、トラブル対応まで幅広く対応している。
さらにビル運営と防災システムの管理、家庭用セキュリティ、高齢者介護、そして防犯防災グッズの販売およびレンタルと業務内容も豊富だった。
今年五十七歳になる嘉藤克郎は、大阪の梅田にある日本統合警備関西支社の総務課長を務めている。
かつて和歌山東警察署管内で交番勤務の巡査長だった嘉藤は、家庭の事情でやむなく依願退職し、この会社に入った。
もちろん過去に不祥事などはいっさいない。不正行為の経験もない。警官を天職と感じていた嘉藤は、第二の人生を民間の仕事としては最大の栄誉と信じて疑わなかった。
実際、日本統合警備では社員の八割が元警察官か消防士、それも勤務態度と成績が優秀だった者に限り採用されている。嘉藤の巡査長時代の同僚も多く在籍していた。逸材揃いという意味では県警以上かもしれなかった。
十一階建てのビルの六階、カウンター内の二十畳ほどのスペース、事務机とロッカーがひしめく区画が嘉藤の仕事場だった。内勤になってからというもの、社員以外の人間とはすっかり会わなくなったが、けさは来客があった。
『週刊角川』の取材記者というから、年配の人間かと思っていたが、総務課を訪ねてきたのは若くてルックスのいい男女だった。嘉藤はカウンターをはさんで応対した。
小笠原がいった。「警備員の方々にも話をうかがったんですけど、どこに派遣されるか当日の朝にならないとわからないシステムだとか」
嘉藤はうなずいてみせた。「いかにもその通り。警備課の出勤可能な職員のなかから、頭数ぶんをランダムに抽出してチームを編成するんだ」
「どうしてまたそんな方法をとっているんでしょうか」
「不正や癒着の防止、それから馴れ合いだとか、もたれ合いによる警備力の低下を防ぐためだよ。この会社の創立以来の決まりごとでね。たとえば、もうすぐ大阪市長選にからむ警備要員をのべ百人ほど派遣しなきゃいけないが、事前に名簿一覧やシフト表を作成したんでは賄賂や買収のターゲットにされる可能性もある。投票箱の警備に立つ人間が何者か、そのときが来るまで誰も知らないほうがいいんだよ」
「派遣する警備員の抽選は、ここでおこなっているとききましたが......」
思わず笑いがこぼれる。嘉藤は天井を仰いだ。「抽選ね、そう呼ぶこともできるかな。やり方は非常にアナログだよ。そのほうが公平なんでね。仮に、ある現場に十四名の警備員を出向させるとする。当日の朝、手が空いている警備課の人間は五十人だとしよう。私はまず、ロッカーから彼らの履歴書を取りだす」
嘉藤はロッカーに歩み寄って、履歴書の束をひとつかみに取りだした。五十枚を数え取り、カウンターの上に置いた。
莉子が一番上の履歴書を眺めてつぶやいた。「大阪府警交通機動隊に白バイ隊員として勤務。全国優良警察職員表彰受賞......。へえ。噂どおり、すごい人が集まってますね」
「だろ? 採用条件が厳しすぎて頭数が足りないから、どうしても一割ほど警備の未経験者を雇用したりしているけど、それらも研修や実地訓練で徹底的に鍛えあげるからね。とにかく有能な連中ばかりだから、現場に派遣するときにはもう履歴を参考にはしない。このなかからでたらめに選ぶんだよ」
「十四人ぶんの履歴書を無造作に引き抜くとか?」
「ああ。でもそれだけだと総務課の職員の癖だとか、怠慢によって公平かつ公正な抽選にならない可能性がある。わが社では伝統的に選出方法が決まってるんだよ。まず履歴書の束を、こうやってふたつに分ける。それぞれ混ぜたのちに、元のほうの束からだいたい選ぶ人数分ぐらいの枚数、つまり十四枚前後をこれも無作為に選んで、裏表をひっくりかえしてから、もう一方に混ぜる」
「......裏表ごちゃごちゃに混ざっちゃいましたね」
「そう。実際に抽選するときには、三名以上の総務課の人間と取締役一名が立ち会うことになってるんだ。彼らの見守るなか、これをやるのが長年私の仕事になってる。さて、裏表混ざりあったほうからまた、十四枚前後を選んでひっくりかえし、もういっぽうに載せる。そしてまた混ぜる。これを全員が納得するまで果てしなく繰り返すんだ。最後に、元のほうの束をひっくりかえしてもう一方と合わせて、全体を混ぜる。なかから、裏向きになっている履歴書だけ取りだして並べる」
「十九人ぶんありますね」
「必要なのは十四人だから、このなかから五枚を取り除いて、抽選完了だ。もし頭数に足りない場合は、元の束からでたらめにその人数分を引き抜いて加える。なぜ裏向きに選ぶのかといえば、最後まで徹底して公正さを保つことと、場合に応じて私たちも警備チームの選出者を知らずにおくためなんだ」
「すごい」と莉子は感心したようにいった。「半端じゃないですね。『太陽の塔』の警備要員もこうやって選んだんですか?」
「もちろんだよ。初日の朝に門井さんが来て、二十人を選ぶように指示してきた。この場にいた全員で、ロッカーから履歴書を取りだして、いまやったみたいに抽選した。期間内に出勤可能な警備員は五十五人ぐらいだったかな。何人か私の知り合いもいたけど、彼らは抽選の結果漏れてしまった。『太陽の塔』の警備は別に極秘事項ってわけじゃなかったから、その場で二十人の履歴書を確認して、電話で呼びだしをかけたよ」
「そのなかに大柄で力の強そうな人はいませんでしたか?」
「いや......。そうだ、思いだした。抽選で二十三人が残ったが、うち、図体のでかい三人を除外したんだよ。万博公園の警備には威圧感のない人を選ぶよう、以前から決まっているからね」
莉子と小笠原が顔を見合わせた。ふたりともどこか残念そうな面持ちだった。
若い主婦を連れ去った警備員姿の男がいたという噂は、嘉藤の耳にも入っていた。
絶対にありえないことだ、嘉藤はそう確信していた。警備チームの抽選から勤務状況の把握まで、この私が責任を持っておこなった。磐石の態勢だったと自信を持っていえる。
嘉藤は事務机の上から一冊のファイルを取りあげ、カウンターに載せた。ファイルの表紙を開いて、おさめてある二十枚の履歴書を並べていく。「ほら。彼らが『太陽の塔』の警備員たちだ。顔写真を見てごらん。雪だるまみたいな巨体はいないだろ?」
莉子が履歴書を眺め渡して表情を曇らせた。「そうですね......。たしかに『太陽の塔』におられた方々です。お顔を拝見した覚えがあります。みなさん小柄でした」
小笠原がおずおずと告げてきた。「あのう、嘉藤さん。御社の管理体制は徹底していて、本当に素晴らしいと思います。でもそれだけに、どうしても疑問が......。なぜ展示品をごっそり盗まれるなんて事件が起きたんでしょう」
嘉藤は暗然とした気持ちになった。「うちとしても痛恨の極みだよ。警察は型通りの捜査だとかいって、『太陽の塔』の警備員たちがきのうの晩何をしていたか知りたいと電話をかけてきた。昔から刑事課はどうも好きになれん。それはともかく、うちでは二十人全員の出勤は確認するが、プライベートまでは関知してないと伝えておいた」
莉子がじっと見つめてきた。「警備員の誰かが夜中に侵入した可能性はありうるんでしょうか」
「ないね」嘉藤は心からいった。「現在、警備チームは五人ずつ四つの班に分かれていて、『太陽の塔』の通用口にも四つの鍵を取りつけてある。鍵は各班に一本ずつ預けられている。班内では鍵の所持は当番制になっていて、一日ごとに別の人間が手にしているんだ。当番のローテーションは班ごとに違うから、鍵を持っている同僚どうしがひそかに連絡を取り合うとか、そんなことは不可能なんだ」
小笠原が得心のいったようすでうなずいた。「これまた徹底してますね」
「その通りだよ。もともと抽選による選抜だから、警備員はチーム内に知り合いも少ないし、何人かが共謀して集団を出し抜くなんて無理だ」
しばし莉子はじっと何か考えこんでいるようすだったが、やがて嘉藤にきいてきた。
「四つの鍵というのは、濠のなかにある通用口を施錠するための物ですよね? 塔の〝右腕〟の先にあるハッチはどうですか。螺旋階段をのぼって外から入ることは......」
「あそこは内部からレバーを操作しなきゃ開かないだろう。けさ門井さんがいってたよ。螺旋階段を上り下りする人間がいたら、深夜だろうと万博記念公園駅にある警察のカメラに映るって」
「ええ、そうですね......。取締役の門井さんは警備の責任者ですよね? 門井さんの指示があれば、警備状況が変わることもありえますか? たとえば特定の日の夜だけ鍵を開けておくとか、四本の鍵をひとりに預けるとか......」
ナンセンスな話だ。嘉藤は苦笑せざるをえなかった。「まったくありえないよ。役員だろうが株主だろうが、警備プランを改変してはならないという規則がある。もしそんな命令を受けた場合、警備員は従わなくていいことになっているし、すぐに総務課および会長秘書室に通報が入る。しかし、マスコミの人は想像たくましいね。まさか門井さんにまで疑惑の目を向けるとは思ってもみなかったよ」
莉子はあわてたように弁明してきた。「疑っているわけじゃないんです。ただ責任者が全権を委任されている場合、ほかの誰かがその人からの伝言だと偽って、現場に勝手な指示をだせるのでは......と、そんなふうに思っただけでして」
「もうわかってると思うけど、うちの会社じゃ絶対にひとりに責任を集中させないんだ。社長や会長ですら現場に口だしはできない。それが警備会社として高い評価を得てきた最大の理由だよ。それに門井さんは人格者だ。面倒見がいいし細かいことまで気を配ってくれる。私が入社して総務部に配属されたときにも、イロハから教えこんでくれたのは門井さんだったんだよ」
「そうだったんですか。すみません。失礼なことばかり......」
「いや。記者はそれが仕事だろうし。警備員も場合によっちゃ人から恨まれたりもするだろうし、お互いさまだな」
莉子の顔に安堵のいろが浮かんだ。「でも、警察の現場検証が始まって、警備員は閉めだされちゃったみたいですね......。きょうからまた非番でしょうか」
「どうかな。いったんは引き揚げたみたいだけど、公園全体の警備もあるから、まだチームの解散や再編成の段階ではなさそうだな。招待客向けの公開が再開しなくても、ハリス氏が塔のなかを見たいと申しいれてきたら、警備につかなきゃいけないだろうし」
「ハリス氏って、オーガスティン・ハリス教授? 新聞で読みました。まだ日本におられたんですか」
「つい先日の見学の後、すぐに帰国する予定だったみたいだけど、永友エンジニアリングとの懇親と意見交換のために、しばらく大阪に滞在することにしたってさ。あれだけ日本のテクノロジーを見下していた教授を魅了しちまったんだから、たいしたもんだよね」
「見下してた?」
「そう。教授に限らないだろうけど、アメリカのエンジニアは日本企業の高い技術力を認めつつも、内心では西欧の物真似だと毒づいているものさ。ハリス教授も、特に永友に対しては批判の矛先を向けてたらしくてね」
「へえ。最近報じられてる教授のコメントとずいぶん違いますね」
「だろ? じつは『太陽の塔』はね、教授のほうから見学したいと申しいれてきたけど、永友エンジニアリングは断ったんだよ。〝どうせ非難の材料を探しているだけだろう〟って。教授は大使館まで味方につけて、強引に見学にきた。こっちも渋々案内したんだけど、それが見学終了後はもう永友にぞっこんでね。展示品だけでなく塔の改装全般に興味があるらしい。とにかく、技術供与の約束を取り結ぶまで帰らないってさ」
「教授なら、ゆうべの窃盗犯が何を狙っていたのか、見当がつくかもしれませんね」
「まあ、たしかに......。NASAに勤めていたこともある人だからね」
「いまどこにおられるんでしょうか」
「さあ。うちは別に身辺警護を依頼されているわけじゃないし、わからないな。永友エンジニアリングに問い合わせてみたら?」
莉子は目を輝かせた。「そうします。どうもありがとうございました」
すぐさま莉子は深々と頭をさげると、ふいに背を向けて歩き去った。小笠原もおじぎをしてそれに倣った。
嘉藤はぽかんとしながら見送った。半ば唐突に切りあげられた会話に空虚さが残る。取材のほうは、もういいのだろうか。メモもとっていなかったようだが。
カ=セント
JRの東海道本線、西明石行きに乗って三十分強。正午過ぎ、小笠原は神戸の元町駅に着いた。
異国情緒漂う街並みだが、山が間近に迫っているあたりに横浜とは似て非なるワイルドさが漂う。晴れ渡った空の下、多くの観光客が歩道を散策していた。
同行した莉子も神戸は初めてのようだったが、道順はさっき永友エンジニアリングに電話した際に説明を受け、すっかり頭に入っているらしい。まるで馴染みの土地のように迷うことなく兵庫県庁方面に向かって歩きだし、一本裏に入った道にあるスペイン料理店〈カ=セント〉を見つけだした。
全面ガラス張りの向こう、白とブラウンを基調にしたモダンでスタイリッシュな店内がある。席は埋まっているようだった。
小笠原は固くならざるをえなかった。ミシュランガイドでも三つ星の有名なレストラン。こんな安物のスーツで入店していいものだろうか。
ところが、小笠原よりもいくぶんカジュアルな服装の莉子は、なんら躊躇することなくエントランスに足を踏みいれていった。
「ちょ、ちょっと。凜田さん......」小笠原はあわてて追いかけた。
正装姿の従業員が迎える。莉子は告げた。「オーガスティン・ハリス教授のテーブルへお願いしたいんですけど」
「かしこまりました。どうぞ」と従業員が先に立って歩きだす。
あたかも客のように店内へ入ろうとする莉子に、小笠原はささやきかけた。「まずいよ」
莉子はきょとんとして見かえした。「どうして?」
「僕、あまり持ち合わせがないよ。食事をとらなきゃいけなくなったら......」
「心配しないで。わたしもいまお財布に二千円ちょっとしかないし。ランチなんて最初から無理。ガストでもドリンクバーのクーポンがないと厳しいぐらい」
「なら、そんなに落ち着いている場合じゃないだろ? 店員さんは、僕らが教授と会食の約束があると思ってるよ」
「そんなことひとこともいってないし。いいから、まかせて」
どうやら莉子は、言葉の微妙なニュアンスで切り抜けるつもりらしい。逆鱗に触れて叩きだされるのでは。小笠原はびくつきながら莉子の後につづいた。
奥のテーブルに外国人男性がいた。五十歳代の白人、テレビのニュースで見覚えのある生真面目で神経質そうな横顔。仕立てのよさそうなスーツを着たハリス教授は、セロリの入ったガスパチョを品よくスプーンですくい、口に運んでいる。
同じテーブルでハリスと向かいあっている日本人男性に、莉子はいきなり声をかけた。
「こんにちは、福寿さん。昨日はお世話になりました」
眼鏡をかけた、これまた几帳面そうな顔つきの男性が顔をあげる。『太陽の塔』では作業着姿だったが、いまは紺のスーツを身につけていた。
永友エンジニアリングの技術部長、福寿義治は驚いたようすで立ちあがった。「これはどうも。ええと、凜田さん。それに小笠原さん。......教授、こちらは東京の大手出版社から取材にみえたおふたりです」
ハリスはアメリカ人らしい親しみやすさを前面に押しだし、すぐに腰を浮かせた。笑顔で手を差し伸べながら、ハリスは流暢な日本語で告げてきた。「初めまして。食事にいらっしゃったんですか。ご一緒にどうですか」
莉子はにっこりと微笑んだ。「ではお言葉に甘えまして」
小笠原もハリスと握手したが、蝋人形のように全身が固まっていた。喉がからからに渇く。こんな大胆なアポなし突撃インタビューは、いまどきゴシップ誌でもおこなわない。
従業員は不審に思ったようすもなく、四人掛けテーブルにふたりぶんのフォークとナイフのセットを追加し、椅子をすすめてきた。莉子が着席するのを見届けてから、小笠原は血管も凍る思いで椅子に腰かけた。
福寿がいった。「コースになさいますか。それとも一品料理......」
従業員を振りかえって莉子は告げた。「メニューを見せていただけますか」
ハリスはナプキンで口もとをぬぐいながらきいてきた。「神戸では何の取材を?」
声もでない小笠原に代わり、莉子がハリスにいった。「ハーバーランドで神戸ビエンナーレが開催中なので......。本当は『太陽の塔』の取材をつづけたかったんですが、おまわりさんに閉めだされてしまったので」
「ああ」福寿は真顔で身を乗りだした。「日本統合警備の門井さんから連絡をもらいました。うちが提供している展示物には被害がないとの話でしたが、いったい何でしょうね」
「盗まれたのは一階の展示品だけなんです」
するとハリスが眉間に皺を寄せた。「一階? それはまた妙な話ですね」
ようやく小笠原は声を絞りだしてきいた。「なにか疑問がおありでしょうか?」
ハリスはうなずいた。「スクラップ状態の電子部品しか並んでいなかったように記憶していますが」
福寿がハリスを見つめた。「でも、NASAの宇宙船に使われた部品も多々あったでしょう」
「うーん」ハリスは唸ってから、遠慮がちな苦笑を浮かべた。「あるにはあったんですけどね。たとえば、手前のほうに銃のような形状をしたアルミ製の機器があったのをご記憶ですか? グリップにNASAのロゴが入っていました。昔の漫画にでてくる光線銃っぽく見えるので、展示に加えたのかもしれませんが......」
莉子がいった。「あれ、給油スタンドのノズルですよね? 一九七〇年代より前の、まだベーパーリカバリーが付いていないタイプの」
「おお! よくご存じですね。おっしゃる通り、航空宇宙局内の給油所で車両にガソリンを入れるために使われていた物ですよ。ロケットとはまるで関係がありません。蒸散ガス排出規制で部品を交換した際にでたゴミ。要するに破棄されたガラクタです」
「ペーパーウェイトもありましたよね」
「そう。アポロ計画当時に売店で扱っていた土産物です。月面着陸船を模した形だったんですが、脚が折れてしまったうえに錆びついているから、なんとなく部品みたいに見えます。NASAという文字が読みとれるからあの場に飾ったんでしょう。いくつか本物の宇宙船に関連する物もありましたが、テスト用の機体に使用された予備部品ばかりでした。飛行機やら船やら、クルマのユニットまで......。あまりにひどいんで見学時には黙っていましたが、なんとも悲しくなるラインナップでしたよ」
福寿は感心したように莉子を見つめた。「しかし、いちど見ただけでよくそこまでお判りになりましたね」
ハリスも同意をしめした。「物品に対する幅広い知識を身につけておいでのようです。日本の雑誌社はレベルが高いですね」
小笠原は戸惑った。莉子の本業が記者でないと紹介すべきだろうか。
莉子は自分から鑑定家だと名乗る気はなさそうだった。ハリスを見つめてきいた。「泥棒は〝USSR〟表記以外の、ポケットサイズの物ばかり根こそぎ持ち去ってるんです。教授の目から見て、何が目的だったと推察されますか」
「寝耳に水なので、難しいですが......。たぶん大事そうに展示してあったから、それなりに価値があるように錯覚したんでしょう。スポーツバッグに詰めこめそうな物だけ詰めこんで、退散したんじゃないですか」
「たしかに......。でもそれなら、どうして踊り場にのぼらなかったんでしょうか。せっかく侵入したのなら物色するべきなのに、エスカレーターにはいっさい靴の跡がないんです。夜間はエスカレーターも停止していたから、歩いて上り下りできたはずなのに」
「見当もつきませんね」ハリスはふと何かに気づいたように微笑した。「ひょっとして、本当は何か価値がある部品が含まれていて、私がそれを盗んだとお考えですかな」
莉子は目を丸くした。「まさか! とんでもない。教授がそう意図されたなら、その品物だけ借りたいと申しでれば、断られるはずないでしょう。なにしろ府の職員さんはジャンク品ばかりだと思っているんだし、偽物に入れ替えてしまってもばれないはずですから」
「これはまた、論理的に私の無実を証明してくれますね。付け加えますと、私は昨晩から今朝にかけて船上に宿泊したんです。神戸港出航のナイトクルージングに参加しましてね」
福寿も笑った。「たしかですよ。私や永友の会長、社長以下大勢の社員も一緒に乗ってましたから。大阪市長の奥様や市会議員の方々もおられました。教授をお迎えしての懇親会だったので」
困り果てたような顔で莉子はいった。「待ってください......。ほんとにお疑いなんかしてません。誤解を生んだのなら謝ります。申し訳ありませんでした」
「いや」ハリスは肩をすくめた。「あくまで冗談ですよ。私が忍びこむことがあったなら、ひと晩がかりで永友エンジニアリングの耐震補強設計を隈なく観察します。あれは本当に素晴らしいものです。詳細に写真を撮って図面をおこしますよ」
すると福寿が呆れたように首を横に振った。「教授......。必要なデータなら話がまとまりしだい提供させていただきますよ。塔において伸縮継手に等価な中空円筒の平均径と、肉厚、長さと縦弾性係数......」
ふたりの専門家は小難しい論理と計算の応酬を始め、小笠原はすっかり置き去りにされていた。莉子もさすがについていけなくなったのか、当惑顔で口をつぐんだ。
やがて、ふと何かに気づいたかのように莉子はきいた。「耐震工事をなさったってことは、塔の本来の設計についても細かく調べたんですよね? 見学コースに秘密の抜け道はありませんか。一階から右腕の先に抜けるまでのあいだに、どうにかして外にでるっていう......」
福寿は天井を見あげた。「はて。それは不可能では......。宙吊りの踊り場とエスカレーターですからね。そもそも壁に隠し扉を設けられるとか、そんな状態にはないでしょう」
「はあ。やっぱりそうですか......」
従業員がメニューを差しだしてきた。莉子は腰を浮かせていった。「申しわけありません、次の取材の時間が迫ってしまいまして」
ハリスは福寿との議論を中断し、莉子を見あげた。「おや、そうですか。残念ですね。また時間が空きましたら是非ご一緒しましょう。名刺をお渡ししておきますから、いつでもメールをください」
差しだされた英文の名刺を受け取り、莉子はにっこりとして頭をさげた。「ありがとうございます。では」
莉子は従業員にも詫びをいい、テーブルを離れた。小笠原はあわてて追いかけた。
小笠原は歩きながら莉子にささやいた。「ひやひやしたよ......。何かわかった?」
「教授と福寿さんにはアリバイがある。無価値の展示品が盗まれたわけだから、専門知識のない人間による犯行。それぐらいかなぁ」莉子は弱り果てた顔になった。「うーん。今度のはほんと難しい。論理的に可能性を絞りこもうとしても、謎がばらばらになりすぎてて結びつかないの。困ったなぁ」
いつも自信に満ちているはずの莉子が、あまりに悄然としているため、小笠原は気が気でなかった。「だいじょうぶ? 行き詰っているときには無理しないほうがいいよ」
「平気」莉子はそうつぶやいたが、憂いのいろは消えなかった。「ほんとは泥棒なんかより、蓬莱瑞希さんの消息を知りたいのにね。警察が事件として扱っていないから誰も関心を持ってない。話題にすらのぼらない......」
連絡
吹田警察署の二階にある取調室で、蓬莱浩志は不本意な時間を過ごしていた。
会社を欠勤したうえに、朝からずっと分からず屋の刑事との会話につきあわされている。だいいち、任意といいながらなぜこんな部屋に通されねばならないのだろう。
妻の無事が気がかりなこともあり、警察とのコミュニケーションを断絶したくはないが、柳瀬という警部補はこちらのそんな思いに容赦なくつけこんでくる。是が非でも窃盗犯にしないとおさまらないらしい。
真実はさておき、とにかくまずは罪を認めさえすれば楽になる。柳瀬は一貫してその態度を崩さない。なだめるような物言いで柳瀬はいった。「強情張っとってもしゃあない、蓬莱さん。盗みの下見に『太陽の塔』に侵入したことぐらい、打ち明けてもええやろ」
誘導尋問だ。蓬莱は腹を立てた。「だから言うとるやろ。あの朝、塔に入ったんは妻を追いかけてのことや。昨晩はずっと家におった。なんでわかれへんのや」
柳瀬がうんざりした顔で椅子の背もたれに身をあずけたとき、扉をノックする音がした。
制服警官が入室してきて、一枚の紙を差しだす。「プロバイダからの返事です。本来は裁判所命令がないと情報の開示は強制できませんが、捜査に協力したいとの意向でデータを提供してくれました」
紙をひったくった柳瀬が、その内容を見て顔をこわばらせた。「これは......」
「蓬莱さんの家が契約しているブロードバンド・インターネットの接続状況です。昨夜から今朝にかけて、あちこちのサイトを見てまわっています。接続は家からのものですし、端末情報も、蓬莱さんが日常使っているパソコンと判明しています。家におられたのは間違いないでしょう」
「ほれ見い!」蓬莱は怒りをぶつけた。「妻の行方が気になって、僕はひと晩じゅうネットで検索をつづけとったんや。ニュースサイトだろうが掲示板だろうが、妻の名を探しとらんと気が済まん状態やった。寝たんは朝方のわずかな時間だけや」
柳瀬は忌々しそうに紙を眺めていたが、やがて歯ぎしりしながらつぶやいた。「パソコンにプログラムがインストールしてあったんやないんか。自動的にサイトを巡回する......」
「言うたな。自分で吐いたその言葉を覚えとけよ、警部補さん。いますぐ家に一緒に行って、僕のパソコンを見ようやないか。それこそ自由に触らせたる。鑑識でもなんでも呼んで、好きなだけ調べてみい。無人であちこちのサイトにつながるソフトなんて入っとらんとわかったら、どうしてくれるんや。土下座か? 詫び状でも書くんか」
勝ち目のなさは、柳瀬もすでに自覚済みだったらしい。苦虫を噛み潰したような顔で紙を制服警官に突き返すと、蓬莱に吐き捨てた。「お帰りになって結構ですよ」
「容疑が晴れたとこで、あらためて妻の失踪について真剣に捜査してくれることを望みます」
だが柳瀬は、あくまで『太陽の塔』で起きた窃盗事件にしか興味がないらしい。いかにも面倒くさそうな顔をしながら、柳瀬は立ちあがった。「そっちはもう捜索願をだしたんでしょう? 私らが関与することやない」
「まだそんなことを......。妻は『太陽の塔』で消えたといってるでしょう」
「あなたがそう主張しとるだけです。夫婦間のもめごとはまず当事者どうしで解決の努力をしてください」
たんなる家出ではないと何度説明すれば......。じれったくそう思ったとき、ふいに蓬莱の携帯電話が短く鳴った。
あわててケータイを取りだして液晶画面を見やる。メールが着信している。送信者の名は、なんと瑞希だった。
雷に打たれたような気分でメールを開く。妻から簡潔なメッセージが表示された。
浩志さん 心配しないでください。わたしは無事です。そのうち帰ります。 瑞希
肝を冷やしながらその文面を眺めていると、柳瀬が近づいてきて覗きこんだ。
柳瀬は声を張りあげた。「何やねん! 私の言うたとおりやないか。こんなことやと思うとった。夫婦喧嘩いうのは、置いて行かれたほうが未練がましくなって、事件や何やと騒ぎ立てる。無理やりにでも警察を巻きこもうとしよる。呆れた話や」
「ぼ、僕は本当のことをいってるんです。彼女はたしかに公園で、警備員の服を着た男に......」
「そんな話より、早く返信したほうがええんやないですか? 忙しいので、私はこれで」
柳瀬は、蓬莱の退出については制服警官にまかせる気らしい。さっさと部屋をでていってしまった。
気に食わない対応だが、いまはそれより妻に連絡するほうが先だった。素早く返事を打つ。いまどこにおる? すぐ迎えに行く。場所を知らせてほしい。
送信してから、その場でしばらく待った。制服警官にうながされ、取調室をでて、署をあとにする。そのあいだも、ずっと妻からのメールを待ちつづけた。
二度めの着信はなかった。携帯電話はふたたび沈黙した。
午後二時をまわった。
莉子はホテル阪急エキスポパーク前でバスを下りた。重い足をひきずりながら歩く。意気消沈しているせいか、秋風が木枯らしのように冷たく感じられる。吹きすさぶたびに体温が奪われていく、そんな気がした。
一緒に下車した小笠原がいった。「心配ないよ。きっと手がかりは見つかる」
ロータリーからエントランスに向かいながら、莉子はつぶやいた。「小笠原さん......。わたし、やっぱ頭悪いかも」
「なにいいだすんだよ。凜田さんほどすごい人はいないよ」
「もう知ってるだろうけど、高校までの成績は校内最下位だったし......」
「ああ。波照間島できいたときにはびっくりしたけどね」
「付け焼刃の知識じゃ太刀打ちできない問題もあるのね。いままで運がよかっただけかも。これが本来の実力......」
「今度の謎が難しすぎるだけだよ。なんなら試してみようか」
「試すって?」
「僕の言葉には三つの間違いがあるよ。ぜんぶ訂正してみてくれる? ハウス食品のヒット商品はバーモンドカレー、東亜合成ならアロンアルファ。ウィンナーコーヒーはウィーンのコーヒーって意味」
「正しくはバーモントカレーにアロンアルフア。それに、ふたつしか間違いがないのに三つあるといった出題自体が誤り」
「大正解。なら、これはどうかな。百万を四分の一で割るといくつになる?」
「二十五万......っていいたいところだけど、違うよね。百万を四で割れば二十五万だけど、四分の一で割るわけだから、答えは四百万」
「さすが。僕はまるっきり正解できなかった問題だよ」
思わず微笑が浮かぶ。莉子はいった。「そんなことないでしょう? 小笠原さん、文字校正についてはかなり強いし」
「......ばれたか。やっぱり勘は鈍ってないよ。いつもどおりの凜田さんだね」
「ありがとう。自信をつけさせてくれて」
小笠原のおかげでいくらか落ち着きを取り戻せた気がする。胸の閊えがさがって、ほのかな温かみすら感じられた。
闇のなかにまだ光は見えてこないが、挫けずに挑みつづけねばならない。こんなわたしでも、信頼してくれる人がいるのだから......。
ロビーに入りフロントに立ち寄る。鍵を受け取ろうとしたとき、従業員が告げてきた。
「凜田さん。ご伝言が入ってます。安能さんというかたから」
「え? 誰?」
「安能さんです」従業員は紙片を差しだした。
莉子は受け取って読みあげた。「三時半、万博公園の南東、吹田市藤白台北六-十四でお待ちしています。何も持たず、ひとりでお入りください......」
小笠原が従業員にきいた。「この住所は?」
「北千里駅前からでてる路線バスで五分ぐらいですね。国立循環器病研究センター前あたりです」
「ふうん」小笠原は莉子を見つめてきた。「行ってみる?」
「当然」莉子は答えた。「いまは手がかりがひとつでも多いほうがいいし」
移動は思いのほかスムーズだった。バスを下車後、莉子は小笠原とともに北千里市民体育館のわきに広がる池のほとりを歩いた。
小笠原がささやいてきた。「安能って......」
「偽名ね。正体不明ってことでしょう」莉子は頭をかきながらいった。「んー。ゆうべ千里市民センターにいた的場さんって人と関係はないのかな。いちいちわたしたちの居場所にメッセージを届けてくるけど、どうやって行動を把握してるんだろ」
小笠原は後方を振りかえった。「尾けまわされてるとか? 誰もいないけどな」
莉子もその視線を追った。住宅街から外れたこの一帯は開けていて、辺りが無人であることはひと目で確認できる。とりわけ池の東側は、作りかけの公園のように数本の木だけが植栽された空き地で、剥きだしの上のいたるところに雑草が生い茂っていた。土木工事用の資材らしき物もそこかしこに積んである。
「へえ」小笠原がいった。「のび太たちが草野球しそうな場所だな。すぐ近くに神成さんっていう、いつも打球で窓ガラスを割られて怒るカミナリ親父が住んでそうだ」
「神成さんがジャイアンのリサイタル騒音問題に苦言を呈さないのはふしぎよね」
空き地の真ん中に、プレハブの仮設小屋がぽつんと建っていた。莉子はケータイの液晶画面に表示した地図を眺めてつぶやいた。「藤白台北六─十四......。該当する住所はこの空き地。『ひとりでお入りください』ってのは小屋のことね」
「だいじょうぶかな」
「平気」莉子はハンドバッグに携帯電話を投げいれると、小笠原に手渡した。「預かってくれる? 何も持たないってのが条件だから」
「いいけど......。僕が代わりに入ろうか」
「メッセージはわたし宛だったのよ。まかせといて」莉子は小屋に歩み寄った。
窓のサッシはすりガラスで、なかはよく見えない。遠方の電柱から小屋の軒下の分電盤まで、少し弛んだ送電線がつないである。電気が通っているらしい。戸口はアルミ製の扉だった。ノブをひねると、扉はスムーズに開いた。
不安げな顔の小笠原を外に残し、莉子は小屋のなかに踏みいった。
味気のないベニヤ板に囲まれた一室だった。中央に事務デスクがひとつ、その上にノートパソコンが一台置いてある。天井に照明はないが、窓から差し込む陽の光のおかげで支障はない。
パソコンには電源が入っていた。モニターに『ローマ字でお名前を入力してください』と表示がでていた。
莉子はキーボードに指を這わせた。〝RINDA RIKO〟とキーを叩きだした瞬間。
その音の強弱に同調して、画面下のインジケータの帯が伸び縮みした。『音を立てずに!』と警告文がでる。
そっとキーを打てということだろうか。莉子は静かに、ひとつずつキーを押しこんでいった。すると今度は『もっと速く!』という注意書きがでた。
何よいったい......。つぶやきながら、指示に従って入力を終える。
表示が切り替わり、掲示板のような画面になった。メッセージが呼びかけてくる。『お待ちしておりました、凜田莉子さん。ようこそおいでくださいました』とあった。
昨晩よりは礼儀をしめしている。莉子は静止して、そのつづきを待った。
新たな書き込みがモニターに出現する。『いちばん上の引き出しを開けてください』
莉子はデスクに目を向けた。いわれたとおりにすると、引き出しのなかには小皿が一枚あった。黄色いご飯粒がひとつだけ載せてある。まだ新しく、乾燥してはいない。
パソコンに視線を戻すと、新たなメッセージが現れていた。『そのご飯粒はピラフでしょうか。それともチャーハンでしょうか』
ため息をつきながら、莉子は粒をつまみあげて指先に軽く力を加え、弾力をたしかめた。それを皿に置いてから、ふたたび静寂と素早さに努めながらキーを叩く。『ピラフです。洗った生米をバターで炒めるから硬めになります。チャーハンはいちど炊いた米を炒めるので、もう少し柔らかいと思います』
先方もメッセージを手入力しているらしい。しばらく間を置いてから返答が表示された。『正解です』
今度は莉子の側から質問を送信してみた。『一方的に呼びだしておいて、どういうおつもりですか。わざわざこんな仕掛けを作ってまで姿を隠そうとする理由は?』
もはやチャット状態だった。相手が返答してくる。『失礼をお許しください。できれば直接お会いしたいのですが、現時点では仕方がないのです』
『あなたは誰ですか? また的場さんって人?』
『状況が許せば近いうちにお会いできます。いまは、恐縮ですがいくつかの質問にお答え願えますか。二段目の引き出しを開けてください』
苛立ちを抑えながら指示どおりにする。そこには赤く細長いトウガラシの実が何十本も横たわっていた。それぞれに1から順に番号のタグが針金でくくりつけてある。
モニターのメッセージはまたも簡潔だった。『最も状態のいいトウガラシは?』
莉子は思わず唸った。
この理不尽にして意図の見えない鑑定テストの連続は、たしかに雨森華蓮に招かれた鎌倉の屋敷での出来事を連想させる。けれども、刑務所にいる華蓮が手をだせるとは思えない。これは別の人間による、以前とは異なった目的を持った計画だろう。いったい誰が何のために......。
胸が曇って波立つような気分とともに、莉子はトウガラシをざっと見渡してからキーを叩いて入力した。『シミがなくて全体が黒ずんでいなくて、最も発色がよい16番のトウガラシです』
『ご回答ありがとうございます。正解です』
『わたしが質問に答えるのは、蓬莱瑞希さんという女性の行方を気にしているからです。あなたは瑞希さんの失踪に関与していますか』
少し間があった。『質問にお答えいただくことが真相への近道かと存じます』
ざわっとした感触が莉子のなかにひろがった。
先方は蓬莱瑞希との関わりを否定しなかった。少なくとも、なんらかの事情を知っているうえで、返答を迷ったように思える。
『一番下の引き出しを開けてください』と指示があった。
そこには、家庭用ラップフィルム〝NEWクレラップ〟のパッケージがおさまっていた。使用済みの空箱だった。
メッセージがたずねてきた。『この製造年は?』
莉子は返事を入力した。『巻き戻りや斜め切れを防止できる〝きちんとキレ窓〟がオープン化されていますが、刃がプラスチックではなくまだ金属なので二〇〇七年』
『さすがです。本日はありがとうございました、凜田さん。すぐにまたご連絡させていただきます』
『待ってください。蓬莱瑞希さんはいまどこにいるんですか。塔の展示品が盗まれた件は、瑞希さんの失踪となにか関係あるんでしょうか』
『ご退出ください。ご協力感謝申しあげます』
それっきりメッセージは途絶えた。莉子は何度か呼びかけたが、返答はない。
結局、どうにもできずに小屋をでるしかなかった。
外で出迎えた小笠原がきいた。「何があったの?」
「またおかしなテスト。ピラフとチャーハン、トウガラシ。それに二〇〇七年製のクレラップだって」
「クレラップ? 料理に関係あるのかな」
莉子は歩きながらため息をついた。「ゆうべのフランク紙は? まるでわけがわかんない。誰が何を知りたがってたんだろ」
気になることは山ほどある。なぜパソコンのキーの音を気にかける必要があったのだろう。首をひねりながら、小笠原とともに池のほとりにさしかかる。
するとそのとき、スマートな体型の青年とすれちがった。髪は長く細面で、チェックのセーターを着ている。
ふいに小笠原が呼びとめた。「あのう。すみません。本郷秀則さん......じゃないですか」
青年は驚いたようすで振りかえった。しかし小笠原とは面識がないようすで、探るような目を向けてきている。「は......はい?」
「びっくりしましたよ」小笠原は笑顔で歩み寄った。「こんなところで何をなさってるんですか」
「いえ」青年はぼそぼそと告げた。「ちょっと......私用でして」
「私用? 近くにお住まいなんですか」
「ええ、まあ......。急ぎますんで、失礼します」青年は足早に立ち去った。
莉子は小笠原にきいた。「本郷さんって?」
「知らないの? よくテレビで観るよ。二〇一一年度の〝知恵の輪〟グランプリの優勝者。それ以前は、ルービック・キューブの六面を揃える日本最速記録保持者でもあったかな。立体パズルを解かせたら右にでる者はいないって。まだ学生だけど」
「へえ......」莉子は振りかえって、どきっとした。
本郷は空き地を突き進み、あの小屋に向かっていく。辺りを見まわしてから、扉のなかに踏みこんでいった。
小笠原の顔からも笑いが消えた。「僕らと同じく呼びだされたのかな。行ってみる?」
「いえ」莉子は小笠原をうながした。「早く退散しましょう。きっと見張られてる。じれったいけど、いまは指示どおり動くに留めなきゃ......」
何者かの計画をぶち壊しにしたのでは、手がかりが失われる。ひとりの女性の運命がかかっている以上、へたなことはできない。なんの証拠もない以上、警察に訴えることもできない。せいぜいこの空き地の管理者が誰かを問い合わせるぐらいだろう。
携帯電話の着信音が短く鳴った。莉子はケータイを取りだし液晶画面を見た。
「メールがきてる。蓬莱さんから......」表示に目を通したとき、莉子は愕然とした。
「どうかした?」小笠原がきいた。
「奥様から連絡が入ったって」
「ほんとに? 無事だったのか。すぐに行ってみようよ」
「ええ。そうね......」
一一九号線沿いの歩道にのぼると、行く手にまた薄気味の悪い『太陽の塔』の後ろ姿が現れた。向かい風が強さを増している。あたかも塔の背負う黒い顔の吐息が、ふたりを遠く彼方へ吹き飛ばそうとしているかのようだった。
依頼
その夕方、莉子は蓬莱浩志の家を訪ねた。失踪していた瑞希からの連絡とは、たった一通のメールでしかなかった。
リビングルームで小笠原が携帯電話を受け取り、液晶の表示を読みあげた。「浩志さん、心配しないでください。わたしは無事です。そのうち帰ります。瑞希......」
莉子は蓬莱にきいた。「たしかに奥様のアドレスですか?」
「はい」と蓬莱がうなずいた。「妻の携帯電話会社にも電話したんですが、いまも契約中だし電波も生きているというんです。位置情報に関しては、警察からの要請がないと教えられないそうで......。ええと、捜査関係事項照会書ってのを提示される必要があるとか」
「たしかに警察が捜査関係事項照会書を用いて情報収集してくれれば、ATMやクレジットカードの使用状況まであきらかになるでしょう。でも、現状では吹田署にそこまでの期待はできませんね。ただの行方不明者扱いだし」
蓬莱は忌々しげに吐き捨てた。「あの柳瀬って警部補の目は節穴ですよ」
小笠原が蓬莱に携帯電話を返した。「奥様は絵文字とか使わないんですか?」
「妻が打った文面かどうかってことですよね? 私もそれが気になりましたが、瑞希はふだんからこのように味気ないメールを寄越すことが多くて。本人かどうかはなんとも」
莉子は熟考にふけった。
誘拐犯が単なる家出を偽装しようとして、蓬莱瑞希のケータイを使ってメールを送信した可能性は充分にある。事実、柳瀬警部補はこのメールによって蓬莱浩志の狂言説への確信を深めてしまったようだ。そこまで犯人の読みどおりなのだとしたら......。
庭先で物音がした。きのう、ここで耳にしたのと同じ響き。郵便受けに何かが投函された。
三人は顔を見合わせた。無言のうちに玄関に向かい、靴を履いて外にでた。
既視感がある。紅いろに染まった空、若干の肌寒さを感じる微風、そしてひっそりとした静けさ。ゆうべ莉子への手紙が届いたのもこの時間帯だった。
蓬莱が郵便受けを開けた。やはり封筒が入っていた。宛名は凜田莉子となっている。
莉子は受け取って開封した。なかにはコインロッカーの鍵、それから厚手のメッセージカードが入っていた。カードには例によってプリンターの印字が並んでいた。
仕事をお引き受けいただけないでしょうか。報酬として一千万円を用意しております。承諾いただけます場合は阪急吹田駅南改札口付近のコインロッカーにて、同封の鍵をお使いください。
追伸 くれぐれも内密に願います。
小笠原がつぶやいた。「一千万って......。こればっかりは警察に届けておくべきかな」
「......いえ」莉子は感じたままを口にした。「蓬莱さんの家に投函してくるってことは、奥様の失踪と無関係とは思えない。人質をとることで、わたしたちが指示どおりに動くよう強制している可能性が高いでしょう」
蓬莱が取り乱す素振りをしめした。「ひ、人質? 妻はこのために誘拐されたと......」
「まだ仮定です」莉子は小笠原を見つめた。「かつてない難事件だし、いっこうに論理で解き明かせない。リスクを背負わなきゃ全貌は見えてこない」
「だな」小笠原もうなずいた。「真相が待っているのなら出向くしかないよ。もう後戻りできそうもない道なんだし」
箕面クラウンズホテル
空が黄昏いろに染まるころ、莉子は小笠原とともに阪急吹田駅の南改札口を抜けた。
家路を急ぐ通勤客も多い時間帯だけに、駅構内は賑わっている。誰かが監視の目を光らせていたとしても、気づくのは困難かもしれない。
改札をでた右手にコインロッカーが連なっている。入手した鍵の番号は814。うろつきまわっていた小笠原が声をあげた。「あったよ、814。これだ」
莉子は鍵を差しこんで扉を開けた。なかには手提げ袋がおさまっていた。
小笠原がそれを取りだして、なかを覗きこむ。「げっ......。凜田さん、これ見てよ」
袋の底に視線を向けた。福渾諭吉と目が合う。帯にくるまった札束、かなりの厚みがあった。
手を差しいれて、袋のなかで軽く持ちあげてみる。なんともいえないその感触と、ずしりとくる重さ。
思わずため息が漏れる。莉子はつぶやいた。「一千万円......でしょうね」
「領収書は要らないの? 取っ払いかな。やばそうな仕事だね」
もとより、まともな依頼とは思えない。袋の底をさぐると、一枚のカードが見つかった。表には〝招待状〟と記してある。それを裏返した。
お引き受けいただき、心より感謝申しあげます。早速で恐縮でございますが今晩午後八時、以下の場所においでください。ささやかながらお食事の用意もございます。
大阪府箕面市尾度四-一五 箕面クラウンズホテル
小笠原は嘆くような声をあげた。「まいったね。仕事内容の説明もなしに、もう引き受けたことにされちゃったよ」
「この金額なら断れないと思ったんでしょう。箕面市って山間部よね。わざわざ人里離れたところに誘導するからには、きっと何かある」
「行くしかないかな」
「当然」莉子はカードだけを抜き取り、札束のおさまった手提げ袋についてはコインロッカーに放りこんだ。「向こうから誘いをかけてきたんだし」
小笠原は大阪府の北部に何があるのか、よく知らなかった。箕面といえば滝とダムで有名だが、頭に浮かぶのもそれぐらいだった。
阪急電鉄箕面線の電車に乗りこんでから、莉子は熱心に路線図に見いっていた。
彼女にとっても不案内な土地のはずだが、目的地に着くころには記載された知識のすべてを身につけてしまっているだろう。
莉子がときどき「フフッ」と笑ったり、唸ったりするのは、感受性の豊かさを生かして想像力を働かせ、記憶に強い印象を残すことで脳に刻みこむという、彼女なりの暗記法らしい。
たんなる路線図でそこまで感情を動かされるとは、変わった性格の持ち主ではある。邪魔をしては悪いので、小笠原はなるべく莉子に話しかけないようにした。
箕面駅に着いたころには、完全に日が暮れていた。駅前はわりと栄えていて、大都市のベッドタウンならではの街角という印象だった。
しかし、阪急バスに乗って山道を行くうち、周りは閑散としだして、ついには明かりひとつない奥地の闇がひろがった。
それでも観光地だけに、道端にはときおりレストランやホテルなどの施設が見える。営業していない店舗も多い。観光シーズンはやはりひと月ぐらい先、紅葉の時期なのだろうか。いまはすれちがうクルマもほとんどない。
やがて、箕面クラウンズホテル前というバス停で下車し、道の向かいにある建物に急いだ。
周囲の木立ちにはひたすら深く、濃い闇が満ちている。
ホテルのほうはそれなりに規模も大きく、イオニア式を模したエントランス前の車寄せも瀟洒な造りだったが、なぜか照明をかなり落としているようだった。本館の客室の窓には明かりが灯っていないし、ガラスを通して見えるロビーも妙に薄暗い。
フロントにいる従業員の動きも緩慢で、接客というより事務職のようだ。本当に宿泊施設なのか。
ふたりでエントランスに近づいたとき、制服姿のベルキャプテンが歩み寄ってきた。
この暗がりのなかでも、ベルキャプテンがひどく無愛想なのは見てとれる。いらっしゃいませ。口先だけでそう告げてきた。年齢は五十近いのに、妙に素人っぽい。
莉子は招待を受けたとは伝えず、ハンドバッグをまさぐりながらいった。「すみません。五千円札、両替できませんか」
「......私には持ち合わせがございません。ご宿泊ですか」
「いえ。バスからホテルの看板が見えたので、ラウンジで食事をとろうかと思いまして」
「あいにくですが、きょうは貸し切りです。ロビーにもお立ち入りできませんので」
小笠原は面食らった。「全館まるごと借り手が独占してるんですか? でもきょうはここで......」
すると莉子が小笠原の腕を引っ張った。莉子はベルキャプテンに笑顔で告げた。「いいんです。ほかでレストランを探します。それじゃ」
ベルキャプテンがじろりとこちらを見る。小笠原は言葉を呑みこんで、精一杯の愛想笑いに転じた。莉子に引かれるまま、ホテルのエントランス前から退散した。
近くの茂みの陰まできたとき、莉子は足をとめて振りかえった。「あれは本物のベルキャプテンじゃないわ」
「え? どうしてそういえる?」
「本職なら常に千円札の束をポケットにいれているのよ。タクシーで来たお客さんが大きいお札しか持っていなくて、運転手が両替できなかった場合に備えてね」
「なるほど。両替の依頼を断るにしろ、持ってないというはずはないか」
「っていうか、声に聞き覚えない? あの人、ダースベイダーよ。的場さんの正体」
「マジで? いわれてみれば、たしかに体型も似通ってるな」
「たぶんフロントにいた従業員も含めて全員が外部の人間よ。建物を借りきったうえで、ホテルマンも全員が借り主側の人間に交替させられている」
「どうしてそんなことを......」小笠原は言葉を切った。山道をのぼってくるヘッドライトの光が見えたからだった。
ふたりは植え込みの隙間からエントランス前のようすをうかがった。タクシーが一台、ホテルの車寄せに滑りこんでいく。出迎えたのはさっきのベルキャプテンだった。
後部ドアから降り立った、中肉中背のカジュアルな服装の男性。眼鏡に無精ひげ。顔を見たとたん、小笠原は思わず驚嘆の声をあげそうになった。
「あの人」莉子がささやいた。「千里市民センターですれちがった......」
「そうだな。タミヤのTシャツ着てた奴。たぶん模型マニアだよ」
つづけて数台のタクシーが乗りいれてきて停車した。どの車両も一台につき、乗客はひとりだけだった。痩せ細った三十代ぐらいの女性や六十代とおぼしき白髪頭の男性、顔ぶれもさまざまだった。
ホテルの借り主が、なぜ仲間に従業員の扮装をさせたのか、来客の反応をみれば明白だった。これが山奥の屋敷で見知らぬ男たちに出迎えられたとなれば、誰もが一様に警戒するだろう。しかし開かれた施設と信じていれば、その限りではなくなる。
やがて、何台めかのタクシーから、また見知った顔が車外に這いだしてきた。長髪に痩せ細った身体つきのその青年は、ベルキャプテンの案内に従い、ほかの来客たちと同様にエントランスに迎えいれられた。
小笠原はいった。「本郷秀則だ。きょう凜田さんと入れ替わりに、あのプレハブ小屋を訪ねた彼だよ」
莉子もうなずいた。「コインロッカーにあったのと同じ手提げ袋を携えてる。ほかの人たちもここへ持ってこなかっただけで、等しく報酬を受け取っているんでしょう」
「道理でみんなバスを使わずタクシーで来るわけだ。大金を貰ってるなら節約する気にもなれないよな」
来客たちをロビーに誘導し終えたようすのベルキャプテンが、懐中電灯を点けて周辺をうろつきだした。見まわりを始めたらしい。
すぐに莉子が踵をかえしてバス停へと歩きだした。「帰りましょう。ここにいちゃまずいし」
「仕事の説明会に出席しなくていいの?」
「もしいまの招待客が全員、わたしたちと共通項があるとしたら? なんらかの理由で真相を嗅ぎまわる立場だったとしたら、どう? 何者かが、みんなに名目上の仕事を与えることによって多忙にさせ、真実の追求から遠ざけようとしている可能性もあるでしょう」
「ああ......ないとはいいきれないね。凜田さんに複雑な仕事を依頼して、蓬莱瑞希さんの捜索に手がまわらないようにする。充分にありうるよ」
「でしょう? 参加者はこのまま遠方に連れていかれたり、身柄を拘束されてしまうかもしれない。接触によってわかることもあるだろうけど、動きを制限されるわけにはいかないから」
背後に足音がした。巡回は付近の路上にまで及んでいるようだ。ふたりはびくつきながら歩を速めた。
市民センターの会議室は誰でも予約できる。空き地のプレハブ小屋も、金と交渉次第でレンタル可能だろう。だがホテルをひと晩丸ごと借り切って、しかも大勢の人間を自由に動かしているとなると、相応の権力が背後にあると考えられる。
犯罪者側の勢力としては過去最大の規模に違いなかった。これまでのように個人レベルの詐欺師による犯行とは事情が異なる。しかも動機すら判明しないうえに、警察に対しても事件性を嗅ぎとらせる隙すら与えない。捜査対象にもならず器用に立ちまわりつづける。
薄氷を踏む思いだ、小笠原はそう感じた。もはや二十代の鑑定家と雑誌記者が立ち向かえる事象か否かすら疑わしい。
COB
深夜零時をまわった。
ホテル阪急エキスポパークのロビーもひとけがなくなっている。しかし、小笠原はそのフロアの一画にあるビジネスセンターで、莉子とともにパソコンに向き合っていた。
出張中のビジネスマン向けに、コピー機やプリンターまでが完備されたガラス張りのコーナーは、日中でもあまり利用者を見かけない。
家族連れで賑わうことが多いホテルだからかもしれない。おかげで機材はほとんど使いこまれておらず新品同様だった。
莉子はユーチューブで『太陽の塔』関連のニュース映像を片っぱしからチェックしては、手もとの写真の束に目を落とし、ノートになにごとか書きとめていた。
写真はすべて普通紙に印刷されていた。ついさっき、ここで画像データをプリントアウトしたからだった。大阪府庁府民文化部の柴野が撮影した、盗難前の展示品。莉子のメールアドレスにZIPファイルを添付し送られてきていた。本来、莉子に鑑定を依頼する目的で撮られたものだけに、ひと品ずつ大写しにしてある。
小笠原は話しかけた。「あの一千万円だけど、仮に警察に届けたとしたらどうなるかな」
莉子は写真を眺めたままつぶやいた。「事情をきかれて、見当違いの理由で取り調べを受けるのが関の山じゃないかな......。この地域にかなりの権限を持った謎の集団が動きまわっているとなると、所轄署もその影響下に置かれていてもふしぎじゃないし」
「いえてるね。何も頼りにできないわけだ」
「仕事の説明会にでてみるべきだったのかな......。でもやっぱり、罠だったら術中に嵌まっちゃうところだし。うーん、難しい。小笠原さんはどう思う?」
「さっぱりだよ。たしかにかつてない謎だよね」
「そう」莉子はしばし黙りこくってからつぶやいた。「almost か。言い得て妙ね。まさしくいまのわたしたちって感じ」
いきなり恋愛談議か。小笠原の胸は高鳴った。「ぼ、僕は凜田さんとふたりで行動できて、嬉しく感じているよ」
莉子はなぜかぽかんとした顔を向けてきたが、すぐに微笑を浮かべた。「わたしも。小笠原さんは頼りになるし」
好ましい進展ぶりだと小笠原は思った。ここはよりいっそう的確なサポートをおこなって男をあげねば。「警視庁の知り合いに相談してみる?」
「それも考えたけど、いまはわからないことが多すぎて」莉子は、一枚の写真を束から引き抜いた。「これ、どう思う?」
写っている部品は、隣りに置かれた定規と比較し、直径六センチていどの円盤だとわかる。NASAなど文字の表記はない。中央はドーム状に隆起して、そこから二本の短いアンテナが触角のように突きだしていた。
下部には基板の縁がはみだしていて、裏側に微細なメカニズムが隠されていたと推測できるが、写真はこの一枚しかないようだった。
小笠原は首をひねってみせた。「何だろうな。柴野さんが購入の基準にした、レトロフューチャーっぽさに溢れたデザインではあるね。これも宇宙船用の部品って触れこみで出品されてたのかな」
「それがね」莉子はマウスを操作した。エクセルで作成したらしい表が現れた。「メールに添付してあった展示品の購入履歴だけど......。この部品だけ記録が残ってないの。柴野さんによれば、落札品のどれかにオマケで同封されてた物かもしれないって。よく覚えてないそうだけど」
「つくづく情けない人だな。何に使う部品なんだろ?」
「さっぱりわかんない。はみだしているのはプリント基板の黎明期のデザインで、チップ・オン・ボードってタイプだと思う。一九七〇年代後半にデジタル腕時計が流行して、そのなかに入る小型の基板が量産されたのよ。発光ダイオードの形状も古いし、時代的にはそれぐらいに違いないんだけど......」
「へえ。凜田さんに鑑定できないなんて。初めてのケースじゃないか」
莉子は苦笑した。「そんなことないってば。もともと、カタログや書籍を読みふけって得た知識にすぎないんだし」
小笠原はほかの写真を見た。「似たような部品がふたつほどあるけど」
「そっちは違うのよ。これはブリキ玩具のロビー・ザ・ロボットの頭部。もう一枚は湯沸かしポットの蓋。両方とも宇宙船の電子部品として出品されてたみたいだけど」
「売るほうも売るほうだね。でも、用途不明の部品は気になるな。たしかに展示されていた物なの?」
「ええ。テレビのニュース映像にも映ってる。ハリス教授にもさっきメールできいてみたんだけど......。あ、返信がきてる」
フリーメールのサイトから、最新の受信メールが開かれる。文章は英語だった。莉子はしばし読みふけったが、すぐに失望したようすで顔に手をやった。「記憶にも残らなかったぐらいの意味不明な部品だって。宇宙船関連でないことだけはたしかです......かぁ。そうだよね。まいったなー」
「教授ほどの専門家が、ほかにいるとも思えないしな」
「専門家......。あ、そうだ」
莉子は別の写真を手にした。その電子部品は黒板消しほどのサイズの直方体だった。透明アクリルのスケルトン仕様で内部の基板が見えるようになっている。NASAのロゴがはっきりと刻まれていた。
それをしばし眺めてから、莉子はマウスを滑らせ何度かクリックした。
インターネットのブラウザに表示されたのは、ペニーオークションのサイトだった。
出品された売り物一覧のサムネイル画面に並んでいるのは、莉子が手にした写真とうりふたつの電子部品ばかりだった。
商品名の欄には〝希少! スペース・シャトル中枢部品〟とある。
小笠原は驚いた。「ずいぶんたくさん出品されてるね」
「出品者のAstro017って人、このジャンルのコレクターのあいだでは有名なの。NASAにつながりがあってレアな部品や用具を大量に仕入れられるって。偽物ばっかりだけどね」
「偽物......」
「いちおう同じ形の部品はよく科学雑誌に載ってるけど、これらはAstro017さんが雑誌の写真を見てこしらえたレプリカに違いないの。一部では購入したマニアが怒って抗議したって話もあるけど、本人はかまわずいろんな部品の複製を作って売りつづけてる」
「柴野さんも買ってたわけか。いいカモだね」
「メッキを部分的に剥がして錆びさせることで古く見せかけたりとか、贋作としての手口も巧妙だけど、実際に専門家もだまされるぐらいに正確なメカニズムを、少なくとも外見上は再現してたりする。ありとあらゆる部品を複製してるし、この人なら謎の部品についても何か知ってるかも」
「じつはAStro017の作品だったりしてね。連絡がとれる?」
「いえ......。商取引以外は音信不通ってよくいわれてるし。落札者にも発送元の住所すら明かさないって」
小笠原はマウスに手を伸ばした。「出品者情報に発送元地域の表示がでるはずだよ。......あれ? おかしいな」
Astro017の発送元地域の欄は、未入力時のデフォルト表示である〝@地名〟になっていた。
「ヘンだ」小笠原は唸った。「このサイトも最近じゃ管理が厳しくなって、十点以上の出品をする場合には、発送元地域が未入力ってのは許されないのに」
「たとえ入力してあっても、嘘じゃ仕方ないし」
「いや。ここのシステムはよくできてて、パソコンの所在地をリモートホストやグーグルの検索履歴からほぼ正確に割りだしてくる。そのうえで、発送元地域欄の入力内容が住所の都道府県令市町村名などと一致していないと、登録不可になるんだよ。大阪府吹田市江坂町に住んでいれば、〝大阪〟か〝吹田〟か〝江坂〟と入力しなきゃいけない。どうやってデフォルトのままオークションに参加してるんだろ......」
莉子はしばし画面を見つめていたが、やがて手もとの写真をかき集めた。「もう寝ましょう。明日は早く起きて出かけなきゃ」
「どこへ行くの?」
「もちろん、この出品者さんの居場所」莉子は目を細めて微笑した。「ジャンク品の鑑定はやっぱりその道のプロじゃないとね。Astro017さんは頼りになりそう」
競売
藍原隆弘は、かつて国内電子機器メーカーに勤めていたが退職し、以降は四十五歳になる現在までずっと地方を転々として暮らしてきた。
ようやく腰を落ち着けたのは、静岡市と浜松市に挟まれた榛原郡川根本町。九割がた森林という山あいの地域だった。
木立ちのなかにひっそりと存在する集落、たった三百万円で購入できた土地つき一戸建てを住まいとしていた。
未婚の独り暮らし、しかし通勤がなければ人里離れた山奥に住むのも悪くない。
インターネットさえつながれば、全国の好奇心旺盛なコレクター連中を相手に儲けられる。趣味と実益を兼ねたごく気楽な生き方だった。
ただし、このところは商品を写真で見ただけではオークションに入札するのをためらう向きも増えてきた。
よって、ひと月にいちどはミクシィで呼びかけてオフ会を開き、実際に対面して競りをおこなうようになった。
本音では誰とも会いたくないが、一定の顧客数を維持するためには仕方がない。参加者は注意深く絞りこんであった。金払いのいい信者以外には用はない。
その日の昼下がり、藍原は一張羅のスーツを着こみ、商品を詰めたバッグを手にした。
家から歩いて五分ほどの距離にある、大井川本線沿いの定食屋に向かう。
近辺で唯一の飲食店には、いつものようにひと目でマニアとわかる男性たちがひしめきあっていた。
「どうもこんにちは」藍原は一同に呼びかけた。「では早速始めましょうか」
宇宙グッズコレクターといっても、参加者たちのアマチュアぶりはあきらかだった。『仮面ライダーフォーゼ』の影響を受けた、にわか宇宙ファンが大半を占める。やたらとごついスイッチ付きベルトを腰に巻いているからすぐにわかる。ヤマトやガンダムの制服のコスプレも珍しくない。専門知識を有していそうな学者タイプは皆無だった。
拳を胸に当ててヤマト式敬礼をしてくる奴らには辟易する。どう反応しろってんだ。
それでも店内の雰囲気は和やかだった。競売の会場に使用することを、ここの店主は歓迎してくれている。全員が昼飯を注文してくれるからには相当な売り上げにつながるからだった。藍原が何を売っているのかも見て見ぬふりが常になっていた。
参加者たちの前に立って、藍原は一品ずつ〝宇宙関連〟のアイテムを紹介し、入札を募った。
熱くなったマニアたちが続々と値をつりあげる。オークションはすぐさま興奮のるつぼと化した。
藍原は上機嫌で、また新たな商品を取りだした。「次はアポロ十三号の温度計のメーターパネルです。知っての通り、宇宙空間で事故が発生しタンク内の温度は五百三十八度にまで達していましたが、このメーターの表示は三十八度までだったので乗組員が異常に気づかなかったという、いわくつきの品です。鑑定書つき、もちろん一品限りです。では、開始価格は一万円から」
すでにヒートアップしている会場は、入札を躊躇する空気ではなくなっていた。三万。五万。十万。十二万......。どんどん値段が上昇する。藍原の気分もそれにつれて高揚していった。
ぼろい商売だ。こんな田舎なら、専門家が噂をききつけて目くじらを立ててくることもない。生半可な知識にとらわれた、半端なマニアを欺くのはじつに容易い。
ところがそのとき、若い女性の声が告げた。「百七十円」
ひやりと冷たいものが藍原の背筋を走った。
店内はしんと静まりかえっている。
参加者たちは怪訝な表情で、互いに顔を見合わせた。
やがて彼らの視線は、店の入り口付近に立つ男女に向けられた。年齢は二十代、ふたりともカジュアル・ファッション誌から抜けだしたようなルックスの持ち主だった。
げっ、リア充かよ。藍原は内心毒づいた。専門家と警官の次に敬遠したい存在だ。
男のほうのスーツは普通すぎて点数をさげているが、絵に描いたようなマニア連中のチェック柄シャツと比較すると、そんな服装でも上等な部類に入る。
女性は冷やかな面持ちで告げた。「それ、サタケの業務用精米機の圧力メーターでしょう。パネルの表示を書き換えてNASAのロゴを嵌めただけ。ジャンク品だし、手間を考えてもそれぐらいにしかならない」
胸を抉られたかのようだった。藍原は呼吸困難になり、息苦しくなって喘いだ。
「な」藍原はようやく声を絞りだした。「なにをいっているんだか......。こっちにはね、正規の鑑定書が......」
「NASAは部品の流出を是としていないから、鑑定をおこなうオフィシャルな外部団体はありません。というよりその団体ってのも、いうなればあなたひとりだと思いますけど」
参加者たちの視線が突き剌さる。突然のことに弁明すら頭に浮かばない。藍原はすっかり肝を潰していた。
スーツの男が咳ばらいをした。「『週刊角川』記者の小笠原といいます。Astro017さんですね? お話をうかがいたいんですが」
藍原は身の毛がよだつ思いだった。マスコミ。専門家と警察とリア充の次にタチが悪い勢力。それもよりによって......。
「みなさん」藍原はとっさに声を張りあげた。「きょうの競売は終了させていただきます。さあ、外にでてください。留まっても何もありません。ほら、急いで」
参加者たちは眉をひそめたが、渋るようすもなく腰を浮かせて、愛想を尽かしたかのごとく足ばやに退店していった。そのスピードたるや、砂浜から波がひくような速さだった。
がらんとした店内で、藍原はふたりの男女と向き合った。
「はぁ」藍原は大仰にため息をついてみせた。「まさか万能鑑定士Qの凜田莉子嬢がお出ましとはね」
莉子はかすかに片方の眉を吊りあがらせた。「わたしをご存じですか」
「面識はないけど、この距離でメーターの種別がわかるんなら、あんたしかいないだろ。『週刊角川』の記者が同行してるし」
小笠原はすました顔で莉子にささやいた。「いつの間にか贋作者の業界じゃ有名人だね」
藍原はまだ納得がいかなかった。「どうしてここがわかった? 突き止めるすべはないはずなのに」
すると莉子は落ち着いた声で告げてきた。「そうでもありません。ペニーオークションの発送元地域が未入力のままと見せかけておけば、それ以上追求されないだろうと思ったでしょうけど、十個以上出品しているんだからデフォルト表示のはずがない。あなたはちゃんと住所の一部を入力したんです。静岡県榛原郡川根本町地名に住めば、そのように偽装できるという前提で」
「さすがだねぇ......。噂どおりの人だな。大井川本線に乗って地名駅まで来れば、あっという間に俺を割りだせただろうね。人口はごくわずかだし、この定食屋での競売も近所じゃ話題になってるし」
「午前中に着いてたんですけど、このお店のご主人が教えてくれました」
藍原はむっとして厨房に目を向けた。カウンターの奥でこちらを見ていた中年の店主は、そそくさと皿洗いに従事しだした。
もはや蛇に睨まれた蛙だ。藍原はすっかり観念して、両手をあげてみせた。「凜田嬢がこの俺を捕まえるために足を運んでくれたなんて、身に余る光栄だね。贋作者冥利に尽きるよ」
「わたしはべつに、あなたを告発しに来たわけじゃありません」
「へ......? そりゃまた、どういうことだ?」
莉子は歩み寄ってくると、一枚の紙を差しだした。フルカラー印刷された写真には、クッキーよりひとまわり大きな円盤に二本の触角が生えた、奇妙な部品が写っていた。
「なんだこれ」藍原はつぶやいた。「見たことないな」
「ご存じないですか」
「見当もつかん。この丸いのはカバーだろ? 肝心なのは裏側だ。ひっくり返せば基盤を観察できるだろう。ほかに写真は?」
「ないんです」莉子はまっすぐに視線を向けてきた。「あなたはこれまで、科学雑誌にたった一枚しか載っていない写真から複製をつくりだしてきたでしょう。見えない角度に何か潜んでいるかを、知識と直感で想像して立体化した」
「まあ......な。元エンジニアなんで、部品の用途さえわかっていればその機能を考慮することで、写真にうつっていない部分もあるていど発想できる。たとえば、この時代のこういう部品なら基板の大きさはこれぐらいになるんで、向こう側はカバーも膨らんでいるだろうとか、熱を逃がすための開口部が手前にないなら裏にあるだろうとか、そんなぐあいだ。図面を引けばだいたい原型のとおりに仕上げられる。そこが俺の強みかな」
「この部品も再現してほしいんです」
「おい」藍原は仰天せざるをえなかった。「まじかよ。凜田嬢が贋作を依頼すんのか」
「悪用はしません。でも、ある場所から大量に盗まれた部品類には、ほかに価値がありそうな物は見つからなかった。泥棒が部品のどれかをターゲットにしたなら、用途不明のこれにしか可能性がない」
「ある場所ってのは『太陽の塔』か? ニュースで観たよ。なぜか俺の作品も展示してあったな。ビールを噴きそうになった」
「お願いです。細部は違っていたとしても、おおむね同一の複製が出来れば、その用途についてあれこれ憶測を働かせられます。画像一枚じゃどうにもならない」
「天下の凜田莉子ともあろう人が、こんな俺相手にずいぶん熱心だな」
莉子は真顔でつぶやいた。「ひとりの女性の運命がかかってるから」
「うーん」藍原は唸った。「俺の腕を見込んでくれたのは嬉しいけどね。こいつは難しいよ。なにせ用途がはっきりしない。見えない部分を推理するには、あるていどのバックグラウンドが判明してなきゃ」
「そうですか......」
小笠原が刺々しさに満ちた目を向けてきた。「積極的に協力してくれると思ったんですけど」
「なんだそりゃ。脅しか? できんものはできんよ。少なくとも俺には無理だ」藍原は写真を眺めまわした。「ふうん......。再現可能とすれば、エンジニア的な知識だけじゃなくて、平面から立体造形する才能に恵まれた芸術家タイプだろうな。写真のなかにうっすらとついた影も見逃さず、ピントのわずかなズレから奥行きを割りだせて、なおかつ神がかり的なイマジネーションを働かせられる......」
「へえ」と小笠原がうんざりしたようにいった。「そんな人がいるかな」
「皆無ってわけじゃないぞ。たとえば歴史的に有名な贋作者の張大千だ。敦煌の壁画の失われた箇所を想像で描いたが、のちに発見された文献によって本物とうりふたつだったことが確認された」
莉子がじっと見つめてきた。「現代の日本にいる人でなきゃ......。お知り合いに、そういう才能の持ち主はいませんか?」
「贋作者の世界でか?」藍原は莉子を見かえした。「なら、あんたもよく知ってるだろ」
「え......?」莉子が瞠目した。
再会
岐阜県羽島郡笠松町。名鉄の笠松駅から境川方面に十分ほど歩いた住宅地の果て、田畑との狭間に、その広大な敷地を持つ施設があった。
周辺の生活道路沿いに伸びる白い壁は角を丸く削られ、あかぬけた雰囲気を醸しだしている。なかに見える校舎のような建物、半円を描く屋根を持つ塔は専門学校か企業の社員寮のようでもあった。
ただし、いったん塀のなかに入れば刑務官らによる物々しい警戒ぶりに気づかされる。
女子受刑者五百人以上を収容する、名古屋矯正管区の笠松刑務所。初訪問の莉子を案内してくれたのは、東京からやってきた警視庁捜査二課の警部だった。
刑事にありがちな猪首で大柄の体格とはまるで異なる、スマートで長身、品よくスーツを着こなした中年男性。東京から飛んできたばかりの宇賀神博樹は、刑務官のひとりに軽く頭をさげながら廊下の突き当たりの扉を開けた。
面会室に通されるかと思いきや、そこは午後の陽射しの降り注ぐ中庭だった。
アスファルトには球技用コートのラインが引いてある。バスケットボールのゴールも設置してあって、実際にスリーポイントシュートに興じる女性たちの姿があった。
彼女たちはみな揃いのグレーの開襟シャツにスラックスを身につけている。胸には名札が縫ってあった。
同じ服装は空間のそこかしこにいて、誰もがのんびりと昼下がりを過ごしている。身なりを考慮しなければ公園と変わらない眺めだった。
莉子はつぶやいた。「自由ですね」
「快適そのものですよ」宇賀神は皮肉っぽい口調でいった。「ここは全国から成績のいい受刑者が移されてくる、女子刑務所のなかじゃ天国に等しい場所です。もちろん、罪の軽い者がほとんどですけどね。被害額の大きな詐欺の常習犯が迎えられるのは異例ですよ」
「いまはどこに......」
「四十五分間の昼休み中はいつも外にいると刑務官がいってました。ああ。あそこですよ」
歩きだした宇賀神につづく。こちらを一瞥する女性たちは、誰もが老け顔に見えた。化粧をしていないからだろう。ルックスの印象より実年齢は若いに違いない。
莉子は思わず足をとめた。宇賀神の向かう先、塀に寄りかかるようにして木陰にたたずむひとりの女性を見たからだった。
明るく染めていたストレートのショートヘアを黒髪にして、パンクファッションから地味な服に着替えても、彼女の放つ存在感は変わらなかった。
すらりと痩せた身体つき、透き通るような色白の肌、大きな瞳。すっぴんであっても以前の印象と大差ない。
宇賀神が声をかけると、雨森華蓮の顔があがった。その目がこちらに向けられる。
褐色に見える瞳孔は莉子を見つめて静止した。表情にかすかな感情のいろがよぎる。
しかし、そのわずかな変化はほんの一秒後には、彼女特有の仏頂面に埋没していった。
沈黙はしばしつづいた。やがて、宇賀神はにこりともせず華蓮に話しかけた。「元気そうだな」
ふん。鼻を鳴らして笑う華蓮の顔に、かつてと同じ尊大さが垣間見えた。華蓮はかすれた声でささやいた。「カロリー控えめの食事に適度な運動、九時間半もの睡眠。猫と同じ」
「あらましはきいているな? 所長が許可したのはきょう一日だけだが、おまえひとりで作業するつもりか? ほかに職人は要らないのか」
「きくまでもないでしょ」
「意外だな。贋作者といってもクリエイターでなくプロデューサー気質と思っていたが」
「楽器のひとつも弾けずに指揮者になれると思う? あんなちっぽけで、しかもどうあっても完全になりえない代物の再現なら、自分でやったほうが早い」
「手柄も独占か。点数稼ぎに余念がないな」
華蓮は宇賀神を見かえしたが、すぐに莉子に視線を移し、それからうつむいた。「松島でも思ったけど、宇賀神さんってQちゃんの忠犬? 警視庁の捜査二課ってプライドだけは人一倍高いはずなのに、自営業の女の子の頼みをきいて岐阜まで出張するのね」
「減らず口を叩くな」宇賀神は冷徹さをのぞかせた。「福島刑務支所に戻してやってもいいんだぞ」
「ここに移ったのはわたしの意思じゃないわ」
「よくいう。地裁でも控訴せずにさっさと懲役刑を確定させたうえに、入所してからの生活態度も仕事ぶりもほぼ満点。短めに抑えた刑期の三分の二を消化した時点で即、仮釈放になるのを狙ってるんだろ」
「不満があるなら検察が控訴すればよかったのに」華蓮の挑発的なまなざしが、宇賀神をまっすぐにとらえた。「自信がなかったんでしょ? 民事刑事は別とはいえ、被害額がほとんど全額返還されたんじゃ、詐欺罪としてより重い実刑を食らわすのは困難よね」
「おまえが各国の被害者からだましとった金を一円も使わずに預金していたとは思えない。貯蓄を増やしたな。ハイパーインフレ騒動に便乗したろ」
「時流を敏感に察知して円を運用したからって、詐欺にはあたらないでしょう。ねえ、宇賀神さん。わたしが笠松に移された本当の理由って『モナ・リザ』の回収に貢献したからじゃなくて? あなたもわたしも、Qちゃんに感謝しなきゃね。警視総監から表彰されたんでしょ。竹富町淡水化詐欺につづくお手柄。Qちゃんが笛吹きゃ飛んでくるわけ」
宇賀神は口をへの字に曲げることこそなかったが、憤然とした態度を垣間見せながら退いた。「詳細は凜田先生と話せ」
莉子は当惑を覚えながら歩み寄った。視線を逸らし合う、わずかに気まずさの漂う時間が過ぎる。
華蓮は顔をそむけたままいった。「贋作者の大敵Qちゃんが偽物づくりを依頼だなんて」
「気にいらない?」と莉子はきいた。
「ええ。わたしより先に藍原みたいな小者をあたったのがね」華蓮は胸ポケットから折りたたまれた紙片を取りだした。広げると、例の円盤状の部品の画像が現れた。これ、もっと鮮明な写真はないの?」
「スーパーファイン紙に印刷したのを持ってきた。でも画像としては同じ」
「ニュース映像は?」
「不鮮明にしか映っていないから、スクリーンショットは参考にならないと思う」
「見える角度もこのワンショットのみか」華蓮は紙を振りおろした。「形はそれなりに再現できても、機能はとても無理よ。何なのかわかんないし」
「ええ。了解してる」
「でも、作ってどうするの? 若い主婦がひとり行方不明なんでしょ。ぐずぐずしてる暇はないんじゃない?」
宇賀神が口をはさんだ。「だから、やる気があるならさっさと取りかかってくれというんだ。この刑務所内にある、七宝焼の工房は使いなれているだろう。そこに必要な物を運んでおいた。作業時間は通常と同じ、夕方までだ」
莉子は華蓮を見つめた。「七宝焼?」
華蓮がすわった目つきで遠くを眺めた。「ここの花形職。本来は一年以上受刑してないとやらせてもらえないんだけど、わたしの場合は移送直後にチーフ扱いになった。最初に作ったペンダントは所長の奥さんの首にかかってる。毎日、職人育成の指導に明け暮れる始末」
腕を見こまれての特別待遇か。いかにも華蓮らしい。莉子はそう思った。
しばらく黙りこくったのち、華蓮はきいてきた。「記者の小笠原さんは?」
「......会社に連絡してからこっちに向かうって。もうすぐ着くはず」
ふうん。華蓮は意味深げな間を置いてから宇賀神にいった。「あなたが直接、大阪に乗りこんでいって陣頭指揮を執ればいいのに」
宇賀神は硬い顔のまま応じた。「所轄違いだ。本庁が捜査している事案でもないしな。私はただ、凜田先生から刑務所長への依頼を仲介しただけだ」
「わたしの作品が事件解決に役立ったら、その旨を所長に報告してほしいんだけど」
「心得てるよ。おまえのポイントアップには充分つながる。それがおまえへの報酬でもある」
華蓮はしらけた顔つきになった。「女に向かって〝おまえ〟っていう男、不幸を呼びこんでるのと同じよ。相手が奥さんや恋人なら、なおさらそう。そのうち逆上されるから、あらかじめ気をつけておいたほうがいいわよ」
警部の反応にはまるで興味がないらしく、華蓮は建物に向かって歩きだした。
「あ」莉子は戸惑いながら追いかけた。「あのう、華蓮......」
「急ぎの仕事でしょ」華蓮は振り返りもせずにいった。「ハンダゴテをあっためるだけでも時間がかかるのよ。さっさと取りかからないと」
レプリカ
笠松刑務所に着いてすぐ、七宝焼工房の隅にパーティションで区切られた仮設の作業場に通された小笠原は、華蓮の手際に舌を巻いていた。
莉子が連絡をいれたのはけさ早くのはずだが、華蓮はすでに方眼紙に詳細な図面を引いていた。
プレスブレーキという油圧式の機械を操作し、アルミ板を曲げる板金作業にひたすら打ちこむ。取りだされた板の中央部分は丸く凹んでいた。
その周辺をダイヤモンドカッターで切断し、フランジを徐々に小さくしていく。
がらんと音を立ててテーブルに投げだされた物体は、すでに写真のなかにある円盤型カバーとうりふたつの形状をなしていた。
しかし、華蓮は出来が気にいらないようすで、新たにアルミ板を機械にセットしてイチから作業をやり直し始めた。
小笠原は椅子に座って作業を見守りながら、内心そわそわした気分で莉子の帰りを待っていた。
彼女は売店に買いだしに向かったが、そこでは必要な物が揃わなかったらしく、外にでると告げて立ち去った。
早く戻ってきてほしい。華蓮とふたりきりなのは、なんとなく腰がさだまらない。
華蓮は手を休めることなく、ふいに話しかけてきた。「小笠原さん」
「え? あ、はい」
「Qちゃんとはその後どう?」
「ど、どうって......」
「いい雰囲気になったんでしょ。ピンチを助けてあげたんだから」
思わず居ずまいを正したくなる。ずっと刑務所にいただろうに、何もかも見透かしているような言いぐさだった。
「そのう」言葉が喉にからむ。小笠原は咳ばらいをした。「それなりに......。仲は、ええと、悪くならずに、うまくやってるよ」
「はん」華蓮は小馬鹿にしたような声を発したが、目は笑っていなかった。「Qちゃんって、何日も大阪に出張してたの? ヨゾラの世話は?」
「例によってマンションの管理人、崎沼さんが面倒をみてるよ」
「その崎沼さんって、男性?」
「ああ」
「若くてイケメンでしょ」
「な......なんでそんなことを」
「黒猫は面食いでね。ヨゾラは特にそう。男女ともに美形でないとなつかないから。ねえ、小笠原さん。Qちゃんかエグザイルかジャニーズのことを話題に持ちだしてきたら、注意したほうがいいわよ」
「なんだって? 凜田さんは男性アイドルに夢中になるタイプじゃないよ」
「だからよ」華蓮はちらと小笠原を見た。「興味がないのにそっちの話をし始めるってことは、自分の男性観を伝えるための喩えを必要としたか、嫉妬を煽ろうとしているか、いずれにしてもあなたに不満がある」
「そんな......。僕らはまだ、そこまで深い関係でもないし。あいかわらず友達以上恋人未満......」
華蓮は舌うちして、ひとりごとのようにぼそりと吐き捨てた。「中学生かよ」
すみません。なぜか謝りそうになって、その言葉を呑みこんだ。俺は何を恐縮しているのだろう。
そのとき、ようやくパーティションの隙間から莉子が入ってきた。両手いっぱいにビニール袋を提げて、莉子はにこやかにいった。「おまたせ」
小笠原は冷や汗をかきながら袋を受け取った。「遅かったね」
「ネットカフェにも寄ってたから......。フリーメールをチェックしてたら、差出人不明のメールが着信してて」
「差出人不明......?」
「返信しても戻ってきちゃうのよ。たぶんCGIで発信しているんだと思う。〝ホテルにお越し願えなかったのは大変遺憾です、再度ご説明させていただきますのでおいでください〟......とか書いてあった」
「律儀だね。悪党ならふつう『金返せ』とか『どういう目に遭うかわかってるんだろうな』みたいな脅しをかけてくるんじゃないか」
華蓮が呆れたようにいった。「そんなチンピラまがいに、一千万円を先払いする甲斐性なんかあるわけないでしょ。知能犯は忍耐強いのよ。強制しながらも、それをあからさまに誇示しない。ターゲットはいずれ折れると確信してる。大金を受け取っている限りはね」
莉子の顔から笑みが消えた。「一円も使っていないからいつでも返金できるわ」
「ふん。そりゃ、わたしならQちゃんをそんな方法で靡かせられるとは思わないけどね。ところで」華蓮はバケツに手を伸ばした。「内蔵基板はここから選ぶの?」
「そう。サイズが近い一九七〇年代半ば以降の基板を、ジャンク屋さんで集めてきたの。組み合わせて、原型に最も近いと考えられる外見にしてほしいのよ」
バケツ一杯の小型基板からひと掴みぶんを握り取って、華蓮はため息をついた。「カシオの電卓用LSIに任天堂ゲーム&ウォッチの中身......。本気なの?」
「できれば重量も想像可能な範囲で合わせてほしいんだけど」
「一枚の画像で遠慮のない注文ね」華蓮は基板をバケツに戻した。「この盛りあがっているところはたぶん電池が内蔵されてたんでしょう。画像の発光ダイオードから推測できる年代は一九七八年前後。国内ではソニーがアルカリボタン電池の生産を始めたころで、まだコイン型リチウム電池はできていない。酸化銀電池の可能性が高いわね。カバー凸部の大きさから考えて、重量は四十グラムってとこ」
華蓮は分銅を天秤で量りとると、カバーのなかに入れてハンダで封じこめた。それからカバーの外側をヤスリで削りだす。「錆びとか腐食を発生させるには日数が必要なんだけど」
莉子が提案した。「それらしく見えるようにハンダと塗装で再現できない?」
「しょうがないな。贋作としちゃレベルがさがるけど、見た目だけでも現物に近づける方向性ってことね。食品サンプルの製法が使えそう」華蓮はラッカーの缶をひとつずつ手に取って振った。塗料の品定めに入ったらしい。筆を何本か水洗いする。
すでに華蓮の手のなかにある物体は、かなり画像の部品に近づいているように見えた。小笠原は感心してつぶやいた。「そっくりに仕上がりそうだね。『太陽の塔』の警備チームに見せれば、盗難前夜の出来事とか、何か思いだしてくれるかもしれないな」
ふと華蓮の手がとまった。華蓮は上目づかいに小笠原をじっと見つめてきた。「あんたさ、ひょっとして馬鹿?」
「な......何か?」
「いまの間の抜けた発言、どういう思考回路でひねりだしたのかきいてもいい?」
「別に、深い意味はなくて......。現場を一日じゅう警備してた人たちなんだから、重要なことを見聞きしているかもと思って」
はぁ。華蓮は大仰なため息を漏らした。「刑務所にもテレビがあってね。もっとも録画が流れるばかりで、『太陽の塔』の内部はニュースで観ただけだし、盗難事件についても大筋でしかきいてないけど......。通用口の鍵は四つの班の日替わり担当者が一本ずつ預かってて、いわば全員の協力なしには開けられなかったんでしょ? なら答えはひとつしかない。警備員は全員がグルよ」
小笠原は度肝を抜かれた。「そんな馬鹿な! 日本統合警備では人材の八割に元警察官や消防士を採用してるんだよ」
すると莉子がいった。「小笠原さん。わたし、そこがどうも疑問だったの。総務課で『太陽の塔』警備チームの履歴書を見たでしょう? 二十人全員が一般採用者ばかりで、元公務員はひとりもいなかったのよ。あの会社は入手不足を補うために一割だけ未経験者を採用してるって話だったけど、『太陽の塔』の警備についたのはそれらの人たちに限られてた」
「まさか。総務課で抽選をおこなってチームを編成したんだろ。嘉藤さんもやってみせてくれたじゃないか。履歴書を混ぜ合わせて......」
「そこなんだけどね」莉子は袋をまさぐりだした。「さっき駅前のお店で買ったんだけど......」
取りだされた物を見て、小笠原はぎょっとした。莉子がテーブルの上に並べたのは、B5サイズの大判のブロマイドだった。一枚にひとりずつエグザイルのメンバー、あるいはジャニーズ事務所所属の男性アイドルが写っている。
うろたえざるをえない事態の発生に、小笠原は思わず華蓮に目を向けた。
華蓮は口もとを歪めながら作業に戻った。「知ーらないっと」
「り」小笠原は動揺を抑えながらきいた。「凜田さん。なぜそんな写真を......?」
莉子はきょとんとしていった。「は? べつに写真そのものに意味はないけど。単に売ってたからよ。小笠原さん、エグザイルのメンバーって何人か知ってる?」
「さ、さあね......。十四人だっけ」
「当たり」莉子はブロマイドをすべて裏返して、かき集めた。「エグザイルが十四枚と、ジャニーズのほうは三十枚......ぐらいかな。日本統合警備の総務課で、嘉藤さんが教えてくれた抽選方法、まだ覚えてる?」
「録音してあるよ」小笠原はICメモリーレコーダーを取りだした。
「じゃあ、嘉藤さんの説明どおりにやってみて。最初ふたつに分けるところまでは、わたしがやっておくから」
どういうことだろう。小笠原は首をひねりながら、メモリーレコーダーのデータを選択して再生した。
音声は明瞭にききとれる。他愛のない会話がしばしつづいた後、嘉藤の声がいった。
「まず履歴書の束を、こうやってふたつに分ける。それぞれ混ぜたのちに......」
莉子がいった。「やってみて」
小笠原は指示に従った。ひとつの束を裏返しのまま混ぜる。もうひとつについても同じようにする。
嘉藤の声が告げた。「元のほうの束からだいたい選ぶ人数分ぐらいの枚数、つまり十四枚前後をこれも無作為に選んで、裏表をひっくりかえしてから、もう一方に混ぜる」
「よし」小笠原は、多いほうの束から十四枚前後をでたらめに引き抜き、表に返してからもう一方に混ぜた。録音のなかの莉子の声が現状を物語る。裏表ごちゃごちゃに混ざっちゃいましたね。
「さて」と嘉藤の声が指示を続行する。「裏表混ざりあったほうからまた、十四枚前後ぐらいを選んでひっくりかえし、もういっぽうに載せる。そしてまた混ぜる。これを全員が納得するまで果てしなく繰り返すんだ」
つまり、何度混ぜようと自由なわけだ。小笠原は納得いくまで作業を反復した。裏表のブロマイドかどんどん複雑に混ざりあっていく。
「最後に」嘉藤の声がいった。「元のほうの束をひっくりかえしてもう一方と合わせて、全体を混ぜる。なかから、裏向きになっている履歴書だけ取りだして並べる」
小笠原はいわれたとおりにした。思いがけず手がとまった。「おや......? 裏返しになってるのは、ぴたり十四枚だな」
莉子がうなずいた。「それが最終的に選ばれた人々。誰なのか確認して」
十四枚を表に返して並べたとき、小笠原は雷に打たれたような衝撃を覚えた。
HIRO、MATSU、USA、MAKIDAI、AKIRA......。エグザイル、十四人のメンバー全員が揃っていた。
「そんな!」小笠原は慌てふためきながら声をあげた。「ありえないよ。あんなに混ぜたのに」
華蓮が冷静につぶやいた。「なるほどね。うまく煙に巻いているけど、抽選でもなんでもない。ふたつの束の裏と表は最初から同じ比率で分離しつづける」
意味がわからず、小笠原は莉子と華蓮をかわるがわる見た。「まるで理解できないよ。どうしてこんなことが起きる?」
すると莉子が微笑した。「繰り返しやっていれば自然に判ってくるけど、黒の碁石十個と白の碁石十個で考えてみて。黒からいくつかを白のほうに移す。仮に四個としましょう。その十四個を混ぜ合わせてから、任意の四個を黒のほうに戻して十個ずつにする。そうすると、片方の白と、もう一方の黒の数がぴたり同じになるのよ」
小笠原の頭はこんからかっていた。「な......なるのかな? 不思議じゃないか?」
贋作づくりを進めながら華蓮は首を横に振った。「こりゃ鈍いにもほどがあるね。『モナ・リザ』のときは何? まぐれだったの?」
莉子は華蓮のような冷たさはしめさなかった。「嘉藤さんや総務課の人たちも疑いなく抽選と信じてたんだから、真実に気づきにくいのも無理ないでしょう。極めて巧妙なトリックよ。問題は数じゃなくて比率と気づけば答えは早いんだけどね。とにかく、わたしが最初に束をふたつに分けたとき、一方はエグザイルだけ十四枚、もう一方はジャニーズばかりにしてあったのよ」
衝撃はまだ覚めやらない。小笠原はいった。「あらかじめ分けてあったわけか」
「そう。最初にジャニーズのほうから、十四枚前後を裏返してエグザイルに移させるよう仕向ければ、あとは自動的に結果がでる。総務課の抽選も同じ。『太陽の塔』の警備チームを選出する朝、履歴書を最初にふたつに分けた時点で、一方は全員が犯人に従順な人物ばかりで占められていたの。その数は二十三人。〝抽選〟の結果、裏返っていた履歴書は二十三枚。そこから三枚を取り除いて二十枚としたけど、すべて犯人の息がかかった人たちだったわけ」
「だけど......履歴書はもともと、ロッカーから順不同で取りだされたんだろ?」
「その場にいたのは嘉藤さんだけじゃないでしょう」
「あ......。まさか」
「抽選にはほかに三人以上の総務課の職員と、取締役ひとりが立ち会うといってたでしょう? 当日の朝には門井さんが来て、みんなで履歴書を取りだしたともいった」
「じ、じゃあ、主犯は門井さんだってのか?」
莉子はうなずいた。「実行犯の中心人物は間違いなくそうね。非合法活動も厭わない人たちを雇用する一方で、いざというときにはその全員が選出されるよう、特殊な抽選方法を嘉藤さんに教授した。日本統合警備に受け継がれた伝統だなんて、門井さんが嘉藤さんについた嘘よ」
「結果として『太陽の塔』の警備チームは、門井軍団で占められたわけか......。全員がつるんでいれば、四本の鍵を揃えて通用口を開けるのも、夜中に泥棒をはたらくのも自由自在だな」
「警察の捜査が始まる前までは、塔の内部に監視の目はいっさいなかったわけだから......。警備チームの独壇場だったわけ」
「まだ信じられない気分だよ。だけど、そうまでして門井一派が展示品を盗んだ理由は? 蓬莱瑞希さんの失踪とはどんな関係があったんだ?」
「その解明はまだこれから」莉子は華蓮に視線を向けた。「どう? 形になった?」
華蓮がその小さな物体をテーブルに置いた。「こんな物でどう。ラフ過ぎて、MNC75に数える気にはとてもなれないけどね。あくまで試作ってことで」
謙遜が過ぎると小笠原は感じた。目の前に存在するのは、まさしく画像から抜けだしてきたかのような謎の部品そのものだった。金属の表面に残るキズや錆びつきぐあい、触角を思わせる二本のアンテナの曲がりぐあいまでうりふたつだ。
莉子はそれをつまみとり、裏側を眺めた。「多層基板。当時のことだからセラミック製。ワイヤーボンディングだとして、三重構造かな」
道具を片付けながら華蓮がいった。「時代を考慮すれば、ひとつのICにおさまっているトランジスタはせいぜい千個ってところ。その大きさの基板じゃ、できることも限られてる」
「底部の右側に二センチ四方の基板が貼りつけてあるけど、これは?」
「画像で見るとそっちの底が少し浮きあがっているのよ。だからそれぐらいのサイズの何かがくっつけてあったってこと。実際にはそういう基板じゃなくて、トランスミッターの類いだと思う。アンテナがついているし」
「二本のアンテナは単純に考えれば、一本が送信でもう一本が受信。短波無線とか?」
「ならもう少し大きなレシーバー部も必要だし、全体のサイズがそんなんじゃAMラジオの電波さえ拾えない。当時の技術ってほんとに原始的なものよ。もっと簡易で一本調子な電波の送受信でしょ」
「何に使う物かしら」
「さあね。市販のツールじゃないことだけは確かだけど」
「うーん」莉子は唸ってしばし考える素振りをしていたが、やがて白い紙をテーブルに敷き、部品のレプリカをその上に載せた。
ハンドバッグからデジカメを取りだし、レプリカにレンズを向ける。角度をさまざまに変えながら狙い澄まし、ようやくシャッターを切った。
デジカメのSDカードを引き抜くと、莉子は壁ぎわのパソコンに歩み寄った。SDカードを挿入して画像をインストールしてから、インターネットのブラウザを立ちあげ、グーグル英語版のトップページを表示させた。
小笠原は莉子の意図に気づいた。「画像で検索するの?」
「そう」莉子はマウスを操作しながらうなずいた。「前にもネットで部品を探したけど、まるで見つからなかった。柴野さんの撮った画像で検索しても何も引っかからなかった。けれど、鮮明に撮った画像なら......」
莉子は画像ファイルを検索窓にアップロードした。検索結果はすぐにでた。
"Visually similar images" 類似の画像、として表示されたのは、静止画において色や印象がそれなりに似ているものの、まるで異なる物ばかりだった。シルバーメッキの腕時計、ブローチ、ドーム型の建物の空撮......。
思わず苦笑して小笠原はいった。「さすがにこれは乱暴な探し方じゃないかな」
「やっぱ駄目ね」と莉子も嘆きの声をあげた。
だが、華蓮がつかつかと歩み寄ってきた。「面白い。この部品を誰かがネット上で紹介していたとして、その画像の仕上がりぐあいを再現しようってんでしょ」
「ええ」莉子は憂いのいろを浮かべていた。「そう思ったんだけど、難しくて」
「でも発想としては悪くない。たとえばクルマなんかは左斜め前が最もかっこよく見えるから、撮る角度もおのずから決まってくる。車種ごとに人気色もあるていど定まっていたり、好ましい背景や明るさもだいたい絞れたりするせいで、実際に画像検索にかければちゃんと同一のクルマがヒットする。この部品に対しても、最良とされる撮り方の範囲はあるていど狭められるはず」
小笠原はいった。「でも、誰がどんな条件下で撮影したかわからないし......」
「贋作ってのはね、作者の心情を想像して環境を再現するところから始めるの。もちろん企業が撮る場合と、個人がブログにでもアップするときとでは、目指す完成度も変わってくるだろうけど、それぞれに対応してやってみればいい。まず、白い紙の上に置くってのは正しい判断だと思う。けど、明るさが問題ね。個人の撮影者なら窓ぎわに持っていって、陽射しをあてるでしょう。それも逆光にならないように側面から」
華蓮はそういいながら、実際にサッシの近くにレプリカと紙を運んだ。「鉄格子の影が邪魔ね。外にでて撮るのも悪くないかな。後で試してみるとして、Qちゃん、デジカメにSDカードを戻して」
莉子がいわれたとおりにしてから、華蓮にデジカメを差しだした。「接写時は自動的にピントが合う仕組みよ」
「ふん。個人ならまずオートフォーカスに頼りきっていると考えるべきね。さて、グーグルの画像検索は形状だけじゃなくて、色の比率も考慮する。背景をどれくらいフレームにおさめるかも重要なポイント......。この形状を的確に伝えるであろう角度はだいたいこのあたり。左斜め上方。右だと浮きあがった底部が目立ってみっともないし」
シャッターが何度か切られた。華蓮はSDカードをパソコンに移し換えて、画像検索をおこなった。
結果はまたしても芳しくなかった。検索結果として無関係の画像ばかりがモニターに並んだ。
華蓮は無言のまま、ふたたび撮影を始めた。今度はフラッシュを用いて同じ角度から撮る。検索したが目当ての部品はネット上から検出されなかった。
さらに試行錯誤がつづく。フラッシュを切って蛍光灯のもとで、それも光源の位置を少しずつ変えて何度も実験を繰り返した。さらにデジカメのモード設定まで細かくいじりだした。
小笠原はいった。「やっぱり無理だと思うけどな」
「あきらめたら終わりでしょ」華蓮はつぶやいた。「人はいつでも夢の一歩手前よ」
思わず小笠原は莉子を見た。莉子も小笠原を見かえした。
人はいつでも夢の一歩手前......。華蓮にしては妙にメルヘンチックな言いまわし。いや、贋作づくりを始めたとたんにその言葉が口を突いてでたなら、それはまさしく華蓮の性格を表すものかもしれない。
みるみるうちに時間が過ぎていく。窓の外が赤く染まりだしていた。
黙って見守るしかない。小笠原は覚悟をきめていた。華蓮の作業ぶりは鬼気迫る芸術家そのものだ。声をかけることさえためらわせる沈黙のオーラが全身からほとばしっている。それでいて苛立ちをのぞかせることもなく、動作は機敏で生気に満ちていた。こんな華蓮の姿はいままで見たことがない。
贋作づくりこそ、彼女の天性の才能が生きる道なのだろうか。小笠原がぼんやりとそう思ったとき、だしぬけに華蓮の叫び声があがった。「あった!」
はっと我にかえってパソコンに目を向ける。華蓮はマウスを滑らせていた。莉子が身を乗りだしてモニターを覗きこむ。
小笠原もそれに倣った。なんと、華蓮の撮ったものとほとんど同一ながら、別の画像が検索結果のトップにでていた。直径六センチほどの円盤に二本の触角。レプリカにそっくりだった。本物の部品に違いない。
華蓮がめずらしく興奮のいろを覘かせていった。「思ったより俯瞰に近い撮影じゃん。斜め前方から光をあてたけれど反射を避けるために、伸びあがってシャッターを切ったのね。しろうとなら発生しやすい手ブレも、故意に加えてみたのが正解だった」
莉子も目を瞠っていた。「すごい......。華蓮。ここまで完璧に再現するなんて」
「やっとMNC75と呼べるかどうかの仕事にはなったかも。ろくな道具がなかったせいで時間がかかったけど」華蓮はまんざらでもなさそうな表情だったが、徐々にクールさを取り戻しつつあった。気取ったしぐさで検索結果の画像をクリックする。
ところが、モニターに現れたのは〝ページが見つかりません〟の表示だった。
小笠原は困惑とともにつぶやいた。「削除されちゃってるみたいだ」
ふたたび検索結果のページに戻る。華蓮はキャッシュ用ページを開いた。
英文のサイトだった。イギリスのネットオークションのようだった。くだんの部品の画像が大写しになっている。商品名の欄には "The part of a spaceship or something else" とあった。
華蓮が覚めた口調でつぶやいた。「宇宙船か何かの部品......。あっちの出品者も日本と変わらないね。ジャンク品扱いで開始価格は一ユーロ。閲覧者数はひとりだけって、まるっきり不人気なオークションじゃん。でも落札されてる。買ったのはまず間違いなく日本人。たぶん、その大阪府の職員さんでしょ」
「へえ」小笠原はきいた。「どうしてわかる?」
すると莉子が華蓮に代わって、画面を指さした。「落札者のハンドルネームを見て。"ILIKEBEATLES" になってるでしょう。カブトムシなら beetle だから、この名前はバンドのビートルズが好きって意味をこめてるつもりなんだろうけど、the が抜けているせいで意味不明」
華蓮も同意をしめした。「the や a を軽視するあたりが日本人。ビートルズのファンだっていえばイギリス人に歓迎されると思ってる、浅はかな考え方もそれっぽい」
なるほど、英語圏の人間からみれば痛い間違いに違いない。小笠原は納得しながらも、新たに浮かんだ疑問を口にした。「でも柴野さんは、この部品に限ってどこから入手したか覚えてないって......」
すぐに華蓮が画面を下にスクロールさせた。「Please do not reveal then content of dealings to others ってある。取引内容を他人に明かさないでくれって。落札の条件なんだから、柴野って人はただ約束を守っただけでしょ。とぼけてたのよ」
「出品者が秘密にしてほしいって頼んだのか。なぜだろ」
「拾ったか盗んだか、あまり公にできない入手経路だったんでしょうね」
「でも、出品者も匿名なんだろ?」
「いえ」華蓮は眉間に皺を寄せた。「そりいえば、イギリスでは改正法の施行後、ネットで物販をする場合に氏名を明示しなきゃいけないケースがあったはず。このオークションがそれに該当するなら......」
華蓮は出品者のハンドルネームをクリックした。切り替わった画面には、こめかみにわずかに白いものを残す禿げ頭の白人男性が現れた。その顔写真の横に Lucretius E. Ouseley とある。
莉子がつぶやいた。「ルクレーシャス・E・ウーズリー。職業は農場主。あまり同姓同名はいなさそう」
「そうね」華蓮がグーグルの検索窓にその名をドラッグした。
検索結果のトップの見出しは "Ouseley Farm──Lucretius E. Ouseley" だった。住所の記載もある。
身を乗りだして莉子は読みあげた。「ウーズリー農場。ウェールズ南部のかなり面積の大きな小麦畑みたい」
華蓮はマウスを操作した。「向こうの田舎じゃ大地主も珍しくないでしょ」
「なのにジャンク品で小遣い稼ぎなんて」
「裕福な暮らしをしたことないと判らないかもね。人にもよるだろうけど、億単位の貯金があってもツタヤの延滞料は払いたくないし、マクドナルドのクーポン券も利用するものよ」
「それ、自分の体験談?」
「まあね。ウーズリー農場とやらの所在地、グーグルアースで見てみるかな」
ブラウザに航空写真が表示された。莉子のいったとおりの広大な農地が写しだされてい
しかし、小笠原が注意を惹かれたのは、カーソルが指ししめした地帯ではなかった。
地図の縮尺によれば、およそ二センチが一マイルに相当するらしい。ウーズリー農場から四マイル北西にのぼった場所に、おそらく現代人なら誰もが知る奇妙な眺めがあった。
思わず小笠原は声をあげた。「こ、これ......。こんなところに」
「......ああ」華蓮はささやくようにいった。「そういうことか」
莉子も神妙な面持ちでうなずいた。「なるほどね。二重の動機が絡んでたわけか。ひとつの論理で括ろうとしたんじゃ、何も解明できなくて当然ね。でもようやく全体像があきらかになった。ふたつの事件の接点も浮き彫りになったし」
小笠原はいまだ全貌が見えず動揺を禁じえなかった。ふたつの事件の接点? このグーグルアースの表示が『太陽の塔』での出来事と、どう結びつくというのだろう。
華蓮はため息まじりに莉子に告げた。「Qちゃんの事件簿としちゃ過去最大規模じゃん。こりゃきっと重大な転機になるわね。ある意味、Qちゃん最後の難関かも」
「最後って?」莉子がきいた。「どういう意味よ」
「個人が相手じゃなくて、ある種の勢力に刃向かうんだから、ここを越えたら一人前ってことよ。打ちのめされて波照間島にとんぼ帰りになるかもしれないけど」
いささか挑発的な物言い。しかし莉子は動じるようすもなくいった。「真実が判明した以上は見過ごせない。一日でも早く蓬莱瑞希さんを自由の身にしなきゃ」
「ふうん」華蓮は小笠原をちらと見つめてきた。「ま、期待値もゼロじゃないかもね」
なぜこちらに目を向けたのだろう......。小笠原は妙な気ぜわしさを覚えた。
そのとき、パーティションの向こうに近づいてくる足音がした。
姿を見せた宇賀神が、三人の顔を眺め渡してからいった。「そろそろ時間だ。......凜田先生。『太陽の塔』に関するニュースが、テレビで報じられていますが」
間髪をいれずに華蓮が吐き捨てた。「ここで観れるでしょ。動画サイトにあがってるだろうし」
宇賀神はむっとしたようすだったが、すでに莉子はパソコンに向き直っていた。マウスをクリックし、ブラウザの表示を次々に切り替えていく。
やがてNHKの動画が現れた。再生すると『太陽の塔』の全景および内部の映像に、男性キャスターの声が重なった。「展示品の盗難を受けて招待客への公開が中止されていた『太陽の塔』ですが、警察による現場検証が終了したため、明日から公開を再開することになりました。警察は今後、外部の捜査に切り替えたうえで、広く一般に情報提供を呼びかけるとしています。なお明日は、これまで延期になっていた植竹彰大阪府知事による見学が実施される予定で......」
「おっと」華蓮は不敵にこぼした。「知事が来るとなると警戒厳重。まさにのるかそるか、一触即発の事態」
宇賀神が渋い顔できいた。「どういう意味だ?」
莉子は華蓮のいわんとしていることを理解しているようだった。「万事休す、といえなくもないけど、考えようによってはチャンスでしょう。小笠原さん、大阪に戻らないと」
小笠原は当惑を覚えながらもうなずいた。「ああ。新幹線なら充分に間に合うよ。でもいったい、真実って......?」
気が急いているのか、莉子の耳に小笠原の質問は届いていないようだった。無言のまま莉子はレプリカを手にとった。それから華蓮に向き直って、ささやくような声で告げる。
「ありがとう、華蓮。感謝してる」
華蓮は黙って莉子を見つめかえした。莉子もしばらくのあいだ、華蓮に視線を注いでいた。
やがて莉子がハンドバッグを取りあげて、背を向けようとした。そのとき、ふいに華蓮が莉子の腕をつかんだ。
莉子が驚いたようすで振りかえった。華蓮は莉子の手首を持ちあげて、息がかかるほどに顔を近づけた。
「いつも迷いがないのね、Qちゃん」一意専心のようすの華蓮がつぶやいた。「なら、もうひと手間加えておくのも悪くないかも」
エスカレーター
翌日、やわらかい秋の陽射しが降り注ぐなか、小笠原悠斗は万博公園の一角にたたずんでいた。
すぐ近くに『太陽の塔』がこちらに背を向けそびえている。周辺は特にロープが張ってあるわけでもないが、制服警官や警備員がうろついていて、やはり物々しい警戒ぶりだった。
パトカーとともに黒塗りの大型セダンが駐車している。SPらしき男たちの姿もあった。すると府知事はすでに内部に入り見学を始めているのだろう。
莉子が不安げにつぶやいた。「どうすればいいのかな......」
「どうって」小笠原は莉子を見た。「考えようによってはチャンスとかいってなかった?」
「知事の訪問によって関係者が一堂に会するって意味ではそうだけど、無事になかに入る方法が思いつかないの......。ゆうべひと晩考えたんだけど、アイディアがでなくて」
もうひとりの同行者、蓬莱浩志も途方に暮れたようすだった。スーツ姿の蓬莱は憂慮のいろを浮かべていた。「なにをためらっているんですか? 妻の行方について新たな情報を得たとおっしゃるから、私はどんな危険も顧みない覚悟でここに来たんです。警官の群れのなかに飛びこめというなら、いますぐでもそうしますよ」
莉子は気遣うようにいった。「待ってください。取り押さえられたら蓬莱さんが不利になるだけです。なんとか中枢の人たちに面会しないと......」
小笠原は塔の根元を見やった。
よく目を凝らしてみれば、頭数は多くても、ぴりぴりした空気はさほど感じられない。警官の足取りもどこか緩慢だった。ここでテロの発生が懸念されるわけでもない。彼らは職業上の義務として配置についているにすぎない。
意を決して小笠原は告げた。「僕が先に行くよ。凜田さんと蓬莱さんは、僕の後ろにつづいて。もし僕が捕まったら、ふたりは僕を制止するために追いかけたと証言すりゃいい」
「え?」莉子は衝撃を受けたようすだった。「で、でもそれじゃ小笠原さんが......」
膝が震える。しかし、迷ってなどいられない。
「僕のことはいいから」小笠原は莉子を見つめた。「とにかく、途中で立ちどまらないで一気に知事のもとを目指そう。そこにみんないるはずだから」
「小笠原さん......」
無限の情を湛えた莉子の瞳がかすかに潤みだす。その愁眉を見かえすのは辛かった。
ふと気づくことがある。華蓮は俺のこういう馬鹿さ加減を評価したのか......。なんにせよ、躊躇などありえない。莉子のため、蓬莱夫妻のため、そして真実のためだ。
次の瞬間、小笠原は駆けだした。魑魅魍魎のごとき警備員がうごめく塔の根元を目指し一気に走った。
「待って。小笠原さん!」莉子の声が追いかけてくる。
そう。離れずについてきてくれ。小笠原は祈りながら疾走しつづけた。百ヤードを駆け抜ける独走タッチダウン・ラン、成否は運にまかせた。
今年五十九歳になる植竹彰大阪府知事にとって、『太陽の塔』は思いいれの強い建造物だった。
大学一年のころ、万博会場の東芝IHI館で照明のアルバイトをしていた植竹は、持ち場を離れられなかったせいで『太陽の塔』の内部見学は出来ずじまいだった。まさか世紀を超えて塔の内部が復元されたうえに、最新テクノロジーで彩られようとは。
盗難事件の発生と警察の捜査により、見学の予定が大幅にずれこんだものの、植竹は辛抱強くこの日を待ちつづけた。ようやくきょう、四十一年ぶりに念願がかなった。
知事室での庁内執務を午前中に終えた植竹は、昼過ぎに万博公園入りした。同行した警護は外で待たせてある。この塔にはガードマンが大勢いるときいた。吹田署の柳瀬警部補も一緒に塔内をめぐってくれる。過剰な護衛は必要ない。
初めて見る塔のなかは、ニュース映像よりもずっと過激な迫力に満ちていた。一九七〇年代、ヒッピー文化を彷彿とさせる派手な色彩が懐かしい。
一階では日本統合警備の門井専務を紹介された。泥棒が入ったこともあり、二十人の警備員は入り口付近のいたるところに配置されている、門井からそんな説明を受けた。
忌まわしい事件の爪あとは一階の展示スペースにも残っている。
レトロかつ興味深い形状をした部品の数々は、その数をずいぶん減らし、赤い布の上は隙間だらけになっていた。
「嘆かわしいな」と植竹はこぼした。「万博のころも、アメリカのパビリオンで月の石を盗もうとした輩がいた。もっとも、混雑しすぎていたせいで逃げられずに、あっという間に取り押さえられていたが」
門井はうやうやしく頭をさげた。「今後は夜間の警備も徹底いたします。では、どうぞ上へ」
きょうはマスコミをシャットアウトしたうえに、ほかの招待客とは時間が被らないよう取り計らわれたらしく、見学コースは植竹の独占状態だった。
例外は元NASAのオーガスティン・ハリス教授で、永友エンジニアリングの福寿技術部長とともに植竹の案内役を買ってでてくれた。
ふたりのやや小難しい説明をききながしながら、植竹はエスカレーターをのぼり〝生命の樹〟を鑑賞した。機械仕掛けのオブジェは時代を感じさせるものの、青春を取り戻した植竹は天にも昇る気持ちだった。
第五層の踊り場まで達したとき、ニュースでも観たPD1プロトタイプなるマシンに遭遇した。
植竹はこのマシンのために、妻から持っていくよう指示された物を取りだした。古いワイシャツ一枚。ほとんどのボタンがほつれて紛失してしまっている。
福寿は笑って、PD1の正面の扉を開けた。蛇腹の第二の扉の鍵を外し、横滑りに開くと、奥の扉も開けてがらんどうの内部をしめした。
その内壁の左にある複雑な機構について、ハリス教授が流暢な日本語で解説する。「ここには糸だけでなく、透明チューブのなかにさまざまな種類のボタンが複数個ずつストックされています。ボタン穴の大きさとワシャツの色をセンサーが自動検知し、適正なボタンをエアで射出して縫いつけます」
ワイシャツを底に置いて、扉を閉める。作動時間は数分だった。扉を開けるとシャツは折りたたまれていて、すべてのボタンが復活していた。あたかも最初からそうであったかのように。
植竹は驚嘆の声をあげた。「これは素晴らしい技術だな」
ハリスも同意をしめしてきた。「アメリカの企業にとっても垂涎の最新テクノロジーですよ。永友エンジニアリングによる、長年の研究の賜物です」
踊り場にはほかにも、PD1によく似たマシンが五台ほど並んでいた。うち一台だけは〝調整中〟の札がかかっていたが、ほかは稼働しているようだ。植竹はいった。「展示物が追加されているようだが」
福寿が指し示した。「ひとつずつご紹介します。まずこちらは......」
そのとき、階下がふいに騒がしくなった。警備会社の門井の声が響く。「駄目です。いまは知事がおいでになっているんですよ」
エスカレーターを駆けのぼってきたのは、二十代らしき三人の若者だった。
ひとりはカジュアルな服装の女性、あとのふたりはスーツ姿の男性だった。その背後から、息をきらしながら門井が追いかけてくる。
なにごとかと立ちすくむ植竹に、女性が声をかけてきた。「知事。初めまして。失礼をお許しください。唐突ではありますが、ぜひお知らせしたいことがあります」
小笠原は身も縮む思いで、植竹に話しかける莉子を見守った。
二十人もの警備員が待ちかまえているからには、すぐさま取り押さえられる可能性もあったが、塔内部は吹き抜けなのだから叫び声をあげればいい、そう思っていた。
ゲリラも同然の乱暴な戦術だったが、突然のことだったせいか、警備員たちはみな立ちつくしたままだった。彼らが阻止しようと動きだす寸前に辛くも警戒網をかいくぐり、三人は一気にここまで達したのだった。
しかし、知事と対面したからには新たな緊張と向かい合わねばならなかった。狭い踊り場には、ほぼすべての役者がひしめきあっている。門井、ハリス、福寿、柳瀬。
真っ先に口をきいたのは柳瀬警部補だった。それも蓬莱に対して怒声を浴びせた。「またあなたですか。いったいこれは何の真似です。知事の訪間中ですよ」
蓬莱は一瞬だけ思い惑ったようすだったが、すぐさま毅然たる態度に転じ反論した。
「何度でもいいます。ここは妻が連れ去られた現場です。真実があきらかになるまで足を運びます」
声が震えていた。その理由は必ずしも憤りのせいばかりではない、小笠原はそう感じた。蓬莱のなかに怯えがないわけではない。俺も同じだと小笠原は思った。
莉子はなんらかの真実をみいだしたようだが、例によって小笠原には詳細を教えてくれなかった。まだ確かなことはいえないから、そう言葉を濁すばかりだった。
事前には概要すら打ち明けてくれない莉子の行動パターンのせいで、不安はいっこうに解消されない。彼女がどんな論理を組み立てていようとも、それが正しいことを祈るばかりだった。
柳瀬は苛立ちをのぞかせながら門井に告げた。「警備は何をしてるんです。あなたが任せてくれというから、警察の要員は外を受け持っているんですよ。これじゃ出入り自由のパーティーも同然でしょう」
門井はあわてたようすで近づいてきた。「凜田さん。どういうおつもりなんですか。すぐ退去してください。きょう入場できるのは招待客のみです」
莉子は平然といいかえした。「わたしは対象外なんですか? 一千万円を受け取ったからにはおいでくださいというから、職場に直接おうかがいしたんですけど」
すると門井は、以前の温厚そうな面持ちからは想像もつかないほど表情を険しくした。頬筋を痙攣も同然にひきつらせ、門井はまくしたてた。「何の戯言ですか、それは。非常識もほどほどにしてください。話があるというんなら、事務所でおききします。とにかく、ここにいたんじゃ知事の見学の妨げになります。いますぐ外へ......」
ふいに植竹知事が制した。「ちょっと待った。......彼女を凜田さんと呼んだな? ひょっとして凜田莉子さんですか。鑑定家の。京都府知事から噂をおききしました。安倍晴明の式盤の発見に貢献されたとか」
風向きが変わった。だが、門井は流れに逆らうように声を張りあげた。「知事! 彼女はここにおいては招かれざる客です。警備の都合上、退出してもらわざるをえません。ご容赦ください。さあ、凜田さん。こちらへ」
門井は莉子の腕をつかむと、エスカレーターに戻りかけて足をとめた。狼狽のあまり、上りの一方通行であることを忘れていたらしい。踵をかえして、上に向かうエスカレーターへと莉子をひきずっていく。
莉子は表情ひとつ変えなかった、門井の手をふりほどこうともせず身をまかせている。
だがエスカレーターの手前、踊り場の柱に接近した瞬間、そこにあった火災報知機のボタンを素早く押しこんだ。
とたんに、けたたましくベルが鳴り響いた。まさに耳をつんざく騒音だった。防災システムは新調されているらしく、警報とともに明瞭な音声が反復される。火事です。すみやかに外にでてください。火事です。すみやかに外に......。
そのとき、想像を絶する事態が発生した。
PD1をはじめとする、すべてのマシンの右側面が弾けるように開いた。そこに扉があること自体、小笠原も初めて知ったことだった。
つづいて、それぞれのマシンからひとりずつ人影が躍りでた。怯えきった顔で周りを見まわし、その場に立ちすくんだ。
ベルがやんだ。塔内はまたふいに静けさを取り戻した。
森閑としたその環境、狭い踊り場に、それまで存在を認識していなかった六人が新たに加わっていた。
誰もが軽装だった。特に上半身はTシャツ一枚だ。密閉された箱のなかは暑かったから、そんな理由だろうか。
血の気がひく思いだった。まだ驚きが覚めやらない。その一方で小笠原は、ほとんどの顔に見覚えがあると気づいた。
三十歳代とおぼしき女性と白髪頭の男性は、箕面クラウンズホテルにいた。車寄せに停まったタクシーから降りてエントランスに迎えいれられた、来訪者のふたりだった。
さらにふたりの男性もホテル前で見かけたが、彼らとはそれ以前にも出会っている。
眼鏡に無精ひげのプラモ職人らしき男とは、千里市民センターですれちがった。
そして、立体パズルの猛者として知られる本郷秀則。彼は莉子と入れ替わりに、空き地のプレハブ小屋に入っていった。
見知らぬ顔もあった。〝調整中〟のマシンから飛びだした大柄の男。目を白黒させてたたずむその男は、プロレスラーさながらの巨体の持ち主だった。
最後のひとり、PD1からよろめくように転げだしてきたのは......。これも面識のない女性だった。童顔ではあるが実年齢は二十代半ばから後半ぐらい、化粧っけのない青白い顔はやつれきっていた。髪はぼさぼさで、身体は痩せ細り、ここしばらくはろくに食事をとっていなかったのではと推察される。
彼女が何者なのかは、蓬莱浩志の反応がしめしていた。浩志は目を大きく見開き、愕然としたようすでつぶやいた。「瑞希......」
瑞希は凍りついて浩志を見かえした。魂を奪われたような目が。ぼうっと浩志に向けられている。
かなりの時間が過ぎた。瑞希の顔に、感情のいろが戻りだした。痛々しい不憫さのなかで、瑞希の瞳は潤みだしていた。
「ごめんなさい」瑞希は震える声でささやいた。「浩志さん......。ほんとにごめんなさい」
浩志の顔にはまだ驚きがとどまっていたが、それは信じがたい再会だったからに違いない、ゆっくりと歩み寄ると、浩志は瑞希をしっかりと抱きしめた。
「ど」浩志は押し殺した声でいった。「どうしてこんな......。心配したんやぞ」
抱き合う若い夫婦の嗚咽に似た泣き声だけが、静かに響く。ほかの全員は、無言でそのようすを眺めていた。
言葉を失っている理由はさまざまだろう。植竹知事の顔は紅潮していた。憤りが強すぎて何もいえずにいる、そんな状態としか考えられない。
「なんだ」植竹はようやくつぶやくと、次の瞬間には怒鳴り声を発した。「いったいこれはどういうことなんだ! 誰か説明したまえ!」
莉子はすました顔で黙りこくっている。門井がばつの悪そうな表情でうつむく。福寿は鼻からずり落ちそうになる眼鏡を押しとどめようと必死のようすだった。ハリスはため息をつきながら頭上を仰いでいる。
そんななかで、柳瀬警部補は目をぱちくりさせていた。「蓬莱さんの......奥さん? 機械のなかにいたっていうのか? でもさっきは、なかは間違いなく空洞だった。内部には鼠一匹いなかったはずなのに......」
莉子が火災報知機前を離れて、柳瀬に歩み寄った。
小笠原はふと、いままで莉子の陰になっていた消火栓の赤いケースの上に、小さな円盤状の物体が放置してあることに気づいた。
例の謎の部品を模した、華蓮作のレプリカだった。
なぜあんなところに置き去りにするのだろう。小笠原が莉子に目を向けると、彼女はメモ用紙を取りだして柳瀬に示していた。
「見てください」莉子は柳瀬にいった。「新幹線のなかで走り書きしたので、雑なもので恐縮ですけど」
なんだろう。小笠原は近づいて、柳瀬の肩ごしに覗きこんだ。
「この図は?」と柳瀬が莉子にたずねた。
莉子が説明した。「マシン......というより、そう見せかけた箱のなかに人がいないように見せる段取りです。最初の扉は百八十度右に開け放たれます。次に、蛇腹式の扉には鍵がかかっているので、この鍵を開けている隙に、なかの人は側面の隠し扉を開けてマシンを出て、最初の扉の陰に移動するんです。内部のメカニズムらしき装飾は、正面からみて左の内壁にしかなく、箱の右側は隠し扉になっています。解錠のノイズで隠し扉の開閉音をごまかす点も重要です。あとは奥の扉が開けられて、もぬけの殻であることがしめされてから、逆の順序で扉が閉じられていきます。蛇腹の扉が閉まり鍵をかけている最中に、外の扉の陰に隠れている人が内部に戻るんです」

柳瀬は眉間に深い縦じわを刻みながら図面に見いっていたが、やがて途方に暮れたように顔をあげた。
「ありえへん」柳瀬は嘆きにも似た声をあげた。「こら不可能やで。このバルコニーは宙吊りも同然や。周囲のあらゆる方向から視線を注がれる状況にある。PD1の右側面は一階から見えるやないか。ここには私たち以外にも、ようけ人が......」
莉子が柳瀬を制していった。「警備員がいるだけです。警部補さんの部下は外を見張ってる。知事の警護の人も同様です。塔の内部にいるのは日本統合警備の警備員、それも門井さんの息がかかった人たちのみ。全員がこのトリックを知ってたぱずです」
植竹知事が門井を睨みつける。柳瀬も信じられないというように目を瞠ってつぶやいた。
「門井さん。あんた......」
「誤解です」門井は額に無数の汗の粒を光らせながら、おろおろと弁明しだした。「こんなこと、私たちにとっても青天の霹靂、知るよしもなかったことで......」
柳瀬は怒りをあらわにして詰め寄った。「青天の霹靂? マシンから人が出入りするのを見とったはずの警備員が、全員だんまりを決めこんどんのにか。それも......なかにおったのは蓬莱さんの奥さんやないか! あんた、あのときも判っとったんやな。彼女が塔に連れこまれたんは真実やった。マシンに閉じこめときながら、シラを切っとったんや」
小笠原は一階を見おろした。各所に配置されているはずの警備員たちが、なぜかずいぶん数を減らしたように見える。
その理由は、通用口に目を向けたとたんあきらかになった。ボスの立場が悪くなったことを悟ったのだろう、警備員は続々と外に逃げだしていく。
門井も一階の異常事態に気づいたらしい。バルコニーから身を乗りだして怒鳴った。
「おまえら、どこへ行く。戻れ! 雇用されている身なのを忘れたか」
柳瀬が門井の肩をつかんで振り向かせた。「あんたこそ、立場を認識したらどうぞ。誘拐と監禁の現行犯やぞ」
「違う!」門井は必死の形相で訴えた。「警部補。あなたもあの朝、警官を連れて調べに来たじゃないか。それ以前には蓬莱さんが下から順に徹底的に見てまわった。PD1も扉を開けただけじゃなく、裏側にもまわったはずだろう。警官が総力を挙げて調べても、誰ひとり発見できなかった」
莉子が冷静に告げた。「記憶の混乱を引き起こそうとしても無駄です。順を追って考えれば、瑞希さんが見つからなかった理由は明白です」
「な」門井は呆然と莉子を見つめた。「なんだって......?」
「蓬莱浩志さんは第四層の踊り場に瑞希さんの姿を見つけ、エスカレーターを駆けあがった。第四層まで来たとき、そこに瑞希さんはおらず、さらに第五層の踊り場に着いたときにはPD1の裏側にまわって無人を確認した。でも扉を開けたりはしなかった。実際にはそのとき、瑞希さんは警備員に強制されてPD1のなかに退避させられていたんです」
浩志は唖然として瑞希に目を向けた。「なかにいたのか、あのときに......」
「さらに」と莉子はいった。「浩志さんはこの上の空中廊下まで赴いてから、警備員のひとりと出会った。その警備員は瑞希さんをPD1のなかに追いやってから、エスカレーターをのぼり、何食わぬ顔でたたずんでいたんです。浩志さんの訴えをきくふりをして、警備員は第六エスカレーターを停止させ、ふたりでこの踊り場に戻りました。そのとき警備員はPD1を開けてみせました。瑞希さんはさっきと同じ方法で扉の陰に隠れてやりすごした。浩志さんには、誰もいないように見えたんです」
瑞希は泣いて項垂れた。「ごめんなさい......」
莉子は説明をつづけた。「次に警備員は第五エスカレーターを停めて、ひとつ下の第四層の踊り場に浩志さんを案内した。壷を倒したりソファをばらしたりして無人であると証明した。第四以下のエスカレーターは稼働中だったけど、ここで蓬莱さんは門井さんにいざなわれて、最上層の空中廊下にあがって〝右腕〟のエスカレーターをのぼった。出口のハッチが閉じていることや、その先の螺旋階段に誰もいないことを確認し、空中廊下に戻った。その時点でも第四以下のエスカレーターは動いていた。でも〝左腕〟の非常階段をたしかめてから空中廊下に帰ってみると、もうすべてのエスカレーターが停止していて、柳瀬警部補が警官を引き連れてのぼってくるのが見えた」
柳瀬がうなずいた。「私が来たときにはエスカレーターは動いとらんかった。直前に警備員どもがPD1のなかにいた奥さんを連れだして、一階に下ろし、外に逃がしたからやな。旦那が腕のなかを調べている隙にやったんやろ」
「そうです」莉子はいった。「そのために門井さんが蓬莱さんを〝左腕〟に連れていったんです。非常階段を上り下りする足音で、エスカレーターの停止音および瑞希さんの足音が耳に届きにくくなりますから」
植竹知事が口をはさんだ。「ちょっと待ってください。話がまだ見えてこないが、彼女は拉致監禁されてたわけか? 扉の陰にいても、自分の夫が探しにきたことは声をきいてわかるだろう。どうして助けを求めなかったんだ?」
莉子が植竹を見つめた。「拉致や監禁じゃありません。彼女はここに就職していたんです。展示期間中、ずっと朝から夕方までマシンのなかにいて得意分野の腕をふるう。あたかもロボットがやったかのように黙々と仕上げる。それが彼女の仕事だったんです」
「なんと!」植竹は頓狂な声をあげた。「さっきのワイシャツは手縫いか。人のわざとは思えないほどの速さと正確さだ。もっとも、その才能があればこそ採用されたわけだろうが......」
蓬莱浩志が妙な顔をした。「才能って......。妻は家事がいっさいできないんですよ。まして裁縫だなんて」
「いえ」莉子は微笑した。「瑞希さんはあなたと結婚する前に、家事が得意だとおっしゃったそうですね。それは嘘ではなかったんです。とりわけ彼女は縫製の才能には秀でていた。国家資格を取得してたぐらいだから」
「こ、国家資格......?」
「パソコンの横にメモがあったでしょう。6114、6111、6108、6105って。ハローワークの免許・資格コード一覧を調べてみればわかります。それぞれ布はく縫製技能士1級、和裁技能士1級、紳士服技能士特級、婦人子供服技能士特級を表す番号なんです。瑞希さんはその腕を生かせるパートタイムの仕事を探してた。でも、よさそうな求人が見つかってコンタクトをとったとたん、仕事内容は誰にも打ち明けるなと釘を刺されてしまった。秘密が漏れるのを最大限に防止するため、その特技や才能に気づいていない人に対しては、たとえ身内であっても伏せるように指示された」
浩志は動顛したようすで瑞希にきいた。「不器用を装ってたんか? この仕事のために、何もできんふりをしとったんか」
瑞希は泣き腫らした目で浩志を見つめた。「仕方がなかったの。浩志さんが家のローンの支払いに追われてることも知ってたから......。資格が生かせる仕事を探そうと必死になったけど、なかなか見つからんくて。そんななかで目にとまった求人やったんよ。先にお金を渡されて、その後に仕事の説明を受けたから、もう断れへんし......」
「そんな。金なんか突き返してまえばええやないか。瑞希が一日じゅうこんなところに閉じこめられるなんて、とても耐えられへんよ」
莉子が穏やかにいった。「蓬莱さん。奥様は、あなたが反対するとわかっていたんです。だからいいだせなかった。そんなある日、あなたは『太陽の塔』のニュースを観て興味をしめした。瑞希さんはあなたにクイズのチラシを渡して、チケットを即買いするのを思いとどまらせた。けれども、一般公開が始まったら夫はきっと行きたがるに違いないと考えた。だから瑞希さんは、仕事を辞めようとして公園に向かったんです。警備員にその旨を申しでたけど、拒絶されて、強引に塔に連れていかれた」
「じゃあ、それが僕の見た......」
「ええ。巨漢の警備員に連行されそうになった奥様が、身をよじって抵抗する瞬間だったんです。ここでもうひとつの事実もあきらかになります。門井さんは、外見上威圧的でない警備員のみを派遣するという、万博公園との取り決めを守っていません。いざというときに腕力に訴えられる用心棒まがいの三人もこっそり派遣している。そこにいる人が、そのなかのひとりです。〝調整中〟の札がかかったマシンに交替で潜んで、ほかのマシンに入っている人たちを監視してた。警備チームは見せかけだけで、実際には門井さんが組織する犯罪者集団でしかありません」
柳瀬がスーツの懐に手をいれた。内ポケットに無線の端末をおさめているらしい。マイクを引っ張りだして告げた。「至急至急。警視三一〇から本部......」
外の警官たちへの指示だった。塔から逃げた警備員を足どめするよう要請している。
門井は厭わしげな面持ちで柳瀬を見やった。だが柳瀬が顔をあげて睨みかえすと、門井は怖気づいたように視線を落とした。
莉子が説明した。「蓬莱さんが塔に駆けこんだとき、瑞希さんはすでに別の警備員に引き渡されて、PD1がある第五層へ連れて行かれる途中だった。第四層の踊り場までのぼった瑞希さんは、一階に夫がいることに気づき、驚いて叫び声をあげた。下から見ていた蓬莱さんにとっては、妻が助けを求めたようにも思えたでしょう」
蓬莱浩志は肩を落とした。「なんてこった......。そのときは仕方がなかったとしても、なんでずっと家に帰らへんかった?」
「だって」瑞希の頬を大粒の涙がつたった。「帰宅したらあかんていわれとったんよ。夫が事情を問いただしてくるに決まってるし、二度と『太陽の塔』に向かわせまいとするだろうから......そういわれたの。公開終了まで毎日、PD1のなかに入ってくれなきゃ困るっていわれて」
「いままでどこにいたんだよ」
「近くのワンルームマンション。勝手に外にでるなっていわれとった。携帯電話も没収されそうになったけど、なんとか隠し持って、メールを送信したのよ。同じ立場の人たちもみんなマンションにいたの」
さっきまでマシンに隠れていた四人が、居心地悪そうに床に視線を落とした。
植竹知事は気の毒そうに話しかけた。「あなたたちも裁縫が得意だったんですか。それとも、なにかほかの特技が......。どんな機械という触れこみだったんです?」
四人に代わって莉子が説明した。「プラモデルをいれると数分間で自動的に塗装をしてくれる。その隣りは、知恵の輪をいれると解いてくれるマシン。ルービック・キューブもあっという間に六面が揃う。あとのおふたりは何の専門か知りません。でも、少なくとももう一台のマシンが追加される予定でした」
「ほう。どんな機械ですか」
「自動鑑定機です。入れられた物の真贋を判断して、結果を外部モニターに文字表示するマシンです。わたし、そのためのテストを受けさせられましたし」
「なんと」植竹は目を剥いた。「凜田先生までマシンのなかに幽閉されそうに......?」
「向こうから一方的に誘ってきたんですけどね。最初はお試していどのようでした。フランク紙の裏表を識別できる候補者がすでにいたんですけど、彼はいんちきをしていたので、わたしが第一候補になったみたいです。市民センターやプレハブ小屋の特設会場に呼びだされて、鑑定能力をテストされました。以前に蓬莱さんもいっていたように大阪では日用品の鑑定のニーズが高いようですから、その種の依頼品がマシンに入れられると想定したらしく、出題にも紙やクレラップや食品が使われました。音を立てずに素早くキー入力する腕も試されましたけど、あれはマシンのなかに潜んで鑑定結果を打ちだす際に、見学者にばれないようにするためですね。わたしの次に小屋に入った本郷さんに対しても、パズルを解く能力を調べる出題がなされたと思います」
本郷は陰鬱な表情でうつむくばかりだった。ほかの三人も同様だった。誰もひとことも発しない。
莉子はつづけた。「的場を名乗っていた人物をはじめ、複数の試験官が人材探しに奔走していたみたいです。でも試験官たちは、合格者に仕事を依頼するその瞬間まで、テストの目的を伏せておこうとしていました。展示マシンのなかに人が入るなんて秘密が、世間に知れ渡ったら大変ですから......」
また重苦しい沈黙がおりてきた。莉子の指摘に最も動揺しているのは誰だろう。小笠原は一同を見渡した。
そのとき、小笠原はふと異変に気づいた。消火栓の上にあったはずのレプリカが、いつの間にか消失している。
莉子は鍵をひとつ取りだして柳瀬警部補に差しだした。「阪急吹田駅の南改札口にあるコインロッカーの鍵です。わたしへの前払い金の一千万円はそこにあります。証拠としておおさめください」
柳瀬は鍵を受け取りながらつぶやいた。「一千万......」
「マシンのなかに入る人たちは全員、前払い金を受け取っていました。個人とすれば非常に高額なギャラですけど、同じ機能を持つ全自動ロボットの開発には数十億から数百億円がかかるでしょう。半官半民の永友エンジニアリングは、技術開発のために政府および大阪府から多額の助成金を受けてきました。これは公金の横領着服です」
「ち」福寿があわてたようにいった。「違います! 着服じゃないです......。今回の展示にあたっては、お金を受け取ってはいません。大阪府議会からもいわれてます、搬送費ぐらいはだすけれども、マシンそのものはすでに開発が済んでいる物を提供してくれと、けちな......いや、節約優先の指示を受けてまして」
植竹知事はむっとした。「その従来の開発自体、誤魔化しだったんじゃないか。永友エンジニアリングは常々、プレスリリースで画期的な進歩ぐあいばかり喧伝してきた。複雑な作業を可能にするロボットの実用化段階まであともう少し、いつもそういって行政から開発費をせしめてきた。一方で、アジア各国の産業スパイに技術を盗まれるのが怖いからと、発表会への出展も断るのが常だった。いまにしてみれば理由はあきらかだ。金を使いこめるだけ使いこんで、何ひとつ作りだせてなかったんだからな」
「作りだせていないわけではありません。そのう、可能なんです。これらの技術は......理論的にはもう、実現できるんです。ただし、あのですね、これはあくまで展示ですから。プロトタイプと名がついているように、実際に稼働したらこんな具合になるという、まずはコンセプトを再現したもので......」
「馬鹿いえ!」植竹は一喝した。「それでなかに人が入っている言いわけになると思うか! エンジニアの名折れだ。恥を知れ!」
福寿は血の気のひいた顔で、しきりに眼鏡の眉間を指で押していた。
柳瀬が福寿を睨みつけた。「学芸会の出し物じゃあるまいし、なぜこんなふざけた真似をしよったんですか」
「いえ......。あ、あのですね......。ひとことで。説明できるものでは......」
「かまいません。理由があるならいまおうかがいします」
なおも福寿は返事を渋っているようだったが、やがて諦めたようにつぶやいた。「仕方なかったんですよ......。絶えず研究をおこなっていても、技術というのは成長を約束されているわけではありません。日本のロボット開発技術の宣伝は、以前からやや誇張が過ぎたんです。大衆はそれを信じてたから、今年の春に原発事故が起きたとき、人の代わりにホンダのアシモを派遣すべきだなんて意見が殺到した。うちに対しても同様です。実際には、まだまだ複雑な作業をロボットに任せられる段階にはない。ただし、金を騙しとっていたわけでもありません。助成金詐欺のように仰いますが、お金がでたのはもう昔の話です」
「なに?」植竹知事はじろりと見た。「昔......」
「二年前、例の政府による事業仕分けですよ。科学関連のプロジェクトは大幅に予算を削減されました。そのうえ原発事故です。放射能漏れの発覚後も揺るがない国力のおかげで、日本円は依然として海外からの高い信頼を得てますけど、技術は別です。海外企業は日本のテクノロジーに対し急激に不信感を抱くようになった。おもに欧米からの開発依頼がすべて取り消しになったんです。それなのに府議会は、目が覚めるぐらいの素晴らしい技術展示をおこなえと、半ば強制的に私たちを担ぎだし......」
植竹知事は憤然としていった。「府議会のせいだっていうのか。こんな卑しい方法で世間をだまそうとしたのは、行政にせっつかれたせいだと主張したいのか」
「そうですよ」福寿は泣きそうな顔になっていた。「府だけじゃありません。国だって人を寄越してきて、この機会に〝ものづくり日本〟の威信を取り戻せとか、世界が注視するような革新的なテクノロジーを展示しろとか、そればかりいってきた。すでに助成金などあって無きがごとしだったんですが、政府の信頼だけはどうしてもつなぎとめたい。会長も社長もそう判断したんです。技術部は無理難題ばかりを押しつけられたんです。いちおう図面も引いたし、機能面での解説はおこなえるだけの理論は突きつめられました。でも開発のためのお金も時間もなかった。最終的には『太陽の塔』の展示期間のみ、なんとか凌ぐことしか頭にありませんでした。みっともない話だとは思いますが、苦肉の策だったんです......」
会話が途切れた。今度の沈黙は気まずい空気を内包していた。大勢がひしめく踊り場で、他人の顔いろをうかがうような視線が交錯しあう。
静寂を破って柳瀬警部補がいった。「門井専務は自分の勤める警備会社に黙って、こっそり永友エンジニアリングの茶番に協力したわけだ。配下のみ動員して」
門井はおろおろと告げた。「協力だなんて、そこまで大それたことでは......。ほんの少し頼みごとをされたにすぎません」
「いえ」莉子はつぶやいた。「門井さん。あなたは深く関与してます。わたしが初めてここに来た日、あなたはわたしの職業が鑑定家だと知りました。直後、蓬莱さんの家にいたわたし宛に、能力テストへ誘う手紙が投函された。わたしはまだその時点では、誰に尾けまわされたのかわからなかった。けれども、ホテル阪急エキスポパークのフロントに伝言が届いた。あなたにしかできないことです」
「な......何だって?」
「わたしも小笠原さんも、宿泊場所を誰にも明かしていなかったし、チェックインした夜には周りに監視の目がないことを充分に確認しました。でも門井さんにだけは教えてあったじゃないですか。バルコニーから『太陽の塔』が見える宿泊施設だって。あなたがわたしの居場所を把握するたび、能力テストへの誘いがきた。門井さんは塔の外においてもこの計画に積極的に関わっていたんです。もちろん、それ相応の報酬を受け取ってのことでしょう」
柳瀬がうなずいた。「永友エンジニアリングはペテンを演じるためにマシンという大道具、そのなかに入る出演者を揃えたが、現場の舞台スタッフは自前で用意できへんかった。毎朝、マシンに入る出演者らを迎え、夜には送りだしてくれる連中。見学者が不用意にマシンを開けんよう、絶えず警戒してくれる奴ら。そういう舞台スタッフを外部委託した。すなわち、門井専務率いる警備チームや。いまさら共犯でないなどと、見え透いた嘘が通る思うか」
門井はハンカチでしきりに額の汗をぬぐっていた。鬱屈としたその表情は、かつて温和そうに見えた人柄のかけらも残っていなかった。
植竹知事がため息まじりにいった。「自分の目で見ておきながら、何も見抜けなかった私も悪いが......。いまにして思えば馬鹿げたトリックでも、まるっきり疑う気が起きなかった。オーガスティン・ハリス教授の太鼓判つきでしたからね。教授がからくりを見抜いていれば、こんなことにはならなかったでしょう」
ずっとひとことも口をきかなかったハリスは、両手をズボンのポケットに突っこんで、フェンスから一階を見おろしていた。
うつむく横顔に苦々しげな感情が覘く。ハリスの流暢な日本語には、不遜な響きがこもってきこえた。「私は、永友エンジニアリングの技術に全幅の信頼を置いていたんでね。内部のメカニズムも本当に機能するように見えた。まさかハリボテとは思わなかったよ」
莉子がすかさずいった。「そんなわけないでしょう。あなたなら一秒で気づいたはずです」
全員の目が莉子に向けられる。ハリスの硬い顔に恨めしさが重なってみえた。
それでも莉子の態度は落ち着き払っていた。「ハリス教授はもともと、永友エンジニアリングの技術に対し批判的だったでしょう。永友が発表してきた研究成果も、疑わしいと感じていた。だから『太陽の塔』への出展について、自分の目でたしかめてやろうと見学を申しこんだ。でも断られてしまった。福寿さんたちは当然、教授が来たのではトリックが見抜かれてしまうと戦々恐々だったんでしょう。教授はあきらめず、大使館を通じ圧力をかけてまで見学を実現させた」
ハリスはまっすぐに莉子を見つめた。「きみはずいぶん失礼な物言いをするね。日本人女性が思慮深いというのは過去の話かな」
「一瞬にして真相に気づいたはずなのに、あなたはNHKの取材カメラの前でPD1を絶賛してみせた。塔に入る前までは赤っ恥をかかせてやろうと闘志を燃やしていたのに、実際にPD1のデモンストレーションを見るころには心変わりをしていた。なぜですか」
「仮定の話には返答できないね。きみが思い描く私の心情など、根拠のない想像にすぎないよ」
「根拠ならあります。あなたはマスコミに対し永友エンジニアリングのペテンを暴露するのではなく、黙っておいて恩を売るべきと判断したんです。一階の展示品のなかに、どうしても手にいれたい物を見つけた。秘密を守ることと引き換えに、それを盗ませるぐらい造作もないことです」
小笠原は脾腹を突かれたかのような驚きを覚えていた。
怪しい人間ばかりと思っていたが、なんとほぼ全員が犯行に関わっていた。例外は、がみがみと口うるさいばかりの柳瀬警部補、そしてきょう初めてここを訪ねた植竹知事だけだ。日本統合警備、永友エンジニアリング、そしてハリス教授。『太陽の塔』の展示において大きな権限を有する立場のすべてが裏でつながっていた。共犯者だった。
「......くだらん」ハリスは吐き捨てた。「もう少し利口なお嬢さんがと思っていたが、買いかぶりすぎていたようだな。あんなガラクタの山に宝物が潜んでいたとでもいうのかね」
「価値ある宝とはいってません。あなたにとってどうしても入手せねばならない物だった、それだけのことです」
「きみ自身、いったことを忘れてるよ。もし展示品のなかに、私のほしい物があったとしたら、私はそれを借りたいと申し出ればいい。脅すにしても、そのひと品だけ要求すればいいことだ。判るかな? きみのいうことは何もかもでたらめ、支離滅裂だよ」
「いいえ」莉子は動じなかった。「あなたは福寿さんを窓口にして、いわゆる門井軍団の警備員を動かし、展示品を盗ませた。USSR、つまり旧ソ連製以外の物で、ポケットサイズの部品のみ根こそぎ持ってこさせた。あなたが欲しかった物はそのなかのひとつだけ。でも、どれを入手したがっていたかは誰にもあきらかにしたくなかった。共犯の福寿さんにも、門井さんにも、そして警備員たちにも知られるわけにいかなかった」
「馬鹿馬鹿しくて話にならん。福寿さんや門井さんにきいてみようじゃないか。凜田莉子さんのいってることは本当か? 私はきみらを脅したか? どうだね」
福寿も門井も、ひとことも発しなかった。口をつぐんだまま視線を泳がせるばかりだった。
莉子はハリスに対し、妙に軽い物言いで告げた。「そりゃ返答はないでしょう。あなたのような世界的権威によって、永友エンジニアリングの出展の裏側が公に暴露されてしまったら、破滅も同然です。どんなに辛い立場に追いこまれようと無言を貫くしかない」
「そう思うのなら、それでいいんじゃないかね。誰もきみに賛同はしない。つまるところ、きみの空想にすぎないわけだ。侮辱は大目に見てあげよう。しかしもう、二度と会って話すこともあるまい」
ハリスは背を向けて歩き去ると、上りのエスカレーターに乗った。そこが唯一の退出の道だった。長身の後ろ姿がしだいに高さを増しながら遠ざかる。
するとそのとき、急にくぐもったブザーのような音が響いてきた。
携帯電話のバイプ音に近いが、それよりは明瞭だった。小笠原は辺りを見まわした。音は頭上からきこえてくる。
上りエスカレーターの先を眺めた。音の発信源はハリスだ。
ハリスもあわてたようすで、上着のポケットをまさぐりだした。空中廊下に着いたとたん、ひきつった顔でこちらを振り返る。
莉子は携帯電話を取りだし、ハリスに向かってかざした。きこえてくるバイプ音と同調するように、ケータイのLEDランプが瞬いていた。
巻雲
オーガスティンーハリスは凍りついていた。
第六エスカレーターをのぼった先、空中廊下にたたずんで、第五層の踊り場を見おろす。その状態のまま、一歩も動けずにいた。
上着の右ポケットが、ブーンという蝉の鳴き声に似た音とともに小刻みに震える。ついさっき、ポケットにおさめた物が振動していた。
第五層にひしめきあう人々が怪訝そうな面持ちでこちらを見あげる。
そのなかで莉子は、携帯電話をかざしながらエスカレーターに乗った。ひとりハリスのもとへ上昇してくる。
莉子が目の前に立った。アメリカ人のハリスからすればずいぶん背の低い日本人女性。しかし、さっきまでとは異なる存在感の大きさだった。巨人が接近したかのような脅威もある。
強気と信じた自分の態度が、じつは虚勢だったことに気づかされる。どんな追及も突っぱねてやるという決意が、急激にしぼむのを感じた。
ポケットのなかの物を取りだすわけにはいかない。まだ第五層の人々の目が光っているからだ。
そうはいっても、こう着状態のまま彼女と向き合っているわけにもいかなかった。
やがてハリスは、ため息まじりにつぶやく自分の声をきいた。「上で話さないか? ふたりきりで」
莉子は真顔でうなずくと、第五層を見おろしてほかの人々に手を振ってから、空中廊下を歩きだした。塔の〝右腕〟に向かってゆっくりと進む。
ふたりで上りのエスカレーターに乗った。暗いトンネルの行く手に、まばゆいばかりの光が近づいてくる。莉子は何もいわず、前方を見あげていた。
エスカレーターから水平な通路に移り出口に向かう。光に包まれながら、外気のなかに歩みでた。
〝右腕〟の先、螺旋階段の頂上。千里ニュータウンの全域が眼下に広がる。
遠くに見える山並みがどこなのか、アメリカ人のハリスにとってはわからなかった。それでも、鮮やかな空の青さは共通している。かなりの高さゆえ、吹きつける風もやや強かった。
閉塞感の漂う塔の内部から抜けだしたおかげか、緊張が少しばかり緩和された。ようやくポケットに手をいれる余裕が生じる。
直径六センチ、アルミ製。円盤状で中央部は電池を内蔵するため盛りあがっている。二本の短いアンテナが触角のように突出している。ただし、バイブレーションの機能など備わってはいなかったはずだ。
裏返してみると、基板の重なりぐあいは似通っていても、ただ貼りあわされているだけとわかる。むろん実際のメカニズムともまるで異なる。これは形ばかりの偽物だった。
踊り場の消火栓の上に放置してあるなど不自然きわまりなかったが、それでも見過ごすわけにはいかなかった。餌に食いついた時点でハリスの負けだった。
「......よくできてる」ハリスはつぶやいて、基板の隙間に指先を差しいれた。接着を剥がしながら基板を除去した。
なかを覗きこむ。円形カバーの内周に、ブレスレットがぴたりと嵌まりこんでいた。振動はこのブレスレットによるものだった。
莉子が携帯電話のボタンを押すと、バイブレーションは停止した。ブレスレットをアルミのカバーから取りだして自分の腕に嵌めた。「置き忘れ防止機能です。携帯電話から十メートル離れたら振動します」
「持ち去っても、その瞬間に判明する仕組みだったわけか」ハリスは部品の偽物を眺めまわした。「いまになって、ようやく本物との相違点が目につく......。画像から立体モデルに起こしたのか。犯罪者の協力を得たとか?」
「どうしてそう思うんですか?」
「いや。たんに似せようとしているだけでなく、複製としての完成度が非常に高いのでね。外見上、本物と信じこませるあらゆる工夫がほどこされている。プロの贋作者の仕事に近いと感じた」
しばし沈黙した莉子は、平然と応じた。「作り手は犯罪者じゃありません」
「ほう......。そうなのか」
「あなたのように罪深い人間ではないという意味です。他人の弱みを握ったからといって窃盗を強要するなんて、教授の肩書が泣きます」
「非難したくなるのも当然だな。とはいえ、きみもこれが何なのか知ったら、私の行為にも納得がいくだろう。すべては愛国心に基づく行為だ。日本人のきみには理解できないだろうが」
ハリスが螺旋階段を下りかけたとき、莉子がいった。「国家としての醜聞や不祥事を隠蔽することが、果たして愛国心でしょうか」
自然に足がとまった。ハリスは莉子に目を戻した。
莉子はじっと見つめてきた。「GPSです」
ぎくっとしながら、ハリスは思わずたずねかえした。「何......?」
「いまではカーナビに当たり前のように使われているGPSは、かつてアメリカの極秘開発プロジェクトでした。一九七八年、試作開発用のNAVSTAR衛星十基が打ちあげられテストが実施された。複数の衛星から受信する電波で位置を測定する、その画期的なアイディアが実用化できるかどうか。重要な実験段階でした」
......やはり気づいていたか。ハリスは悄然とした気分に浸りながらつぶやいた。「BlockⅡと呼ばれた計画だな。詳しいね」
「子供向けの科学図鑑にも載っているような情報ですから」莉子はハリスの手にしたレプリカを指さした。「この電子部品の形状から推察される機能はごく単純なものです。変調のない電波をただ送受信するだけ。現在はもっと小さく、アンテナの突出部もなくなり、電池も長持ちします。小学生のランドセルから山登りの装備にまで仕込まれています。GPSの端末です」
「論理的な推測だ。この試作品の端末自体は、図鑑には載っていないと思うけどね」
「はい。図鑑どころかネットでも画像は皆無に等しかったです。GPSの初期実験は歴史に記録されているのに、なぜこの部品は一般に公表されなかったんでしょう?」
「欠陥品だったんじゃないのか」
「とぼけないでください」莉子は硬い顔になった。「記録では、当時のGPSの実験は成功しています。性能に問題はなかったのだから、ほかになんらかのスキャンダルがあったんでしょう。一九七八年の出来事をネットで調べると、興味深いことがわかりました。アメリカ商務省の輸送機がイギリス南西部上空を通過中、貨物室のハッチが破損するトラブルがあったんです」
当時ずいぶん話題になったニュースだ。もはや、しらばくれていても始まらない。ハリスはいった。「貨物室に積んであった段ボール箱が破れて、中身が空中に散乱したと報告するも、後日商務省はこれを否定」
「商務省技術局の科学技術情報サービスは、GPS開発に深く関わっていました。このとき空中に放出された積み荷に、この端末が複数個含まれていたんでしょう」
「......そうとも」ハリスはつぶやいた。「十個前後の端末が行方不明になったときいて、当時のジミー・カーター大統領は血相を変えたよ。イギリスは友好国だが、GPSの詳しい仕組みはわが国の極秘事項だったんだから。是が非でも回収しなきゃいけなかった」
「でもさいわいなことに、GPS端末だけに探す方法があったんですね。このレプリカを見ても、端末にスイッチの類いはありません。だから電池が入っていれば機能してる。衛星の電波を受信して測位した位置情報を、端末自体が送信している」
「ことはそう簡単じゃなかった。一九七〇年代の技術では、受信のほうはまずまずだが、位置情報を出力する送信側の電波は微弱極まりなくてね。端末が落ちている場所を特定するには、現地に赴くしかなかった。しかも、電池の寿命もきわめて短いので、ひと晩で探さればならない。商務省は捜索チームを組織してイギリスに向かわせたよ」
「けれど、いまでもカーナビの位置情報に誤差が生じるぐらいだから、当時はもっと精度が低かったでしょう? 受信できてもその場所に端末が落ちているとは限らなかったんじゃないですか?」
「ああ。きみはもう想像がついていると思うけどね。見渡すかぎりの小麦畑に、十班ほどが送りこまれた。金属探知機......直径四十センチぐらいの円盤に長い柄がついている機械だが、これを掃除機のように地面に這わせて、物体を探したんだ」
「やはりね」莉子はうなずいた。「まずは、位置情報がしめすとおりの場所に金属探知機の円盤部を這わす。そこから徐々に大きく、円を描くように探していったわけですね」
「その通りだ。なかなか見つからないから、円はどんどん大きくなっていった」
「当然、植えてある小麦をなぎ倒していったわけですね」
「それしか方法がないからな」
莉子は折りたたまれた紙片を取りだした。それを広げると、プリントアウトした航空写真が現れた。「グーグルアースの検索結果を印刷したものです。『太陽の塔』に展示されていたGPS端末は、大阪府職員の柴野さんがネットオークションで見つけ、ウェールズの農場主から落札したものです。ここがその農場。北西四マイルの場所には......」
あの有名なうずまきがそこかしこに分布し存在した。痕跡はいまもうっすらと残っている。合計七つの渦が確認できる。
ハリスはいった。「一九七八年に発見された、歴史上初めてのミステリー・サークルだよ。多くの研究者の要望に従い、長年にわたって保存されたせいで、いまでは渦巻き部分の土が固まってしまったらしい。作物が育ちにくくなってる。だから上空からもその痕が見てわかるんだ」
同年に見つかったミステリー・サークル群は、この一か所のみ。そもそも、真夜中に大勢で畑に押しかけて、落し物を探しまわった形跡でしかないのだから、ほかに存在しないのは当然だ。
ところが、超常現象あるいはUFOの着陸した跡ではないかと話題になり、イギリスのみならず世界じゅうで発見されるようになってしまった。
ハリスは半ば投げやりな気分で嘆いた。「おかしなもんだ。研究者たちは、ミステリー・サークルは人のしわざではないと決めつけていた。まず足跡がないというんだよ。実際には、大勢の捜索隊が乗りこんでいたのに。そりゃ、みんな可能な限り畑を踏み荒らしたくないと思っていたから、トラクターの通り道を一列になって歩いたり、工夫するのも当然だったんだがね」
「夜の暗闇のなかで作業できるはずがない、って意見もあったそうですね」
「端末を探しにいってるんだから、懐中電灯も携えていたし暗視ゴーグルも装備してたよ。倒れた麦からは一律に微量の放射線が観測されたって話もあったが、金属探知機を這わせれば当然そうなる。さらに、人が作ったのなら麦はただ倒れるだけなのに、ミステリー・サークルでは三つ編み状になってるという報告まであった。これも金属探知機の円盤部を、小さく円を描くように動かしていけばそうなるんだよ」
欧米ではミステリー・サークルを、クロップ・サークルと呼んでいる。大騒ぎになった背景には、三百年も前に〝草刈デビル〟なる悪魔の所業を描いた本の挿絵があって、それに近い現象だと噂されたことが大きい。実際には〝草刈デビル〟は、文字通り悪魔が楕円形に草を刈ったという話にすぎず、麦が渦巻き状になぎ倒されたミステリー・サークルとは根本的に成り立ちが違っているのだが。
莉子は苦笑を浮かべた。「目の前で一瞬にしてミステリー・サークルができたのを見たとか、奇妙な目撃証言が続出したんですよね。だんだんサークルの形状も複雑化して、幾何学的模様をはじめデザインにも凝ったものになり......。日本にも出現するようになりました」
「ぜんぶ悪戯さ」ハリスは肩をすくめてみせた。「穿ち過ぎの研究者の仮説に反して、じつは容易に作れることに気づいた人々により、模倣が爆発的に広がった。あれにはカーター元大統領や当時の商務長官も、頭を抱えたといわれてる」
「たしか、ふたりの老人がミステリー・サークルづくりを認めたことがあったと思いますけど」
「バウワーとチョーリーだな。木板を使って二百五十個以上のミステリー・サークルを作ったと告白した。本人たちによれば、大勢のフォロワーを生んでしまったため良心の呵責に耐えかねて、すべてぶちまけることにしたらしい。あのふたりはミステリー・サークルを初めて作ったのは自分たちだと主張したが、それは事実に反している。彼らの最初の作品は一九八〇年のものだ。この有名な七八年のウェールズのサークルこそがオリジナルだった」
「でも商務省としては、ほっとしたでしょうね。自分たちに代わって創始者を名乗ってくれたんだから」
「ところが」ハリスは深刻な気分になった。「そのうち、別の問題もでてきた。ミステリー・サークルが人工物だったことがはっきりしてくると、当然ながら農場主たちは怒りを募らせた。ミステリー・・サークルの数はイギリスだけで三千、全世界では二万にのぼる。収穫不能になった麦の本数は二百十七億本。三十億ドルを超える損害賠償請求が各国の裁判で取り沙汰され、現在もほとんどが審理中だ」
莉子も神妙な面持ちでつぶやいた。「農場主たちは直接、自分たちの土地に被害を与えた犯行グループのみならず、ミステリー・サークル自体の発明者を探し始めたんですよね」
「そうなんだよ......。みなハウツーとチョーリーを告発しようとしたが、一九七八年八月十八日、最初のミステリー・サークルができた夜、ふたりにはアリバイがあることがあきらかになった。いまでは懸賞金すらついて情報提供が呼びかけられてる」
「事実を知ったら、みんなアメリカ政府に賠償を求めるでしょうね」
「本当の被害者だけでも大変な人数だが、便乗して訴えを起こす輩も後を絶たなくなるだろう。混乱をきたすことは必至だ」
莉子はため息をついた。「商務省の捜索隊は、すべての端末を見つけられなかったんですね。実際、四マイル離れた農場から一個見つかって、ネットオークションに出品されたわけだし......」
「そうとも。現地やその周辺から発見される可能性もある。だから、事実の発覚を恐れた商務省は、端末自体の存在を否定することに決めた」
「見つけしだい、回収もしくは処分しなきゃならないんですか?」
「命令が下っているわけではないよ。でも、義務はあるな。当時のGPS開発には、マサチューセッツ工科大卒の先輩たちが大勢関わっている。私のかつての職場だったNASAも全面的に協力した。彼らの苦労を知ればこそ、見過ごすわけにはいかなかった。多額の賠償請求を受けるなんて不名誉を背負わせたくない」
「でも」莉子は穏やかにいった。「やはりそれは愛国心とはいえないのでは......。もとはといえば他人の土地に不法侵入して、作物に被害を与えたところから始まってるんです。ここでも、あなたは窃盗を強要した。永友エンジニアリングの不祥事を利用して、自分たちの醜聞をもみ消そうとするなんて」
風が強さを増して、莉子の長い髪をなびかせた。ハリスは眼下に目を向けた。
ゆったりとした時間が流れている。秋の陽射しは柔らかく、池に反射する光にもさほど眩しさを感じない。
ハリスは思いのままを口にした。「きみのいうとおりかもしれない。けれども、ほかに方法はなかったんだよ。国家の誇りを維持するためにはね」
「三十三年も経って、あなたのような立派な人が不正に手を染めねばならないなんて。何のための誇りでしょうか」
「......きみの若さじゃわからないかもしれないな。でもね、凜田莉子さん。私はきみに感謝しているよ」
「感謝って......。何に対して?」
「どう思っていようが、私の気苦労を知ってくれたことに」共感までは求めまい。ハリスはそう心にきめて、あえてさばさばした口調でいった。「さて、聡明なるミス鑑定家、凜田先生。私が都合できる物で、何か欲しいものはあるかな」
遠まわしに口止め料の金額についてたずねた。莉子は質問の意味を察したようだが、ただ軽蔑のこもったまなざしを返してきただけだった。
莉子は告げてきた。「交換条件ですか。なら簡単です。わたしがミステリー・サークルの成り立ちについて公表しない代わりに、あなたもここで見たすべてを忘れてください」
ハリスは思わず息を呑んだ。「ここで見たすべて? というと、永友エンジニアリングの展示のことか?」
「きっと再起し、再興します。襟を正して努力を重ね、いずれ本物のテクノロジーの開発に成功するでしょう。あなたに息の根を止められない限りは」
揺るぎない信念を湛えた大きな瞳を、ハリスはじっと見つめた。
「しかし」ハリスは戸惑いがちにきいた。「あの会社を救って、きみに何の得がある?」
「今度のことは目も当てられない汚点でしたが、マシンのなかに人が入るトリックもきょう限りで終わりです。二度とおこなわれることはありません。永友エンジニアリングには優秀な技術者が大勢いるはずです。科学が進歩すれば世に貢献できます。あなたもわたしも、その恩恵をこうむるでしょう。だから、チャンスをください」
なんと......。ハリスは絶句した。
あまりに淀みのない、澄みきった心の発露。知性豊かな彼女のなかにそんな感情が育つこと自体、ハリスにとっては驚きだった。
学習は現実を知る道だ。その過程では自然に不信の根が育つ。世の真理は正しいことばかりではない。純粋で清らかな公徳心と、学問への造詣の深さは決して両立しない。ハリスはそう考えてきた。
だが、ここに例外がいた。凜田莉子は相容れないはずの意識と学力を併せ持っている。
「不思議だよ」ハリスはすなおにいった。「きみと話していると、ふたつのまるで異なる人格が交互に現れているかのようだ。一流大学出のエリートのような達観ぶりと、高校の補習クラスですら赤点しかとれない無知蒙昧ぶり。どちらが本当のきみなんだ?」
莉子は視線を落とし、控えめに微笑した。「エリートなんかじゃありません。後者ですよ」
「凜田さん。致命的なミスにより汚染を広めておきながら、ろくに謝りもせず政府の庇護のもとに存続しつづける、忌まわしい企業もこの国には存在する。だが私にいわせれば、その手合いはごく一部にすぎない。日本人の多くは、きみに似て真面目な努力家で、賢く、忍耐強い。そんなきみが、ひと握りの堕落した者たちを庇う必要があるのか?」
「企業に属するすべての人が悪いわけじゃないでしょう。むしろ大多数の人たちは誠意を持って職務に従事しているはずです。集団社会では誰かが恵まれない立場に置かれます。補習クラスで赤点をとったぐらいで見捨てられたら......。わたしはいまここにはいなかったでしょう」
......ジョークのつもりだろう。凜田莉子に劣等生の過去があったとは到底思えない。
莉子の視線があがった。ハリスをまっすぐに見つめてくる。「さきほどの交換条件ですけど。了承してくださいますか」
断る理由はない。ハリスはうなずいてみせた。「約束するよ。きみも私も、知りえたことは公表しない。......秘密が守られているうちに、お互い理想が現実になればいいな」
「だいじょうぶですよ」莉子は嬉しそうに目を輝かせた。「人はいつでも夢の一歩手前ですから」
ハリスは面食らった。半ば唐突に告げられた理想論の極みのような物言い。それでも莉子の喜びに満ちた屈託のない笑みには、一片たりとも曇りはなかった。
礼儀正しく深々とおじぎをしてから、莉子は螺旋階段を下りだした。
ゆっくりとその後につづこうとして、ハリスは足をとめた。突きだされた〝右腕〟の向こう、埴輪や土偶を思わせる『太陽の塔』の横顔がある。
内部公開もいずれは終わる。この高さから眺められる機会は、以後はもうないだろう。
空をうっすらと覆う巻雲は、絹のような光沢を放ち、陰影はない。静けさは限りなく、遠くから運ばれてくる市街地の喧騒も、その白く美しい繊維のなかに吸い取られていくようだ。
不正を不正で隠蔽する負の連鎖、そこに終止符を打ったのも、この雲のように清々しい莉子の心だった。
私は彼女に救われたのだろう、ハリスはそう実感した。憧憬にはどんな理論も立ち向かえない。いまも眼前にそびえる『太陽の塔』なる存在と同様に。
コピア
目にやさしい秋の陽光が降り注ぐなか、低い山のふもとに古くからあるその遊園地の眺めは質素で、年代ものの乗り物がゆっくりとコースをめぐり、観覧車が回る。
いずれもメンテナンスは行き届いているし、色も塗りなおされているが、園内に漂うのは紛れもなく莉子が生まれる前、昭和の香りだった。平日のせいか遊具に興じる子供の姿もまばらだった。
莉子は、そこから少し離れた芝生の丘に敷いたレジャーシートに座っていた。
向かい合う華蓮のほうはデニムの脚を投げだして、半ばふてくされたような顔で空を仰いでいる。
普段着っぽく見えるが、彼女の服は借り物だった。周りで同じようにシートを広げ食事を始めている女性たち、全員がそうだ。
笠松刑務所の成績優秀者はひと月にいちど、刑務官とともに外出し、近隣の店で買い物が許される。そしてさらに素行が正しい受刑者は、こうして日帰りの遠足に出向く。
もちろん、私服姿の刑務官がいたるところで目を光らせている。けれども、揉めごとを起こそうとする者が見当たらないのは、必ずしも監視のせいばかりではないと思われた。ほとんど仮釈放が約束されている立場にあって、みずから刑期を長引かせるような暴挙にでる受刑者がいるはずもない。
なんらかの施設からきた団体、周囲の来園者からはそうみなされているにすぎないだろう。おそらく気にもならない、記憶にも残らない。ひたすらおとなしい女性たち。年齢だけは妙に幅があるのがやや不思議といえば不思議な集団かもしれないが。
華蓮はすぐ近くにある小高い山の頂上を見やった。「皮肉ね。ここでもあのしかめっ面が、Qちゃんを見守ってる」
莉子は華蓮の視線を追った。
その山頂には、たしかに『太陽の塔』の腹部にあるのとそっくりの顔が存在していた。いまにも苦言を呈しそうな半開きの口、眉間に寄せた皺もそのままだった。ただし、こちらの顔は黄金いろで、塔の中央ではなく最上部に掲げられていた。
顔は緩やかに歪曲した三本の青い柱に支えられていて、それぞれから尖った腕らしきものが斜め上方へと突きだす。こちらの〝腕〟は左右のみならず真後ろにも伸び、ぜんぶで九本あった。最も大きな〝腕〟は中段の赤、次いで下段の黄、上段の緑。
万博公園の『太陽の塔』の外観は地味な配色だったが、いま山の上に見える塔はカラフルな色彩に溢れている。
名称は『若い太陽の塔』。万博よりも一年早く、この愛知県犬山市の遊園地の敷地内に建った、岡本太郎デザインによる巨大芸術のモニュメントだった。
高さは『太陽の塔』の半分以下だが、異様な存在感は勝るとも劣らない。
華蓮はささやいた。「昔はケーブルカーであの山頂まで行けたんだって。いまは徒歩じゃなきゃ登れないけど」
「維持管理の問題で閉鎖されてたのよね」莉子は弁当箱を華蓮に差しだした。「けど補修工事が完了して、今月の初めから一般公開が再開してる」
弁当箱を受け取った華蓮がきいてきた。「ハムレタスサンド? Qちゃんの手作り?」
「そう。口に合うかどうかわからないけど」
「上等すぎるわよ。ムショに戻ってからの飯がまずく感じられる」
「でも、刑務官さんのチェックでオーケーをもらったし」
「ムショの食事ってのはね、不平をこぼすなんてもってのほかで、まずそうにしただけでも減点の対象になんのよ。それこそ『太陽の塔』みたいな顔を一瞬でも浮かべたら、反省のいろなしってことで説教を食らう。まさに幼稚園児にも劣る扱い。日本モンキーパークの猿のほうがいくらかまし」
莉子は周りに視線を配った。すぐ近くに刑務官がいるのに気づいて、莉子はどきっとした。「きこえちゃうから......」
「平気。風はそっちから吹いてるじゃん。愚痴をこぼすには風向きさえも考慮する。模範受刑者のセオリー」
「食べてくれないの?」
「いえ」華蓮はハムサンドをひと口かじって頬張った。「んー......。沖縄の味付け。どうして酢をいれるかな」
「駄目かなぁ」
「これなら舌が肥えることもなさそうだし、ムショの生活に支障もなさそう。だから遠慮なくいただく」
褒めているのかけなしているのか、判然としない物言いだった。入所後の華蓮は無表情で、つぶやくように喋る。感情を抑制しているためか、いつもひねくれているようにも思える。
「Qちゃん」華蓮は食を進めながらいった。「いままで長かった? それとも短かった?」
「なにが......?」
「大きな事件だけでも十二は解決してきたでしょう。わたしのことも含めて。時間の流れをどう感じたか。それをきいてるのよ」
「さあ......。意識したことはなかったけど、あっという間だったかな」
「ふうん。なら、わたしの出所もそう遠くない未来に感じてるのかな」
「......かもね」莉子は落ち着かない気分になった。「華蓮。その後はどうするつもりなの?」
華蓮は表情ひとつ変えずに答えた。「まだ何も決めてない」
「贋作の世界には戻ってほしくないの」
「だからさ。先のことは考えてないっていってんじゃん」
「あのね、華蓮。就職先がきまるまで収入を得る手段が必要なら、いちおうわたし......」
「何?」
「そのう、お店の経営者だし」
ふん。華蓮は鼻を鳴らしたが、微笑には至らなかった。「Qちゃんと一緒に働くの? それはちょっと」
「嫌なの?」
「っていうか」華蓮は髪を掻きむしった。「すでにパートナー候補がいるのに、わたしの身の置き場なんかないでしょ」
「パートナー? 誰のこと?」
華蓮はしばし莉子をじっと見つめてから、ため息をついた。「ほんと、そっちのほうは鈍感きわまりないのね」
莉子は意味がわからず途方に暮れた。「気づいてることがあったら、教えてほしいんだけど」
「はん。よしてよ。ごちそうさまって感じ」
「もう食べ終わったの?」
「だからそういう意味じゃないって」華蓮は鬱陶しげな顔を浮かべていたが、刑務官の目がこちらを向く寸前に、また無表情に戻った。「ねえ。現代版〝世界の七不思議〟のひとつまで解明したQちゃんに、いまさら進言するのは気がひけるけどさ。コピアにだけは手をださないでよ」
「......コピア?」
「贋作業界なら知ってる人も多いけど、破竹の勢いで突き進むQちゃんならいずれ出会っちゃいそう。だから、いまのうちにいっておくのよ。コピアって名前をきいたら絶対にかかわらないで」
「あなたの仲間とか?」
「まさか」華蓮は冷めたような目つきになった。「あなたの身を案じていってるのよ」
「わたしの心配をしてくれるの」
「当然でしょ。わたしを逮捕させたQちゃんの泣き顔なんか見たくないし」
その言葉が何を表しているのか、深くたずねたかった。しかし莉子が華蓮に問いかけるより早く、刑務官の声が響き渡った。時間です。バスに移動します。
周りの女性たちが片付けに入る。華蓮も弁当箱を差しだしてきた。驚いたことに、すでに空になっていた。
莉子はつぶやいた。「食べるの速っ」
「含められたスケジュールで躾けられると、なにごとも無駄がなくなるのよ。出所したらフトンを畳むところを見せてあげる。たぶん旅館の女将の十倍は速くなってる」
ふたりは立ちあがった。靴を履いた華蓮が莉子を見つめてくる。華蓮は静かにいった。
「ありがとう。ひさしぶりに人が食べるものを食べられて嬉しかった。沖縄県民向けだけど」
「また会える?」莉子はきいた。
「さあ。できれば、こんな冴えない恰好じゃなくて、正式にシャバに戻ってから再会したい。近いうち、Qちゃんの花嫁衣装も拝みたいし」
「はぁ? なんの話よ」
華蓮はやれやれというように、半ばしらけたような顔になった。「ミネラルウォーターを売るのが水商売ってきかされて、担任の先生が不安になったのもよくわかる。偏った勉強のせいで精神年齢は置き去りのまま」
「よく喜屋武先生のことまで......」
「いい?」華蓮は、やはり微笑とまでは呼べないまでも表情を和らがせた。「次にわたしに会うときまでに、自分についてよく学んでおいて。またね。万能鑑定士のQちゃん」
それだけいうと、華蓮は背を向けて駆けていった。刑務官が集合を呼びかけている。整列する女性受刑者のなかに加わると、もう華蓮は一個人ではなくなっていた。こちらを振りかえることもなく、規律正しく歩を進める群れとなって遠ざかる。
胸に残る感覚は、空虚さとは違う。どこか狐につままれたような気分で、莉子は『若い太陽の塔』を見あげた。華蓮の最後のひとことが脳裏に反響する。
万能......かぁ。憂鬱さが頭をもたげてくる。そういえば、わたしはまだその看板を掲げていた。わたしはどのように自分を表現すればいいのだろう。
フィナーレ
富士見一丁目に引っ越した角川書店の新本社ビル、そのロビーは全面ガラス張りの開放的空間ながら、内装は天然の木と石を素材にし厳粛さを醸しだしている。
小笠原は初めてここを訪ねたとき、まるで教会だなと感じたものだった。社員が結婚する際にはロビーで式を挙げられそうだ、そんなふうに思った。
いま、かつての想像は視界のなかで現実化している。
エレベーターホールにつづくモノトーンの通路を翼廊に見たて、正面に十字架が掲げてあった。簡易的ながら祭壇も設けてある。床には赤いヴァージンロードが伸びていた。
小笠原は見物人ではなく当事者だった。新郎として選んだ衣装は白のタキシードだった。
ウェディング会社の貸衣装コーナーで試着したときには、鏡に映った自分の緊張ぶりに嫌気がさしたが、実際にこの日を迎えるとそれなりに適応できていた。肩や肘に皺の寄らない身のこなし方も順守できている。
とはいえ、前の夜はなかなか寝つけなかった。浅い眠りと覚醒を繰り返して、気づいたら朝になっていた、そんな有様だった。
小笠原は、隣りに立つ新婦に目を向けた。
純白のウェディングドレスを身につけた凜田莉子の横顔は、まさに天使のように見えた。
うっすらと透き通るヴェールのなかに覘く表情は穏やかで、わずかにうつむいた姿勢に自然な安らぎが薫っている。
彼女のほうは特に気を張っているようすもなく、しぐさにぎこちなさもみられない。すべてを運命として受けいれているかのようだ。
じっと見つめていると、莉子の顔があがった。大きな瞳が小笠原に向けられる。
莉子は微笑した。王妃のように輝かしい装いながら、いつもと変わらない親しげな笑みがあった。
あまりに魅力的なその顔に、小笠原はしばし見いっていた。莉子のほうも、片時も目を伏せることなく見かえしていた。
どれくらい時間が過ぎただろう。背後から中年男性のだみ声が呼びかけた。「おい。困るよ。横を向かないでくれ。背中を撮りたいだけなんだから」
小笠原は振りかえった。
ロビーには、列席する椅子などない。代わりに照明スタンドが立ち並び、レッドカーペットの上に一眼レフを据えた三脚が陣取っている。カメラマンはしきりにファインダーを覗きこんでいた。
カメラの向こうには人だかりがある。ほとんどは『週刊角川』編集部がらみの人間だった。
白髪頭で痩せた身体つきの荻野甲陽編集長は、愛用のブラウンのジャケットをワイシャツの肩にかけ、光源のなかから歩みでてきた。「小笠原。動くなといわれたら動くな。撮影はさっさと終わらせたいんだ」
「はあ」思わずため息をついて、小笠原は不服を申し立てた。「どうしてこんなところで撮るんです? ブライダル特集ページのイメージカットなら教会を借りるべきでしょう」
「馬鹿いえ」荻野は吐き捨てた。「そんな予算がどこにある。モデル事務所に払う金も勿体ないからおまえで間に合わせてるんだ。後ろ姿ならどんな野郎だろうがかまわないからな」
「新婦役の凜田さんに失礼だと思うんですけど」
「野郎ってのは男のことだ。俺がいってるのはおまえだけだよ。新婦のほうは、最新のウェディングドレスを着こなしてもサマになってなきゃな。凜田先生には心から感謝してますよ。小笠原のつまらんわがままをきいてくださって、本当にありがとうございます」
莉子は妙な顔をした。「わがままって......?」
「くじ引きで新郎のモデルにきまったとたん、小笠原がゴネたんでね。凜田先生が花嫁役をやってくれるなら引き受けると」
「そうなの?」莉子は目を丸くして小笠原を見つめてきた。
「いや、あのう」小笠原は戸惑いを覚えた。「そんなふうにいっておけば、きっと実現しないだろうと思ったんだよ。忙しい凜田さんに、わざわざどこかの教会にまで御足労願えるとは考えにくかったし」
すると莉子は苦笑にも似た笑みを浮かべた。「角川書店の新社屋での撮影なら、以前の本社ビルよりさらに二百メートルほど近くなってるんですけど」
「そうなんだよね......。ありがとう、了承してくれて。大目玉を食らうところだったよ」
同期のぎょろ目が進みでて、荻野の隣りに並んで吠えだした。「なにをごちゃごちゃいってるんだ、小笠原。さっさと終わらせろ。ビルの出入り口はここだけなんだぞ。前の社屋でも力士シールのガードレールを運びこんだり、おまえは会社のエントランスを塞ぐのが趣味か」
嫉妬心剥きだしの宮牧に対し、小笠原は顔をしかめてみせた。「誰かと思えば、今季唯一の〝エヴァ賞〟受賞記者か」
宮牧はいっそう目を剥いた。「おまえ、京都の記事でそれなりに評判になったからっていい気になんなよ。鴨川で泳ぐぐらいしか能がなかったくせに......」
そのとき、自動ドアが開いた。つなぎ姿の男ふたりが『源氏物語』の巨大看板を運びこもうとしている。
なんだよまったく。宮牧が舌打ちしてエントランスに駆けていった。「ちょっと、いまは入れませんよ。だいたい、映像事業局のオフィスに搬入するなら看板をバラさないと駄目でしょう」
携帯電話が鳴った。荻野が懐からケータイを取りだし応答する。「荻野ですが。......ああ、ずっとお待ち申しあげてますよ。いつおいでになるんですか。......あん? もう編集部に通されてる? 先生。そこは前の社屋ですよ。いまはもう富士見書房が入ってるんです。ラノベ作家にでもなるつもりですか。いまの社屋は早稲田通り沿いの......」
苛立ちをあらわにしながら荻野がうろつきまわる。エントランスではまだ看板をめぐって、宮牧と業者が押し問答をしていた。
小笠原はため息をついて正面に向き直った。「ロビーの占拠を長引かせているのは編集長たちだろ」
莉子がささやくようにいった。「力士シールのガードレールかぁ......。なんだか懐かしいね」
「え?」と小笠原は莉子を見た。
「ねえ、小笠原さん」莉子は意味深げなまなざしを向けてきた。「相談したいことがあるの。大阪にいたときからずっと、いいだせなかったんだけど......」
どきっとして小笠原は居すまいを正した。「な、何?」
「あのね......。前に小笠原さんがいってた almost って表現だけど」
「もう一歩届かないって意味だよね。それって、そのう、つまり......」
「お店の名前を変えようかと思うんだけど、なにかよさそうなネーミングない?」
脱力ものの返答に、膝から崩れ落ちそうになる。「て、店名の話? なんだ......」
「このところずっと悩んでるの」莉子はふしぎそうな顔で見つめてきた。「小笠原さん。ほかにどんな話だと思った?」
「いや、別に。はは」小笠原は冷や汗をかきながらも、持ち直していった。「万能鑑定士Qじゃなくなるわけか? 瀬戸内さんがつけてくれた名前だろ?」
「そうなんだけど......。やっぱり名前負けしている気がしてならないの。お客さんはみんな『大勢の鑑定家が在籍していると思ったのに』っていうし。実際、万能じゃないし」
「凜田さん。僕は、いまのままでいいと思うよ」
「......そうなの?」
「インパクトのある名前だったから目にとまったんだよ。違う店名だったら、僕は凜田さんと出会えなかった。ほかの多くのお客さんもそうだと思う」
「かもしれないけど、でも......」
「ハードルをさげるのは簡単だよ。顧客の期待値を抑えておけば、がっかりされることも少なくなる。僕もこんな大手の出版社に勤めて、しかも記者って肩書をもらって、でも実際には駆けだしにすぎなくて......。けど、いまの自分よりも少し上の期待を背負わされるほうが、成長できるんじゃないかな。僕はまだヒラにすぎないけど」
「......小笠原さんは、わたしと出会ってよかったと思う?」
「な......何いいだすんだよ。よかったに決まってるよ」
「どんなところがよかったの?」
「そりゃ......。いろんな経験をさせてもらったりとか......」
いまほど正直になれない自分を疎ましく思ったことはない。凜田莉子という女性にめぐり会ったこと自体が、かけがえのない歓びに相違ない。なのに、その感情をすなおに表現できないなんて。
莉子はつぶやいた。「わたしは......。小笠原さんがいたから、いまの自分があると思ってる。わたしたち、変わったよね」
「ああ。......いいほうに、変わったんだよね?」
「もちろん」莉子は自然な笑みとともに小笠原を見つめてきた。「いいほうに」
彼女は、目を細めて笑うようになった。いつ以来だろう。いまでも初対面の人間には、大きな瞳を細めきれずに、ぎこちない微笑を浮かべている。
でも、小笠原に対してはそうではなくなっていた。どのきっかけで変化が訪れたのだろうか。
リヤカーにガードレールの波板を積んで、住所を頼りに彼女の店を探した日を思いだす。仕事にこそ積極的になってくれたものの、彼女はどこか他人行儀でよそよそしかった。ときおりみせる愛想のなさを自覚しているのか、熱心な働きぶりで補おうとしているようにも思えた。
いまの彼女は違う。心のバリヤーを取り払って、いつでも率直なまでに気持ちを受けとってくれる。
たんなる変化ではなく、前に進んでいると信じたい。小笠原は穏やかにいった。「これからもよろしく。万能鑑定士Qの凜田莉子さん」
「ええ」莉子はにっこりと微笑んだ。「こちらこそ。『週刊角川』の小笠原悠斗さん」
妙な胸騒ぎはなかった。安息に似た心の交流を感じながら、ふたりは見つめあっていた。
そのとき、自動ドアの開く音がした。エントランスを入ってきたのは、神父の扮装をした初老の男性だった。ずいぶん本格的なコスプレだと小笠原は思った。アルバと呼ばれる白いガウンのような上着を羽織っている。
しかし、その神父は小笠原の顔馴染みだった。祭壇の前に駆けてきた取締役の錦織に、小笠原は笑ってみせた。「役員さんが神父の代わりとは」
錦織は厳めしい顔つきで応じた。「衣装と小道具のレンタル代で経費が底をついたらしいからな、仕方がない。ほんとは荻野がやるべきだと思うが」
カメラマンが錦織に声をかけた。「ずいぶん遅かったですね」
「指輪を磨いてくれる職人さんが作業に手間取ってね」錦織はリングピローを高々と掲げてみせた。「家が建つ値段のダイヤの指輪ふたつ。指先が震えるよ」
「よし」カメラマンがセッティングに入った。「〝指輪の交換〟の儀を撮ろう。まずはヒキで、それから手もとのアップで」
小笠原は、莉子と並んで祭壇に向き直った。錦織がふたりの前に立ち、リングピローを差しだす。
莉子はリングピローの上の指輪をじっと見つめていたが、ふいに表情を曇らせていった。
「待ってください」
ロビーがしんと静まりかえる。莉子は両手でふたつの指輪をつまみとった。
しばし凝視してから莉子は告げた。「どちらも偽物です」
「な、何?」カメラマンが駆け寄ってきた。「そんなはずはない。ウェディング会社から本物を借りたんだぞ」
すると莉子は、カメラマンの胸ポケットに差してあった油性ペンを引き抜き、キャップを外してから先端をダイヤに触れさせた。「油脂を弾きます。模造ダイヤのジルコニアです」
カメラマンやスタッフの疑わしげな目が、いっせいに錦織に注がれる。
錦織はおろおろしたようすで弁明した。「わ、私じゃないぞ! 駐車場に停まってるウェディング会社のバンで借り受けて、まっすぐこっちに向かっただけだ。途中で職人に磨いてもらったが......」
小笠原はいった。「その職人にすり替えられたのでは?」
「まさか。いや......それしか考えられんな。あれはウェディング会社の人間じゃなかったのか」
莉子は指輪のにおいをかぐしぐさをした。「ガソリンのにおい。犯人がクルマに乗っていたのなら、こんなにおいはつかない。バイクのタンクキャップにあるブリーザーね。エンジンの容量が大きくて、充分な熱を持つだけの距離を走ってきてる」
宮牧が口をはさんできた。「リッターバイクなら、そこのタウンコート富士見の脇にあったぜ。カワサキのZZR1400。妙なところに停めてんなと思ったけど......」
「それしかない」莉子は駆けだした。「誰か牛込署に電話してください。葉山警部補がいたら呼びだして」
ウェディングドレスの背が自動ドアの向こうに消えたとき、荻野編集長が怒鳴った。
「なにをぐずぐずしている。ダイヤの盗難事件だぞ! 記者が動かなくてどうする」
ロビーの人だかりがいっせいに動揺をしめし、まごつきながらも外に向かいだした。カメラマンまでも、三脚を抱えて飛びだしていく。
たちまちビルの一階は小笠原と受付の女性を残し、閑散とした。
小笠原は呆気にとられて立ちつくしていた。
いつまで経っても騒々しい......。いや、もはやこれが日常なのだろう。莉子と知り合ってからは常にこんな感じだ。
とはいえ、走り去る新婦の後ろ姿を見送るのは少なからずショックだった。できれば永遠にまのあたりにしたくない光景に違いない。
そう思ったとき、ガラスごしにウェディングドレス姿の莉子が駆け戻ってくるのがみえた。
自動ドアを飛びこんできた莉子は目を輝かせていた。表情に喜びが溢れている。「小笠原さん。ここのガードマンさんが犯人を捕まえた。予想はついていたけど意外な犯人なの」
「意外って......誰? 編集長とか?」
「まさか。社員のわけはないでしょう。面識はないけど思いがけない人よ。早く」
そんなふうにいわれたのでは、確かめたくて仕方なくなるじゃないか。
「あいかわらず惹きつけてくれるね」小笠原は走りだした。「よし。行ってみようか」
晩秋の陽射しは目にやさしく、暖かく全身を包みこむ。莉子と手をとりあいながら、小笠原は木漏れ日の明暗のなかを駆け抜けた。
自然に莉子と視線が合う。莉子は笑っていた。小笠原も笑いかえした。
いずれこんなときがくると信じよう。コスプレではなく本物の新郎新婦として、心の底から嬉しさを実感しつつ全力疾走しよう。かりそめに思えた願いもきっと現実のものになる。誰もが夢の一歩手前なのだから。
本書は書き下ろしです。
この物語はフィクションです。登場する個人・団体等はフィクションであり、現実とは一切関係がありません。
